【Preuszlig;en】プロイセンの歴史【Prussia】
1 :
世界@名無史さん :
2007/02/05(月) 21:18:09 0 「プロイセンは国家を持つ軍隊である」とミラボーにいわれた この国の歴史について語りませう。
フランスで追放されたユグノーの受け入れがこの国の発展の基礎の一つ。
3 :
世界@名無史さん :2007/02/05(月) 21:45:23 0
4 :
世界@名無史さん :2007/02/05(月) 21:53:00 0
ホーエンツォレルン城砦
ttp://odekakeshimasenka.fc2web.com/2003-6-01.htm ホーエンツォレルン家はもともとドイツ南西部の出身で、ブランデンブルク
に入植したのはアスカニア家だった。
1415年、フリードリヒ6世がブランデブルク辺境伯に封じられ、
1511年にホーエンツォレルン家の分家筋のアルブレヒトがドイツ騎士団長に
迎えられた。その後騎士団領は宗教改革を経て世俗のプロイセン公国と
なった。
プロイセン・ホーエンツォレルン家の家系がわずか二代で断絶した後、
ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントがプロイセン公国を継承。
5 :
世界@名無史さん :2007/02/05(月) 21:55:32 0
ホーエンツォレルン城砦
ttp://odekakeshimasenka.fc2web.com/2003-6-01.htm ホーエンツォレルン家はもともとドイツ南西部の出身で、ブランデンブルク
に入植したのはアスカニア家だった。
1415年、フリードリヒ6世がブランデブルク辺境伯に封じられ、
1511年にホーエンツォレルン家の分家筋のアルブレヒトがドイツ騎士団長に
迎えられた。その後騎士団領は宗教改革を経て世俗のプロイセン公国と
なった。
プロイセン・ホーエンツォレルン家の家系がわずか二代で断絶した後、
ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントがプロイセン公国を継承。
6 :
世界@名無史さん :2007/02/05(月) 21:57:41 0
今ではポーランドになってしまってる
フリードリヒ大王は食糧としてジャガイモの生産を奨励した。 主に東プロイセンで生産され、プロイセン軍の重要な兵糧となった。
8 :
世界@名無史さん :2007/02/05(月) 23:15:46 0
武装SSが帽章につけていた髑髏のマークはプロイセン王国の第一・ 第二近衛軽騎兵連隊が身につけていたもの。
9 :
世界@名無史さん :2007/02/06(火) 05:47:58 0
プロイセンと秦とは似ている。 その成立過程も国のあり方も。半異民族の蛮国と蔑まれていたのが 先進大国を併合して逆に中心となった。 ドイツとプロイセンの関係=中国と秦の関係。
10 :
世界@名無史さん :2007/02/06(火) 10:13:33 0
プロイセンは、ナポレオン戦争でなんでフランス軍にあっさり負けちゃったの? プロイセンは軍事強国というイメージがあるんだけど。
そうだねプロテインだね
>>10 第一に準備不足というか、無計画に戦争始めたのが大きい。
当時のプロイセンは本当は中立志向で、それがためにフランス軍の通過を
認めるかで揉めて、ナポレオンと衝突したに過ぎないから。
あと戦術面での遅れ。
1813年にプラハで開かれた和平会議で、ナポレオンはメッテルニヒに プロイセンの解体(シュレジエンのオーストリアへの返還、西プロイセンを 含むポーランドの復活、東プロイセンのロシアへの譲渡、ブランデンブルクの ザクセンへの譲渡)を申し出たが、オーストリアがこれを受け入れていたら プロイセンは消滅していただろうな。 メッテルニヒは狭いオーストリア一国だけの視野で外交を考えておらず、 ヨーロッパの勢力均衡を考えていたからそれに乗らなかったが。
そこで応じていればナポレオンは史実どおりロシアで敗北しフランス帝国も無くなるとして、 オーストリア主導でドイツ統一となったのだろうか それともやはりハンガリー人やスラブ人の問題を抱えたままで、ドイツは小国群のままだったのだろうか。
15 :
世界@名無史さん :2007/02/10(土) 00:23:26 0
328 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/02/06(火) 23:09:25 ID:kguSBsvQ
>>325 ある一時期においては南ドイツ併合も可能だったかもしれない。
でも、オーストリアは圧倒的な武力で帝国領土拡大した国ではなく、
巧みな外交と一番は姻戚関係によるところが大きい。
そのオーストリアが、東にオスマン帝国を控え、一番事を構えたくな
かったのはフランスであったと思う。
南ドイツ併合すれば、直接国境を接し関係が緊張する上に、へたを
すればプロイセンがフランス側に付く可能性もあったかもしれない。
いわば南ドイツ地方はオーストリアにとって「火中の栗」に等しく、
プロイセンに恩を売りつつ併合させ、フランス・帝国間の緩衝地帯に
した方が帝国にとっては現実的・理想的であったように思う。
また、バイエルンの隣、フランスと国境を接する現在のバーデン州の
一部地域はプロイセン王家の本家領であり、そこでもプロイセンとの
問題が生じる可能性もあっただろう。
仮に、バイエルンが神聖ローマ帝国をまとめられるだけの強力な国家
であったならば、オーストリアとの関係やその後のドイツにとって大きな
影響があったと思うが、残念ながらバイエルンという国はそういう国で
はなく、どちらかと言えば野心少なく平和的であり芸術を愛する国で
あった。しかし、結局そのことがバイエルンにとっては大国の思惑により
悲劇的に翻弄される要因になったのではあるが。
16 :
世界@名無史さん :2007/02/11(日) 04:26:23 O
1834年プロイセンのモッツ蔵相主導でドイツ関税同盟を成立させた時点で勝負有 南独のリストが組織していた商工業同盟も呼応し、鉄道もプロイセン主導で敷設 プロイセンは不平等・間接だが男子普通選挙(三級選挙法)施行し 多数決制の議院内閣制に十分対抗強いる組織間交渉に基づく二元主義体制を確立 50年代の墺商務相ブルックの巻き返すが、普蔵相デルブリュックが主導権を堅持 またドイツのブルジョワ経済的自由主義者も墺の後進性と多民族体制を嫌った また国際的にも 1860年代からのイギリスを始めとする欧米の自由貿易体制への移行で 各国間で最恵国条項を含む通商条約締結されたが イギリスはプロイセンを含むドイツ関税同盟と条約締結 フランスも当初プロイセン単独と締結していたが、後に関税同盟と締結し直した 両国他、欧米各国も関税同盟と締結、墺とは各国とも別個に締結 従ってドイツ統一以前に欧米各国では 既に経済的には小ドイツ主義的統一ドイツは意識されていたものと思える
17 :
世界@名無史さん :2007/02/11(日) 09:45:45 0
やっぱり兵役=選挙権という関係だったんですか
18 :
世界@名無史さん :2007/02/11(日) 10:08:26 0
シュタインとハルデンベルクの改革が不徹底だったのは、ヤパーリ プロイセンがナポレオン戦争で最終的に戦勝国になったから? 1848年革命で、フランスは王政が崩壊して第二共和政にまで突き進んだけど、 ドイツ・オーストリアは中途半端に終わってしまった。
だろうな。 イギリスも勝ったから今でも王政。
シュタインとハルデンベルクの時代に、プロイセンに出現した顔ぶれはスゴイな。 ハインリヒ・フォン・クライスト、エルンスト・モーリッツ・アルント、フィヒテ、 シュライエルマッハー、グナイゼナウ、ヤーン…… 「私は、わが国民に話しかけたいと願う、しかし、ドイツ国民よ、私は一体何と 呼びかければいいのだろうか。あなた方は一体何で、どこにいるのか。私は探し 求めるが、見つけることができないのだ」
21 :
世界@名無史さん :2007/02/11(日) 23:58:42 O
17世紀中頃以降ドイツは他の欧州にはない特殊な環境にあった ウェストファリアの平和によりドイツ各領邦内で 対立する内部において交渉による友好的和解(amicabilis compositio) 諸機関における代表、ポストを対立する派に対等に分配する 分離方式(itio in partes)と同権という制度が確立した 各領邦は高い知識と見識を持つ官僚制を設立した いわゆる他の欧州地域に例を見ない官僚的絶対主義である イングランドも似ているが頻発する対外戦争における軍事支出捻出のため 信用市場から借り入れシステムを構成し、議会が歳出を細部まで監視する 官僚的議会主義が確立 フランスをはじめラテンヨーロッパは官職を売買する売官制が横行 異常に官僚数が増え、軍事費捻出のため、フィナンシエから借り入れ債務肥大 財政改革も拒否する硬直腐敗した家産的絶対主義が確立した 最も腐敗し、王権から特権を獲得するのみ存在するセイム(地方議会)を有する ポーランドは家産的議会主義はその惨めな終末を見てわかる通りである ドイツ諸邦はナポレオン戦争により領域が劇的に変動した領域革命を経験し ナポレオンに対抗ないしは干渉を防ぐため、官僚に自由主義者が集中した
22 :
世界@名無史さん :2007/02/12(月) 00:33:38 O
プロイセンの場合 立憲、国民議会開設より遅れた社会経済面の改革が優先された 欧州各国の自由主義者たちはジャコバンの暴走から選挙権を 財産と教養で選挙権を制限しようとした ドイツ以外では財産をさらに重視したが ドイツの自由主義者たちは教養(Bildung)を重視し それは個人に付与されるべきと考えられたため プロイセンを始め、国民に対し初等教育を普及させ、普通選挙制の素地を作った またプロイセンの農奴解放は有償であるから下層農民が土地を得られなかった という批判があるが、下層農民は資本主義労働者の創出をもたらした イギリスにおける囲い込みによる下層農民の労働者転化に相当する フランスにおいては大革命により土地が分配され、多くの小土地所有農民が創出 労働者創出を阻害、農民を農村から分離できず、ドイツに遅れをとることになる またプロイセンは19世紀初めから行政菅区ごとに20の工業学校を設立し 1835年にはそれらの上に立つ後のベルリン工科大学を設立した そして鉄道を拡張し、関税法を成立させ、、労働者移動を容易くし、市場を統一 これが影響し、他のドイツ諸邦もプロイセン中心の関税同盟に参入 ドイツ関税同盟はEUの原点と見る学者もいる
23 :
世界@名無史さん :2007/02/12(月) 01:16:49 O
男子普通選挙制は仏が欧州ではいち早く施行するが 仏の自由主義者は居住条件や参政権付与年齢の引き上げなど しばらくは制限選挙復活を画策する しかも議会主義体制は立法府と執行府の癒着、統治能力の欠如、腐敗、汚職 そして怠慢を産みだした 一方、普〜独は政府と議会が独立した二元主義をとっていた それはけっして専制的であったことを意味するのではない 議会主義では多数派が執行部を組織し、反対派を無視し反対派は次期の選挙に 望みを託すが 普〜独の場合は政府が交渉と妥協により多数派を組織した それは議会内に限ったことではない ビスマルクが世界で最も早く、かつ先進的な社会保障制度を導入し 支持基盤に労働者を取り込んだ これは単に非妥協的な社会民主党に対する牽制だけではない また独の二元主義が仏の議会主義に優越できたのは矢継ぎ早の政策実現である 鉄道敷設にしても 1840〜50年で 独は469q→5856q 仏は497q→2915q と大幅に逆転 独が英に次いで1871年に金本位制導入すると 金銀複本位制の仏が白・伊・スイス・ギリシャで組織したラテン通貨同盟が瓦解 逆に1892年に独が中欧通商条約を墺・伊・露と締結されることになった
24 :
世界@名無史さん :2007/02/12(月) 01:37:26 O
仏が普のように国家政策による工業化を推進するのは第二帝制以降であるが 普に遅れをとったのは歪めない 1873年のオーストリアを発端とした20年以上の大不況による保護貿易主義は それをさらに促進され、独に工業生産力で圧倒され、莫大な貿易赤字をだした 貿易での赤字を相殺するため、高級品や農産物、観光等に力を入れるとともに 植民地獲得により経済ブロック化を図った またクレディ・モビリエ、ソシエテ・ジェネラルを中心とする大銀行が資本輸出 経常収支を黒字にした 仏の対外投資額は独の1.6倍 仏の総投資額の4分の1はロシアに集中され、事実上ロシアを金融支配した 仏で革命の最終勝者は金融資本家といわれる所以である
25 :
世界@名無史さん :2007/03/10(土) 10:27:10 0
イギリスはプロイセンがドイツ統一事業を推し進めているとき、なぜ大陸に 同盟国をつくって介入しようとしなかったんだろうか? シュレスビヒ=ホルシュタイン問題についても結局何もできなかった。
血と鉄の民族ゲルマン
27 :
世界@名無史さん :2007/03/25(日) 00:09:06 0
プロイセンて第二帝国でしょ
プロシア→ロシア
また棄民か 当時、新教はイギリスしかなかったはずだが
30 :
世界@名無史さん :2007/05/04(金) 19:31:22 0
プロイセンはアメリカ独立戦争の際にイギリスに対して領民2万を売った。
31 :
世界@名無史さん :2007/05/04(金) 19:42:43 0
スレタイがおかしいわ。 書くなら Preußen/Prussia よ。
&を入れ忘れたんだろう スレタイでエスツェットが使えるのかどうか知らんが
33 :
世界@名無史さん :2007/07/06(金) 13:25:00 0
34 :
世界@名無史さん :2007/07/07(土) 00:49:01 0
セバスチャン・ハフナーの「プロイセンの歴史」は一読の価値あり
35 :
世界@名無史さん :2007/08/13(月) 09:12:23 0
ドイツの「鉄血宰相」オットー・フォン・ビスマルク(1815−98年)の子孫で、 連邦議会(下院)議員を務めるカールエデュアルト・フォン・ビスマルク氏(46)に対し、 所属する与党キリスト教民主同盟(CDU)からの風当たりが強まっている。 重要法案の採決にたびたび欠席しているためで、「職務怠慢」が目に余るとして 党青年部が議員辞職を求める事態となった。
36 :
世界@名無史さん :2007/08/13(月) 15:27:25 0
ゴットフリート・アレクサンダー・レオポルト・グラフ・フォン・ビスマルクシェーンハウゼン 44 連邦議会(下院)議員を務めるカールエデュアルト・フォン・ビスマルク 46 どっちが本物?
よく知らんが子孫なんて何十人もいるだろ
38 :
世界@名無史さん :2007/08/22(水) 18:46:06 0
いずれも不肖の子孫だなw
39 :
世界@名無史さん :2007/08/22(水) 20:07:00 0
ま、えらい人が先祖にいたってだけだ 一人はロンドン在住か
40 :
世界@名無史さん :2007/08/23(木) 06:22:28 0
>>26 統一後は、欧州の平和に尽力したビスマルク
41 :
世界@名無史さん :2007/08/30(木) 08:33:51 0
プロイセンなんて、ポーランド人やフランス人の血がたっぷり入っている
バルト系原住民のこともたまには思い出してやってください
43 :
世界@名無史さん :2007/08/30(木) 20:38:29 0
963 :世界@名無史さん:2007/08/23(木) 00:46:22 0 アメリカの民族浄化はインディアンを皆殺しにする残忍なものだったが ロシアの民族浄化は、皇帝主導によるものだったから緩慢だった。 まずドイツ人やフランス人の移民を奨励して、祖国を真似た自治村をつくらせ そっくりドイツなりの民族風習を輸入する方法を取った。 科学技術などではそれなりの効果を挙げ19世紀にはドイツ名を持つロシア科学者が いくつか重要な発見をしてる。 ドイツの大使はロシアで奇妙な歓迎を受けた。 ロシア女性の一杯いる部屋に押し込められ、全員に種付けしてかまわないというのだ。 おちぶれたドイツ貴族には政略結婚により、ロシアに血を結ぼうとする動きが出た。 じっさいドイツには女性は余っていた。 女余りで、同身分に結婚相手のいない貴族の娘はカトリックの尼僧になった。 傭兵団について歩く売春婦は尼くずれ、つまり修道院を脱走した貴族の娘が多かった。 男子死亡率が高く女がが余る時代 ドイツ貴族に取り、不要な娘はロシアに送って縁でもむすんだほうがなんぼか金の節約だった。 エカテリナ二世は、そうやってロシアに送られた奴隷同然のドイツ女性である。
44 :
世界@名無史さん :2007/09/23(日) 14:54:18 0
>>41-43 ほんと、ナチス・ドイツのいかれ具合でけ見てたら、歴史がわからなくなるね
ドイツ人は、混血民族で、ヒトラー家にしても、征服されドイツ化したスラブ人の子孫だもな
45 :
世界@名無史さん :2007/10/08(月) 16:23:34 0
クラウゼヴィッツはもっと評価されてもいい
46 :
世界@名無史さん :2007/10/08(月) 17:50:02 0
ドイツ人って、フランスほどドイツ固有の伝統文化に拘らないイメージがあるな
47 :
世界@名無史さん :2007/10/08(月) 18:20:47 0
肉
<(^o^)> <
>>36 はコピペ
≪ ≪(/ ≡3
∠ /丿 ≡≡3
\ ≡≡≡3
〜ヴィッツ(witz)というのはスラブの姓だって知ってた?〜ヴィッチのことだよ。 〜の息子の意味。 クラウゼヴィッツは本当はクラウスヴィッチで「クラウスの息子」の意味。
倉臼さんの息子ですか…
ホーエンツォレン家は今でもドイツでちゃんと存続してるのね。
51 :
世界@名無史さん :2007/10/08(月) 20:02:41 0
52 :
世界@名無史さん :2007/10/08(月) 21:13:18 0
>>50 それどころか前のロマノフ大公に娘しかいなかったんで
ロシア帝位継承権はホーエンツォルレルン姓の孫息子に移ってるよ
ドイツ帝位(権)に加えてロシア帝位(権)まで転がり込んだ
53 :
世界@名無史さん :2007/10/13(土) 08:47:25 0
どうせ帝政復活はどっちの国でもありえないから、虚名としかいいようがないが。
54 :
世界@名無史さん :2007/10/19(金) 10:10:49 0
英国貴族は、爵位の保持を当主一人に限定すること、また爵位の継承はもっとも 近い血筋の年長の男子が行うことになっていた。 所領も年長の男子の相続で、次男・三男には分け前はまったくない。部屋住みの 身分が嫌なら家を出て、学者・法律家・軍人・実業家・植民地経営者として 活躍するしかなかった。 これに対し、ヨーロッパ大陸諸国では、父子・兄弟が同じ爵位を名乗り、相続も 分割方式をとったために、爵位のインフレが起こって権威が低下し、所領は 細分されて価値が下落した。ふくれあがった上流階級は、それでも安逸を貪り続け、 勤労を蔑視して、勤労者層の負担はますます重くなっていった。
55 :
世界@名無史さん :2007/10/19(金) 18:37:56 0
54氏へ 大陸の爵位って、所領とは関係ないみたいなのね。 父方から○伯、母方から×男で、 長男は○伯、次男は×男とはしないで、 長男次男とも○伯と×男になってしまうとか。 ○地域は長男、×地域は次男がもらうかもしれないけども? それから、授与者には無関係に相続してしまうのね。
プロイセン公国の成立ってむちゃくちゃじゃね? 騎士団長がいきなりカトリックからルター派に改宗した上騎士団領を世襲国家化だろ? よくそんなんで周りがついてったもんだよなあ。
>>56 それだけホーエンツォレルン家が強大化してたってことなんでしょ。
58 :
世界@名無史さん :2007/10/28(日) 03:31:01 0
>>55 よくわからないが、
ドイツなど国王や皇帝が退位しており
爵位などを与える人がいないことになる。
つまり、貴族の位は正式にオーソライズされたものではない。
逆に規制もないのだから、帝国廃止のときの爵位を
子孫みんな名乗りましょうということなのではないか。
一方英国の貴族制度は現実にあるもので、管理されている。
資格のないものが名乗れない。
大陸の王室やテイシツ廃止の国では爵位は非公式の自称だから
所領も、仮に昔の領地を私有地として所有しているケースがあっても、
それは実質のない爵位とセットになったものではない。
よってこちらは家族内で好きに財産わけするのも
当然であろう。
昔は大陸も基本は一子相続だったと思うが、
それでも、昔でも、なんとなく欧州の方が英国より
跡継ぎ以外の子どもにもそれなりにわけてやりましょう
という話が多くあるような気もする。
このへんどうでしょうか。
皇帝が退位しても貴族の所領はキープされる場合と
失う場合など、どうなっていたのか..。
59 :
世界@名無史さん :2007/10/28(日) 04:02:12 0
>>56 結局ポーランド王のジグムント1世がプロイセンの世俗化を許可したからじゃね?
当時のポーランドは多宗派・多宗教の国家だったから。
で、ジグムント1世がプロイセンの世俗化を許可したのにはちゃんと理由がある。
当時のプロイセンの政治体制はポーランドの一地方のそれであって、地方自治の立法は各地の小地方の地方議会セイミクで行い、
セイミクで選出された代議士がワルシャワの国会セイムに出て行った。
当時のポーランドではマグナートという大金持ちの大貴族が支配し王権が脆弱で、
王権の強化によるポーランドの統合を図ろうとしたジグムント1世は
プロイセンを世俗化させるこをを引き換えにプロイセンの代議士を味方につけた。
初代プロイセン公のアルブレヒトはホーエンツォレルン家でもありポーランド王家のヤギウェオ家の血筋でもある。
おかげでポーランドはジグムント1世の代に黄金時代を迎えることになったんだが、
世俗化したプロイセンがブランデンブルクと統合したことで、後の時代にポーランドに敵対するようにになった。
60 :
世界@名無史さん :2007/10/28(日) 04:16:14 0
プロイセンとブランデンブルクとの統合もポーランド国王が許可したんだけどね。 当時は両国ともポーランドとの関係は良好だったからそれ自体は問題なかったんだが、 北方戦争の後にポーランドの国力が弱体化してからおかしなことになった。
ポーランドの国力が落ちたのを見て野心が湧いたんだろ
62 :
世界@名無史さん :2007/10/28(日) 04:49:51 0
ケーニヒスベルクはドイツ固有の領土です。
ケーニヒスベルクがいつドイツだったんだよ?
64 :
Ryuju ◆RlujhF6VrA :2007/10/28(日) 10:15:15 0
>>58 大陸欧州には土地があったから、次男や三男に分けてもやれたんだろう。
18世紀のフリードリヒ二世の時代ですら「平和のうちに一州を獲得した」と自賛するほど
開発する余地があったわけでね。フリードリヒ本人は長子相続を推進していたようだが。
で、土地がなくなったら、「未開の地」に植民に行くと。
ドイツ騎士団自体がそういう組織だったはず。
あとフランスなんかは売官制で、官職そのものが相続財産だったから、
娘の持参金代わりに土地や官職をやるということもあったようで、
それには分割相続の方が都合が良かったんでないかと。
65 :
世界@名無史さん :2007/10/30(火) 01:06:59 0
開戦直後の9/1に、開戦前に作られたポーランド西部のドイツ系住民のリストをもとに、1万〜1万5000人のドイツ系住民が 拘留状なしで逮捕され、クノトへの徒歩行進を強制された。 ポーランドは彼らを内部かく乱を図る恐れありとみなした のである。 彼らは40のグループに分けられ、行進のさなかに行く先々で警官とポーランド人住民が彼らに虐待を加えた ので、およそ2200人が死亡した。 歩けなくなったものは容赦なく射殺された。 多くの部落で激昂したポーランド人がドイツ系 住民の家に押し入り、放火、暴行を加えた。 その後の、9/3の日曜日の、西プロイセンのブロンベルグ市で、ポーランドはそこのドイツ系住民に対し、違法な武器、 弾薬、秘密放送局を摘発するという口実のもとに、軍隊、警察、そして、一般のポーランド市民が各ドイツ系住民の家に押し入り、 暴行を働いた。 両親が子供たちの目の前で、殺され、多数の婦女子が強姦された。 この日のブロンベルグだけで、 1200〜1500人が犠牲となった。(ブロンベルグの血の日曜日事件) その他の村々でも、多くのドイツ系住民が殺害された。 その数はリストに載っているだけで、3841名、リストに載っていないものも含めると、1万2000人以上のドイツ系住民が 1939.9月に殺害、あるいは拉致や戦闘の過程で殺された。。。 世界戦争犯罪辞典(文藝春秋刊) Peter Aurich, Der Deutsch-Polinische September 1939(Muenchen 1969) Oskar Heike, Die deutsche Minderheit in Polen bis 1939(Leverkusen,1985) この資料は、2002年に発行されたものだが、死者の数は1960年後半にいたるまで調査が行われ、その結果、1939年9月にポーランドで 殺害されたドイツ系住民の数は3841人と確定した もちろん、これはそれまでに明らかにされた数字であり、実際に殺害されたものの数は4000〜5000人、別の調査の報告では12000人と 類推されている ウクライナ民族主義者、ユダヤ人に対して、種々の暴虐を行ってきたポーランド、敵対し、国内にいた大量のドイツ系住民こそ最大の被害者で あったことは想像にかたくない 許せないのは、つい最近までのイエドワブネ同様、その罪業をいまだにポーランドは隠し続け、知らぬ存ぜぬを 決め込んでいることだ
ナチヲタは日本でもドイツでもドイツの悪逆非道の行いを相対化しようと必死ですな。
67 :
世界@名無史さん :2007/10/30(火) 16:19:54 0
ナポレオン戦争期のプロイセンは屈辱の連続だよな。 イエナとアウエルシュテットの戦いで大敗し、フランス軍にベルリンを占領される。 1807年のティルジットの講和ではエルベ河以西と第二次・第三次ポーランド分割で 得たすべての領土の放棄、1億2000万フランの賠償金の支払い、兵力の4万2000人 への削減と15万人のフランス駐留軍の承認という条件を飲まされた。
それが8年後にはザクセンの北半分、ラインラント、西ポメラニアを獲得するんだから 移り変わりが激しい。
ナポレオン戦争で、プロイセンが最終的に戦勝国になったせいで、シュタインと ハルデンベルクによる改革は不徹底に終わってしまったな。 農業改革ではユンカー支配のかたちで領主的な性格が残ったし、憲法や 国民代表議会の導入は、1815年の国王の布告によって約束されたにも かかわらず、実現しなかった。
71 :
世界@名無史さん :2007/10/31(水) 15:45:34 0
プロイセン人という意識はもう消滅したんだろ? 旧東ドイツからして、ベルリンと3つの州 ほかの領土は、ポーランドやロシアのもの
ドイツ史ではシュタインとハルデンベルクの改革が有名だが、ライン左岸地域、 ヴェストファーレン王国、ベルク大公国、バイエルン王国、バーデン王国、 ヴュルテンベルク王国における諸改革も重要。 1807年に制定されたヴェストファーレン憲法はドイツで発布された最初の憲法 として注目されるし、ライン左岸やベルク大公国では「営業の自由」などの諸改革を 行い、その後の工業の発展に寄与した。 バイエルン王国では大臣モンジュラが官吏に対する試験制度・内閣制度の導入を 行い、地方では郡―市町村の行政機構を整えて、それらを集権的に組織化した。 また1808年には憲法が発布されて、身分制の廃止と法の前の平等、財産権の保護、 信仰と出版の自由などが保障され、さらに「国民代表議会」の設置が定められた。 (この議会は結局招集されなかったが、西南ドイツにおける立憲運動に与えた 影響は大きい)
73 :
世界@名無史さん :2007/10/31(水) 21:05:26 0
>>72 それでも、「鉄と血」を用いずに、問題解決はなかったんだからな
・・とはいえ、フランスでも、義務教育の無償化と、男子普通選挙制の定着は、
第二帝政になってから
>>72 ポーランドの憲法は1791年発布な。それも民主憲法。
>>74 五月三日憲法な。タルゴヴィツァ連盟のおかげで改革の努力も台無しになったけど。
ヨーロッパでは昔から、
「王と王は対等であり、王冠(王国)は王冠(王国)を吸収できない」
という考え方が存在した。
それゆえヨーロッパでは同君連合、王朝連合という形ができあがる。
その意味でポーランド王国が分割によって消滅したのは異様な事態。
76 :
世界@名無史さん :2007/10/31(水) 23:44:17 0
ポーランドはシュレージェン、ポンメルン、東プロイセンを ドイツに返還せよ。オーデル・ナイセ線なんて認められない。
中部ドイツのナッサウでは1814年に憲法が発布され、イギリス型の 二院制議会が導入されている。 バーデンやヴュルテンベルクではバイエルンと同様、身分制を廃止し、 思想や信仰の自由が保障された。
>>74 主権在民と三権分立を明記した画期的な法典>五月三日憲法
このうちの主権在民でポーランドの貴族は賛成反対に二分された。
主権在民によって貴族の利益が大きく損なわれると考えた連中がタルゴヴィツァ派を作ったが、
これはプロイセンとロシアが手を回して反対派貴族を支援したもの。
開明派の貴族や平民は民主主義の平民への拡大によってポーランドは強国になると考えた。
焦ったのはプロイセンだった。
主権在民では強力な国軍を持つことを意味する。そうなるとプロイセンはポーランドに勝てない。
79 :
世界@名無史さん :2007/11/01(木) 19:11:06 0
プロイセンだってポーランドの属国に戻りたくはないだろうに。必死だわな。
>>79 プロイセンの場合、まだ常備軍であって国民軍ではなかったのでは?
日本語の「教養」は、ドイツ語の Bildung の翻訳語としてつくられたが、この ビルドゥングという言葉は、もとはと言えば「人間が神の似姿になる」という 宗教的な自己修練に由来する概念。
プロイセンの徴兵軍じゃ散兵としては使えないな 逃げちまう
84 :
世界@名無史さん :2007/11/05(月) 22:14:43 0
プロイセンは、イギリスやフランスのようにカリブ海に植民地を持たないので、 甜菜から砂糖をつくるようになったとか。
>>83 だからプロイセンでは幼児教育から軍国主義を叩き込んだんだろ。
1次大戦前くらいまで、プロイセンの軍国主義というのは「先進的な」体制だと考えられていた。
>>86 参謀本部のシステムが賞賛されていたんだっけ?
関係ないけど、17〜18世紀のヨーロッパでは啓蒙専制君主制が
優れた体制だと考えられていた。
>>87 > 関係ないけど、17〜18世紀のヨーロッパでは啓蒙専制君主制が
> 優れた体制だと考えられていた。
逆にイギリスなんかの議会制が、遅れた不完全な体制だと思われていたんだよね。
ポーランドの選挙王政は?
それは今では民主的ポーランドの偉大な歴史的象徴みたいに言われたりする訳だから歴史の評価ってのもアレだ。
フランスの文学者ポール・ヴァレリーは、『方法論的制覇』でドイツのシステムに ついて論じている。 「・・・各小部門には数百人の人が住む。一々の試みは集団全体によって支えられ、 ―しかもその集団は元来紀律的である。ここにおいては、理知の社会的悪徳、 すなわち無紀律ということが影を潜める。ただ驚嘆すべき一つの道具が残るだけだ。 すなわち紀律的な理知。そしてそれはもはや一つの道具にすぎなくなるのである」 「ドイツの商業は、軍の如く、巧妙な運輸組織に奉仕されている。軍隊はもっとも 多数到着しなければならぬとすれば、物産はもっとも僅少な費用で到着しなければ ならない。しからば、この経済的動員を確実ならしめるのは、幾多の特殊な協約、 あらゆる性質の便宜、相互の犠牲である。そして、総軍参謀部によってたてられた 戦略方式の総体を研究してみればみるほど、いよいよ、ドイツ国民によって採用 された生産と取引の方式の中に、同一傾向の他の一形式が観取され、またいよいよ、 その手段は各様であり、その成功は規則的であり、その目的は簡単明瞭膨大な、 単一の一行動を考えたくなってくるのである」
94 :
世界@名無史さん :2007/11/08(木) 20:04:49 0
1613年にブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントはルター派から改革派へ 改宗したが、その際、支配下の領邦諸身分の宗教はそれまでどおりルター派の ままにとどめおいた。 なんでこんなことをしたんだろう?
>>94 カルヴァン派についてはヴェーバーのプロ倫を嫁。明確な答えが出る。
はあ? 何でもかんでもプロ倫持ち出しゃいいてもんでもねーだろ。
>>94 ヨハン・ジギスムントがライン下流のユーリッヒとクレーヴェを相続すると、
ただちにそれをめぐって多くの争いが生じた。彼のほかにも相続請求権を持つ
競争者がいたためである。
ユーリッヒとクレーヴェではカルヴァン派が主流を占めており、ヨハン・ジギスムントは
競合者に対抗して、同地のカルヴァン派の人々を味方に引き入れるためにルター派から
カルヴァン派に改宗した。
しかし政治的混乱を避けるため、ブランデンブルクと東プロイセンの臣下をあえて
カルヴァン派に改宗させることはしなかった。
17世紀においてはまだ不自然なことであった宗教的寛容が、上から強要される
ことになったのである。そしてこの寛容が、時代が経つにつれて宗教への無関心に
移行し、さらに国家への義務感が神へのそれよりも強くなっっていった。
98 :
世界@名無史さん :2007/11/09(金) 22:14:11 0
>>88 欧州諸国で、国の経済力でイギリスに勝っていたのは、フランスくらいじゃなかったの?
>>98 イギリスは17世紀には貴族の反乱やら清教徒革命やらで国内ガッタガタ。
他国の目から見れば薬にもならない状態。
>>99 17世紀に関してはドイツは三十年戦争で目も当てられない状態だし、フランスにしてもルイ14世治世の初期まではフロンドの乱なんかでガタガタだ。
比較的マシだったのはオランダあたりか?
>>100 その後、名誉革命でオランダのウィレム(ウィリアム)3世が英国王になって
ルイ14世の覇権に抵抗するようになるんだよな。
その後、大同盟戦争でフランスVS英国、オランダ、ドイツ諸侯、オーストリア、
スペインという構図で戦う。
102 :
世界@名無史さん :2007/11/09(金) 23:22:10 0
>>100 17世紀には、欧州の気候そのものがガッタガタ。
陸地は、放置すると、すぐに森で覆われた。
寒冷かつ湿気の多い気候で、農業生産力も振るわなかったはず。
>比較的マシだったのはオランダあたりか そうだな。 17世紀中葉の同時代人の視点からだと、 仏:やっぱり大国 西:衰えたりとは言え、やっぱり大国 の二強に加えて、オランダ・スウェーデンあたりが大国だろうな。 このうち西・蘭・瑞が相対的にか絶対値でか落伍して、 イギリス(財政革命)、オーストリア(対トルコ戦争で領土倍増)、ロシア(スウェーデン潰し)、 それにフリードリヒの軍事的ギャンブルに成功したプロイセンが大国化するのが18世紀。 この5強体制は基本的にWWIまで続くことになる。 17世紀中葉の次点で、イギリス・ロシアはともかく、次はプロイセンが来ると思ってた人間はあんまいなかったんじゃないの。
>>103 その5強のうち、フランス、オーストリア、ロシア、プロイセンは啓蒙専制君主による絶対王政だね。
そりゃあ絶対王政の方が優れた政体だと思うわw
>そりゃあ絶対王政の方が優れた政体だと思うわ ヴォルテールみたいに英国国制礼賛者はたくさんいたから、 「大陸型啓蒙専制>英国型混合君主制」という絶対的な評価が必ずしも流通してたわけじゃないと思う。 むしろ「あれはちょっと真似できんよな。うちはこれで行くしかない」って、次善の選択じゃないの? これが19世紀になると英国型立憲君主モデルは、東中欧支配層の有力選択肢になるけど。 もっとやばいフランス型共和制モデルよりマシだから。
>>105 英国人自身、自国の国制は他国に輸出できるようなものではないと考えていたようで。
スウェーデンの場合、カール12世(絶対君主)が無茶をやったから没落が早まった。
その次に「自由な時代」と呼ばれる議会政治の時代が来るが、腐敗がひどくて
グスタフ3世の時代にまた絶対王政に戻る。
107 :
世界@名無史さん :2007/11/10(土) 08:24:55 0
>>106 戦前の日本でも、大正デモクラシーの時代の選挙干渉や政党間の足の引っ張り合いがひどかったからな。
おまけに、貴族院が、労働組合も婦人参政権も帝国大学の増設も借家人保護もことごとく反対した。
庶民にとってよいことをしてくれないなら、無用となるのも無理はない。
イギリスの議会も、庶民院にしてからが、地主の談合機関の性格から、なかなか抜け出せなかった
1832年の選挙法改正がなければ、どうなっていたか
108 :
世界@名無史さん :2007/11/10(土) 08:29:30 0
>>105 >もっとやばいフランス型共和制モデルよりマシだから。
そのフランスにしても、ルイ・フィリップ国王が、ギゾーを信頼しすぎて
選挙権の拡大に反対などしなければ、
英国型立憲君主モデルが永続していただろうな。
ギゾーは、有名な歴史家で、実務家としては有能だったのに、
この問題での対応はなぜあんなにも硬直していたのだろうか?
109 :
世界@名無史さん :2007/11/10(土) 08:44:09 0
>>21 >各領邦は高い知識と見識を持つ官僚制を設立した
>いわゆる他の欧州地域に例を見ない官僚的絶対主義である
でも、西北ドイツの諸侯は、アメリカ独立戦争で、
領民の若者を傭兵(実質は奴隷兵士)としてイギリス軍に売ったり、
めちゃくちゃだ。
>>87 >>93 フォードが、当時のプロイセンの方式を、自動車工場で真似たというね。
日本では、陸軍参謀本部や海軍軍令部の設置には成功しても、統合参謀本部の設置に失敗。
いや、統合参謀本部は、ドイツでもナチス時代に試行して、失敗したか。
旧日本では、参謀クラスはいても、司令官として広い視野に立つ人材の養成がなかったのが、致命傷?
ヨーゼフ2世が農奴解放、宗教寛容令、ドイツ語公用語化、ハンガリー古来の県 (コミタート)の廃止と画一的な行政区画(ディストリクト)の導入などを行おうと したときも、ハンガリーの身分制議会の反対にあってその大部分を撤回しなければ ならなかった。 フランス革命の発端になった三部会招集も、本来は貴族が特権を守ろうとして 国王に要求したもの。 1789年以降、フランスのみならず、フランス軍に占領された国々でも身分制 議会が廃止されることになったけど・・・
>>108 貧しくて無教養な連中を信用していなかったんだろうか?
あと、二月革命以前には、知事たちも大臣の怒りを買うことを恐れて
世論や国民の動向について率直な報告を提出していなかったとか。
112 :
世界@名無史さん :2007/11/10(土) 09:18:31 0
>>111 下が上に悪い情報を教えないと、上は舵取りを誤る
ナポレオン1世のローマ法王との協約は、警察や知事の農民の意識調査の賜物
ロシアのニコライ2世の、政局ごとの対応の誤りも、これが原因だったのかも。
ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムは、1653年に領邦議会と、 貴族たちが持つ自己の所領農民への人格支配権、並びに様々な特権を承認する 代わりに、召集した軍隊を向こう6年間にわたって維持するための租税を毎年 支払う、という協定を結んだ。 だが6年経っても租税は徴収され、恒常化され、身分制議会は有名無実化していった。 さらにプロイセンでは領邦議会が抵抗したため、フリードリヒ・ヴィルヘルムは 1662年、軍を率いて反対派の首領を逮捕・投獄してこれを鎮圧した。 (ただしプロイセン公国に属していたクレーフェ公国やマルク伯領では、18世紀の 終わりまで自由に議会を召集する権利と課税承認権を保持していた)
>>111 つーか、当時のフランスは、貴族と庶民は明らかに別人種だったからねえ。
貴族が見下すだけでなく、庶民の側も「国王や貴族は所詮野蛮なゲルマン人の子孫。俺たちは栄光あるローマの
伝統を継ぐラテン人の子孫」と言っていたとか。
プロイセンの官僚制は、ドイツ騎士修道会がシチリア王国の官僚制をモデルと して出来上がったものだという説があるそうで。 シチリア王国は中世には珍しく官僚制が整備されていた国だが、これはどうも アラビア起源らしい。 政治制度はアラビア起源の官僚制とノルマン・ランゴバルド起源の封建制が共存し、 宗教もカトリック、東方正教、イスラームが共存していた。
116 :
世界@名無史さん :2007/11/10(土) 23:19:42 0
>>114 今日のフランス人の3人に1人は、当時の貴族、庶民いずれでもない外国からの移民
を先祖にもつという。
19世紀末の少子化の時期に大量に受け入れたらしい。
旧プロイセンの方も、どうだろうな?
先祖がポーランドやフランスに遡る人は多かろう
プロイセン人はもともとバルト系やスラヴ系の血が色濃く流れているからな。
119 :
世界@名無史さん :2007/11/15(木) 03:43:14 0
ドイツやオーストリアの貴族や軍人って、意外とスラブ系の名字が多いよな。
逆にスラヴ諸国でも、ドイツっぽい苗字の人がいたりする。
121 :
世界@名無史さん :2007/11/15(木) 09:30:20 0
戦後のドイツ人追放を免れた人はいないのかね? 親戚がスラヴ人とか アイヒマンの妻がチェコ人だったっけ?
>>121 ポーランドの場合原則的に、ポーランド国籍を取得すれば追放を免れた。
ポーランド語の習得およびドイツ語の放棄が条件。
ただしナチ党の党員等は問答無用で追放。
チェコスロバキアでは「ベネシュ布告」により、ドイツ系(スラヴ系ドイツ人含む)は全て追放。
ベルリン、ドレスデン、ライプチヒ、ロストク これみんなスラヴ語の名前。
初期のプロイセンは、ブランデンブルクと東プロイセンが飛び地のように 離れていたんだよな。 その他にミンデン・マルク・クレーフェなどにも所領があり、これらが同君連合 という形で結びついていたに過ぎない。 これらをばらばらにすることなく発展させるには、軍事力を背景とする国家的 自己主張や、官僚制を中心とする合理的な国家運営を必要とした。
プロイセン?いいえポーランドです。
126 :
世界@名無史さん :2007/11/15(木) 19:02:06 0
スラヴ系の姓を名乗る貴族や軍人って、第三帝国時代、引け目を感じなかったのかな?
127 :
世界@名無史さん :2007/11/15(木) 19:23:18 0
トレスコウとかスコルツェニーとか。
128 :
世界@名無史さん :2007/11/15(木) 19:49:38 0
129 :
世界@名無史さん :2007/11/15(木) 20:01:41 0
130 :
世界@名無史さん :2007/11/15(木) 20:38:39 0
>>128 おいおい SSにさえそんな将校がいたぞ
マンシュタインはポーランド貴族。
ヒトラーはウクライナの百姓。
ポーランドの現在の領土は全く正当性がないと思います。 今までのスレでも何度も述べられてきてますが、第一次大戦後の、どうみてもドイツに不利な条件下での 住民投票でもドイツ領として残った地域です。 シレジアをはじめ当時この地域は、もともと人口の希薄地域でしたし、そのまえはゲルマン人の居住地域でもありました。 世界史の地図では、色塗りでスラブの進出によって、彼らの居住地域のように描かれていますが、 移動しなかったゲルマン人も残っていたのであります。 そこへ、ドイツ人の鉱業作業者、手工業者が入ってきて、数百年の歴史の変遷を経て、ドイツ人の土地として、 ドイツの血となり、肉となってきた地域であります。 それを、戦後の、一瞬の時期に、もぎとり、数百年来住み着いていたドイツ人を追放し、多くの出血と命を奪ったことは 単なる補償問題ではなく、国家的犯罪として責められるべきでしょう。 これは、最近、コソボ問題で、住民の多数を占めるアルバニア人地域を、セルビアという犯罪国家が民族浄化しようとしてNATO軍の 制裁を食った話と似てます。 もっとも、ポーランドのやったドイツ人への民族浄化は、この規模をはるかに上回るものでありました。 ポーランド人は自分たちが戦争被害者だと戦後強調してきましたが、それこそ自分たちがやってきた国家的犯罪行為を覆い隠すための 言い訳にしかない。 そのようななかで、周辺の誰も助けてくれなくなった現在、かつて犯罪的行為をおこなったドイツ人に対してますます おんぶにだっこせざるを得ない状況になってきている。 EUの世界で国家間というわくぐみがはずされつつある今後、ますます個人財産の 尊重という意味ではポーランドはかつて奪ったドイツ人の土地、家、財産を返差ざるを得なくなるのは当然のなりゆきでしょうね。
ポーランド人がポーランドに残ることを許したのは、南プロイセンのスラブ系マズール人、 シレジアのドイツ国籍を持った一部のポーランド人に近いと思われた連中だけ、もっとも 彼らポーランド人に近い連中さえ、だれもポーランド人やソ連軍と一緒になって悪逆の限りをつくした ポーランド民兵など信用していなかった。 多くは、ドイツ人避難民と一緒にドイツへ逃れた。 当時、戦後、残ったドイツ人もことごとく強制収容所に入れられ、拷問、殺人、強姦を受けた。 その数は20万とも言われている。 そもそも、戦後、旧英米ソ連合国間で、合意のないまま、ポーランドはシレジア、ポメラニアから ドイツ人を家土地を奪い、あまつ命さえも奪って追い出し、その跡地に東部ポーランドからの引揚者を 住み着かせた。 彼らは、ポーランド東部の貧しい地域から、いきなり肥沃で、工業の盛んな、裕福な家畜付の ドイツ人の去った家を占有し、ホクホク顔で戦後の生活を手にしたのである。 去ったドイツ人たちは、旧西ドイツでは、避難先の住民の人達が家の広さに応じて、見ず知らずの彼らを受け入れ、 生活の安定するまで面倒を見ることになった。 ひどい話だ。 残されたのは、というよりポーランドが残したのはオーバシュレージェンのオッペルン地方のドイツ人、ここは石炭産業がさかんなところで、 優秀な採掘技術者を必要とした。 それは、戦後、かなりたった1985年のときでさえ、当時のポーランド副首相が、 (1981年以降の戒厳令以降、この地域のドイツ系住民の出国が急増したときに)、「この地域のドイツ人石炭労働者の出国を 認めると、わが国の重要な輸出品である石炭(ものもとドイツのものだ)の生産に障害が起きる」と発言したことだ。 要は、ポーランドに残ったというより残されたドイツ人は強制的にポーランド国籍を持たされた上、 先祖伝来の墓石さえもポーランド風に書き換えることを強要された。 追放にあたって、徒歩での行進を指示され、ひとり5キロまでの荷物の制限、これは乳飲み子を抱えた主婦、子供、老人では 途中での飢え、疲労で倒れるのを見越した扱いとしか思われない。 卑劣国家ポーランドよ! 呪われよ!
戦争の結果国際条約で確定した領土のどこに正当性の瑕疵があるというんだか
>>135 しっ、相手にしちゃだめ!目をあわせないように!
137 :
世界@名無史さん :2007/11/16(金) 20:39:17 0
【国際】元ナチス協力者のウクライナ移民男性、米国籍はく奪で強制送還
【11月16日 AFP】第2次世界大戦後、米国に移住したウクライナ移民の男性が、ナチス・
ドイツ占領下のポーランドでユダヤ人大量虐殺に関与していたとして、米国籍をはく奪さ
れウクライナに強制送還されていたことが15日分かった。
この男性は、1949年にウクライナから米国に移住したOsyp Firishchakさん(88)。米
司法省によると、米国に移住した際、元ナチス(Nazi)協力者であることを隠し、戦時中
の活動について虚偽の申告を行って米国籍を取得したとされる。
同省は、1979年に米国内のナチス関係者を捜索する特別チームを創設。その結果、米国
内に居住する元ナチス党員とその協力者107人の身元が特定された。Firishchakさんの身
元も、同チームにより判明した。
同省の説明によると、Firishchakさんは、ナチス占領下ポーランドのリボフ(L'viv)
でユダヤ人10万人以上が虐殺された事件に関与したとされる。しかし、Firishchakさんは
同事件への関与を否定。米国籍はく奪の決定を不服として2005年に提訴した。
しかし、シカゴ(Chicago)の移民担当判事は「人間の品位に対する史上最も凶悪な犯
罪行為を行った組織の関係者」として、Firishchakさんに対する国籍はく奪決定を支持。
また、Firishchakさんの証言についても「信用できるものではない」と切り捨てたうえ、
「言い逃れは許されない行為に対して弁明を試みるなど、恥ずべき行為だ」として、Firi
shchakさんの訴えを却下した。
しかし、ウクライナ政府がFirishchakさんの受け入れに消極的な姿勢を示していること
から、Firishchakさんの身柄はドイツかポーランド、または「受け入れる用意のあるその
他の国」に移送されるものとみられる。
ソース
http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2312489/2357993
138 :
世界@名無史さん :2007/11/17(土) 12:17:45 0
自分の言葉に要約しろ、コピペ房
そんな理屈は成り立たないね。 オーデルナイセ線は、終戦後も、確定したものではなかった。 米英も反対していた。 それに、終戦直後、そのはっきりしない状況のまま、ポーランドは自発的に自分たちの占領した オーデルナイセ線以東のドイツ領からドイツ人の土地、家、財産を奪った。 あげく追放した。 そして、既成事実をつくりあげようとした。 割譲うんぬん以前に、個人の土地、財産を奪う権利などない。 西部のアルザスや、オイペン、シュレスビヒホルシュタインが、国境の変更でありながら、大きな問題と ならなかったのも、そこの住民の財産権、居住権は影響をうけなかったからだ。 ところが、ポーランドは、併合した領域からことごとくドイツ住民を着の身着のままで追放し、家、土地、だけでなく 多くのドイツ住民をリンチ殺人にかけ、避難途中で、飢え、疲労で死なした。 その罪業は永久に消えないし、 その住民の財産権も永久に消えない。 領土割譲以前にその国家的犯罪は永久に歴史に残る。
ヴェルサイユ体勢におけるドイツ東部国境線画定には問題があった 1919年2月の暫定国境線案では西プロイセンはドイツ、ヴァルテガウ(ポズナニ)はポーランドに帰属することになっていた これは実際の民族分布に合っていた しかしながらドイツを弱体化し、ポーランドを強化するため、海への出口の口実のもとフランスが強い圧力をかけ、西プロイセンをポーランドに譲渡した いわゆるポーランド回廊である
141 :
世界@名無史さん :2007/11/23(金) 18:02:24 0
第二次大戦中、スラヴ系のドイツ貴族や軍人は迫害されたの?
142 :
世界@名無史さん :2007/11/23(金) 18:36:35 0
>>141 ナントカスキーとかスラヴっぽい名前の軍人でも
たまたま領地が旧スラヴ地域にあるまたはあっただけで
プロイセン貴族の流れを汲むユンカーにして名誉あるドイツ軍人だとは思っていても
自分はスラヴ人だなんて自覚はまったく無かったはずだよ
ナチスはもともとプロイセン系のユンカー出身将校とは確執があったとはいえ
迫害などというレベルのものはあるはずもなかった
もっともプロイセンのユンカー連中があれだけ鼻持ちならないのは
ポーランド貴族の血が混じってるからだよみたいな陰口は
ナチス以前からドイツで言われてたみたいだから
ナチス党員なんかは裏ではあのスラヴ野郎めみたいなことを言うやつはいたかもしれないけどね
143 :
世界@名無史さん :2007/11/23(金) 18:37:37 0
>>140 フランスは、ユーゴスラビア建国の立役者でもあるな
まったく、ろくに長期的視野もないくせに、やけにしゃしゃりでるな
>>142 スラブ人だという自覚はあったよ。
当然、プロイセン系の軍人はヒトラーやナチスが嫌いだった。
だが一方、プロイセン軍人のプライドは、身命を賭けて上に従うことであったから、
為政者が右向け右と言えば、いくらそいつを嫌いでも右を向くのが当然のこととされた。
>>144 そういえばプロイセン地域は、ナチスも選挙で弱かったな。
そりゃプロイセンから見れば オーストリア出身でバイエルンで兵役について ミュンヒェンを拠点に政治活動をやったヒトラーなんて プロイセン主導のドイツと言う価値観からは著しく懸け離れているから いくらドイツ民族の復興とか言われても心情的に支持する気になれないのは当然のこと というかプロイセンから見ればヒトラーなんてどう見ても反プロイセン勢力だし いくら東方領の回復とか言われても大賛成ってわけにもいかないものがあったんだろう
ポーランドは北朝鮮同様キレ易い民族。 そのために、内戦で弱りきっていた旧ソ連、弱いものいじめのリトワニアに対する 軍事恫喝、ドイツ人へのズテーテン返還に便乗してチェコのチェシンを奪い、 今度は、ドイツ東部領土に目をつけた。 国内では、ドイツ系住民への迫害行為が頻発していた。 ポーランド国内では、オーデルナイセ川の西側も含め、スラブ人が居たと考えられる すべての地域の併合を考えていたポーランドの「西部支援協会」は特にラジカルだった。 こういった行為は当初ポーランドに融和的だったヒトラーの考えを返させるには十分だった。 何よりも、ドイツ軍の中核をなすプロイセン軍人たちにとって、ポーランドの卑劣な挑発行為は ポーランド地域に残してきた親戚、家族を思えば、その気持ちは十分に理解できる。
148 :
世界@名無史さん :2007/11/24(土) 09:59:18 0
>>146 プロイセンという国は軍事国家でドイツ語を公用語にしていたが、
その内情は多民族共生型の国家で、ポーランド系貴族もドイツ人貴族と同等のプロイセン貴族の地位を持っていた。
プロイセン系の軍人にとって世界は民族でできているものでない、すなわち国家は国民国家でない。
そもそもプロイセン人にとっては「民族」という概念が薄い。
彼らの国家観は日本の戦国大名の「国」に近い感覚だろう。
そこがヒトラーの国家観と全く違うところで、ポーランド系も多数いたプロイセン軍人がポーランドを相手に戦ったのも、
彼らにとって戦争というものがプロイセンの武士とポーランドの武士による男と男の正々堂々とした戦いであって、
ドイツ民族とポーランド民族の戦いではなかったからだ。
民族民族とオウムのように繰り返すヒトラーを見て、プロイセン系のドイツ軍人は「あいつは女の腐ったような奴だ」と心底軽蔑していたという。
プロイセンは領土拡大の折にポーランド系貴族をすこし入れたんだ それで血が汚れたという人もいる プロイセン士官の高慢さや愚かさはポーランドの血だとかなんとか
150 :
世界@名無史さん :2007/12/29(土) 10:03:26 0
>>93 マルクスの父親がユダヤ教からプロテスタントに改宗した。ルター派かカルヴァン派か、
どの伝記にも書いてなかったが、18世紀か19世紀にプロイセンでは、両派が
合同されたという記述を読んだこともある。誰か教えて。
>民族とオウムのように繰り返すヒトラーを見て、プロイセン系のドイツ軍人は「あいつは女の腐ったような奴だ」と心底軽蔑していたという。 ドイツ系のスレでポーランド人が優秀とか連呼してるやつも同じだなw
>>151 そう言うスレの何十倍も「ポーランドは卑怯鬼畜」書き込んどるドイツオタの方が多いがw
153 :
世界@名無史さん :2007/12/29(土) 15:13:45 0
敗戦でなにも言えないドイツから当時の弱者のドイツ住民を本来のドイツ領から銃剣で着の身着のまま追い出し、 殺し、奪い、拷問をくわえて根絶やしにしたのは誰かね こいつらの共通して言っていることは、それはソ連共産政権とつるんだルブリン政権のやったこと 一般のポーランド住民はあずかり知らぬことといっているようだね つい最近のイエドヴァブネのユダヤ人殺害事件も、ドイツがやったことで一般住民のあずかりしらぬことだったんだんだよな 斧やこん棒でユダヤ人を撲殺し、生き残ったものも納屋に押し込め生きたまま焼き殺したのはどこの ポーランド人だ。 事件後、周辺の村々からハイエナのようなポーランド人が荷車を引いて、死んだユダヤ人の 金目のものを狙って押し寄せたのは・・ 卑怯者はポーランド、それを支援するおまえだろ ポーランドが弱者というのなら、戦争前、ベルリンを一週間占領してやるとドイツを挑発しまくり、西プロイセンのドイツ系住民を弾圧、 迫害し、結果的にドイツを戦争に駆り立てたのは誰かね。 すでに、英のチェンバレンが1939年3月にこのまったく信用できないならずもの 国家ポーランドに支援の保障を与えたことですでに戦争の道は開かれていた 開戦の責任の8割がたはポーランド第二共和国の思い上がりにある
155 :
世界@名無史さん :2007/12/30(日) 22:36:09 0
ポーランド人はプロイセン人になれたが、ドイツ人にはなれなかった。
156 :
世界@名無史さん :2007/12/30(日) 22:46:48 0
>>156 155はあるポーランド人の言葉。実際に誰の言葉なのかは知らん。
で、ヒンデンブルクはポーゼン出身だが、いちおうユンカーなんだからドイツ人だろ?
ユンカーだからといって純粋ドイツとは・・
>152 だからどっちも同類って事だろ。
160 :
世界@名無史さん :2007/12/31(月) 08:47:40 0
ドイツ統一前に東ベルリンに行った。「フランス人通り」があった。 フランスから亡命したユグノーの街。ユグノーが建てた教会も見た。当時の ベルリンはユダヤ人も多く、コスモポリタンだった。 民族を超えた人口国家、それがプロイセン。ドイツ民族主義はフランス革命後。
161 :
世界@名無史さん :2007/12/31(月) 08:48:50 0
○ 人工国家 × 人口国家
>>158 純粋ドイツ人かどうかということではなくて、当人の民族的アイデンティティの問題。
164 :
世界@名無史さん :2008/01/03(木) 14:25:19 0
日本でも、新宿のところに引揚者記念館なるものがあるけど、 ドイツの場合、もともと追放された場所はドイツ固有の領土でありドイツ人の居住地域だった。 その地域をポーランドはドイツ敗戦のドサクサに紛れ、当時ドイツの敵対国だった 米英の反対を押し切って史上まれにみる追放劇を行った。 その罪をポーランドは認めようとしないなんて、いかに卑劣な国家化がわかる。 戦中におきたユダヤ人虐殺の罪もすべてドイツ人に押し付けていた国家だから 今更、自らの罪業の反省がない点はいささかもおどろきはしないけど EUに入ったいまでもそのような調子ではほとほとあきれた国家だと思わざるを得ない。
165 :
世界@名無史さん :2008/01/03(木) 14:37:24 0
>その地域をポーランドはドイツ敗戦のドサクサに紛れ、当時ドイツの敵対国だった >米英の反対を押し切って史上まれにみる追放劇を行った。 追放はポーランド抜きで米英ソが決めたことだろ 何出鱈目言ってるんだおまえ?
166 :
世界@名無史さん :2008/01/03(木) 18:02:57 0
いつまでも、そのような詭弁が通用すると思っているんだろうか。 戦争中、直後ののポーランドの歴史はウソで塗り固められている。 イェドワブネのユダヤ人虐殺の罪をドイツになすりつけるのは朝飯前。 イェドワブネのユダヤ人殺しでは、近隣の村々から、空の荷車をもった連中が押し寄せた。 ユダヤ人の家から金目のものを奪うためにだ。 おぞましいの一言に尽きる。 東プロイセンからポーランド人の居住地域を通過する際、もしくはドイツ系住民の避難の際どのような非道がおこなわれたのか。 何かと言うと、このようなキチガイポラックヲタは、「ポーランド人の責任ではない、ソ連軍、その傀儡の共産主義者の責任」だと 言い張る。 しかも、おまえは 旧ドイツ住民の財産はソ連占領によって奪われたのであり、ポーランドに対して賠償を求めるなどは筋違いも甚だしい。 ポーランド住民は善意の第三者であり、法的にもドイツ旧住民に対し何の義務も負わない。 にいたって当時の状況を何も知らないアホウとしか思えない。 その善意の第三者がなにをした。 何人の無抵抗のドイツ人の女子供を殺したんだ。 その奪ったドイツ人の土地と財産でもっとも恩恵を受けているのは誰なのか。 ほかならぬポーランド人自身だよ。 ポーランド東部に住んでいた貧しい生活をしていたポーランド人が、シレジアのドイツ人から奪った家畜付の住家にすみついて、 ホクホク顔でNHKの記者に現在の生活の満足度を話していたドキュメンタリを覚えている。 ドイツ人からしてみれば、実に胸糞悪い話だ。 それをソ連軍に責任転嫁するのはイェドワブネでドイツになすりつけたのがうまくいったからか。 ドイツ人追放記念館ができたあかつきには、このおぞましいポーランドの歴史を明確に刻み込んだモニュメントを期待したいね。
と、負け犬ジャガイモことドイツ廚が見えない敵に一生懸命自分の全存在をかけて吠えています。
168 :
世界@名無史さん :2008/01/08(火) 22:17:44 0
>>16 5
追放はポーランド抜きで米英ソが決めたことだろ
それはウソだね。
その追放劇は、米英の国境設定が決まらないいまま、ポーランドは奪ったドイツ領に
残留しているドイツ人を強制収容所に押し込め、強姦、暴行、恣意的な殺人を働いた挙句
5キログラムまで制限した荷物をもって銃剣で脅して追放したのは既成事実を早くに
してしまおうと言うポーランド人の悪意ある行為だ。
又その追放劇の途中で略奪、暴行、飢え、疲労で老人、女子供を中心に200〜300万を
超えるドイツ人を死に至らしめた。
その悪行の罪は永遠に消えはしないさ。
>>168 と、化け物キャベツ男ことドイツ厨が見えない敵に一生懸命自分の全存在をかけて吠えています。
170 :
世界@名無史さん :2008/01/10(木) 01:00:06 0
ドイツ人の血をもつというよりドイツ人の固有の領土シュレージェン、ポンメルンから戦後、 ドイツ人という理由だけで着のみきのまま強制収容所のぶち込み、暴行、虐殺、略奪、強姦をかさね 家、土地、財産を奪った挙句、追放しその途中で何百万ものドイツ人が命を奪った。 それでいて、ポーランド人は戦後、戦争の被害者ヅラして、イェドワブネをはじめとするユダヤ人虐殺の 罪をドイツに押し付け、ドイツ系住民の虐殺に知らん顔している。 そしてドイツから奪ったシュレージェン、ポンメルンが過去700年ドイツ人の土地として繁栄してきた 歴史を抹殺、理不尽なドイツ人追放の歴史的事実をたなにあげて、ドイツとの歴史教科書の共有化、このもの 自身がサヨドイツ人のしわざだが、その自虐的な彼らでさえ、追放の正当化、700年のこの地方のドイツ人の歴史を 無視するような歪曲した歴史をドイツに押し付けようとして平然としているポーランドの卑劣さには辟易しているという。 戦後、中国や韓国が日本に対してやった以上の理不尽をポーランド人はドイツ人にやってきた。 多くのドイツ人がポーランド人を蔑むのは当然だと思う。
>>170 と、永遠の負け犬ことドイツ厨がワンワン鳴きながら書き込んでいます。
172 :
世界@名無史さん :2008/01/11(金) 00:30:21 0
>>165 追放はポーランド抜きで米英ソが決めたことだろ
うそだね。
国境の変遷の話はあった。
しかし、最終的に決まってなどいない。
戦後も、米英はソ連、ポーランドが一方的に行ったこのオーデルナイセ国境変更に反対していた。
もともと連合国は戦後にドイツに対して領土的野心などないことを表明していたはずだが。
敗戦で何もいえないドイツに対し連合国はかつての西ドイツ地域を米英仏で、
中部ドイツ(戦後東ドイツと呼ばれた地域)はソ連の管理地域とされた。
そして、本来の東ドイツ地域(ポンメルン、シュレージェン、東プロイセンなどポーランドが強奪した地域)は
暫定的にポーランド管理区域とされたが最終的な国境線の決着などつかなかった。
しかし、ポーランドはドサクサに紛れその管理区域を自国の領土のように扱いもともとドイツ人の居住区域であった
その地域から1000万を越すドイツ住民を着の身着のまま追放して、そこを自国の領土として既成事実化
しようとした。
戦後、あまり知られることのなかったこの非道な追放劇のなかで多くのドイツ人がその過程で命を落とした。
その数は200万〜300万と推定されている。
そして、その罪業を自国はナチの侵略を受けた被害国家だと被害者ぶって隠そうとする。 もっとも戦争の口火を切った
要因ももともとポーランド人自身の第二共和国の暴力団国家が引き起こしたものだ。
そして、戦中におこなったイェドワブネをはじめとする多くのユダヤ人虐殺の罪をドイツ人に押し付けつい最近まで
のほほんとしていた。
デタラメどうこう言う前にもう少し歴史を勉強したらどうですか。
173 :
世界@名無史さん :2008/01/11(金) 00:58:59 0
174 :
世界@名無史さん :2008/01/11(金) 07:48:53 0
ポーランド国内に残っているドイツ系住民は2002年の国勢調査では152,897人と判明しているが、彼らには少数民族としての一定の権利が与えられており、 比例代表制の国政選挙でも最低得票率5%制限条項の対象外となる優遇措置が採られている。 また、ポーランドの少数民族関連法によりオポーレ県などにあるドイツ系少数民族が居住する各郡では第二言語としてドイツ語の公用語としての使用も許されている。 ↑ポーランド人は人が良すぎる。こんな優遇措置はとっとと廃止しろ。 在日特権と同じではないか。在日朝鮮人と在波ドイツ人は即刻市民権を剥奪して追放したほうがいいよ。
175 :
世界@名無史さん :2008/01/11(金) 23:42:21 0
変態の本場ドイツ
ドイツ人カップル、サド・マゾ目的休暇がばれて解雇
[ 2008年01月11日 13時03分 ]
http://www.excite.co.jp/News/odd/00081200024262.html [ベルリン 10日 ロイター]
中年のドイツ人男女2人がトレーニングセミナーに出席すると勤務先にうそをつき、
サド・マゾの性行為を行うために休暇を取っていたことがわかり、解雇された。
このカップルはドルトムントにある老人ホームに勤務。2人は同国東部で開催された
教育セミナーに出席していたと述べていた。このセミナー費用は勤務先が負担している。
しかし、その後老人ホーム側に内密の情報が寄せられたことから、この2人がオランダとの
国境近くにある、サド・マゾの性行為愛好者が使用するホリデーアパートメントに行っていたことが
明らかになった。
その後男女はセミナーを欠席したことを否定。ホーム側はこのカップルを裁判所に連れて行き、
セミナー自体が開催されていなかった事実を受けて2人は解雇を受け入れたという。
ドルトムントの労働裁判所のスポークスマンは10日、「こんな事例は今まで扱ったことがない」
とコメントした。
176 :
世界@名無史さん :2008/01/12(土) 00:25:07 0
ポーランドの前科 ポーランドは中世からウクライナを侵略したし、リトアニアを吸収併合し てからはロシアを侵略した 第1次世界大戦後、ロシアを侵略、リトアニアのヴィリニュス地方を武力併合し ヴェルサイユ条約により10万に軍隊を制限され、国防力を喪失したドイツのオー バーシュレージェンを侵略し併合した ナチスがオーストリアを併合した同じ日にリトアニアに最後通牒をし、ヴィリニ ュス地方をポーランド領と認めさせた ナチスがズデーデン地方を併合しチェコを保護国化した時、ポーランドはナチス に協力し、チェコから工業地帯のチェシン地方を併合 またユダヤ人虐殺に関してもポーランドは官憲でなく一般人によって行われた 1848年のドイツ帝国領のポーゼン地方のヴレッシェンで婦女子を含むユダヤ人を 虐殺 1941年東ポーランドのイェドヴァブネ他10ヶ所足らずで婦女子を含むユダヤ人を 多数虐殺(ドイツ軍の仕業だと宣伝したが、戦後の調査によりポーランド人の仕業と判明) 戦後の1946年キェルツェでも強制収容所から生き残ったユダヤ人を虐殺 ウクライナ人を追放するための「ヴィスワ作戦」、戦前のウクライナ人に対する ポーランド化政策も暴力的に行われた 戦後に占領した東部ドイツからの、ドイツ人追放も暴行し強姦し、ドイツ人家財を強奪し、逃げ遅れたドイツ人を皆殺しにした。
犬食の習慣があるドイツこそキムチじゃないか? 全国に犬肉屋があり、韓国と同じように滋養強壮の食品として盛んに食われていた 他国から馬鹿にされて恥ずかしくなったのか1986年に商業流通は禁止されたが それでも自分で犬をさばいてバーベキューにして食っているし レストランの裏メニューにもある ドイツ人の後進性には呆れ返るほかはない ポーランド人は犬は人間の友達だからまったく食べない 犬や猫は非常にかわいがられる
コリアンとナチスはそっくり ナチス … 自民族(アーリア民族・ゲルマン人)の血の純粋さ・優秀さを主張する血統主義 韓国人 … 自民族(バイタル民族・朝鮮人)の血の純粋さ・優秀さを主張する血統主義 ナチス … 他人種・他民族を劣等視した人種主義(レイシズム)的な差別政策 韓国人 … 儒教に基づく差別的な序列化を他人種・他民族にも適用、国連でも批判うける ナチス … すべてはユダヤ人が悪いという反ユダヤ思想、徹底したユダヤ人弾圧 韓国人 … すべては日本人が悪いという唯日思想、犯罪を含め徹底した反日活動の展開 ナチス … 緻密な宣伝戦略の展開、ウソも百万遍つけば本当になるという恐ろしさ 韓国人 … 歴史捏造と事実歪曲で謝罪・賠償要求の大合唱、無関係な国にまで竹島を宣伝 ナチス … かつての神聖ローマ帝国の領土回復をめざす領土拡張主義 韓国人 … 妄想された歴史帝国の領土回復を夢見る領土拡張主義(メディア・教育レベル) ナチス … 優生思想による障害者に対する迫害、前衛・抽象芸術に対する迫害 韓国人 … 障害者を嘲笑(伝統舞踊)・嫌悪し外国に「輸出」、日本の歴史文化に対する過干渉
179 :
世界@名無史さん :2008/01/14(月) 22:46:33 0
ポラックは自分たちが強いときは嵩にかかって周辺の民族を迫害して、自分たちが 弱いときは被害者面をしながら陰でこっそりうまい汁を吸う始末に終えないやつら。
1918年11月9日以後の話なんてどーーーーーーーでもいい 極東の話もどーーーーーーーーーーーでもいい おまえらプロイセンの話をしろやクソが
181 :
世界@名無史さん :2008/01/15(火) 01:47:20 O
>>178 サッカー界では
オランダ:過去を取り出しファビョり、W杯とう結果を出してるドイツを憎む
ドイツ :そこまで絡むオランダに困惑している。
ドイツは過去の大戦から、ある種の後ろ暗さを感じており、
オランダはそれを利用して、ドイツをバカにしてる。
もっともドイツは、どっかの国みたいに言われっぱなしじゃ、無かったりする。
>>180 いやいや、プロイセン自体は第2次大戦後解体されるまでありましたから!
ドイツ騎士団が新教の世俗公国になるときに 内紛なんかは起きなかったんですか?
>>183 元々宗教は連中の隠れ蓑だから
儲かればそれでよかった
しかしそれならわざわざ新教に宗派替えする必要があったのでしょうか。 宗主国もカトリックだし政治的リスクを無駄に増やすことになる。 騎士団では以前からたびたび内紛があったようなので 概説書とかではさらっと流してるけど、スムーズに プロイセン公国へ移行できたのかな、と思ったんですが。
>>185 根拠はないんだけど、要するにあれは権力者側のクーデターで、あの機会に
反対派を政治的に抹殺したんじゃないかと思う。
あの時実際にはどんなことが起きたか詳しい人いませんかねえ。
中世の北方十字軍について多少読んだぐらいなので、当時の騎士団上層部のことも よく分からないんですが、世俗的な楽しみを一切禁じられて(まあ裏でいろいろやってる 人もいたでしょうが)、教皇から与えられた騎士団規約を日曜日ごとに読み上げてたという 連中が、今日からルター派の国になりますとか言われて簡単に納得できたんでしょうかね? 戦時中に子供だった世代の人がよく、威勢良く鬼畜米英とか言ってた学校の教師が 戦争に負けたら急にこれからはアメリカさんと仲良くしましょう、民主主義マンセーとか言い出して 非常にやってられない気持ちになった、といった話を個人的には連想しますが・・・ それともリトアニアがキリスト教化してタンネンベルクの戦いで負けてからは 存在意義を失ってそういう建前はどうでもよくなり、既にアパシーが蔓延した状態だったのか。
>>185 カトリックの法ではプロイセンはポーランド王国の属国でポーランドの臣下
>>187 >世俗的な楽しみを一切禁じられて
そんな暮らしはしてない
189 :
世界@名無史さん :2008/01/16(水) 00:42:10 0
それにしても、戦後のポーランド人のプロイセン ドイツ人に対してやった蛮行はひどすぎる。
190 :
世界@名無史さん :2008/01/16(水) 01:47:59 0
偉大なる帝國の故地、東プロイセンが劣等ポーランド人に奪われたとは痛恨の出来事である ポーランドには領土返還を促したい
シラフタたちでさえいったんは2割ほど改革派教会やルター派に 改宗したらしいし、バリバリのドイツ人である騎士団員が ルター派に寝返っても問題ないでしょ。 それより、ホーエンツォレルン家出身のアルブレヒトに世俗の 公位就任をあっさり許した団員の考えがわからん。 総長とはいえしょせん選挙で選ばれただけだし、ホーエンツォレルン家が 総長を独占してたなんてこともまったくなかったわけだし。 昨日まで同格みたいなもんな奴の臣下になるってのはどんな 了見なんかねえ。近場にいるブランデンブルク選帝侯の力に すがろうって魂胆か??
>>188 >カトリックの法ではプロイセンはポーランド王国の属国でポーランドの臣下
だから宗主国がカトリックでしょ?
>そんな暮らしはしてない
紋章付けるの禁止、飲酒禁止、恋愛・セックス禁止、私有財産は衣装箱すら持つの禁止、
狩猟禁止、トーナメント禁止では騎士の喜びがゼロでしょう。
神様のことを考えるか異教徒を殺すぐらいしか楽しみがないのでは?
まあ規約を破って罰せられた例も事欠かないらしいけど。
>>191 ポーランドやプロイセンでシュマルカルデン戦争やユグノー戦争のような
事態が起きなかったのは興味深いですね。
193 :
世界@名無史さん :2008/01/17(木) 00:54:35 0
ポラック(笑)
194 :
世界@名無史さん :2008/01/17(木) 00:55:58 0
つーか、ポーランドよ、シュチェチンやオッペルンやダンツィヒ返せこの野郎
>>192 >だから宗主国がカトリックでしょ?
だから、
>>192 は、ポーランドに臣従したくなかったら、
プロテスタントのブランデンブルク選帝侯でも
担ぐしかなかったって言いたいんじゃないの?
>まあ規約を破って罰せられた例も事欠かないらしいけど
自分で何言ってるか理解してる?
破って罰せられた例に「事欠かない」のなら、
禁制に従った生活をしていなかったってことじゃない。
>ポーランドに臣従したくなかったら でも新教国になった後一世紀以上もポーランドの属国ですよね。 そのあたりがよく分からない。 >破って罰せられた例に「事欠かない」のなら、 >禁制に従った生活をしていなかったってこと それは少々無茶な理屈ではないですか。 犯罪を犯して刑務所に収監された人間が大勢いるから 日本は法治国家ではない、と主張するようなものでしょう。
>>196 何言ってんの?
「大勢」なんて曖昧な言葉遣いは、厳に慎んで頂きたいものですね。
また、たとえ何人法を破っても、その者達が為政者の恣意によってではなく、
法の下で裁きを受けて収監されているのなら、
立派な法治国家でしょうが。
悔し紛れに屁理屈を捏ねるのはおやめなさい。
>>197 >また、たとえ何人法を破っても、その者達が為政者の恣意によってではなく、
>法の下で裁きを受けて収監されているのなら、
>立派な法治国家でしょうが。
それならば規約を犯して罰せられた者が何人いたとしても
基本的に騎士団員は「禁制に従った生活」をしていたといっていいのでは?
司法の恣意性とかいう問題じゃなくて、法を犯すものがいることと
無法状態はイコールではないって話ですけど。
スウェーデンの王様はポーランドの選挙でポーランド王に推挙されたとき ポーランド王になりたくてカトリックに改宗した それでポーランドの移住してしまいスウェーデンをほったらかしにしたから スウェーデン王の座を追われた ザクセンの王様もポーランド王に選ばれるとあっさりカトリックに改宗した
>>199 ジグムントは戦争の火種を作っただけだな。
201 :
世界@名無史さん :2008/01/18(金) 01:26:09 0
もともとプロイセンは近代ドイツの統一の原動力となった国家だということは あなたも認めざるを得ないと思うけれどね。 そのプロイセンの国家だった地域、東西プロイセン、シュレージェン、ポンメルン地方、 これら地域ののほとんどを両大戦の結果、ポーランドが奪った。 特に第二次大戦後は、ポーランドはこれら地域のドイツ人、しかも1千万を超える無抵抗の ドイツ人住民をことごとく追放し、彼らの家、土地財産を奪い、あまつ200万〜300万の人命を奪った 悪逆の罪を、イェドワブネのユダヤ人虐殺を長らくドイツ人に擦り付けてノホホンとしていたのと 同様、旧ソ連軍、ポーランド共産党のやったこととしていまだにのほほんとしていることだ。 重要なドイツ内部の歴史がまったく語られなくなっているというより、西部ドイツの大西洋的な ドイツは普段からわれわれの眼にしていることである。 旅行会社のパンフレットも、一般の歴史書も この地域の歴史、地理の資料には事欠かない。 しかし、東部、シュレージェン、ポンメルン、プロイセンの歴史、バルトドイツ人の歴史こそ、ドイツの歴史と して、この地域のポーランドの悪逆の歴史として、今後明らかされていかなければならない部分だと 信じている。
旧来的な国民国家が解体されつつある欧州の国なんだし、 極東のアジア人が「プロイセンの歴史こそドイツの歴史」なんて 目くじら立てて主張してもしょうがないような気もするが 例えば、日本近代化の原動力になったのは薩長だけど 「鹿児島と山口こそ日本の原点!京都や東京中心史観は誤ってる!」 って言ってるようなもんでない? 各地で起こった歴史的な悲劇やそこから得られる教訓は大事だけど、 それを引き起こした「加害者」側を数十年後の部外者が糾弾するのはどうよ スネに傷のある日本ならばなおさらだと思うがね
>>199 ポーランドって住みたくなるほど魅力があったってことか
204 :
世界@名無史さん :2008/01/19(土) 00:22:57 0
それでは、オマエはポーランドは受難の処女国だとでも思っているのか。 卑劣国家と言うより、オレは唾下するにも汚らわしい国家だと思っているが。
>>204 何が「それでは」で、誰に対しての「オマエは」なのかがサッパリ解らぬ。
リトアニアでの宗教改革の影響についての本を今読んでますが ブランデンブルクのアルブレヒトについても少し触れていた。 それによるとドイツ騎士団員のほとんどは制約が多い生活にうんざりしていて すんなり新教を受け入れたらしいw 明治の廃刀令のときに薩摩とか一部を除いて反対する武士は 実際少なかったとか聞きますが、それと似たようなものでしょうか。 反対派にはハインリヒ・フォン・プラウエンという人もいた。 タンネンベルクの戦いで出てきた人とおそらく関係あるのかな? 騎士団員はいいとして、1525年には農民反乱が起きたそうです。 原因についてはっきりと書いてなかったのでよく分からないけど これはドイツ農民戦争のように新教に影響されたのだろうか。
208 :
世界@名無史さん :2008/01/19(土) 09:33:13 0
おおどろぼうホッツェンプロッツ
プロイセンはずっとポーランド王国に従属していて税金払ってたからな 土地も痩せてるのにそこからポーランドに税金を絞り取られては生活も楽ではなかろう
プロイセンは港湾関係の収入が凄かったらしいですけど。 17世紀にはダンツィヒなんかはバルト海貿易の3分の1が通過してたとか。 その辺の権利はポーランドとの間でどうなってたんですかね?
211 :
世界@名無史さん :2008/01/20(日) 00:41:22 0
/ \ / / ̄⌒ ̄\ / / ⌒ ⌒ | | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | / (・) (・) | | ロッツとヴァルシャウとクラカウをさっさと返せよ!! /⌒ (6 つ | | てめーは精神障害でもあんのか? ( | / ___ | < 何とか言えよゴルァァァァァァ! − \ \_/ / \__________________ // ,,r'´⌒ヽ___/ ,ィ / ヽ ri/ 彡 / i ト、 __,,,丿)/ ζ | ! )`Y'''" ヽ,,/ / ̄ ̄ ̄ ̄\ ! l | く,, ,,,ィ'" /. ポラック \ ヽヽ ゝ ! ̄!~〜、 / | ヽ / ̄""'''⌒ ̄"^'''''ー--、 :::||||||||||||||||||||||||||||||||| Y'´ / """''''〜--、|||||||||||||||||) ( 丿 ,,;;'' ....::::::::::: ::::r''''"" ̄""ヽ | ゝ ー--、,,,,,___ ::: ::,,,,,ー`''''''⌒''ーイ ./ ヽ \  ̄""'''"" ̄ \____/-、 ヽ ヽ :::::::::::::::::::: / `ヽ ヽ 丿 ) / ノ ゝ ヽ ,〉 ゝ ! / ∀ ! | / 人 ヽ ヽ | ,;;} !ー-、/ ヽ _,,,-ー'''''--ヘ |ノ | | / Y ヽ { | | j ) ヽ
"The Reformation in Lithuania"読み進めてますが ケーニヒスベルク大学って元々アルブレヒトがリトアニアや ポーランドへ新教を広めるために建てたんですね。 で、リトアニアではアルブレヒトとも親交があったらしい 「ラドヴィラ」家と、リヴォニア方面からの影響で 新教を受け入れた「カトクス」家という二つの大貴族家が 主導してあっという間に新教が広まったけど、その両家が カトリックに戻るとみんなあっという間にカトリックに 帰ってしまったと。わかりやすいですねw 一方農民層はその間ずっと異教的習慣を続けていたと。
ポーランド(ポーランド−リトアニア連合)で多かったのはオランダやスコットランドと同じカルヴァン派で ケーニヒスベルクで多かったルーテル派とは違うのでその記述は間違ってる カトリック教会が自浄を完了すると対抗宗教改革運動が実ってポーランド貴族はカトリックに回帰 ところが農民など平民はカルヴァン派に居残る人が多かった上に貴族も平民に対して改宗を強要しなかった ラドヴィラ家なんてないそれはリトアニア語の言い方だがラジヴィウ家の家系はリトアニア語をとっくに捨てている カトクス家なんて貴族は知らん ポーランド語の読み方で書かないと誰もわからない
「ドイツの土地はポーランド人には格安」 − 中欧のシェンゲン協定加盟で沸くポーランド経済 国境での出入国審査を免除するシェンゲン協定が東欧諸国にも拡大され、冷戦時代の 「鉄のカーテン」(総延長約2000キロ)が名実ともに撤廃されてから、21日で1カ月が たった。ドイツのポーランド国境の街では、同国人が合法的に住み着く“ポーランド村”も 出現し、トラックは検問所で停止する必要もなくなって高速道路を突っ走る。 (ドイツ北東部ルークニツ 黒沢潤) “ポーランド村”は旧東独の小村、ルークニツにある。冷戦後の経済低迷で失業率が 約20%と高くさびれたこの村に、国境の反対側のポーランドの港湾都市、シチェチンで 働く同国人(約250人、60世帯)が緑を求めて移り住み、人口の8%を占めるまでになった。 経済発展著しいシチェチンではこの数年、不動産価格が上昇。市内でアパート一室しか 買えないおカネでも、車で約20分のルークニツになら、庭付きの一戸建てを購入できるため、 引っ越してくる家族が後を絶たない。 2004年のポーランドの欧州連合(EU)加盟に伴い、ポーランド人は居住地を自由に選べ、 子弟もドイツの学校に通えるようになった。国境で旅券を見せる手間も省け、「昼は ポーランド、夜はドイツで」という家庭が急増しそうだ。ルークニツの不動産業、ヤン・ リブスキ氏(50)は「ポーランドから日に20人が物件探しに来る。本当に忙しい」と、 うれしい悲鳴を上げていた。 ヒトだけではない。検問所撤廃でモノの移動、物流も活発化してきた。 ルークニツから車で南に2時間、独国境の街フランクフルトオーデル。モスクワ〜ドイツ間で 物資を輸送するロシア人運転手(30)は「かつて国境で6時間も待たされ憤慨した。今後は 独露間の行き来が増えるはずだ」と期待を込める。
215 :
世界@名無史さん :2008/01/30(水) 01:14:45 0
ポラック(笑)
216 :
↑ :2008/01/30(水) 01:33:11 0
何なのこの人 名誉ドイツ人にでもなったつもり?
217 :
世界@名無史さん :2008/01/30(水) 11:44:10 0
218 :
世界@名無史さん :2008/02/01(金) 00:47:32 0
ポラック(笑)
プロイセンという土地の歴史ならカリーニングラードの歴史を語ってもいいよな。
>>219 >>1 によると、「この国の歴史について語りませう」なのだが、ま、土地の歴史でもいいよ。どうせ過疎だしw
222 :
世界@名無史さん :2008/02/03(日) 21:57:25 0
シベリアとか人口減少してそう
223 :
世界@名無史さん :2008/02/03(日) 22:07:08 0
昔のプロイセン人てバルト系の民族でしょ。 リトアニアに併合してほしいな。
プロイセン(ドイツ騎士団領→プロイセン公国)は長年ポーランド王国領だったんだからポーランドに返せよ。 法的にはポーランド固有の領土だろうが。
ロシアがカリーニングラード領有を正当化している唯一の根拠がポツダム協定の以下の文言。 V. CITY OF KOENIGSBERG AND THE ADJACENT AREA. The Conference examined a proposal by the Soviet Government to the effect that pending the final determination of territorial questions at the peace settlement, the section of the western frontier of the Union of Soviet Socialist Republics which is adjacent to the Baltic Sea should pass from a point on the eastern shore of the Bay of Danzig to the east, north of Braunsberg-Goldap, to the meeting point of the frontiers of Lithuania, the Polish Republic and East Prussia. The Conference has agreed in principle to the proposal of the Soviet Government concerning the ultimate transfer to the Soviet Union of the City of Koenigsberg and the area adjacent to it as described above subject to expert examination of the actual frontier. The President of the United States and the British Prime Minister have declared that they will support the proposal of the Conference at the forthcoming peace settlement. 大国がドイツの与り知らぬところでドイツの領土を勝手に分配してるんだからこんな協定は無効だ。しかもドイツとしてはソ連と講和さえしていないんだからソ連に領土を取られる謂れはこれっぽちもない。 ドイツでは70年代にブラント首相が東方領土の領有を放棄、ついで90年にコール首相がトドメを刺すように領土放棄を再確認して領土問題を強制終了させてしまった。 なんでドイツの首相たちはロシアのこんな無茶苦茶な領土主張に屈してしまったのか、さっぱり分からない。 ロシアの東プロイセン北部(いわゆるカリーニングラード州)領有には、正しさのカケラもないと思う。
226 :
世界@名無史さん :2008/02/03(日) 22:31:08 0
早くEUを脱退しろ EU加盟に尽力したドイツに対し恩を仇で返す無礼なポーランドよ 早くEUを脱退しろ EU加盟国中経済格差ワースト・ワンでEUの足引っ張り チェコとはあらゆる経済データで雲泥の差のポーランドよ 早くEU脱退しろ 空気嫁よ ポーランドなんかロシアに併合されてもEUにとっては何も痛くありませんから EUにとってはウクライナが加盟してもらった方が1000倍マシですから せめてイギリスから働きもせず不良外国人化してる大量のポーランド人を帰国さ せるよう本国が尽力せよ
227 :
世界@名無史さん :2008/02/03(日) 22:33:04 0
※他国の経済の足を引っ張るポーランド人の実例(リトアニアの場合) ポラ厨がイギリスでポーランド人が活躍しているなどとデッチ上げているが、実 際は多くの者が職にありつけず、不良外国人化し不法滞在している ここでいかにポーランド人が他国経済を阻害しているかリトアニアを例にとって 実証しよう ポラ厨が差別している云々という言い訳を防ぐためロシア人の数値も占めそう ・民族別失業率(1998年リトアニア労働実態調査報告) リトアニア人11.89% ロシア人17.19% ポーランド人22.47% ・14〜24歳男性失業率(農村部) リトアニア人22.8%(16.9%) ロシア人25.3%(25.4%) ポーランド人36.8%(56.6%) ・25〜49歳農村部での失業率(農村部) リトアニア人12.7%(10.5%) ロシア人15.1%(14.6%) ポーランド人19.6%(32.6%) ここで農村部での失業率をあげたのはポーランド国内においても都市部の失業者 が農村部へ流出し、働きもせず流民化している傾向があるからである ポーランド人の怠惰な国民性は否定の余地がないのがわかっただろう
228 :
世界@名無史さん :2008/02/03(日) 22:34:50 0
ポラ厨はポーランド人の大学進学率が高いとかデッチ上げている 実際に高学歴を反映した職業構成をしているのだろうか? リトアニアの民族別職業構成比率 ・ホワイトカラー比率/ブルーカラー比率 リトアニア人33.4%/66.6% ロシア人40.9%/59.1% ポーランド人21.0%/79.0% ・民族別構成ホワイトカラー(工業技師・専門家) リトアニア人8.3% ロシア人13.7% ポーランド人5.5% ・民族別構成ホワイトカラー(医者・看護師) リトアニア人3.6% ロシア人2.7% ポーランド人1.5% ・民族別構成ブルーカラー(自動車運輸・運転手) リトアニア人7.2% ロシア人4.8% ポーランド人10.0% どうもポラ厨の自称高学歴と高学歴の必要な職業に就くこと“関連性が全くない よう”である
>>224 「法的には」って現行の国際法に照らして、ということ?
230 :
世界@名無史さん :2008/02/04(月) 00:39:18 0
ポーランドはドイツの侵略の被害者のようになっているが、それは一方的だ。 むしろ、ポーランドは独立直後、自民族の少ない地域すら侵略して併合したり 、西プロイセンを割譲させたり大変領土的野心の強い国家だった。それがドイ ツの被害者などと言うのは、ある種のプロパガンダだ。吐き気がする。
231 :
世界@名無史さん :2008/02/08(金) 00:52:07 0
ポーランドという国は、「人口の1割が貴族」という、とんでもない国です。日本の戦 前の「士族」だって、人口の5%程度だったのに。 ポーランド人という国民は、ちょっと我々が普通に付き合える生易しい連中じゃない ですね。 庶民出身のワレサ大統領も、お高くとまったインテリたちを御するのに、さんざん苦 労させられたそうです。
>人口の1割が貴族 シュラフタ? それ俺もなんかの本で読んだ気がするけど、末端は百姓とほとんど変わらない感じだったとか。 日本の場合秀吉とかの頃に武士と農民の線引きをして、その末端にあたるような連中を 帰農させたのが関係してるのでは。 また江戸時代に貧窮化して「武士を捨てた」連中もいただろうし。
233 :
世界@名無史さん :2008/02/08(金) 07:00:59 0
>>228 医者だと、英国への移住者が多い。
ポ国は診療代払えないのと健康保険の未整備?
234 :
世界@名無史さん :2008/02/08(金) 07:10:29 0
ポ人は農村部で何をしているのだろうか 大道芸人や物乞い? 家畜や農作物泥棒?
235 :
世界@名無史さん :2008/02/09(土) 02:46:23 0
237 :
世界@名無史さん :2008/02/09(土) 15:26:25 0
>>234 ポーランドの農村は金持ちだ
俺はこの目で見た
ポーランドがEUに加盟できたのは破綻寸前の経済のポーランドの加盟に対し、 腰の引けていたイギリスをドイツが積極的に説得したからだろうが それにポーランドに対する援助もドイツが他のEU加盟国より群を抜いている オペルを始めとするドイツ企業も失業率の高かった労働市場に貢献している EUの農業補助金に関しては前述の通り EUの援助なしでは安価なウクライナの農産物に手も足も出なくなるのは必定 終戦直後、ソ連がポーランドから資産を持って行った? 嘘こけ、ポーランドがシレジアの工業地帯、ダンチヒの港湾、ポラメニアの農地 をドイツから強奪し、そこに住んでいたドイツ住民に対し着ているもの以外の全 ての家屋資産を文字通り身ぐるみ剥いで食糧すら与えず、圧死者が出るほど貨車 に詰め込み西へ追い出したのが真実 勿論、軍民に関わらず、ドイツ住民追放に際し暴行が行われたのは一般的だ
そういや数年前アメリカ人女性対象に外国人男性ともし結婚するならどこの国の 男性がいいかというアンケートの結果出てたな 結果はドイツ人がダントツ1位 ポーランド人? プッ w
>>238 お前がパーだということはよく解った。
「国家」と「民族」と「企業」と、あまつさえ「時代」をごっちゃにした妄言を吐かれても困る。
241 :
世界@名無史さん :2008/02/10(日) 22:40:39 0
はいはいポラックポラック
242 :
世界@名無史さん :2008/02/11(月) 04:10:08 0
296 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん :2008/02/11(月) 04:09:07 ID:ixrroJew
>>225 それってさ、ナチスのヒトラーの自作自演国会放火事件と同じ構図じゃん
議事堂に自分で火をつけといて共産党のせいにして共産党を非合法化して党員を逮捕したんだよな
それでナチスは政権を確固たるものとした
ヒトラー並だなチョンwww
243 :
世界@名無史さん :2008/02/11(月) 19:56:45 0
はいはいポラックポラック
244 :
世界@名無史さん :2008/02/11(月) 21:30:31 0
>>221 書き込みした221か詳しい方に聞きたいんだが
ロシアって「人口が減っている国」ですよね?
元々(スラブ系の)出生率が低く、ソ連時代からイスラム化するんじゃないかなんてネタもあったくらいだし
プーチンが産めよ増やせよなんて扇動したって急には増えないだろうし
増えてもイスラム系が増えそうだし(w
「外地」のカリーニンにわざわざ移民しようなんていうのはコサックくらいじゃないかな
>>242 すれ違いコピペにマジレスだが、
国会放火は共産党員の犯行説で歴史学者ほぼ一致しているんだが…
一部の共産主義者の学者を除けば共産党員犯行で決着している。
245 :
世界@名無史さん :2008/02/11(月) 22:24:40 0
はいはいポラックポラック
246 :
世界@名無史さん :2008/02/11(月) 23:20:40 0
>>244 >歴史学者ほぼ一致しているんだが…
ソースは?
>>246 国会放火に関してはドイツ本国で本がたくさん出てるからそれ読んでよ
ドイツ現代史の本でもナチス犯行説支持する学者なんてサヨク以外一人もいないんだが
ちょっと聞きたいんだけど、
自分で少しは調べようとは思わないの??
248 :
世界@名無史さん :2008/02/13(水) 01:18:17 0
ポーランドはシュレージェン、ポンメルン、東プロイセンを ドイツに返還せよ。オーデル・ナイセ線なんて認められない。
249 :
世界@名無史さん :2008/02/13(水) 01:34:35 0
ドイツ共産党員じゃないよ
>>247 なら共産党員の仕業ではなくナチスの自作自演だったということで歴史学者の意見が一致している
ナチスが関わらなかったなどと主張している歴史学者など一人もいない
そういう主張をしているのは学者ではなく素人の歴史家だ
君こそと説本ばかりでなくまともな学術本を読んだらどうだね?
>>250 ブハハハハハハ(w
おまえ本当になんにも知らないんだな(呆
国会放火事件がナチス犯行説から(ナチスのいうように)共産党員犯行説に学説が逆転したのは
「素人の歴史家」=一般人の調査報告なんだがな(w
ネットで検索すればそれくらいわかるんだがねえ……
>ネットで検索すれば >ネットで検索すれば >ネットで検索すれば ソースは2ch を思い出した
>>252 そうだよな
>自分で少しは調べようとは思わないの??
この質問に答えない=自分で全く調べない(w
>ソースは2ch を思い出した
この書き込みでバカにしたと思っているんだろうねえ(w
そうそう「まともな学術本」読みたいから教えてよ。
是非自分で調べてみたいからねえ。
ああそうそう檜山良昭という作家がナチス犯行説で国会放火事件の本書いているな
「作家」さんな(w
254 :
世界@名無史さん :2008/02/15(金) 01:21:22 0
つまりナチスが好きになることは生命を維持するのに必要なことなのかwwwwwww
255 :
世界@名無史さん :2008/02/15(金) 01:30:32 0
まあ学者でもないのにナチズムが好きなんて言うと 君の親が悲しむから卒業しろよw
平野耕太センセイですか?
257 :
世界@名無史さん :2008/02/15(金) 01:53:02 0
ナチスの自作自演は ・国会放火事件 ・グライヴィッツ事件 あと何があったっけ?
258 :
世界@名無史さん :2008/02/15(金) 02:15:35 0
"If we advertize one hundred times that a pig is a lion, the mass would believe a pig is a lion." 「ポーランドはユダヤ人を虐殺した」と100回言えば大衆はそれを信じるようになる
1904 年から 1908 年のドイツの「南西アフリカ」植民地時代に行われた、 ナミビアのヘレロ人とナマ人のジェノサイド 先住アフリカ人に対する数々の不正事件‐そこにはヘレロ女性に対する多数の性的嫌がらせや強姦 も含まれた‐に耐えかねて、 8 万人から成るヘレロ人が指導者マヘレロ (Maherero) に従って 叛乱を起こし、 130 人のドイツ人入植者を殺害した。 ヘレロ人の蜂起は、直ちにドイツ植民地総督で植民地軍司令官であったアドリアン・フォン・トロータ (Adrian von Trotha) 将軍の指揮下で行われた軍事的報復を受けた。 ドイツ帝国議会( Reichstag) がトロータの「野蛮な戦闘方法」に抗議したにもかかわらず、彼はこの 「人種間の闘争 (Rassenkampf) 」を容赦なく遂行した。 報復の結果、女性、子供を含む 6 万人のヘレロ人と 1 万人のナマ人が虐殺されるか、 強制収容所で奴隷労働者として死亡した。 彼らの土地があった無人の領域は、 1905 年のクリスマスに公布された帝国令によって没収された。 ヘレロ人はこのジェノサイドから回復せず、二度と以前の経済的、社会的影響力を取り戻すことはできなかった。
ヘレロ人に対するジェノサイドから1世紀が過ぎても、ドイツ政府は公式の謝罪表明を避けている。 唯一 2003 年に 2 名の連邦議会議員が、ドイツの NGO 「危機に瀕した人々のための協会」のアピールに署名した。 このアピールは、ドイツ政府に対し過去の不正を謝罪し、生存者の子孫に対するドイツの特別な責任を認めることを求めている。 ドイツ政府は、ヘレロ人とナマ人に対するジェノサイドの認知を拒否し続ける主な理由として、補償につながるいかなる声明も回避 するという方針を挙げている。 一方、「リルアコス・ホセア・クタコ財団 (Riruakos Hosea Kutako Foundation ) 」は、ドイツ連邦共和国と複数のドイツ企業 を相手取り、 20 億米ドルの補償を求める訴訟を起こしたが、勝訴の見込みは確かではない。
261 :
世界@名無史さん :2008/02/16(土) 02:01:42 0
ロシアは戦勝国なら領土を奪う権利があると思っている。 日本も条約破りの火事場泥棒に千島樺太を奪われた。 これは正されなければならない。 カリーニングラードはもともと東プロイセン、ケーニヒスベルクだ。 戦争によって領土を奪ってよいのなら、侵略はなくならない。 ロシアはドイツに東プロイセンを変換してEU と平和条約を結べばよい。
そんなこと言ったらアメリカとか地球上から消滅するんじゃなかろうか
263 :
世界@名無史さん :2008/02/16(土) 10:10:32 0
>>261 >ロシアはドイツに東プロイセンを変換してEU と平和条約を結べばよい。
ドイツがロシアに領土永久放棄をしてロシアはEUと平和条約結んだんだが
264 :
世界@名無史さん :2008/02/16(土) 23:41:02 0
、_人_从_人__/ _) ,..r;;: ( 人) ) ,;`ー、 | ヽ丶 _) 消 ポ ヾゞ、 ゞ'´ '`´ `ヾ、 ─|─ _) 毒 ラ -‐':、ゞ'`` ,l / | ヽ _) だ ッ ヾ、 ゞ;;. ,r-、 `ヾ、 ヽ、 _) l ク , rヾ ,r!/r'ヽ '` \ _|_ _) っ は _,,,.,ノ、_ ヽ, `ゞ;; ;:、 /| `) ! ,r‐'''" ,.r ,イ彡ミミヾ、 `` ´;;i V^V⌒W^Y⌒ __,.;;,ィ'´ ,:;;;;彳彡ミ;j`、 `i;:、 オ ;; ヾ、彡;;;ノリ;jjjjj;;;jr' i . ノ;;:'' `゙`、 ``ー、 ,ィ 彡冫;;il;;;ミ;;;;;y;レ ,t'´ ,.、ー、 ゝ ォ i|l; ;'イ;;;'ヾ``ヽ、ィ;;i ,ri'´ ヽ ヾノ ,ry' il'Y゙r ヽ、 ,j|l;; j'´ '´ '´/ゞ';;::`´ヽ ``´ー ゙i ;;: ,r' ) ,r、 ,rヾlir'ミ, / ,;:' '´/ ー≡;i{、 /ヾr'´ ,. '`;;:、 〉ゝ r-ー-、_ ,{i=i= }i、 ーr-、j ,! ,;',;'ィ;;:イ''``ゞ、_,、-‐'´ヽ:;/ 、 ``ヽ ;:、 `' (´ `ゞ、;;;;'',,fi、,≡:;イ==、 ,,:' ``ゞ、,;;ゞ、 "´イ ,... `'彡 ,/´ `ヾ、ヾ ' ー、 ii;j `i;;!'´ニil';;;;ゞr、_,r'ミ ' ー‐─ ,rー'゙ー─-、_j;:r'´ ヾ,ゞ 、 ゞ,ミ;:l;;l ,! ,!,i;;'´¨/ ;. ポラック‐;;'"} ``ヾ、 ノ ,;;;: (i,;)))、,,:;!、__,:};!_,.、l .... _,,,ィ、 i 'ヾ人 、}( / ノ ,r'i r'"ヾ-‐i‐-:;イ, / ヾ
ポラックなどと至極マイナーな卑語を書いてナチを必死で擁護するイエローモンキーーを作り出すほどドイツは魅力的なのだよ。
266 :
世界@名無史さん :2008/02/17(日) 01:07:27 0
やはり低脳ポラは死ななけゃ直らんなw アメリカに移住したポーランド人は3ヶ月もたつと英語もたどたどしいくせにア メリカ人ぶると嘲笑の的になってるのは有名な話もあるしな まあ脳味噌だけ餓鬼で未発達のオッサンニート・ポラ厨野郎には言わせてやるぜ w ポラもあんたも働けよ オ・ッ・サ・ンw いい歳こいていつまでも2chやってんじゃねぇよw
>>266 えーと、自分が言われると痛いことを他人に言う、という例か?
がんばれオッサンニートw
268 :
世界@名無史さん :2008/02/17(日) 19:50:15 0
ポラック(笑) ポラック(笑) ポラック(笑) ポラック(笑) ポラック(笑) ポラック(笑) ポラック(笑) ポラック(笑) ポラック(笑) ポラック(笑) ポラック(笑) ポラック(笑) ポラック(笑) ポラック(笑)
相当気に障っちゃった?ゴメンゴメンw 身に覚えがあるとは知らなかったもんでw
270 :
世界@名無史さん :2008/02/21(木) 00:49:10 0
ポーランド好きは感傷的なアホウが多いのさ ポーランドは戦前から、その大兵力にものを言わせ、リトワニア、チェコ、そしてドイツと周辺国を 軍の動員令などをもって恫喝してきた ポーランドの真実の過去、戦前、戦中、戦後を通しての卑劣きわまるドイツ人、ユダヤ人の虐殺、略奪、 追放劇を、特にドイツの敗戦をいいことに思いっきりひたかくしにしてきた現実をみようともせず ポーランドは一方的なあわれな戦争被害者だとするばかばかしい虚構を信じている連中が 彼らなのさ もちろん、それには戦後の政治的意図があった ポーランド自身の、虐殺、追放といった許されざる犯罪を覆い隠す意味で、自らは、あわれなドイツの 侵略の被害者ですという神話をつくって、そのおぞましい歴史をひたかくしにしてきた そして、不法にドイツ領土やそこの住民の家、土地、財産を奪い、殺し、追放したことを歴史上から 抹消し、その領土強奪を正当化しようとした それは、同様、ポーランドの東半分を奪ったスターリンソ連の思惑にもあっていた ポーランド人は鬼畜さ
独演会スレ
273 :
世界@名無史さん :2008/02/22(金) 21:49:00 0
ζ / ̄ ̄ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ / | < ポラック、こづかいじゃ。 | ⌒ ⌒ /| \_______ | (・) (・) ||||||| | ⊂⌒◯-----∂)___ ___ | ||||||||_ / ゙Y" \ \ヽ_/ \/ \ \ / \ / ̄ ̄ ̄ ̄) * ( ̄ ̄ ̄ ̄) | ─< |\ >─ ( | ) / (|ミ;\ ( ) ヽ  ̄ ̄) /(___人|,iミ'=;\ (  ̄ ̄ ) /" ̄ ̄ ̄ ̄ / 《v厂リiy\  ̄ ̄ ̄ ̄\ / / ゙|,/'' v:,,、.¨)z,_ \ / / ミ/ .-─ .゙》z、 \ / / 〔」″ノ‐ 、u ¨\ ) ( / ゙|, ..冫 .rー  ̄\_ | | 〔 ミ./′ ..r-ー __,,ア┐ | | | {. .,,,, .′ .´′ .¨\| | | ∨ ノ冖′ =vvvvvv¨\ | / ミ. ,i' .゙\_
274 :
世界@名無史さん :2008/02/23(土) 20:13:09 0
,ィ⊃ , -- 、 ,r─-、 ,. ' / ,/ }: ち ポ { ヽ / ∠ 、___/ | 署 ヽ. V-─- 、 , ',_ヽ / ,' ょ ラ ヽ ヾ、 ',ニ、 ヽ_/ rュ、 ゙、 / ま \ l トこ,! {`-'} Y っ ッ ヽj 'ー'' ⊆) '⌒` ! で , 、 l ヘ‐--‐ケ } と ク ヽ ヽ. _ .ヽ. ゙<‐y′ / 来 } >'´.-!、 ゝ、_ ~ ___,ノ | −! \` ー一'´丿 \ い ノ ,二!\ \___/ /`丶、 /\ / \ /~ト、 / l \ / 、 `ソ! \/l::::|ハ/ l-7 _ヽ /\ ,へi ⊂ニ''ー-ゝ_`ヽ、 |_厂 _゙:、 ∧  ̄ ,ト| >‐- ̄` \. | .r'´ ヽ、 ,ヘ \_,. ' | | 丁二_ 7\、|イ _/ ̄ \ i \ ハ |::::|`''ー-、,_/ /\_ _/⌒ヽ
はいはいイエローモンキーイエローモンキー
276 :
世界@名無史さん :2008/02/24(日) 20:45:44 0
(丶´_ゝ`)ノ 丹念に味わえや…ご主人様のチンポはうまいだろ、ポラック (| | | ===============) ̄q ̄ ) おいひい…おいひいですぅ…ご主人様… U ̄U ノ ノ)_
277 :
世界@名無史さん :2008/02/25(月) 23:56:20 0
>>257 ・グライヴィッツ事件
これって、戦後、ニュルンベルグ裁判で、あるナチス戦犯の自白(のみ)によって
つくられたものだよね。
それが、戦後、フランスのポーランドよりの歴史家によって書かれたストーリが
事実化のようになってしまったものだろ。
信じられないんだよね。 ニュルンベルグ裁判では、被告とされたドイツ人には
暴行、リンチ、睾丸つぶしといった拷問が日常茶飯事に行われていた。
まして、被告がナチス党員であればなおさらだ。
拷問に耐えかね、裁判調書にその内容さえ知らされずただサインのみを強制され
た連中は多い。 その結果の内容をポーランドよりの歴史家がポーランドの開戦責任を
覆い隠すために事実のように史書として残したというようにしかみえない。
195 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/06(月) 22:13:33 ID:52jeNSRQ
>>194 死体の写真見せてポーランド人がテロやったとホザいた自作自演のドイツ人に言ったらどうなの?
それだけのこったことをやっておいて、ドイツ首脳人のだれが、それを理由に開戦の理由として公言したのか。
その人物と、その公言の内容を言ってくれよ。
この物語自体、戦後、フランスのポーランドよりの歴史家によって書かれたもの。
どこまで信憑性があるのかボクにはわからないよ。
ただ、そのポーランドよりの書いた物語からの引用はやめてね。
ボクはこの物語など信用してない。
203 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/11(土) 00:33:10 ID:TZmaGK78
>>202 不満なら反論してみろ
ここは軍事版ではないはずだが・・
どうやらお前墓穴を掘ったようだな。おまえはこちらの質問に答えてない。この物語のいったようにポーランドよりのフランスの歴史家に
よってかかれたもの それをルーツにしているようなネットコピペなど何の意味もない。
俺が聞いているのは、ここまでこったことをして、それを開戦理由としてグライビッツのグの字も公言したドイツの政治家がいたかということだ。
「爆弾には爆弾を」 、その爆弾を作り続けたのは、度重なる挑発を続けたポーランドだったのは明らかだ。
1939年3月、ポーランドは軽々しく、ヒトラーの和平案に対し軍事動員をもって答えた。
半ば宣戦布告だ。 そこから開戦にいたる9月1日までドイツ・ポーランド国境間で何件の国境侵犯事件がおきたかお前わかっているのか。
グライビッツの国境侵犯事件などその一件にすぎない。
もちろん、国境侵犯など互いの狸と狐の化かしあい。 どちらかと言えばポーランドが一方的にドイツにケンカを売っていた。
その間、度重なる国境侵犯、軍事恫喝をもって第一次大戦後、ドイツから奪った西プロイセン地方に残された百万のドイツ系住民に対し
卑劣な弾圧を加えたことはポーランドに融和的だったヒトラーの態度を硬化させるには十分だったろう。 事実、開戦直前にヒトラーは
イギリス外務省にあてて開戦をほのめかす文書を送っている。
「ポーランドのドイツ系住民に対する行為は野蛮かつ制裁に値する不当なものである。ポーランドにおいてドイツ系住民の多くが迫害を
受け、強制連行によって非常に残虐な手段で殺されたものも出ている。この状況は、主権国家として容認しがたいことである。
正当な利権を守るため、必要な措置を取らざるを得ないことになった」。
それは堪忍袋の尾がきれたということだ。 要はすでに開戦は避けられない自体になっており、その要因を作り続けたポーランドが
一方的被害者などと言うことはありえない。 そのなかで、大いに脚色されていると思わざるを得ないグライビッツの事件など何の意味もなさない。
そして、開戦こそダンチヒ併合、ドイツ東部の領土を我が物にしようとする挑発を続けたポーランドの望むところだった。
280 :
世界@名無史さん :2008/02/28(木) 02:18:58 0
"If we advertize one hundred times that a pig is a lion, the mass would believe a pig is a lion." 「ポーランドはユダヤ人を虐殺した」と100回言えば大衆はそれを信じるようになる
281 :
世界@名無史さん :2008/02/28(木) 02:32:37 0
この物語自体、戦後、フランスのポーランドよりの歴史家によって書かれたもの。 どこまで信憑性があるのかボクにはわからないよ。 ただ、そのポーランドよりの書いた物語からの引用はやめてね。 ボクはこの物語など信用してない。
>>281 「自分の頭で考える」事は、とっくに放棄している訳か。
さすがナチ大好きなドイツ厨は違うなw
>ボクはこの物語など信用してない 誰もお前の事なんかなんとも思っていないシナ
166 :163:2008/02/25(月) 02:13:45 ID:Tw8GJBIL 別に俺はドイツ厨ではないですが・・。まず、私はロシアがカリーニングラード をロシアが返還してくれるなら、返還をドイツが受諾するだろうと言っている だけです。あなたがポーランドの旧ドイツ領の突っ込みを俺に入れるのは、 意味が分かりません。多分、ポーランドとロシアの話がごっちゃになっているの でしょうが・・。 それと、ポーランド人が修復した=ポーランド人の財産であり血と肉と仰られま すが、それは極めておかしいといわざるを得ません。では、その修復した建物の したの土地の所有者は?それは、所有者の許可無く勝手に立てたに過ぎません。 もちろん、国家間の取り決めで、現在はドイツは旧領土の土地の要求を放棄して いますから、もはやそこを故郷と思うポーランド人がずっと幸せに暮らす事が できますが。 あと、いくらドイツ騎士団に任せた封土だからといっても、最終的にそこは公国 として独立を認められたし、旧プロイセン地方はドイツ人が圧倒的多数を占めて いたのに、それを追い出しポーランド人に所有権があるという権利はありません。 既成事実なら作れますが。そもそも、固有の領土の話をしてもきりがありません。 というか、あなたはポーランド厨でしょう?
167 :163:2008/02/25(月) 02:21:35 ID:Tw8GJBIL 言い忘れました、国民国家=19世紀の百姓や漁民の発想 というのは事実ではありません。国民国家の必要性は産業革命によって ある程度規定されていました。まあ、今は時代遅れとなった感は否めな いでしょうが、それでもボスニアのように民族対立があるのを見れば 分かる様に、国民国家は完全に時代遅れの発想ではないです。むしろ、 現在の国家の基幹をなしていると言ってよいでしょう。
171 :163:2008/02/25(月) 02:45:40 ID:Tw8GJBIL もちろん、 領土問題の解決の異色な解決法の先例を出さない為、あの地域の 安定の為、2プラス4条約は必要でしょう。ただ、俺の発言では 半ばもう二度と戻ってこない悲哀を含め、プロイセンが戻ってき たらいいなぁ位の発言だったのですが。ちゃんと文意を取ってく ださい。まあ確かに良く考えると、俺はドイツ好きなので、ドイ ツ厨かもしれませんが。別に、現実的に戻ってくる為に色々する べきなどと言っていませんが。 それと、あなたの主張には二重基準が見受けられます。ポーランドに 甘く、ドイツに厳しい。ドイツが旧領をドイツ領とするのは許せない が、ポーランドがプロイセンというドイツ人が多数を占めた地域を領 有するのは、1000年も前のドイツ騎士団領時代の話を持ち出し、 正当化しようとする。1000万人ものドイツ人を追放したのにです。 これならポーランド厨と言われても仕方ありません。 結論:3ヶ月ロムってろ!
俺新参なんだが…… ドイツ厨とかポーランド厨とかあるんかい
ここでは隣り町戦争みたいな熾烈な戦いが繰り広げられているわけです。
まあ、頭のかわいそうな人が一人で暴れてるだけですけどねー
いや、二人
291 :
世界@名無史さん :2008/03/10(月) 17:14:53 0
292 :
世界@名無史さん :2008/03/10(月) 22:45:14 0
いや、4人だろ
一人のサスケが二人のサスケに、二人が四人、四人が八人〜
294 :
世界@名無史さん :2008/03/10(月) 22:58:38 0
その一人が、あんただろ。 お騒がせやのポ厨さんよ。
>>294 お前、凄いブサイクな顔してるんだな〜。
296 :
世界@名無史さん :2008/03/11(火) 00:12:43 0
もともとシュレージェン、ポンメルン、ダンチヒを含む東プロイセンはドイツ人が多数派だった。 そこへ、敗戦で何もいえないドイツ領の権限を無視しこれらの地域に貧しいワルシャワ近辺のポーランド人、かつてポーランドが奪った 東方のウクライナ領域に住み着き、戦後ウクライナに返された地域から追い出されたポーランド人が不法にドイツ人の土地、家、財産を 奪って住み付いた。 領土問題とは別にかつての個々人のドイツ人の財産を奪い、まして戦争も終わっているのに、残ったドイツ人を強制収容所に送り 暴行、強姦をくりかえし、最終的に、着の身着のままで追放、ソ連軍とともに途中でのリンチ、虐殺、飢え、疲労で200万から300万のドイツ人を 死に追いやった。 ドイツの西部領でも第一次、2次大戦で領土の変遷はあった。 しかし、民族浄化を伴った領土変更をやったのは、このポーランドのほかに スターリンソ連をはじめ(ドイツの東プロイセン、フィンランドのカレリア、ポーランド東部、日本の北方領土)、チェコのズテーテン地方のドイツ人追放、 戦後のセルビアのコソボ地方のアルバニア人追放(これは失敗に終わったが)、共通していることは彼らがともに、人命軽視のスラブ人、スラブ民族ということだ。 ドイツ人もいい災難だ。
おいナチヲタ、他のスレ、他の板に出てくるなよな、おい読んでるか? 迷惑だからせいぜい世界史板だけで暴れてろ
299 :
世界@名無史さん :2008/03/11(火) 22:27:16 0
ナチヲタの意見とも思えないんだけどな
300 :
世界@名無史さん :2008/03/12(水) 00:34:20 0
300get
301 :
世界@名無史さん :2008/03/12(水) 00:37:01 0
302 :
世界@名無史さん :2008/03/12(水) 01:38:15 0
アンチ波蘭キャンペーンというより、それがほんとの真実のように見えるけどな 荒らしまくっているのはどちらかというと感傷的すぎて実際の真実が見えない ポーランド厨のように見えるけど
305 :
世界@名無史さん :2008/03/17(月) 00:01:44 0
∧_∧ ( ´∀` ) ところでこのゴミ、どこに捨てたらいい? /⌒ `ヽ / / ノ.\_M ( /ヽ |\___E) \ / | / \ ( _ノ | //⌒ヽ ヽ | / / |( ^ω^)| ←ポラック | / / ヽ( ∪ノ ( ) )  ̄ ̄ ̄ | | / | | |. / |\ \ ∠/  ̄
306 :
世界@名無史さん :2008/03/17(月) 23:19:49 0
307 :
世界@名無史さん :2008/03/17(月) 23:22:35 0
ネオナチ乙
308 :
世界@名無史さん :2008/03/17(月) 23:56:37 0
>>307 ネオナチ乙
どういう意味かしらないけど、ネオナチと言えば罵倒の言葉と思っている
あなたようなアホ世代の時代はもう終わったんだよ。
309 :
世界@名無史さん :2008/03/18(火) 00:01:18 0
スレタイも読めない池沼が何を言ってんだか。
310 :
世界@名無史さん :2008/03/18(火) 00:13:12 0
俺はナチマンセーだが戦前の日本も肯定してる けど俺もドイツだけを悪者にしたがる奴を見てると悲しくなるよ ドイツ史で、日本はどんな状況にあってもドイツを裏切らなかった唯一の国だ ヒトラーは最初日本を差別してたが、自殺直前には「親愛なる大日本帝國は私にとって永遠の友であり、ドイツとも良き友でいてくれるだろう」と言い 遺書の最後には天皇陛下万歳とも書いている 第二次大戦でドイツが周辺国を侵攻したことは悪いと思わないし、ホロコーストだって捏造神話だと思っている(実際インチキ写真と証明された奴もあるし) 日本とて同じ事、南京大虐殺や強制連行など、これらの捏造神話は日独が共に声を揃えて異を唱えるべきだ ドイツでこの件について異を唱えるのがネオナチしか居ないなら、ネオナチと組んででも戦うべきだろう
311 :
世界@名無史さん :2008/03/18(火) 00:14:51 0
ヒトラードイツに味方している人間ほど、日本の事を 憂いている。 正常な歴史知識も持ってないくせに、都合の良いネットだけの 情報を信じて、ますます日本を孤立化させ、国益に背いている 連中を支持する事は出来ない。 ドイツの歴史修正主義は、成功し実を結びつつあるだろ。 ダッハウ収容所にガス室が無かった事は証明されたし アウシュヴィッツの死亡者の数字も、年を得るごとに減少している。 ヒトラーが正常な人間として描かれた映画も、上映された。 ドイツを悪人にしたがるネトウヨがぎゃーぎゃー騒ぎ出すぐらいにな。 今こそ、ドイツのリヴィと協力して、歴史認識の共同戦線を張るべき。 こっちの方が、国益に適っている。
312 :
世界@名無史さん :2008/03/18(火) 00:26:19 0
>>309 やっぱりあなたはアホか
東プロイセンのケーニヒスベルグはカントの生まれ故郷、ダンチヒはドイツハンザ同盟の拠点、
マリーエンブルグはドイツ騎士団の根拠地、要はその地域はポーランド人のものでも、ロシア人の
ものでもない。
ドイツ人のものだ
中立的歴史観をもてないようなあなたのようなアホが過去の歴史をゆがめてきたのだ。
ポーランドほど特に戦後にその歴史的真実とあまりにもかけ離れた歴史観にそまった
国家はない。
もっともこの卑劣国家が被害国家として祭り上げられなければ、ポーランドの開戦責任というより、
この破廉恥国家をドイツの侵略から救うという偽りの大儀名文によってドイツに宣戦した英仏の立場は
なくなる。
もちろん、英仏が本気でポーランドを救うつもりなどないことは明らかだ。
ドイツに宣戦しても同時期に東からポーランドに侵攻したソ連に対しては宣戦どころか、のちに
チャーチルが同盟を結ぼうと言い出す始末だ。
結局、英仏はポーランドの力を過信し、東欧で250万もの予備役兵力をもつ軍事大国ポーランドが
まだ、再軍備4年の満足な予備役兵を持たないドイツを叩いてくれることを期待していたのだろう。
それが、証拠に、開戦後、いともあっけなくポーランドが敗北すると、その後半年間西部戦線では
何事もおきなかった。 宣戦はしたものの英仏はこの事態に呆然とするのみで、もちろんヒトラーも
当初から英仏と事を構えるきなどなかった証拠だ。
313 :
世界@名無史さん :2008/03/18(火) 00:44:01 0
おれが戦争犯罪事典を買ったのは2002年、このときポーランドの悪行を再確認し、憎しみを募らせた。 ドイツは無実である。しかし敗戦したのをいいことに、強盗国家ポーランドに土地を奪われたのだ。 それ以来、ポーランド人が生物学的にこの世から消去されるまで、呪い続けることにした。 ポーランド人はブタさ。世界の癌さ。地獄の底で、永遠に滅びるが良い。
314 :
世界@名無史さん :2008/03/18(火) 00:56:04 0
ヒトラーは別に、ポーランドに領土返還要求はしてないよ。 第一次大戦後、東西に分断された、ドイツ本土と東プロイセンの間にある、ポーランド回廊地帯に 双方を結ぶ、高速道路と鉄道の敷設件を要求しただけ。 その見返りに、第一次大戦後の領土の保障を 含む両国の安全保障条約を結ぼうと言う寛大なものだった。 それに対してポーランドはここぞとばかり 軍事動員令を発してそれに答えた。 両国の問題になっていたのは自由としダンツィヒ港だが、ここは第一次大戦後、ポーランドの海への 出口としてポーランドは欲しかった。 しかし、この市の住民の96%はドイツ人であり、いかに旧連合国の英仏といえどもドイツからは 奪えなかった。 そのかわりこの市を自由都市として国際連盟の管理下に置き、ポーランドにはこの都市に 対して幾つかの特権を与えてお茶を濁した。 そしてその特権のなかで、ポーランドはこの港湾都市に外部からの郵便局、電信施設などの建設した。 もっとも、郵便局とは言っても、周囲を鋼板にかため、その職員もすべてが屈強な軍事予備兵でなっており、 他の電信施設も似たようなものだった。 その内部には多量の武器を隠し持っていた。 彼らは、いずれポーランドが軍事行動を起こし、同市を併合するときの尖兵になるはずだった。 この都市は1936年、住民の圧倒的な支持を得て、「自由都市憲法」を破棄し、翌1月には「ダンチヒーポランド 協約」によって、実質的なドイツの支配が確立していた。 言われるような領土返還はヒトラーはしていない。
315 :
世界@名無史さん :2008/03/18(火) 00:56:06 0
>>313 実際は、ここんとこずっと栄えまくってるわけだが>ポーランド
世界の金融危機を尻目に、経済大絶好調で年率6.5%の成長
おあいにくさまだな
316 :
世界@名無史さん :2008/03/18(火) 00:57:45 0
まあ未来には「2ちゃんでは在日朝鮮人への差別書き込みは無かった」とか言うんだろうなw
317 :
世界@名無史さん :2008/03/18(火) 00:58:50 0
1938年10月にヒトラーは、分断された東プロイセンとの間に、ポーランド回廊を通る鉄道、高速道路の 敷設権を要求した。 それを返還と曲解しているだけ。 分断された国家としては当然の要求だろう。 仮に、ドイツがその地域の返還を要求したとしてもそれは彼らの当然の権利だろう。 事実、1939年8月21日までの、ポーランドに取り残された100万のドイツ系住民は、弾圧され続け、ポーランド人による暴行、 放火、略奪、強姦、殺人などの嫌がらせによって7万がドイツに逃れ、残ったものもベルリンに助けを求めていた。 そのようななかで、当初ヒトラーが如何にポーランドに寛大であったとしても、ポーランド人は国際連盟の管理下からドイツに 戻ろうとしていたダンチヒや、固有の東部ドイツ領に対して露骨な領土併合欲をあからさまにしたことはヒトラーをして 「ポーランド撃つべし」という考えをもたせたことは容易に理解できる。 さらに、そのポーランドのあまりにも横暴で理不尽な態度にヒトラーは開戦直前にこう演説している。 「ダンチヒはもともとドイツの町である。 ポーランド回廊も、もともとドイツの領土である。 これらの地域は もともとドイツ人によって発展を文化的発展を遂げたのだ。 ダンチヒはドイツから切り離され、回廊も奪われた。 別の地域ではドイツ系住民が迫害を受け、100万人が住居を追われている」 戦争の責任がだれにあるか、第二共和国のヤクザポーランド国家こそが張本人であることは明白な事実。
318 :
世界@名無史さん :2008/03/18(火) 01:00:30 0
ポーランドは北朝鮮同様キレ易い民族。 そのために、内戦で弱りきっていた旧ソ連、弱いものいじめのリトワニアに対する 軍事恫喝、ドイツ人へのズテーテン返還に便乗してチェコのチェシンを奪い、 今度は、ドイツ東部領土に目をつけた。 国内では、ドイツ系住民への迫害行為が頻発していた。 ポーランド国内では、オーデルナイセ川の西側も含め、スラブ人が居たと考えられる すべての地域の併合を考えていたポーランドの「西部支援協会」は特にラジカルだった。 こういった行為は当初ポーランドに融和的だったヒトラーの考えを返させるには十分だった。 何よりも、ドイツ軍の中核をなすプロイセン軍人たちにとって、ポーランドの卑劣な挑発行為は ポーランド地域に残してきた親戚、家族を思えば、その気持ちは十分に理解できる。
319 :
世界@名無史さん :2008/03/18(火) 01:03:09 0
ドイツは領土を回復しようとしたに過ぎない。それも交渉という、まったく寛大な措置によってだ。 それを誰が拒否したのか。ほかならぬポーランドである。 そのためヒトラーは仕方なしに、1939年4月、ドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄し、軍事動員をかけざるを得なかった。 それに対してポーランドは対抗意識むきだしに自ら軍事動員をかけるという挑発をしかけ、国内でドイツ復帰運動を展開する立派なドイツ人を弾圧した。 ヒトラーはポーランドに住むドイツ人を守るために、1939年9月、ポーランドに鉄槌を下した。 したがって誰が戦争を起こしたのか。ポーランドである。
> ドイツは領土を回復しようとしたに過ぎない。それも交渉という、まったく寛大な措置によってだ。 > それを誰が拒否したのか。ほかならぬポーランドである。 > そのためヒトラーは仕方なしに、1939年4月、ドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄し、軍事動員をかけざるを得なかった。 久々にこう言う言葉を使いたくなった クルクルパー
321 :
世界@名無史さん :2008/03/19(水) 02:58:10 0
ネオナチの自作自演乙
322 :
世界@名無史さん :2008/03/21(金) 01:04:57 0
ヒトラーの領土拡大といっても 元々はドイツの領土だからな。 第一次世界大戦の敗戦で奪われただけで。 ザール地方 ドイツ領 1935年 国際連盟からドイツへ返還 ラインラント地方 ドイツ領 1935年 ドイツ軍の駐留 オーストリア 同じゲルマン民族 1938年4月10日 オーストリア国民投票で併合決定 ズデーテン地方 ドイツ領 1938年 ドイツに併合 チェコスロヴァキア 元オーストリア領 1938年 ドイツ・オーストリアに併合 メーメル地方 ドイツ領 1939年 リトアニアからドイツに返還 ダンツィヒ地方 ドイツ領 1939年 ポーランドがドイツへの返還を拒否 国境紛争始まる こうやって見ると、一番悪いのはポーランド。 ドイツ領を返還しなかったからな。
すべてポーランド建国時からのポーランド固有の領土。
324 :
世界@名無史さん :2008/03/21(金) 10:16:51 0
【ドイツ】「反追放センター」開設へ…被害者の側面から展示[03/20]
ドイツ政府は19日、第二次大戦直後に旧東欧地域から追放された
ドイツ住民の被害を記録する展示施設、「反追放センター」の開設を閣議決定した。
ユダヤ人などを大量虐殺したドイツの被害者としての側面に目を向けるセンター開設は、
隣国ポーランドなどが「歴史を書き換えるもの」と強く反発。しかし昨年、ポーランドに
親独派のトゥスク首相が就任し、政府間の歩み寄りが実現した。
大戦後、旧東欧地域から追放されたドイツ人は約1400万人とされる。展示内容は
ポーランドやチェコ政府とも協議。20世紀を「追放の世紀」と位置づけ、旧ユーゴスラビア紛争を
めぐる難民・避難民なども紹介する妥協的なものとなる。
また、施設も既存のベルリン市内の政府施設を改装した簡素なものとなる見通しだ。
ソース(毎日新聞):
http://mainichi.jp/select/world/europe/news/20080321k0000m030085000c.html
325 :
世界@名無史さん :2008/03/22(土) 00:15:03 0
>>320 久々にこう言う言葉を使いたくなった
クルクルパー
自分のことを言ってるの?
満足な自分の意見を述べてから言ったらどう
327 :
世界@名無史さん :2008/03/22(土) 00:54:42 0
動揺したのはどっちかな
おれは横スレできたのだけど、あなたが
>>320 なら自分も
言いたいよ ポラックさんに首を切られたらどう
ポーランド厨のいじめにあった人は多いみたいだから(W
なんか又、誰とも知れない存在と戦っている奴がきてるな。
329 :
世界@名無史さん :2008/03/22(土) 01:17:00 0
>>328 なんか又、誰とも知れない存在と戦っている奴がきてるな。
誰とも知れなくないよ
敵は偽りの偽善情報を流すポーランド厨、そして卑劣国家ポーランドのみ
この卑劣国家の真実の罪悪を暴くことこそおれの信念だ
330 :
世界@名無史さん :2008/03/22(土) 02:32:25 0
ヽ、 ヽ ヽ 、 ヽ )ヽ、_,,,..._ ヽ、_, げえッ───────!!! iー-、::_: `、ゝ_,,- ノ ( ) 、 ) ノ::`ー_-_ノ ノ ノ_,-"イ / ` 、ノ `i ( l ,-、 |::::.ヽ _。ヽ:: /_。フ' |ノ ヽ、 i、 ノ |6`i/:::. ,,-.―'' /i|.ー-、. | ヽ ::: i :: ⌒ : | ・・・ま、またポラック(笑)ッ!? ヽ`l | :: /ニ`i / `|:. ヽ、 i_,,,、/ / ,へ___ ,|:::._ヽ___/ _//`ー--、ニ=--―, | ̄ ̄ ̄ ̄||| ̄| / / / __  ̄ ̄`¬  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄○ ̄ ̄ヽ | // / / 三三三 /
331 :
世界@名無史さん :2008/03/22(土) 02:34:25 0
>>324 >大戦後、旧東欧地域から追放されたドイツ人は約1400万人とされる。
毎日新聞のこの書き方っておかしくない?
まるで、植民地から追い出されたみたいじゃない。
ちゃんと、
ドイツ領プロイセン、シュレージェン等から追放、殺害され、
未だにポーランドが占有し続けている。
って書けよ。
>>322 となると、日本は内南洋諸島をドイツに返還しなければならなかったと
日本も悪いやっちゃな〜w
>327 >おれは横スレできたのだけど 山のように嫌ポの書き込みをして、しらじらしいこと・・。
334 :
世界@名無史さん :2008/03/23(日) 16:51:48 0
フライブルクの軍事史研究所の元研究員であるヨアヒム・ホフマンや、 近代史の大学教授に任命されたヴェルナー・ マーザー、 その他の ジャーナリストや歴史家によって、ドイツ戦争責任論争がされている。 それによれば、ヒトラーはソ連を攻撃したのではなく、直前に迫ったスターリンの 対ドイツ攻撃 に対して機先を制した「だけ」である、としている。 殆ど無防備に近い韓半島や台湾、植民地化されていた中国を 嬉々として列強と一緒に併合してた日本とは同列にできない理由がそこにある。 ドイツの騎士は自分よりも弱者には攻撃しない。その例を挙げると ポーランド 中欧最大の軍事大国、ポーランド騎兵は中欧最強と言われた。ドイツ装甲師団の前にあっけなく敗れる。 フランス 兵力、装備、名実ともに欧州最大の軍事国家。ドイツの電撃戦によりわずか一ヶ月で降伏 ソ連 当時世界最大の軍事大国。党のテーゼにより他国の侵略(解放)戦争を標榜していた ドイツの軍隊が進攻した時、ソ連住民は共産党からの解放軍として歓迎し、ロシア解放軍や武装親衛隊、オストレギオン等 多くのドイツ協力者が出現した。のは良く知られている。
2次大戦当時のドイツに騎士はいないのでは? 三十年戦争の頃でさえいわゆるリッターが動員されていたとは聞かない
336 :
世界@名無史さん :2008/03/23(日) 23:15:02 0
1941年5月に、ドイツ側の動員と攻撃意図に照らして、ソ連側がヒトラーに対する「予防戦争」に乗りだすことを計画していた、 これはジューコフによる1941年5月15日付の提案(ヴェルナー・マーザー著『独ソ開戦』小社[学習研究社]刊) の再評価によってかき立てられたもので、かなりの数のソ連の雑誌で断片的なかたちで発表された。 亡命ソビエト将校V・レズーンがビクトル・スヴォロフの筆名で書いた二冊の著作では、スターリンの そのような戦争計画が断定的に論じられている。 レズーンの説は、当然のことながらドイツの歴史家たちの中でも広く受け入れられた。 また、ロシア研究者の改革派グループからも受け入れられている。 ヨアヒム・ホフマン教授の『スターリンの絶滅戦争』で、ドイツ国防軍が攻撃を始めたとき、 ソ連は機先を制した攻撃の最終的準備を進めていたことが明白になっている。 「ボリシェヴィズム、とくにスターリンはロシア国民の第一の敵ではないだろうか。 誠実なロシア人であれば、スターリンとその取り巻きに対する戦いに立ち上がることは、 第一の聖なる義務ではないだろうか。 私は、ボリシェヴィキ権力の打倒のための戦い、 ロシア国民のために平和をもたらす戦い、ロシア国民には必要のない 流血の戦争を中止するための戦いに決起するよう、ロシア国民に呼びかけることが 自分の責務であるとの結論に達したのである。」 アンドレイ・アンドレエヴィチ・ヴラーソフ将軍(ドイツ側に付いたロシア将軍) 1943年3月 ソ連文学の権威でノーベル文学賞受賞者のミハイル・ショーロホフは、 『人間の運命』という小説を書き、それは、ソ連で大量に出版された。 この小説の主人公アンドレイ・ソコロフは、ドイツ協力者であった。 ショーロホフはこの対ドイツ協力者を好意的に書いている。
337 :
世界@名無史さん :2008/03/24(月) 02:14:04 0
ドイツの対ソ戦 =ソ連の対ドイツ先制攻撃計画が存在し ロシアの学者もドイツ学者もオーストリアの学者も ソ連がドイツに先制攻撃を仕掛けようとしていた事を認めている。 これは日中戦争を、中国や韓国朝鮮の学者が中国の日本侵略戦争だと 言ってるのと同じもの。 日本の対中国戦争 =中国は半植民地状態で日本を攻撃出来る様な軍事力も無く、中国での利権を欲しがった日本が 列強と一緒に侵略した戦争。(これに反論してる学者は一人も居ない) 白人は人種が違うが、日本は中国と同じ人種。同族殺ししたのと同じ事。 ★ヒトラーがソ連の対ドイツ攻撃を阻止するために攻撃したとする見解を持っている各国の学者 ロシアの歴史学者 ヴィクトル・スヴォーロフ、ミハイル・メルチュホフ、V. A. ネヴェジン、V. D. ダニーロフ、アレクサンドル・ソルジェニーツィン ドイツの歴史学者 ヨアヒム・ホフマン、ヴォルフガング・シュトラウス、フリッツ・ベッカー オーストリアの歴史学者 ハインツ・マゲンハイマー、エルンスト・トピッチュ
338 :
世界@名無史さん :2008/03/24(月) 22:43:32 0
ドイツの対ソ戦 =ソ連の対ドイツ先制攻撃計画が存在し ロシアの学者もドイツ学者もオーストリアの学者も ソ連がドイツに先制攻撃を仕掛けようとしていた事を認めている。 これは日中戦争を、中国や韓国朝鮮の学者が中国の日本侵略戦争だと 言ってるのと同じもの。 日本の対中国戦争 =中国は半植民地状態で日本を攻撃出来る様な軍事力も無く、中国での利権を欲しがった日本が 列強と一緒に侵略した戦争。(これに反論してる学者は一人も居ない) 白人は人種が違うが、日本は中国と同じ人種。同族殺ししたのと同じ事。 ★ヒトラーがソ連の対ドイツ攻撃を阻止するために攻撃したとする見解を持っている各国の学者 ロシアの歴史学者 ヴィクトル・スヴォーロフ、ミハイル・メルチュホフ、V. A. ネヴェジン、V. D. ダニーロフ、アレクサンドル・ソルジェニーツィン ドイツの歴史学者 ヨアヒム・ホフマン、ヴォルフガング・シュトラウス、フリッツ・ベッカー オーストリアの歴史学者 ハインツ・マゲンハイマー、エルンスト・トピッチュ
339 :
世界@名無史さん :2008/03/24(月) 22:46:19 0
ポーランドなんて、少数民族で元々国家なんて持ってなかった。 第一次世界大戦後から国家ができたようなもん。 シュレジェンがポーランド領だというなら、 アイヌ人も東北、北海道を返還して独立させろ。 国家賠償請求がすごいぞ。
340 :
世界@名無史さん :2008/03/24(月) 22:47:36 0
つーか、ポーランドよ、シュチェチンやオッペルンやダンツィヒ返せこの野郎
わざわざ言うのも馬鹿馬鹿しいが、ポーランド人は遅くとも10世紀から自分の国持ってるぞ。
>>339 シレジアは元々大モラヴィアの領域なんだから、ポーランドから返還されるとしてもチェコのもんだろう。
>>334 >ドイツの騎士は自分よりも弱者には攻撃しない。
フリードリッヒ大王は中立のザクセンに攻め入っていたよなぁ
第一次世界大戦じゃ、ベルギーの中立なんぞ完全無視だったし
ドイツはずっと、国家として成立していたが ポーランドは何度も地図から消える。 少数民族と同じ。 大戦中ドイツに属してた時は、ドイツ人になろうとしてたし。 ワルシャワ蜂起の鎮圧司令官だった エーリヒ・フォン・デム・バッハ=ツェレウスキSS大将 の血筋はポーランド貴族。 この2重姓も名門ユンカー同士の 姻戚関係から来るものではなく、 スラブっぽさを薄めるために 自分で付け加えた名前。 スペル綴りもzelewskiからzelewskyに変え、ポーランドっぽさ を消すようにしていた。
345 :
世界@名無史さん :2008/03/27(木) 00:55:34 0
..__ ./ ノヽ\ ;| (●)(●|: :|ヽ (_人_)/;. . :| |. ⌒ .|; ポラックはもう虫の息です・・・ :h /; :| /; ' / く、. \ ;| \\_ \ ;|ミ |`ー=っ \
346 :
世界@名無史さん :2008/03/27(木) 02:53:00 0
日本なんかタイ王国を除けば アジアの全部の国と敵対してたし。 当時はアジアは植民地だった、だから戦争していた訳でない みたいな言い訳しか出来ない状況。 ドイツの場合、反独的に見てもイタリア、ルーマニア、ハンガリー オーストリー、フィンランド、スロヴァキアはドイツの友好国。 親独的に見れば、上の国にフランス(ヴィシー)オランダ、ベルギー スイス(中立だがドイツ寄り)、スペイン(中立だがドイツ寄り) 北欧諸国全部とリトアニア、エストニア、チェコとかがドイツの同盟・協力国になるぞ。 フランスのヴィシー政権は親独政権なのは説明不要だろう。 有名なプジョー、とかシトロエンもドイツの戦車作ってたし。 オランダ、ベルギーも志願兵とかヒトラー親衛隊師団が結成される ほどだった。 北欧もフィンランド(同盟国)、ノルウェー(中立だがドイツ寄り) スウェーデン(協力・保護国) 北欧も親衛隊師団が結成されたし。 バルト三国も1941年に独ソ戦が勃発すると、 ソ連軍による占領に抵抗していた人々は ドイツ軍を“解放軍”として歓迎し、武装SS隊員に 志願したのは周知の事実。 チェコはドイツの保護国だから、親独的だった。
348 :
世界@名無史さん :2008/03/29(土) 14:14:30 0
349 :
世界@名無史さん :2008/04/01(火) 00:23:25 0
プロイセンはバルトドイツ人の故郷なんですね。 カント、コペルニクス、ショウペンハウエル、ドイツのイメージしかわいてこない。 こんなところにポーランドやロシア人のようなスラブが巣食うべきでない。
350 :
世界@名無史さん :2008/04/01(火) 00:52:11 0
(丶´_ゝ`)ノ 丹念に味わえや…ご主人様のチンポはうまいだろ、ポラック (| | | ===============) ̄q ̄ ) おいひい…おいひいですぅ…ご主人様… U ̄U ノ ノ)_
いきなりでごめんなさい。 プロイセンの歴史を知るのに良い本ってないですか? 最近プロイセンに興味がわいてきたもので…
「図説プロイセンの歴史 伝説からの解放」なんかどうかな。 もっとも、基本的な知識がないと、いきなりこれを読んでも繋がりがわからないかもしれない。
返答ありがとうございます。 基礎知識は恥ずかしながらあまりないので、これからつけていこうと思っています。 他には何かありませんかね…
/ ̄ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄\ / \ / ─ ─ \ / ─ ─ ヽ / (●) (●) ヽ | (●) (●) | | (__人__) | \ (__人__) __,/ \ ` ⌒´ __,/ / ` ⌒´ \ / \ _/((┃))______i | キュッキュッ | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | トン .. / /ヽ,,⌒)  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄(,,ノ \ _(,,) ポラック(笑) (,,)_ / /_________ヽ.. \ / | | \ . ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ / |_________| \
◎おっ!ポーランドが欧州第1位? ポーランドが堂々欧州一だったのは刑務所収容人数でした〜w 第2位:78753人のイギリスを抑え、堂々第1位:80467人〜 おー怖っ ポーランドは世界でも米、南アフリカ、メキシコに次ぐ世界第4位! おめでとうw (出典:図解 世界がわかる「地図帳」)
356 :
世界@名無史さん :2008/04/03(木) 01:08:09 0
◎ポーランドの偉大なる技術力〜 技術輸出額(2000年→2004年) アメリカ合衆国:43233→52643 イギリス:16330→28195 ドイツ:13583→25333 日本:9816→16354 ポーランド:136→― 世界ベスト4に遠いナァ〜 そういや前ポラ厨が大学の就学率世界で一番高いとホラ吹いてたなぁ データ見てたらロシアの方が上だったぜ ロシア人は著名な科学者や芸術家輩出したが、ポーランド人って誰か有名な奴い んの?キュリーはフランスに帰化したからなw もしキュリーがポーランド人の有名人とするなら コペルニクスはドイツ人の有名人になっちゃうもんなぁ あ〜、いたわ、いたわポーランド人の有名人 ジェルジンスキーってのが 残忍極まりないソ連秘密警察(チェカー)の創設者にして冷酷な殺人者 ポーランド人らしいねぇ〜
357 :
世界@名無史さん :2008/04/03(木) 01:09:08 0
◎働きモンのポーランドじ〜んナンチャッテ GDP労働生産性(2004年) アメリカ合衆国:83129 イギリス:65869 ドイツ:65824 韓国:44003 チェコ:40429 ポーランド:34174 おやおや偉大なるポーランドじ〜んは英独の2分の1の生産性しかないんだ〜 しかし同じ西スラブ人でもこうも違うのかねぇ チェコ人→優秀、勤勉、誠実 ポーランド人→怠惰、傲慢、虚栄心の固まり この違いはなん〜だかなぁ
358 :
世界@名無史さん :2008/04/03(木) 01:10:46 0
てゆうか ポラは早くEU脱退しろよ どうせあらゆるデータで下位争いしてんだからさ 惨めに新参加盟国に次々抜かされるウンメーイだからさ(笑) ポラにはお似合いの組織あんだろ EUじゃなくてAUってさ(笑) そこならトップとれるかもな(笑) 待てよ、結構、南アやエジプトに抜かされたりしたりして(爆) 有り得る、有り得る(爆)
359 :
世界@名無史さん :2008/04/03(木) 02:38:51 0
はぁ EUでは国境はないが、ポーランド人がシュレージェン、ポンメルン、東プロイセンで ドイツ人を追放し、彼らから奪った家、土地財産はどうなんだ。 ドイツは追放された彼らの財産権の放棄は認めていない。 もともと、個人の財産権という考えが戦前の民主後進国家第二共和国ポーランドに あったとは思えないが、だからと言ってそれをEUに入った今、それを無視することは 個人の財産権をいまだに否定する野蛮国家といわれても当然のことだ。
360 :
転載 :2008/04/03(木) 08:34:44 0
1740年12月16日、北ドイツの一弱小国プロイセンが、オーストリアの王位継承問題に乗じ、 何の警告もなく全軍をもってシュレージエンに侵入した プロシアはオーストリアのマリア・テレジアに使者を送り、彼女の夫フランツ公のドイツ皇帝への選挙 に一票を投じる見返りに、平和裡にシュレージエンを譲ることと200万マルクの支払いを要求していた しかし、これが容れられぬことを予期してか、使節がウィーンに到着する前にプロイセン軍は国境線を 侵犯していた プロイセン軍は部隊を南北に二分してシュレージエンに侵入した 右翼軍は老将軍シュウエリンが指揮しており、左翼軍は即位間もない新王が自ら率いていた プロイセン軍は僅か2ヶ月でシュレージエンを制圧、1741年1月3日にはプロイセン軍は シュレージエンの中心地ブレスラウに無血入場し、実力に訴えてその領有をオーストリアに迫った 当然ヨーロッパ諸国はこの暴挙に呆れかえった マリア・テレジアがこのようなふざけた要求を呑むわけがなかった ヨーロッパ諸国の同情はマリア・テレジアに集まった 彼女の父親カルル6世は先王が新王を殺害しようとしたときその助命に奔走しており、 いわば新王にとって彼女はいわば命の恩人の娘であった その彼女の即位直後に強盗を働いたプロイセンの行動は、神のごとき善意と寛容をもってしても 理解できなかった しかし、呆れられた本当の理由は、プロイセンの悪辣さではなくその無謀にあった 人口250万の小国が人口1100万の大国オーストリアに真正面から喧嘩を売ったからだった この騒動を引き起こした馬鹿者の名は、フリードリヒ2世といった そんだけ
本来、プロイセンは武力でなく外交によって国を立ててきた ベルリンに首都を持つホーエンツォレルン家のプロイセンは、17世紀に急速に勢力を伸ばした 三十年戦争の際、新教国でありながら、この国は皇帝とスウェーデンの間を巧妙に立ち回り、双方の軍隊に荒らされて領土は荒廃したものの、 双方に恩を売ったおかげでウェストファリア会議でその損害を上回る新しい領土を手に入れ、オーストリアについでドイツで2番目に大きな国になった 17世紀後半、大選帝侯フリードリヒ・ウィルヘルムはフランスと秘密協定を結び、フランスがシュトラスブルクを占領した際、ドイツ諸侯に対して調略を 行って反フランス同盟の切り崩しを行った 続くフリードリヒ1世は、スペイン継承戦争でオーストリアと結び最初のプロイセン王となった しかし、プロイセンの勃興は外交の成功のみならず、内政における絶対主義体制の確立にもあった 大選帝侯はベルリンを中心に中央集権の官僚制度を組織し、ユンカーの政治権力を奪い、ドイツではじめて常備軍を編成した 続くフリードリヒ1世は、ポツダム宮殿でヴェルサイユを模倣した宮廷生活を送り、国外の哲学者を招いてアカデミーを開くなど、(取り敢えず上辺だけは) 強国としての勢威を誇示した ホーエンツォレルン家には、子は親に似ないという伝統があった 1713年に即位したフリードリヒ・ヴィルヘルムは非常な倹約家で、芸術や文化には何の関心も払わなかった 彼は、即位すると父が惑溺し手塩にかけ宮殿のフランス風庭園を更地にして練兵場をしてしまった 当時のプロイセンは、土地は砂地が多く、人口は200万を超えた程度、国力はオーストリアは勿論、隣国のザクセンにも及ばなかった フリードリヒ・ヴィルヘルムにとってプロイセンの国家戦略は、貧しい国力を注ぎ込んで強力な軍隊を編成し、そのために集中的で効率的な官僚制度を作り上げることだった 彼の理想は、即応性の高い防衛軍を練り上げることになった
フリードリヒ・ヴィルヘルムは、軍隊を重視したというよりむしろ軍隊を愛した 彼は3万8000の常備軍を8万に増強するため、徴兵区制度(カントン制)を設けて兵力を補おうとした だが、経済への影響を考慮して徴兵区制度は年2ヶ月程度の拘束期間しか持たず、あくまでプロイセン軍の基幹兵力は志願兵(傭兵)であった 有事ならばこれで問題なかったが、フリードリヒ・ヴィルヘルムの理想は即応性の高いいつでも戦える軍隊、すなわち平時においても十分な兵力を 擁した常備軍であったため、このような不徹底な徴兵制では彼の要求には応えられなかった 兵員不足を補うため、プロイセン軍の兵員徴募は一種の犯罪行為となった 徴募係下士官は、国内だけでなくドイツ一帯を歩き回り、頑健な若者を誘拐した 居酒屋は格好の目標であり、日曜日の教会も襲撃された このように暴力で集められた軍隊を維持する方法は暴力以外になかった プロイセン軍は、過酷な訓練と規律でヨーロッパ中で有名になった フリードリヒ・ヴィルヘルムは軍隊を盆栽のように慈しみ、その治世でただの一度も戦闘を経験しなかったが、脱走兵は3万を数えた プロイセン陸軍に根強かった脱走問題の原因は、軍のこの構造にあった プロイセン軍の精強さは、当時どこ国でもそうだったがいかに正確に教練を行えるかにあった ただし、やや常軌を逸していた 各人の間隔は物理的に最小限に定められていた 整列した兵の右肩は右側の兵の左肩の後ろにあった これは、弾幕の密度を上げるには妥当なものだったが、行進中は注意深く腕を振らねば無秩序な 殴り合いが発生することになった 行進隊形から戦闘隊形への移行を迅速に行うために試行錯誤が繰り返された 通常、戦闘展開のためには縦列から横列に変換しなければならない このため、最低でも2回方向転換(「縦隊右《左》に進め」、「左《右》向け止まれ」)を 行わなければならない しかし、これは敵に対して無防備な側面を晒して延々と行進しなければならいことを意味した このため、敵との十分な離隔距離を確保したり、先行した前衛の掩護下に主力が展開するといった 様々な手続きを踏まねばならず、全戦力による迅速な戦力発揮は難しかった
プロイセン軍は迅速な戦闘展開を可能にするため、横列を積み重ねた縦隊行進隊形を形成して機動し、 各横列毎に方向転換(「右《左》に向きを変え進め」、「左《右》向け止まれ」)を行って戦闘展開を 実施した もっとも、この展開要領では各横列の移動距離が違うため、整然と隊列を維持することは困難だった これを克服する唯一の方法は、兵士の教練の練度を可能な限り向上させることだった 最終的には、各兵士が斜行進、つまり斜め方向に前進する(「半ば右《左》むけ前へ進め」 「半ば左《右》向け前へ進め」)ことまでこなした 万単位の兵員が弾雨の中を整然と隊列を維持したまま斜行進を行う様は感動的な光景だったに違いない プロイセン歩兵は、こと基本教練の練度に関する限り、人間のなし得る絶頂にあった プロイセン歩兵はまた速射能力でも知られていた 一つには絶え間ない反復演練の成果で、装填と射撃動作は行進中でも可能だった 銃も速射能力を上げるよう改良された 込矢は従来の木製から鉄製に変更されて迅速な装填動作が可能になり、1分間に平均3発まで 発射速度は向上した しかし、この改良の結果、銃口が重くなって銃全体のバランスが崩れ、命中精度は更に低下した 当時、「フランスの銃が1発撃つ間にプロイセンの銃は7発撃つ」とまで言われたが、 一方でギベールはプロイセン軍が「音が人を殺すかのように」発射速度を上げることに 夢中になっていると嘲った 事実、後のホトウジッツの戦(1742年)で、プロイセン軍は小銃弾約65万発を消費し、 この戦闘でオーストリア兵2500が戦死し、同じくらいの数が負傷した これは、銃剣や砲撃で殺された者も含めて、死者一人当たり平均260発が必要だったことを 意味していた しかしながら、この手のデータは決して銃の戦術的能力の欠陥を意味しているものではない いわゆる黒色火薬の時代の大部分を通じて、少なくともヨーロッパでは、個々の狙撃兵として 選定された標的に命中させることは、一般の兵士には全く期待されていなかったのである
フリードリヒ2世が父親から受け継いだ最も価値ある遺産は軍隊だった 「兵隊王」の軍隊の存在意義はあくまで戦略的な抑止力にあり、自ら強力な軍隊を築き上げながら、 守銭奴が金を使い惜しみするように極力戦争を避けた しかし、「哲人王」はその軍隊を惜しげもなく侵略戦争に投入した 第1次シュレージエン戦争である プロイセン軍の存在がフリードリヒにシュレージエン侵攻を決意させた最大の理由だったことは 間違いなかったが、フリードリヒは軍隊のみに頼っていたわけではなかった 何しろ、彼はプロイセン伝統の打算に満ちた外交戦略のの後継者であり、その忠実な実践者であった 1741年4月10日、プロイセン軍2万はモルヴィッツにおいてオーストリア軍2万と交戦、 この戦闘がプロイセン軍の最初の本格的な野戦となった 緒戦でプロイセン騎兵は優勢なオーストリア騎兵に撃破され、プロイセン歩兵の隊列の周囲を オーストリア騎兵が走り回った フリードリヒは護衛とともに一時戦場を離脱せねばならなかった 最終的にプロイセン軍が勝利したのは、最高指揮官が指揮を放棄したにもかかわらず最後まで 崩れなかったプロイセン歩兵の力によるものだった プロイセン歩兵はほとんど独力でオーストリア歩兵を撃ち崩し、オーストリア騎兵の突撃を跳ね返し、 最後には突撃でオーストリア軍を撃破した フリードリヒはこの戦闘の結果を無駄にしなかった ただちにイギリスの仲介でオーストリアと講和交渉を開始するとともに、 6月4日にフランスと秘密裡に結んでシュレージエン領有承認の見返りにフランスの保護する バイエルン選侯帝の皇帝即位支持を約束し、ユーリヒ・ベルク地方の対仏請求権を放棄した 9月にはフランス軍とヴァヴァリア軍がオーストリアに侵入、ウィーンを脅かしはじめた マリア・テレジアは追い詰められた 彼女の唯一の味方であるイギリスは、援助金を送るのみで援軍は送らなかった 10月9日、ついにプロイセンはオーストリアとクライン−シュネレンドルフ秘密協定を結び、 下部シュレージエンとブレスラウの割譲を承認させた 彼は、ヨーロッパ列強のパワーバランスを弄んでみせたのだった
プロイセンの行動は国際信義を完全に無視したもので、後世まで非難の的になった フリードリヒも気にかけていたらしく、その著作の中で何度も弁明に努めている しかしながら、実際のところ彼はそんなことは全く気にしていないことをその行動で証明してみせた 1742年2月、プロイセン軍はメーレンに侵攻、今度は上部シュレージエンを制圧、 5月17日、ホトウジッツでオーストリア軍を撃破した 対仏包囲戦の最中のオーストリアに、プロイセンの犯罪を押しとどめる余力はなかった さらに、フランスが不利と見るやフランスと攻守同盟を結んでボヘミアに侵攻、 1744〜1745年にかけて一連の会戦の末にオーストリア軍を撃破し、オーストリアの 対仏包囲網を突き崩した(第2次シュレージエン戦争) プロイセンの凄まじさは、プロイセンの勝利に勢いを得たフランスが攻勢に出ようと一切構わず オーストリアと単独で講和したことだった こうして、プロイセンはシュレージエンの領有とヨーロッパ随一の極悪人の名を不動のものとし、 10年間の平和を得た オーストリアが、フリードリヒが火をつけた騒動を鎮めるには更に3年を要した 第1次、第2次シュレージエン戦争の一連の戦闘はプロイセン軍に様々な課題を与えた プロイセン騎兵は常に全軍の2割以上を占めていたが、常にオーストリア騎兵に翻弄され、 その弱体ぶりを露呈した このため、フリードリヒは騎兵を堅固な戦術単位として集団的に運用し、 斥候や偵察等の軽騎兵としての任務を放棄した また、騎兵独力の戦闘を回避して常に歩兵部隊の掩護下でのみ行動を許し、 その戦術上の役割をあくまで歩兵部隊の支援に留めた このため、例え戦闘に勝利したとしても、プロイセン騎兵は敗走する敵を徹底的に追撃することは なかった
フリードリヒは砲兵を重視しなかったことで知られているが、これは重視できなかったとするのが 実相だった 読書家で勉強家の彼が当時のフランスの最新砲兵戦術理論を知らぬわけがなかったが、 当時のプロイセンの国力で列強と砲兵整備で競争して勝てる望みはなかった オーストリア軍はプロイセン歩兵の神業に近い戦闘展開に対抗すべく砲兵隊の整備に奔走していたが、 1768年、フリードリヒが述べているように、「砲兵の新しい流行はプロイセンの国家財政にとって まさしく底無しの地獄」だった このため、彼は指揮官たちに砲兵に依存することなく戦闘を行うよう強要しなければならなかった 彼の軍事的著作に見られる砲兵に対する否定的見解は、彼の著作の大半が彼の将兵たちのみを読者に 想定していたからに他ならない プロイセン砲兵は、当時の砲兵戦術理論が提唱していた砲兵単独の戦闘展開前準備射撃や攻撃準備射撃 を禁じられ、その任務を歩兵の突撃支援射撃のみに限定されることになる フリードリヒの手がけた戦術上の改革の特徴は、弱点を補強することではなく、 強点をさらに助長させることだった 彼の編み出した「斜行戦術」は、概念そのものは古代ギリシアのテーバイのエパミノンダスの戦術以来 知られていたもので、端的に言えば敵の開放された翼側に戦力を集中し、敵隊列の組織的戦闘力を 崩壊させることだった これは、ひたすら火力を蓄積して最終的に敵戦力が消耗するまでひたすら殴り合いを続ける従来の戦術 とは一線を画するものであった 前衛部隊が敵の隊列を拘束し、斜行部隊が次々に前衛部隊の後方から敵の翼に向かって接近して展開し、 局地的な戦力優勢を作為して敵の側面に圧力を加え、最終的に崩壊させるというものであった 敵から見ると、前衛部隊の背後から新手が次々に斜め前方に向かって機動するためにこう命名された この戦術は、理論的には斜行部隊が撃退されても前衛部隊の掩護下に整然と後退できるだけの縦深性も 備えていた しかし、これ程有効な戦術をこれまで誰も実行しなかった最大の理由は、この戦術が机上の空論に 近いことにあった
まず、翼側が常に開放されているわけではなかった 当時の戦闘は側面を防護するため延々と数キロにわたって横列を展開することも珍しくなく、 大抵は第一線の後方100〜200メートルの位置に予備の隊列が展開していた また、翼側が堅固な地形に依託され、迂回の余地のないよう地形が障害化されていることもあった 更に、攻撃の支涛となる前衛部隊が確実に敵を拘束する必要があった 前衛部隊が過早に攻撃して撃退された場合は戦線全体が崩壊する危険があり、また消極的な戦闘に 終始したならば斜行部隊は敵の主力と対峙することを余儀なくされる可能性があった 実際、斜行戦術に対抗する手段は幾つかあった 布陣位置を適切に選定して斜行部隊の展開の余地をなくすことは最も簡単で確実な方法だった こうすれば、戦闘は正面きっての消耗戦になり、これは量的劣勢にあるプロイセン軍にとって 歓迎できる状況ではなかった 様々な事情によりそのような場所に布陣できなかった場合でも対処する方法はあった 一つには、十分な総予備を準備して斜行部隊に対処し、そこに第2戦線を形成することだった また、総力を持って前衛部隊を撃破できれば、逆に前衛部隊を圧迫しつつ全隊列を斜行部隊に 正対するように方向転換することもできた これは決して困難なことではなかった 斜行戦術には必ず戦力が分離する危険な瞬間が存在していたからだ フリードリヒもこの戦術の弱点は承知していた この弱点を克服するため、フリードリヒはプロイセン歩兵の高い練度に頼った すなわち、敵に対処の暇を与えないために、斜行部隊が迅速に展開して可能な限り短時間で敵の翼を 直撃することだった このため、フリードリヒは機動間の射撃すら禁じ、ひたすら銃剣突撃に訴えるよう指揮官たちに 要求した この射撃戦よりも銃剣突撃を重視する速攻主義は七千戦争初期において甚大な損害を招き、 やがて再び射撃戦が重視されるようになる 実際のところ、この戦術の成否は一にプロイセン歩兵の戦術能力如何にかかっていた
オーストリア継承戦争後のオーストリアの外交方針は、プロイセンを孤立させ、包囲することに 向けられていた そのために、200年来の仇敵であるフランスと手を結ぶことも厭わず、 外交努力の末に1756年5月に防禦同盟を締結した またバルカン方面への進出を宿願とするロシアと1746年2月に攻守同盟を結んでおり、 これにスウェーデン、ザクセンを加えてプロイセンを包囲する態勢を示した ヨーロッパの三大国の包囲網に対し、1756年1月、プロイセンはイギリスと ウェストミンスター協約を結び、イギリスのハノーヴァー防衛を約束した ハノーヴァーで編成されたイギリス軍は、七年戦争でプロイセン唯一の同盟軍となる しかし、「常に警戒せよ」が口癖のフリードリヒにとり、状況は絶望的だった 彼の錯誤は、イギリスへの接近がフランスに与えた衝撃を十分認識していなかったこと、 イギリスがロシア宮廷に対して行った札束外交を過大に評価していたことだった シュレージエンを併呑したとはいえ、人口400万に過ぎないプロイセンは 三大国のどの一国よりも貧弱であった あろうことか、プロイセンはお家芸であるはずの外交戦において敗北してしまったのだ 唯一の救いは、オーストリアとフランスの条約が防禦同盟であることだった しかし、この条約も1757年春には攻撃同盟へ変更される予定になっていた そしてそれは、ヨーロッパの三大国の未曾有の大軍がプロイセンを蹂躙することを意味していた 結局、フリードリヒの選択肢は彼の軍隊にしかなかった 1756年6月上旬、オーストリアとロシアが国境地域に軍隊を集結しているとの情報を得た フリードリヒは全軍に動員令を下令した 彼は8月末にマリア・テレジアに対して平和を表明する手紙を送っていたが、 またもや返事を待たずに軍を率いて国境線を越えた 七年戦争(第3次シレージエン戦争)の始まりである
369 :
世界@名無史さん :2008/04/03(木) 22:55:57 0
>>360-
>>368 ご苦労さん。
で、何が言いたいの?
370 :
世界@名無史さん :2008/04/04(金) 00:58:58 0
歴史は公平に、中立に見ていかなければならない。 第二次大戦の前後、その最中を注意深く調べてみると ポーランドって戦争被害者というそのイメージとは程遠い犯罪国家って感じがする。
371 :
世界@名無史さん :2008/04/04(金) 01:05:51 0
ポーランドって中世のころから侵略国家だったもんね DNAレベルで侵略気質があるのだろう 自国防衛の為にヒトラーの行為は仕方がない
フリードリヒの戦争計画の基本方針は、まずザクセンを攻略して策源とし、シュレージエンを 防衛することだった フリードリヒは兵を四軍に分け、ロシア、スウェーデン両国境とシュレージエンにそれぞれ展開させ、 自ら6万2000を率いて1756年8月29日にザクセンに侵入した ザクセン軍の全戦力は2万で、さらにメーレンにはオーストリア軍3万2000が集結していた プロイセン軍は、ザクセン軍をドレスデンとピルナの各要塞で包囲し、1756年10月1日、 自ら2万8000を率いてロボジッツにおいてオーストリア軍3万2000を撃破した 10月16日、ザクセン軍はプロイセンに降伏、降兵1万7000はそのままプロイセン軍に編入されたが、大半はその年のうちに脱走した オーストリアは、プロイセンの先制攻撃を巧みに利用して国際関係を時刻に有利に展開させた オーストリアの全ての同盟軍が一斉にプロイセン国境に向けて進軍を開始した ライン下流地方から、フランス軍10万がハノーヴァーに向けて進軍し、ポンメルンの併合を 望んでいたスウェーデンが同地に侵入、ロシア軍も国境を越えた 敵側諸国の総兵力は40万を超え、一方、プロイセン軍は13万5000に過ぎなかった 冬営が終わると、プロイセン軍は行動を開始した 主敵であるオーストリア軍を撃破してシュレージエンへの直接的な脅威を排除するためだった 1757年5月6日、4方向からプラハに迫るプロイセン軍6万4000に対し、 カルル公指揮下のオーストリア軍は巧妙な後退戦を行ってプラハに集結した カルルは1万5000をプラハにとどめ、6万の兵を率いて市の東方の高地に布陣しプロイセン軍を 迎撃した フリードリヒはオーストリア軍を平地に誘出し、斜行戦術によってその側翼を撃破しようと試みたが、 オーストリア軍陣地は両肩部を錯雑地形に依託していたため正面攻撃を余儀なくされた 激戦の末にオーストリア軍はプラハへ後退したが、シュヴェーリン元帥以下1万5千を喪った この損害の大部分は、銃剣突撃をかけたプロイセン歩兵に対してオーストリア軍が行った 突撃破砕射撃によるものだった
プラハ戦の後、フリードリヒはオーストリア軍の大部分が南方に後退したものと考えて即日プラハに 軍使を送り降伏を要求したが、籠城したカルル指揮下4万のオーストリア軍はこれを拒否した このためプロイセン軍はプラハを包囲して糧食の尽きるのを待ったが、ダウン指揮下の救援軍が迫るに 及んでベーフェルン麾下2万を分派し、これを迎撃しようとした 救援軍は一度は後退したが、その後次第に増援を加えて兵力6万に達し、6月中旬には再びプラハに 向かって進撃を開始した ここにおいてフリードリヒは決戦を決心し、6月18日、全軍を率いてプラハ東方約40キロのコリン で優勢なオーストリア軍と対峙した プロイセン軍は斜行戦術によりオーストリア軍の側翼を攻撃しようとしたが、オーストリア軍は プロイセン前衛部隊を押し潰しながら斜行部隊に正対するように方向転換し、結果プロイセン軍は 不十分な態勢での正面攻撃を強要されることになった 結果、ただでさえ劣勢なプロイセン軍はオーストリア軍の圧倒的に優勢な火力に粉砕された プロイセン軍の損害は1万3000、対するオーストリア軍は僅か900を喪ったに過ぎなかった フリードリヒの内戦作戦は破綻しつつあった コリンの敗北により、緒戦の勝利によって一挙に戦争を終結しようと期していたフリードリヒの 戦争計画は完全に破綻した 特に、コリンで一線級の主力部隊を喪失したことにより戦力が著しく低下したプロイセン軍は、 プラハの攻囲を解き、3万5000を弟のアウグスト・ウィルヘルムに預けてイーゼル河方面から、 フリードリヒ自身は残余を率いてエルベ河から後退し、ベーメン北部で全軍の再編成を図った しかし、アウグスト軍はオーストリア軍に捕捉されて大損害を受け、7月下旬にザクセンのバウツェン 地区に後退、フリードリヒもザクセンへ後退を余儀なくされた 東ではロシア軍約6万が東プロイセンへ向けて進軍を開始し、スウェーデン軍1万が北方海岸に 上陸してポンメルンに侵入、西ではフランス軍がライン河畔に集結していた10万のうち3万を ザクセンに進出させ、主力7万は5月下旬にウェストファーレンに入り、更にハノーヴァーへ進んでいた
唯一の同盟国イギリスのカンバーラント公率いるハノーヴァー軍4万8000は、 7月下旬にウェーゼル河沿いのクレフェルトでフランス軍主力と会敵したが、 敗れてデンマーク国境方面に退却、ウェストファーレン及びハノーヴァー地方はフランス軍の手に落ちた これに対してフリードリヒは、8月中旬にツィッタウのオーストリア軍主力に対して決戦を 挑もうとしたが、敵陣が予想以上に堅固であったためその企図を放棄し、方向を転じてフランス軍及び 帝国諸侯連合軍に矛先を向けた 敵軍の侵攻の危険に晒されている全ての州で根こそぎ動員が行われ、掻き集めた民兵をコリン戦で 消耗した連隊に加えてポンメルンを窺うスウェーデン軍に対抗させた 東プロイセンにおいてロシア軍に対処していたレーワルト元帥麾下の2万8000は、 8月30日、イェーゲルスドルフにおいてロシア軍10万に跳ね飛ばされて4500を喪った しかし、ロシアの国内事情によりロシア軍は勝利したにもかかわらず後退したため、 かろうじて東プロイセンの占領だけは免れることになった レーワルト軍は12月にポンメルンにおいてスウェーデン軍を撃退することになる オーストリア軍に対して事はそれ程うまくは運ばなかった ベーフェルン指揮下の4万5000は後退してラウジッツ及びシュレージェンにおいて 防衛戦を展開しようとしたが、シュワイトニッツの要塞を失い、 11月22日にはブレスラウにおいて撃破されてベーフェルン自身も捕虜となった 後の戦史が内線作戦の好例として絶賛することになる作戦は既に誰が見ても崩壊していた この絶望的な状況の中、フリードリヒはフランス軍に向かって前進を続けた それは彼の鋼鉄の意志などではなく、むしろ前進する以外にするべきことがなかったからだった フリードリヒは8月末にバウツェンを発し、ドレスデン、グリマを経由して9月10日にナウムブルク においてザーレ河を渡った その数日前にカンバーラント公はフランス軍に降伏、ハノーヴァー軍は抑留され、ただでさえ悪い状況 を更に悪化させた 追い打ちをかけるようにフランス軍2万5000がエルフルト方面に進出、 9月中旬に帝国諸侯連合軍2万5000と合流を果たした
11月4日、プロイセン軍2万はフランス・諸侯連合軍4万とミュンヘルンで対峙したが、 敵陣が堅く斜行戦術が通用しないと判断したため攻撃を中止し、ライプツィヒ西35キロのロスバハに 後退した 翌5日、これを追尾したフランス・諸侯連合軍は、プロイセン軍左翼を衝こうとして迂回中のところをプロイセン軍の3方向からの伏撃により壊滅、損害は3万に達した プロイセン軍の損害は500に過ぎなかった しかし、実際には四周の脅威のうちの一つを撃退したに過ぎなかった ロスバハ戦後、姉へ送った手紙でフリードリヒは「取り敢えず我が国の汚名だけは雪がれた」と記した プロイセンが「いまだ真の幸福ではない」状況にあることに変化はなかった 後世、フリードリヒがロスバハの勝利を間髪入れずオーストリア軍への攻撃に利用したことが 大いに賞賛された しかし、実際にはそうする以外にプロイセンにとるべき道はなかった フリードリヒにはもはや戦術的勝利を積み重ねる以外に選択肢はなかったのだ いつ態勢を整えた敵が自分を叩き潰すかという圧倒的な恐怖がプロイセン軍の足を動かしていた 11月13日、早くもフリードリヒはライプツィヒを出発、トルガワ、グローセンハイン、バウツェン、 ゲールリッツを経て28日にカッツバハに達した シュレージェン方面から後退してきた残存部隊を吸収して3万5000となったプロイセン軍は、 ブレスラウ南方に陣を構えたオーストリア軍6万5000に殴りかかろうとしていた 12月3日、集合した威風堂々たる体躯の将軍たちに対して中肉中背で猫背の王がやや目線を上げて 与えた訓示は、決戦前夜の決意の表明とするには余りに悲壮過ぎることで有名になった ノイマルクトに進出したプロイセン軍と既にヴァイストリッツ西方に布陣していた オーストリア軍との間に、5日、ロイテンにおいて遭遇戦が発生した
この戦闘で、プロイセン歩兵は従来の銃剣突撃でなく射撃線を形成して高い速射能力をいかした 徹底した火力戦を行い、これが斜行戦術が成功した鍵となった オーストリア軍は死傷者1万、捕虜1万2000の損害を受けて潰走、これに対しプロイセン軍の 損害は6000だった 敗れたオーストリア軍はブレスラウに集結して退却し、プロイセン軍は19日にブレスラウ、 28日にリークニッツを回復した プロイセン軍はフランス軍、帝国諸侯連合軍、オーストリア軍の主力を相次いで撃破した しかしながら、これらの勝利はいまだ全戦局を決定するものではなく、ようやく戦力的な均衡を 取り戻したに過ぎなかった 1758年1月、ロシア軍はケーニヒスベルグを占領、東プロイセンをロシアに編入し、 ヴァイクセル河畔で冬営に入った ザクセンには帝国諸侯連合軍が進出し、ポンメルン及びマルク地方ではスウェーデン軍が 侵攻の機会を窺っており、シュレージエンに対しては再編成したオーストリア軍が集結していた 対するプロイセン軍は、ザクセンに対して王弟ハインリヒ率いる2万を、 ポンメルンに対してドーナ軍2万を当たらせ、フリードリヒは5万5千をもって オーストリア軍に蚕食されていたシュレージエンへ進んだ プロイセン軍は4月10日にシュワイトニッツ要塞を奪回、その後5月28日にオルミュッツを 包囲した フリードリヒの作戦方針は、同地でオーストリア軍主力を誘致し、戦闘を挑んでこれを撃破し、 その後、軍を返して東プロイセンのロシア軍に当たるというものであった しかし、ダウン率いるオーストリア軍は会戦を避けてプロイセン軍を逆包囲する態勢を示したため、 フリードリヒは戦闘を断念、7月1日にオルミュッツの包囲を解いてランデスフートへ後退した ここでフリードリヒは軍の一部をシュレージエン防衛に残置し、自らはドーナ軍と合流して 8月25日にツォルンドルフにおいてロシア軍に決戦を挑んだ プロイセン軍の兵力は3万6000、対するロシア軍の兵力は4万4000だった 25日0300頃、プロイセン軍はロシア軍の北方でオーデル河を隠密渡河し、ロシア軍の右翼を 包囲しようとした
この攻撃は、渡河の秘匿を保持できなかったために完全な奇襲とはならず、 ロシア軍は何とか方向変換してプロイセン軍に正対したが、プロイセン軍は ロシア軍の準備の未完に乗じて右翼に大損害を与えた プロイセン軍は引き続きロシア軍左翼を攻撃しようとしたが、疲労と弾薬不足(迅速な機動のために 段列を随伴していなかった)により攻撃は失敗した プロイセン軍は後退するロシア軍を27日まで追撃し、ロシア軍は兵力の3分の1を喪ったが、 プロイセン軍の損害も3分の1に及んだ この戦闘の後、ロシア軍はヴァイクセル河の線に退き、そこで兵力の再編成に入った フリードリヒは再び4万を率いて9月1日にグローセンハインに進出、ダウンのオーストリア軍に 決戦を挑んだが、オーストリア軍7万8000はホーホキルヒに退き、陣地を占領してプロイセン軍と 対峙した 10月14日、プロイセン軍は斜行戦術をもってオーストリア軍陣地を攻撃したが オーストリア軍は斜行部隊を陣地線で喰い止め、逆に有力な予備隊をもって斜行部隊を逆包囲した 文字通り挟撃された斜行部隊は、隊列の前列と後列の兵が互いに背を向けあって射撃したが、 遂に優勢な敵に揉み潰された 斜行部隊の潰走はプロイセン全軍に波及し、やがて全軍が敗走した プロイセン軍は兵力の3分の1を喪った オーストリア軍も損害が7000に達していたため敢えて追撃せず、年末にはベーメンに後退した オーストリアはホーホキルヒの勝利に歓喜し、この戦争を三十年戦争に続く宗教戦争と思いこんでいた ローマ教皇クレメンス13世はダウンに祝福の手紙を送った 一方、フリードリヒは敗軍をまとめてシュレージエンに進出、1758年12月20日にドレスデンで 冬営に入った ホーホキルヒ戦以降、フリードリヒは「余はいつでも戦争を終わらせることが出来る」と言って 首飾りの中の毒薬を見せびらかすようになり、周囲を辟易させることになる 1740年のお気楽な侵略者は、不眠と消化不良に悩まされるようになっていた 1759年8月、破滅の足音はスキップしながら近づいてきた
1759年のプロイセン軍の戦略上最大のEEI(情報主要素、我にとって最も重要度の高い敵の情報) は、オーストリア軍とロシア軍が合流するか否かだった オーストリア、ロシア両軍に比べれば、スウェーデン軍や帝国諸侯連合軍はさしあたって脅威は低く、 フランス軍はブラウンシュヴァイク公軍に撃退され、積極的な攻勢に出る兆候はなかった オーストリア軍がロシア軍と合流するためにオーデル河へ進出したならばこれを撃破するため、 フリードリヒはシュレージエンの南西国境のランデスフートに軍を集結させた しかし、ダウンのオーストリア軍8万はシュレージエンを通過せず、 7月6日、ゲールリッツ南方のマルクリッサに陣地を占領した フリードリヒは4万4000を率いてオーストリア軍陣地南方に移動し、7月末にオーストリア軍と 対峙した オーストリア軍はロシア軍の接近を待ち、プロイセン軍はひたすらオーストリア軍が攻撃してくるのを 待ち構えた 8月初め、ソルティコフ率いるロシア軍7万が遂にオーデル河を渡った フリードリヒは、これを迎撃するためドーナ指揮下の2万8000を派遣したが、ドーナは優勢な敵との会戦を回避したためフリードリヒの不興を買って更迭され、後任に若く積極果敢なヴェデルが任命された 8月23日、カイにおいて積極果敢なヴェデルは3倍のロシア軍に積極果敢に決戦を挑み、7000の兵を喪って潰走した フリードリヒは、自ら軍の一部を率いてヴェデル軍を収容しなければならなかった 足音はスキップから全力疾走に移った
オーストリア軍は、カイでのプロイセン分遣隊の敗北後もマルクリッサを動かず、 ただ、1759年8月3日にクネルスドルフに進出したロシア軍に増援のために、 ラウドン指揮下の2万を派遣し、8月5日には合流を果たした ロシア・オーストリア軍は同地に野戦陣地を構築し、兵力は8万に達した これに対し、プロイセン軍は増援部隊を吸収しながらオーデル河左岸のキュストリン地方に進出、 敵軍の退路を遮断するためにレープスに7000を残し、フリードリヒ率いる4万3000は 8月11日にオーデル河を渡河、12日早朝、ロシア・オーストリア軍陣地を攻撃した プロイセン軍は斜行戦術によって左翼のロシア軍を撃破しようと戦闘展開を開始、 これに対してロシア軍コサック騎兵は陣前出撃を行い、展開中のプロイセン軍と戦闘に入った 12日1130頃、ようやく射撃位置に前進したプロイセン砲兵が敵陣に射撃を開始、 30分後にプロイセン歩兵の隊列が一斉に攻撃前進を開始した この攻撃によって左翼のロシア軍は陣地を捨てて後退したため、プロイセン軍は確保した陣地を軸に 敵を圧迫すべく突撃を開始したが、それまで散発的な射撃を行ってきた陣地中央のロシア軍と 右翼のオーストリア軍陣地が全力による突撃破砕射撃を発揚、プロイセン軍中央及び左翼の 攻撃前進を完全に阻止した フリードリヒは、兵士を鼓舞するために自ら軍旗を握って陣頭に立ち、攻撃を再興しようとしたが、 乗馬は2度にわたって倒れ、フリードリヒ自身も一弾が胸に命中して煙草入れを潰して中に入っていた かぎ煙草でシャツを汚し、ついには単身コサック騎兵に包囲された もしプロイセン騎兵の決死隊がフリードリヒを救い出さなかったならば、彼は毒を仰ぐ暇もなく 殺されていただろう 結局、16世紀以来ずっと戦場を支配してきた法則が勝利を収めた 18世紀に至っても、堅固な陣地に依る徹底した防御は果断で積極的な攻撃を完全に粉砕したのだった 戦場はいまだ勇気も大胆も存在することを許さなかった 最高水準の練度と高度に洗練された戦術もそれを覆すことは出来なかった
>>369 想像するに、今からなんか犯罪を犯す予定で、後で精神鑑定の際の証拠となるよう自分が狂っているふりをしているのではないかと。
>>372 なんかオーストリアって七年戦争でも不甲斐ないイメージがあったが
プロイセン側の視点から見ると結構強かったんだな
分割相続のせいで国内がバラバラだったハプスブルク諸邦が
そこまで一致団結してプロイセンに当たった理由って何だろうか
やっぱマリア・テレジアが気炎を吐きまくってたからか?
プロイセン軍は完全に攻撃衝力を失い、夕暮れとともに確保した陣地も捨てて後退に移った 兵20000と全ての野砲を喪い、連隊長級の高級指揮官の大半が死傷していた プロイセン全軍の組織的戦闘力が瓦解したと悟ったフリードリヒは、残存部隊の指揮をフィンクに委ね、 弟のハインリヒを全軍の最高指揮官に任命し、王位継承者を甥に譲り、自らは部隊の後退を掩護するため 壊滅した連隊の兵を集成した後衛部隊を指揮してオーデル河左岸に陣地を占領し、ここで敵の追撃を 待ち構えた 明らかにフリードリヒは玉砕する覚悟だったが待てど暮らせど敵の追撃はなく、 結局、気の抜けたフリードリヒは2日後に後衛部隊をまとめてベルリンに帰還した オーストリア・ロシア両軍は、プロイセン軍を追撃することもベルリンに向けて進撃することも しなかった クネルスドルフでの1万6000の損害による再編成もあったが、最大の理由は政治的な配慮だった オーストリアのシュレージエン回復と、ロシアの東プロイセン領有を戦略目的とすることで 両国は手打ちしており、プロイセンの完全占領は国際政治の勢力均衡の点からも好ましくなかった もう一つの大国フランスも同じ考えで、オーストリアへの援助金を減額し、オーストリアはフランスが 平和に傾くのを思いとどまらせるために外交努力を行わなければならなかった 結局のところ、この戦争は「国家の戦争」ではなく「王室の戦争」だった フリードリヒは、後にこの軍事的空白を「ブランデルブルク家の奇跡」と呼んだ 1759年8月中旬、ベルリンのフリードリヒは各地の守備隊から兵力を抽出し、 3万3000の軍を編成して、南方に退いたロシア軍を追撃するための準備を整えた しかし、オーストリア(ダウン)軍はロシアとの協定を破り、シュレージエンでなく手薄になった ザクセンに進撃した また、帝国諸侯連合軍がライプツィヒとヴェルテンベルクに進出、9月4日にはドレスデンを失い、 ザクセン防衛の任にあったハインリヒ軍はトルガワに後退、ザクセン全域を失う恐れが出てきた
フリードリヒはロシア軍追撃を諦め、ハインリヒ軍の一部を編合してザクセン解囲を企図した 作戦の基本方針は、まずフインク軍を派遣してオーストリア軍の背後に進出させ、 しかる後に主力を率いてオーストリア軍に決戦を挑み、これを撃破することにより ザクセンを確保をするというものだった しかし、フィンク軍はドレスデン南方の南マクセンにおいてオーストリア軍と帝国諸侯連合軍に 包囲されて11月21日に降伏、フリードリヒの作戦は根底からひっくり返った プロイセン軍はオーストリア軍と対峙したまま冬営に入り、フリードリヒは痛風を病んで 3週間病床に入った この間にも外交戦は進展していた フリードリヒはイギリスと図って講和会議の開催を目論んだ しかし、当時イギリスは北米と海上でフランスを圧倒していたためドイツで戦争が継続されることを望んでおり、カンフル注射のようにプロイセンに軍資金を注ぎ込んでいた しかしながら、イギリス国内に厭戦の気運が高まりだし、フランスもやる気を失せたように観測されたため、列強に和平協議をはたらきかけ始めた フリードリヒはまた、オーストリア南部国境を脅かすためにトルコと結ぼうとしたが、 これはさすがにイギリスが反対した 海外でイギリスに連敗中のフランスは、財政上の理由から戦争から手を引きたがっていたが、 マリア・テレジアへの義理もあって全面講和に踏み切れず、イギリス及びハノーヴァーと 単独講和を企図する動きを示すようになった ロシアは兵力の消耗が半端でなく、加えてオーストリア軍との連携が不十分なこともあり、 政府内で戦争遂行に疑問の声が出てきた 特に、オーストリア軍が協定を破ってザクセンに進出した時などは、怒り狂ったソルティコフが 全軍を率いて帰国しかけた フリードリヒはこの機会にロシアに接近し、単独講和かあわよくば同盟を結ぼうとしたが、 ドレスデン方面でのプロイセン軍の敗北が伝わったためロシアは再び態度を硬化させてしまった なお、言うまでもないがオーストリアはシュレージエン回復以外の一切の妥協を許さなかった
1760年に入り、フリードリヒは再び11万の軍を編成した 自らは6万を率いてドレスデンを占領しているオーストリア(ダウン)軍7万2000と対峙し、 ハインリヒ軍3万5000はザーガン地区でロシア軍に備え、スウェーデン軍に対しては シュトゥッテルハイム軍6500が配置された また、フーケー軍1万5000をシュレージエン防衛に当たらせたが、6月23日、ランデスフートに おいてラウドン率いる優勢なオーストリア軍に蹂躙されて全滅、フーケーも負傷して捕虜になった これを受けたフリードリヒは、マイセンの帝国諸侯連合軍への手当に1万2000、 ドレスデンへの対処に1万2000を残し、主力3万6000を率いてシュレージエン防衛のため 8月12日にリーグニッツに進出、3個軍からなるオーストリア軍9万と対峙した プロイセン軍は南方からオーストリア軍を包囲しようと試みたが、逆に優勢な敵に3方向から 包囲される危険に晒されることになった 14日夜、フリードリヒは1万4000を率いてリーグニッツ北東でオーストリア(ラウドン)軍を 夜襲、銃剣突撃によりこれを撃破した プロイセン軍の損害3300、オーストリア軍の損害は9000に及んだ この戦闘によってオーストリア軍は3軍のうち1軍が戦闘力を失い、プロイセン軍包囲を断念して 後退した 戦闘後、フリードリヒはハインリヒ軍と合流し、1万2000を分派してロシア軍に当たらせ、 自らは主力を率いて山岳地帯に入り込んだオーストリア(ダウン)軍と対峙した ロシア軍はオーストリア軍の一部と合流し、オーデル河右岸ではクロッセン方面へ、 左岸ではベルリンへ向かって進撃を開始した オーストリア軽騎兵からなる偵察部隊がベルリンに侵入、10月9日から12日まで 略奪を欲しいままにした フリードリヒがシュレージエンから軍を返したため、本格的な戦闘を望まなかったロシア軍は ヴァイクセル河まで後退したが、それまでに各地で略奪を行い、特にポンメルンは大きな損害を受けた ロシア軍後退を知ったフリードリヒはグーデンで軍を停止させ、その後ザクセンへ進んだ
ザクセンでは帝国諸侯連合軍がトルガワとヴィッテンベルクに進出していたが、 プロイセン(フリードリヒ)軍の前進によりライプツィヒとヘミニッツに後退した 大流血の決戦を厭わぬフリードリヒの行動により、プロイセン軍は戦争の主導権を握っていた しかし、これまた流血に頓着しないオーストリア(ダウン)軍5万がプロイセン軍を追尾し、 トルガワ西方に進出した オーストリア軍は高地に陣地を占領し、左翼をエルベ河の沼沢地に、右翼をトルガワの森林地帯に 依託して戦闘正面を局限し、北上するプロイセン軍を待ち受けた これに対し、フリードリヒはプロイセン軍4万1000のうち1万5000をツィーテンに任せ、 この軍を前衛部隊として正面からオーストリア軍を拘束させ、自ら斜行部隊2万5千を直率し、 トルガワの森を迂回して北方から払暁とともにオーストリア軍の背後を衝こうとした プロイセン軍は兵力で劣勢だったが、砲はオーストリア軍275門に対して300門とやや優勢だった 11月3日に行われたこの戦闘は、7年戦争の全期間を通じて最大の激戦の一つに数えられることになった 11月の寒気のために迂回機動は予想外の時間を費やし、午後になってようやく戦端が開かれた ツィーテン軍は錯雑した地形の関係から歩兵攻撃を断念して砲撃のみを加え、 その間にフリードリヒは北方からオーストリア軍陣地に強襲をかけたが、 速やかに陣地変換を終えたオーストリア軍の防御火力により喰い止められた しかし、この戦闘でダウンが負傷して夕刻戦列を離脱したため、オーストリア軍は夕闇の中 エルベ河を渡河して東方へ整然と後退した 結局、敵を撃退したという点でプロイセン軍が勝利したことになったが、オーストリア軍が 1万6000を喪ったのに対し、プロイセン軍もまた1万7000の損害を出し、 フリードリヒ自身も銃撃によって軽傷を負った この損害の原因は、消極的な戦闘に終始した前衛部隊の敵拘束の不徹底によるものだった
後退するオーストリア軍はベーメンで踏み止まったため、ザクセンへの脅威が完全に取り除かれた 訳ではなかった プロイセン軍はオーストリア軍に備えてライプツィヒで冬営、同地で越年した 帝国諸侯連合軍はクランケンに移動、シュレージエンのオーストリア(ラウドン)軍もベーメンに移動、 スウェーデン軍はベーネ河を渡って後退した 1761年はプロイセン軍にとって完全に守勢の年となった 王弟ハインリヒは開戦前から要塞に頼る防衛戦略を主張し、攻勢によって主導を得ようとする フリードリヒとしばしば衝突していたが、この年は頑なに防御に徹することになった オーストリア(ダウン)軍と帝国諸侯連合軍はベーメンに留まっていたが、 プロイセン(ハインリヒ)軍がこれと対峙してザクセンへの侵食を防ぎ続けており、 ザクセンはなおもプロイセン軍のための重要な策源として機能し続けた しかし、情勢は緩やかに悪化していた ブンツェルヴィッツは、オーストリア・ロシア軍13万の1ヶ月の攻囲に持ちこたえたが、 10月1日にシュヴァイツニッツが、12月にコーペルクが陥落し、オーストリア軍、ロシア軍、 スウェーデン軍は、来るべき侵攻作戦のためにプロイセン国内に確保した拠点に兵と物資を集中していた この状況を打破するためにフリードリヒは再びトルコとタタール族に交渉を求めた 1761年11月にはタタール族が同盟締結と兵力の援助を提議してきた フリードリヒは、この兵力をもってハンガリーでオーストリア軍を牽制させ、 さらにトルコ軍と協力してロシア国境を脅かすことを目論んだ イギリスはジョージ2世の死去(1760年10月)とともにトルコと急速に親密化し、 1761年10月には通商条約を結んでいたため、この計画はかなりの実現性があったが、 トルコはオーストリアと不戦協定を結んでおり、またタタール族参戦もロシア国内の政変のために 実現を見ることはなかった 一方、この頃イギリスはジョージ3世の即位と共に急速に平和へと傾き初め、 主戦論を唱えるピットが辞職、プロイセンは唯一の同盟国を失い軍資金の援助を絶たれた
年が明けて1762年1月5日、ロシア女帝エリザヴェータが酒と色に溺れまくった末に頓死した エリザヴェータのフリードリヒへの私怨が、ロシアがプロイセンに敵対した最大の理由だったが、 新帝ピョートル3世は皇太子時代からフリードリヒの熱烈な崇拝者で、両国は急速に接近することになる 即位とともにピョートルは、国内の反対を押し切ってあろうことかオーストリア軍とともに 作戦中の軍を帰還させ、一切の領土的要求を含まず5月にはプロイセンと講和条約を締結し、 6月には攻守同盟まで結んでしまった この同盟にはスウェーデンまで加わったため、プロイセンは東プロイセンとポンメルンを完全に回復し、 さらにロシア軍の支援を得ることになった この結果、トルコとタタールの強力は失われたが、そんなものは今や些細なことだった 東の脅威が消滅したフリードリヒは、軍を再編してザクセンにハインリヒの6万を配し、 自らは10万の兵力を集中させてシュレージエンの完全回復を企図した 6月30日にはロシア軍2万が来援し、フリードリヒ指揮下の野戦軍は7万5000に達した 早くも7月1日、フリードリヒは奪われたシュヴァイツニッツへと軍を進めた 対するオーストリア(ダウン)軍は、一部を占領地の防衛に当たらせ、主力4万9000が シュヴァイツニッツ南方のブルケルスドルフに陣地を占領した フリードリヒは軍の一部(ヴィート)をオーストリア軍陣地の背後に迂回させ、 自ら主力を率いて敵陣を挟撃しようとした この支軍は意図を秘匿するため夜間行軍に徹したが、オーストリア軍はこれを探知して シュヴァイツニッツの西方に移動して新たな陣地を構えた その後もフリードリヒは部隊を送り込んで背後攪乱を繰り返したが思うように成果は上がらず、 両軍は延々と探り合いのような機動戦を繰り広げた挙げ句、フリードリヒは全力を集中した正面攻撃に 頼らざるを得なくなった
ピョートル3世が皇后の手によって弑逆され、7月21日にロシア軍はポーランドへ帰還の途について いたが、プロイセン軍はその日にオーストリア軍に対して作戦を開始した プロイセン軍はまずオーストリア軍とシュヴァイツニッツの連絡線を遮断してオーストリア軍を誘い、 8月4日未明、ブルケルスドルフでオーストリア軍を攻撃した 夕刻、オーストリア軍は3000を喪って後退、プロイセン軍の損害も1600に及んだ シュヴァイツニッツのオーストリア軍守備隊は眼鏡に抵抗を続けたが10月10日に降伏、 グラッツ伯領を除くシュレージエン全域がプロイセンの手に落ちた 10月29日にはハインリヒ軍がフライベルグでザクセン方面のオーストリア軍を撃破、 新編のフェルディナント軍がハノーヴァーでフランス軍をライン河の西に押し戻した この結果、兵力的に劣勢に陥った帝国諸侯連合軍は行動を封じられ、バイエルンが単独講和の交渉を 始めたのを契機に連合軍は崩壊した フランスが最初に手を上げた 11月3日にイギリスと講和の仮協定を締結、フランスはドイツにおける軍事行動を停止し、 続いてドイツ帝国議会もプロイセンとの中立協定を結んだ 最大の被害者であるオーストリアのマリア・テレジアはなおも頑強に戦争を主張したが、 協約の期限が満了したトルコが10万の軍を国境に集結させるに及び、 遂に1763年2月15日、平和条約に調印した 戦争は終わった
フリードリヒの戦争目的は、国益というよりは王朝の利害にあった 戦略目的も敵の撲滅ではなく敵の消耗にあった フリードリヒは、敵を壊滅させ、または敵に自分の意志を強要するだけの資源を持っていなかった フリードリヒの軍隊の規模も編成も、過去の軍隊とたいして変わらなかった 七年戦争開戦時の陸軍の総兵力は15万で、この数字は1786年に20万に増加したにとどまった そして、17世紀のヨーロッパ諸国の軍隊と同じく、プロイセン兵の3分の1は外国人だった フリードリヒは無数の戦闘を指揮したが、そこに投入された戦力は4万を超えることは滅多になかった しかも、戦闘に勝った時でさえ兵員の最大40パーセントが死傷した 兵の損失がこれ程酷かった原因の一つは、火器の改良が進んだことだった プロイセン軍の小火器の性能向上の至上目標は、依然として精度と射程ではなく発射速度を上げること だった 銃を軽量化し、全長を短くし、鉄製の込矢や銃身の口径に比して極端に小さい弾丸等の小手先の改良を 繰り返し、教練を更に強化した結果、マウリッツの時代に10列の銃兵が投射した弾量を フリードリヒの兵士は3列で達成した 射程や精度は顧みられないどころではなく、射撃速度のためには当然のように犠牲になった 当時のどこの軍隊でもそうだったが、プロイセン軍の教練に「狙え」という号令は存在せず、 兵士はただ銃を水平に構えて真正面に向けて発砲することのみを要求された プロイセンの銃には照星がなかった
「五胡十六国〜清までの軍事史」でこんな話があったが、例えに出すのが無茶なのか
13 名前: 世界@名無史さん 投稿日: 2005/08/01(月) 12:15:30 0
>>7 >>8 外人が書いた本でサルフの戦いについて
「残念ながらこの時代の火器はたいして効果的な兵器ではなかった。
二百年後のプロイセンでもマスケット兵が50ヤード先の標的を狙って
命中率はたった6割だった」
とかコメントしてた。
391 :
世界@名無史さん :2008/04/05(土) 00:27:13 0
>>372-
>>389 何でもいいけど、あくびの出るような長ったらしいはなしはやめてくれる
で、結局何がいいたいのかさっぱりわからんよ。
このように短射程で火力を集中し、多数の損害を覚悟しなければならなくなると、軍事物資の補給を 従来の軍隊よりずっと円滑に進めなくてはならない フリードリヒはこの面で大きな成果を上げた ポツダムのスプリトゲルバーとダウムの兵器廠では、1740年代に年間1万5000挺の銃を生産し、 プロイセンの火薬の生産も1746年の44万8000ポンドから1756年には56万ポンドに 増産された 兵站部は2年先の軍需品まで契約しており、フリードリヒは「軍は必要なものに事欠いたことはない 仮に銃4万挺と軍馬2万頭を使用する作戦を遂行することになっても大丈夫だ」と胸を張った 糧食も大事に備蓄されていた ベルリンとブレスラウの軍需品倉庫だけでも、1776年には6万の兵を2年間養えるだけの 穀物と小麦粉が保管されていた 軍専属の仕立屋が納入する規格を統一した新しい軍服が、毎年全ての連隊に支給された もっとも、これにかかるコストは国を麻痺させる程だった 戦争は余りに多くの人命を消費しすぎた 7年戦争開戦時、プロイセン軍の規模はヨーロッパで第4以か5位で、国民一人当たりでは 第1次を誇った しかし、プロイセンの人口はヨーロッパで第13位に過ぎなかった プロイセンの若者の4分の1は軍隊に徴兵された そして、七年戦争では18万の兵士が死んだ この数字に負傷、捕虜、脱走を加えれば、プロイセン軍は数回は全滅したに等しかった 開戦時のプロイセン軍の兵士で、終戦まで生き残っていた者は僅かに15人に1人であり、 これは三十年戦争でグスタフ・アドルフのスウェーデンが蒙った人的損耗をも上回っていた 財政の面でも、軍事費は支えきれないほどの高額に達した プロイセンの収入の90パーセントが戦費に費やされた これだけつぎ込めば20万の軍隊を維持できたが、ひたすら倹約に努めた結果だった 貨幣は悪鋳され、軍税や強奪で手当たり次第に搾り取った 傷病兵に対する介護にはビタ一文割かれなかった 将校は結婚を禁じられた フリードリヒには軍人寡婦に年金を払う余裕がなかった
プロイセン全軍が何度も皆殺しに遭うような目に会いながらもなお戦争に勝利できた第一の要因は、 兵の精強さでも斜行戦術の素晴らしさでもフリードリヒの鋼鉄の意志でもなく、主に補給面での改善にあった おかげでプロイセン軍は、プロイセンの領土から余る遠くに出ていかない場合に限られたが、比較的迅速かつ秩序正しく移動できるようになった また、兵士の軍規を過剰に強化したことで、フリードリヒは敵の鼻先で奇襲をかけることもできた 他の国の軍隊であれば兵士が大混乱に陥る戦術展開ですら成し遂げた だがそれでも、決定的な勝利を得るには十分でなかった フリードリヒが戦争で獲得した唯一の収穫は、1741年のシュレージエンだけだった この後、フリードリヒは徹底した消耗戦略によって戦争を戦い抜き、勝利した フリードリヒは国際政治上の現秩序を維持することなど全く気にかけていなかったが、軍事的には現秩序を死守する徹底した保守主義者だった 1775年にフリードリヒは次のように記した 「野心を抱く者は次のことを考慮すべきである 今日、軍備と軍規はヨーロッパのどこでも均一であり、同盟は常に交戦国間の兵力の均衡を生み出す 従って、現下で揺るぎない優位にある君主といえども、そこから期待し得るのは、戦勝を重ねることによって国境の小都市を獲得し、あるいはささやかな領土を獲得するに留まる 例えそれが戦争に投じた出費の利息すら払えないような領土であり、作戦で死亡した市民の数にも及ばぬ人口を持つに過ぎない領土であろうとも」 これ程格調高くなくとも、近世の政治家たちは誰もがフリードリヒに同意しただろう プロイセンもその敵国も、17世紀のヨーロッパ諸国とさほど違わなかった それは、依然として強固な階層秩序を保った社会であった 貴族は富と権力をその手に握り、軍隊も当然この社会の現状を反映していた フリードリヒの将校たちは、ルイ15世の将校たちと同じく全員あるいはほぼ全員が貴族だった 下士官と兵卒は例外なく庶民であり、その半数近くが外国人だった 戦争捕虜から挑発された外国人もいた 更に、18世紀の政府が頼った戦費の財源も、フェリペ2世の時代と大差なかった 軍隊が利用する道路も輸送手段も、ヨーロッパのどこであれ、1750年代が1550年代より素晴らしく改善されていた訳でもなかった
とはいえ、フリードリヒが死んだ1776年ともなると、近世ヨーロッパの軍事システムは明らかに 変化しつつあった 第一に、正規軍に新しい編制が見られるようになった それは軽装備の歩兵と騎兵だった 軽歩兵が最初に注目されたのは、プロイセン国王フリードリヒがオーストリアのハプスブルグ家に 騙討をかけた1740〜1741年のことであった この時、トルコとの軍事境界線にあたるハンガリーとクロアティアの2万の古参兵が援軍に動員され、 プロイセン軍の上部シュレージエンへの侵攻を喰い止めたのである 軍服など滅多に着用しないこの軽装備の「散兵」を、あるイギリス人は偏見に満ちた表現で 次のように評した 「(彼らは)乱暴で無規律、軍法に対して徹底して不服従を貫く 彼らがハプスブルク家に尽くすのは、彼ら特有の宗教上の偏向と習慣、教育のためである 原始的な粗野と純朴が彼らの特徴であり、今日の軍隊の有給の傭兵(志願兵)を鼓舞する精神とは 全く異質のものである」 彼らは1737〜1739年にはトルコ軍を撃退した実績があったのだが、 それでもヨーロッパで最も完成された軍隊を打ち負かしたことは、 他の国の軍事指導者たちの関心を集めないわけにはいかなかった サヴォイアはフランスの攻撃から山岳地帯の国を守るため、1742〜1743年にアルプス山脈に 大量の非正規軍を動員した ハンガリーでの従軍経験のあるサクス元帥は、1743年にフランス軍に軽歩兵を導入した 七年戦争が終わると、軍事思想家たちは戦争の戦訓と功績をまとめたが、 軽装兵力とその戦術を積極的に評価する意見もあった この「小さな戦い」を論じた書籍は、1750年から1780年までにヨーロッパで 50冊ほど出版されたが、いずれも「軽装兵力」の採用を推奨していた
1755年、イギリスはアメリカに正規軍を出兵し、フランスとフランスと同盟したインディアンの軍勢と戦うことになったが、この時「小さな戦い」の変則的な戦術を部分的に採用した ある将校は現地で戦う兵士を次のように評した 「必要な教練は、武器の使用法を完璧に熟練、すなわち、素速く装填し、射撃するのみである 軍規に関してはただ一つ、フランス人とインディアンに攻撃されたなら、 銃弾が発射されている場所全てに突撃せよ」 勿論、全ての専門家が軽装兵力の必要性を全面的に信じたわけではなかった 1757年、オーストリアの軽騎兵はプロイセン領の深奥部に襲撃をかけ、一時はベルリンを陥れた ところが、フリードリヒはそんな経験をした後でも軽装兵力を採用しようとはしなかった むしろフリードリヒは、戦場に全力を注ぎ込むほうを選択した また、大金をつぎ込んで訓練した歩兵隊が万が一にも脱走することを極度に警戒した 宿営地の周囲にフェンスを張って兵士たちの上着と靴を没収し、進軍の際は夜間を避け、森を通過しないようにし、斥候が司令部の前方を200メートル以上離れることすら禁じた 散兵の組織的な小競り合いの戦術を、逃亡を黙認するに等しいとみなしていたのだ もっとも、これには全兵力を完全な統制下に置いて戦場に投入するフリードリヒの戦術スタイルも 起因していたのだろう しかし、この解釈は間違っていた 軽歩兵と軽騎兵は既に定着していた
オーストリア継承戦争(1740〜1748年)では、もう一つの新しい変化が生じた 大規模な軍隊を、師団というそれだけで完結した部隊に分けて編制したことだった 1760年代に出版されたピエール・ド・ブルセは、彼の著書「山岳戦の原則」で、 理想的な軍隊は3個梯隊で構成されるべきで、それぞれが1日あるいはそれ以下の進軍距離に相当する間隔に離れて展開し、全軍が集結し攻撃する地点を敵に悟られないようにするべきだと主張した このスタイルは、フランス・スペイン軍がサヴォイアに遠征したときにかなりの成果を上げ、ブルセはこの遠征に兵站参謀将校として従軍していた ところがフランス陸軍指導部は強行に抵抗し、フランス軍が陸軍編制の基本単位として師団を採用するのは1787〜1788年になってからだった これによって、1万2000の歩兵、騎兵、砲兵、工兵と本部要員が 一人の指揮官と幕僚スタッフのもとに編制されるようになったのである だが、野戦軍の師団編制はうまくいかず、フランス軍でも1796年まで普及しなかった 大軍を分散し、移動と展開を相互に調整し、再び迅速に集結させるのに必要な道路と地図が思うように手に入らなかったからだった 七年戦争の時も、各国の軍隊は地図がないため進軍に苦労し、地形がわからず負け戦を余儀なくされた ヨーロッパの道路網が全て調査され、将軍たちが地形を知識として使えるようになったのは、1780年代になってからだった この時代に進められたオーストリア・ハプスブルク家の全領土を網羅したヨゼフィーネ測量調査、カッシーニによるフランスの大掛かりな地勢測量がこれに貢献した 1790年代には、地図に等高線が引かれるようになり、指揮官は地図を広げて作戦を立案することができるようになった 標高が正確にわかる地図が軍隊に与える恩恵は計り知れなかった これらの地形資料のおかげで道路網は以前とは見違えるほど各地に拡大し、計画的かつ定期的に維持整備されるようになった これまで道路がなかった場所に戦略機動路が欲しいとなれば、工兵隊がすぐに道路を敷設した イギリス軍が18世紀半ばにスコットランドに構築した道路は、全長1500キロに及んだ 大陸では、必要な軍需品を集積地から軍の倉庫に迅速に輸送するため、専用の運河建設計画も立案された
チラシの裏にでも書いとけ
398 :
世界@名無史さん :2008/04/08(火) 00:18:03 0
歴史は公平に、中立に見ていかなければならない。 第二次大戦の前後、その最中を注意深く調べてみると ポーランドって戦争被害者というそのイメージとは程遠い犯罪国家って感じがする。
399 :
世界@名無史さん :2008/04/08(火) 00:18:40 0
昔のバルカンの火薬庫がセルビア人なら、東欧の火薬庫はポーランド人ですか。 どっちも、同じスラブのキレ易い民族のようですね。 彼らはともに第一次、第2次の大戦の引き金を引いた民族として記憶されるべきでしょう。 その点、同じスラブでもチェコ人なんか、長らくドイツの影響を受け少しは 現実的な思考を持っているように見えます。
400 :
世界@名無史さん :2008/04/08(火) 00:21:29 0
朝鮮人とかポーランド人とか見てると、やっぱ環境とか関係なく 生まれつきの性格ってのがあるんじゃないかと思うよ……あいつらキチガイすぎ オーストリア(notラリア)人とかフランス人の場合、妙にプライドが高いから 「私は高貴な民族に相応しい振る舞いをするザマス!」って感じでまだマシなんだけど
このスレで馬鹿みたいにポーランド叩いて粘着してる奴って一体なんなの? 昔ポーランド人になんかされたの?あくまでもこのスレはプロイセン『地方』のスレじゃなくて、 ビスマルクやフリードリヒ大王の、プロイセン『王国』を語るスレだと思うんだが。 そもそもポーランドとドイツの領土のすったもんだも2次のドイツ敗戦以降の問題じゃん。 (流石に東プロイセンやポメラニアとかをごっそり持ってかれたのには違和感があるが。) とにかく、気違いの様にポランを粘着して叩いてる暇があったら、専用のスレ作るかショパンのピアノ曲でも聴け。心がリラックスして良い物だぞ。
>>401 ただの、スレを機能不全にするのが楽しくてしょうがないだけの荒らしだって。
403 :
Heil Deutschland!! :2008/04/09(水) 22:22:08 0
ドイツよ、ドイツよ、 この世のすべての物の上にあれ 護るにあたりて 兄弟のような団結があるならば マース川からメーメル川まで エチュ川からベルト海峡まで ドイツの国は この世のすべての物の上にあれ!! Deutschland, Deutschland über alles, über alles in der Welt, wenn es stets zu Schutz und Trutze brüderlich zusammenhält. Von der Maas bis an die Memel, von der Etsch bis an den Belt, Deutschland, Deutschland über alles, über alles in der Welt! Sieg Heil!! Sieg Heil!! God Damn Fuckin'Poland and all Polish pigs!!
404 :
HEIL :2008/04/09(水) 22:23:33 0
ポラック蛆はヨーロッパ、いや、世界のゴミ。即刻殲滅せよ!!
405 :
世界@名無史さん :2008/04/09(水) 23:36:59 0
>>401 ビスマルクやフリードリヒ大王の、プロイセン『王国』を語るスレだと思うんだが。
その彼らの故郷をめちゃめちゃにして我が物顔におれの領土だってほざいている
国はどこなの。
しかも、そこに住んでいたドイツ人を追放し虐殺し、土地財産を奪ってね。
その経緯を無視してプロイセンの歴史は語れまい。
ショパンの曲? やめてくれ! そんなもの聞いたら頭がおかしくなるわ。
406 :
世界@名無史さん :2008/04/09(水) 23:46:53 0
レニングラードはドイツ流のサンクト・ペテルスブルグとドイツ流名に変わったよね。 カリーニングラードが本来のプロイセンのケーニヒスベルグに変わるのも近い。 ダンチヒはもともとダンチヒ、マリーエンブルグ、アレンシュタイン、その名前が正規の地図に 載って初めてプロイセンの歴史は語れるようになる。 ポーランド、このような国家はプロイセンの歴史にとってお呼びじゃない! 彼らの偽りに満ちた戦後の歴史は書き換えられるべきだ。
ショパンの葬送行進曲いいよね。
・・・・毒をもって毒を制す・・・・なんだか知らんがこれ以上スレと関係ないこと書き続ける
アンチポーランド厨(=第三帝国厨?)の荒らしがこれ以上荒らしを続けるのなら、
本当にクラ板や鍵盤板からショパン信者を大量召喚しようか?(冗談だがw)
>その彼らの故郷をめちゃめちゃにして我が物顔におれの領土だってほざいている
国はどこなの。
しかも、そこに住んでいたドイツ人を追放し虐殺し、土地財産を奪ってね。
その経緯を無視してプロイセンの歴史は語れまい。
だから、ww1で消滅してしまったプロイセン『王国』を語るスレだって言うの!!
プロイセン『地方』とそこに住んでいた、或いは今そこに住んでる『民族』を語るスレじゃない!!!
それともなんだ?ポーランド人やポーランド王国がプロイセン王国に何かしたって言うのか?(ワルシャワ公国はナポレオンの傀儡だぜ)へえ、面白いですね。分割されて消滅した国が
プロイセン王国にどんな被害を与える事ができるのやら。それともなんだ?ポーランド、リトアニアとドイツ騎士団の確執のことを言ってるのか?
>>407 俺はポロネーズの英雄だな。ワルツ14番も。リストのラ・カンパネラなんかも良いね。
もういいよ・・・荒らしは所詮荒らし。無視すればいいだけ。 マターリ進めようぜ。
410 :
世界@名無史さん :2008/04/10(木) 23:26:18 0
>>408 ポーランド人やポーランド王国がプロイセン王国に何かしたって言うのか?
おかしなことを言うひとだね。
あなたの頭の中には17−8世紀の状況しか脳内で動いているだけなんだろうね。
ポーランド人がプロイセンのドイツ人国家を、根こそぎ民族浄化の形で追放、虐殺した歴史は
つい最近のことだ。
411 :
世界@名無史さん :2008/04/10(木) 23:42:58 0
>>408 だから、ww1で消滅してしまったプロイセン『王国』を語るスレだって言うの!!
ホーエンツォレルン家はww1で崩壊したが、プロイセンの歴史はその後も続いており
消滅というか、させられたのは第二次大戦以後なのだが。
ケーニヒスベルグでのドイツ皇帝の戴冠式は圧巻だが、なぜベルリンでやらなかったのは
よくわからんが。
412 :
世界@名無史さん :2008/04/11(金) 00:24:11 0
第一次世界大戦前ではドイツ領であったダンツィヒ地方は、ドイツの敗戦によって 国際連盟管理下に置かれていたものの歴史的に見ても明らかにドイツの領土であり、 また住民の96%はドイツ人。 ポーランド人その他は3%以下だった。 ポーランドが占領していたポーランド回廊は東プロイセン地方をドイツ本国から 切り離し、そのせいで極めて不安定な状態にあった。 さらに、ポーランドに在住するドイツ系住民は少数民族として、 迫害を受けていた。 ポーランドは国際連盟管理下のダンツィヒ自由市に1920年1月9日に結ばれた条約に 「ポーランドはポーランドとの直接結合のためダンツィヒ港内に郵便、電信、電話局を 設置することができる」という特権をもっていた。 しかし、ヘベリウス広場にある郵便局は名ばかりで、防護用の強化壁、 鋼板でかため軍事要塞と化していた。 ダンツィヒ自由市におかれていたすべてのポーランド側事務機関も同様抵抗拠点の 様相を呈していて、職員もすべて軍事教練を受けた予備役兵からなっていた。 これは国際連盟が認めていた事でなく、ポーランドによる明らかな侵略行為。 つまり、ポーランドは近い将来、ダンツィヒを、リトアニアによるメーメル地方の占領 のように不法占領するための、明らかな戦争準備を行っていたという事。 ドイツはこのような危機的状況により、ポーランドに対し自衛的進出を余儀なくされた。
413 :
世界@名無史さん :2008/04/11(金) 00:26:35 0
ポーランド人はひどい。 戦後、ポンメルン、シュレージエンから残ったドイツ人を土地財産、家畜を奪った上追放した。 避難の過程で、多くのドイツ人が子供、老人を中心に、飢え、疲労、リンチで死に追いやった。 その数は、300万に達したと言われている。 その反面、上シュレージエンのオッペルン地方には、かなりのドイツ人の子孫が残っているが、 彼らは、かの地方の豊富な石炭資源の開発、採掘技術を持ったドイツ人は残した。 ポーランド人にとってもこの資源と、ドイツ人の高度な技術は必要だったからだ。 しかし、彼らに対してもポーランド語を強要し、彼らの祖先の墓石にまでポーランド名で刻むよう強要した。 もっとも気に入らないのは、その悪逆を続けたポーランド人が戦争の偽被害者ぶってることだ。
414 :
世界@名無史さん :2008/04/11(金) 00:28:32 0
“誰が”最初に古プロイセン人を攻撃したのか 原バルト系の古プロイセン人を攻撃し、領土を獲得したと一方的にドイツ騎士修道会のせいにされ汚名をきされているが・・・ 実は古プロイセン人を最初に攻撃したのはそもそもポーランドなのである ドイツ騎士修道会が教皇グレゴリウス9世の勅令により、ラントマスター、ヘルマン・バルクをプロイセンのフォーゲルザンクに派遣したのが“1230年”である 以降、《》内は“ポーランド”の「クラクフ年代記」より(“ネオナチ”の文書でない) 1115年 《ボレスワフ3世(クシヴォウスティ)、プロイセンを掠奪す》 その後もボレスワフ3世はプロイセンへの攻撃をくり返した 《プロイセン人は説教によって異教から改宗させることも、またその悪しき性格の故に剣によって屈服せしめることも難しい輩》 しかしポーランド人は改宗した古プロイセン人に対し重い賦役を課し、隷属化した それを見た古プロイセン人は“改宗”が直ちにポーランド人の奴隷になってしまうことを見抜き、強く抵抗 プロイセン司教クリスチアンは1218、1221〜23年にポーランドで十字軍を編成し攻撃させたが、反撃されポーランド領内へ逆侵攻され略奪される事態になった これを見ていたマゾフシェ公コンラートはドイツ騎士修道会を利用しプロイセン人征服を企みクルム地方の土地を与える条件で誘致した つまりポーランドの悪しき領土欲で自ら出かけ失敗し窮地に立たされたため、ドイツ騎士修道会に肩代わりさせようとしたのである
415 :
世界@名無史さん :2008/04/11(金) 01:54:05 0
東プロイセンのケーニヒスベルグはカントの生まれ故郷、ダンチヒはドイツハンザ同盟の拠点、 マリーエンブルグはドイツ騎士団の根拠地、要はその地域はポーランド人のものでも、ロシア人の ものでもない。 ドイツ人のものだ 中立的歴史観をもてないようなあなたのようなアホが過去の歴史をゆがめてきたのだ。 ポーランドほど特に戦後にその歴史的真実とあまりにもかけ離れた歴史観にそまった 国家はない。 もっともこの卑劣国家が被害国家として祭り上げられなければ、ポーランドの開戦責任というより、 この破廉恥国家をドイツの侵略から救うという偽りの大儀名文によってドイツに宣戦した英仏の立場は なくなる。 もちろん、英仏が本気でポーランドを救うつもりなどないことは明らかだ。 ドイツに宣戦しても同時期に東からポーランドに侵攻したソ連に対しては宣戦どころか、のちに チャーチルが同盟を結ぼうと言い出す始末だ。 結局、英仏はポーランドの力を過信し、東欧で250万もの予備役兵力をもつ軍事大国ポーランドが まだ、再軍備4年の満足な予備役兵を持たないドイツを叩いてくれることを期待していたのだろう。 それが、証拠に、開戦後、いともあっけなくポーランドが敗北すると、その後半年間西部戦線では 何事もおきなかった。 宣戦はしたものの英仏はこの事態に呆然とするのみで、もちろんヒトラーも 当初から英仏と事を構えるきなどなかった証拠だ。
,.-ー冖'⌒'ー-、 ,ノ______\ /__愛●国___ヽ {ノ へ.._、 ,,/~` 〉 } /プ ̄`y'¨Y´ ̄ヽ―}j=く ヽ ノ /レ'>-〈_ュ`ー‐' リ,イ} ヽヽ / _勺 イ;;∵r;==、、∴'∵; シ ヽヽ ,/ └' ノ \ こ¨` ノ{ー--、_ ̄ 人__/ー┬ 个-、__,,.. ‐'´ 〃`ァーァー\ ,/ |/ |::::::|、 〃 /:::::/ ヽ / | |::::::|\、_________/' /:::::/〃
417 :
世界@名無史さん :2008/04/11(金) 04:39:57 0
ポーランド叩きは愛国じゃねーよ ナチオタのキチガイ一人が暴れているだけ
418 :
世界@名無史さん :2008/04/12(土) 01:50:54 0
どういう意味かしらないけど、ネオナチと言えば罵倒の言葉と思っている あなたようなアホ世代の時代はもう終わったんだよ。
このスレ・・・完全に終わってやがる・・・・・・仕方ないから見捨てて新しくスレ立てする? あぁ、でも気違いアンチポーランド第三帝国厨の蛆虫が又引っ付くか・・・・・・世知辛い板だな・・・・・
421 :
世界@名無史さん :2008/04/12(土) 22:32:49 0
J'ai envahi et ai attaqué en Pologne et Allemagne Nazie a fait du génocide de 6,000,000 Polonais en 1939.Hitler qui était maniaque a hurlé sur le principe de suprématie des gens allemande et a tué les gens latins, la course Slave, le Juif dans les grandes quantités. L'Allemagne est du gaspillage.L'Allemand est un cochon.De plus, Hitler a fait l'Holocauste de 8,000,000 Juifs.Il y a ceci sur la charge d'Allemagne que je ne peux pas pardonner.Humilie sur toi je suis allemand, un supremacist de l'herrenvolk!Je m'excuse à Pologne et commets le suicide, et chute dans l'enfer!
422 :
Mazurek D& ◆k8rFuvh5HQ :2008/04/12(土) 22:41:06 0
Jeszcze Polska nie umarła, kiedy my żyjemy. Co nam obca moc wydarła, szablą odbierzemy. Marsz, marsz, Dąbrowski do Polski z ziemi włoski za Twoim przewodem złączem się z narodem.
423 :
Mazurek Dabrowskiego :2008/04/12(土) 22:43:00 0
Jak Czarniecki do Poznania wracał się przez morze dla ojczyzny ratowania po Szwedzkim rozbiorze. Marsz, marsz, Dąbrowski do Polski z ziemi włoski za Twoim przewodem złączem się z narodem.
Yo no puedo entiendo
425 :
Mazurek Dabrowskiego :2008/04/12(土) 22:43:38 0
Przejdziem Wisłę przejdziem Wartę będziem Polakami dał nam przykład Bonaparte jak zwyciężać mamy. Marsz, marsz, Dąbrowski do Polski z ziemi włoski za Twoim przewodem złączem się z narodem.
426 :
Mazurek Dabrowskiego :2008/04/12(土) 22:44:44 0
Niemiec, Moskal nieosiędzie, gdy iąwszy pałasza, hasłem wszystkich zgoda będzie y oyczyzna nasza. Marsz, marsz, Dąbrowski do Polski z ziemi włoski za Twoim przewodem złączem się z narodem.
427 :
Mazurek Dabrowskiego :2008/04/12(土) 22:45:21 0
Już tam ociec do swej Basi mówi zapłakany: "słuchaj jeno, pono nasi biją w tarabany. Marsz, marsz, Dąbrowski do Polski z ziemi włoski za Twoim przewodem złączem się z narodem.
428 :
Mazurek Dabrowskiego :2008/04/12(土) 22:45:57 0
Na to wszystkich iedne głosy: "Dosyć tey niewoli mamy Racławickie Kosy, Kosciuszkę, Bóg pozwoli. Marsz, marsz, Dąbrowski do Polski z ziemi włoski za Twoim przewodem złączem się z narodem.
うん、今年のF1で実現するだろうな
430 :
世界@名無史さん :2008/04/13(日) 02:30:21 0
1番痛いのはポーランド信者だよ 奴らは、ポーランドは先進国だとか 世界一の美人国だとか ポーランドは天才だらけ …世界の優秀な人のルーツはポーランド とかマジで思ってるからね
431 :
世界@名無史さん :2008/04/13(日) 03:19:34 0
1番痛いのはポーランドイタい教信者だよ 奴らは、ポーランドは先進国だとか 世界一の美人国だとか ポーランドは天才だらけ …世界の優秀な人のルーツはポーランド とかマジで思ってると思ってるからね
432 :
世界@名無史さん :2008/04/17(木) 01:01:51 0
ポーランド貴族はハンガリー貴族と違って ・無駄にプライド高い ・無駄に被害妄想癖がある ・無駄に差別意識 の三拍子揃った奴等だからな…… ポーランド貴族と話をする時は、どんな状況であれ相手を「小さい」とか 相手の妻や娘に対して「広い」とかは使ってはいけないそうだ。暗殺されるらしい。 かつて「奥方様の牧場は広い」って褒めたフランスの外交官が次の日に心臓麻痺で死んだりしてる
433 :
世界@名無史さん :2008/04/17(木) 01:05:35 0
ポーランドは朝鮮人に似すぎるほどに似てる。 自国で少数派なら無理な反抗や要求は最小限に抑え、 いつか復讐の機会が来たら極悪非道になるのがポーランド人だ
434 :
世界@名無史さん :2008/04/17(木) 01:07:17 0
ポーランドは朝鮮人に似すぎるほどに似てる。 自国で少数派なら無理な反抗や要求は最小限に抑え、 いつか復讐の機会が来たら極悪非道になるのがポーランド人だ
436 :
世界@名無史さん :2008/04/22(火) 00:58:30 0
(丶´_ゝ`)ノ 丹念に味わえや…ご主人様のチンポはうまいだろ、ポラック (| | | ===============) ̄q ̄ ) おいひい…おいひいですぅ…ご主人様… U ̄U ノ ノ)_
旧プロイセン地方は民族的にはドイツ人だが各都市はドイツ騎士団の支配が嫌でポーランド王国に加盟したんだから、 民族や国民国家という概念がいかに人工的に後に創造されたものかわかるってもんだ。 あそこのドイツ人はみんなポーランド人になりたくて、自分からポーランド人になったんだから。 民族主義で国を語ることの愚かさがこのスレの真骨頂だな 19世紀の百姓の国民国家の発想でしか現代の現象を理解できない愚か者。
438 :
世界@名無史さん :2008/04/24(木) 01:45:16 0
>>437 あそこのドイツ人はみんなポーランド人になりたくて、自分からポーランド人になったんだから
別にポーランド人になりたかったわけじゃないし、ポーランド人になってもいない。
たまたま、ドイツ東方植民の流れを汲むハンザ同盟都市とドイツ騎士団の利害が
相反して、前者がポーランド王に庇護を求めただけ。
この当時はまだ民族的な対立はなく、ドイツ植民者もドイツ語とポーランド語の双方を話す
バイリンガルが多かった。
しかし、オーデルナイセ以東のシュレージェン、ポンメルン地方はもともと人口が希薄であった
ためドイツ人植民者が多数を占め、シュティティン、ダンチヒ、ケーニヒスベルグとともに
ハンザ同盟のドイツ人都市として栄えた。
ドイツ人がポーランド人になりたいなどシュラフタの時代でさえありえない。
むしろ経済的に多くの特権をもっていたドイツ人にこそポーランド人はなりたがっていた。
そして、ドイツ東方植民以後、700年以上の月日で中世ではすでにその地域は神聖ローマ帝国の一部であった。
いわゆるドイツ人の血と肉になっていた地域である。
そのな流れを無視し、第二次大戦後のほんの一瞬の時期にこの地域の1300万ものドイツ人を
追放、殺害、家土地財産の略奪、強制収容所への収監、そこでの暴行、殺人、強姦を欲しいままにした。
出血の多かったこのような暴虐をおこなったポーランドは永久に責められてしかるべきである。
439 :
世界@名無史さん :2008/04/24(木) 02:15:53 0
>いわゆるドイツ人の血と肉になっていた地域である。 なってねーよ。そこはシロンスクとポモージェといって、 ピャスト家やグリフィン家をはじめとしたポーランド王家や貴族の系統が支配していた土地で、 住民の2〜3割はつねにポーランド語を母語とする純粋なポーランド人だった上、 「ドイツ人」と言ってる連中も結局はみんなポーランド人とチュートン人の混血だからほぼ100%ポーランド人の子孫だった。 13世紀にモンゴルに荒らされた復興のを急ぐためにポーランド王国の各公領の領主はドイツから移民を受け入れて、 それを奨励するためにポーランドの都市法にかわってチュートン人の都市法が適用を許したが、 文化も民族もポーランドとチュートンのハイブリッドだ。 その上、シロンスクの最主要都市であるヴロツワフ、ポモージェの最重要都市であるグダンスクとシュチェチンは 旧市街がナチスドイツとソ連の戦争で跡形もなく破壊されてしまったが、 戦後になってこれもポーランド民族文化の一部だからとポーランド人が何十年もかけて全部元通りに丁寧に立て直した。 いわばワルシャワと同じだ。 つまり、現在のシロンスクとポモージェはもはやポーランドの地と肉だ。ドイツ人はお呼びでない。ドイツ人の居場所はない。 人口動態もおまえの知識は完全に間違っている。現ポーランド領から追い出されたドイツ人は295万人だ。 1300万人なんて完全に嘘。誇張もいいところ。そんなのドイツ以東全部から追い出されたドイツ人の数だ。 しかも戦中に1600万人ものポーランド人がドイツによって故郷を追われている。そのうち600万人は虐殺された。 ドイツに行ってある教授から聞いた話だが、戦後ポーランド人によって暴力的被害を受けたドイツ人は多くて7000人にすぎない。 直接殺されたのは1000人を超えることはないと言っていた。 1600万vs数千人。16000000人vs7000人。6000000人vs1000人。ドイツの悪逆非道はここに明らかとなった。 とはいえ、寛容なポーランドは全くお人よしだ。 現在、ドイツ人には下院選挙で優遇措置を与えてるし、オポーレのドイツ系住民にはドイツ語を公用語として認めてるんだから それで満足しろ、つか永久に感謝しろってこった。 そしてドイツよ、未来永劫に罪を背負うのだな。
440 :
世界@名無史さん :2008/04/24(木) 02:29:55 0
>ドイツ人がポーランド人になりたいなどシュラフタの時代でさえありえない。 なりたいとは思わせない。 なぜならシュラフタは登録制および世襲制であり、ポーランド=リトアニア連合王国議会(セイム)の承認が必要だ。 帳簿は完全に残っているから、身分を偽ることはできない。 だから平民がシュラフタになることはめったにない。 長いポーランドの歴史のなかで、新規にシュラフタになれたのは400人弱に過ぎない。 だが、シュラフタになることができた幸運なドイツ人もいる。 ユゼフ・ハレルはポーランド・ソ連戦争から第二次世界大戦にかけてのポーランドにおいて最も有名な陸軍の将軍の一人で、 シュラフタの家の生まれであるが、ナチス・ドイツ軍に果敢に戦いを挑んだこのポーランド人貴族将軍の家であるハレル家は もともとドイツ系であり、名前をドイツ風に読めばヨーゼフ・ハラーになる。 宗派もルーテル派プロテスタントである。 ドイツ系ポーランド人のなかにも正義感の強いハレル将軍のような人物がいたことを名誉に思え!
441 :
世界@名無史さん :2008/04/24(木) 02:35:50 0
シレジアは990年にポーランドのピアスト朝の祖ミェシコT世の支配に入って以来 長い間ポーランド語住民と後から移住してきたドイツ語住民が混在し、 住民の大半はどちらの言語も話すことができた。 1675年にピァスト家の系統が断絶する前から色々あったが、徐々にシレジアは ボヘミアを支配していたハプスブルク家の支配下になっていく。 この過程ではまだ住民はポーランド語もドイツ語も話すことができた。 この地方のドイツ語化が急速に進んだのはオーストリア継承戦争で1740年にプロイセンのフリードリヒU世が支配権を得てからのことである。 1871年のドイツ統一の前後の時期は、ブロツワフを中心とする低地シレジアはドイツ語住民が多数を占め、 オポーレを中心とする高地シレジアはポーランド語住民が多数派だった。 この時期シレジア全体ではまだ30%がポーランド人だった。 1939年にヒトラーの起こした第二次大戦でシレジアのポーランド人(シレジア人と呼ばれていた)の全部が ドイツの民族浄化政策によって殺害されたか、資産を奪われて総督府へと追放された。 このあと戦争終結まで、大半がドイツ語住民で占められることとなる。 したがって、シレジアが完全にドイツ語圏化していたのはシレジアの長い歴史の中で1939年から1945年までのたった6年弱という事になる
442 :
世界@名無史さん :2008/04/24(木) 02:36:16 0
ポメラニアが正式に歴史に登場するのは992年にポーランドのミェシコT世が作らせたラテン語のポーランド史書Dagome Iudexにおいてである。 Dagome Iudexによると、ミェシコT世の治世では既にポメラニアはポーランドのグニェズノ管区に含まれ、グニェズノ大司教座の管轄地域となり、 オドラ川流域のシュチェチン、ヴォリン、グダニスクなどの都市建設が進んでいた。しかし、6世紀の初めごろには既にミェシコT世の部族である レフ族が居住し、ポメラニア訛りやポラーブ訛りのポーランド語(レフ語)を話していたことがわかっている。1046年にはポメラニア公シェモミスルの 名が登場し、ポメラニアの大規模なキリスト教布教活動と農地開発が行なわれていたことが言及されている。1000年には神聖ローマ帝国のオットーV世が グニェズノを訪れ、ミェシコの息子であるボレスワフT世に対して、「(神聖ローマ)帝国の兄弟及びパートナー」の称号を授けている。1005年には ポメラニア人はピアスト朝のポーランドに対してキリスト教化に反対して大規模な反乱をおこす。1020年にはデンマークのカヌート大王(ポーランドの ミェシコT世の孫でボレスワフT世の甥)がポーランド支援のためポメラニアに介入してくる。 見返りに、ボレスワフT世はカヌート大王に協力してイングランド征服を助けている。 1107年にはポーランドでボレスワフV世とズビグニエフとの王位継承戦争がおきているが、ポメラニア人はズビグニエフに味方したため、 ボレスワフV世はポメラニアのビャウォガルド、コシャリン、カミェン・ポモルスキ、ヴォリンといった都市を征服している。 1135年には神聖ローマ帝国とポーランドは、 ポメラニアとリューゲン島をポーランド領とすることで合意している。このころから大規模な ポーランド人のポメラニアへの入植が始まる。しかし、17世紀の30年戦争時代には戦争と疫病でポメラニアの人口は3分の1に減ってしまう。
443 :
世界@名無史さん :2008/04/24(木) 02:36:44 0
30年戦争とその後の北方戦争によって上ポメラニア(シュチェチン含む)はスウェーデンが、下ポメラニアはブランデンブルク・プロイセンに 支配されることになる。これからポメラニアのドイツ語化が急速に進むことになる。グダニスクやシュチェチンにドイツ人が大量に 移住したのもこの期間である。1815年にはポメラニア全体はプロイセン領となり、住民にドイツ語使用が強制されるようになり、 ポーランド語やカシュープ語などドイツ語以外の言語使用は徐々に禁止されていく。ポメラニアにおけるポーランド語話者の 人口比率は1818年に90%以上であったが、1852年に65%、1861年に58%、1890年に46%、 1900年に33.5%(この年はプロイセンで国勢調査が行なわれている)、1910年に19%と激減していく。 1888年にはあらゆる学校内でポーランド語の使用が完全に禁止され、これによってポメラニアは完全にドイツ語化していくことになる。 もちろん第二次大戦中はポメラニアのポーランド系住民はすべてドイツによって虐殺されるか、残りは資産を全て奪われて総督府へと追放された。
444 :
世界@名無史さん :2008/04/24(木) 02:37:20 0
大戦後は家畜から機械まで、流動資産は全てソ連に持っていかれ、強制移住させられたポーランド人に残されたのは、荒廃しきった農地だけだった。 この荒んだつらい時期をShaberと呼ぶ。 ポーランドのポメラニアにはソビエト軍が駐留し、1992年までポーランドにはこの地域の司法権は与えられなかった。 しかも共産主義のため、ポーランド人が与えられたのは、土地の長期使用権だけで、所有権はなかった。 したがって、1945年の第二次大戦終結に伴う住民の強制移住で下ポメラニアにポーランド人が移住させられるまで、ポメラニアがほぼ ドイツ語圏(ドイツ人話者が8割を超えていた)のは、ポメラニアの長い歴史の中で1890年から1945年までのたった55年間ということになる。 よって、シレジアやポメラニアは長い間ポーランド人の故郷であったのであって、かの地をドイツ人の故郷のように主張するものは歴史を全く知らないのである。
445 :
世界@名無史さん :2008/04/25(金) 01:18:19 0
「私たちは今日ポーランド抵抗軍の男女の犠牲的行為と誇りに深い敬意を
表します。63日間もの間ワルシャワの男女の市民がドイツの占領に対し
英雄的な必死の抵抗を示しました。彼らはポーランドの自由と尊厳のため
に戦ったのです。彼らの愛国心はポーランドという国の偉大な歴史の中の
輝かしい例であり続けるでしょう。...ポーランドの誇りでありドイツ
の恥辱であるこの地において私たちは和解と平和を願います...私が
生まれ変わった自由で民主的なドイツの首相としてこの希望を表明する
ことは、ワルシャワの蜂起者としてナチの蛮行に立ち向かったすべての
人々に感謝することです。」
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20041029 シュレーダー独首相の演説
ヒトラーはポーランド侵攻直前の 1939 年 8 月 22 日の演説で、 ドイツ軍司令官たちに対して次のように訴えた。 「我々の強さは我々の迅速さと残忍さにある。 チンギス・ハンは、何百万もの女子供を、意図的にためらうことなく死に追いやった。 (しかし)歴史はただ彼を偉大な建国者と見るだけだ。 弱腰の西欧文明諸国が私について言っていることなど、意に介す必要があろうか。 私は命令を下したのであり、一言でも批判を口にするものは誰でも射殺する。 なぜなら、この戦争で達成すべき目標は、特定のラインに到達することではなく 敵の肉体的抹殺だからだ。 それゆえ私は目下東方においてのみ、 SS (ナチ親衛隊)の髑髏部隊 (Totenkopfverbande der SS) を投入し、容赦なく無慈悲にポーランドの血統や言語をもつ多くの女子供を殺すよう命じた。 それによってのみ、我々は必要な生存圏を獲得することができる。 結局のところ、今日誰がアルメニア人の虐殺について口にするだろうか。」
447 :
世界@名無史さん :2008/04/25(金) 12:36:53 0
>>446 この戦争犯罪者はそうやってハーグ条約とジュネーブ条約の違反を自ら宣言している。
448 :
世界@名無史さん :2008/04/25(金) 13:21:25 0
でも起訴されてなかったから犯罪者ではないわな 当然有罪にもなってないし
449 :
世界@名無史さん :2008/04/25(金) 13:56:27 0
>>448 じゃ、逃亡しているこそ泥や痴漢は起訴されてないから犯罪者じゃないということか。なるほど。
450 :
世界@名無史さん :2008/04/26(土) 01:18:10 0
>>449 起訴されていないから
法的にはそうなる
452 :
世界@名無史さん :2008/04/26(土) 01:19:54 0
21 :世界@名無史さん:2008/04/25(金) 23:44:23 0 近代ドイツはプロイセン王国からだが、これはポーランド・リトアニア連合王国と対決することで民族国家を確立した。 近代ロシアはスムータの後からだが、これはポーランド・リトアニア連合王国と対決することで民族国家を確立した。 コンスタンツ公会議でその性格がはっきりした多民族国家であるポーランド=リトアニア連合王国のコスモポリタン思想と 対決することでドイツ・ロシア両民族国家は発展した。
>>452 プロイセン王国が一番恐れたのはポーランドだからな
とにかく他国と結んでポーランドを弱体化させることが国の存立の条件だった
ポーランド・リトアニア連合もプロイセンの前身の ドイツ騎士団との戦争で生まれたものだと思えば 感慨深いものがある
東ローマとアッバース朝 フィンランドとソ連 プロイセンとポーランド 日本と中国 隣に大国を持つ小国は苦労が耐えない で、小国は大きな隣国の分裂なり崩壊を望むようになる
>>454 だが当のドイツ人はどっちでもよかった、つかポーランドの方がよかったみたいで、
プロイセンの中の自由都市の市民はプロイセン連合なんて作ってプロイセン王国に対抗して
結局はポーランド・リトアニア連合に加盟したよな。
ポーランド・リトアニア連合は小作農は生活が大変だったようだが、
王侯貴族に限らず、町民や自作農にとってはプロイセン王国よりずっと住みやすい国だったようで。
その前になんか税金のことでプロイセン連合とドイツ騎士団はすごく揉めたんだよ。
でプロイセン連合はポーランド・リトアニア連合に頼み込んでポーランド・リトアニア連合はドイツ騎士団を二度目のフルボッコにした。
その戦後処理が第二次トルン和約。
まだ民族主義のなかった時代だ。
>>455 プロイセンはもともとポーランド王国直轄の属国だから、中国に対する朝鮮の立場だよ。
>>456 新教徒のドイツ人も多分ポーランドに味方したんだろうな
>>457 服属していたところを
独立後圧迫するところなど
朝鮮よりは女真やモンゴルに近い
プロイセンのあたり セミガリア人だのリヴォニア人だの スラヴ人だのゲルマン人だの ごちゃ混ぜだな 混血地帯だな
>>458 というかいつだったか、このころかな。
たしかポーランド貴族の2割か3割はプロテスタント。
ルター派もいるしカルヴァン派もいるし、その前の時代にはフス派もいるし。
>>460 哲学者のカントはバルトプロイセン人の系統だって言うよな。
463 :
世界@名無史さん :2008/04/27(日) 19:00:47 0
シャルルマーニュ師団、ナチ武装親衛隊一般、 対独協力の様相全体についてのこれらの言及のひとつひとつのうちに、 さらにいまひとつの特性、すなわち忠誠という特性が倦むことなく繰り返し現れている。 こうして最後のフランス・ナチ武装親衛隊隊員は、 「アドルフ・ヒトラーが、その日がやってきた時には 自分の最後の忠実な兵士たちに囲まれて死のうと心に決めた二つの場所、 つまりプロイセンの首都あるいはバイエルンの片隅のどちらか一方に」 死にに赴くのである。 【サユル・フリードレンダー著、田中正人・訳『ナチズムの美学』より】 【卍】 ≦予 ̄> G\(^■^ ラ 最後の忠実な兵士たちよ♪ \ <!>+\ ∠ ̄∬ゝ ∠ ̄∬ゝ ∠ ̄∬ゝ G\(^∀^ G\(^∀^ G\(^∀^ ク
【ドイツ厨の言い訳コレクション】 ・WW1敗北はユダヤ人と共産主義者による革命のせい ・ワイマール政権崩壊とナチ台頭はユダヤ独占資本と社会主義者への反発 ・再軍備は屈辱的なベルサイユ条約への民族的防衛 ・ポーランド侵攻はダンツィヒでのポーラン側の挑発行動への正当防衛 ・対ソ侵攻はソ連側の度を越えた対独譲歩要求に対する懲罰 ・モスクワ戦敗退はイタリア敗退とヒトラー指導と冬将軍のせい ・ドイツが敗れたのは専らアメリカ参戦によるレンドリースと戦略爆撃
ドイツ汚多は何故かドイツの逸脱した戦争犯罪を無かったものとしたがるようだが、その邪悪が行われたという事が 別にその特殊な趣味性を全否定するものでもないはずだが もしかして・・正義の軍じやないと嫌なの??w
搾取と略奪 ヨーロッパ征服によってドイツの経済は豊かになった。労働力と食料と資金が ドイツに流れ込み、ドイツの戦争への熱意を煽った。 ・・・中略・・・ 経済的な搾取の手段は地域ごとに異なり、また時とともに変わった。1930年代 の終わりに奪った地域では、工業と農業がドイツの経済に密接に結びついた。4ヵ年 計画は、産業を組織的に奪取することと、ドイツが何を必要とするかを明確に示す ことに大きな役割をはたした。奪取した産業は国有の帝国工場「ヘルマン=ゲーリング」 が運営した。帝国工場はオーストリア、チェコスロバキア、ポーランド、のちにベルギー と東部フランスで、鉄、鉄鋼、石炭、機械などの企業を吸収して、世界有数の大企業となり、 その資産は1944年には43億7500ライヒスマルクに値した。獲得したなかで最も重要なのは、 有名なチェコのシュコダ兵器工場で、帝国工場は1940年末にはその株の63%を買収していた。 占領したヨーロッパの他の地域からの搾取で、主に占領軍の必要をまかなったり、 ドイツの軍事行動の資金にあてたりした。戦後の計算では、占領地域は、750億マルク ほどの貢献をし、占領コストは530億だったとされている。衛星国を含めドイツが 支配したヨーロッパの全体が、ドイツに1200億マルクの貢献をした。つまり、戦争に 費やされた資金の約20%である。・・・・・中略・・・・・ ・・・・1944年のピーク時には、ドイツには760万人の外国人労働者がいた。うち570万人 が一般人で、190万人が捕虜だった。・・・・中略・・・・ ・・・・1944年の8月までに、ドイツの労働人口46%は外国人労働者と捕虜で構成され、 採鉱労働者は3分の1がそうだった。 ヒトラーと第三帝国 リチャード・オウヴァリー/著 永井清彦/監訳 秀岡尚子/訳 牧人舎/訳
467 :
世界@名無史さん :2008/05/03(土) 03:27:04 0
東プロイセンのケーニヒスベルグはカントの生まれ故郷、ダンチヒはドイツハンザ同盟の拠点、 マリーエンブルグはドイツ騎士団の根拠地、要はその地域はポーランド人のものでも、ロシア人の ものでもない。 ドイツ人のものだ 中立的歴史観をもてないようなあなたのようなアホが過去の歴史をゆがめてきたのだ。 ポーランドほど特に戦後にその歴史的真実とあまりにもかけ離れた歴史観にそまった 国家はない。 もっともこの卑劣国家が被害国家として祭り上げられなければ、ポーランドの開戦責任というより、 この破廉恥国家をドイツの侵略から救うという偽りの大儀名文によってドイツに宣戦した英仏の立場は なくなる。 もちろん、英仏が本気でポーランドを救うつもりなどないことは明らかだ。 ドイツに宣戦しても同時期に東からポーランドに侵攻したソ連に対しては宣戦どころか、のちに チャーチルが同盟を結ぼうと言い出す始末だ。 結局、英仏はポーランドの力を過信し、東欧で250万もの予備役兵力をもつ軍事大国ポーランドが まだ、再軍備4年の満足な予備役兵を持たないドイツを叩いてくれることを期待していたのだろう。 それが、証拠に、開戦後、いともあっけなくポーランドが敗北すると、その後半年間西部戦線では 何事もおきなかった。 宣戦はしたものの英仏はこの事態に呆然とするのみで、もちろんヒトラーも 当初から英仏と事を構えるきなどなかった証拠だ。
468 :
世界@名無史さん :2008/05/03(土) 04:06:56 0
>>467 いいか、おまえがケーニヒスベルクと呼ぶクルレヴィェツとダンチヒと呼ぶグダニスクな
あれは1430年に他の20以上の都市や50以上のポーランド貴族や僧院と共にゲバルト連合を結成してポーランド王に付いて、
ドイツ騎士団に反旗を翻した街だ
ドイツ支配に対する抵抗の象徴の街なのだよ
おまえは何を勘違いしてるのかw
ドイツ騎士団は三十年戦争でポーランドにフルボッコされて早くも1457年にはマルボルク(おまえの言うマリエンベルク)の城は
ポーランド王の所有になってるんだよ
以後1771年まで三世紀以上にわたって、ポーランド王がそっち方面に行幸する際の陣屋になっていて、
その間ずっと増改築されてきていた
三世紀以上だ
1457年と1771年の年号覚えとけ
戦争で破壊されたが、このポーランドの栄光の象徴マルボルク城は「ポーランド市民」によって元通りに復元され
ポーランドの栄光とポーランド市民の不屈の精神を後世に伝えるものとしてユネスコ世界遺産になっているのである
469 :
世界@名無史さん :2008/05/04(日) 00:06:50 0
カリーニングラード、すなわちプルシは1410年から実質的にポーランド領であり
1466年から1657年までポーランド王国プルシ公領として正式にポーランド領だったんだから
大ポーランド民族固有の領土と言っても過言ではない
ピンク(ポーランド王国)・薄いピンク(プルシ公領)・黄緑(リトアニア大公領)・黄色(リヴォニア公領)・薄い黄色(クールラント公領)、
これすべて大ポーランド帝国の領土
そして大ポーランド帝国のの西隣のシロンスク・ポモージェもそれぞれシロンスク公領・ポモージェ公領であり、ポーランド王家の分家の領地で、
現在のポーランド共和国は完全に大ポーランド民族固有の領土
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/79/Pol-lith_commonwealth_map.jpg すなわち、現在のポーランド全域・カリーニングラード・ウクライナ・ベラルーシ・リトアニア・ラトビア・そしてエストニアの南半分、
これらはすべて大ポーランド民族の長い歴史にもとづいた大ポーランド民族固有の領土
という真実を、みなさんも少しは勉強してほしいですぅ
471 :
世界@名無史さん :2008/05/05(月) 00:52:11 0
V _____ /::::::::::::::::::::::::::\ _ /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\ /  ̄  ̄ \ |:::::::::::::::::|_|_|_|_| /、 ヽ |;;;;;;;;;;ノ \,, ,,/ ヽ |・ |―-、 | きみ頭だいじょうぶ? |::( 6 ー─◎─◎ ) q -´ 二 ヽ | |ノ (∵∴ ( o o)∴) ノ_ ー | | /| < ∵ 3 ∵> \. ̄` | / ::::::\ ヽ ノ\ O===== | :::::::::::::\_____ノ:::::::::::\ /
/ ̄ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄\ / \ / ─ ─ \ / ─ ─ ヽ / (●) (●) ヽ | (●) (●) | | (__人__) | \ (__人__) __,/ \ ` ⌒´ __,/ / ` ⌒´ \ / \ _/((┃))______i | キュッキュッ | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | トン .. / /ヽ,,⌒)  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄(,,ノ \ _(,,) ポラック(笑) (,,)_ / /_________ヽ.. \ / | | \ . ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ / |_________| \
473 :
世界@名無史さん :2008/05/06(火) 22:06:38 0
【衝撃事件の核心】下着ドロの現場で体液を「放出」したJリーガー 選手生命の危機に
世界の舞台で活躍が期待されたJリーガーは、誰もが子孫に残して欲しいと願う
才能あふれるDNAを現場に残し、自らの選手生命を危機に追いやった−。
神戸市で平成13年、女子大生=当時(21)=のマンションに侵入し、
下着などを盗んだとして4月25日、兵庫県警に窃盗容疑などで逮捕された
Jリーグ「柏レイソル」の選手A(26)。
憔悴しきった様子で「日本サッカー界に迷惑をかけた」と反省の弁を述べる一方、
今も「古いことなのでよく覚えていない」と繰り返しているという。
ttp://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080505/crm0805051004005-n1.htm ____
/_ノ茂 _\
/(≡) (≡)\
/::::::⌒(__人__)⌒::::: \ シコシコ…ああっ、いいお、いいお…シコシコ
| |r┬-| |
\ `ー'´ / シコシコ…そろそろイクお……ウッ!
474 :
世界@名無史さん :2008/05/07(水) 01:15:51 0
ナチスを利用してユダヤ人駆除に成功したのはフランスとポーランド。 両国はこの事実が、世に流布されることを非常に嫌がっている。 独の侵入と同時にポ全土でュ排斥のムーブメントが 発生していることに注意しろ。 逃避行を助けたポーランド人はわずかなのに、ポ側ではその話しか取り上げていない。 600万追い出したのを、すべて殺されたことにしておくのがいいと考えているのだ。
475 :
世界@名無史さん :2008/05/07(水) 01:17:35 0
ホロコースト捏造とか、つい最近の出来事なのに、このまま隠し通せると思ってるのかな。 今までまかり通ってるのが不思議でしょうがない。ナチスが何百人のユダヤを殺したとか 大騒ぎしてたのは、アメリカの朝日新聞であるニューヨークタイムズ。
476 :
世界@名無史さん :2008/05/07(水) 01:23:20 0
477 :
世界@名無史さん :2008/05/08(木) 01:29:31 0
478 :
世界@名無史さん :2008/05/08(木) 01:30:13 0
L:このような報告が正しいかどうかを誰がチェックするのでしょうか?
姿を消した人々がアメリカ、イスラエルその他の国々で暮らしていることもありうるのですね。
R:私の知るかぎり、まったくチェックされていません。ヤド・ヴァシェムから書類を取り寄せて、
それに書き込み、送り返すだけでよいのです。
住所は、Yad Vashem, P.O.B 3477, 91034 Jerusalem, Israel;
Telephone: 00972-02-6443582; via Email:
[email protected] .です。
L:自分の犬についてのデータを送ることもできるのですね。
R:その種のことが行なわれているとは思いませんが、誤り、二重登録、生存者を死者として
報告してしまうことを避ける方法はまったくないようです。
いずれにしても、学術的観点からすると、このHall of Names(名前の殿堂)は、重要な資料ではありません。
(中略)
R:ドイツのアロルセンにある国際赤十字委員会追跡委員会は、まったく別のやり方で作業を進めています。
ドイツの収容所での死亡は、それが疑問の余地のない資料によって確証された場合にはじめて登録されるのです。
L:では、赤十字はどれほどの犠牲者があったという結論に達しているのですか?
R:1993年まで、アロルセンは、調査請求があれば、ドイツの収容所での登録された死者リストを返送していました。
強い批判を受けたあと、このやり方を止めました。
L:どうして批判されたのですか?
R:表3の数字を見てください。宗派にかかわらず、囚人の死亡者の合計は30万人ほどになっています。
L:アウシュヴィッツの犠牲者はわずか6万なのですね。そして、合計も30万人にすぎないのですね。
これが真実に近ければ、まったくセンセーショナルでしょう!
479 :
世界@名無史さん :2008/05/08(木) 01:31:20 0
さて、このようなヤド・ヴァシェムが 本当に「ホロコーストから自らの生命の危険を冒してまでユダヤ人を守った」 かどうかについて、 き ち ん と チ ェ ッ ク さ れ て い る と信じられる根拠は? そもそもユダヤ「迫害政策」はともかく、 いわゆるホロコーストは捏造だから、守ったも何も無いわけだがw
> いわゆるホロコーストは捏造だから、 はいはい。お前に必要なのは心を診てくれるお医者様だ。
482 :
世界@名無史さん :2008/05/09(金) 00:45:08 0
226 名前:名無しさん@八周年[sage] 投稿日:2008/03/28(金) 18:51:15 ID:GwjeqJFD0
>>225 日本の芸者なみに歴史が深いからね>ポーランドのトップレスダンサー
中世のころは貴族が娘をこぞってトップレスダンサーにしたらしい
483 :
世界@名無史さん :2008/05/09(金) 00:55:38 0
119 名前: 世界@名無史さん 投稿日: 2008/05/09(金) 00:55:13 0 そもそもベラルーシとかウクライナとかいう国家はこの世に存在しなかったんだからな。 ドイツもそうだ。ドイツという国家は存在しなかった。 10世紀から存在している国家はポーランドのみ。
484 :
世界@名無史さん :2008/05/09(金) 02:49:19 0
ポーランドなんて、少数民族で元々国家なんて持ってなかった。 第一次世界大戦後から国家ができたようなもん。 シュレジェンがポーランド領だというなら、 アイヌ人も東北、北海道を返還して独立させろ。 国家賠償請求がすごいぞ。
485 :
世界@名無史さん :2008/05/09(金) 08:34:26 0
シュレジェン?シュレジェンなんてこの世に存在しないぞ。シロンスクのことか? シロンスクは先史時代からスラヴ民族が住んでいた。 戦前のドイツ人がジーリンゲン族とか呼んでゲルマン人だと言い張っていたのは実はスラヴ人だったことが証明されている。 その後もずっとシロンスク・ピャスト朝が17世紀終わりごろまで支配していた土地なんだが。 その後ドイツ貴族に不法占拠されていたが、住民の多くはポーランド人だった。 ポーランド人の血と肉が染み込んだ、ポーランド人の故郷の土地だ。 それよりドイツはベルリンを放棄して、エルベ川までの土地すべてをスラヴ民族に返還すべきでは? 返還されたらポーランドが管理するから。
486 :
世界@名無史さん :2008/05/09(金) 08:35:13 0
国家賠償請求?何の話?ドイツ人はポーランドに国家賠償請求していないからスレ違いなんだが。
119 名前:世界@名無史さん[] 投稿日:2008/05/09(金) 00:55:13 0 そもそもベラルーシとかウクライナとかいう国家はこの世に存在しなかったんだからな。 ドイツもそうだ。ドイツという国家は存在しなかった。 10世紀から存在している国家はポーランドのみ。
488 :
世界@名無史さん :2008/05/09(金) 11:23:07 0
来月のEURO2008のポーランド‐ドイツ戦(6月8日)の開催地クラーゲンフルトの場外乱闘は ポーランド人vsドイツ人のどっちが勝つだろうな?
489 :
世界@名無史さん :2008/05/10(土) 23:57:24 0
ついにポーランドの残虐行為をあからさまに著した本が出ました!! 『アウシュビィッツ後の反ユダヤ主義―ポーランドにおける虐殺事件を糾明する 』ヤン・T・グロス著 白水社 同書は1946年ポーランド人により残忍なユダヤ人虐殺が行われたキェルツェ・ポ グロムを豊富な資料により明らかにされており その上、ポーランド人により虐殺された嬰児とその母親、頭を潰され裸体にされ た女性、10人程の虐殺遺体の“写真”も掲載されています(勿論全てキェルツェ ポグロムの犠牲者です)☆ご一読ください 著者のグロス氏はユダヤ系ポーランド人で戦後アメリカに亡命し、“イェドバブ ネ村”のユダヤ人虐殺がポーランド人により行われたことを告発した『隣人たち 』の著者でもあります まだこちらは和訳されていませんが、『隣人たち』はロサンジェルス・タイムス 最優秀図書選定、全米図書賞受賞、全米批評家協会賞最終候補作品でもあります アメリカにおいてはポーランド人によるユダヤ人虐殺が行われたことは広く認知 された既成事実であることを示しています
490 :
世界@名無史さん :2008/05/11(日) 01:47:09 0
>>489 これか?↓
実際、当時の混乱の中、大衆の多くが“暴徒と化した朝鮮人”を恐れ、民間の自警団との衝突も発生した。
そのため、朝鮮人や中国人、琉球人なども含めた死者が出た。
一説によると、 朝鮮語では語頭に濁音が来ないことから、道行く人に「十五円五十銭」や「ガギグゲゴ」などを言わせ、
うまく言えないと朝鮮人として暴行(俳優・千田是也が殺されかけた話は有名)したという。
また、福田村事件のように、方言を話す地方出身の日本内地人が殺害されたケースもある。
聾唖者も、多くが殺された。
殺害の犠牲者は複数の記録、報告書などから研究者の間で議論が分かれており、当時の政府(司法省)の調査では233人、
吉野作造の調査では2711人、最も犠牲者を多く見積もる立場からは6415人(「独立新聞」社長の金承学の調査)と幅が
見られる。関東大震災において軍や警察が組織的に朝鮮人虐殺に関与したかどうかについて議論がある。
491 :
世界@名無史さん :2008/05/12(月) 02:15:07 0
「被告はその洋品店に4回泥棒に入ったことを認めるのだな?」と、 裁判長はポーラン ド人の強盗容疑者に言った。 「はい、裁判長閣下」とポーランド人は答えた。 「なぜお前は同じ店に4回も押し入ったんだ?」と裁判長は詰問する。 「私の妻がドレスを欲しがったからです」と、強盗は答える。 「けれど、何故同じ店に4回も?」と理由がわからない裁判長が尋ねる。 「妻が私が盗んで来た服は気にくわないと、私に三回も取り替えに行か せたからですよ」
sage
493 :
世界@名無史さん :2008/05/12(月) 09:25:04 0
???━〓━??? ?〓?: : . . : .:???? ?? : : . . : : .:?:?:??? ?? . : : . . : :? .:? ?:?????? ?:: : .:::.:?:?: :? : : .:?: .::?:????????? ??:: . :?.:??:? ?:.:? ?:???????????? ???:: : . .:: : .: :?.?:????????????? ?.: ::?▲??: . . ::?? .:?: :??????????? ┃?????: .???????????????????? ???????????????????????????これを見た人は死にます。コピペできなければ死にます ? ▲?? ???┃??■???? .:???????? ? .:? ??? :: : ━?■? . .:?〓????? ???:: ??▲?:??????::. ::??????■ ▼?:: .:▼◆:.?:??????:?.??■??? ┃?.:???:?.::?::???????▼?? ??: .:?:.?::?:???????????? ?┃? ?? ?◆ ?▼???????┃ ?■◆◆■◆▼■? :?????? ┃?? ▼ ???▲ ? ::???????┃ ?????:?:?:: : .::??:: :?.::??? ┃???????:?:?: .??? ????:?:.: . ??〓? ?〓??
とりあえず493は死んだようだな。
死なない人間というのがこの世にいると思ってる
>>493
496 :
世界@名無史さん :2008/05/13(火) 23:51:45 0
ある紳士が、法王ヨハネ・パウロ2世に会おうとしていた。とうとう望みがかなえられることになった。 紳士は法王に近づくと、こう言った。 「猊下、こうしてお目にかかる機会を得ましたことをとてもうれしく思っております。 つきましては、本題に入る前に、ジョークを一つご披露したいのですが」 ヨハネ・パウロ2世が答えた。 「もちろんだとも、息子よ。 お話しなさい」 そこで紳士は話し始めた。 「昔、ポーランド人二人と----」 法王が遮った。 「息子よ、わたしがポーランド人であることを知っていますか?」 「申し訳ありません、猊下、もっとゆっくりお話しいたしましょう」
>>485 >実はスラヴ人だったことが証明されている。
証明されてません。
どこの電波学説を読んだんだ?
約100人のドイツ人サポーターが試合前に逮捕
http://www.afpbb.com/article/sports/soccer/soccer-others/2402553/3012181 > 予防措置の逮捕だったため暴力行為は無かった。まず60人ほどのグループが「全てのポーランド人は
> 黄色い星を身に付けろ」という第2次世界大戦の開戦前と開戦中にナチスがユダヤ人に着用を強制した
> 黄色い星の記章について大声で歌い、逮捕された。数人が逃げたものの、大多数が拘束された。
>
> その後、試合が開始すると他の40人ほどのグループが現れ、ナチスのスローガンに似た「ドイツがやり返すぞ。
> ポーランド人からものを買うな」と大声で歌い、このグループも逮捕され警察車に乗せられて連行されたと
> オーストリア通信(Austria Press Agency、APA)が伝えている。また、オーストリア通信は逮捕されたサポーターが
> 国外退去になるとも報じている。
>
> さらにこの逮捕劇の前には、5人のサポーターが軽犯罪で逮捕されている。
>
> 前日の7日午後には、けんかで16人のサポーターが同市内で逮捕され、その後釈放されていた。
499 :
世界@名無史さん :2008/06/12(木) 01:22:33 0
第二次大戦後、ポーランドはドイツ領の自国の暫定的管理地域、 今のシュテッティン、ポンメルン、ブレスラウ、シュレージェンはすべてドイツ人の 居住地域で1300万を超すドイツ人が住んでいた。 戦後、長い時期に米英仏ソの暫定的管理地域はドイツにもどされたが、 ポーランドは戦後、その地域からことごとくドイツ人を着のみ着のまま 強制収容所にいれ、暴力と強姦、拷問を繰り返した。 そして、その地域を自国の領土として既成事実化するため、銃剣と暴力をもって 敗戦で何も保護されない彼らドイツ人を土地、家、財産を奪った挙句追放した。 まさに、人類の歴史上において最大の民族浄化である。 ポーランドは未来永劫その罪を背負っていかなければならない。 決して、人種(民族)は意味がないどころか、ポーランド人の民族浄化の 国家的犯罪の根源となっていた。 そればかりか第二次大戦の開戦原因もポーランド人第二共和国の責任が90%以上の 重みを持つ。 彼らは決して戦争犯罪国家であって被害国家ではない。
500 :
世界@名無史さん :2008/06/12(木) 01:23:05 0
(丶´_ゝ`)ノ 丹念に味わえや…ご主人様のチンポはうまいだろ、ポラック (| | | ===============) ̄q ̄ ) おいひい…おいひいですぅ…ご主人様… U ̄U ノ ノ)_
501 :
世界@名無史さん :2008/06/12(木) 01:23:54 0
、_人_从_人__/ _) ,..r;;: ( 人) ) ,;`ー、 | ヽ丶 _) 消 ポ ヾゞ、 ゞ'´ '`´ `ヾ、 ─|─ _) 毒 ラ -‐':、ゞ'`` ,l / | ヽ _) だ ッ ヾ、 ゞ;;. ,r-、 `ヾ、 ヽ、 _) l ク , rヾ ,r!/r'ヽ '` \ _|_ _) っ は _,,,.,ノ、_ ヽ, `ゞ;; ;:、 /| `) ! ,r‐'''" ,.r ,イ彡ミミヾ、 `` ´;;i V^V⌒W^Y⌒ __,.;;,ィ'´ ,:;;;;彳彡ミ;j`、 `i;:、 オ ;; ヾ、彡;;;ノリ;jjjjj;;;jr' i . ノ;;:'' `゙`、 ``ー、 ,ィ 彡冫;;il;;;ミ;;;;;y;レ ,t'´ ,.、ー、 ゝ ォ i|l; ;'イ;;;'ヾ``ヽ、ィ;;i ,ri'´ ヽ ヾノ ,ry' il'Y゙r ヽ、 ,j|l;; j'´ '´ '´/ゞ';;::`´ヽ ``´ー ゙i ;;: ,r' ) ,r、 ,rヾlir'ミ, / ,;:' '´/ ー≡;i{、 /ヾr'´ ,. '`;;:、 〉ゝ r-ー-、_ ,{i=i= }i、 ーr-、j ,! ,;',;'ィ;;:イ''``ゞ、_,、-‐'´ヽ:;/ 、 ``ヽ ;:、 `' (´ `ゞ、;;;;'',,fi、,≡:;イ==、 ,,:' ``ゞ、,;;ゞ、 "´イ ,... `'彡 ,/´ `ヾ、ヾ ' ー、 ii;j `i;;!'´ニil';;;;ゞr、_,r'ミ ' ー‐─ ,rー'゙ー─-、_j;:r'´ ヾ,ゞ 、 ゞ,ミ;:l;;l ,! ,!,i;;'´¨/ ;. ポラック‐;;'"} ``ヾ、 ノ ,;;;: (i,;)))、,,:;!、__,:};!_,.、l .... _,,,ィ、 i 'ヾ人 、}( / ノ ,r'i r'"ヾ-‐i‐-:;イ, / ヾ
502 :
世界@名無史さん :2008/06/12(木) 01:25:23 0
レニングラードはドイツ流のサンクト・ペテルスブルグとドイツ流名に変わったよね。 カリーニングラードが本来のプロイセンのケーニヒスベルグに変わるのも近い。 ダンチヒはもともとダンチヒ、マリーエンブルグ、アレンシュタイン、その名前が正規の地図に 載って初めてプロイセンの歴史は語れるようになる。 ポーランド、このような国家はプロイセンの歴史にとってお呼びじゃない! 彼らの偽りに満ちた戦後の歴史は書き換えられるべきだ。
503 :
世界@名無史さん :2008/06/12(木) 01:26:05 0
もともと第二次世界大戦の勃発はポーランドの 領土的野心から始まった事を無視してはならない。 ポーランドが占領していた回廊は東プロイセン地方をドイツ本国から 切り離し、そのせいで極めて不安定な状態にあった。 第一次世界大戦前ではドイツ領であったダンツィヒ地方は、ドイツの敗戦によって 国際連盟管理下に置かれていたものの歴史的に見ても明らかにドイツの領土であり、 また住民の96%はドイツ人であった。 それに対しヒトラードイツの要求は、ポーランド側がダンツィヒを返還し 東プロイセンとドイツ本国とを結ぶ鉄道と自動車道路を ポーランド回廊に建設することを認めてくれれば、ドイツ側は ポーランド回廊とポーランドの西部国境を保障するという、 非常に寛容なものであった。 これは、ドイツにとって屈辱的だったヴェルサイユ条約による ポーランド領をほぼ承認するという、ポーランド側には極めて 有利な条件であった。 もともと選挙の結果、ダンチヒ市は1937年1月の「ダンチヒ市ーポーランド協約」によって実質的なドイツ支配が確立していたにもかかわらず ポーランドが、その特権を離そうとしなかった。 これだけ見ても、ポーランド側に戦争責任がある事は明白。
>>503 まだそんな嘘吐きコピペ張ってるのか
764 名前:世界@名無史さん[] 投稿日:2008/06/11(水) 22:45:37 0
>>761 >今のシュテッティン、ポンメルン、ブレスラウ、シュレージェンはすべてドイツ人の
>居住地域で1300万を超すドイツ人が住んでいた。
1300万なんて嘘。290万ちょっと、300万弱です。
またドイツ人の強制移住が行われた1940年代はポーランドは国家主権を回復しておらず、
ソ連が全ての政治を掌握していました。
さらに強制移住はポツダム協定によるもので、ソ連が勝手にやったことではありません。
ましてやポーランドは何のかかわりもありません。
ポーランドが再独立を果たすのは、ポーランド人民共和国が成立した1952年です。
よって「ポーランドの国家的犯罪」などというのはただの妄言以上の何物でもありません。
はい完全論破。
いいかげん嘘吐きはやめようね。
505 :
世界@名無史さん :2008/06/14(土) 02:10:47 0
スラブは、ポーランドも、セルビアも、ロシアも他人に濡れ衣をきせるのは得意だわな
506 :
世界@名無史さん :2008/06/14(土) 02:12:17 0
ソ連軍が進駐したポーランド、ユーゴスラビア、そして、オーストリア、ハンガリアでは不法行為の数はすでに 東部ドイツの状況を彷彿させるものであった。 スイス公使館の報告によると、ハンガリ女性の半数以上が強姦された という。 ヨーロッパ全体では、400万人以上の、ドイツ人、ドイツ系住民、その他の婦女子が、ソ連軍とその同盟国、ポーランド民兵、 チトー・パルチザンの性犯罪の犠牲になったといわれる。(まさにソ連、ポーランド、セルビアのスラブ3大強姦民族!) このような大量犯罪が行われたのは、軍部の指導とモスクワの強力な反独プロパガンダを通して、この種の行為が公に許されていたからである。 ポーランド人は、オーデル・ナイセ以東に残ったドイツ人にも数々の暴行を加えた。 彼らは、20万ものドイツ人男女を1255箇所の収容所と227箇所の監獄に収容ないしは抑留した。 このうち、大規模なものは、ポトゥリチェ、 グルノヴォ、ウッジ、その近郊のシカワで行われた。 「被追放民記録」には以下のように記されている。 「暴力行為は主として、鞭、ゴム棒あるいは、銃床を用いて残忍かつ一部はサディスト的な虐待であり、一部は死にいたった。 さらに恣意的な射殺、 殴打、婦女暴行も行われた。 報告された資料によると、虐待を免れた収容者あるいは抑留者はほとんど一人もいなかった。 (世界戦争犯罪辞典(文藝春秋)より)
507 :
世界@名無史さん :2008/06/14(土) 02:14:08 0
オーデルナイセ線は、終戦後も、確定したものではなかった。 米英も反対していた。 それに、終戦直後、そのはっきりしない状況のまま、ポーランドは自発的に自分たちの占領した オーデルナイセ線以東のドイツ領からドイツ人の土地、家、財産を奪った。 あげく追放した。 そして、既成事実をつくりあげようとした。 割譲うんぬん以前に、個人の土地、財産を奪う権利などない。 西部のアルザスや、オイペン、シュレスビヒホルシュタインが、国境の変更でありながら、大きな問題と ならなかったのも、そこの住民の財産権、居住権は影響をうけなかったからだ。 ところが、ポーランドは、併合した領域からことごとくドイツ住民を着の身着のままで追放し、家、土地、だけでなく 多くのドイツ住民をリンチ殺人にかけ、避難途中で、飢え、疲労で死なした。 その罪業は永久に消えないし、 その住民の財産権も永久に消えない。 領土割譲以前にその国家的犯罪は永久に歴史に残る。
508 :
世界@名無史さん :2008/06/14(土) 02:18:32 0
ポーランド人はひどい。 戦後、ポンメルン、シュレージエンから残ったドイツ人を土地財産、家畜を奪った上追放した。 避難の過程で、多くのドイツ人が子供、老人を中心に、飢え、疲労、リンチで死に追いやった。 その数は、300万に達したと言われている。 その反面、上シュレージエンのオッペルン地方には、かなりのドイツ人の子孫が残っているが、 彼らは、かの地方の豊富な石炭資源の開発、採掘技術を持ったドイツ人は残した。 ポーランド人にとってもこの資源と、ドイツ人の高度な技術は必要だったからだ。 しかし、彼らに対してもポーランド語を強要し、彼らの祖先の墓石にまでポーランド名で刻むよう強要した。 もっとも気に入らないのは、その悪逆を続けたポーランド人が戦争の偽被害者ぶってることだ。
509 :
世界@名無史さん :2008/06/14(土) 04:13:55 0
もともとシュレージェン、ポンメルン、ダンチヒを含む東プロイセンはドイツ人が多数派だった。 そこへ、敗戦で何もいえないドイツ領の権限を無視しこれらの地域に貧しいワルシャワ近辺のポーランド人、かつてポーランドが奪った 東方のウクライナ領域に住み着き、戦後ウクライナに返された地域から追い出されたポーランド人が不法にドイツ人の土地、家、財産を 奪って住み付いた。 領土問題とは別にかつての個々人のドイツ人の財産を奪い、まして戦争も終わっているのに、残ったドイツ人を強制収容所に送り 暴行、強姦をくりかえし、最終的に、着の身着のままで追放、ソ連軍とともに途中でのリンチ、虐殺、飢え、疲労で200万から300万のドイツ人を 死に追いやった。 ドイツの西部領でも第一次、2次大戦で領土の変遷はあった。 しかし、民族浄化を伴った領土変更をやったのは、このポーランドのほかに スターリンソ連をはじめ(ドイツの東プロイセン、フィンランドのカレリア、ポーランド東部、日本の北方領土)、チェコのズテーテン地方のドイツ人追放、 戦後のセルビアのコソボ地方のアルバニア人追放(これは失敗に終わったが)、共通していることは彼らがともに、人命軽視のスラブ人、スラブ民族ということだ。 ドイツ人もいい災難だ。
510 :
世界@名無史さん :2008/06/16(月) 01:50:23 0
ζ / ̄ ̄ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ / | < ポラック、こづかいじゃ。 | ⌒ ⌒ /| \_______ | (・) (・) ||||||| | ⊂⌒◯-----∂)___ ___ | ||||||||_ / ゙Y" \ \ヽ_/ \/ \ \ / \ / ̄ ̄ ̄ ̄) * ( ̄ ̄ ̄ ̄) | ─< |\ >─ ( | ) / (|ミ;\ ( ) ヽ  ̄ ̄) /(___人|,iミ'=;\ (  ̄ ̄ ) /" ̄ ̄ ̄ ̄ / 《v厂リiy\  ̄ ̄ ̄ ̄\ / / ゙|,/'' v:,,、.¨)z,_ \ / / ミ/ .-─ .゙》z、 \ / / 〔」″ノ‐ 、u ¨\ ) ( / ゙|, ..冫 .rー  ̄\_ | | 〔 ミ./′ ..r-ー __,,ア┐ | | | {. .,,,, .′ .´′ .¨\| | | ∨ ノ冖′ =vvvvvv¨\ | / ミ. ,i' .゙\_
511 :
世界@名無史さん :2008/06/16(月) 18:30:17 0
私は死にそうなくらいくたくただ。 なにしろ二人の女性(マリア・テレジアとエカテリーナ)に わずらわされているのだから。 by フリードリヒ大王
512 :
世界@名無史さん :2008/06/16(月) 19:52:43 0
督戦隊という鬼畜の軍がある 最前線部隊の後方に控えて逃げてくる友軍を撃った これにより最前線部隊は前進するしかなくなる 督戦隊を常備していたのはソ連赤軍・中国国民革命軍・人民解放軍 トロツキーが考案し蒋介石が中国に導入したとされる しかしその源流はフリードリヒ大王時代のプロイセン軍にあった プロイセン軍は将校と下士官は全員がプロイセン人だったが 兵士は中小諸侯から買ったり(これを商売にする諸侯もいた) 貧乏人から徴募したり普通に誘拐等の手段を用いてかき集めた ドイツ領内のみならずフランス人やイギリス人の兵士もいた 前線では兵士3人に下士官1人が付き逃げようとすれば殺した 大王の名声とプロイセン軍の強さの裏側には鬼畜の正体があった
513 :
世界@名無史さん :2008/06/16(月) 21:15:07 0
>>512 >貧乏人から徴募したり普通に誘拐等の手段を用いてかき集めた
同時代のイギリス海軍も、夜間水夫をさらって、水兵にしていた
514 :
世界@名無史さん :2008/06/20(金) 12:05:53 0
げんざいのぽーらんどきょうわこくはりょうどがひろすぎます
515 :
世界@名無史さん :2008/06/23(月) 15:58:19 0
ヴィルヘルム2世のあんぽんたん
516 :
世界@名無史さん :2008/06/26(木) 02:17:00 0
ドイツ統一を主導したプロイセン公国はもともとドイツ人騎士がプロイセン人(スラブ系)を支配して築いた国だが、 近代化の際に国内の統一を図るべく、多数を占めるスラブ系住民の有力者にも宮廷貴族としての地位を与えた。 そのため、プロイセン貴族にはスラブ系の血統を持つ(ドイツ人というよりはロシア人に近い)者が多数を占めた。 プロイセンが元の鞘(スラブ圏)に戻った後もプロイセン貴族の血を引くドイツ住民は独自の民族意識を持っているが、 これもプロイセン人がゲルマン系のドイツ本土民と全く異なるルーツを持つ事を考えれば別段不思議な話ではない。 もっともその「ドイツ本土の人間」も三十年戦争でその多くが死に絶え、 復興の為に入ってきた無数のスラブ移民によってゲルマンの血は薄められている訳だから、どっちもどっちだがね。 ドイツ人がことさらに「ゲルマン人」を自称するのは、ゲルマン系の血筋を引く国の中で最もその根拠が薄いため。 北欧人はわざわざ「我らはゲルマン人」と言う事は無い(「ノルディックだ」とは言うが)。 別に主張しなくとも、誰の目にも見て明らかだからだ。
517 :
世界@名無史さん :2008/06/26(木) 18:56:35 0
>>516 ブランデンブルク選帝侯国がプロイセン公国を合併してプロイセン王国になった
選帝侯フリードリヒ3世が王に即位してフリードリヒ1世になったんだからね
プロイセン公国は滅びたんだよ
えーと、フリードリヒ1世は「プロイセンにおける王」として即位したのであって、 プロイセンの外では(例えば神聖ローマ帝国内では)王ではなかったのだよ。
519 :
世界@名無史さん :2008/06/27(金) 01:00:25 0
>>518 初代が即位するに当たっての名義上はね
しかしブランデンブルクがプロイセンを併せてその名を奪ったことは事実
早くも3代目のフリードリヒ2世はベルリンで「プロイセン王」を名乗った
>>519 後からどうなったという話をし始めたらきりがないというか、
なら最初からそう言えよというか。
521 :
世界@名無史さん :2008/07/02(水) 17:58:46 0
>>516 プロイセン人は「バルト系」
おまえここでシッタカする資格ないよ
522 :
世界@名無史さん :2008/07/02(水) 18:00:22 0
>>518 プロイセン王は神聖ローマ帝国域外の国の国王という意味で、プロイセンの外では王でないという意味ではない
523 :
世界@名無史さん :2008/07/05(土) 13:02:04 0
524 :
世界@名無史さん :2008/07/09(水) 01:40:18 0
,r─-、 ,. ' / ,/ }: ち ポ { ヽ / ∠ 、___/ | 署 ヽ. V-─- 、 , ',_ヽ / ,' ょ ラ ヽ ヾ、 ',ニ、 ヽ_/ rュ、 ゙、 / ま \ l トこ,! {`-'} Y っ ッ ヽj 'ー'' ⊆) '⌒` ! で , 、 l ヘ‐--‐ケ } と ク ヽ ヽ. _ .ヽ. ゙<‐y′ / 来 } >'´.-!、 ゝ、_ ~ ___,ノ | −! \` ー一'´丿 \ い ノ ,二!\ \___/ /`丶、 /\ / \ /~ト、 / l \ / 、 `ソ! \/l::::|ハ/ l-7 _ヽ /\ ,へi ⊂ニ''ー-ゝ_`ヽ、 |_厂 _゙:、 ∧  ̄ ,ト| >‐- ̄` \. | .r'´ ヽ、 ,ヘ \_,. ' | | 丁二_ 7\、|イ _/ ̄ \ i \ ハ |::::|`''ー-、,_/ /\_ _/⌒ヽ
525 :
世界@名無史さん :2008/07/09(水) 22:48:54 0
526 :
世界@名無史さん :2008/07/11(金) 01:07:01 0
、_人_从_人__/ _) ,..r;;: ( 人) ) ,;`ー、 | ヽ丶 _) 消 ポ ヾゞ、 ゞ'´ '`´ `ヾ、 ─|─ _) 毒 ラ -‐':、ゞ'`` ,l / | ヽ _) だ ッ ヾ、 ゞ;;. ,r-、 `ヾ、 ヽ、 _) l ク , rヾ ,r!/r'ヽ '` \ _|_ _) っ は _,,,.,ノ、_ ヽ, `ゞ;; ;:、 /| `) ! ,r‐'''" ,.r ,イ彡ミミヾ、 `` ´;;i V^V⌒W^Y⌒ __,.;;,ィ'´ ,:;;;;彳彡ミ;j`、 `i;:、 オ ;; ヾ、彡;;;ノリ;jjjjj;;;jr' i . ノ;;:'' `゙`、 ``ー、 ,ィ 彡冫;;il;;;ミ;;;;;y;レ ,t'´ ,.、ー、 ゝ ォ i|l; ;'イ;;;'ヾ``ヽ、ィ;;i ,ri'´ ヽ ヾノ ,ry' il'Y゙r ヽ、 ,j|l;; j'´ '´ '´/ゞ';;::`´ヽ ``´ー ゙i ;;: ,r' ) ,r、 ,rヾlir'ミ, / ,;:' '´/ ー≡;i{、 /ヾr'´ ,. '`;;:、 〉ゝ r-ー-、_ ,{i=i= }i、 ーr-、j ,! ,;',;'ィ;;:イ''``ゞ、_,、-‐'´ヽ:;/ 、 ``ヽ ;:、 `' (´ `ゞ、;;;;'',,fi、,≡:;イ==、 ,,:' ``ゞ、,;;ゞ、 "´イ ,... `'彡 ,/´ `ヾ、ヾ ' ー、 ii;j `i;;!'´ニil';;;;ゞr、_,r'ミ ' ー‐─ ,rー'゙ー─-、_j;:r'´ ヾ,ゞ 、 ゞ,ミ;:l;;l ,! ,!,i;;'´¨/ ;. ポラック‐;;'"} ``ヾ、 ノ ,;;;: (i,;)))、,,:;!、__,:};!_,.、l .... _,,,ィ、 i 'ヾ人 、}( / ノ ,r'i r'"ヾ-‐i‐-:;イ, / ヾ
527 :
世界@名無史さん :2008/07/12(土) 02:31:45 0
∧_∧ ( ・∀・) __,,ゝ┼─┼====┐. ''"´"'''::;:,,, Ω ;: ; Ω | □| .| |:|ヾ二二二二二(O″ ,,;;;;´."''' Ω ・,' ;*;∵; ζ。;:,. _____|__,|_;||___,| |:|ノ-┬─┘ ´''::;;;;::'''"´ ∵~'ハ∴∵;:; |ミ/// / ~~|ミ|丘百~((==___ バゴーン (#ξρ。;,;。∵ ←ポラック .└┼-┴─┴───┴──┐~~'''''-ゝ-┤ '.:; *,,,,: ;・∵:;゚ ((◎)~~~O~~~~~O~~(◎))三)──)三); ( つ つ "〆 ..ゝ(◎)(◎)(◎)(◎) (◎)ノ三ノ──ノ三ノ;*;∵ し(_)
528 :
世界@名無史さん :2008/07/12(土) 20:07:10 0
ドイツがかつて西ドイツと東ドイツに分かれていた時って、よく考えたら 大変な事だよね。なにせ、ドイツの主なプロテスタント地域であるブランデン ブルク州やザクセン州がバイエルンやヴュルテンベルクと切り離されたのだから。 分断されていた時って、やっぱり西ドイツはバイエルン中心で動いていたのか?
529 :
世界@名無史さん :2008/07/12(土) 20:27:56 0
>>528 西ドイツの中心は炭鉱地帯のノルトライン・ヴェストファーレン
530 :
世界@名無史さん :2008/07/15(火) 00:02:56 0
∧_∧ ( ・∀・) __,,ゝ┼─┼====┐. ''"´"'''::;:,,, Ω ;: ; Ω | □| .| |:|ヾ二二二二二(O″ ,,;;;;´."''' Ω ・,' ;*;∵; ζ。;:,. _____|__,|_;||___,| |:|ノ-┬─┘ ´''::;;;;::'''"´ ∵~'ハ∴∵;:; |ミ/// / ~~|ミ|丘百~((==___ バゴーン (#ξρ。;,;。∵ ←ポラック .└┼-┴─┴───┴──┐~~'''''-ゝ-┤ '.:; *,,,,: ;・∵:;゚ ((◎)~~~O~~~~~O~~(◎))三)──)三); ( つ つ "〆 ..ゝ(◎)(◎)(◎)(◎) (◎)ノ三ノ──ノ三ノ;*;∵ し(_)
531 :
世界@名無史さん :2008/07/17(木) 22:12:20 0
【竹島問題】 韓国大統領 「日本、独島を紛争地域にする意図」…「対馬も韓国領だ」意見も党内に
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1216203549/l50 1 :☆ばぐた☆ ◆JSGFLSFOXQ @☆ばぐ太☆φ ★:2008/07/16(水) 19:19:09 ID:???0
★「日本は独島を紛争地域にする意図あり」韓国大統領
・韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領は16日午前の閣議で、日本政府が中学校の
学習指導要領解説書への竹島(韓国名・独島)の記述を決めたことを受け、日中韓
3国による共同歴史教科書の作成を検討するよう指示した。
大統領府によれば、李氏は「日本は長期的に、独島を国際紛争地域にする意図を
一歩一歩実現させている」と分析。長期的な対応を求め、独仏などが共同で歴史
教科書をつくった例を挙げて「日中両国と共同で歴史教科書をつくり、地域の平和と
反映に貢献すべきだ」と語った。
http://www.asahi.com/politics/update/0716/TKY200807160215.html ※関連(ハンナラ党は、李明博韓国大統領の与党です)
・ハンナラ党が、日本の中学校新学習指導要領解説書への独島領有権明記を一斉に
糾弾しながら、さらに姿勢を硬化させている。指導部内では対馬も韓国領だとする
主張まで出ている。
許泰烈(ホ・テヨル)最高委員は16日、汝矣島の党本部で開かれた最高委員会議で、
常に独島は韓国領だと主張しながら同じ対応をしているのは残念だとし「対馬も韓国領だと
対応していくことが歴史の流れから見て意味のあることだ」と主張した。
許最高委員は、対馬を韓国領とする歴史的資料は多いとし、李承晩(イ・スンマン)元大統領も
対馬が韓国領だと主張したと述べた。また、B型肝炎遺伝子から抽出されるタンパク質が、
対馬住民のほぼ100%が韓国人と同じだと説明したほか、朝鮮王朝初期まで対馬島主を
韓国政府が任命していたことなどを指摘した。(抜粋)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080716-00000041-yonh-kr 国際法関係なく歴史歴史・・・
バ韓国はキチガイドイツと同じだな
ドイツ=韓国(歴史を根拠に領土を主張)、ポーランド=日本(国際法を根拠に領土を主張)
532 :
世界@名無史さん :2008/07/19(土) 03:50:30 0
ついにポーランドの残虐行為をあからさまに著した本が出ました!! 『アウシュビィッツ後の反ユダヤ主義―ポーランドにおける虐殺事件を糾明する 』ヤン・T・グロス著 白水社 同書は1946年ポーランド人により残忍なユダヤ人虐殺が行われたキェルツェ・ポ グロムを豊富な資料により明らかにされており その上、ポーランド人により虐殺された嬰児とその母親、頭を潰され裸体にされ た女性、10人程の虐殺遺体の“写真”も掲載されています(勿論全てキェルツェ ポグロムの犠牲者です)☆ご一読ください 著者のグロス氏はユダヤ系ポーランド人で戦後アメリカに亡命し、“イェドバブ ネ村”のユダヤ人虐殺がポーランド人により行われたことを告発した『隣人たち 』の著者でもあります まだこちらは和訳されていませんが、『隣人たち』はロサンジェルス・タイムス 最優秀図書選定、全米図書賞受賞、全米批評家協会賞最終候補作品でもあります アメリカにおいてはポーランド人によるユダヤ人虐殺が行われたことは広く認知 された既成事実であることを示しています
533 :
世界@名無史さん :2008/07/19(土) 09:34:45 0
国際法関係なく歴史歴史・・・ バ韓国はキチガイドイツと同じだな ドイツ=韓国(歴史を根拠に領土を主張)、ポーランド=日本(国際法を根拠に領土を主張)
534 :
世界@名無史さん :2008/07/20(日) 02:58:26 0
/!/{ / ヾ--r _ /  ̄ <_ _>`´ ポラック___<_ > r‐'" ̄ ̄ ノ ̄ ̄`ヽ、―ニ 二 / , | `ヽ/ ´`ヽ _ 三,:三ー二  ̄/ | ノヽ--/ ̄ , ` ̄ ̄ ̄ / /⌒ヽ,| ミ } ...| /! レ l d _}`ー‐し'ゝL _ | ヽ、_, _,:ヘr--‐‐'´} ;ー------ |/| \ ノ`ヾ:::-‐'ーr‐'"==- ヽ/l/|` ー------r‐'"  ̄ ̄ |└-- 、__/`\-:、 __,ゝ,,_____/ \_」 \
名誉ネオナチっているのかしら?
536 :
世界@名無史さん :2008/07/24(木) 02:25:35 0
>>533 韓国の主張に歴史的根拠って無いだろwww
537 :
世界@名無史さん :2008/08/02(土) 09:34:31 0
ナチスよりプロイセンだよな
538 :
世界@名無史さん :2008/08/22(金) 23:35:20 0
、_人_从_人__/ _) ,..r;;: ( 人) ) ,;`ー、 | ヽ丶 _) 消 ポ ヾゞ、 ゞ'´ '`´ `ヾ、 ─|─ _) 毒 ラ -‐':、ゞ'`` ,l / | ヽ _) だ ッ ヾ、 ゞ;;. ,r-、 `ヾ、 ヽ、 _) l ク , rヾ ,r!/r'ヽ '` \ _|_ _) っ は _,,,.,ノ、_ ヽ, `ゞ;; ;:、 /| `) ! ,r‐'''" ,.r ,イ彡ミミヾ、 `` ´;;i V^V⌒W^Y⌒ __,.;;,ィ'´ ,:;;;;彳彡ミ;j`、 `i;:、 オ ;; ヾ、彡;;;ノリ;jjjjj;;;jr' i . ノ;;:'' `゙`、 ``ー、 ,ィ 彡冫;;il;;;ミ;;;;;y;レ ,t'´ ,.、ー、 ゝ ォ i|l; ;'イ;;;'ヾ``ヽ、ィ;;i ,ri'´ ヽ ヾノ ,ry' il'Y゙r ヽ、 ,j|l;; j'´ '´ '´/ゞ';;::`´ヽ ``´ー ゙i ;;: ,r' ) ,r、 ,rヾlir'ミ, / ,;:' '´/ ー≡;i{、 /ヾr'´ ,. '`;;:、 〉ゝ r-ー-、_ ,{i=i= }i、 ーr-、j ,! ,;',;'ィ;;:イ''``ゞ、_,、-‐'´ヽ:;/ 、 ``ヽ ;:、 `' (´ `ゞ、;;;;'',,fi、,≡:;イ==、 ,,:' ``ゞ、,;;ゞ、 "´イ ,... `'彡 ,/´ `ヾ、ヾ ' ー、 ii;j `i;;!'´ニil';;;;ゞr、_,r'ミ ' ー‐─ ,rー'゙ー─-、_j;:r'´ ヾ,ゞ 、 ゞ,ミ;:l;;l ,! ,!,i;;'´¨/ ;. ポラック‐;;'"} ``ヾ、 ノ ,;;;: (i,;)))、,,:;!、__,:};!_,.、l .... _,,,ィ、 i 'ヾ人 、}( / ノ ,r'i r'"ヾ-‐i‐-:;イ, / ヾ
ここはポーランド人を馬鹿にするスレですか?
いいすれ
541 :
世界@名無史さん :2008/10/25(土) 21:00:10 0
イングランドと仲良くしとけ
ポラックしねぇぇぇぇぇーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっっっっ!!!!
543 :
世界@名無史さん :2008/10/31(金) 05:40:17 0
「ポラック」とか言ってる奴ってポルスカヲタの自演なんだろ?
とは思えないな 自演ならここまで粘着する意味がない
別にドイツもポーランドもどうでも良くて、ただ単に頭がおかしいだけだろ。
プロイセンのスレを荒らして喜ぶということは・・・
フランス人だな
548 :
世界@名無史さん :2008/11/12(水) 15:07:31 0
このスレも皆でPreußenliedを歌って終了だな。
549 :
世界@名無史さん :2008/11/15(土) 03:20:02 0
プロイセンの「プ」が、なんかかわいい。
551 :
世界@名無史さん :2008/11/15(土) 14:16:35 0
test
553 :
世界@名無史さん :2008/11/22(土) 17:44:45 0
プロシアとロシアは同類>?
ちがう 「ロシアの手前」の意味
越の国の手前を、越前にしたようなものか。
>>554 ポーランド人から見てロシアの手前ってことか?
スラヴ語について多少の知識があるが、スラヴ語のポ・ルス「ルス(ロシア)の手前」→
ポ・ルシ「ルシ(ロシア人たち)の手前」→プルシ(=英語プロシア=ドイツ語プロイセン)かな?
しかもポーランド人から見て北のポメラニアが元はスラヴ語で「海の手前」の意味だよな?
poは英語のfor 「〜へ向かっていくほうの」 つまり、プロシアのもとのポ・ルシpo-Rusyは「for Russia」=Prusyプルシ ポメラニアのもとおポモージェpo-morzeは「for sea」=Pomorzeポモージェ 論理的には「〜の手前」でいいわけだが
558 :
世界@名無史さん :2008/11/23(日) 21:13:03 0
なるほど
559 :
世界@名無史さん :2008/11/23(日) 22:48:12 0
プルシアンブルーって格好いいよな
プルシアンブルーの肖像
561 :
世界@名無史さん :2008/12/09(火) 20:46:05 0
ドイツ連邦共和国とポーランド共和国とロシア連邦からプロイセン王国を独立させるか。
562 :
世界@名無史さん :2009/01/07(水) 21:55:17 0
プロイセン王位請求者
563 :
世界@名無史さん :2009/01/11(日) 19:28:21 0
>>529 人口ではバイエルンが最大だけど、連邦初代首相はラインラントのアデナウアー
564 :
世界@名無史さん :2009/01/29(木) 16:50:15 0
1. Ich bin ein Preuße, kennt ihr meine Farben? Die Fahne schwebt mir weiß und schwarz voran! Daß für die Freiheit meine Väter starben, Das deuten, merkt es, meine Farben an. Nie werd' ich bang verzagen, Wie jene will ich's wagen |: Sei's trüber Tag, sei's heitrer Sonnenschein, Ich bin ein Preuße, will ein Preuße sein! :| 2. Mit Lieb' und Treue nah' ich mich dem Throne, Von welchem mild zu mir ein Vater spricht; Und wie der Vater treu mit seinem Sohne, So steh' ich treu mit ihm und wanke nicht. Fest sind der Liebe Bande; Heil meinem Vaterlande! |: Des Königs Ruf dring in das Herz mir ein: Ich bin ein Preuße, will ein Preuße sein! :| 3. Nicht jeder Tag kann glühn im Sonnenlichte; Ein Wölkchen und ein Schauer kommt zur Zeit; Drum lese keiner mir es im Gesichte, Daß nicht der Wünsche jeder mir gedeiht. Wohl tauschten nah und ferne Mit mir gar viele gerne; |: Ihr Glück ist Trug und ihre Freiheit Schein: Ich bin ein Preuße, will ein Preuße sein! :|
565 :
世界@名無史さん :2009/01/29(木) 16:51:41 0
4. Und wenn der böse Sturm mich wild umsauset, Die Nacht entbrennet in des Blitzes Glut; Hat's doch schon ärger in der Welt gebrauset, Und was nicht bebte, war der Preußen Mut. Mag Fels und Eiche splittern, Ich werde nicht erzittern; |: Es stürm' und krach', es blitze wild darein! Ich bin ein Preuße, will ein Preuße sein! :| 5. Wo Lieb' und Treu' sich so den König weihen, Wo Fürst und Volk sich reichen so die Hand, Da muß des Volkes wahres Glück gedeihen, Da blüht und wächst das schöne Vaterland. So schwören wir auf's neue Dem König Lieb' und Treue! |: Fest sei der Bund! Ja schlaget mutig ein! Wir sind ja Preußen, laßt uns Preußen sein. :| 6. Und wir, die wir am Ost- und Nordseestrande, Als Wacht gestellt, gestählt von Wog' und Wind, Wir, die seit Düppel durch des Blutes Bande An Preußens Thron und Volk gekettet sind, Wir woll'n nicht rückwärts schauen, Nein, vorwärts mit Vertrauen! |: Wir rufen laut in alle Welt hinein: Auch wir sind Preußen, wollen Preußen sein! :|
566 :
世界@名無史さん :2009/01/29(木) 16:52:45 0
7. Des Preußen Stern soll weithin hell erglänzen, Des Preußen Adler schweben wolkenan, Des Preußen Fahne frischer Lorbeer kränzen, Des Preußen Schwert zum Siege brechen Bahn. Und hoch auf Preußens Throne Im Glanz von Friedrichs Krone |: Beherrsche uns ein König stark und mild, Und jedes Preußen Brust sei ihm ein Schild! :|
プロイセン王位の正当な継承者はポーランド王。 ホーエンツォレルン家のいわゆるプロイセン王は僭主。
>>567 嘘かと思って調べてみたら、中世秩序においてはそれ正しいんだなw
また一つ賢くなったわ
ロシア皇帝位も正当な継承者はポーランド王なんだよな
ということはロマノフ朝も僭主ということか
なるほどロシアが対ポーランド政策で必死になるわけだ
569 :
世界@名無史さん :2009/02/05(木) 13:20:26 0
>ロシア皇帝位も正当な継承者はポーランド王 なんでやねん?w
理論的にはそうなる 今更言ったところではじまらない話だが
根拠知りたいなあ。リューリク朝断絶がらみの話か? ポーランドのヤギェウォ朝はリトアニア大公家で、これはリューリク朝の 傍系なので、リューリク朝断絶後は継承権が主張できないこともない。。。 って、ヤギェウォ朝の方がリューリク朝より先に断絶しとるやんけw
>>568 じゃないけどさ、前にどこかで読んだことがあるんだが、ロシア皇帝位は終身インペラトールであるから、
譲位は皇帝が死亡するか、皇帝自身が次の皇帝に儀式で臣下の礼を取る場合に限られるらしい。
ミハイル・ロマノフはヴワディスワフ皇帝の生存中に皇帝となっているが、
これにはヴワディスワフ皇帝が前記の譲位の儀式を行っていないため、
ミハイル・ロマノフの皇帝即位は厳密には無効だということらしい。
まあ、そういう古くからの秩序を全部ぶち壊してきたのが近現代のロシアであるわけで、
ロシア人なんかにいくら筋論を説いても意味ないけどね。
リトアニア大公家がリューリク朝の傍系というソースきぼんぬ。 そういえば全ルーシの統治者の立場についても、ハリチ・ルーシを通じてリトアニア大公、 そしてポーランド王へと移っていて、それっきり。 これもいまのロシア人にいくら言っても通じない筋論だけどな。 だが中世の人間はこういう筋を伝統的な法として大事にしたわけで、いまのロシア人には 伝統などないね。
574 :
世界@名無史さん :2009/03/15(日) 12:52:18 0
>>533 実際韓国とドイツオランダは似てるからね
原理主義的な思考方法が
576 :
世界@名無史さん :2009/03/28(土) 09:27:18 0
577 :
世界@名無史さん :2009/03/28(土) 09:55:59 0
>>576 貶してるだろ
ドイツやオランダに似ているといわれたら誰だって侮辱されていると思う
578 :
ホットパンツ :2009/03/28(土) 16:48:06 0
579 :
世界@名無史さん :2009/03/28(土) 17:40:05 0
>>578 大王役の俳優が雰囲気出ていいね
このBGMもいいけど
やはりプロイセン軍にはプロイセン・グロリアが一番似合う
>>572 >
>>568 じゃないけどさ、前にどこかで読んだことがあるんだが、ロシア皇帝位は終身インペラトールであるから、
>譲位は皇帝が死亡するか、皇帝自身が次の皇帝に儀式で臣下の礼を取る場合に限られるらしい。
>ミハイル・ロマノフはヴワディスワフ皇帝の生存中に皇帝となっているが、
>これにはヴワディスワフ皇帝が前記の譲位の儀式を行っていないため、
>ミハイル・ロマノフの皇帝即位は厳密には無効だということらしい。
>
>まあ、そういう古くからの秩序を全部ぶち壊してきたのが近現代のロシアであるわけで、
>ロシア人なんかにいくら筋論を説いても意味ないけどね。
筋論を言うなら、この場合そもそもヴワディスワフが皇帝に即位していないので
譲位も何もしようがないだろう。
582 :
世界@名無史さん :2009/05/17(日) 20:50:46 0
プロイセン
お前ら元気だな。俺は大風邪ひいてべらぼうだぜ。
>>583 豚インフルエンザ?
とツッコミ入れた方がいいのか?
>>584 否、この名に似合わず鳥インフルエンザ。
>>585 豚インフルエンザより遥かにまずいだろうが…
>>586 ヤバい、ヤバい。もちろん嘘だけどね。
しかし酷い風邪だ。今日なんて起きてる時間の方が少なかったほど。
豚インフルエンザだとしても病院に行かん。
ネットで実名出されちゃたまったもんじゃないからね。
ただ、店には明後日まで出ない。もしものこともあるから、ね。
ところで、我が故郷オストプロイセンは豚や鳥のインフルエンザ被害を受けていないかなぁ?
今や145万人都市に発展した愛しき故郷ケーニヒスベルク。
12歳からハンブルガーになってる俺を今も受け入れてくれるかな。
思い出のオストプロイセン・・・
お話を豚切ってすみません どこのサイトもWikipediaも玉砕だったので 世界史にお詳しい方にお尋ね致します ヒトラー暗殺の作戦「ワルキューレ」の首謀者シュタウフェンベルグの副官 ヴェルナー カール フォン ヘフテンのプロフィールについて ご存知の方がいらっしゃれば どうぞご教示下さい 彼はシュタウフェンベルグの副官でした ・彼は英語とフランス語が話せたのでしょうか ・本が好きでよく図書館や自宅で読んでいたのでしょうか ・かれの屋敷にはクリーム色(黄色)のつるバラがあったのでしょうか 今ドイツのあるグループにアクセスして同じ事を聞いてますが わからないようです。 ※アホウな質問をしてすみません いつかはヘフテン通りに顕花するつもりでいる変わり者です ここしか頼みの綱がないんです ご存知でしたら 少しの情報でも教えて下さいませ おねがいします
図説プロイセンの歴史という本が出てたな マニア向け
ポーランドはカリーニングラードなんか欲しがらないよ あそこを領有したら国内に大量のロシア系住民を抱えることになる ヒトラーと同じ口実をプーチンに与えることになる そんな馬鹿なことはしない ポーランド人は「ロシア人はキチガイ右翼だ」と、口を揃えて言うぐらい
ドイツだってトルコ人問題があるのに、ロシア人住民を国内に抱えるようなことはしたがらない ドイツ人もカリーニングラードは欲しがらないよ ドイツもポーランドも、もちろんポーランドと同じ理由でリトアニアもカリーニングラードは欲しがらない ありうるのは、来年やってくるロシアの経済破綻を期にあそこをロシアから独立させて、 ベラルーシ・ウクライナとともにEUに入れてしまうこと
>>590 手元にあるが、良著ではある。
でも、図版なんか要らんからもっと記述の密度を上げろ、とか思わんでもないw
594 :
nomu :2009/08/01(土) 11:46:58 0
ドイツ
資金力が乏しいにもかかわらず軍備の増強を図っていた18世紀のプロイセン
では低コストで大量の軍服を揃える必要が生じていた。そのため、布地を
節約するために上着を細身に仕立て、粗末な生地で作られた軍服を華麗に
見せるための縁取りや組紐等による飾りが付けられた。
そしてこれらの工夫が、安価でありながら実用的且つ見栄えがするドイツ式
の軍服を産んだとも言える。
そして、当時の軍服に求められる要素を兼ね備えたドイツ式軍服はヨーロッパ
各国に広がり、イギリス陸軍の1742年制式の制服にも採用された。
そして、布地を節約するためだった細身の仕立てはスマートな外見が評価され、
フランス陸軍の1762年制軍服にも影響を与えた。
19世紀に入ってもドイツは軍服のトレンドをリードした。また、普仏戦争の
勝利により、19世紀末から20世紀前半までの世界の軍事・軍制に多大な影響
を与えた。
そのため、建軍当初はフランスの影響が強かった日本陸軍でもドイツ式を
取り入れるようになった。
しかし、20世紀に入るとイギリスやアメリカが軍服に関しても新モデルを
発信するようになり、第二次世界大戦の頃にはドイツは遅をとるように
なっていた。それでもその特徴的なデザインは依然多くの国に採用されて
いたが、第二次大戦の敗戦とナチス・ドイツのマイナスイメージから大半
の国でデザインの変更が行われた。
そのため、第一次世界大戦以降のドイツ式軍服の影響をとどめる例は少ない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E6%9C%8D
595 :
世界@名無史さん :2009/08/01(土) 12:04:40 0
第一次大戦当時の帝政陸軍の制服(トンガリヘルメットのやつ)は、 一般兵士の服は格好よくない。 ヴァイマル期以降の国防軍の制服の方が、兵士も格好いい。
596 :
世界@名無史さん :2009/08/04(火) 21:38:25 0
それで、悪役あつかいなのに、映画じゃナチス時代の制服ばかりなのか
597 :
世界@名無史さん :2009/08/04(火) 21:53:36 0
>>588 ドイツの上流階級というか欧州の上流階級の共通語は
1920年代まではフランス語だよ
598 :
世界@名無史さん :2009/09/21(月) 21:46:53 0
, -―――――-- 、 \ , -`―――ー-- 、____./ / こ た . /.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:\ , -、ー'------ 、::::::::::::::::::ヽ/ / い ま .: /.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.、.:ヽ /::::::::Y´:::::::::::::::::::::`ー 、::::::::::::\ ./ . つ ら /.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:/.:.:.:.:.::ヽ、.:.:.:.:.:.:.:.:.:i.:.:ヽ / : ::::::::::i:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ::ヽ/:::\ ぁ ん . : /.:.:/.:.:.:.:.:.//:.:.;ヘ:.:.:.:.:ヽヽ:.ヽ. i i l./:::/::::::::/::::i:::::::::::\:::::::::::::::::::::::::::、::::ハ:::ハ::::::::::::ヽ . : . !! / / :/ ./ ,ィ ./ \...._;;i.:.ヽ...ヽi.... / ::::l:::::::::i::::∧ .....ト、 ヾ、 .ハ ハ .i .ハ.:.:.:::::::ハ : :. {.....{....i、/_/ |.:./ ____,ィ≦´\.:.\:::\.:{ ...|.......;ィ::::| ヽ:::::ハ `ヽ、__>:ハ:::::..::.:}....i......:}.::::::::::::ハ l、.:ヽ.:レ'二ニレ ` シイィ;ハ ̄7.:.:l\:.:.:.::ハ::::::!:// `N i \斗-ニ=;ェ=、-.}::i:::::ノ : |、 :::|::::i::::::::::l .:ヽ:.:.:V { {じ;ト 辷;リ_ / |./:./7}、:.:.:.:\::::{ /゙モミ、i 'ヅ{;;じri 〉!//:::::::| .}:::|:::::i::i::::::| : . ヽハ _ゞソ  ̄〃〃 /: /_ノ.:.:.:i:.:.:;ハ::ハヽ {j;リ 辷;ノ / ケ/ ::::::::/ノ::::l:: :::i::i:::/ : }.:.:ト〃 /.:/.:.i.:/.:.:.i:.:/ イ::::} ┴' 〃〃〃〃 //::::/ノ´: :::ノ::::::::i::/ : : /.:.:八 -======ー' /.:.:l.:.:.:.i:.:.:.:.i/ {:::::|〃 ___ /::::::/::/::彳:::::::::::Y . : /.:.:/:i.:.\ ,.ィ'.:.:/:.i:.:.i:.:.:.:.:.| }:::ヽ lニ二___ } /:::::/::://:´:::i:i:::::::::::{ : : /:/:.:.i:.:.:.:.:`.:.: T:::´::::: {.:.:.l:.:.:\\.:.ハ (::ヽ:::\ -‐U ̄ ̄\i:彡':ヽ::ヽハ:::::::::ヽ : .
599 :
世界@名無史さん :2009/09/21(月) 22:08:01 0
>とんがりヘルメット あれがいいんじゃないか! 古き伝統あるドイツの象徴だ。 皇帝・国王陛下万歳!
600 :
世界@名無史さん :2009/09/24(木) 23:13:35 0
. -―- . / \ / /ヽ__ U ヽ ′: /_,/ } ハ`ト、 i i i i∧ { ′}ノ }l i| | l l{ ヽ ‐--‐l トl / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 、l ト ,_,ノ l |1 < お断りしますわ! l lい r ¬ l l ! \____________ . <ヽ lU人 ` ´ ノli 八__,ノ} \>(^v′〕フT { liハー‐ ′ { ,}、Y{ \_/ ノT⌒ヽ . /ヽ | \__, ィ介く__ノv' 〉 / / ハ !__ } }l l_,{ . { { ' { } マ!}' }l l{ }=ィ′ Vl .′ }l l{ { | l | }l li l l 丶._丿 }l l{ l ! } }l l{ |ノ / }l l{ |
601 :
世界@名無史さん :2009/09/26(土) 23:05:42 0
Deutschland,Deutshland über alles über alles in der Welt, wenn es stets zu Schutz und Trutze brüderlich zusammenhält! Von der Mass bis an die Memel, von der Etsch bis an den Belt: Deutschland,Deutshland über alles über alles in der Welt
602 :
世界@名無史さん :2009/09/30(水) 06:52:19 0
1995年、ブランデンブルク州政府とベルリン市政府は、 合併して「ベルリン=ブランデンブルク州」となることに合意したが、 1996年の住民投票により否決された。 しかしブランデンブルク州政府とベルリン市政府が合併したら事実上のプロイセン州じゃね?
603 :
世界@名無史さん :2009/09/30(水) 09:55:03 0
プロイセンはもっと広域 ベルリン=ブランデンブルクなら、ゲッベルスのガウの領域に過ぎない
>終身インペラトールであるから、 インペラトールじゃなくて インペラートルなんだよボケ
605 :
世界@名無史さん :2009/09/30(水) 10:32:08 0
2月からずっと新着スレ更新してなかったの?
606 :
世界@名無史さん :2009/10/02(金) 18:13:38 0
/ ノ /_,.イ ┏━━━┳┳┓ ┏━━━━┓ ∀ { | f´ ┗━━┓┣┻┛ ┗━━━┓┃ ┏━━━━━━━ V∧━━ ! | ━━━━━━━┓ ┏━┛┃ ┃┃ ┗━━━━━━━━'V \━':l !.━━━━━━━┛ ┏┛┏┓┗┓ ┏━━━┛┃ Y 〉 | | ┗━┛┗━┛ ┗━━━ /v/}/ノy! _ト, / // / / ィ イ ,ィ | ア!-<`><. / |\,、 ト| / | /∠∠イ__|_/ > '⌒ヽ V/__ |\、| | ̄ ̄ヽ ,r─ < ̄ _/ ヾヾ \. ノ /三≦ ̄ ヽ_| | ̄ ̄ ̄ ̄ ) ̄ } }/ 〈<三三三三三三ニ
ナポレオン戦争の頃はびっくりするほど外交が下手だよな。 最終的に勝者だったのに、オーストリアやフランスにいいようにやられてた。
608 :
世界@名無史さん :2009/10/03(土) 21:47:58 0
>>602 住民投票で過半数に達していたら
「ブランデンブルク州」と呼ばれることは決まっていた。
609 :
世界@名無史さん :2009/10/03(土) 22:02:35 0
フリードリヒ大王もなんだかんだいって外交上手。 七年戦争はアレだったけど、それ以降の立ち回りは上手い。
611 :
世界@名無史さん :2009/10/04(日) 21:53:50 0
,-o-、__ 久々に暴れるか _{ニ゚ニニ} 从,,/ (`∀´ ) _ ─ _ ‐─≪;;:・━━]ロli[lhn⊂];;;;) ミ YY / ̄ ̄ ̄/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄丶 \ __ 0)二二二[二二) / ╋ 331 丶 / 」__`l ,-======-/_________l_二と(´Д` l_> /o__o |i. i. i. i. i. i. i. i. i. i. ヽ:::::::::::ヽ / / / \_i__i__i__i__i__i_/ (_|:::_ゝOニl== ( '`⌒'`⌒'`⌒'`⌒ )_,、_,、_,、_,、_,、_,) (__)  ̄  ̄  ̄  ̄  ̄
612 :
世界@名無史さん :2009/10/07(水) 20:22:23 0
プロイセンはプロテスタント同士の融和は進めたが、カトリックに対して排他的で、 それは文化闘争で頂点に達した。それが起こらなくて済んだかもしれない民族問題に火をつけた。 ポーランド語を母語として話す人々が民族としてはっきり覚醒したのはビスマルクの文化闘争のせい。 それまでポーランド人はプロイセン地方やルール地方やシュレジェン地方やポーゼン地方でドイツ文化に 徐々に同化していく過程にあって、実際に貴族から庶民に至るまでドイツ化した人々もたくさんいたのに、 文化闘争で民族による分け隔てをわざわざドイツ人のほうからやってしまったから、まさにヤブヘビ。
613 :
世界@名無史さん :2009/10/08(木) 13:21:21 0
>>612 大王時代には、ポーランド系の武人多いものな
614 :
世界@名無史さん :2009/10/08(木) 22:16:49 0
プロイセン=東ドイツ っていう解釈はありなのか訊きたいのですが
615 :
世界@名無史さん :2009/10/11(日) 12:22:48 0
-、ー- 、
_. -─-ゝ Y ⌒,.Z.._
,.> <`
∠.._ , ヽ
>>614 . / , ,ィ ,ハ ト、 l
/イ / /l/‐K ゝlへトi | ドイツ2000年の歴史……
レ'レf Y|==;= =;==|f^!l
. !6|| ` ̄ "||`  ̄´ ||6|! その中で……
゙yl、 、|レ |y'
_,,ハ.ト.` ̄ ̄ ̄´ ,イ/\_ もう全くあり得ない話……
 ̄:::;':::::゙! \.  ̄ / |'::::::::|::: ̄
:::::::::l:::::::::l \/ !::::::::::|::::::::: ゲームオーバー……
::::::::l:/ヽ:ヽ__ __/:/\:|::::::::
:::::::‘:::::::::::o:ヽ` ´/::::::::┌──┐
616 :
世界@名無史さん :2009/10/12(月) 23:00:30 0
_ ,。、 fl|二}:l_ 〔:〕∩_(O:O /^_//>J , -‐─r‐‐ュ──-、 _ r‐-、 | ゙|゙ ゙マ゙ ゙, -、 _ ヤ__ _,,、、 l. 」L ,゙|゙, ゙マ゙. ゙|l(,_____(二二二二二二二二((ロ(O r─ュ | `l「 ,゙l゙, ,゙マ゙. ゙|r(_r((,)O ``"´ |ニニj_l__,゙l゙___,_゙マ゙__゙l,´_゙l___゙ヤ_ _ ‐ '' ゙゙ ゙̄|゙ ̄ ̄ ̄  ゙̄ ' .,______゙_'__. 7 ゙. ゙|゙ . ._._. .゙ .゙\_._._._._._._ヘ ,' ゙. . . .゙| ̄ ̄l ̄ ̄ ̄ ̄ ̄`| i_'='l| ̄(,=・i_'='l|l ‘'─‐‐r──‘‐─:‘ ___===-r ______,ll_,_─r===r , - ─└ - − '' 二  ̄_,、,-r、=r、|lト、___'_,二二'_,└‐-,、|、=r、 , -- =−''二^(',))~`(',))~`'_ 7'ヾ=゙ヘ ュ゙ ゙ ゙ ゙ ゙ ゙ ゙ ゙ ゙7ヾ=゙ヘ {i'´‐ヽ,'´ヽ' ,'´ヽ','´ヽ ','´ヽ' li,'i',マ'゙=゙マi ゙ ゙ ゙ ゙ ゙ ゙ ゙ ゙ 7`l,マ'゙=゙マ ',{`-'i}|r-,| l|r-,| |ir-,| l|ir-,| l{i, ,i}'゙=゙'i}‘-──────-’ _|i }'゙=゙'i} マ,_,7'l`-'l |l`-'l |l`-'l ||l`-'l |ヽ ,’'゙=゙'7 .::.:l | .:.:.l ,| | .:..:l ,| -',’'゙=゙'7 ヾ,、,ヾノノヾノノヾノノヾノノ_,イ'゙=゙',イ .:.:.ノ,、ヽ::ノノ,、ヾ::ノノ,、イ'゙=゙',イ "゙~"゙"゙~"゙~"゙~"゙~"゙ "゙~"゙"゙~"゙~"゙~"゙~"゙ "゙~"゙"゙~"゙~"゙~"゙~"゙ "゙~"゙"゙~"゙~"゙~"゙~"゙ "゙~"゙~"゙~"゙~"゙~" ,..,,.. .,., vi/ 、....,.,, .,.,,.vi/ .,., ,.,,.vi/ .,., ,.,., .,.,,.vi/ .,.,, .,.,,.vi/ ,.,.,
617 :
世界@名無史さん :2009/10/16(金) 21:47:44 0
プロイセン州の復活を!!!
618 :
世界@名無史さん :2009/10/18(日) 22:03:19 0
ビスマルクさえ生きていれば・・・。
619 :
世界@名無史さん :2009/10/21(水) 21:34:06 0
_i_ Danzig海軍基地から参戦 _|_ __ュ|ュ_, ,_,__∩y'__, _rjl\l7'´ y-、Z _rvf`='FL | | _rェHェェェiェ'ュ_、_|rt-、 /!,_ _ l r‐、 LP |=l=!_ _/'_,ト{ `」 ヽ_/.「 l ┤| ]`L ,,、_ ,,.. -‐ ''' "´ \,. -、 」、仁二 L l `ーiヾki´|`iー--,、 ,.. ‐'' "´´ | | ソ/ 〉/ー - 、、..ヽ_,__,.. - |ヾヽ -‐ ''"´,/ ''; ';:' ``_'ー- fk__ ,,.. __-‐__'''_"_´_ー--'' "'゙'゙'゙`ー -- 、_,.. -‐ ''"´ .,、-' _ ,、_ _>_ 、y, _  ̄  ̄ ̄´ ´ _, _ ,,..-'´ ヾ,,_ `` `'´`ヽ `´ / /∠/ ,r' ヽ ,、'_,r' '' ー-' ´´ ,,..、 _,. 、、 ヽ ,r''ヾ ''ー'´ヾ、;',y、 '',. 、,, ,. ー ''´ `'´ ''´
620 :
世界@名無史さん :2009/10/24(土) 22:23:02 0
Sankt Petersburg沖から艦砲射撃せよ!!!
621 :
世界@名無史さん :2009/10/27(火) 19:17:50 0
ドイツ東部の郷土料理:アイスバイン、テューリンガー・ソーセージ、テューリンガーグリル、 アヒルのロースト、ローストポーク、ベルリナー・ヴァイセ(小麦のビール)、 テューリンガーワイン
622 :
世界@名無史さん :2009/10/28(水) 22:30:51 0
>>612 ナショナリズムの引き金は憎悪・排斥というわけだ
ビスマルク、ほんと余計なことしたな
全くの表面的な思い込み、こじつけの誤認だね ドイツが血統主義的国籍法を制定する過程は まず諸領邦時代に各領邦が伝統的に貧者に救済措置を行っていた その救済措置を求め領域外からの移民が急増し始めた 諸領邦が法的画一性を確立する上で国家が外国人と共同体の正規構成員と区別する必要があり 代々その共同体に居住している者、嫡子、婚姻、帰化に基づく者をその共同体の正規構成員とした その代表的なのが1842年のプロイセン法の国籍法規定 従って祖先が民族的にはドイツ人ではないユグノーや併合後流入したポーランド系でも 何代か当地に居住し当地に順応しているならプロイセン臣民に成り得た まだドイツ統一当初は外国人移民がまだ少なく、ドイツ民族の観念より各旧領邦国の構成臣民であることが基本の出生主義的国籍法だ その後90年代からドイツ東部諸州を中心にポーランド系移民が急増し しかもそのポーランド系は過去の移民と違いドイツに順応せず、民族主義的で閉鎖的、ドイツ国家に対する忠誠も極めて曖昧だった 従って東部国境をドイツ民族とポーランド民族の分界線とすべく ドイツ民族観念を前面に押し出した民族主義の濃い出生主義国籍法を1913年に制定するに至ったのである 自演もいいが、単なるネガティブな事を書き綴るだけでなく、学問的に理解できる解釈をしろ
>その後90年代からドイツ東部諸州を中心にポーランド系移民が急増し この一文で完全に化けの皮が剥がれたな この時代最もポーランド系移民が急増したのはドイツ西部のルール工業地帯で 一説には100万人以上が移住してきた だから現在のドイツでもルール地方はポーランド系の姓を持つドイツ人が多い
>>624 だったら学習院大学法学部教授でヨーロッパ政治史専攻の飯田先生の学外授業でも受けろ
>>623 はその講義内容に沿ったレスだ
その授業を受けそのままの通り「化けの皮がはがれた〜」とか不躾な事言ってみれば
どこの馬の骨か知らんが、そんな稚拙なレスは評価する以前の問題だな
626 :
世界@名無史さん :2009/11/01(日) 19:47:36 0
くだらん 学習院大教授のレベルが低いだけ 文系なんてな、流行りものの世界でな、 この辺の歴史もな、ドイツの右翼思想が好きな奴らの声が大きければこういうことになるんだよ 確証バイアスというものでな 低レベルの証拠
>>602 ブランデンブルクは本来のプロイセンではないだろ
>>626 どこが右翼?
笑わせるなよ
ポーランドに異常に肩入れ奴に自分に少しでも反対したりドイツの事言っただけでナチ扱いしておいて
一方で同一人物を朝鮮人と言い平然と差別を語る小汚い隠れウヨはいるけどな
お前が学習院どうこう言える立場の人間なら
自分が何者でそれを公然と公共掲示板で批判できるのか素性を明かせよ
理論的反論が出来ないから掲示板の匿名性を利用して反論出来ないのを見越した第三者を罵倒するなどお前やってる事卑怯すぎるぞ
626は10年近くニュー速や世界史板に粘着し続けているキチガイポーランドヲタ。 放置推奨。
630 :
世界@名無史さん :2009/11/08(日) 16:23:44 0
サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ ―――――v―――――――――――――――― ,.r―‐----、_ _/ /rィr __ \_ / ,r''"゛'''"''^~ ゛ヽ、= ヽ i 彡' ゛ミ`i !ソj jiiii=、_ _,.=iiiii .)jリ トーrr=====、_r====v'レ、 frレハ'-〜' ,ハ '゛〜:,ノ ト,! ヽ.lN ー‐'r,、 ,),、‐‐' .イ/ トj ト、 " ,___,.` ノ n. ,、 .∧ヽ. "(__ソ` ,ノ 「゛j. ! ! !.l.i゛l ,..:'f' \ヽ丶、_,.ィ ,ハ-、 !. i.! ,l.! l,! l '" l ヾヽ、 .ハ ,-、 ,}. i! ! \`ヽ-'く .l \゛‐' ‐、,.:' j \ ,/
>>628-629 ああ、10年間もアンチポーランド活動に精を出す基地外だとmixiで笑われている有名人というのは
あんたのことか
なるほどねー
632 :
世界@名無史さん :2009/11/11(水) 10:05:45 0
_,.=三三三三ミ、 ,.=三三三三三三ミL_ /三三三三彡彡==fミミヽ {三ミr'" ミ三》 l三ミl ミミリ ',三ソ ==、─=ニ_ ミソ r、7={_,xぃ、r}¨{x ィぇ、 }¨リ7 ヽi l -‐_ンl lヽ、二ノ }j lj  ̄ /(_,、_,. )ヽ lノ ゙i -' 、 / ヽ { ゙ ̄ー ̄´ ,イ、 ドイツに対し青島の返還を要求する! ヽ ヽ__,. // 入 _ノi゙、  ̄ / /::::ヽ、 __,. -‐'"/::l `ヽ、__,/ ./:::::::::::i:::`::ー..、_ -'":::::::::::::::/::::::::l /´゙ヘ. /::::::::::::::l:::::::::::::::::` :::::::::::::::/:::::::::/l`∨辷夕ヽ//\:::::::::::l::::::::::::::::::: ::::::::::::::::::::>'':::::::l. /! ij', ./::::::::\'¨´::::::::::::::::::: ::::::::::::::<´:::::::::::::::l / i /:::::::::::::::\:::::::::::::::::::: ::::::::::::::::|:::::::::::::::::| / l./:::::::::::::ヾ:::/::::::::::::::::::::
633 :
世界@名無史さん :2009/11/13(金) 23:41:07 0
へ へ|\ へ √ ̄| へ ( レ⌒) |\ ( |\)| |/~| ノ ,__√ /7 ∠、 \ . 丶\ _ __ |\_/ /へ_ \) | | | |∠ | |__ | / ! | | |_〜、 レ' レ' \_./| |/ \ .| |( ̄ _) | ) | | i | へ_,/ ノ ,へ / / ̄~ヽ ヽ. | | フ ヽ、 ノ √| | ! レノ | !. \_ ー ̄_,ー~' ) / /| | | | | |( ノ| |`、) i ノ | | \_ノ ノ / フ ! (~~_,,,,/ノ/ | | | | / / | | . し' ノ ノ | | / / | |  ̄ \\ノ | / / | |___∠-". | | ノ / ノ | /( \_ノ_/ / (____) し' ノ/ / / | 〜-,,,__ ∠-''~ ノ/ (_ノ 〜ー、、__)
634 :
世界@名無史さん :2009/11/14(土) 01:22:18 0
>>627 ブランデンブルク「が」プロイセン「を」合併して
新国名をプロイセンにしたんだからOK
635 :
世界@名無史さん :2009/11/16(月) 19:46:34 0
>>627 ,634
どっちでもいいんだけど、
合併後なんで「プロイセン」にしたんだ?
636 :
世界@名無史さん :2009/11/16(月) 20:41:09 0
>>635 1618 ブランデンブルク選帝侯がプロイセン公を兼ねる
1701 神聖ローマ皇帝がプロイセンに王号を認める
1806 プロイセン王国がブランデンブルク選帝侯領を併合
実質は1618にブランデンブルクがプロイセンを乗っ取ったが
形式的には1806にプロイセンがブランデンブルクを合併した
神聖ローマ帝国解体までは同君連合だったんだ
要するに王号のためだね。
称号ロンダリング
あれ、でも、1806年だったらブランデンブルク王だって名乗ることが可能だったんじゃね? 既にプロイセン王で馴染んでたからそうしなかったのかな?
ブランデンブルクは公国だろ。
>>640 ブランデンブルクは選帝侯だよ。
あと、1806年にドイツで何があったかくらいはわかってるんだよな?
>>640 公国はプロイセンの方じゃ?
王国になる前に騎士団から公国になってる。
>>627 元々先住民の名前からきているし、本来のプロイセンって言うとやっぱり
WW1、2敗戦でとられちゃった辺りだね。
ドイツでは悪いイメージもあるというしもう地名ですら復活はできないのかな。
父の国みたいなイメージもあるらしいけど。
643 :
世界@名無史さん :2009/11/19(木) 21:59:18 0
_人 _,,.. - ''''"" ̄`"'''7:::∠__ ) ,. '" !ヘ/:::/、 ___ _l⌒l_ / ハ, __i i:::::>! ', (__ ) (_ _)l⌒l / /'! ハ /!二_ハ i´ | ハ _/ / / / | | ___ | / ,.ィ‐-V レ゛´!´.ハ`ヽイ / ! ! (__ ) __ (_/ l⌒l `ー' / ヽ i i イ「ハ !__,リ ノ | /| | / /(___) | l_ │ .○ /ヽ | /.| | ! !ソ  ̄ 〃 レ' | | │ │_ ( ○ _) 丶_/ / / レソ〃 ,-=ニニ'ヽ. 7 ,' | 丶__) `─' `ー' |7! i ! u / /! | _l⌒l__ /⌒ヽ /⌒/ .'ゝ、_ヽ、 _ノ / / / i ,' (_ \\ | /⌒ヽ_/ / ̄レヘ/,./^i,.-,r イ´レヘ/ヽ、ハノ / / ̄ヽ | `ー'(_/\ / r| ! ! レ^i/  ̄'7ー-、 (_/ / / `ー' ハ /ヘ__/// ヽ, `ー' ,. '⌒ヽ,r‐''"´ ̄ト、::::::/ !
644 :
世界@名無史さん :2009/11/20(金) 17:56:29 0
イタリアも似たような感じだね サヴォイア公はピエモンテを占領してトリノに遷都してた サルデーニャ王を兼ねてからその資格であちこち浸食 最後は両シチリア王国まで滅ぼしてイタリア王になっちまうが 歴代おそらくサルデーニャなんか行ったこともないだろうし 本来の領地であるサヴォイアはフランスに渡しちゃうし
645 :
世界@名無史さん :2009/11/21(土) 22:13:47 0
イタリア固有の領土、コルシカ島も奪われてるしな。
646 :
世界@名無史さん :2009/11/22(日) 07:07:50 O
18世紀末〜19世紀初頭のプロイセン軍を撃ち破ったフランス軍も凄いわな。 カルノーとボナパルトの力の他にも何かあったはずだが俺には? プロイセン領内を含むドイツ人知識人の間ではフランス革命が 熱狂的に受け入れられたというし、ルソーの評価もフランスで よりかも今もドイツでの方が高いらしい。 ヒトラーはボナパルト崇拝者な上に(←それはわかるが)、 ロベスピエールを高く評価していたし、わけがわからん。 メッテルニヒ体制下時代ならばナショナリズムとリベラリズム・デモクラシーは 半ば一体だったから少しはわかるけども。
647 :
世界@名無史さん :2009/11/23(月) 22:16:49 0
, -.―――--.、
,イ,,i、リ,,リ,,ノノ,,;;;;;;;;ヽ
.i;}' "ミ;;;;:}
|} ,,..、_、 , _,,,..、 |;;;:|
|} ,_tュ,〈 ヒ''tュ_ i;;;;| __________
| ー' | ` - ト'{ /
.「| イ_i _ >、 }〉} < パリは同志
>>646 ごと
`{| _.ノ;;/;;/,ゞ;ヽ、 .!-' \燃えているか?
| ='" |  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
i゙ 、_ ゙,,, ,, ' {
丿\  ̄ ̄ _,,-"ヽ
''"~ヽ \、_;;,..-" _ ,i`ー-
ヽ、oヽ/ \ /o/ |
イエナでナポレオンが勝ったのは、兵力差と装備の近代性、そして何よりも先進的な軍編成の効果が大きかった。 アウエルシュタットの方は……ダブーが神だったとしかw ヒトラーがロベスピエールを高く評価していたのは、民衆に選ばれた絶対権(=生殺与奪の権利)を持った独裁者だったからじゃないかな。
649 :
世界@名無史さん :2009/11/24(火) 19:27:41 0
ウィルヘルム1世がヒンデンブルク末期にドイツに強行に帰国して帝政復古宣言すればどうなったかな?
650 :
世界@名無史さん :2009/11/24(火) 19:44:24 0
内戦になってただろうね。
652 :
世界@名無史さん :2009/11/25(水) 23:25:41 0
1600年の現ドイツ領内各地人口
http://de.wikipedia.org/wiki/Kategorie:Einwohnerentwicklung_deutscher_St%C3%A4dte ハンブルク 40000 (現在177万)
ニュルンベルク :40000 (現在51万)
ケルン :40000 (現在99万)
アウクスブルク :40000 (現在26万)
マクデブルク 30000 (現在23万)
リューベック :23000 (現在22万)
フランクフルト :20000 (現在67万)
ライプチヒ 20000 (現在52万)
ブレーメン :20000 (現在55万)
エルフルト :19000 (現在20万)
ミュンヘン :18000 (現在134万)
ウルム 17000 (現在12万)
ブラウンシュバイク :16000 (現在25万)
ドレスデン 15000 (現在51万)
エムデン :15000 (現在5万)
ロシュトク :15000 (現在20万)
アーヘン 14000 (現在26万)
フライブルク 12000 (現在22万)
ハーレ :10000 (現在23万)
マインツ :10000 (現在20万)
ミュンスター :10000 (現在27万) 以下、
ベルリン :*9000(現在343万) ツビッカウ *7000(現在**9万) フレンスブルク *6000(現在**9万)
カッセル :*6000(現在*19万) トリール :*5000(現在*10万) ハノーファー *5000(現在*53万)
ゲッティンゲン :*4000(現在*12万) デュッセルドルフ *4000(現在*58万) ドルトムント :*4000(現在*58万)
チュービンゲン *4000(現在**8万) ボン :*4000(現在*32万) イエナ :*4000(現在*10万)
エッセン :*3000(現在*58万) キール :*3000(現在*24万) ボーフム :*3000(現在*38万)
653 :
世界@名無史さん :2009/11/28(土) 13:57:02 0
654 :
世界@名無史さん :2009/11/28(土) 17:13:49 0
>>653 三十年戦争以前のブランデンブルクは片田舎だからね
これといって産業や文化の基盤がなかったところに、 地政学的戦略のために無理やり置いた首都 ドイツ帝国のベルリンもそうだし、 狂信的カトリック教徒のジグムント3世がパトロンのイエズス会と組んで 既成事実を積み上げて議会の反対を封じて遷都したポーランド・リトアニア共和国のワルシャワも同じ
656 :
世界@名無史さん :2009/11/29(日) 22:45:41 0
ベルリンって確かに東ドイツのど真ん中に、ポツンとある感じの町だよね。 周辺には特に大きな町もないし、工場地帯も特にないし。 フランスにおけるパリに何となく似ている気がするけど、こっちはもっと 歴史が古い。 ドレスデンやライプチヒはザクセンの中心的都市(いわば帝都・城下町) だったし、ここはオーストリアやチェコへの街道もあったからこの当時から 欧州有数の町だったのはまあ自然か。 それ以外だとニュルンベルク、ケルン、アーヘンも王が滞在した都だわな。
657 :
世界@名無史さん :2009/11/29(日) 23:23:24 0
ベルリンのあったところを含む旧東ドイツ一帯は中世には神聖ローマ帝国の支配が確立していなくて、 新興国家ポーランド公国との係争地にさえなっていたからな。 ポーランドのボレスワフ1世の時代だね。 ボレスワフ1世が東方のキエフ・ルーシを征服するために譲歩して帝国に譲った場所だから。 だからドイツにとってはあのあたりが精神的な最前線なんだろ。
ワルシャワは16世紀にジグムント3世がロシアを 征服し東スラブ世界をカトリック化するために 南部のクラクフから遷都して東方進出の拠点にしたもの
659 :
世界@名無史さん :2009/11/29(日) 23:51:04 0
中華人民共和国波蘭省 省都 華沙 住民 8000万人(漢族60% 波蘭族40%) 公用語 中国語(波蘭語は統一を乱す言語として使用禁止) 歴史 201X年に4000万人の移民が流入し、翌年の総選挙で 漢族の投票率99.99%の中、中国共産党が全国の小選挙区で圧勝した。 これにより、波蘭臨時自治政府が樹立され、中華人民共和国への併合が 決議された。その後、波蘭自治区となったが、さらに漢族の流入、波蘭族の 本土への流出により、漢族が60%を越えたため、波蘭省に昇格した。 経済は漢族が独占し、波蘭族の経済的劣性は明かである。たびたび抗議行動が 起こされるが、人民解放軍により鎮圧されている。
660 :
世界@名無史さん :2009/11/30(月) 23:18:40 0
西暦1600年前後の欧州の各地人口 コンスタンチンノープル 700,000人 パリ 300,000人 ナポリ :300,000人 ロンドン 200,000人 :ヴェネツィア 150,000人 セビリア 125,000人 プラハ 110,000人 ミラノ 110,000人 パレルモ 110,000人 ローマ 100,000人 マルセイユ 40,000人 リヨン :35,000人 ハンブルク 40,000人 :ケルン :40,000人 アウクスブルク :40,000人 トゥールーズ :40,000人 :エディンバラ 35,000人 ワルシャワ 30,000人 クラクフ 20,000人 フランクフルト 20,000人 ストラスブール 20,000人 ストックホルム *9,000人 :ベルリン :*9,000人 コペンハーゲン 25,000人 アムステルダム :60,000人 ウィーン 50,000人 マンチェスター 10,000人 ブリストル :10,000人 ニューカッスル :10,000人 マドリード :45,000人 リスボン 130,000人 バルセロナ 35,000人 バレンシア 65,000人 ボルドー 30,000人 ルーアン 70,000人 トゥール 60,000人 オルレアン 30,000人 ロッテルダム 20,000人 ヴェローナ 50,000人 リューベック 25,000人 ブレーメン :20,000人 サラエボ 45,000人 ブカレスト 60,000人 モスクワ :80,000人 エディルネ 150,000人
661 :
世界@名無史さん :2009/11/30(月) 23:27:34 0
ちなみに同時期の日本の人口 平安京 300,000人 大坂 360,000人 江戸 50,000人 博多 50,000人 堺(泉州) 80,000人 駿府 100,000人 清洲 40,000人 西ノ京 80,000人 長崎 25,000人 鹿児島 25,000人 大津(近江) *5,000人 首里 10,000人以内 岡山 15,000人以下 熱田 10,000人以内 小田原 10,000人以内 伏見 30,000人
662 :
世界@名無史さん :2009/12/01(火) 23:47:08 0
大戦後のドイツ領域の中で見たらそうだけど、ベルリンって後期のプロイセン王国の領土の中では結構真ん中の方にあるなw
664 :
世界@名無史さん :2009/12/13(日) 20:16:42 0
いや、むしろ西部だ。
665 :
世界@名無史さん :2009/12/16(水) 22:47:51 0
保守の旗立て、綱領改定へ=「国家社会主義的政党」と民主批判 −自民政権構想会議 12月15日20時36分配信 時事通信 自民党の政権構想会議(議長・谷垣禎一総裁)は 党の政治理念や国家像に関する第2次勧告をまとめ、 執行部に提出した。民主党を「国家社会主義的政党」と断じた上で、 これに対抗するため、「自由と民主の下に 正しい保守の旗を立てねばならない」と強調した。 今後、同党は新綱領策定委員会を設置し、綱領改定作業に入る。
666 :
世界@名無史さん :2009/12/19(土) 21:13:34 0
ィ三三彡イlll:ト、\\\ヽll l l l l lハ..__ x仁三三彡イlll:ト、\\\ヽll lノノノノX´ 〃}三三三彡イlll:ト、\\\ヽll lィ三ミx_ l{_ノ三三三彡イ八\ヽ V}_l_lノ川メ、三川 ドイツ帝国に政権交代を!!! 〃三ミ三ニ彡'´}} \ヽ}ノ‐ - \ミ,ハリ わたしたち {{三三ミ三彡 {{ }ノ -- ‐-. V ハ._ 国家社会主義労働者党に一度やらせてください!!! `} lll ll ll三彡 }} -‐‐ -- ‐‐. V!ノ //lll ll llハ リ __ _ lハ..__ { l彡lハハ ハ._ ´`ヽ} ___ /⌒ヽVl | | l彡l川川√ -=ニ辷ァ {=辷ァァ-!j八 从ハハリ川 `ー一ァ}:. :l`ー=‐ | \ j八 _ハ升=‐ ・// | | \l リ __ l(__n ノ}:. / 八. /:: ::/ ̄~\/´ ̄:Y⌒ヽ /::/l\|:: :::|:: :: :: :: ::|:: :: :: ::|:: :: ::} __ -==ニニニ7´ ::|│ │:: :|:: :: :: :: ::|:: :: :: ::|:: :: / .-‐ヘ. ¨ ̄ -- ‐‐/ ::l__\j:: : :|:: :: :: :: ::|:: :: :: /:: ::/ニ=- _ /::::... \ / :\. \:人/^l__ノ`ー‐ァ--ァ'\\ ¨ - _ :::::::::::.. '. / .::::\ / /三|/三/三/l \ \.\ l\ ::::\:::::.. '. \ .:::\/ // ̄ ̄`ヽ/ \ \ ` \ l / ヽ ::::::::::\:::.. '. \_ / /´ / ̄ ̄´/ /`、 V / }
>>662 オーストリアと結構差があるんだな。
他のドイツ地域とはどうだったんだろう。
668 :
世界@名無史さん :2009/12/23(水) 18:52:17 0
バイエルンが無いな。
669 :
世界@名無史さん :2009/12/26(土) 20:00:14 0
オランダ人も今はめちゃくちゃ背が高いけどな。
>>667 ドイツの平均身長が高くなっていったのはお隣のオランダと同様、
割と最近(といっても19世紀後半〜WW1直前)のことなんだよな。
それまではむしろ欧州でも平均的な体格だった。
ちなみにオーストリアの隣国でもありドイツの隣国でもあるチェコは最近
男性の平均身長が180cmを超えた。モラビアやボヘミアというのはチェコの
一地域なんだけど、昔から背が高くガッチリした男子が多い事で有名。
671 :
世界@名無史さん :2009/12/26(土) 22:15:41 0
>ドイツの隣国でもあるチェコは最近 >男性の平均身長が180cmを超えた。 EUの国ごとのデータは?
672 :
世界@名無史さん :2009/12/26(土) 23:42:46 0
>>671 wikiのほうの「Human Height」のソース欄でも見て調べるしかないんじゃないの?
割といろいろ出典ページのリンクが張られているから、それで見るのが無難かと。
ただしself reportedとmeasuredでは信憑性はself<measureって感じになるけど。
>wikiのほうの「Human Height」のソース欄でも見て調べるしかないんじゃないの? なんだ同条件で比較したものがないのか それじゃだめだな
674 :
世界@名無史さん :2009/12/27(日) 23:48:50 0
675 :
世界@名無史さん :2009/12/30(水) 14:17:21 0
もともと第二次世界大戦の勃発はポーランドの 領土的野心から始まった事を無視してはならない。 ポーランドが占領していた回廊は東プロイセン地方をドイツ本国から 切り離し、そのせいで極めて不安定な状態にあった。 第一次世界大戦前ではドイツ領であったダンツィヒ地方は、ドイツの敗戦によって 国際連盟管理下に置かれていたものの歴史的に見ても明らかにドイツの領土であり、 また住民の96%はドイツ人であった。 それに対しヒトラードイツの要求は、ポーランド側がダンツィヒを返還し 東プロイセンとドイツ本国とを結ぶ鉄道と自動車道路を ポーランド回廊に建設することを認めてくれれば、ドイツ側は ポーランド回廊とポーランドの西部国境を保障するという、 非常に寛容なものであった。 これは、ドイツにとって屈辱的だったヴェルサイユ条約による ポーランド領をほぼ承認するという、ポーランド側には極めて 有利な条件であった。 もともと選挙の結果、ダンチヒ市は1937年1月の「ダンチヒ市ーポーランド協約」によって実質的なドイツ支配が確立していたにもかかわらず ポーランドが、その特権を離そうとしなかった。
676 :
世界@名無史さん :2010/01/01(金) 19:46:25 0
,,,;;;;;;;;彡彡;;之 ヽ ,,,,,,,,,,,,,;;;;;ll;;;;;;;;;;;;;;| l;;;;;;;リ)リ;;;;;;|l;;;;(ミ彡/、 Z l|ヽ= 从;;l |l|;;ll;;;;;l|;;;;;l;;;イl;;;;;;;;;;;;;| l|;;;;;;-〈、|;;;;;;;;;;;;;;,,三∠ノ フ な 地 き ポ ヽミ三从;;从|;(;;;;|l;;;;l|;;;((;;;;;(ヽ乂;;;;;;/ノ人、从;;;;;;;;ヽ ∠ | ま 獄 さ ー ミ二ミミ从 ; ;;;;;;゙;;;;゙;;;;;L{{ミ|Y;;";;;;;rテ'';''i゙''ミ゙ イ;;;;{ミヽ∠ノ ぬ す ま ラ ゙ヽ乏゙゙从゙ ;;ヽ、、_;;;;;;;;;;;;;{≧Y;ノノ=-゙'''"´彡 ';;;;;;ヾ,,', ヽ る ら ら ン <彡l|;;;;;;;l、;}:/;r't;;;)>| 彡 ̄""´ |;;;;;;〈 |.| } い. に ド ノノイ;;;;;;之"゙"''"´ |、 _,,、::::: |;;;;;ノノリ;∠ // は イ彡l|;;;;ヽ ゙:::::::: j _,、 -)゙ヽ::... |;;/- /;;/ミヽ ・・ l|//l|;;;l~、'、 :::: ゙''::ヽ,/ |(,,ノ;;;ヽ〉ミ/ リノイ;ヽヽ'、 `゙'、l__,,、、、,,_,, / l||;;;;;;;;|∠_ "´ノ|;;;;`'-;', (t -'''ヘヘ)}} リ リ;;;;;;;/从ミ | / ̄\/\/ ̄\ |/l|;;;;;;;;ヽ レ- '''""´ /:::" {;;;从;;;;;;;;)" l|l||;;l|;;;;;;;;'、 ,,、;;''";; ̄:: ,/:::::" ヽl|リ;;;r''、リ ヽl |;;;;;;;;;\ " `゙ /::::::" レ',、-ー゙''""゙''ー、 ,,、- '' //|;;;;;;;', \ 〈 / ::::::: ,、 '´ ゙'> ''" (从l|;;', ヽ, ヽ:::ノ/ :::::: ,、 '´ ,、 '´ `゙゙゙''', ゙'' ー '''" ::::/ /
677 :
世界@名無史さん :2010/01/07(木) 20:05:22 0
捜査のプロが分析 ,;-==≡==-、 元 シ ミ, 警 シ ,i~⌒''~''"''-⌒、;`、 視 シ / '、ミi 庁 シシシ ,; ミミ 田 ..捜 シ l, / '"""'''、l ,.==-、|ミミ 宮 ..査 || ,|/ ----、 ,___、 |/ 榮 ..一 `6 `"--'/ 、___ノ. | 一 ..課 | /l、__)、 ノ 犯人は 「20歳から60歳のポーランド人」 長 'l、 ',__,、,、 \/ 氏 ノ|\Y 'l、 ̄^" ̄_ノ /.l \\ 、__/ \ _/ .ヽ、 ヽi/ ̄\ / |. \
678 :
世界@名無史さん :2010/01/09(土) 12:19:45 0
/ ` 、 / ノノ ヽ , ニニ彡'⌒ /`ヽ これまでの 全てに だっちゅーの ' ニミ ニニ彡 〈rう├−-ミ { { ニミ } j j jノx'ィイく }し{\ `丶、___/ニニニ j_ニニミV ハレノ x<⌒ヽ V ヘ \ \ニニニニニニニ {xミミー'ヾ(、ル( 厶tァァく⌒ヾ} )ハ::::::. \ニニニニニニ 彡ィ'">tァ} \(`ニ彡 ノ` /ト=く ::::::i \ニニニニニニ ( V^`こ7 _, \``ヾヽ` ノ|`ヽ ヽ l:::::| \ニニニニニ ∧ { ' ` ノ^ヽ { ノ !:::::| ___ノ^ヽニニニニニニ /.::::\ゝヽ. _ノヽ``ヽ, -――- 、 /:::::/ /  ̄`ヽニニニニニ /.::::::::::::::::>'"ノルハヽ`/ -―- 、⌒V::::::/.// j___ノ、 ヽニニニニニ /ニニ、`ヽ`ヾヘ{ {、ムイ 、_( > \/ (__ ノニニニ \ニニニニ ,仁ニニニ\ヽヽヽ ∨ /ニニ>彡>--')__ ノ `ヽニ \ニニニ二 ニニニニニニヽ / {ニニ> ´ `¨¨´ ニ} \>''"´ ニニニニニニニニ/ ∨ / }八 ニニニニニニニ./ }ニ{ ノニヽ ノ ニニニニニニニ/ }ニハ /⌒ヽヽヽ ___彡 ニニニニニニニ! ノニニヽ、 / ` ー=彡'ニニニニニ ニニニニニニニ} ⌒`丶、 /⌒ヽ ノ ノ_____ / ̄ ̄ ̄`ヽ/ヽ、 _彡ヘ{ { > 、 / /  ̄ ̄ ̄ ) 、 / ヾ、 ヽ ヽ ( `{ / // ⌒ヽ / 〃 トミ ___ >--‐=、 ヽ _ノ { / // /
679 :
世界@名無史さん :2010/01/11(月) 13:49:48 0
ついにポーランドの残虐行為をあからさまに著した本が出ました!! 『アウシュビィッツ後の反ユダヤ主義―ポーランドにおける虐殺事件を糾明する 』ヤン・T・グロス著 白水社 同書は1946年ポーランド人により残忍なユダヤ人虐殺が行われたキェルツェ・ポ グロムを豊富な資料により明らかにされており その上、ポーランド人により虐殺された嬰児とその母親、頭を潰され裸体にされ た女性、10人程の虐殺遺体の“写真”も掲載されています(勿論全てキェルツェ ポグロムの犠牲者です)☆ご一読ください 著者のグロス氏はユダヤ系ポーランド人で戦後アメリカに亡命し、“イェドバブ ネ村”のユダヤ人虐殺がポーランド人により行われたことを告発した『隣人たち 』の著者でもあります まだこちらは和訳されていませんが、『隣人たち』はロサンジェルス・タイムス 最優秀図書選定、全米図書賞受賞、全米批評家協会賞最終候補作品でもあります アメリカにおいてはポーランド人によるユダヤ人虐殺が行われたことは広く認知 された既成事実であることを示しています
680 :
世界@名無史さん :2010/01/15(金) 20:44:29 0
_人 _,,.. - ''''"" ̄`"'''7:::∠__ ) ,. '" !ヘ/:::/、 ___ _l⌒l_ / ハ, __i i:::::>! ', (__ ) (_ _)l⌒l / /'! ハ /!二_ハ i´ | ハ _/ / / / | | ___ | / ,.ィ‐-V レ゛´!´.ハ`ヽイ / ! ! (__ ) __ (_/ l⌒l `ー' / ヽ i i イ「ハ !__,リ ノ | /| | / /(___) | l_ │ .○ /ヽ | /.| | ! !ソ  ̄ 〃 レ' | | │ │_ ( ○ _) 丶_/ / / レソ〃 ,-=ニニ'ヽ. 7 ,' | 丶__) `─' `ー' |7! i ! u / /! | _l⌒l__ /⌒ヽ /⌒/ .'ゝ、_ヽ、 _ノ / / / i ,' (_ \\ | /⌒ヽ_/ / ̄レヘ/,./^i,.-,r イ´レヘ/ヽ、ハノ / / ̄ヽ | `ー'(_/\ / r| ! ! レ^i/  ̄'7ー-、 (_/ / / `ー' ハ /ヘ__/// ヽ, `ー' ,. '⌒ヽ,r‐''"´ ̄ト、::::::/ !
681 :
世界@名無史さん :2010/01/16(土) 23:28:54 0
リトアニアにとって、もっとも長く強大だった侵略者はポーランドだった。 ルブリン合同によって、リトアニアは長くポーランドに隷従を強いられる羽目になりましたし。 ポーランド=リトアニア連合の復活を呼びかける運動の中心が、ポーランド側なのが何とも言えません。
682 :
世界@名無史さん :2010/01/20(水) 23:29:16 0
ochichau
683 :
世界@名無史さん :2010/01/21(木) 20:32:53 0
ほんとに 悪い奴だな。
>>679 ポーランドの歴史は関係あるからスレの趣旨と関係ある話ならいいんだが、
そういうスレチな話はやめてくれ。しかも複数回書き込んでるし。
ポーランドの黒歴史全般について語りたいなら専用スレ立てた方が良くね?
個人的には関心のある事柄なんだけどねポーランドの黒歴史も。
685 :
世界@名無史さん :2010/01/24(日) 21:26:01 0
ー--、 ー--、| -┼ . .─┼― o ─ ─ │ ``.  ̄ ̄フ | |. `` , , | | , | 、. -── .──┐ │ ├─ /. | | ヽ__. ヽ__.し αヽ / | \ _/. __/ │ /\. |_/ ヽ_/ や. -┼-. | | -┼- ┼-┼- / . . ,-┼/-、 し .| -┼- | J. / ,-, .ヽ__レ ノ ノ. αヽ. ヽ___ ι' し'
>>685 つっても、プロイセン王の片足はポーランドに硬く突き刺さっているわけで。
たくさんのポーランド系の人々がプロイセン王国の中で活躍したんだよな。
687 :
世界@名無史さん :2010/01/27(水) 00:17:30 0
“誰が”最初に古プロイセン人を攻撃したのか 原バルト系の古プロイセン人を攻撃し、領土を獲得したと一方的にドイツ騎士修道会のせいにされ汚名をきされているが・・・ 実は古プロイセン人を最初に攻撃したのはそもそもポーランドなのである ドイツ騎士修道会が教皇グレゴリウス9世の勅令により、ラントマスター、ヘルマン・バルクをプロイセンのフォーゲルザンクに派遣したのが“1230年”である 以降、《》内は“ポーランド”の「クラクフ年代記」より(“ネオナチ”の文書でない) 1115年 《ボレスワフ3世(クシヴォウスティ)、プロイセンを掠奪す》 その後もボレスワフ3世はプロイセンへの攻撃をくり返した 《プロイセン人は説教によって異教から改宗させることも、またその悪しき性格の故に剣によって屈服せしめることも難しい輩》 しかしポーランド人は改宗した古プロイセン人に対し重い賦役を課し、隷属化した それを見た古プロイセン人は“改宗”が直ちにポーランド人の奴隷になってしまうことを見抜き、強く抵抗 プロイセン司教クリスチアンは1218、1221〜23年にポーランドで十字軍を編成し攻撃させたが、反撃されポーランド領内へ逆侵攻され略奪される事態になった これを見ていたマゾフシェ公コンラートはドイツ騎士修道会を利用しプロイセン人征服を企みクルム地方の土地を与える条件で誘致した つまりポーランドの悪しき領土欲で自ら出かけ失敗し窮地に立たされたため、ドイツ騎士修道会に肩代わりさせようとしたのである
688 :
世界@名無史さん :2010/01/30(土) 20:14:48 0
ポーランド サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ ―――――v―――――――――――――――― ,.r―‐----、_ _/ /rィr __ \_ / ,r''"゛'''"''^~ ゛ヽ、= ヽ i 彡' ゛ミ`i !ソj jiiii=、_ _,.=iiiii .)jリ トーrr=====、_r====v'レ、 frレハ'-〜' ,ハ '゛〜:,ノ ト,! ヽ.lN ー‐'r,、 ,),、‐‐' .イ/ トj ト、 " ,___,.` ノ n. ,、 .∧ヽ. "(__ソ` ,ノ 「゛j. ! ! !.l.i゛l ,..:'f' \ヽ丶、_,.ィ ,ハ-、 !. i.! ,l.! l,! l '" l ヾヽ、 .ハ ,-、 ,}. i! ! \`ヽ-'く .l \゛‐' ‐、,.:' j \ ,/
689 :
世界@名無史さん :2010/02/05(金) 21:30:44 0
オーデルナイセ以東のシュレージェン、ポンメルン地方は もともと人口が希薄であったためドイツ人植民者が多数を占め、 シュティティン、ダンチヒ、ケーニヒスベルグとともに ハンザ同盟のドイツ人都市として栄えた。 経済的に多くの特権をもっていたドイツ人に, ポーランド人はなりたがっていた。
だな プロイセン人 一皮むけば ポーランド人
一皮むけば 死ぬ
692 :
世界@名無史さん :2010/02/07(日) 18:59:44 0
「在独」ですか?
694 :
世界@名無史さん :2010/02/11(木) 23:55:27 0
/-、> yヽ、/`ヽ__ / ' / ヽ∧ ヽ`ヽ / / // V` ', \ _./ ./ / / ' ヽ r:..:´: :/ / / ヘ ',ー-、 ',:.:.: :/ / l l | l. ヘ .V:.:. / /\/ / .l l | } l.| 丶 V:/\ / / ,l l l l l{ ,'| | l ', ', / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ ./ /l l | l| l |ハ / | .l l | |. l .| 嫌 ポ .| / /l l | .|`| \ ', /斗-=| :| l l |\| い | | / / | l| | l |.,ィてj`圷V /ォァ:トi、リ .l .| .| で ラ | / / .| l | | l | 辷::ソ V / 弋し:ソ ´j } | | | す ン | / / | l | l | l ハ // ,  ̄// / // /l | | !! ド .| / / l| l| } | l l ハ. // // ./ リ< .は .| / / l| '| j | .l ヽ ,>、 (__) .イ/ / / /ヘ | | / / | ,' l l }、ヽ >、_ --、__ < ./ / /.l / ヽ \_____/ { { / /,--| }:∧',: : : : : : : : : :>/./ / l/|. \ j /.| l | / / | /ヽ.ヾ: : : :<: : : : /: :{ { X | \ / ./ | l | ./ /,' |/ ヽ \: : : : : ∧: : : | | l | ヽ / / l| ヽ|/ / { / ',: :}}弋ー´ ヽ: : | .ト、 l.| ',ヽ/' \リ /l // .ヽ ノ i:| }: : :\ >| |l:.',` l.ト、 ヘ/\ `丶、 / ヽ /,' .\ ィ 「 ̄y /: : : : : ヽ |: : リ }:.ヽ } ', ヘ \ \
696 :
世界@名無史さん :2010/02/15(月) 23:48:33 0
,.ィ ,.ィ , /l/ レ' l/.レ1 へたくそ…… そういう時は /l' ′ lィ 俺も前からいいと思ってた……とか . ,' ,.、 ,.、 イ I NEED POLAND とかいって │ / u`ー''´ ヽ | つなぎとめておくの . Vニ'_┐ ┌_''ニ-ヘ | │==。> ゙=。= :|∩ ! いいんだよ |. ニ!: v ニニ l.|f}│ どんなたわごとぬかしても . | r‐し -丶‐-、 |レ' ト、 POLANDってのは _,l.l ⊂ニニニ⊃ l ト、 j:L!¨T:iー- いよいよどんづまった時 -‐ i:T¨: :,ヘ _ , ,ー, , , _ノ V|::H: :|::| : : 最後のシノギになるんだ ニニ|::|ニ:/」::L:| ̄ ̄ ̄ ./l_」::l_」ニ|::|ニ 転がり込めば : : :|::|: :l-|::|‐| \ / .|ー|::|‐|: :|::|: : 最悪 喰って併合する :ニ|::|ニ| :|::| :| X. | : |::l: :|ニ|::|ニ くらいのことはできる
697 :
世界@名無史さん :2010/02/19(金) 22:06:19 0
./ ;ヽ l _,,,,,,,,_,;;;;i <いいぞ ベイべー! l l''|~___;;、_y__ lミ;l 逃げる奴はFranzosen Kopfだ!! ゙l;| | `'",;_,i`'"|;i | 逃げない奴はよく訓練されたFranzosen Kopfだ!! ,r''i ヽ, '~rーj`c=/ ,/ ヽ ヽ`ー"/:: `ヽ / ゙ヽ  ̄、::::: ゙l, ホント 戦場は地獄だぜ! フゥハハハーハァー |;/"⌒ヽ, \ ヽ: _l_ ri ri l l ヽr‐─ヽ_|_⊂////;`ゞ--―─-r| | / | ゙l゙l, l,|`゙゙゙''―ll___l,,l,|,iノ二二二二│`""""""""""""|二;;二二;;二二二i≡二三三l | ヽ ヽ _|_ _ "l ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |二;;二二;;二=''''''''''' ̄ノ /"ヽ 'j_/ヽヽ, ̄ ,,,/"''''''''''''⊃r‐l'二二二T ̄ ̄ ̄ [i゙''''''''''''''''"゙゙゙ ̄`" / ヽ ー──''''''""(;;) `゙,j" | | |
698 :
世界@名無史さん :2010/02/26(金) 14:27:48 0
ドイツ連邦共和国とポーランド共和国とロシア連邦からプロイセン王国を独立させるか。
>>681 >ポーランド=リトアニア連合の復活を呼びかける運動の中心が、ポーランド側なのが何とも言えません。
19世紀までは運動の中心はポーランドとリトアニアの両方だったんだが。
その後リトアニアがリトアニア語運動をやったためにポーランド化したリトアニア貴族たちが
みんなポーランドへ移ったり、ポーランド人として欧米の他国に移住してしまった。
だから物理的にポーランドの連合復活の中心が残っただけなんだが。
>>687 古プロイセン人が最初にポーランドを攻撃したんだよ。
マゾフシェ公国は穀倉地帯でプロイセンは痩せた土地なので、
プロイセンで不作だと古プロイセン人がマゾフシェ公国に略奪に来た。
マゾフシェ公コンラート・ピャストはこれに困っていた。
布教はそれよりも200年ぐらい前に聖アダルベルトが布教に行って
現地の古プロイセン人に殺されているが、
ポーランド王が古プロイセン人と交渉してその遺骸を金銭で買い戻している。
>>698 >プロイセン王国
カリーニングラード共和国。
702 :
世界@名無史さん :2010/02/28(日) 20:51:27 0
703 :
世界@名無史さん :2010/03/04(木) 21:39:54 0
__ _ ,. -−-、/´ .:.:.:.:.:.`>‐- 、 __人_ノ/ /.:.:.:.:.:_. -‐ .:.:.:.:.:.:.: ̄.:.:.:.:.:.:\ _ 〈 /.:.:..:.:./ .:. .:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.´.:.:.:.`ヽ. ヽ、_ l ..:.:.::/.:.:.:/ . . .;l. . . . . . . . .:.:.:\:.:.:.:.:.:.:.:.: l / │.:.:./.:.::/.:.:.:、/.:.:/ |.:.:.:ト、.:.::.:.:.:.:.:.:.、.:ヽ.:...:.:.:.:│ ( l .:.l.:.:,イ.:.:.:.:.l\,′|.:.:.:| ヽ.:.:.:ヽ_,.:.:.l.:.:l:.:.: : . | > 〉.:.:レ.:.:|:.:.:.:/!'´,.ゝ、ヽーl-;=<.:.l.:.:.:.l.:.:|.:.:.:.、 ノ / / :,:.:.:';.:.:ヽ:イ_{ lノ| ヽj /ハ Vヘ.:.:j.:./.:.:.:.:.:.:ヘ ヽ l.:.:.:l:.:.:∧:八:l 丶.り !り ノ、∨Vi::.:.:.;.:.:.i.:.| / ̄ l.:.:∧.:.l::.:l::.::.:l. ' ' ' ´, ,u r__,ノ:::i:.:;.'.:l:. l:.:| ∨ \ヽl::.::ノ'\ 「' ̄ ヽ 人:::、::.::l/::.::i::;ハノ ちょ、何よ?! ソ-−- 、lヽヽ_ノ_, ' ∨ヽハ:.::.:l/ / ヽ. ` ̄´/ `/7^ヽく l ト、 ヽ、._ r〈. l / / ,〉__ | l、` l::i. `V{.ノノ ⌒丶、ヽ l ヽ、 l:ヽ、_ノ:::ヽ./ /、_,. i ', | ヽ ';::::::::::::::::::/ /⊆ニ(ノl 〉 l ヽ ヽ:::::::::::/ /ヽ、___ノ/ ヽ:::::::'入 ヽ::::/ ∧ ト-- イ
704 :
世界@名無史さん :2010/03/06(土) 12:12:35 0
695 :世界@名無史さん:2010/02/11(木) 23:59:09 0
>>692 在独ってドイツに住んでるってこと?
705 :
世界@名無史さん :2010/03/07(日) 19:54:52 0
在ドイツポーランド居留民団
706 :
世界@名無史さん :2010/03/07(日) 20:26:14 0
707 :
世界@名無史さん :2010/03/10(水) 22:35:26 0
/ :/ / / | / | | │ ,' ! :l l / l | l |. l l | l j | / "丁 ̄ l` | ァ'‐-/」 | l | | | / :l { ! jィ乞テミヘ i /‐/ |`ヽ / ,' l l |i /.| l ーif´Vシ.;ハヾヘ ', /イ乞テミヾ、 /" ハ l ,' |/ | 小. ', l` {::::i!:::} \V { シ;.ハ 久 /!.| |j/ {! | /l ヽ ヘ! ゝ-‐'‐ ',:::i!:::ル〃´ / | | 自白剤を打ちましょうか。 | / |i \ヽ ' `ー/ / j | | | : / j 八 ー= ==-ァ _,.イ__彡'´ /.! j i!. l l. ,' / \ ` ̄´  ̄.ィ' / | / ハ ヽ! l ,/ l \ イ | / . j/ l ̄i! | ,/ .!! j>、__, <i! i i| / | ii| | / |i ノ´ ̄ ̄ ̄ ̄`ヽ_ | i! / | ii| | ,/ _,ィ=ゝ'=- _______ | .N| / | ii|. , .-―‐‐レ< '´  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ `ヽ j / _ | ii|/ / / ‐=三≡=―‐ー ヽ/、 / ,二二つ┐ l〃 ー `ヘ \ー‐-、 / / /T f´ ̄ iレ / V ハ ヽ、 . //.  ̄ヽ j-L__. / ,' V iハ \ / ー<ヽ V´ _ノ ! { i |i !| ヘ
708 :
世界@名無史さん :2010/03/13(土) 15:26:29 0
ー-ニ _ _ヾV, --、丶、 し-、 ニ-‐'' // ヾソ 、 !ヽ `ヽ ヽ _/,.イ / /ミ;j〃゙〉 }U } ハ ヽ、} ..ノ /ハ 〔 ∠ノ乂 {ヽ ヾ丶ヽ ヽ ノノ .>、_\ { j∠=, }、 l \ヽヽ ', _ノ ー-=ニ二ニ=一`'´__,.イ<::ヽリ j `、 ) \ むしろ味わうのはこれからだと {¨丶、___,. イ |{. |::::ヽ( { 〈 ( 〉 '| | 小, |:::::::|:::l\i ', l く 断言させていただこう!! _| | `ヾ:フ |::::::::|:::| } } | ) 、| | ∠ニニ} |:::::::::|/ / / / /-‐-、 トl、 l {⌒ヽr{ |:::::::::|,/// \/⌒\/⌒丶/´ ̄` ::\丶、 ヾ二ソ |:::::::/∠-''´ /\\.丶、 `''''''′!:::::::レ〈 〉:: ̄::`'ァ--‐''゙:::::::/::::ヽ \;/:::::::::::::/::/:::::::::::://:::::〉
709 :
世界@名無史さん :2010/03/17(水) 21:54:22 0
710 :
世界@名無史さん :2010/03/20(土) 20:43:54 0
ラインラントもプロイセンの領土だったよな。 西部地方の話題はないのか?
711 :
世界@名無史さん :2010/03/31(水) 21:48:23 0
ねえよ。
712 :
世界@名無史さん :2010/04/03(土) 20:23:07 0
/ . . : : : . . . . ミ .、 / ⊂ 、 / . . . . . . . . : : : : : : : . . . ヽ ′ 過 返 ち / . :/ . . . : : : : : : .\ : : : . . ハ っ i .ぎ 事 ょ /「 V . . . : : : : : : : : . .ヽ: : : : . : .'. っ| て が : ′V. . . : : . . . : :| . . |:ハ : : . : .i | : ナ : i :/ . : . :} . : : . }! . .厂ト: : {: . :|_ /⌒ : チ や |/ . : : :}. : :/ . :/ : : .ハ .′ }ミニヽ : .、|{_人_ ノ ! ! ス ば / , . :/ ;|: :/| : / : /:/ }/ u ノ `≧小: . { { っ . /:/i: :/l7T7^ト:/i: /}:廴ム -- 、 `フト}:ヽ'、 .人 ノイ :|/{ :{rャ:ミ|/ |// ノ≦ニ ミ /⌒}:ハ:ヽ ` ー . __ ノ / ノ{ |:小 ヒ::ツ ` ´ヒ:ツ ノ′ r ,}/ : :.ト: :'. _ 厶彡'}.:N:从 ////////// ,_‘ノ:.イ: ′ヽ:\ |/ 人小.:∧ ' u .仏/:/ノ:/ ` ー一 { /イノ'ノィ个 ノ⌒つ-‐, .イ{/:/i:.{':人{ /´  ̄´ `/ /⌒i ̄ ..<} |:{イ/V′ 丶 .′ il { ' ノ⌒爪 _ノ 从|{ト{ 、 } { | ´ ̄ Yァ 、 /八li ハ ‐七_ / ∨| 瓜ノ i \ノ _rュ、′ ヽ (_乂 ) ∧ }人 j、 } ノ } },./ rー-ヽ. i 十ナ / } 、 / 人ヽ { / '/‘ィ, ---〈 | 廴ノ つ ′ !/⌒`>' /´ ', V i / ,イ (,r―‐y {、 i /} ,. -/ / ∧ V/ ,八 ´ しf´ ノ ハ }/ /./ / ∧ ' / 廴 _ .イ ji ∧ 〈_イ レ' 人 ノY ∧ ∨ ノ ∧
713 :
世界@名無史さん :2010/04/09(金) 23:03:16 0
>>700 聖アダルベルトに関しては自業自得じゃね。
先住民が崇拝してた精霊が宿るとか言われている木を勝手に斬ったんだろ?布教のために。
日本で言えばキリスト教の布教のために神社のご神木切るようなもんだからな。
他の宗教を尊重せず、タブーになることを行ったんじゃそりゃ怒るよ。
まあ当時のキリスト教徒はそう考えないだろうけど。
715 :
世界@名無史さん :2010/04/11(日) 20:40:01 0
>>710 エルザス、ロートリンゲンもプロイセンのもの。
716 :
世界@名無史さん :2010/04/16(金) 23:21:07 0
す / // ,. - ―- 、 〔/ / _/ ヽ ば / / ,.フ^''''ー- j / ,ィ / \ ら 7_// / _/^ 、`、 / / / _ 、,.;j ヽ| し ./. | -'''" =-{_ヽ{ . / ,-、 | ,r' / ̄''''‐-..,フ! い { / ハ `l/ i' i _ `ヽ  ̄フ.rソ i' l r' ,..二''ァ ,ノ ぃ / { ' ノ l /''"´ 〈/ / > >-' ;: | ! i { ぃ \ l l ;. l | | ! .トー-. !. ; |. | ,. -、,...、| :l ! |\/ l ; l i i | l iヾ l l ;: l | { j { { |. ゝ ;:i' `''''ー‐-' } l | ::. \ ヽ、__ ノ l | ::. `ー-`ニ''ブ
717 :
世界@名無史さん :2010/04/22(木) 22:36:06 0
ナンデ自分のAA張り回って意味不明な書き込み一年365日やってんの? この小卒・底辺学歴・高齢爺の萌えアニメ豚・廃人引篭もりニートのキモオタ池沼は 意味不明な語句とともに 自分のAAを張り回ってるのって、どう見てもオマエだよね? 頭大丈夫ですか?頭に蛆虫湧いてるんですか?精神病院行ったら? ゴミみたいなグロAAを発表するのはいいけど、そこら中に貼ったらただの荒らしだよ?w 今すぐ死ね 荒らしに成り下がったゴミは今すぐ死ね
>>717 そいつ何年も前から粘着しているような奴だから言っても無駄。
あとAAは全部流用でオリジナルの発表なんか何もない。
719 :
世界@名無史さん :2010/04/25(日) 20:31:59 0
/ ^ `ヽ / 丶 / / /ノ \\\ ヽ | ノ / ー \\ヾ ‖ | / (● (● |l | || | ~" ゝ~"‖ . ノ リ八 ー ./ソ AAサロンにやって来ました! | \_ / ´ ノ\;;;;;;;;;∀;ヽ |_ \;JT;;;;;|ア . | |\ |; 5;/||
720 :
世界@名無史さん :2010/05/01(土) 14:59:35 0
──┐ __  ̄ ̄フ | / │ 丶 / ..| / l___ \ノ ノ / \ |/ ,,、 ,i''-、 _ _ ,iー、 l´~| / ./ .く.゙''.\.ヽ i''ー、 ./ .l / .l ! ,! .| | / ―-----ー.\ノ゛ l l ./ .., l, / ,、 l, ! l ./'''''''''''''''" ゙゙゙゙゙゙゙___! ./ . ,i------ィ ./ ,, ..、 / / / / ゙L l / ./ l .l .l .l .゙'''''''^^゙゙゙´! l ̄´ / / .,,、 / l !、、 `'ー" ./ / / l l / ./ .l .l. .l .| ! | .(゛ ,./ . く、`'ー、ノ / ゙'''i ゝ、 ./ !――′ .l ./ . ゙‐'―‐′ l. | .! ___. l .| ` `'-、 '!、, / .,.へ、, ゙> ./ i''''''''''''''''''、 . l ./ ,i'''''''''''''''''ッ .l | .| ./゙_......,,,、 .ゝ ,,, / .,- 、 / / / .`'′ ../ / l .l. ../ / .l l │ .! | l゙ ! r‐、, `''、 ,..‐´ ./ ,, ‐´ . / .―" .ゝ‐!┴‐′ .ゝ‐′ .|,,..〉 .\,`''''". / `'''′ .ir'" . / ゙'--'゛  ̄゛ `''"
>>698 プロイセンが作った国からプロイセンを独立させてどうすんだ
722 :
世界@名無史さん :2010/05/02(日) 20:34:03 0
新プロイセンの公用語は ドイツ語とロシア語とポーランド語。 首都はダンチヒ。
723 :
世界@名無史さん :2010/05/04(火) 21:36:32 0
現在の帰属がどうであれ、どこからどう見てもエルザス・ロートリンゲンは 文化的にも言語的にも民族的にも本来ドイツの領域です。 もちろん地元のエルザス方言も言語自体からして、フランス語とは本来まったく 赤の他人同士の言語です。 エルザス・ロートリンゲンはゲルマン民族の土地です。
724 :
世界@名無史さん :2010/05/07(金) 23:01:39 0
__ノL_/L__ / ___ _ (__/ / > `'′  ̄\ ・ |_ヽヽ / ノ ,ィ,ルl ヽ ・ 二|-‐ / < /l/ u |ハ、 ヽ ・ | 〈 レ =、\ _メヽ!ヽ!、 | ・ ー―┐ヽヽ \ |ヽ 。>_ /。 ノ | ,へ | ・ / / | u/ ~U~ ┌ ||ビ|| | ・ / / |/__,ヽ__u |!_ン |\ ・ ー―┐ 〈 |『┴┴┴┴')) |\ | ト、 ・ ├'′ \. ヾ========'/ V | ,> 、 ・ ノ / ,>--― "u | |//′ `ヽ、 ・ │ \. /‐/ |\_____/|_ |′ ・ │ > 〈 / /| | \| / ・ │ / | l| | | | | / ・ ヽヽ l 〈 ト、 ||__|____|__| | ・ / \ ヒヘ | ┌──‐┐ | ┃ ー―┐〇 > |__ヽ | l二二二. | Franzosen Kopf ┃ / / ヽ └――┐| | ・ / / /ヽ ┌─―┘| |
725 :
世界@名無史さん :2010/05/17(月) 21:02:48 0
, ‐ ''"`'´ ̄` ヽ、 . / 〃 _,,,_ ゙ ",,,_. ヾ \ / :;; "´ `'´ \;;:::: ヽ ┃ ┃ i ::;;i ゝ;;::: ! ┃ ┃ ! :::;;| ‐''ー-、 -‐ ''- !;;:: ! ┃ ┃ . ! ::;;| 、イアュ rイア,. !;;:: ! . i! :;;! ´ i. ` .|;;::: ! ━┓ . !ヽ;;{. ,,__`ー'´__、 };;::: ! ┃┛ 〉 `ゝ、. `‐三‐'´ /;;;::: 〈 ノ !:::;;; 个.、 , イヽ、;;;: ! ! ┏━┓ / ::;;/ i  ̄ / | ` '' ー-! 、 ┏┛
726 :
世界@名無史さん :2010/05/26(水) 20:37:32 0
・ 宣伝の範囲は広く、戦う組織は堅固であること。支持者は多く、党員は少なく。 過激派は支持者がいないので、運動量を増やし、目立つ様にしなければ、存在さえ大衆に忘れ去られてしまう。 支持者がいないから異常な行動に走るのである。支持を失う事を恐れないからである。 自分勝手な個人も同様の心理で他人に迷惑をかける。 ・ 英雄に成功条件の保証はいらない。運命から成功の保証を要求する者は、自ら英雄的行為の意義を断念している。 成功して当たり前だと思われるからである。弱が強を倒すという意外性が重要なのだ。 誰もが絶対勝てるだろうと思っている戦いから、英雄は生まれない。
727 :
世界@名無史さん :2010/05/28(金) 20:30:08 0
\::::!:::// ̄v::/ |:::::::::::::::イ:::::::/:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ \ ト、!´ ヽ! !::::::::::::,' |:::::::|::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::r- 、:::::ヽ |::::! _->⌒ヽ V:::::::::L_!::::::|:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::! `゙ヾY _ ヽ:|`マ r‐ォ ,.X:::::::!⌒ヽ:!:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::,' 冫' ) 〉 しイ `゙ヾ \/:::::::::::::__::::::::::::::::::::::::/ / / /::! ._ ゞイ ,.z‐-、 冫 〉:::::::::>f ヽ::::::::::::::/ / / //,' `>‐' 〃'⌒`ヽr' i:::::://', ∨::::/ / / /::/ ,' |ヽ |:::::! (_ ハ レ′ / / // ! r‐ 、 |::::| _/イ { / ,.― 、/ 〃 '., Y⌒_ラ !:::!___/v ! ', _/′ , \ ナチスが一番よ! i! ヽ `こ , 〉:::|::::Y::::v T´ /⌒ヽ、 } ! __ヽ イ ∧|::::ハ:::/ ヽ / i ` ', / ヽ ___,. -‐< ム/|::/ Y ',-、/ /´ ヽ! / __==ヨ _,. - ' ハ乂 / !_/ / ヽ / /〃 <_|,. -‐ '′ _,. - < ̄| \-/ /- / | .} /// ,. ィ / ', / /-、 /ヽ /
728 :
世界@名無史さん :2010/06/02(水) 21:56:26 0
実はホーエンツォレルン家も確実な家系だけで 11世紀から存在が知られてる結構な名門。 ただハプスブルク家が皇帝位に就いたのが13世紀なのに対して 19世紀まで皇帝になれなかったので遅咲きの王朝なんだよね。
729 :
世界@名無史さん :2010/06/02(水) 22:31:35 0
うん
730 :
世界@名無史さん :2010/06/05(土) 20:02:47 0
>>778 ホーエンツォレルン家並びにハプスブルク家ご両家の
ますますのご発展を心よりお祈り申し上げます。
731 :
世界@名無史さん :2010/06/07(月) 01:36:41 0
第二次大戦前のプロイセン地方の主要都市 ・ケーニヒスベルク 戦災のあと町並みは徹底的に造り変えられかっての面影なし(カリーニングラード) ・ダンツィヒ 戦災のあと比較的忠実に町並みを再建(グダニスク) 第一次大戦後の領土処理でドイツ系が多数に関わらず有力な港湾都市を持たないポーランドの為に 国際連盟管理下の自由都市になった(施政権はポーランド)
732 :
世界@名無史さん :2010/06/07(月) 02:42:42 O
スレチだったら申し訳ないが、ここのスレ民の力を借りたい 質問スレの完全な中国史的流れを切る勇気はなかったorz ドイツのナショナリズムについての英語の論文読んでて、Hardenbergという人物が出てきた シュタインとかメッテルニヒと一緒に並んで出てきたからたぶんゲルマン系の政治家 辞書ひいてもウィキ先生に聞いてもイマイチ不明瞭で… ヒンデンブルクかとも思ったんだけどヒンデンブルクの英語表記はHardenbergなのか…?
733 :
世界@名無史さん :2010/06/07(月) 03:20:10 O
ハルデンベルク
>>732 ヒンデンブルクは普通にHindenburgだと思うけど…
Hardenbergはハルデンベルク(ハーデンベルク)
735 :
世界@名無史さん :2010/06/12(土) 16:06:03 0
ベルリンのツオー駅の下を走ってる通りは Hardenbergハルデンベルク通りと名付けられている。
736 :
世界@名無史さん :2010/06/13(日) 21:25:31 0
732 :世界@名無史さん:2010/06/07(月) 02:42:42 O スレチだったら申し訳ないが、ここのスレ民の力を借りたい 質問スレの完全な中国史的流れを切る勇気はなかったorz ????????????
737 :
世界@名無史さん :2010/06/17(木) 21:39:07 0
.┌、 r┐ r┐ヾ> (_ / ミ !. | ヾ> || lニ コ 〈/`ヽ _ ミ |. ! ノ| | レ! _| |. ,イ,.- 、 |  ̄_ ̄丁 '' ー┬‐- -ミ ヽ二/ .ヽ/(___メ> /,|.l l ! ( ) ! (´ ) ! r‐ ry'〉 ,、 /イ,! `ー' _L =- --┴-ニ二ト、_'ー' lニ', r三) (( |'J」-''_二 =-- ‐一 ー‐t‐-ト、 二__ |_| )) レ'/´ィ 、_________ ヾミ| l _r┐ __ (( V ,、 F≡三r一tァー, | l:.:. .:: └l. レ',.-、ヽ )) |ノ^>、 '^ミ二´ | l:.:.:.:: ノ r' __,! | (( V/イソ .::ヽ、二_ └'!_| (_t_メ.> )) | / ,' _ .:.:.:.::i|,)ノ r-、 (( |.〈、 、 _〉 `丶、 ;:ィil| ノ ,、二.._ )) | 笊yfミミミミヾ、 '!l|il|li!fj' ーァ /. (( ヽ |i''r ''_二二ニミ;ヽ、 ,|l||il|l|,「゚| ん、二フ )) |,l| V´ :::::::::;;/ トi|l|i|i|l|!Ll ,.-─-.、 (( |i! ゞ=-‐''" ,i||i|l|l|l|!|i{ / /l .i^ヽヽ ` |il! ーォii|「、 ,,.,.ィi||l|i|l|l|i|l|シ' . | .レ' / l.| ヽ二ニ,ヽ ,/i|l||livil|||l|i|l|l|lil|l|i|l|i|i|i|l|l|l|{' . ヽ/ ノノ <ノ {l|!|l|i|l|i|l|i|||i|i|l|i|i|i|i|l|l|!|l|l!r' r┐,.─-、 / 7 ヾ!||i|i||i|i|l||l||i|i|l|l|l|l||l|l!イ ||し'^) ,! ┌‐' 'ー┐ト、 ``,ヘi|l|i|l|i|l|l|i|r''`''"´ i , |_| l´r' 7 /_7 / 」__〉 (_~`^~"゙'ヾ ノ / , [_] [_] 〈_/ヽ_/ .ト─' ノ / /i
739 :
世界@名無史さん :2010/06/20(日) 14:05:01 0
フリードリッヒ大王の生涯を中心とした、プロイセン(ブランデンブルク、ホーエンツォレルン家)の 歴史をざーっと読める本ないでしょうか? ありそで、見つけられないんすよ。阿部謹也氏の著作でも取り立てたの無いみたいだし。 『物語ドイツの歴史』以上の濃度で、例えが変だけどツヴァイクのフーシェくらいな内容を希望してます。 どうかよろしくです!
>>739 それを纏めて一冊だと難しくね?
分けてで良いなら、フリードリヒ大王については、フリードリヒ大王 啓蒙専制君主のペンと剣、
プロイセン王国なら、、プロイセンの歴史 伝説からの解放があるが。
フリードリヒ大王 啓蒙専制君主のペンと剣はフリードリヒ大王の
食卓のメニューから同性愛疑惑まで扱っててある意味濃い一冊だったw
あとドイツにはプロイセンや大王関係のことを扱った個人サイトが結構あるから
ドイツ語の壁があるがそっちで調べてみるのも良いかもな。
741 :
世界@名無史さん :2010/07/31(土) 17:08:31 0
742 :
世界@名無史さん :
2010/08/16(月) 12:31:03 0 しかし,人としてみるならフリードリヒ大王より,親父のフリードリッヒ・ヴェルヘルム1世の方が 面白いのな。 大王はナポレオンと同じで,本人そのものの魅力はいまいち掴めないが,飛躍した自己矛盾によって か,周りの人間の能力を引き出すので,歴史がとたんに鮮やかになる。 あと,プロイセンが一番分かりやすいから聞きますが, フリードリッヒ,ヴェルヘルムの名前単品,もしくは組合せの君主名の慣わしって何て呼ぶものなの ですか?