833 :
世界@名無史さん:2008/02/25(月) 18:20:10 O
なんだよ、これじゃあ秀吉がもっと長生きしても補給が完全でも無理だったのか。
明は強かったんだな。
834 :
世界@名無史さん:2008/02/25(月) 18:22:19 0
明は当時世界最強国だよwwwwww
なんで極東の弱小国が勝てるだよ
少しは洞察力を磨こうよwwwww
835 :
世界@名無史さん:2008/02/25(月) 18:25:42 0
ちなみに無識たちに訓示してやる
日本が中華と肩を並べたのは中華が欧州に徹底的に戦って消耗した後のたったの数年間の話だ
しかも太平洋戦争で壊滅した後は再び中華が世界のリーダーに返り咲き
日本は中華から米国の冊封国となる
貧乏リーダーだな
>>823 豊臣政権滅亡の原因は、秀頼が赤ん坊のうちに秀吉が死んじゃったこと事だろ。
>>810 朝鮮征伐失敗の原因は、
ただでさえ貧しい地域に日明の何十万もの余計な人数が殴りこんだから補給が持たなかったって
話がすでに出てるじゃないの。
参謀本部はソースにならねえ。
841 :
世界@名無史さん:2008/02/25(月) 23:39:07 0
陸軍参謀本部といえば当時の超エリートが膨大な資料をかき集めて作った計算やデータだろうに
お前等戦国オタの妄想とどちらを信じるかなんて聞かれるまでもなかろう
> 作った計算やデータ
本当に「作っちゃってる」ところがダメダメなんだけどなw
843 :
世界@名無史さん:2008/02/26(火) 02:04:40 0
本当に作っているのは明史だけどな
あれは創作
検地帳調べればすぐ数字は出るんだがな
>>822みたく
九州の荒廃ぶりみりゃ
13万の犠牲はあながちウソでもないっぽいな
845 :
世界@名無史さん:2008/02/26(火) 05:05:13 0
試しに 李如松 四万三千
で検索したら結構ヒットした
でたらめな数字じゃないんだな。
そうなると明軍犠牲三万っていうのも信憑性高いね。ありがとう。
>>846 つ日本側犠牲者
第1次朝鮮役の末期に朝鮮南部に終結した日本軍を軍目付けが調べた数字によると、
朝鮮に侵入した1〜7軍の総数13万7300人あまりの軍兵は、
実数で7万3214人にまで激減していた。
死者総数は6万4086人。
生き残った者の割合は53%。実に47%、
約半数の軍兵が死んだのである。最も奥地に進んで激戦を演じた第1軍小西軍の被害は甚大で軍兵の実に60%が死んでいる。
第2軍の加藤清正軍は被害が37%、鍋島軍も36%であった。3軍の黒田軍は被害が54%、4軍島津軍は60%。5軍も40%、6軍は44%。
最もしんがりを務めた7軍の毛利軍で43%であった。
完敗と言えよう。こうして明軍が来るまで圧勝していたにも関らず日本軍は侵入から一年後には釜山周辺に押し戻され、明との間で講和交渉に活路を見出すこととなる。
847 :
世界@名無史さん:2008/02/26(火) 05:36:54 0
しかし明軍がきた瞬間に形勢が一気に変わったのは何でだろ?
明軍は日本軍の1/4しかないのにね。
フロイスの記載では
「明軍の大砲で一発で小西隊数百人が吹き飛んだ」とあるけど
火力が違いすぎた感が否めないな。
小西隊は明軍衝突から篭城して一日も持たず半分も殺された。武将もたくさん討取られているし
>>843 なら、それを否定する明軍の兵力や犠牲者数はどの一次史料に拠ってるんだ?
849 :
世界@名無史さん:2008/02/26(火) 07:33:42 O
主戦線の漢城にいた人数だけが動員した人数ではない。
また初期に動員定数を満たしていたのかどうか検討できない阿呆は学問板から去れ。
>>847 平壌の攻撃のときは明軍のほうが3倍くらい数が多かった。
あと慶長の役では明軍が最初からいたにもかかわらず、すぐに漢城手前まで侵攻されてる。
そこからは膠着状態で秀吉の死で撤退してる。
豊臣のが寡兵だろ
北朝鮮だけで朝鮮兵そんなに動員できるわけないし
>>821 兄・義久が本国の薩摩にいたため、義弘には本国の島津軍を動かす決定権が無く、大坂にあった少数の兵士しか動かせなかった。
>>852 それは建前じゃね
馬鹿正直に国が荒廃しているからなんてことはおおっぴらに言えないし。
でも戦後の島津の駆け引きは上手かったよな。余力があるようにみせて領土安堵
>849
妄想
それなら回復したというソースの方見せて
ちなみにナポレオン戦争では、敗走中に脱走or脱落した兵士は殆ど帰ってこなかった
ロシアの農民や残党狩りみたいなやつにほぼ処刑されているかのたれ死んでる。
一度軍から外れればほぼ生存は絶望的だろ。朝鮮の治安は最悪に近いし
>850
>あと慶長の役では明軍が最初からいたにもかかわらず、すぐに漢城手前まで侵攻されてる。
そうだな明軍は常に少なかったな
慶長の始まりは
日本軍三道軍15万vs明軍(わずかな城兵のみ )
序盤は寡兵だった城を落としまくったが
忠清道稷山の戦いにおいて明軍・朝鮮軍の主力と激突して敗北→頓挫
そしてじりじり後退
秀吉が死ぬのはもうちょっと後
大勢は決まっている段階だな
ついでにいうと明軍の慶長で総兵力は7万前後
残念だが日本の半分しかない
>848
参謀本部にきいてくれ。
日本もそうだが、軍役帳や戦後の検地で兵力と犠牲者だしているんだろ
明は戦後日本のように半分空き屋にはならなかったということだな
とはいえ、中国の明史の数字が当てにならない
九州の諸地域を諸大名に分け与えた秀吉は、島津氏に対しても旧領を四人兄弟に分封して、その勢力を削ごうとした。
これが意見の統一を欠くという島津藩の奇妙な行動の始まりとなり、義久は国元に、義弘は大坂に居てその意見は
まとまらず、その後の島津家にとって大きな影響を与えている。
実際朝鮮征伐で義久らの非協力で国元から軍船が来なかった為、賃船で細々
と渡海していったが、「日本一の遅陣」としてその面目は大いに失われた。
>>846 しかし、明軍到来以降日本軍が死にまくってるのは疑問だな
平壌やその周辺で明軍と戦っていた連中や殿の毛利はわかるとしても
他の連中もすごい減少だ。
疫病なら短期間で減るってわけじゃなくて、逓減していくはずなのに
明軍到来以降激減するのは、疫病だったとしたら明軍は細菌兵器でも使ったのだろうか
ほとんど寒さと病気だろう。
日本の将はほとんどいくさで討ち取られてないし。
>>858 つロシア遠征
つインパール
実際の戦闘や追撃よりも
敗走中に死んだ人数が多い。死因は病死、餓死、凍死
主要戦没者(武将・高官・要人)
●戦死大名 日本
1597.9.16 鳴梁の海戦
来島通総(伊予鹿島1.4万石動員700人)
1592.10.24 陽智にて狩猟中に襲撃受け死亡
中川秀政(播磨三木14.0万石動員3000人)
●戦死属将・家臣 日本
1592.06.05 唐項浦の海戦
森 村春(蜂須賀家政家臣、3000石)
1592.06.14 大同江渡河前の戦い
木村智清(宗義智家臣侍大将)、黒田次郎兵衛(黒田家)
1592.06.? 順安城攻撃
志佐純高(松浦鎮信家臣志佐純意の嫡子)
1592.07.07 閑山島の海戦
脇坂左兵衛(脇坂安治家臣)、渡辺七右衛門(脇坂安治家臣)、
真鍋左馬允(脇坂安治家臣)
1592.07.17 平壌城守備
日高喜(松浦鎮信家臣甲斐守)、松浦源次郎(松浦家臣)、
1592.09.29 咸鏡道
西村半右衛門(鍋島家臣)
1592.10.上旬 咸鏡道
江口与左衛門(鍋島家臣)、三浦左右衛門允(鍋島家臣)
1592.12.?
竹内吉兵衛(小西家臣、講和使を明軍が処刑)
1592.? 阿波
光富権助(長曽我部元親家臣戦傷が元で阿波で死亡)
1593.01.08 平壌城の戦い
小西ルイス?(小西行長の弟?)、小西アントニオ(小西行長の従兄弟?)、
日比谷アゴスト(小西家臣日比谷了珪の孫)、
小野木又六(小野木重勝家臣重勝の弟)、太田弾正(五島家臣)、
太田江十郎(五島家臣)、青方新八(五島家臣)
1593.01.26 碧蹄館の会戦
十時連久(伝右衛門、立花宗茂家臣)、池辺永晟(龍右衛門、立花宗茂家臣)、
安東常久(善右衛門、立花宗茂家臣)、 小串成重(忠左衛門、立花宗茂家臣)、
小野成幸(立花宗茂家臣)、 横山景義(小早川秀包家臣)
1593.01.28 吉州城の戦い
山口与三右衛門(加藤清正家臣)
1592-1593○ 咸鏡道撤退までに陣没した鍋島家家臣
諸岡彦右衛門、永田源左衛門、横尾十五左衛門、
中島九郎兵衛(病死)、納富六郎、武藤主嘉允、
馬渡相右衛門、武藤新九郎、乙咸五兵衛、
高木内蔵助、姉川平右衛門(中務大輔)、水町平右衛門(丹後守)、
鹿江太郎左衛門、公文六郎兵衛、緒方牛之介、
1593.02.12 幸州山城攻め
明石与右衛門(宇喜多家臣)、戸崎彦右衛門尉(毛利家家臣)
1593.03.12 京城の西三里の戦い
中屋善四郎(毛利家家臣青原尾中山城主)、
1593.06.22-29 第二次晋州城攻め
△松井興之(細川忠興家臣、重臣松井康之の嫡男)
戦傷が元で1593.06.29死亡
1593.?熊川?
桑名親勝(長曽我部成親家臣1200石)
1597.02.22 蔚山
柳生久三郎(浅野幸長家臣厳勝の長男宗厳の嫡孫500石)
1597.09.16 鳴梁の海戦
得居通年(来島通之,伊予風早3000石,来島通総の兄)
菅正蔭(菅達長の第四子)
1597.12.27 蔚山籠城戦
冷泉元満(毛利輝元家臣)、阿曽沼元秀(毛利輝元家臣)、
都野家頼(毛利輝元家臣)、
原田信種(加藤清正家臣病死説有り)、貴田統治(加藤家臣孫兵衛)
和田頼国(堀内氏善家臣、勘之丞、数十人を率いた水軍の将)
未分類の武将or不明
●戦死−病死 未分類 日本
1592明石右近(宇喜多秀家重臣、明石全登の子?)
1592梶佐古道尋(長曽我部成親家臣柳瀬五郎兵衛の三男)
△1593加藤重正(加藤清正家臣加藤可重[清左衛門、右馬允]の嫡男)
△1594吉見元頼(毛利輝元重臣、吉見広頼の嫡男)
1597土持久綱(高橋元種家臣土持久綱の嫡男)
1597須佐美甚太郎(加藤清正家臣須佐美紀伊守の養子)
1599? 平田宗正(島津義弘家臣重臣平田豊前守宗祇の子)
文禄? 木付直清(大友吉統家臣木付統直の嫡男鎮直の孫)
? 江上家種(鍋島家臣竜造寺隆信の二男蓮池城主)
? 小原信忠(宇喜多家臣)
? 牧源之丞(宇喜多家臣江原親次の義父)
? 深水頼蔵(加藤清正家臣西生浦?)
865 :
意外と少ない明の戦死武将:2008/02/26(火) 12:22:49 0
●明 page top
●明軍戦死
1592.07.17平壌の戦い
載朝弁(参将)、史儒(遊撃)、
張国忠(?)、馬世隆(?)、
1598.01.04第一次蔚山城の戦い
廬継忠(参将)、楊万金(遊撃)、
1598.04.20 茂朱の戦い(咸陽沙斥駅)
李寧(副総兵)
1598.10.01 泗川の戦い
李寧(参将)、廬徳功(遊撃)、
1598.11.18露梁海戦戦死者
?子龍(明水軍副将),陶明宰(中軍)
↑こんだけ
866 :
世界@名無史さん:2008/02/26(火) 12:24:49 0
>>865 もっと下位の者はいないの?
日本の武将レベルの。
>>866 しらん。ネット引っ張っただけ
しかも晒されているこいつらが下位の人物か上位の人物かもわからんしな
水軍副将とかいうやつはそれなりに身分高そうだが。これでも下位も含まれているかもな
明は殆ど犠牲出してないし
日本武将も結構殺されてますね
位の低い奴ばっかだね
870 :
世界@名無史さん:2008/02/26(火) 12:35:53 0
信憑性低いな〜〜
ま、それでも
病死凍死の方が深刻だったとは思うがな
明側の資料が使えなさすぎで比較ができないんだよなぁ。
873 :
世界@名無史さん:2008/02/26(火) 13:06:29 0
日本軍13万死亡は日本の資料だから安心していいよ^^
しつこい中国猿は去ね。こいつがくると異常にスレが伸びる。
日明戦争は世界最大の戦争だったと言っているんだけどな
中国だけほめているわけじゃないし
明を褒めればそれと互角に戦った日本もまた優秀だったという訳で
明を弱小とすれば
日本も大した事無いとなり
この戦いはただの地域紛争と言う評価を与えられてしまうのを懸念するわけ
スポーツマンシップみたいのがあるだけだな
明も寡兵でよくやったのは事実だし
おまー互角なんていってなかったろ。いい加減にしろ
言ってるぞ
日本もしばしば弁護するが、お前がそれを別の書き込みだとおもっているからでは
879 :
世界@名無史さん:2008/02/26(火) 18:11:34 O
馬鹿は軍板に来るな
元軍が日本領で戦ったときより、秀吉軍が同じように海外遠征をしたほうが、はるかに健闘したということでいいじゃないか。
>>856 話にならないな。
何の裏づけも無いじゃないか。
>>872 勝手に使えないと決め付けてるだけじゃないか。
明側の史料を否定する他の一次史料を出してみな。