高麗・李朝スレ その4

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250世界@名無史さん
李氏朝鮮 ── 1392年の成立から1910年の日韓併合まで、実に27代500年余の間、朝鮮半島に君臨したコリア史上最後の王朝です。

李朝の創業者である李成桂 ── 太祖は、高麗王朝に仕える有力な武将として、自身の出身地である半島東北部の咸鏡道の守備軍を統率する「咸鏡道万戸兼東北面兵馬使」と言う官職にありました。

李成桂は半島東北部・咸鏡道の出身であるのですが、問題はこの地域が、南から移住した高麗人(朝鮮人)と、北から移住した女真人(満州人)の混雑地域だったと言う事です。
つまり、高麗人と女真人の混血がいたとしても何ら不思議では無い地域、それが半島東北部であった訳です。それでは、李成桂の家系はどうであったのか?と言う事になります。

李成桂の父は名を「子春」と言い、子の成桂と同じ「咸鏡道万戸兼東北面兵馬使」の官職を高麗王朝から授かっていました。
然し、問題は「子春」のもう一つの名前です。彼には「吾魯思不花」(ウルス-ブハ Ulus Buqa)と言う蒙古(モンゴル)名があったのです。

そればかりか、李成桂の伯父達、詰まり、李子春の兄弟も、完者不花(オルジェイ-ブハ Ol?ei Buqa)、那海(ノカイ Noqai)、
塔思不花(タシ-ブハ Tasi Buqa)と言った蒙古名を皆持っており、これらのの事実から、李成桂の家系が純粋な高麗人では無かった事は明白です。

高麗人と女真人が混雑していた出身地・咸鏡道の地域性と、父親兄弟が皆、蒙古名を持っていた事実から、李成桂の家系が、高麗人に女真の血が混じった混血だった可能性が高い訳です。
そして李成桂の家系が、むしろ、女真人に高麗の血が混じった混血、あるいは、女真人そのものだったのでは無いかと推察できます。