ソ連軍が満州やドイツで行なった強姦、輪姦【5】

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685世界@名無史さん
戦後…博多港引き揚げ者らの体験

<1>「ソ連が来る」息潜めた
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/document/013/do_013_060720.htm
<2>医師らひそかに中絶手術
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/document/013/do_013_060727.htm
 ◆厚生省「超法規的措置」で保養所開設
二日市保養所。入り口脇には「厚生省博多引揚援護局保養所」の看板がかかっていた(福岡市総合図書館
所蔵「博多引揚援護局史」より) 「不幸なるご婦人方へ至急ご注意!」。満州(現中国東北部)や朝鮮半島
から博多港に向かう引き揚げ船では、こんな呼びかけで始まるビラが配られた。
 「不法な暴力と脅迫により身を傷つけられたり……そのため体に異常を感じつつある方は……」「診療所へ
収容し、健全なる体として故郷へご送還するので、船医にお申し出下さい」
 全文を読んでも、どのような治療を行うのか明示されていなかったが、ソ連(当時)の兵隊などの暴行で妊娠
していた女性には見当が付いた。
 中絶手術。優生保護法が1948年に成立するまで、原則、違法とされた手術だった。
    ■
 ビラを配ったのは、現在の韓国の首都ソウルにあった京城帝大医学部の医師たちのグループ。
 このグループは終戦後の朝鮮半島で日本人の治療に当たっていたが、ほとんどは45年12月ごろに帰国。
引き揚げ者の治療を続けるため、外務省の外郭団体「在外同胞援護会」に働きかけ、グループ全体を
「在外同胞援護会救療部」に衣替え。46年2月、博多港に近い日本最古の禅寺「聖福寺」に、診療所「聖福病院」
を開設した。
 帝大医学部の医師たちが、なぜ、違法な手術を決断したのか――。きっかけは、暴行されて妊娠した1人の
教え子の死だったという。
 このグループの一員で、京城女子師範学校で講師も務めた医師は、引き揚げてきた教え子と久々に再会した。
しかし、話しかけても泣くばかり。両親から「ソ連兵に暴行されて妊娠した」と打ち明けられた医師は、グループの
他の医師と相談して中絶手術に踏み切ったが、手術は失敗し、女性も胎児も死亡した。
 すでに、博多港に着きながら、暴行されて妊娠していることを苦にした別の女性が、海に飛び込んで自殺する
事件も起きていた。
686685:2007/03/02(金) 03:48:31 0
 外国人との間に生まれたとすぐにわかる子供を連れた母親が1人で故郷に帰り、新しい生活を始めることは
極めて難しい時代。
 医師たちは、目立たない場所に別の診療所を作り、ひそかに中絶手術を行って故郷に帰そうと考えた。
(略
 医師から仕事の内容を聞かされ、風呂場を改造して手術台と戸棚を置いただけの“手術室”に案内された。
宿舎としてあてがわれた2階の10畳の和室では、「中絶手術って違法じゃないの?」と話し合った。
 だが、悩んでいる余裕はなかった。数日後、トラックが到着した。荷台に乗っていたのは、短い髪に汚れた顔、
男性用の服をまとった人たち。「男か」と思ったが、下腹部の膨らみを見れば女性であることはすぐにわかった。

<3>麻酔なしの中絶手術
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/document/013/do_013_060803.htm
 ◆恨みと怒りの声、手術室に響く
 引き揚げ先の博多港から「二日市保養所」(福岡県筑紫野市)に到着した女性たちは、数日間の休養の後、
手術室に通された。
 麻酔はない。手術台に横たわると、目隠しをしただけで手術が始まった。医師が、長いはさみのような器具
を体内に挿入して胎児をつかみ出す。
 「生身をこそげ取るわけだから、それはそれは、痛かったでしょう」。看護師として手術に立ち会った村石正子
さん(80)(同)は、硬い表情で思い返す。ほとんどの女性は、歯を食いしばり、村石さんの手をつぶれそうな
ほど強く握りしめて激痛に耐えたが、1人だけ叫び声を上げた。「ちくしょう」――。手術室に響いたのは、痛み
を訴えるものではなく、恨みと怒りがない交ぜになった声だった。
 おなかが大きくなっている女性には、陣痛促進剤を飲ませて早産させた。「泣き声を聞かせると母性本能が
出てしまう」と、母体から出てきたところで頭をはさみのような器具でつぶし、声を上げさせなかった。
687685:2007/03/02(金) 03:49:29 0
 幾多の手術に立ち会った村石さんには、忘れられない“事件”がある。陣痛促進剤を飲んで分べん室にいた
女性が、急に産気づいた。食事に行く途中だった村石さんが駆けつけ、声を上げさせないために首を手で絞め
ながら女児を膿盆(のうぼん)に受けた。白い肌に赤い髪、長い指――。ソ連(当時)の兵隊の子供だと一目で
わかった。医師が頭頂部にメスを突き立て、膿盆ごと分べん室の隅に置いた。
 食事を終えて廊下を歩いていると、「ファー、ファー」という声が聞こえた。「ネコが鳴いているのかな」と思った
が、はっと思い当たった。分べん室のドアを開けると、メスが突き刺さったままの女児が、膿盆のなかで弱々
しい泣き声をあげていた。村石さんに呼ばれた医師は息をのみ、もう一本頭頂部にメスを突き立てた。女児
の息が止まった。
(略
 手術を終えた女性は2階の大部屋で布団を並べ、体を休めた。会話もなく、横になっているだけ。大半は目を
つぶったままで、吉田さんは「自分の姿を見られたくなかったから、ほかの人も見ないようにしていたのでしょう」
と振り返る。
 女性たちは1週間ほどで退院していった。村石さんは「これから幸せになって」と願いを込めながら、薄く口紅
を引いて送り出した。中絶手術や陣痛促進剤による早産をした女性は、400〜500人にのぼると見られる。
(略
 島松さんは、二日市保養所が閉鎖されたのは「47年秋ごろ」と記憶している。一緒に食事をしたことがあった
医師らのあいさつもなく、「誰もいなくなったな」と感じた時には、約1年半にわたった業務を既に終えていた。
 二日市保養所の跡地に立つ特別養護老人ホームでは毎年5月、水子地蔵の前で水子供養祭が行われて
いる。今年の供養祭では村石さんも静かに手を合わせたが、当時を思い出しながら、むせび泣いた。「私はこの
手で子供の首を絞めたんです。60年前、ここの手術室にいた私の姿は忘れられません……」
688世界@名無史さん:2007/03/02(金) 03:50:34 0
<4>日誌につづられた悲劇
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/document/013/do_013_060810.htm
 ◆相談員だった母…暴行・妊娠を聞き取り
 戦後、九州で博多港とともに中国大陸などからの主な引き揚げ先となった長崎県・佐世保港。佐世保市に
住む中山與子(ともこ)さん(66)の母、西村二三子さんは、終戦翌年の1946年5月、佐世保引揚援護局が
設置した「婦人相談所」の相談員だった。西村さんは77年に70歳で亡くなったが、その数年前に相談員だった
ことを中山さんに打ち明けていた。
 「相談員当時の母は、朝早く家を出て、夜には消毒薬のにおいをさせながら帰宅していました。でも、何の
仕事をしているのか、具体的には全くわかりませんでした」。中山さんは振り返る。
 相談員を務めたのは、女性誌「婦人之友」の愛読者グループ「友の会」会員の主婦たち。15〜50歳の
女性引き揚げ者を対象に、引き揚げ中に暴行を受け、妊娠していないかどうかを聞き出し、妊娠している場合
は、中絶手術を受けさせることが役目だった。
    ■
 相談員だったことを打ち明けた西村さんは、「問診日誌」と題した、便せんをとじ込んだつづりを中山さんに
手渡した。西村さんら相談員による聞き取り記録で、女性たちが満州(現中国東北部)などで受けた暴行被害
が克明に記されていた。
 ▽16歳の女学生がソ連軍(当時)の司令のところに連れて行かれ、暴行されそうになったので、見るに見か
ねて身代わりとなった。
 ▽ソ連兵から女性を要求されたため、売春をしていた女性を雇いに行く途中に暴民に金を奪われた。やむを
得ず、未婚の女性47人を出し、足りないので、さらに未婚の女性80人を出した――。
 日誌では引き揚げ者の女性たちは、つらい体験を具体的に語っていた。だが、暴行のために妊娠した女性に
ついて、佐世保引揚援護局史には、「婦人相談所で事情を調査し、療養処置を要する婦女子は国立佐賀療養所
(現在の東佐賀病院)に移送した」としか記されておらず、実態は明らかではない。
    ■
 佐賀療養所でどのような治療が行われたのか――。同援護局史には書かれていない事実の一端が、一通
の手紙からうかがえる。
689688:2007/03/02(金) 03:51:50 0
 手紙は戦争にまつわる女性の被害を調べていた九大医学部卒の産婦人科医・天児都(あまこくに)さん(71)
(福岡市城南区)が97年、九大医学部産婦人科教室OBの医師数人に尋ねたところ、1人から送られてきたものだ。
 「厚生省(当時)に助教授が招かれ、(中絶手術を行うように)指示があった」「(産婦人科教室の医師が)1、2
か月交代で佐賀療養所に行っていた。患者の大部分はソ連兵や現地住民に暴行されて妊娠した人で、妊娠
中絶が主な仕事だった」――。
 厚生省の指示によって、国立病院で、当時は原則として違法だった中絶手術を国立大医学部の医師たちが
ひそかに行っていた――と告白する内容だった。
    ■
 組織ではなく、個人的に中絶手術を手がけたという医師もいる。博多引揚援護局が福岡県筑紫野市に設置した
二日市保養所に下宿しながら九大医学部に通った東京医科大名誉教授・相馬広明さん(84)(東京都世田谷区)。
 相馬さんは終戦後、国立福山病院(広島県福山市、現在の福山医療センター)で、18歳くらいの女性の
手術をした。卵巣の腫瘍(しゅよう)だと診察したが、開腹して妊娠と判明。慌てて腹部を縫い合わせ、麻酔から目
を覚ました女性に聞くと、「実は終戦直後にソ連兵に暴行された」と打ち明けられた。
 相馬さんは女性に中絶手術をし、ほかにも同様の手術を数件行ったという。

<5>孤児収容所愛情の記憶
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/document/013/do_013_060817.htm
<6>孤児の女性が保母に
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/document/013/do_013_060824.htm
<7>子どもの心潤した食事と行事
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/document/013/do_013_060831.htm


青葉慈蔵尊由来記
http://www.geocities.co.jp/NeverLand/8947/aoba.htm

終戦前後の満洲における惨劇
http://www.kikokusha-center.or.jp/resource/ioriya-notes/mondaishi/sangeki-1.htm
http://www.kikokusha-center.or.jp/resource/ioriya-notes/mondaishi/sangeki-2.htm