1 :
世界@名無史さん:
なさそうなので立ててみました。
中世ヨーロッパの初期において巨大なフランク王国を築き上げたこの偉大な人物についてたっぷり語り合ってくれ
伝承とは違って、実態見ると笑っちゃうくらい野蛮だよなこの人w
3 :
世界@名無史さん:2007/10/07(日) 18:05:36 0
カール大帝の生涯は戦争に次ぐ戦争。
ザクセンを征服したときには4500人のザクセン人をまとめて斬首。
彼の妻妾の数は9人。
4 :
世界@名無史さん:2007/10/07(日) 18:48:57 0
ザクセン戦争によりゲルマン問題を解決したカール大帝は、まさにオクタビアヌスの
真の後継者と言えましょう。
彼に比べれば、チベリウスからユリアヌスいたる歴代ローマ皇帝らは、役立たずの
穀潰しであると言えましょう。
それにつけてもおやつはカールのカールとこの人とは、なにか関係がありますか?
ブリュッセルにあるEU理事会のビルは“シャルル・マーニュビルディング”
と呼ばれている。
7 :
世界@名無史さん:2007/10/07(日) 19:31:10 0
こいつ以降、近世になるまでヨーロッパにはまともな君主がいない
娘を結婚させなかったのはなぜ
9 :
世界@名無史さん:2007/10/07(日) 20:21:00 0
10 :
世界@名無史さん:2007/10/07(日) 20:23:20 0
君主というより「部族長、酋長」と呼んだほうが実態に近いな。
カールの人生は、キリスト教を除けばゲルマン諸部族の首長たちと
まったく同じ。
春になると完全武装した縁者や友人、家臣らを引き連れて遠征に出かけ、
秋には本拠地に戻り、戦利品を惜しげもなく家臣に分配した。
これらの戦は帝国の範囲を拡大するためであると同時に戦利品を得る
ためでもあった。
カトリックを受け入れた、というだけで聖人君主の扱い。
15 :
世界@名無史さん:2007/10/08(月) 02:17:55 0
>>10 カールのザクセン征服は、カエサルのガリア征服に次ぐ偉業ではないでしょうか。
オクタビアヌス以降の所謂歴代皇帝らで、これほどの成果が実現出来た者は、
皆無なのではないでしょうか。もちろん、成果が次代に受け継がれる幸運に
恵まれていただけ、なのかもしれませんが。
東ゴートのテオドリックや、ビザンツのヘラクレイオスやバシレイオス2世は、
その点に関して、誠に不運であったと言えましょう。
17 :
世界@名無史さん:2007/10/08(月) 08:47:35 0
ヴァイキング船を見たときはさすがにうろたえたらしい
18 :
世界@名無史さん:2007/10/08(月) 08:52:00 0
無学文盲
19 :
世界@名無史さん:2007/10/08(月) 10:48:46 0
この時代は長子相続でなく、分割相続だったからややこしい。
カールの息子のルートヴィヒ敬虔王の死後、ヴェルダン条約で王国は
3人の息子の間で三分割されてしまう。
962年には東フランク王オットー1世が神聖ローマ皇帝として戴冠。
西フランク王国はカペー朝によって統治されることになる。
>>19 シャルル禿頭王は、シャルル2世としている文献が多いが、
なかには
大帝=皇帝カール1世=フランク王シャルルマーニュ
禿頭王=皇帝カール2世=西フランク王シャルル1世
肥満王=皇帝カール3世=西フランク王シャルル2世
単純王=西フランク王シャルル3世
としているものもある。
肥満王が西フランク王を兼任したことについて、
「あいつは東フランク(=ドイツ)の人間だ」とする立場なら
禿頭王=カール2世=シャルル2世
肥満王=カール3世 ・・・ シャルルとは呼ばない
「一応肥満王も西フランク王になったんだから・・・」という立場なら
禿頭王=カール2世=シャルル1世
肥満王=カール3世=シャルル2世
ってことになるのかな?
ドイツ語読みの「カール」は1世・2世・3世が確定しているけれど、
シャルルは確定していない、ってことかな?
単純王=シャルル3世以降は確定しているけどね。
22 :
世界@名無史さん:2007/10/10(水) 12:36:17 0
スペインの占領を試みたが、さすがに手こずってとうとうキリスト教を持ち込めなかった。
23 :
世界@名無史さん:2007/10/16(火) 16:07:02 0
教皇に西ローマ皇帝として戴冠を授けたあと、
「こんなことされるとは知らなかった、知っていたらここには来なかった」
って言ってたけどホントかなぁ?
>>23 それナポレオンのときじゃね?絵で見る限りカール君のときは教皇自ら授けてるし
>>23 皇帝こそが教会を支配するのがローマ帝国の本来だったのに、
逆に教皇風情がローマ皇帝を決定するのがおもしろくなかったんだろう
実際当時の東ローマ帝国は皇帝が教会をコントロールしてたんだし
26 :
勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :2007/12/16(日) 18:55:13 0
>>8 家父長権の移動を伴う、正式な結婚を認めると
娘と婿の間に生まれた子供にも、カールの財産に対する相続権が発生します。
この時代はまだ王国と王(王室)の財産が明確に分離していなかったので
複数の相続者がいると、自動的に王国は分割される事になってしまいました。
カールはこの事態を恐れ、娘を自らの家父長権の下に留め続けたわけです。
>>23 ローマ皇帝位は教皇の推薦など必要ないというのが、当時の常識でした。
事実、カールは戴冠以前よりアウグストゥスの称号を文書で使用しています。
彼の理想は人民からの歓呼により、自己戴冠にて皇帝になる事だったと思われます。
彼の息子であるルートヴィヒに自己戴冠をさせている事からも、それは感じられると思います。
27 :
世界@名無史さん:2007/12/17(月) 01:04:25 0
カロルス・マグヌスが美しい小姓を溺愛したという説話が成立したのは
いつ頃のことなのでしょうか?
最古の記述は何という文献なのですか?
28 :
世界@名無史さん:2007/12/18(火) 12:02:51 0
>>26 >彼の理想は人民からの歓呼により、自己戴冠にて皇帝になる事だったと思われます。
ってことはつまり教皇による戴冠は教会の影響力を保持しょうとするローマ教会の企みだったわけですね?
だいたい司教ごときに戴冠してもらうような伝統は、ローマ帝国には存在しないからね。
西ローマ後期はヒエロニムスとか大司教が皇帝を選べる程実力もってなかったか
うろ覚えだが
西欧人が東ローマ帝国をビザンツ帝国と呼ぶなら
俺は西ローマ帝国をミラノ帝国と呼んでやる
32 :
世界@名無史さん:2008/02/02(土) 15:54:43 0
そんなミラノを攻め立てるローマ皇帝バルバロッサ!
33 :
世界@名無史さん:2008/03/11(火) 21:57:11 0
シャルルマーニュの萌え本があったよ
誰か買った?
34 :
世界@名無史さん:2008/03/12(水) 17:53:42 0
なんで西ローマ帝国の首都はローマじゃなかったんだろうな
さびれてたのか?
>>34 古来からの諸勢力が多すぎて、あの町にいたら皇帝であっても何も出来ないから。
桓武天皇が平城京から遷都したのと一緒の理由。
それもあるけど政治の中心が北に移動したからだろうな
東ローマをビザンチン帝国と呼ぶなら
西ローマはミラノ帝国
ラヴェンナ帝国じゃないの?
40 :
33:2008/03/13(木) 22:24:42 0
シャルルマーニュ大百科 (萌える大百科)
類似品にアーサー王大百科が…
一つ思うのだが、ローマ在住の諸勢力のロビイストみたいなのが追いかけて着たりとかはしなかったのかな?
土地の所有を権威・権力の基本にした社会だから、
A地点でのパワーをB地点に持ち込むということは
現代と比べると相当難しかったんじゃあるまいか?
44 :
世界@名無史さん:2008/03/18(火) 21:22:36 0
>>32 バルバロッサよりもハインリヒ6世の方が有能だと思うんだよな
45 :
世界@名無史さん:2008/03/19(水) 07:23:20 0
>>26 シャルルマーニュがルイに自己戴冠させたっていう話は知らんかった。
ところでシャルルの戴冠問題で重要なのは、
「誰が推薦するか、誰が選ぶか」という、「決定」にまつわる世俗的な勢力争いというよりも、
「何が皇帝という立場を正当化するか」という、「任命」に際しての象徴的な問題だと思う。
1、教皇がシャルルに戴冠する。→民衆が「シャルル万歳!」と叫ぶのと、
2、民衆が「シャルル万歳!」→シャルルが自ら(あるいは教皇がシャルルに)戴冠する。
のでは皇帝権の出所が違う。
1では皇帝権は、神の代理人としての教皇を通じて、あくまで神によって正当化される。
2では民の支持に基づく。
教会としては、民衆をキリスト教的な救済に導くのが君主(しかもローマを支配する君主)の使命
の第一であるから、その使命が神から授かるモノと考えるのは当然なんだけど、
王国の分割相続なんかにも見られるように、「君主っていうのは国(民衆を含む)の所有者」
という意識のシャルルからしてみれば、王権、皇帝権というのは、自らの「血統と戦功とカリスマ」
に由来するもので、神から授かるものだとは思ってもみなかった。
ってとこじゃないかしら。
史料って少ないよね。この時代。
ここでいろいろ質問してから記事書けば良かった。<その「なんとか大百科」のコラムを書いた本人(笑)
史料が少ないというより
ここら辺の時代に関する本がほとんど日本語に訳されてないのが現実
日本のアマゾンでカール大帝やシャルルマーニュといれても合計25件しか出てこないが
北米のアマゾンでCharlemagneで検索したら25730件でてきた
欧米圏ではシャルルマーニュが相当人気なのがわかる
>>45 親の心子知らずで、ルートヴィヒは後に教皇による戴冠を再度受けている。
だからふたつ名が敬虔王なんだけど、自身の信仰心もさることながら
彼の時代には既に教皇による戴冠によって聖性が宿るという後の思想が
芽生え始めていたのでは、と考えられている。
しかしカールの戴冠時には、カールはおろか教皇もそんな事を考えていたとは
思えない。
せいぜい先に推戴して恩を着せておけ、程度のニュアンスだと思われ。
教皇が冠を載せた事ではなく、その後の歓呼だけが彼を皇帝の位に引き上げたという認識が
カールの時代には厳然としてあったのが記録からも分かるよ。
聖性といえば中世の頃は王には不思議な力が宿ると思われてたよね
ロード・オブ・ザ・リングで「王の手は癒しの手」ってでてくるけど
あの元ネタは中世
聖性に関しては教会との関わりもあるけど
もともとゲルマンの文化として王は超能力的力をもつと一般的に思われてたみたいだ
中世じゃないよ、古代ゲルマンの頃からそうだよ。
戦闘指揮者としての将軍が王へと上昇していく過程で
祭祀職が帯びていた神聖性も吸収していったらしい。
52 :
世界@名無史さん:2008/04/13(日) 20:04:27 0
ラテンのインペラートルも軍隊を指揮し戦争を遂行し、凱旋と共に祭祀を執り行う神官の性格を併せ持っていたと言われる
53 :
世界@名無史さん:2008/04/15(火) 23:22:12 0
フランス人にとってもドイツ人にとっても半ば神話化された大王ですから
日本で白水社の「シャルルマーニュの戴冠」と筑摩の「カロルス大帝伝」以外にまともな文献ってあるの?
55 :
世界@名無史さん:2008/05/29(木) 23:41:03 0
age
カール大帝て名将?
デンマークやイスパニアではうまくいってないけれど
生涯不屈の闘志で戦い続けたのが凄いな、と
58 :
世界@名無史さん:2008/08/10(日) 15:01:59 0
age
59 :
世界@名無史さん:2008/08/23(土) 00:06:37 0
シャーリー・マクレーンの著書「カミーノ」によれば
スウェーデン元首相のオラフ・パルメはその昔シャルルマーニュ大帝として生まれており
マクレーンは当時から関係があったそうです。
マクレーンの著作ではパルメとは愛人関係だった事が明かされていますが・・
パルメとシャルルマーニュの共通点とかってあるんですかね?
60 :
世界@名無史さん:2008/09/18(木) 15:53:04 0
サヴィトリ・デヴィは、一九七八年、エルネスト・ツンデルによって記録された
十時間のインタビューの中で、彼女のキリスト教を拒否し、否認する理由を、
二つ挙げている。即ち、
第一は、キリスト教が、人間中心主義、人間至上主義であること。
第二は、キリスト教の非寛容性である。
キリスト教はヨーロッパ人に対して、暴力によって強制された。その実例の
一つは、シャルルマーニュ大帝の事例である。シャルルマーニュは、サク
ソン人を暴力によってキリスト教徒にするために、三十年間戦争したと。
西暦七八二年、四千五百人のドイツ人チーフ(部族長)が、キリスト教を
信仰することを拒否したとの理由で、首を切られた。これらの四千五百人の
ドイツ人のチーフ(部族長)は、一人一人引き出されて、首をハネられた、と。
サヴィトリ・デヴィは、ヒットラーの「我が闘争」から引用する。
「古代世界は、今日の我々よりもはるかに自由であった。しかし、キリスト教
の侵入以降、非自由と化した」と。ヒットラーは全く正しい、と。
明治以来国賊と化した日本の明治国家権力は、ヨーロッパの、このような
歴史の真実を、日本人から隠蔽した。
サヴィトリ・デヴィ曰く。
「私は、ヒンドゥー教が、国民社会主義と両立し得る、世界で唯一の宗教で
あったが故に、ヒンドゥー教を受け入れた」。
ここで「国民(又は民族)社会主義」と翻訳したが、これは、今、もっぱら
「ナチス」と略称され、悪魔の権化とされて居る。第二次世界大戦で、ナチス
(と日本)が敗北して以降、ナチスとヒットラーに対する誹謗中傷と悪魔化の
ためのシオニストユダヤとイルミナティによるデマ宣伝は、史上空前の膨大
な量と成っている。我々はこれらのシオニストユダヤとイルミナティによる
「反ナチス」デマ宣伝を受け入れてはならない。
61 :
世界@名無史さん:2008/09/20(土) 22:45:22 0
シャルルマーニュってドイツ人?フランス人?
62 :
世界@名無史さん:2008/09/20(土) 23:18:05 0
生誕地のアーヘンはドイツ領。
63 :
世界@名無史さん:2008/09/21(日) 17:38:59 0
じゃあードイツ人?
ドイツ人という概念は当時は無いかも
>>1 カール大帝よりも明治天皇のほうが偉大だぞ。
どうでもいいこと書くな
67 :
世界@名無史さん:2008/09/22(月) 18:48:39 0
シャルルマーニュなのか、カール大帝なのかで未だにドイツとフランスがが喧嘩してるらしい。
69 :
世界@名無史さん:2008/09/23(火) 00:26:45 0
英語ではシャーレメインって発音だけどな
「カロルス・マグヌス」でいいだろ。
死後のバカ息子やバカ孫など一族が争ってグダグダして全てがパーだからな。
だって子孫たちの支持基盤が地域的な有力者たちなんだから分裂は必然的だったんじゃないの?
ルートヴィヒ敬虔王のグダグダな後継者選定は問題だけど、その子の世代にはもうガリアとゲルマニア、イタリアは別々の政治的集団になってたろ。
73 :
世界@名無史さん:2008/09/28(日) 12:27:44 0
一代限りの大帝国。なんか虚しい
一応二代は続いた…と言えるのか?
まあ後世への影響はでかいし肯定的に評価されとるから
ラッキーなほうさ。
75 :
世界@名無史さん:2008/11/04(火) 21:20:29 0
シャルルマーニュのタリスマンは聖遺物みたいな扱いはされなかったんでしょうか?
聖杯とか聖槍みたいな(インディジョーンズとかみたいな)扱い
永遠の命とか世界を支配するとか、か…
シャルルマーニュ伝説って地味だよなー。
アーサー王伝説やジークフリート伝説に完全に押されてる。
叙事詩でも「ローランの詩」以外にメジャーなのがないって…。
しかも「ローランの詩」の主役はシャルルマーニュじゃないし。
微妙に史実の方が有名だからフィクションの題材として使い辛かったのかね。
ねぇねぇ、ロクな伝説ないけど
今どんな気持ち?
∩___∩ ∩___∩
♪ | ノ ⌒ ⌒ヽハッ __ _,, -ー ,, ハッ / ⌒ ⌒ 丶|
/ (●) (●) ハッ (/ "つ`..,: ハッ (●) (●) 丶 今、どんな気持ち?
| ( _●_) ミ :/ 仏 :::::i:. ミ (_●_ ) | ねぇ、どんな気持ち?
___ 彡 |∪| ミ :i ─::!,, ミ、 |∪| 、彡____
ヽ___ ヽノ、`\ ヽ.....::::::::: ::::ij(_::● / ヽノ 独 ___/
/ 英 /ヽ < r " .r ミノ~. 〉 /\ 丶
/ /  ̄ :|::| ::::| :::i ゚。  ̄♪ \ 丶
/ / ♪ :|::| ::::| :::|: \ 丶
(_ ⌒丶... :` | ::::| :::|_: /⌒_)
| /ヽ }. :.,' ::( :::} } ヘ /
し )). ::i `.-‐" J´((
ソ トントン ソ トントン
79 :
世界@名無史さん:2008/11/10(月) 23:26:13 0
ローランちゅーと中世の
オルランドちゅーとルネサンスの
つくりばなし
そもそも捏造文書を根拠に勝手にローマ皇帝名乗るな!
byコンスタンティノープル
82 :
世界@名無史さん:2008/12/03(水) 09:49:08 0
>>78 フランスがロクな伝説ないってどういう意味?
アーサー王伝説はフランス生まれ。
84 :
世界@名無史さん:2008/12/03(水) 10:22:30 0
身内同士の争いでグダグダだったメロヴィング朝の方が長持ちしてた
様に思うのは気のせい?
時代や政治機構も違うから単純に比べられん
そもそも西欧では王朝が変わったからといって国家や政府が転覆するわけじゃないから
あまり王朝を重視しても意味無いだろ
カロリング朝は滅ぼされたわけじゃなく断絶して女系つながり次の王家になっただけだからな
87 :
世界@名無史さん:2008/12/04(木) 11:46:38 0
ロクな伝説って言うかロクな英雄?
ナポレオンはコルシカ人。シャルルマーニュはドイツ人?
そもそもアーサーは「アングロ・サクソンの侵攻に対抗したブリトン人の将軍」なわけで、それをイギリス人が誇るというのも変な話ではある。
んで、アングロ・サクソンに圧迫されたブリトン人の一部が、海を渡って住み着いたのがブルターニュなわけだ。
それはさておき、ナポレオンを別格としてフランスの軍人で一番有名なのはダルタニャンだったりするんだろうか。
史実の業績としてはたいしたことやってないが知名度だけは抜群だろう。
後は百年戦争期の諸将あたりか。まあ、伝説的にはジャンヌ・ダルク一択って印象になるんだろうが。
イギリス人はアングロ・サクソン化されたブリトン人という気がする
>史実の業績
オランダの要塞攻撃してて戦死したんだっけ
というかスレ違い失礼
>>90 オランダ戦争でマーストリヒト攻囲中に戦死だったか。
92 :
世界@名無史さん:2008/12/05(金) 23:26:34 0
宮廷や事務処理上は何語が使用されていたんだい?
やっぱりラテン語?
まあ、ラテン語だろうね。
基本的に読み書き出来たのは聖職者くらいだったみたいだし、シャルルマーニュの伝記書いたのも確か聖職者。
ラテン語からの脱却を最初に果たしたのはイングランドだったみたい。
中国語を自国の言葉に道具として適用したのが日本だったのと似てるかも。
94 :
世界@名無史さん:2008/12/06(土) 09:28:24 0
じゃあ、会話用言語でラテン語が使用されていたのはいつごろまでだい?
シャルルマーニュの母語もラテン語?
95 :
世界@名無史さん:2008/12/06(土) 10:00:21 0
>>89 英語にケルト語由来の単語はほとんどなく、古ドイツ語+オイル語とされる。
ブリテン島のアングロ・サクソン化=ゲルマン化は、一般に449年以降であると
されるが、ガリアの北部のベルガエ人もゲルマン系であるならば、ローマ征服
以前に、イングランドはすでにゲルマン人の居住地であった事と考えられる。
96 :
世界@名無史さん:2008/12/07(日) 02:18:38 0
シャルルマーニュが稚児を愛して、少年の尻を追いかけ回したという民話が
収録されている本の題名を教えて下さい。
>>94 会話する時は多分先祖からの母語。
シャルルマーニュも最初に覚えたのはフランク語(ってのが存在すれば)。
聖職者以外の人間は大概ラテン語を読み書き出来ないし、世俗の言葉は誰かが文字化しないと表記不可能。
なので中世では「ラテン語の読み書きが出来ないこと」=「文盲」扱い。
古高ドイツ語もあるが文語の主役はラテン語かな。
シャルルマーニュは母語が古西フランク語で
ラテン語と俗ラテン語(古仏語)は理解できたが
読み書きはかなり練習したができなかった
たぶんこの人読語障害だ
複数の言語理解できるのに言語能力が低いとは思えないし
10世紀以前は聖職者がラテン語で記録するのが普通
俗語での記録は限定的
11世紀以後になると騎士や商人の俗語での読み書きが普及して
徐々に一般化する
101 :
世界@名無史さん:2008/12/14(日) 07:11:43 0
誰も96番の質問に返答出来ないのですか?
シャルルマーニュには毛利元就の三本の矢の逸話を聞かせてやりたい
104 :
世界@名無史さん:2009/01/05(月) 00:58:09 O
ビザンツのイレイネと政略結婚の話が有ったのか?
実現すれば統一ローマの再現だったな。
地縁による諸制度がある限り、東西ローマ再統一は難しいのでは?
ローマ帝国末期に分割統治が何故始まったか、ってのが前提で。
ビザンツとは体制が違いすぎるよな
ユスティニアヌス大帝はいいところまで行ったのにな。
占領だけじゃなく統治も成功させないとダメなのがなあ。
第三次十字軍でバルバロッサが「俺が皇帝だー」といってコンスタンティノープル占領しちまえば
第四次の時にそれやって教皇に破門されたし。
孫のフリードリヒ2世はイェルサレム王位を獲得したりイスラーム勢力と宥和してまたまた教皇に嫌われるし。
結局教皇庁は世俗の君主全員が教皇に跪かない限り満足しなかったんだろうから関わった君主はみんな災難なんだよな。
「バルカン半島と小アジアとパレスティナを全部寄進しろ!」的なw
110 :
世界@名無史さん:2009/01/31(土) 23:42:01 0
いや、その前にバルバロッサはミラノで暴れて破門されて…
111 :
世界@名無史さん:2009/02/11(水) 00:47:28 0
シャルルマーニュの頃はもっと教皇庁と良好な関係だった
聖職者も官吏としての性質もあったし
シャルルマーニュの子供がコンスタンティノープルに入って
ビザンツ皇帝になるとかはあり得たかもしれない。
どうだろね。
ザクセン征服でもあんだけの損害出してるのに伝統的な官僚組織や軍隊、それに「正統なローマ帝国である」って国民の意識を考えたら当時の王朝を倒すだけでも大仕事でしょ。
西ローマ皇帝戴冠だってローマ司教と仲間たちの演出であって、その後コンスタンティノポリスの皇帝がその称号を認めるまででも大変な苦労してる。
それに当時の意識としては「ローマ皇帝の本家はコンスタンティノポリスに鎮座してる」って感じだったろうから、攻め込もうと計画するのすら憚られたんじゃないかね。
当時のビザンツはシメオン率いるブルガリアに脅かされてたから、
養子とかならイケた気がする
チャンスとしてはニケフォルス1世のクーデターに介入するのが最善のタイミングだろうけど、丁度そのころザクセン征服戦争だし、ミカエル1世の失脚の際には既にシャルルマーニュは死の直前。
成功の可能性としては廃位されたイレーネを復位させてそこにルートヴィヒ1世を押し込むくらいか。
それでもそれこそドーヴァー海峡、ピレネー山脈からゲルマニア、バルカン、小アジアまでを一人の君主(ルートヴィヒ)が統治するってのを各地の有力者が容認したか疑問だね。
イベリアと西アジアの双方でサラセン帝国と戦うには不利だろうしね。
成功しても結局史実みたいに息子たちに領土を分割相続させて帝国分裂になっただろうしな。
>>103 三本の矢の根底にある惣領制の概念がフランク人には無かったんだから
しょうがないんじゃないの。
とはいえシャルルマーニュは帝国の分裂を予防する為に、自らの家産の
継承権保持者を増やさない努力はしてたわけだけど。
まぁ分裂するのが必ずしも悪いとは思えないけど
巨大な帝国ってのもそれなりに弱点があるわけで
一長一短だよ
海を越えたり大陸をまたがる領土は保持できっこないと
分かってたんじゃないかな。
119 :
世界@名無史さん:2009/04/05(日) 00:24:27 O
ローマ教会の聖職者に権力を代行させてんのに、東方が受け入れる訳ないよな。
宗教の組織力をそのまま支配原理にしてたから、結局それがそのまま支配域の限界な訳で。
>>119 ごもっともですな
ビザンツを征服するにはビザンツも改宗するしかない
どう考えても無理だがな
ラテン語ではなんて発音するんだろう?
カロルス・マグヌス
123 :
世界@名無史さん:2009/05/30(土) 12:06:17 0
age
>>103 毛利元就の三本の矢の教えは、実際にはあり得なかったけど、残された手紙などからすると、
「漏れは卑怯裏切りなどひどいことをイパーイやってみんなから嫌われている。喪前らは漏れの子供
だからよけい嫌われるなのよ。だからせめて兄弟だけでも仲良く裏切るなよな?」
ってことだからねぇ。
だいたい相続で揉めたってのは、孫の代になってだし。
125 :
世界@名無史さん:2009/08/08(土) 20:10:22 O
講談社メチエから出てた本は読んだ人います?
五十嵐修著、日本人が書いたのってこれだけなのかな
なんでカロリング朝のフランクってこんなに強かったの
異常な強兵じゃないか
何をまた。
128 :
世界@名無史さん:2009/09/07(月) 22:35:35 0
じゃ、33年間もの間抵抗し続けたサクソンも強兵だったわけだな
勿論。
或る意味カール大帝の生涯はザクセンやバイエルンやテューリンゲンの諸部族との抗争に費やされたと言っても過言ではない。
130 :
世界@名無史さん:2009/09/12(土) 20:54:29 0
サクソンはゲリラで対抗したんじゃないの?
131 :
世界@名無史さん:2009/12/01(火) 23:39:54 0
age
132 :
世界@名無史さん:2009/12/01(火) 23:58:25 O
フィリップ尊厳王はカペー朝のシャルルマーニュって呼ばれたんだっけ?
133 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2009/12/08(火) 22:32:33 0
>>125 『地上の夢 キリスト教帝国』か。
カール大帝の伝記で日本語の一般向け書籍はこれぐらいだけど、良かったよ。
地域ごとの個性の違いを押さえた記述というのも斬新で興味深かった。
>>133 実はもう読みました
非常に面白かったです
中世ヨーロッパという一つの概念の創造者という意味でのシャルルマーニュ、という視点に学ばされました
レスありがとうございます
136 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2009/12/11(金) 23:08:45 0
カール大帝の名前は母語(フランク語)では何と呼んでたんだろう?
やっぱラテン語と同じ「カロルス」?
137 :
世界@名無史さん:2009/12/11(金) 23:25:07 O
確かに自分たちでは何てよんでたのかな
民話とか伝説でシャルルマーニュってすごいものがあるよね。
139 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2009/12/13(日) 22:05:15 0
>>136-137 当時は書き言葉はすべてラテン語だから、ゲルマン語はなかなか記録されなかったんだよね。
そのせいでゲルマン語の名前をラテン語で無理やりっぽく表記しちゃったみたいね。
「クローヴィス=ルートビッヒ」だって聞いた時あ然としたよw
ラテン語?ガロ・ロマン語?そんなもんいらん!
ゴール語とフランク語を復興させろ!
ヴェルギンゲトリスクもカール・マルテルやシャルルマーニュも喜ぶ。
ヴェルギンゲトリスク←誰ですかw
ヴェルキンゲトリクス(ウェルキンゲトリクス)の間違い。
143 :
世界@名無史さん:2009/12/20(日) 03:25:40 0
カール大帝って過大評価されすぎ。
ローマ教皇に皇帝即位の許可を貰うとか
こいつのせいでドイツ人がどれだけ迷惑こうむったことやら。
だいたい征服した領土もそれほど広いわけでもないし、
死んで30年ぐらいたったらもう国家分裂。
こいつが教科書で大きく取り上げられるなら
バシレイオス2世とか取り上げろよ
だいたい、字書けなかったとか
国王で字書けないって幼君除けばこいつぐらいじゃないの
>>143 征服した領土は継承時の2倍近く。凄いだろ。
領域は現代のフランス・ドイツの大部分にイタリアの半分以上。
これで広くないとかいったらルイ14世が泣いちゃう。
字が読み書きできないのは中国史なら石碌とかいる。
>>143 エルベ河にいたる地を諦めずに平定した事は、
カエサルのガリア征服に次ぐ偉業だとされる。
オクタビアヌスらが断念した事に成功した。
146 :
世界@名無史さん:2009/12/21(月) 13:44:06 O
>>144 ルイ14世とか
馬鹿みたいに戦争狂いのわりには微妙な結果しか残せず、
寵姫にかまけて国税を湯水の如く垂れ流して宮殿おったてて、
しかもチビで歯がなくてフランス革命の遠因作った最悪の暴君だろ
さすがに比べられたらカール大帝がかわいそうだ
カールが征服しなければドイツ人という民族意識も生まれなかったんじゃないの
どうかな
支配者層が変わっても、地域や民族の別は早々変わるもんじゃない。
東西フランクと北イタリアが今の仏独伊の元とかよく言うけど、
ローマ以前からガリア、ゲルマニア、イタリアって区別はあったし、
同じフランクの遺産である中部フランクは地理とかガン無視して失敗した。
俺はカール大帝が現れようが現れまいが
ドイツとかドイツ人意識とかは結局生まれていたと思うよ。
そりゃ、ビスマルクが現れればな
150 :
世界@名無史さん:2009/12/22(火) 12:03:07 O
イタリアは地理的に分けられそうだが、
ドイツフランスの国境はローマ文明に属したかそうでないかは大事だとは思うが
>>146 ノンノン
ルイ14世は全ヨーロッパに近い敵と戦いながらも
最後までフランス本土には敵を寄せ付けなかった点で大したもの
もともとルイ14世が即位した時点ではフランス陸軍は少なく
王の権力もかなり制限されたものだったし、秩序も乱れていた
しかしルイ14世はここから権力を拡大し秩序を整え文化を確立し
陸軍を強大化させ、それはヨーロッパの模範となった
海外植民地も維持していたしスペインにも結局自分の血脈を王統に据える事に成功
また彼の時代に確立されたフランスの文化はヨーロッパ中の国々に影響を与えてきたし
良くも悪くもルイ14世はこの時代の中心だった
ヴォルテールはルイ14世が君臨した時代を「ルイ14世の世紀」と呼び
史上存在した頂点の時代の中でもっとも完全なるものと位置付けた
チビとは知らないが、歯の逸話はどうにも疑わしい
ルイ14世がやたらと大食漢で多くの肉とか果物をあっというまに平らげるのを
人が目撃した記録とかもある
歯がないとできない事だろう
>>147 >>150 ザクセン戦争なくして、ゲルマニアの文明化、都市化はありえなかったとされる。
ローマ帝国と長期に渡りに接触していたのにもかかわらず、ゲルマン人の多くは、
後のドイツ騎士団に対抗して国家建設をしたリトワニア人らよりも遥かに頑迷で
あったようだ。
>>143 カールの時代は暗黒時代といわれる中世のさらに初期だからな
文盲は多かったぞ
読み書きができるのは聖職者関連をはじめとする一部の人間に限られていて
後世の歴史学者とかも聖職者の偏見入りまくった書物まで資料にせざるを得ないことを
嘆いたりしてる
古代中国の五帝も時代からいってまず文盲だったろうし
堯舜も夏王朝の王族もおそらく文盲だったろう
でもそれは時代背景とあわせて考えればおかしなことではない
カール大帝も同様
もともとカール大帝の時代はその識字層である聖職者達とかでさえ
「読むより聞け」「書くより覚えろ」の時代だからなあ
印刷技術なんか発達してないから本の大量生産ができず
書物は基本的にみんな手書きか写本で当然ながら数は少ない
そのわずかな本も大げさにいえば、明日にでも他国や賊に襲われたり
災害に見舞われたりして身一つで逃げださなきゃならない時代だから
書き物に頼るよりもその内容を記憶したり、歌にしたりして
自身が把握しておかないととても活動にならない
だからこの時代には記憶力を高めることが奨励されて
歴史をはじめとするたくさんの物語を語って聞かせる語り部や吟遊詩人、
聖書の内容をそらんじる聖職者といった連中が闊歩してた
カール大帝もこの時代背景を考えるなら
食事時に語り部や吟遊詩人に物語を朗読させる事を好み
語学においても複数の外国語を話せたというから
当時としてはなかなかの教養人だったといえるんじゃないか
>>154 >もともとカール大帝の時代はその識字層である聖職者達とかでさえ
>「読むより聞け」「書くより覚えろ」の時代だからなあ
ケルトのドルイド僧が教義を記録に残さずに丸暗記させたってのを
ちょっと連想させるな。
ガリア戦記によると、本場のブリテン島に行って丸暗記だそうだ。
覚える内容はキリスト教に変わっても、ともかく「教義を丸暗記出来る人間がいた」
のは事実な訳で、そういう伝統も少しは影響したと思う。
西欧の聖職者らは、既存のドルイド僧らが転じたものだ、と言う説があるよね。
157 :
世界@名無史さん:2010/01/06(水) 21:57:35 0
158 :
世界@名無史さん:2010/01/07(木) 23:05:40 0
そもそも歴史上の人物であるカール大帝と
伝説上の人物であるシャルルマ−ニュを同一人物とするのはどうだろうか?
カール大帝はドイツ語ではカール・デア・グロッセ
これをフランス語に直すとシャルル・ル・グランだ
一方フランス語でシャルルマーニュはドイツ語ではカール・マルテルだ!
つまりシャルルマーニュは直訳すればカール・マルテルのことになってします。
フランク王国の正統な後継国家を主張するためにフランスが宣伝した伝説上
の人物それがシャルルマーニュだ!
カール大帝のAA発見
/ ̄ ̄丶
⊂ニ___ニ⊃
(| ・ ・ |)
■■■■■
■ ――― ■
■■■■■
/ (_/L_) 丶
(ニ|____|ニ)
( 人 )
(二二)(二二)
162 :
世界@名無史さん:2010/01/24(日) 23:28:22 0
カール大帝と言えば移動宮廷が有名だが
もしカールが死んだ後も帝国が分裂しなかったら
次の王もずっとこんな事を繰り返していくつもりだったんだろうか
次世代の王たちがこんな事をしてないのに
なんでカール大帝はこんな事を生涯続けていたんだろうか
図書館でシャルルマーニュ伝説の資料をリクエストしまくっていたら、“萌えシャルルマーニュ本”が会った。
さすがKア市、サンレッドの町は伊達じゃない
164 :
世界@名無史さん:2010/01/25(月) 11:19:18 0
サンレッドの町は溝の口じゃないか?
主題歌も溝の口太陽族だしな
バトルするなら〜神奈川♪マジで熱いぜ〜川崎♪ちょうどいいのが溝の口〜♪
なんで首都をほったらかしにして移動し続けたんだろう
そうしないと結束が不安だったのか
国情を掌握する行政組織(官僚団)だの、情報通信技術だのはない時代だろうからな。
>>162 次世代の王達は分割された領土の中で、やはり宮廷を引き連れて
王領地の巡回をしていました。
この巡回する宮廷という習慣はその後も長く続きます。
理由は単純な話で、各地から税を徴収して、それを首都へ輸送する組織が
無かったので、王は彼に付き従う直臣達を食べさせる為に
食べ物の豊富な地域へ絶えず移動するしか無かったからです。
ちなみに王から領土を任された諸侯や、諸侯達の臣下でも
同じ事を行っています。
都市や修道院の記録を読むと、主への義務として定められた日数以上の
奉仕(食料など必要物資の供給)を拒み、退去を願う要請が
しばしば行われています。
イギリス王もフランスの領土の安定のため巡回しまくってたそうな
ただイギリスの支配権は安定してたから
ほとんど大陸にいたらしい
170 :
世界@名無史さん:
マキャベリが占領地に君主が乗り込む利点を力説してたね。
食料や物資の輸送も重い負担になるだろうし、直接居座って飯食って
地域に対する支配権を誇示するのは有効なんじゃないかな