700 :
699:2007/03/05(月) 20:43:30 0
国軍の抗日戦争を詳細に描いた一つの作品のなかには、以下のような叙述も見られる。
<「総指揮部と縦隊、支隊司令部には、雑役をするという名目で集められた民間の若くて器量の
よい女性が配置されていた(主に未婚女性)。彼女たちは指揮部や司令部で軍服を縫い、
布靴を修理し、洗濯をし、飯を炊いた。彼女たちは家に持ち帰ってそれをするか、朝早く来て
夜に帰ることを望んだがかなえられず、例外なく軍営所に泊まることを義務付けられた。
毎回8から10人、一週間ずつ交替であったが、当番になった女性はほとんど強姦され、
この前後で強姦された女性の数は数百人に上ったという。ある者は帰宅後に悲しみ怒り精神
がやられてしまい、輪姦されてそのまま自殺してしまった女性もあった。たくさんの民がこの軍
の蛮行に対し激しく怒り、恨みを刻んだ」(純子、蔡農、老加「一江血水向東流―中日武漢大会戦実録」)
これはどこの軍隊の話だろう?日本の軍隊だろうか。いや、そうではない。蒋介石の密命を受けて
できた豫鄂辺区遊撃総指揮部という抗日部隊である。彼らは人と金を供出させ、青年を無理やり
連れ出し、私物を運搬させて工事を捻出した。
それもひどいことではあるが、さらに許せないのは、民間の女性を強姦したことである。>
もちろん趙氏は軍人による強姦だけをあげつらっているわけではない。しかし、加害者が
同胞ゆえにかえって恨み骨髄ということもありえよう。
<日本の侵略軍の行いのなかで最も悪辣で恨みを残した行為こそ強姦である。しかし彼らは“正常”の
社会秩序を打ち立ててからは公然とそれを野放しにすることはなかった。もしそうでなければ慰安婦
などという組織を作ろうとはしなかったであろう。
しかも、国軍であれば政府の代表である。こうした罪に対しては日本の侵略者にもまして厳しく罰す
べきであったのであるが、現実はそうではなかった。
1943年、ついに10万人の民間人が暴動を起こし怒りを爆発させた。これに対し国軍は李宗仁
の第五戦区から3個師団を派遣して鎮圧したのだった。>
701 :
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崇高な目的、悪辣な手段
<1944年12月24日夜、重慶の歌楽山で軍統局が主催する中米合同のクリスマスパーティーが催されて
いた。このパーティーでは、舞台の上で歌劇が披露されていたが、舞台下での秩序は大きく乱れていた。
このパーティーでは、舞台の上で歌劇が披露されていたが、舞台下での秩序は大きく乱れていた。中統
局長の戴笠は特別に用意した数十名の美女をアメリカ軍の将校のダンスパートナーとさせたが、そのうち
の何人かは強姦されてしまった。
この事件が起きたのは国の府があった重慶のことである。結果的に政府が表に出て中国を援助して
くれる友軍に慰安婦をあてがったのである。次の日、このことは蒋介石の側近に報告されたのだが、
ここでも「すでに終わったこと」として処理されただけであった。
ソ連の紅軍は、東北部に兵を出したが、そこで行われた強姦の罪業は、関東軍が十数年間で行った
数を上回るほどであった。しかもこのことはきつく口止めされた上、ソ連軍の暴行に対して不満を口に
した一部の中共幹部は、解放後に長らく迫害にさらされ、重要なポストからも遠ざけられた。>
(略
日本軍の長所
趙氏は侵略戦争や中国大陸での日本軍の野蛮な行いを非難するだけでなく、日本軍の長所とも
いうべき一面にも言及している。それは日本軍人の規律の良さである。
<1938年の武漢会戦の期間、日本の第11軍司令官岡村寧次中将は、軍に強姦などの犯罪が横行
していることに気をもみ、憲兵分隊長・重藤憲文中佐に対して自ら「慰撫工作」の強化を指示し、
また逮捕者の軍法会議での厳正処理を命じた。これに対し、当地の法務部長と憲兵隊長が犯罪行為
に及んだ兵士を弁護し、「犯罪の構成要件がそろわない」と発言したところ、岡村は激しく机を叩いて
怒ると、こう怒鳴ったという。
「嘘をつけ!強姦罪は親告罪だ。だが、刀や銃で脅している者をどうして親告できるというのだ。
どうやって立ち向かえるというのだ。そんな日本の法律が戦争の現場で適応すると思うのか?
われわれはこれを“聖戦”と称して兵を出したのではないのか?これが聖戦の姿だとでもいうのか?」
(陳道闊「長河落日。武漢会戦実記」)
702 :
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これが、その後、中国侵略軍総司令官に昇進した岡村寧次である。彼の晩年の回想録のなかには、
「愛民の方針を貫徹」と題した一章があり、そこには1940年2月、第一回師団長・参謀長会議における
参謀長のこんな報告が納められている。
「作戦上どうしても必要であっても家屋を焼いてしまうと、その後にどんな宣撫工作をしても何の効果も
発揮しない。しかし逆に掠奪や強姦、家屋に火を放ったりせずに宣撫した地方は、敵との戦いの場面
でもずっと住民は好意的で、なかには物資の運搬を手伝ってくれるものまでいた。しかし、前者のような
ことをすれば敵が攻めてきたときに敵と通じてわれわれの足を引っ張ることになる。現在、司令官の
愛民方針を遵守することの大切さを痛感します」
当地の住民が好感を示し、軍事物資の運搬を手伝ってくれるというのは、共産党が描いていた
「軍愛民、民擁軍」の状況と似ているのではないだろうか。これは、神話だろうか?侵略者の願望が
作り出した幻想なのだろうか?そうではない。
「1942年から43年春、日本軍が河南に進攻したとき、当地の住民は自ら道案内をかってでるだけでなく、
中国軍を武装解除する手伝いまでしたという。この一戦だけで、5万人の中国兵が自国の住民によって
武装解除させられたのである」(劉震雲「温故1942」)
趙氏は、一般の中国人にとって日本軍による占領は決して「受け入れがたいものではなかった」
とする一方で、近代史における日中両国の複雑な関係、孫文に代表される革命勢力と日本との
つながりに言及する。
(略