1 :
川田利明ファンクラブ:
なんで韓国建国できたの?
こいつ、アメリカで戦争中に反日活動(といっても朝鮮民族の特別性を訴えただけ)だし
2 :
世界@名無史さん:2007/05/06(日) 18:32:47 0
ウリは世宗大王の子孫ニダ。エラいニダ。
3 :
世界@名無史さん:2007/05/06(日) 18:56:03 0
基地外の中でも特に基地外だったからじゃね?
まあ、まともな人間に李承晩ラインなんて発想は無いね。
5 :
世界@名無史さん:2007/05/06(日) 22:23:19 0
>>4 その発想を現代の韓国では国是としているようだが。
6 :
世界@名無史さん:2007/05/07(月) 01:31:51 0
金髪美人を女房にした。
7 :
世界@名無史さん:2007/05/07(月) 02:10:06 0
アメリカの後押し。
旧日本領のトップに反日家を建てたのは、当たり前。
一応潔い部類じゃない?
戦前は日本にベッタリ、戦後は反日に転じる輩よりは。
何が偉いのというか
偉いという見方をどうやればできるの
>>8 まあ反日であろうと日和見主義でコロコロ態度を変えるやつ
よりかは一貫しているやつの方がましかもしれんが・・・・
でも所詮は反日基地外だからなぁ
11 :
世界@名無史さん:2007/05/07(月) 04:03:45 0
李承晩ラインは評価できるだろ
あれで竹島を血を流さずに領有できたんだから
日本側の視点でなく客観的な視点で捕らえれば自国の領土拡張に成功した政治家は高い評価であるべき
ただ李承晩については、朝鮮戦争で領土を一部北に割譲されたこと
あと後半の進退の見極めが悪かったと思う。
あれじゃあ、大統領の任期延長やらアメリカに見捨てられるまで権力に固執したこと
その他諸々の失政などなど
韓国国民からも叩かれてもしょうがないよね
李承晩ラインだけは評価できるが
今で言うとイ・ヨンス。
ただのキチガイ。
>>11 それはあくまで第三者として客観的な見方に努めた上での評価かな?
確かにこういうことは客観的な見方で判断するべきというのは正しいと思う。
俺だったらそこまで嫌韓感情を排除して冷静に語れるか難しいかもw
もちろんお前さんが嫌韓の立場の人間だったらの話だがw
でも俺も別に李承晩みたいなのは望まんが日本にも一人くらい超強硬な外交ができる
人間がいてほしいとは思うな。
14 :
世界@名無史さん:2007/05/07(月) 05:08:01 0
>>1 なんでもいいがそのコテはなんなんだ
川田ファンがなんでこのスレたてるのかわかんねぇ
15 :
世界@名無史さん:2007/05/07(月) 05:19:27 0
実際は内政も評価できたものじゃない
朝鮮戦争序盤での失態、汚職、独裁、暴力団との癒着
朴政権で一新されるまで腐敗政治が続いた
建国者でここまで国民からも評価が低いっていうのも珍しいな…
16 :
長島名誉監督に文化勲章を・委員会:2007/05/07(月) 08:43:59 0
17 :
世界@名無史さん:2007/05/07(月) 09:10:07 0
>朴政権で一新されるまで腐敗政治が続いた
今も続いてるけど?
18 :
世界@名無史さん:2007/05/07(月) 11:38:43 0
とりあえず李承晩ラインは評価できるな
19 :
世界@名無史さん:2007/05/07(月) 11:58:37 0
と国賊が申しております
一匹釣れますた
21 :
世界@名無史さん:2007/05/07(月) 14:45:10 0
>>17 それでもまあ、一旦は途切れるんだ。所謂「民主化」により、
汚職政治家がゾロゾロと政権を得ていくのは後の話
22 :
世界@名無史さん:2007/05/07(月) 14:49:39 0
独裁政権時代の汚職が日の目みないだけでイスンマンやその取巻きが
汚職と無縁だったかどうかはわからんぞ
23 :
世界@名無史さん:2007/05/07(月) 14:59:51 0
>>22は読解力が無いのかな
可哀想
李承晩ラインは評価して良い
日本から嫌われている政策っていうのは裏を返せば
それだけ効果的だったということだからな
もっとも今の韓国人にとってみれば
李承晩ラインなくとも竹島は独島だろうし
李承晩ラインにどこまで評価を置いているかは不明だが
24 :
世界@名無史さん:2007/05/07(月) 15:05:06 0
>>22 イスンマンが汚職政治家なのは有名な話で
韓国人ですらイスンマンに関しては否定的な見解で一致
最後は国民に酔って引きずり落とされている訳だから
イスンマンが汚職していないなんて誰も思ってない
25 :
世界@名無史さん:2007/05/07(月) 15:14:39 0
良くも悪くも国民に降ろされた建国者って珍しいよな
てか、他に思いつかない
当時の韓国人も、
こいつはアメリカに擁立されただけの馬鹿と判っていたんだろうな
26 :
世界@名無史さん:2007/05/07(月) 15:38:51 0
アメリカは、お互い喧嘩ばっかりやっててさっぱり国作りをやろうとしない韓国人にあきれ果てて
年長者の言うことはまあまあ聞くし王家の一族である李承晩ならなんとか収めるだろうと引っ張り出したのだが、
あにはからんや、最大級の権力亡者で、こちこちの石頭で、状況を見る能力皆無。
結局アメリカから見放され、代わりに日本軍で鍛えられた軍人朴正煕を据えるしかなかった。
米統治時代〜建国当初は、文人政治家・革命家より元日本軍の軍人のほうがはるかにマシだったということ。
27 :
世界@名無史さん:2007/05/07(月) 15:41:55 0
李大統領と朴大統領は最近の韓国人から評判悪いから偉いんだよ
28 :
世界@名無史さん:2007/05/07(月) 15:47:11 0
朴は再評価されている方だと思う
李は全然だめだ。
でもこいつが無能だったからこそ
北や中国やトルコみたいな個人崇拝が韓国に無かったんだろうな
個人崇拝体制を確立せずに引退したのは評価できるか
29 :
世界@名無史さん:2007/05/07(月) 15:51:33 0
李承晩ラインはまあまあ評価できるんじゃないか
韓国の何倍の国力を持つ日本から領土を奪えたんだし
30 :
世界@名無史さん:2007/05/07(月) 16:03:41 0
李承晩ラインは客観的な視点で見ればものすごい策略ではあったけど
当の韓国人はそれをあまり高く評価してないんだよ
31 :
世界@名無史さん:2007/05/07(月) 16:13:03 0
属国歴1000年の朝鮮で
他民族から領土を奪い取れたのは後にも先にも李承晩だけだろww
武装解除されてて、しかも占領下の国から領土を盗んでも
特に優れた策略とは思えないわけだが。
33 :
世界@名無史さん:2007/05/07(月) 16:23:11 0
時期を逃さずやったといったところだな
これは俺も韓国の指導者ならやる
血を流さずに領土拡張できるならそれにこしたことはないし
34 :
世界@名無史さん:2007/05/07(月) 16:26:46 0
李承晩の策略といったって、それは宮廷の党派争いのレベルであって
国家百年の計を考えたものじゃない。
35 :
世界@名無史さん:2007/05/07(月) 16:30:39 0
>>32 武装解除したといってもアメリカ軍が居るからな
アメリカを怒らせたら李承晩政権なんて瞬時に瓦解するし
だからこそ、漁船の保護の面目を持って李承晩ラインを画作
真の目的は領土獲得
アメリカ軍と触発するギリギリの可能性を見極めながら
日本海の一時的な空白をついての外征
これは非常に見極めが上手いとは思った
36 :
世界@名無史さん:2007/05/07(月) 16:33:50 0
>>34 今でさえ日本で「李承晩ラインさえなければ…」
って声がでている程に李承晩ラインが効果を発揮したわけで
国家百年の計とはいわなくても
すでにもう50年近く李承晩ラインが効果を発揮している訳なんだが
>>35 そういわれると、今まで李承晩なんてアメリカに担ぎ出されただけの火病親父だと思ってたが、
その点では策士って思えてきたぞ。
「あれ?盗れるじゃんそこ」って時を見逃さなかったのか。
警察予備隊に松でもなんでいいから駆逐艦の2、3隻でもあれば・・・
戦後朝鮮半島におけるトップで評価できるのは朴だけ。
このハゲは教養も政治力もまるでない。あったのは精々拙速に過ぎる決断力だけ。
国家百年の計といえば、そもそも朝鮮半島が分断国家になったのは
コイツの責任がデカイわけで。
あげくに朝鮮戦争開戦ではソウルから真っ先にケツまくって逃げ出すわ…
40 :
世界@名無史さん:2007/05/08(火) 02:23:39 0
統一朝鮮が南であれ北であれ早期に一つになっていたら
中ソにはさまれたあの国は外洋に進出しようとして
面倒な事になっていただろうか
41 :
世界@名無史さん:2007/05/08(火) 08:36:56 0
むしろ延辺朝鮮族自治区へ・・・
42 :
世界@名無史さん:2007/05/08(火) 12:30:29 0
李承晩ライン、李ライン → わかる時事用語
イスンマン・ライン → なにそれ?
マイライン
44 :
世界@名無史さん:2007/05/08(火) 15:52:02 0
李承晩は朝鮮王or大韓皇帝になるつもりはなかったのかな?
45 :
世界@名無史さん:2007/05/08(火) 18:40:11 0
>>44 李承晩は太祖李成桂直系の子孫を誇りながらも
アメリカ型の共和制を目標とした政治家だからそれはない。
要するに毛並みがよく貴族趣味ながら進歩派を気取る人物。
必ずしも珍しいタイプではない。
日本に住んでいた李王殿下にも戦後来日した際面会したが
「帰りたいなら帰ってきたらどうです」と
とりつくしまもなかったらしい。
46 :
世界@名無史さん:2007/05/08(火) 23:40:01 0
>>45 その割にはどさくさ紛れに対立派の自称革命家たちを粛清したり、ゲリマンダーというよりも子飼いのイエスマンだけの選挙を行って選挙を行って大統領になったりしたようだが。
お相伴ライン
48 :
世界@名無史さん:2007/05/09(水) 01:18:52 0
嫁が白人というだけでも日本人よりは上等なイエローモンキーだ
49 :
世界@名無史さん:2007/05/09(水) 03:47:20 0
あんなアホでも白人の嫁が作れるとは
おまいらの希望の星やも知れんぞ
50 :
世界@名無史さん:2007/05/09(水) 04:34:48 O
昨日2ラン打ったよ〜
51 :
世界@名無史さん:2007/05/09(水) 04:39:21 0
現代韓国でも李承晩の評判は良くないよな。
むしろ金九とかが人気がある。
まあ、コイツはコイツで色々と問題ありなんだけどね。
52 :
世界@名無史さん:2007/05/09(水) 09:58:52 0
お相伴大統領
53 :
世界@名無史さん:2007/05/09(水) 12:29:36 0
>>35 >武装解除したといってもアメリカ軍が居るからな
>アメリカを怒らせたら李承晩政権なんて瞬時に瓦解するし
>だからこそ、漁船の保護の面目を持って李承晩ラインを画作
>真の目的は領土獲得
>アメリカ軍と触発するギリギリの可能性を見極めながら
>日本海の一時的な空白をついての外征
>これは非常に見極めが上手いとは思った
あのな。。。
アホの見本みたいなレスなので全文引用させてもらったが
アメリカの傀儡国の間での領土強奪なんて、常識的には
アメリカがさせたと観る以外ないんだが。
利相伴自体がもともとアメの擁立した傀儡だし。
国際的な犯罪行為なので、アメリカは表向きは批判のステートメントを
出してるが現実にはまったく動いてない。また現時点でも
日本領だという解釈だが、この点で具体的なアクションはない。
54 :
世界@名無史さん:2007/05/09(水) 14:39:29 0
つまり李承晩ラインはアメリカの指示と
ありえねーww
お前の方が脳内妄想なんじゃないかww
55 :
世界@名無史さん:2007/05/09(水) 15:21:01 0
すっげえ痛いブログだな
57 :
世界@名無史さん:2007/05/09(水) 20:16:59 0
>>54 うすのろ。
基本的な状況認識もできない馬鹿なんだったら、最初からレスするな
58 :
世界@名無史さん:2007/05/09(水) 23:44:40 0
薬屋殺しの金九先生もヨロシク
オロナミンCのコマーシャルも担当されています。
59 :
世界@名無史さん:2007/05/10(木) 11:54:56 0
60 :
世界@名無史さん:2007/05/10(木) 18:48:00 0
奇襲受けてソウルから逃亡してなきゃ、
大韓民国が滅亡していたかもね。
左翼にも保守にも嫌われた点で
日本史上、もっとも人気のない大統領かな。
61 :
世界@名無史さん:2007/05/10(木) 20:55:06 0
>「日本史上」 → ?
62 :
世界@名無史さん:2007/05/10(木) 21:21:04 0
日本のサヨクは最近まで親北朝鮮で反韓だった(反米の一環)。
共産党や社民党などは近年まで南朝鮮などと表記・呼称していたほど。
当然のごとく李ショウバンなどは、偉大なる首領様の半島統一を阻むために米帝が立てた傀儡政権の首班、テロリスト扱いだった。
63 :
世界@名無史さん:2007/05/11(金) 00:12:46 0
ああ確かに日本でも嫌われているよね
流れから韓国史上だと思った
だって日本はそもそも大統領制なんてないしね
まあ向こうでも嫌われていそうだからどっちでも意味が取れるが
64 :
世界@名無史さん:2007/05/11(金) 01:34:08 0
ウーリは エライぞ 天才的だぞ おっおっおー
65 :
世界@名無史さん:2007/05/11(金) 03:04:15 0
韓 ktooon : 日本人と少女
去年に日本人の家を訪問した事があるのに,
日本人の肝が小さい性格のため本当にかんしゃくが起こった.
性欲が溜っていたが, その家へ行く時果物を贈り物で持って行ったから何か蝕もうと思った.
子供部屋に妹がいて少し犯したが, そこで日本人の肝が小さい行動が発作..-_-
私に直接怒らなかったがよほど気持ち悪い顔をした.
私も気持ちが悪くなって 1万円一つ投げてくれて出た.
日本人たちは一体どうしてこんなに小胆閑居か?
3110hr : 日 - 訪ねた他人の家の子供部屋の妹を勝手に犯せば、「この変態!」とされるのは当然。 「1万円投げつけて出た」=変態+傲慢
ktooon : 韓 - 3110hr > 礼儀のない方は日本人だ. 私が果物贈り物まで持って行ったがお客さ
んに女もてなすことは基本ではないか? 妹少し味見したことがそ
んなに嫌いなのか? 生える果物もプレゼントして 1万円も与えたから結局
金銭的に私は被害者だ.
kitakimchi : 日 - 本当に不思議に思うが、こんなだから世界中から嫌われてるってのが、判らないんだろうねぇ
ktooon : 韓 - 韓国ではお客さんをよくもてなすのが礼儀だ. 私は我家にお客さんが来て妹を犯しても全然怒らない. むしろもっとハッスルしなさいと言う. 日本人は本当に小心だ.
kuroyagi : 日 - 韓国人は頭がおかしい。
ktooon : 韓 - kuroyagi > 礼節が分からない日本人頭がもっと変だ.
brilliant_b : 韓 - 日本人は分からない. 憎しみもらい手はそちらというものを...
brilliant_b : 韓 - ところがいくらそれでも妹をハムブロ犯すことはひどかったんだろう?
自分の政敵をことごとく抹殺することに関しては天才>李承晩
呂運亨…総督府にも一目置かれていた朝鮮独立運動のリーダー格。右翼青年に暗殺
金九…テロと暗殺の神様。李承晩最大の政敵。現役軍人に暗殺
曹奉岩(チョウボンアム)…1956年大統領選挙で李承晩と戦う。スパイ容疑で逮捕され死刑
金日成も粛正に関しては天才だけどね
安在鴻…韓国独立党の有力者。朝鮮戦争時に北に拉致され死亡
曹晩植(チョマンシク)…朝鮮のガンジー、朝鮮戦争平壌陥落時に北に処刑
朴憲永…日本統治時の朝鮮共産主義運動のリーダー。金日成最大のライバル。朝鮮戦争失敗の責任を負わされて処刑
最近朝鮮分断期の歴史に興味をもったんだけど。
インドや中国に代表されるように
1.第一次大戦で宗主国の政治的経済的圧力が弱まる
2.それにより民族資本が発達する
3.民族資本家と独立運動家が結びつき、宗主国との独立闘争を勝ち取る
ってのが一般的な植民地の独立過程と思うんだけど、
朝鮮の場合は、
1.第一次大戦で被害を被っていないからか、日本の政治的経済的圧力は強大なまま
2.やっと育った民族資本(総督府系の朝鮮殖産銀行からの融資で発展しつつ、独立運動家を多く輩出した東亜日報グループとかが代表)も、光復後は、北ではソ連の指導のもと解体、南ではチニルパ(親日派)の烙印を張られる
3.三・一独立運動以来の流れを汲む朝鮮内の古参独立運動家達は、光復後、外国からやってきた李承晩と金日成にほぼ根絶やしにされる。これ以後、北朝鮮を支配したのは金日成らパルチザン派、韓国で実権を握ったのは若手軍人と、世代の断絶がおこる
というかなり特異な経緯を辿っていると思う。というかこれじゃ自主独立は無理だろ絶対に。
で、こんな状況に朝鮮を追い込んだ李承晩と金日成の責任は重大だと思う
>>67 1.第一次大戦で被害を被っていないからか、日本の政治的経済的圧力は強大なまま
取り敢えず700年前くらいまでさかのぼる必要があるんじゃね?
>>67 そもそも国内独立運動家が日本統治時代から複数の派閥に分かれて、団結できなかったのが致命的だと思う。
共産党の朴憲永、左派の呂運亨、東亜日報系の宋鎮禹、ここだけ見てもバラバラだし。
呂運亨は人民共和国を立てようとするが右派の協力を得られず失敗し、右派は李承晩に
接近するも切捨てられ、朴憲永らは越北したがご存知の通り金日成に粛清された。
木村幹「韓国における『権威主義的』体制の成立」(ミネルヴァ書房、2003)を見ると、
独立運動の混迷状況と、よりによって李承晩が韓国の権力を掌握するに至った過程が
良く分かる。
70 :
67:2007/05/13(日) 05:27:45 0
>>69 そうですね。韓国人の歴史家の多くも、朝鮮分断の主要原因として、日米ソ超大国に統一して対抗できず、最後まで団結できなかった国内政治勢力をあげてますね。
じゃあどうすれば大同団結できたのか?米ソ両国に分割占領されたあとではもう難しいのか?
呂運亨率いる建国準備委員会=朝鮮人民共和国を米軍が正当政権と認めていたら、建準に求心力が生まれたか?
建準を米軍が拒否=朝鮮民族は解放民族ではなく敗戦国民であるから占領統治する、との方針が決定された時点で単一朝鮮の芽は断たれたのか?
正直不謹慎ですが、朝鮮の歴史で一番IFが面白いのはこの時代ですね。
>「韓国における『権威主義的』体制の成立」
ありがとうございます。読んでみます。
71 :
67:2007/05/13(日) 05:41:57 0
朝鮮の光復〜分断の時代は世界史の中でもマイナーです。
呂運亨?建準?朝鮮人民共和国?何だそりゃと言う方も多いと思う(自分も一月前まではそうだった)ので、ここでざっとまとめ
間違いあったら指摘plz
終戦直前の1945年8月、朝鮮総督府は敗戦後のソ連占領と朝鮮人暴動に備え、在朝邦人を保護でき、ソ連にも顔が利き、朝鮮民衆も納得できる朝鮮人組織に行政権を割譲しようと考えた。
そして白羽の矢が立った独立運動家が、民族主義左派の呂運亨と民族主義右派の宋鎮禹。だが宋鎮禹は態度を保留する。
朝鮮総督府政務総監の遠藤柳作は8月15日呂運亨と会見する。呂運亨は直ちに建国準備委員会を設置。総督府から行政権を移譲され、朝鮮全土の治安維持、政治犯解放に乗り出す。
また、民族統一共同体体制を目指した呂運亨は、宋鎮禹ら民族主義右派や、朴憲永ら社会主義者にも集合を呼びかける。
ところが8月22日、総督府は米軍の半島侵攻と、ソ連軍が38度線で侵攻停止するとの情報を得る。
ソ連の全土占領がなくなったと知った総督府は、建準から行政権を奪還しようとする。
72 :
67:2007/05/13(日) 05:43:08 0
これに対し呂運亨は、米軍占領前に朝鮮独立の既成事実を作り連合国の承認を得ようと、全国の行政機関を接収、また職域別に自治会を設置してゆく。
そして9月6日には政府樹立を宣言、国号を「朝鮮人民共和国」とした。
14日に発表された閣僚人事では、朝鮮国内の民族右派、左派、社会主義者のみならず、国外の独立運動家も加わった民族統一共同体体制の国家組織…としていた。
しかしこの閣僚人事は、国外運動家の承認を得て作られたものではなかった。民族統一共同体体制を米軍に誇示したい呂運亨が事後承諾で作り出したものだった。
また建準からはすでに民族主義右派が分離していた。宋鎮禹は民族主義右派を糾合して9月16日韓国民主党を結成。建準に対抗する政権として、当時重慶にいた大韓民国臨時政府を朝鮮の正当政府として帰国させようとする。
混沌とした状況の中、9月7日、米軍マッカーサー元帥は朝鮮南部に軍政をしくことを宣言。さらに10月10日、アーノルド軍政庁長官は建準=朝鮮人民共和国を正式に否認した。
建準が米軍によって否認された今、民族統一共同体体制を作るためには、10月16日に米軍から絶大な信頼を得て帰国した李承晩を中心にするしかない。
かくて呂運亨、宋鎮禹、そして9月11日に朝鮮共産党を再建した朴憲永らは、李承晩を議長とした独立促成中央協議会を結成する(この後もまだまだ波乱があります)
>>70 呂運亨は幅広い層の支持を集めてはいたが、「広く薄い」支持でしかなく、
建準は政治的集団としては脆弱すぎた。それでも日本時代は総督府や内地の要人にもパイプを
持っていたことで臨時政府派とも単なる親日派とも違う独自の立場を確保できていたが
米軍政下でそのアドバンテージは失われてしまう。
逆に東亜日報グループは階級の利害にこだわり過ぎて挫折した。
建準との連携の拒否の動機は建準の左傾化によって資本家の財産が脅かされることへの
懸念だったし、李承晩政権下で進められていた土地改革に対しても、
財産の維持の観点から反対し続け、農民の支持を与党に奪われた。
カーター・G・エッカートの著書「日本帝国の申し子」(日本統治時代の東亜日報グループ傘下の
企業、京城紡績の研究書)によれば、日本統治時代の東亜日報グループは民族的利益よりも
資本家の利益を優先し、同胞であるはずの労働者の権利を軽視する傾向にあったという。
この傾向が韓国建国後まで尾を引いたのではないだろうか。民族的利益を追求することが難しかった
日本統治時代はともかく、韓国建国の時期に階級の利害にこだわり続けたとすれば
政治勢力としては未熟との非難は免れないと思われる。
「解放」当時の朝鮮の国内派勢力は、総じて、抽象的な理念、または自らの出身階級・派閥の利害にこだわり過ぎて、
理念と実践あるいは階級間の対立などを整理するという、政治家に最も必要な能力に欠けていたように思える。
だからといって臨時政府などの海外勢力の無茶苦茶さとは比べるべくもないが。
日本勢が去った後の朝鮮には、むき出しの階級対立だけが残ったってわけか。
近代化のためのノウハウもない(インフラは山ほどあっても使いこなせない)、
新たなる民族共同体を建設するための「核」もない(朝鮮王家にはその気もない)、
一部の有能な若者がステップアップできるような道筋もない
(混乱の中やくざのようにのし上がるしかない)、
頼みの知識人はなんとなく赤化すれば明るい未来が開けると信じる者と、
なんとなく独立すればそれだけで明るい未来だと思ってる者が果てしなく対立w
75 :
67:2007/05/14(月) 05:36:30 0
>>73 呂運亨は1919年に東京で水野錬太郎、古賀廉造や田中義一、吉野作造と会談したり、1943年に葦津珍彦の紹介で朝鮮総督小磯国昭と会談したりしてますね。
臨時政府設立に参加したり1921年結成の高麗共産党に参加したり、
1944年に地下組織朝鮮建国同盟を設立して、延安の朝鮮独立同盟+満州国軍内の朝鮮士官とでクーデターを起こさせようとしたり
(白善ヨプの友人崔楠根や朴正煕も参加していたとの話もあり)
新たな運動→挫折→新たな運動の連続なとこは、何となく国民党結成前の孫文みたいだなと
東亜日報のサイトに、建準の特集記事がありました。
ttp://www.donga.com/fbin/moeum?n=dstory$j_600&a=v&l=11&id=200410030160 韓日ウェブ翻訳をかけたところ、
>人工を政府に承認したら韓半島は光復直後の混乱を最小化して窮極的に分断も避けることができたでしょうに
>そうしなくて民族的不幸をもたらしたというのだった.今日にも南韓学界一刻に似ている論理を展開する人々が残っている.
>果してそうだったろうか?人工樹立の背景と過程をよく見ながらその同じ主張の妥当性を検証して見よう
>人工に対する民族内部の反応及びアメリカとソ連の立場(入場)を総合して見る時人工ははじめから左右と南北を一緒にする中央政府になることができなかった.
>人工を承認しなくて韓半島が分断されてしまったという主張は幻想に過ぎなさが確かだとする.
建準では半島分断を防げなかったとするようです。
76 :
67:2007/05/14(月) 05:37:04 0
>>74 やっぱり金九が嘆き、咸錫憲が怒ったように、朝鮮自身で日本を打倒し、独立を勝ち取ることができなかったというのが大きなハンデだったんでしょう。
建準は、そのハンデをなんとか乗り越えようとした懸命の試みだったのですが、結局連合国は認めてくれなかったと。
では終戦までに朝鮮が自力で日本を打倒する方法があったのかと言えば…本土でクーデターが起って日本政府が倒れるとかそのくらいしかないのでは。
とにかく総督府は頑強すぎる。統治機構は終戦の瞬間まで盤石でしたからね。
77 :
67:2007/05/14(月) 16:05:40 0
分断に至る歴史を、またまとめてみます。
さて、民族統一共同体体制を再建するために結成された独立促成中央協議会は、李承晩と朴憲永のチニルパを巡る衝突で、結局は分裂してしまう。
朝鮮共産党再建前に承認された8月テーゼ、それに基づく朴憲永の活動方針は、
・朝鮮を解放したのは朝鮮民族自身ではなく連合国である。よって米ソとは敵対しない
・朝鮮はまずブルジョア革命を目指す(二段階革命論)
・朝鮮人による民族統一戦線を形成させる
・民族統一戦線形成のために、チニルパは排除する
このチニルパ対反チニルパの対立軸は、自由主義対共産主義の対立軸と並ぶ朝鮮分断の主要因になってゆく
78 :
67:2007/05/14(月) 16:06:58 0
ここで朴憲永はチニルパ≒ブルジョアジーの意で使っているので、
ブルジョア革命を目指す=ブルジョアジーとプロレタリアの連携を目指す、という等式が成り立たなくなってしまう。ブルジョアジー中心の民族主義右派との衝突は必須であった。
(なお、呂運亨をはじめとする民族主義左派も、建準の時からチニルパ排除を掲げていた。
朝鮮政治にとってチニルパ排除は、共産主義にとっての階級闘争くらい重要な地位を占めるようだ)
チニルパ排除を明言せず、以前から要請されていた人民共和国主席の就任要請も拒否した李承晩。
朴憲永や呂運亨が離脱した独立促成中央協議会は急速に求心力を失い、李承晩の私的組織になってしまう。
かくして民族統一共同体体制はまたも破綻する。
79 :
67:2007/05/14(月) 16:08:27 0
さて、ここで半島北部に目を向けると。
ソウルで建準が活動し始めた8月15日、半島北部には既にソ連軍が侵攻していた。
ソ連軍は総督府の統治機構を解体し、朝鮮人による人民委員会を各地に設立、行政を引き継がせた。
ソ連軍は朝鮮民族の独立を助ける解放軍のポーズをとった。
この点、総督府の統治機構をそのまま引き継ぎ占領軍としてふるまった米軍とは異なる。
80 :
67:2007/05/14(月) 16:09:16 0
平安南道知事古川兼秀は、終戦に備え朝鮮人組織に行政権を割譲しようと考えた。
呂運亨に建準を活動させた総督府と同じ考えである。
そして白羽の矢が立ったのが、民族主義左派の曹晩植(チョマンシク、「チョ」は「曹」の縦棒が一本)。
独立運動家の多くがソウルで活躍してた中、半島北部で最も有力な運動家が、平壌で活動していた曹晩植だった。
8月17日、曹晩植は呂運亨と連絡を取った上で建準平安南道支部を誕生させる。
工業の盛んな半島北部は民族資本家が多く、建準支部の幹部も民族主義者やブルジョアジーが多く占めた。
81 :
67:2007/05/16(水) 20:23:37 0
ところが8月25日にソ連軍が平壌に進駐。
27日に道庁を解体、ついで建準平安南道支部も平安南道人民政治委員会に改変、行政権は人民政治委員会に移った。
人民政治委員会はトップである委員長こそ曹晩植のままだが、幹部は社会主義者が多数を占めた。
ソ連は各地の人民委員会から、だんだんと民族主義者を排除していき、社会主義者で固めてゆこうとしていた。
また、総督府時代に警官や軍人だった朝鮮人は、チニルパとして徹底排除されていった。
82 :
67:2007/05/16(水) 20:25:34 0
ソ連軍の指導のもと、総督府の統治機構を解体しチニルパ排除、社会主義者を中心に人民委員会という独自の統治組織を作ってゆく半島北部。
一方、総督府の統治機構をそのまま引き継いでいる米軍政下の半島南部。
このまま時が進み、北部の政治機構が確固とすればするほど、
南北の統治機構は乖離してゆき、半島分断は既成事実化してしまう。
もはや朝鮮分断を阻止するために残された時間はごくわずか。
そんな中にもたらされた米ソ信託統治の報。朝鮮の国論は沸騰、更なる混乱を引き起こしてゆく。
ただ現在では、この信託統治こそが、朝鮮分断を防ぐ最後のチャンスだったかもという意見もある。
83 :
世界@名無史さん:2007/05/16(水) 20:49:27 0
ブログ開設したらどう?
84 :
世界@名無史さん:2007/05/16(水) 20:57:20 0
>>82 オーストリア方式がとられていたらよかったのかもしれませんね…。
周囲に与える影響は日本の復興が少し遅れたくらいですし。
86 :
世界@名無史さん:2007/05/17(木) 00:00:25 0
パクチョンヒが強烈すぎてかすんでる
88 :
67:2007/05/22(火) 14:10:02 0
東北抗日連軍の一員であり、1941年以降はソ連領に脱出していた金日成が、1945年9月19日朝鮮に帰国した。
また、米ソ信託統治案が発表された後の1945年11月23日、大韓民国臨時政府主席の金九が帰国した。
これで朝鮮光復期の最重要キーマン呂運亨、宋鎮禹、朴憲永、李承晩、曹晩植、金日成、金九がそろったこととなる。
まあ最重要キーマンと書きましたが、単にまだ自分がこの7人しか覚えてないだけですorz
ちなみにこの7人のうち、李承晩と金日成以外はすべて暗殺or処刑という最期を遂げます。
89 :
67:2007/05/22(火) 14:10:42 0
…ということで、この7人を中心に、光復期の政治勢力をまとめてみます。
大まかに分けると、
●国内派
1.民族主義右派
2.民族主義左派
3.社会主義者
●海外派
1.大韓民国臨時政府
2.満州派(いわゆる金日成派)
海外派はその他延安派、ソ連派等いますが今回は割愛
90 :
67:2007/05/22(火) 14:11:40 0
さて、光復後の政争は、民族自立を目指す(「ぬすっとのようにやってきた」独立を、真に実の入った確固たるものにするための)戦いであると同時に、その後の朝鮮の主導権を巡る戦いでもあった。
朝鮮の主導権を誰が握るのか?そのための条件が二つあった。
1.民衆が支持するための正当性
2.指導者を支えるための人脈、財力等の支持基盤
1.朝鮮の主導権を握るのを、民衆が支持するための正当性。その条件は「抗日独立闘争の経歴」であった。逆に言えば、この経歴を持たないものは民衆の支持は得られない。
2.に関して突出していたのは、総督府官僚や経済人等の実務能力者と資本力を有している民族主義右派と、
朝鮮共産党という朝鮮最大の人的組織をもつ社会主義者であった。
一方、臨時政府や金日成等海外派にはこの支持基盤が欠落していた。
この2条件を軸に、各派を見て行きます。果たして朝鮮の主導権をにぎるのはどこか?
91 :
67:2007/05/22(火) 14:15:53 0
>>67氏乙
>満州派(いわゆる金日成派)
なるものはでっち上げでしょ。
この時点で間島の抗日パルチザンはほぼ壊滅していて、残った少数の者も
延安派かソ連派に吸収されちゃってたはず。
まして抗日パルチザン伝説の英雄金日成(金一星etc.とも)はとっくに死亡。
ソ連軍の戦車に乗ってきたのはソ連がでっち上げたニセモノというのが今はほぼ定説では?
主要な勢力を分類
社会主義← →資本主義
国内: 朴憲永 呂運亨 ゙晩植 宋鎮禹
国外:東北抗日聯軍+ソ連派 金九 李承晩
* 北朝鮮にはこの他延安派が存在。延安派には臨時政府と提携していた人物も含まれており、
左右の計測が若干微妙。
>>92 金日成自身がどうかはともかく、東北抗日聯軍自体はほぼ壊滅したとはいっても
司令官の周保中をはじめ朝鮮人でも崔庸健、金策、金一、崔賢などかなりの人員がソ連に亡命し、生き残ってる。
もちろん初めはソ連派と協調していたが、朝鮮戦争、スターリン批判を経て対立関係に転じる。
95 :
67:2007/05/24(木) 01:26:09 0
>>83 未だ勉強中のジャンルなので、ブログを開くのはちょっと恥ずかしい。
すみませんがしばらくは匿名の2ちゃんで書き込ませてください。
>>85 そういえばオーストリアも戦後四ケ国の信託統治をうけてたんですよね?分断回避できたのはなんででしょう?
永世中立国になったことが関係してるのでしょうか?
96 :
67:2007/05/24(木) 01:29:58 0
>>92 >満州派(いわゆる金日成派)
この単語は、「東北抗日連軍の一員で、日本軍の討伐を逃れてソ連に越境、
ソ連軍に編入されて、日本敗戦後帰国した金日成(金成柱)の一派」
の意味で使いました。
書籍やサイトによってはこの一派のことを「ソ連派」と呼ぶこともあり、ややこしいです。
また、いわゆる「金日成偽物説」も大きく2説あり、
北朝鮮主席の金日成は
1.抗日パルチザン伝説の英雄キム・イルソンではなく、東北抗日連軍の金成柱である
2.抗日パルチザン伝説の英雄キム・イルソンではなく、東北抗日連軍の金成柱でもない。
この2説、同じ「偽物説」と呼ばれるので、たまに混乱して使われていることもあり、これも非常にややこしいです。
でも、金日成の正体がだれであろうとも、この時期の朝鮮主導権の争いにはあまり関係なかったりします。
この主導権争いで大切なのは、抗日独立闘争の「経歴」であり、実績ではないからです。
このスレの主人公李承晩を見てゆけばよく分かりますw
>>93 「韓国における『権威主義的』体制の成立」 買いました。
>>87のサイトも見ましたが、この教授の研究は、ホントこのスレの主題にドンピシャですね。
李承晩と金日成しか知らなかった私にとっては、
朝鮮にも中国やインドみたいな「一般的な独立運動」の流れがあったんだ、というのが非常に刺激的でおもしろい。
97 :
67:2007/05/24(木) 01:38:05 0
>>96 「金日成偽物説」に追加しますと、
1.が、現在一般的に認められている説だそうで、
2.は、一時期韓国保守系の歴史家が唱えていた説だそうです。
98 :
67:2007/05/24(木) 15:37:00 0
99 :
67:2007/05/24(木) 15:43:25 0
うう…会社でテキストをコピペしてたらファイル消してしまったorz
家に帰ってうpしなおします
100 :
67:2007/05/25(金) 03:42:37 0
>>98の続き
朝鮮主導権の条件としては、
○呂運亨…
・新韓青年党、大韓民国臨時政府、高麗共産党等の結成に参加
・モスクワの極東諸民族大会に参加
・朝鮮で初めて「共産党宣言」を翻訳
・投獄1回、検挙1回(2回か?)
・日本の政治家、軍人、総督府と会談、朝鮮独立を主張
・1944年、地下組織朝鮮建国同盟を結成。
>>75でも書きましたが、延安の朝鮮独立同盟+満州国軍内の朝鮮士官とでクーデター計画を立てる。
・サッカー、バスケット等スポーツ振興に尽力。青年からの人気高し
○曹晩植…
・啓蒙教育、経済力強化を通じての民族実力養成運動を展開。民立大学期成運動や、国産品愛用運動等
・民族主義陣営と社会主義陣営の統一を目指した新幹会結成に参加
・クリスチャンの立場から神社参拝を拒否
・投獄1回
・労働争議の仲裁を行う(人望あり)
等、1に関しては申し分ない。
2に関しても、国内で広範な支持を得ている。
しかし、資本力や実務経験では右派に、確固たる基盤組織では社会主義者に引けを取る。
他の重要メンバーは、臨時政府出身であるが、呂運亨とともに左右合作運動を進めてゆく金奎植(キム・ギュシク)等。
101 :
67:2007/05/25(金) 04:05:14 0
102 :
67:2007/05/25(金) 04:06:54 0
朝鮮主導権の条件では、上記のように2は満たしており、1の経歴に関しても、
・モスクワの極東諸民族大会に参加
・第一次朝鮮共産党設立に参加
・モスクワ〜上海で共産党再建に努める
・朝鮮内地下組織ソウル・コムグループを結成、1939年以降終戦まで朝鮮で地下活動を継続
・投獄3回。獄中闘争を続ける
特に、終戦まで国外に亡命せず、朝鮮内で潜伏し地下組織を運営し続けたことが朴憲永にカリスマ的信望を与えた。
光復後は、その完璧な抗日経歴に裏打ちされ、徹底したチニルパ排除を掲げてゆく。
だが、このチニルパ問題に対する非妥協性。
そして「連合軍は朝鮮の解放者である」とのテーゼに見られる米ソに対するわきの甘さ。
この二つが、やがて朴憲永を窮地に追い込んで行くことになる。
103 :
世界@名無史さん:2007/05/25(金) 10:58:14 0
天麩羅
王党派はいなかったんですか?
>>95 永世中立国化もそうでしょうが、
米ソだけだったオーストリアとは違い中国のファクターが大きかったのでは。
>>104 朝鮮王家は日本の皇族扱いだったからほとんどいなかったのでは。
ミンビ一派でロシアや欧米に逃げた奴はいなかったのだろうか?
このあたり、朝鮮人の国際性欠如には唖然とさせられる。
チベットにも共通する清朝属国のひとつの特質なのか。
イギリスには今でもジャコバイトがいるそうだがw、
それだけ日本と一和会の仕事が完璧だったってことでしょ
日本の凄かった所は王室を根絶やしにせず、
皇室と縁続きにさせた上で飼い殺し状態にし、
朝鮮人の王家への尊敬が失望に変わるのを待った事だな
500年続いたとはいえ易姓革命で成った王室だから見放されると脆い
そんな王族と民衆の分離みたいなことまで日本が計算してやってるとも思えんぞ。
そんなことまで計算できるくらいなら先の大戦で負(ry
109 :
67:2007/05/27(日) 14:34:42 0
>>104 旧李朝の支配勢力や、李朝復興を目指す復辟勢力は、三・一独立運動時に主導権を失いました。
三・一独立運動が朝鮮民族運動の転機と言われる理由の一つに、民族運動の主導権が、旧李朝勢力から、
新興ブルジョアジーや留学経験を有する近代知識人に移ったことがあるようです。
李王家が日本の皇族に取り込まれていくことによる失望もあったと同時に---未だ勉強不足のため推測なのですが---
実力で経済力をつけ両班等の伝統勢力と対峙したブルジョアジーや、
儒教等の伝統思想に対する啓蒙運動を起こす近代知識人層にとって、
李朝は守るべき存在ではなかったのかも知れません。
110 :
67:2007/05/27(日) 14:36:35 0
で、そこらへんのことを解説してる本がないかと図書館に行って
姜萬吉「韓国民族運動史論」を見てきました。
それによると、君主制や王家への支持が失われた理由として、
1.乙巳保護条約(第二次日韓協約)が、国内の猛反発にも関わらず高宗によって調印、発効された。
主権が君主にあるため、日本に君主を押さえられるだけで国民の意思とは異なる条約が発効されてしまうという
君主主権体制の弱点が露呈された。
2.条約の締結は、皇室が自らの安全を図って、国民を裏切ったととられた。
(注として、「日本が大韓帝国を侵略する過程で結んだ重要な条約には、必ず韓国皇室の安全を確約する条文が入っている」と、
「日韓議定書」「第二次日韓協約」「日韓併合条約」の該当条文が引用されています)
111 :
67:2007/05/27(日) 14:38:23 0
そのため、三・一運動時は、
「三・一運動に参加した一般民衆の場合は…高宗の死に刺激されて参加したことも事実ではあるが、意識ある一部の人は、
「民衆の幸福は、君主政府を廃し共和政治の下に朝鮮を独立させ、東洋の平和を確立するにある」と考えており、
また、「李太王(高宗)が旧韓国時代に執政の当時は、一般民は何等の恩典に浴したるものは一人としてなく、かえって言うべからざる悪政に誅求されたるをもって、
李太王の薨去に対しては弔意を表するの必要なし」と述べてもいた」
(なお、上記に関しては、
・著者の姜萬吉はいわゆる韓国内の「進歩派」歴史学者ととられており、親日反民族行為真相糾明委員会委員長でもある
・現在韓国内では、「第二次日韓協約は日本の脅迫により締結されたので、当初から無効である」と主張する人たちもいる
と、政治的な事柄も絡んでくるので、それを踏まえた上で読んでいただければ)
112 :
67:2007/05/27(日) 14:39:20 0
ちなみに光復時の運動家の留学経験者を見ると、特に民族主義右派に多く、
宋鎮禹…明治大学
金性洙…早稲田大学
李承晩…プリンストン大学
金奎植…ヴァージニア州ロノック大学
曹晩植…明治大学
その他、留学経験のない金九と、中学校退学になった金日成以外は、
呂運亨…南京金陵大学
朴憲永…上海商科大学
となっています
>>108 司馬史観じゃないけど最初に絵図面を書いた連中と
それを引き継いだ連中では出来の違いがあったんじゃないだろうか。
大正デモクラシーのせいで場当たり的な国策音痴になったのかもしれんがw
リュ・スヨン主演のドラマ「ソウル1945」が、
ちょうどこの時代を舞台にしてるみたいなんだけど
見た人いる?
松本清張の小説『北の詩人』もこの時代だな。
よく調べてあるのでこの時代に興味ある人には面白いと思う。
主人公が信託統治反対デモに参加すると、
「信託統治絶対反対」のスローガンを叫ぶ中に、
「信託統治絶対支持」の声がかすかに聞こえるというシーンがある。
梁石日のサスペンス小説『Z』も忘れてはいけない。
67ですが、続けます
●海外派
海外で独立運動を行っていた勢力。
日本とのつながりが薄いため、チニルパとして糾弾されることはない。
純粋な抗日独立闘士というイメージをもたれている。
反面朝鮮国内とのつながりも薄いため、国内に支持基盤はほとんど無い。
1920年代以来内部抗争に明け暮れ、結局効果的な独立運動の実績を残せなかった臨時政府。
だが「抗日独立闘争の経歴」は華やかだった。
朝鮮独立運動家たちが一堂に会し結成された3・1独立運動の精華、
大韓帝国からの統治権を受け継ぐ正統政府、という「経歴」は。
臨時政府要人が抱く、われらこそ正当政府という絶対的な自負心。
それが帰国後国内派と激しく衝突する原因となる。
他の主要メンバーは、前出だが臨時政府副主席で、呂運亨とともに左右合作運動を進めてゆく
金奎植(キム・ギュシク)等。
当時の臨時政府主席は金九。
「暗殺の神様」の異名をもち、テロによる抗日武力闘争を推し進めていた。
また、1940年韓国光復軍を組織、日本軍との直接戦闘体制の準備のさなか日本終戦をむかえた。
「必ず倭王を殺し、倭奴を根絶やしにして我が国の恥辱をそそいでやる」
との発言に見られるように徹底した反日反共の使徒であり、
臨時政府主席の肩書ともあいまって、主導権の条件1は満たしている。
民族独立に対する熱血直情さが、現代韓国でも多くの支持を得ている所以であるが、
逆に複数の意見をまとめ上げたり、複雑な国際政治に対応する政治家としての技量は全く欠落しており、
それが彼をして朝鮮分断を防げなかった最大の原因となる。
そして金九が日本降伏時に嘆じた言葉。これは光復後の朝鮮に対する不気味な予言となった
「韓国軍は日本軍を打ち破ることは一度もなかった。私は日本軍を撃滅してわが同胞を解放したかった
最後まで日本軍に制圧されたままの解放なんて結局何もなるまい
日本帝国はひとたび滅びても、よりたくましく再建されるだろう
そのとき日本人は併合時より残酷にわれわれを奴隷にするだろう。
そのときわが同胞は日帝と闘う気力をもっているか?
自力で日帝から解放することもできなかったわが同胞に、とてもそんな力があるとは思えない」
さて、臨時政府派のもう一人のキーマン李承晩ですが、正直臨時政府派にいれてよいのか悩みました。
というのは、たしかに李承晩は臨時政府初代大統領ではあるのですが、
失脚しアメリカにわたった後は臨時政府からも在米朝鮮人社会からもハブられ、ロビー活動も一人、
しかもアメリカからも黙殺されていた状態でした。
なのでいっそ海外派は
1.大韓民国臨時政府
2.満州派(いわゆる金日成派)
3.李承晩
の三派にしようかとも思ったのですが、
彼の「経歴」において「臨時政府初代大統領」が重要な位置を占めるため、
臨時政府派に入れました。
122 :
世界@名無史さん:2007/05/28(月) 15:55:39 0
上げ進行
>>108 陸軍は宇垣一成の失脚から、海軍はより早く加藤友三郎の死以来、
将来を見据え、政治を理解しかつ部内を統率できる人材を失い、
議会においては党争にあけくれ、挙句に党利党略の為に統帥権干犯問題を利用するところまで堕ちた。
これを以て明治政府を計るのはどうかと。
さて李承晩は朝鮮独立のためにはアメリカの支援が絶対に必要という持論を持ち、
1919年にはウィルソン大統領に国際連盟による朝鮮の委任統治請願書を提出するまでに至る。
それを臨時政府内で「朝鮮をアメリカに売り渡す行為」「第二の李完用」と糾弾され失脚、渡米する。
独立運動の実績はキーマン7人の中で最も小さい。
しかし朝鮮民衆の支持は圧倒的であった。それは李承晩の華麗な経歴にあった。
・大韓民国臨時政府初代大統領
・朝鮮人で初めてアメリカで博士号を取得
・1904年、高宗の密使としてルーズベルト大統領に排日を直訴
・長年にわたり欧米の朝野に朝鮮独立を訴え続けた老闘士という印象を持たれている
主導権の条件1は満たしている。
他方、条件2は皆無。上記の通り臨時政府でも米国内でも一人だったからだ。
そんな彼にとって唯一の頼みの綱、それが米軍政の後援であった。
米軍政は(後の信託統治問題で詳しく取り上げるが)
親ソ勢力の伸張を防ぐために保守勢力(民族主義右派)と手を結ぼうとしていた。
しかし保守勢力はチニルパと糾弾され民衆の恨みをかっている。
そこでチニルパ呼ばわりされない抗日独立闘士を看板にして保守政権を打ち立てる…
かくて、戦時中は国務省から完全に無視されていた臨時政府首脳と李承晩は米軍政の後ろ盾を受けて帰国する
(一方、この後も国務省は臨時政府と李承晩に冷淡であり続ける)
朝鮮帰国前の1945年9月、金日成はスターリンと会談し、朝鮮の指導者として認められた。
他の指導者候補(朴憲永、曹晩植)と比べて、ソ連に忠実だったところが選ばれた理由だという
金日成はこのとき33歳、3・1独立運動期から活動してきた他の独立運動家と比較して圧倒的に若く
(むしろ韓国次世代の指導者と年齢が近い。朴正煕の5歳年上)
自力で独立を勝ち得なかった古参独立運動家達の世代に内心侮蔑の念を抱いていたとも言われる。
10月14日、平壌公設運動場で開催された「ソ連解放軍歓迎平壌市民大会」でソ連将校や曹晩植と共に、
初めて金日成が朝鮮民衆の前に姿を現した。
日本から懸賞金までかけられた民族的英雄を一目見ようと多くの民衆が詰めかけた。
しかし、金日成の演説を聞いた民衆の中からはざわめきと失望の念がわき起こった。
曹晩植の機知にとんだ演説とは全く異なる、通り一遍のぎこちない演説。
あまりに若く、風格も足りない人物…
この時点では金日成にとって、条件こそ備えていたものの主導権への道はまだまだ険しかった。
信託統治問題に移る前に、帰国後の海外派、金日成と金九の行動を追って行こう。
抗日独立活動の経歴こそあったが、国内の支持基盤を何ら持っていなかった金日成。
そんな彼の政敵は2人。
一人は朝鮮北部最有力の独立運動家、朝鮮民主党(民族主義者中心の政党)党首にして、
各地人民委員会の調整機関北朝鮮五道行政局のトップ曹晩植。
もう一人は朝鮮共産党を再建し、朝鮮南部を中心に強力な支持基盤を持つ共産主義運動のリーダー朴憲永。
まず金日成は、ソ連軍の威光を背に、朴憲永率いる朝鮮共産党の主導権争いに乗り出してゆく。
1945年10月初め、金日成は朝鮮北部にも共産党を設立するべしと主張する。
そうすることによって、ソ連軍進駐という有利な条件にある北部朝鮮を民主主義の基地にすることができる、
という理由であった。
しかし北部朝鮮の社会主義者たちの強行な反対にあう
一国一党は共産党の大原則!
北部に共産党など分派的行動だ!
朝鮮の共産党は朴憲永率いる朝鮮共産党のみ!
結局設置されたのは党中央に服従する朝鮮共産党北部朝鮮分局と言う形であった。
行政に関しては、ソ連の後ろ盾で満州派は軍事、治安部門の仕事が与えられた。
これは金日成の実力向上に非常に有利に働いた。
1945年11月23日、新義州でソ連軍と人民委の横暴・略奪・脅迫に抗議した学生デモがおこったが、
これを鎮圧したのが金日成と言われる。
金日成自ら学生を説得する飴と、死者23名を出す鞭とを用いて。
こうして、青年金日成…
本当は政治の世界に踏み出すのにはあまり乗り気ではなかった青年、
息子にユーラとロシア名をつけたように、モスクワでソ連軍人として働きたかったという青年は
ソ連軍政の力を借り、後ればせながら主導権争いに乗り出していった。
民族主義右派の韓国民主党が待ち望んでいた大韓民国臨時政府首脳が、11月23日の金九を皮切りに続々と帰国した。
チニルパとして糾弾され、民衆の支持が得られない民族主義右派にとって、
当時勢力を伸長させていた建準や朝鮮共産党に対抗するためには、抗日独立闘士の経歴をもつ臨時政府を看板にして保守勢力を築くことが必要だったからだ。
そしてそれは、右派と手を握っている米軍政の思惑とも一致していた。
だが、右派と臨時政府とが手を握り合うことはついにできなかった。理由はチニルパ問題。
12月に開かれた両者の会談で、臨時政府内務部長申翼煕はこう言った。
「国内にいた人間は大なり小なりチニルパである」
一方、同じ会談で宋鎮禹は、
「解放された我が国民が「臨時政府」を歓迎しているのは、三・一運動以来の「臨時政府」の法統のゆえである。
にもかかわらず、諸兄達は諸兄自らのゆえであると思っているのではないか?」
我々が正当政府であり、国内派と、ましてや民衆からチニルパと糾弾されている右派と手など組めるか、
と言わんばかりの臨時政府。
独立運動の実績を何らあげていない臨時政府の分際で、
我々が力を貸さねば活動資金も支持基盤も何も用意できないだろ、
と言わんばかりの右派。
両者の会談は罵倒の応酬となってしまった。
さて、このように右派と臨時政府が罵倒を繰り広げているとき、
既に朝鮮には米ソ信託統治案の一報がもたらされ、世論は沸騰していた
次回からようやく、朝鮮分断の命運を決定した信託統治問題に入ります。
その後の、分断回避の最後の試み左右合作運動まではまとめてゆきたいと思っております。
スレの上のほうで、いろいろ参考資料を教えていただきありがとうございます。
ここで、私がカキコする時に使っている参考資料をあげてみます。
この時代に興味を持った方々の参考になれば。
もともと、朝鮮光復期を詳しく調べたいと思った直接のきっかけは
「暗殺、政争、大国の思惑。この殺伐とした時期をHoIのMODとかにできないかな?」
という非常にオタくさい動機なので
(人物紹介で上げているサイトも、実は顔グラ素材用に探したもの)
参考書籍は人物のエピソード、政治勢力の伸長や暗躍、政争の進展とかに片寄っていますがご容赦ください。
この光復〜分断期の解説は、概説本ではまず載っていませんので
かえって学術本や専門書を当たった方が良いと思います。
●李景[王民]著「増補 朝鮮現代史の岐路」平凡社
光復〜分断期の南北朝鮮政局の過程を平易にまとめた概説書
これ一冊で、この時代の流れはほぼ掴めます。
強いていえば、南部の政局中心で、北部、特に延安派やソ連派の動向がほぼ皆無なところが弱点でしょうか。
左右合作運動まで載っている増補版がオススメです
●徐仲錫著「現代朝鮮の悲劇の指導者たち」明石書店
呂運亨、金奎植、金九、李承晩、曹奉岩[曹の縦棒は1本]、朴正熙、張俊河7人の活動やエピソードを収録
この7人全て非業もしくは不遇の死を遂げているので、巻頭の口絵が全て葬儀or墓の写真というインパクトあふれる本です
特に、朝鮮戦争時に北につれ去られる金奎植、李承晩に処刑される曹奉岩、朴正熙政権を批判し謎の死を遂げる張俊河などに触れている本は少ないので重宝します。
著者はいわゆる韓国の「進歩派」歴史学者とされていまして、
李承晩と朴正熙の二人に関してはかなり批判的です。
エピソードも興味深いものが多く、
・不屈の独立闘士呂運亨でさえも、左右合作運動時には
「朴憲永は逮捕されればよい」
「すべてを捨て、一兵卒としてやり直します」
と口走るほど分断迫りくる絶望的状況に押し潰されそうになっていた
・金九が土田譲亮殺害事件で法廷に立ったときの発言
「必ず倭王を殺し、倭奴を根絶やしにして我が国の恥辱をそそいでやる」
・学徒兵として日本軍に動員された張俊河が脱走六千里、上海の臨時政府にたどり着いたものの、
あまりの内部抗争に絶望し、再び日本軍に入隊して臨時政府を爆撃したいと言った
などが特に印象に残っています。
●姜萬吉著「韓国民族運動史論」御茶ノ水書房
日本統治時代から分断期にかけての民族運動、独立運動の論説をまとめた本。
光復期では左右合作運動に一章が割かれており、「朝鮮現代史の岐路」ではあまり触れられていない
呂運亨暗殺後の合作運動の展開が書かれています。
上でも書きましたが、著者は「進歩派」歴史学者の代表者であり、
同著者が書いた「韓国現代史(高麗書林、本文はまだ未読)」の日本語版序文で、
我が民族にとって日本統治の歴史は恥だが
光復〜分断に至る歴史はもっと恥だと言う文章が印象的です。
●金学俊原作 李東宇画「コミック 知られざる北朝鮮史〈上〉」幻冬舎
まだ上巻しか読んでいませんが、光復以前からの国内社会主義勢力、延安派、ソ連派、そして金日成の満州派
各派の歴史と政争が書かれています。
マンガで解説された朝鮮史の中では群を抜いて詳細なのではないでしょうか?
●木村幹著「韓国における『権威主義的』体制の成立」ミネルヴァ書房
>>69さんに教えていただいた本。民族主義右派と李承晩がどのように連合し、大韓民国を建国していったかの流れが書かれています。
韓国の独立運動は、インドや中国等他国の独立運動と比較してどうだったのか?
に興味があった私には非常に面白い本でした。
「パリ解放を果たせなかったドゴール」と「ガンジーを生み出せなかったビルラ財閥」との結合
とのフレーズは非常に萌えるものがあります。
●下斗米伸夫著「モスクワと金日成」岩波書店
冷戦後公開されたソ連側資料のみからみた北朝鮮建国の過程を解説
国内社会主義勢力、延安派、ソ連派、満州派との抗争、朝ソ中が互いに振り回されあう
複雑な政治状況を追ってゆきます。
韓米関係と同じように、朝ソ中関係も息が合ってなかったんだなと思わせてくれる本です。
今後読んでみたい本は、
●木村幹著「朝鮮/韓国ナショナリズムと「小国」意識」ミネルヴァ書房
●宋建鎬ほか著「分断か統一か--韓国解放前後史の認識」影書房
>>73さんが勧めてくれた
●カーター・J・エッカート著「日本帝国の申し子」草思社
も読んでみたいですね
140 :
世界@名無史さん:2007/07/08(日) 00:17:41 0
>>114 「ソウル1945」いまスカパーでやってる
契約してないチャンネルなんで見てないけど
>>134 >学徒兵として日本軍に動員された張俊河が脱走六千里、上海の臨時政府にたどり着いたものの、
あまりの内部抗争に絶望し、再び日本軍に入隊して臨時政府を爆撃したいと言った
不謹慎だがワロタ
そんなでかくもないんだろうから
爆撃なんかしたら回り全部巻き込んじゃうだろうになw
過去ログ読まずに脊髄反射で書くけど
臨時政府の内ゲバって中共派と国民党派で
「どっちに事大するか」で殺しあってたってこと?
今見返したら、張俊河が脱走したのが1944年ですので、臨時政府は上海でなく重慶にあった頃ですね。
すみません。
この頃の臨時政府は、かつてに比べれば相当組織化されてきてたんですが、
それでもまだ「内紛相次ぐ」所が派閥抗争の根深さを思わせます。
>>142 >臨時政府の内ゲバ
初期臨時政府の支援国はソ連と中国国民党だったのですが、事大というよりは、
内部の路線や地域派閥の対立、資金途絶による求心力低下が大きな理由でしょうか。
まあ殺しあいまでは行っていないようですが。
(内ゲバと言えば、このころ沿海州の共産党は2派に別れてホントに武力衝突し、
ソ連軍に2派まとめて殺されています…自由市事変)
元々臨時政府は、
・ソ連沿海州
・上海
・朝鮮国内
という朝鮮内外に分散している独立運動団体が大同結集する形で成立しました。
なので、結束した運動団体というよりは、独立運動の象徴としての色彩が濃い組織のようです。
10年代後半〜20年代前半、臨時政府は
・外交路線(李承晩、国際連盟による朝鮮の委任統治を主張)
・実力培養路線(安昌浩)
・武装路線(李東輝、朝鮮共産主義運動の先駆者で、ソ連からの援助を受ける)
の三路線で激しく対立。
結局李東輝は臨時政府を離脱し高麗共産党を結成。
安昌浩も1921年に臨時政府を離れます。
安昌浩の弟子筋で、臨時政府創立メンバーでもある呂運亨は1919年に既に臨時政府を離脱、
上海で独自の運動に入っています。
李承晩の委任統治論に反対する勢力は、武装闘争を目指す国民代表会を結成。
だがこの国民代表会も2派に分裂。
結局国民代表会は金九によって解散。李承晩も臨時政府を追われます。
このように派閥対立相次ぐ臨時政府は、ソ連、国民党、朝鮮国内からの支持を失い、
資金難に喘ぐこととなります。
朝鮮国内からの資金ルート(連通制)が日本に壊滅させられたことも資金難の一因ではあるのですが、
それ以前から臨時政府に対する支持は朝鮮国内でも薄れていたようです。
2ちゃんで嫌韓ネタによく使われるエロ写真販売の新聞記事(1924年)や
事務所の家賃滞納3ヶ月の調査報告(1921年)がちょうどこの頃。
資金難の臨時政府は求心力を失いさらに分裂内紛、
金九が主席になるまで臨時政府は事実上崩壊状態でした。
>>142 中共の支援を受けたのは延安派と呼ばれる一団。武亭や方虎山が有名。
光復後は北朝鮮の中核メンバーとなり、朝鮮戦争では多くが指揮官として活躍したんだが
戦後金日成によって粛正され壊滅
147 :
荒法師:2007/07/09(月) 18:16:24 O
半島を分割統治する時北には露が自軍将校の金日成を南には米が米国人の婦人を持つイ・スンマンを立てた。どちらも露、米が御し易いと見た人選だった。金成日が巧みに露の影響力を削ぎつつ権力を集中したのに比べ・・・
148 :
荒法師:2007/07/09(月) 18:24:38 O
イ・スンマンは激情型の扇動家であるだけで実務能力に乏しかった。対馬侵攻を計画して米に飽きれられ、デモに恐縮して政権を放棄した臆病もの。時代の仇花。李承晩ラインと聞く度、無念がよぎる。
延安派って、中共の支援を受けた傀儡と言うよりも、
紅軍内部でのし上がった人達が、今度は朝鮮独立を目指して結成した叩き上げの実力者集団って印象があるんだが。
社内起業みたいな
イスンマン
151 :
世界@名無史さん:2007/09/12(水) 03:57:28 0
152 :
世界@名無史さん:2007/09/12(水) 04:14:40 0
韓国の歴代政権
李承晩政権 1948〜1960 第一共和政
張勉政権 1960〜1961 第二共和政
朴正煕政権 1961〜1979 軍政
崔圭夏政権 1979〜1980 軍政
全斗煥政権 1980〜1988 軍政
盧泰愚政権 1988〜1993 保守政権
金泳三政権 1993〜1998 保守政権
金大中政権 1998〜2003 リベラル政権
盧武鉉政権 2003〜 リベラル政権
153 :
世界@名無史さん:2007/09/12(水) 17:48:13 0
盧泰愚も軍事政権なんだが?
それと盧武鉉を単にリベラルと書くと誤解の元。「リベラルもどき左派政権」
154 :
世界@名無史さん:2007/09/12(水) 18:04:51 O
ノムヒョンは「北のエージェント政権」では?
155 :
世界@名無史さん:2007/09/12(水) 18:26:23 0
ん。それもいい。
>>153 盧泰愚は選挙で金大中、金泳三、金鍾泌を破って選出されませんでした?
彼は確かに軍人出身で文民とは言えませんでしたが、
選挙前に退役したので軍事政権とは言えないのでは。
韓国の政党の系譜ってよくわかんないんだよな。
宋鎮禹ら民族主義右派が立てた韓国民主党や
李承晩の与党自由党はどうなったんだ?
158 :
世界@名無史さん:2007/11/15(木) 11:52:22 0
光復期を舞台とした小説だけど、金石範「火山島」ってどうよ?
本屋とか図書館探してるんだけどなかなか見つからなくて
159 :
世界@名無史さん:2007/11/15(木) 12:40:56 0
>>156 現役のときに既に政治活動を始めていて退役後もその活動の継続で軍との関係を持っていれば軍人政治家。
現役中は政治に関わりを持たず、退役後に始めて政治活動に進出し、軍との関係を絶っていれば文民政治家。
>>146 延安派の前つまり長征より前に、共産党が陳独秀とかの都市インテリ政党だった時代に
かかわった連中で朝鮮臨時政府に加わった人っていなかったのかな?
何ヶ月も経った亀レスで恐縮だがw
161 :
大韓民国臨時政府と金九:2007/12/02(日) 14:49:27 0
>>145の続きです。
大韓民国臨時政府と金九の話を続けます。
さて、主席になった金九。国内外の支持なし、資金なし、内紛続きと三重苦の崩壊状態に陥っていた臨時政府をたてなおす起死回生の手段をうちます。
1932年1月の桜田門事件、4月の上海虹口公園爆弾事件という2つのテロ事件です。
「臨時政府は沈滞した局面を打開するため、暗殺と破壊のための韓人愛国党をつくり、人の面と金の面を含めて、金九にその全権を委任し、その結果だけを政府に報告することになった」
姜在彦「朝鮮近代史」(平凡社)にはこう書かれています。
この文では主語が臨時政府になっていますが、前後の文脈や、他の書籍やネットの記事をみると、どうやら金九はこのテロ事件を人脈も資金も全て臨時政府の力を借りずに自腹で行っていたようです。
そもそもこの頃の臨時政府には人脈も資金もなさそうな気もします。
(ここら辺、「白凡自伝」にはどうかかれているのでしょうか?)
時あたかも満州事変、上海事変が起こり中国国内の反日感情が高まっていた時期。
金九はこのテロ事件により、陰ながら中国国民の支持を得ます。
また待望の、中国国民党からの資金援助が復活します。ただし臨時政府にではなく、金九個人に対しての支援金という名目でした。
いかにこの計画が金九主導だったか、そしていかに臨時政府が信用を失っていたかが分かるような気がします。
この2つのテロ事件のインパクトは、以後金九に暗殺の神様、テロの抗日闘士という暗い印象を国内外に持たせることになります。
事実光復以後も、朝鮮内でテロ事件が起こるたびに「実は黒幕は金九ではないか」とのうわさが飛び交ったといいます。テロ=金九というイメージがついてしまったのです。
非人道的なテロというなりふりかまわぬ手段を選んだ金九。
しかし、金も支持も無い臨時政府にとって、PRと資金援助を得る数少ない手段であったのは確かです。そしてその目的は達成したと言えるでしょう。
少なくとも金九がこのテロ事件で支援金をえなければ、臨時政府は名実ともに自然消滅してしまったでしょう。
金九は、テロ事件で得た国民党からの支援金を臨時政府につぎ込んでゆきます。
このような金九の身銭を切った活動で、ようやく臨時政府は息を吹き返してゆきます。
金九によって息を吹き返した臨時政府は、「共産主義から民族主義まですべての独立運動を包括する司令塔」から「反共民族主義者の独立運動の一団体」へと、その性格を一変させます。
名前だけ同じな別団体といってもよいくらいです。
2つのテロ事件以後、臨時政府は上海から逃れ、中国各地を転々とします。
中国国民党とのつながりを強化していくのと平行し、金九は臨時政府設立以来の悲願、直轄軍の創設に乗り出します。
当時中国本土で武装闘争を行っていた民族主義団体は、
・反共の民族主義者李青天(別名池青天。日本の陸軍士官学校第26期生、洪思翊の同期、後に韓国で国会議員)率いる朝鮮革命党
・容共の民族主義者金元鳳(黄埔軍官学校出身、後に北朝鮮政府に参加するが、1950年以後消息不明に)率いる朝鮮義勇隊
の2つに分裂していました。
まず金九は李青天と手を結び、韓国独立党を設立。中国国民党の支援も得て、1940年9月、李青天を総司令とする光復軍を設立。
1942年には、金元鳳の朝鮮義勇隊も光復軍に合流。これで、民族主義の武装団体はほぼ光復軍に統一されます
分裂していた左右民族主義者の合作と、悲願の直轄軍を編成した金九ですが、次なる問題に立ち向かわねばなりませんでした。
1つは、合作なったとはいえ未だ激しく派閥対立している左右民族主義者をどうまとめてゆくか。
もう1つは、編成したもののほとんど実戦経験がなく、人員も少ない光復軍をいかにして鍛えてゆくか。
>>160 長征より前の時代、中国共産党と朝鮮の社会主義者は、個人的つながり、組織同士の連携はありましたが、
朝鮮人が中国共産党内で本格的に活動するのは、朝鮮共産党の解散後、さらにその下部組織満州総局が解体(1930年)し、中国での活動の場が中国共産党以外になくなってからのようです。
169 :
世界@名無史さん:2007/12/31(月) 15:53:25 0
李承晩はイスンマンだけど、ラインがつくとリショウバンになるよね
キムデジュンも事件がつくとキンダイチュウになる
最近は李舜臣もイスンシンとか教えてるらしいな
171 :
世界@名無史さん:2008/01/31(木) 08:16:27 0
李承晩はアジア版ド・ゴールだろ。
172 :
世界@名無史さん:2008/01/31(木) 09:43:04 0
ド・ゴール大統領に失礼だ。土下座して謝れ!
どこをどうすれば、れっきとしたレジスタンスの指導者と
アメリカの威を借りて大統領になったなんちゃって独立運動家を
同一次元で扱えるんだか
174 :
世界@名無史さん:2008/01/31(木) 11:53:56 0
貴族、頑迷固陋、亡命政府のリーダー、新政府の大統領、民衆運動で退陣
という上っ面だけをなぞれば似ているともいえるが・・・
デギン「貴校はさしずめドゴールのしっぽよ」
>>175 それってホメ過ぎだと思う。
ドゴールは今のフランス人からも一定の評価をされているが
李承晩時代は今の韓国人にとってもほとんど黒歴史。
彼を下野させた4・19学生革命のほうが評価されてるありさま。
植民地の独立には、民族資本と独立運動家の二本柱がかかせないのに
李承晩は二本とも破壊したからな。これだけでも「独立の父」などとはとても言えない
日本統治期に朝鮮最大の民族資本だった東亜日報グループを、金融機関を締め付けることで粉砕したのが李承晩。
ttp://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/9113/r_kaika.htm >…東亜日報グループの健全な経営実態は、土地資本を担保とする植民地金融との関係に支えられていた。
>日本統治期、特にその末期においては、朝鮮人資本家が、地力で金融機関を経営することは困難であり、事実、それらは最終的に事実上総督府に所有される幾つかの金融機関に統合されて行くこととなった。
>東亜日報グループにとって皮肉であったのは、このような「公的金融機関」の利用は、日本統治期よりも、解放以後の方が、遥かに困難であった、ということであろう。
>乃ち、韓民党と烈しく対立した李承晩政府は、韓民党と、東亜日報グループ系企業を自らの地位を脅かすものとして烈しく敵視し、これに対する、金融的支援を徹頭徹尾渋ることとなって行くのである。
>企業経営において、資金詰まりは決定的であり、そのことは、やがて、朝鮮戦争による工場施設破壊と、極端なインフレによる土地債権の無価値かにより決定的になることとなる。
>結果、45年においては、圧倒的な地位を占めていた東亜日報グループの経済的地位は急速に低落し、グループは政治的に対立・混乱・解体し、京城紡織を中心とするグループ内企業の一部は、李承晩政権の軍門に降ることとなる。
日本統治時代から米軍政を経て大韓民国に引き継がれた中央集権(政府主導)の金融システム、まさに李承晩はこの「日帝残滓」のシステムを駆使して韓民党と金性洙を撃破したのである
【野球】中日私設応援2団体を活動禁止、暴力団と関係の疑いで…警察庁と12球団などでつくる協議会が処分
1 :バルデスチルドレン18号φ ★:2008/03/27(木) 13:23:55 ID:???0
暴力団や悪質な応援団の排除を目指すプロ野球暴力団等排除対策協議会が
中日の私設応援団2団体に対し、応援活動禁止を命じたことが27日、分かった。
通達書が同日までに中日球団に届いた。
同協議会は1団体には排除命令、別の1団体には特別応援許可を出さないことを
決定。2団体は暴力団と関係している疑いがあると判断した。
排除命令を出された団体は球場への入場が認められない。特別応援許可が
出なかった団体の構成員は応援団活動はできないが、球場への入場は認められる。
警察庁や12球団などでつくる同協議会は2003年12月に発足。
06年シーズンから暴力団の排除などを目的として私設応援団を許可制とし、
毎年、許可申請を義務付けている。
http://www.sanspo.com/sokuho/080327/sokuho016.html 3 :名無しさん@8倍満:2008/03/27(木) 13:24:39 ID:PEMNk1Fk0
また阪神か!?
4 :名無しさん@恐縮です:2008/03/27(木) 13:25:16 ID:ys/IGzImO
またチンカスか!
李承晩政権末期に南山公園に建てられた大統領の銅像が、民家の庭にさび付いた状態で放置されているとのこと。
この記事は、李承晩の敷いた路線を朴正熙が受け継ぎ、経済発展の礎を作ったようにも読めるが、
それはひいき目に見過ぎではないか。
http://www.chosunonline.com/article/20080330000005 >どんな政治指導者であっても功罪はつきものだ。ただでさえ波乱万丈な>近・現代史を歩んだ韓国においては、
>その光と影はより大きくクローズアップされるものだ。李元大統領が政権の座にあった時代から半世紀が
>過ぎた今、>彼を客観的に評価し、歴史的な位置付けを与えるべきときだ。味噌甕と針金と木の枝が
>散らかっている庭の隅に無残な姿で転がっている初代大統領の銅像を見て、複雑な感情を抱く国民は
>決して少なくないはずだ。
李承晩より前の日帝時代のことを未だ冷静に評価できないのに、李承晩の治世について冷静な評価を
するのは韓国民にとってなお難しいのは自然でしょう。
181 :
世界@名無史さん:2008/04/09(水) 12:19:21 0
南か北かに統一されていれば、ここまで過去の再評価が難しくはならなかったと思う
南北対立が続いて、自分達以外は全て敵という考えが続いたから、過去の冷静な再評価も出来なくなったし、
南北対立してなければ、李承晩と金日成もここまでの独裁をふるえなかっただろうし
182 :
世界@名無史さん:2008/04/09(水) 17:22:12 O
>>181 どちらにせよ政治と歴史を分離できない朝鮮人の頭脳構造で
冷静な評価は無理。未だに三国時代のことすら、政治抜きの
評価が出来ていないではないか。
ついでに言うなら、党争が風土病と言っていい半島で、挙国
一致とか民族一丸なども無理。分断期の内部抗争も、李朝の
巻き戻しにしか見えない。国王の服喪期間を巡って血みどろの
党争をした時代の繰り返しだ。
183 :
世界@名無史さん:2008/04/09(水) 18:22:56 0
李朝ほど自国を衰退させた王朝も珍しいよな
曲がりなりにも日本と同等かそれ以上の国だったのが
完全に逆転(しかも日本が圧倒的)したわけだし
そのくせ、唯一の誇れる点だった李朝500年の王統を韓国人自らの手で紡いでしまった。
李朝が戦後に復活してたらここまで日韓関係は酷くなかっただろうね。
ずっと李承晩でいればよかったのに。
186 :
世界@名無史さん:2008/05/31(土) 15:18:40 0
>>184 いまでこそ韓国内で李朝復権の動きがあるけど
日本統治〜終戦直後に、李朝を誇りに思う朝鮮人なんかほとんどいなかったよ
187 :
世界@名無史さん:2008/06/01(日) 06:34:46 0
>曲がりなりにも日本と同等かそれ以上の国だったのが
え?
>>187 人類初の金属活版印刷と製陶技術は朝鮮の方がはるかに上でした。
なんかのペットなんだろう
>人類初の金属活版印刷
あれはただのハンコで活版印刷じゃないよ。
大量生産のための活版印刷技術なのに部数は数十部と極めて少ない上に「活字」そのものが秘宝あつかいってドンだけ駄目なんだよ。
191 :
世界@名無史さん:2008/06/01(日) 16:18:22 0
ああ、両面ごとに組んで印刷して解体してって方法で、
今のように版を残しとくわけじゃないんで。
しかも活字を彫る職人をこき使ったので、眼疾と中毒で廃疾者続出。
一介の饅頭泥棒から身を起こし、李朝王家の血筋を自称して、半島二分の計に拠って南朝鮮を建国した、一代の梟雄李承晩は誇らしいですね
なんだなんだ、隠れた良スレだなここは
アメリカかなんかで「日本は糞だ」とか食言してたテロリストが、一国の大統領さまだもんなぁ。
195 :
世界@名無史さん:2008/06/02(月) 14:32:39 0
【食言】
前に言った言葉を口の中にしまう意
前に言った事や約束と違った事を言うこと
嘘をつくこと
196 :
信託統治案と朝鮮国内の反応:2008/06/25(水) 04:14:50 0
>>130からの続きです
●米ソ信託統治案とは
「日本敗北後の朝鮮は、独立する前段階として連合国の信託統治下に置かれる」という案は、カイロ会談前後から連合国首脳間でも話題に上ってはいた。
しかし米国務省内で信託統治案が具体的に動き出すのは1945年10月にはいってからであった。理由はソ連勢力の伸長を食い止める手段としてである
●ソ連勢力の伸長を食い止めるための信託統治案
この時点でのアメリカ国務省の現状判断は以下の通り
・日本の突然の降服により、朝鮮半島はアメリカの予期せぬ分割占領になってしまった。
・ソ連は伝統的に朝鮮に利害関係を持っており、アメリカが何の手も打たなければ朝鮮全体がソ連の手に落ちてしまう。
・「多国間による信託統治」を実施することでソ連を牽制し、朝鮮にアメリカの足場を残す
●軍政庁にはもう一つの意見があった。
一方、南部朝鮮を占領している米軍政庁は、国務省と異なる考えを持っていた。すなわち自治政府案である。
この時点での米軍政庁の現状判断は以下の通り
・北部では、ソ連が着々と親ソ政権を築きあげている
・南部でも、建準の呂運亨や朝鮮共産党の朴憲永という親ソ勢力が活発に活動し、政局を掌握している
・もはや朝鮮は親ソ勢力の手に落ちている。この状況は信託統治案では解決できない。
・解決策は一つ、朝鮮国内の保守派(民族主義右派)と国外派(臨時政府+李承晩)を軍政庁がバックアップ、親ソ勢力に対抗する強力な反共保守勢力の暫定政府を樹立させる。
・ソ連が賛成しない場合は、南部だけでも保守政府を樹立させる。
軍政庁の自治政府案、このように朝鮮分断に直結する危険をはらむものであった。
そのため国務省は、臨時政府や李承晩のような反共勢力と手を結ぶのはソ連の態度を硬化させるだけだ、あくまで朝鮮全土の信託統治を進める、とした。
このように、アメリカの方針としては信託統治案を進めることとなったが、信託統治案の国務省と、自治政府案の軍政庁とは大きな溝が生まれていった。
なお軍政庁から親ソ勢力と言われ敵視された建準の呂運亨や朝鮮共産党の朴憲永だが、この時点では二派とも決して反米ではなかった。
朴憲永は、先にあげた8月テーゼにある通り、米軍は解放者であるから敵視しないとの方針をとっていたし、呂運亨の建準は、米占領軍が仁川港に上陸した時歓迎の使者を送ったくらいだった。この使者は面会を拒否された。
過敏な反共姿勢のあまり、友好を求めていた勢力まで敵にまわしてしまう、後のホーチミンやカストロの時にも見られるアメリカの悪癖、その最初の例がここで出てしまった。
信託統治案が初めて公式に発表されたのは、1945年10月20日、国務省極東部長ヴィンセントの講演でであった。
ニューヨークで開かれたこの講演でヴィンセントは
・朝鮮は長年日本に隷属されていたため、今直ちに自治を行う準備ができていない
・アメリカはソ連中国と協調し、信託統治を行い、朝鮮が自主独立の政治を行えるよう準備をすすめる
・朝鮮をできるだけ速く民主主義国として独立させる
と述べた。
このニュースが伝わるや、朝鮮国内では激しい反発が起きた。
民衆を含め、政治勢力も、右派、左派、社会主義者、臨時政府、李承晩の全てが反対した。
カイロ宣言で「連合国は朝鮮を自由独立のものにする」と言っていたではないか!
日本から解放された朝鮮をまた大国の統治下に入れようとするのか!
半万年の歴史を持ち、独立国家を維持して来た朝鮮民族に自治能力がないと言うのか!
軍政庁は、講演はヴィンセントの個人的見解であるとお茶を濁した。
しかし信託統治案は着々と進められていた。アメリカは本心から、朝鮮には自治能力はないと見ていたのだ。
朝鮮には自治能力がある、解放は抗日独立運動の成果、といくら主張しても、
連合国から見れば朝鮮は正統政府もない、ただの敗戦国の植民地であり、発言権など認められなかったのだ。
自力で日本を撃滅したかったと嘆く金九。
終戦後に、なんとか独立国の既成事実を築こうと奮闘した呂運亨。
彼らの危惧どおりに連合国は当事者朝鮮を抜きにして信託統治案をおしすすめてゆく。
当然反発する民族感情、だがそれが、朝鮮分断という最悪の結果につながってしまうと予測した人はどれだけいただろうか?
202 :
世界@名無史さん:2008/06/25(水) 11:11:12 0
>>200 「半万年」はここ5〜6年ほどの造語ぢゃないのか?
203 :
世界@名無史さん:2008/06/25(水) 12:23:45 0
まあ歴史史観で騒ぐのはたいていは日本史しか知らない輩なので
二次大戦が人未曾有の大惨事の戦争だって視点が抜け落ちてる。
ドイツでも日本でも外交の大失策の末の悲惨な戦争と教えるのは悪い事ではない。
いいすれ
205 :
米ソ信託統治案 その2 米ソの思惑と占領政策:2008/07/29(火) 18:05:53 0
前項でアメリカの思惑に触れたが、ではソ連は朝鮮をどうしようと思っていたのか?
ここではソ連の思惑と、朝鮮統治に関する米ソの差に触れる
まあ
>>79-82とかぶるのですが、これを書き込んでから1年以上たってますので(汗
より詳細に書き直してみようと思います。
東ヨーロッパで親ソ政権構築の経験を積んでいたソ連。そのためアメリカに比べると、解放者としてのポーズをとるのが巧かった。
9月9日朝鮮の日本軍が降伏した後、ホッジ中将が発した声明
「朝鮮民衆諸君。余はマッカーサー米国太平洋陸軍最高司令官及び連合国軍総司令官に代わり、本日、南部朝鮮における日本軍の降服を受理した。
朝鮮における米国司令官として、余はここにその降服諸条件を実施する。余はここに…国際法による占領軍の義務を履行する。余の支配下にある諸君も、同様に履行すべき諸義務を負う。
余の支配下にある諸君は、連合国軍総司令官の命令並びにその指揮下に発する余の命令には、厳格に服さなければならぬ」
他方、平壌に進駐した8月26日にソ連占領軍シスチャコフ大将が公表した声明文
「朝鮮人民よ。ソ連軍隊と同盟軍軍隊は、朝鮮から日本の略奪者を駆逐した。朝鮮は自由の国となった。しかし、これはただ新しい朝鮮の第一ページにすぎない…
朝鮮人よ、記憶せよ。幸福はあなたがたの手中にある。あなたがたは、自由と独立を取り戻した。いまは、全てのものがあなたがたの努力いかんによるのである。
工場、製造所および工作所の経営主、商業家又は企業家たちよ。日本人が破壊した工場と製造所を回復せよ。新しい生産企業を開始せよ。
ソ連軍司令部は、すべての朝鮮企業所の財産を保護し、その企業所の正常な作業を保証するためにあらゆる援助をするであろう。
朝鮮の労働者たちよ。労力による英雄心と創造的努力を発揮せよ…
解放された朝鮮人民万歳!」
まるで敗戦国を占領するかのように高圧的なアメリカと、民衆のみならずブルジョアジーにまで好意的なソ連。
初期声明では米ソに雲泥の差があることは確かであった。では占領統治はどうか?
一番朝鮮に近い位置にいるからというだけの理由で、朝鮮のことを何も知らずに派遣された米第24軍。
統治計画どころか朝鮮に対する知識も、統治機構の構想も何ももたなかった米軍は、結局占領に総督府の助力を得ることにした。
ソ連による占領を最悪の事態と考えていた日本も、また積極的に米軍に協力した。
結果米軍は、総督府の統治機構を流用し、日本人から得た朝鮮の知識を元に軍政を行うこととなった。
現在韓国で言われる「朝鮮分断には日本にも原因あり」の理由の一つがこれである。
「日本は、対日協力者による統治機構を温存させ、さらに建国準備委員会は共産主義政権、朝鮮民族は自主独立の能力なしというデマをアメリカに吹き込んだ」
しかしソ連にとっても、朝鮮進駐が予想外だったこと、アメリカと大差なかったのである。
ソ連第25軍の目的は、関東軍の朝鮮撤退を阻止することであり、日本降伏と朝鮮占領はやはり想定していなかった。
ソ連軍を出迎えた平壌市民は、兵士たちの余りに薄汚れた格好に驚いた。満州の民衆を驚かせたのと同様の囚人兵だったのである。
満州同様の略奪強姦が行われ、市民は金ダライをたたき合って身を守り合ったという。
ソ連の朝鮮統治計画がようやく立てられたのは9月にはいってからであった。それによりソ連軍の規律も徐々に改善されてゆく
だがアメリカとの比較でいえば、やはりソ連の方が統治計画が速かったのである。
この頃南部では、軍政当局が朝鮮状況の報告と平行して統治計画を国務省に求め続けていた真っ最中だったが、いまだ国務省からの満足いく回答は来ていなかった。
これが、19世紀以来朝鮮の覇権を日本や中国と争い続けていたソ連と、朝鮮を「隠者の国」と呼んでほとんど接点のなかったアメリカとの差といえる。
さてそのソ連の朝鮮政策とは、東欧諸国と同じ手法で親ソ政権を立てようというものだった。
・いきなり共産主義政権では民衆の反発が強いため、まず共産主義者と民族主義者との連立政権(いわゆる人民民主主義政権)を立てて独立させる
・その後クーデターで民族主義者を切り捨て、共産党単独政権を立てる
後に北部朝鮮に築かれる国の名に「Democratic People's」という単語が入るのはその計画の名残である
ソウルの建国準備委員会に呼応して立てられた、民族主義者曹晩植の建準平安南道支部。
ソ連はこれに、総督府時代から北部で活動していた共産主義の有力者玄俊赫を合流させ、平安南道人民政治委員会に改変、これに行政権を与えた。
南部のアメリカ軍直接統治に対し、北部は間接統治になったのである。
これによりソ連は「朝鮮民族の自主独立を否定するアメリカ、肯定するソ連」というイメージをもたれるようになった。
特に南部の民衆にとって、総督府の統治機構を解体し、総督府時代の警官や軍人、役人をチニルパとして排除してゆく北部が魅力的にうつったのも無理もないことであった。
南部は総督府の統治機構が温存され、総督府時代の役人もいまだ要職についている。土地改革にも手をつけず、東洋拓殖会社等の日本所有の土地財産はそのまま軍政庁所有に。
経済的にも米軍政は、日本降伏以来の混乱を立て直すことができず、さらに物価統制令を撤廃したため米価の高騰を招くという失政を犯した。米軍政に対する南部民衆の鬱屈、不満はたまる一方であった。
しかし北部も決して理想郷ではなかった。このころ反ソ勢力、民族主義者への締め付けが徐々に強まっていったのである。
1945年9月4日、光復後初の要人暗殺事件が発生。
その後の南北朝鮮を暗く彩る暗殺の時代の始まりを告げる事件であったが、その第一号の犠牲者は、なんと共産主義者の玄俊赫であった。
暗殺犯は、玄俊赫のかつての同志でもある共産主義者張時雨。当時の日本人の記録では、この暗殺に「ソ連仕込みの共産系朝鮮人」が背後にいると予測している。
そのせいか張時雨は北朝鮮建国後に商業相、人民軍中将にまで出世するが、朝鮮戦争後に粛正されてしまう。
ソ連は連立政権にくわわる共産主義者の指導者に、国内派ではなく、中国共産党の後援を受けた延安派でも、ソ連から行政要員として送り込まれたソ連派でもない、元東北抗日連軍で現ソ連極東軍第88特別旅団の金日成を選んだのである。
ソ連は歓迎集会や共産党北部分局結成等、金日成を共産主義者の指導者にするべく強力なバックアップを行ってゆく。
また、民族主義者のほか、北部で大きな力をもっていたキリスト教徒、東学の流れを汲む天道教徒への締め付けも徐々に厳しくなっていった。
>>128にも書いた、学生の反ソデモを武力鎮圧した新義州事件は弾圧の最たるものである。
さて、ソ連の政策では、金日成率いる共産主義者と連立政権を組む民族主義政党が必要である。
その計画に則って、ソ連軍は民族主義者の政党結成を要請した。
それを好機とした民族主義者たちは、ソ連と共産党に対抗すべく、曹晩植をリーダーとし朝鮮民主党を結成する。
朝鮮民主党はたちまち勢力を拡大し、最盛期には党員50万、北部朝鮮では共産党の4500人をはるかにしのぐ勢力となった。
ソ連軍にとっても、民族主義者政党がここまで勢力伸張することは決して望ましいことではなかった。
そのような状況の中、米ソ信託統治案が出されたのである。
ソ連が親ソ政権を築こうとしていたのは明らかだが、ではなぜアメリカの信託統治案を拒否しなかったのか?その理由は以下の通り。
・左派が勢力を伸ばしてる今の情勢では、信託統治案で政府ができれば、左派中心の親ソ政権となる確率が高い
・アメリカと徹底対立してまで親ソ衛星国家の樹立は切望してはいなかった。このころのソ連にとって朝鮮半島は安全保障の確保---日本やアメリカの勢力下に落ちなければいいや---が第一目的だった
1945年の段階では、米ソ両国ともに、分断政府と統一政府、どちらが自国の影響力をより残せるか決めかねており、両天秤の政策を取っていた。
朝鮮にとっては、米ソがいまだ冷戦期の全面対立にいたっておらず、かつ分断政府樹立に進みかねているこの時期こそが統一政府を樹立させる(後から振り返れば唯一の)チャンスであった。
>>202 あ、「半万年」って最近の言葉なんですか?じゃあこれは私のミスです。すみません
ただ光復期の朝鮮民衆が、「五千年にわたる民族の歴史」を誇りに思っていたのは確かです。
1945年10月25日に人民共和国の中央人民委員会が発表した信託統治反対談話の中にもこうあります
「五千年の歴史をもつ朝鮮民族は、自主独立となれば飛躍的な発展を成し遂げることを証明している
…朝鮮人に自主独立の能力がないというのは、日本が世界の民主主義国を欺いて、朝鮮に対する植民地支配を正当化しようとする悪宣伝に他ならない」
朝鮮には世宗しか偉人がいない。だから駆逐艦や空母の名前もぜ〜んぶ世宗。
ちょっと同情
李承晩ライン
1952年1月18日、占領下から日本の独立が発効する直前に、
李承晩大統領に率いられる韓国が海洋主権宣言なりとして一方的に設定した漁船立入禁止線のこと。
国際的には認められていなかった。1965年の日韓漁業協定の成立によって廃止された。
協定が成立するまでの13年間にこのライン近くで操業していた日本側の漁船などは拿捕されたり銃撃されたりした。
韓国によって不当に抑留された日本人は3929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人を数えた。
李承晩ラインはその中に竹島を含んでおり、1965年の廃止後も竹島は放さなかった。
竹島において韓国は漁業権を理由に警備隊を上陸・常駐させ、
さらには領土権へと主張を拡大させ。李承晩ラインは今日の竹島問題の端緒となった。
>>111 遅レスだが、こんな記事を載せてるブログがあった。
総督府側からの意見ですな
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友邦シリーズ・第4号 朝鮮における司法制度近代化の足跡
財団法人友邦協会
「長谷川総督時代」 国分氏談話 p117〜118
旧朝鮮総督府法務局長 国分三亥(国分氏は明治41年韓国検事総長に親任)
尚一言したきはこの運動(管理人註:3.1独立運動のこと)によりて日本と朝鮮の間に、国民道徳根底の著しき違ひのあることを感ぜざるを得なかったことであります。是は今後為政者の最も注意すべき点と存じます。
当時私はこの運動の趣旨及原因動機等を調査するの必要を感じ部下を指揮して調査せしめたのみならず、
再三自ら監獄に臨み被告人に就き親しく質すところもあったのですが、
彼らは朝鮮民族として独立すべきが当然なりと主張するも、一人として前皇帝の復辟を望みたる者なく、
その理由を問へば、或る者は孟子の言を引用して、君、臣を視ること土芥のごとくなれば、臣、君を視ること寇讐の如くなるのは当然の事理である。
李朝時代の悪政は吾等をして、君を君として視ることが出来ないようになった。夙に天命の去りたる人の其の位を去るは当然であると答ふるのであった。
之に対し併合以来の善政を説き、人民の幸福旧時の比にあらざることを説明し、其の独立の不利益なることを諭せば、
彼等は始政以来の政治の旧韓国時代に比すれば、善政にして物質的幸福あることは之を認むるも、自由なく独立なき幸福は真の幸福と思はぬと言ふのであった。
之により朝鮮人に忠君の思想なきも、民族意識の熾烈なることを知ることが出来る、
と同時にこの運動の原因動機は米国大統領ウィルソン氏の民族自決主義に共鳴し、示威運動を以って民族的の声として巴里講和会議を動かし得べしと信じたるの外あらざることを知り得べく、
罪を寺内総督以来の政治に帰するは浅薄なる見解なりと認むるのであります。
220 :
世界@名無史さん:2008/08/16(土) 16:38:30 0
光復節の翌日あげ
221 :
世界@名無史さん:2008/08/16(土) 16:55:27 O
自衛隊がまだない時に竹島を侵略した卑劣漢
アホ左翼の宣伝による非武装など役に立たぬ
1945年12月16日、モスクワで米英ソ三国の外相会議、朝鮮の信託統治問題が話し合われ、12月27日発表された。
・独立朝鮮の政府となる「朝鮮民主主義臨時政府(言うまでもないが「大韓民国臨時政府」とは別)」設立を援助するために、米ソ両軍司令部の代表によって「共同委員会」をもうける
・独立朝鮮政府樹立に際して、共同委員会は朝鮮の政党や団体と協議する
・共同委員会が、信託統治案を作成する
・朝鮮臨時政府は、米英中ソ四カ国の信託統治を受ける。(最高5年)その後独立。
発表されたこの案は、ソ連案をほぼ丸呑みしたものであった。米案は信託統治のみで、独立朝鮮政府設立にかんしてはほとんど言及されていなかった。
ソ連勢力伸長を食い止めるのが第一目的のアメリカと、南部でも左派優勢のいま朝鮮政府を設立すれば自然に親ソ政権になるとにらんだソ連との考えの差であった。
このようにして、朝鮮民衆が望んだ即時独立ではなかったが、連合国による朝鮮独立への道筋が初めて引かれた
このモスクワ協定が発表されると、朝鮮民衆は再び猛烈に反発した
光復を迎えたばかりの朝鮮が再び外国勢力に統治される。感情的反発が強まった。
連合国の信託統治の元での政府樹立へ進むか?
民族の誇りに賭けて大国による統治を拒絶するか?
このような民衆の反対の声の中、キーマン7人の対応は以下のようになった。
・賛成…呂運亨、朴憲永、金日成
・反対…宋鎮禹、李承晩、金九、゙晩植
ソ連占領下の金日成、゙晩植に関しては、最後に触れるとして、まず米軍政下の5人に付いて述べる。
朝鮮民衆の猛烈な反対運動のなか、賛成に回った呂運亨、朴憲永は信頼を失墜する。
「統治ではなく後見である」「朝鮮独立が国際的に明確にされたのは大きな一歩」という賛託派の声は民衆の気持ちを逆なでするだけであった。
特に、朝鮮共産党は当初は反託を表明していたにもかかわらず、ソ連の意向を受けて急遽参託に転じた。この急変は、朝鮮共産党に対する民衆の不信感を高めた
韓国民主党ら民族主義右派は、東亜日報で「賛託派はソ連の手先」「信託統治を主張するソ連は朝鮮支配の野心あり」と激しく非難し、民衆をあおり立てた。
だが上記にあるように、信託統治を強行に主張していたのは実はアメリカ案。
ソ連はむしろ早期の独立を提案していたのであり、右派の言動の真意は民衆を反ソに煽り、賛託に回った左派や共産党をつぶすことだった。
そもそも民衆は、右派の報道によってモスクワ協定=大国統治、としか捕えておらず、その後の独立政府樹立まで冷静に考えたものは少なかった。
また、この報道は、もともと信託統治案に懐疑的だった米軍政の思惑もからんでいた
一方、金九ら大韓民国臨時政府は、自らの正当性と民族自決とを無視した大国主義を糾弾して反託に回る。
また米軍政からの即時主権奪回(武力闘争)を主張するものも現れ、臨時政府は米軍政と激しく対立していった。
李承晩も信託統治案に反対する
だが李承晩はもともとアメリカ統治に賛成だったのでは?
そもそも臨時政府を追放されたのも、ウィルソンに委任統治請願書を出したからでは?
…「李承晩は、自らの勢力伸長に信託統治問題を利用した」と言われるゆえんである。
自らの勢力伸長のために、さらに露骨に活動したのが韓国民主党ら民族主義右派であった。
今まで民衆の支持を得られず、チニルパの烙印を押されていた右派は、この問題を勢力伸長の機会と捉えた。上述した東亜日報の反ソ反託キャンペーンで、賛託派を失墜させ、民衆の支持を得て勢力を伸ばしてゆく。
一方で、総督府の統治機構を引き継いだ軍政庁には、日本人が引き上げた後も、多くの総督府の朝鮮人がそのまま行政用員としてそのまま働いていた。
そして軍政疔は引き揚げた日本人官吏の代わりとして、アメリカ留学経験のある朝鮮人有力者を積極的に登用する方針をとった。結果、行政経験者や留学経験者を多く抱える韓国民主党とのつながりは深まっていった。
軍政庁は占領当初は日本人、日本人引き揚げ後は韓民党ら民族主義右派を朝鮮統治のパートナーとしていったのである。
右派(韓国民主党)の方も積極的に米軍政庁とつながりを持ってゆき、多数の党員が行政部や地方行政機関の要職を勤めていった。
そして、当時の軍政下の警務局長も、韓国民主党の趙炳玉。警察権力を掌握する趙炳玉は北部朝鮮からチニルパとして追放された人々を右翼団体として育成、警察の補助組織として用いていった。
彼らは激烈な反共意識を持っており、後の済州島の左派弾圧ぶりに悪名を轟かせる西北青年会もこのとき結成された。
そして趙炳玉は左派である人民委員会(建国準備委員会は、人民共和国建国時に人民委員会と改編された)と、米軍政と敵対する臨時政府を弾圧してゆく。
このように右派は、反託で民衆の支持を得る一方で、米軍政下の治安部門として左派と臨時政府という政敵を弾圧する、二股戦略で政局の主導権を握ろうとしたのである。
元々右派は、信託統治、それもアメリカ単独の統治を望んでいた。かつて土地改革を掲げた建準に対抗するために韓民党を旗揚げしたように、既得権益第一の右派にとって、ソ連の影響は絶対に排除しなければならなかった。
そして、内心では朝鮮の独立は時期尚早、アメリカの庇護は欠かせない。そう考えていたのである。
趙炳玉は語る
「警務部長の地位にある私としては、また韓国民主党の立場から見ても、漢民族の全体的絶対反対意思を合法的かつ自由に民族を挙げて表すことそれ自体には、諸手を上げて賛成をすることができる。
しかしながら、もしこの運動が公安秩序を破壊し米軍政府から権力を奪おうとするものならば、それは却って韓国の自主独立を遅延させ、その障害となると考えざるを得ない。
重要なことは、制限された反信託統治運動を行うことである」
そしてさらに趙炳玉は、宋鎮禹も同じように考えていたと述べる
「即ち古下宋鎮禹先生は…制限された反託運動を主張していた。宋鎮禹はそのことにより暗殺された」
1945年12月30日、宋鎮禹は暗殺。この二股戦略の犠牲者ともいえた。
宋鎮禹暗殺犯韓賢宇(ハンヒョンウ)は、動機として
「宋鎮禹は率先して信託統治に賛成し、この当然の民族的要求に対し鎮圧まで行っていた」
と語った。民衆には右派を米軍政の手先と見る向きもまだ多かったのである。
(林建彦著「韓国現代史」(至誠堂、1976年)には、
「この韓賢宇は早稲田大学専門部卒、中野正剛に私淑していたと言われ、東條英機の暗殺をもくろんだが果たさず、
服役中に終戦となりソウルに戻ったという28才の青年だった。その後特赦を受け、日本にわたる」云々とありました。
中野正剛と東條英機暗殺ってことは、東方会の会員だったりしたのでしょうか?)
宋鎮禹亡き後の韓国民主党は、党首に金性洙(キム・ソンス)を選出した。朝鮮最大の民族資本東亜日報グループの総帥、韓民党最大のパトロンが政治の表舞台に姿をあらわした。
このような右派の反ソキャンペーンを黙認するアメリカに不信感を抱くソ連。
1946年3月26日から開かれた第一回米ソ共同委員会でソ連側は、朝鮮臨時政府に参加できるのは、信託統治に賛成の勢力のみとするよう要請した。
こうすれば反託の右派や臨時政府、李を排除した親ソ政府を立てられるというのがソ連の思惑。親ソ政権を警戒する米軍政にはとても飲めない条件だった。
こうして第一回米ソ共同委員会の会談は物別れに終わる。
信託統治問題により国内の政治勢力は変動した。呂運亨、朴憲永の権威は大きく失墜した。それは民族統一政府を目指す勢力の失墜であった。
米軍政に強力に食い込み、反託反ソキャンペーンで勢力を伸長した民族主義右派。一方で米軍政と対立する臨時政府とは完全に決裂した。
北部朝鮮では、゙晩植が信託統治に反対。これはソ連と決定的に対立する行為だった。その後゙晩植はソ連軍に監禁され、以後政治の舞台から姿を消す。
三・一独立運動以来30年にわたり独立運動を続けてきた金九ど晩植は、民族と自らの誇りを掛けて大国の統治に反対した。
彼らの選んだこの反託運動の最大の弱点は、信託統治に代わる統一政府の代案がついに出せないまま、そして超大国米ソを相手にしての勝算をついに見いだせないまま反託運動に乗り出したことであった。
最盛期には党員50万を要した北部朝鮮最大の政党朝鮮民主党は、゙晩植という実力者を失った後、党首に金日成の腹心崔庸健が据えられたことにより完全に有名無実化してしまう。
そして自らの政党を失った北部朝鮮の地主、資本家は土地改革等により力を奪われていき、民族主義者たちは南部へ逃れて行った。
民族自決の誇りを賭けだ晩植の玉砕戦法がもたらしたものは、北部朝鮮の反ソ勢力と民族主義者たちの壊滅だった。
誇りを賭けて超大国に挑んだこの判断は、逆に統一政府樹立を阻害してしまったのか?やがて金九にもそれを痛感するときがやってくる。
ソ連は共同委員会と平行して、北部の親ソ政権樹立を着々と進めていく。
1946年2月8日、五道行政局にかわる、北部朝鮮における中央行政機関、北朝鮮臨時人民委員会が樹立された。
主席は金日成。主要メンバーは満州派、延安派、ソ連派等の共産主義者が占め、民族主義者の名はもはや見られなかった。
事実上の北部朝鮮の単独政権がここに誕生した。
信託統治を進める国務省の方針は一頓挫しつつあった。かわってクローズアップされるのは、残る軍政庁の方針、自治政府案。
親ソ勢力に対抗する暫定政府を樹立させる、たとえ南部だけの政府になろうとも…
たとえ朝鮮国内が一致して信託統治に賛成していたとしても、米ソが果たして合意に達したかどうかはわからない。
だが、民族分断の危機の時に、米ソを仲裁するどころか国内を二分しての政争、しかもその結果むざむざ分断を促進してしまったとは。
右派が信託統治問題を勢力伸張に利用することがなければ。
左派が感情的な民衆を説得することができれば
民族主義者たちが勝算のないまま信託統治に反対することがなければ
そしてもし民衆が現在の朝鮮の状況を把握してもっと冷静であったなら
民族分断、朝鮮戦争という最悪の結末をあるいはさけられたかもしれないのでは...
現代韓国の歴史家達が長嘆するのがまさにこの信託統治案に対する朝鮮の対応であった。
かくて、朝鮮分断の運命は決した。
たとえ朝鮮南部だけになろうとも親米政権樹立を目指す、それが米軍政の方針。だが、その方針を逆利用、米軍政の力を借りて南北分断をくい止めようとする動きが起こる
朝鮮分断の主導者米軍政と手を組んで分断を阻止する?荒唐無稽な空論か?いや起死回生の妙案なのか?
中心人物は呂運亨と、大韓民国臨時政府の副主席金奎植
朝鮮分断回避の最後の戦い、左右合作運動。そして、それは呂運亨最後の戦いでもあったのだ。
というわけで信託統治問題までまとめました。
見返してみますと、やはりこの段階(1945年中)で統一政府ができていなければ、もう分断は不可避だと思います。
前にもいいましたが、この時代に興味を持った理由が「ハーツオブアイアンのMODを作りたい」なのですが、どうすれば分断回避できるシナリオを作れるか、皆目見当もつきません(´∀`;)
後、今興味を持って調べてるのが、
・貧乏所帯を懸命にやりくりすべく奮闘する韓国光復軍の進捗と、
・朝鮮国内のみならずソ連日本中国を又にかけての分派闘争や駆け引きが繰り広げられる朝鮮共産主義運動の展開です。
いやー両者ともすごく面白いのですが、ほとんど戦闘はない(政争や大国との駆け引きが主)ので、ひょっとしたらハーツオブアイアンにはあまりふさわしくないネタなのかも?とか思いはじめてもいます。
ここで、また参考資料を挙げてみます。他にいい本がありましたら、ぜひお教え下さい
●姜在彦(カン・ジェオン)著「新訂 朝鮮近代史」平凡社 1994
19世紀の江華島事件による開国から、1945年の日本降服までの朝鮮史の概説本です。この本の便利なところは、朝鮮国内外の独立運動、民族運動をほぼ時系列順に網羅しているところです。
光復期の複雑な政治状況と同様、日本統治期の民族運動独立運動は、思想的、地理的、背後勢力とで細かく分かれ、
これらが合併と分裂を繰り返し絡み合う非常に複雑な状況になっており、頭が混乱すること請け合いですw
そんな混乱した時に、例えばあの組織は何と何が合併して結成されたんだっけ?とか、朝鮮国内でこれが起きたとき満州では何が起こってたっけ?とかのときにこの本で手軽にリファレンスできます。
さらに手軽にリファレンスしたい時はサイトですが、
「朝鮮近現代史の講義ノート」
ttp://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/kougi/kougi.htm が便利です
● 高峻石著 朝鮮革命運動史 全三巻 社会評論社 1983
第1巻 日本の侵略と民族解放闘争
第2巻 コミンテルンと朝鮮共産党
第3巻 統一への胎動と朝鮮革命
日本統治期から光復期にかけての朝鮮共産主義運動の解説書です。第三巻は図書館になかったので、まだ読んでいません。
朝鮮の民族運動の中でも共産主義運動は、地理的な幅広さ(朝鮮国内、日本、中国本土、満州、ソ連沿海州)と分派抗争の複雑さ、
諸外国の干渉(とくに水も漏らさぬ弾圧っぷりを見せる日本と、無茶な指令で共産主義運動を振り回すコミンテルン)等が絡み合い、最も複雑です(ホント覚えきれませんよ(´∀`;)
この本はそんな共産主義各勢力や武力団体、青年団体、労働組合等を詳細に掲載。さらに主要人物の解説や、各宣言文やテーゼものっています。
日本語で読める朝鮮共産主義通史の中では最も詳細ではないかな?と思います
朝鮮共産主義運動の概説を知りたい時は、
>>136の漫画や、その原作である
●金学俊著「北朝鮮五十年史」朝日新聞社、1997(現在は加筆修正されて幻冬舎文庫から「知られざる北朝鮮史」と改題されて発売中)
の前半部分などがいいと思います。
●林建彦著「韓国現代史」至誠堂、1976年
著者はサンケイ新聞ソウル特派員。光復〜韓国建国〜朴正熙政権までの通史です
古い本なので、書かれている情報も古かったりしますが、歴史書というより、エピソードたっぷりのロマンチック、ドラマチックな文体が面白いですね。
著者が執筆の動機として
「私は解放の日から朝鮮戦争までの五年間、祖国にかえりついた革命家、亡命政客たちが演じた政治ドラマに、いっそう惹かれるようになっていた
…生涯を祖国の独立と解放のため捧げてきた数多くの独立運動の闘士、革命家、亡命政客の中で、最後まで生きのびたのは、言うまでもなく南の李承晩、北の金日成のふたりの独裁者だけだった
…「祖国に帰りついたとき、あんまり英雄扱いされるので、かえって戸惑いをおぼえた」というある独立運動家の述懐に出会ったとき、私は自らを「偉大なパルチザン闘争の英雄、金日成」と記述する金日成将軍よりも、
夢にまで思い続けた祖国に帰りながら、ついに無力のまま終わった老革命家達の最後に、一層の感慨をおぼえたのだった」という風に書いているところから、何となく文体は想像できるかと思います
たまに「おいこれホントに実話?ドラマチックすぎるだろ!?」というのもありますw。例えば分断政府樹立を阻止する最後の試み南北協商で北部に赴いた金奎植が、金日成との会談で
『金奎植は金日成に向って、ちょうど父親が息子を諭すような口調で話しかけた
「私は既に70の高齢となった人間である.だからいつ死んでも未練はない.しかし君は若い.将来があるのだ.
北朝鮮を君だけが独占して、祖国の領土とそして民族を分裂させるようなことをしてはならない。
今からでもお互い手をつなぎあって、民族自主統一政府を作るために、個人的欲望は捨てようではないか。
そうしてこそ始めて孫子の代まで血を流さないで国威を世界に高め、国権と国力が生まれてくるのだ…」
金日成は恭しく金奎植の手を取ってふかぶかと頭を下げ、「先生のお話は肝に銘じておきます」と答えた』
このエピソードで金日成のヒールっぷりにほれました。光復期がアニメ化されたら金日成のCVは福山潤だなと思ったくらいです
著者の一番のお気に入りは金奎植のようで、冷戦体制という時代の波に乗って政敵を
粉砕し尽くす李承晩と、病身にむち打ち時代の波に真っ向から立ち向かってゆく金奎植との対決はこの本一番のみどころです。
●張君三(チャン・クムサン)著「南北分断の真相 1945-48 その歴史的検証」海風社 1991
図書館で最初見たとき、表紙のデザインからてっきり古い本だと思い手にとらなかったのですが、いざ見てみたら、かなり詳細な解説本でした。
光復前の米ソの思惑から占領、信託統治、左右合作、朝鮮共産党等の左派勢力と韓国民主党等右派勢力の進捗、南北協商、最後の勝者李承晩の路線検証等が書かれています。
光復期に興味がある方なら読んで損はないと思います。
●金俊Y(キム・ジュニョプ)著「長征 朝鮮人学徒兵の記録」 光文社 1991
書名だけでは何を書いた本なのかわからないのが一番のネックです。中共の長征の本でもなければ、「内なる祖国へ」等のような朝鮮人皇軍兵士の本でもありません。
この本は学徒動員された日本軍から脱走し、大韓民国臨時政府の光復軍に参加した学生の自伝です。
次に記す張俊河と脱走中に合流し、以下日本降服時まで二人は行動をともにするので、内容は「石枕」とかなり被っています。
ただ自らの心情中心に書いている「石枕」と比べると、資料本としてはこちらの方が光復軍の沿革や、臨時政府要人たちのプロフィールが書かれており、より良いと思います。
日本語で読める光復軍関連の本の中では一番詳細なのではないでしょうか?
この本は「石枕」より先に読んだのですが、修学旅行時に日本人学生と大げんかしたり、臨時政府でも要人たちをどんどん批判したり、いやー朝鮮の学生らしく過激で直情だなーと思っていたのですが、
後に「石枕」を読んだら、この人はまだおとなしい方なんだということがわかりましたw
すみません、参考資料まだ続きます
●張俊河著「石枕--韓民族への遺書」サイマル出版会 1976
後に、朴正煕政権に対する最も激しい批判者となる張俊河の半生を書いた自伝です。上記の金俊Yと同じく、学徒動員された日本軍から脱走し、光復軍に参加、光復後朝鮮国内に帰国した後までが書かれています。
「長征」には書かれていない、帰国後の臨時政府の情勢や、張俊河から見た安在鴻、宋鎮禹、呂運亨、許憲ら国内要人たちの感想が興味深いところです。
この自伝を読むと張俊河の凄まじいまでの激情っぷりに驚きます。
>>134に書いた臨時政府を爆撃したい発言は、臨時政府の国務委員全員と百人近い在重慶朝鮮人の面前で行ったものです
「…自分たちは近ごろ、この重慶を一日も早く立ち去りたいと思っています…かえってここへは来ずに、ひきつづきみなさんを尊敬していたら、そのほうがずっと幸福だったかもしれません。
…可能なら、ここを去って、再び日本軍に入りたいとさえ考えております。そして、こんど日本軍に入ることができたら、なんとしても日本軍の航空隊を志願することでしょう。
…その暁には、重慶爆撃を志願して、この臨時政府の庁舎を爆撃したいとも考えています。
なぜかと仰りたいんですね。先生方は日本人から蒙った悲しみを、すっかりお忘れになったのでしょうか。
それを雪辱なさる意思がまだ燃えておいでだとしたら、どうして臨時政府では、わが党わが派と争ってばかりいることができるでしょうか。
…われわれがここへやってきたのは、祖国のために死ぬべき道を選ぶためであって、けっしてみなさんに利用されたいために歯を食いしばって彷徨を重ね、やってきたわけではないことをはっきりと申し上げておきます」
張俊河や金俊Yが当時良く語りあっていた言葉に「われわれは決して愚かな先祖にはなるものか」というのがあります。金俊Yは「日本人たちが限りなく憎かった。同時に、国を奪われた祖先たちが恨めしくもあった
…われわれの子孫には決して老革命家(金九たち臨時政府要人)や私自身が味わったような苦しみ、悲しみを抱かせてはならないと念を押した」と「長征」で書いています。
しかし張俊河は「石枕」を読む限り、臨時政府要人も含めて「愚か」と呼んでいるのか?と思ってしまいます。
張俊河が敬服していたのは金九と、光復軍の上官李範ソクのみとすらいえます
(よりによって李範ソクを敬服ってのもちょっと意外なんですけどね。私の中では、韓国建国後李承晩の腹心として政治弾圧を行ったという、あまりいい印象のない人だったんですけど)
激情と熱血が強すぎるあまりささいな事でも許せない性格なのか「石枕」を見ると臨時政府がろくでなしばかりの腐りきった組織かのように見えてしまいますw
またこの本によくあらわれるのは金俊Yと張俊河の仲の良さです。
金俊Yも「長征」で、張兄とは恋人以上に深い絆で云々と書いていますが、張俊河も金俊Yとの初対面を、
「やがて一人が現れた。中国軍の軍服をつけた紅顔の美青年だった。言葉も交わさぬうちからどことなく好感が持てる印象だった」と互いの本で深い絆を語っています。
その後も真冬の荒野で互いに抱き合って夜を明かしたり、金俊Yが、昏倒した張俊河を背負って町中を駆け回り病院を探したりと仲の良さっぷりは腐女子歓喜かも知れません
二人の画像:1945年8月20日撮影、中央が金俊Y、右が張俊河
ttp://image.ohmynews.com/down/images/1/finlandia_80583_17[5].jpg 余談ですが、私は今まで張俊河という人をまったく知らなかったのですが、調べてみると、なかなか興味深い人物のようです。
光復軍大尉にして、維新体制を批判し南北分断体制の打破をめざす民主化の闘士。
と同時に、光復後には李範ソクが結成した右翼団体朝鮮民族青年団に参加したり、
金俊Yとともに「李光洙と崔南善を忍ぶ夕べ」を開催して、チニルパを忍ぶとは軽率すぎると咸錫憲に批判されたりと一筋縄ではいかない様子。
機会があったら、もっと調べてみたい人物ですね。
もっと続けてくれ。
カキコしてなくてもromは多いはずだから。
243 :
世界@名無史さん:2008/10/28(火) 11:32:43 0
草思社活動再開age
244 :
世界@名無史さん:2008/10/28(火) 13:16:12 0
李承晩の歴史なんて、どーでもいい!!
李承晩は考古学が発達した20世紀になっても、周辺地理の歴史を歪曲している奴。
歴史の歪曲だけは許せない!!
世界中の人々、人と人とが挨拶をする時が滅茶苦茶になってしまう。
歴史に関しては歪曲アホ政治家の李承晩ラインを信じて、あーだこーだしている韓国人が世界的にアホに見えて可哀想だ。歴史に対しては無理強いはするな。
韓国人が李承晩ラインを信じて何かを語るならば、日本がかつて朝鮮半島で起こした従軍慰安婦などの問題を謝罪する気もおこらねえ!!
確かに日本統一の度に朝鮮半島に突撃する癖は、朝鮮半島の人から見れば迷惑で可愛そうな事だと思います。その意味で僕は日本国内が再び分裂し乱れない事を願っています。
ところで、奴隷を貢ぐ事によって中国皇帝から信任を得ていた倭の国々に対して、
強力な入れ知恵をしてくれて統一主権国家「日本」へと導いてくれた人ってのは、誰だろうね!?
近畿地方に巨大陵墓を建造して、王にカリスマ性を持たせた政策も賢いアイデアだよね
245 :
世界@名無史さん:2008/11/02(日) 11:08:30 0
韓国が李承晩ラインのような歴史歪曲政策をとるならば、かつての戦争による謝罪も棚上げにするべきだと思う。
韓国とは戦争したことないけどな
247 :
世界@名無史さん:2008/11/02(日) 17:25:14 0
融和的にしていたら、韓国は「李承晩ライン」みたいな適当な歴史歪曲政策で、日本から領土を割譲しようとしている。
最近の事態はもう一度、新羅に領土割譲された屈辱を晴らすべきではないかとも感じる。
248 :
世界@名無史さん:2008/11/02(日) 17:46:22 0
「李承晩ライン」は周辺外交が乱れる要因になるので止めてください!!
歴史に対する無理強い観念だけは絶対に起こすな!!
249 :
世界@名無史さん:2008/11/12(水) 17:39:39 0
韓国側が歴史問題を重視しないのなら、従軍慰安婦の問題もどーでもいいではないか?
ところで本当に従軍慰安婦問題なんてあるの、歴史歪曲が好きな韓国のデマじゃないの?
250 :
世界@名無史さん:2008/11/19(水) 00:29:45 0
韓国は人気のある高句麗(北側)の王より、朝鮮半島を最初に統一した新羅(南側)の王の方を盛り上げて下さいよ。
それと古代朝鮮半島にあった日本領土(加羅・任那)も認めて下さいよ。
でないと神功皇后が朝鮮出兵して出来た朝鮮半島の日本領土(加羅・任那)と、新羅が朝鮮半島を統一した際に対馬から近畿地方までに建造された石塁や城跡の歴史的説明が出来ないのですよ。
高句麗ってどう考えてもたまたま半島北部も占領しただけの満州国家だよなw
全くだ。満州人に失礼だよ。
>>250 高句麗を持ち上げて新羅を貶しているのは
韓国よりむしろ北朝鮮のほうなんだが……。
最近はやや沈静化しているものの、軍事政権時代の韓国では新羅のほうがもてはやされていた。
>>253 そりゃ韓国の領土は高句麗と関係ないからな
百済は高句麗の分国という説もあるが
なるれす
256 :
世界@名無史さん:2008/12/09(火) 19:00:10 0
>253
僕は日韓の歴史観を合わせる意味で、韓国に「新羅の武烈王」を持ち上げて欲しいですね。
朝鮮半島から日本人を追い出した後は対馬に攻め込まず、百済・高句麗の征圧に勤めていったから、南から朝鮮半島を統一していった意味で韓国側に合うと思うし、韓国人の歪んだ対馬の歴史観も解消できると思う。
韓国側が「新羅の武烈王」を大いに盛り上げるならば、日本からも斉明天皇や中大兄皇子を出演させて韓国メディアのバックアップをするべきだと思う。
>>256 お花畑w
あの左巻き学者でも合わせられないものを…
だいいち、チョンは最初から合わせるつもりもないのに…
高句麗は中国史だと思うんだよね、でもキムチは絶対認められないだろうけどw
そもそも朝鮮には新羅の文化(シナルートではなく南方ルートで渡来した独自の新羅仏教や花郎道)
は何も残ってないじゃないかw
新羅と高麗・李氏朝鮮の対中政策の違いは同じ民族の国家に見えない
まあ時代状況の違いかもしれんが
同じ新羅でも中国と没交渉だった初期と中国と関係が深まった
中期と国境を接していた統一期では対中政策全然ちゃうわね。
263 :
世界@名無史さん:2009/02/07(土) 17:11:23 0
李承晩て男系で李成桂の血引いてるの
結局今の朝鮮のルーツは李氏朝鮮、せいぜい高麗からだろ
新羅以前とは古代ギリシア・エジプトと今のギリシア人やエジプト人くらい関係薄い
265 :
世界@名無史さん:2009/02/21(土) 23:01:14 0
新羅の武烈王は多くの苦労の上で、朝鮮半島を統一した。
金正日のような苦労知らずの馬鹿げた話題性に比べれば、遥かに良いだろう。
武烈王と金ユ信のコンビだな
この二人のようなのがその後も定期的に現れてれば半島も少しはましになったんだろうが
http://www.chosunonline.com/news/20090308000003 「北朝鮮現代史の理解のため、粛清された人物の研究を」
『崔昌益研究』を出版した慶南大・沈之淵教授
政治学研究の重鎮・沈之淵(シム・ジヨン)慶南大教授(66)が、北朝鮮の副首相を務めた崔昌益(チェ・チャンイク)の研究書を発行した。最近白山書堂から出版された『崔昌益研究』がそれだ。
崔昌益(1896−没年不詳)は、1928年の第3次朝鮮共産党事件にかかわり7年近く獄中で過ごした後、中国へ亡命、その後中国共産党の本拠地だった延安で抗日闘争を展開した人物だ。
朝鮮義勇軍の組織と独立同盟の創立で主導的役割を果たした崔昌益は、キム・ドゥボン、武亭(ムジョン)らと共に「延安派」の指導者の一人だった。
解放後直ちに北朝鮮へ戻った崔昌益は、朝鮮労働党の創立と北朝鮮の政権樹立に積極的に参加し、副首相や財政相まで務めた。
しかし1956年、当時のソ連共産党第一書記フルシチョフによるスターリン批判運動に合わせ、金日成(キム・イルソン)主席を批判したところ、反党分子として追われ、粛清された。
(中略)
沈教授は崔昌益の研究に先駆け、『李康国(イ・ガングク)研究』(2006年)と『李舟河(イ・ジュハ)研究』(07年)を相次いで出版した。
いずれも日帝強占期や解放直後の共産主義運動を率いた指導者たちだが、北朝鮮で粛清され、批判される中で忘れられていった。
韓国の保守政党の母体である韓国民主党(韓民党)研究で初めて学界にその名が知られるようになった沈之淵教授が、北朝鮮で粛清された人々に注目する理由は何か。
沈教授は「南北どちらの側でも記憶されていない人物ということで、さらに関心が湧いた。この人たちに対し、韓国現代史の中でしかるべき場所を見出したい」と語った。
268 :
世界@名無史さん:2009/04/17(金) 16:20:37 0
しまった、こんなのやってたのか、途中からしか見れなかった
併合時の朝鮮文学は「三枝寿勝の 「韓国文学を味わう」」という面白いサイトがあるが
併合時の朝鮮映画が取り上げられたのって初めてじゃないかな?
----------
2009/04/28 22:25〜22:50 の放送内容 NHK教育
知る楽 歴史は眠らない 韓流シネマ 抵抗の軌跡 全4回 第1回
韓国映画の隆盛の陰には朝鮮半島の熾烈な現代史がにじんでいる。映画人はいかに時代と格闘し、自らの表現を獲得してきたのか。当事者たちへの取材を通して探る。(全4回)
植民地支配下で産声を上げた韓国映画。2004〜2005年にかけて、1940年前後の映画のフィルムが中国で発掘され、韓国近代史の空白を埋める資料として注目を集めている。
「内鮮一体」が叫ばれた時代に、「アリラン」で民族意識を覚醒(かくせい)させたナ・ウンギュ、そして日本の国策への協力を迫られた映画人たちの軌跡をたどり、日本の植民地支配の矛盾を描く。
出演 【ゲスト】映画プロデューサー…李鳳宇,【語り】和田源二
盧武鉉が亡くなりましたが、
なんか「登山中に転落死」という死に方が
>>239の張俊河と被りますな
まあ現時点で盧武鉉は自殺と言うことですが…
wikipedia:張俊河
釈放後は、以前にも増して精力的に民主化運動に尽力したが、1975年8月17日に京畿道抱川の薬師峰で登山をしている最中に、謎の死を遂げた。
遺体は、耳の後ろにピッケルが打ち込まれたような大きな傷があり、高い絶壁から墜落した形で発見され、他殺説が浮上したが、警察は転落死と発表した。
271 :
世界@名無史さん:2009/05/24(日) 13:10:38 0
272 :
世界@名無史さん:2009/05/24(日) 13:56:49 0
盧武鉉ほどの偉大なスパイでも末路は哀れなものだ。
273 :
世界@名無史さん:2009/05/24(日) 16:12:05 0
酸っぱい葡萄でも先祖が食べたんだろう
274 :
世界@名無史さん:2009/05/25(月) 08:59:44 0
275 :
世界@名無史さん:2009/05/25(月) 10:28:18 0
李承晩も前大統領も何も偉くないよ。
前大統領の場合、本命は金の問題ではなく、北朝鮮との不正な関係だ。
金の問題だけなら、韓国の大統領だった連中があんなことはしない。
金大中も金日成に大金を渡して南北会談をセットしたが
前大統領の場合、それ以上のことをしていたようだ。
南ベトナムのグエン・カオ・キと同じようなもんかと
最近ではマリキとかカルザイとか
仮に自殺を本当のことと認めたとしても
盧前大統領の末路は歴代でも1,2を争うくらいに惨めだな
在任時の不正追及に断固徹底抗戦することなく
追い詰められて自殺だなんて
責任逃れも甚だしすぎて、呆れてものも言えないな
在野時には労働運動の弁護活動で頑張ったのに
権力の甘い汁をすすり過ぎたせいでヘタレたのか?
278 :
世界@名無史さん:2009/05/27(水) 05:14:32 0
こんなのが建国の父だなんて、韓国人は情けなくて涙が出るだろう
世界の国父(カッコ内は伝説上)
日本:天武天皇(神武天皇)
中国:毛沢東
韓国:李承晩
北鮮:金聖柱
米国:G・ワシントン
英国:征服王ウィリアム1世
仏国:シャルル・ド・ゴール
独逸:コンラート・アデナウアー
露国:ユーリー・ドルゴルーキー
李だけ小物すぎだろうww
281 :
世界@名無史さん:2009/06/03(水) 02:29:13 0
何も偉くないです。
金大中や前の大統領と同じく、クズ です。
282 :
世界@名無史さん:2009/06/03(水) 02:34:10 0
どうも前の大統領は、西ドイツのブラントと類似ケースのようだ。
北のスパイに取り囲まれていたか、
本人自身が関与していたか…
反政府側が攻勢を強めているのは、この捜査をやめさせようとしてのことらしい。
283 :
世界@名無史さん:2009/06/03(水) 11:55:54 0
280 :世界@名無史さん:2009/06/01(月) 20:28:17 0
世界の国父(カッコ内は伝説上)
日本:天武天皇(神武天皇)
中国:毛沢東
韓国:李承晩
↑
日本は「神武天皇」。
毛沢東ではなく、国民党も共産党も国父は「孫文」という立場だったと思う。
韓国の小物ぶりは可哀そうなくらい。
もっとも北朝鮮も、ニセ金日成のデタラメだけど。
ソ連のバックがなけりゃ「李」より小物、というより無名のチンピラ。
金聖柱は少なくとも李よりは有能
285 :
世界@名無史さん:2009/06/03(水) 20:59:09 0
日本嫌いの李承晩だったが
親日派をやり玉に上げようとか思わなかっただけ、
盧武鉉より李承晩の方がマシだったかな。
286 :
世界@名無史さん:2009/06/05(金) 07:33:19 0
当時「親日派」を槍玉に挙げようとしたら国民全部を対象にするしかないわな
287 :
世界@名無史さん:2009/06/06(土) 04:46:17 0
>>285 盧武鉉より李承晩の方がマシだったかな。
確かに。李承晩は北のスパイってことはないだろうから。<多分>
盧武鉉は、いよいよ怪しくなってるが、親北派が大衆扇動で騒ぎ大きくし
捜査の進展が困難な状況が出ているらしい。最悪の場合、核開発への何らかの
協力的な疑惑もあるようだと見る向きもある。金賢姫の事実上の軟禁状態のように
北の犯罪隠蔽に関する直接指示の疑いも出ている。無論その陰には金の疑惑もある。
288 :
世界@名無史さん:2009/06/06(土) 07:42:46 0
文旨不明
韓国軍が赤軍大粛清後のような惨状になって
米軍が来る前に釜山陥落だろうな
済州島しか残らん。
290 :
世界@名無史さん:2009/06/08(月) 21:09:00 0
李承晩って人は何かこう、政治家として器の大きいようなところがあったのだろうか。
リーダーとしてここは優れていたってエピソードを誰か知らない?
291 :
世界@名無史さん:2009/06/09(火) 05:18:25 0
こんな奴しか大統領にせざる得なかったほどの人材不足の時代
292 :
世界@名無史さん:2009/06/09(火) 10:27:26 0
293 :
世界@名無史さん:2009/06/09(火) 17:18:23 0
世界の独裁者リストに入る李承晩w
>>285 「チニルパ」を排除しなかったというのは語弊があるかと
李承晩が韓国で大きな力を持った理由の一つとして
「政敵に「チニルパ」「共産主義者」のレッテルを自在に貼れる」ことがあります
日本統治時代朝鮮で活動していた独立運動家は、多かれ少なかれ総督府や日本とつながりを持っていました
(日本に屈してたというだけではなくて、日本統治下で生活したり政治運動するためには当たり前のことだったのですが)
ので多かれ少なかれ「チニルパ」と呼ばれる可能性があったのです
実質的にも日本の協力者であった韓国民主党や金性洙はもちろん、
左派である呂運亨も「日本軍に逮捕されたとき、総督府の尽力によって釈放されたからチニルパ」
「終戦直後、総督府から統治権を譲り受けようとしたからチニルパ」
朝鮮共産党で朴憲永の腹心であった李承Yでさえ「戦時中総督府の食料配給組合で働いていたからチニルパ」と政敵から非難されたものです
一方海外に亡命していて日本と全く接点を持っていない李承晩は「チニルパ」とは絶対に呼ばれない人物です
その立場を最大限利用した李承晩は、あたかも絶対不可侵の審問官のように政敵に「チニルパ」のレッテルを貼り葬り去っていきます。
自分の味方の時は「チニルパ」のレッテルを封印し、政敵になったとたんにレッテルを貼付ける攻撃も行いました
終戦〜朝鮮戦争まで腹心として働いた趙炳玉。彼が李承晩政権で働いている間李承晩は決して「チニルパ」のレッテルを貼りませんでしたが
朝鮮戦争下の大スキャンダル「国民防衛隊事件」を巡って趙炳玉と衝突して以来、李承晩は趙に「チニルパ」のレッテリを貼り徹底的に攻撃します
つまり李承晩は「「チニルパ」を排除しなかった」のではなく
「チニルパ概念の私物化」で政権を維持しようとしたというのが正しいところでしょう
パク・チョンヒや、腐敗はしたけどチョ・ドファンやノ・テウの行動はまだ理解できるのは
彼らが日本の士官学校卒だからだろうか
296 :
世界@名無史さん:2009/08/18(火) 16:06:47 0
297 :
世界@名無史さん:2009/10/16(金) 19:45:56 0
299 :
世界@名無史さん:2010/02/16(火) 04:30:03 0
保守兼たまには書籍紹介を
●文京洙著「韓国現代史」岩波新書
済州島4・3事件の研究で著名な文京洙が書いた現代概説史
(こういう学者や、済州島4・3事件の研究が進展したのは盧武鉉政権の良い面といえるでしょう)
この書籍の特色の「周縁から見た韓国史」や、済州島4・3事件等語りたい部分はいろいろあるのですが、
それは後日としまして
とりあえず光復期の記述としては「建国準備委員会は「下からの革命」論」が独自と言えます
建準は呂運亨等のイニシアチブで作られた「上からの」ものではなく、日本統治から解き放たれた人々が自発的に作り上げた、草の根の住民組織だった。
そして建準と、それが発展した人民委員会が最も強力だったのが、朝鮮の「周縁」済州島であった。というのは結構面白い説ですね
光復期〜韓国北朝鮮建国までが一章しかなかったり、著者のメインテーマである済州島に大きな比重がさかれていますが、それでも数ある韓国史の中では、光復期の記述が多い方ですので、この時代に興味のある方には一読の価値有りでしょう
同著者の「済州島4・3事件」関連の本も、この時代フリークは必見です。
従来の韓国の書籍で描かれた「済州島人民委員会=北朝鮮の手先」という単純な見方よりも刺激的な、
複雑な一面を知ることが出来るでしょう
李承晩ってなんかジンバブエのムガベと共通点多いよな
徹底した嘗ての
二人とも建国の英雄と言われても良い立場なのに
徹底した嘗ての反宗主国政策、経済的無策、自国民虐殺
後に自らの権威は大幅に失墜・・・
建国の父が亡命するってすげえよな
ただその2人の共通点は、
ムガベが民衆に請われて自力で建国したのに対し、
李承晩は明らかに火事場泥棒のタナボタであること
アフリカの「建国の父」ってムガベみたいなのばっかだったから
マンデラも政権取ったらムチャクチャするかと思ってたらそんなことなかったぜ
304 :
世界@名無史さん:2010/05/05(水) 19:19:59 0
昨年から今年にかけ韓国の原発輸出に関連して、韓国マスコミが珍しく李承晩大統領を褒めていた。
周囲の反対を押し切って原子力研究を始めさせたのは、李承晩の先見の明だってことで。
305 :
世界@名無史さん:2010/05/07(金) 16:58:57 0
>>303 アフリカの英主というと、ボツワナのカーマ大統領だろうか。
ダイヤモンド鉱山の発見が今に繋がっている面はあるが、
散財せずに国内の教育とインフラに注いでいなかったら、
今の安定はなかっただろう。
306 :
世界@名無史さん:2010/06/14(月) 13:51:43 0
そんな旦那の無能を弁護するようなもの
誰が信じるかってーの
Agreement
309 :
世界@名無史さん:2010/07/25(日) 11:01:38 0
フランチェスカ夫人は3カ国語が話せて結婚前は国際連盟に勤めていた才女(実家もお金持ち)。
李承晩とは25歳の年の差結婚だったんだな。そういう点は李承晩もなかなかやるよね。
310 :
世界@名無史さん:2010/07/25(日) 23:48:15 O
今
>>1からずっと読んできたんだが、まだ完結してないんだな
何年目になるんだずっと書いてる人。とても興味深いので、専用サイトつくって完結させてください
311 :
世界@名無史さん:2010/09/02(木) 18:37:13 0
木村幹教授がツイッター始めたage
312 :
世界@名無史さん:2010/09/02(木) 19:32:28 0
李承晩ラインとかはまあ動機として分からなくはないけど、
自分の国の国民を大量にあの世送りにした保導連盟事件は
ちょっと理解できないし背筋が寒くなる。
再教育とか北に追放とか他にやりようはあったろうに。
保導連盟事件
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&v=s7KtEclhqA0 保導連盟事件とは、1950年6月25日の朝鮮戦争勃発を受けて、李承晩大統領の命令によって韓国軍や韓国警察が
共産主義からの転向者やその家族を再教育するための統制組織「国民保導連盟」の加盟者や収監中の政治犯や民間人など、
少なくとも20万人あまりを大量虐殺した事件
この事件は韓国現代史最大のタブーとも言われ、軍事政権下はもちろん、その後も口に出すのも憚られると言われてきた
2008年1月24日、盧武鉉大統領は保導連盟事件の犠牲者追悼式に送ったメッセージで、国家権力の不法行為に対して包括的な形で謝罪を表明した
(Wikipedia)
314 :
世界@名無史さん:
まあ太平洋戦争中の日本でも、スパイ容疑で殺された沖縄の民間人がいたからな。
それと同じことが日本全国でもっと長期間起きたと考えれば、被害者はやはり万の
単位になるんじゃなかろうか。