1 :
世界@名無史さん :
2008/05/31(土) 14:05:00 0 約300年もの間モンゴルはスラブ美女をレイプし ロシア全土を支配していました。今考えても、スラブ美女を レイプしまくったのは許せん。
いやどす
あくまで間接支配だけどね。
4 :
世界@名無史さん :2008/05/31(土) 14:43:51 0
当時のロシアは武器さえもっていれば支配できるくらいしょぼい国だった。 ウクライナですら、土でつくったようなボロイ建物ばかりだった。 これでは、支配されても仕方がない。いや、支配はいいよ。でもさ、 一重でブサイクな連中がスラブ美女とやってたってことが許せないし。 混血したってことはやったってことだよな???
落ち着け猿
6 :
世界@名無史さん :2008/05/31(土) 16:38:19 0
アレクサンドル・ネフスキー公とバトゥの関係について語ってくれ。
>約300年もの間モンゴルはスラブ美女をレイプし >ロシア全土を支配していました。 ロシア全土を支配できていたのはせいぜい100年ぐらい。 14世紀になるとリトアニア人にベラルーシをもぎ取られても何の手も打てず ロシア人にすら戦争に負けるようになる。 ダルガやバスカクといった役人を駐屯させて支配していたのは50年くらいで その後はヴェリーキー・クニャージを介した間接統治になる。
>当時のロシアは武器さえもっていれば支配できるくらいしょぼい国だった。 ドイツ騎士団やスウェーデンやクマン族といった 当時としてはそれなりの武力を持った連中もロシアを征服できなかった訳だが。 >ウクライナですら、土でつくったようなボロイ建物ばかりだった。 当時の建材は土でなくて木だよ。 ガリチ・ヴォルイニ公国には煉瓦造りの天守閣を備えた城もあったが。
9 :
世界@名無史さん :2008/06/04(水) 15:47:31 0
モンゴルのロシア支配はじつにゆるやかなものだったそうです。
遊牧スキタイによる農耕スキタイの支配は緩やかなもので、 ペルシャのダレイオスが攻め入っても農耕スキタイはペルシャに呼応せずに 遊牧スキタイの焦土戦術に協力しダレイオスを撤退に追い込んだ
11 :
世界@名無史さん :2008/06/09(月) 12:34:54 0
ロシア皇帝はモンゴル人の末裔だし、 支配したけど、融合、融和ってほうが正しいのでは。
>ロシア皇帝はモンゴル人の末裔だし、 そうだけど、少々誤解を招く言い方だと思う
モンゴル人の末裔で実際に即位したツァーリというと セミョーン・ベクブラトヴィチとボリス・ゴドゥノフしか浮かばん。
>ウクライナですら、土でつくったようなボロイ建物ばかりだった。 バトゥーはそのキエフの街並に感動してこれを簡単に破壊して良いのだろうかと躊躇したというが。 モンゴルは虐殺したとかいうが捕えたドミトリー候の武勇を称えたりある意味「騎士道」的だった。 街を攻略し捕えた王族を殺す時は安易に首を刎ねることはせずに 袋に詰めて沼に投げ込む殺し方や板の下敷きにして圧死させるなど 「血を流さない」よう配慮した。
>板の下敷きにして圧死 その上で指揮官たちが集まって会食したんだよな。 モンゴルの処刑方法は妙に芝居がかったところがある。
16 :
世界@名無史さん :2008/06/11(水) 04:02:23 0
ロシア皇帝は白いハーンである。
17 :
世界@名無史さん :2008/06/11(水) 04:18:03 0
ロシア人は略奪戦争をしなくても 交易で発展できることを モンゴル人に 教えてもらったのであるw パクス・モンゴリカで平和と繁栄を享受した500年に及ぶ、モンゴル支配であった。
ロシアもモンゴルも元は似たような遊牧民だろ
>>15 モンゴルでは血を流さない処刑が高貴な身分への礼儀と考えていたらしい。
ロシアは森の民だよ
>>17 パクス・モンゴリカってせいぜい50年ぐらいしか続いてなくないか。
というかバトゥの遠征から500年だったら18世紀
それまで全然平和じゃねえしw
17は主語が逆。 キエフやノブゴロドは元々交易で栄えていたし、 モンゴルなど遊牧民は略奪する為に戦争をする文化に属している。
23 :
世界@名無史さん :2008/06/11(水) 23:33:43 0
溶かした鉛を耳から流し込む死刑?
モンゴルの使者を処刑したイナルチクが捕えられ、使者から略奪した銀を 「さあお前の大好きな銀を存分に味あわせてやる」とチンギスハンが御褒美として 溶かして目と耳に惜しげもなくふんだんに流し込んだ。 周囲にイナルチクの絶叫が響き渡った。
南のキエフあたりで遊牧民の文化と接触する前に ヴァイキングの商人/略奪者の文化が入ってますね
というかゲルマン人やスラヴ人は農民だが普通にローマ帝国襲撃してるし・・・
>>24 フレグ汗がアッバース朝カリフを捕らえたときは
「なぜこの財宝でもっと兵士を雇わなかった」
といって宝物庫に閉じ込めて飢え死にさせたと・・・
芝居がかっている
28 :
世界@名無史さん :2008/06/12(木) 23:22:50 0
>>21 1237年〜1783年までの
500年である。
>>28 「タタールのくびき」と「パクス・モンゴリカ」を混同してませんか。
30 :
世界@名無史さん :2008/06/13(金) 22:46:49 0
>>29 ロシアからみれば「タタールのクビキ」
モンゴルからだと 「パクスモンゴリカ」
国によって見方が違うのは当然です。
ロマノフの時捏造した歴史を、共産主義国家が脚色したのが、タタールのクビキ
つ中国w
31 :
世界@名無史さん :2008/06/13(金) 22:50:35 0
白い土人だったロスケを、モンゴルが開明化した時代。
>>30 その二つは、歴史上重複する時期もありますが
そもそも同じ内容を指す言葉ではありません。
まず、「タタールのくびき」というのは言わずと知れたモンゴル、タタールによる
ロシアの支配のことですが、金帳汗国の分裂と弱体化により、ダルガやバスカクを
派遣していた頃のような直接的な支配が不可能になった後でも、ヴィホードを通じて
名目的な臣従関係が続いていたという議論があり、だからこそ
>>28 のように
クリミア汗国の滅亡まで「タタールのくびき」が続いていたという主張も
成り立つわけです。
それに対し、「パクス・モンゴリカ」というのはモンゴル帝国の征服戦争と
それに続く諸汗国の抗争が一段落ついた後の平和と繁栄の時期で、
実際には13世紀末から14世紀前半の短い期間のことですが、
>>28 では
「タタールのくびき」と混同してクリミア汗国の滅亡まで続いていたかのように
言っている。
33 :
世界@名無史さん :2008/06/16(月) 22:43:06 0
>>31 タタール人をプーシキンは「代数を知らないアラブ人」と評していた。
ナボコフ、ツルゲーネフはロシアに帰化したタタール人の末裔である。
ウズベキスタンあたりまで行けば関数や天文表で名を残したタタール人もいたのにね。 遠すぎるか。
35 :
ty270410 :2008/06/19(木) 14:10:21 0
ハルパリンの本が翻訳・出版された. C.J.ハルパリン著,中村正己訳『ロシアとモンゴル−−中世ロシアへのモンゴルの衝撃』 2008年3月,(株)図書新聞刊行 勤めている頃は,今に比べて時間がとれた.閑職に就いていた時はなおさらだった. そんな頃,キプチャク汗国(金帳汗国,正しくはジュチ・ウルス)史に熱中していた.日本語の良い本がなく,たまたまウェブで知ったハルペリンの本を丸善で取寄せて読んだことがある. ペーパー・バックで3,000円前後だったような記憶がある. C.J.Halperin, Russia and The Golden Hord−−The Mongol Impact on Medieval Russian History. 1985, Indiana University Press である.
36 :
ty270410 :2008/06/19(木) 14:13:58 0
業界英語と違って格調高い文章で,いわゆる格式語が続出し, 辞書を引き引き読んだものだった.短い章はなんとか通読したが, 長い章は途中で投げ出してしまった.また,英文は読めても, 基礎知識不足から,意味を読み取ることが出来ないところも結構あった. ハルペリンはロシアにも偏せず,モンゴルにも偏せず, ロシアの年代記や物語など同時史料を深く読み解いて, モンゴル支配下のロシア社会を復元しようと努めている. 根拠のない通説を随所で批判し,根拠に基づく自説を展開して いるのも特徴である.引用されている幾つかのエピソードは, ロシア史を知らない私にとって斬新であった. 今,翻訳本を手にとってみて,懐かしさがこみ上げてくる. 英語で読んだ頃を想起している.意味が取れなかったところも, 訳注のお陰で解ったりする.楽しみつつ読み続けるつもりである. 訳文は,一部こなれていない点もあるが,原文の難しさのせいである.
37 :
ty270410 :2008/06/19(木) 14:15:52 0
目次を掲げておこう. 日本語版への序文,序文,謝辞 第1章 中世の民族・宗教的境界地帯 第2章 キーエフ・ルーシと大草原 第3章 モンゴル帝国とゾロターヤ・オルダー 第4章 モンゴル人のルーシ統治 第5章 ルーシの政治におけるモンゴル人の役割 第6章 モンゴル人支配についてのルーシ人の「理論」 第7章 経済的ならびに人口誌的諸結果 第8章 モンゴル人とモスクワ大公国の専制政治 第9章 モンゴル人とルーシ支配 第10章 文化的活動 第11章 結論 註,文献一覧,訳者あとがき,索引
>Russia and The Golden Horde 以前ちらっと読みました。 ピョートル以前のロシアで行われていた女性の隔離がタタール人の影響とかいう連中がいるのに よく調べると当時のタタール人にそんな風習はなかったって話が笑えた。
というか原書をアマゾンで買おうかと思ってた矢先だったけど これなら図書館で読めますね。情報ありがとうございます。
40 :
世界@名無史さん :2008/06/19(木) 21:05:18 0
実に興味深そうな図書ですね。
41 :
ty270410 :2008/06/23(月) 23:23:57 0
>>37 ハルパリンの本
訳書の書名は「ロシアとモンゴル」となっているが,ここは原著のとおり「ロシアと金帳汗国」としてほしかったと思います.
「ロシアとモンゴル」はベルナツキーという歴史家の著名な本の名前「モンゴルとロシア」と酷似しているからです.
原著は1985年に出版されていますので,その後20年あまり経っています.個々の史実についてはより新しいものが見出されているでしょうし,そしてそれらに基づく論議が進んでいることでしょう.しかし,枠組みとしてはなお論議に耐えるのではないでしょうか?
また,本書はジュチ・ウルスの歴史というよりは,モンゴルとの関係におけるロシア史なのだと思います.
さて,序文の冒頭の文章は鮮烈な印象を私にあたえました.再録してみましょう.
(以下再録)
ロシアの歴史家の間では,モンゴル人支配の時代を軽視することが,異例であったというよりはむしろ慣例であった.
(中略)
大部分の中世ロシア史専門家は,モンゴル人の影響を取るに足りない,あるいは全く有害なものだったと記述したあと,急ぎ他の研究課題へと移って行く.
「タタールのくびき」以来のロシアの歴史体験それ自体がロシアの執筆者の間の伝統的な偏見の一因となった.
(再録終り)
ロシア史の概説書を読んでいて,漠然と感じていたことが,はっきりと書かれているのです.
ハルパリンはこのような偏見を取り払ったロシアの中世史を書きたかったのだと思っています.
42 :
世界@名無史さん :2008/06/24(火) 14:19:24 0
5千万人いた中国人を30年後には90万人になるまで殺したと なにかに書いてあったけどどうやってそんなに殺したんだ?
元朝で西方から来た、イスラム教徒が多数いたことは、有名ですが 逆に、この時期、ロシアとかイランに流れてきた中国人はいなかった のでしょうか? エイゼンシュタインの映画「アレキサンダー・ネフスキー」の冒頭に 出てくるモンゴルの高官がどうしても中国人にしか見えなかったので 以前から気になっています。
>>41 本文中に頻出するGolden Hordeがいちいち「黄金の軍営」と訳されてるのも違和感を感じました。
普通「金帳汗国」だと思ってたけど。
そういや昔タタールについて何か書いてないかと思ってクリュチェフスキーの
「ロシア史講話」読んだらほとんどスルーされてて驚いたな・・・
46 :
ty270410 :2008/06/25(水) 22:21:22 0
>>44 >本文中に頻出するGolden Hordeがいちいち「黄金の軍営」と訳されてるのも違和感を感じました。
>普通「金帳汗国」だと思ってたけど。
まったく同感です.「金帳汗国」でとおっていると思います.
かって,岡田英弘さんが「黄金のオルド」と訳しておられましたが,
これにも違和感がありました.
47 :
世界@名無史さん :2008/06/25(水) 22:43:48 0
ウクライナ人のインタビューで 「ロシア人の顔を見てごらん。モンゴルとの混血だ。自分達こそ正当なスラブ人だ」 と言ってたのを見たことがある。 ところで、ヒットラーはスラブ人を世界で二番目に劣等な民族としていたんだっけ?
48 :
ty270410 :2008/06/25(水) 23:04:25 0
SpulerかVernadskyの本も日本語訳してほしいですね! もっとも,最近の出版不況で採算が苦しいかもしれないが, 岩波文庫か,講談社学術文庫のような息の長い本なら,長期的に 採算が合うのではないだろうか?
>>43 郭侃って人がフレグの征西に参加してますな。
武将というより攻城戦技術者だったらしいけど。
>>47 地理的にむしろウクライナあたりの方が遊牧民との混血は多そうだけど。
キエフのすぐ近くにチョールヌィ・クロブキとかいたし。
>>48 そうですね。
英語ならともかく、SpulerのDie Golden Horde読むためだけに
ドイツ語やるのはつらいw
50 :
世界@名無史さん :2008/06/26(木) 15:12:03 0
そもそも本来のスラブ人の顔ってどんな顔よ??
51 :
世界@名無史さん :2008/06/26(木) 16:12:53 0
モンゴルが世界を支配する時代が長く続いたら朝青龍みたいな顔が 世界のイケメンの基準になっていたかもしれない。ああ、嫌だ嫌だ。 モンゴル帝国が滅びてよかったな。
52 :
世界@名無史さん :2008/06/26(木) 16:56:05 0
ソ連はドイツ第三帝国の植民地になり、 スラブ民族(亜人間)はゲルマン民族(アーリア人)の奴隷となり やがては餓死させられる運命だった。
スラヴ人に絶滅戦争を仕掛け奇襲攻撃で侵略を開始した 自称「偉大なるアーリア人種」はその侮蔑していた 「下等人間」に完膚なきまでに撃破・粉砕され 1945年5月の「千年帝国の帝都」における赤旗掲揚 及び赤軍司令部においての自称「偉大なるアーリア人種」の 無条件降伏文書調印によって ファシストどもが始めた惚れた身のほど知らずの侵略戦争は 馬鹿にしていた「下等人間」に首都を攻め落とされ降参するという 大恥を掻く形で終結した。
54 :
ty270410 :2008/06/26(木) 23:18:41 0
Halperin(中村訳)から 金帳汗国は14世紀のイスラム採用後,都市サライを建設し,イスラム官僚制度を整えた. 国内的にも,対外的にも正式な文書による統治,外交が行われた. 一方,モンゴル人の下士官や兵士は軍事的実力を保持したまま,大草原で 遊牧を行っていた. 草原の軍事的遊牧と洗練された都市における官僚制度,この両者の調和が 支配を強固にしていた. 金帳汗国は特にエジプトのマムルク朝と親しく交流したほか,東欧,中東, 中央アジア,イタリア,ローマ法王などと外交を保った. 中国における元の衰退後は,東欧の強国という位置を占めるようになった. 金帳汗国は,イル汗国とアゼルバイジャン(イラン領アゼルバイジャンを 含む)を争った.ロシアは戦争への人的資源と税による貢献程度で 外交上の役割は小さかった.
55 :
世界@名無史さん :2008/06/27(金) 07:32:55 0
>>1 アーリア人主観からみれば、スラブ人もモンゴル人も劣等民族の
亜人間という点では変わりないよ。
なちいらね
58 :
ty270410 :2008/06/27(金) 22:22:35 0
金帳汗国の富の源泉だったカスピ海北方の交易ルートを 洗練かつ強固な官僚制度が確実に抑えていたために, ウズベク汗の死後の汗位をめぐる混乱期があっても, 家宰ママイがロシアに戦闘で負けても, ロシアに対する支配は大きな影響もなく継続された. 14世紀末にティムールはサライを破壊し,カスピ海北回り交易路を 南回りに変更し,金帳汗国の冨の源泉を奪った. 家宰エディケがトクタミシ汗の後継の汗たちを必死に支えたが, 衰退はいかんともできなかった. 以上,Halperinに拠りつつの私の感想です.
しかしクリミアを拠点とするママイ・オルダと サライの汗たちが対立してた状況では交易はどうだったんでしょうね。
そーいえばクビライとカイドゥはいくら喧嘩しても交易は通してた てな話もあるし、仲が悪くても利益の為には手を結ばねばならんかも。
61 :
世界@名無史さん :2008/06/28(土) 07:41:24 0
ナチスドイツよりもソ連の方が総体的には残酷だっただろうよ。 スラブ人は性残虐、卑劣、所詮その正体は露助よ。
はいはいわろすわろす
63 :
世界@名無史さん :2008/06/28(土) 15:47:10 0
ソビエトの独裁者たちはタタールから独裁支配を学びました
64 :
世界@名無史さん :2008/06/28(土) 16:03:24 0
たしか、チンギス・ハンはホラズム帝国の人間を絶滅させたんだよな。 犬猫ころしてさ。こんな奴は、死んでよかったんだよ。
いくらなんでも絶滅は物理的に不可能
66 :
世界@名無史さん :2008/06/28(土) 16:40:31 0
イナルチクの処刑のされかたはこええ。これ見たら誰でもびびって チンギス・ハンにしたがうだろ。
>>64 動物まで絶滅させたのはホラズム全土じゃなくてメルヴ市だろう。
68 :
世界@名無史さん :2008/06/29(日) 14:07:33 0
そりゃロシアも中国もチンギス・ハンの名前を口に出すなっていうわけだわな。
69 :
世界@名無史さん :2008/06/29(日) 15:32:12 0
>>53 >「偉大なるアーリア人種」
このアーリア人種だが現実にはいなかったようだ。
アーリアとはサンスクリット語で「高貴な」と言う意味であり人種や民族を指すとは
ヴェーダ始めインド古典のどこにも書かれていない。
このアーリア人のインド征服という説はイギリスがインドを植民地支配していた
時期にイギリス人によって唱えられた。
初期には『インドの言語の中にヨーロッパの言語がたくさん含まれているのは
インドがヨーロッパの影響を受けたからに違いない』と言う事で
『野蛮なインド人にヨーロッパのアーリア人が文明を与えた』と言う説となった。
後にモヘンジョダロやハラッパの遺跡が出てくるに及んで
『インド人が文明人でアーリア人が野蛮人』となったがアーリア人侵入説は
生き残った。
そうでないと何でインドの言語とヨーロッパの言語に共通点が多いのか説明が
つかないからだろう。オレは『今のところ原因不明』でいいと思うが
70 :
世界@名無史さん :2008/06/29(日) 15:35:41 0
>>1 >約300年もの間モンゴルはスラブ美女をレイプし
ロシア全土を支配していました。今考えても、スラブ美女を
レイプしまくったのは許せん。
どうして美女にこだわるのだろう美少年だったかもしれないのに・・・・・
スラブは美少女だろ。
801脳
73 :
世界@名無史さん :2008/06/29(日) 23:13:13 0
第二次大戦でソ連は女性の航空隊を作ったそうだ。もちろん実際に戦っている。 『美少女の航空隊か』と思って調べてみるとゴツイおばちゃんの集団だったそうだ。 ふっ、現実はこんなもんか
スラヴの美少女は大地の母となり スラヴの美少年はアル中の親父となる。
>>27 徳川家康が、大坂夏陣で豊臣秀頼を大坂城の弾薬庫に入れて爆死させた話と同じだな。
>>33 支那・明の時代、韃靼人を追い出したら、数学や天文の知識が失われて、
暦が狂いまくりだったとか。
で、開明的な韃靼人の清がとって代わると、ヨーロッパ人を用いてようやく暦の
補正を行えた。
ウィキペでは元の授時暦を名前だけ変えて使い続けたとか書いてあるけど
そういえばハルパリンの「ロシアとモンゴル」で プーシキンの「タタール人は代数を知らないアラブ人」という発言にふれて 「タタール人が代数や論理学の知識を持っていても 果たしてロシア人がそれを取り入れたかどうかという疑問がある」 とか書いてたんで笑った。 実際中世後期にビザンツ帝国でギリシャ古典のリバイバルがあったのに ロシア人はヘシカズムなど神秘主義的な思潮ばかり輸入してたらしい。
79 :
世界@名無史さん :2008/06/30(月) 15:52:48 0
モンゴルが世界を支配している時代が長く続いたら今の時代は なかったかもしれない。音楽も、モンゴルの音楽しかなくなって スポーツなんて相撲しか残らなそうだな。文化も建物も徹底的に 破壊しそう。
いや、モンゴルのほうが被支配層の文化に飲み込まれるだろう常考
人類の歴史は人種間の闘争の歴史であり、 優秀な人種が劣悪な人種を屈服させ、 そこに文化が成立してきた。 1.ジプシーとユダヤ人の絶滅 2.ポーランド人、ウクライナ人、ひいてはスラブ民族の絶滅 3.オランダ人、ロレーヌ人、アルザス人など西ヨーロッパの知識階級の絶滅 4.器質的疾患、肺病および心臓疾患を持つ患者などを家族もろとも消し去る ゲルマン人>ラテン人>>>>>>>>>>>>>スラブ人>>ユダヤ人
「劣等民族」にコテンパンに撃破・粉砕され壊滅し帝国議事堂に赤旗が掲げられた 自称「優越民族アーリア人種」の隠しようのない不様な有様について。
まー、実際には負けたのは奴隷民族のスラブ人にではなくて、 ロシアの冬将軍と同じゲルマン系の米英軍に負けたんだけどな。
スラブと言う言葉はもともと奴隷民族の語源、文化などというものはありゃしない。 特にポーランドなどドイツ人、ハザールユダヤ人、イタリア人などの影響によるもの そこからの著名人はドイツの系統が圧倒的。 ロシア、チェコも言わずもながだね。
>>77 太陽太陰暦は天文観測に基づく補正をしないと、暦と天文とかずれてしまうんだよ。
月の満ち欠けの周期に基づいて月内の日を、太陽の運行と月の満ち欠けに基づいて年の始まりを
規定するんだけれど、月の満ち欠けの周期も、太陽の運行の周期も、地球の自転周期の整数倍に
なっていない上に、自転のずれが、430日周期と2万7千年周期のものとがあって、更に月が他天体
の影響で位置がずれるので、補正しないと、新月から月が始まらない、立春と新年の開始が15日以上
ずれるとかいう事態になる。
太陽太陰暦の定義上、日食は朔日、月食は15日から16日にかけて、起こることになっているけれど、
日食が起こるのを見て慌てて今日は1日としたり、月食が見えたから14日後に月を改めるなんて後付で
やっては混乱するので、予め、日蝕も月蝕も予測して前年に暦を配布しなければならない。
ところが明代の暦は、元の時代の観測のまま補正もせず、基本的な機械的な部分、1ヶ月は30日と29日
とを交互に置く・19年に7回閏月を挿入するというところだけやって、立春も春分も蝕の予測もできないまま
やっていたわけだ。
自称アーリア人種の「千年帝国」の帝都・ベルリンに掲げられたのはユニオンジャックでも星条旗でもなく赤旗であるという事実について。
>>86 がスレタイすら見ていないという事実について
>優秀な人種が劣悪な人種を屈服させ、 >そこに文化が成立してきた。 モンゴルがロシアを征服しロシアはドイツを粉砕した事実からして モンゴル>>>>ロシア>>>ドイツであるという結論が導き出されることは疑いも無い
中古以来、日本の方が暦についてはヒドい状態で、唐と断交してからは西方の知識や 技術が伝わらない、宋や明は後進的だし、元・高麗とは大喧嘩したし、遼や金とは 付き合いが薄かったし、朝廷が暦を公布しようにも、武士が暴れまくっていてそれどころ ではない状態で、閏月の挿入からして地域差が出る、領主が変ると月まで変るという ヒドいありさまが、長く続いた。 ヨーロッパも、ローマ帝国瓦解からは日本でいう戦国時代のような有り様で各地で日付が違う。 ユリウス暦からグレゴリオ暦に切り替わるのに450年以上かかって、一番最後はロシア革命だった。 二月革命だったり三月革命だったりするのは、起きたときの暦法と、記録したときの暦法が違い 12日の差があった。
ロシアは単独でドイツを粉砕したわけではないけど
実際に、バイキングとモンゴルが占領して開化したんだけれどね。 それが無ければ、北夷のまんまだよ、ネネツとかラップとかエスキモーとかみたいな、 北辺の未開人だったはずだよ。
>>91 そこでいう「モンゴル」とはアヴァール等のことを指しているの?
>>93 トインビーは6世紀に東欧にやってきたアジア系遊牧民のアヴァールに
軍事動員されてからスラヴ人の歴史がはじまったといっている。
95 :
世界@名無史さん :2008/07/01(火) 14:23:49 0
ロシア史でモンゴル人とロシア人とのハーフの人で有名な人がいたよね。 母親がモンゴルの名家の生まれで妻がモンゴル人とのハーフの人。 顔立ちは、日本人か顔が濃い日本人みたいな顔をしていたんだろうと 想像できる。実際に日本の芸能人でロシアとのハーフの人いるけど、 顔はハーフだとわからない。
>>95 イーゴリ・スヴャトスラヴィチ候だろ、アレキサンデル・ボロディンの『韃靼人の踊り』の曲で有名な。
97 :
世界@名無史さん :2008/07/01(火) 16:15:54 0
>>95 レーニンだってカルムイク人とスウェーデン人(ユダヤ系?)の混血で
ロシア人の血が混じっていなかったじゃないか。
ソ連時代はカルムイク人の混血だと言うは公表されていても
ユダヤ人の血が混じっていると言うのは公にはされていなかった
のではないかな。
愚かなスラヴ人は自ら国家を築く能力がなかったので バイキングがロシアに初めて国家を築いたという西欧優越史観の立場においては バイキング以前に既にスキタイが黒海北岸に国家を築いていたことを意図的に避けたがる。
スキタイはイラン系民族。スラブではない
スキタイが国を作っていても、スラブ人は隷属してただけだし。
102 :
ty270410 :2008/07/04(金) 20:43:26 0
>>59 >しかしクリミアを拠点とするママイ・オルダと
>サライの汗たちが対立してた状況では交易はどうだったんでしょうね。
多分,この頃から交易による冨の取得の分散化がはじまったのかもしれませんね!
でも.ロシアに対する支配は依然として継続されましたよね.
そして,14世紀末ティムールによるサライ(官僚機構)の破壊と交易路の変更で
金帳汗国は大打撃を受け,往時の繁栄を取り戻すことが出来ないまま
滅亡への道を進むのだと思います.
トヴェリ公国からインドまで行ったアファナーシー・ニキーチンの旅行記とか東洋文庫で出んだろうか
104 :
世界@名無史さん :2008/07/14(月) 17:36:10 0
モンゴル支配の時代はロシアの市民はどんな生活をしてたの?? モンゴルの役人とロシアの市民の生活圏はことなっていたの?
>>104 市民ってどういう意味? 都市のポサード民のこと?
モンゴルの役人も都市にいたけど。暴動なんか起きると公の宮殿とかに
逃げ込まなきゃならなかった。
106 :
世界@名無史さん :2008/07/16(水) 16:05:29 0
>>78 そもそも、ロシア人が東方正教に改宗したのも、教義そのものにひかれたと
いうより、ビザンツの教会で行われていた荘厳な儀式に感激したからだもんな。
107 :
世界@名無史さん :2008/07/16(水) 19:50:46 O
若ノ鵬がんばれ! 朝青龍&白鵬死ね!!
モンゴル支配の時に、ロシアの料理や音楽や言葉もモンゴルのそれらの文化の影響を受けたのかな?
ピロシキとかは多分、モンゴルというか中央アジアの影響じゃ無かろうか。 団子状にした挽き肉をパイの衣で包んで油で揚げるって料理は、中央アジアや インドのサモサみたいにこの地域では一般的なものだし。
110 :
世界@名無史さん :2008/07/18(金) 15:31:24 0
>>108 そう言えばロシア民謡って独特の雰囲気あるよね。
カチューシャとかカリンカとか。モンゴルとか中央アジアの影響を
受けてるのかな??
モンゴルの伝統音楽ってのは日本の追分みたいな感じらしいが?
112 :
世界@名無史さん :2008/07/19(土) 10:12:48 0
ロシア民謡の雰囲気はアラブやペルシア音楽の影響だろう
113 :
世界@名無史さん :2008/07/19(土) 11:22:00 0
ロシアはモンゴル人の奴隷の子孫だよ
114 :
世界@名無史さん :2008/07/19(土) 15:10:22 0
杉山正明 「アレクサンドルネフスキーの活躍こそ、ロシアがモンゴルに破壊されていなかったことの証である」 「ルースィ諸侯が自己の支配権強化のために進んでモンゴルに服属したのがタタールのくびきの正体であり、ルースィ諸侯のくびきである。」
イヴァン四世がママイの子孫だから、チンギス・ハーンの子孫のシメオンに皇帝を譲って、改めて禅譲を受けなくても大ハーンだと認められると思う。 そこまでイヴァン四世は大ハーンになるのを拘ったんだね。
>イヴァン四世がママイの子孫だから、チンギス・ハーンの子孫のシメオンに皇帝を譲って、改めて禅譲を受けなくても大ハーンだと認められると思う。 ママイはチンギス裔ではないので無理
要するにチンギス裔のシメオンに一時位を譲って禅譲させることによって自らがチンギスの正当な後継者になったんだな しかし一時的にしろチンギス裔がモスクワ大公国の君主になったというのは面白いな
ティムールも洪武帝もイヴァン4世も残酷だ。 洪武帝はモンゴルとは何の関係も無いのに、支那人にもモンゴル的性格が影響されたのか
>洪武帝はモンゴルとは何の関係も無いのに (゚Д゚)ハァ?
>>117 それはよく聞く話だけど、タタール人たちのジョチ裔諸政権では、いわゆる「チンギス統原理」が後世まで
生きていたらしいからそんなことをしてもチンギス・ハーンの後継者と認められたかどうか。
クリミア・ハン国はオスマン帝国のはっきりいって属国だったけど、ツァーリへの手紙ではスルタンのことを
「オスマン家の帝王」という一方でハンのことは「チンギス裔の帝王にして大ハン」などと呼んで
その辺はこだわってたようだ。
>>119 洪武帝(=朱元璋)はモンゴル人の血を引いてないということ。
明を建ててから、北元(外モンゴル)に討伐軍は出したけど関係は無い。
>>121 「モンゴル的性格」を云々するのに「モンゴル人の血を引」くなんてことがたいして重要とは思えない。
たとえば20世紀アメリカの経済学者でタタール貴族の末裔ボリス・イシボルディンと
元朝臣民朱重八として生まれ育った男ではどちらがモンゴル帝国の影響を深く受けていると
想定できるだろうか? 常識的に考えて。
>117
>要するにチンギス裔のシメオンに一時位を譲って禅譲させることによって
>自らがチンギスの正当な後継者になったんだな
>120
15世紀の半ば、チンギス裔ならざるエセンがハーン位についたときには、反発がつよく
て30年続いたオイラト政権が1年でひっくりかえったけど、17世紀にアイシン国のホ
ンタイジが「大ハーン宗家のチンギス裔から禅譲させる」という手続きで大ハーン位に
ついたときには、アイシン国から自立していたハルハもオイラトも、これを承認しちゃ
ってます。
時代のながれですかね。
シメオンさん、リューリュく朝断絶のあと、もういちど登場してますよね。
子孫は続いたのかな♪
>>119 >>122 衛所制とか万戸制とか、まるっと元朝から継承♪
カシモフ家はウィキペで見ても末代のファーティマ・ソルタンまでしか書いてないな・・・
>>109 ピロシキはヨーロッパロシアでは釜焼きが一般的だし、元々天板で焼くパイの
ピローグが原型なんで、中央アジアの影響は少ないかと思われ。
ロシア料理には中央アジア、特にウズベキスタン由来の料理が多いのも事実で。例えば、ターメリックで色をつけた炊き込みご飯プローフ、汁の少ないう
どんのようなラグマン、数々のケバブ類などは、モスクワやぺテルブルクでも
手軽に食べることができる。
ペリメニっていう水餃子に似た料理があるけど、これはシベリアのアジア系民
族から取り入れたものだね。
バトゥの子孫でもウズベクハンの頃になると、コーカサス系と混血して髪の毛が赤くて目の色も緑か青だったりするんじゃないの?
バトゥ裔の一族は、母親はコンギラト部族とかオイラト部族とか既存の テュルク・モンゴル系の有力諸部族の首長家の出身者がほとんどみたい だから、「髪の毛が赤くて目の色も緑か青だったり」みたいな人物が どれだけ居たか・・・ ウズベク・ハンの父親はモンケ・テムルの十男のトゥグリルチャって人だけど、 ウズベク・ハンの母親も名前もどの系統かも不明だけど、コンギラト部族の出身 だったとかティムール朝時代だったかシャイバーニー朝だったかの記録に 出て来ていたように記憶しているけど。
シメオンはチンギス裔だけど、髪の毛と目の色は黒の典型的なアジア人だったのか?
オロス・ハンは金髪だったかもだそうな。
>>130 たぶんカザフ人とかの間での「オロス」の用法から推測されてるんだろうけど
ウルス・ハンとも表記されてたりしてよく分からんよな。
132 :
世界@名無史さん :2008/07/31(木) 16:21:14 0
>>131 ハーフェズ・アブルーとかミールホーンドみたいなティムール朝の年代記作者が
転写したアラビア文字の読み方の問題で、 اروس خان Urūs Khān を
「オロス・ハン oros χan」と読むか「ウルス・ハン Urus χan」と読むかの
違いなので、 اروس urūs 「オロス/ウルス」そのものは単独で「ルースィ」の
意味で間違いない。
先行する『世界征服者史』とか『集史』でバトゥの遠征軍がブルガールやキプチャクの
諸部族を征服した後にルースィ諸国も征服しているけど、ここでもルースィのことを
اروس urūs 「オロス/ウルス」と呼んでいる。
「ウルス」はややペルシア語読み(もしくはチャガタイ語?)に近い言い方で、
「オロス」はテュルク語というかモンゴル語の読みに近い感じだろうか。
勿論、イェケ・モンゴル・ウルスとかいう時の「ウルス ulus 」とは別の単語だw
>>132 青帳汗国のハンだからモンゴルとの混血もくそもない
>>133 lとrの違いなんですね。勉強になった。ありがとう。
>>134 L と R の違いとかそういう次元じゃない。
>>114 その理屈っておかしくね?
モンゴル軍はノブゴロドの手前で引き返したわけで、ノヴゴロド公のアレクサンドルネフスキーがいくら活躍しようが、
その他のロシアがモンゴルに破壊されたかどうかという問題とは無関係だろ。
ネヴァ河畔の戦いも氷上の戦いも、規模の小さい戦いみたいだし。
>>132 パトモンケ=ダヤンハーンの母方の実家のウリャンハイ部は金髪碧眼の部族だったとか。
北元のアスト部はオセチア人と同族って説もあるな
>>132 わたしは岡田英弘氏と、田中克彦御大の本でその説みたことあります♪
>>140 自分は宮脇淳子さんの本で
侍衛親軍の阿速衛が前身だって説らしいけど、アラン人は政争とかで結構活躍してるのに
ロシア人部隊だった斡羅恩衛の影の薄さは凄い
143 :
世界@名無史さん :2008/08/17(日) 22:15:06 O
オリンピック体操のルーマニア美女を観てるとつくづく生まれ変わったら バトゥになりたいと思いました
ルーマニアといえばモルダヴィア公国やワラキア公国が勝手に独立したとき 金帳汗国は何も手を打たなかったのか?
145 :
世界@名無史さん :2008/10/20(月) 18:49:00 0
ロシア人はモンゴルとの混血だって言うけどタタールのくびきの時代に 大量混血するほどロシアにモンゴル人が沢山いたのか?
>>144 14世紀後半ともなると金帳汗国もだいぶまずい状態だし。
全盛期のウズベク・ハン(1312-42)の時代でもリトアニアに
ベラルーシ削られるぐらいだしなー。
>>145 モンゴル高原からやってきたモンゴル人の数は少ないだろうけど
キプチャク人は南ロシアには多かったとは思う。
147 :
世界@名無史さん :2008/12/14(日) 15:57:06 0
タタールはもともとモンゴルがイスラム教を信仰する人という意味で 使ってた言葉でしょ。ということは、アジア系の顔よりも中東系の顔立ちのほうが 多かったと思ってもいいの??トルコ人までタタールというし。
タタールはモンゴル高原の一部族で、後にモンゴル人全体をさす言葉となり、 さらにはトルコ系民族や満洲人もタタールと呼ばれるようになった 東洋でも韃靼(=タタール)は蒙古や満洲の諸民族全体を指すようになった
>タタールはもともとモンゴルがイスラム教を信仰する人という意味で >使ってた言葉でしょ。 それはどっちかというと木速蛮(ムスルマン)では?
150 :
世界@名無史さん :2009/01/16(金) 09:26:07 0
モスクワ年代記集成を編纂したキプリアン府主教って ブルガリア貴族の出だがCamblakという割とテュルク系っぽい姓だったんですね。
151 :
世界@名無史さん :2009/02/16(月) 20:35:21 0
古代、中世はむしろ一重でブサイクなモンゴロイドが白人をレイプする時代だろう。 モンゴルはもちろんキエフの大破壊の時にレイプしまくったことは当然だけど、 西アジアでも美女をレイプしまくったし、 もともとコーカソイドの居住区だった中央アジアも、モンゴロイドのテュルク系が レイプしまくって混血した。フン族も、最終的には分裂したが、 猛威をふるっていたころはヨーロッパの村々を襲ってレイプしまくっていたし。 逆に、コーカソイドがモンゴロイドをレイプしまくるようなことは中世までは少ない。 古代・中世の遊牧民族に生まれれば、無数のコーカソイド女性とやりまくることができただろう。
モンゴロイド万歳! 我々が地上最強だ!
殺しとレイプこそ生の醍醐味
155 :
世界@名無史さん :2009/02/23(月) 19:53:09 0
>>151 朝鮮人きも
白人女が大好物のレイプ民族
そもそも岡田先生の本(タイトル失念)によると、 タタールのくびき自体が、ロシア人の捏造とか、そんなようなことが書いてあったような・・・ 本当のところはどうなんだろう いや、岡田先生の本のような気がするけど、 奥さんがチャンネル桜で放言してただけかもしれない・・・ よく思い出せん・・・
157 :
世界@名無史さん :2009/03/06(金) 08:47:36 O
ロシア美女をレイプ出来まくったモンゴル人羨ましい。 日本もロシア女を速急に輸入すべき
★旧ソ連諸国の女性に売春強要 トルコが人身取引の最大市場に
世界的に女性の人身取引が問題になっている中、欧州連合(EU)への加盟を切望しているトルコが、
性搾取の最大の市場の一つになっているという。近隣の旧ソ連諸国などから多数の女性が、「働けるから」と
誘われてトルコに連れてこられ、着いた途端、旅券を奪われ、売春を強要されるケースが相次いでいる。
国際移住機関(IOM、本部ジュネーブ)では、トルコ政府の支援を受け、トルコ国民に対し、
被害者の女性に関する情報提供を求めるキャンペーンを開始している。
年齢層は、18歳から24歳までが最も多いが、子どもを持つ若い母親も含まれており、その数は5000人に
達しているとされる。売春業者は顧客1人から150ドルの金を取り、1日15人の客を相手にするよう女性たちに強要している。
女性たちには、一銭も払われていないという。この結果、業者たちが2005年に売春によって得た利益は、
36億ドル(約4200億円)と推定されている。
多くの女性がウエートレスやダンサーとして働く条件で、入国してくる。しかし、これは真っ赤なうそ。
トルコ入国後、旅券を奪われ、暴力やレイプを受けた後、売春を強要されたりしている。
米紙ロサンゼルス・タイムズによると、昨年夏、トルコの治安部隊が地中海に面する保養地アンタリヤで、
地下の窓のない部屋に監禁されていた5人のウクライナ女性を救出した。
女性たちは、親子の売春業者に10カ月間にわたって監禁され、客をとるよう強要された。拒否すると、熱湯を脚や局部にかける
暴行を受けたという。客の1人が、当局に密告したため、監禁が明るみに出た。
昨年は470人の女性が救出され、このうち220人がIOMの支援で、無事国に帰還を果たした。しかし、
5000人と推定される女性たちは、依然として闇の世界で過酷な性労働を強いられていると予想されている。
全国放送のテレビのコマーシャルでは、モルドバ出身の母親たちの行方を捜す4人の子どもが登場し、
たどたどしいトルコ語で協力を求めている。
ttp://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200602131516541
杉山さん 岡田さん 両方、「タタールのくびきは捏造」って主張しているような・・・・ 最も岡田さんの方が杉山さんを嫌っているけど
仲悪いんですか? おたがいの論著に全然引用とか参考文献として 出てこないから変だなとは思ってたけど。
163 :
世界@名無史さん :2009/03/06(金) 19:37:21 0
>>162 ありがとう。すごく面白い。ぜひ公の場で論争してもらいたい。
研究室のページもけっこう読ませる。
>>156 初版が1987年っていうから二十年ちょっと前になるけど、
ハルパリンCharles J. Halperinって人が書いた"Russia and the Golden Horde" って本で、
まさにスレタイの「モンゴルのロシア支配について」13〜15世紀くらいのロシアの年代記を
駆使し、同時代の他の地域のモンゴル支配の有り様などとも比較検討してまとめた研究書を出している。
最近、『ロシアとモンゴル―中世ロシアへのモンゴルの衝撃 』という題で邦訳も出た。
主張をいくつかを要約すると、モンゴル、この場合はジョチ家だが、租税や駅馬(ジャムチ)の
負担とかは言ってくるけど基本的に臣従する限りはルーシの内政にはまったく干渉というか関心が無く、
良く言われるモンゴルの支配がロシアの専制政治の淵源って主張も、そもそもモンゴル側は
ルーシ在来の民会(ヴェーチェ)を臣従する限りは敵視していた訳でもなく、「タタールのくびき」
という単語もモンゴルの支配力が衰え、モスクワ大公国が進出しはじめる15世紀後半から
16世紀になって急に出て来るんだそうな。
最近の「タタールのくびきは後世の捏造」と言われるようになっているのは、多分、この手の
最近のモンゴル支配時代のルーシ研究を下地にしているんだと思う。
杉山は以前からくだらんモンゴロイド血統主義者だと思ってたが まあ馬脚を現したと言ったところか。 歴史上の中でも空前絶後のジェノサイド、陵辱、略奪をやらかしたのは モンゴル人だけだ。 同じモンゴロイドだからって モンゴルの蛮族と一緒にされちゃかなわん。 そんなんだから日本人まで黄渦論の対象になっちまったんじゃねえか。 白人だって正しいユーラシアの歴史を知れば モンゴル人だけが野蛮で残虐なことが分かるだろう。
166 :
世界@名無史さん :2009/03/07(土) 05:40:34 O
>>165 そのモンゴル人より遥かに野蛮なのがチョウセンヒトモドキ
167 :
世界@名無史さん :2009/03/07(土) 05:54:03 0
>>165 まぁーいいじゃないか
嘗てさんざん攻撃された中国とロシアが今後どんな報復をするか見物じゃないかww
ついでにバグダート破壊された恨みを焚きつけてイラクの武装勢力にも依頼しようぜww
モスクワ・ロシア正教はモンゴルの片棒を担いで勢力を拡大した件について。
>>167 バグダードが攻略されたあと、フレグの命でバグダードを含むイラーク・アラビー州の財務長官に
任命されたのは『世界征服者史』の著者でもあるアター=マリク・ジュワイニーだったが、
ジュワイニーは戦後直ちにバグダードの市街や郊外周辺の整備に取り掛かっている。
イルハン朝は西のアナトリアのルーム州から東のホラーサーン州まで全土を20州ほどに別けて
統治しているが、なかでもバグダードを含むイラーク・アラビー州は穀倉地帯として年間金貨
3000万ディーナールに及び、全国第一の税収をあげていたルーム州に次ぐ規模を誇っていたらしい。
ただルーム州はモンゴル王侯の直轄地が集中している土地で、生産高の割に国庫に入る収益は
やや少なかったようだ。そのため、実質バグダードを中心とするイラーク・アラビー州が全国第一だった。
カリフ宮殿や城塞は破壊されたままにされたが、他の市街地のマドラサやモスク、市場なんかは
ジュワイニーなどの尽力もあり、イルハン朝時代に修復や再建がされたらしい。
バグダード周辺は回数は少ないがイルハン朝君主の冬営地のひとつだったところで、1330年代に
イブン・バットゥータがバグダードを訪れた時も、ちょうどイルハン朝君主アブー・サイードが
バグダードに冬営していた最中だった。
(バグダードは一応シーア派イマームの殉教地でシーア派のモスクや廟墓が多くあったりする。
イルハン朝君主ガザン、オルジェイトゥがシーア派やサイイドたちを保護していたことは有名)
>>169 の続き。
現在バグダードの古い建造物は、イルハン朝時代からティムール朝時代にかけて大幅に改修された
ものが多く、アッバース朝末期に建造されたムスタンスィリーヤ・マドラサなんかは当時の面影を
残しながら今も立派に現存している。(はずなんだが、この間の戦争でどうなったか)
バグダードを陥落させたのはフレグ率いるモンゴル軍だが、それを復興させたのもフレグの
意向によるものだ。モンゴル帝国が金朝の都、中都を陥落させたが、中都はモンゴル帝国の
華北支配の拠点として引き続き機能し、その中都の北東隣にクビライは大都を建設し、それが
現在の北京の前身となった。19世紀半ばまでモンゴル帝国の始祖チンギス・ハンは預言者性を
備えた君主としてイラン高原周辺や中央アジアでは尊崇されていて、バグダードを治めた
オスマン朝やサファヴィー朝でもそうだった。バグダードを陥落させたからといって、今さら
イラクの住人がモンゴルを責めるというのも、随分陥落以降の歴史を無視した話だろう。
カリフは財宝を独り占めにしていたのに対しモンゴルは富の分配は公正だった。 モンゴルに囚われたカリフが己の財宝を蓄えていた倉庫に閉じ込められ 餓死させられたことはアラブ人にとっては富に対する欲望の戒めとなっている。
>>172 > 「預言者性」
イスラムの神学概念で、神から地上の人々を指導する人物に預託される権能の類いのこと。
アラビア語でヌブッワト nubuwwat などと呼ぶ。
イスラムにおける一般的な認識として、神からの啓示をもって人々を警告する人物を
預言者(ナビー)と呼ぶが、特に啓典と明確な使命を帯びた人物は使徒(ラスール)と呼び、
ムハンマドはその最後の人物とされる。コーランの記述から、神は人類のおのおのの共同体や
民族集団に歴史の各時代を通じてこれを指導させる人物を送り込んで来たとされていて、
コーランで言及されている預言者の数はアブラハムやイエス・キリストも含め28人、
伝承によれば預言者だけで12万4000人、そのうち使徒は315人派遣されて来たとも言われている。
アラブやイスラムそのものはムハンマドがいるが、それ以外の地域や民族、共同体には預言者や
預言者性を備えた人物が派遣されて来た、とされていて、預言者そのものでなくとも特に世俗の
偉大な君主の場合、預言者が神から付託された権能の一つに、武力をもって人々を悔い改めさせる
こともある、という考え方があった。旧約聖書のイスラエルの民による征戦や、ムハンマドが
アラブの諸部族や盟約に従わないアラブ系のユダヤ教徒の共同体を討伐したこともそのひとつ
とされている。
>>173 の続き。
イスラム教徒ではないが、預言者や預言者とまでは行かないものの預言者性を与えられた人物が
アラブ以外の地域にも歴史を通じて派遣されて来たとされていたが、「神から与えられた権能によって
武力を用い、征戦でもって人々を改悛させる指導者・君主」の代表格としては、古代のアレクサンドロス三世に
比定されるイスカンダル・ズルカルナインなんかも含まれていた。
チンギス・ハンをイスラム世界に現れた神罰の体現者とする見解は13世紀半ばくらいから見られるようだが、
一歩進んで「『テュルク・モンゴル系の遊牧諸部族』(アトラーク)に派遣された預言者性を帯びた人物」
とする見解がイルハン朝の後期くらいから現れ、ティムール朝時代くらいにはイランから中央アジアの地域で
ほぼ定着していたらしい。(イルハン朝以降の)前近代のペルシア語などの歴史書ではチンギス・ハンの行状は
だいたいイスカンダルの事蹟と比較される場合が多かった。
これは19世紀半ばに中東から中央アジアにかけて民族主義が席巻する時代まで続いていたようだが、
それはカージャール朝も含め、19世紀までのイラン・中央アジアの諸政権はおおよそテュルクメン系などの
テュルク・モンゴル系の遊牧諸部族が建てた政権で、特に『集史』などに見られるようなテュルク・モンゴル
系の民族的伝承にアイデンティティーを持っていた人々だったため、チンギス・ハンを神から遣わされた、
自分達の偉大な先達として尊敬する気風が有ったらしい。
王権神授説は、それこそ、バビロニアやピラミッドの時代から近代に入るくらいまで 世界規模で標準的な考え方だったしなー。