世界史に記されている超常現象

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523白からす黒ひつじ:2008/11/07(金) 21:05:30 0
運命的疲労というのは、物の破損と関係しているんですよ、、、。

ある意味食生活も関係あります、、、。

つまり、エネルギーを放出する事で、世の中に対し破壊性を放つことなく達成することもあれば、

運命的、生理的な、不足によって、何かを達成するために環境のエネルギーを取り込むかたわら、

エネルギーを失う環境にその損傷の現れが見られる様、、、、。

エネルギー保存則ですね、、、。

疲労を無理して押し通すと言う事は、体験において対等でないエネルギーを吸収し奪う

様を意味する訳ですが、エネルギーを失う周囲の環境にその存在の破綻の表れを見る様、、、。

癲癇発作と言う事は、その自身のエネルギーの不足の消耗部分を外部から得ようとする事無く、

消耗した自身から得ようとして、はまり込む状態のことを言っている、、、。
524、ミジンコ:2008/11/07(金) 21:11:14 0
その運命のものすごいエネルギーが、自身の肉体に向かう訳ですから、

癲癇と言うものは、とんでもない肉体的損傷を追う可能性そのものを示唆している、、。

癲癇の克服の問題は、ある種の精神的鍛錬にのみ克服の可能性を見出せるものと言えるでしょう、、。
525白からす黒ひつじ:2008/11/09(日) 10:35:39 0
間違いなく、癲癇などの病気のレベルから闇の操作の方向付けがあって、それが、ローマや

インディオなどの組織を形作ったり、時とともに優生学などの組織にも変容したりして形をとったりしたのもと思われる、、、。

526白からす黒ひつじ:2008/11/09(日) 10:59:30 0

パラノイア、神経症、ヒステリー、と言う分類、、、。

分裂質、癲癇質、躁鬱質、と言う気質分類、、、。

よく、テンカントヒステリーと言う組み合わせが、引き合いにされるが、

ヒステリーは、心因性のものであり、癲癇は、肉体のものであると言われる、、、。

いずれも発作を伴う、、、。よくみてみると、いずれも体質の異なる肉体的精神的病気である事が

わかってくる、、、。ヒステリーは、共同のレベルで、癲癇は、個人的単独の独立のレベルで、起こりうる

心身の傷害、、、。 ということが、先ずわかる必要がある、、、原始から古代、古代から現代へと

時代ごとに意味が変わってきているんですけど、ヒステリーは、子宮の病気から、ヒポクラテスによって、性的欲求の

屈折した現れの心因性のものとみなされ、その後は、近代に至り能力とみなされ、最後は人体実験を可能とする

自己欺瞞の働きの影響力をもつそんざいそのものであることが、わかりつつある、、。

傍ら、癲癇は、神による病気と大昔は言われていたが、ヒポクラテスによって、肉体的病気と

みなされるようになり、最後は人体実験の材料と成り果て、社会に配置されるに至る、、。
527白からす黒ひつじ:2008/11/15(土) 08:38:58 0
恐らく、癲癇もヒステリーも原始の時代から来たものであると思われるが、

特に文明の形をとる古代遺跡の領域から続いている事が明らかとなっている、、、。

古代においては、癲癇は、神によるものとみなされ、ヒポクラテスによって肉体の病気とみなされるようになった。

傍らヒステリーは、子宮に見られる肉体の病気と見られていたが、ヒポクラテスによって心因性の病気と受け取るような

方向付けを受けた、、。当時は男性には見られなかったはずだが、心因性とみなされるようになった後には、

男性の症例の報告が出てきたらしいと言う見解もある、、。

ヒステリーは、当時はあるとき突然発作が起きその特有のひきつけを起こしひどい場合はそのまま呼吸停止の死に至る。(精神による肉体への堕胎の働き)

癲癇は、発作か続く分、劣化が死に至るまで進行しうる傾向をもつとされていた、、。(ヒオクラテスによって優生学の方向付けが確立される)
                                       (私が、彼を暗殺かと言う根拠はここにある)               
やはり、ヒポクラテスの時代は暗黒時代そのものであり神についての存在等の不可視の領域と

人間の繋がりが肯定され得なかったヤミの意図と方向性を持った思想にならざるを得なかったものと思われる、、。

そして、ヒステリーは事実上、性行為による治療、自己分裂や悪の肯定や隠蔽や共有と言う経過をたどる、、、。

病気以前の運命の根本的な原因については目をそむけたまま、表面的な治療の発展と進行が促されただけだった、、。

そこには、権力と操作の追及の営みが潜んでいた事を明らかとしている、、、。

いずれにせよ、両者は、次元を事にする運命の肉体的精神的病気である事を先ずは踏まえる必要があるが、

その表面的治療よりも、根本的な運命の障害について目を向けないと本質的な克服に結びつかない問題なんです。
528白からす黒ひつじ:2008/11/15(土) 08:49:52 0
そのようにして、集合的に魂の破滅の恐怖が全体的に浸透していて、傍ら、魂の破滅の運命的破綻の促進サバイバル的

ヤミの潮流が間違えなくあった、、。それは、ラッセルなどに見て取る事が可能である、、、。

つまり、利己主義によるヤミの支配のヒエラルキー体制が生じる必然性はそこにある、、、。

>>522 現在は最も精神的破滅の運命的破綻の策略のカラクリの環境が発達を遂げたヤミのピークの時代であると言えるでしょう。

アンネマリのエピソードは癲癇プラスヒステリーのような事例というべき問題と思われる、、。

現在は、ヒステリーは解離性人格障害といわれています、、、。
529:2008/11/15(土) 08:58:57 0
養生による疲労回復の扱いの問題ですが、養生を阻止する劣悪な環境作りが現在も進行しつつある、、、。

そして、そのようなヤミの人身御供の環境による方向付けの呪術的働きかけと

病気と犯罪を利用したペテンの情報操作によってふかしの領域からのヤミの支配力が完成されより強化を図る有様らしい、、。


530:2008/11/15(土) 08:59:27 0
















531、↓ちょっと保留しますか、、。:2008/11/15(土) 09:03:36 0
ボーリーの幽霊話

ポーリー司祭館は本当にイングランドで幽霊が最も頻繁に出没したところだろうか? そこ
が有名になったのは幽霊研究家のハリー・プライズがマスコミをうまく操ったためだろうか? プライ
ズは売名のために詐欺行為を行ったのだろうか? これらの疑問に答えるため、フランク・スミス
が調査にあたった。



ボーリーの教会は、イングランドのエセックス州とサフォーク州の州境をなすスタウワー川渓谷を見下ろす陸
の上に建っている。ボーリーは村ともいえないくらい小さい。エスックス州にあるこの集落の100
人ぐらいの住人は、ほとんどが農民か週末をコッテージで過ごす人たちだ。

こんな小さな村だが、1940年代に出版された「イングランドで幽霊がもっとも頻繁に出没した
ところ」という本で世界的に有名になり、さらに1946年に出版された「ボーリー司祭館の終
焉」という本で、その名声は浮動のものとなった。両者とも、存命中に心霊研究で有名に
なった。目立ちたがり屋のハリー・プライスの著書である。2冊の本には、ボーリー司祭館はさまざ
まな超常現象が多発するところだと書かれている。同館はビクトリア超の陰鬱な感じの建物だ
ったが、1939年に消失している。プライスの本には超常現象として、馬車の幽霊、首のない僧
侶、その僧侶の愛人だった尼僧の幽霊、先代の司祭の霊、薄気味悪い光、インクに変わった水、
不思議な呼び鈴、夜中に大音響とともに上から滝のように降ってくるさまざまなものなど
が挙げられている。
532、続行:2008/11/15(土) 09:22:38 0
「タイム・アンド・タイド」紙は、「1940年の大きな出来事の1つ」としてプライスの著書を取り上げ
て絶賛し、「チャーチ・タイムズ」紙は「これまでなされたもっとも顕著な超常現象への貢献」と
述べている。ボーリー館の幽霊の調査に10年を費やしたと公言したプライスは、1948年3月29
日死ぬ日まで同館の幽霊について講演、放送を行い、記事を書いた。「タイム」紙は彼が死ん
だ翌日に次のような死亡記事を載せている。「その性質上、トリックやごまかしになりやすい対
象を、類まれな真摯な態度と潔白な心で研究した心霊研究家」

しかしながら、プライスの知人、協力者がみな、このような賛辞に満ちた証言に同意したわけ
ではなかった。プライスが死んだ数ヵ月後、「デイリー・メール」紙のチャールズ・サットンの記事がワールド・
プレス社発行の「インキー・ウェイ・アンニュアル」に載った。この記事のため、彼は侮辱罪になりそうに
なったが、罪は免れた。サットンは1929年にボーリーを訪れたとき、つまり、プライスがボーリーを始
めて調査したときのことに触れ、プライスがその調査中にインチキをしたのを見つけてしまったと
書いている。サットンの頭に石があったので、見ると、プライスがポケットに小石やれんがのかけら
を持っていた、と彼は書いている。

これよりさらに綿密な調査もある。英国心霊研究協会(SPR)会員であるチャールズ・ホープ卿
とヘンリー・ダグラス・ヒューム少佐の2人は、彼らが1920年代の終わりに司祭館で見たと証言して
いた現象について大きな疑問を抱いた。ダグラス・ヒュームは「これについては真実を完全に無
視している」と言って、プライスを非難した。彼の言うところによると、あるとき、彼がプライ
スといっしょに暗がりの中を司祭館の周りを歩いていると、セロファンをくしゃくしゃに丸める
ような音がした。後ほど、プライスのスーツケースの中をちらっと見たら、橋を引きちぎったセロファン
が1枚入っていたという。
533:2008/11/15(土) 10:16:02 0
この証言の結果、英国心霊研究協会はエリック・J・ディングウォール博士、K・M・ゴールドニー夫人、
トレバー・H・ホール氏の3人の会員に、その証拠を改めて調査するよう依頼した。3人は、遺著
管理者ポール・タボリ博士の許可を得て、プライスの個人的な書類や手紙などを調べた。また、彼
らは、プライスが1938年にロンドン大学から場所を恒久的に借りていたハリー・プライス文書館に収蔵
されていて、彼の死後、同館に寄贈された文書も調べた。調査は5年の歳月を要したが、
その結果は1956年に「ボーリー司祭館の幽霊」という本となって公表された。

この本の書評は、1940年代に出版されたプライスのそれと同じように、ただし、まったく別の
理由から、熱のこもったものだった。「サンデー・タイムズ」紙は、ボーリー館の伝説は完全無欠の
客観性で打ち壊されたと書き、A・G・N・フルー教授は「スペクテイター」紙で、「決定的な破壊力
を秘めた魅惑的な文書によって、ボーリーはハリー・プライスが1組のうそというカードで組み立てた
館に過ぎなかったことが判明した」と述べた。

そこで事は収まるはずだったが、さまざまな要因が重なって収まらなかった。一番大きな
理由は、ボーリーが世界中の新聞で25年間以上もセンセーショナルに取り上げられてきてい
たことかもしれないし、それに、どんなに客観的な記者だって、いい記者ねたがなくなっ
てしまうのはうれしくない。新聞もテレビも、ディングウォールやゴールドニーやホールが苦労して集めた
証拠に対して様々な言い訳をした。そして、プライスが本に書いている出来事は、「不可解で、
恐ろしく、なんとも説明のしがたい」ものだという声がふたたび聞かれるようになった。
1973年には、ゴースト・クラブ会長のピーター・アンダーウッド故タポリ博士が「司祭館年報;ボーリーの幽
霊」を出版して、プライス側の防衛に回った。「本書をボーリーを有名にした人、ハリー・プライスの霊
に告げる」と献辞を書いている。
534:2008/11/15(土) 10:29:41 0
コリン・ウィルソンは1971年に出版された「オカルト」の中で、ボーリーの一件を偏見を持たないで公平
に良心的に要約し、同意できる証拠と同意できない証拠をあげている。「これに似たような
事例は英国心霊研究協会の記録には100件くらいある。、、、、、したがって、」プライスは売名行
為に狂奔する病的なうそつきだったことを証明する本を誰かが出版できないならば、判断
を下すのを中止すべきだ」というのが彼の結論であった。

すると、それを受けるように、1978年、英国心霊研究協会の調査員トレバー・H・ホールが、プ
ライスは売名行為に狂奔する病的なうそつきだったことを証明する活動に乗り出した。彼の著
書のタイトルは「ハリー・プライスを求めて」で、プライス自身の自伝「真理を求めて」(1942年)のし
ゃれになっている。ホールの著書は、もう少し不注意な書き方をされていたら、暴露のものと
しては、かなり面白い本になっただろう。例えば、こんなことが暴かれている。プライスの両
親が結婚したのは、2人が40過ぎと14歳のときだったが、父親が母親をかどわかしたも
のだった。だが、プライスはその自伝で、自分は古いシュロップシャーのどこかにあった家族の田舎
の別荘の間を行ったりきたりして少年時代を過ごしたと述べている。そして、学校への往
復の途中でたいてい途中下車をしたと述べており、田舎の寄宿学校で教育を受けたことを
におわせている。ところが、ホールの調査によると、プライス家の所在地はブロックリーから遠くはな
いがブロックリーほど快適とはいえないニュー・クロスだったことは明らかである。彼が通った学校も、
ニュー・クロスにあるハバーダシャーズ・アスキーズ・ハッチマン・ボーイズ・スクールという、中流階級の下の家庭
の子供の行く中学校で、私立の寄宿学校ではなかった、とホールは述べている。シュロプシャーと唯
一の関係は、プライスの祖父がかつてロディングトンにあるブルズ・ヘッドの地主だったことだけであ
る。
535:2008/11/15(土) 10:36:54 0
プライスによると、学校卒業、父親の製紙会社の重役に就任する傍ら、1908年の結婚までの
10年間、アマチュアのコイン収集家兼考古学者として楽しい生活をしたという。実は、ホールの調査に
よると、プライスはニュー・クロスでいろいろと風変わりなことをして生計をたてた。広告用の店屋
の写真を撮ったり、ダンスやパーティーにポータブルの蓄音機やレコードを賃貸したりした。コンサートで奇
術師もしたが、これは後にボーリーで調査中にやったと非難を浴びたトリックと同様のものだった。
ケント州の田舎では、にかわや糊や羊の腐蹄症の治療薬を一軒一軒売り歩くようなこともした。
プライスには、彼の著書(全部で18冊)の売れ行きが示しているように、間違えなく文章に
対して嗅覚のようなものがあった。

プライスは、1902年に自分の出身校の校内雑誌「アスキーアン」のために記事を書いている。これは、
グリニッジにあるローマ時代の邸宅の遺蹟発掘について、発掘調査隊長の著書をネタにして書いた
ものだが、彼は、1942年に出版された自著「真理を求めて」の中で、実際に発掘に参加し
たと述べている。彼はまた、雑誌「ケンティッシュ・マーキュリー」に、ケント州のコインと記念品について一
連の記事を寄稿しているし、それに引き続いて、「シュロップシャーの記念品と貨幣」という一連
の記事を、「ウェリントン・ジャーナル」に書いている。

ホールは、プライスのコインに関する記事を調べるために、リーズの大補際で故銭学の権威であるチャール
ズ・エリソン師に見てもらった。同師は、プライスの記事がある2冊の書物の文章をそっくり
写し取ったものであることを発見し、「プライスの書いていることは裏づけがないので、鵜呑
みにするのは危険です」と結論を下した。
536:2008/11/15(土) 10:40:59 0
ホールの報告によると、プライスが経済的に独立できたのは、父親からかなりの遺産を相続した
コンスタンス・ナイト結婚したおかげだったという。プライスが行商をやめて心霊研究家兼書籍収集家
としての本業に就けたのは、彼が言っているように彼の家が裕福だったからではなく、妻
の資産によるものだったのだ。数千冊に及ぶオカルトと魔術関係の本の収集は、「プライスが生涯
であげた最大の功績である」とホールは述べている。

しかしながら、その収集本にさえごまかしの気配があると、ホールは言う。プライスの収集した
本の中に、はっきりと英国心霊研究協会の蔵書印が押された本が何冊かあり、それらには
プライスの蔵書票が付けられていたという。

ホールの目には、蔵書票のことは、プライスの暗部を示す一例であると共に、特に興味深いもの
として映った。プライスは蔵書票に2種類のかぶと飾り(家紋)を使っていた。1つは競い獅
子で、調べてみると、リッチモンドのチャールズ・ラッジ・プライス卿の家紋で、ハリー・プライスとは何の関
係もないものであることが分かった。もう一つは、かぶと飾りのある盾の紋章で、ロバート・
ディッチャー・プライスの名前とラドノー州ノートン・マナー(荘園)という住所が刻印されていた。ホールの調
査によると、この家紋はランカシャー州のパー・オブ・パー家のものであり、ノートン・マナーはロバート・グ
リーン・プライス夫人から紹介に対する返事には、ロバート・ディッチャー・プライスという人物は聞いたこ
ともないし、ノートン・マナーに住んでいたことは絶対にない、と書かれていた。

1940年に出版されたボーリー司祭館についての最初の著書の中に、プライスはグランヒル家から聞い
た話を載せている。グランヒル家は父親のシドニーと息子のロジャーと娘のヘレンの3人家族だった。こ
の家族が家出ブランセットつきの交霊会を開いたとき、ヘレン・グラン・ヒルが、一人の尼僧がボ
ーリーで殺害されたというお告げを引き出した。その尼僧はマリー・レールというフランス人だった。と
ころが、この交霊会でのこととプライスがそのすぐ後で開いた交霊会の時について、ヘレンは、
家族3人とも前もってボーリーの幽霊のことを本で読んでいたので暗示にかかってしまった、
と英国心霊研究協会の調査員ディングウォール、ゴールドニー、ホールの3人に詫びるように言った。
537:2008/11/15(土) 10:58:58 0
フランスの尼僧の幽霊の話が載った「イングランドで最も幽霊が出没するところ」が出版された後、
プライスはカーライルの聖職者W・J・フィシアン・アダムズから、実は、マリー・レールは尼僧院からおびきだ
されて土地の地主と結婚したが、夫に絞殺されて司祭館の井戸に埋め立てられたのだ、と
言った趣旨の凝った手紙を受け取った。その尼僧の幽霊は、19世紀に、司祭館の住人か
らフランス語の辞典を盗み出したが、それは司祭館の人々と交信したくて自分の英語を磨くた
めだった、ということも手紙には書かれていた。

この聖職者の話は途方もない話に脚色されていくつか伝えられているが、プライスは上述の話
をかたくなに信じていた。ホールは、すべてプライスのでっちあげで、その上塗りをするために
偽の証拠づくりをしたと、プライスを非難している。プライスが1929年に始めて司祭館を訪
れた時に霊姿として現れたと証している2個のフランスのメダルが、実は偽りの証拠だった。
1つはローマ・カトリック教徒であることを示すメダルで、もう一つはイギリス革命後に国会議員に渡さ
れたバッジであるという。だが、生前、プライスは、「幻視したメダルが1つある。それはロヨラ(イ
エスズ会を創設した16世紀の聖者)のメダルだ」と言っていた。プライスの忠実な秘書だった人
も、「ロヨアのメダルは私が見た唯一のものです」と述べている。
538:2008/11/15(土) 11:36:26 0
不可解な出土品





ホールはこの件についてさらに、プライスが1943年にボーリー司祭館の地下遺蹟の井戸のあった
ところと証する場所から人間のあごの骨を発掘したときの模様を語っている。骨が出てき
たのは柔らかい地層で、発掘作業はランプで照らしながら行われた。井戸はコンクリート製の近代
的なものだった。廃墟を壊しているとき、司祭館には電気が通ったことがなかったにもか
かわらず、スイッチや長い電線が出てきた。これは、プライスがこのとき初めて見つけたように見
せかけようと、以前にこっそりと骨を埋めるためにポータブルの蓄電池を使ったときのもので
はなかろうか、とホールは書いている。

このような調子でホールの著書は続き、プライスの行った心霊研究計画の説明が不正確で、ほと
んどまったくのでっちあげと言って良く、説明のたびに、細部があべこべになって矛盾し
ていたことなどが、随所に示されている。「ハリー・プライスを求めて」は正にコリン・ウィルソンが書評
したとおりだ、。「本書は、プライスが常習的なうそつきで、目立ちたがり屋だったことをしめ
している」

プライスとC・E・M・ジョード教授がドイツの山奥で行ったばかげた実験で、報道カメラマンの前でや
ってみせた魔術の儀式などは、目立ちたがり矢以外の何者でもない。
539:2008/11/15(土) 11:41:28 0



しかし、プライスの人格に欠落があったことは、必然的に、ボーリー司祭館に幽霊が出たという
話も嘘だったことを意味するのだろうか。司祭館が建てられた1863年からプライスがそこ
に興味を抱いて始めて訪れた1929年までに、そこについては様々な話が語られていて、
その中には超常現象と思われるものもあった。さらに、1930年から1937年までに
プライスはボーリーを1度だけ訪れているが、それでもその間に、少なくとも2000件の超常
的な出来事が起きたと記録されている。1938年というのはプライスが空き地になっている
司祭館を借り受け、「タイム」に求人広告を出してプライスと一緒に司祭館で暮らして証人になっ
てくれる人を何人か公募した年だった。1973年から1938年までの1年間にも、プラ
イスの留守中に、何件か異常なことが起きたと報告されている。最終的には、プライスが住んで
いた時から、夜中に不審火が出て司祭館が消失した1939年2月27日までに、奇妙な
ことが起きた。

こうしてみると、プライスの果たした役割を無視しても、やはり、ボーリー司祭館はイングランドで
最も幽霊の出没するところだったのだろうか。
540:2008/11/15(土) 11:54:10 0
539>>  1973年から1938年までの1年間にも、、、

1937年から1938年までの1年間にも


>>531-539  ボーリー司祭館


ローマとインディオの奴か、、、、。  タイミング的には西太后的な、、、。
541:2008/11/15(土) 11:55:29 0
緊張高まるボーリー





だだっ広くて薄暗く、しかも外形が醜いボーリー司祭館は、まるで幽霊をおびきよせているよ
うだった。ハリー・プライスの到着とともに、そこは超常現象のメッカとなって、新たなものも続々
と発見されだした。誰かが手を貸していたのだろうか?



サドバリー街道の反対側に墓地があり、その墓地の真ん中に12世紀に建てられたボーリー教会
がある。イングランドで最も頻繁に幽霊の出没する館とは、この教会の司祭館のことだったが、
1939年の冬の消失時には、建てられてからまだ76年しか経っていなかった。ボーリー司
祭館は醜い赤れんが造りの2階建てで、23室もある部屋のほとんどは、周囲のあちこち
に植えられた背の高い樹木の陰になって薄暗い。この建物は、1863年に、この地方の
地主でボーリー教会の司祭でもあったヘンリー・D・E・ブル師が妻と14人の子供を住まわせるた
めに建てられたものである。

司祭館のすぐ裏手の片側には、周囲を納屋や馬小屋や作業場などに囲まれた農場があった。
1875年に館の両端が建て増しされたため、結果的に小さな中庭が出来た。ダイニングルーム
の暖炉には僧侶の像が彫刻されていたが、この装飾は、13世紀にこの地に僧院があった
という土地の言い伝えをブル師が信じていたことを示すものだったかもしれない。この地に
幽霊話が出来たのは、この僧院の僧侶が原因だった。彼はここから13kmほどはなれたと
ころにあるブレスの尼僧院の尼と駆け落ちしたと伝えられている。そして、2人は捕らえら
れて処刑された。男は首を切り落とされ、女は尼僧院の壁に塗り込められた。それ以来、
ここに彼らの幽霊が出るようになったという。このまことしやかな話は、1938年にエセッ
クス考古学教会がまじめで熱心な幽霊研究家のシドニー・グランビルへ出した手紙の中で否定され
ている。グランビルは、幽霊研究家で作家のハリー・プライス代理として考古学教会に真偽のほどを
確かめたのだ。教会からの手紙には、その地には僧院も尼僧も存在したことはない、と書
かれていた。
542:2008/11/15(土) 12:07:22 0
だが、ヘンリー・ブル師もその後を引き継いだ息子のハリー・ブル師も、明らかに、好んで幽霊話を
人に語ったようだ。それが日曜学校に来る子供たちの間に広まったが、大部分の子供たち
は、話してくれた人が司祭だっただけに、その話を福音と思い込んだまま大人になったの
だろう。

この最初の尼僧の話が別の話にすり替えられる前に、ブル家の家族、特にミリーとエセルの姉妹が、
後に尼僧の散歩道として知られるようになった司祭館の庭を幻のような人影が横切るのを
看たという噂が広まった。この道は地下水の流れに沿っていて、生暖かい夏の夕方ともな
ると、よくブヨが群がった。ブル家の姉妹がプライスに1900年7月に尼僧を見たことを話
したとき、彼女たちは、「夕方でまだ日が出ていた」とだけ付け加えた。したがって、それ
がブヨの群れでないとは、誰も確信を持って言えない。後にこの司祭になったG・エリック師は、
白い人影に驚いたことがあると述べている。それは焚き火の煙だった。まだ、「デイリー・ミラー」
紙のV・C・ウォールも同じような人影を見たが、それは司祭館のメイドだった。

ブル家はガスも電気も水道もない不便なボーリー司祭館で65年近くも暮らしていた。1892
年に父親がなくなると、息子のハリーがその跡を継いで司祭になり、大勢の兄弟たちと一緒に
館に住みつけた。少なくとも、その内の3人は、ハリーが亡くなる1927年まで館に住んで
いた。ハリー自身は、1911年に結婚したとき道路の向こう側のボーリー・プレイスに引っ越した
が、1920年には司祭館に戻ってきた。これは、たぶん、妻の死後のことだろう。
543:2008/11/15(土) 12:13:22 0
陰気な感じのする屋敷ではあったが、後に住んでいたブル家の住人は、快活な人たちだった。
これは、1940年代、1950年代にここの調査にあたった調査員たちに接触した同家
の友達や知人の証言によるものである。館では誰かが悪戯をしているような奇妙な音がし
た。英国心霊研究教会のヘンリー・ダグラス少佐によると、館の裏庭を歩く音や館に隣接した納
屋の中での話し声、馬小屋の前にある手押しポンプを動かす音などが、館の中にいてはっ
きりと聞こえたという。そのほか、ドシンドシンという音や人のうめき声なども聞こえた、と
少佐は語っている。調査員たちが別の人から聞いた話によると、ブル家の姉妹はメイドたちに、
この屋敷には幽霊が出るよ、と楽しそうに語ったという。そして、メイドの1人は、そうい
う話を聞かされた後で、足を引きずって歩く音を聞いた、と調査員たちに語った。ハリー・ブ
ルは年をとるに連れて、村に噂の種をまくようになった。彼はナルコプラシーにかかったことがあ
るようだ。この病気になると、いつも眠い状態になるが、彼はこの病気になって、庭にあ
ずまやで1日の大半を眠って過ごしていた。その眠りから覚めたとき、ハリーは、尼層に会っ
たと言い張った。尼僧が僧侶とかけおちして行く幽霊馬車音を聞いたので、アモスという昔、
館にいた下男を呼んだという。だが、この男はずっと前に亡くなっていた。ハリー・ブルが亡
くなって家族も司祭館を去った1927年までには、この地方の人々には、あそこは幽霊
屋敷というイメージを、頭の中に作り上げてしまった。そして、一年以上も空き家のまま荒れ
果てていく内に、その名前が有名になったのだろう。

1928年10月2日、ボーリーに新しい司祭が妻を伴って着任した。G・エリックス・スミス師がそ
の人で、彼は結婚当初しばらくの間インドで過ごしたが、妻が病気になったので帰国を決意
し、教会本部の命令でこちらへふにんしたのだった。彼はボーリー着任を了承したとき、自暴
自棄になりかけていたかもしれない。教会本部のことばを信用してきたにもかかわらず、
司祭館の状況はひどいもので、2人ともそれにがっかりしたからである。
544:2008/11/15(土) 12:19:54 0
最初の年の冬、スミス夫妻は、何かと不満を感じているところへ、この館には幽霊が出るとい
う噂を聞かされた。だが、幽霊そのものには悩んでいなかった。スミス夫人が1945年に「チ
ャーチ・タイムズ」にあてた手紙に書いているように、夫妻とも、「ネズミと土地の迷信以外は何も
出てこない館」だと思っていた。

スミスの気がかりなことといえば、神経質な教区民が何人かいて、彼らが夕方の集会に来たが
らないことだった。このような教区民の恐怖心を取り除いてやろうとしたが失敗したため、
心霊研究教会の住所を聞こうと、「デイリー・ミラー」紙の編集長に手紙を書いた。彼としては、
協会から研究員がやってきて、合理的な方法で謎を解決し、土地の住民の教父を取り除い
てくれるものと期待していた。

ところが、新聞社の編集長は協会の研究員ではなく新聞記者のV・C・ウォールを派遣した。1
929年6月10日の月曜日、ウォールはボーリー司祭館についてのセンセーショナルな第一報を送った。
記事にはこう書かれていた。「首なしの御者と尼僧の幽霊の乗った馬車が2等の栗毛の馬に
引かれて出没する。そして誰もいないはずの部屋から足を引きずって歩くような音が、、、」

「デイリー・ミラー」の編集長はプライスにも電話した。プライスはその2日後に初めてボーリーを訪れた。
プライスが到着すると同時に客観的な現象がはじめて起きた。彼が屋敷に足を踏み入れるか入
れないうちに、石が飛んできて老化の窓ガラスが壊れ、装飾品がめちゃくちゃになった。
階段には、小石やコインやメダルやスレートなどの原姿が雨あられと降って来た。そして、呼び鈴は
ひとりでに鳴り出し、鍵は錠前から飛び出していった。尼の散歩道のある庭を見下ろすブル
ールームといわれる寝室で効霊会が催されている時、故ハリー・ブルの作った壁の鏡をコツコツたたく
音がした。この音は、プライス、彼の秘書、新聞記者のウォール、スミス夫妻、当日館を訪れていた
ブル家の2人の姉妹が耳にした。

プライスはそれからの数週間に5〜6度司祭館を訪れ、そのたびに奇妙な出来事に出くわした。
それらは「デイリー・ミラー」のウォール記者によって逐一報道された。
545:2008/11/15(土) 12:24:45 0
結果は予想通りだった。スミス師は教区民の教父を静めるどころか、うかつにも、あおってし
まったのである。観光客がよるとなく昼となくおしかけてきた。観光会社が大型バスを仕
立てて観光客を運び込み、気がついてみると、スミス夫妻は包囲されたのも同然の状態になっ
ていた。7月14日、がたがたの館と招かざる訪問客に愛想をつかして、彼らはロング・ミルフ
ォードに引っ越した。スミスはそれからしばらくの間教区を運営したが、その後、1930年4
月に新たにノーフォークに住居を定めた。

プライスはボーリーで少なくとも2度不安な気持ちになったはずである。1度目は、数枚のコインと
ともに聖イグナティウス・ロヨラの像を刻んだローマ・カトリックの大メダルが現れて、角砂糖がいくつか空中
に飛び去っていくのとほとんど同時に、ドサッと落ちてきた時である。拾い集めると、今ま
で人の手に握られていたかのように暖かかった、とスミス夫人は思い出して語っている。夫人
のメイドのメアリー・ピアソンはよく悪ふざけをする人だったが、彼女は夫人にこう謎解きをして見
せた。「あの男がコインを投げつけたので、私は角砂糖を投げてやったんですよ」  2度目
は、ずっと後にブルールームで交霊会を開いているときのことである。このときはもっと茶番め
いた出来事が起きた。外をのっそりのっそり歩く音がして、それから鎧戸がガラガラと開
く音がした。それに肝をつぶしたプライスは、声を押し殺して、ハリー・ブル師の霊でしょうか、
と尋ねた。明らかに土地の雑役夫のそれとわかるしわがれ声が、「馬鹿だね、彼は死んだよ」
と、答えた。

後に、スミス夫人は、呼び鈴が鳴り出したのはネズミのせいだと、断言している。屋根裏の垂木
に沿って呼び鈴の配線がしてあったからだ。という。また、2階の窓に見えた明かりは、
渓谷に沿って走っている列車の明かりが反射したものであることを、この地方の人々はよ
く知っていた。
546:2008/11/15(土) 12:33:29 0
541


   , -‐.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:‐- 、
             /:.:..:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.ヽ、:.:.:.:.:.ヽ
            /.:.:,r─-----─¬尸:.:.:.:.:.:l
         /.:.:/{-─、    _,─-尸:.:.:. ||
          | i{             |!:.:.:.:.::|:.|
          レー|  ◯      ◯ イ:.:/.:/.:|rァ
          { ハ! ' '        ' ' 'ノイィ介//')
         ト、j|   r‐--─‐、   に'// /
          ノ:ハ:.ヽ、 |/ ̄ ̄ }   /-イ/ 厶  <<また、、、、したくなっちゃったのいかな? 
      / ̄ ̄ `ヽ:.:.\───' イ川:/  { /   世界史板責任者さーん?
      /      \父_ー-‐ '´ /ノ.:.:/  | !
     / ヽ      〉 \   厶‐、/   lノ
    厂   \    /  {⌒>'´ ヽ\ イ
  /      \,-┴‐n<      \ヾ |
547:2008/11/15(土) 12:35:08 0
スミス家がボーリー教区を去ってから6ヶ月の間、司祭館には誰も住まなかった。そして193
0年10月16日、ハリー・ブル師のいとこのライオネル・A・ホイスターが新しい司祭として引っ越して
きた。ホイスター師は50代の始めの人で、前任地のカナダのノバスコシア州サックビルから帰国したのだ
った。彼はカナダには1928年から30年まで赴任していた。彼はリュウマチをわずらっていた
が、優しい人で、誰からも慕われた。31歳の魅力ある妻のマリアンヌと2歳半くらいの幼女アド
レードを溺愛していた。

ホイスター家がボーリーに住んでいる間に、役2000件の出来事が発生した。そのほとんどは、
およそ14ヶ月間に集中している。人の声、足音、物を投げつける音、壁に鉛筆で書かれ
たメッセージ(伝言)などである。このうち、1つは別として、そのほかのすべてはハリー・プライ
スのせいにすることはできない。というのは、彼はホイスターの赴任中にボーリーを訪れたのは1度
だけだったからだ。ブライスはボーリーを訪ねた翌日の1931年10月15日、ボーリーの不思議な出
来事について簡明なコメントをいくつか出したが、そのうちの1つを手紙の形で友人に書き送
った。「、、、、、、心理学的には大いに価値のある出来事だが、心霊学的には何の価値もない」

スミス家が去ってホイスター家が到着してから6ヶ月が経過した。その間にボーリーが司祭館の荒廃ぶ
りはさらにひどくなった。ホイスター夫人の夫のいとこにあたるブル家の人たちに寄れば、夫人
はボーリー司祭館を見た瞬間から嫌いだったという。彼女は土地の人とはだれとも友達になら
なかった。付き合うのは、夫のライオネル以外には、家族の友人で彼女の年齢に近いフランス系カナダ
人のフランソワ・ダルレだけであった。この人は館の裏にある納屋を借りて住んでいた。英国心霊
研究協会の調査員たちは、彼がホイスター家の家事を取り仕切っているような印象を受けたとい
う。1932年にマリアンヌ・ホイスターとダルレはロンドンで花屋を開店して、ボーリーには週末だけ帰ってき
た。ということは、恋人同士になっていたのだろう。ホイスター夫人はヒステリーとは言わないまで
も、奇妙な振る舞いが多く、かんしゃくを起こすと失神した。まったく物質化現象が見ら
れないあるときなどは、あたかも自分がそれを起こすことが出来るかのようにふるまった。
548:2008/11/15(土) 12:47:11 0



ホイスター家の到着後まもなく、ふたたびボーリー司祭館に幽霊が出没しだした。村人たちは、マリア
ンヌ・ホイスターに面と向かって、あなたが幽霊の糸を引いていると言って非難した。



549:2008/11/15(土) 12:48:58 0



廃墟となったボーリー




ホイスター家がボーリーに引っ越してきて以来、壁に書かれたメッセージ、ひとりでに鳴る呼び鈴、幽
姿、不審火、、、、、このような超常現象が次から次と起きた。問題は、本物かということである。



1878年に、エスター・コックスという若い女性が、カナダのノバスコシア州アマーストに在住の彼女の姉の家で
起きる物質化現象の中心人物となった。エスターには他の人には見えないものが見えた。その
家では、物を投げつけられたり、家具がひっくり返されたり、ボヤが起きたりした。そして、
エスターあてのメッセージ(伝言)が壁に書いてあるのが見つかった。そこで起きた出来事は本に
もなった。ウォルター・ハッベル著「幽霊の出る家;幽霊の実話――アマーストの大いなるミステリー」(1879
年)がそれである。この本は大成功で、10版を重ねて5万5000部も売れた。だが、
1919年に、米国心霊研究会がこれに対して、ウォルター・F・プリンス博士の著した「評論的研
究」を発表して、アマーストの出来事は実際はポルターガイスト現象ではない、と述べた。プリンス博士
は、すべてが分裂症ないしはてんかん性ヒステリーにかかっていたときにエスター・コックスが行った企
みである、と述べている。
550:2008/11/15(土) 12:57:11 0
アマーストから約8kmはなれたところに同じように小さな町サックビルがあって、そこに、エスター・
コックスの結婚した姉の一人が住んでいた。また、この町は、50年後にライオネル・ホイスター師と妻の
マリアンヌが住んだところでもある。ホイスター家の人々も、例えば現在のサドバリーの住人なら誰でも
ボーリーの不思議な出来事のことを耳にしたことがあるように、アマーストの出来事のことは聞い
ていただろう。ホイスターはボーリー赴任中に司祭館で起きた出来事について書いているが、この
とき彼は、ティードという変名を使っている。この事実は、彼がアマーストの出来事を聞いていた
ばかりか、細部まで詳しく知っていた証拠とみてよい。というのは、ティードという変わった
名前は、エスター・コックスの姉の結婚名だったからだ。したがって、彼の妻もその出来事を知っ
ていた可能性がある。2つの出来事の間には驚くほど類似性がある。ディングウォール、ゴールドニ
ー、ホールの3人調査員は、「ボーリー司祭館の幽霊」の中で、呼び鈴が鳴った事、物を投げつけ
られたこと、ボヤの発生、壁に書かれた不思議なメッセージなど、19以上の現象が双方に起きて
いると、述べている。

例えば、マリアンヌ・ホイスターがボーリーに到着して、ここはとても嫌いだ、と言ってから間もなく、
彼女は幽姿を見始めている。彼女以外の人は何も見ていない。そのすぐ後で、アマーストの出来
事と同じような物質化現象が起きはじめた。彼女はでたらめなことを言うといって非難す
る村人に、妻に忠実で献身的な彼女の夫は、自分には霊的な力がないので幽姿を見ること
が出来ないと答えたが、彼女を弁護するために、出来事の大まかな記録をとり始めた。だ
が、この記録は、彼も認めているように、時間が経ってからとったため混乱しているとこ
ろがおおく、本人が期待したほど役に立たなかった。

1931年10月、ハリー・プライスはブル姉妹の要請に応えて、再度ボーリーにやってきた。ここで、
なぜブル姉妹が要請したか、その動機を推測してみるとおもしろい。たぶん、姉妹は、この
館に住んでいたときに、悪戯や冗談の出所を知っていたので、今度の幽霊は本物だろうか
と疑ったためだと思われる。プライスも同じような疑問を抱いていたのだろう。彼は、ホイスター
夫人が自分でやった詐欺行為という確信を抱いて館から帰っていった。
551:2008/11/15(土) 12:59:17 0

ディングウォール、ゴールドニー、ホールの3人は、報告のあった現象を調査するにあたって、ホイスターが
最初の記録に残している出来事を分析した。いつも鳴る呼び鈴のことは1つの現象と数え
て、それぞれ異なった現象が103起きていた。そのうち、99は完全にホイスター夫人の誠実さ
に変わるもので、3つは自然的原因によるとすぐわかるもの、そして、残る一つだけがど
うしても説明できないものだった。

大きな疑問が残るものの中に、鉛筆書きの文字が壁の上に現れるという出来事があった。
ホイスター家が館にいる間に、7つほどのメッセージが壁に現れたが、そのほとんどがマリアンヌあての
もので、「明かり、ミサ、祈り」を要求していた。もう一つは、ホイスター家の養女の名前「アドレー
ド」あてに書かれたものである。メッセージの文字はすべて子供っぽい筆跡である。司祭館で
起きた不思議なボヤのうち、1回か2回かは幼いアドレードのせいかもしれない。少なくとも1
回、この子供は寝具に火をつけようとしているところを見つかったことがある。1933年に
ホイスター家は6ヶ月の休暇をとって旅立ち、三時会員のH・ロートンが司祭の代理を務めた。この
とき、都合の悪いことは何もおこらなかったが、ダグラス・ヒューム少佐も述べているように、
ロートンも館の中やその周辺でおかしな音がするのを聞いた。いずれにしても、その音を聞い
たところまでは、ホイスター夫人はフランソワ・ダルレとともに彼女たちのロンドンの花屋で時間を過ごし
ていた。それに、その前の年、マリアンヌとフランソワが花屋を開店するために始めて館を出て行っ
たとき、心霊術者たちの一団がやってきてお祓いをやったので、ホイスター家の人たちが親しみ
を込めてゴブリン(鬼)と呼んでいたものは、すっかり片がついたと思われていたようだ。
それとも、マリアンヌ・ホイスターは本当に司祭館の屋敷にいなかったのだろうか。

1935年10月、ホイスター家はボーリーを去った。それから5ヵ月後に、A・C・ヘニング師が任命さ
れた。彼はボーリーとは別のところに住むことを希望した。それ以来、ボーリーの代々の司祭は
リストンかホックスアースの司祭館に居住している。教区も1930年代以降はそれらの地区と併合され
ている。
552:2008/11/15(土) 16:07:45 0
しかし、散々使い古され、様々なドラマが演じられてきた館ではあったが、それでもmかだ、
それから4年間使用された。1937年5月19日、ハリー・プライスは司祭館を借りて、その一週
間後に、「タイムズ」に求人広告を出した。当番制で館内を観察する仕事で、大胆で批判精神
に富み、偏見がなく、暇と知性のある責任感の強い人、というのがその内容だった。応募
者が「心霊研究について知識を持っていなければ、余計に好都合だった」と、ぷらいすは
後に述べている。

ハリー・プライスとマリアンヌ・ホイスターが彼ら自身の個人的な目的のために詐欺行為を働いたとしても、
1938年11月に現場に居合わせたもう一人の詐欺師は純粋にお金目当てで働いていた。そ
の男はウィリアム・ホート・グレグソン大尉だった。彼は、ブライスの賃貸契約が切れた6ヵ月後に、ボー
リー・司祭館を買い取った。さっそく、グレグソンは、自分の買い取った屋敷を見世物にして観
光バスを出す事についてプライスに助言を仰ぎ、ラジオ放送に出て、小さな超常現象をいくつか
列挙して見せた。だが、彼の観光バスを出す計画は、1939年2月27日、突然沙汰やみに
なった。館は火事で焼き払われ、あとに残ったのは壁がいくつかと黒焦げの梁と煙突だけ
だったからである。

プライスを自主的に支援していた評判のいい心霊研究家のシドニー・グランビルは、彼の家で行われ
た交霊会で、サネックス・アミュレスという人の霊が、ボーリー司祭館を焼きはらってやると脅迫した、
と述べた。だが火事の本当の原因は、ウィリアム・クロッカー卿の自伝「平凡から離れて――ある弁
護士の生涯」(1967)の中に、はっきりと書かれている。著名な法廷弁護士だったクロッカ
ーと保険清算人のカスバート・バックル大佐は、保険会社のために、グレグソンの賠償要求を調査した
のだった。「彼自身による放火であると認め、失火による損失という彼の厚かましい訴えを
拒否した」と、クロッカーは書いている。
553:2008/11/15(土) 16:20:06 0
それでもmかだ、   、、、、それでもまだ、
554:2008/11/15(土) 16:35:57 0
恥知らずのペテン

ボーリー司祭館は、最終的には、1944年の春に撤去され、跡地は整地された。そこには、現在、
果樹園とモダンな平野が3棟ある。館の撤去作業中、プライスが「ライフ」のカメラマンと研究員のシンシア・
レドシャムをボーリーに連れられてきた。そのときまったく偶然に撮った写真に空中に浮かんでい
るような1枚のれんがが写っていたが、実際には、それは作業員が空中に投げたものだっ
た。「ライフ」は、その写真を冗談ぽい説明を付けて掲載したが、プライスはその著書「ボーリー司
祭館の終焉」(1946)の中に「最後の超常現象」として写真を収めている。シンシア・レドシ
ャムはあきれはてて、「ハリー・プライス恥知らずのペテン」と言った。

本当のところは、最初から最後まで恥知らずのペテンだったのである。それを、プライスが最も
安直に個人的な名声を勝ち得ようと利用したのだ。その証拠に、彼の死後示されたように、
彼の底の浅いインチキは、調査をしてみると持ちこたえるべくもなく、すぐに発覚してしまった。

1938年にC・G・グローバル氏にあてた手紙に、プライスは次のように書いている。「貴殿の種々
の批判に関して申しますと、司祭館に幽霊が出るという話の真偽は、最近、私どもの観察
員たちが行った調査報告によって決まるのではなく、これまでの50年間にそこで起きた異常な出来事によって決まるのです」

だが、1946年のディングウォール博士宛の手紙には、コップ一杯の水がインクに変わった時の事に言及
して、「ホイスター夫人のトリックは幼稚です。ホイスター家とブル家とスミス家を切り離しても、まだ何か残
るというあなたの意見に賛成です」したがって、残る何かとは、最近、私どもの観察員た
ちが行った調査報告であることになる。

プライスのインチキ話はすべて破棄されたが、1960年代、1970年代に、幽霊研究家たちは執拗に
地方を調査し続けた。その結果、本当に超常的なものを偶然に発見したようである。今度
は司祭館跡からではなく、ボーリー教会そのものからだという。
555:2008/11/15(土) 16:44:57 0



終わりのないボーリー




ハリー・プライスも彼を誹謗する人たちも、彼を指示する人たちも、みなボーリー司祭館にこだわっ
ていた。これは、見当違いの場所で幽霊を探していたことになるのだろうか。
ここでは、司祭館とは道路を隔てて向かい側にあるボーリー教会で、1970年代から調査が続け
られている本物の幽霊探しを検証する。






ハリー・プライスは、ボーリーについて調査するにしろ本を書くにしろ、12世紀に建てられた教会事
態にはほとんど注意を払わなかった。実は、彼には、1929年にエセル・ブルから聞いて、気に
していた話があった。エセルによると、教会の地下にはウォールレイブ家の棺が収められていたが、
19世紀に何者かが運び去ったということだった。プライスはそのことをそれ以上追求しよう
とはしなかった。そのため、彼は本物の超常現象に出会うチャンスを逃してしまったのか
もしれない。というのは、1970年代の初めから、教会の内部と周辺で説明できないような
出来事が起きているからだ。その多くはテープに収録されているが、司祭館で以前起きたこ
とよりはるかに不可解であることが分かった
556:2008/11/15(土) 16:49:38 0

この土地は、木造の教会が始めて当時、土地台帳にはイノシシ牧場と登記されていた。現在の
教会の南側の壁には、12世紀の創建当時の建物に使用されていたすい石や荒石が混じって
いる。内陣と身廊の北側の壁と西の塔は15世紀に追加され、それから100年後に赤煉瓦の
玄関が建て増しされた。教会の境内には、周りにイチイとトチの木が植えられ、ブル家の墓があ
る。ハリー・ブル師の墓には意思の十字架があったが、乱暴者が壊してしまった。ブル師は、晩
年にあずまやでまどろんでいるとき、尼僧と馬車の幽霊を見た、と言い張った人物である
エセックス州ハーロウで小さな心霊研究グループを主催しているジオフリー・クルーム=ホリングスワースは、ブル師の
本当の死因は梅毒だった、と述べている。梅毒は進行すると、ナルコレプシー(嗜眠発作)を伴
い、眠気が取れなくなる。その間に、患者は幻覚症状を呈する。これで、ブル師が幻視を見
た理由をきちんと説明できる。だが、クレーム=ホリングワースは、これだけでは理由にならない、
と言う。彼と彼の助手ロイ・ボッターは、彼ら自身が尼僧の幽霊を12分間にわたって見たから
だ。

クルーム=ホリングスワースは1960年代にボーリーが議論を呼んでいるのをたまに知り、自分で事実調査
をしてみることにした。彼と彼のグループはボーリーで一連の不寝番を行った。その後の調査員
たちもそうしたように、外から人が入ってこないように、夜間も監視を続けることにした。
いろいろな天候を選んだり季節を変えたりしながら1年間にわたって観察している内に、
彼らは、コツコツ物をたたく音、ハーハーあえぐような声、家具を動かす音など、様々な音を聞い
た。ある時、果樹園で、大きな黒い動物のようなものが果樹の間をぬって彼らのほうへ近
づいてきて、ドシンと音を立ててフェンスにぶつかった。
557:2008/11/15(土) 17:00:26 0
また、別の夜、午前3時ごろ、このグループは、笑い声や陽気な話し声を聞いたが、その
声を通ってボーリー教会の方へ進んでいくようだったという。その夜は霧が出ていたが、道路
のほうに誰のいないことを確認できるくらい明るかった。夜遅くまで酒を飲んでいた人た
ちの声かもしれないと思った。が、声が聞こえてくる方向を不審に思ったので、ロイ・ボッター
は自動車に乗り込み、エンジンを切ったまま坂道をロングメルフォードの方へ降りていったが、誰に
も出会わなかった。彼は、声の聞こえ具合を確かめるために、携帯無線を使ってクルーム=ホリン
グスワースと連絡を取りながら、ロングメルフォード街道沿いの各地点で叫んでみて実験をした。しか
し、果樹園に入る人には何も聞こえなかった。グループは、同じような音を記録しようと、
テープレコーダーを境界の玄関にセットして、遠くから見守ることにした。玄関に入る人影は見えな
かったが、物が壊れる大きな音が聞こえた。言ってみると、テープレコーダーがかなりひどくた
たきつぶれていたという。テープはリールからはずされていて、ぐしゃぐしゃにされていた。

だが、ハーロウ・グループに、ボーリーでは何か奇妙なことが起きると確信させたのは、あの尼僧を
見つけたことだった。ある雲のない夜、クレーム=ホリングワースは、果樹園にたって、尼僧の散歩
道の方を見ていた。

突然、彼女がはっきり見えた。黒い法衣にずきんをかぶった彼女は、庭を横切って垣根の
通りを越した。「誰かが私の足をひっぱっているのかな?」と思った。グループの中で一番近
くにいる、道路に出ていたロイを大声で呼んだ。その人物はモダンな車庫の中へ姿を消してし
まったが、あそこにいるんだ、と私は思った。そして、ロイがやってきたとき、私たち2人
は彼女がガレージのもう一方の側から出てくるのを目にした。彼女は私たちに3mぐらい手
前まで接近してきたので、2人とも彼女の顔を見ることが出来た。たぶん60歳代の、年を
とった婦人だった。私たちは、水のない溝の上を何もないかのようにすべるように渡って
いく彼女のあとを付けていった。彼女は建築用の煉瓦の中に消えてしまった。私たちは2
人とも怖いという感じはしなかった。
558:2008/11/15(土) 17:05:31 0
このような体験をしたクルーム=ホルングスワースに、プライスの話の矛盾を指摘する批評家を相手にす
るゆとりはない。彼はこういっている。

プライスが幽霊話をでっち上げたかどうか、私の知ったことではない。根本的な問題は、そこ
に幽霊が出るかどうかということだ。だから、私の言うことを信じれば、出るという事だ。
私は何もでっち上げていない。ロイと私は、尼僧をはっきりと、およそ12分間にわたってみたのだ。

クルーム=ホリングスワースの確信に満ちた話は、映画監督兼カメラマンのディー・デンシャムに感銘を与えた。
デンシャムは、1974年、テープレコーダーを使ってその教会で実験する許可を取った。その結果はB
BCがテレビ放送番組に使用したが、デンシャムの言葉によると、まったく不可解なものだった。

最初のテープ録音は冬の真夜中に行われた。教会を隅々にまで注意深く調べた後、祭壇のそ
ばにカセットプレーヤーを置いて班員たちは反対側のすみで見守った。テープにはドシンドシンという音
やコツコツと何かをたたく音が入っていた。次に、2台のテープレコーダーを教会の中において鍵をか
けた。1台は祭壇のそばに、もう一台は通路の中ほどに置いた。すると、重いドアをあけた
り閉めたりする音が、かんぬきがきしむ音とともに、ふたつのテープに入っていた。班員た
ちが外から見守っていたが、玄関のドアも内陣の小さなドアも開いたことはなかった。内陣
のドアのかんぬきを後で調べてみても、きしむようなことがなかった。

翌週、デンシャムの録音班は午前12時30分から不寝番についた。今度は高級なステレオテープに高
感度のマイクを2つ用意して、1つは祭壇の近くに、もう一つは通路の中ほどに設置した。そ
の上、祭壇の前にはカセットプレーヤーも置いた。それから、班員の半数は教会の中に入って鍵を
かけ、残りの数は教会の庭で見守った。

「突然、あたりの気配があやしくなった」と、デンシャムは語っている。「1人の班員が誰かに
見られているようだと言い出した。そして、われわれはみんなひどく寒いと思った」
559:2008/11/15(土) 17:09:52 0
次の2~3分間に、何かを通路に投げ込むようなガチャンと言う音がテープに収録された。ドアを
ノックする音や何かをコツコツとたたく音、大小のドアは鍵をかけて館抜きしてあったにもかかわ
らず、またもやドアをあける音、それに、背筋が寒くなるような人のため息もした。後ほど、
録音班は、カセットレコーダーがめちゃくちゃになっているのを発見した。クレーム=ホリングスワースのテープ
と同じように、テープ引き出されてぐしゃぐしゃにされていたのである。

録音班は7月にふたたびボーリーを訪れた。午前1時45分、また、あたりの気配が怪しくな
ったのを彼らは感じた。

誰かに見られているな、とわれわれの誰もが感じた。そして、体がぞくぞくするような悪
寒がしたおかしなことだが、このとき、様々な音が機会に収録されているような感じがし
た。事実、祭壇の近くで何かがひそかに動く音、またドアが閉まる音、何かがたたきつけら
れるような音、それから、大男が祭壇の前の欄干のそばをのっしのっしと歩くような音が
収録されていた。教会の床は石造で、その上に厚いじゅうたんが敷かれているので、普通
では作り出せないような音だった。

それから録音班員たちは、内陣のドアの近くで何かが光るのを目にした。続いて、人を威嚇
するような音がした。これは最後にボーリーを訪れた時の事だったが、ドアのそばのカーテンに小
さな光るものがいくつも見えた。そして、ドシンという音がした。

デンシャムは次のように述べている。

正直なところ、ボーリーはどうなっているのか、説明に困る。人に担がれたりだまされたりし
ないよう、また、テープも新しいものを使い雑音も入らないように、あらゆる努力をした。
いろいろな説明を当てはめてみたが、どれもうまくいきそうにない。教会に鉛筆と紙を置
いていって、何かを書いてくれるように頼んでみたのだが、応じてくれそうにない。まさ
か、テープを壊したりわれわれに物を投げつけたのは、われわれのことをおこっていたから
ではないだろう。
560:2008/11/15(土) 17:13:58 0

境内のエクトプラズム





1974年の夏以来ボーリーを最も定期的に調査していた研究者の一人は、エンフィールド超心霊研究会
の会員でプロのカメラマンであるロナルド・R・ラッセルである。いつも彼に協力しているのは、電気技
師のフランク・パリーと機会技師のジョン・フェイである。ラッセルはアグファcc21のカメラでボーリーを撮影
しているとき、おかしな写真が出てきた。このカメラのフィルムはカセットに入っていて、現像はアグフ
ァの現像所でしてもらう。

まったく通常のフレームの範囲でシャッターを切ったにもかかわらず、教会の境内のエクトプラズム(心
霊体)が写っていた。影のあるはずのないところにあり、北側のドアの近くに薄く光ったも
のが写っていた。カメラマンである私には、カメラの故障とは説明できないものである。

バリーは、ビッチやレベルを調整し、雑音を取り除いて、目当ての音をぴたりと取り出せる8ち
ゃんねるの録音機とグラフィック・アナライザーを使っている。ラッセルは次のように述べている。

われわれは今までに、異常な音や足音、物にぶつかる音などを、何百と収録している。あ
る時、ウォーグレイブ家の墓の近くに、障害物のようなものがあることを突き止めた。エネルギーが
竜巻のように立ち上っていて、触るほどだった。手をそこに通すと、静電気が発生したよ
うにバチバチという感じがした。また別の時には、ブツブツつぶやくような低い声がした。
561:2008/11/15(土) 17:16:48 0
444 KBだった


ラッセルは、プライスが事実を潤色したかもしれないと譲歩はするものの、ボーリーに関してはプライス
一派に加担しているようだ。

私は、ここには3つの要因が作用していると思う。第一は尼僧だ。ウォールグレイブ家のような
カトリックの家庭にいる尼僧ならば何もおかしなことはない。たぶん、クルーム=ホリングスワース氏が見
た幽霊というのは、それに似たある人物の心霊的な記録に過ぎないだろう。第二は、教会
そのものにある種の力が集中しているように思えることだ。そこはふたつの小道の交差し
たところで、教会でダウジングしてみれば、そちらに曲がるはずだ。第三は、その力は観察
者がいると強くなり、季節によって増減すると言っておきたい。

教会の幹部たちは、この問題については話さないようにして、態度をあいまいにしている。
だが、教区のガイドブックには、「幽霊」の見出しがあり、次のように書かれている。

この教会に幽霊が出るという人は、もちろんいる。古い教会や建物には、一部の人が幽霊
が出ると言いそうな雑音や陰気な場所が多いが、この村に長く住んでいる人やこの教会で
礼拝を行っている私たちには、そんな経験はまったくないので、一部の人の言うことは指
示出来ない。

562:2008/11/15(土) 20:07:14 0
この教会に幽霊が出るという人は、もちろんいる。古い教会や建物には、一部の人が幽霊
が出ると言いそうな雑音や陰気な場所が多いが、この村に長く住んでいる人やこの教会で
礼拝を行っている私たちには、そんな経験はまったくないので、一部の人の言うことは指
示出来ない。

                                             >>

ガイドブックの関係者が信用に値するか解らない意味で、、まに受ける事は出来ない、、、。

見たかどうかは、客観的な問題であるが、支持するかどうかとはまったく別の話である、、。

そういうやつらだけに、本当に見た事が無いかどうかは、私にはわかりかねる、、、。

知っていて知らないと主張し、ヤミの死後にまでいたるヒエラルキー支配を進める種類の人間は沢山いる、、。

DSM法の応用ですね、、、。少なくともインディオやローマ関係のヤミの影響下の発言、、。

つまり、人体実験支持者、、。まぁ、カトリックに限らず腹のうちではそういうのは多いですよ、、。(自傷他害行為予告でない)

563:2008/11/15(土) 20:14:20 0
 ↑  http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/army/1206375108/200


まぁ、物的証拠から明らかとなったローマ系の知っていて尚且つ回り込んで心霊現象をでっち上げた事が解る話と、

物的証拠はあるが、はっきりした確実な決定的証拠とは言いかねる物的証拠と心霊体験の報告。

幽霊が物的証拠として残って居続けてくれていれば、確実に皆わかるんですけど、、、。

あの世の死者を察知する事は出来ても、見ると言うと意味がかなり違ってきますよね、、、。

催眠暗示で無い物をあるように見せると言う事例はある、、、。

つまり、同様に何らかのきっかけでないものを見ると言う事はあるようです、、、。

>>455-460を見ても解るように、偶然的に、他の誰かの遠くの出来事と関連をもつ種類の幻影を

見ると言う報告はいくつもある、、、。恐らく、強い念が、そのような幻覚を生じさせるものと思われる。

そのように考えたとき、困ってくるのは地縛霊の存在なんです、、、。どういうことなんでしょう、、、。

はるか古代の人間の地縛霊をも見ると言う報告も聞く、、、。人は平均的には1000年前後で生まれ変わるときいているが、

何千年もこの世をさまよう地縛霊が存在したら、、、ちょっと、私にはそこがわからないんですよ、、。

何度も生まれ変わっていく人がいる傍ら、生まれ変わる事無く何千年も地縛霊としてこの世をさまよう事があるのでしょうか?
564:2008/11/15(土) 20:54:11 0
この疑問に嘘をついたり、間違える事無くはっきり答えられる宗教家や人って今のところ一人もいないのかな、、、。

幽霊と言っても色々いるじゃないですか?嘘をつく幽霊もいれば、真実を告げる奴もいる訳です、、、。

悪霊もいれば守護天子もいる、、。消え行くあの世のものでない魂の地上に属する部分のドッペルゲンガーの可能性もある。

ところが、地上に縛り付けられて情況を知ることが無いか、知っていても成仏する気の無い地縛霊が、数千年間以上も

とどまりつづける事があったら、、、?誰かが、そんなことはない。全ての地縛霊は、数百年経てば間違いなく成仏している

と言い切って、皆がそれを信じ込んで行くときに、本当はそうでなく取り残されて数千年以上、成仏できない例外が存在したとしたら、、、。

各宗教家が、先ず、全員一致ではっきりさせる必要がある種類の話でしょう、、、。

ちょっと、全ての人がこの件については知っておく必要がある、、、。

565:2008/11/17(月) 07:43:28 0
転生の期間の問題については、ろくでもない人生ほど、特に早死にするほど直ぐに生まれ変わると言われている、、。

各の低い人ほど転生の回数が多くなると言う人もいるようだが、、、。(特にシュタイナーや丹波が、、。)

死んで直ぐに生まれ変わって物心がついたときに生まれる前のふるさとに帰ったと言う事例もインドでは良く聞く、、。

しかし、土地に何千年留まり続けるような事はありうるかと言う問題提起をしたということ、、。ちょっと奇形児の問題に似たものがある。

566、ミジンコ:2008/11/17(月) 08:32:38 0
霊に関しては、ヒエラルキーの現れであると一言でいって済ますべき問題なんですかね、、。

ヒエラルキーの地位やその支配力と言う見地で心霊現象はとらえられ対処されているようですが、、、。

ポルターガイストとかに関しては、物に対する解体性や破壊的影響力の問題の意味でそれ以上の支配力と言う問題ではなさそうですが

要する触手に関係した働きで環境にエネルギーを放出するか吸収するかによって物理現象を引き起こす種類の出来事、、、。

場所に付きまとうジンクスの問題も同様に目に見えぬ触手の働きがそこにあって、特有の方向付けが起こる、、。

http://society6.2ch.net/test/read.cgi/police/1162856514/250 で私が見たものは、

ふんわりとぽっかり浮き出て漂うように生々しいものが通過していったと言う事ですが、

触手系の霊が何らかのエネルギーを吸収して特定の人に幻覚を起こさせる力を持つ事もありうるんじゃないでしょうか?

要するに支配力の問題と言うよりは、破壊性や悪の表れと言うか、衝撃を引き起こそうとするペテンに関係したものと言うか、、。

例えそこに霊が居なかったとしても、ジンクスのある場所ではその場所そのものにそれらの破壊性や悪の痕跡と言うものが刻み込まれ残っている

状態と考えられそうだ、、、。逆に有用な働きが刻まれてその場所が奉られるようになる事もある、、。

これが神社の由来である、、、。恐らく精神医療や犯罪学からも何れわかる事になる話であると思われる、、。

何れの存在にせよ差し引きの制約がそれぞれの仕方で付きまとうようになっている世界の仕組みの事を示しているものと思われる。

これは、地縛霊にも当てはまる問題のはずである、、、。地縛霊に関しても受胎に通じる差し引きの制約に関係した問題と考えるべきでしょう、、、。
567、めいちゃん:2008/11/17(月) 08:59:12 0




     / ̄ ̄ ヽ,         容量が少なくなったからね、、
    /        ',
    {0}  /¨`ヽ  {0}',  、、、そろそろ投稿は潮時かな、、、。
    l   ヽ._.ノ    ',
   リ   `ー'′   ヽ  、、ここから先は、ホームエージのコイベを貼っていく事にするよ、、。
  (            )
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http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/esp/1199580812/163 エイリアンワールド

霊魂の世界は、現在途中まで進行中です、、、。
ビーリー司祭館 バイエルンのポルターガイスト アメリカの火の玉 キラキー邸のたたり グラミス城の恐怖 メーファーの幽霊屋敷 コックレーンの怪、、、
、、、、、
、、、、、

、、、

有り得ない事が起きる時、
チャールズ・フォート  ツングースカの爆発、、 双生児 ジンクスとのろい 偶然の一致 コッティングレイの妖精 空中浮遊 人間の自然燃焼 アルケマーデ空軍軍曹
568:2008/11/17(月) 09:34:30 0

  、、、しかし、プライスって奴は、悪いやつだな、、、。要するに詐欺の犯罪のペテンで

成立ってきた奴だが、超常現象の前では輪をかけて、凶悪さの激しさを増すと言う、、、。

569無動機単独テロ:2008/11/17(月) 09:38:32 0
プライスは、見た目はニールス・ボーアのような感じの人なんですけど、、、。






  ○  <<あの世でもこの世でも生きる資格もねぇやろうだぜy!
 く|)へ 
  〉  ヾ○シ プライス
 ̄ ̄7 ヘ/
  /  ノ
  |   
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570:2009/01/01(木) 19:53:27 0
明けましておめでとう御座います、、今年もヨロシクお願いします
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              ゙、;;;|''ヽ l            , /      |ノ
             ヾ、ヽi                  |
              入__ ,、         ,.-、     /゙、
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                ヽ;;;〈  | ゙ヽ、.        /ヽ;;;;;;ノ
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|  正 月 限 定       ..|   ,'/ / / |  |从 | l l |    | | l    |    lト、   l
|                    |   |ハ l ,′ |  |十弋 トミ|    | | |   l|    l| ',  |
|  お み く じ       |   | }|ハ.  !  !   ヾ〉 ヾ    廾ト|、 //|    l|  l. |
|    ※名前欄に     |     l |/ | | |z==ミ    __ 〃|/|∨/ ,'    l|  | ,'
|    !omikuji        .|    |从 |  ヽ |        ==ミ、!// /  / リ  |/
|  と し だ ま        ..|    ヾ川ヽ   \            ハ/  .ハ/ }   
|   ※名前欄に      |        ハ〉\  ヽ   r ′、     厶ヘ  / } /   アウグーリオ・ボナーノ!!
|    !dama        ....|         ヾ \  ',  ヽ__ノ   /| /| / ,'/
|  両 方 な ら        ..|           \_ト、   , ィ ´l/!/ !/
|   ※名前欄に      |           __ /ノ   ̄  ト〈
|   !omikuji !dama   ..|  /  ̄       / /        |  >-ー──- 、
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|呼ばれませんように      {   ',  / /           | |  ヽ /    l
└────────ーヽ        } | |            | |   Y     l
572世界@名無史さん
                      ,ィ, (fー--─‐- 、、
.                     ,イ/〃        ヾ= 、
         _,,r-‐''"´ ^ `N /l/               `ヽ
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 彡´      |    ,,w,,wヽヽ              ,,      |      `ヽ‐‐-- 、
_彡          |  //レ/ハl/ハ\ヾー        _,, ,,r,,/lヾ    |         }    `‐、
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/レ  /l,,_/__ヽ lヾ ヽモ-ヽl ´fモチ7ヽ={ r‐ィッヾ ヽ-r'´〒fデF`lェr‐、ハlヽヽヽ   l     ヽ |
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  ヾl   `'  `''´lヽ  ──   /l\l        l、,      l_ノ 〈 _     l!ノ l、,    lソ
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   ,,-‐''       \  /\/\  / \.  \____/  /\    ,,-‐''  /\ ,/  l  ヽ
-‐''´         \/  }゙ _,,,‐''\   \        /   /l\‐''    /  `ヽ、_ l
                 >>1 俺 た ち の 出 番 だ な ! !