国王弑逆の歴史

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1世界@名無史さん
そろそろ語ろうではないか。
2世界@名無史さん:2006/04/24(月) 22:45:50 0
祟峻天皇
3世界@名無史さん:2006/04/24(月) 22:47:40 0
20世紀はじめ、セルビア国王が当時の軍隊のクーデタで殺害されたときは、
町の大通りに祝福のイルミネーションが飾られたそうです。
4世界@名無史さん:2006/04/24(月) 22:59:52 0
ロマノフ朝のパーヴェル1世。

クーデターを前に、逆賊の一人が皇帝をどうするのか尋ねる。
一貴族答えて曰く、
「オムレツを作るには卵を割らねばならんのだよ」と。
寝室番の従者を殺して部屋に侵入。
皇帝は衝立の後ろに隠れるが足がみえて発見される。
退位を求める逆賊と押し問答になり
ついに皇帝に対する暴行が始まる。
皇帝は賊の一人を皇子コンスタンティン大公と見誤り
「助けてくれ!息が出来ぬ!」と叫びつつ死んでいく。

犯行の行われたガッチナ離宮の部屋はそのまま保存された。
ベッドには血痕が生々しく残っていたそうな。
5世界@名無史さん:2006/04/24(月) 23:08:41 0
>>3

確か王妃も首相も一緒に殺害されたんだよね。
その後議会で選出されたという新王は先王と血の繋がりはあったのでしょうか?
6世界@名無史さん:2006/04/24(月) 23:15:58 0
>>5
セルビア独立の立役者はオブレノビッチとカラゲオルゲビッチだが、両家の子孫がセルビア公位をあらそい、
最終的に前者が後者を殺して王家となった。
しかし1905年にクーデタでオブレノビッチ王家は打倒され、イギリスに亡命していたカラゲオルゲビッチ家当主が迎えられた。
ノルウェー王家新設にしてもそうだがが、20世紀のヨーロッパがいまだ共和制をタブーとしていたのがよくわかる。
7世界@名無史さん:2006/04/24(月) 23:20:56 0
>>6

ありがとう。宿業の歴史だったんですな。
8世界@名無史さん:2006/04/24(月) 23:23:23 0
以下は加瀬俊一国連大使の名著「ヴェルサイユ宮廷の女性たち」からの転載。
女系天皇祭りのときに面白いので貼ろうと思って書き出したら、政府が折れて祭りが終わってしまった。
でここに貼ろう。


国民公会は処罰のために、王太子を王妃から隔離し、タンプルの別室に移し、一切の連絡を厳禁した。
・・・・・しかも、王太子の扶育官にシモン(靴匠)を任命したのである。シモンは無教育で粗野な人物であって、生涯に一冊の本も読んだことがない。
・・・・・王太子を奪われたアントワネットの心情は悲嘆というもおろかだった。
わずかに階段の小さな明かり窓から、時として、内庭で遊ぶわが子を垣間見ることが出来るだけである。
彼女は忍耐強く何時間でも窓辺に佇んで、そのチャンスを待つのだった。


王太子は八歳半の童児だから、容易に新しい環境に順応する。
サンキュロットの赤帽をかぶり、シモンに教えられた革命歌を歌う。

9世界@名無史さん:2006/04/24(月) 23:24:30 0
こういう状況なのに九月末、例の靴匠シモンの訴状にもとづいて、エベールが検事長フーキエ・タンヴィルに、王妃が王太子と近親相姦を行った事実がある、と通告した。
・・・・・タンプル塔では王太子の審問が行われたが、少年ルイは母の王妃と叔母の公女が、彼を性的に弄んだので自慰行為が病みつきになったと臆面もなく自供し、
十五歳の姉マリイ・テレーズ、二十九歳の叔母エリザベートと対決させられても、生母アントワネットを誹謗するのを止めず、「娼婦どもはいつギロチンにかけられるのか」と暴言を吐くのだった。
児童心理学によれば、九歳にも満たぬ少年に訊問者が喜びそうな答弁をさせるのは極めて容易らしい。
とくに、児童が、訊問者の気に入らぬ答弁をすると刑罰を受ける、と知っていれば、なおさらである。
10世界@名無史さん:2006/04/24(月) 23:25:56 0
・・・・・
ここに哀れをとどめたのは、ルイ十七世になるはずだった王太子である。
彼が靴匠シモンにそそのかされ、近親相姦なるものについて、母親と叔母を告発したことは前述した。
シモンはロベスピエールを尊敬するジャコバン過激派の急進分子だが、性格は野卑残忍だった。
間断なくこの不幸な少年を虐待し、とくに王族のプライドを消去しようと欲して、貧民のボロ服をきせ、赤の自由帽をかぶらせ、ブランデーを常飲させて、いやしい歌を習わせた。
ある時は、少年に「私の母は売笑婦だ」といわせようとしたが、従わぬので、打つ蹴るの乱暴をした。
11世界@名無史さん:2006/04/24(月) 23:26:35 0
また少年が床にひざまずいて祈るのを見て、懲らしめに、寒空なのに頭から冷水を浴びせ、服もベッドもビショビショにぬれているのに、そのまま寝ろと命令し、少年が逡巡すると散々に打ちのめした。
少年は涙を流しつつ無言で堪えた。それに、なにか気に入らぬと、シモンは断食で罰するのだった。
ついに、王太子は衰弱して、叱られても打たれても、沈黙を守り、少しも動かなくなった。
・・・・・しかも看守は毎夜幾度となく睡眠中の彼を呼び起こした。
・・・・・服も着かえず、大小便もそのまま放置する状態だったから、独房は異臭に満ち、王太子は顔色死人の如く、手足は腫れ、背は曲がり、頭は吹き出物におおわれ、蛆が這い出すに至った。

それでも国民公会は王太子に治療をほどこさぬので、少年は重病になってしまった。
姉のテレーズ王女は看護を許してもらいたいと嘆願したが拒否された。
かくて、王太子は1795年六月八日、ボロぎれのように死んだ。

加瀬俊一著「ヴェルサイユ宮廷の女性たち」より転載
12世界@名無史さん:2006/04/25(火) 00:12:01 0
>>4
パーヴェル一世の暗殺には息子のアレクサンドル一世も少なからず
関与していたって説があるね。あるいは計画を事前に掴んでいながら
放置していたとか。いずれにせよ真偽の方はよくわかってないみたいだけど。
パーヴェル一世は母親のエカテリーナ二世から長年冷たくあしらわれ続け
それが原因で激しく心が傷ついて暴君になってしまったとか。
でもまあ早い段階でアレクサンドル一世が即位できたのはロシア国民にとっては
良かったのかもしれない。彼は父帝とは対照的に反ナポレオンの姿勢をとって
フランス軍を見事に撃退して国家を守り抜き、更には神聖同盟を主唱して
ヨーロッパにおける旧体制の秩序回復を成し遂げる上で中心的な役割を果たして
ロシアの存在感を十分にアピールすることができた。
結果的に彼はロマノフ王朝の中でも指折りの名君として歴史に名を残すことができたわけだ。
まさしくこの時代がピョートル一世、エカテリーナ二世の時代に続くロマノフ王朝第三の
黄金期だったんだろうなあ。
13カラジチ ◆mWYugocC.c :2006/04/26(水) 02:29:27 0
>>6
カラゲオルゲビッチではなくカラジョルジェヴィチ。
あと独立の立て役者はカラジョルジェ(黒いジョージ)で、その子孫が「カラジョルジェヴィチ」です。

>1905年にクーデタでオブレノビッチ王家は打倒され、イギリスに亡命していたカラゲオルゲビッチ家当主が迎えられた。
クーデタ発生は1903年。
あと、ペータル2世カラジョルジェヴィチの亡命先はイギリスじゃなくてフランスだったような……。
彼の即位でセルビアは一気に親墺から反墺・親仏へと転換、それが第一次世界大戦に繋がります。
14世界@名無史さん:2006/04/27(木) 17:26:47 0
セルビア国王アレクサンダー・オブレノビッチと王妃ドラガの殺害(1903年)
http://ww1.m78.com/topix-2/may%20cou.html
1903年6月10日セルビアの首都ベオグラードで軍事クーデターが発生した。
(王妃)ドラガの前夫の兄弟が率いるディミトリエビッチを含む将校団28名がまず王宮を襲撃、門は近衛親衛隊長ピーター・ジブコビッチによって開けられ、
王宮は第6歩兵連隊によって囲まれる計画だった。しかし親衛隊員が激しく抵抗し、ディミトリエビッチは銃弾3発を受け重症の怪我を負った。
しかし最終的に国王と王妃の暗殺に成功した。そして宮廷にいたオブレノビッチ家の廷臣と親族もすべて殺害され、クーデターは成功した。
その後有名となるタンコシッチ少尉はこの時ドラガの二人の兄弟を射殺した。国王を射殺したのはミハイロ・リスティッチ大尉だった。
国王と王妃の殺害方法は極めて残虐だった。国王と王妃は寝室にいたが賊が乱入したとき寝返ったものを除き親衛隊員は全て殺害されていた。
秘密の小部屋に逃れたとされるが捜索2時間の後発見された。そして賊は両者を全裸にしたうえ弾丸を浴びせた。
そして死体を庭の池に投げ込んだが王妃は生きていて、池の橋の欄干に手を伸ばした。その手をサーベルで切断したという。
この詳細はただちにヨーロッパ各国に報道されおおきなセンセーションを巻き起こした。
(但しこれは報道にすぎず実際は国王が王宮から逃れようと、窓から外へ脱出しようとしてしきれず欄干にぶらさがった所を賊がつかんだ手を切断したと、現在のセルビアの歴史書は教える。
もちろん真相ははっきりしない。遺体は葬儀なしでベオグラードの聖マルコ教会の地下に埋葬された。)
15世界@名無史さん:2006/04/27(木) 21:28:27 0
中国史とビザンツ史は皇帝弑逆のオンパレード。
特に中国史だと禅譲→前皇帝及び一族の殺害の繰り返し。
16世界@名無史さん:2006/04/27(木) 22:54:20 0
高校の歴史資料集に
中国皇帝の死因の統計が載ってたな。

自然死の人すくねえのなんの。
農民に生まれたほうがよほどマシに死ねる
17世界@名無史さん:2006/05/05(金) 01:03:39 0
そして時代はギャネンドラ。
18確か:2006/05/05(金) 03:59:20 0
セルビア王妃は身分の女官出身
そのため軍部が反発した
19世界@名無史さん:2006/05/06(土) 11:25:37 0
皇帝だがハイレ・セラシエが未出ではないか・・・
20世界@名無史さん:2006/05/06(土) 14:47:13 0
>>19
表向きは病死ということになってるみたいだけど
真相はどうなんだろうな・・・・・
21世界@名無史さん:2006/05/07(日) 23:12:10 0
>>20
退位直後に殺されたのが真相。
22世界@名無史さん:2006/05/08(月) 00:21:51 0
孝明天no……グフ!
23世界@名無史さん:2006/05/08(月) 21:22:52 0
結果的にプロイセンを助けるためだけに即位したようなピョートル3世。
24世界@名無史さん:2006/05/08(月) 21:34:23 0
>>17
ギャネンドラ自身が殺されるかもね

25世界@名無史さん:2006/05/21(日) 00:01:55 0
ネパール王家に傍系などはいないのか?
ギャネンドラに対抗して擁立なんて動きはないんだろうか。
26世界@名無史さん:2006/05/21(日) 14:06:25 0
ネパール下院が先日、滅茶苦茶評判の悪いパラス皇太子が王位を継承するというのを
下院が王位継承者を指名するという形に変えてしまったから
生き残りの傍系がいるか、或いはまだ幼児の皇太子の子を時期王位継承者に指名するかの
どちらかだろう。
27世界@名無史さん:2006/05/23(火) 09:56:38 0
>>8あちこちの邦訳本を拾い読みして適当に書き散らした三流本ですな。
恥ずかしいから真に受けないように。
28世界@名無史さん:2006/05/23(火) 16:56:18 O
>21
うむ。監禁、一年後に窒息死させたとメンギスツが告白してる
29世界@名無史さん:2006/06/01(木) 00:38:42 0
孝明fo@pl[;[:fgg............
30世界@名無史さん:2006/06/10(土) 12:30:40 0
北元のトグス・テムルもね。
モンゴルは弑逆の本場だな・・・
31世界@名無史さん:2006/06/11(日) 05:24:12 0
>>22
>>29
これで皇室の名誉は守られた。ありがとうゴルゴ13。
32世界@名無史さん:2006/06/25(日) 00:41:17 0
>>30
モンゴルはじめ遊牧帝国で在位年数が短い可汗はたいてい
近親者同士の抗争か逆臣による暗殺が多いよね。
33世界@名無史さん:2006/06/25(日) 01:02:59 0
>>31
岩倉具視乙
34世界@名無史さん:2006/07/20(木) 17:18:31 0
月例暗殺に上がりました。
35名無し募集中。。。:2006/07/23(日) 01:02:27 O
愛知のキチガイ脳糞古川は神だと思っている。

半年ほど前の正月休みに両親と愛知のキチガイ脳糞古川の実家(もんじゃ焼き屋)に 食べに行った時の話。
両親と3人で鉄板を囲んで食事をしているといきなり脳糞古川が玄関から入ってきた。
もんじゃ焼き屋に似合わない勝負服ないでたちで。

脳糞古川が「私いつもの〜」と言って二階へ上がろうとすると、
店内にいた高校生集団が「脳糞古川さん!」「脳糞古川さんかわいいー!」などと騒ぎ出し、
脳糞古川が戻ってきてくれて即席サイン会になった。
店内に13、4人ほど居合わせた客全員に店内にあった色紙を使い サインをしてくれた。
高校生達が脳糞古川の母校愛知のキチガイ高校トラウマ部だとわかった脳糞古川は いい笑顔で会話を交わしていた。
そして脳糞古川は「またね〜」と二階に上がっていき、店内は静かになった。

私と両親は脳糞古川の気さくさとかわいさに興奮しつつ食事を終え、会計を済ませようとレジに向かうと、
店員さんが階段の上を指差しながら 「今日のお客さんの分は出してくれましたから。また来てくださいね」と。

あれには本当にびっくりした。
36世界@名無史さん:2006/08/06(日) 12:18:42 0
そこでイスマーイール派ですよ。
37世界@名無史さん:2006/08/24(木) 21:30:51 0
>>32
過酷な遊牧生活が政治にも果断を求めるんだろうか・・・
38世界@名無史さん:2006/09/09(土) 04:50:33 0
果断というより徹底した合理主義なんじゃね
39世界@名無史さん:2006/11/12(日) 01:14:54 0
赤松家郎党による南朝の遺児弑逆
40世界@名無史さん:2006/11/15(水) 01:18:49 0
41世界@名無史さん:2006/12/01(金) 22:05:08 0
age
42世界@名無史さん:2006/12/01(金) 22:31:00 0
>>39

この場合は後花園天皇の勅命を受けているからなあ。
弑逆とまで言えるのかどうか。
43世界@名無史さん
それは偽帝の勅命じゃないか?