1 :
世界@名無史さん:
琉球とかチャンパーとかシュリーヴィジャヤとか。
なんとなくエキゾチック。
2 :
世界@名無史さん:2005/08/06(土) 19:34:54 0
とりあえずガジャ・マダ最強といっておく
マンコーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
4 :
世界@名無史さん:2005/08/06(土) 19:50:05 0
ガジャ・マダといえばパラパだが、
結局パラパって何なのよ
5 :
世界@名無史さん:2005/08/06(土) 20:06:52 0
なんかの果物だとか、セクースの秘儀だとか、名誉を称える顕彰式だとか、諸説紛々
マンコーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
7 :
世界@名無史さん:2005/08/07(日) 00:35:55 0
義浄の南海寄帰内法伝の邦訳が一万円で売っているそうです。
まんこっこっお
9 :
世界@名無史さん:2005/08/07(日) 00:50:17 0
フィリピン史はマゼラン以前の記録というとどれほどあるんでしょうか。
漢籍に時おり登場するか、あとはスールー経由でイスラムの文書が残っているのかな。
コーーーーーマン
インドネシアってスンダランドとサフルランドのどっちに入るんだっけ。
12 :
世界@名無史さん:2005/08/07(日) 10:36:39 0
おおよそ、ウォーレス線を境に西側がスンダランド、東側がサフルランド、だったかな。
すまん。ウォーレス線がどの辺りだか忘れてしまったocn
まんちっち
15 :
世界@名無史さん:2005/08/13(土) 02:02:33 0
モルッカ諸島のあたりの海峡を南北に走ってるんだっけか <ウォーレス線
オセアニアとアジアの境界でもあるんだったな。
16 :
世界@名無史さん:2005/08/13(土) 17:40:21 0
>オセアニアとアジアの境界でもあるんだったな。
へぇ、知らんかった。
17 :
世界@名無史さん:2005/08/21(日) 12:59:11 0
琉球は東南アジアと交易していたっていうけど本当か?
どの本を見ても日本や中国との関係ばかりで
東南アジアについては一言も触れられていないんだが
18 :
トメ・ピレス『東方諸国記』より 1/2:2005/08/21(日) 14:54:16 0
レケオ〔琉球〕人はゴーレスと呼ぱれる。かれらはこれらの名前のどちらかで
知られているが、レキオ〔レケオに同じ〕人というのが主な名前である。国王と
すべての人民は異教徒である。国王はシナ(中国)の国王の臣下で、〔彼に〕
朝貢している。彼の島は大きく、人口が多い。かれらは独特の形の小船を
持っている。またジュンコ(ジャンク型の船)は3、4隻持っているが、かれらは
たえずそれをシナから買い入れている。かれらはそれ以外は船を持っていない。
かれらはシナとマラカ(マラッカ)で取引を行なう。しばしぱ彼らはシナ人と
いっしょに取引をし、またしばしば自分自身でシナのフォケン〔福建〕の港で
取引をする。それはシナ本土にあり、カントン〔広東〕に近く、そこから一昼夜の
航海のところにある。マラヨ(マレー)人はマラカの人々に対し、ポルトガル人と
レキオ〔琉球〕人との間には何の相違もないが、ポルトガル人は婦人を買い、
レキオ人はそれをしないだけであると語っている。
19 :
トメ・ピレス『東方諸国記』より 2/2:2005/08/21(日) 14:54:38 0
レキオ人は、かれらの土地には小麦と米と独特の酒と肉とを持っているだけで
ある。魚はたいへん豊富である。……(中略)……われわれの諸王国でミラン
〔ミラノ〕について語るように、シナ人やその他のすべての国民はレキオ人に
ついて語る。かれらは正直な人間で、奴隷を買わないし、たとえ全世界と
ひきかえでも自分たちの同胞を売るようなことはしない。かれらはこれについて
は死を賭ける。かれらは色の白い人々で、シナ人よりも良い服装をしており、
気位が高い。かれらはシナに渡航して、マラカからシナへ来た商品を持ち帰る。
かれらはジャポン〔日本〕へ赴く。それは海路7、8日の航程のところにある島
である。かれらはそこでこの島にある黄金と銅とを商品と交換に買い入れる。
レキオ人は自分の商品を自由に掛け売りする。そして代金を受け取る際に、
もし人々がかれらを欺いたとしたら、かれらは剣を手にして代金を取り立てる
生田滋・加藤栄一・長岡新治郎訳
『大航海時代叢書』Vより
20 :
『歴代宝案』より:2005/08/21(日) 15:01:47 0
右,暹羅国に咨す
為照するに,本國は貢物稀少なり。今,正使實達魯等を遣わし,勝字号海船
一隻に坐駕し,磁器等の物を装載し,貴國の出産の地面に前到して,胡椒,
蘇木等の貨を収買し,回國して應用せしむるの除外(ほか),専ら礼物を備え,
詣前し奉献して少しく達意を伸ぶ。仍お希(ねが)わくは海納せよ。煩(ねが)
わくは四海一家を念(おも)い,貿易を従容し,早(すみ)やかに発するを
為さんことを。風迅に*かん(*「そうにょう」に「旱」の字です)*趁(*正しくは
「そうにょう」に「弥」の「ゆみへん」をとった字)して回國すれば便益ならん。
今,礼物の数目を将(もっ)て後に開坐す。須らく咨に至るべき者なり。今,
奉献の礼物を開(しる)し,後に開坐す。
織金段五匹,素段貳拾匹,硫黄三千庁,今報ず貳阡五伯斤正,腰刀五柄,
摺紙扇三十把,大青盤貳拾箇,小青盤四伯箇,小青碗貳千箇。
宣徳貳年(1427)九月十七日
※琉球王府がシャムに送った外交文書
21 :
世界@名無史さん:2005/08/22(月) 03:16:09 0
>>18 わざわざどうも。
独特の形の小船というのが気になるな。
サバニ?
23 :
世界@名無史さん:2005/08/28(日) 01:23:23 0
フィリピンが歴史上に登場するのはいつごろだろう。
宋代の史書に登場しているんでしたっけ。
南部諸島には仏教の碑文が建てられた記憶が。
山東省には今でもミンダナオのイスラム教徒の子孫を名乗る連中が住んでるんだよな。
明に朝貢した帰りに王子が死んだので墓守に残ったとかそういう理由で。
>>24 それはおそらく始祖伝説で、やはり実際の所は
元代の色目人の後裔だったりするんだろうか。
>>25 山東省にもあっちこっちに結構な数の回族が住んでるけど、
ミンダナオの子孫を自称する人たちはひとつの村にしか住んでないから、
そうやって括らなくても良いように思うが。
27 :
世界@名無史さん:2005/09/02(金) 03:37:17 0
>ミンダナオの子孫を自称する人たち
いつごろ、いかなる経緯で山東省にたどり着いたのだろう?
フィリピン南部にイスラムが浸透したのは古くても元代以降だっけ?
28 :
世界@名無史さん:2005/09/09(金) 22:27:48 0
ルソン島とは宋代に通交があったらしいが。
>>28 麻逸のことか?
それならミンドロ島に比定されているはずだが。
30 :
世界@名無史さん:2005/09/18(日) 19:41:14 0
有史前のフィリピンは中国方面よりもむしろ
マレーシア方面からの文化的影響のほうが強かったのかな。
ミンダナオ島かスールー諸島あたりに碑文も建てられたんだっけ。
31 :
世界@名無史さん:2005/09/19(月) 03:06:22 0
オーストロネシア語族の拡散ルートとしては台湾〜フィリピンルートが有力視されているが、
台湾と福建も明代以前はそんなに交渉がなかったし南方の文化的影響の方が強かった
と思うよ。
フィリピン史最古の現地史料はインド系の文字で書かれた銅板文書だったはずだし。
32 :
世界@名無史さん:2005/09/19(月) 14:02:18 0
ミクロネシアに限ってはフィリピン諸島から直接
東方へ航海した形跡もあるらしい。
もっとも紀元後の移住が主らしいが。
このとき稲作も携えてきたとかなんとか。グアムにはマゼラン以前に水田があったらしいが。
33 :
世界@名無史さん:2005/10/06(木) 00:52:35 0
鑿型石斧文化圏の北限は父島だったっけな。
34 :
世界@名無史さん:2005/10/21(金) 02:59:30 0
ナレスワン大王最強!
35 :
世界@名無史さん:2005/10/22(土) 10:32:03 0
ミャンマーの話題ってまったく登場しないね。
一時はインドへも進出したり、仇敵タイを攻め滅ぼしたりと
元気な時代もあったが、今はわずかにスーチー女史くらいしかニュースがないなあ。
>一時はインドへも進出
詳しく
インドってホントかよ。
アラカンを征服したのだって、かなり遅くじゃなかったか?
39 :
世界@名無史さん:2005/11/05(土) 20:46:46 0
ムエタイもビルマ起源だそうだし。
40 :
世界@名無史さん:2005/11/07(月) 22:51:03 0
41 :
世界@名無史さん:2005/11/22(火) 10:11:43 0
42 :
世界@名無史さん:2005/12/04(日) 17:28:07 0
1758年 シャン地方やマニプールに遠征
1759年 タイの首都アユタヤ攻撃、撤退
1766年 シンビュシン王、アユタヤを陥落させる
1769年 清軍とアヴァ近郊で停戦協定を結び、撤退させる
1782年 ボードーパヤー王、マウンマウン王を殺害。アマラプラに新王都建設
1795年 アラカン王国を征服
1814年 マニプール王国を支配下に入れる
1817年 アッサム王国を支配下に入れる
43 :
世界@名無史さん:2005/12/07(水) 23:32:55 0
なんというか、消える炎の最後の輝き、って感じの最後の一世紀だったんだな・・・
44 :
世界@名無史さん:2005/12/27(火) 00:48:11 0
アラカン山脈を越えて侵攻したのは、先にも後にもこれ一回じゃなかろうか、もしかして。
インドの王朝がビルマへ攻め入った話は聞かないし。
45 :
世界@名無史さん:2006/01/22(日) 15:57:19 0
アラカン山脈ってそんなに越えがたいのかねえ
日本軍もインパール作戦で散々苦労してるけどさ
46 :
世界@名無史さん:2006/02/01(水) 13:02:46 0
世界屈指の豪雨地帯でもあったはず。
東南アジアの中世っていつ?
48 :
世界@名無史さん:2006/02/04(土) 03:32:14 0
>>47 いろいろ説はあるけど、9/10〜14/15世紀くらいが主流ではないかな。
49 :
世界@名無史さん:2006/02/13(月) 01:32:51 0
フィリピンにも古代/中世の区分ってあるんかいな?
50 :
世界@名無史さん:2006/02/16(木) 23:12:41 0
50ゲット
51 :
世界@名無史さん:2006/03/11(土) 20:24:27 0
国家が発生しなかったのに文字文化が普及したフィリピンって
なんだか珍しい例かも。
>>49 原始時代
スペインに征服されて、植民地時代
第二次世界大戦後に独立して、現代
>>51 文字は普及していないぞ。
日本の弥生時代の遺跡から出てくる剣や鏡に銘文が彫ってあるだろ、字の意味なんか
理解しなくても、宝物として持ち込まれたものだ。
>>51 インド系文字がマレーシア経由で北上し、フィリピン各島に伝播していたよ。
独自の改変を施されたオリジナル文字が各島にあったそうな。
交易品ではなく、各地の言語で竹筒や木簡に刻まれた叙事詩や占術書などが残っている。
長編叙事詩「フドフド」などはマゼラン到達以前に完成していたしね。
55 :
世界@名無史さん:2006/03/30(木) 18:44:31 0
age
56 :
世界@名無史さん:2006/04/03(月) 09:35:18 0
age
パガン朝文学。
そこそこ栄えたらしくて、翻訳も何点か出てたはずなんで読んでみたいんだが、書名がわからん。
パガン朝時代、既に現在の○の組み合わせみたいなビルマ文字でかかれていたのだろうか。
58 :
世界@名無史さん:2006/04/16(日) 02:14:48 0
ビルマ最古の文字記録が1112年建立のミャゼディ碑文。
パガン朝チャンシッター王の遺徳を讃えた四角柱の顕彰碑に
モン語・パーリ語・ピュー語・ビルマ語の四言語で刻んであるもの。
もうこの時点でランドルト環のような字形ができあがっていたようで。
59 :
世界@名無史さん:2006/05/07(日) 18:30:33 0
月例保守に上がりました。
60 :
世界@名無史さん:2006/05/28(日) 17:37:18 0
とんぎりスマン
カンボジアの「王の年代記」が出版されたので
札幌で図書館にリクエストしたら ダメだった。
たしかに高いんだけど、カンボジアの歴史を調べてたら
必ず出てくる書物なので、悲しい。
62 :
世界@名無史さん:2006/06/10(土) 18:34:00 0
>60
900年頃だとしたら、東南アジアでも相当古いほうだよな。
インドに隣接したミャンマーでさえ、まだ固有の文字は登場してなかった希ガス。
63 :
世界@名無史さん:2006/07/02(日) 12:41:36 0
64 :
世界@名無史さん:2006/07/02(日) 19:05:55 0
うちのインド史の教授が「人間の通るところじゃありません」と言い切ってた。
65 :
世界@名無史さん:2006/07/02(日) 19:06:55 0
66 :
世界@名無史さん:2006/07/02(日) 21:19:57 0
67 :
世界@名無史さん:2006/07/17(月) 07:12:02 0
フィリピン南部まで仏教が浸透してたんだよね。
スールー諸島かミンダナオ島あたりに石碑がなかったっけ。
68 :
世界@名無史さん:2006/07/19(水) 21:38:45 0
69 :
世界@名無史さん:2006/08/07(月) 00:38:16 0
マニラには呂宋交易の頃の日本人町などは残っていないのかな。
70 :
世界@名無史さん:2006/09/05(火) 02:43:35 0
月例漂海に上がりました。
71 :
世界@名無史さん:2006/09/16(土) 14:30:21 0
東南アジアでは大規模な海賊集団ってあったんでしょうか。
倭寇のようにいくつもの国を股にかけて広域に荒らすような。
72 :
世界@名無史さん:2006/09/27(水) 18:27:48 O
シャイレンドラとシュリービジャヤと区別がつかないwww
73 :
世界@名無史さん:2006/09/28(木) 22:44:27 0
74 :
世界@名無史さん:2006/09/29(金) 19:20:54 O
ブギス人って海賊もやってたん?
傭兵や航海者としては有名だが
あとイラヌン人ってよく知らない
別名はある?
75 :
世界@名無史さん:2006/09/29(金) 20:41:18 0
イラヌン人はマラナオ人の亜集団です。
76 :
世界@名無史さん:2006/09/30(土) 00:47:23 0
サマ人とか。
77 :
世界@名無史さん:2006/09/30(土) 01:31:21 O
夏人?
78 :
世界@名無史さん:2006/10/16(月) 01:57:07 0
79 :
世界@名無史さん:2006/11/04(土) 12:17:51 0
コンバウンの意味を調べているのだが、分かりません。
地名ではないようなので、アラウンパヤーの家名のようにも思えますが、
ビルマ人には苗字がないため、それも違うような気もします。
語源は何か知っている方いらっしゃいませんか?
アラウンパヤの出身地の古名らしいけど
>81
サンクス!! 困ってたの。なるほどそういう意味ですか。
83 :
世界@名無史さん:2006/12/02(土) 17:21:45 0
>>45 アラカン山脈はいまだに自動車が通り抜けられる横断道路がないそうな。
アジアハイウェーもこの区間が途絶したまんま。
84 :
世界@名無史さん:2006/12/03(日) 14:28:48 0
猿岩石のヒッチハイクでも
ここだけ飛ばしてインドへ進んでたっけ。
85 :
世界@名無史さん:2007/01/13(土) 18:47:06 0
ミャンマはスリランカへも遠征したことがあったんじゃなかったっけ?
86 :
世界@名無史さん:2007/01/20(土) 12:56:08 0
東南アジアで現地語表記のために作られた最初の文字は
ビルマのモン文字よりも
>>60のほうが先ってことになるのか。
なにげにフィリピンはすごいな。
87 :
世界@名無史さん:2007/01/24(水) 01:11:56 0
88 :
世界@名無史さん:2007/01/24(水) 11:08:38 0
ラグナ銅板文書って、(いちおう)10世紀(ってことになってるん)だろ。
チャム文字の碑文とかの方が古いじゃん。
89 :
世界@名無史さん:2007/01/27(土) 21:01:45 0
古い順に並べるとこんな感じか。
チャム文字(4世紀〜)
クメール文字(7世紀〜)
モン文字(6世紀〜)
90 :
世界@名無史さん:2007/01/28(日) 16:39:11 0
インドから見て一番手前のビルマから順々にインド文化が伝わると
イメージしていまいそうだが、実際はそうでもないんだな。
むしろメコン下流に早く文明が開けるのは、海運上の立地と平野の広さだろうか?
91 :
世界@名無史さん:2007/03/01(木) 00:45:07 0
南インドから伝わった文物が多いことからすると、
一挙にベンガル湾を横断し
てスマトラ島あたりに最初に伝播していたんじゃなかろうか。
92 :
世界@名無史さん:2007/03/11(日) 01:03:06 0
インド系文字が伝わったのも、ビルマより先にマラッカ〜スマトラあたりのほうが
最初に伝播したのだろうか。
93 :
世界@名無史さん:2007/03/11(日) 04:04:35 O
東南アジアのインド化
・中部ベトナムのミーソン碑文(サンスクリット語)
4C末 林邑王バトラヴァルマンがリンガを祀る
5C初 林邑王敵真(碑文ではガンガラージャ)、ガンジス河へ渡る
・南部ベトナムの扶南地域でサンスクリット語碑文
扶南の外港オケオでローマの金貨、ランプとともにヴィシュヌ神像、シヴァ神
像出土
4C中 扶南王竺セン壇
→インド名の最初の王(竺→インド、セン→香木チャンダナの音訳)
4C末 インドから渡来したバラモン僧カウンディンヤ(僑陳如)、扶南王即位
天竺法制導入
・カンボジア〜東北タイ
6〜7C 南グランダ文字(パッラヴァ文字)による碑文群
・マレー
5〜7C パルラヴァ文字によるサンスクリット語の印章が西海岸クロントーム
遺跡で出土
4〜13C 西海岸ルンバブジャン遺跡で50以上のヒンドゥー寺院、仏寺の遺構群
南グランダ文字によるサンスクリット碑文(5〜9C)4面
515年 東海岸パタニにあった港市国家狼牙脩(サンスクリットのランカスカの
音訳)、粱に朝貢
・ジャワ
2C 西ジャワにあった港市国家ジャヴァドゥウィーパ、インドより仏教化
5C 西ジャワでサンスクリット碑文
タルマ国王プルナヴァルマンの運河建設記す
94 :
世界@名無史さん:2007/03/11(日) 04:16:05 O
93の続き
碑文ではタルマ国がヒンドゥー教を導入したことも記されている
・カリマンタン
6〜7C カリマンタン東部クタイで南グランダ文字碑文7柱
ムラヴァルマン王が多数の牛を奉献したことを記する・バリ
517年 インド化していた婆利国、粱に朝貢
仏教とヒンズーとアニミズムかな?
そんなもんだろ
97 :
世界@名無史さん:2007/03/27(火) 23:27:00 0
やはりビルマは素通りされてたのか?
琉球て東南アジアなのか
99 :
世界@名無史さん:2007/04/14(土) 11:18:45 0
>>97 アラカン山脈の西側は、長い間インド文明圏にも属さない地域だったしな。
モンゴロイド系住民が住む、ナガランドやマニプール、チッタゴン丘陵あたりね。
陸路では仏教などのインド文化はなかなか伝わらなかったと思われ。
山道は峻険、低地はジャングル、だものねえ・・・
南詔がトンキン湾まで進出した時は
雲南王朝の絶頂期だったな。
102 :
世界@名無史さん:2007/07/05(木) 00:42:50 0
103 :
世界@名無史さん:2007/07/15(日) 14:44:47 0
>>99 アッサム側にもアホム王国のようなタイ系王朝が栄えていたことが信じられん。
ところでカーマルーパの主要住民ってどこ系?
チベット・ビルマ系あたりだろうか。
東南アジアってなんで陸続きなのに言語や民族が雑多なんだろ
山と河で細かく分断されているからでは?
106 :
世界@名無史さん:2007/09/06(木) 00:43:12 0
白石隆さんの「海の帝国」を読んでいます。
既に他の誰かが指摘されているかもしれませんが、これを読んで思ったのですが、
東南アジアが「まんだらシステム」となったのは、他の地域でしばし見られた古代帝国が
なかったからなのではないかと思いました。マガタ、ローマ、ペルシア、中華などの古代帝国は、
地域に一体性とそれぞれの世界へのアイデンティティをもたらす効果があったと思うのです。
「海の帝国」に19世紀に、突然西欧近代的アイデンティティへの目覚めと国家・民族意識の誕生の同時的発生に
ついての記載がありますが、この、前近代的アイデンティティのあり方は、
この地域が「古代帝国」という現象を持たなかったから、という気がしました。
東南アジアに巨大な古代帝国が発生しえなかったのは、地形的要素なのでしょうか。
107 :
世界@名無史さん:2007/09/06(木) 00:54:26 0
>>106 16世紀頃にはマレー半島やインドネシア地域の人口は今の1000分の1以下
だったらしい。だから帝国など作れるはずもなかったのだろう。
108 :
世界@名無史さん:2007/09/06(木) 23:42:36 0
確かに人口が原因かも。でも1000分の1ではないと思う。
「海の帝国」でも、1600年当時、1100万程度。現在5億8千万程度だから、100分の1でも
580万人。つまり、50分の1くらい。古代帝国の時代はもっと少なかった
ろうから、確かに帝国成立の余地はなかったかも。地域の広さと比べると、
1600年当時で1100万は少ないかも。
109 :
世界@名無史さん:2007/09/07(金) 12:41:16 0
アンコール朝は古代帝国じゃないの?
東南アジアをほとんど領有していた時代もあったんでしょ。
110 :
世界@名無史さん:2007/09/07(金) 12:47:24 0
琉球は東南アジアでしょ。まちがいなく
111 :
世界@名無史さん:2007/09/07(金) 19:57:14 0
>>109 これはあくまで個人的な定義なのですが、「まんだらシステム」に対置される
古代帝国とは、
-文化・文明的一体意識を、現在に至るまで地域住民に与え続け、その地域の古典時代となっている。
-いわゆる世界帝国。崩壊後は、世界宗教の範囲をも規定する
-現在に至るアイデンティティへの影響
というものです。この考えからすると、アンコール朝は、東南アジア全体に、そこまで
影響力を持っているようには思えないのです。しかし、それも私の無知であるとしたら、
アンコール朝に興味がわきますけれども。
112 :
世界@名無史さん:2007/09/07(金) 20:17:10 0
アンコール朝は文化・文明面ではインドの影響が強いね
>>108 東南アジアでは全体的に人口過少で、農民たちは比較的大事にされていたそうな。
ジャワ島みたいな例外はあるけど。
>>109 アンコール朝が東南アジア全域に支配権を及ぼしていたとしても、
それは「曼荼羅の中心にいられた」比較的短い時期であって、
ローマや中国のような、ある程度固定した領域と
数百年にわたる継続した文化や統治システムを持つ、古代帝国とは大きく異なるよ。
114 :
世界@名無史さん:2007/09/08(土) 02:58:49 0
115 :
世界@名無史さん:2007/09/08(土) 03:05:29 0
現在、マレー半島には3000万人以上はいると思われるので、19世紀から
の比較でも60倍の人口増ということになる。
116 :
世界@名無史さん:2007/09/08(土) 09:33:06 0
>>106 逆に言えば、インドには古代帝国なんてあったろうか?
マウリヤ朝の支配はほとんどアショカ王1代の間に終わったし、
後は全インドを支配できた政体は一つもない。
大体に短命で地域的な支配体制が多かった。
でも、インドはインドとしてのアイデンティティを持ち続けてきた。
117 :
世界@名無史さん:2007/09/08(土) 09:47:17 0
パキスタンとバングラデシュに分裂している件について
>>116 「インド」って、結局のところマハーバータラとラーマーヤナを共有しているかどうか、ってのが条件のようにも。
119 :
世界@名無史さん:2007/09/08(土) 16:51:35 0
東南アジアがヒンドゥー教だった時代にインドと東南アジアの区別は明確だったの?
>>119 一応「インドに比べて文明的に遅れている」という意識や認識はあったみたい。
でも今みたいな国境はないから、人種・民族的な区別は曖昧だったと思う。
中継貿易をやっていた関係で、他都市との混血や移住が多かったはずだから。
121 :
世界@名無史さん:2007/09/08(土) 22:32:26 0
確かにインドは全領域支配王朝はなかったが、前5世紀から後6世紀までの
マガタ国が中核を担い、「古典インド」を作り出した。
アショカ時代は、インド各地の発展度を均一化する功績があり、
グプタ朝は、都市社会生活をもたらした。もちろん南インドがインド世界観を
内面化するのは、より後世かも知れないが、アショカやビンビサーラ王の
南インド遠征は、「インド世界」の認識のもとに行われたものと思う。
中華や地中海ほど明確な単一の世界帝国は生まれなかったが、マガタ国を
中心として、古代帝国の機能が存在していたものと思うのですが、いかがでしょうか。
122 :
世界@名無史さん:2007/09/08(土) 23:48:59 0
マガダ国の支配領域なんて相当小さいし、ライバルのコーサラ国なんかに
比べてそれほど優越してたのかな?
インドは良く古代16国なんて言うけど、つまりマガダは16分の1だったわけでしょ。
マガダ国1国に帰着せしめるのは無理がありすぎるような気が個人的にします。
インドがインド足り得てるのはやはり宗教によるのではないかと。つまりはヒンドゥー。
古代帝国の存在云々より、宗教の力の方が大きいのではないか?
123 :
世界@名無史さん:2007/09/09(日) 00:28:54 0
マガタ国は、マウリヤ朝以前だけではなく、グプタ朝も正式名称はマガタ国だったはず。
124 :
世界@名無史さん:2007/09/09(日) 00:30:05 0
あと、もちろんマウリヤ朝もマガタ国です。
つーか今のインドも「マガタ国」って呼んでいるような。
126 :
世界@名無史さん:2007/09/09(日) 05:47:50 0
今のインドの自称は「バーラタ」でしょ。
マハーバーラタ(大いなるバーラタ)のバーラタ。
バーラタ族の末裔と言うのがインドのアイデンティティ。
琉球人と台湾の少数民族はマレー人の骨格をしている
128 :
世界@名無史さん:2007/11/25(日) 14:55:30 0
129 :
世界@名無史さん:2007/11/25(日) 14:58:43 0
東南アジアで、日本のような室内では素足文化の国ってどこがある?
フィリピンは家庭によって土足の家と素足の家があるらしいが・・・。
各国のありきたりな日常生活ってなかなか情報が少ない。
高床式の家では、素足らしい。
130 :
世界@名無史さん:2007/11/25(日) 14:59:30 0
131 :
世界@名無史さん:2008/01/13(日) 19:17:46 0
age
ttp://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20080121-OYT1T00699.htm カンボジアで2000年前の水の祭壇、日本調査団が発見
カンボジアの世界遺産、アンコール遺跡周辺の環濠(かんごう)集落跡「プンスナイ遺跡」で、
約2000年前に水を流す祭事を行っていたとみられる「水の祭壇」が見つかった。
国際日本文化研究センター(京都市)の安田喜憲教授を団長とするカンボジア学術調査団が21日、当地で発表した。
カンボジアにおける最古級の都市文化の存在を示す貴重な史料になるとみられる。
「祭壇」は、調査団が昨年12月に発掘。直径約15メートル、高さ3メートルの小高い丘の上に平らな巨石があり、
その周囲に白い漆喰(しっくい)を塗った水路が巡らされ、丘の四方には流れ落ちた水をためる池が配置されている。
漆喰は水が土に吸収されるのを防ぐために用いられたとみられる。
同様に水を流す祭壇は、グアテマラのマヤ文明遺跡(7〜9世紀)でも見つかっている。
安田教授は、実際に水を流す実験を披露し、「水を扱う儀式で、水の恵みに感謝し、豊作を祈った」と説明。
「古代インドの水の文化が、紀元1世紀にすでにカンボジアに伝わり、
堀を巡らす12世紀のアンコール遺跡に受け継がれた可能性が高い」と語った。
調査団は、昨年1月からプンスナイ遺跡の調査を開始。
直径約3キロ・メートルの堀に囲まれた円形の集落を確認し、墓跡や人骨、土器片、青銅器なども発見した。
出土品は、放射年代測定の結果、紀元1世紀ごろのものと判明。
調査団は、アンコール遺跡以前の東南アジアの都市文明の存在を明らかにする重要な歴史遺産とみて調査を続けている。
(2008年1月21日22時39分 読売新聞)
133 :
世界@名無史さん:2008/02/26(火) 03:03:59 0
たいへん亀レスだが、この安田さんって人、こんなプリミティブな水信仰にまで
文化・文明の伝播を見いだすのか。当時のクメール人は白痴だとでも思ってい
るのだろうか
134 :
世界@名無史さん:2008/05/02(金) 23:26:44 0
プリミティブだからこそ、
文化の伝播の証になると考えたんじゃないかな?
135 :
世界@名無史さん:2008/05/03(土) 00:13:13 0
昔の東南アジアの人の髪型とか衣装ってどんな感じだったんだろう?
「王様と私」のユル・ブリンナーのイメージでスキンヘッドとか、
アンコール遺跡の石像のイメージで男女ともに半裸体のイメージしかない。
>>133 信仰じゃなくて、信仰の仕方、形式、建造物の形、だろ?
>>136 > 直径約15メートル、高さ3メートルの小高い丘の上に平らな巨石があり、
> その周囲に白い漆喰(しっくい)を塗った水路が巡らされ、丘の四方には流れ落ちた水をためる池が配置されている。
これがインド式ならそう言うことになるが、この記事ではそうは読み取れない。記事でもグアテマラの例が紹介
されているように、農耕地域で水信仰があるのは別に何の不思議もない。何でこれが「古代インドの水の文化」の伝播
になるんかいな?
正直言って、甚だ疑問なんだが。もちろん、こういう記事ってかなり端折ってるから、ちゃんと証拠があるのかも知れないが。
138 :
世界@名無史さん:2008/07/19(土) 17:05:45 0
ソヴィエトロシア・東欧にも、北欧にも、支那朝鮮にも、回教徒にも夢破れた反日左翼が、最近、東南アジアに夢を見出している。
政治や思想は、専門板でどうぞ。
>>140 現在の日本の歴史学が政治業者のオナニーでしかないのは周知の事実。笑止な事だ。
これから様々な捏造が横行するだろうと警告している。
既に中世の陳朝大越と元朝との三度の戦争で、大越の誇張を全肯定する政治工作がなされている。
曰く、60万の元軍を撃退した……これはヴェトナム戦争後に顕著になった。
併せてヴェトナムのお陰で日本は征服を免れた云々の自国卑下、これは高麗の抵抗なる虚妄との連動と同様の形態である。
日本の歴史学は退行している。
>>139の事情で、これからは当該地域の中世以前の歴史すら侵食してゆくだろう。それは加速して行く。注意する事だ。
>>141 > 現在の日本の歴史学が政治業者のオナニーでしかないのは周知の事実。笑止な事だ。
俺はそうは思いたく無いな。
確かに現状が云っている通りだとしても。
大越を全肯定する書き込みを前にしてならともかく、
何の前触れも無く「政治工作」なんて書き込まれてもな。
同じ穴の狢に見える。
>>143 この人はインドスレとかで暴れてた基地の外の人でしょ。
むこうで誰も相手してくれなくなったから移住してきたんだと思うよ。
なんだそりゃ
五島勉だってもう少し頭のいい言い方するぞ
147 :
世界@名無史さん:2008/09/14(日) 10:37:34 0
>このあたりは先進国ですがコンビニの監視カメラが付いていますまで併記なのはやりすぎなのではないでしょうか
>抜け道を見つけられそう
そういう警告はそもそも監視カメラをどうにかできるレベルの奴への抑止効果は狙ってないと思うが