387 :
世界@名無史さん:2008/04/13(日) 13:32:11 0
中国では、外国交易船は市舶あるい互市舶と呼ばれ、外国人商人は蕃商と呼ばれた。彼ら
は、中国での交易が終わればおおむね帰国するが、海港に定住あるいは永住するものも出て
きた。彼らは蕃坊と呼ばれる居留地に居住した。彼らの交易と居留を取り締まるため、蕃長司
という役所が設けられた。その長として蕃長が、居留民の実力者のなかから、中国によって任
命された。
「宋時代には、支那政府は概して蕃客の通商を奬勵した。自然在留蕃商を優遇して、たとひ
彼等に多少の犯則非法の行爲があつても、大抵は不問に看過した」という。こうした居留地管
理は他のシルクロ−ド海港においてみられたものと同じであるが、中国にあっては彼らの出資
によつて城普請を行ったり、警備艦を作つたりすることがあった。
これら定住蕃商のなかにあって特記されるのが、13世紀後半宋元交代期、泉州で活躍した
蒲寿庚(ほじゅうこう)であった。彼は土生蕃商と呼ばれた、定住蕃商が中国で生んだ子であ
り、アラブ人またはペルシア人でイスラーム教徒であった。
明朝は交易用ジャンクのマストを一本までと法律で制限していたが
帆柱などは容易に取り外し式にできるので、実際は三本以上のマストを持つ船ばかりで
港に入る時だけ一本マストにしていたとか
389 :
世界@名無史さん:2008/04/19(土) 23:02:14 0
ポリネシア人は原始的カヌーでハワイ−イースター島−ニュージーランド
を結ぶ広大な海域を自由に往来してたわけだし、
日本の船だって沿海航海用に作られてるにも関わらず漂流して
アメリカ大陸のすぐそばのアリューシャン列島まで辿り着いてたわけだから
潮の流れと風の動きと星の位置さえ学んでさえいれば原始的な船であっても
十分太平洋横断は可能だったはず。
江戸幕府がせっかくの海外発展の可能性を閉ざしたからなぁ
392 :
世界@名無史さん:2008/05/10(土) 20:17:48 0
>>390 当時のイスパニア人の記録にもあるが、
日本人は渡航先に定住せずすぐに帰りたがるから、移民人口が増加しづらい
傾向にあった。また婦人移民者が少なかったので、現地人女性と結婚し
二世、三世は急速に現地に同化して日本への関心や愛着も持たなくなった。
また港の日本人町の隣には例外なく中国人町ができた。彼らは移住の由来も
古い上に、人口も多く中間階級として、同じ立場の日本人を大いに圧倒する
ようになった。
一方ヨーロッパ人は国家を背景に組織的に発展し、日本人の前に立ちは
だかった。
鎖国がなくとも日本人町の未来は明るくなかったと思われる。
393 :
世界@名無史さん:2008/05/11(日) 16:35:46 0
>>392 >また港の日本人町の隣には例外なく中国人町ができた
この理由は?発展していた日本人町から利益を掠め取ろうとしていたということか?
日系人街には必ず韓国人が進出し、しまいには韓国人街として荒れ果ててしまう
という行動パターンとまったく同じだな。
なぜ彼らは日本人を嫌いつつしつこく付きまとうのか?
394 :
世界@名無史さん:2008/05/11(日) 18:17:04 0
>>393 お前が底の浅いネトウヨだということしか伝わってこないんだぜ?
395 :
世界@名無史さん:2008/05/11(日) 18:23:32 0
>>392 日本女は奴隷として大量に東南アジアや新大陸に売られたと聞いてるが。
キリシタン大名や天草四郎なんかは宣教師相手に奴隷女と交換に武器や弾薬を仕入れていたそうじゃないか。
>>394 ネット右翼であることは否定しないが、レッテル貼りして思考停止するのはやめた
ほうがいいよ。
>また港の日本人町の隣には例外なく中国人町ができた
という記述からは、日本人町が発展していたので中国人町ができた、あるいは
中国人町にも人が集まってきたと読める。
日本人が中国人町韓国人町のまわりにわざわざ集まったなんて話は寡聞にして
聞かないが、その逆の話はよく聞くというだけのこと。
どっちがレッテル貼りと思考停止をしてるんだかw
>>397 あんたのいうことは意味が分からん。俺がいつレッテル貼りをした?
↓の話に反論しないのなら反論なしとみなす。
これ以上本筋から外れたレスはしない。
>また港の日本人町の隣には例外なく中国人町ができた
という記述からは、日本人町が発展していたので中国人町ができた、あるいは
中国人町にも人が集まってきたと読める。
日本人が中国人町韓国人町のまわりにわざわざ集まったなんて話は寡聞にして
聞かないが、その逆の話はよく聞くというだけのこと。
399 :
世界@名無史さん:2008/05/11(日) 19:57:03 0
>>398 たったそれだけの記述で、日本人町の利益を中国人が掠め取った、
という考えに、結びつくのかが分からん。
それに、東南アジアには日本人が進出するずっと前から中国人が居たし。
400 :
田舎に引越しをどう?:2008/05/11(日) 20:06:22 O
401 :
世界@名無史さん:2008/05/11(日) 23:42:26 0
>>398 > >また港の日本人町の隣には例外なく中国人町ができた
> という記述からは、日本人町が発展していたので中国人町ができた、あるいは
> 中国人町にも人が集まってきたと読める。
そこだけ切り取ればそういう風に想像することも可能だが、すぐ後ろに
> 彼らは移住の由来も
> 古い上に、人口も多く中間階級として、同じ立場の日本人を大いに圧倒する
> ようになった。
と書いてあるのをなぜ無視する?
日本人町が有ったところは、だいたいが重要な港町(河川港も含む)。だから、中国人街
やポルトガル人街、オランダの商館なんかも近くにあることが多い。そんだけのこと。
> 日本人が中国人町韓国人町のまわりにわざわざ集まったなんて話は寡聞にして
> 聞かないが、その逆の話はよく聞くというだけのこと。
こちらは寡聞にして「その逆の話」というのを聞いたことが無い。是非ご教示されたい。
そりゃ南方の日本町は中国産の絹の仕入れのため出来たようなもんだから、中国人町が隣にあるのは自然だろう。
当時の中国は銀が不足していたから、物産の対価を銀で支払ってくれる日本とは、お互いに良い取引相手だったってだけのこと。
スペイン人がマニラあたりの日本人と中国人を観察して比較を書き残してたね、たしか
鎖国後の日本人町の人は長崎に渡る清国人を通じて、
日本の知人へ手紙を出したり、故郷の品を送ってもらってるんだよね。
注文状には
酒二樽、鰹節六十、氷コンニャク百、干し大根少し、醤油二樽、
黒豆五升、ケシ八合、奈良漬二樽、青豆五升、ワカメ少し、
大根漬二樽、モグサ一斤、干牛蒡少し、カンピョウ少し、イリコ五斤、
梅干少し、塩松茸少し、干しアワビ五斤、干しワラビ少し、目薬一箱、
椎茸十斤・・・」
んで鎖国から40年後にベトナムのフェフォからの手紙には
「ここもと日本人みなみな相果て、ただ二人にまかりなり。
せんかたなきありさま推量なさるべく候」
405 :
世界@名無史さん:2008/05/18(日) 15:25:04 0
> 是非ご教示されたい。
とか言いながら始めに結論ありきのバカおじさんが沸いてたのなww
>>398 低脳なネット右翼はこれだから困るwww
407 :
世界@名無史さん:2008/05/24(土) 12:16:08 O
ハワイ
408 :
世界@名無史さん:2008/05/26(月) 15:16:49 0
はわわ
409 :
世界@名無史さん:2008/05/26(月) 19:49:48 0
410 :
世界@名無史さん:2008/05/26(月) 20:03:50 0
隠れ多極主義の歴史
2008年4月27日 田中 宇
欧州各国で中世以来、金融業を営んできたユダヤ人は、各国の王室に資金を貸し出すことを
通じて、宮廷政治を動かす「宮廷ユダヤ人」となった。彼らは金貸しだけでなく、手形発行など、
遠隔地間の貿易代金の決済業務も行っており、ユダヤ人どうしで、中東や北アフリカなどの
地中海周辺からロシア、北海、スカンジナビアまでの広範囲の地域に金融貿易ネットワークを
持っていた。
宮廷ユダヤ人は、野心のある国王に協力して、スペインやポルトガル、オランダ、イギリス、
フランス、ドイツといった欧州諸国が、自国の影響圏と貿易圏を拡大し、覇権国を目指した際、
黒幕的に協力した。スペインの覇権が衰退すると、スペインにいた「スファラディ(スペイン系)」
の宮廷ユダヤ人たちは、オランダに移転してオランダを覇権国にのし上げ、オランダが衰退し
始めるとイギリスに移ってイギリスを覇権国にしてやった。宮廷ユダヤ人たちは「覇権ころがし」
をしながら金融事業を続け、富を蓄え続けた。ドイツ、イギリス、フランスなどで兄弟が分担して
事業を展開していたロスチャイルド家は、その最有力者の一つだった。ロスチャイルドも
19世紀後半、ニューヨークに進出した。
http://www.tanakanews.com/080427multipole.htm
411 :
世界@名無史さん:2008/06/04(水) 21:16:47 O
男は〜ロマーン♪
女はウーマーン♪
412 :
世界@名無史さん:2008/06/29(日) 01:23:39 O
浮上
413 :
世界@名無史さん:2008/07/16(水) 09:24:54 O
出港
414 :
世界@名無史さん:2008/07/23(水) 00:04:28 O
順調
415 :
世界@名無史さん:2008/08/02(土) 18:57:07 O
何?
416 :
世界@名無史さん:2008/08/14(木) 14:23:02 O
時化てきましたぜ、ぼっちゃん
417 :
世界@名無史さん:2008/08/23(土) 16:55:05 O
凪…
418 :
世界@名無史さん:2008/08/25(月) 09:50:14 0
クラーケンだぁ!
419 :
世界@名無史さん:2008/08/27(水) 12:32:25 0
鯨ですよ
420 :
世界@名無史さん:2008/10/31(金) 07:41:38 0
age
421 :
世界@名無史さん:2009/01/18(日) 14:25:22 0
up
422 :
世界@名無史さん:2009/03/01(日) 19:14:09 0
423 :
世界@名無史さん:2009/03/25(水) 12:31:20 0
保守
424 :
世界@名無史さん:2009/03/25(水) 19:08:49 O
産業革命を引き起こす要因となった大航海時代にヨーロッパに負けた事が
白人優越主義につながっている
白人優越主義なんていう前世紀に終わった話はどうでもええよ。
426 :
世界@名無史さん:2009/05/12(火) 22:37:00 0
・奄美諸島に分布するゴラン、ゴリヤ、ガリヤ、グリヤ、グラルなどの名称が
「ヤマトのいくさ大将」を示唆し、久米島、宮古八重山諸島にカワラ、ガワラ、
ガーラと「頭」あるいは「頭目」を意味する名称が分布したこと
・沖永良部島に後蘭孫八、石垣島にオヤケアカハチ・ホンガワラがいたこと
・肥後方言で「ゴラ」とは頭を意味し、かわら、こうらが変化したものであろう
・中国では倭寇の頭目を指して「日本甲螺」と表記したこと
いずれも倭寇の頭目を連想させる言葉が広くみられ、東方諸国記にある
日本刀で武装した勇猛果敢なゴーレス人の性格に相応しい名でもある
因みに中世日本では「廻船式目」にあるように海事全般を「航(かはら)の事」と言う
航(かわら)とは元は瓦(かわら)であり、和船の船底板の名称である
鎌倉時代までは大木を刳り抜いたものを連接し舷側板を張り付けた準構造船が
和船の主流で、その名残りということになる
もっとも、小型の丸木舟は沖縄でも九州でも明治時代までは広く使用されていた
木材の浪費も甚だしいが、釘を多く使わずに済み、耐久性にすぐれ、また軽いせいか
船足も速かったからである
430 :
世界@名無史さん:2009/06/20(土) 18:41:42 0
>>429 鄭和の大艦隊の映像には圧倒されるけど、
「西洋に下る」みたいな上から目線のタイトルはちょっと戴けませんね
中国語は移動関係の動詞で、「下」を使うのが多いだけ。
430は無意識のうちに中国見下してる自分に気づくべきwww
鄭和下西戎
朱印船についてぐぐってみた。
朱印船の造船技術は、ジャンクにガレオンの技術やデザインを融合させた独自の帆船であった。
朱印船には、かなり外国人が乗り込んでいたらしい。
やはり海は無国籍というか、水夫の確保には不自由しなかったと考える。
日本は海賊として、倭寇として随分恐れられていたらしい。
それと区別するために、朱印状を出したらしいが、日本船にも外国船にも出しているので、
しかもポルトガルあたりにイギリス・オランダの横暴をなんとかしてくれと交渉されてるので、
むしろイギリスのように私略船に認可状を与えているのに近い雰囲気だろうか?
マニラでスペインと海戦やって倭寇がかったこともあるらしく、
それだと、スペインと戦争なんか出来ないから、
秀吉は朝鮮から明に攻め上ったという説が、成り立たない。
ここで疑問!
朱印船は海賊に出会わなかったのか?
むしろ朱印船が、海賊より恐れられていたのか?
その気になれば、東南アジアを江戸日本が征服出来たのではなかったのか?
あと、日経で連載された「江戸経済コラム」をまとめた本によると、
「朱印船は500石以上でないと外洋航海が安全に出来ない。
家康は国内統治のため、西国に力をつけさせないため、500石以上の造船を禁じた。
これによって、上方の朱印船貿易家はすべて没落していく。
以後の豪商は、「派手な商売ではなく、ひたすら地味に徹するように」という家訓を持つようになった。」
435 :
世界@名無史さん:2009/07/01(水) 15:43:34 0
白石一郎の小説なんかでは朱印船が海賊と遭遇する話が良く出てくるけど実際にあったかどうかは知らん
>>434 その記述はおかしい
朱印船は大船禁止令の対象からは外されてたはず