■長江江南デムパの秘孔を突きまくるスレ■

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1弥生の拳

おまえは既に・・・・・





死んでいる。



2世界@名無史さん:2007/04/17(火) 17:31:22 0 BE:315180239-2BP(4731)
>>1はアミバ
3水 株主【whis:146/1764=8.27(%)】 ◆TCygujgOWY :2007/04/17(火) 17:32:44 0 株主優待
janeは名前保存してくれないんだよなぁ。
ギコナビは板別に固定設定あるから楽なんだよな。
4世界@名無史さん:2007/04/21(土) 02:29:03 0
隔離スレですかい
5世界@名無史さん:2007/04/21(土) 20:55:37 0
高床式倉庫はシベリアやアムールにも見られる。


◎ケート Ket

中央シベリア、エニセイ川中流で伝統的漁撈・狩猟生活を送るケートと、
押し寄せる近代文明の点描。

自然環境(森、川、川岸の村)、川岸のチュム骨組に樹皮布を掛ける
(煙突は真上に出る)、製作中丸木舟に穴を開ける(火おこしの形を
した錐)、川に漕ぎ出す、魚(トナカイ肉?)を干す、日常生活
(洗濯物、子供のブランコ、食事、墓)、呪いの杭にトナカイの頭蓋骨
が掛かっている、★高床式蔵小屋★、素晴らしいアクセサリーの着いた
シャマンの枠太鼓、
http://tokyocinema.net/centralsiberialist.htm
6世界@名無史さん:2007/04/21(土) 21:01:00 0

ハントィ:自然環境、家屋等に関すること(家の飾り・トナカイ頭蓋骨、
デコイ、★高床式の狩猟用倉庫・鼠返し★、季節物衣料の取出し)

コミ:自然環境、家屋(木造家屋、隙間を苔で埋める)、狩猟(移動に
スキー、犬、鳥を餌に罠を仕掛ける、狩人寝床の用意、毛皮を剥ぐ)、
★小型高床式倉庫(狩猟用荷物、獲物を仕舞う、鼠返し)★、歌

マンシ:自然環境、家屋(丸太小屋、東側の外壁についた呪いの
ような物)、★高床式倉庫★、漁猟舟の櫂類、創生期に関する昔話、
http://tokyocinema.net/westsiberialist.htm
7世界@名無史さん:2007/04/22(日) 20:13:42 0

これは銛を使ってクジラを捕っている線画だが、アム−ル川下流域と
サハリン北部のニブフもまた、板をつなぎ合わせた板船に5-6人で
乗り込み、アザラシやサケなどの捕獲を生業にしていた。
地吹雪のなかを訪問した北方民族館には、このニブフに代表される
北海の海辺と河川の民の風俗や生活用品の数々が陳列されていた。
彼らは、冬には保温性の高い竪穴式住居に住み、夏には魚干し棚や
★貯蔵庫のある高床式住居★で暮らし、衣装には木綿や魚皮で作った
布を用い、白樺皮製の帽子をかぶり、アザラシ皮や魚皮の靴を
履いていたようである。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/7754/liuhiyounoshiluet.htm
8世界@名無史さん:2007/04/22(日) 20:17:06 0
ウリチ人とニブフ人は一年中定住村の住居と作業場兼用の建物に住んでおり、
ナナイ人、ネギダル人、オロク人、オロチ人、ウデゲ人は、冬は森の中の
定住村に住み、夏は魚の採れる川岸の季節村に移りました。定住村も季節村も
川岸に沿って細長く展開し、それぞれの住居は互いに離れており、そばには
★高床式の納屋★がついていました。
http://www.npec.or.jp/northeast_asia/cultural/index.html

その他に、水がめ、料理するためのもの、魚皮なめし具、臼、織物を
する道具、糸まき、肉や魚を料理する時に使う道具、はし、食べ物を
保存するためにつくられた★高床式の倉庫★の模型、木の枝と泥でつくられる
家の模型、漁や交易に使う船(実物ならば700キロも載せられる)の模型、
鹿や魚を捕る為の道具などがありました。
http://members-ftp.jcom.home.ne.jp/pinkorai/1eastnanaipink.htm
ナナイ人(ホジェン)の高床式倉庫(模型)
http://members-ftp.jcom.home.ne.jp/pinkorai/nanai181.jpg.jpg
9世界@名無史さん:2007/04/23(月) 17:07:47 0

ナナイ人は、現在400人程度いてハバロフスク市内から約1時間15分
ぐらいのアムール川の近くに集落があります。東洋系の顔でなぜか親しみを
感じました。生活は国から、援護を受けていて仕事はしなく、川で釣り
ばかりしているそうです。家は、小さくてみすぼらしく、貧しさが感じられ
ました。村長は特別扱いみたいで、家も立派で学校より大きく丘の上にあり
権威の象徴を感じました。
http://www.toya-kohei.jp/cgi-bin/diary/wwwnikki.cgi?view=kako20050807.html

ナナイ人の高床式食糧倉庫
http://www.toya-kohei.jp/cgi-bin/diary/graph/20050807-1123390934.jpg
10世界@名無史さん:2007/04/23(月) 17:12:07 0
高床式建物を、

主に住居として利用しているのが南方系の高床式建物文化。
主に倉庫として利用しているのが北方系の高床式建物文化。

日本の弥生人たちが利用していた高床式建物文化は、
住居、倉庫、さてどっち?

ちなみに江南の河姆渡遺跡の高床式建物は住居の方である。

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%B2%CF%D5%A8%C5%CF%B0%E4%C0%D7%A1%A1%B9%E2%BE%B2%BC%B0&fr=top_v2&tid=top_v2&ei=euc-jp&search.x=1
11世界@名無史さん:2007/04/24(火) 15:19:53 0
鳥居の登場は8C。


鳥居の起源については諸説あるが、確かなことは分かっていない。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から引きずり出す
ために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を
置いたことが起源であるとする説、インドの仏教やヒンズー教に
みられるトラナや中国の華表など海外に起源を求める説などがある。
いずれにせよ、8世紀ごろに現在の形が確立している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85

8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
12世界@名無史さん:2007/04/25(水) 15:50:41 0
抜歯は世界中の原始社会で見られるが、日本では先土器時代から行われ、
風習としては4000年前頃に仙台湾周辺で始まる。


抜歯の儀式は、世界の狩猟採集民族のなかでは、比較的あたりまえに
行われていて、それほど奇習というわけでもないのです。現在でも
アフリカ、東南アジア、オーストラリアの一部の民族に残っています。
http://www.city.fujiidera.osaka.jp/rekishitanbou/kodai/kodai-64.html

原始・古代の世界中に、抜歯風習はあったという。ことに長く続いたのが、アフリカ、
中国、日本だとされてますね。中でも目立ったのが、縄文・弥生の日本列島。
http://www5.ocn.ne.jp/~vorges/sub12..html

歯を抜いたり、歯を削り歯を飾る風習は、日本だけでなく中国、台湾、
アジア、オーストラリア、アフリカにもみられた。
http://www.dent-kng.or.jp/chishiki/museum/hakubutukan/wa_bassi/index.htm
13世界@名無史さん:2007/04/25(水) 15:52:15 0
佐倉市にある国立歴史民俗資料館の春成秀爾氏によると、抜歯そのものは
縄文時代以前の先土器時代にもあるが、風習としての抜歯は約四千年前頃に
東北地方の仙台湾周辺ではじまり、それ以後に関東地方をはじめ全国に
広がったという。国立歴史民俗資料館前館長の佐原真氏によると、こうした
抜歯は現在でも世界のいくつかの民族の間に風習として残っており、
子どもから大人になるための儀礼(成人儀礼)としての事例、近親者が
亡くなると歯を抜く事例、勝利の明かしに捕虜から歯を抜く事例などが
あって、このうちも最も多いのは成人儀礼にともなう抜歯であるという。
http://www.jona.or.jp/~ichiyomi/rekisi/index4.html
14世界@名無史さん:2007/04/26(木) 16:55:51 0
刺青はBC50Cには既に登場している。


紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて?

日本人が最初に入れ墨を取り入れたであろうと想像できる縄文時代の土器が
発掘されています。縄文土器にあしらわれた顔には埋葬者を守る意味合いを
持つ神秘的な「入れ墨」のようなものが認められ、これが入れ墨として
記録されている世界最古のものではないかと想像されています。
また、日本原住民族であるアイヌには優れた入れ墨技術があったものと
思われます。
http://www.ta2.com/tattoohistory.html
15世界@名無史さん:2007/04/27(金) 13:02:18 0
半月型石包丁は満州南部を経由している。




龍山文化(紀元前30世紀−前20世紀)の特徴的な半月形石刀が、
吉林、永吉、?安、?春、通化、桓仁などで出土。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/tungus-tsusi/tungus-tsusi-1-gaiyou.htm




16世界@名無史さん:2007/04/28(土) 20:56:28 0
鵜飼は満州や朝鮮半島にも見られる。


満州の京都ともいわれた古都吉林の松花江の鵜飼は6月から9月までの日中に
行われる。鵜縄をつけずに川に放った鵜が魚をくわえると網で船にすくい
あげて吐かせるという満州式の鵜飼であった。
http://www.jiyuu-shikan.org/store/video/206.html

日本の鵜飼いは、鳥居氏に便乗すれば、江南よりも朝鮮や満州の
北方民族から伝わったのかもしれません。鴨緑江や松花江などでも
鵜飼いは見られます(注9)。
http://www.han.org/a/half-moon/hm080.html
17世界@名無史さん:2007/04/29(日) 22:20:50 0
丸木弓は弓矢が普及する中石器時代の代表的な遺品として北欧から出土している。


弓矢が普及するのは、中石器時代(→石器時代の「中石器時代」)以降と考えられている。
矢は、旧石器時代の槍(やり)や投げ槍にくらべて携帯に便利であり、動物相の変化に
より小型獣を狩猟対象とするようになった当時においては格段に効率的な狩猟具であった。
なお中石器時代に属するマグレモーゼ文化期(前8000〜前5600年)の弓として、
ホルメゴール遺跡(デンマーク)からイチイガシ(→ カシ)製丸木弓が全形で出土しており、
当時の代表的な遺品とされている。

http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_1421501287/content.html
18世界@名無史さん:2007/04/30(月) 04:32:50 0
そんなもん張まくらんでも、大和民族は心配いらん。
19世界@名無史さん:2007/04/30(月) 23:02:16 0
日本刀が完成するのは平安時代後期頃で、それまでは鉄剣や鉄刀であった。


古墳時代には武器の鉄製化も進んだ。刀剣では、それまでの銅剣に代わって
鉄剣が作られた。一般的に、両刃を剣とし、片刃の刀と区別している。
なお、古墳時代の刀剣は、のちの日本刀に見られるような反りはない。
刀に反りができるのは、平安後期以後である。
http://www.yurihama.jp/town_history/2hen/1syo/04040400.htm

平安時代後期、特に武家勢力が活発になった前九年の役や後三年の役あたりから
武家の勢力が増大し、これに伴い太刀が発達し、通常これ以降の物を日本刀とする。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%88%80
20世界@名無史さん:2007/05/01(火) 22:34:35 0
貫頭衣は単に人類最初の服装の形で、古代から現代まで世界中に見られる。


●貫頭衣 (かんとうい)
一枚の布を2つに折り、その折り目の中央に穴をあけ、そこから頭を貫いて
(通して)衣服としたもの。エジプト時代から見られる原始的な衣服の
形式である。ポンチョやガラビアなどもこの一種。
http://style.beauty.yahoo.co.jp/fashion/dictionary/232_4.html

人類最初の服装の形は一枚布であったり、一枚布の真ん中に穴を開けて
被るという貫頭衣というシンプルな形であった。
http://homepage1.nifty.com/mottoi/kokusai8.htm

人類の衣服の工夫の中で最も単純な基本形として、貫頭衣の分布は広いが、
南米アンデス諸国に見られるポンチョがその代表的なものとされている。
http://www.h6.dion.ne.jp/~fu35/minzokuHP/ajia/indonesia.htm
21世界@名無史さん:2007/05/01(火) 22:38:51 0
西洋(エジプト文明、ギリシア文明、ローマ)では、もともとの
衣服は男女とも布を体に巻き付ける形式か、貫頭衣(大きな布に穴を
開け、そこから頭を出して着る)の形式でした。スカートみたいに
下が空いている服が、先にあったわけです。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=884804&rev=1

古代ローマ時代の貫頭衣のような、一枚の布の頭の部分をくりぬいた
だけの服を着ていた。
http://home.att.ne.jp/red/senseofwondr/mou2.htm

古代中国もローマもギリシャも布を纏うか貫頭衣であった。
http://www.lcv.ne.jp/~yokota/contents/mumble/ykt/970410.htm

ローマ時代のイタリアでは男性はトーガという貫頭衣
http://www.psats.or.jp/psats.or.jp/column/nakamura027column.html
22世界@名無史さん:2007/05/01(火) 22:43:00 0
モロッコ;マラケシュ以来久々に見つけたインターネット屋に入ると、
国民服とでも言うべき水色のゆったりとした貫頭衣と黒いターバンを
目だけ出して口元まで巻いたサハラ地方独特のスタイル
http://world-reader.ne.jp/travel/e-yamada-000414.html
<マッキノウズ>
元来は北米原住民が着ていた貫頭衣式のブランケット式の外着。
http://www.geocities.jp/fashionarekore/aparrelma.htm
マヤ文明が栄えたグアテマラ周辺の女性が着用するウィピルと
呼ばれる貫頭衣をイメージ。
http://www.watch.impress.co.jp/game/docs/20060703/dol.htm?ref=rss
アラブの男性の衣服と言えば、寸胴の貫頭衣に袖をつけた程度の簡単な作り
のワンピースである。サナアでは一般的にはザンナと呼ばれている。
ソウブ・衣服ともいう。エジプトではガラベーヤ、サウジアラビアでは
ディッシュダーシャと言われている。
http://forum.nifty.com/fworld/pictures/yemen0212/05.htm
23世界@名無史さん:2007/05/02(水) 17:21:38 0
歌垣は8C頃に筑波あたりで始まる。


日本の古代の歌垣の場として知られている場所には,摂津の国「歌垣山」,
大和の石榴(つば)市・軽市,肥前杵島岳,などがあるが,筑波山は,
その歌垣の場の最も古く,最も著名な場のひとつであった。

その起源は,『常陸国風土記』によれば,神祖の尊が新嘗祭の夜に子供
である富士山を訪ね一夜の宿を請うたが断られ,別の子である筑波山に
宿を請うたところ,心良く招き入れられ,歓待を受けた。神祖の尊は,これを
いたく喜ばれ,「愛しき子の坐す宮は,高くそびえ,日々とともに,人々が集まり
ことほぎ,飲食(みけ)豊かに,代々絶えること無く,日に日に弥栄え,
千代万歳に,遊楽は尽きることがないであろう」と詠われた。これより後,
富士山は常に雪に覆われて登れず,筑波山には人々が行き集い,歌や舞が供され,
宴が繰り広げられるようになった・・・とされている。
http://tamagaki.hp.infoseek.co.jp/kume1.htm
24世界@名無史さん:2007/05/02(水) 17:23:47 0
常陸国風土記(ひたちのくにふどき)は、奈良時代初期の713年
(和銅6年)に編纂された、常陸国(現在の茨城県の大部分)の
地誌である。

元明天皇の詔によって編纂が命じられた。編纂者は詳しくは不明だが、
藤原宇合や高橋虫麻呂らが関与してると言われている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98

713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
25世界@名無史さん:2007/05/03(木) 17:22:40 0
魏志倭人伝には倭人が断髪をしていたなんて書かれていない。
倭人の男子は皆、髪を結って露わにし、木綿を頭に巻いていたと書かれている。




男子皆露紒 以木緜招頭

http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/1/yayoi_2.htm
http://www.lib.nakamura-u.ac.jp/e-lib/wa/wa.pdf



26世界@名無史さん:2007/05/04(金) 13:54:41 0
糸引き納豆の登場は室町時代頃で、なれずしは3C頃。


平安時代の文献にも塩辛納豆の名は残っているが、一般に広まったのは
室町時代以降でこの頃から糸引き納豆も登場しており区別するために
塩辛納豆を久喜と呼び糸引き納豆を単に納豆と呼ぶようになった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%8D%E8%B1%86

なれずしの歴史は古くて、紀元前には中国で食べられていたらしいんだ。
それが三世紀頃に日本にも伝わって、奈良時代には文献にも登場する。
http://www.kouryu.or.jp/asobi/2003syoku/d/3.htm
27世界@名無史さん:2007/05/05(土) 16:08:36 0
長江流域では約5300年前には灰陶時代、約3400年前には既に施釉陶時代に入っている。


良渚(りょうしょ)文化【浙江省】(紀元前3300?〜紀元前2200?)
1936年、浙江省余杭市良渚鎮で400近い遺跡が発見されました。
馬家浜文化を継承して発展し、高水準の玉器が特色です。
絹織や麻織、竹編物、ろくろによる黒陶・灰陶製造が行われていました。
http://www.allchinainfo.com/history/period/changjiang.html


◎呉城文化

江西省樟樹市呉城鎮。紀元前1400年?〜紀元前1000年?黄河文明とは異質な
青銅器を特徴とし、原始的な磁器なども出土している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%B1%9F%E6%96%87%E6%98%8E
28世界@名無史さん:2007/05/05(土) 16:12:16 0
●灰陶(かいとう)

中国、殷代以前に始まる陶質土器。焼成の最終段階で、空気をあまり送らず
窯の中を還元状態にするため灰青色を呈する。殷・周代を中心に漢・唐の
頃まで日常の容器として広く使われた。
http://makurada.com/modules/pukiwiki/195.html

かい‐とう【灰陶】
中国、新石器時代から殷(いん)代に盛行した灰青色の土器。多くは表面に
櫛目文(くしめもん)や縄蓆文(じょうせきもん)をもつ。日常の容器として
唐・宋のころまで使用された。
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?stype=2&dtype=2&p=%B3%A5%C6%AB
29世界@名無史さん:2007/05/05(土) 16:15:10 0
●原始磁器 げんしじき アジア 中華人民共和国 AD

中国古代の釉(うわぐすり)をかけた硬陶。
http://mobile.goo.ne.jp/search.jsp?MT=%BC%A7%B4%EF&FM=keyword


●灰釉陶 (原始磁器、原始青磁)

紀元前1600年に印文硬陶の流れの中で、1200度以上の高音焼成と上薬を
使用した陶器が発生する。その上薬(釉)が、灰・カオリナイト
(カオリナイトを含む白色化粧粘土)・石灰などを調合した灰釉である。
表面は灰色から灰緑色を呈する焼物である。日本ではまだ縄文文化の
解体も始まってはいない。
http://www4.ocn.ne.jp/~napland/yakimono/chire.html
30世界@名無史さん:2007/05/05(土) 16:24:11 0
31世界@名無史さん:2007/05/06(日) 19:53:57 0
長江流域では約6000年前に既に印文土器(印文陶)が登場している。


◎大渓文化( B.C.3990±260年〜B.C.3380±145年)

主要な文様には印文・水平周回文・篦描き文・貼付文・透し彫・彩絵があり、
縄文は見あたりません。このうち、印文は大渓文化の最も特徴的な文様で、
円形・半円形・三日月形・三角形・長方形・方形・工字形などの各種様式の
「小型スタンプ」を器表に深々と押印しています。
http://kohkosai.web.infoseek.co.jp/kaisetu/14-1taikei.htm

●印文土器

中国南東部で新石器時代から漢代に使われた土器。
幾何学文様のあるスタンプを打った灰色の壺などで、軟陶と硬陶の別がある。
http://makurada.com/modules/pukiwiki/75.html
32世界@名無史さん:2007/05/06(日) 19:59:49 0
雷文・方格文・条痕文・S字文など、印文土器にスタンプされた
幾何学文様(印文)が全く伝わっていない。


「印文硬陶」は一般的には、約1100 oCという高火度で焼成され、焼き締まった灰白色
で砂質の土器である。灰陶の一種で、新石器時代晩期にはじまり広東・福建・江西の
各地を中心に生産され、漢代まで生産が行われ、灰釉陶の母胎となった技法である。
胎土は4パ−セント程度の鉄分を含みその鉄の分量は、夾砂陶(きょうさとう=粗製土器)
や泥質灰陶より低くなっている。土器の表面には成形のための叩き文が残っているが、
その叩き文の文様は、雷文・方格文・条痕文・S字文として表れ、時として櫛の歯による
波状文の形をとる場合もある。高温焼成のため、器体に降りかかった灰が熔け、器中の
硅酸と化合し灰釉を生じる。色調は暗緑色を呈し、薄くて斑になったものと意識的に掛けた
のではないかとおもわれる。初期の硬陶は、青銅器のフォルムを写した倣銅陶器であったが、
殷時代後期には独自の器形が生まれはじめる。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
33世界@名無史さん:2007/05/06(日) 20:24:07 0
34世界@名無史さん:2007/05/07(月) 21:59:41 0
●三足土器(さんそくどき)

三本の足をもつ土器。各地の先史・原史時代の遺跡から出土。
特に、中国の竜山文化時代に盛行した鬲(れき)・鼎(てい)など。
後に青銅器製となる。
http://makurada.com/modules/pukiwiki/341.html

古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
35世界@名無史さん:2007/05/07(月) 22:06:47 0
長江流域では約6000年前に三足土器の鼎が登場し、漢代まで代表的な器形であった。


2. 長江流域は約1万年前からすでに米が栽培され、約8000年前には稲作が発達しました。
土器は丸底が主流で、約6000年前には三足の鼎(かなえ)が登場します。

 これらをまとめると、中国新石器時代の土器づくりは約1万2000年前に始まり、各地域
で形や種類、技法、文様などがかなり異なります。 また、農業の発達によって土器
づくりの技術も発達し、約6000年前には三足土器が登場。 中国の漢時代まで代表的な
土器の一つとなりました。土器はもちろん日常生活用品でしたが、一部は祭りに関連
したものと推察されます。
http://www.kaen-kaido.com/doki/oh.html
36世界@名無史さん:2007/05/07(月) 22:13:30 0
37世界@名無史さん:2007/05/08(火) 17:22:59 0
●中国青銅器について
----------------------------------------------------------------------------
古代中国では紀元前21世紀頃から青銅器文明は存在し、その後鉄器と入れ替わる戦国まで
の数百年間に渡って、それぞれの時代背景を基に形・文様・銘文に特色を残していきました。
中国青銅器は他を圧倒するほど強くその存在を示し、祭器・礼器としての役割を十分に果たして
いたと容易に想像させられます。プリミティブな造形と繊細なまでの技巧がうまく調和し、
数千年もの歳月を経て、人間がつくった最高の美術品として確立していきまいした。
http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html
38世界@名無史さん:2007/05/08(火) 17:27:05 0
見よ!

中国の青銅器のさまざまな器形が全く伝わっていない。




◎中国青銅器のさまざまな器形

http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-shape.html



39世界@名無史さん:2007/05/08(火) 17:30:11 0
●越式鼎


江南名物「越式鼎」(エツシキテイ)。中原の漢式鼎よりも足が長い。
陶製と青銅製がある。



越式鼎
http://www.npm.gov.tw/english/exhbition/han9909/handynisty/live/pictures/art16.gif


40世界@名無史さん:2007/05/09(水) 16:50:46 0
●中国青銅器の文様


饕餮文、龍文、鳳凰文、雷文など、中国の青銅器の文様が全く伝わっていないっ!


「饕餮文」といった造形的に非常に優れた固有の文様とともに、「龍文」
「鳳凰文」「雷文」など現在でも使われている文様の原型が編み出されていました。
古代の人々の想像力の豊かさとそれを表現する技巧の確かさが伝わってきます。
http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html
41世界@名無史さん:2007/05/09(水) 16:58:27 0
42世界@名無史さん:2007/05/10(木) 16:58:26 0
●金文

金文(きんぶん)とは青銅器の表面に鋳込まれた、あるいは刻まれた文字の
こと(「金」はこの場合青銅の意味)。中国の殷・周のものが有名。年代的
には甲骨文字の後にあたる。殷は青銅器文化が非常に発達した時代であり、
この文字を器の表面に鋳込む技術は門外不出となっていた。

金文は『史記』のような後世になって書かれた資料とは違い、完全な同時代
資料であるためこの時代を研究する上で非常に貴重な資料となっている。
しかし殷代の青銅器は古美術としてもきわめて高い価値があるため収集家など
がこれを所持することで一貫した研究が出来ないと言うことも起きている。

なお石などに刻まれた文章は石文と呼ばれ、一緒にして金石文と呼ばれる。
またこれらの研究者は金石家と呼ばれる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%96%87
43世界@名無史さん:2007/05/10(木) 17:01:28 0
●鳥書

春秋時代の中期から後期にかけて、東方列国の金文には地方色が強く
あらわれてくる。特に注目すべきのは、南方の越、楚などの地方の
主として武器において、非常に装飾的な文字を扱ったものが現れる。
この地域で用いられた書体には、筆画が非常に複雑で、曲線が多い
もので、各文字のところどころに鳥の頭を図案化したような形がある
から、このような書体は「鳥書」(ちょうしょ)、あるいは「鳥篆」
と呼ぶ。
http://yupeihsu.at.infoseek.co.jp/syouten/kinbun.html
44世界@名無史さん:2007/05/10(木) 17:09:24 0
45世界@名無史さん:2007/05/11(金) 21:42:15 0
●古代中国の楽器


秦の統一以前の頃の楽器は史料に記載されているものが約70種もある。
『詩経』だけでも29種にふれており、打楽器には太鼓、鐘、鉦(しょう、
古代銅製の打楽器で、行軍の際に打ち鳴らしたもの)、磬(けい、銅製の
椀形の仏具と楽器)、缶(ふ、甕のようなもの)、鈴など21種があり、
吹奏楽器には簫(しょう、タテにして吹く長い笛)、管(さまざまな管楽器の
こと)、?(けん、土笛)、笙(しょう、いろいろな長さの十数本の竹の管で
作った吹奏楽器)など6種があり、弦楽器には琴、瑟(しつ)など2種のものが
あった。楽器の品種が多く増えたため、周(約前11世紀−前256年)の
時期には楽器を作る素材によって、金属、石、土、皮革、弦、木、匏
(ほう、瓢たんの実)、竹という8種類に分けられ、「8音」分類法と称された。
http://www.china.org.cn/japanese/144930.htm
46世界@名無史さん:2007/05/11(金) 21:47:22 0
●骨哨

河姆渡住処から160個骨哨が出土されて,今まで7000年の歴史があります。こんな骨笛は鳥類の
骨で作られ,骨管に1−3個の孔を磨き突いたから,鳥が鳴るような曲調を吹く事ができます。
同時の原始人は木下に隠れて,網を設置してから骨笛を吹くと,鳥らはこの音響を聞いてここへ
飛んでくるんです。これは道具でもあるし,簡単な楽器でもありますから,今までも一部分の
中国少数民族の狩り道具になっています。こんな原始道具はやはり今の竹笛になりました。
http://www.topqd.com/wj/chinayqs.htm

●磬

磬(けい)とは、中国で最も古い楽器である。石製の打楽器である。サヌカイトを叩くと金属音が
する。この石の長さ・厚みを変えて音階を奏でることができる。これを楽器として仕立てたのが
「磬」である。これを単独で使用することは希で、通常は音階順に8個、あるいはそれを2段並べて
16個台に懸けた「編磬」として用いたようである。殷代から楽器として使用されている。
http://www.page.sannet.ne.jp/to-okamo/guwanmi/kosen/kosen.htm
47世界@名無史さん:2007/05/11(金) 21:57:48 0
見よ!

古代中国のさまざまな楽器がさっぱり伝わっていない。
7000年前の河姆渡遺跡からある簫(タテ笛)の原型である骨哨に注目。


上から順に、簫、磬(編磬)、鐘(編鐘)、鐃、ロ于、鉦
http://www.szzwch.com/IMAGES/xiao.JPG
http://storage.kanshin.com/free/img_28/284331/k741978051.jpg
http://japanese.cri.cn/chinaabc/chapter20/images/bianzhong.jpg
http://www.miho.or.jp/booth/html/imgbig/00001190.htm
http://big5.huaxia.com/wh/whgb/wwdg/images/1639_0.jpg
http://www.kepco.co.jp/ICSFiles/artimage/2004/06/08/c_kpc891/kane_1.jpg

7000年前の河姆渡遺跡の骨哨
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_24_15.jpg
48世界@名無史さん:2007/05/12(土) 18:34:54 0
●越族 えつぞく

中国の長江中下流以南に広く分布していた民族。粤(えつ)とも書かれる。地域によって,於越(于越),
甌越(越東海,東甌),ビンエツ※注1※(東越),揚越,山越,南越,西甌(甌),駱越(駱)などが
あり,総称して百越(百粤)と呼ばれた。於越は春秋戦国時代に浙江省北半部を本拠に越という国を
建てた。甌越は浙江省南部の甌江流域により,ビンエツ※注1※は福建省ビンコウ※注2※流域を中心
とした。揚越は揚州にいた越で,西甌,駱越は広西壮族自治区,あるいは北ヴェトナムにまでひろがって
いたとみられている。秦代末期の混乱に乗じて,趙佗(ちょうた)が番禺(ばんぐう,広東省広州市)を
都に南越(南粤)国を建て,5代97年のあいだつづいたが,漢の武帝の前111年(元鼎6),漢に滅ぼされた。
越族の習俗については,入墨・断髪などが知られ,文化については,新石器時代から春秋戦国時代まで
盛んにつくられた幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている。
http://www.tabiken.com/history/doc/C/C080C100.HTM
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
49世界@名無史さん:2007/05/12(土) 18:43:18 0
鉦は主に湖南省、江蘇省、浙江省などの長江流域一帯で出土し、
江南の百越(越族)の間で甚だ流行している。


鉦 打?樂器,形體似鐃,但比鐃高大和厚重,主要出土於湖南、江、浙一帶。
?都是春秋時代的樂器,在南方百越諸地則甚流行。
http://www.hawh.cn:82/gate/big5/www.hawh.cn/html/20060420/256406.html


弥生時代に印文土器、越式鼎、鉦なんて一切伝わっていない。

●印文土器
http://www.china-ikuta.jp/shohin/photo/zoom04.jpg
●越式鼎
http://www.npm.gov.tw/english/exhbition/han9909/handynisty/live/pictures/art16.gif
●鉦
http://www.kepco.co.jp/ICSFiles/artimage/2004/06/08/c_kpc891/kane_1.jpg
50世界@名無史さん:2007/05/12(土) 19:21:12 0
>>弥生人の心配するより半島人の心配したら!

韓国は病んでる韓国は壊れてる異常なる韓国、韓国人が一番わかってるようだ。
【朝鮮人を一番嫌ってるのは朝鮮人、若者の88%が祖国から逃げたいとは驚き!】

韓国の20〜30代の72%「韓国とは別の国に移民を希望」
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2003/09/17/20030917000013.html
韓国の20〜30代の会社員88%「移民して別の国で生活したい」
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2001/11/04/20011104000003.html
北朝鮮から韓国に逃げてきた者の69%「韓国とは別の第3国に移民したい」
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2004/09/16/20040916000004.html
韓国の高麗大学生の51%「韓国が嫌い」
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2001/11/05/20011105000031.html
名門梨花女子大の学生の62%「生まれ変わったら韓国以外に生まれたい」
http://kuki1.stoo.com/news/html/000/412/263.html
51世界@名無史さん:2007/05/13(日) 19:44:57 0
弥生時代開始頃の長江流域はこんな有り様(嘲笑)


呉城文化 B1400?〜B1000?

 江西地方の文化はB3000年〜B2500年頃の山背文化を最後に一時停滞していたが、
良渚文化や石家河文化の崩壊後に呉城文化が抬頭した。黄河流域とはまったく
異質の造形美術を特色とし、豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土し、
中国磁器の源流に再考を促した。また符号を刻した土器や鋳型も発見され、
符号の総数は170を超え、12個を列記したものも出土している。隣接する湖南省
では1960年代に寧郷県で多数の貴重な青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、
商文化を凌ぐ鋳造技術と独特の造詣を示していたが、このときには商文化の一分派
と認識された。1970年代に江西省樟樹市(旧清江)で発見された呉城遺跡の城壁址は
4万uで、地方的な政治中心のひとつに過ぎなかったと考えられる。
http://home.t02.itscom.net/izn/chu0.html
52世界@名無史さん:2007/05/13(日) 19:48:45 0
>豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土
>符号を刻した土器や鋳型も発見
>青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、商文化を凌ぐ鋳造技術




印文陶????釉陶????原始磁器????鼎????尊????

弥生時代開始頃の長江流域の出土物は日本の弥生遺跡で
出土しない摩訶不思議なものばーっかり(嘲笑)



53世界@名無史さん:2007/05/14(月) 20:11:23 0
弥生時代開始頃の長江流域はこんな有り様(嘲笑)


▲ 新干大洋洲商墓

1989年出土の、呉城文化第二期の大規模な墓。華北文化では商代後期にあたる。
両面神人頭像や大鐃に代表される多数の青銅器や玉器を含む2000点近い副葬品が出土。
青銅品486点のうち武器類は252点に達し、また礼器49点の殆どが実生活での使用痕を
遺し、ゲンと呼ばれる甑や一号方鼎など同時代最大級のものが含まれる。また造形美の
点では絶品とすら評される伏鳥双尾虎や、従来西周時代に鐘が変化して出現したとされ
てきた楽器の[金專]の出土など、独特の造形や装飾によって、青銅器文化時代における
江西省の独自性と重要性が再認識された。出土した青銅器は商式・融合式・土着式・
先周式に大別され、当時の中原のみならず渭水流域とも交流があったことを窺わせる。
また玉器の加工水準は石家河文化や良渚文化に比肩する。近年、近郊で多数の商代の
遺物を伴う61万uに達する都城址が発見され、王都址の可能性が期待されている。
http://home.t02.itscom.net/izn/chu0.html
54世界@名無史さん:2007/05/14(月) 20:15:45 0
>両面神人頭像や大鐃に代表される多数の青銅器や玉器
>ゲンと呼ばれる甑や一号方鼎など同時代最大級
>伏鳥双尾虎や、従来西周時代に鐘が変化して出現したとされてきた
>楽器の[金專]



両面神人頭像?????鐃?????玉器?????ゲン?????
鼎?????伏鳥双尾虎?????[金專]?????

弥生時代開始頃の長江流域の出土物は日本の弥生遺跡から出土しない
摩訶不思議なものばかり出土するんですねえ(嘲笑)


55世界@名無史さん:2007/05/15(火) 16:50:20 0
周代の長江流域はこんな有り様(嘲笑)


江蘇句容・金壇周代土トン(土+敦)(盛り土、小山)墓群:考古学者たちは、
土トン墓の埋蔵の特色に合わせ、一層ずつ剥がしていく整理方法を採用し、
青銅器時代の江南の土トン墓造営の全過程を明らかにした。計40の土トンを
発掘し、233基の墓、229組の祭祀器物群、14カ所の墓葬建築遺物を整理、
幾何印紋陶(幾何学模様を施した陶器)、原始青磁器を中心に、江南地方の
特色をもつ各種文物3800点余りが出土した。
http://www.china-news.co.jp/culture/2006/05/cul06051302.htm

56世界@名無史さん:2007/05/15(火) 16:57:44 0
>幾何印紋陶(幾何学模様を施した陶器)、原始青磁器を中心



印紋陶?????原始青磁?????

弥生時代開始頃の長江流域の出土物は日本の弥生遺跡から出土しない
摩訶不思議なものばかり出土するんですねえ(嘲笑)


57世界@名無史さん:2007/05/17(木) 16:48:22 0
●河姆渡文化 かぼとぶんか

浙江省余姚(よう)県河姆渡遺跡を標準とする新石器時代の文化をいう。主に寧紹平原の
東部地区に分布している。河姆渡遺跡には四つの文化層があり,第1層は良渚文化早期と
類似しており,第2層は馬家浜文化の要素がある。第3・4層は河姆渡文化層で,上の両層
よりも古く,注目すべき出土器物がある。土器は原始的な手づくりの,あらい厚手の不整形で,
低温で焼かれた夾炭黒陶が最も多く,混ぜられた植物の茎葉砕片やもみ殻が焼けて炭化し,
土器を黒色にしている。夾炭黒陶は第4層では最大量を占めるが,第1層に至るほど漸減し,
第1・2層では焼成温度の高い砂混じりの夾砂紅陶・灰陶が優勢となる。第4層の土器の主な
ものに,釜・罐(かん)・鉢・盤・器台がある。釜が四つの層を通して出土し,形態と
装飾が最も多様なところから,釜を南方地区新石器文化の特徴とする見解がある。第3層
出土の甑(そう)は,蒸気熱を利用した穀物の蒸し器で,のちに朝鮮・日本などに伝わり,
東アジアに特徴的な穀物を蒸して食べる調理法を普及させたものである。また紡錘のほか,
濃茶の文様を施した数個の彩陶片も発見されている。遺跡層が地下水面下にあったため,
多くの木器が保存され,耜(し。すき)・碗・盆・かい・杵・矛・紡・紡錘などのほか,
組み合わせ部品用と思われる大小の棒が発見されている。
58世界@名無史さん:2007/05/17(木) 16:54:23 0
第4層には骨器が非常に多く,石器は少ないが,第1層に至るほど,石器が漸増して
骨器が漸減し,河姆渡文化では骨器の比重が大きかったことが知られる。骨器には
鏃・針・管状針・梭形器・笛などあるが,大型哺乳動物(水牛?)の肩胛骨を加工
した多くの耜が注目をあびた。石器は小型のあらい磨製で,斧・手斧・のみ・紡錘
などがある。第4層の住居址に,多くの稲の穀粒・茎葉の堆積が発見された。栽培稲
のセン(注1)は、亜種晩稲型水稲と鑑定され,紀元前約 5000年のもので,現在の
ところ,東アジアにおける水稲の最古の実物標本といわれている。また,とち・ひし・
桃の実,ヘちま・はとむぎや,なつめの一種なども出土している。家畜には犬と豚が
おり,水牛もいたようである。土器面に豚,または豚と稲穂の刻まれたものがあり,
小型の陶豚もある。ほかに,多種類の獣・鳥・魚などの骨も出土している。当時の
河姆渡地域では,すでに骨耜・木耜などによる稲作農耕が行われ,家畜を飼育し,
狩猟・漁労や採集もかなりの比重を,占め,種々の生産・生活の器具を作り,紡織も
行われていたのである。住居は大きな材木で構築された高床式で,柱をくりぬいて
はりや板をはめこむなど,やや高い技術が用いられている。
59世界@名無史さん:2007/05/17(木) 16:58:12 0
素朴な芸術品も多く,木彫の魚,骨彫の匙・こうがい,陶製の魚・人頭像,象牙彫の鳥
などのほか,玉製の管・珠・ケツ・コウの装飾具がある。また朱紅色の漆器の木碗もあり,
生漆と鑑定され,中国で最古のものといわれる。出土した50余種属の動物の生態および
植物遺存と花粉分析が明らかにした植生の状態から推測すると,当時この一帯は,現在
よりも温暖多湿で,現在の広東・広西等の地区に近く,山麓に接した大小の湖沼が散在する
草原灌木地帯であったようである。河姆渡文化の年代は,ほぼ紀元前5000年ごろにあたる
といわれ,揚子江下流域における最古の新石器文化であり,黄河中流域や山東地域の文化と
並んで,中国の早期新石期文化の一つの中心である。 
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
60世界@名無史さん:2007/05/17(木) 17:02:24 0
>>>夾炭黒陶は第4層では最大量を占める>>>釜・罐(かん)・鉢・盤・器台
>>>甑(そう)は,蒸気熱を利用した穀物の蒸し器
>>>濃茶の文様を施した数個の彩陶片>>>笛などある>>>土器面に豚
>>>小型の陶豚もある>>>骨耜・木耜などによる稲作農耕>>>陶製の魚・人頭像


黒陶?????釜?????罐?????鉢?????盤?????
器台?????甑?????彩陶?????笛?????
土器面に豚?????陶豚?????骨耜?????木耜?????
陶魚?????人頭像?????


7000年前の長江流域の出土物は日本の縄文遺跡から全く出土しない
摩訶不思議なものばかり出土するんですねえ(嘲笑)

61世界@名無史さん:2007/05/18(金) 12:40:10 0
見よ!

7000年前の長江流域の河姆渡遺跡に既にある、骨製や木製の耜(鋤)、黒陶や彩陶、
釜・罐・鉢・盤・器台・甑・灶などの器形、骨哨(骨製のタテ笛)、猪文様など、
縄文時代を通してさーっぱり伝わっていない。



◎河姆渡遺跡

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
http://homepage3.nifty.com/sugar-tr/joumonG.html


62世界@名無史さん:2007/05/19(土) 19:45:11 0

◎日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土

【上海9日共同】中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770−同221年)
の地方国家、越の貴族墓から、日本の弥生時代の銅鐸(どうたく)に形が似た青磁器の
鐸がこのほど出土した。発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張敏所長が9日まで
に明らかにした。

日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが
定説だが、張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、発掘結果をめぐる
今後の議論が注目される。

http://www.asyura2.com/0510/bd42/msg/948.html
63世界@名無史さん:2007/05/19(土) 19:47:09 0
>張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった





原始青磁はもちろん、灰陶さえ伝わってない事実には一切触れない
スットボケ南京博物院(嘲笑)



64世界@名無史さん:2007/05/20(日) 21:11:51 0
【福建】3500年前の商周の時期の文物を発見

しょう(さんずいに章)州=竜岩高速道路沿線の南靖、豊田、天宝などの区間で、先般、
3500年前の商周の時期の石器、陶磁器などの文物が約500点発見された。このように商周の
時期の文物がたくさん出土したことは福建省できわめて稀なことである。

福建省の考古学調査班は昨年しょう州=竜岩高速道路沿線の南靖、らん城の区間に赴き、
商周の時期の文物の緊急救出の発掘に取り組み、今月中旬頃に3500年前の商周の時期の文物が
発見された。

考古学調査班副班長の鄭輝氏によると、今回の発見の状況から見て、狗頭山遺跡には商周の
時期の古墳、民家遺跡が埋まっており、今回出土したもの中には石戈、石矛、石鋳などの石器
と圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、砂の入った灰色陶器、
上薬のついた陶器、硬質陶器などがたくさんあった。

現地のメディアによると、しょう州市は商周の時期の文化は非常に発達をとげた地域で、1950年代
と1970、1980年代に、福建省としょう州市の考古文化部門は南靖などで古文化遺跡をたくさん発見した。
特に1956年には南靖県の県政府所在地付近の浮山地区で数多くの商周の時期の典型的な陶器、石器が
出土し、その後福建省の考古学界ではそれを「浮山類型」と呼ぶことにした。今回発掘された狗頭山
古文化遺跡も「浮山類型」に属するもの。現在、高速道路建設部門はすでに工事を一時停止し、文化部門
に積極的に協力して緊急救出のための発掘を行っている。

しょう州市におけるこれらの文物の出土は、しょう州市ひいては福建省のその時期の歴史、文化の研究
にとって学術面と考古学の面で重要な価値を持っている。
http://j.peopledaily.com.cn/2003/03/31/jp20030331_27523.html
65世界@名無史さん:2007/05/20(日) 21:18:39 0
>圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、
>砂の入った灰色陶器、上薬のついた陶器、硬質陶器など



圏足器?????環足杯?????灰色陶器?????
上薬のついた陶器?????硬質陶器?????


BC16Cの華南の出土物さえ日本の弥生遺跡で出土しないものばーっかり(嘲笑)


66世界@名無史さん:2007/05/21(月) 15:39:42 0

◎戰國時代陶質編鐘在?文化發源地無錫出土


新華網江蘇頻道南京4月16日電 (高幼元) 日前,在無錫市錫山區泰伯文化
藝術節上,一批最近出土的戰國時代陶質編鐘等古樂器向中外遊客展示。
這批距今2000多年?青銅器的樂器中,最令人驚嘆的是,經修復後最大的編鐘,
高30多公分,造型十分精致。

展示會上,錫山區文管會同志介紹?,這裏是?文化發源地。這批新出土的文物,
除編鐘、鐃、磬等樂器類陶器30餘件外,還有經修復的缸、罐、壇、鼎等各種
陶器共五十多件。這些原始瓷或印紋硬釉陶器,紋飾繁多。有乳釘紋、水波紋、
方格紋、圓圈紋等。經考古專家初?鑒定,數量之多,品種之全,工藝之精,
在全國罕見。
67世界@名無史さん:2007/05/21(月) 15:40:31 0
這批珍貴的出土文物是當地村民發現的。今年2月19日,錫山區後宅鎮天仙
塘萬安橋村村民鄒曉峰和鄒春鋒,帶著20多件陶器,向區文管會報告,村裏
一個大土?上發現了“古董”。工作人員認出是極有價?的陶制編鐘。第二
天即?到現場。這個大土?是五年前,鎮上築新路取土用的,當時就有部分
古陶器被?出,村民見是陶土做的,沒在意。而這次錫山區考古人員卻十分
在意,“掘地三尺”,出土的陶片、陶器用1噸半?車裝了滿滿一車。隨後,
他們邊向上級部門報告,邊請專家來修復,並對來報告的兩村民給予了獎勵。

後宅鎮往南數公里的鴻聲鎮,正在發掘的彭祖?文化遺址,已有一大批距今
6000年至7000年的新石器時代文物初露真容。據南京博物院考古學家介紹,
彭祖?是長江三角洲文化層次堆積最厚、包含物最多、保存最好的一處?史文化
遺址,是當代研究太湖流域人類文明發展史最好的?史資料。該鎮的鴻山南麓有
一座被譽為“開發江南先祖”泰伯之墓,距今已有3196年?史。現在,後宅鎮又
新出土的2000年前的古編鐘,作為陶樂器隨葬品,非一般人可用,是墓主人身?
顯赫?還是當時這塊地主是個文化“繁榮”勝地?這還需專家來解謎。
http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/www.js.xinhua.org/htm4/2041622.htm
68世界@名無史さん:2007/05/21(月) 15:41:30 0
>陶質編鐘等古樂器向中外遊客展示
>鐃、磬等樂器類陶器30餘件外,還有經修復的缸、罐、壇、鼎等
>各種陶器共五十多件。這些原始瓷或印紋硬釉陶器,紋飾繁多。
>有乳釘紋、水波紋、方格紋、圓圈紋等。


編鐘?????鐃?????磬?????缸?????罐?????
壇?????鼎?????原始瓷?????印紋硬釉陶?????
有乳釘紋?????水波紋?????方格紋?????圓圈紋?????


いやあ、弥生時代の江南の江蘇省無錫からは日本の弥生遺構では
さーっぱり見た事がない摩訶不思議な物や文様が出るんですねえ(嘲笑)

69世界@名無史さん:2007/05/22(火) 17:15:05 0

●考古發現一罐鴨蛋醃了2500年


在句容、金壇乃至整個江南,有一種獨具特色的土墩墓,這些墓聳立在山巒崗地、平原叢林中,
遠遠看上去,就像是一個隆起的大土墩。它們代表著西周至春秋戰國時期江南特有的土著文化。
目前經初步探查,在鎮江周邊約有5000多座土墩墓。

江蘇省8支考古隊120多位考古專家,從今年4月起對相關公路沿線的土墩墓進行了搶救性發掘,
先後發現了46座西周到春秋時期的土墩墓,出土文物4000多件。昨天,來自全國各地的10多位
考古專家不僅實地勘查了考古現場,還商討如何保護土墩墓的發掘成果。
70世界@名無史さん:2007/05/22(火) 17:15:54 0
一罐鴨蛋完好無損

豆、碗、盞、盅、罐、鼎,所有文物按照不同的古墓,從大到小一字排開,4000多件文物,
把句容博物館的兩層樓裝得滿滿的。最讓專家們意外的是,句容天王寨花頭的2號墩裡出土的
文物,雖然也是罐、豆等陶器,但其中一個小罐子裡面居然還盛著滿滿一罐鴨蛋!順著罐口
往裡看,白白的蛋比現在的鴨蛋小。記者還特地俯身聞了聞,可以嗅到一股鹹味。南京博物院
考古研究所副所長林留根說,出土時陶罐上還有一個蓋子,推測是2500年前這戶人家醃製的鴨蛋。

南京博物院研究員鄒厚本告訴記者,目前整個江蘇僅有三罐這樣的古老蛋,一罐在南農大的
博物館裡,一罐在鎮江博物館裡,這是考古發現的第三罐。早在上世紀70年代,發現第一罐蛋
的時候,他們就把這些蛋送給相關專家做研究,不過專家們也說不出個所以然。因此,古人
如何醃製鴨蛋,到現在還是個謎。至於保存,雖然古墓經常有雨水滲透,但罐子有罐蓋,
能擋住雨水,而且罐子裡面有封泥,這些封泥起到了很好的保護作用。細看罐中鴨蛋,除了
蛋殼是完好外,蛋青蛋黃怎樣?考古專家說,現在只能先保護,然後再研究。
71世界@名無史さん:2007/05/22(火) 17:17:09 0
古怪青瓷用途是謎

擺放文物的現場,好像是古代46戶人家家庭用具的一次集中展覽。從這些器物可以看出,當時人
們用特別大的缸來盛糧食,用鼎來燒飯,用青瓷碗來裝飯。不過,在句容天王寨出土的一個
青瓷器,卻令專家們無法辨別它的用途。

這件青瓷有一個圓圓的底座,以前從來未見過。此外,一個羽狀紋大瓷罐,也讓專家們好奇。
在西周至春秋時期,瓷罐上一般都只是直線條的花紋,而這個瓷罐上的花紋看上去像孔雀
尾巴上的羽毛,特別漂亮。這種花紋是怎麼製作出來的?這也是一個謎。
72世界@名無史さん:2007/05/22(火) 17:18:07 0
保護土墩墓刻不容緩

雖然盜墓賊看不上這些土墩墓,因為從墓葬出來的都是不太值錢的陶器殘片,但由於修路、
修水利等原因,每年都有成百座土墩墓被破壞了。這次寧常、鎮溧高速公路沿線有6座
土墩墓還未發掘就被摧毀,與此同時,金壇境內為建高爾夫球場平整40多座土墩,句容
境內25座土墩因工程建設被毀,句容郭莊鎮厚達7米的文化遺址被寧杭高速公路施工毀壞,
金壇一大型商代遺址被鎮政府推平……

蘊涵大量珍貴文物的古遺址、古墓葬卻毀在推土機下,實在令人心痛。專家們呼籲,
將江蘇土墩墓納入大遺址保護體系,與各市縣鄉鎮的經濟發展和社會發展規劃相融合,
防止建設性破壞,同時在對土墩墓群進行調查的基礎上,選擇幾個典型土墩墓進行解剖,
並修建遺址博物館,以帶動周圍土墩墓群的整體保護。
http://www.epochtimes.com/b5/5/12/30/n1171849.h
73世界@名無史さん:2007/05/22(火) 17:19:01 0




盞?????盅?????鼎?????青瓷?????花紋?????


いやあ、弥生時代開始頃の江南の出土物は日本の弥生遺跡から全く
出土しない摩訶不思議な物や文様ばかり出土するんですねえ(嘲笑)


74世界@名無史さん:2007/05/23(水) 15:29:48 0

●鴻山越國貴族墓地發掘情況介紹

鴻山越國貴族墓地位江蘇無錫鴻山鎮東部,該區保存大小規模土墩近百座。南京博物院考古研究所及
錫山區文物管理委員會組成聯合考古隊,於2003年4月至2004年12月期間,對該範圍內土墩進行搶救性
發掘。

是次發掘7座墓葬,出土共計2000餘件隨葬器物,其中丘承墩就出土1100餘件精美成套的青瓷禮器、
樂器和玉器。 根據墓葬的封土規模、墓葬結構和隨葬器物的種類、質地、組合關係,7座墓葬可以
分為5個等級:
75世界@名無史さん:2007/05/23(水) 15:31:00 0
第一級別為丘承墩,該墓封土為長方形覆斗狀,是墓地中唯一的深坑墓,墓坑平面為「中」字形,
並有壁龕;隨葬品中青瓷禮器數量眾多,器類齊全;青瓷樂器既有中原式的鈕、甬鍾、磬,
亦有越式的ロ于、丁寧、鐸、勾、鈴形器、具座,還有以往從未確認的缶;玉器中,既有葬玉、
劍飾,亦有佩玉,而成雙成對的龍形佩、雙龍佩、龍鳳佩、龍首珩、龍形珩等組成的佩玉,
當為春秋戰國時期最高等級的佩飾;此外還隨葬琉璃釉盤蛇玲瓏球形器等象徵特殊意義的器物;
第二級別為老虎墩,該墓封土亦為長方形覆斗狀,埋葬方式為平地鋪木,隨葬器物中除生活用品外,
還包括成組的原始青瓷樂器和硬陶禮器、樂器;第三級別為萬家墳,與老虎墩的封土規模和平地
鋪木的葬制相同,然隨葬品中僅有成組的硬陶禮器、樂器而不見原始青瓷樂器;第四級別為曹家墳、
杜家墳,為長方形覆斗狀封土;第五級別為老墳墩、鄒家墩。這4座墓葬均無成組樂器隨葬,為長圓形
饅首狀封土。
76世界@名無史さん:2007/05/23(水) 15:31:44 0
鴻山貴族墓葬的特徵大致可歸納為以下幾點:
1. 長方形覆斗狀或長圓形封土;
2. 除特大型墓葬為深坑墓外,皆為平地起封;
3. 除特大型墓葬為「中」字形外,其餘皆為長條形墓葬,大型的還有墊木或分室用的木板等用於
構築墓室;
4. 隨葬器物主要為原始青瓷器和硬陶器;
5. 特大型墓葬的隨葬品中有組玉;
6. 隨葬器物中常見原始青瓷或硬陶的勾、ロ于、丁寧、鐸、羊角器、璧、鈴形器以及越式鼎、
筒形、盅、器蓋等;
7. 高等級的器物紋樣中常見蛇。而以蛇為器物紋樣也是越人圖騰崇拜的體現。
77世界@名無史さん:2007/05/23(水) 15:32:29 0
這些特徵中多為越國墓葬獨有,其中墓葬形制和隨葬品的質地、器形、器類與浙江紹興印山越王墓
以及安吉、海鹽、長興等地的越國貴族墓葬相同,尤其明顯的是均隨葬陶、瓷禮器和樂器,如ロ于、
丁寧、勾、鎛、甬鍾、磬、鈴形器、缶、具座、羊角器、璧以及越式鼎、筒形、盅、器蓋等;
根據墓葬的規模、形制和在墓地中的位置,以及隨葬器物的數量、種類和等級推測,鴻山貴族墓地
中丘承墩墓主的等級應為僅次於越王的越國大夫,此墓主室和後室總長僅次於紹興印山越王墓,
遠高於其他中小型越國貴族墓,而出土的隨葬器物則是目前已發掘的越國墓葬中等級最高、
質地最好且器類最為齊全的。

7座墓葬的隨葬品中,皆有完全相同器物,如壇、、碗、盅、器蓋等,其年代應相同;而大型或
中型墓葬中則有造型相同的鍾、鎛、磬、鈴形器、璧、羊角形器等,其年代亦應相同;而從印紋硬陶
和原始青瓷基本生活用品的形態、僅見麻布紋和米字紋等紋飾以及器物的組合關係,根據長江下游
土墩墓的分期,其年代應為戰國早期;出土玉器中,儘管有少量紋飾保留春秋晚期特徵,而絕大多數玉器
的造型和紋飾都呈現戰國早期的特徵。因此鴻山越國貴族墓地的年代可定為戰國早期,即越國最強盛的
越王勾踐時期。
78世界@名無史さん:2007/05/23(水) 15:33:40 0
鴻山越國貴族墓地中,丘承墩位於墓地的西北角,而其他大、中、小型墓葬則圍繞在丘承墩的東南呈
扇形分布,墓葬與墓葬之間既有一定的分布規律,又存在著嚴格的等級差別,為是次考古發掘最重要的
收穫之一;丘承墩墓為目前僅次於紹興印山越王墓的越國第二大墓,而丘承墩出土的大批精美成套的玉器、
青瓷禮器和樂器,應為迄今為止江浙一帶所發現的最高等級的越國隨葬器物,同樣為是次考古發掘最重要的
收穫之一。其墓地的完整性和禮器、樂器組合的完整性,尤其是越國的禮樂文化中將中原系統和諧地融入
越系統中,為越國史的研究和解決一系列春秋戰國時期的重要學術課題提供了一批極為珍貴的實物資料,
對於越文化乃至百越民族史的研究和越國考古學的研究將起著積極的推動作用。
http://www.cuhk.edu.hk/ics/ccaa/talk9.htm
79世界@名無史さん:2007/05/23(水) 16:59:31 0



いやあ、弥生時代の江南の江蘇省無錫の土トン墓からは、楽器やら、
玉器やら、越式鼎やら、酒器やら、原始青磁やら、印紋硬陶やら、
甬鍾やら、磬やら、ロ于やら、丁寧やら、勾やら、鈴形器やら、
龍形やら、龍鳳佩やら、具座やら、羊角器やら、越式鼎やら、筒形やら、
羊角器やら、もう、さーっぱり見た事も聞いた事もない代物まで、
ありとあらゆる摩訶不思議な物や文様が、出るわ、出るわ、出るわ、出るわ・・・

何でこんなイイモン、日本の弥生遺構から出んのやろ?(嘲笑)

80世界@名無史さん:2007/05/26(土) 19:35:20 0

●福建浦城管九土墩墓群发掘取得重要成果


本报讯 去年1—12月,在浦南(浦城—南平)高速公路的工程建设中,福建博物院
与福建闽越王城博物馆联合组成考古队,对位于浦城县管九村的土墩墓群进行了发掘,
获得了一批重要资料和成果。

此次发掘清理了社公岗由北向南延伸的长条形山脊上的6座土墩(浦社D1—D6);
洋山岗顶自东面的山坡地上的10座土墩(浦洋D1—D10);麻地尾U形岗脊和坡地上的
12座土墩(浦麻D1—D12);另在大王塝和社公岗的北侧晒谷坪山岗上也各清理了
一座土墩(浦晒D1)。
81世界@名無史さん:2007/05/26(土) 19:36:51 0
土墩地表隆起大多数比较明显,平面形状为椭圆形、方圆形和圆形。现存土墩高度约2、
个别约1米。社公岗、洋山的土墩封土多由红黄粘土堆筑而成,麻地尾多由质地较松散的
含砂黄灰土堆筑而成,无明显的夯筑迹象,从土墩周边的一些迹象分析其封土基本取自
土墩周围附近,封土中包含有陶片和石器等,陶片多以印纹硬陶和素面硬陶以及K衣陶
为主,也见有一些夹砂陶和陶纺轮,石器有镞、锛、砺石等。

此次已发掘的30余座土墩墓中一墩二墓的有4座,其余的皆为一墩一墓。从墓葬的形制又
可分为长方形浅坑、带墓道竖穴土(岩)坑和平地掩埋。墓葬均没有发现骨架及葬具等痕迹。
其营建过程是将上岗地面或清至风化岩山体,略作平整,有的局部垫以红褐土,有的以原山
修坡地,挖成长方形墓坑。共出土随葬器物230余件,主要器形有豆、罐、尊、瓮、盂、
碟和印纹硬陶罐、簋、豆、尊、盅以及青铜短剑、矛、戈、匕首、箭镞和锛、刮刀等组合。
82世界@名無史さん:2007/05/26(土) 19:37:49 0
一、社公岗墓葬区,发掘6座

PSD1M1土墩平面略呈方形,东西长18、南北宽16、中心高2米。出土随葬器物5件,
有青铜短剑、矛、箭镞、刮刀和原始青瓷三系尊。
PSD2M1土墩平面呈方形圆角,东西长22、南北宽20、外形高2—3米。为长方形墓坑,
出土随葬器物15件,有陶尊、原始瓷豆及青铜戈、矛、锛、镞和石枕等。
在M1的外围清理出开口于不同层面的早期墓葬共8座,多为无墓圹平地掩埋和无规则
浅坑形制,出土随葬陶器29件,均为K衣陶和印纹陶,成组和一线摆放。
PSD4M1土墩平面呈椭圆形,东西长22、南北宽19、高1.9—3.5米,带墓道竖穴土
(岩)坑墓,出土随葬器物9件,分布在墓室西北角和南到东部。
PSD5M1土墩平面略呈方圆形,直径约17、中心高1.6米。出土随葬器物3件,
为原始瓷器,有三系尊、罐和陶罐。
PSD6M1土墩平面略呈方圆形,直径约17、中心高1.8米。底面中部为长方形
卵石床墓,仅出土1件青铜器残片。
83世界@名無史さん:2007/05/26(土) 19:38:29 0
二、洋山墓葬区,发掘11座

PYD1M1土墩平面呈方圆形,南北长18、宽16、中心高1.8米。长方形墓坑,墓坑底满铺卵石,
墓坑北壁沟槽上发现残存较整齐的木炭立柱11根,转向西壁4根,立柱被烧毁程度不一,
高低不齐。出土随葬器物14件。从木炭柱的排列及烧毁的情况看,墓葬是有椁室的木椁墓,
墓室内曾经起火,未烧的椁板立柱腐朽无存。
PYD3M1土墩平面呈不规则方圆形,东西长15、宽13、中心高1.8米。长方形浅坑墓,出土
随葬器物8件,分布在墓室的东北面及西南角。
PYD4土墩平面呈不规则方圆形,直径14—15、中心高2.1米。发掘清理了PYD4M1和PYD4M2。
M1下压M2墓口,呈长方形浅坑,出土随葬器物8件,均为印纹陶,多为桶形罐。M2坑口呈
长方形,被M1所压,底部满铺较均遠I卵石。出土随葬器物3件。
84世界@名無史さん:2007/05/26(土) 19:39:16 0
三、麻地尾墓葬区

PMD2M1土墩平面呈椭圆形,直径16—18、中心高1.6米,长方形墓坑,出土随葬器物11件,原始瓷为豆、
罐,印纹陶为罐,纹饰为席纹,还出有纺轮和青铜矛、剑、戈等。
PMD3土墩平面呈方圆形,向上逐渐圆收成馒头状,直径约12、中心高约1.7米;发掘清理了叠压墓
PMD3M1和PMD3M2。PMD3M1长方形浅坑墓,出土随葬器物5件,分布在墓底南侧东部。有罐、豆和杯。
PMD3M2为带墓道竖穴石坑墓。坑口平面呈“凸”字形,墓室坑口南部东壁被M1打破。墓道为平底,
底面铺一层厚约15厘米的粗砂石。墓坑口平面呈圆角长方形,底部为较平整的风化岩石面,北沟西部
及西沟沟底面靠坑壁清出3处斜向墓坑外的圆洞遗存迹象,应是起排水的作用。出土随葬器物19件,
器物有罐、盆、尊、豆、簋、壶、杯、纺轮等。印纹硬陶多为罐,纹饰为拍印席纹。墓坑后壁(北壁)
中部和东壁中部各清出壁龛一个,北龛为半圆形。在龛上口部出土一组陶器4件,均为不同形体罐,
纹饰为拍印勾连雷纹,纹大双线棱格内饰星加鼓点,棱格间为锯齿纹。东龛为近圆形,未发现遗物。
PMD4土墩平面呈圆形,向上逐渐圆收成馒头状,直径13、中心高1.4米。在土墩的中部发掘清理了东北
—西南并排的墓坑PMD4M1和PMD4M2。PMD4M1为长方形浅坑墓,出土随葬器物3件,有原始瓷罐和陶罐,
纹饰为弦纹与戳点纹组合、席纹等。PMD4M2为带墓道浅石坑墓,坑口平面呈“凸”字形,长方形墓坑,
出土随葬器物3件。
85あぼーん:あぼーん
あぼーん
86世界@名無史さん:2007/05/26(土) 19:48:51 0
四、晒谷坪墓葬区,发掘1座

晒谷坪1号墩(PSD1M1)在社公岗的北侧,为相连的小山岗,土墩略凸显呈不规则圆形,
直径9—11米。带斜坡墓道竖穴土(岩)坑墓,出土陶罐3件和青铜短剑1把。
管九土墩墓的发掘清理,填补了中国南方地区土墩墓分布区域的空白。我国先秦土墩墓
主要分布在长江以南的浙江、苏南、皖南(江西近年来也有一些发现)地区,福建以往没
有发现,此次浦城仙阳镇管九发现的30余座土墩墓,填补了这一空白。此次发掘出土了
一大批相对完整的青铜器、原始青瓷器、印纹陶器组合,年代约在西周—春秋阶段,填补了
福建地区该阶段考古学研究的许多缺环。出土的40多件青铜器,是福建地区一次性出土
青铜器最多的考古发现;7件造型精美的越式青铜剑,在全国首屈一指。这批西周—春秋的
土墩墓以平地掩埋发展至浅坑并向深坑过渡,反映了西周—春秋土墩墓的发展演变脉络。
它们都打破或叠压在夏商时期的墓葬之上,对研究土墩墓的发展演变有着重要意义。
http://www.ccrnews.com.cn/tbscms/module_wb/readnews.asp?articleid=25748
87世界@名無史さん:2007/05/26(土) 20:03:03 0




尊?????瓮?????盂?????簋?????盅?????
盆?????簋?????原始青瓷?????印纹陶?????
雷纹?????


弥生時代の華南の福建省の土トン墓さえもこの有り様(嘲笑)


88世界@名無史さん:2007/05/27(日) 18:15:28 0
高床式倉庫はシベリアやアムールにも見られる。


◎ケート Ket

中央シベリア、エニセイ川中流で伝統的漁撈・狩猟生活を送るケートと、
押し寄せる近代文明の点描。

自然環境(森、川、川岸の村)、川岸のチュム骨組に樹皮布を掛ける
(煙突は真上に出る)、製作中丸木舟に穴を開ける(火おこしの形を
した錐)、川に漕ぎ出す、魚(トナカイ肉?)を干す、日常生活
(洗濯物、子供のブランコ、食事、墓)、呪いの杭にトナカイの頭蓋骨
が掛かっている、★高床式蔵小屋★、素晴らしいアクセサリーの着いた
シャマンの枠太鼓、
http://tokyocinema.net/centralsiberialist.htm
89世界@名無史さん:2007/05/27(日) 18:29:12 0

ハントィ:自然環境、家屋等に関すること(家の飾り・トナカイ頭蓋骨、
デコイ、★高床式の狩猟用倉庫・鼠返し★、季節物衣料の取出し)

コミ:自然環境、家屋(木造家屋、隙間を苔で埋める)、狩猟(移動に
スキー、犬、鳥を餌に罠を仕掛ける、狩人寝床の用意、毛皮を剥ぐ)、
★小型高床式倉庫(狩猟用荷物、獲物を仕舞う、鼠返し)★、歌

マンシ:自然環境、家屋(丸太小屋、東側の外壁についた呪いの
ような物)、★高床式倉庫★、漁猟舟の櫂類、創生期に関する昔話、
http://tokyocinema.net/westsiberialist.htm
90世界@名無史さん:2007/05/27(日) 18:32:01 0

これは銛を使ってクジラを捕っている線画だが、アム−ル川下流域と
サハリン北部のニブフもまた、板をつなぎ合わせた板船に5-6人で
乗り込み、アザラシやサケなどの捕獲を生業にしていた。
地吹雪のなかを訪問した北方民族館には、このニブフに代表される
北海の海辺と河川の民の風俗や生活用品の数々が陳列されていた。
彼らは、冬には保温性の高い竪穴式住居に住み、夏には魚干し棚や
★貯蔵庫のある高床式住居★で暮らし、衣装には木綿や魚皮で作った
布を用い、白樺皮製の帽子をかぶり、アザラシ皮や魚皮の靴を
履いていたようである。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/7754/liuhiyounoshiluet.htm
91世界@名無史さん:2007/05/28(月) 15:25:28 0
ウリチ人とニブフ人は一年中定住村の住居と作業場兼用の建物に住んでおり、
ナナイ人、ネギダル人、オロク人、オロチ人、ウデゲ人は、冬は森の中の
定住村に住み、夏は魚の採れる川岸の季節村に移りました。定住村も季節村も
川岸に沿って細長く展開し、それぞれの住居は互いに離れており、そばには
★高床式の納屋★がついていました。
http://www.npec.or.jp/northeast_asia/cultural/index.html

その他に、水がめ、料理するためのもの、魚皮なめし具、臼、織物を
する道具、糸まき、肉や魚を料理する時に使う道具、はし、食べ物を
保存するためにつくられた★高床式の倉庫★の模型、木の枝と泥でつくられる
家の模型、漁や交易に使う船(実物ならば700キロも載せられる)の模型、
鹿や魚を捕る為の道具などがありました。
http://members-ftp.jcom.home.ne.jp/pinkorai/1eastnanaipink.htm
ナナイ人(ホジェン)の高床式倉庫(模型)
http://members-ftp.jcom.home.ne.jp/pinkorai/nanai181.jpg.jpg
92世界@名無史さん:2007/05/28(月) 15:29:24 0

ナナイ人は、現在400人程度いてハバロフスク市内から約1時間15分
ぐらいのアムール川の近くに集落があります。東洋系の顔でなぜか親しみを
感じました。生活は国から、援護を受けていて仕事はしなく、川で釣り
ばかりしているそうです。家は、小さくてみすぼらしく、貧しさが感じられ
ました。村長は特別扱いみたいで、家も立派で学校より大きく丘の上にあり
権威の象徴を感じました。
http://www.toya-kohei.jp/cgi-bin/diary/wwwnikki.cgi?view=kako20050807.html

ナナイ人の高床式食糧倉庫
http://www.toya-kohei.jp/cgi-bin/diary/graph/20050807-1123390934.jpg
93世界@名無史さん:2007/05/28(月) 15:34:18 0
高床式建物を、

主に住居として利用しているのが南方系の高床式建物文化。
主に倉庫として利用しているのが北方系の高床式建物文化。

日本の弥生人たちが利用していた高床式建物文化は、
住居、倉庫、さてどっち?

ちなみに江南の河姆渡遺跡の高床式建物は住居の方である。

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%B2%CF%D5%A8%C5%CF%B0%E4%C0%D7%A1%A1%B9%E2%BE%B2%BC%B0&fr=top_v2&tid=top_v2&ei=euc-jp&search.x=1
94世界@名無史さん:2007/05/29(火) 17:10:35 0
鳥居の登場は8C。


鳥居の起源については諸説あるが、確かなことは分かっていない。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から引きずり出す
ために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を
置いたことが起源であるとする説、インドの仏教やヒンズー教に
みられるトラナや中国の華表など海外に起源を求める説などがある。
いずれにせよ、8世紀ごろに現在の形が確立している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85

8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
95世界@名無史さん:2007/05/30(水) 15:20:28 0
抜歯は世界中の原始社会で見られるが、日本では先土器時代から行われ、
風習としては4000年前頃に仙台湾周辺で始まる。


抜歯の儀式は、世界の狩猟採集民族のなかでは、比較的あたりまえに
行われていて、それほど奇習というわけでもないのです。現在でも
アフリカ、東南アジア、オーストラリアの一部の民族に残っています。
http://www.city.fujiidera.osaka.jp/rekishitanbou/kodai/kodai-64.html

原始・古代の世界中に、抜歯風習はあったという。ことに長く続いたのが、アフリカ、
中国、日本だとされてますね。中でも目立ったのが、縄文・弥生の日本列島。
http://www5.ocn.ne.jp/~vorges/sub12..html

歯を抜いたり、歯を削り歯を飾る風習は、日本だけでなく中国、台湾、
アジア、オーストラリア、アフリカにもみられた。
http://www.dent-kng.or.jp/chishiki/museum/hakubutukan/wa_bassi/index.htm
96世界@名無史さん:2007/05/30(水) 15:26:55 0
佐倉市にある国立歴史民俗資料館の春成秀爾氏によると、抜歯そのものは
縄文時代以前の先土器時代にもあるが、風習としての抜歯は約四千年前頃に
東北地方の仙台湾周辺ではじまり、それ以後に関東地方をはじめ全国に
広がったという。国立歴史民俗資料館前館長の佐原真氏によると、こうした
抜歯は現在でも世界のいくつかの民族の間に風習として残っており、
子どもから大人になるための儀礼(成人儀礼)としての事例、近親者が
亡くなると歯を抜く事例、勝利の明かしに捕虜から歯を抜く事例などが
あって、このうちも最も多いのは成人儀礼にともなう抜歯であるという。
http://www.jona.or.jp/~ichiyomi/rekisi/index4.html
97世界@名無史さん:2007/05/31(木) 17:00:40 0
刺青はBC50Cには既に登場している。


紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて?

日本人が最初に入れ墨を取り入れたであろうと想像できる縄文時代の土器が
発掘されています。縄文土器にあしらわれた顔には埋葬者を守る意味合いを
持つ神秘的な「入れ墨」のようなものが認められ、これが入れ墨として
記録されている世界最古のものではないかと想像されています。
また、日本原住民族であるアイヌには優れた入れ墨技術があったものと
思われます。
http://www.ta2.com/tattoohistory.html
98世界@名無史さん:2007/06/01(金) 12:39:21 0
半月型石包丁は遼寧・満州南部を経由している。




龍山文化(紀元前30世紀−前20世紀)の特徴的な半月形石刀が、
吉林、永吉、?安、?春、通化、桓仁などで出土。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/tungus-tsusi/tungus-tsusi-1-gaiyou.htm



99世界@名無史さん:2007/06/02(土) 18:57:14 0
鵜飼は満州や朝鮮半島にも見られる。


満州の京都ともいわれた古都吉林の松花江の鵜飼は6月から9月までの日中に
行われる。鵜縄をつけずに川に放った鵜が魚をくわえると網で船にすくい
あげて吐かせるという満州式の鵜飼であった。
http://www.jiyuu-shikan.org/store/video/206.html

日本の鵜飼いは、鳥居氏に便乗すれば、江南よりも朝鮮や満州の
北方民族から伝わったのかもしれません。鴨緑江や松花江などでも
鵜飼いは見られます(注9)。
http://www.han.org/a/half-moon/hm080.html
100世界@名無史さん:2007/06/03(日) 18:52:09 0
丸木弓は弓矢が普及する中石器時代の北欧の遺跡から出土している。


弓矢が普及するのは、中石器時代(→石器時代の「中石器時代」)以降と考えられている。
矢は、旧石器時代の槍(やり)や投げ槍にくらべて携帯に便利であり、動物相の変化に
より小型獣を狩猟対象とするようになった当時においては格段に効率的な狩猟具であった。
なお中石器時代に属するマグレモーゼ文化期(前8000〜前5600年)の弓として、
ホルメゴール遺跡(デンマーク)からイチイガシ(→ カシ)製丸木弓が全形で出土しており、
当時の代表的な遺品とされている。

http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_1421501287/content.html
101世界@名無史さん:2007/06/04(月) 16:48:12 0
日本刀が完成するのは平安時代後期頃で、それまでは鉄剣や鉄刀であった。


古墳時代には武器の鉄製化も進んだ。刀剣では、それまでの銅剣に代わって
鉄剣が作られた。一般的に、両刃を剣とし、片刃の刀と区別している。
なお、古墳時代の刀剣は、のちの日本刀に見られるような反りはない。
刀に反りができるのは、平安後期以後である。

http://www.yurihama.jp/town_history/2hen/1syo/04040400.htm
102世界@名無史さん:2007/06/05(火) 15:42:14 0
貫頭衣は単に人類最初の服装の形で、古代から現代まで世界中に見られる。


●貫頭衣 (かんとうい)
一枚の布を2つに折り、その折り目の中央に穴をあけ、そこから頭を貫いて
(通して)衣服としたもの。エジプト時代から見られる原始的な衣服の
形式である。ポンチョやガラビアなどもこの一種。
http://style.beauty.yahoo.co.jp/fashion/dictionary/232_4.html

人類最初の服装の形は一枚布であったり、一枚布の真ん中に穴を開けて
被るという貫頭衣というシンプルな形であった。
http://homepage1.nifty.com/mottoi/kokusai8.htm

人類の衣服の工夫の中で最も単純な基本形として、貫頭衣の分布は広いが、
南米アンデス諸国に見られるポンチョがその代表的なものとされている。
http://www.h6.dion.ne.jp/~fu35/minzokuHP/ajia/indonesia.htm
103世界@名無史さん:2007/06/05(火) 15:45:12 0
西洋(エジプト文明、ギリシア文明、ローマ)では、もともとの
衣服は男女とも布を体に巻き付ける形式か、貫頭衣(大きな布に穴を
開け、そこから頭を出して着る)の形式でした。スカートみたいに
下が空いている服が、先にあったわけです。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=884804&rev=1

古代ローマ時代の貫頭衣のような、一枚の布の頭の部分をくりぬいた
だけの服を着ていた。
http://home.att.ne.jp/red/senseofwondr/mou2.htm

古代中国もローマもギリシャも布を纏うか貫頭衣であった。
http://www.lcv.ne.jp/~yokota/contents/mumble/ykt/970410.htm

ローマ時代のイタリアでは男性はトーガという貫頭衣
http://www.psats.or.jp/psats.or.jp/column/nakamura027column.html
104世界@名無史さん:2007/06/05(火) 15:51:05 0
モロッコ;マラケシュ以来久々に見つけたインターネット屋に入ると、
国民服とでも言うべき水色のゆったりとした貫頭衣と黒いターバンを
目だけ出して口元まで巻いたサハラ地方独特のスタイル
http://world-reader.ne.jp/travel/e-yamada-000414.html
<マッキノウズ>
元来は北米原住民が着ていた貫頭衣式のブランケット式の外着。
http://www.geocities.jp/fashionarekore/aparrelma.htm
マヤ文明が栄えたグアテマラ周辺の女性が着用するウィピルと
呼ばれる貫頭衣をイメージ。
http://www.watch.impress.co.jp/game/docs/20060703/dol.htm?ref=rss
アラブの男性の衣服と言えば、寸胴の貫頭衣に袖をつけた程度の簡単な作り
のワンピースである。サナアでは一般的にはザンナと呼ばれている。
ソウブ・衣服ともいう。エジプトではガラベーヤ、サウジアラビアでは
ディッシュダーシャと言われている。
http://forum.nifty.com/fworld/pictures/yemen0212/05.htm
105世界@名無史さん:2007/06/06(水) 17:01:21 0
歌垣は8C頃に筑波あたりで始まる。


日本の古代の歌垣の場として知られている場所には,摂津の国「歌垣山」,
大和の石榴(つば)市・軽市,肥前杵島岳,などがあるが,筑波山は,
その歌垣の場の最も古く,最も著名な場のひとつであった。

その起源は,『常陸国風土記』によれば,神祖の尊が新嘗祭の夜に子供
である富士山を訪ね一夜の宿を請うたが断られ,別の子である筑波山に
宿を請うたところ,心良く招き入れられ,歓待を受けた。神祖の尊は,これを
いたく喜ばれ,「愛しき子の坐す宮は,高くそびえ,日々とともに,人々が集まり
ことほぎ,飲食(みけ)豊かに,代々絶えること無く,日に日に弥栄え,
千代万歳に,遊楽は尽きることがないであろう」と詠われた。これより後,
富士山は常に雪に覆われて登れず,筑波山には人々が行き集い,歌や舞が供され,
宴が繰り広げられるようになった・・・とされている。
http://tamagaki.hp.infoseek.co.jp/kume1.htm
106世界@名無史さん:2007/06/06(水) 17:10:51 0
常陸国風土記(ひたちのくにふどき)は、奈良時代初期の713年
(和銅6年)に編纂された、常陸国(現在の茨城県の大部分)の
地誌である。

元明天皇の詔によって編纂が命じられた。編纂者は詳しくは不明だが、
藤原宇合や高橋虫麻呂らが関与してると言われている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98

713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
107世界@名無史さん:2007/06/07(木) 17:09:58 0
魏志倭人伝には倭人が断髪をしていたなんて書かれていない。
倭人の男子は皆、髪を結って露わにし、木綿を頭に巻いていたと書かれている。




男子皆露紒 以木緜招頭

http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/1/yayoi_2.htm
http://www.lib.nakamura-u.ac.jp/e-lib/wa/wa.pdf



108世界@名無史さん:2007/06/08(金) 17:08:46 0
糸引き納豆の登場は室町時代頃で、なれずしは3C頃。


平安時代の文献にも塩辛納豆の名は残っているが、一般に広まったのは
室町時代以降でこの頃から糸引き納豆も登場しており区別するために
塩辛納豆を久喜と呼び糸引き納豆を単に納豆と呼ぶようになった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%8D%E8%B1%86

なれずしの歴史は古くて、紀元前には中国で食べられていたらしいんだ。
それが三世紀頃に日本にも伝わって、奈良時代には文献にも登場する。
http://www.kouryu.or.jp/asobi/2003syoku/d/3.htm
109世界@名無史さん:2007/06/09(土) 20:48:51 0
約6500年前には既に灰陶時代に入り、約4200年前には既に施釉陶時代に入る。



黄河中・上流域ではB.C.4500年に老官台文化(陝西省)が誕生し、
北首嶺遺跡などからは灰陶が出土している。

http://www.tcn.zaq.ne.jp/akanh101/kottou/matomari.1/tosyokann.htm



中国最古の原始青磁は、今から約4200年前に山西省夏県の竜山文化遺跡で
発見されたものである。

http://jp.chinabroadcast.cn/chinaabc/chapter20/chapter200313.htm
110世界@名無史さん:2007/06/09(土) 20:53:44 0
●灰陶(かいとう)

中国、殷代以前に始まる陶質土器。焼成の最終段階で、空気をあまり送らず
窯の中を還元状態にするため灰青色を呈する。殷・周代を中心に漢・唐の
頃まで日常の容器として広く使われた。
http://makurada.com/modules/pukiwiki/195.html

かい‐とう【灰陶】
中国、新石器時代から殷(いん)代に盛行した灰青色の土器。多くは表面に
櫛目文(くしめもん)や縄蓆文(じょうせきもん)をもつ。日常の容器として
唐・宋のころまで使用された。
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?stype=2&dtype=2&p=%B3%A5%C6%AB
111世界@名無史さん:2007/06/09(土) 21:00:54 0
●原始磁器 げんしじき アジア 中華人民共和国 AD

中国古代の釉(うわぐすり)をかけた硬陶。
http://mobile.goo.ne.jp/search.jsp?MT=%BC%A7%B4%EF&FM=keyword


●灰釉陶 (原始磁器、原始青磁)

紀元前1600年に印文硬陶の流れの中で、1200度以上の高音焼成と上薬を
使用した陶器が発生する。その上薬(釉)が、灰・カオリナイト
(カオリナイトを含む白色化粧粘土)・石灰などを調合した灰釉である。
表面は灰色から灰緑色を呈する焼物である。日本ではまだ縄文文化の
解体も始まってはいない。
http://www4.ocn.ne.jp/~napland/yakimono/chire.html
112世界@名無史さん:2007/06/09(土) 21:29:57 0
113世界@名無史さん:2007/06/09(土) 23:27:46 0
■朝鮮民族の故郷はシベリア・ヤクーツク地方
 朝鮮人は、アムール河流域に住んでいるツングース系諸民族と同種の
ようである。
 アムール河流域の民族には、熊や虎を「山の主」「森の主」として
崇拝する信仰があるらしい。どうやら、朝鮮民族(ワイ族)は、
アムール河の以北のシベリア地方から南下してきたようだ。
 朝鮮人の先祖は、狩猟民族のワイ族であるが、このワイ族は
ロシア領=シベリア・ヤクーツク地方に住んでいるヤクート族や
エベンキ族、エベン族と同種の民族である。
 ワイ族は紀元前の時代、シベリア地方でトナカイやカモシカ、
猪などの狩猟をしながら生活していたらしいが、獲物である
カモシカや猪を求めて南下していき、やがて古代カラ半島の
東北部(現在の江原道地方)に辿りついたようである。
南下のルートは下記のような流れであろう。
シベリア=ヤクーツク地方→アムール河中流域→アムール河下流域→カラ半島東北部
【ヤクーツク地方】
ttp://www.khabarovsk.ru.emb-japan.go.jp/j/shinai/ykt.htm
【アムール河】
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%B7%9D
 朝鮮・韓国人は、「自分たちの先祖は満州地方からやって来た
高句麗人(フヨ族)だ」と、主張しているが、これは誤りなのである。
 朝鮮・韓国人とフヨ族はまったく無関係であり、別種である。
朝鮮民族はシベリアから南下してきた狩猟民族=ワイ族の子孫なのである。
 朝鮮人の土着文化がヤクート族やエベンキ族の文化に似ているのは、
そのためなのだ。
★朝鮮民族とエベンキ族
ttp://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1553866
114世界@名無史さん:2007/06/10(日) 17:33:49 0
長江流域では約6000年前に既に印文土器(印文陶)が登場している。


◎大渓文化( B.C.3990±260年〜B.C.3380±145年)

主要な文様には印文・水平周回文・篦描き文・貼付文・透し彫・彩絵があり、
縄文は見あたりません。このうち、印文は大渓文化の最も特徴的な文様で、
円形・半円形・三日月形・三角形・長方形・方形・工字形などの各種様式の
「小型スタンプ」を器表に深々と押印しています。
http://kohkosai.web.infoseek.co.jp/kaisetu/14-1taikei.htm

●印文土器

中国南東部で新石器時代から漢代に使われた土器。
幾何学文様のあるスタンプを打った灰色の壺などで、軟陶と硬陶の別がある。
http://makurada.com/modules/pukiwiki/75.html
115世界@名無史さん:2007/06/10(日) 17:39:56 0
雷文・方格文・条痕文・S字文など、印文土器にスタンプされた
幾何学文様(印文)が全く伝わっていない。


「印文硬陶」は一般的には、約1100 oCという高火度で焼成され、焼き締まった灰白色
で砂質の土器である。灰陶の一種で、新石器時代晩期にはじまり広東・福建・江西の
各地を中心に生産され、漢代まで生産が行われ、灰釉陶の母胎となった技法である。
胎土は4パ−セント程度の鉄分を含みその鉄の分量は、夾砂陶(きょうさとう=粗製土器)
や泥質灰陶より低くなっている。土器の表面には成形のための叩き文が残っているが、
その叩き文の文様は、雷文・方格文・条痕文・S字文として表れ、時として櫛の歯による
波状文の形をとる場合もある。高温焼成のため、器体に降りかかった灰が熔け、器中の
硅酸と化合し灰釉を生じる。色調は暗緑色を呈し、薄くて斑になったものと意識的に掛けた
のではないかとおもわれる。初期の硬陶は、青銅器のフォルムを写した倣銅陶器であったが、
殷時代後期には独自の器形が生まれはじめる。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
116世界@名無史さん:2007/06/10(日) 17:45:35 0
117世界@名無史さん:2007/06/11(月) 20:07:30 0
●三足土器(さんそくどき)

三本の足をもつ土器。各地の先史・原史時代の遺跡から出土。
特に、中国の竜山文化時代に盛行した鬲(れき)・鼎(てい)など。
後に青銅器製となる。
http://makurada.com/modules/pukiwiki/341.html

古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
118世界@名無史さん:2007/06/11(月) 20:13:12 0
1. 華南地域では農業の発達が遅かったため、土器の種類は多くありません。
2. 長江流域は約1万年前からすでに米が栽培され、約8000年前には稲作が発達しました。
土器は丸底が主流で、約6000年前には三足の鼎(かなえ)が登場します。
3. 黄河流域では、約1万年前から粟やひえの栽培が始まり、約7000年前以降には平底、
丸底、三足の土器が出現。 約5000年前から土器が一変し、中流域では灰色土器、
下流域では黒色土器が現れます。
4. 北方地域西北地方では、約6000年前以前の土器は発見されませんが、彩文土器が
発達したことが大きな特色です。
5. 北方地域東北地方では、約6000年〜5000年前に窯を使用し、彩文土器が出現しました。

これらをまとめると、中国新石器時代の土器づくりは約1万2000年前に始まり、各地域で形や
種類、技法、文様などがかなり異なります。また、農業の発達によって土器づくりの技術も
発達し、約6000年前には三足土器が登場。中国の漢時代まで代表的な土器の一つとなりました。
土器はもちろん日常生活用品でしたが、一部は祭りに関連したものと推察されます。
http://www.kaen-kaido.com/doki/oh.html
119世界@名無史さん:2007/06/11(月) 20:38:48 0
120世界@名無史さん:2007/06/12(火) 19:55:42 0
●中国青銅器について
-------------------------------------------------------------
古代中国では紀元前21世紀頃から青銅器文明は存在し、その後鉄器と
入れ替わる戦国までの数百年間に渡って、それぞれの時代背景を基に
形・文様・銘文に特色を残していきました。中国青銅器は他を圧倒する
ほど強くその存在を示し、祭器・礼器としての役割を十分に果たしていた
と容易に想像させられます。プリミティブな造形と繊細なまでの技巧が
うまく調和し、数千年もの歳月を経て、人間がつくった最高の美術品として
確立していきまいした。
http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html
121世界@名無史さん:2007/06/12(火) 20:03:54 0
見よ!

中国の青銅器のさまざまな器形が全く伝わっていない。




◎中国青銅器のさまざまな器形

http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-shape.html



122世界@名無史さん:2007/06/12(火) 20:10:13 0
●越式鼎


江南名物「越式鼎」(エツシキテイ)。中原の漢式鼎よりも足が長い。
陶製と青銅製がある。



越式鼎
http://www.npm.gov.tw/english/exhbition/han9909/handynisty/live/pictures/art16.gif


123世界@名無史さん:2007/06/13(水) 19:53:04 0
●中国青銅器の文様

「饕餮文」といった造形的に非常に優れた固有の文様とともに、
「龍文」「鳳凰文」「雷文」など現在でも使われている文様の原型が
編み出されていました。古代の人々の想像力の豊かさとそれを表現する
技巧の確かさが伝わってきます。

http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html
124世界@名無史さん:2007/06/13(水) 20:00:10 0
125世界@名無史さん:2007/06/14(木) 20:21:22 0
●金文

金文(きんぶん)とは青銅器の表面に鋳込まれた、あるいは刻まれた文字の
こと(「金」はこの場合青銅の意味)。中国の殷・周のものが有名。年代的
には甲骨文字の後にあたる。殷は青銅器文化が非常に発達した時代であり、
この文字を器の表面に鋳込む技術は門外不出となっていた。

金文は『史記』のような後世になって書かれた資料とは違い、完全な同時代
資料であるためこの時代を研究する上で非常に貴重な資料となっている。
しかし殷代の青銅器は古美術としてもきわめて高い価値があるため収集家など
がこれを所持することで一貫した研究が出来ないと言うことも起きている。

なお石などに刻まれた文章は石文と呼ばれ、一緒にして金石文と呼ばれる。
またこれらの研究者は金石家と呼ばれる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%96%87
126世界@名無史さん:2007/06/14(木) 20:27:38 0
●鳥書

春秋時代の中期から後期にかけて、東方列国の金文には地方色が
強くあらわれてくる。特に注目すべきのは、南方の越、楚などの
地方の主として武器において、非常に装飾的な文字を扱ったものが
現れる。この地域で用いられた書体には、筆画が非常に複雑で、
曲線が多いもので、各文字のところどころに鳥の頭を図案化した
ような形があるから、このような書体は「鳥書」(ちょうしょ)、
あるいは「鳥篆」と呼ぶ。
http://yupeihsu.at.infoseek.co.jp/syouten/kinbun.html
127世界@名無史さん:2007/06/14(木) 20:33:50 0
128世界@名無史さん:2007/06/15(金) 13:03:16 0
●古代中国の楽器


秦の統一以前の頃の楽器は史料に記載されているものが約70種もある。
『詩経』だけでも29種にふれており、打楽器には太鼓、鐘、鉦(しょう、
古代銅製の打楽器で、行軍の際に打ち鳴らしたもの)、磬(けい、銅製の
椀形の仏具と楽器)、缶(ふ、甕のようなもの)、鈴など21種があり、
吹奏楽器には簫(しょう、タテにして吹く長い笛)、管(さまざまな管楽器の
こと)、?(けん、土笛)、笙(しょう、いろいろな長さの十数本の竹の管で
作った吹奏楽器)など6種があり、弦楽器には琴、瑟(しつ)など2種のものが
あった。楽器の品種が多く増えたため、周(約前11世紀−前256年)の
時期には楽器を作る素材によって、金属、石、土、皮革、弦、木、匏
(ほう、瓢たんの実)、竹という8種類に分けられ、「8音」分類法と称された。
http://www.china.org.cn/japanese/144930.htm
129世界@名無史さん:2007/06/15(金) 13:08:33 0
●骨哨

河姆渡住処から160個骨哨が出土されて,今まで7000年の歴史があります。こんな骨笛は鳥類の
骨で作られ,骨管に1−3個の孔を磨き突いたから,鳥が鳴るような曲調を吹く事ができます。
同時の原始人は木下に隠れて,網を設置してから骨笛を吹くと,鳥らはこの音響を聞いてここへ
飛んでくるんです。これは道具でもあるし,簡単な楽器でもありますから,今までも一部分の
中国少数民族の狩り道具になっています。こんな原始道具はやはり今の竹笛になりました。
http://www.topqd.com/wj/chinayqs.htm

●磬

磬(けい)とは、中国で最も古い楽器である。石製の打楽器である。サヌカイトを叩くと金属音が
する。この石の長さ・厚みを変えて音階を奏でることができる。これを楽器として仕立てたのが
「磬」である。これを単独で使用することは希で、通常は音階順に8個、あるいはそれを2段並べて
16個台に懸けた「編磬」として用いたようである。殷代から楽器として使用されている。
http://www.page.sannet.ne.jp/to-okamo/guwanmi/kosen/kosen.htm
130世界@名無史さん:2007/06/15(金) 13:13:21 0
見よ!

古代中国のさまざまな楽器がさっぱり伝わっていない。
7000年前の河姆渡遺跡からある簫(タテ笛)の原型である骨哨に注目。


上から順に、簫、磬(編磬)、鐘(編鐘)、鐃、ロ于、鉦
http://www.szzwch.com/IMAGES/xiao.JPG
http://storage.kanshin.com/free/img_28/284331/k741978051.jpg
http://japanese.cri.cn/chinaabc/chapter20/images/bianzhong.jpg
http://www.miho.or.jp/booth/html/imgbig/00001190.htm
http://big5.huaxia.com/wh/whgb/wwdg/images/1639_0.jpg
http://www.kepco.co.jp/ICSFiles/artimage/2004/06/08/c_kpc891/kane_1.jpg

7000年前の河姆渡遺跡の骨哨
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_24_15.jpg
131世界@名無史さん:2007/06/15(金) 21:56:20 0
質問いいですか?
日本の古事記だったかに「魚のうろこのような屋根(瓦)を持つ国」として
支那大陸があげられていたけど、ということは当時の日本はまだわらぶき屋根で
たしか家のつくり(社作り?)は支那の江南地方の建築物と同じと聞いたんだけど、
もしかしたら奈良飛鳥時代以前の倭(やまと)は長江文化圏に属していたんじゃないの?
民族的には倭だけれども、文明的には江南に属するというような。当時の航海技術で
黒潮を乗り越えて黄河に行くより、黒潮に乗って江南から人が遭難したり難破したり
して九州にやってきて江南文化を教えたんじゃないかなあ?どうだろ?要するに倭が海外を
意識しだしたときは支那は三国時代から五胡十六国時代で「国」がたくさんあって、
それが隋・唐になったときにようやく朝鮮経由じゃなくて「直接」黄河文明?まで辿り着けた
んじゃないかと。それ以前は長江文明で遣隋使以後は黄河文明になったのでは?
132世界@名無史さん:2007/06/16(土) 18:55:00 0
●越族 えつぞく

中国の長江中下流以南に広く分布していた民族。粤(えつ)とも書かれる。地域によって,於越(于越),
甌越(越東海,東甌),ビンエツ※注1※(東越),揚越,山越,南越,西甌(甌),駱越(駱)などが
あり,総称して百越(百粤)と呼ばれた。於越は春秋戦国時代に浙江省北半部を本拠に越という国を
建てた。甌越は浙江省南部の甌江流域により,ビンエツ※注1※は福建省ビンコウ※注2※流域を中心
とした。揚越は揚州にいた越で,西甌,駱越は広西壮族自治区,あるいは北ヴェトナムにまでひろがって
いたとみられている。秦代末期の混乱に乗じて,趙佗(ちょうた)が番禺(ばんぐう,広東省広州市)を
都に南越(南粤)国を建て,5代97年のあいだつづいたが,漢の武帝の前111年(元鼎6),漢に滅ぼされた。
越族の習俗については,入墨・断髪などが知られ,文化については,新石器時代から春秋戦国時代まで
盛んにつくられた幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている。
http://www.tabiken.com/history/doc/C/C080C100.HTM
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
133世界@名無史さん:2007/06/16(土) 19:26:59 0
印文土器は広西壮族自治区のある中国南端まで発見されている。


近年になって広東、広西、福建、台湾、浙江、江蘇、安徽、湖南、湖北などの
地方で、続けさまに新石器時代末期から秦漢以前にかけての、幾何学的印紋の
ある陶器と石器を特徴とする文化遺物が発見されている。
http://www.beijinginfinity.com/culture/jieri/duanwu.htm


鉦は主に湖南省、江蘇省、浙江省、福建省などの華中や華南で出土し、
南方の百越(越族)の諸地で流行した。


鉦主要出士於湖南、江蘇、浙江、福建等地,而以湖南寧了縣出土最多。
西周晩期以後,甬鐘行用地區甚廣,在南方百越諸地則流行鉦。
http://www.ntut.edu.tw/~s7360376/page0-2.htm
134世界@名無史さん:2007/06/16(土) 19:34:48 0
135世界@名無史さん:2007/06/17(日) 19:27:42 0
北方アジアは一切抜きの偏向調査で作為的に中国・朝鮮に誘致していた
スットボケ遺伝学者(嘲笑)


宝来センセイによると、韓国や中国にはそれぞれドミナントなミトコンドリアDNAがあるのに、
日本本土では、とくにドミナントなものがない。つまり系統的にさまざまな人たちから成り立って
いるのである。また、これまで、大陸から渡来した弥生人によって分断され、北に追いやられたのが
アイヌ、南に追いやられたのが琉球人といわれてきた。しかし、アイヌと琉球は少なくとも1万2000年
以上まえに分岐しており、紀元前3世紀以降に渡来してきた弥生人によって分断されたんではないという。
1万2000年前にそれぞれ日本に住み着いたアイヌと琉球人。そこへ紀元前3世紀以降になって渡来し、
稲作をはじめた中国・朝鮮系の人びと。こうした人たちの子孫がわたしたちなのだ。
それにしても紀元前3世紀以降の大陸からの渡来って、それ、秦の始皇帝のころの、徐福たちじゃない?
http://home.att.ne.jp/apple/tamaco/Yutenji/000115DNA.htm
http://youtube.com/watch?v=iRD3k2j9BeA
136世界@名無史さん:2007/06/17(日) 19:35:13 0


宝来mtDNAデータのトリックとその欠陥を簡単に説明してやると、

朝鮮半島にしろ中国大陸にしろ、古代より北方アジア人の侵入定着が絶え間ない
地域であったのにもかかわらず、データの中に北方アジア人に関するタイプの
データが一切出てこない。

しかも、調査サンプルにも北方アジア人のサンプルが一つも無い。

つまり、宝来mtDNAデータは、北方アジア抜きの偏向調査で出された単なる
偏向データなのであって、ただひたすら中国や朝鮮からやって来たと
錯覚させるだけの非常に悪質極まりない欠陥データに過ぎないのである。

137世界@名無史さん:2007/06/17(日) 21:45:35 0
     火火火病火火火火火火火火火
    火火               火火
    火火              井 火火
   火    __    川  __    火
   火   /              \ 火
  |              メ       |
  |             メ         |
  |   --=・=    メ   =・=--    |
 /   _ _       メ         _ _  \
|          メ               |
|         メ|  |           |
|        メ                  |
 \     _ / ●  ● \_      /
  |                       |  
  |         ___         |
  |       /  ____  \        | 日華分断はウリたちの悲願。
  |                       |半島人だけが嫌われるのは
  |                       |嫌だ。日本在住競合排除。
.─┤  \                 /  ├───
            \___/
138世界@名無史さん:2007/06/18(月) 15:56:04 0
中国の骨しか調べずに中国だと決め付ける低脳骨屋の偏向調査(嘲笑)
いつも必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


渡来系弥生人は大陸のどこからやって来たのでしょうか。最近の調査により、
水稲耕作の発祥の地ともいわれている中国南部が有力視されています。
黄河下流と長江下流に挟まれた地域の漢代の遺跡から、渡来系弥生人に
よく似た人骨があいついで見つかっています。この時代の中国は、政治的に
動乱の時代であり、いろいろな民族が入り乱れて戦いました。日本にやって
来た渡来民は、このような動乱から逃れてきた人々だったのでしょうか。

http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-14.html
139世界@名無史さん:2007/06/18(月) 16:00:01 0
朝鮮半島と山東省の骨だけで中国だと決め付ける低脳骨屋の偏向調査(嘲笑)
いつも必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


土井が浜の弥生人骨は、160センチメートルを遙かに超えた長身、華奢な四肢骨、
細面の顔に低い鼻、のっぺりとした、それでいて端正な顔立ちで、いわゆる北方系
「新モンゴロイド」の特徴がありました。
彼らのルーツを求めて朝鮮半島南部の慶尚南道金海と南部の勅島(ヌクド)の人骨、
中国は山東省の漢代の人骨を対象に調査されました。ところが、朝鮮半島2ヶ所の
人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨は、極め
てよく似た形質を持っていることが確認されました。弥生人のルーツはやはり中国
だったという説が有力です。

http://www.rakuten.ne.jp/gold/sakezo/rekisi/keta3.html
140世界@名無史さん:2007/06/18(月) 16:02:00 0
     火火火病火火火火火火火火火
    火火               火火
    火火              井 火火
   火    __    ワイ  __    火
   火   /              \ 火
  |              メ       |
  |             メ         |
  |   --=・=    メ   =・=--    |
 /   _ _       メ         _ _  \
|          メ               |
|         メ|  |           |
|        メ                  |
 \     _ / ●  ● \_      /
  |                       |  
  |         ___         |
  |       /  ____  \        | 日華分断はウリたちの悲願。
  |                       |半島人だけが嫌われるのは
  |                       |嫌だ。日本在住競合排除。
.─┤  \                 /  ├───朝鮮半島経由以外の
            \___/         伝来は何一つ認めないニダ!
141世界@名無史さん:2007/06/18(月) 17:00:09 0
中国の骨しか調べずに中国だと決め付ける低脳骨屋と低脳ミトコンドリ屋の
偏向調査のコラボレーション。やはり必ず北方アジアは一切抜き(嘲笑)


一九九四年一月二六日ニュース報道。山口県豊北町の土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアム
の松下孝幸館長(形質人類学)らが、山東省文物考古研究所を訪問。同省の遺跡から出土
した前漢時代の古人骨約七十体について、顔の長さ、幅などを計測し、北部九州や山口県
で発掘された渡来系弥生人骨と比較したところ、八割以上で顔の長さ、ほお骨の厚さなど
主要な値が一致。骨から推定した平均身長も渡来系弥生人(男性一六三センチ、女性一五〇
センチ)とほぼ一致した。

 一九九六年一〇月一九日、日本人類学会・日本民族学会連合大会発表。東大理学部の
植田信太郎助教授(人類学)らは、約二千年前の中国・山東省臨錙の遺跡から出土した
人骨と、同時期の詫田西分遺跡から出土した人骨のDNAを分析し、遺伝子の配列が
特定の部分で同じ人がいることを確認した。
142世界@名無史さん:2007/06/18(月) 17:07:19 0
(続き)

一九九九年三月一九日ニュース報道。江南人骨日中共同調査団(山口敏・東京国立
科学博物館名誉研究員が団長)は、江蘇省の墓から出土した六十体(二十八体が新石器
時代、十七体が春秋戦国時代、十五体が前漢時代)の頭や太ももの骨、歯を調査。
特に、歯からDNAを抽出して調査し、福岡、山口両県で出土した渡来系弥生人と
縄文人の人骨と比較。結果、春秋戦国時代人と前漢時代人は弥生人と酷似。
DNA分析では、江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代末)の人骨の歯から
抽出したミトコンドリアDNAの持つ塩基配列の一部が、福岡県の隈西小田遺跡の
人骨のDNAと一致した。

http://www.asahi-net.or.jp/~CY1N-STU/kodaishi/yayoi.htm
143世界@名無史さん:2007/06/19(火) 20:56:50 0
弥生人骨と一致したというその山東省の弥生時代開始期の
出土物はこんな有り様(嘲笑)


◎西周時代の陶器発見 山東省済南市

山東省済南市歴城区孫村鎮盧家寨村でこのほど、西周時代(紀元前11世紀ごろ〜
紀元前771年)のものと見られる陶器が見つかった。現在までに陶製の鬲(れき、
古代中国で使われた三足の器)が約50点出土しており、発掘作業はまだ続いている。
専門家の説明によると、この遺跡が発見され、珍しい西周時代の陶器が大量に
出土したことは、西周時代の人々の生活や陶器製作技術を研究する上で、極めて
重要な価値がある。

http://www.china.org.cn/japanese/201551.htm

144世界@名無史さん:2007/06/19(火) 20:58:42 0
>陶製の鬲(れき、古代中国で使われた三足の器)が約50点出土しており



鬲????? 鬲????? 鬲?????

いやあ、弥生人骨と一致したというその山東省の弥生時代開始頃の出土物は
弥生遺跡からはさーっぱり出土しない摩訶不思議な器種が出土するんですねえ(嘲笑)


145世界@名無史さん:2007/06/20(水) 03:33:24 0
雲南省ハニ族のうたがき

若緑のさなえ早苗は うるわ麗し乙女よ
麗し乙女よ
大きなたんぼ田圃は たくま逞し若衆よ
逞し若衆よ
乙女 嫁に来てくれな
田圃に 稲穂は伸びやせん
稲穂は伸びやせん
若衆 乙女をめと娶ってくれな
若衆 乙女を娶ってくれな
伸びた稲穂も 実りゃせん
伸びた稲穂も 実りゃせん   (相聞歌より抜粋)
146世界@名無史さん:2007/06/20(水) 19:51:44 0
弥生人骨と一致したという山東省の弥生時代頃の遺物がさっぱり伝わっていない。
それはまるで宇宙人の創造物かのようなものばかりである。


◆山東省の弥生時代頃のさまざまな出土物

上から順に、磬、甲骨文、爵、簋、簠、鼎、金文、方壺、盂
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww41.htm
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww31.htm
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww32.htm
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww42.htm
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww43.htm
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww51.htm
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww52.htm
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww81.htm
http://db.museum.or.jp/im/Search/jsMuseumEventDetail_jp.jsp?event_no=28679
147世界@名無史さん:2007/06/20(水) 20:20:56 0
二千年以上も地中深く埋まっていた楽器は、どんな音を出すのだろう。さまざまな
古代の楽器のオーケストラは、妙なる調べを奏でるだろうか。中国山東省でこのほど
出土した数百点もの楽器による特別演奏会が、山東テレビ局で、三日間にわたり催された。
聴衆は驚きの声をあげた。古代の楽器たちは『蘇武牧羊』とか『茉莉花』といった
中国の有名な歌曲の旋律をきちんと奏でたからである。しかし、この古楽器はもう
二度と音を出すことはあるまい。博物館に収められてしまうからである。中国で権威ある
考古学者と音楽界の専門家は、これらの楽器を「編鐘」「編磬」「ロ(ジュン)于」
「鉦」「鐸」と鑑定した。編鐘は音律の異なる小さな鐘を二層に吊るして並べた楽器。
編磬は石や鉄で作られた板を叩いて音を出す。ロ(ジュン)于は槌で叩く楽器、
鉦は握り柄のある鈴、鐸は大きな鈴で、日本の古墳から出土する銅鐸に似ている。

(中略)6年ほど前にこの丘の近くで、道路工事が始まった。ブルドーザーの騒音が、この丘の
二千年の眠りを破った。丘の土は削られ、道路や家の建設にも使われた。そして1999年
6月26日の昼前、土をすくっていた一台のショベルカーが青緑色をした物体を掘り起こした。
よく見るとそれは大量の青銅の鼎であった。鼎は三本足で耳が二つある古代の器である。
http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/zhuanwen/200107-2.htm
148世界@名無史さん:2007/06/20(水) 20:26:44 0
>「編鐘」「編磬」「ロ(ジュン)于」「鉦」「鐸」と鑑定した。
>よく見るとそれは大量の青銅の鼎であった



鐘?????磬?????ロ于?????鉦?????
鐸?????鼎?????

いやあ、弥生人骨と一致したというその山東省の弥生時代頃の出土物は
弥生遺跡からはさーっぱり出土しない摩訶不思議な器種が出土するんですねえ(嘲笑)


149世界@名無史さん:2007/06/21(木) 15:36:55 0
弥生人骨と一致したというその江蘇省の弥生時代開始期の
出土物はこんな有り様(嘲笑)



江蘇句容・金壇周代土トン(土+敦)(盛り土、小山)墓群:考古学者たちは、
土トン墓の埋蔵の特色に合わせ、一層ずつ剥がしていく整理方法を採用し、
青銅器時代の江南の土トン墓造営の全過程を明らかにした。計40の土トンを
発掘し、233基の墓、229組の祭祀器物群、14カ所の墓葬建築遺物を整理、
幾何印紋陶(幾何学模様を施した陶器)、原始青磁器を中心に、江南地方の
特色をもつ各種文物3800点余りが出土した。
http://www.china-news.co.jp/culture/2006/05/cul06051302.htm


150世界@名無史さん:2007/06/21(木) 15:41:03 0
>幾何印紋陶(幾何学模様を施した陶器)、原始青磁器を中心



印紋陶?????原始青磁?????


弥生時代開始頃の長江流域の江蘇省の出土物は日本の弥生遺跡から
出土しない摩訶不思議なものばかり出土するんですねえ(嘲笑)


151世界@名無史さん:2007/06/22(金) 15:22:20 0
【江蘇】徐州市で周代の器物を修復、2800年前の生活が明らかに

江蘇省徐州市にある周代の遺跡から出土した器物が半年かけて修復され、2800年前の
生活の様子が明らかになった。今回の修復は当時のこの一帯の製陶業や栽培業、建築の
発展状況を知るうえで大きな意義があり、同省での周代の遺物の収蔵・研究の空白を
埋めるものとして注目されている。徐州市賈汪鎮泉東村で去年初めて、完全な形で残る
周代のものとみられる家屋跡を発見。発掘を通して、考古学者は一家族の住まいである
ことを確認した。徐州博物館考古学部の耿軍建主任によると、家屋はほぼ南北2列に並び、
北側には4〜5室、南側には3室あった。部屋の大小や機能はそれぞれ異なり、東側から
陶鬲(とうれき・陶製の鼎に似たもの)などの炊事用具が見つかったことから厨房、
西側では陶罐や陶甕(とうおう・陶製のかめ)など大型の容器が出土したため、貯蔵部屋
だったのではないかと考えられている。部屋は木の柱を骨組みにして草を混ぜた泥で覆った
構造。壁はほぼ長方形になっているが、手で塗ったせいか厚みにばらつきがある。出土した
20点余りの陶鬲や陶甕から、考古学者は西州時代の家屋跡だと推断している。 家屋の前に
ある坑からは、大量のからす貝の殻や食べ残した豚、鹿、犬の骨のほか、鹿の角で作った
鋤、骨を彫った錐や剣、貝殻で作った鎌、泥を焼いた鉢など生産・生活用具が見つかった。
ここから当時、農水牧畜業や狩猟が比較的発達していたことが窺われ、周囲には広大な
森林や沢、草地、農地があり、居住環境はかなり良かったのではと思われる。徐州市博物館
は現在、遺跡から出土し修復された陶鬲や陶罐、鉢など20点余りの器物を展示しており、
大小は様々だが、文様や色彩ははっきりしている。最も完全な姿をみせているのが大型の
陶鬲で、直径42センチ、高さ38センチ。考古学者によると、周代の遺物はもともと数少なく、
とくに江蘇省でこれほど多くの器物が発見されたのは今回が初めてだという。2800年の時
を経て修復された器物に周代の人々の生活風景が想像できる。
http://j.people.com.cn/2003/06/13/jp20030613_29739.html
152世界@名無史さん:2007/06/22(金) 15:35:27 0
>陶鬲(とうれき・陶製の鼎に似たもの)などの炊事用具が見つかったことから厨房、
>西側では陶罐や陶甕(とうおう・陶製のかめ)など大型の容器が出土したため、



鬲?????鬲?????鬲?????鬲?????


いやあ、弥生人骨と一致したというその江蘇省徐州の弥生時代開始頃の遺跡からは
弥生遺跡からはさーっぱり出土しない摩訶不思議なものが出土するんですねえ(嘲笑)


153世界@名無史さん:2007/06/23(土) 17:26:20 0

◎北方アジア抜きの偏向調査で中国に誘致し国民をダマした容疑者リスト


 宝 来 聰 (国立遺伝学研究所助教授、総合研究大学院大学助教授)


 松 下 孝 幸 (土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアム館長)


 植 田 信 太 郎 (東大理学部助教授)


 山 口 敏 (東京国立科学博物館名誉研究員)
154世界@名無史さん:2007/06/24(日) 19:23:02 0
●河姆渡文化 かぼとぶんか

浙江省余姚(よう)県河姆渡遺跡を標準とする新石器時代の文化をいう。主に寧紹平原の
東部地区に分布している。河姆渡遺跡には四つの文化層があり,第1層は良渚文化早期と
類似しており,第2層は馬家浜文化の要素がある。第3・4層は河姆渡文化層で,上の両層
よりも古く,注目すべき出土器物がある。土器は原始的な手づくりの,あらい厚手の不整形で,
低温で焼かれた夾炭黒陶が最も多く,混ぜられた植物の茎葉砕片やもみ殻が焼けて炭化し,
土器を黒色にしている。夾炭黒陶は第4層では最大量を占めるが,第1層に至るほど漸減し,
第1・2層では焼成温度の高い砂混じりの夾砂紅陶・灰陶が優勢となる。第4層の土器の主な
ものに,釜・罐(かん)・鉢・盤・器台がある。釜が四つの層を通して出土し,形態と
装飾が最も多様なところから,釜を南方地区新石器文化の特徴とする見解がある。第3層
出土の甑(そう)は,蒸気熱を利用した穀物の蒸し器で,のちに朝鮮・日本などに伝わり,
東アジアに特徴的な穀物を蒸して食べる調理法を普及させたものである。また紡錘のほか,
濃茶の文様を施した数個の彩陶片も発見されている。遺跡層が地下水面下にあったため,
多くの木器が保存され,耜(し。すき)・碗・盆・かい・杵・矛・紡・紡錘などのほか,
組み合わせ部品用と思われる大小の棒が発見されている
155世界@名無史さん:2007/06/24(日) 19:26:13 0
第4層には骨器が非常に多く,石器は少ないが,第1層に至るほど,石器が漸増して
骨器が漸減し,河姆渡文化では骨器の比重が大きかったことが知られる。骨器には
鏃・針・管状針・梭形器・笛などあるが,大型哺乳動物(水牛?)の肩胛骨を加工
した多くの耜が注目をあびた。石器は小型のあらい磨製で,斧・手斧・のみ・紡錘
などがある。第4層の住居址に,多くの稲の穀粒・茎葉の堆積が発見された。栽培稲
のセン(注1)は、亜種晩稲型水稲と鑑定され,紀元前約 5000年のもので,現在の
ところ,東アジアにおける水稲の最古の実物標本といわれている。また,とち・ひし・
桃の実,ヘちま・はとむぎや,なつめの一種なども出土している。家畜には犬と豚が
おり,水牛もいたようである。土器面に豚,または豚と稲穂の刻まれたものがあり,
小型の陶豚もある。ほかに,多種類の獣・鳥・魚などの骨も出土している。当時の
河姆渡地域では,すでに骨耜・木耜などによる稲作農耕が行われ,家畜を飼育し,
狩猟・漁労や採集もかなりの比重を,占め,種々の生産・生活の器具を作り,紡織も
行われていたのである。住居は大きな材木で構築された高床式で,柱をくりぬいて
はりや板をはめこむなど,やや高い技術が用いられている。
156世界@名無史さん:2007/06/24(日) 19:31:17 0
素朴な芸術品も多く,木彫の魚,骨彫の匙・こうがい,陶製の魚・人頭像,象牙彫の鳥
などのほか,玉製の管・珠・ケツ・コウの装飾具がある。また朱紅色の漆器の木碗もあり,
生漆と鑑定され,中国で最古のものといわれる。出土した50余種属の動物の生態および
植物遺存と花粉分析が明らかにした植生の状態から推測すると,当時この一帯は,現在
よりも温暖多湿で,現在の広東・広西等の地区に近く,山麓に接した大小の湖沼が散在する
草原灌木地帯であったようである。河姆渡文化の年代は,ほぼ紀元前5000年ごろにあたる
といわれ,揚子江下流域における最古の新石器文化であり,黄河中流域や山東地域の文化と
並んで,中国の早期新石期文化の一つの中心である。 
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
157世界@名無史さん:2007/06/24(日) 19:39:41 0
>>>夾炭黒陶は第4層では最大量を占める>>>釜・罐(かん)・鉢・盤・器台
>>>甑(そう)は,蒸気熱を利用した穀物の蒸し器
>>>濃茶の文様を施した数個の彩陶片>>>笛などある>>>土器面に豚
>>>小型の陶豚もある>>>骨耜・木耜などによる稲作農耕>>>陶製の魚・人頭像


黒陶?????釜?????罐?????鉢?????盤?????
器台?????甑?????彩陶?????笛?????
土器面に豚?????陶豚?????骨耜?????木耜?????
陶魚?????人頭像?????


7000年前の長江流域の遺跡でさえ日本の縄文遺跡からは全く出土しない
摩訶不思議なものばかり出土しているんですねえ(嘲笑)

158世界@名無史さん:2007/06/25(月) 15:17:52 0
見よ!

7000年前の長江流域の河姆渡遺跡に既にある、骨製や木製の耜(鋤)、黒陶や彩陶、
釜・罐・鉢・盤・器台・甑・灶などの器形、骨哨(骨製のタテ笛)、猪文様など、
縄文時代を通してさーっぱり伝わっていない。



◎河姆渡遺跡

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
http://homepage3.nifty.com/sugar-tr/joumonG.html


159世界@名無史さん:2007/06/25(月) 21:16:30 0
稲作が中国大陸から日本へ直接伝来した裏付け
http://www2.athome.co.jp/academy/botany/bot_photo/bot06ph7.gif

日本語の音韻と照葉樹林ベルトに分布する言語の照応関係
http://yamatai.cside.com/katudou/image/213-2.gif
160世界@名無史さん:2007/06/26(火) 02:30:45 0
>>159
確かに、その通りだ。

くだらん揚げ足取りの土器や文様のコピペを
繰り返して牽強附会の妄想を強弁し続ける
朝鮮族が火病を起こすだろうけど。
161世界@名無史さん:2007/06/26(火) 19:48:15 0
弥生時代開始頃の長江流域はこんな有り様(嘲笑)


呉城文化 B1400?〜B1000?

 江西地方の文化はB3000年〜B2500年頃の山背文化を最後に一時停滞していたが、
良渚文化や石家河文化の崩壊後に呉城文化が抬頭した。黄河流域とはまったく
異質の造形美術を特色とし、豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土し、
中国磁器の源流に再考を促した。また符号を刻した土器や鋳型も発見され、
符号の総数は170を超え、12個を列記したものも出土している。隣接する湖南省
では1960年代に寧郷県で多数の貴重な青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、
商文化を凌ぐ鋳造技術と独特の造詣を示していたが、このときには商文化の一分派
と認識された。1970年代に江西省樟樹市(旧清江)で発見された呉城遺跡の城壁址は
4万uで、地方的な政治中心のひとつに過ぎなかったと考えられる。
http://home.t02.itscom.net/izn/chu0.html
162世界@名無史さん:2007/06/26(火) 19:56:15 0
>豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土
>符号を刻した土器や鋳型も発見
>青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、商文化を凌ぐ鋳造技術



印文陶?????釉陶?????原始磁器?????
鼎?????尊?????


いやあ、弥生時代開始頃の長江流域の遺跡からは日本の弥生遺跡からは
さーっぱり出土しない摩訶不思議なものばかり出土するんですねえ(嘲笑)


163世界@名無史さん:2007/06/27(水) 14:52:02 0
弥生時代開始頃の長江流域はこんな有り様(嘲笑)


▲ 新干大洋洲商墓

1989年出土の、呉城文化第二期の大規模な墓。華北文化では商代後期にあたる。
両面神人頭像や大鐃に代表される多数の青銅器や玉器を含む2000点近い副葬品が出土。
青銅品486点のうち武器類は252点に達し、また礼器49点の殆どが実生活での使用痕を
遺し、ゲンと呼ばれる甑や一号方鼎など同時代最大級のものが含まれる。また造形美の
点では絶品とすら評される伏鳥双尾虎や、従来西周時代に鐘が変化して出現したとされ
てきた楽器の[金專]の出土など、独特の造形や装飾によって、青銅器文化時代における
江西省の独自性と重要性が再認識された。出土した青銅器は商式・融合式・土着式・
先周式に大別され、当時の中原のみならず渭水流域とも交流があったことを窺わせる。
また玉器の加工水準は石家河文化や良渚文化に比肩する。近年、近郊で多数の商代の
遺物を伴う61万uに達する都城址が発見され、王都址の可能性が期待されている。
http://home.t02.itscom.net/izn/chu0.html
164世界@名無史さん:2007/06/27(水) 15:08:25 0
>両面神人頭像や大鐃に代表される多数の青銅器や玉器
>ゲンと呼ばれる甑や一号方鼎など同時代最大級
>伏鳥双尾虎や、従来西周時代に鐘が変化して出現したとされてきた
>楽器の[金專]



両面神人頭像?????鐃?????玉器?????ゲン?????
鼎?????伏鳥双尾虎?????[金專]?????


いやあ、弥生時代開始頃の長江流域の遺跡からは日本の弥生遺跡からは
さーっぱり出土しない摩訶不思議なものばかり出土するんですねえ(嘲笑)


165世界@名無史さん:2007/06/28(木) 20:37:36 0

◎日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土

【上海9日共同】中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770−同221年)
の地方国家、越の貴族墓から、日本の弥生時代の銅鐸(どうたく)に形が似た青磁器の
鐸がこのほど出土した。発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張敏所長が9日まで
に明らかにした。

日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが
定説だが、張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、発掘結果をめぐる
今後の議論が注目される。

http://www.asyura2.com/0510/bd42/msg/948.html
166世界@名無史さん:2007/06/28(木) 20:54:42 0
>銅鐸(どうたく)に形が似た青磁器の鐸がこのほど出土
>張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性がある




青磁どころか灰陶さえ伝わっていない事には完全無視か・・・
だいたい鐸の前に鼎の一つくらい伝えろや、このスットボケ南京博物院が(嘲笑)



167世界@名無史さん:2007/06/30(土) 00:19:28 0
【福建】3500年前の商周の時期の文物を発見

しょう(さんずいに章)州=竜岩高速道路沿線の南靖、豊田、天宝などの区間で、先般、
3500年前の商周の時期の石器、陶磁器などの文物が約500点発見された。このように商周の
時期の文物がたくさん出土したことは福建省できわめて稀なことである。

福建省の考古学調査班は昨年しょう州=竜岩高速道路沿線の南靖、らん城の区間に赴き、
商周の時期の文物の緊急救出の発掘に取り組み、今月中旬頃に3500年前の商周の時期の文物が
発見された。

考古学調査班副班長の鄭輝氏によると、今回の発見の状況から見て、狗頭山遺跡には商周の
時期の古墳、民家遺跡が埋まっており、今回出土したもの中には石戈、石矛、石鋳などの石器
と圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、砂の入った灰色陶器、
上薬のついた陶器、硬質陶器などがたくさんあった。

現地のメディアによると、しょう州市は商周の時期の文化は非常に発達をとげた地域で、1950年代
と1970、1980年代に、福建省としょう州市の考古文化部門は南靖などで古文化遺跡をたくさん発見した。
特に1956年には南靖県の県政府所在地付近の浮山地区で数多くの商周の時期の典型的な陶器、石器が
出土し、その後福建省の考古学界ではそれを「浮山類型」と呼ぶことにした。今回発掘された狗頭山
古文化遺跡も「浮山類型」に属するもの。現在、高速道路建設部門はすでに工事を一時停止し、文化部門
に積極的に協力して緊急救出のための発掘を行っている。

しょう州市におけるこれらの文物の出土は、しょう州市ひいては福建省のその時期の歴史、文化の研究
にとって学術面と考古学の面で重要な価値を持っている。
http://j.peopledaily.com.cn/2003/03/31/jp20030331_27523.html
168世界@名無史さん:2007/06/30(土) 00:39:04 0
>圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、
>砂の入った灰色陶器、上薬のついた陶器、硬質陶器など



圏足器?????環足杯?????灰色陶器?????
上薬のついた陶器?????硬質陶器?????


BC16Cの華南の遺跡さえ日本の弥生遺跡からは全く出土しないものばかり(嘲笑)


169世界@名無史さん:2007/06/30(土) 17:49:24 0
印文土器は中国南端の広西壮族自治区まで発見されている。


近年になって広東、広西、福建、台湾、浙江、江蘇、安徽、湖南、湖北などの
地方で、続けさまに新石器時代末期から秦漢以前にかけての、幾何学的印紋の
ある陶器と石器を特徴とする文化遺物が発見されている。
http://www.beijinginfinity.com/culture/jieri/duanwu.htm


鉦は主に湖南省、江蘇省、浙江省、福建省などの華中や華南で出土し、
南方の百越(越族)の諸地で流行した。


鉦主要出士於湖南、江蘇、浙江、福建等地,而以湖南寧了縣出土最多。
西周晩期以後,甬鐘行用地區甚廣,在南方百越諸地則流行鉦。
http://www.ntut.edu.tw/~s7360376/page0-2.htm
170世界@名無史さん:2007/06/30(土) 17:59:48 0

◎戰國時代陶質編鐘在?文化發源地無錫出土


新華網江蘇頻道南京4月16日電 (高幼元) 日前,在無錫市錫山區泰伯文化
藝術節上,一批最近出土的戰國時代陶質編鐘等古樂器向中外遊客展示。
這批距今2000多年?青銅器的樂器中,最令人驚嘆的是,經修復後最大的編鐘,
高30多公分,造型十分精致。

展示會上,錫山區文管會同志介紹?,這裏是?文化發源地。這批新出土的文物,
除編鐘、鐃、磬等樂器類陶器30餘件外,還有經修復的缸、罐、壇、鼎等各種
陶器共五十多件。這些原始瓷或印紋硬釉陶器,紋飾繁多。有乳釘紋、水波紋、
方格紋、圓圈紋等。經考古專家初?鑒定,數量之多,品種之全,工藝之精,
在全國罕見。
171世界@名無史さん:2007/06/30(土) 18:02:57 0
這批珍貴的出土文物是當地村民發現的。今年2月19日,錫山區後宅鎮天仙
塘萬安橋村村民鄒曉峰和鄒春鋒,帶著20多件陶器,向區文管會報告,村裏
一個大土?上發現了“古董”。工作人員認出是極有價?的陶制編鐘。第二
天即?到現場。這個大土?是五年前,鎮上築新路取土用的,當時就有部分
古陶器被?出,村民見是陶土做的,沒在意。而這次錫山區考古人員卻十分
在意,“掘地三尺”,出土的陶片、陶器用1噸半?車裝了滿滿一車。隨後,
他們邊向上級部門報告,邊請專家來修復,並對來報告的兩村民給予了獎勵。

後宅鎮往南數公里的鴻聲鎮,正在發掘的彭祖?文化遺址,已有一大批距今
6000年至7000年的新石器時代文物初露真容。據南京博物院考古學家介紹,
彭祖?是長江三角洲文化層次堆積最厚、包含物最多、保存最好的一處?史文化
遺址,是當代研究太湖流域人類文明發展史最好的?史資料。該鎮的鴻山南麓有
一座被譽為“開發江南先祖”泰伯之墓,距今已有3196年?史。現在,後宅鎮又
新出土的2000年前的古編鐘,作為陶樂器隨葬品,非一般人可用,是墓主人身?
顯赫?還是當時這塊地主是個文化“繁榮”勝地?這還需專家來解謎。
http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/www.js.xinhua.org/htm4/2041622.htm
172世界@名無史さん:2007/06/30(土) 18:07:10 0
>陶質編鐘等古樂器向中外遊客展示
>鐃、磬等樂器類陶器30餘件外,還有經修復的缸、罐、壇、鼎等
>各種陶器共五十多件。這些原始瓷或印紋硬釉陶器,紋飾繁多。
>有乳釘紋、水波紋、方格紋、圓圈紋等。


編鐘?????鐃?????磬?????缸?????罐?????
壇?????鼎?????原始瓷?????印紋硬釉陶?????
有乳釘紋?????水波紋?????方格紋?????圓圈紋?????


いやあ、弥生時代の江南の江蘇省無錫からは日本の弥生遺構では
さーっぱり見た事がない摩訶不思議な物や文様が出るんですねえ(嘲笑)

173世界@名無史さん:2007/07/01(日) 18:09:24 0

●考古發現一罐鴨蛋醃了2500年


在句容、金壇乃至整個江南,有一種獨具特色的土墩墓,這些墓聳立在山巒崗地、平原叢林中,
遠遠看上去,就像是一個隆起的大土墩。它們代表著西周至春秋戰國時期江南特有的土著文化。
目前經初步探查,在鎮江周邊約有5000多座土墩墓。

江蘇省8支考古隊120多位考古專家,從今年4月起對相關公路沿線的土墩墓進行了搶救性發掘,
先後發現了46座西周到春秋時期的土墩墓,出土文物4000多件。昨天,來自全國各地的10多位
考古專家不僅實地勘查了考古現場,還商討如何保護土墩墓的發掘成果。
174世界@名無史さん:2007/07/01(日) 18:12:10 0
一罐鴨蛋完好無損

豆、碗、盞、盅、罐、鼎,所有文物按照不同的古墓,從大到小一字排開,4000多件文物,
把句容博物館的兩層樓裝得滿滿的。最讓專家們意外的是,句容天王寨花頭的2號墩裡出土的
文物,雖然也是罐、豆等陶器,但其中一個小罐子裡面居然還盛著滿滿一罐鴨蛋!順著罐口
往裡看,白白的蛋比現在的鴨蛋小。記者還特地俯身聞了聞,可以嗅到一股鹹味。南京博物院
考古研究所副所長林留根說,出土時陶罐上還有一個蓋子,推測是2500年前這戶人家醃製的鴨蛋。

南京博物院研究員鄒厚本告訴記者,目前整個江蘇僅有三罐這樣的古老蛋,一罐在南農大的
博物館裡,一罐在鎮江博物館裡,這是考古發現的第三罐。早在上世紀70年代,發現第一罐蛋
的時候,他們就把這些蛋送給相關專家做研究,不過專家們也說不出個所以然。因此,古人
如何醃製鴨蛋,到現在還是個謎。至於保存,雖然古墓經常有雨水滲透,但罐子有罐蓋,
能擋住雨水,而且罐子裡面有封泥,這些封泥起到了很好的保護作用。細看罐中鴨蛋,除了
蛋殼是完好外,蛋青蛋黃怎樣?考古專家說,現在只能先保護,然後再研究。
175世界@名無史さん:2007/07/01(日) 18:16:07 0
古怪青瓷用途是謎

擺放文物的現場,好像是古代46戶人家家庭用具的一次集中展覽。從這些器物可以看出,當時人
們用特別大的缸來盛糧食,用鼎來燒飯,用青瓷碗來裝飯。不過,在句容天王寨出土的一個
青瓷器,卻令專家們無法辨別它的用途。

這件青瓷有一個圓圓的底座,以前從來未見過。此外,一個羽狀紋大瓷罐,也讓專家們好奇。
在西周至春秋時期,瓷罐上一般都只是直線條的花紋,而這個瓷罐上的花紋看上去像孔雀
尾巴上的羽毛,特別漂亮。這種花紋是怎麼製作出來的?這也是一個謎。
176世界@名無史さん:2007/07/01(日) 18:20:00 0
保護土墩墓刻不容緩

雖然盜墓賊看不上這些土墩墓,因為從墓葬出來的都是不太值錢的陶器殘片,但由於修路、
修水利等原因,每年都有成百座土墩墓被破壞了。這次寧常、鎮溧高速公路沿線有6座
土墩墓還未發掘就被摧毀,與此同時,金壇境內為建高爾夫球場平整40多座土墩,句容
境內25座土墩因工程建設被毀,句容郭莊鎮厚達7米的文化遺址被寧杭高速公路施工毀壞,
金壇一大型商代遺址被鎮政府推平……

蘊涵大量珍貴文物的古遺址、古墓葬卻毀在推土機下,實在令人心痛。專家們呼籲,
將江蘇土墩墓納入大遺址保護體系,與各市縣鄉鎮的經濟發展和社會發展規劃相融合,
防止建設性破壞,同時在對土墩墓群進行調查的基礎上,選擇幾個典型土墩墓進行解剖,
並修建遺址博物館,以帶動周圍土墩墓群的整體保護。
http://www.epochtimes.com/b5/5/12/30/n1171849.htm
177世界@名無史さん:2007/07/01(日) 18:28:02 0




盞?????盅?????鼎?????青瓷?????花紋?????


いやあ、弥生時代開始頃の江南の遺跡からは日本の弥生遺物では
さっぱりお目にかからない摩訶不思議な物や文様が出るんですねえ(嘲笑)



178世界@名無史さん:2007/07/02(月) 19:06:25 0

●鴻山越國貴族墓地發掘情況介紹

鴻山越國貴族墓地位江蘇無錫鴻山鎮東部,該區保存大小規模土墩近百座。南京博物院考古研究所及
錫山區文物管理委員會組成聯合考古隊,於2003年4月至2004年12月期間,對該範圍內土墩進行搶救性
發掘。

是次發掘7座墓葬,出土共計2000餘件隨葬器物,其中丘承墩就出土1100餘件精美成套的青瓷禮器、
樂器和玉器。 根據墓葬的封土規模、墓葬結構和隨葬器物的種類、質地、組合關係,7座墓葬可以
分為5個等級:
179世界@名無史さん:2007/07/02(月) 19:10:14 0
第一級別為丘承墩,該墓封土為長方形覆斗狀,是墓地中唯一的深坑墓,墓坑平面為「中」字形,
並有壁龕;隨葬品中青瓷禮器數量眾多,器類齊全;青瓷樂器既有中原式的鈕、甬鍾、磬,
亦有越式的ロ于、丁寧、鐸、勾、鈴形器、具座,還有以往從未確認的缶;玉器中,既有葬玉、
劍飾,亦有佩玉,而成雙成對的龍形佩、雙龍佩、龍鳳佩、龍首珩、龍形珩等組成的佩玉,
當為春秋戰國時期最高等級的佩飾;此外還隨葬琉璃釉盤蛇玲瓏球形器等象徵特殊意義的器物;
第二級別為老虎墩,該墓封土亦為長方形覆斗狀,埋葬方式為平地鋪木,隨葬器物中除生活用品外,
還包括成組的原始青瓷樂器和硬陶禮器、樂器;第三級別為萬家墳,與老虎墩的封土規模和平地
鋪木的葬制相同,然隨葬品中僅有成組的硬陶禮器、樂器而不見原始青瓷樂器;第四級別為曹家墳、
杜家墳,為長方形覆斗狀封土;第五級別為老墳墩、鄒家墩。這4座墓葬均無成組樂器隨葬,為長圓形
饅首狀封土。
180世界@名無史さん:2007/07/02(月) 19:13:26 0
鴻山貴族墓葬的特徵大致可歸納為以下幾點:
1. 長方形覆斗狀或長圓形封土;
2. 除特大型墓葬為深坑墓外,皆為平地起封;
3. 除特大型墓葬為「中」字形外,其餘皆為長條形墓葬,大型的還有墊木或分室用的木板等用於
構築墓室;
4. 隨葬器物主要為原始青瓷器和硬陶器;
5. 特大型墓葬的隨葬品中有組玉;
6. 隨葬器物中常見原始青瓷或硬陶的勾、ロ于、丁寧、鐸、羊角器、璧、鈴形器以及越式鼎、
筒形、盅、器蓋等;
7. 高等級的器物紋樣中常見蛇。而以蛇為器物紋樣也是越人圖騰崇拜的體現。
181世界@名無史さん:2007/07/02(月) 19:14:54 0
這些特徵中多為越國墓葬獨有,其中墓葬形制和隨葬品的質地、器形、器類與浙江紹興印山越王墓
以及安吉、海鹽、長興等地的越國貴族墓葬相同,尤其明顯的是均隨葬陶、瓷禮器和樂器,如ロ于、
丁寧、勾、鎛、甬鍾、磬、鈴形器、缶、具座、羊角器、璧以及越式鼎、筒形、盅、器蓋等;
根據墓葬的規模、形制和在墓地中的位置,以及隨葬器物的數量、種類和等級推測,鴻山貴族墓地
中丘承墩墓主的等級應為僅次於越王的越國大夫,此墓主室和後室總長僅次於紹興印山越王墓,
遠高於其他中小型越國貴族墓,而出土的隨葬器物則是目前已發掘的越國墓葬中等級最高、
質地最好且器類最為齊全的。

7座墓葬的隨葬品中,皆有完全相同器物,如壇、、碗、盅、器蓋等,其年代應相同;而大型或
中型墓葬中則有造型相同的鍾、鎛、磬、鈴形器、璧、羊角形器等,其年代亦應相同;而從印紋硬陶
和原始青瓷基本生活用品的形態、僅見麻布紋和米字紋等紋飾以及器物的組合關係,根據長江下游
土墩墓的分期,其年代應為戰國早期;出土玉器中,儘管有少量紋飾保留春秋晚期特徵,而絕大多數玉器
的造型和紋飾都呈現戰國早期的特徵。因此鴻山越國貴族墓地的年代可定為戰國早期,即越國最強盛的
越王勾踐時期。
182世界@名無史さん:2007/07/02(月) 19:17:15 0
鴻山越國貴族墓地中,丘承墩位於墓地的西北角,而其他大、中、小型墓葬則圍繞在丘承墩的東南呈
扇形分布,墓葬與墓葬之間既有一定的分布規律,又存在著嚴格的等級差別,為是次考古發掘最重要的
收穫之一;丘承墩墓為目前僅次於紹興印山越王墓的越國第二大墓,而丘承墩出土的大批精美成套的玉器、
青瓷禮器和樂器,應為迄今為止江浙一帶所發現的最高等級的越國隨葬器物,同樣為是次考古發掘最重要的
收穫之一。其墓地的完整性和禮器、樂器組合的完整性,尤其是越國的禮樂文化中將中原系統和諧地融入
越系統中,為越國史的研究和解決一系列春秋戰國時期的重要學術課題提供了一批極為珍貴的實物資料,
對於越文化乃至百越民族史的研究和越國考古學的研究將起著積極的推動作用。
http://www.cuhk.edu.hk/ics/ccaa/talk9.htm
183世界@名無史さん:2007/07/02(月) 19:19:41 0



いやあ、弥生時代の江南の江蘇省無錫の土トン墓からは、楽器やら、
玉器やら、越式鼎やら、酒器やら、原始青磁やら、印紋硬陶やら、
甬鍾やら、磬やら、ロ于やら、丁寧やら、勾やら、鈴形器やら、
龍形やら、龍鳳佩やら、具座やら、羊角器やら、越式鼎やら、筒形やら、
羊角器やら、もう、さーっぱり見た事も聞いた事もない代物まで、
ありとあらゆる摩訶不思議な物や文様が、出るわ、出るわ、出るわ、出るわ・・・

何でこんなイイモン、日本の弥生遺構から出んのやろ?(嘲笑)


184世界@名無史さん:2007/07/03(火) 20:41:10 0

●福建浦城管九土墩墓群发掘取得重要成果


本报讯 去年1—12月,在浦南(浦城—南平)高速公路的工程建设中,福建博物院
与福建闽越王城博物馆联合组成考古队,对位于浦城县管九村的土墩墓群进行了发掘,
获得了一批重要资料和成果。

此次发掘清理了社公岗由北向南延伸的长条形山脊上的6座土墩(浦社D1—D6);
洋山岗顶自东面的山坡地上的10座土墩(浦洋D1—D10);麻地尾U形岗脊和坡地上的
12座土墩(浦麻D1—D12);另在大王塝和社公岗的北侧晒谷坪山岗上也各清理了
一座土墩(浦晒D1)。
185世界@名無史さん:2007/07/03(火) 20:44:51 0
土墩地表隆起大多数比较明显,平面形状为椭圆形、方圆形和圆形。现存土墩高度约2、
个别约1米。社公岗、洋山的土墩封土多由红黄粘土堆筑而成,麻地尾多由质地较松散的
含砂黄灰土堆筑而成,无明显的夯筑迹象,从土墩周边的一些迹象分析其封土基本取自
土墩周围附近,封土中包含有陶片和石器等,陶片多以印纹硬陶和素面硬陶以及K衣陶
为主,也见有一些夹砂陶和陶纺轮,石器有镞、锛、砺石等。

此次已发掘的30余座土墩墓中一墩二墓的有4座,其余的皆为一墩一墓。从墓葬的形制又
可分为长方形浅坑、带墓道竖穴土(岩)坑和平地掩埋。墓葬均没有发现骨架及葬具等痕迹。
其营建过程是将上岗地面或清至风化岩山体,略作平整,有的局部垫以红褐土,有的以原山
修坡地,挖成长方形墓坑。共出土随葬器物230余件,主要器形有豆、罐、尊、瓮、盂、
碟和印纹硬陶罐、簋、豆、尊、盅以及青铜短剑、矛、戈、匕首、箭镞和锛、刮刀等组合。
186世界@名無史さん:2007/07/03(火) 20:48:08 0
一、社公岗墓葬区,发掘6座

PSD1M1土墩平面略呈方形,东西长18、南北宽16、中心高2米。出土随葬器物5件,
有青铜短剑、矛、箭镞、刮刀和原始青瓷三系尊。
PSD2M1土墩平面呈方形圆角,东西长22、南北宽20、外形高2—3米。为长方形墓坑,
出土随葬器物15件,有陶尊、原始瓷豆及青铜戈、矛、锛、镞和石枕等。
在M1的外围清理出开口于不同层面的早期墓葬共8座,多为无墓圹平地掩埋和无规则
浅坑形制,出土随葬陶器29件,均为K衣陶和印纹陶,成组和一线摆放。
PSD4M1土墩平面呈椭圆形,东西长22、南北宽19、高1.9—3.5米,带墓道竖穴土
(岩)坑墓,出土随葬器物9件,分布在墓室西北角和南到东部。
PSD5M1土墩平面略呈方圆形,直径约17、中心高1.6米。出土随葬器物3件,
为原始瓷器,有三系尊、罐和陶罐。
PSD6M1土墩平面略呈方圆形,直径约17、中心高1.8米。底面中部为长方形
卵石床墓,仅出土1件青铜器残片。
187世界@名無史さん:2007/07/03(火) 20:50:30 0
いやあ、弥生時代開始頃の長江流域の遺跡からは日本の弥生遺跡からは
さーっぱり出土しない摩訶不思議なものばかり出土するんですねえ(嘲笑)
188世界@名無史さん:2007/07/03(火) 20:54:20 0
二、洋山墓葬区,发掘11座

PYD1M1土墩平面呈方圆形,南北长18、宽16、中心高1.8米。长方形墓坑,墓坑底满铺卵石,
墓坑北壁沟槽上发现残存较整齐的木炭立柱11根,转向西壁4根,立柱被烧毁程度不一,
高低不齐。出土随葬器物14件。从木炭柱的排列及烧毁的情况看,墓葬是有椁室的木椁墓,
墓室内曾经起火,未烧的椁板立柱腐朽无存。
PYD3M1土墩平面呈不规则方圆形,东西长15、宽13、中心高1.8米。长方形浅坑墓,出土
随葬器物8件,分布在墓室的东北面及西南角。
PYD4土墩平面呈不规则方圆形,直径14—15、中心高2.1米。发掘清理了PYD4M1和PYD4M2。
M1下压M2墓口,呈长方形浅坑,出土随葬器物8件,均为印纹陶,多为桶形罐。M2坑口呈
长方形,被M1所压,底部满铺较均遠I卵石。出土随葬器物3件。
189世界@名無史さん:2007/07/03(火) 20:57:18 0
三、麻地尾墓葬区

PMD2M1土墩平面呈椭圆形,直径16—18、中心高1.6米,长方形墓坑,出土随葬器物11件,原始瓷为豆、
罐,印纹陶为罐,纹饰为席纹,还出有纺轮和青铜矛、剑、戈等。
PMD3土墩平面呈方圆形,向上逐渐圆收成馒头状,直径约12、中心高约1.7米;发掘清理了叠压墓
PMD3M1和PMD3M2。PMD3M1长方形浅坑墓,出土随葬器物5件,分布在墓底南侧东部。有罐、豆和杯。
PMD3M2为带墓道竖穴石坑墓。坑口平面呈“凸”字形,墓室坑口南部东壁被M1打破。墓道为平底,
底面铺一层厚约15厘米的粗砂石。墓坑口平面呈圆角长方形,底部为较平整的风化岩石面,北沟西部
及西沟沟底面靠坑壁清出3处斜向墓坑外的圆洞遗存迹象,应是起排水的作用。出土随葬器物19件,
器物有罐、盆、尊、豆、簋、壶、杯、纺轮等。印纹硬陶多为罐,纹饰为拍印席纹。墓坑后壁(北壁)
中部和东壁中部各清出壁龛一个,北龛为半圆形。在龛上口部出土一组陶器4件,均为不同形体罐,
纹饰为拍印勾连雷纹,纹大双线棱格内饰星加鼓点,棱格间为锯齿纹。东龛为近圆形,未发现遗物。
PMD4土墩平面呈圆形,向上逐渐圆收成馒头状,直径13、中心高1.4米。在土墩的中部发掘清理了东北
—西南并排的墓坑PMD4M1和PMD4M2。PMD4M1为长方形浅坑墓,出土随葬器物3件,有原始瓷罐和陶罐,
纹饰为弦纹与戳点纹组合、席纹等。PMD4M2为带墓道浅石坑墓,坑口平面呈“凸”字形,长方形墓坑,
出土随葬器物3件。
190世界@名無史さん:2007/07/03(火) 20:59:46 0
四、晒谷坪墓葬区,发掘1座

晒谷坪1号墩(PSD1M1)在社公岗的北侧,为相连的小山岗,土墩略凸显呈不规则圆形,
直径9—11米。带斜坡墓道竖穴土(岩)坑墓,出土陶罐3件和青铜短剑1把。
管九土墩墓的发掘清理,填补了中国南方地区土墩墓分布区域的空白。我国先秦土墩墓
主要分布在长江以南的浙江、苏南、皖南(江西近年来也有一些发现)地区,福建以往没
有发现,此次浦城仙阳镇管九发现的30余座土墩墓,填补了这一空白。此次发掘出土了
一大批相对完整的青铜器、原始青瓷器、印纹陶器组合,年代约在西周—春秋阶段,填补了
福建地区该阶段考古学研究的许多缺环。出土的40多件青铜器,是福建地区一次性出土
青铜器最多的考古发现;7件造型精美的越式青铜剑,在全国首屈一指。这批西周—春秋的
土墩墓以平地掩埋发展至浅坑并向深坑过渡,反映了西周—春秋土墩墓的发展演变脉络。
它们都打破或叠压在夏商时期的墓葬之上,对研究土墩墓的发展演变有着重要意义。
http://www.ccrnews.com.cn/tbscms/module_wb/readnews.asp?articleid=25748
191世界@名無史さん:2007/07/03(火) 21:03:10 0




尊?????瓮?????盂?????簋?????盅?????
盆?????原始青瓷?????印纹陶?????雷纹?????


弥生時代の華南の福建省の土トン墓さえもこの有り様(嘲笑)



192世界@名無史さん:2007/07/04(水) 19:11:01 0

●八塔台古墓群

這一古墓群位于曲靖市區東12公里的珠街鄉董家村,地處緩坡地帶,由8個相傍
而又獨立的橢圓形封土堆組成,總面積約5000平方米。

據清咸豐二年《南寧縣志》稱,“八塔台在城東……漢諸葛武侯建以鎮地脈。
”這里說的意思是,當年諸葛亮揮戈征南至曲靖南盤江流域“七擒孟獲”,
在這里築土設點將台,形似塔基,且有8個,便稱“八塔台”。其實,
從《史記•西南夷列傳》看,“其旁(指滇國)東北,有勞浸、靡莫,皆同姓相扶。
”珠街八塔即是支書所稱的“勞浸、靡莫”聚居地。

1977—1982年,雲南省文物工作隊在曲靖文化管理部門配合下,對八塔台古墓群一、
二號堆進行7次發掘。一號堆發掘完畢,二號堆發掘了一半,共發掘出各個時期的
墓葬數百座,其中火葬墓304座,土坑豎穴墓220座,封土堆墓30余座,這些墓葬的
形成年代遠比諸葛亮生活的年代早,約為春秋時期或者更早。
193世界@名無史さん:2007/07/04(水) 19:15:06 0
從發掘的情況看,墓群類型多樣,交叉堆積,互相滲透,形成了上自先秦
時期,下至宋元明朝,長達2000余年的7米之高的文化堆積層。在春秋戰國
時期的30余座封土墓和土坑豎穴墓中,出土了一大批青銅時代的器物,
這在雲南青銅考古中尚屬首次發現。已發掘的墓葬除5座土坑豎穴墓分布
在一號堆外,其余的500余座均出土于二號堆約700平方米的面積內。
這一面積僅是二號堆底部面積的一半。據考古工作者介紹,堆疊的形成
原因是,最早的先民死後埋葬在此,形成高于地面的土堆,為封土堆墓群;
其上又埋葬了土坑堅穴墓群;最後又埋上了許多的火葬墓。從當時發掘
後的地層剖面上可以清晰地看到,饅頭狀的封土堆互相重疊,長方形的
土坑墓又打破了下層的封土堆。現在已發掘的墓葬中,有30余座屬春秋
戰國時期的封土堆,220座屬戰國至兩漢時期的,304座則屬宋、元、明
時期的火葬墓。
194世界@名無史さん:2007/07/04(水) 19:18:30 0
上述發掘出土文物1000余件,有兵器、生產工具、生活用品、裝飾品、樂器
和貨幣等,包括青銅、鐵、陶、玉、石等器物。器物中的兵器有刀、劍、戈、
矛;炊飲器有鼎、釜、罐碗等;裝飾品有鐲、珠、扣飾;樂器有銅鼓、鈴等。
這些殉葬品的種類數量如此繁多,令人驚嘆。在扣飾中有一件雙牛浮雕,
工藝水平極高,顯示了滇東一代古代勞動人民的高超技藝。

八塔台古墓群的發掘,進一步不可爭辯地證明了曲靖是雲南古代文明的搖籃
之一。早在兩干多年前,這里的人民便創造了燦爛的文化。生活在這里的
人類已進人青銅時代。許多文物既具有中原文化的色彩,又保持了滇文化的
風格,同時充分說明,遠在先秦時期,曲靖便是全滇鎖鑰,是中原文化傳人
雲南的重要通道。同時,古墓形制的多樣性和殉葬品的多樣性,表現了雲南
不同時期埋葬風俗的變化,也暗示著雲南民族成分的變遷。
http://www.yn678.com/big5/zt_show.php?ztid=279&ztkind=10
195世界@名無史さん:2007/07/04(水) 19:34:31 0




貨幣?????鐲?????扣飾?????鼎?????釜?????
銅鼓?????鈴?????雙牛浮雕?????


弥生時代の華南の雲南省の古墳群さえもこの有り様(嘲笑)



196世界@名無史さん:2007/07/05(木) 19:54:15 0

●广西两个古遗址出土罕见双耳陶器及靴形石斧

考古人员日前在广西马山县金钗镇独秀村尚朗岭和六卓岭两个古遗址,发掘出土数百件新石器时代
晚期的石器、陶器,其中双耳陶器和靴形石斧在广西颇为罕见。

1992年发现的尚朗岭和六卓岭遗址位于珠江主要支流——红水河岸边,距今约有3000至
4000年历史,分布面积超过3万平方米。2004年4月16日,广西壮族自治区
文物工作队与南宁市博物馆及马山县文物管理所开始对这两个遗址进行大规模抢救性考古发掘。

6月3日,在考古人员驻地,记者看到一枚形状如靴子的石斧,这把小巧的石斧正反两面
均磨制得非常光滑,做工相当精致。还有一个残损的陶器,陶器口端有排球大小,
两边各有一只耳朵,非常精巧。
197世界@名無史さん:2007/07/05(木) 19:58:56 0
广西壮族自治区文物工作队馆员何安益介绍说,截至目前,考古人员已在这两个
遗址发掘出土了数百件具有地方特色的文物。石器类既有生产、生活工具,
也有装饰品,主要是石斧、石锛、石拍、石网坠等器型。陶器烧制火候高、
器壁薄,有圈足器、三足器、圈底器等器型,饰纹较为丰富,一般陶器装饰
有绳纹,部分则有曲线、旋涡纹、勾连纹等。

据了解,双耳陶罐及靴形石斧是云南新石器时代的典型器皿,与广西
本土陶器和石器有明显差异,这些器物在红水河流域出现说明三四千年前
两地的古人类曾经有过交往。
http://www.china.org.cn/chinese/CU-c/580977.htm
198世界@名無史さん:2007/07/05(木) 20:05:54 0




双耳陶器?????靴形石斧?????圈足器?????
三足器?????圈底器?????双耳陶罐?????


弥生時代開始頃の中国南端の広西壮族自治区さえもこの有り様(嘲笑)



199世界@名無史さん:2007/07/21(土) 15:53:34 0
長江流域における世界最古の稲作農業 国際日本文化研究センター教授 安田喜憲
ttp://www.jiid.or.jp/j/ARDEC/ardec29/key_note3.htm

 広西チュワン族自治区桂林廟岩遺跡、同柳州大龍潭遺跡では暦年代2万年前にまでさかのぼる土器が、
 さらに江西省万年県仙人洞遺跡・吊桶環遺跡、湖南省道県玉蟾岩遺跡(写真1)からは
 暦年代1万8000〜1万7000年前にさかのぼる土器(写真2)が発見されている。
 世界最古の土器はこうした長江中流域の南部で最終氷期最盛期後半の2万〜1万8000年前に誕生していたとみなしてよいであろう。
 一方、日本列島北部からシベリア極東地域においてもロシアのガーシャ遺跡やフーミ遺跡、
 さらには青森県大平山元遺跡、中国河北省虎頭梁遺跡などから、1万6500年前にさかのぼる土器が発見されている。
200世界@名無史さん:2007/07/22(日) 18:07:48 0
高床式倉庫はシベリアやアムールにも見られる。


◎ケート Ket

中央シベリア、エニセイ川中流で伝統的漁撈・狩猟生活を送るケートと、
押し寄せる近代文明の点描。

自然環境(森、川、川岸の村)、川岸のチュム骨組に樹皮布を掛ける
(煙突は真上に出る)、製作中丸木舟に穴を開ける(火おこしの形を
した錐)、川に漕ぎ出す、魚(トナカイ肉?)を干す、日常生活
(洗濯物、子供のブランコ、食事、墓)、呪いの杭にトナカイの頭蓋骨
が掛かっている、★高床式蔵小屋★、素晴らしいアクセサリーの着いた
シャマンの枠太鼓、
http://tokyocinema.net/centralsiberialist.htm
201世界@名無史さん:2007/07/22(日) 18:11:11 0

ハントィ:自然環境、家屋等に関すること(家の飾り・トナカイ頭蓋骨、
デコイ、★高床式の狩猟用倉庫・鼠返し★、季節物衣料の取出し)

コミ:自然環境、家屋(木造家屋、隙間を苔で埋める)、狩猟(移動に
スキー、犬、鳥を餌に罠を仕掛ける、狩人寝床の用意、毛皮を剥ぐ)、
★小型高床式倉庫(狩猟用荷物、獲物を仕舞う、鼠返し)★、歌

マンシ:自然環境、家屋(丸太小屋、東側の外壁についた呪いの
ような物)、★高床式倉庫★、漁猟舟の櫂類、創生期に関する昔話、
http://tokyocinema.net/westsiberialist.htm
202世界@名無史さん:2007/07/22(日) 18:15:47 0

これは銛を使ってクジラを捕っている線画だが、アム−ル川下流域と
サハリン北部のニブフもまた、板をつなぎ合わせた板船に5-6人で
乗り込み、アザラシやサケなどの捕獲を生業にしていた。
地吹雪のなかを訪問した北方民族館には、このニブフに代表される
北海の海辺と河川の民の風俗や生活用品の数々が陳列されていた。
彼らは、冬には保温性の高い竪穴式住居に住み、夏には魚干し棚や
★貯蔵庫のある高床式住居★で暮らし、衣装には木綿や魚皮で作った
布を用い、白樺皮製の帽子をかぶり、アザラシ皮や魚皮の靴を
履いていたようである。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/7754/liuhiyounoshiluet.htm
203世界@名無史さん:2007/07/23(月) 11:59:51 0
ウリチ人とニブフ人は一年中定住村の住居と作業場兼用の建物に住んでおり、
ナナイ人、ネギダル人、オロク人、オロチ人、ウデゲ人は、冬は森の中の
定住村に住み、夏は魚の採れる川岸の季節村に移りました。定住村も季節村も
川岸に沿って細長く展開し、それぞれの住居は互いに離れており、そばには
★高床式の納屋★がついていました。
http://www.npec.or.jp/northeast_asia/cultural/index.html

その他に、水がめ、料理するためのもの、魚皮なめし具、臼、織物を
する道具、糸まき、肉や魚を料理する時に使う道具、はし、食べ物を
保存するためにつくられた★高床式の倉庫★の模型、木の枝と泥でつくられる
家の模型、漁や交易に使う船(実物ならば700キロも載せられる)の模型、
鹿や魚を捕る為の道具などがありました。
http://members.jcom.home.ne.jp/lerrmondream/eastnanai.htm
ナナイ人(ホジェン)の高床式倉庫(模型)
http://members.jcom.home.ne.jp/lerrmondream/nanai181.jpg.jpg
204世界@名無史さん:2007/07/23(月) 12:13:42 0

ナナイ人は、現在400人程度いてハバロフスク市内から約1時間15分
ぐらいのアムール川の近くに集落があります。東洋系の顔でなぜか親しみを
感じました。生活は国から、援護を受けていて仕事はしなく、川で釣り
ばかりしているそうです。家は、小さくてみすぼらしく、貧しさが感じられ
ました。村長は特別扱いみたいで、家も立派で学校より大きく丘の上にあり
権威の象徴を感じました。
http://www.toya-kohei.jp/cgi-bin/diary/wwwnikki.cgi?view=kako20050807.html

ナナイ人の高床式食糧倉庫
http://www.toya-kohei.jp/cgi-bin/diary/graph/20050807-1123390934.jpg
205世界@名無史さん:2007/07/23(月) 12:55:32 0
高床式建物を、

主に住居として利用しているのが南方系の高床式建物文化。
主に倉庫として利用しているのが北方系の高床式建物文化。

日本の弥生人たちが利用していた高床式建物文化は、
住居、倉庫、さてどっち?

ちなみに江南の河姆渡遺跡の高床式建物は住居の方である。

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%B2%CF%D5%A8%C5%CF%B0%E4%C0%D7%A1%A1%B9%E2%BE%B2%BC%B0&fr=top_v2&tid=top_v2&ei=euc-jp&search.x=1
206世界@名無史さん:2007/07/24(火) 19:18:50 0
鳥居の登場は8C。


鳥居の起源については諸説あるが、確かなことは分かっていない。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から引きずり出す
ために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を
置いたことが起源であるとする説、インドの仏教やヒンズー教に
みられるトラナや中国の華表など海外に起源を求める説などがある。
いずれにせよ、8世紀ごろに現在の形が確立している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85

8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
207世界@名無史さん:2007/07/24(火) 19:24:13 0
半月型石包丁は遼寧・満州南部を経由している。




龍山文化(紀元前30世紀−前20世紀)の特徴的な半月形石刀が、
吉林、永吉、?安、?春、通化、桓仁などで出土。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/tungus-tsusi/tungus-tsusi-1-gaiyou.htm



208世界@名無史さん:2007/07/25(水) 17:21:59 0
丸木弓は弓矢が普及する中石器時代の北欧の遺跡から出土している。


弓矢が普及するのは、中石器時代(→石器時代の「中石器時代」)以降と考えられている。
矢は、旧石器時代の槍(やり)や投げ槍にくらべて携帯に便利であり、動物相の変化に
より小型獣を狩猟対象とするようになった当時においては格段に効率的な狩猟具であった。
なお中石器時代に属するマグレモーゼ文化期(前8000〜前5600年)の弓として、
ホルメゴール遺跡(デンマーク)からイチイガシ(→ カシ)製丸木弓が全形で出土しており、
当時の代表的な遺品とされている。

http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_1421501287/content.html
209世界@名無史さん:2007/07/25(水) 17:25:13 0
日本刀が完成するのは平安時代後期頃で、それまでは鉄剣や鉄刀であった。


古墳時代には武器の鉄製化も進んだ。刀剣では、それまでの銅剣に代わって
鉄剣が作られた。一般的に、両刃を剣とし、片刃の刀と区別している。
なお、古墳時代の刀剣は、のちの日本刀に見られるような反りはない。
刀に反りができるのは、平安後期以後である。

http://www.yurihama.jp/town_history/2hen/1syo/04040400.htm
210世界@名無史さん:2007/07/26(木) 21:23:53 0
瓦の登場は6C。百済から伝わり、飛鳥寺で初めて使用された。


地球上に瓦が誕生したのはおよそ2800年前の中国とされる。日本には
西暦588年、百済から仏教と共に伝来。飛鳥寺で初めて使用された。
様式は平瓦を並べ、その上に丸瓦を並べる様式である。飛鳥時代、
瓦が使用された建物は寺院に限られていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%93%A6

西暦538年(宣化三年)に、百済の聖明王が釈迦仏像や経典等を朝廷に
贈り仏教が公伝されました。間もなく瓦博士も渡来して造瓦の方法を伝え、
のち西暦588年(崇峻元年)に蘇我馬子が飛鳥の地(奈良県高市郡
明日香村)に法興寺(飛鳥寺)を建立しました。この瓦が日本最古の古瓦の
遺品とされています。「素弁蓮花文鐙瓦」様式です。
http://www.rakuten.co.jp/butsuzoumen/1788529/
211世界@名無史さん:2007/07/27(金) 12:33:54 0
歌垣は8C頃に筑波あたりで始まる。


日本の古代の歌垣の場として知られている場所には,摂津の国「歌垣山」,
大和の石榴(つば)市・軽市,肥前杵島岳,などがあるが,筑波山は,
その歌垣の場の最も古く,最も著名な場のひとつであった。

その起源は,『常陸国風土記』によれば,神祖の尊が新嘗祭の夜に子供
である富士山を訪ね一夜の宿を請うたが断られ,別の子である筑波山に
宿を請うたところ,心良く招き入れられ,歓待を受けた。神祖の尊は,これを
いたく喜ばれ,「愛しき子の坐す宮は,高くそびえ,日々とともに,人々が集まり
ことほぎ,飲食(みけ)豊かに,代々絶えること無く,日に日に弥栄え,
千代万歳に,遊楽は尽きることがないであろう」と詠われた。これより後,
富士山は常に雪に覆われて登れず,筑波山には人々が行き集い,歌や舞が供され,
宴が繰り広げられるようになった・・・とされている。
http://tamagaki.hp.infoseek.co.jp/kume1.htm
212世界@名無史さん:2007/07/27(金) 12:58:50 0
常陸国風土記(ひたちのくにふどき)は、奈良時代初期の713年
(和銅6年)に編纂された、常陸国(現在の茨城県の大部分)の
地誌である。

元明天皇の詔によって編纂が命じられた。編纂者は詳しくは不明だが、
藤原宇合や高橋虫麻呂らが関与してると言われている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98

713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
213世界@名無史さん:2007/07/27(金) 13:09:59 0
鵜飼は満州や朝鮮半島にも見られる。


満州の京都ともいわれた古都吉林の松花江の鵜飼は6月から9月までの日中に
行われる。鵜縄をつけずに川に放った鵜が魚をくわえると網で船にすくい
あげて吐かせるという満州式の鵜飼であった。
http://www.jiyuu-shikan.org/shoseki_video4.html

日本の鵜飼いは、鳥居氏に便乗すれば、江南よりも朝鮮や満州の
北方民族から伝わったのかもしれません。鴨緑江や松花江などでも
鵜飼いは見られます(注9)。
http://www.han.org/a/half-moon/hm080.ht
214世界@名無史さん:2007/07/27(金) 15:36:55 0
日本の鵜飼は中国よりも古い。


鵜飼いの歴史は古く、『日本書紀』神武天皇の条に鵜養部のことが見え、
『古事記』にも鵜養のことを歌った歌謡が載っている。また中国の史書
『隋書』開皇二十年(600年)の条には、日本を訪れた隋使が見た変わった
漁法として紹介されている。

隋書の書かれた時代には鵜飼いは中国人にとって珍しい漁法だったが、
その後中国においても鵜飼い漁法が定着した。

確実な記録として最古の物は、10世紀の文人・陶穀が残した『清異録』
(965年)において、当塗(安徽省太平府の都市)の漁民が「魚を捕らえる
のに非常に機敏な鵜を使う」と記述されているのが最初である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B5%9C%E9%A3%BC%E3%81%84
215世界@名無史さん:2007/07/28(土) 20:24:26 0
貫頭衣は単に人類最初の服装の形で、古代から現代まで世界中に見られる。


●貫頭衣 (かんとうい)
一枚の布を2つに折り、その折り目の中央に穴をあけ、そこから頭を貫いて
(通して)衣服としたもの。エジプト時代から見られる原始的な衣服の
形式である。ポンチョやガラビアなどもこの一種。
http://style.beauty.yahoo.co.jp/fashion/dictionary/232_4.html

人類最初の服装の形は一枚布であったり、一枚布の真ん中に穴を開けて
被るという貫頭衣というシンプルな形であった。
http://homepage1.nifty.com/mottoi/kokusai8.htm

人類の衣服の工夫の中で最も単純な基本形として、貫頭衣の分布は広いが、
南米アンデス諸国に見られるポンチョがその代表的なものとされている。
http://www.h6.dion.ne.jp/~fu35/minzokuHP/ajia/indonesia.htm
216世界@名無史さん:2007/07/28(土) 20:31:57 0
西洋(エジプト文明、ギリシア文明、ローマ)では、もともとの
衣服は男女とも布を体に巻き付ける形式か、貫頭衣(大きな布に穴を
開け、そこから頭を出して着る)の形式でした。スカートみたいに
下が空いている服が、先にあったわけです。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=884804&rev=1

古代ローマ時代の貫頭衣のような、一枚の布の頭の部分をくりぬいた
だけの服を着ていた。
http://home.att.ne.jp/red/senseofwondr/mou2.htm

古代中国もローマもギリシャも布を纏うか貫頭衣であった。
http://www.lcv.ne.jp/~yokota/contents/mumble/ykt/970410.htm

ローマ時代のイタリアでは男性はトーガという貫頭衣
http://www.psats.or.jp/psats.or.jp/column/nakamura027column.html
217名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 19:41:30 0
刺青はBC50Cには既に登場している。


紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて?

日本人が最初に入れ墨を取り入れたであろうと想像できる縄文時代の土器が
発掘されています。縄文土器にあしらわれた顔には埋葬者を守る意味合いを
持つ神秘的な「入れ墨」のようなものが認められ、これが入れ墨として
記録されている世界最古のものではないかと想像されています。
また、日本原住民族であるアイヌには優れた入れ墨技術があったものと
思われます。
http://www.ta2.com/tattoohistory.html
218世界@名無史さん:2007/07/29(日) 21:03:41 0
風呂は6Cに仏教と共に朝鮮から伝来し、最初は蒸し風呂であった。


蒸気浴の方法を世界的にみると、もともとイラン系の遊牧民スキタイ民族の
間で行われていたとか。日本には6世紀半ば、仏教の伝来とともに朝鮮を
経て伝わりました。仏教では、「沐浴(湯や水を浴びて身を清めること)」の
功徳を説いており、七堂伽藍(寺として備えるべき7つの建物)には浴堂が
加えられており、仏教伝来時に風呂もセットで伝わりました。「枕草子」や
「今昔物語」にも、焼石に水をそそぐ蒸し風呂が普及していたことが見えます。
以来、江戸時代初期頃まで、日本では蒸気浴が主流だったそうです。

http://homepage3.nifty.com/miya-s/myhome-page.files/Miya's_008.html
219世界@名無史さん:2007/07/30(月) 17:38:43 0
抜歯は世界中の原始社会で見られるが、日本では先土器時代から行われ、
風習としては4000年前頃に仙台湾周辺で始まる。


抜歯の儀式は、世界の狩猟採集民族のなかでは、比較的あたりまえに
行われていて、それほど奇習というわけでもないのです。現在でも
アフリカ、東南アジア、オーストラリアの一部の民族に残っています。
http://www.city.fujiidera.osaka.jp/rekishitanbou/kodai/kodai-64.html

原始・古代の世界中に、抜歯風習はあったという。ことに長く続いたのが、アフリカ、
中国、日本だとされてますね。中でも目立ったのが、縄文・弥生の日本列島。
http://www5.ocn.ne.jp/~vorges/sub12..html

歯を抜いたり、歯を削り歯を飾る風習は、日本だけでなく中国、台湾、
アジア、オーストラリア、アフリカにもみられた。
http://www.dent-kng.or.jp/chishiki/museum/hakubutukan/wa_bassi/index.htm
220世界@名無史さん:2007/07/30(月) 17:41:59 0
佐倉市にある国立歴史民俗資料館の春成秀爾氏によると、抜歯そのものは
縄文時代以前の先土器時代にもあるが、風習としての抜歯は約四千年前頃に
東北地方の仙台湾周辺ではじまり、それ以後に関東地方をはじめ全国に
広がったという。国立歴史民俗資料館前館長の佐原真氏によると、こうした
抜歯は現在でも世界のいくつかの民族の間に風習として残っており、
子どもから大人になるための儀礼(成人儀礼)としての事例、近親者が
亡くなると歯を抜く事例、勝利の明かしに捕虜から歯を抜く事例などが
あって、このうちも最も多いのは成人儀礼にともなう抜歯であるという。
http://www.jona.or.jp/~ichiyomi/rekisi/index4.html
221世界@名無史さん:2007/07/31(火) 16:45:59 0
魏志倭人伝には倭人が断髪をしていたなんて書かれていない。
倭人の男子は皆、髪を結って露わにし、木綿を頭に巻いていたと書かれている。




男子皆露紒 以木緜招頭

http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/1/yayoi_2.htm
http://www.lib.nakamura-u.ac.jp/e-lib/wa/wa.pdf



222世界@名無史さん:2007/07/31(火) 17:03:36 0
糸引き納豆の登場は室町時代頃で、なれずしは3C頃。


平安時代の文献にも塩辛納豆の名は残っているが、一般に広まったのは
室町時代以降でこの頃から糸引き納豆も登場しており区別するために
塩辛納豆を久喜と呼び糸引き納豆を単に納豆と呼ぶようになった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%8D%E8%B1%86

なれずしの歴史は古くて、紀元前には中国で食べられていたらしいんだ。
それが三世紀頃に日本にも伝わって、奈良時代には文献にも登場する。
http://www.kouryu.or.jp/asobi/2003syoku/d/3.htm
223世界@名無史さん:2007/08/01(水) 11:15:34 0
●灰陶(かいとう)

中国、殷代以前に始まる陶質土器。焼成の最終段階で、空気をあまり送らず
窯の中を還元状態にするため灰青色を呈する。殷・周代を中心に漢・唐の
頃まで日常の容器として広く使われた。
http://makurada.com/modules/pukiwiki/195.html

かい‐とう【灰陶】
中国、新石器時代から殷(いん)代に盛行した灰青色の土器。多くは表面に
櫛目文(くしめもん)や縄蓆文(じょうせきもん)をもつ。日常の容器として
唐・宋のころまで使用された。
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?stype=2&dtype=2&p=%B3%A5%C6%AB
224世界@名無史さん:2007/08/01(水) 11:26:18 0
●原始磁器 げんしじき アジア 中華人民共和国 AD

中国古代の釉(うわぐすり)をかけた硬陶。
http://mobile.goo.ne.jp/search.jsp?MT=%BC%A7%B4%EF&DC=10&FR=11&HOST=&CONTENT=&FLT=off&act.page=2

●灰釉陶 (原始磁器、原始青磁)

紀元前1600年に印文硬陶の流れの中で、1200度以上の高音焼成と上薬を
使用した陶器が発生する。その上薬(釉)が、灰・カオリナイト
(カオリナイトを含む白色化粧粘土)・石灰などを調合した灰釉である。
表面は灰色から灰緑色を呈する焼物である。日本ではまだ縄文文化の
解体も始まってはいない。
http://www4.ocn.ne.jp/~napland/yakimono/chire.html
225世界@名無史さん:2007/08/01(水) 11:45:56 0
約6500年前には既に灰陶時代に入り、約4200年前には既に施釉陶時代に入る。



黄河中・上流域ではB.C.4500年に老官台文化(陝西省)が誕生し、
北首嶺遺跡などからは灰陶が出土している。

http://www.moco.or.jp/jp/intro/intro_3/index_f.html


中国最古の原始青磁は、今から約4200年前に山西省夏県の竜山文化遺跡で
発見されたものである。

http://jp.chinabroadcast.cn/chinaabc/chapter20/chapter200313.htm
226世界@名無史さん:2007/08/01(水) 16:09:50 0
227世界@名無史さん:2007/08/02(木) 17:02:34 0
●印文土器

中国南東部で新石器時代から漢代に使われた土器。
幾何学文様のあるスタンプを打った灰色の壺などで、軟陶と硬陶の別がある。
http://makurada.com/modules/pukiwiki/75.html


長江流域では約6000年前に既に印文土器(印文陶)が登場している。


◎大渓文化( B.C.3990±260年〜B.C.3380±145年)

主要な文様には印文・水平周回文・篦描き文・貼付文・透し彫・彩絵があり、縄文は見あたりません。
このうち、印文は大渓文化の最も特徴的な文様で、円形・半円形・三日月形・三角形・長方形・方形・
工字形などの各種様式の「小型スタンプ」を器表に深々と押印しています。
http://kohkosai.web.infoseek.co.jp/kaisetu/14-1taikei.htm
228世界@名無史さん:2007/08/02(木) 17:06:12 0
雷文・方格文・条痕文・S字文など、印文土器にスタンプされた
幾何学文様(印文)が全く伝わっていない。


「印文硬陶」は一般的には、約1100 oCという高火度で焼成され、焼き締まった灰白色
で砂質の土器である。灰陶の一種で、新石器時代晩期にはじまり広東・福建・江西の
各地を中心に生産され、漢代まで生産が行われ、灰釉陶の母胎となった技法である。
胎土は4パ−セント程度の鉄分を含みその鉄の分量は、夾砂陶(きょうさとう=粗製土器)
や泥質灰陶より低くなっている。土器の表面には成形のための叩き文が残っているが、
その叩き文の文様は、雷文・方格文・条痕文・S字文として表れ、時として櫛の歯による
波状文の形をとる場合もある。高温焼成のため、器体に降りかかった灰が熔け、器中の
硅酸と化合し灰釉を生じる。色調は暗緑色を呈し、薄くて斑になったものと意識的に掛けた
のではないかとおもわれる。初期の硬陶は、青銅器のフォルムを写した倣銅陶器であったが、
殷時代後期には独自の器形が生まれはじめる。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
229世界@名無史さん:2007/08/02(木) 17:08:48 0
230世界@名無史さん:2007/08/03(金) 20:26:57 0
●三足土器(さんそくどき)

三本の足をもつ土器。各地の先史・原史時代の遺跡から出土。
特に、中国の竜山文化時代に盛行した鬲(れき)・鼎(てい)など。
後に青銅器製となる。
http://makurada.com/modules/pukiwiki/341.html

古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
231世界@名無史さん:2007/08/03(金) 20:32:01 0
1. 華南地域では農業の発達が遅かったため、土器の種類は多くありません。
2. 長江流域は約1万年前からすでに米が栽培され、約8000年前には稲作が発達しました。
土器は丸底が主流で、約6000年前には三足の鼎(かなえ)が登場します。
3. 黄河流域では、約1万年前から粟やひえの栽培が始まり、約7000年前以降には平底、
丸底、三足の土器が出現。 約5000年前から土器が一変し、中流域では灰色土器、
下流域では黒色土器が現れます。
4. 北方地域西北地方では、約6000年前以前の土器は発見されませんが、彩文土器が
発達したことが大きな特色です。
5. 北方地域東北地方では、約6000年〜5000年前に窯を使用し、彩文土器が出現しました。

これらをまとめると、中国新石器時代の土器づくりは約1万2000年前に始まり、各地域で形や
種類、技法、文様などがかなり異なります。また、農業の発達によって土器づくりの技術も
発達し、約6000年前には三足土器が登場。中国の漢時代まで代表的な土器の一つとなりました。
土器はもちろん日常生活用品でしたが、一部は祭りに関連したものと推察されます。
http://www.kaen-kaido.com/r_contents/manabu_event_frm04_2.html
232世界@名無史さん:2007/08/03(金) 20:35:24 0
233世界@名無史さん:2007/08/04(土) 22:22:10 0
●中国青銅器について
-------------------------------------------------------------
古代中国では紀元前21世紀頃から青銅器文明は存在し、その後鉄器と
入れ替わる戦国までの数百年間に渡って、それぞれの時代背景を基に
形・文様・銘文に特色を残していきました。中国青銅器は他を圧倒する
ほど強くその存在を示し、祭器・礼器としての役割を十分に果たしていた
と容易に想像させられます。プリミティブな造形と繊細なまでの技巧が
うまく調和し、数千年もの歳月を経て、人間がつくった最高の美術品として
確立していきました。
http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html
234世界@名無史さん:2007/08/04(土) 22:27:27 0
見よ!

中国の青銅器のさまざまな器形が全く伝わっていない。



◎中国青銅器のさまざまな器形

http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-shape.html



235世界@名無史さん:2007/08/04(土) 22:30:35 0
●越式鼎


江南名物「越式鼎」(エツシキテイ)。中原の漢式鼎よりも足が長い。
陶製と青銅製がある。



越式鼎
http://www.npm.gov.tw/english/exhbition/han9909/handynisty/live/pictures/art16.gif



236世界@名無史さん:2007/08/05(日) 18:37:42 0
●中国青銅器の文様

「饕餮文」といった造形的に非常に優れた固有の文様とともに、
「龍文」「鳳凰文」「雷文」など現在でも使われている文様の原型が
編み出されていました。古代の人々の想像力の豊かさとそれを表現する
技巧の確かさが伝わってきます。

http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html
237世界@名無史さん:2007/08/05(日) 18:41:12 0
238世界@名無史さん:2007/08/06(月) 15:41:04 0
●金文

金文(きんぶん)とは青銅器の表面に鋳込まれた、あるいは刻まれた文字の
こと(「金」はこの場合青銅の意味)。中国の殷・周のものが有名。年代的
には甲骨文字の後にあたる。殷は青銅器文化が非常に発達した時代であり、
この文字を器の表面に鋳込む技術は門外不出となっていた。

金文は『史記』のような後世になって書かれた資料とは違い、完全な同時代
資料であるためこの時代を研究する上で非常に貴重な資料となっている。
しかし殷代の青銅器は古美術としてもきわめて高い価値があるため収集家など
がこれを所持することで一貫した研究が出来ないと言うことも起きている。

なお石などに刻まれた文章は石文と呼ばれ、一緒にして金石文と呼ばれる。
またこれらの研究者は金石家と呼ばれる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%96%87
239世界@名無史さん:2007/08/06(月) 16:58:45 0
●鳥書

春秋時代の中期から後期にかけて、東方列国の金文には地方色が
強くあらわれてくる。特に注目すべきのは、南方の越、楚などの
地方の主として武器において、非常に装飾的な文字を扱ったものが
現れる。この地域で用いられた書体には、筆画が非常に複雑で、
曲線が多いもので、各文字のところどころに鳥の頭を図案化した
ような形があるから、このような書体は「鳥書」(ちょうしょ)、
あるいは「鳥篆」と呼ぶ。
http://yupeihsu.at.infoseek.co.jp/syouten/kinbun.html
240世界@名無史さん:2007/08/06(月) 17:02:07 0
241世界@名無史さん:2007/08/08(水) 00:54:48 0
●古代中国の楽器


秦の統一以前の頃の楽器は史料に記載されているものが約70種もある。
『詩経』だけでも29種にふれており、打楽器には太鼓、鐘、鉦(しょう、
古代銅製の打楽器で、行軍の際に打ち鳴らしたもの)、磬(けい、銅製の
椀形の仏具と楽器)、缶(ふ、甕のようなもの)、鈴など21種があり、
吹奏楽器には簫(しょう、タテにして吹く長い笛)、管(さまざまな管楽器の
こと)、?(けん、土笛)、笙(しょう、いろいろな長さの十数本の竹の管で
作った吹奏楽器)など6種があり、弦楽器には琴、瑟(しつ)など2種のものが
あった。楽器の品種が多く増えたため、周(約前11世紀−前256年)の
時期には楽器を作る素材によって、金属、石、土、皮革、弦、木、匏
(ほう、瓢たんの実)、竹という8種類に分けられ、「8音」分類法と称された。
http://www.china.org.cn/japanese/144930.htm
242世界@名無史さん:2007/08/08(水) 00:57:39 0
●骨哨

河姆渡住処から160個骨哨が出土されて,今まで7000年の歴史があります。こんな骨笛は鳥類の
骨で作られ,骨管に1−3個の孔を磨き突いたから,鳥が鳴るような曲調を吹く事ができます。
同時の原始人は木下に隠れて,網を設置してから骨笛を吹くと,鳥らはこの音響を聞いてここへ
飛んでくるんです。これは道具でもあるし,簡単な楽器でもありますから,今までも一部分の
中国少数民族の狩り道具になっています。こんな原始道具はやはり今の竹笛になりました。
http://www.topqd.com/wj/chinayqs.htm

●磬

磬(けい)とは、中国で最も古い楽器である。石製の打楽器である。サヌカイトを叩くと金属音が
する。この石の長さ・厚みを変えて音階を奏でることができる。これを楽器として仕立てたのが
「磬」である。これを単独で使用することは希で、通常は音階順に8個、あるいはそれを2段並べて
16個台に懸けた「編磬」として用いたようである。殷代から楽器として使用されている。
http://www.page.sannet.ne.jp/to-okamo/guwanmi/kosen/kosen.htm
243世界@名無史さん:2007/08/08(水) 01:03:18 0
見よ!

古代中国のさまざまな楽器がさっぱり伝わっていない。
7000年前の河姆渡遺跡からある簫(タテ笛)の原型である骨哨に注目。


上から順に、簫、磬(編磬)、鐘(編鐘)、鐃、ロ于、鉦
http://www.szzwch.com/IMAGES/xiao.JPG
http://storage.kanshin.com/free/img_28/284331/k741978051.jpg
http://japanese.cri.cn/chinaabc/chapter20/images/bianzhong.jpg
http://www.miho.or.jp/booth/html/imgbig/00001190.htm
http://big5.huaxia.com/wh/whgb/wwdg/images/1639_0.jpg
http://www.kepco.co.jp/ICSFiles/artimage/2004/06/08/c_kpc891/kane_1.jpg

7000年前の河姆渡遺跡の骨哨
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_24_15.jpg
244世界@名無史さん:2007/08/08(水) 22:03:55 0
●越族 えつぞく

中国の長江中下流以南に広く分布していた民族。粤(えつ)とも書かれる。地域によって,於越(于越),
甌越(越東海,東甌),ビンエツ※注1※(東越),揚越,山越,南越,西甌(甌),駱越(駱)などが
あり,総称して百越(百粤)と呼ばれた。於越は春秋戦国時代に浙江省北半部を本拠に越という国を
建てた。甌越は浙江省南部の甌江流域により,ビンエツ※注1※は福建省ビンコウ※注2※流域を中心
とした。揚越は揚州にいた越で,西甌,駱越は広西壮族自治区,あるいは北ヴェトナムにまでひろがって
いたとみられている。秦代末期の混乱に乗じて,趙佗(ちょうた)が番禺(ばんぐう,広東省広州市)を
都に南越(南粤)国を建て,5代97年のあいだつづいたが,漢の武帝の前111年(元鼎6),漢に滅ぼされた。
越族の習俗については,入墨・断髪などが知られ,文化については,新石器時代から春秋戦国時代まで
盛んにつくられた幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている。
http://www.tabiken.com/history/doc/C/C080C100.HTM
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
245世界@名無史さん:2007/08/08(水) 22:42:07 0
印文土器は中国南端の広西壮族自治区や台湾まで発見されている。


近年になって広東、広西、福建、台湾、浙江、江蘇、安徽、湖南、湖北などの
地方で、続けさまに新石器時代末期から秦漢以前にかけての、幾何学的
印紋のある陶器と石器を特徴とする文化遺物が発見されている。
http://www.beijinginfinity.com/culture/jieri/duanwu.htm


鉦は主に湖南省、江蘇省、浙江省などの華中以南で出土し、
春秋時代には南方の百越(越族)の諸地で甚だ流行した。


鉦 打擊樂器,形體似鐃,但比鐃高大和厚重,主要出土於湖南、江、浙一帶。
徵都是春秋時代的樂器,在南方百越諸地則甚流行。
http://www.hawh.cn:82/gate/big5/www.hawh.cn/html/20060420/256406.html
246世界@名無史さん:2007/08/08(水) 22:48:56 0
247世界@名無史さん:2007/08/09(木) 22:59:30 0
北方アジアは一切抜きの偏向調査で作為的に中国・朝鮮に誘致していた
スットボケ遺伝学者(嘲笑)


宝来センセイによると、韓国や中国にはそれぞれドミナントなミトコンドリアDNAがあるのに、
日本本土では、とくにドミナントなものがない。つまり系統的にさまざまな人たちから成り立って
いるのである。また、これまで、大陸から渡来した弥生人によって分断され、北に追いやられたのが
アイヌ、南に追いやられたのが琉球人といわれてきた。しかし、アイヌと琉球は少なくとも1万2000年
以上まえに分岐しており、紀元前3世紀以降に渡来してきた弥生人によって分断されたんではないという。
1万2000年前にそれぞれ日本に住み着いたアイヌと琉球人。そこへ紀元前3世紀以降になって渡来し、
稲作をはじめた中国・朝鮮系の人びと。こうした人たちの子孫がわたしたちなのだ。
それにしても紀元前3世紀以降の大陸からの渡来って、それ、秦の始皇帝のころの、徐福たちじゃない?
http://home.att.ne.jp/apple/tamaco/Yutenji/000115DNA.htm
http://youtube.com/watch?v=iRD3k2j9BeA
248世界@名無史さん:2007/08/09(木) 23:04:11 0


宝来mtDNAデータのトリックとその欠陥を簡単に説明してやると、

朝鮮半島にしろ中国大陸にしろ、古代より北方アジア人の侵入定着が絶え間ない
地域であったのにもかかわらず、データの中に北方アジア人に関するタイプの
データが一切出てこない。

しかも、調査サンプルにも北方アジア人のサンプルが一つも無い。

つまり、宝来mtDNAデータは、北方アジア抜きの偏向調査で出された単なる
偏向データなのであって、ただひたすら中国や朝鮮からやって来たと
錯覚させるだけの非常に悪質極まりない欠陥データに過ぎないのである。

249世界@名無史さん:2007/08/10(金) 13:33:00 0
山東省と江蘇省の骨しか調べていないのに中国だと決め付ける低脳骨屋の偏向調査(嘲笑)
いつも必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


渡来系弥生人は大陸のどこからやって来たのでしょうか。最近の調査により、
水稲耕作の発祥の地ともいわれている中国南部が有力視されています。
黄河下流と長江下流に挟まれた地域の漢代の遺跡から、渡来系弥生人に
よく似た人骨があいついで見つかっています。この時代の中国は、政治的に
動乱の時代であり、いろいろな民族が入り乱れて戦いました。日本にやって
来た渡来民は、このような動乱から逃れてきた人々だったのでしょうか。

http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-14.html
250世界@名無史さん:2007/08/10(金) 13:38:58 0
朝鮮半島南部と山東省の骨だけで中国だと決め付ける低脳骨屋の偏向調査(嘲笑)
いつも必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


土井が浜の弥生人骨は、160センチメートルを遙かに超えた長身、華奢な四肢骨、
細面の顔に低い鼻、のっぺりとした、それでいて端正な顔立ちで、いわゆる北方系
「新モンゴロイド」の特徴がありました。
彼らのルーツを求めて朝鮮半島南部の慶尚南道金海と南部の勅島(ヌクド)の人骨、
中国は山東省の漢代の人骨を対象に調査されました。ところが、朝鮮半島2ヶ所の
人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨は、極め
てよく似た形質を持っていることが確認されました。弥生人のルーツはやはり中国
だったという説が有力です。

http://www.rakuten.ne.jp/gold/sakezo/rekisi/keta3.html
251世界@名無史さん:2007/08/10(金) 13:58:44 0
山東省と江蘇省の骨しか調べていないのに中国だと決め付ける低脳骨屋と低脳ミトコンドリ屋の
偏向調査のコラボレーション。やはり必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


一九九四年一月二六日ニュース報道。山口県豊北町の土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアム
の松下孝幸館長(形質人類学)らが、山東省文物考古研究所を訪問。同省の遺跡から出土
した前漢時代の古人骨約七十体について、顔の長さ、幅などを計測し、北部九州や山口県
で発掘された渡来系弥生人骨と比較したところ、八割以上で顔の長さ、ほお骨の厚さなど
主要な値が一致。骨から推定した平均身長も渡来系弥生人(男性一六三センチ、女性一五〇
センチ)とほぼ一致した。

 一九九六年一〇月一九日、日本人類学会・日本民族学会連合大会発表。東大理学部の
植田信太郎助教授(人類学)らは、約二千年前の中国・山東省臨錙の遺跡から出土した
人骨と、同時期の詫田西分遺跡から出土した人骨のDNAを分析し、遺伝子の配列が
特定の部分で同じ人がいることを確認した。
252世界@名無史さん:2007/08/10(金) 15:23:41 0
(続き)

一九九九年三月一九日ニュース報道。江南人骨日中共同調査団(山口敏・東京国立
科学博物館名誉研究員が団長)は、江蘇省の墓から出土した六十体(二十八体が新石器
時代、十七体が春秋戦国時代、十五体が前漢時代)の頭や太ももの骨、歯を調査。
特に、歯からDNAを抽出して調査し、福岡、山口両県で出土した渡来系弥生人と
縄文人の人骨と比較。結果、春秋戦国時代人と前漢時代人は弥生人と酷似。
DNA分析では、江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代末)の人骨の歯から
抽出したミトコンドリアDNAの持つ塩基配列の一部が、福岡県の隈西小田遺跡の
人骨のDNAと一致した。

http://www.asahi-net.or.jp/~CY1N-STU/kodaishi/yayoi.htm
253世界@名無史さん:2007/08/10(金) 21:18:08 0

日本人種の最大の特徴はD2系統のy染色体にある。

日本の本土、沖縄、アイヌの最大勢力のy染色体はD2系統。

推定3000万人(男だけなので)

D2系統はアイヌ88%琉球56%日本42〜56%

(参考までチベット33%) 韓国ほぼ0

アイヌに88%と高頻度にD2系統があるように見えるのは、南方系のOが
無いためで、結果的には本土日本人と大きな差があるわけではない。



y染色体D2の系統がアイヌは10人中8人沖縄、本土は10人に5人となる。 (韓国人10人中0人)

残る日本人のy染色体は南方系のOが主体。日本のOの主体は O2b1

朝鮮はO2b*と南方系y染色体でも違いを見せます。

ようするに日本人と韓国人は系統が全然違います。

良かったですね。
254世界@名無史さん:2007/08/11(土) 12:39:02 0
弥生人骨と一致したという山東省の弥生時代開始期の出土物は
こんな有り様(嘲笑)


◎西周時代の陶器発見 山東省済南市

山東省済南市歴城区孫村鎮盧家寨村でこのほど、西周時代(紀元前11世紀ごろ〜
紀元前771年)のものと見られる陶器が見つかった。現在までに陶製の鬲(れき、
古代中国で使われた三足の器)が約50点出土しており、発掘作業はまだ続いている。
専門家の説明によると、この遺跡が発見され、珍しい西周時代の陶器が大量に
出土したことは、西周時代の人々の生活や陶器製作技術を研究する上で、極めて
重要な価値がある。

http://www.china.org.cn/japanese/201551.htm
255世界@名無史さん:2007/08/11(土) 12:44:04 0
>陶製の鬲(れき、古代中国で使われた三足の器)が約50点出土しており



鬲?????鬲?????鬲?????鬲?????鬲?????

いやあ、弥生人骨と一致したという山東省の弥生時代開始頃の遺跡からは
弥生遺跡からはさーっぱり出てこない摩訶不思議なものが出るんですねえ(嘲笑)


256世界@名無史さん:2007/08/12(日) 20:20:42 0
二千年以上も地中深く埋まっていた楽器は、どんな音を出すのだろう。さまざまな
古代の楽器のオーケストラは、妙なる調べを奏でるだろうか。中国山東省でこのほど
出土した数百点もの楽器による特別演奏会が、山東テレビ局で、三日間にわたり催された。
聴衆は驚きの声をあげた。古代の楽器たちは『蘇武牧羊』とか『茉莉花』といった
中国の有名な歌曲の旋律をきちんと奏でたからである。しかし、この古楽器はもう
二度と音を出すことはあるまい。博物館に収められてしまうからである。中国で権威ある
考古学者と音楽界の専門家は、これらの楽器を「編鐘」「編磬」「ロ(ジュン)于」
「鉦」「鐸」と鑑定した。編鐘は音律の異なる小さな鐘を二層に吊るして並べた楽器。
編磬は石や鉄で作られた板を叩いて音を出す。ロ(ジュン)于は槌で叩く楽器、
鉦は握り柄のある鈴、鐸は大きな鈴で、日本の古墳から出土する銅鐸に似ている。

(中略)6年ほど前にこの丘の近くで、道路工事が始まった。ブルドーザーの騒音が、この丘の
二千年の眠りを破った。丘の土は削られ、道路や家の建設にも使われた。そして1999年
6月26日の昼前、土をすくっていた一台のショベルカーが青緑色をした物体を掘り起こした。
よく見るとそれは大量の青銅の鼎であった。鼎は三本足で耳が二つある古代の器である。
http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/zhuanwen/200107-2.htm
257世界@名無史さん:2007/08/12(日) 20:29:41 0
>「編鐘」「編磬」「ロ(ジュン)于」「鉦」「鐸」と鑑定した。
>よく見るとそれは大量の青銅の鼎であった



鐘?????磬?????ロ于?????鉦?????
鐸?????鼎?????


いやあ、弥生人骨と一致したという山東省の弥生時代頃の遺跡からは
弥生遺跡からはさーっぱり出土しない摩訶不思議なものが出土するんですねえ(嘲笑)


258世界@名無史さん:2007/08/14(火) 23:02:40 0
弥生人骨と一致したという山東省の弥生時代頃の遺物がさっぱり伝わっていない。
それはまるで宇宙人の創造物かのようである。


◆山東省の弥生時代頃のさまざまな出土物

上から順に、磬、甲骨文、爵、簋、簠、鼎、金文、方壺、盂
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww41.htm
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww31.htm
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww32.htm
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww42.htm
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww43.htm
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww51.htm
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww52.htm
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww81.htm
http://db.museum.or.jp/im/Search/jsMuseumEventDetail_jp.jsp?event_no=28679
259世界@名無史さん:2007/08/15(水) 21:17:16 0
弥生人骨と一致したという江蘇省の弥生時代開始頃の出土物は
こんな有り様(嘲笑)


江蘇句容・金壇周代土トン(土+敦)(盛り土、小山)墓群:考古学者たちは、
土トン墓の埋蔵の特色に合わせ、一層ずつ剥がしていく整理方法を採用し、
青銅器時代の江南の土トン墓造営の全過程を明らかにした。計40の土トンを
発掘し、233基の墓、229組の祭祀器物群、14カ所の墓葬建築遺物を整理、
幾何印紋陶(幾何学模様を施した陶器)、原始青磁器を中心に、江南地方の
特色をもつ各種文物3800点余りが出土した。

http://www.china-news.co.jp/culture/2006/05/cul06051302.htm
260世界@名無史さん:2007/08/15(水) 21:28:23 0
>幾何印紋陶(幾何学模様を施した陶器)、原始青磁器を中心に



印紋陶?????原始青磁?????


いやあ、弥生人骨と一致したという江蘇省の弥生時代開始頃の遺跡からは
弥生遺跡からはさーっぱり出土しない摩訶不思議なものが出土するんですねえ(嘲笑)


261世界@名無史さん:2007/08/16(木) 20:00:23 0
【江蘇】徐州市で周代の器物を修復、2800年前の生活が明らかに

江蘇省徐州市にある周代の遺跡から出土した器物が半年かけて修復され、2800年前の
生活の様子が明らかになった。今回の修復は当時のこの一帯の製陶業や栽培業、建築の
発展状況を知るうえで大きな意義があり、同省での周代の遺物の収蔵・研究の空白を
埋めるものとして注目されている。徐州市賈汪鎮泉東村で去年初めて、完全な形で残る
周代のものとみられる家屋跡を発見。発掘を通して、考古学者は一家族の住まいである
ことを確認した。徐州博物館考古学部の耿軍建主任によると、家屋はほぼ南北2列に並び、
北側には4〜5室、南側には3室あった。部屋の大小や機能はそれぞれ異なり、東側から
陶鬲(とうれき・陶製の鼎に似たもの)などの炊事用具が見つかったことから厨房、
西側では陶罐や陶甕(とうおう・陶製のかめ)など大型の容器が出土したため、貯蔵部屋
だったのではないかと考えられている。部屋は木の柱を骨組みにして草を混ぜた泥で覆った
構造。壁はほぼ長方形になっているが、手で塗ったせいか厚みにばらつきがある。出土した
20点余りの陶鬲や陶甕から、考古学者は西州時代の家屋跡だと推断している。 家屋の前に
ある坑からは、大量のからす貝の殻や食べ残した豚、鹿、犬の骨のほか、鹿の角で作った
鋤、骨を彫った錐や剣、貝殻で作った鎌、泥を焼いた鉢など生産・生活用具が見つかった。
ここから当時、農水牧畜業や狩猟が比較的発達していたことが窺われ、周囲には広大な
森林や沢、草地、農地があり、居住環境はかなり良かったのではと思われる。徐州市博物館
は現在、遺跡から出土し修復された陶鬲や陶罐、鉢など20点余りの器物を展示しており、
大小は様々だが、文様や色彩ははっきりしている。最も完全な姿をみせているのが大型の
陶鬲で、直径42センチ、高さ38センチ。考古学者によると、周代の遺物はもともと数少なく、
とくに江蘇省でこれほど多くの器物が発見されたのは今回が初めてだという。2800年の時
を経て修復された器物に周代の人々の生活風景が想像できる。
http://j.people.com.cn/2003/06/13/jp20030613_29739.html
262世界@名無史さん:2007/08/16(木) 20:13:07 0
>陶鬲(とうれき・陶製の鼎に似たもの)などの炊事用具が見つかったことから厨房、
>最も完全な姿をみせているのが大型の陶鬲で、直径42センチ、高さ38センチ。



鬲?????鬲?????鬲?????鬲?????鬲?????


いやあ、弥生人骨と一致したという江蘇省徐州の弥生時代開始頃の遺跡からは
弥生遺跡からはさーっぱり出土しない摩訶不思議なものが出土するんですねえ(嘲笑)


263世界@名無史さん:2007/08/17(金) 19:10:15 0

◎北方アジア抜きの偏向調査で中国に誘致し国民をダマした容疑者リスト


 宝 来 聰 (国立遺伝学研究所助教授、総合研究大学院大学助教授)


 松 下 孝 幸 (土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアム館長)


 植 田 信 太 郎 (東大理学部助教授)


 山 口 敏 (東京国立科学博物館名誉研究員)
264世界@名無史さん:2007/08/18(土) 19:06:01 0
弥生時代開始頃の長江流域はこんな有り様(嘲笑)


呉城文化 B1400?〜B1000?

 江西地方の文化はB3000年〜B2500年頃の山背文化を最後に一時停滞していたが、
良渚文化や石家河文化の崩壊後に呉城文化が抬頭した。黄河流域とはまったく
異質の造形美術を特色とし、豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土し、
中国磁器の源流に再考を促した。また符号を刻した土器や鋳型も発見され、
符号の総数は170を超え、12個を列記したものも出土している。隣接する湖南省
では1960年代に寧郷県で多数の貴重な青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、
商文化を凌ぐ鋳造技術と独特の造詣を示していたが、このときには商文化の一分派
と認識された。1970年代に江西省樟樹市(旧清江)で発見された呉城遺跡の城壁址は
4万uで、地方的な政治中心のひとつに過ぎなかったと考えられる。
http://home.t02.itscom.net/izn/chu0.html
265世界@名無史さん:2007/08/18(土) 19:09:15 0
>豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土
>符号を刻した土器や鋳型も発見
>青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、商文化を凌ぐ鋳造技術



印文陶?????釉陶?????原始磁器?????
鼎?????尊?????


いやあ、弥生時代開始頃の長江流域の遺跡からは日本の弥生遺跡からは
さーっぱり出土しない摩訶不思議なものばかり出土するんですねえ(嘲笑)


266世界@名無史さん:2007/08/19(日) 16:09:47 0
弥生時代開始頃の長江流域はこんな有り様(嘲笑)


▲ 新干大洋洲商墓

1989年出土の、呉城文化第二期の大規模な墓。華北文化では商代後期にあたる。
両面神人頭像や大鐃に代表される多数の青銅器や玉器を含む2000点近い副葬品が出土。
青銅品486点のうち武器類は252点に達し、また礼器49点の殆どが実生活での使用痕を
遺し、ゲンと呼ばれる甑や一号方鼎など同時代最大級のものが含まれる。また造形美の
点では絶品とすら評される伏鳥双尾虎や、従来西周時代に鐘が変化して出現したとされ
てきた楽器の[金專]の出土など、独特の造形や装飾によって、青銅器文化時代における
江西省の独自性と重要性が再認識された。出土した青銅器は商式・融合式・土着式・
先周式に大別され、当時の中原のみならず渭水流域とも交流があったことを窺わせる。
また玉器の加工水準は石家河文化や良渚文化に比肩する。近年、近郊で多数の商代の
遺物を伴う61万uに達する都城址が発見され、王都址の可能性が期待されている。
http://home.t02.itscom.net/izn/chu0.html
267世界@名無史さん:2007/08/19(日) 16:18:03 0
>両面神人頭像や大鐃に代表される多数の青銅器や玉器
>ゲンと呼ばれる甑や一号方鼎など同時代最大級
>伏鳥双尾虎や、従来西周時代に鐘が変化して出現したとされてきた
>楽器の[金專]



両面神人頭像?????鐃?????玉器?????ゲン?????
鼎?????伏鳥双尾虎?????[金專]?????


いやあ、弥生時代開始頃の長江流域の遺跡からは日本の弥生遺跡からは
さーっぱり出土しない摩訶不思議なものばかり出土するんですねえ(嘲笑)


268世界@名無史さん:2007/08/20(月) 20:56:20 0

◎日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土

【上海9日共同】中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770−同221年)
の地方国家、越の貴族墓から、日本の弥生時代の銅鐸(どうたく)に形が似た青磁器の
鐸がこのほど出土した。発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張敏所長が9日まで
に明らかにした。

日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが
定説だが、張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、発掘結果をめぐる
今後の議論が注目される。

http://www.asyura2.com/0510/bd42/msg/948.html
269世界@名無史さん:2007/08/20(月) 21:06:20 0
>銅鐸(どうたく)に形が似た青磁器の鐸がこのほど出土
>張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性がある




青磁どころか灰陶もなけりゃ土器の鐸もない。
だいたい鐸の前に鼎の一つくらい伝えろや、このスットボケ南京博物院が(嘲笑)



270世界@名無史さん:2007/08/21(火) 22:27:37 0
【福建】3500年前の商周の時期の文物を発見

しょう(さんずいに章)州=竜岩高速道路沿線の南靖、豊田、天宝などの区間で、先般、
3500年前の商周の時期の石器、陶磁器などの文物が約500点発見された。このように商周の
時期の文物がたくさん出土したことは福建省できわめて稀なことである。

福建省の考古学調査班は昨年しょう州=竜岩高速道路沿線の南靖、らん城の区間に赴き、
商周の時期の文物の緊急救出の発掘に取り組み、今月中旬頃に3500年前の商周の時期の文物が
発見された。

考古学調査班副班長の鄭輝氏によると、今回の発見の状況から見て、狗頭山遺跡には商周の
時期の古墳、民家遺跡が埋まっており、今回出土したもの中には石戈、石矛、石鋳などの石器
と圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、砂の入った灰色陶器、
上薬のついた陶器、硬質陶器などがたくさんあった。

現地のメディアによると、しょう州市は商周の時期の文化は非常に発達をとげた地域で、1950年代
と1970、1980年代に、福建省としょう州市の考古文化部門は南靖などで古文化遺跡をたくさん発見した。
特に1956年には南靖県の県政府所在地付近の浮山地区で数多くの商周の時期の典型的な陶器、石器が
出土し、その後福建省の考古学界ではそれを「浮山類型」と呼ぶことにした。今回発掘された狗頭山
古文化遺跡も「浮山類型」に属するもの。現在、高速道路建設部門はすでに工事を一時停止し、文化部門
に積極的に協力して緊急救出のための発掘を行っている。

しょう州市におけるこれらの文物の出土は、しょう州市ひいては福建省のその時期の歴史、文化の研究
にとって学術面と考古学の面で重要な価値を持っている。
http://j.peopledaily.com.cn/2003/03/31/jp20030331_27523.html
271世界@名無史さん:2007/08/21(火) 22:35:38 0
>圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、
>砂の入った灰色陶器、上薬のついた陶器、硬質陶器など



圏足器?????環足杯?????灰色陶器?????
上薬のついた陶器?????硬質陶器?????


弥生時代開始頃の華南の福建省の遺跡さえ日本の弥生遺跡からは
全く出土しないものばかり(嘲笑)


272世界@名無史さん:2007/08/22(水) 20:36:08 0
●河姆渡文化 かぼとぶんか

浙江省余姚(よう)県河姆渡遺跡を標準とする新石器時代の文化をいう。主に寧紹平原の
東部地区に分布している。河姆渡遺跡には四つの文化層があり,第1層は良渚文化早期と
類似しており,第2層は馬家浜文化の要素がある。第3・4層は河姆渡文化層で,上の両層
よりも古く,注目すべき出土器物がある。土器は原始的な手づくりの,あらい厚手の不整形で,
低温で焼かれた夾炭黒陶が最も多く,混ぜられた植物の茎葉砕片やもみ殻が焼けて炭化し,
土器を黒色にしている。夾炭黒陶は第4層では最大量を占めるが,第1層に至るほど漸減し,
第1・2層では焼成温度の高い砂混じりの夾砂紅陶・灰陶が優勢となる。第4層の土器の主な
ものに,釜・罐(かん)・鉢・盤・器台がある。釜が四つの層を通して出土し,形態と
装飾が最も多様なところから,釜を南方地区新石器文化の特徴とする見解がある。第3層
出土の甑(そう)は,蒸気熱を利用した穀物の蒸し器で,のちに朝鮮・日本などに伝わり,
東アジアに特徴的な穀物を蒸して食べる調理法を普及させたものである。また紡錘のほか,
濃茶の文様を施した数個の彩陶片も発見されている。遺跡層が地下水面下にあったため,
多くの木器が保存され,耜(し。すき)・碗・盆・かい・杵・矛・紡・紡錘などのほか,
組み合わせ部品用と思われる大小の棒が発見されている。
273世界@名無史さん:2007/08/22(水) 20:39:14 0
第4層には骨器が非常に多く,石器は少ないが,第1層に至るほど,石器が漸増して
骨器が漸減し,河姆渡文化では骨器の比重が大きかったことが知られる。骨器には
鏃・針・管状針・梭形器・笛などあるが,大型哺乳動物(水牛?)の肩胛骨を加工
した多くの耜が注目をあびた。石器は小型のあらい磨製で,斧・手斧・のみ・紡錘
などがある。第4層の住居址に,多くの稲の穀粒・茎葉の堆積が発見された。栽培稲
のセン(注1)は、亜種晩稲型水稲と鑑定され,紀元前約 5000年のもので,現在の
ところ,東アジアにおける水稲の最古の実物標本といわれている。また,とち・ひし・
桃の実,ヘちま・はとむぎや,なつめの一種なども出土している。家畜には犬と豚が
おり,水牛もいたようである。土器面に豚,または豚と稲穂の刻まれたものがあり,
小型の陶豚もある。ほかに,多種類の獣・鳥・魚などの骨も出土している。当時の
河姆渡地域では,すでに骨耜・木耜などによる稲作農耕が行われ,家畜を飼育し,
狩猟・漁労や採集もかなりの比重を,占め,種々の生産・生活の器具を作り,紡織も
行われていたのである。住居は大きな材木で構築された高床式で,柱をくりぬいて
はりや板をはめこむなど,やや高い技術が用いられている。
274世界@名無史さん:2007/08/22(水) 20:43:18 0
素朴な芸術品も多く,木彫の魚,骨彫の匙・こうがい,陶製の魚・人頭像,象牙彫の鳥
などのほか,玉製の管・珠・ケツ・コウの装飾具がある。また朱紅色の漆器の木碗もあり,
生漆と鑑定され,中国で最古のものといわれる。出土した50余種属の動物の生態および
植物遺存と花粉分析が明らかにした植生の状態から推測すると,当時この一帯は,現在
よりも温暖多湿で,現在の広東・広西等の地区に近く,山麓に接した大小の湖沼が散在する
草原灌木地帯であったようである。河姆渡文化の年代は,ほぼ紀元前5000年ごろにあたる
といわれ,揚子江下流域における最古の新石器文化であり,黄河中流域や山東地域の文化と
並んで,中国の早期新石期文化の一つの中心である。 
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
275世界@名無史さん:2007/08/22(水) 20:46:51 0
>>>夾炭黒陶は第4層では最大量を占める>>>釜・罐(かん)・鉢・盤・器台
>>>甑(そう)は,蒸気熱を利用した穀物の蒸し器
>>>濃茶の文様を施した数個の彩陶片>>>笛などある>>>土器面に豚
>>>小型の陶豚もある>>>骨耜・木耜などによる稲作農耕>>>陶製の魚・人頭像


黒陶?????釜?????罐?????鉢?????盤?????
器台?????甑?????彩陶?????笛?????
土器面に豚?????陶豚?????骨耜?????木耜?????
陶魚?????人頭像?????


7000年前の長江流域の遺跡でさえ日本の縄文遺跡からは全く出土しない
摩訶不思議なものばかり出土しているんですねえ(嘲笑)

276世界@名無史さん:2007/08/23(木) 14:48:43 0
見よ!

7000年前の長江流域の河姆渡遺跡に既にある、骨製や木製の耜(鋤)、黒陶や彩陶、
釜・罐・鉢・盤・器台・甑・灶などの器形、骨哨(骨製のタテ笛)、猪文様など、
縄文時代を通してさーっぱり伝わっていない。



◎河姆渡遺跡

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
http://homepage3.nifty.com/sugar-tr/joumonG.html


277世界@名無史さん:2007/08/24(金) 21:00:42 0

●戰國時代陶質編鐘在呉文化發源地無錫出土


新華網江蘇頻道南京4月16日電 (高幼元) 日前,在無錫市錫山區泰伯文化
藝術節上,一批最近出土的戰國時代陶質編鐘等古樂器向中外遊客展示。
這批距今2000多年?青銅器的樂器中,最令人驚嘆的是,經修復後最大的編鐘,
高30多公分,造型十分精致。

展示會上,錫山區文管會同志介紹?,這裏是呉文化發源地。這批新出土的文物,
除編鐘、鐃、磬等樂器類陶器30餘件外,還有經修復的缸、罐、壇、鼎等各種
陶器共五十多件。這些原始瓷或印紋硬釉陶器,紋飾繁多。有乳釘紋、水波紋、
方格紋、圓圈紋等。經考古專家初?鑒定,數量之多,品種之全,工藝之精,
在全國罕見。
278世界@名無史さん:2007/08/24(金) 21:03:58 0
這批珍貴的出土文物是當地村民發現的。今年2月19日,錫山區後宅鎮天仙
塘萬安橋村村民鄒曉峰和鄒春鋒,帶著20多件陶器,向區文管會報告,村裏
一個大土?上發現了“古董”。工作人員認出是極有價?的陶制編鐘。第二
天即?到現場。這個大土?是五年前,鎮上築新路取土用的,當時就有部分
古陶器被?出,村民見是陶土做的,沒在意。而這次錫山區考古人員卻十分
在意,“掘地三尺”,出土的陶片、陶器用1噸半?車裝了滿滿一車。隨後,
他們邊向上級部門報告,邊請專家來修復,並對來報告的兩村民給予了獎勵。

後宅鎮往南數公里的鴻聲鎮,正在發掘的彭祖?文化遺址,已有一大批距今
6000年至7000年的新石器時代文物初露真容。據南京博物院考古學家介紹,
彭祖?是長江三角洲文化層次堆積最厚、包含物最多、保存最好的一處?史文化
遺址,是當代研究太湖流域人類文明發展史最好的?史資料。該鎮的鴻山南麓有
一座被譽為“開發江南先祖”泰伯之墓,距今已有3196年?史。現在,後宅鎮又
新出土的2000年前的古編鐘,作為陶樂器隨葬品,非一般人可用,是墓主人身?
顯赫?還是當時這塊地主是個文化“繁榮”勝地?這還需專家來解謎。
http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/www.js.xinhua.org/htm4/2041622.htm
279世界@名無史さん:2007/08/24(金) 21:10:05 0
>陶質編鐘等古樂器向中外遊客展示
>鐃、磬等樂器類陶器30餘件外,還有經修復的缸、罐、壇、鼎等
>各種陶器共五十多件。這些原始瓷或印紋硬釉陶器,紋飾繁多。
>有乳釘紋、水波紋、方格紋、圓圈紋等。


編鐘?????鐃?????磬?????缸?????壇?????
鼎?????原始瓷?????印紋硬釉陶?????乳釘紋?????
水波紋?????方格紋?????圓圈紋?????


いやあ、弥生時代の江南の江蘇省無錫の呉の遺址からは日本の弥生遺構では
さーっぱり見た事がない摩訶不思議な物や文様が出るんですねえ(嘲笑)

280世界@名無史さん:2007/08/25(土) 21:13:38 0

●考古發現一罐鴨蛋醃了2500年


在句容、金壇乃至整個江南,有一種獨具特色的土墩墓,這些墓聳立在山巒崗地、平原叢林中,
遠遠看上去,就像是一個隆起的大土墩。它們代表著西周至春秋戰國時期江南特有的土著文化。
目前經初步探查,在鎮江周邊約有5000多座土墩墓。

江蘇省8支考古隊120多位考古專家,從今年4月起對相關公路沿線的土墩墓進行了搶救性發掘,
先後發現了46座西周到春秋時期的土墩墓,出土文物4000多件。昨天,來自全國各地的10多位
考古專家不僅實地勘查了考古現場,還商討如何保護土墩墓的發掘成果。
281世界@名無史さん:2007/08/25(土) 21:18:22 0
一罐鴨蛋完好無損

豆、碗、盞、盅、罐、鼎,所有文物按照不同的古墓,從大到小一字排開,4000多件文物,
把句容博物館的兩層樓裝得滿滿的。最讓專家們意外的是,句容天王寨花頭的2號墩裡出土的
文物,雖然也是罐、豆等陶器,但其中一個小罐子裡面居然還盛著滿滿一罐鴨蛋!順著罐口
往裡看,白白的蛋比現在的鴨蛋小。記者還特地俯身聞了聞,可以嗅到一股鹹味。南京博物院
考古研究所副所長林留根說,出土時陶罐上還有一個蓋子,推測是2500年前這戶人家醃製的鴨蛋。

南京博物院研究員鄒厚本告訴記者,目前整個江蘇僅有三罐這樣的古老蛋,一罐在南農大的
博物館裡,一罐在鎮江博物館裡,這是考古發現的第三罐。早在上世紀70年代,發現第一罐蛋
的時候,他們就把這些蛋送給相關專家做研究,不過專家們也說不出個所以然。因此,古人
如何醃製鴨蛋,到現在還是個謎。至於保存,雖然古墓經常有雨水滲透,但罐子有罐蓋,
能擋住雨水,而且罐子裡面有封泥,這些封泥起到了很好的保護作用。細看罐中鴨蛋,除了
蛋殼是完好外,蛋青蛋黃怎樣?考古專家說,現在只能先保護,然後再研究。
282世界@名無史さん:2007/08/25(土) 21:21:20 0
古怪青瓷用途是謎

擺放文物的現場,好像是古代46戶人家家庭用具的一次集中展覽。從這些器物可以看出,當時人
們用特別大的缸來盛糧食,用鼎來燒飯,用青瓷碗來裝飯。不過,在句容天王寨出土的一個
青瓷器,卻令專家們無法辨別它的用途。

這件青瓷有一個圓圓的底座,以前從來未見過。此外,一個羽狀紋大瓷罐,也讓專家們好奇。
在西周至春秋時期,瓷罐上一般都只是直線條的花紋,而這個瓷罐上的花紋看上去像孔雀
尾巴上的羽毛,特別漂亮。這種花紋是怎麼製作出來的?這也是一個謎。
283世界@名無史さん:2007/08/25(土) 21:25:18 0
保護土墩墓刻不容緩

雖然盜墓賊看不上這些土墩墓,因為從墓葬出來的都是不太值錢的陶器殘片,但由於修路、
修水利等原因,每年都有成百座土墩墓被破壞了。這次寧常、鎮溧高速公路沿線有6座
土墩墓還未發掘就被摧毀,與此同時,金壇境內為建高爾夫球場平整40多座土墩,句容
境內25座土墩因工程建設被毀,句容郭莊鎮厚達7米的文化遺址被寧杭高速公路施工毀壞,
金壇一大型商代遺址被鎮政府推平……

蘊涵大量珍貴文物的古遺址、古墓葬卻毀在推土機下,實在令人心痛。專家們呼籲,
將江蘇土墩墓納入大遺址保護體系,與各市縣鄉鎮的經濟發展和社會發展規劃相融合,
防止建設性破壞,同時在對土墩墓群進行調查的基礎上,選擇幾個典型土墩墓進行解剖,
並修建遺址博物館,以帶動周圍土墩墓群的整體保護。
http://www.epochtimes.com/b5/5/12/30/n1171849.htm
284世界@名無史さん:2007/08/25(土) 21:27:48 0




盞?????盅?????鼎?????青瓷?????花紋?????


いやあ、弥生時代開始頃の江南の遺跡からは日本の弥生遺物では
さっぱりお目にかからない摩訶不思議な物や文様が出るんですねえ(嘲笑)



285世界@名無史さん:2007/08/26(日) 16:00:30 0

●鴻山越國貴族墓地發掘情況介紹

鴻山越國貴族墓地位江蘇無錫鴻山鎮東部,該區保存大小規模土墩近百座。南京博物院考古研究所及
錫山區文物管理委員會組成聯合考古隊,於2003年4月至2004年12月期間,對該範圍內土墩進行搶救性
發掘。

是次發掘7座墓葬,出土共計2000餘件隨葬器物,其中丘承墩就出土1100餘件精美成套的青瓷禮器、
樂器和玉器。 根據墓葬的封土規模、墓葬結構和隨葬器物的種類、質地、組合關係,7座墓葬可以
分為5個等級:
286世界@名無史さん:2007/08/26(日) 16:04:28 0
第一級別為丘承墩,該墓封土為長方形覆斗狀,是墓地中唯一的深坑墓,墓坑平面為「中」字形,
並有壁龕;隨葬品中青瓷禮器數量眾多,器類齊全;青瓷樂器既有中原式的鈕、甬鍾、磬,
亦有越式的ロ于、丁寧、鐸、勾、鈴形器、具座,還有以往從未確認的缶;玉器中,既有葬玉、
劍飾,亦有佩玉,而成雙成對的龍形佩、雙龍佩、龍鳳佩、龍首珩、龍形珩等組成的佩玉,
當為春秋戰國時期最高等級的佩飾;此外還隨葬琉璃釉盤蛇玲瓏球形器等象徵特殊意義的器物;
第二級別為老虎墩,該墓封土亦為長方形覆斗狀,埋葬方式為平地鋪木,隨葬器物中除生活用品外,
還包括成組的原始青瓷樂器和硬陶禮器、樂器;第三級別為萬家墳,與老虎墩的封土規模和平地
鋪木的葬制相同,然隨葬品中僅有成組的硬陶禮器、樂器而不見原始青瓷樂器;第四級別為曹家墳、
杜家墳,為長方形覆斗狀封土;第五級別為老墳墩、鄒家墩。這4座墓葬均無成組樂器隨葬,為長圓形
饅首狀封土。
287世界@名無史さん:2007/08/26(日) 16:10:17 0
鴻山貴族墓葬的特徵大致可歸納為以下幾點:
1. 長方形覆斗狀或長圓形封土;
2. 除特大型墓葬為深坑墓外,皆為平地起封;
3. 除特大型墓葬為「中」字形外,其餘皆為長條形墓葬,大型的還有墊木或分室用的木板等用於
構築墓室;
4. 隨葬器物主要為原始青瓷器和硬陶器;
5. 特大型墓葬的隨葬品中有組玉;
6. 隨葬器物中常見原始青瓷或硬陶的勾、ロ于、丁寧、鐸、羊角器、璧、鈴形器以及越式鼎、
筒形、盅、器蓋等;
7. 高等級的器物紋樣中常見蛇。而以蛇為器物紋樣也是越人圖騰崇拜的體現。
288世界@名無史さん:2007/08/26(日) 16:12:57 0
這些特徵中多為越國墓葬獨有,其中墓葬形制和隨葬品的質地、器形、器類與浙江紹興印山越王墓
以及安吉、海鹽、長興等地的越國貴族墓葬相同,尤其明顯的是均隨葬陶、瓷禮器和樂器,如ロ于、
丁寧、勾、鎛、甬鍾、磬、鈴形器、缶、具座、羊角器、璧以及越式鼎、筒形、盅、器蓋等;
根據墓葬的規模、形制和在墓地中的位置,以及隨葬器物的數量、種類和等級推測,鴻山貴族墓地
中丘承墩墓主的等級應為僅次於越王的越國大夫,此墓主室和後室總長僅次於紹興印山越王墓,
遠高於其他中小型越國貴族墓,而出土的隨葬器物則是目前已發掘的越國墓葬中等級最高、
質地最好且器類最為齊全的。

7座墓葬的隨葬品中,皆有完全相同器物,如壇、、碗、盅、器蓋等,其年代應相同;而大型或
中型墓葬中則有造型相同的鍾、鎛、磬、鈴形器、璧、羊角形器等,其年代亦應相同;而從印紋硬陶
和原始青瓷基本生活用品的形態、僅見麻布紋和米字紋等紋飾以及器物的組合關係,根據長江下游
土墩墓的分期,其年代應為戰國早期;出土玉器中,儘管有少量紋飾保留春秋晚期特徵,而絕大多數玉器
的造型和紋飾都呈現戰國早期的特徵。因此鴻山越國貴族墓地的年代可定為戰國早期,即越國最強盛的
越王勾踐時期。
289世界@名無史さん:2007/08/26(日) 16:16:11 0
鴻山越國貴族墓地中,丘承墩位於墓地的西北角,而其他大、中、小型墓葬則圍繞在丘承墩的東南呈
扇形分布,墓葬與墓葬之間既有一定的分布規律,又存在著嚴格的等級差別,為是次考古發掘最重要的
收穫之一;丘承墩墓為目前僅次於紹興印山越王墓的越國第二大墓,而丘承墩出土的大批精美成套的玉器、
青瓷禮器和樂器,應為迄今為止江浙一帶所發現的最高等級的越國隨葬器物,同樣為是次考古發掘最重要的
收穫之一。其墓地的完整性和禮器、樂器組合的完整性,尤其是越國的禮樂文化中將中原系統和諧地融入
越系統中,為越國史的研究和解決一系列春秋戰國時期的重要學術課題提供了一批極為珍貴的實物資料,
對於越文化乃至百越民族史的研究和越國考古學的研究將起著積極的推動作用。
http://www.cuhk.edu.hk/ics/ccaa/talk9.htm
290世界@名無史さん:2007/08/26(日) 16:18:51 0


いやあ、弥生時代の江南の江蘇省無錫の越國の土トン墓からは、

楽器やら、玉器やら、酒器やら、原始青磁やら、印紋硬陶やら、鈕やら、
甬鍾やら、磬やら、ロ于やら、丁寧やら、勾やら、鈴形器やら、具座やら、
佩玉やら、龍形佩やら、雙龍佩やら、龍鳳佩やら、龍首珩やら、龍形珩やら、
琉璃釉盤やら、蛇玲瓏球形器やら、羊角器やら、璧やら、越式鼎やら、
筒形やら、盅やら、器蓋やら、鎛やら、

もうさーっぱり見た事も聞いた事もない代物まで、もうありとあらゆる
摩訶不思議な物や文様が、出るわ、出るわ、出るわ、出るわ・・・

何でこんなイイモン、日本の弥生遺構から出んのやろ?(ウルトラ嘲笑)

291世界@名無史さん:2007/08/31(金) 23:54:09 0
この人は相変わらずだな
292世界@名無史さん:2007/09/02(日) 19:19:01 0

●福建浦城管九土墩墓群发掘取得重要成果


本报讯 去年1—12月,在浦南(浦城—南平)高速公路的工程建设中,福建博物院
与福建闽越王城博物馆联合组成考古队,对位于浦城县管九村的土墩墓群进行了发掘,
获得了一批重要资料和成果。

此次发掘清理了社公岗由北向南延伸的长条形山脊上的6座土墩(浦社D1—D6);
洋山岗顶自东面的山坡地上的10座土墩(浦洋D1—D10);麻地尾U形岗脊和坡地上的
12座土墩(浦麻D1—D12);另在大王塝和社公岗的北侧晒谷坪山岗上也各清理了
一座土墩(浦晒D1)。
293世界@名無史さん:2007/09/02(日) 19:22:58 0
土墩地表隆起大多数比较明显,平面形状为椭圆形、方圆形和圆形。现存土墩高度约2、
个别约1米。社公岗、洋山的土墩封土多由红黄粘土堆筑而成,麻地尾多由质地较松散的
含砂黄灰土堆筑而成,无明显的夯筑迹象,从土墩周边的一些迹象分析其封土基本取自
土墩周围附近,封土中包含有陶片和石器等,陶片多以印纹硬陶和素面硬陶以及K衣陶
为主,也见有一些夹砂陶和陶纺轮,石器有镞、锛、砺石等。

此次已发掘的30余座土墩墓中一墩二墓的有4座,其余的皆为一墩一墓。从墓葬的形制又
可分为长方形浅坑、带墓道竖穴土(岩)坑和平地掩埋。墓葬均没有发现骨架及葬具等痕迹。
其营建过程是将上岗地面或清至风化岩山体,略作平整,有的局部垫以红褐土,有的以原山
修坡地,挖成长方形墓坑。共出土随葬器物230余件,主要器形有豆、罐、尊、瓮、盂、
碟和印纹硬陶罐、簋、豆、尊、盅以及青铜短剑、矛、戈、匕首、箭镞和锛、刮刀等组合。
294世界@名無史さん:2007/09/02(日) 19:26:25 0
一、社公岗墓葬区,发掘6座

PSD1M1土墩平面略呈方形,东西长18、南北宽16、中心高2米。出土随葬器物5件,
有青铜短剑、矛、箭镞、刮刀和原始青瓷三系尊。
PSD2M1土墩平面呈方形圆角,东西长22、南北宽20、外形高2—3米。为长方形墓坑,
出土随葬器物15件,有陶尊、原始瓷豆及青铜戈、矛、锛、镞和石枕等。
在M1的外围清理出开口于不同层面的早期墓葬共8座,多为无墓圹平地掩埋和无规则
浅坑形制,出土随葬陶器29件,均为K衣陶和印纹陶,成组和一线摆放。
PSD4M1土墩平面呈椭圆形,东西长22、南北宽19、高1.9—3.5米,带墓道竖穴土
(岩)坑墓,出土随葬器物9件,分布在墓室西北角和南到东部。
PSD5M1土墩平面略呈方圆形,直径约17、中心高1.6米。出土随葬器物3件,
为原始瓷器,有三系尊、罐和陶罐。
PSD6M1土墩平面略呈方圆形,直径约17、中心高1.8米。底面中部为长方形
卵石床墓,仅出土1件青铜器残片。
295世界@名無史さん:2007/09/02(日) 19:29:55 0
二、洋山墓葬区,发掘11座

PYD1M1土墩平面呈方圆形,南北长18、宽16、中心高1.8米。长方形墓坑,墓坑底满铺卵石,
墓坑北壁沟槽上发现残存较整齐的木炭立柱11根,转向西壁4根,立柱被烧毁程度不一,
高低不齐。出土随葬器物14件。从木炭柱的排列及烧毁的情况看,墓葬是有椁室的木椁墓,
墓室内曾经起火,未烧的椁板立柱腐朽无存。
PYD3M1土墩平面呈不规则方圆形,东西长15、宽13、中心高1.8米。长方形浅坑墓,出土
随葬器物8件,分布在墓室的东北面及西南角。
PYD4土墩平面呈不规则方圆形,直径14—15、中心高2.1米。发掘清理了PYD4M1和PYD4M2。
M1下压M2墓口,呈长方形浅坑,出土随葬器物8件,均为印纹陶,多为桶形罐。M2坑口呈
长方形,被M1所压,底部满铺较均遠I卵石。出土随葬器物3件。
296世界@名無史さん:2007/09/02(日) 19:33:52 0
三、麻地尾墓葬区

PMD2M1土墩平面呈椭圆形,直径16—18、中心高1.6米,长方形墓坑,出土随葬器物11件,原始瓷为豆、
罐,印纹陶为罐,纹饰为席纹,还出有纺轮和青铜矛、剑、戈等。
PMD3土墩平面呈方圆形,向上逐渐圆收成馒头状,直径约12、中心高约1.7米;发掘清理了叠压墓
PMD3M1和PMD3M2。PMD3M1长方形浅坑墓,出土随葬器物5件,分布在墓底南侧东部。有罐、豆和杯。
PMD3M2为带墓道竖穴石坑墓。坑口平面呈“凸”字形,墓室坑口南部东壁被M1打破。墓道为平底,
底面铺一层厚约15厘米的粗砂石。墓坑口平面呈圆角长方形,底部为较平整的风化岩石面,北沟西部
及西沟沟底面靠坑壁清出3处斜向墓坑外的圆洞遗存迹象,应是起排水的作用。出土随葬器物19件,
器物有罐、盆、尊、豆、簋、壶、杯、纺轮等。印纹硬陶多为罐,纹饰为拍印席纹。墓坑后壁(北壁)
中部和东壁中部各清出壁龛一个,北龛为半圆形。在龛上口部出土一组陶器4件,均为不同形体罐,
纹饰为拍印勾连雷纹,纹大双线棱格内饰星加鼓点,棱格间为锯齿纹。东龛为近圆形,未发现遗物。
PMD4土墩平面呈圆形,向上逐渐圆收成馒头状,直径13、中心高1.4米。在土墩的中部发掘清理了东北
—西南并排的墓坑PMD4M1和PMD4M2。PMD4M1为长方形浅坑墓,出土随葬器物3件,有原始瓷罐和陶罐,
纹饰为弦纹与戳点纹组合、席纹等。PMD4M2为带墓道浅石坑墓,坑口平面呈“凸”字形,长方形墓坑,
出土随葬器物3件。
297世界@名無史さん:2007/09/02(日) 19:41:08 0
四、晒谷坪墓葬区,发掘1座

晒谷坪1号墩(PSD1M1)在社公岗的北侧,为相连的小山岗,土墩略凸显呈不规则圆形,
直径9—11米。带斜坡墓道竖穴土(岩)坑墓,出土陶罐3件和青铜短剑1把。
管九土墩墓的发掘清理,填补了中国南方地区土墩墓分布区域的空白。我国先秦土墩墓
主要分布在长江以南的浙江、苏南、皖南(江西近年来也有一些发现)地区,福建以往没
有发现,此次浦城仙阳镇管九发现的30余座土墩墓,填补了这一空白。此次发掘出土了
一大批相对完整的青铜器、原始青瓷器、印纹陶器组合,年代约在西周—春秋阶段,填补了
福建地区该阶段考古学研究的许多缺环。出土的40多件青铜器,是福建地区一次性出土
青铜器最多的考古发现;7件造型精美的越式青铜剑,在全国首屈一指。这批西周—春秋的
土墩墓以平地掩埋发展至浅坑并向深坑过渡,反映了西周—春秋土墩墓的发展演变脉络。
它们都打破或叠压在夏商时期的墓葬之上,对研究土墩墓的发展演变有着重要意义。
http://www.ccrnews.com.cn/100027/100028/8206.html
298世界@名無史さん:2007/09/02(日) 19:44:49 0




尊?????瓮?????盂?????簋?????盅?????
盆?????原始青瓷?????印纹陶?????雷纹?????
匕首?????刮刀?????


弥生時代の華南の福建省の土トン墓さえもこの有り様(嘲笑)



299世界@名無史さん:2007/09/03(月) 20:07:49 0

●八塔台古墓群

這一古墓群位于曲靖市區東12公里的珠街鄉董家村,地處緩坡地帶,由8個相傍
而又獨立的橢圓形封土堆組成,總面積約5000平方米。

據清咸豐二年《南寧縣志》稱,“八塔台在城東……漢諸葛武侯建以鎮地脈。
”這里說的意思是,當年諸葛亮揮戈征南至曲靖南盤江流域“七擒孟獲”,
在這里築土設點將台,形似塔基,且有8個,便稱“八塔台”。其實,
從《史記•西南夷列傳》看,“其旁(指滇國)東北,有勞浸、靡莫,皆同姓相扶。
”珠街八塔即是支書所稱的“勞浸、靡莫”聚居地。

1977—1982年,雲南省文物工作隊在曲靖文化管理部門配合下,對八塔台古墓群一、
二號堆進行7次發掘。一號堆發掘完畢,二號堆發掘了一半,共發掘出各個時期的
墓葬數百座,其中火葬墓304座,土坑豎穴墓220座,封土堆墓30余座,這些墓葬的
形成年代遠比諸葛亮生活的年代早,約為春秋時期或者更早。
300世界@名無史さん:2007/09/03(月) 20:10:44 0
從發掘的情況看,墓群類型多樣,交叉堆積,互相滲透,形成了上自先秦
時期,下至宋元明朝,長達2000余年的7米之高的文化堆積層。在春秋戰國
時期的30余座封土墓和土坑豎穴墓中,出土了一大批青銅時代的器物,
這在雲南青銅考古中尚屬首次發現。已發掘的墓葬除5座土坑豎穴墓分布
在一號堆外,其余的500余座均出土于二號堆約700平方米的面積內。
這一面積僅是二號堆底部面積的一半。據考古工作者介紹,堆疊的形成
原因是,最早的先民死後埋葬在此,形成高于地面的土堆,為封土堆墓群;
其上又埋葬了土坑堅穴墓群;最後又埋上了許多的火葬墓。從當時發掘
後的地層剖面上可以清晰地看到,饅頭狀的封土堆互相重疊,長方形的
土坑墓又打破了下層的封土堆。現在已發掘的墓葬中,有30余座屬春秋
戰國時期的封土堆,220座屬戰國至兩漢時期的,304座則屬宋、元、明
時期的火葬墓。
301世界@名無史さん:2007/09/03(月) 20:14:06 0
上述發掘出土文物1000余件,有兵器、生產工具、生活用品、裝飾品、樂器
和貨幣等,包括青銅、鐵、陶、玉、石等器物。器物中的兵器有刀、劍、戈、
矛;炊飲器有鼎、釜、罐碗等;裝飾品有鐲、珠、扣飾;樂器有銅鼓、鈴等。
這些殉葬品的種類數量如此繁多,令人驚嘆。在扣飾中有一件雙牛浮雕,
工藝水平極高,顯示了滇東一代古代勞動人民的高超技藝。

八塔台古墓群的發掘,進一步不可爭辯地證明了曲靖是雲南古代文明的搖籃
之一。早在兩干多年前,這里的人民便創造了燦爛的文化。生活在這里的
人類已進人青銅時代。許多文物既具有中原文化的色彩,又保持了滇文化的
風格,同時充分說明,遠在先秦時期,曲靖便是全滇鎖鑰,是中原文化傳人
雲南的重要通道。同時,古墓形制的多樣性和殉葬品的多樣性,表現了雲南
不同時期埋葬風俗的變化,也暗示著雲南民族成分的變遷。
http://www.yn678.com/big5/zt_show.php?ztid=279&ztkind=10
302世界@名無史さん:2007/09/03(月) 20:18:47 0




貨幣?????鐲?????扣飾?????鼎?????釜?????
銅鼓?????鈴?????雙牛浮雕?????


弥生時代の華南の雲南省の古墳群さえもこの有り様(嘲笑)



303世界@名無史さん:2007/09/04(火) 20:18:34 0

●广西两个古遗址出土罕见双耳陶器及靴形石斧

考古人员日前在广西马山县金钗镇独秀村尚朗岭和六卓岭两个古遗址,发掘出土
数百件新石器时代晚期的石器、陶器,其中双耳陶器和靴形石斧在广西颇为罕见。

1992年发现的尚朗岭和六卓岭遗址位于珠江主要支流——红水河岸边,距今
约有3000至4000年历史,分布面积超过3万平方米。2004年
4月16日,广西壮族自治区文物工作队与南宁市博物馆及马山县文物管理所
开始对这两个遗址进行大规模抢救性考古发掘。

6月3日,在考古人员驻地,记者看到一枚形状如靴子的石斧,这把小巧的石斧正反
两面均磨制得非常光滑,做工相当精致。还有一个残损的陶器,陶器口端有排球
大小,两边各有一只耳朵,非常精巧。
304世界@名無史さん:2007/09/04(火) 20:22:47 0
广西壮族自治区文物工作队馆员何安益介绍说,截至目前,考古人员已在这两个
遗址发掘出土了数百件具有地方特色的文物。石器类既有生产、生活工具,
也有装饰品,主要是石斧、石锛、石拍、石网坠等器型。陶器烧制火候高、
器壁薄,有圈足器、三足器、圈底器等器型,饰纹较为丰富,一般陶器装饰
有绳纹,部分则有曲线、旋涡纹、勾连纹等。

据了解,双耳陶罐及靴形石斧是云南新石器时代的典型器皿,与广西
本土陶器和石器有明显差异,这些器物在红水河流域出现说明三四千年前
两地的古人类曾经有过交往。
http://www.china.org.cn/chinese/CU-c/580977.htm
305世界@名無史さん:2007/09/04(火) 20:24:52 0




双耳陶器?????靴形石斧?????圈足器?????
三足器?????圈底器?????双耳陶罐?????


弥生時代開始頃の中国南端の広西壮族自治区さえもこの有り様(嘲笑)



306世界@名無史さん:2007/09/05(水) 21:00:53 0
朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦やハトムギのプラントオパールも稲と同時に
検出されており、小麦が中国より数千年も前から栽培していた事に、ハトムギが
通説の江戸時代より5500年以上も前から栽培していた事になってしまい、
プラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
307世界@名無史さん:2007/09/06(木) 19:11:57 0
高床式倉庫はシベリアやアムールにも見られる。


◎ケート Ket

中央シベリア、エニセイ川中流で伝統的漁撈・狩猟生活を送るケートと、
押し寄せる近代文明の点描。

自然環境(森、川、川岸の村)、川岸のチュム骨組に樹皮布を掛ける
(煙突は真上に出る)、製作中丸木舟に穴を開ける(火おこしの形を
した錐)、川に漕ぎ出す、魚(トナカイ肉?)を干す、日常生活
(洗濯物、子供のブランコ、食事、墓)、呪いの杭にトナカイの頭蓋骨
が掛かっている、★高床式蔵小屋★、素晴らしいアクセサリーの着いた
シャマンの枠太鼓、
http://tokyocinema.net/centralsiberialist.htm
308世界@名無史さん:2007/09/06(木) 19:15:11 0

ハントィ:自然環境、家屋等に関すること(家の飾り・トナカイ頭蓋骨、
デコイ、★高床式の狩猟用倉庫・鼠返し★、季節物衣料の取出し)

コミ:自然環境、家屋(木造家屋、隙間を苔で埋める)、狩猟(移動に
スキー、犬、鳥を餌に罠を仕掛ける、狩人寝床の用意、毛皮を剥ぐ)、
★小型高床式倉庫(狩猟用荷物、獲物を仕舞う、鼠返し)★、歌

マンシ:自然環境、家屋(丸太小屋、東側の外壁についた呪いの
ような物)、★高床式倉庫★、漁猟舟の櫂類、創生期に関する昔話、
http://tokyocinema.net/westsiberialist.htm
309世界@名無史さん:2007/09/06(木) 19:18:40 0

これは銛を使ってクジラを捕っている線画だが、アム−ル川下流域と
サハリン北部のニブフもまた、板をつなぎ合わせた板船に5-6人で
乗り込み、アザラシやサケなどの捕獲を生業にしていた。
地吹雪のなかを訪問した北方民族館には、このニブフに代表される
北海の海辺と河川の民の風俗や生活用品の数々が陳列されていた。
彼らは、冬には保温性の高い竪穴式住居に住み、夏には魚干し棚や
★貯蔵庫のある高床式住居★で暮らし、衣装には木綿や魚皮で作った
布を用い、白樺皮製の帽子をかぶり、アザラシ皮や魚皮の靴を
履いていたようである。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/7754/liuhiyounoshiluet.htm
310世界@名無史さん:2007/09/08(土) 16:33:50 0
ウリチ人とニブフ人は一年中定住村の住居と作業場兼用の建物に住んでおり、
ナナイ人、ネギダル人、オロク人、オロチ人、ウデゲ人は、冬は森の中の
定住村に住み、夏は魚の採れる川岸の季節村に移りました。定住村も季節村も
川岸に沿って細長く展開し、それぞれの住居は互いに離れており、そばには
★高床式の納屋★がついていました。
http://www.npec.or.jp/northeast_asia/cultural/index.html

その他に、水がめ、料理するためのもの、魚皮なめし具、臼、織物を
する道具、糸まき、肉や魚を料理する時に使う道具、はし、食べ物を
保存するためにつくられた★高床式の倉庫★の模型、木の枝と泥でつくられる
家の模型、漁や交易に使う船(実物ならば700キロも載せられる)の模型、
鹿や魚を捕る為の道具などがありました。
http://members.jcom.home.ne.jp/lerrmondream/eastnanai.htm
ナナイ人(ホジェン)の高床式倉庫(模型)
http://members.jcom.home.ne.jp/lerrmondream/nanai181.jpg.jpg
311世界@名無史さん:2007/09/08(土) 16:43:06 0

ナナイ人は、現在400人程度いてハバロフスク市内から約1時間15分
ぐらいのアムール川の近くに集落があります。東洋系の顔でなぜか親しみを
感じました。生活は国から、援護を受けていて仕事はしなく、川で釣り
ばかりしているそうです。家は、小さくてみすぼらしく、貧しさが感じられ
ました。村長は特別扱いみたいで、家も立派で学校より大きく丘の上にあり
権威の象徴を感じました。
http://www.toya-kohei.jp/cgi-bin/diary/wwwnikki.cgi?view=kako20050807.html

ナナイ人の高床式食糧倉庫
http://www.toya-kohei.jp/cgi-bin/diary/graph/20050807-1123390934.jpg
312世界@名無史さん:2007/09/08(土) 16:48:26 0
高床式建物を、

主に住居として利用しているのが南方系の高床式建物文化。
主に倉庫として利用しているのが北方系の高床式建物文化。

日本の弥生人たちが利用していた高床式建物文化は、
住居、倉庫、さてどっち?

ちなみに江南の河姆渡遺跡の高床式建物文化は住居の方である。

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%B2%CF%D5%A8%C5%CF%B0%E4%C0%D7%A1%A1%B9%E2%BE%B2%BC%B0&fr=top_v2&tid=top_v2&ei=euc-jp&search.x=1
313世界@名無史さん:2007/09/09(日) 23:44:31 0
鳥居の登場は8C。


鳥居の起源については諸説あるが、確かなことは分かっていない。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から引きずり出す
ために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を
置いたことが起源であるとする説、インドの仏教やヒンズー教に
みられるトラナや中国の華表など海外に起源を求める説などがある。
いずれにせよ、8世紀ごろに現在の形が確立している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85

8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
314世界@名無史さん:2007/09/09(日) 23:48:48 0
半月型石包丁は遼寧・満州南部を経由している。




龍山文化(紀元前30世紀−前20世紀)の特徴的な半月形石刀が、
吉林、永吉、?安、?春、通化、桓仁などで出土。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/tungus-tsusi/tungus-tsusi-1-gaiyou.htm



315世界@名無史さん:2007/09/10(月) 20:44:00 0
丸木弓は弓矢が普及する中石器時代の北欧の遺跡から出土している。


弓矢が普及するのは、中石器時代(→石器時代の「中石器時代」)以降と考えられている。
矢は、旧石器時代の槍(やり)や投げ槍にくらべて携帯に便利であり、動物相の変化に
より小型獣を狩猟対象とするようになった当時においては格段に効率的な狩猟具であった。
なお中石器時代に属するマグレモーゼ文化期(前8000〜前5600年)の弓として、
ホルメゴール遺跡(デンマーク)からイチイガシ(→ カシ)製丸木弓が全形で出土しており、
当時の代表的な遺品とされている。

http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_1421501287/content.h
316世界@名無史さん:2007/09/10(月) 20:47:24 0
日本刀が完成するのは平安時代後期頃で、それまでは鉄剣や鉄刀であった。


古墳時代には武器の鉄製化も進んだ。刀剣では、それまでの銅剣に代わって
鉄剣が作られた。一般的に、両刃を剣とし、片刃の刀と区別している。
なお、古墳時代の刀剣は、のちの日本刀に見られるような反りはない。
刀に反りができるのは、平安後期以後である。

http://www.yurihama.jp/town_history/2hen/1syo/04040400.htm
317世界@名無史さん:2007/09/11(火) 15:45:20 0
瓦の登場は6C。百済から伝わり、飛鳥寺で初めて使用された。


地球上に瓦が誕生したのはおよそ2800年前の中国とされる。日本には
西暦588年、百済から仏教と共に伝来。飛鳥寺で初めて使用された。
様式は平瓦を並べ、その上に丸瓦を並べる様式である。飛鳥時代、
瓦が使用された建物は寺院に限られていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%93%A6

西暦538年(宣化三年)に、百済の聖明王が釈迦仏像や経典等を朝廷に
贈り仏教が公伝されました。間もなく瓦博士も渡来して造瓦の方法を伝え、
のち西暦588年(崇峻元年)に蘇我馬子が飛鳥の地(奈良県高市郡
明日香村)に法興寺(飛鳥寺)を建立しました。この瓦が日本最古の古瓦の
遺品とされています。「素弁蓮花文鐙瓦」様式です。
http://www.rakuten.co.jp/butsuzoumen/1788529/
318世界@名無史さん:2007/09/11(火) 15:48:59 0
歌垣は8C頃に筑波あたりで始まる。


日本の古代の歌垣の場として知られている場所には,摂津の国「歌垣山」,
大和の石榴(つば)市・軽市,肥前杵島岳,などがあるが,筑波山は,
その歌垣の場の最も古く,最も著名な場のひとつであった。

その起源は,『常陸国風土記』によれば,神祖の尊が新嘗祭の夜に子供
である富士山を訪ね一夜の宿を請うたが断られ,別の子である筑波山に
宿を請うたところ,心良く招き入れられ,歓待を受けた。神祖の尊は,これを
いたく喜ばれ,「愛しき子の坐す宮は,高くそびえ,日々とともに,人々が集まり
ことほぎ,飲食(みけ)豊かに,代々絶えること無く,日に日に弥栄え,
千代万歳に,遊楽は尽きることがないであろう」と詠われた。これより後,
富士山は常に雪に覆われて登れず,筑波山には人々が行き集い,歌や舞が供され,
宴が繰り広げられるようになった・・・とされている。
http://tamagaki.hp.infoseek.co.jp/kume1.htm
319世界@名無史さん:2007/09/11(火) 15:52:25 0
常陸国風土記(ひたちのくにふどき)は、奈良時代初期の713年
(和銅6年)に編纂された、常陸国(現在の茨城県の大部分)の
地誌である。

元明天皇の詔によって編纂が命じられた。編纂者は詳しくは不明だが、
藤原宇合や高橋虫麻呂らが関与してると言われている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98

713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
320世界@名無史さん:2007/09/12(水) 20:54:10 0
鵜飼は満州や朝鮮半島にも見られる。


満州の京都ともいわれた古都吉林の松花江の鵜飼は6月から9月までの日中に
行われる。鵜縄をつけずに川に放った鵜が魚をくわえると網で船にすくい
あげて吐かせるという満州式の鵜飼であった。
http://www.jiyuu-shikan.org/shoseki_video4.html

日本の鵜飼いは、鳥居氏に便乗すれば、江南よりも朝鮮や満州の
北方民族から伝わったのかもしれません。鴨緑江や松花江などでも
鵜飼いは見られます(注9)。
http://www.han.org/a/half-moon/hm080.html
321世界@名無史さん:2007/09/12(水) 21:06:38 0
日本の鵜飼は中国よりも古い。


鵜飼いの歴史は古く、『日本書紀』神武天皇の条に鵜養部のことが見え、
『古事記』にも鵜養のことを歌った歌謡が載っている。また中国の史書
『隋書』開皇二十年(600年)の条には、日本を訪れた隋使が見た変わった
漁法として紹介されている。

隋書の書かれた時代には鵜飼いは中国人にとって珍しい漁法だったが、
その後中国においても鵜飼い漁法が定着した。

確実な記録として最古の物は、10世紀の文人・陶穀が残した『清異録』
(965年)において、当塗(安徽省太平府の都市)の漁民が「魚を捕らえる
のに非常に機敏な鵜を使う」と記述されているのが最初である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B5%9C%E9%A3%BC%E3%81%84
322世界@名無史さん:2007/09/13(木) 21:21:42 0
貫頭衣は単に人類最初の服装の形で、古代から現代まで世界中に見られる。


●貫頭衣 (かんとうい)
一枚の布を2つに折り、その折り目の中央に穴をあけ、そこから頭を貫いて
(通して)衣服としたもの。エジプト時代から見られる原始的な衣服の
形式である。ポンチョやガラビアなどもこの一種。
http://style.beauty.yahoo.co.jp/fashion/dictionary/232_4.html

人類最初の服装の形は一枚布であったり、一枚布の真ん中に穴を開けて
被るという貫頭衣というシンプルな形であった。
http://homepage1.nifty.com/mottoi/kokusai8.htm

人類の衣服の工夫の中で最も単純な基本形として、貫頭衣の分布は広いが、
南米アンデス諸国に見られるポンチョがその代表的なものとされている。
http://www.h6.dion.ne.jp/~fu35/minzokuHP/ajia/indonesia.htm
323世界@名無史さん:2007/09/13(木) 21:25:19 0
西洋(エジプト文明、ギリシア文明、ローマ)では、もともとの
衣服は男女とも布を体に巻き付ける形式か、貫頭衣(大きな布に穴を
開け、そこから頭を出して着る)の形式でした。スカートみたいに
下が空いている服が、先にあったわけです。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=884804&rev=1

古代ローマ時代の貫頭衣のような、一枚の布の頭の部分をくりぬいた
だけの服を着ていた。
http://home.att.ne.jp/red/senseofwondr/mou2.htm

古代中国もローマもギリシャも布を纏うか貫頭衣であった。
http://www.lcv.ne.jp/~yokota/contents/mumble/ykt/970410.htm

ローマ時代のイタリアでは男性はトーガという貫頭衣
http://www.psats.or.jp/psats.or.jp/column/nakamura027column.html
324世界@名無史さん:2007/09/13(木) 21:31:37 0
刺青はBC50Cには既に登場している。


紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて?

日本人が最初に入れ墨を取り入れたであろうと想像できる縄文時代の土器が
発掘されています。縄文土器にあしらわれた顔には埋葬者を守る意味合いを
持つ神秘的な「入れ墨」のようなものが認められ、これが入れ墨として
記録されている世界最古のものではないかと想像されています。
また、日本原住民族であるアイヌには優れた入れ墨技術があったものと
思われます。
http://www.ta2.com/tattoohistory.html
325世界@名無史さん:2007/09/15(土) 15:03:23 0
風呂は6Cに仏教と共に朝鮮から伝来し、最初は蒸し風呂であった。


蒸気浴の方法を世界的にみると、もともとイラン系の遊牧民スキタイ民族の
間で行われていたとか。日本には6世紀半ば、仏教の伝来とともに朝鮮を
経て伝わりました。仏教では、「沐浴(湯や水を浴びて身を清めること)」の
功徳を説いており、七堂伽藍(寺として備えるべき7つの建物)には浴堂が
加えられており、仏教伝来時に風呂もセットで伝わりました。「枕草子」や
「今昔物語」にも、焼石に水をそそぐ蒸し風呂が普及していたことが見えます。
以来、江戸時代初期頃まで、日本では蒸気浴が主流だったそうです。
http://homepage3.nifty.com/miya-s/myhome-page.files/Miya's_008.html
326世界@名無史さん:2007/09/15(土) 15:09:40 0
抜歯は世界中の原始社会で見られるが、日本では先土器時代から行われ、
風習としては4000年前頃に仙台湾周辺で始まる。


抜歯の儀式は、世界の狩猟採集民族のなかでは、比較的あたりまえに
行われていて、それほど奇習というわけでもないのです。現在でも
アフリカ、東南アジア、オーストラリアの一部の民族に残っています。
http://www.city.fujiidera.osaka.jp/rekishitanbou/kodai/kodai5/kodai-64.html

原始・古代の世界中に、抜歯風習はあったという。ことに長く続いたのが、アフリカ、
中国、日本だとされてますね。中でも目立ったのが、縄文・弥生の日本列島。
http://www5.ocn.ne.jp/~vorges/sub12..html

歯を抜いたり、歯を削り歯を飾る風習は、日本だけでなく中国、台湾、
アジア、オーストラリア、アフリカにもみられた。
http://www.dent-kng.or.jp/chishiki/museum/hakubutukan/wa_bassi/index.htm
327世界@名無史さん:2007/09/15(土) 15:13:42 0
佐倉市にある国立歴史民俗資料館の春成秀爾氏によると、抜歯そのものは
縄文時代以前の先土器時代にもあるが、風習としての抜歯は約四千年前頃に
東北地方の仙台湾周辺ではじまり、それ以後に関東地方をはじめ全国に
広がったという。国立歴史民俗資料館前館長の佐原真氏によると、こうした
抜歯は現在でも世界のいくつかの民族の間に風習として残っており、
子どもから大人になるための儀礼(成人儀礼)としての事例、近親者が
亡くなると歯を抜く事例、勝利の明かしに捕虜から歯を抜く事例などが
あって、このうちも最も多いのは成人儀礼にともなう抜歯であるという。
http://www.ichiyomi.co.jp/rekisi/index4.html
328世界@名無史さん:2007/09/16(日) 18:37:11 0
魏志倭人伝には倭人が断髪をしていたなんて書かれていない。
倭人の男子は皆、髪を結って露わにし、木綿を頭に巻いていたと書かれている。




男子皆露紒 以木緜招頭

http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/1/yayoi_2.htm
http://www.lib.nakamura-u.ac.jp/e-lib/wa/wa.pdf



329世界@名無史さん:2007/09/16(日) 18:47:45 0
糸引き納豆の登場は室町時代頃、なれずしは3C頃。


平安時代の文献にも塩辛納豆の名は残っているが、一般に広まったのは
室町時代以降でこの頃から糸引き納豆も登場しており区別するために
塩辛納豆を久喜と呼び糸引き納豆を単に納豆と呼ぶようになった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%8D%E8%B1%86

なれずしの歴史は古くて、紀元前には中国で食べられていたらしいんだ。
それが三世紀頃に日本にも伝わって、奈良時代には文献にも登場する。
http://www.kouryu.or.jp/asobi/2003syoku/d/3.htm
330世界@名無史さん:2007/09/17(月) 16:11:04 0
●灰陶(かいとう)

中国、殷代以前に始まる陶質土器。焼成の最終段階で、空気をあまり送らず
窯の中を還元状態にするため灰青色を呈する。殷・周代を中心に漢・唐の
頃まで日常の容器として広く使われた。
http://makurada.com/modules/pukiwiki/195.html

●かい‐とう【灰陶】
中国、新石器時代から殷(いん)代に盛行した灰青色の土器。多くは表面に
櫛目文(くしめもん)や縄蓆文(じょうせきもん)をもつ。日常の容器として
唐・宋のころまで使用された。
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?stype=2&dtype=2&p=%B3%A5%C6%AB
331世界@名無史さん:2007/09/17(月) 16:14:51 0
●原始磁器 げんしじき アジア 中華人民共和国 AD

中国古代の釉(うわぐすり)をかけた硬陶。
http://mobile.goo.ne.jp/search.jsp?MT=%BC%A7%B4%EF&DC=10&CONTENT=&FLT=off&HOST=www.tabiken.com

●灰釉陶 (原始磁器、原始青磁)

紀元前1600年に印文硬陶の流れの中で、1200度以上の高音焼成と上薬を
使用した陶器が発生する。その上薬(釉)が、灰・カオリナイト
(カオリナイトを含む白色化粧粘土)・石灰などを調合した灰釉である。
表面は灰色から灰緑色を呈する焼物である。日本ではまだ縄文文化の
解体も始まってはいない。
http://www4.ocn.ne.jp/~napland/yakimono/chire.html
332世界@名無史さん:2007/09/17(月) 16:17:48 0
約6500年前には既に灰陶時代に入り、約4200年前には既に施釉陶時代に入る。



黄河中・上流域ではB.C.4500年に老官台文化(陝西省)が誕生し、
北首嶺遺跡などからは灰陶が出土している。

http://www.moco.or.jp/jp/intro/intro_3/index_f.html


中国最古の原始青磁は、今から約4200年前に山西省夏県の竜山文化遺跡で
発見されたものである。

http://jp.chinabroadcast.cn/chinaabc/chapter20/chapter200313.htm
333世界@名無史さん:2007/09/17(月) 16:22:27 0
334世界@名無史さん:2007/09/18(火) 23:03:23 0
●印文土器

中国南東部で新石器時代から漢代に使われた土器。
幾何学文様のあるスタンプを打った灰色の壺などで、軟陶と硬陶の別がある。
http://makurada.com/modules/pukiwiki/75.html


長江流域では約6000年前に既に印文土器(印文陶)が登場している。


◎大渓文化( B.C.3990±260年〜B.C.3380±145年)

主要な文様には印文・水平周回文・篦描き文・貼付文・透し彫・彩絵があり、縄文は見あたりません。
このうち、印文は大渓文化の最も特徴的な文様で、円形・半円形・三日月形・三角形・長方形・方形・
工字形などの各種様式の「小型スタンプ」を器表に深々と押印しています。
http://kohkosai.web.infoseek.co.jp/kaisetu/14-1taikei.htm
335世界@名無史さん:2007/09/18(火) 23:07:17 0
雷文・方格文・条痕文・S字文など、印文土器にスタンプされた
幾何学文様(印文)が全く伝わっていない。


「印文硬陶」は一般的には、約1100 oCという高火度で焼成され、焼き締まった灰白色
で砂質の土器である。灰陶の一種で、新石器時代晩期にはじまり広東・福建・江西の
各地を中心に生産され、漢代まで生産が行われ、灰釉陶の母胎となった技法である。
胎土は4パ−セント程度の鉄分を含みその鉄の分量は、夾砂陶(きょうさとう=粗製土器)
や泥質灰陶より低くなっている。土器の表面には成形のための叩き文が残っているが、
その叩き文の文様は、雷文・方格文・条痕文・S字文として表れ、時として櫛の歯による
波状文の形をとる場合もある。高温焼成のため、器体に降りかかった灰が熔け、器中の
硅酸と化合し灰釉を生じる。色調は暗緑色を呈し、薄くて斑になったものと意識的に掛けた
のではないかとおもわれる。初期の硬陶は、青銅器のフォルムを写した倣銅陶器であったが、
殷時代後期には独自の器形が生まれはじめる。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
336世界@名無史さん:2007/09/18(火) 23:11:14 0
337世界@名無史さん:2007/09/19(水) 21:19:09 0
●三足土器(さんそくどき)

三本の足をもつ土器。各地の先史・原史時代の遺跡から出土。
特に、中国の竜山文化時代に盛行した鬲(れき)・鼎(てい)など。
後に青銅器製となる。
http://makurada.com/modules/pukiwiki/341.html

古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
338世界@名無史さん:2007/09/19(水) 21:22:39 0
1. 華南地域では農業の発達が遅かったため、土器の種類は多くありません。
2. 長江流域は約1万年前からすでに米が栽培され、約8000年前には稲作が発達しました。
土器は丸底が主流で、約6000年前には三足の鼎(かなえ)が登場します。
3. 黄河流域では、約1万年前から粟やひえの栽培が始まり、約7000年前以降には平底、
丸底、三足の土器が出現。 約5000年前から土器が一変し、中流域では灰色土器、
下流域では黒色土器が現れます。
4. 北方地域西北地方では、約6000年前以前の土器は発見されませんが、彩文土器が
発達したことが大きな特色です。
5. 北方地域東北地方では、約6000年〜5000年前に窯を使用し、彩文土器が出現しました。

これらをまとめると、中国新石器時代の土器づくりは約1万2000年前に始まり、各地域で形や
種類、技法、文様などがかなり異なります。また、農業の発達によって土器づくりの技術も
発達し、約6000年前には三足土器が登場。中国の漢時代まで代表的な土器の一つとなりました。
土器はもちろん日常生活用品でしたが、一部は祭りに関連したものと推察されます。
http://www.kaen-kaido.com/r_contents/manabu_event_frm04_2.html
339世界@名無史さん:2007/09/19(水) 21:27:56 0
340世界@名無史さん:2007/09/20(木) 18:39:41 0
●中国青銅器

古代中国では紀元前21世紀頃から青銅器文明は存在し、その後鉄器と
入れ替わる戦国までの数百年間に渡って、それぞれの時代背景を基に
形・文様・銘文に特色を残していきました。中国青銅器は他を圧倒する
ほど強くその存在を示し、祭器・礼器としての役割を十分に果たしていた
と容易に想像させられます。プリミティブな造形と繊細なまでの技巧が
うまく調和し、数千年もの歳月を経て、人間がつくった最高の美術品として
確立していきました。
http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html
341世界@名無史さん:2007/09/20(木) 18:42:46 0
見よ!

中国の青銅器のさまざまな器形が全く伝わっていない。



◎中国青銅器のさまざまな器形

http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-shape.html



342世界@名無史さん:2007/09/20(木) 18:47:26 0
●越式鼎


江南名物「越式鼎」(エツシキテイ)。中原の漢式鼎よりも足が長い。
陶製と青銅製がある。



越式鼎
http://www.npm.gov.tw/english/exhbition/han9909/handynisty/live/pictures/art16.gif



343世界@名無史さん:2007/09/21(金) 12:10:18 0
●中国青銅器の文様

「饕餮文」といった造形的に非常に優れた固有の文様とともに、
「龍文」「鳳凰文」「雷文」など現在でも使われている文様の原型が
編み出されていました。古代の人々の想像力の豊かさとそれを表現する
技巧の確かさが伝わってきます。

http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html
344世界@名無史さん:2007/09/21(金) 12:21:50 0
345世界@名無史さん:2007/09/22(土) 19:45:17 0
●金文

金文(きんぶん)とは青銅器の表面に鋳込まれた、あるいは刻まれた文字の
こと(「金」はこの場合青銅の意味)。中国の殷・周のものが有名。年代的
には甲骨文字の後にあたる。殷は青銅器文化が非常に発達した時代であり、
この文字を器の表面に鋳込む技術は門外不出となっていた。

金文は『史記』のような後世になって書かれた資料とは違い、完全な同時代
資料であるためこの時代を研究する上で非常に貴重な資料となっている。
しかし殷代の青銅器は古美術としてもきわめて高い価値があるため収集家など
がこれを所持することで一貫した研究が出来ないと言うことも起きている。

なお石などに刻まれた文章は石文と呼ばれ、一緒にして金石文と呼ばれる。
またこれらの研究者は金石家と呼ばれる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%96%87
346世界@名無史さん:2007/09/22(土) 19:57:12 0
●鳥書

春秋時代の中期から後期にかけて、東方列国の金文には地方色が
強くあらわれてくる。特に注目すべきのは、南方の越、楚などの
地方の主として武器において、非常に装飾的な文字を扱ったものが
現れる。この地域で用いられた書体には、筆画が非常に複雑で、
曲線が多いもので、各文字のところどころに鳥の頭を図案化した
ような形があるから、このような書体は「鳥書」(ちょうしょ)、
あるいは「鳥篆」と呼ぶ。
http://yupeihsu.at.infoseek.co.jp/syouten/kinbun.html
347世界@名無史さん:2007/09/22(土) 20:00:31 0
348世界@名無史さん:2007/09/23(日) 21:59:41 0
●古代中国の楽器


秦の統一以前の頃の楽器は史料に記載されているものが約70種もある。
『詩経』だけでも29種にふれており、打楽器には太鼓、鐘、鉦(しょう、
古代銅製の打楽器で、行軍の際に打ち鳴らしたもの)、磬(けい、銅製の
椀形の仏具と楽器)、缶(ふ、甕のようなもの)、鈴など21種があり、
吹奏楽器には簫(しょう、タテにして吹く長い笛)、管(さまざまな管楽器の
こと)、?(けん、土笛)、笙(しょう、いろいろな長さの十数本の竹の管で
作った吹奏楽器)など6種があり、弦楽器には琴、瑟(しつ)など2種のものが
あった。楽器の品種が多く増えたため、周(約前11世紀−前256年)の
時期には楽器を作る素材によって、金属、石、土、皮革、弦、木、匏
(ほう、瓢たんの実)、竹という8種類に分けられ、「8音」分類法と称された。
http://www.china.org.cn/japanese/144930.htm
349世界@名無史さん:2007/09/23(日) 22:02:35 0
●骨哨

河姆渡住処から160個骨哨が出土されて,今まで7000年の歴史があります。こんな骨笛は鳥類の
骨で作られ,骨管に1−3個の孔を磨き突いたから,鳥が鳴るような曲調を吹く事ができます。
同時の原始人は木下に隠れて,網を設置してから骨笛を吹くと,鳥らはこの音響を聞いてここへ
飛んでくるんです。これは道具でもあるし,簡単な楽器でもありますから,今までも一部分の
中国少数民族の狩り道具になっています。こんな原始道具はやはり今の竹笛になりました。
http://www.topqd.com/wj/chinayqs.htm

●磬

磬(けい)とは、中国で最も古い楽器である。石製の打楽器である。サヌカイトを叩くと金属音が
する。この石の長さ・厚みを変えて音階を奏でることができる。これを楽器として仕立てたのが
「磬」である。これを単独で使用することは希で、通常は音階順に8個、あるいはそれを2段並べて
16個台に懸けた「編磬」として用いたようである。殷代から楽器として使用されている。
http://www.page.sannet.ne.jp/to-okamo/guwanmi/kosen/kosen.htm
350世界@名無史さん:2007/09/23(日) 22:06:26 0
見よ!

古代中国のさまざまな楽器がさっぱり伝わっていない。
7000年前の河姆渡遺跡からある簫(タテ笛)の原型である骨哨に注目。


上から順に、簫、磬(編磬)、鐘(編鐘)、鐃、ロ于、鉦
http://www.szzwch.com/IMAGES/xiao.JPG
http://storage.kanshin.com/free/img_28/284331/k741978051.jpg
http://japanese.cri.cn/chinaabc/chapter20/images/bianzhong.jpg
http://www.miho.or.jp/booth/html/imgbig/00001190.htm
http://big5.huaxia.com/wh/whgb/wwdg/images/1639_0.jpg
http://www.kepco.co.jp/ICSFiles/artimage/2004/06/08/c_kpc891/kane_1.jpg

7000年前の河姆渡遺跡の骨哨
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_24_15.jpg
351世界@名無史さん:2007/09/24(月) 21:05:56 0
●越族 えつぞく

中国の長江中下流以南に広く分布していた民族。粤(えつ)とも書かれる。地域によって,於越(于越),
甌越(越東海,東甌),ビンエツ※注1※(東越),揚越,山越,南越,西甌(甌),駱越(駱)などが
あり,総称して百越(百粤)と呼ばれた。於越は春秋戦国時代に浙江省北半部を本拠に越という国を
建てた。甌越は浙江省南部の甌江流域により,ビンエツ※注1※は福建省ビンコウ※注2※流域を中心
とした。揚越は揚州にいた越で,西甌,駱越は広西壮族自治区,あるいは北ヴェトナムにまでひろがって
いたとみられている。秦代末期の混乱に乗じて,趙佗(ちょうた)が番禺(ばんぐう,広東省広州市)を
都に南越(南粤)国を建て,5代97年のあいだつづいたが,漢の武帝の前111年(元鼎6),漢に滅ぼされた。
越族の習俗については,入墨・断髪などが知られ,文化については,新石器時代から春秋戦国時代まで
盛んにつくられた幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている。
http://www.tabiken.com/history/doc/C/C080C100.HTM
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
352世界@名無史さん:2007/09/24(月) 21:15:09 0
印文土器は中国南端の広西壮族自治区や台湾まで発見されている。


近年になって広東、広西、福建、台湾、浙江、江蘇、安徽、湖南、湖北などの
地方で、続けさまに新石器時代末期から秦漢以前にかけての、幾何学的印紋の
ある陶器と石器を特徴とする文化遺物が発見されている。
http://www.beijinginfinity.com/culture/jieri/duanwu.htm


鉦は主に湖南省、江蘇省、浙江省などの華中以南で出土し、
春秋時代には南方の百越(越族)の諸地で甚だ流行した。


鉦 打擊樂器,形體似鐃,但比鐃高大和厚重,主要出土於湖南、江、浙一帶。
徵都是春秋時代的樂器,在南方百越諸地則甚流行。
http://www.hawh.cn:82/gate/big5/www.hawh.cn/html/20060420/256406.html
353世界@名無史さん:2007/09/24(月) 21:17:58 0
354世界@名無史さん:2007/09/25(火) 19:23:59 0
北方アジアは一切抜きの偏向調査で作為的に中国・朝鮮に誘致していた
スットボケ遺伝学者(嘲笑)


宝来センセイによると、韓国や中国にはそれぞれドミナントなミトコンドリアDNAがあるのに、
日本本土では、とくにドミナントなものがない。つまり系統的にさまざまな人たちから成り立って
いるのである。また、これまで、大陸から渡来した弥生人によって分断され、北に追いやられたのが
アイヌ、南に追いやられたのが琉球人といわれてきた。しかし、アイヌと琉球は少なくとも1万2000年
以上まえに分岐しており、紀元前3世紀以降に渡来してきた弥生人によって分断されたんではないという。
1万2000年前にそれぞれ日本に住み着いたアイヌと琉球人。そこへ紀元前3世紀以降になって渡来し、
稲作をはじめた中国・朝鮮系の人びと。こうした人たちの子孫がわたしたちなのだ。
それにしても紀元前3世紀以降の大陸からの渡来って、それ、秦の始皇帝のころの、徐福たちじゃない?
http://home.att.ne.jp/apple/tamaco/Yutenji/000115DNA.htm
355世界@名無史さん:2007/09/25(火) 19:27:20 0


宝来mtDNAデータのトリックとその欠陥を簡単に説明してやると、

朝鮮半島にしろ中国大陸にしろ、古代より北方アジア人の侵入定着が絶え間ない
地域であったのにもかかわらず、データの中に北方アジア人に関するタイプの
データが一切出てこない。

しかも、調査サンプルにも北方アジア人のサンプルが一つも無い。

つまり、宝来mtDNAデータは、北方アジア抜きの偏向調査で出された単なる
偏向データなのであって、ただひたすら中国や朝鮮からやって来たと
錯覚させるだけの非常に悪質極まりない欠陥データに過ぎないのである。

356世界@名無史さん:2007/09/26(水) 21:10:53 0
山東省と江蘇省の骨しか調べていないのに中国だと決め付ける低脳骨屋の偏向調査(嘲笑)
いつも必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


渡来系弥生人は大陸のどこからやって来たのでしょうか。最近の調査により、
水稲耕作の発祥の地ともいわれている中国南部が有力視されています。
黄河下流と長江下流に挟まれた地域の漢代の遺跡から、渡来系弥生人に
よく似た人骨があいついで見つかっています。この時代の中国は、政治的に
動乱の時代であり、いろいろな民族が入り乱れて戦いました。日本にやって
来た渡来民は、このような動乱から逃れてきた人々だったのでしょうか。

http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-14.html
357世界@名無史さん:2007/09/26(水) 21:15:08 0
朝鮮半島南部と山東省の骨だけで中国だと決め付ける低脳骨屋の偏向調査(嘲笑)
いつも必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


土井が浜の弥生人骨は、160センチメートルを遙かに超えた長身、華奢な四肢骨、
細面の顔に低い鼻、のっぺりとした、それでいて端正な顔立ちで、いわゆる北方系
「新モンゴロイド」の特徴がありました。
彼らのルーツを求めて朝鮮半島南部の慶尚南道金海と南部の勅島(ヌクド)の人骨、
中国は山東省の漢代の人骨を対象に調査されました。ところが、朝鮮半島2ヶ所の
人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨は、極め
てよく似た形質を持っていることが確認されました。弥生人のルーツはやはり中国
だったという説が有力です。

http://www.rakuten.ne.jp/gold/sakezo/rekisi/keta3.html
358世界@名無史さん:2007/09/26(水) 21:18:44 0
山東省と江蘇省の骨しか調べていないのに中国だと決め付ける低脳骨屋と低脳ミトコンドリ屋の
偏向調査のコラボレーション。やはり必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


一九九四年一月二六日ニュース報道。山口県豊北町の土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアム
の松下孝幸館長(形質人類学)らが、山東省文物考古研究所を訪問。同省の遺跡から出土
した前漢時代の古人骨約七十体について、顔の長さ、幅などを計測し、北部九州や山口県
で発掘された渡来系弥生人骨と比較したところ、八割以上で顔の長さ、ほお骨の厚さなど
主要な値が一致。骨から推定した平均身長も渡来系弥生人(男性一六三センチ、女性一五〇
センチ)とほぼ一致した。

 一九九六年一〇月一九日、日本人類学会・日本民族学会連合大会発表。東大理学部の
植田信太郎助教授(人類学)らは、約二千年前の中国・山東省臨錙の遺跡から出土した
人骨と、同時期の詫田西分遺跡から出土した人骨のDNAを分析し、遺伝子の配列が
特定の部分で同じ人がいることを確認した。
359世界@名無史さん:2007/09/26(水) 21:21:54 0
(続き)

一九九九年三月一九日ニュース報道。江南人骨日中共同調査団(山口敏・東京国立
科学博物館名誉研究員が団長)は、江蘇省の墓から出土した六十体(二十八体が新石器
時代、十七体が春秋戦国時代、十五体が前漢時代)の頭や太ももの骨、歯を調査。
特に、歯からDNAを抽出して調査し、福岡、山口両県で出土した渡来系弥生人と
縄文人の人骨と比較。結果、春秋戦国時代人と前漢時代人は弥生人と酷似。
DNA分析では、江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代末)の人骨の歯から
抽出したミトコンドリアDNAの持つ塩基配列の一部が、福岡県の隈西小田遺跡の
人骨のDNAと一致した。

http://www.asahi-net.or.jp/~CY1N-STU/kodaishi/yayoi.htm
360世界@名無史さん:2007/09/27(木) 21:05:03 0
弥生人骨と一致したという山東省の弥生時代開始期の出土物は
こんな有り様(嘲笑)


◎西周時代の陶器発見 山東省済南市

山東省済南市歴城区孫村鎮盧家寨村でこのほど、西周時代(紀元前11世紀ごろ〜
紀元前771年)のものと見られる陶器が見つかった。現在までに陶製の鬲(れき、
古代中国で使われた三足の器)が約50点出土しており、発掘作業はまだ続いている。
専門家の説明によると、この遺跡が発見され、珍しい西周時代の陶器が大量に
出土したことは、西周時代の人々の生活や陶器製作技術を研究する上で、極めて
重要な価値がある。

http://www.china.org.cn/japanese/201551.htm
361世界@名無史さん:2007/09/27(木) 21:10:53 0
>陶製の鬲(れき、古代中国で使われた三足の器)が約50点出土しており



鬲?????鬲?????鬲?????鬲?????鬲?????


いやあ、弥生人骨と一致したという山東省の弥生時代開始頃の遺跡からは
弥生遺跡からはさーっぱり出てこない摩訶不思議なものが出るんですねえ(嘲笑)


362世界@名無史さん:2007/09/28(金) 18:58:22 0
二千年以上も地中深く埋まっていた楽器は、どんな音を出すのだろう。さまざまな
古代の楽器のオーケストラは、妙なる調べを奏でるだろうか。中国山東省でこのほど
出土した数百点もの楽器による特別演奏会が、山東テレビ局で、三日間にわたり催された。
聴衆は驚きの声をあげた。古代の楽器たちは『蘇武牧羊』とか『茉莉花』といった
中国の有名な歌曲の旋律をきちんと奏でたからである。しかし、この古楽器はもう
二度と音を出すことはあるまい。博物館に収められてしまうからである。中国で権威ある
考古学者と音楽界の専門家は、これらの楽器を「編鐘」「編磬」「ロ(ジュン)于」
「鉦」「鐸」と鑑定した。編鐘は音律の異なる小さな鐘を二層に吊るして並べた楽器。
編磬は石や鉄で作られた板を叩いて音を出す。ロ(ジュン)于は槌で叩く楽器、
鉦は握り柄のある鈴、鐸は大きな鈴で、日本の古墳から出土する銅鐸に似ている。

(中略)6年ほど前にこの丘の近くで、道路工事が始まった。ブルドーザーの騒音が、この丘の
二千年の眠りを破った。丘の土は削られ、道路や家の建設にも使われた。そして1999年
6月26日の昼前、土をすくっていた一台のショベルカーが青緑色をした物体を掘り起こした。
よく見るとそれは大量の青銅の鼎であった。鼎は三本足で耳が二つある古代の器である。
http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/zhuanwen/200107-2.htm
363世界@名無史さん:2007/09/28(金) 19:05:05 0
>「編鐘」「編磬」「ロ(ジュン)于」「鉦」「鐸」と鑑定した。
>よく見るとそれは大量の青銅の鼎であった



鐘?????磬?????ロ于?????鉦?????
鐸?????鼎?????


いやあ、弥生人骨と一致したという山東省の弥生時代頃の遺跡からは
弥生遺跡からはさーっぱり出土しない摩訶不思議なものが出土するんですねえ(嘲笑)


364世界@名無史さん:2007/09/29(土) 17:41:32 0
弥生人骨と一致したという山東省の弥生時代頃の遺物がさっぱり伝わっていない。
それはまるで宇宙人の創造物かのようである。


◆山東省の弥生時代頃のさまざまな出土物

上から順に、磬、甲骨文、爵、簋、簠、鼎、金文、方壺、盂
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww41.htm
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww31.htm
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww32.htm
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww42.htm
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww43.htm
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww51.htm
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww52.htm
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww81.htm
http://db.museum.or.jp/im/Search/jsMuseumEventDetail_jp.jsp?event_no=28679
365世界@名無史さん:2007/09/30(日) 18:35:17 0
弥生人骨と一致したという江蘇省の弥生時代開始期の出土物は
こんな有り様(嘲笑)


江蘇句容・金壇周代土トン(土+敦)(盛り土、小山)墓群:考古学者たちは、
土トン墓の埋蔵の特色に合わせ、一層ずつ剥がしていく整理方法を採用し、
青銅器時代の江南の土トン墓造営の全過程を明らかにした。計40の土トンを
発掘し、233基の墓、229組の祭祀器物群、14カ所の墓葬建築遺物を整理、
幾何印紋陶(幾何学模様を施した陶器)、原始青磁器を中心に、江南地方の
特色をもつ各種文物3800点余りが出土した。

http://www.china-news.co.jp/culture/2006/05/cul06051302.htm
366世界@名無史さん:2007/09/30(日) 18:38:36 0
>幾何印紋陶(幾何学模様を施した陶器)、原始青磁器を中心に



印紋陶?????原始青磁?????


いやあ、弥生人骨と一致したという江蘇省の弥生時代開始頃の遺跡からは
弥生遺跡からはさーっぱり出土しない摩訶不思議なものが出土するんですねえ(嘲笑)


367世界@名無史さん:2007/10/01(月) 20:58:48 0
【江蘇】徐州市で周代の器物を修復、2800年前の生活が明らかに

江蘇省徐州市にある周代の遺跡から出土した器物が半年かけて修復され、2800年前の
生活の様子が明らかになった。今回の修復は当時のこの一帯の製陶業や栽培業、建築の
発展状況を知るうえで大きな意義があり、同省での周代の遺物の収蔵・研究の空白を
埋めるものとして注目されている。徐州市賈汪鎮泉東村で去年初めて、完全な形で残る
周代のものとみられる家屋跡を発見。発掘を通して、考古学者は一家族の住まいである
ことを確認した。徐州博物館考古学部の耿軍建主任によると、家屋はほぼ南北2列に並び、
北側には4〜5室、南側には3室あった。部屋の大小や機能はそれぞれ異なり、東側から
陶鬲(とうれき・陶製の鼎に似たもの)などの炊事用具が見つかったことから厨房、
西側では陶罐や陶甕(とうおう・陶製のかめ)など大型の容器が出土したため、貯蔵部屋
だったのではないかと考えられている。部屋は木の柱を骨組みにして草を混ぜた泥で覆った
構造。壁はほぼ長方形になっているが、手で塗ったせいか厚みにばらつきがある。出土した
20点余りの陶鬲や陶甕から、考古学者は西州時代の家屋跡だと推断している。 家屋の前に
ある坑からは、大量のからす貝の殻や食べ残した豚、鹿、犬の骨のほか、鹿の角で作った
鋤、骨を彫った錐や剣、貝殻で作った鎌、泥を焼いた鉢など生産・生活用具が見つかった。
ここから当時、農水牧畜業や狩猟が比較的発達していたことが窺われ、周囲には広大な
森林や沢、草地、農地があり、居住環境はかなり良かったのではと思われる。徐州市博物館
は現在、遺跡から出土し修復された陶鬲や陶罐、鉢など20点余りの器物を展示しており、
大小は様々だが、文様や色彩ははっきりしている。最も完全な姿をみせているのが大型の
陶鬲で、直径42センチ、高さ38センチ。考古学者によると、周代の遺物はもともと数少なく、
とくに江蘇省でこれほど多くの器物が発見されたのは今回が初めてだという。2800年の時
を経て修復された器物に周代の人々の生活風景が想像できる。
http://j.people.com.cn/2003/06/13/jp20030613_29739.html
368世界@名無史さん:2007/10/01(月) 21:03:05 0
>陶鬲(とうれき・陶製の鼎に似たもの)などの炊事用具が見つかったことから厨房、
>最も完全な姿をみせているのが大型の陶鬲で、直径42センチ、高さ38センチ。



鬲?????鬲?????鬲?????鬲?????鬲?????


いやあ、弥生人骨と一致したという江蘇省徐州の弥生時代開始頃の遺跡からは
弥生遺跡からはさーっぱり出土しない摩訶不思議なものが出土するんですねえ(嘲笑)


369世界@名無史さん:2007/10/02(火) 20:27:53 0

◎北方アジア抜きの偏向調査で中国に誘致し国民をダマした容疑者リスト


 宝 来 聰 (国立遺伝学研究所助教授、総合研究大学院大学助教授)


 松 下 孝 幸 (土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアム館長)


 植 田 信 太 郎 (東大理学部助教授)


 山 口 敏 (東京国立科学博物館名誉研究員)
370世界@名無史さん:2007/10/03(水) 19:30:46 0
弥生時代開始頃の長江流域はこんな有り様(嘲笑)


呉城文化 B1400?〜B1000?

 江西地方の文化はB3000年〜B2500年頃の山背文化を最後に一時停滞していたが、
良渚文化や石家河文化の崩壊後に呉城文化が抬頭した。黄河流域とはまったく
異質の造形美術を特色とし、豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土し、
中国磁器の源流に再考を促した。また符号を刻した土器や鋳型も発見され、
符号の総数は170を超え、12個を列記したものも出土している。隣接する湖南省
では1960年代に寧郷県で多数の貴重な青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、
商文化を凌ぐ鋳造技術と独特の造詣を示していたが、このときには商文化の一分派
と認識された。1970年代に江西省樟樹市(旧清江)で発見された呉城遺跡の城壁址は
4万uで、地方的な政治中心のひとつに過ぎなかったと考えられる。
http://home.t02.itscom.net/izn/chu0.html
371世界@名無史さん:2007/10/03(水) 19:34:37 0
>豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土
>符号を刻した土器や鋳型も発見
>青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、商文化を凌ぐ鋳造技術



印文陶?????釉陶?????原始磁器?????
鼎?????尊?????


いやあ、弥生時代開始頃の長江流域の遺跡からは日本の弥生遺跡からは
さーっぱり出土しない摩訶不思議なものばかり出土するんですねえ(嘲笑)


372世界@名無史さん:2007/10/04(木) 12:27:11 0
弥生時代開始頃の長江流域はこんな有り様(嘲笑)


▲ 新干大洋洲商墓

1989年出土の、呉城文化第二期の大規模な墓。華北文化では商代後期にあたる。
両面神人頭像や大鐃に代表される多数の青銅器や玉器を含む2000点近い副葬品が出土。
青銅品486点のうち武器類は252点に達し、また礼器49点の殆どが実生活での使用痕を
遺し、ゲンと呼ばれる甑や一号方鼎など同時代最大級のものが含まれる。また造形美の
点では絶品とすら評される伏鳥双尾虎や、従来西周時代に鐘が変化して出現したとされ
てきた楽器の[金專]の出土など、独特の造形や装飾によって、青銅器文化時代における
江西省の独自性と重要性が再認識された。出土した青銅器は商式・融合式・土着式・
先周式に大別され、当時の中原のみならず渭水流域とも交流があったことを窺わせる。
また玉器の加工水準は石家河文化や良渚文化に比肩する。近年、近郊で多数の商代の
遺物を伴う61万uに達する都城址が発見され、王都址の可能性が期待されている。
http://home.t02.itscom.net/izn/chu0.html
373世界@名無史さん:2007/10/04(木) 12:29:58 0
>両面神人頭像や大鐃に代表される多数の青銅器や玉器
>ゲンと呼ばれる甑や一号方鼎など同時代最大級
>伏鳥双尾虎や、従来西周時代に鐘が変化して出現したとされてきた
>楽器の[金專]



両面神人頭像?????鐃?????玉器?????ゲン?????
鼎?????伏鳥双尾虎?????[金專]?????


いやあ、弥生時代開始頃の長江流域の遺跡からは日本の弥生遺跡からは
さーっぱり出土しない摩訶不思議なものばかり出土するんですねえ(嘲笑)


374世界@名無史さん:2007/10/07(日) 18:09:49 0

◎日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土

【上海9日共同】中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770−同221年)
の地方国家、越の貴族墓から、日本の弥生時代の銅鐸(どうたく)に形が似た青磁器の
鐸がこのほど出土した。発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張敏所長が9日まで
に明らかにした。

日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが
定説だが、張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、発掘結果をめぐる
今後の議論が注目される。

http://www.asyura2.com/0510/bd42/msg/948.html
375世界@名無史さん:2007/10/07(日) 18:16:01 0
>銅鐸(どうたく)に形が似た青磁器の鐸がこのほど出土
>張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性がある




青磁どころか灰陶もなけりゃ印文陶もないし、弥生土器に鐸もない。
だいたい鼎の一つくらい伝えろや、このスットボケ南京博物院が(嘲笑)



376世界@名無史さん:2007/10/08(月) 16:39:28 0
【福建】3500年前の商周の時期の文物を発見

しょう(さんずいに章)州=竜岩高速道路沿線の南靖、豊田、天宝などの区間で、先般、
3500年前の商周の時期の石器、陶磁器などの文物が約500点発見された。このように商周の
時期の文物がたくさん出土したことは福建省できわめて稀なことである。

福建省の考古学調査班は昨年しょう州=竜岩高速道路沿線の南靖、らん城の区間に赴き、
商周の時期の文物の緊急救出の発掘に取り組み、今月中旬頃に3500年前の商周の時期の文物が
発見された。

考古学調査班副班長の鄭輝氏によると、今回の発見の状況から見て、狗頭山遺跡には商周の
時期の古墳、民家遺跡が埋まっており、今回出土したもの中には石戈、石矛、石鋳などの石器
と圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、砂の入った灰色陶器、
上薬のついた陶器、硬質陶器などがたくさんあった。

現地のメディアによると、しょう州市は商周の時期の文化は非常に発達をとげた地域で、1950年代
と1970、1980年代に、福建省としょう州市の考古文化部門は南靖などで古文化遺跡をたくさん発見した。
特に1956年には南靖県の県政府所在地付近の浮山地区で数多くの商周の時期の典型的な陶器、石器が
出土し、その後福建省の考古学界ではそれを「浮山類型」と呼ぶことにした。今回発掘された狗頭山
古文化遺跡も「浮山類型」に属するもの。現在、高速道路建設部門はすでに工事を一時停止し、文化部門
に積極的に協力して緊急救出のための発掘を行っている。

しょう州市におけるこれらの文物の出土は、しょう州市ひいては福建省のその時期の歴史、文化の研究
にとって学術面と考古学の面で重要な価値を持っている。
http://j.peopledaily.com.cn/2003/03/31/jp20030331_27523.html
377世界@名無史さん:2007/10/08(月) 16:44:27 0
>圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、
>砂の入った灰色陶器、上薬のついた陶器、硬質陶器など



圏足器?????環足杯?????灰色陶器?????
上薬のついた陶器?????硬質陶器?????


弥生時代開始頃の華南の福建省の遺跡さえ日本の弥生遺跡からは
全く出土しないものばかり(嘲笑)


378世界@名無史さん:2007/10/09(火) 11:49:24 0
●河姆渡文化 かぼとぶんか

浙江省余姚(よう)県河姆渡遺跡を標準とする新石器時代の文化をいう。主に寧紹平原の
東部地区に分布している。河姆渡遺跡には四つの文化層があり,第1層は良渚文化早期と
類似しており,第2層は馬家浜文化の要素がある。第3・4層は河姆渡文化層で,上の両層
よりも古く,注目すべき出土器物がある。土器は原始的な手づくりの,あらい厚手の不整形で,
低温で焼かれた夾炭黒陶が最も多く,混ぜられた植物の茎葉砕片やもみ殻が焼けて炭化し,
土器を黒色にしている。夾炭黒陶は第4層では最大量を占めるが,第1層に至るほど漸減し,
第1・2層では焼成温度の高い砂混じりの夾砂紅陶・灰陶が優勢となる。第4層の土器の主な
ものに,釜・罐(かん)・鉢・盤・器台がある。釜が四つの層を通して出土し,形態と
装飾が最も多様なところから,釜を南方地区新石器文化の特徴とする見解がある。第3層
出土の甑(そう)は,蒸気熱を利用した穀物の蒸し器で,のちに朝鮮・日本などに伝わり,
東アジアに特徴的な穀物を蒸して食べる調理法を普及させたものである。また紡錘のほか,
濃茶の文様を施した数個の彩陶片も発見されている。遺跡層が地下水面下にあったため,
多くの木器が保存され,耜(し。すき)・碗・盆・かい・杵・矛・紡・紡錘などのほか,
組み合わせ部品用と思われる大小の棒が発見されている。
379世界@名無史さん:2007/10/09(火) 11:54:17 0
第4層には骨器が非常に多く,石器は少ないが,第1層に至るほど,石器が漸増して
骨器が漸減し,河姆渡文化では骨器の比重が大きかったことが知られる。骨器には
鏃・針・管状針・梭形器・笛などあるが,大型哺乳動物(水牛?)の肩胛骨を加工
した多くの耜が注目をあびた。石器は小型のあらい磨製で,斧・手斧・のみ・紡錘
などがある。第4層の住居址に,多くの稲の穀粒・茎葉の堆積が発見された。栽培稲
のセン(注1)は、亜種晩稲型水稲と鑑定され,紀元前約 5000年のもので,現在の
ところ,東アジアにおける水稲の最古の実物標本といわれている。また,とち・ひし・
桃の実,ヘちま・はとむぎや,なつめの一種なども出土している。家畜には犬と豚が
おり,水牛もいたようである。土器面に豚,または豚と稲穂の刻まれたものがあり,
小型の陶豚もある。ほかに,多種類の獣・鳥・魚などの骨も出土している。当時の
河姆渡地域では,すでに骨耜・木耜などによる稲作農耕が行われ,家畜を飼育し,
狩猟・漁労や採集もかなりの比重を,占め,種々の生産・生活の器具を作り,紡織も
行われていたのである。住居は大きな材木で構築された高床式で,柱をくりぬいて
はりや板をはめこむなど,やや高い技術が用いられている。
380世界@名無史さん:2007/10/09(火) 11:58:57 0
素朴な芸術品も多く,木彫の魚,骨彫の匙・こうがい,陶製の魚・人頭像,象牙彫の鳥
などのほか,玉製の管・珠・ケツ・コウの装飾具がある。また朱紅色の漆器の木碗もあり,
生漆と鑑定され,中国で最古のものといわれる。出土した50余種属の動物の生態および
植物遺存と花粉分析が明らかにした植生の状態から推測すると,当時この一帯は,現在
よりも温暖多湿で,現在の広東・広西等の地区に近く,山麓に接した大小の湖沼が散在する
草原灌木地帯であったようである。河姆渡文化の年代は,ほぼ紀元前5000年ごろにあたる
といわれ,揚子江下流域における最古の新石器文化であり,黄河中流域や山東地域の文化と
並んで,中国の早期新石期文化の一つの中心である。 
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
381世界@名無史さん:2007/10/09(火) 12:04:09 0
>>>夾炭黒陶は第4層では最大量を占める>>>釜・罐(かん)・鉢・盤・器台
>>>甑(そう)は,蒸気熱を利用した穀物の蒸し器
>>>濃茶の文様を施した数個の彩陶片>>>笛などある>>>土器面に豚
>>>小型の陶豚もある>>>骨耜・木耜などによる稲作農耕>>>陶製の魚・人頭像


黒陶?????釜?????罐?????鉢?????盤?????
器台?????甑?????彩陶?????笛?????
土器面に豚?????陶豚?????骨耜?????木耜?????
陶魚?????人頭像?????


7000年前の長江流域の遺跡でさえ日本の縄文遺跡からは全く出土しない
摩訶不思議なものばかり出土しているんですねえ(嘲笑)

382世界@名無史さん:2007/10/09(火) 12:09:39 0
>>381
嘲笑の理由が意味不明。
383世界@名無史さん:2007/10/10(水) 18:57:59 0
見よ!

7000年前の長江流域の河姆渡遺跡に既にある、骨製や木製の耜(鋤)、黒陶や彩陶、
釜・罐・鉢・盤・器台・甑・灶などの器形、骨哨(骨製のタテ笛)、猪文様など、
縄文時代を通してさーっぱり伝わっていない。



◎河姆渡遺跡

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
http://homepage3.nifty.com/sugar-tr/joumonG.html


384世界@名無史さん:2007/10/11(木) 19:08:43 0

●戰國時代陶質編鐘在呉文化發源地無錫出土


新華網江蘇頻道南京4月16日電 (高幼元) 日前,在無錫市錫山區泰伯文化
藝術節上,一批最近出土的戰國時代陶質編鐘等古樂器向中外遊客展示。
這批距今2000多年?青銅器的樂器中,最令人驚嘆的是,經修復後最大的編鐘,
高30多公分,造型十分精致。

展示會上,錫山區文管會同志介紹?,這裏是呉文化發源地。這批新出土的文物,
除編鐘、鐃、磬等樂器類陶器30餘件外,還有經修復的缸、罐、壇、鼎等各種
陶器共五十多件。這些原始瓷或印紋硬釉陶器,紋飾繁多。有乳釘紋、水波紋、
方格紋、圓圈紋等。經考古專家初?鑒定,數量之多,品種之全,工藝之精,
在全國罕見。
385世界@名無史さん:2007/10/11(木) 19:12:37 0
這批珍貴的出土文物是當地村民發現的。今年2月19日,錫山區後宅鎮天仙
塘萬安橋村村民鄒曉峰和鄒春鋒,帶著20多件陶器,向區文管會報告,村裏
一個大土?上發現了“古董”。工作人員認出是極有價?的陶制編鐘。第二
天即?到現場。這個大土?是五年前,鎮上築新路取土用的,當時就有部分
古陶器被?出,村民見是陶土做的,沒在意。而這次錫山區考古人員卻十分
在意,“掘地三尺”,出土的陶片、陶器用1噸半?車裝了滿滿一車。隨後,
他們邊向上級部門報告,邊請專家來修復,並對來報告的兩村民給予了獎勵。

後宅鎮往南數公里的鴻聲鎮,正在發掘的彭祖?文化遺址,已有一大批距今
6000年至7000年的新石器時代文物初露真容。據南京博物院考古學家介紹,
彭祖?是長江三角洲文化層次堆積最厚、包含物最多、保存最好的一處?史文化
遺址,是當代研究太湖流域人類文明發展史最好的?史資料。該鎮的鴻山南麓有
一座被譽為“開發江南先祖”泰伯之墓,距今已有3196年?史。現在,後宅鎮又
新出土的2000年前的古編鐘,作為陶樂器隨葬品,非一般人可用,是墓主人身?
顯赫?還是當時這塊地主是個文化“繁榮”勝地?這還需專家來解謎。
http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/www.js.xinhua.org/htm4/2041622.htm
386世界@名無史さん:2007/10/11(木) 19:16:30 0
>陶質編鐘等古樂器向中外遊客展示
>鐃、磬等樂器類陶器30餘件外,還有經修復的缸、罐、壇、鼎等
>各種陶器共五十多件。這些原始瓷或印紋硬釉陶器,紋飾繁多。
>有乳釘紋、水波紋、方格紋、圓圈紋等。


編鐘?????鐃?????磬?????缸?????壇?????
鼎?????原始瓷?????印紋硬釉陶?????乳釘紋?????
水波紋?????方格紋?????圓圈紋?????


いやあ、弥生時代の江南の江蘇省無錫の呉の遺址からは日本の弥生遺構では
さーっぱり見た事がない摩訶不思議な物や文様が出るんですねえ(嘲笑)

387世界@名無史さん:2007/10/13(土) 00:00:14 0

●考古發現一罐鴨蛋醃了2500年


在句容、金壇乃至整個江南,有一種獨具特色的土墩墓,這些墓聳立在山巒崗地、平原叢林中,
遠遠看上去,就像是一個隆起的大土墩。它們代表著西周至春秋戰國時期江南特有的土著文化。
目前經初步探查,在鎮江周邊約有5000多座土墩墓。

江蘇省8支考古隊120多位考古專家,從今年4月起對相關公路沿線的土墩墓進行了搶救性發掘,
先後發現了46座西周到春秋時期的土墩墓,出土文物4000多件。昨天,來自全國各地的10多位
考古專家不僅實地勘查了考古現場,還商討如何保護土墩墓的發掘成果。
388世界@名無史さん:2007/10/13(土) 00:06:15 0
一罐鴨蛋完好無損

豆、碗、盞、盅、罐、鼎,所有文物按照不同的古墓,從大到小一字排開,4000多件文物,
把句容博物館的兩層樓裝得滿滿的。最讓專家們意外的是,句容天王寨花頭的2號墩裡出土的
文物,雖然也是罐、豆等陶器,但其中一個小罐子裡面居然還盛著滿滿一罐鴨蛋!順著罐口
往裡看,白白的蛋比現在的鴨蛋小。記者還特地俯身聞了聞,可以嗅到一股鹹味。南京博物院
考古研究所副所長林留根說,出土時陶罐上還有一個蓋子,推測是2500年前這戶人家醃製的鴨蛋。

南京博物院研究員鄒厚本告訴記者,目前整個江蘇僅有三罐這樣的古老蛋,一罐在南農大的
博物館裡,一罐在鎮江博物館裡,這是考古發現的第三罐。早在上世紀70年代,發現第一罐蛋
的時候,他們就把這些蛋送給相關專家做研究,不過專家們也說不出個所以然。因此,古人
如何醃製鴨蛋,到現在還是個謎。至於保存,雖然古墓經常有雨水滲透,但罐子有罐蓋,
能擋住雨水,而且罐子裡面有封泥,這些封泥起到了很好的保護作用。細看罐中鴨蛋,除了
蛋殼是完好外,蛋青蛋黃怎樣?考古專家說,現在只能先保護,然後再研究。
389世界@名無史さん:2007/10/13(土) 00:08:50 0
古怪青瓷用途是謎

擺放文物的現場,好像是古代46戶人家家庭用具的一次集中展覽。從這些器物可以看出,當時人
們用特別大的缸來盛糧食,用鼎來燒飯,用青瓷碗來裝飯。不過,在句容天王寨出土的一個
青瓷器,卻令專家們無法辨別它的用途。

這件青瓷有一個圓圓的底座,以前從來未見過。此外,一個羽狀紋大瓷罐,也讓專家們好奇。
在西周至春秋時期,瓷罐上一般都只是直線條的花紋,而這個瓷罐上的花紋看上去像孔雀
尾巴上的羽毛,特別漂亮。這種花紋是怎麼製作出來的?這也是一個謎。
390世界@名無史さん:2007/10/13(土) 00:11:59 0
保護土墩墓刻不容緩

雖然盜墓賊看不上這些土墩墓,因為從墓葬出來的都是不太值錢的陶器殘片,但由於修路、
修水利等原因,每年都有成百座土墩墓被破壞了。這次寧常、鎮溧高速公路沿線有6座
土墩墓還未發掘就被摧毀,與此同時,金壇境內為建高爾夫球場平整40多座土墩,句容
境內25座土墩因工程建設被毀,句容郭莊鎮厚達7米的文化遺址被寧杭高速公路施工毀壞,
金壇一大型商代遺址被鎮政府推平……

蘊涵大量珍貴文物的古遺址、古墓葬卻毀在推土機下,實在令人心痛。專家們呼籲,
將江蘇土墩墓納入大遺址保護體系,與各市縣鄉鎮的經濟發展和社會發展規劃相融合,
防止建設性破壞,同時在對土墩墓群進行調查的基礎上,選擇幾個典型土墩墓進行解剖,
並修建遺址博物館,以帶動周圍土墩墓群的整體保護。
http://www.epochtimes.com/b5/5/12/30/n1171849.htm
391世界@名無史さん:2007/10/13(土) 00:15:58 0




盞?????盅?????鼎?????青瓷?????花紋?????


いやあ、弥生時代開始頃の江南の遺跡からは日本の弥生遺物では
さっぱりお目にかからない摩訶不思議な物や文様が出るんですねえ(嘲笑)



392世界@名無史さん:2007/10/13(土) 22:29:45 0

●鴻山越國貴族墓地發掘情況介紹

鴻山越國貴族墓地位江蘇無錫鴻山鎮東部,該區保存大小規模土墩近百座。南京博物院考古研究所及
錫山區文物管理委員會組成聯合考古隊,於2003年4月至2004年12月期間,對該範圍內土墩進行搶救性
發掘。

是次發掘7座墓葬,出土共計2000餘件隨葬器物,其中丘承墩就出土1100餘件精美成套的青瓷禮器、
樂器和玉器。 根據墓葬的封土規模、墓葬結構和隨葬器物的種類、質地、組合關係,7座墓葬可以
分為5個等級:
393世界@名無史さん:2007/10/13(土) 22:32:22 0
第一級別為丘承墩,該墓封土為長方形覆斗狀,是墓地中唯一的深坑墓,墓坑平面為「中」字形,
並有壁龕;隨葬品中青瓷禮器數量眾多,器類齊全;青瓷樂器既有中原式的鈕、甬鍾、磬,
亦有越式的ロ于、丁寧、鐸、勾、鈴形器、具座,還有以往從未確認的缶;玉器中,既有葬玉、
劍飾,亦有佩玉,而成雙成對的龍形佩、雙龍佩、龍鳳佩、龍首珩、龍形珩等組成的佩玉,
當為春秋戰國時期最高等級的佩飾;此外還隨葬琉璃釉盤蛇玲瓏球形器等象徵特殊意義的器物;
第二級別為老虎墩,該墓封土亦為長方形覆斗狀,埋葬方式為平地鋪木,隨葬器物中除生活用品外,
還包括成組的原始青瓷樂器和硬陶禮器、樂器;第三級別為萬家墳,與老虎墩的封土規模和平地
鋪木的葬制相同,然隨葬品中僅有成組的硬陶禮器、樂器而不見原始青瓷樂器;第四級別為曹家墳、
杜家墳,為長方形覆斗狀封土;第五級別為老墳墩、鄒家墩。這4座墓葬均無成組樂器隨葬,為長圓形
饅首狀封土。
394世界@名無史さん:2007/10/13(土) 22:35:30 0
鴻山貴族墓葬的特徵大致可歸納為以下幾點:
1. 長方形覆斗狀或長圓形封土;
2. 除特大型墓葬為深坑墓外,皆為平地起封;
3. 除特大型墓葬為「中」字形外,其餘皆為長條形墓葬,大型的還有墊木或分室用的木板等用於
構築墓室;
4. 隨葬器物主要為原始青瓷器和硬陶器;
5. 特大型墓葬的隨葬品中有組玉;
6. 隨葬器物中常見原始青瓷或硬陶的勾、ロ于、丁寧、鐸、羊角器、璧、鈴形器以及越式鼎、
筒形、盅、器蓋等;
7. 高等級的器物紋樣中常見蛇。而以蛇為器物紋樣也是越人圖騰崇拜的體現。
395世界@名無史さん:2007/10/13(土) 22:38:11 0
這些特徵中多為越國墓葬獨有,其中墓葬形制和隨葬品的質地、器形、器類與浙江紹興印山越王墓
以及安吉、海鹽、長興等地的越國貴族墓葬相同,尤其明顯的是均隨葬陶、瓷禮器和樂器,如ロ于、
丁寧、勾、鎛、甬鍾、磬、鈴形器、缶、具座、羊角器、璧以及越式鼎、筒形、盅、器蓋等;
根據墓葬的規模、形制和在墓地中的位置,以及隨葬器物的數量、種類和等級推測,鴻山貴族墓地
中丘承墩墓主的等級應為僅次於越王的越國大夫,此墓主室和後室總長僅次於紹興印山越王墓,
遠高於其他中小型越國貴族墓,而出土的隨葬器物則是目前已發掘的越國墓葬中等級最高、
質地最好且器類最為齊全的。

7座墓葬的隨葬品中,皆有完全相同器物,如壇、、碗、盅、器蓋等,其年代應相同;而大型或
中型墓葬中則有造型相同的鍾、鎛、磬、鈴形器、璧、羊角形器等,其年代亦應相同;而從印紋硬陶
和原始青瓷基本生活用品的形態、僅見麻布紋和米字紋等紋飾以及器物的組合關係,根據長江下游
土墩墓的分期,其年代應為戰國早期;出土玉器中,儘管有少量紋飾保留春秋晚期特徵,而絕大多數玉器
的造型和紋飾都呈現戰國早期的特徵。因此鴻山越國貴族墓地的年代可定為戰國早期,即越國最強盛的
越王勾踐時期。
396世界@名無史さん:2007/10/13(土) 22:43:04 0
鴻山越國貴族墓地中,丘承墩位於墓地的西北角,而其他大、中、小型墓葬則圍繞在丘承墩的東南呈
扇形分布,墓葬與墓葬之間既有一定的分布規律,又存在著嚴格的等級差別,為是次考古發掘最重要的
收穫之一;丘承墩墓為目前僅次於紹興印山越王墓的越國第二大墓,而丘承墩出土的大批精美成套的玉器、
青瓷禮器和樂器,應為迄今為止江浙一帶所發現的最高等級的越國隨葬器物,同樣為是次考古發掘最重要的
收穫之一。其墓地的完整性和禮器、樂器組合的完整性,尤其是越國的禮樂文化中將中原系統和諧地融入
越系統中,為越國史的研究和解決一系列春秋戰國時期的重要學術課題提供了一批極為珍貴的實物資料,
對於越文化乃至百越民族史的研究和越國考古學的研究將起著積極的推動作用。
http://www.cuhk.edu.hk/ics/ccaa/talk9.htm
397世界@名無史さん:2007/10/13(土) 22:46:37 0


いやあ、弥生時代の江南の江蘇省無錫の越國の土トン墓からは、

楽器やら、玉器やら、酒器やら、原始青磁やら、印紋硬陶やら、鈕やら、
甬鍾やら、磬やら、ロ于やら、丁寧やら、勾やら、鈴形器やら、具座やら、
佩玉やら、龍形佩やら、雙龍佩やら、龍鳳佩やら、龍首珩やら、龍形珩やら、
琉璃釉盤やら、蛇玲瓏球形器やら、羊角器やら、璧やら、越式鼎やら、
筒形やら、盅やら、器蓋やら、鎛やら、

もうさーっぱり見た事も聞いた事もない代物まで、もうありとあらゆる
摩訶不思議な物や文様が、出るわ、出るわ、出るわ、出るわ・・・

何でこんなイイモン、日本の弥生遺構から出んのやろ?(ウルトラ嘲笑)

398世界@名無史さん:2007/10/14(日) 20:04:04 0

●福建浦城管九土墩墓群发掘取得重要成果


本报讯 去年1—12月,在浦南(浦城—南平)高速公路的工程建设中,福建博物院
与福建闽越王城博物馆联合组成考古队,对位于浦城县管九村的土墩墓群进行了发掘,
获得了一批重要资料和成果。

此次发掘清理了社公岗由北向南延伸的长条形山脊上的6座土墩(浦社D1—D6);
洋山岗顶自东面的山坡地上的10座土墩(浦洋D1—D10);麻地尾U形岗脊和坡地上的
12座土墩(浦麻D1—D12);另在大王塝和社公岗的北侧晒谷坪山岗上也各清理了
一座土墩(浦晒D1)。
399世界@名無史さん:2007/10/14(日) 20:07:48 0
土墩地表隆起大多数比较明显,平面形状为椭圆形、方圆形和圆形。现存土墩高度约2、
个别约1米。社公岗、洋山的土墩封土多由红黄粘土堆筑而成,麻地尾多由质地较松散的
含砂黄灰土堆筑而成,无明显的夯筑迹象,从土墩周边的一些迹象分析其封土基本取自
土墩周围附近,封土中包含有陶片和石器等,陶片多以印纹硬陶和素面硬陶以及K衣陶
为主,也见有一些夹砂陶和陶纺轮,石器有镞、锛、砺石等。

此次已发掘的30余座土墩墓中一墩二墓的有4座,其余的皆为一墩一墓。从墓葬的形制又
可分为长方形浅坑、带墓道竖穴土(岩)坑和平地掩埋。墓葬均没有发现骨架及葬具等痕迹。
其营建过程是将上岗地面或清至风化岩山体,略作平整,有的局部垫以红褐土,有的以原山
修坡地,挖成长方形墓坑。共出土随葬器物230余件,主要器形有豆、罐、尊、瓮、盂、
碟和印纹硬陶罐、簋、豆、尊、盅以及青铜短剑、矛、戈、匕首、箭镞和锛、刮刀等组合。
400世界@名無史さん:2007/10/14(日) 20:11:06 0
一、社公岗墓葬区,发掘6座

PSD1M1土墩平面略呈方形,东西长18、南北宽16、中心高2米。出土随葬器物5件,
有青铜短剑、矛、箭镞、刮刀和原始青瓷三系尊。
PSD2M1土墩平面呈方形圆角,东西长22、南北宽20、外形高2—3米。为长方形墓坑,
出土随葬器物15件,有陶尊、原始瓷豆及青铜戈、矛、锛、镞和石枕等。
在M1的外围清理出开口于不同层面的早期墓葬共8座,多为无墓圹平地掩埋和无规则
浅坑形制,出土随葬陶器29件,均为K衣陶和印纹陶,成组和一线摆放。
PSD4M1土墩平面呈椭圆形,东西长22、南北宽19、高1.9—3.5米,带墓道竖穴土
(岩)坑墓,出土随葬器物9件,分布在墓室西北角和南到东部。
PSD5M1土墩平面略呈方圆形,直径约17、中心高1.6米。出土随葬器物3件,
为原始瓷器,有三系尊、罐和陶罐。
PSD6M1土墩平面略呈方圆形,直径约17、中心高1.8米。底面中部为长方形
卵石床墓,仅出土1件青铜器残片。
401世界@名無史さん:2007/10/14(日) 20:14:07 0
二、洋山墓葬区,发掘11座

PYD1M1土墩平面呈方圆形,南北长18、宽16、中心高1.8米。长方形墓坑,墓坑底满铺卵石,
墓坑北壁沟槽上发现残存较整齐的木炭立柱11根,转向西壁4根,立柱被烧毁程度不一,
高低不齐。出土随葬器物14件。从木炭柱的排列及烧毁的情况看,墓葬是有椁室的木椁墓,
墓室内曾经起火,未烧的椁板立柱腐朽无存。
PYD3M1土墩平面呈不规则方圆形,东西长15、宽13、中心高1.8米。长方形浅坑墓,出土
随葬器物8件,分布在墓室的东北面及西南角。
PYD4土墩平面呈不规则方圆形,直径14—15、中心高2.1米。发掘清理了PYD4M1和PYD4M2。
M1下压M2墓口,呈长方形浅坑,出土随葬器物8件,均为印纹陶,多为桶形罐。M2坑口呈
长方形,被M1所压,底部满铺较均遠I卵石。出土随葬器物3件。
402世界@名無史さん:2007/10/14(日) 20:16:35 0
三、麻地尾墓葬区

PMD2M1土墩平面呈椭圆形,直径16—18、中心高1.6米,长方形墓坑,出土随葬器物11件,原始瓷为豆、
罐,印纹陶为罐,纹饰为席纹,还出有纺轮和青铜矛、剑、戈等。
PMD3土墩平面呈方圆形,向上逐渐圆收成馒头状,直径约12、中心高约1.7米;发掘清理了叠压墓
PMD3M1和PMD3M2。PMD3M1长方形浅坑墓,出土随葬器物5件,分布在墓底南侧东部。有罐、豆和杯。
PMD3M2为带墓道竖穴石坑墓。坑口平面呈“凸”字形,墓室坑口南部东壁被M1打破。墓道为平底,
底面铺一层厚约15厘米的粗砂石。墓坑口平面呈圆角长方形,底部为较平整的风化岩石面,北沟西部
及西沟沟底面靠坑壁清出3处斜向墓坑外的圆洞遗存迹象,应是起排水的作用。出土随葬器物19件,
器物有罐、盆、尊、豆、簋、壶、杯、纺轮等。印纹硬陶多为罐,纹饰为拍印席纹。墓坑后壁(北壁)
中部和东壁中部各清出壁龛一个,北龛为半圆形。在龛上口部出土一组陶器4件,均为不同形体罐,
纹饰为拍印勾连雷纹,纹大双线棱格内饰星加鼓点,棱格间为锯齿纹。东龛为近圆形,未发现遗物。
PMD4土墩平面呈圆形,向上逐渐圆收成馒头状,直径13、中心高1.4米。在土墩的中部发掘清理了东北
—西南并排的墓坑PMD4M1和PMD4M2。PMD4M1为长方形浅坑墓,出土随葬器物3件,有原始瓷罐和陶罐,
纹饰为弦纹与戳点纹组合、席纹等。PMD4M2为带墓道浅石坑墓,坑口平面呈“凸”字形,长方形墓坑,
出土随葬器物3件。
403世界@名無史さん:2007/10/14(日) 20:20:37 0
四、晒谷坪墓葬区,发掘1座

晒谷坪1号墩(PSD1M1)在社公岗的北侧,为相连的小山岗,土墩略凸显呈不规则圆形,
直径9—11米。带斜坡墓道竖穴土(岩)坑墓,出土陶罐3件和青铜短剑1把。
管九土墩墓的发掘清理,填补了中国南方地区土墩墓分布区域的空白。我国先秦土墩墓
主要分布在长江以南的浙江、苏南、皖南(江西近年来也有一些发现)地区,福建以往没
有发现,此次浦城仙阳镇管九发现的30余座土墩墓,填补了这一空白。此次发掘出土了
一大批相对完整的青铜器、原始青瓷器、印纹陶器组合,年代约在西周—春秋阶段,填补了
福建地区该阶段考古学研究的许多缺环。出土的40多件青铜器,是福建地区一次性出土
青铜器最多的考古发现;7件造型精美的越式青铜剑,在全国首屈一指。这批西周—春秋的
土墩墓以平地掩埋发展至浅坑并向深坑过渡,反映了西周—春秋土墩墓的发展演变脉络。
它们都打破或叠压在夏商时期的墓葬之上,对研究土墩墓的发展演变有着重要意义。
http://www.ccrnews.com.cn/100027/100028/8206.html
404世界@名無史さん:2007/10/14(日) 20:23:22 0




尊?????瓮?????盂?????簋?????盅?????
盆?????原始青瓷?????印纹陶?????雷纹?????
匕首?????刮刀?????


弥生時代の華南の福建省の土トン墓さえもこの有り様(嘲笑)



405世界@名無史さん:2007/10/15(月) 19:35:15 0

●八塔台古墓群

這一古墓群位于曲靖市區東12公里的珠街鄉董家村,地處緩坡地帶,由8個相傍
而又獨立的橢圓形封土堆組成,總面積約5000平方米。

據清咸豐二年《南寧縣志》稱,“八塔台在城東……漢諸葛武侯建以鎮地脈。
”這里說的意思是,當年諸葛亮揮戈征南至曲靖南盤江流域“七擒孟獲”,
在這里築土設點將台,形似塔基,且有8個,便稱“八塔台”。其實,
從《史記•西南夷列傳》看,“其旁(指滇國)東北,有勞浸、靡莫,皆同姓相扶。
”珠街八塔即是支書所稱的“勞浸、靡莫”聚居地。

1977—1982年,雲南省文物工作隊在曲靖文化管理部門配合下,對八塔台古墓群一、
二號堆進行7次發掘。一號堆發掘完畢,二號堆發掘了一半,共發掘出各個時期的
墓葬數百座,其中火葬墓304座,土坑豎穴墓220座,封土堆墓30余座,這些墓葬的
形成年代遠比諸葛亮生活的年代早,約為春秋時期或者更早。
406世界@名無史さん:2007/10/15(月) 19:38:26 0
從發掘的情況看,墓群類型多樣,交叉堆積,互相滲透,形成了上自先秦
時期,下至宋元明朝,長達2000余年的7米之高的文化堆積層。在春秋戰國
時期的30余座封土墓和土坑豎穴墓中,出土了一大批青銅時代的器物,
這在雲南青銅考古中尚屬首次發現。已發掘的墓葬除5座土坑豎穴墓分布
在一號堆外,其余的500余座均出土于二號堆約700平方米的面積內。
這一面積僅是二號堆底部面積的一半。據考古工作者介紹,堆疊的形成
原因是,最早的先民死後埋葬在此,形成高于地面的土堆,為封土堆墓群;
其上又埋葬了土坑堅穴墓群;最後又埋上了許多的火葬墓。從當時發掘
後的地層剖面上可以清晰地看到,饅頭狀的封土堆互相重疊,長方形的
土坑墓又打破了下層的封土堆。現在已發掘的墓葬中,有30余座屬春秋
戰國時期的封土堆,220座屬戰國至兩漢時期的,304座則屬宋、元、明
時期的火葬墓。
407世界@名無史さん:2007/10/15(月) 19:40:58 0
上述發掘出土文物1000余件,有兵器、生產工具、生活用品、裝飾品、樂器
和貨幣等,包括青銅、鐵、陶、玉、石等器物。器物中的兵器有刀、劍、戈、
矛;炊飲器有鼎、釜、罐碗等;裝飾品有鐲、珠、扣飾;樂器有銅鼓、鈴等。
這些殉葬品的種類數量如此繁多,令人驚嘆。在扣飾中有一件雙牛浮雕,
工藝水平極高,顯示了滇東一代古代勞動人民的高超技藝。

八塔台古墓群的發掘,進一步不可爭辯地證明了曲靖是雲南古代文明的搖籃
之一。早在兩干多年前,這里的人民便創造了燦爛的文化。生活在這里的
人類已進人青銅時代。許多文物既具有中原文化的色彩,又保持了滇文化的
風格,同時充分說明,遠在先秦時期,曲靖便是全滇鎖鑰,是中原文化傳人
雲南的重要通道。同時,古墓形制的多樣性和殉葬品的多樣性,表現了雲南
不同時期埋葬風俗的變化,也暗示著雲南民族成分的變遷。
http://www.yn678.com/big5/zt_show.php?ztid=279&ztkind=10
408世界@名無史さん:2007/10/15(月) 19:45:32 0




貨幣?????鐲?????扣飾?????鼎?????釜?????
銅鼓?????鈴?????雙牛浮雕?????


弥生時代の華南の雲南省の古墳群さえもこの有り様(嘲笑)



409世界@名無史さん:2007/10/16(火) 20:27:03 0

●广西两个古遗址出土罕见双耳陶器及靴形石斧

考古人员日前在广西马山县金钗镇独秀村尚朗岭和六卓岭两个古遗址,发掘出土
数百件新石器时代晚期的石器、陶器,其中双耳陶器和靴形石斧在广西颇为罕见。

1992年发现的尚朗岭和六卓岭遗址位于珠江主要支流——红水河岸边,距今
约有3000至4000年历史,分布面积超过3万平方米。2004年
4月16日,广西壮族自治区文物工作队与南宁市博物馆及马山县文物管理所
开始对这两个遗址进行大规模抢救性考古发掘。

6月3日,在考古人员驻地,记者看到一枚形状如靴子的石斧,这把小巧的石斧正反
两面均磨制得非常光滑,做工相当精致。还有一个残损的陶器,陶器口端有排球
大小,两边各有一只耳朵,非常精巧。
410世界@名無史さん:2007/10/16(火) 20:30:22 0
广西壮族自治区文物工作队馆员何安益介绍说,截至目前,考古人员已在这两个
遗址发掘出土了数百件具有地方特色的文物。石器类既有生产、生活工具,
也有装饰品,主要是石斧、石锛、石拍、石网坠等器型。陶器烧制火候高、
器壁薄,有圈足器、三足器、圈底器等器型,饰纹较为丰富,一般陶器装饰
有绳纹,部分则有曲线、旋涡纹、勾连纹等。

据了解,双耳陶罐及靴形石斧是云南新石器时代的典型器皿,与广西
本土陶器和石器有明显差异,这些器物在红水河流域出现说明三四千年前
两地的古人类曾经有过交往。
http://www.china.org.cn/chinese/CU-c/580977.htm
411世界@名無史さん




双耳陶器?????靴形石斧?????圈足器?????
三足器?????圈底器?????双耳陶罐?????


弥生時代開始頃の中国南端の広西壮族自治区さえもこの有り様(嘲笑)