デカマラ朝ペニシア(ペニス帝国)

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1世界@名無史さん
デカマラ朝(前1性器ごろ)について語りましょう
2世界@名無史さん:2008/11/01(土) 19:57:56 0
どれ。
裏の納屋さ行って、漬物石ふたつ運んでくるべぇか。

裸にひん剥いて縛り上げた1のかわいい包茎チンチンの下に片側の石をあてがい、
もう一方の石を大きくふりかぶって・・・


べちーん!

オオゥ!
肉片と恥垢と皮が飛び散るゥ!
断末魔の絶叫がこだまするウウウウウウ!
3世界@名無史さん:2008/11/01(土) 20:16:04 0
この大帝国は1000年以上続いたが、11性器の終わり頃粗チン派の乱により崩壊した。
粗チン国は首都を東の勃起に改めマラの大きさにより差別する身分制度を確立した。
一方デカマラ朝は南に逃れ後デカマラ朝となったが、クーデターが起こりクロマラ朝(13性器ごろ)が成立、粗チン国との大戦争が勃発した。(マスタベートの戦い)
この戦いはクロマラ朝が勝利し、以後クロマラ大帝国を築き上げた。クロマラ朝の長は「カリ長」と呼ばれた。
4世界@名無史さん:2008/11/01(土) 20:20:43 0
カリ長は民衆の文化を保護したので、この時代にはカリ長文化と呼ばれる華やかな文化が生まれた。
しかし第7代カリ長ボッキリーニ10世の頃から、右曲がり派と左曲がり派の対立が起こり、国内は混乱した。
この混乱に乗じて、東方の不全国が攻め入り、クロマラ帝国は大きく国土を狭める。
ついには、インポテンツの戦いで完全に征服され、東方民族系の陽萎国が成立した。
5世界@名無史さん:2008/11/01(土) 20:27:24 0
実は陽萎国成立に当たって東方軍に協力したのは左曲がり派であった。
地理上は右曲がり派よりも左曲がり派の方が東にあり、東方民族との交流もあったが、国境付近では争いが絶えず両民族の関係はむしろ悪かった
対して右曲がり派は航路を使い東方諸国とも平和的に貿易を行っていた。
よって右曲がり派と東方民族は結託し、挟み撃ちによりクロマラ朝は滅んだのだった。
陽萎の皇帝は右曲がり派の人々を重要な地位につけ保護し、左曲がり派の人々を弾圧した。
このような第三者の支配により、両者の確執はさらに深まる事になる。
6世界@名無史さん:2008/11/01(土) 20:33:05 0
そこに生まれたのが左曲がり派のインキンだった。インキンは貧しく弾圧されつつも、数の上では上回っていた民衆を奮い立たせ、政府転覆を遂行した(インキン朝)
インキン朝は広く受け入れられ、ペニス大陸全土を支配する事になった。
インキンの死後、子のタムシが皇帝となると、いっそう平和な時代に突入した。彼らは2代とも右曲がり派を過剰に弾圧する事はなかったのだ。
このような雰囲気の中、文化的には大きく前進したが、軍事的には衰えてしまった。戦争の必要がなく、軍部の士気も下がっていた。
その時、新大陸から突如軍勢が攻めてきた。これがヴァーギナ朝(ワギナ朝)である。
7世界@名無史さん:2008/11/01(土) 20:40:54 0
ヴァーギナ朝は女首長ヴァルトリンを先頭に、オナホと呼ばれる新武器を利用して各地でインキン朝の兵士を敗走させた。
これによりインキンは壊滅状態、残るは北インキンのみとなったが、その時名将カウパーが突如現れヴァーギナ朝に対し次々に勝利、奪われた国土を回復して行った。
最終的には南のインモウ諸島を除く全地域を回復し、平和条約(コンドーム条約)を結ぶ。
すぐ後にヴァーギナ朝は内乱により滅び、メコスジ朝が成立するが、平和条約は継承された。
後インキン朝ではまずカウパーが将軍となり、新大陸メコスジ朝とは平和的な関係が保持されたが、カウパーの死後、チンカス帝の時代になると打って変わった富国強兵政策へと変貌した。
8世界@名無史さん:2008/11/01(土) 20:53:04 0
チンカス帝は軍を重んじ、自身が陸海軍総司令官を兼任した。
その後も強引なまでに強兵政策を取り、即位5年後の春、平和条約を破りインモウ諸島へ出兵、奪還に成功する。
勢いづいたチンカス軍はそのまま海を渡りメコスジ朝本土に攻め入る。しかし、インモウ諸島陥落の報を受けたメコスジ朝中枢はこれを慎重に向かい入れ
結局大した功績も挙げられぬまま撤退する。チンカス帝はその後出陣に協力した諸侯の反感を買い処刑された。
その後、チンカス帝の後継者がおらず、国内は混乱、諸侯が権力を持ち民衆を支配する地方集権へと移る事になる。
9世界@名無史さん:2008/11/01(土) 20:53:46 0
訂正
×地方集権→○地方分権
10世界@名無史さん:2008/11/01(土) 20:53:58 0
我々は>>1が何故このようなスレッドを立てたのかという
疑問を解決するため、1の故郷であるダマスカス郊外の寒村に向かった。
「まだ我がユスティニアヌス帝の治世にこんなところがあったのか…」
思わず口に出てしまった言葉を同行した兵士に失礼だと咎められた。

小人が住むような小さな家、ツギハギだらけの服を着る農夫たち、
そして土着の小官吏達は身なりのいい我々を監視する様に見詰めている。
ゲルマン民族だの、ローマ法大全だの、パンとサーカスだので
浮かれていた我々はローマ帝国の現状を噛み締めていた。

ボロ屑のような家に居たのは老いた母親一人
我々を見るなり全てを悟ったのか、涙ながらに
「うちのバカが申し訳ありません」と我々に何度も土下座して詫びた。

我々はこの時初めて>>1を許そうと思った。
誰が悪い訳ではない、この村の貧しさが全て悪かったのだ。
我々は母親から貰った干し葡萄を手に、
打ちひしがれながらコンスタンティノポリスへと帰路についた
11世界@名無史さん:2008/11/01(土) 21:16:51 0
その後諸侯は王位継承権をめぐって国内は対立、特に滅亡したクロマラ朝王家の子孫である北のボッキリーニ23世の後クロマラ国と
チンカス帝の姉マンカスの孫である南の恥垢帝の対立が決定的になった。
ここで重要なのが、互いに外部勢力の援助を受けた代理戦争となった事である。
この頃メコスジ朝は南のアヌス帝国と領土争いとなっており、メコスジ朝=ボッキリーニ23世、アヌス帝国=恥垢帝という構図が成り立ち、
前代未聞の大戦争となった。最終的にはボッキリーニ23世率いる後クロマラ国が勝利したのだが、長年の戦争により国内は焦土化し、
民衆・兵士は疲弊しきった。
そこに乗じて、ボッキリーニ王家は中央集権的国家の建設を推し進め、急速に王権が強大化する。
翌年真性ペニス王国を名乗り、絶対王政的支配が開始される。
12世界@名無史さん:2008/11/01(土) 21:32:09 0
真性ペニス王国の絶対王政の根拠となったのは、ウラスジの唱えた男根至上主義説によるものであった。
これにより、王は男根政治という、逞しい絶対主義を確立した。
また、王は科学の発展を促し、公開技術の発展により、各地に植民地を増やした。
ディック王国、ヴァージン王国(ヴァージニア)、ヤリ=マン国などを次々と支配した。
この体制はペニス大陸としては比較的長く続いたが、やがて強大な王権が揺らぎ始める。
それは、一つに科学の進歩により民衆においても教育水準が向上した事。
また、東方から渡来したオーガズムが説いた合理的なエクスタシー教が民衆に広まり、人々の開放意識、人権意識が拡大した事などによる。
ついにエクスタシー革命により最後の王ボッキリーニ36世をインモウ諸島へ幽閉し、国内は共和制へと移行した。
13世界@名無史さん:2008/11/01(土) 22:44:43 0
ネタスレなら短く決めような
14世界@名無史さん:2008/11/04(火) 20:35:43 0
俺もこういうの考えた。小学校6年くらいのときにな。
15世界@名無史さん:2008/11/05(水) 21:09:43 0
vip行けよ
16世界@名無史さん:2008/11/19(水) 02:30:38 0
ヴァーギナ朝は女首長ヴァルトリンを先頭に、オナホと呼ばれる新武器を利用して各地でインキン朝の兵士を敗走させた。
これによりインキンは壊滅状態、残るは北インキンのみとなったが、その時名将カウパーが突如現れヴァーギナ朝に対し次々に勝利、奪われた国土を回復して行った

ここは面白かったw
17世界@名無史さん
史実にあったペニスラー戦争やペニスラー作戦について語るスレはここですか?

Peninsular War
http://en.wikipedia.org/wiki/Peninsular_War

Peninsula Campaign
http://en.wikipedia.org/wiki/Peninsula_Campaign