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彼らによれば、フリーメーソンリーは中世の結社であるテンプル騎士団に、そして彼らを通じて(大洪
水)にまでさかのぼることができる。

 テンプル騎士団の名は、彼らの元来の本部がイェルサレムのソロモン神殿にあったことに由来している
(というか、実際にはその神殿の遺跡だが。というのも、それはヘロデによって再建されて
からわずか四年後の紀元70年、ローマ人によって破壊されたからだ)。

 第一回十字軍の結果、イェルサレムは1099年にキリスト教の騎士たちの手に落ちた。20年後、トロワ
出身の9人の騎士たちがイェルサレム王ボードゥワン2世に接近し、巡礼路の保護に当たってキリスト巡
礼者の安全を確保したいと申し出て、その代わり神殿の丘に本部を構えることを願った。
ボードゥワンは彼らに神殿の「地下室」を含む一画を与えた。彼らはここに厩舎を作った。

 だが実に奇妙なことに、この9人の騎士がその後、巡礼者の保護に当たった形跡はまっ
たくない(それにいずれにせよ、たった九人で効果的なパトロールが可能とも思えない)。
その代わり、それからの7年間、彼らは、「厩舎」の地下を発掘しつづけ、ほとんど外に出
ることがなかった。明らかに彼らは何かを探していたのだった。彼等の掘ったトンネルの
ひとつが、1970年にイスラエルの考古学者たちによって発見されている。

 だが一体何を探していたのだろうか?ローマ人がソロモン神殿を破壊したとき、その財宝も
また奪い去った。神殿の地下にはその財宝の残りが隠されていたのか?

 何を探していたにせよ、騎士たちはそれを発見できなかったらしい。発掘開始から7年
後の1126年、騎士たちの頭目であるユーグ・ド・パイアンはフランスに帰国した。騎士団を作ろう
とする試みは失敗に終わったようだ。
70:2008/05/22(木) 07:24:04 0

 そこに助け船が現れる。シトー会士クレルヴォーのベルナール、後の聖ベルナールである。彼はどういう
わけか大修道院長以上の位に上ることを誇示し続けていたが、フランスの宗教界の有力者であ
ったことは間違えない。また、彼は、9人の騎士の一人アンドレ・ド・モンバールの甥でもあった。
そしてモンバールは、パイアンとともにフランスに戻っていた。

 2年後、トロワの街で教会会議が開かれた。その目的はテンプル騎士団の発足を教会に支援させ
ることだ。そして1128年、「キリストとソロモン神殿の貧困騎士修道会」が正式に発足し、教皇以
外の何者に対しても責任を負わない結社とされた。ベルナールの後援を得たこの騎士団に
は人材と資金が大量に流入し、ついにはヨーロッパで最ものどかな財力を誇る結社にまで成長
したのだ。

 1144年のエデッサ陥落を受けて、クレルヴォーのペルナールは第二次十字軍を開始するが、結局は失
敗に終わる――1187年、サラディン率いるムスリム軍がイェルサレムを奪回したのだ。次の世紀の間
に7回に及ぶ十字軍が繰り出されたが、キリスト教徒の勢力を盛り返すことはできなかった。
1291年のアクレ(アッコン)陥落によって十字軍の敗北は決定し、テンプル騎士団はその存在理由を
失ってしまう。

 とはいうものの、彼らはその力を――あるいは、富を(その一部は免罪特権に世来する
ものだった)――失ったわけではない。新総長ジャック・ド・モレーの下で、彼らはキプロス島でそ
の傷を癒しつつ、次なる目標のために牙を研いでいた。問題は、キプロスが安全ではなかった
ことだ。ムスリム軍はリマソルを襲って人質をとり、身代金を要求していた。騎士団はフランスへの帰
国を考えた――だがそこにも問題があった。フランス王フィリップ端麗王(在位1285−131
4)が、教皇ボニファティウス8世と事を構えていたのだ。教皇を主と戴くテンプル騎士団の帰還は、
王の歓迎するところではなかった。
71:2008/05/22(木) 07:25:32 0

 実際、王はこの騎士団を嫌っていた。彼らは――王である教皇と同様――王にとっては
傲慢な厄介者に他ならなかったからだ。(これはもしかしたら、かつて彼が入団を希望した
にもかかわらず、謝絶されたことを根に持っていたのかもしれない。)だが、勝ったのはフィ
リップだった。教皇に退位を迫られたフィリップは、ボニファティウスを異端と宣言し、最終的にはその
住居に軟禁してしまったのだ。ボニファティウスはそこから救出された直後に憤死した。

 彼の後継者であるボニファティウス9世は、8世がやりのこした闘争を継続するそぶりを見せた。
そこでフィリップは彼を毒殺し、自らの息のかかったボルドーのベルトラン・ド・ゴを教皇の椅子に
据えた。

 フィリップは、ベルトランを教皇にする代わりに、たくさんの条件を押し付けた。そのひとつは、
教皇の座をフランスに移すというものだ。だがもうひとつの条件は保留され、明るみに出
ることはなかった――テンプル騎士団を捕らえ、その財産を没収するという計画に対して、教
皇が反対しなかったのはほぼ確実だ。

 ベルトランは1305年、教皇クレメンス5世となった。そして王は直ちに、歴史上最も驚くべ
き奇襲作戦を敢行した。フランスにいた1万5千人に及ぶテンプル騎士たちを全員逮捕し、異端と
して告発しようというのだ。これはたとえて言えば、現代の君主が、陸海空軍の将校全員
を逮捕しようと企むようなものだ。

 信じがたいことにこの作戦は成功した。急襲の4週間前に封印された命令書が配られ、
1307年10月13日金曜日、テンプル騎士たちは逮捕された。

 騎士たちは同性愛者であり、パフォメットと呼ばれる悪魔を崇拝し、十字架に唾をかけた、と
告発された。身の毛のよだつような拷問――たとえば成熟した火鉢の上に吊るされる等―
―の末に、多くのものが自供した。総長ジャック・ド・モレ―その人も自供したが、1314年3
月18日の判決の日、モレーは先の自供を撤回し、拷問によって強要された偽りの自供だった
と主張した。王は計画を台無しにされたことに激怒し、モレーと、その友人でやはり自供を撤
回したジェフロワ・ド・シャルネを生きたままとろ火にかけて焼き殺せと命じた。
72:2008/05/22(木) 07:27:09 0

 翌日、セーヌ川の小島イル・ド・パレで、この命令が実行に移された。伝説によればモレーは、
一年以内に王と教皇を神の王座の前に引きずり出してやる、と予言したという。そしてそ
れから9ヶ月もしないうちに両名は死んだ――フィリップは狩猟の最中にイノシシの牙に貫かれ、
クレメンスは熱病に倒れたのである。

 テンプル騎士の全員が逮捕されたわけではない。彼等の艦隊はラ・ロシェルの港に係留されてい
たが、急襲の前日に突如として出航し――そのまま姿を消した。艦隊の司令官に中に、セニュ
ール・ド・ゴがいた。彼は教皇ベルトラン・ド・ゴの一族である。まるでベルトランが、迫りく
る奇襲を彼に漏らしたかのようだ。

 艦隊のうちの、少なくとも一隻の行くへは判明している。その艦長である騎士の名はアン
リ・ド・サン=クレール。彼はスコットランドに上陸し、最終的にその子孫がロスロリン礼拝堂を建てるのだ。

 以上のことを踏まえたうえで面白い推理を展開しよう。騎士団の艦隊のほかの艦は、コロン
ブスよりも2世紀近くも前に大西洋を渡り、後にスコットランドに戻った。そう考えない限り、ロス
ロリン礼拝堂の壁に刻まれたトウモロコシとアロエの説明がつかない。

 だが問題はそれだけではない。もしも騎士団の艦隊がアメリカの存在を知っていたのなら、
彼らは何処からその情報を得たのか?その存在を示す子文書か地図を見たに違いないーー
「古代の海王たちの地図」だ。テンプル騎士団はそこで起居し、「厩舎」を発掘していた。

 では、だれがそれをそこに隠していたのか?明らかにユダヤの祭司ではない。彼等の関心
は、神殿の財宝をローマ人の目から隠すことにあった。だが、ユダヤの戦争の年――紀元66年
――には、同様に自分たちの財宝の保管を懸念する人々がいた。エッセネ派だ。