16世紀世界各国の軍事力を比較するスレ

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ロシア(モスクワ大公国)

16世紀半ばまで、モスクワ大公国軍の主力は勤務士族(ドヴォリャーネ)や小貴族(ヂェチ・ボヤールスキエ)で、
軍事奉仕とひきかえに与えられた知行地からの収入で装備を自弁し、従者ともども騎兵として戦った。
弓矢、サーベル、槍、斧、短剣、のちにはピストルやカービン銃なども騎乗戦闘に用いられたらしい。
裕福なものは甲冑を着て戦ったが、西欧式のプレートアーマーではなくトルコのシパーヒーのようなチェインメイルと
プレートを組み合わせた鎧が主流だった。貧しいものはキルト縫いの防衣しか着ていなかった。
当時のロシアを訪れたイギリスの大使は、一般の騎兵は弓矢と剣以外何も身に着けていない、下士官クラスになると
鎖帷子などある程度の防具を装備している、弓矢はトルコ人のものと同じでタタール人のように騎射戦術をおこなう、
などと観察している。
これら騎兵部隊の馬はノガイ・タタール人から輸入したモンゴリアン・ポニーがほとんどだった。ツァーリや大貴族は
少数のサラブレッドを所有していたらしい。
1550年にイヴァン雷帝はロシア史上初の常備軍である銃兵隊(ストレリツィ)を設立した。
都市の商工民からの徴兵による歩兵部隊で、主兵器はアルケブス銃やマスケット銃であったが近接戦闘用の武器として
剣と半月矛(バルドゥイシ、射撃の際には銃架として用いられる)を装備していた。連隊ごとに色の違う制服を支給された。
当時の年代記によると銃兵は射撃に習熟しており、飛ぶ鳥を容易に撃ち落すことができたという。
(正確な射撃を訓練されていたとすれば、一斉射撃で弾幕を張るような戦術は使わず、日本の火縄銃兵のように
狙って撃っていたのだろうか?)
設立当初の兵力は500名の連隊が6つで3,000名であったが、16世紀末までに2万人以上に増大していた。
平時にはモスクワをはじめ各都市の警備や治安維持にあたり、また軍務の傍ら商工業に従事することも許されていた。
銃兵は終身勤務で、身分は世襲されたので一種のカースト的集団としてピョートル大帝の改革まで存続した。
常備軍の中には砲兵隊(ナリアード)も含まれており、攻城戦用の大型砲と野戦砲を操作した。
346です:2006/02/27(月) 23:03:56 0
野戦において銃兵隊は、グリャイ・ゴロドと呼ばれる車輪のついた移動式の防壁で野戦陣地を築いて、その背後から
小銃や野戦砲を発射した。その射撃陣地の両翼と前面に騎兵部隊が配置され、戦闘開始とともに突撃をおこなった。
最初の突撃で敵部隊が崩壊しなければ、騎兵は両翼へ退いて、前進してきた敵を火器が迎撃し、両翼から騎兵が
攻撃を加えた。さらに後方に温存されていた予備部隊が戦場を大きく迂回して敵の背後をついた。(こうした戦術は
東欧ではポピュラーだったらしく、ハンガリーでは「さそりの陣」とか呼ばれていたらしい。歩兵と防御陣地が胴体で、
両翼の騎兵がハサミ、予備部隊がさそりの尻尾というわけである)
当時の軍律はおそろしく過酷なものであった。いかなる状況の下であれ敵に降伏した指揮官は処刑された。ツァーリの
ものである都市や要塞を敵に奪われながらおめおめと生き延びた軍人は、その家族や係累まで殺された。そのため
ロシア兵はどんな危機に陥っても降伏せず全滅するまで戦ったという。1578年にヴェンデンを攻囲していたある砲兵隊は
リトアニア軍に大砲を鹵獲されそうになったので、全員が砲身に首を吊って自決してしまった。
Richard Hellieの概算では、イヴァン雷帝が有していた兵力は勤務士族17,500人、外国人4,000人、銃兵隊12,000人、
コサック6,000人、砲兵隊3,000人、少数民族の補助兵(タタール、モルドヴァなど)10,000人、奴隷17,500人。
E. A. Razinは全国の兵力を総動員しても7万人に達するかどうかだという。
一度の軍事行動に2万人以上を動員するのは難しかったようだ。