1 :
世界@名無史さん :
2006/08/11(金) 00:44:52 0 カリフの権威が蔓延ったイラン史 アッバース朝、ブワイ朝、セルジューク朝、ホラズムシャー朝 このへんすかね?
2 :
世界@名無史さん :2006/08/11(金) 01:51:59 0
2ゲット
アッバース朝、ウマイヤ朝のスレがすごい閑散としてるんですけど・・・
4 :
世界@名無史さん :2006/08/11(金) 21:50:06 0
隻眼の武将ターヒルとか鍛冶屋のヤークーブとかが王朝を建てた経緯 無学なので全然分かりません
>鍛冶屋のヤークーブ ハワーリジュ派に対抗して自警団を組織したんだっけ? うろ覚え
マイナーなイラン史の上に更にマイナーな時代を選んだな。
過疎化しないように
>>1 自身が盛んに話題を振らないといけないよ。
イランと中国くらいかねぇ。年代まんべんなくスレが立つ傾向があるのって?
ロシアとドイツも一応全時代カバーされてると思った。
ドイツとロシア史って、イランと中国の1/3くらいの長さだからねぇ全時代といっても。
10 :
世界@名無史さん :2006/08/12(土) 12:30:30 0
この世の全ての美しいものはイランに発する と、故・本多実信氏が仰っておられます。(『モンゴル時代史研究』序説)
11 :
世界@名無史さん :2006/08/13(日) 12:38:38 0
12 :
世界@名無史さん :2006/08/13(日) 14:59:56 0
取り敢えず、この時代のイラン史を扱った本を紹介してくれ。
アイヤール
アイヤールってゾロアスター教徒なの?
もっと昔の「ジャヴァーンマルド」とかだったらそうかもしれないですね。
17 :
世界@名無史さん :2006/08/19(土) 21:08:41 0
18 :
世界@名無史さん :2006/08/26(土) 02:04:06 0
イスマイール1世が出て来るまでシャーの称号を使う人は居なかったんでしょうか? また、それは何故なんでしょう?
シャー使われてたよ。そもそもオスマン朝もシャーだったりする。
オスマン朝は「シャー」と言うより、「パードシャー」だと思うがな。 ブワイフ(ブーヤ)朝とかセルジューク朝とかホラズム・「シャー」朝とか 普通に「シャー」って使ってると思うのにサファヴィー朝の時だけ特別視するのは何故?
ブワイフ朝は「シャーハンシャー」か「アミール・アル=ウマラー」が一般的で、 セルジューク朝は「スルターン」か「シャーハンシャー」。「シャー」単独は 称号と言うよりは王族の人名要素。ホラズムシャー朝も基本的に同じで、君主は 「ホラズムシャーであるスルターン・だれそれ」という形式。王族は「マリク」号。 王号として「シャー・なになに」で呼ばれるのは意外にもサファヴィー朝以前には あまり大きな王朝ではなかったので、それで「シャー」といえばサファヴィー朝なのかも。
>19 そういやオスマン朝の王宮ではペルシャ語使ってたんだな セルジューク朝なんかでもそうだったんだろうか?
文学はみんなペルシア語
24 :
世界@名無史さん :2006/09/14(木) 00:24:00 0
支配者がアラブ人からトルコ人に変わったンで遠慮なくペルシア語を記せるようになったと言うが…
>アラブ人からトルコ人に変わったンで 小池一夫?
26 :
世界@名無史さん :2006/09/18(月) 22:13:16 0
28 :
世界@名無史さん :2006/10/15(日) 16:07:24 0
age
29 :
世界@名無史さん :2006/10/23(月) 22:22:04 0
チンギスハンとジャラールの戦いは英雄的な物語として語り継がれたが 耶律大石とサンジャルの戦いなどはイラン人にとってどう言う扱いなんでしょう?
30 :
世界@名無史さん :2006/10/23(月) 22:24:53 0
東洋文庫の「王書」は高いけどお薦め。
今のイラン人にどう捉えられているかは知らないけど、 スルタン・サンジャルの敗北は東方イスラーム世界にとって、かなりの痛手だったことは確か。 サンジャルのお蔭で取り敢えず纏まりかけていたイラン地域の支配が、この敗戦をきっかけに 群雄割拠状態に逆戻りした。特にセルジューク本家の内紛は歯止めが効かなくなり、しかも マーワラーアンナフルにオグズ系の諸集団が大量に流入するようになった。 サンジャルは敗戦の後もホラズムやゴール朝との戦闘で威信の回復に努めたけど、兄弟の スルターン・ムハンマドの一族が支配するイラン西部へは殆ど手が付けられなくなったし、 東部ではオグズ集団との戦争で掛かり切りになった。結局この混乱を収束出来ないうちに、 配下のオグズ集団の反乱にあって捕虜となることに。 耶律大石とサンジャルの戦いは、セルジューク朝崩壊の遠因と理解されていると思う。
ルームセルジューク イラークセルジューク ケルマーンセルジューク に分裂
暗殺教団の時代ですよね?
まあ後半は・・・
「フワダーイナーマグ」って日本語に訳すとどう言う意味?
直訳すると『主の書』だが、要は『シャーナーメ』の前身みたいなもんだと思えば良いかと。
>>33 セルジューク朝に抗うのもイラン人の反チュルク感情が産み出したものとも
でもホラズムシャー朝には従うわけで
38 :
世界@名無史さん :2006/12/02(土) 08:56:29 0
age
「フワダーイナーマグ」についての論考は、伊藤義教「古代ペルシア」(岩波)に 出てるよ。図書館にしか置いてないと思うが。
ルリスターン王国について書かれているお奨めの邦語文献・HPを ご存知でしたら、教えていただけないでしょうか? モンゴル侵入前後の君主の事跡が分かると嬉しいです。
ここで聞いたら数ヶ月待つことですな
42 :
世界@名無史さん :2007/01/07(日) 00:39:38 0
age
age
44 :
世界@名無史さん :2007/01/16(火) 05:33:35 0
age
45 :
世界@名無史さん :2007/03/01(木) 23:13:48 0
流石に話題ないねぇ
人大杉時代が長くてみんな気分が盛り下がっちゃったからな
アッバース朝と被っているし、仕方ない向きもある フランク人はアッバース朝の事もペルシアと呼称していたよーですし
パーレビの子孫は今どこに
49 :
世界@名無史さん :2007/03/27(火) 21:44:11 0
在米イラン人は肩身狭かろう
51 :
世界@名無史さん :2007/04/08(日) 23:25:31 0
サファビー家は正統カリフ、アリーの子孫であると言うサイイドの家系であり ササン朝最後の君主ヤズデギルド3世の娘の血筋であると言う名門だと言う事 だが、シャイフサフィーが出る前、ブワイ朝やらセルジューク朝の頃はなにを やってたの?
52 :
世界@名無史さん :2007/04/10(火) 02:21:03 0
ササン朝が滅んでからフラグの侵入まで600年もあるんだな。 アッバース朝、セルジューク・トルコの支配が長かったのか。 アラビア語化もトルコ語化もされなかったのはスゴイね。
その分、イラン人のウリナラマンセー気質ができてしまったわけだが 特に、古代ペルシア帝国の栄光なんてものがあるもんだからややこしい
アゼルバイジャーンなんかはトルコ化してますが
55 :
世界@名無史さん :2007/04/22(日) 19:49:12 0
「諸預言者並びに諸王の歴史」は歴史書で「王の書」は叙事詩 この違いってなんなのでしょう?
タバリーの『諸使徒と諸王の歴史』は散文。天地創造から始まって アーダム、ヌーフ、イブラーヒームなどの聖書に現れる預言者たちの事蹟や イエメン、イラン世界、シリアなど各地域の諸王や系譜、その治世が語られるが、 ヒジュラ暦以降は年代記形式。 『シャーフ・ナーマ』はそれに対して韻文。カユーマルス王に始まるカヤーニー朝や ピーシュダーディー朝、アシュカーニー朝、サーサーン朝の諸王や英雄たちの事蹟が 唱われているが、これも一応「歴史書」の1スタイル。
王の書に記載される諸王にアレキサンドロスが居るのは違和感がある いいんですかこれは?
58 :
世界@名無史さん :2007/06/02(土) 23:48:38 0
age
59 :
世界@名無史さん :2007/06/04(月) 22:01:54 0
ガズナ朝とかの時代にはホラーサーンあたりにまでアラブ遊牧民がいたらしいですね。
フラグかっこいい!掘られたい!
サーマーン朝こそ、サーサーン朝ペルシアの後継者として相応しいな。 いっそのことバグダードに兵を進めて, 弱体化したカリフなんざ幽閉しちゃえばよかったのに。
しかしトルコ人傭兵を招き入れた為…
63 :
世界@名無史さん :2007/06/09(土) 22:45:36 0
もし、トルコ人がイスラム世界に現れなかったとしたら、 ペルシア人が、停滞気味のアラブ人にかわって政治・文化面でイスラム世界を席巻して 西はビザンツ帝国を滅ぼし、東はインドまで達する大帝国ができていただろう。 オスマンの脅威ではなく、ペルシアの脅威としてヨーロッパ人に恐れられ まさしく、古代のペルシア帝国の再来となったと思う・・。
そんないまさらペルシアをヨイショしても、 喜ぶのはアハマディネジャドだけじゃ。
ペルシア人を征服者であるトルコ人やモンゴル人に唯々諾々と 従うだけの弱い存在だととらえるのも一面的過ぎると思うがな。 軍事面では劣弱で、異民族の支配下に置かれても、それ以外の 行政や経済や宗教や文化などの分野でペルシア人がある意味、 裏では実権を握っていたと言えるし。 また、トルコ人の征服活動に伴って、イランで生み出された 国家統治のシステムやイラン的なイスラム文化、国際語・ 教養語としての近世ペルシア語など、様々なイラン発祥の ものがインド、中央アジア、アナトリア、バルカン半島など、 伝統的なイランの領域を遥かに越えて広がることになったし。
むしろトルコ人の騎馬弓兵という兵科がなぜあれほど幅を利かせていたのか理解できない。 ペルシャにももともと重装騎馬弓兵がいたはずだが。
やっぱり、ペルシア人より 草原の遊牧トルコ人の方が扱いやすかったんじゃね? 安くて、よく働く・・。
農地に定住しちゃったから、数の面でも経済面でも重騎兵向きになっちゃったんじゃない? 広い放牧地を取れないから馬の数は少ない代わりに、経済力では優ったから重装備が可能になった。
そーすね、もともとパルティアンショットとかイランの騎馬弓兵なのに 何時の間にかお株を奪われた感じ
イブンハルドゥーンによると、荒々しい遊牧民族は政権を獲って 都市に定住しちゃうと、弱っちくなっちまうのがパターンって事らしいぞい。
代表はティムール朝ですか?
72 :
世界@名無史さん :2007/06/30(土) 22:51:10 0
玄奘が会った統葉護可汗もイステミやムカンの頃とは違って、オアシス文化にどっぷり浸かっていたと…
73 :
世界@名無史さん :2007/08/02(木) 20:42:27 0
この期間の西アジアは数学や化学、医学が発展してましたねぇ
古代ギリシャ・ローマの文化とインド・中国など東方文化が ぶつかる所だからな、発展して当然。 イブン=シーナが驚嘆を持って利用したブハラの図書館が チンギスの西征で失われたのか、或いは接収したのかが気になる。
75 :
世界@名無史さん :2007/08/22(水) 23:36:21 0
ブハラもイランと呼べるのでしょうか?
76 :
世界@名無史さん :2007/08/23(木) 00:41:16 0
当時のサーマン朝は、イラン国史上では、自国史に入っているから。
ホラズムやマーワラーアンナフルがイランじゃなくなるのは オグズトルコ人が南下し始める頃までなのかね だいたい何処までがイランで何処からがトゥランなんだ?
マムルーク朝のバイバルスがモンゴルへ送った書簡では 「イラクをアッバース朝のカリフに返還してホラーサーンへ引き上げろ」 とか書いてたな。
79 :
世界@名無史さん :2007/09/08(土) 20:54:11 0
「シンドバットの冒険」みたいな感じでは
81 :
世界@名無史さん :2007/09/09(日) 00:33:42 0
82 :
世界@名無史さん :2007/09/09(日) 01:02:05 0
このへんの歴史ってよくわからんのだけど ササン朝ペルシャの後がイル汗国なのか で、それから今のイランまでの間は何なの?
83 :
世界@名無史さん :2007/09/09(日) 05:06:35 0
ササン朝ームスリムの支配ーウマイヤ朝ーアッバース朝ーターヒル朝ーサーマン朝 ーブワイフ朝ーセルジューク朝ーイル汗国 チムール朝ー白羊朝ーサファヴィー朝ーアフシャール朝ーゼンド朝ー ガージャル朝ーパフレヴィー朝ーイスラム革命ーいまのイラン
兎に角長い歴史がある、と
85 :
世界@名無史さん :2007/10/15(月) 22:57:17 0
当時の12イマーム派の扱いはどうだったんでしょう? 国教化されるのはサファビー朝からだし でもスーフィーは浸透していた様だし
86 :
世界@名無史さん :2007/10/16(火) 22:18:39 0
サファヴィー朝成立以前の現在のイランの領域に確たる12イマーム派の信徒ってそんなにいたのか? サファヴィー教団にしても、もともとシーア派に宗旨替えする前にはスンナ派の教団だったし。 イルハン朝時代の今のイラク南部ではムハッキク・ヒッリーやアッラーマ・ヒッリーなど、 12イマーム派の有力なウラマーが活躍してたとはいえ。
88 :
世界@名無史さん :2007/10/18(木) 22:10:06 0
マズダク教やマニ教はあったんだろうか? ゾロアスター教やアッシリア教やユダヤ教などは一応今でも残っているけど
スンニーも5イマーム派や7イマーム派も普通に
90 :
世界@名無史さん :2007/11/19(月) 22:52:54 0
ゾロアスター教の文学ってさ、 イスラム支配下になっても意外に盛んだったような気がするな。 サーサーン朝の枠組みが無くなって逆に自由に創作できるようになったのかな。
91 :
世界@名無史さん :2007/11/20(火) 21:51:17 0
盛んになったのは、アラビア文字になったからでは?。
記録すると言う事自体が重要視されていなかったのはインドと一緒 アラム文字(とその派生のパフラヴィー文字)もイランの言語と合致して居なかったと言うのも
姉貴の親友の旦那がイラン人でユダヤ教徒。 テヘランにある実家は豪邸とのこと。
94 :
世界@名無史さん :2007/11/24(土) 19:15:12 0
当時の世界の先進地域 衰退はやはりモンゴル侵入なのだろうか?
モンゴル侵攻前から荒廃が進んでいたと 杉山正明は言っている。 しかしペルシア史専門のデヴィッド・モーガンも モンゴル軍がカナートなどを破壊したと 言っているが・・・
カナート破壊したのアフガンだけじゃなかったのか
98 :
世界@名無史さん :2007/12/01(土) 21:42:51 0
99 :
世界@名無史さん :2008/01/02(水) 22:39:01 0
この時代の西アジアが発展してたのは ローマとの抗争が無くなったからでは? エジプト、シリア、ペルシア、トルキスタンと一気通貫 で、もちっとすると、ヨーロッパや中国も含むようになって 単なる一地域に転落すると
100 :
世界@名無史さん :2008/01/27(日) 10:26:01 0
イラン人の心のよりどころはイスラムになるのか
101 :
世界@名無史さん :2008/01/27(日) 15:58:22 0
ゾロアスター教って古代からイラン系民族しか入信できなかったんですか?
102 :
世界@名無史さん :2008/01/27(日) 16:27:17 0
>>96 セルジューク朝の成立により農地などの荒廃が進んだのであろうか?
マムルークは城に住んでいたそうだが、トルクメンやカンクリは遊牧民であり
続けたそうで、その為に農地が放牧地へ転用される事があったそうだ。
セルジューク朝自身は、ニザームル=ムルクあたりが検地や土地制度の整備なんかを やっていたおかげで、王家が分立傾向にあっても各々の王家自体が地方政権化して 引き続き土地の整備は保持されていたみたい。 問題は、サンジャルが西遼の耶律大石に大敗したことで、これで旗下のオグズ諸部族 の統制が全く取れなくなり、12世紀の後半にはイラン東部から南部全体がはオグズの 侵入で掠奪やら都市や農村が襲撃されるやらで滅茶苦茶な状態になった。 (ケルマーン・セルジューク朝が瓦解したのもオグズの首領マリク・ディーナールとかの所為) 最後はホラズムシャー朝のテキシュがオグズ諸部族を鎮定し、ついでにセルジューク朝も 滅ぼしちゃうけど、色々着手する前に死亡。息子のアラーウッディーン・ムハンマドとかが 徐々に回復させようとしていたらしいけど、本拠地はマーワラーアンナフルだったので 割拠状態のイラン本土東部の諸都市はあんまり回復していない上、都市部では中央からの統制が 及ばなくなったことで、シャーフィイー法学派とハナフィー法学派の権力闘争で市街地が瓦解する ぐらい酷いことになっていたそうだ。(場所にもよるらしいけど) しかもトゥグリル・ベク以来繁栄したホラーサーンの中心都市ニーシャープールは、1200年頃に 地震で都市全体が崩壊し、住民の殆どが犠牲になるという終末的有り様。 有名なイブン・アル=アスィールの『完史』やジューズジャーニーの『ナースィル史記』、 ナサウィーの『ジャラールッディーン伝』その他モンゴル軍の悪逆非道の数々を非難するけど ホラズムシャー朝にしてもアラーウッディーンやジャラールッディーンもモンゴル軍と同じく 言うことの聞かない都市は掠奪や殺戮とかやって北西イランのアタベク政権やらアイユーブ家の 王族やらからかなり恨まれてもいたりする。1200年代からフレグがやってくる60年代までの イラン東部の状況って意外と良く分からなかったりするんだよね。
はあ、杉山正明さんの本でよく書いてある「イランではモンゴル軍の破壊より
それ以前の内乱等が云々」てのはそういうことだったんですねえ・・・
>>102 じゃないけどサンクス
(あの先生の本肝心なところで説明が短いような)
105 :
世界@名無史さん :2008/01/28(月) 18:18:16 0
>>103 ニザーム・アル・ムルクが、多くのトルクメンらをアナトリアへ誘導した事により、
イランは救われたと言う事の様ですな。
マンジケルトの勝利がなければ、アナトリアではなく、おそらくイランがトルコ化
していたのでしょうな。
ところで、モンゴル襲来以前に、ニシャプールが崩壊していた事が事実であるならば、
多くの本で描写されてきたニジャプールの攻防は、全くのフィクションなのだろうか?
106 :
世界@名無史さん :2008/02/02(土) 22:42:11 0
アゼルバイジャンのトルコ化はどーなの?
セルジューク朝を研究しようと思ったんだが、 トルコ語・アラビア語・ペルシア語を勉強しなきゃならんぞって言われた。トホホ・・・・・^^
当方素人だが、「アム河からミスルまで」とその周辺のイスラム王朝はたいていそんな感じでは・・・
ニザーミーヤ学院で勉強だ!
110 :
世界@名無史さん :2008/03/13(木) 22:35:57 0
age
>>105 20年あったら日干し煉瓦の都市はそれなりに復興すんじゃない?
その気があったらだけど。
>>111 復興するまでの間に通商ルートとか変わっちゃったらアウトだろ。
113 :
世界@名無史さん :2008/03/18(火) 01:19:05 0
アゼルバイジャンは完全にトルコ化されたね、他民族からは住民は今でもトルコ人呼ばわり。 でもアゼル人が多数移住して急成長したテヘランでは逆にあっと言う間にみんなペルシャ化。 この変わり身の早さはさすがにイラン人だな。
そういえばオスプレイの「ササン朝のエリート騎兵」では 「クルド人やテュルク系アゼルバイジャーニーはメディア人の子孫」とか書いてあったがマジ?
>>114 間違いでは無いんだろうけど、完全に正しいと言うわけでもないかと。
とりあえず今のクルド人の伝説としてはメディアが祖先となってて メディアのアッシリアからの独立を祝ったりしてるそうだけど。 まーシュメールの記録にもなんかクルドっぽい名前の民族が あったりするらしいけど。
>とりあえず今のクルド人の伝説としてはメディアが祖先となってて >メディアのアッシリアからの独立を祝ったりしてるそうだけど。 よくある近代になってからナショナリストが言い出したとか そういう話だったら残念だなあ
そういえばクルド独立派は自分達がペルシア帝国の末裔だとして、ゾロアスターも祭っているらしいな。
>>113-114 全然関係ない満州人スレで話題になってたが、どうなんでしょうね。
150 名前: 世界@名無史さん [sage] 投稿日: 2008/04/06(日) 21:52:20 0
>>148 例えばイランの場合だとテュルクに同化されたアゼル人とペルシャ人とは完全に別の人種。
言語だけでなく、文化も食習慣も行事も見た目も全く違う。
原住民の言葉を完全に塗り替えてるのに、他の文化は失ったなんてそんな事ある訳ないしね。
実際には原住民との融合って感じだろう、それもかなりテュルクの文化が優位に立ってる。
152 名前: 世界@名無史さん 投稿日: 2008/04/07(月) 02:14:26 0
例えばイランの場合だとテュルクに同化されたアゼル人とペルシャ人とは完全に別の人種。
言語だけでなく、文化も食習慣も行事も見た目も全く違う。
↑?うそだろうが!シーア派であるところの、イランのアゼル人はイラン全土で完全に溶け込んでいる。
で、アゼルバイジャンのトルコ化もセルジューク朝のころなんでしょうか?
121 :
世界@名無史さん :2008/05/04(日) 19:20:38 0
あげとこう
122 :
黒崎恵 :2008/05/17(土) 14:43:22 0
123 :
世界@名無史さん :2008/05/17(土) 20:55:10 0
ただ色んなスレ唐揚げ保守しまくってる↑は何なの?
124 :
世界@名無史さん :2008/06/13(金) 00:26:24 0
アゼルバイジャンだけでなく 現トルクメンのあたりもトルコ化しただけなの? それともセルジューク族が南下して定住したの
125 :
世界@名無史さん :2008/07/05(土) 22:10:46 0
>>119 ガージャール朝の第5代目のモザッファロッディーン・シャーは、1896年に即位するに当たり
皇太子時代に住んでいたタブリーズから多数のアゼリ人官僚をテヘランに招き寄せたんだが、
これが、テヘランの人間たちにはかなり不評だったらしい。
126 :
世界@名無史さん :2008/07/06(日) 01:27:12 0
127 :
月読 :2008/07/11(金) 16:11:18 0
日光よろしく!
age
129 :
天照大神 :2008/09/10(水) 16:31:51 0
サンドイッチマン
130 :
世界@名無史さん :2008/10/28(火) 22:26:07 0
アッバース朝もヨーロッパ人はペルシアと呼んでいたようですが とうのペルシア人はどう思っていたのでしょう? フーゼスターンあたりのアラビア化もこの頃?
日本人も明治まで、中国の事を唐と呼んでましたがな
中国人も波斯 でも大食とも言ったし
133 :
月読 :2008/10/31(金) 14:46:40 0
サンドウィッチマン
134 :
世界@名無史さん :2008/10/31(金) 16:57:38 0
>>130 アケメネス朝の頃から、対外的にイランと称してたそうだ。イラン統一帝国を
メデイアとかペルシアと呼んでいたは、ギリシャ人ら側だったそうだ。
地名由来がペルシアで民族名に由来するのがイラン、だっけ?
現代の一般的なイメージじゃイラン=十二イマーム派政権だと思うんだ。 だからサファヴィー朝以降を便宜上「イラン」と呼べばいい。
137 :
世界@名無史さん :2008/11/05(水) 18:28:54 0
ペルシアは西洋人の呼んでた名前じゃないの?
ん、インド人もパールシ言うし中国人も波斯言う
139 :
世界@名無史さん :2009/01/01(木) 16:24:42 0
カズニー朝のマフムードはインドや中央アジアへばかり手を出して イラン征服をしようとしなかったのは何故だろう?
140 :
世界@名無史さん :2009/01/01(木) 18:01:41 0
中東の軍事情勢8
http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/army/1219424787/ 992 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/12/31(水) 08:01:25 ID:???
元々イランはトルコ系遊牧民が建てた侵略王朝をイラン人が革命で乗っ取った国家なんだな。
清と中華民国/中共みたいなもの。
ただ中国と違うのはイラン人が5割しか居ないこと。
首都テヘランを含む北部は侵略したトルコ系遊牧民の末裔=アゼル人が多数派。
ちなみにこのアゼル人はアゼルバイジャンの主要民族。
他にも北西部はご存知クルディスタンの1部だし、東部一帯も別民族・バルーチ人なんだな。
こんな他民族国家で、今のイラン政府みたくシーア万歳だの経済無視だのの御乱行を続けりゃ
そりゃスンニ派のバルーチ人の蜂起に逢うさ
今は税制上の特権を与えてアゼル人を取り込んでるけど、今の財政でどれだけ続くのかは果てしなく疑問
アゼル人が特権を失い、結果民族連帯を選択した段階でイランは崩壊する
クルド人とバルーチ人もイラン系
>>139 一応、ホラーサーンへ侵出しカスピ海南岸のゴルガーン、タバリスターン地方まで征服して
現地のズィヤール朝を併呑している。マフムードが即位した頃はちょうどブワイフ朝の
最盛期であるファフルッダウラの治世の晩年くらいで、レイやイスファハーンのある
ジバール地方とかはブワイフ朝の支配がまだ堅牢だったから侵出は難しかったろう。
143 :
139 :2009/01/02(金) 20:28:07 0
しかしマフムードほどの戦争マニアなら、バグダット上洛の野望を…と思わなくもない 後の時代だとティムールみたいに、あるいはセルジューク朝の様にカリフに招聘されたり
細かい話だけど、京に上がるわけでもないのに、上洛って言い回しおかしいよな。 ニュアンスとしてはわかるけどさ。
145 :
世界@名無史さん :2009/01/05(月) 21:00:20 0
対応する言葉はないのかな? バグダッドが他都市に優越したステータスをもっていたなら それなりの言葉も生まれてもおかしくなさそうだけどね。 イランの若者達には 「いつかバグダッドで成り上がってやる!!」 みたいな意識はなかったのかしら?
>>144-145 ペルシア語やアラビア語の文献では単にバグダードへ「行った」とか「来た」とかいう
言い回しで、特に「上洛」のような都へ行くことそれ自体に特別な言い回しは使っていない。
ペルシア語では君主の言動に対して日本語での「〜あそばされる」や「〜なされる」のような
敬語表現が見られるが、「上洛」とはニュアンスが違う。
バグダードの雅称が「平安の家(都)」(ダール・アル=サラーム)とは良く知られているが、実際に
モンゴル時代までに頻繁に見られる表現は「カリフ権の家」(ダール・アル=ヒラーファ)の方。
イラン高原の人間はホラーサーンならホラーサーンで、イスファハーンならイスファハーンで、
「自分達がペルシア文化を牽引している!」という意識が強いが、ブワイフ朝ならレイやイスファハーン、
セルジューク朝ならイスファハーンや中期はサンジャルのメルヴ、ニーシャープールなどその時々の
有力君主の宮廷へ出仕して出世の糸口を掴もうという気運と言うか傾向にあって、バグダードに対して
特別に成り上がりや出世などのチャンスを持とうというのはあまり感じられない。
バグダードには勿論カリフの宮廷があるが、他にもシャーフィイーなどの有名な学者たちの墓廟が
多数あって、スンナ派における諸処の法学派の学問的な中心地だったことは確かで、むしろそういった
学者たちの遊学・教学の拠点としての意味合いならかなり強い。無論、カリフ宮廷に仕えることにはかなり
意味はあったろうけど、ブワイフ朝の勃興でカリフ権力が大きく縮小して以降は、イラン高原各地の
有力君主の宮廷で知己や権力を得る方が出世の道としては強力だったので、そちらの方の比重が大きい。
147 :
145 :2009/01/06(火) 13:43:08 0
詳しくどうも では、ついでに。。。 遊牧系住民と農耕系住民で都市への意識は違ったのかしら? ペルシャ文学に都市へのあこがれをモチーフにしたものとか無かったのかな?
148 :
世界@名無史さん :2009/02/11(水) 00:32:17 0
イブンシーナーなんかもイスファハンで仕事してるね
149 :
世界@名無史さん :2009/04/27(月) 23:47:31 0
age
150 :
世界@名無史さん :2009/07/15(水) 22:43:41 0
スキタイやアランはイラン系の遊牧民と言われますが いつの間にか遊牧民と言えばトルコ系になってる感じがするんすけど どう入れ替わったの?
だいたいフン族の頃に草原地帯を乗っ取られたのでは・・・ 自分も詳しくないんで誰か解説お願いします
152 :
世界@名無史さん :2009/09/03(木) 22:30:06 0
アラブの征服と沈黙の2世紀の間じゃね? 共通語としてのイラン系言語が役立たなくなったら遊牧民なんて、、、
153 :
世界@名無史さん :2009/09/06(日) 21:52:49 0
ごく素朴な疑問だけど、8世紀以降イラン人のイスラムへの改宗が急速に進行 した最大の要因は何ですか?
154 :
世界@名無史さん :2009/09/11(金) 18:29:27 0
中央日報 2004.09.27 スペイン紙「韓国4228年間、中国の属国」
スペインの有力紙「エル・ムンド」のウェブ版(www.elmundo.es)が「韓国は4228年間にわたって中国の植民地だった」と紹介し、波紋が広がっている。
27日、サイバー外交使節団「バンク」(www.prkorea.com)によると「エル・ムンド」は「韓半島は長い歴史のなかで数多くの侵略を受けてきた。
中国に1895年まで属していたが、1910年の韓日合併までの15年間にわたって独立を味わったりもした」とわい曲した。
「エル・ムンド」は「韓半島は長い歴史のなかで数多くの侵略を受けてきた。中国に1895年まで属していた(略)
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=56213 http://blog.goo.ne.jp/think_pod/e/0b306f901f4daf3e42a18ba5e2664129 世界の教科書
◎ ドイツの教科書
「日本が大陸に最初の足がかりを築いたのは4世紀の事だった。その後300年、
日本は朝鮮半島を支配する地位にあったが、唐との戦争に敗れ、17世紀になるまで待たなくてはならなかった」
◎ フィリピンの教科書
「朝鮮は、その歴史の大部分中国の属国であり、その支配は19世紀に日本に引き継がれた。
日本は自由な新しい秩序を樹立する事によって、朝鮮に平和と安全をもたらそうとした」
◎ インドネシアの教科書
朝鮮を中国の属国として記した。
「朝鮮の文化と芸術は中国・モンゴル・日本文化の影響を受けた」
「朝鮮は言論・宗教の自由が制約を受ける国」
「北部はロシアが、南部はアメリカが占領している」
◎ タイの教科書
「朝鮮は中国の支配下に入り、これが19世紀まで続いた」
◎ ポーランドの教科書
「AD1世紀以来、日本と中国は朝鮮半島の領有権を巡って衝突した」
◎ アメリカの教科書
「朝鮮は中国の従属国」
◎ カナダの教科書
「朝鮮は、数百年間中国の属国」
「日本は<中略>朝鮮に鉄道・道路・港を建設し、産業を発達させて教育の機会を拡大させようと努力した」
◎ イギリスの教科書
「西暦366年から562年まで、日本が朝鮮半島を支配した」
イランと何の関係が?
>>155 こう言うのが可哀想な朝鮮依存症と言うものなんだろう
ズィヤール朝ってマイナーだよね
ズィヤール朝は一時期テヘランのあたりとかホラーサーンの北西部まで 進出したけど、基本的にカスピ海南部の地方政権だからね。 他にもあのあたりはカーリン朝、バーワンド朝、パードゥースバーン朝とか みたいなサーサーン朝王侯の子孫を名乗る一族(ズィヤール朝もそのひとつ)から、 アリー朝とかマルアシー家、ムルタダーイー家みたいにアリー家系統の聖裔家の 一門がいたけど、カスピ海南部限定なのでとてもローカルでマイナー。 一応サファヴィー朝とかダイラム出身のブワイフ朝とか居るけど、前者は遊牧民の テュルクメンを布教によって戦力に取り込んで拡大したものだし、ブワイフ朝も 屈強な歩兵戦力を基盤に勃興している他に、ともにイラン高原やイラクに進出すると、 本拠地をイスファハーンやバグダードあたりに移しているからちょっと特殊か。
参考になるなあ
160 :
世界@名無史さん :2009/11/12(木) 06:24:14 0
モンゴル国の国際関係
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%96%A2%E4%BF%82 南に隣接する中国とは、伝統的に関係が悪い。「娘が中国人と結婚したら一家の恥」との通念が今でも通用しているし、国政選挙でも中国との関係改善の是非が争点になる。
モンゴルが漢字文化を一切受容しなかったのも、モンゴル人が中国人を嫌ったためである。
モンゴル人にとって「中国人のようだ」というのは最大の悪口となり、選挙でも「あの候補は家系に中国の血が入っている」というのは最大のスキャンダルとなる。
日本人を含めた東洋系外国人が、街頭で「中国人か?」と聞かれることはまずない。中国人は蔑称であり、喧嘩を売っていることになるからである。
通常であれば、「中国生まれのモンゴル人(または韓国人)か?」と聞かれる場合が多い。ただし、日本とはまだ縁遠いため、日本人かと聞かれることは少ない。
モンゴル人と中国人との衝突事件、あるいは中華料理店に対する襲撃事件は、ニュースにもならないほど日常的に起きている。
学校教育で、中国人に敵意を煽る教育は行なわれていないが、家庭教育で敵意を植え付けている場合が多い。
モンゴル人の子どもが語る「学校の怪談」でも、中国人による殺人事件が頻繁に登場する。
現在、中国人が嫌いなモンゴル人は9割、好きなモンゴル人は1割と言われる。
衣料品や、家庭電化製品は、中国製がほとんどであるが、モンゴル人は、「中国の商品は構わないが、中国人の思想が気に食わない」と語る。
161 :
世界@名無史さん :2009/11/12(木) 06:31:47 0
モンゴルが親日・・・何でだろうな? 元寇撃退したから日本がモンゴルを嫌う理由はないだろうけど モンゴルが日本を好きな理由が思い浮かばないな 中韓と違って日本が援助してるのを国民に隠してないからとか?
スレタイにモンゴルと付く所には全部貼ってるのか。 ここ「モンゴル侵入前夜のイラン」だから関係ないのに。
イマーム様は、きっとやって来る・・・ハズ。;;
165 :
世界@名無史さん :2010/04/22(木) 10:53:20 0
モンゴルは、朝鮮の反日を反中国にした様な国なんだな。 その位しないと中国文化に呑み込まれるってのは理解できる。
ギーラーン地方には、旧サーサーン朝系の貴族たちが、 落ちのびてきて小王国を築いていたみたいだね。
167 :
世界@名無史さん :2010/05/01(土) 22:59:52 0
毛「我々、中国共産党としては外モンゴルと内モンゴルの統一を考えています」 スタ公「モンゴルにとっては良い話だが、中国の領土は減少してしまう。それでも構わないのですかな?」 毛「何の問題もありません。モンゴルは統一した上で中国に戻れば良いのですから」 スタ公「モンゴルは既に独立国である。再び中国に属することは不可能だ」
168 :
世界@名無史さん :2010/05/01(土) 23:34:32 0
モンゴルにはソ連がいたからなんとか独立できたけど、 チベットはそういう後ろ盾が無かったから結局中国に併合されてしまった。
169 :
世界@名無史さん :2010/05/04(火) 12:57:24 0
あげ
170 :
世界@名無史さん :2010/05/04(火) 14:31:59 0
>>168 一時はイギリスが後ろ盾になりかけてたんだけどな。
まあ、イギリスも英領インドの背後のチベットをグルカやアフガンみたいに
保護国化するのが目的だったわけだけど。
朝鮮半島もソ連とアメリカのパワーゲームで分割になってしまったが、 そうでなきゃ、中国の自治区担っていた可能性が大きいな。
それはありそうだね どさくさに紛れて満州まで自国領にしてしまった連中だし
人口的に極端にデカい自治区が出来てしまうわけだが、 はてさてどんな有様になることやら。
人口を背景に自治だなんだとごちゃごちゃごねたら間引かれちゃうだろうね 中国共産党はそういうの結構容赦しないっしょ
イランは国内の多民族政策どーだったんクルドやバルチスタンもけっこうやられているなというかんじだが。
クルドやバローチは自らを独立した民族と考えているのだろうが マーザンダラーニーは自らをイランと思ってるのか、それとも思ってないのか どうなんでしょうか?
よく知らんけどマーザンダラーンかギーラーンで古代ペルシアから続く血筋の土候が モンゴル時代までいたような
178 :
世界@名無史さん :
2010/08/17(火) 22:23:17 0 age