【秦から晋】統率力考察【項羽?韓信?】

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49世界@名無史さん
霍去病(かくきょへい)は、衛子夫の姉の衛小児の子供で、
匈奴と戦うために生まれてきたような人物である。
少年のころから宮中に出仕しており、君寵を受けた。
このため、彼は、叔父の衛青とは逆に、傲慢で思いやりに欠けていた。
自分の食料を兵士に与えるという発想は無く、
強行軍で疲れた兵士に蹴鞠場を作らせて興じていたという。
しかし、頭脳明晰である点と古来の兵法に基づかない点では、叔父の衛青と同じであり、
後者においては、それ以上であった。
あるとき武帝が孫呉の兵法(孫子と呉子の兵法)を示そうとすると、
即座に
「方略の何如なるかを顧みるのみ!
古の兵法を学ぶに至らず。
(顧方略何如耳! 不至学古兵法。)」と言ったという。
50世界@名無史さん:2006/09/24(日) 03:42:07 0
霍去病が、B.C.125年の戦役に従軍したのは、わずか18歳のときであった。
衛青麾下で、騎兵800を率い、本隊よりも数百キロ前方まで進出して、
偵察と掃討を行い、2000名以上を殺害した。
これにより、霍去病は軍功第一とされ、冠軍(軍功第一)侯に封じられた。
18歳にして、天才的戦術で匈奴に衛青以上に恐れられた将軍となった。

B.C.121年、霍去病は驃騎将軍に任じられ、
河西回廊を制圧しシルクロード交易の利を匈奴から奪い返すために、
一万の兵を率い、隴西より出撃した。
51世界@名無史さん:2006/09/24(日) 03:44:50 0
休屠王を襲い、焉支山を経由して、渾邪王を破り、その王子を捕らえ、酒泉にまで至った。
匈奴軍は約8000人の損害を出したが、霍去病率いる漢軍の損害は500にも満たないだった。
しかし、霍去病の進軍が直線的過ぎて、大部分が戦禍を逃れており、
河西回廊における匈奴の勢力はいまだ健在であった。
このため、同年の夏、再び攻勢を発起した。
当初の予定では、公孫敖が河西回廊の正面を突き、
霍去病が武威・居延を経て河西回廊の裏口から攻撃をかけ、
挟撃するということになっていたのだが、
公孫敖が道に迷ってしまったため、この作戦は破綻した。
しかし霍去病は単独による作戦決行を決意した。
休屠王と渾邪王の部族は、酒泉より約15キロのところに集結し、
東側を、漢の攻撃に備えて警戒していたが、西側は無防備で、
霍去病は捕虜・戦死あわせて30000以上の戦果を上げた。
強力な異民族相手にこの戦果は異常とも言える戦果であり、武帝までの時代最高の将軍として
匈奴を震え上がらせた。
単于に出頭を命じられた渾邪王は、敗戦の責任をとらされることを恐れ、
部族ごと漢に投降した。
52世界@名無史さん:2006/09/24(日) 03:48:14 0
霍去病は、土壇場で降伏をためらった8000名に突撃してこれを殺害して、
この降伏を成功させ、領邑7000戸を加増された。
かくして、河西も漢の支配下に加えられたのだった。

なお、この戦役においては、"飛将軍"李広と、かつて西域に派遣された張騫とが、
河東方面に攻勢をかけていたが、合流できず、李広の軍などは半数の損害を受けて敗北した。

当然、この時代李広や張騫を遥かに上回る名声と実力をもった将軍として、
霍去病は君臨することになる。

しかし彼は24歳で逝去。
53世界@名無史さん:2006/09/24(日) 03:55:08 0
霍去病は左賢王の軍を打ち倒しながら猛烈に前進し、最終的にはロシア近くまで至った。
この間に霍去病の上げた戦果は殺害・捕虜・敵軍怪我人合わせて10万以上にも達した。
この遠征の結果、匈奴は大打撃を受けてゴビ砂漠以北に追いやられた。
武帝は、この遠征を最後に対匈奴戦争を打ち切った。

霍去病の一連の18歳から24歳までの軍事活動は、
中国史の騎馬戦術の中ではトップクラスであり、
彼がもう少し長生きしてれば、間違いなく中国史上最高の将軍になっていたことだろう