>>145 まずイタリア統一運動はだいぶ前から存在した。
そしてウィーン体制ではサルデーニャ以外のイタリア諸邦は、
オーストリアの直接統治下にあるか、ハプスブルク家かブルボン家が統治していた。
外国勢力からの解放とイタリアの統一という目標を達成し得るのは、サルデーニャ王国以外なかった。
最初の戦争はヨーロッパ中が革命・独立運動騒ぎになった1848年。
ローマで蜂起した民衆によって共和国が宣言されるが、
サルデーニャ軍と革命派はフランスとオーストリアの鎮圧軍に敗れて失敗。
そこでサルデーニャのカヴールはクリミア戦争に参戦することで英仏に接近を図り、
ナポレオン三世はオーストリアの力を削ぐためにイタリアに肩入れしようと考えた。
こうしてプロンビエールの密約が結ばれ、1859年に始まった戦争でフランス軍の支援を受けたサルデーニャ軍はオーストリア軍に勝利し、パルマ、モデナ、トスカーナ、教皇領の北部を解放するが、
ナポレオン三世は土壇場で裏切ってオーストリアと休戦。
しかしガリバルディが独自に義勇軍をつくってシチリア・ナポリを解放、おまけにそれらの地域をサルデーニャに献上しちゃった。
ここで一応1861年イタリア王国が成立する。
次に1866年に普墺戦争が起きるとイタリアはプロイセンとの密約により参戦、
陸でも海でも惨敗する・・・が、プロイセンが勝ったのでロンバルディア・ヴェネツィアを回復。
で、教皇領には1848年以来フランス軍が常時駐留していたのだが、
1870年に普仏戦争がおきて教皇領を守備するどころじゃなくなり撤退、
庇護者が居なくなってあっさりと併合された。