華僑の二世とかでベトナム語も喋れないようなのは今更ベトナムに用はないだろうし。
戻るのは英語使えない人とかか。
アメリカみたいな不自由ないとこに住んだら東南アジアなんか戻りたくないだろ。
でも自分の顔が黄猿丸出しで不細工だったら
同じ顔の人がいるとこに帰りたくなるかもしれないw
東南アジア系なんて白人社会のアメリカでは二流市民じゃないの。
ベトナムに戻れば金持ちで事業も始められるけど。
今帰国した越僑がハノイやサイゴンの土地買い漁ってる。
企業進出でビルが建つから土地代あがるの見込んでる。
>>687 韓国の北擦り寄りとかいうけど
台湾国民党の最近の中共への擦り寄りも相当だよ。
幹部が年取って望郷にかられてるのか。
台湾国民党 ×
中華民国国民党 ○
パンダ贈呈騒動で台湾大騒ぎしとったけど結局パンダは台湾行ったのか?
>>694 かつて国民党の本拠だった重慶もサッカー大会では五星紅旗が乱舞してた
時代がたつと変わるもんだねえ
南爆、自由砲爆地帯の実態については
平定計画担当員・国務省・国防省・ランド研究所の職員によって書かれた「ベトナム戦争報告」筑摩書房 が詳しい。
以下ほんの一部だが
ベトコンが初めて都市に突入したテト攻勢の時に、それまで人口密集地帯には攻撃ヘリコプターを出勤させたり
砲撃を浴びせたりするのを控えていたアメリカ軍も、一切の制限を取り払ってしまった。
数ヶ月間ほとんどベトナム全土が無差別爆撃地帯になってしまった。
無差別爆撃地帯は前に比べてずっと広範囲になった。
1968年春の終わり頃からベトナムの農村地帯に新たに投入された
ヘリコプターのパイロットや砲兵達は、テト攻勢の時に追いつめられて
やむを得ずとった作戦行動をごく当たり前の事のように感じるようになった。
1968年以来ベトナムの住民は1966年や1967年と比べ物にならないほど
激しい砲爆撃にさらされている。都市へ避難するものがふえ、
また戦闘の回数は減っているにもかかわらず、住民の死傷者数は
1968年になってかえって増えてきた。
ベトコンの捕虜を尋問してみて分かる事は、彼らがテト攻勢をかけた時の
最大の誤算は、きわめて多数の死傷者を出す事を予測できなかった事である。
アメリカ軍が人口密集地帯をこのように無差別に爆撃しようとは
考えてもみなかったのである。ベトコンは密集した人口が彼らの盾となり彼らを守るだろうと考えていたが
そうはいかなかった。
p214
アメリカ式戦争方法はいまや無数のミライ事件と同じような状況を
衝撃的な例外の場合としてではなく、日常茶飯事として引き起こす
砲撃と爆撃の無差別使用に依存している。
p229
リーズ平原は無差別爆撃地帯でそこにいる者は見つけ次第すべて殺して
よい事になっていた。その地域には約2000人の漁民が住んでいて、
我々の攻撃中にも漁を続けていた…この狩猟ゲームは毎日のように
ベトナムのどこかの省で行われている。
インドシナ戦争の戦略爆撃と自由砲爆地帯の記述については
章まるまるさいているので上記のような記述はごく一部。
貴重な記録にもかかわらずすぐ絶版になったのはなんか政治意図でも
あるのかとかんぐらずにおれない。
建前 ひみつじゃー
本音 下手くそな戦争のやり方しかできない米軍を隠蔽
最新兵器をじゃぶじゃぶ注いで、歩兵も大量に流し込んで、
最後は東南アジア方面の権益や勢力圏を全部失うんじゃな。
某方面もそんな理由かもな。
昔、総指揮官は米将官 前線指揮官はドイツ将校 兵は日本兵で
編成された軍隊は世界一とか話があったが
いまやもう、割り引いて考えた方がいいな。
ベトナム戦争
将官 政治介入の為、純軍事的自由行動の指揮ができず
前線指揮官 何時も二つも矛盾した命令が届いて困惑、これは最終段階でもあった。
確か、1974年か73年の時、某米師団長に達せられた命令文が二通あった。
内容は相反しており、確認の為、行動が遅れた。
一説によると、この師団の行動があれば、
現在も南ベトナムは存在していたかも知れないつう話(真偽不明)
兵達 戦争をさせろ。 戦争の前に生きる戦いをさせるな、ちゃんと補給を。
テト攻勢にしてもサイゴンのチョロン地区やフエ市やら
猛爆して都市を奪回したのが本当のところ。
地方都市はいうにおよばず。
フエに都城内にナパーム投下。
今のファルージャみたいなもん。
都市を奪回しても、もっと重要なものを失ったことに気づかないのがアメリカ人らしい
706 :
世界@名無史さん:2007/03/09(金) 22:07:42 0
もともと農村部には爆撃かけていた。
しかしテト攻勢は34の省都すべてと64の地方都市と自治都市すべてから敵を追っ払わなければ
ならなかった。規模が違う。
爆撃されなかったのはサイゴン(ショロンのぞく)とダナンとかの大都市くらいでは。
デルタ諸省は省都レベルでも猛爆だから。
>>705 空爆が日本とドイツであまりに効果的だったから
ほめられたもんじゃないけど現実的な方法、と考えてたのでは。
短期でケリつけて後で懐柔すればいい、みたいな。
日本やドイツは上手くいったけど
ベトナムやイラクではそういうやり方は上手くいってない。
WWUの勝ち方は標準じゃなく例外だった、という事。
ベトナムで空爆が批判されたおかげで湾岸戦争で
カメラつきの精度のあがったミサイルなんかが発明された。
しかし、一方ではクラスターはまだ使われてるし
デイジーカッターやら小型核兵器並の爆弾やらも開発されてるが。
新しい戦闘機などの開発には際限なく金がかかるから
作ったもんは消費させねばならない。
戦闘機は一機150億くらいする。
ツバルとか小国の国家予算よりはるかに高い。
ベトナム戦当時でもナパームひとつで小学校のグラウンドひとつが
一瞬に炎につつまれるくらい威力があったらしいが
今の新型爆弾はドーム五つ分くらい一気に炎にしてしまうらしいな。
まさに小型核兵器なみ。
ブッシュ政権は小型核制限撤廃派なんじゃなかったけ。
小型核使わなくとも似たような小型核なみの新型爆弾開発すれば
いいんだからよくわからん。
アフガンでは新型爆弾が実戦に使われてる。
新型爆弾にしろ戦闘機にしろ開発するのに試験場は必要だ
ナパーム弾って焼夷弾の事だよね。
大戦時からあったと思うけど、まあ威力はベトナムん時にはもっと大きかったと思うけど。
東京は木の家屋が多かったから焼夷弾で大変な事になったが
ベトナムの都市はレンガ造りが多いから東京ほどではなかったんじゃないかな。
しかし農村ではやっぱ土壁とか竹や木使ってるからわかんないけど。
土壁は燃えにくいと思うけど爆風には弱いだろうし。
竹も水分含んでるから普通の火では燃えにくそうだけど、ナパームの中に置いたら
どうなるかは、わからん。
ナパームはガソリンか油固めたものだったと思う。
まあクラスター弾とかもあるしいろいろ。
兵器の一大プレビュー がベトナムだったと言っても過言ではないな。
話変わるが、このスレには、戦略空軍マフィアが居そうな気配がする。
なんでも、空軍力でケリが付くと思っているルメイ一派の残党w
ソビエトのように圧倒的な地上兵力を投入し占領し敵対分子を根こそぎ粛清する
中国のチベットのように民族丸ごと浄化してしまう。
新大陸のアメリカ先住民にしたようにそれぐらいやるのが歴史的には常識だったのかもしれない。
しかし、ベトナム人民の数>>>>>米兵はいかんともしがたい。
頑張っても50万名 そのうち実際に前線に立っている「軍隊」は十数%だから。
725 :
世界@名無史さん:2007/03/10(土) 19:35:26 0
インドシナに投下されたクラスター爆弾による、死者が出なくなるまであと何年かかるだろうね
ナパームというのは広範囲に炎が起きるから
その中は瞬時に酸欠状態に陥るんだよ。
土壁だろうがレンガだろうが大丈夫って事はない。
今のデイジーカッターだと東京ドーム五つ分の面積が一瞬で破壊できるとかなんとか・・
東京空襲は爆撃よりも延焼による被害大と聞いた。
まあベトナム戦争で一番進歩したのは爆弾の種類だろうね・・
黄燐弾やらナパームやらクラスターやらボール爆弾やらいろいろと登場したし。
まあテト攻勢以後ベトコン全滅とか言われるけど
潜在的ベトコン分子はかえって増え続けてた、てのが正解。
ただ空爆作戦の拡大でベトコンはなすすべなく大人しく潜伏してたってとこだろう。
テト攻勢ん時も政府軍は脱走兵多かったらしいけどね
爆弾の爆風で炎あびなくとも内臓破裂で死亡ってのもあったらしい。
732 :
世界@名無史さん:2007/03/11(日) 03:31:42 0
アメリカが10万人戦死しても怯まずに戦いつづけるだけの根性があれば、
明かにベトコンは敗北していた。
>>732 広島や長崎の原爆投下後も、空気がすごく熱くて酸素が少なくて
息するのもやっとな状態だったって。
それだけでも疲弊して朦朧となってしまうそうだ。
生き残った人の話なんで、場所によっちゃ窒息死した人もいるのかも?
延焼で家々が燃えてて煙だらけで二酸化炭素中毒で死んだりとか
>>719 都市といってもレンガ造りばかりじゃないぞ。
スラム街とか貧民街はバラックとか板とかで小屋作ってすんでたから。
またそういうとこがベトコンの格好の隠れ家だった。
ベトナムでも田舎では土壁で木や竹で屋根を葺いたようなのばっかだった。
床はゴザとかそんなん。
便所は家の外ガス水道なし。カマドで飯炊いてたりとか。
都会でも貧民街は似たようなものだった。
当時電気水道引いてる家は少数だよ。
田舎は水道は井戸水