>>445 無理。
もしかしたら唯一出来そうなのが天皇陛下。日蓮正宗系なので、天皇の権威には弱いはず。
伝統的権威である陛下の威徳をうち消そうと躍起になって戦前の日本は悪=天皇否定キャンペーンはりまくりだから。
どこかの板の某悪名高きスレではコンクラーベならぬ
リコンシカネーベ
がAAとともに爆走中
>>446 何で神道の元締めが仏教のことに首突っ込むんだ?
例えばホメイニがキリスト教の何とか派はカトリックではなく異端だっていうか?
言ってもそれを誰が気にする?
>448
>446をよく読め。
仏教全般の話じゃなくてあくまで日蓮宗系に限った話だろ。
実際に層化が天皇の権威に弱いかどうかは知らないけど、
日蓮宗はその成立過程で天皇(というか朝廷)に対する尊崇意識ってのが結構あるんだよ。
(もともとは鎌倉体制への批判の裏返しとしての出て来た物だと思うけどね)
・・・どっちかってーと日本史板の話しだな、こりゃ。
日本史板のネタなので、そろそろ山野さんの登場です。
>>448 陛下を「神道の総元締め」というカテゴリー枠に当てはめすぎです。
天皇は日本における唯一神聖な存在であることはどの宗派でも共通の認識であると思います。
現代の日蓮教団と関係性として国柱会の田中智学が天皇主義と日蓮主義をくっつけた側面もあります。
日蓮宗教団ではその影響が残っています。特に日蓮正宗(富士門流)系は
後醍醐天皇の南朝との接触が強かったせいか、その影響を受けている節が大分あります。
ちなみに日蓮正宗と喪家、ローマカトリックとプロテスタントは似ている
本地垂迹吹いた
反天皇系仏教ってのは明治維新までに壊滅したってことか?
反天皇系仏教って、そんなものあったのか?
455 :
世界@名無史さん:2005/05/04(水) 04:12:15 0
そんなの日蓮宗不受不施派ぐらいしか思いつかないなあ。
確かに弾圧は受けたらしいが。
>>455 日蓮宗不受不施派を弾圧したのは徳川幕府では?
あれは、幕府も天皇も平等に価値がない!ってな宗派だからなあ。
……ってなんで日本史の話題になってるんだ?
458 :
世界@名無史さん:2005/05/04(水) 11:18:48 0
「仏教は自己愛的(autoerotic)な霊性」(ヨーゼフ・ラッツィンガー)
↓
新教皇の仏教観ってどうよ?
そもそもどんなのを「仏教」とみなしてるの?
↓
新教皇が考える仏教ってもしかして「喪家」?
↓
どこかの宗教的権威があれは仏教じゃありませんよと宣言できない?
↓
できるとしたら天皇ぐらい?
↓
喪家は知らんが日蓮宗は天皇(及び朝廷)に対する尊崇意識が結構ある
↓
反天皇系仏教は明治維新までに壊滅でつか
↓
反天皇系仏教って不受不施派のこと?
↓
あれ弾圧したの徳川幕府では?
↓
あれは幕府も天皇も平等に価値がない!ってな宗派だからなあ。
……ってなんで日本史の話題になってるんだ?
↓
だいたい以上のような流れになっております。
そもそも仏教徒は日本以外に多いわけで
天皇なんてローカルな権威を持ち出したのが間違いだぞ
まあ、仏教は啓示宗教じゃないのと、
お釈迦さんが自灯明を説いて、後は自分たちでガンガレ! ってったのと、
如是我聞と付ければなんでも経典、後は相互の議論てな
伝統があるからしかたなかんべ。
釈迦の思想の入門書や研究書が色々出て史実のお釈迦さんを追求すれば
仏教の出発点はPRできるんじゃないかねえ。
現状が変化したのはキリスト教も似たり寄ったりだし。
>>459 天皇がローカルならその他の国の権威はもっとローカルなんだが。
>>460 人間の行動したい欲求を何処に持っていくかによって宗教の目的も変わってきたからね。
ところで最近の初期キリスト教研究はどうなってるのだろうか
>>461 学問的な動きと宗教団体としての動きは全然別っしょ。
日本の仏教界もあんま原始仏教研究結果に大きな流れとして興味を示さないしね。
思想的に原点を見直す、とか、超克するとかいうダイナミズムは少ないんじゃないかなあ。
特に既存の既得権益を得た宗教においては。
>>462 全く別なのはその通りなのだが、欲求が思想に与える影響というかそういうのが良く反映されている
のが伝統宗教だったので。
仏教が悟るためにはどうしたらいいか→自分たちで発想して行動する。
天国に至るためにはどうしたらいいか→神の教えを実行する。
の延長の延長でやってきているものだから、実際の仏陀にしろキリストにしろ、その行動に対してではなくて
物語上の存在から今に至っている訳だから、仰せられる通り思想的に見直すとか超克するのは難しいと思う。
チベット仏教(ラマ教)はそこんとこ良く研究されているらしいけど。(良くわかんない)
まあ、一部の研究熱心な学僧内ではその見直す動きもあるだろうけど。
個人的には欧州・オリエンタルは未だ中世と現代の狭間にいる感じがする。
464 :
世界@名無史さん:2005/05/08(日) 00:10:14 0
>>463 ぶっちゃけ、キリスト教に関しては三位一体説を正統としたり、
新約聖書を聖典とした時点で駄目でしょ。
史実を掘り下げてもどうにもならん。
>>465 >
>>463 > ぶっちゃけ、キリスト教に関しては三位一体説を正統としたり、
> 新約聖書を聖典とした時点で駄目でしょ。
禿げ同
>>465-466 ぶっちゃけそれを言ってしまえば、伝統宗教としての存在が成り立たなくなるわけで。
だから科学アカデミーみたいなのもあるし、マラキ書ではないけど、
これからヴァチカンが変わる要因として聖書の内容を見直そうって動きにならないかな?
宗教的な解釈は除いてより史実に近づければ、リベラルに偏りつつある勢力を
巻き返すこともできるかも(啓示宗教だから無理かもしれないけど)
それに学説としての成立であっても信仰は別って風な考え方をしそうなんだけど。
(日本人的な考えかな?)法王は認めないだろうけど、しかし研究の自由を認める点で。
>>467 だって神との約束が書かれた書物を疑ったら成立しない宗教やん、キリスト教は。
啓示宗教だから無理っしょ。
三位一体なんてそもそも無茶な解釈もいいとこだし。
仏教は経典にケチ付けまくっても全然構わんが。
確かに、
「これがある故に、これがある。これが生ずる故に、これが生ずる。
これがない故に、これがない。これが滅する故に、これが滅する。」
物事は条件と要因、相互依存関係によって生起・存在・消滅するなんていう縁起の思想や
経験論は信仰抜きにしても成り立つし相互批判の対象になるが、
ナザレの大工の息子さんが救世主である、ってのは信仰によってしか維持されないよな。
人類は、自分たちを過激な物質主義者だとするものと、ひとえに信仰に生きるものと、
二つのグループがあるように見える。そして、そこにはより深い考察が見当たらない。
二つの世界、二つのキャンプがあるようなものである。仏教はそのどちらにも属さない。
一面では仏教は心の科学である。宗教ではないから、どちらのグループに属することも受け入れない。他
面では、仏教は非常に精神的である。瞑想などをそのうちに含んでいる。
それがやはりどちらのグループに属することも許さない。仏教は二つのグループの中間に止まっている。
(『空と縁起:人間は一人ではいきられない』、大谷幸三訳、157〜158頁)
ダライラマ14世の言葉だそうな。
>>467 散々既出だが、キリスト教と仏教は伝統宗教の一言でまとめるにはかなり異質。
同一視するのは認識としておかしいだろう。
>>468 だから(啓示宗教だから無理かもしれないけど)って思ったんですけどね。
でも、「正統」を決定したのは「GOD」ではなくて教会な訳だから、その意に添わないものでも、
そこら辺のところは融通が利きそうなものですんで。
>仏教は経典にケチ付けまくっても全然構わんが。
経典にけちつけても教義の変更がかなう訳ではなくて、それはそれとして一つの学説として
教義を「否定しない形で」存在するから、そこら辺は仏教の寛容でしょう。
どうしてもそれを主張したければ独立するでしょうし。
>>469 個人的には、歴史と信仰の距離を置くことよってより現実味を帯びる(現代と繋がっている)
と思わせることも出来るし、誤解と思いこみの影響を離れればより救世主であるイエスに対する信仰心が深まりそうな気もするんだけど…むりか。
チベット仏教では釈迦の生涯を教えるところとか、どういった流れを辿って来たかみたいなのを
大切にしているようだから。
>>470 ここで言う伝統宗教は新興宗教系カルトに対する語。
少なくとも、今度の教皇の時には大幅な改革は望めないだろうな。
キリスト教の本質論を別にしたとしても。
どんな具体的な方針を打ち出して行動するか、静かに見守る時期だと思われ。
19日のNHK8時からバチカン特集ですよ
当初のスレの意図とは違ってきているけど、非常に面白いのでOK。
勉強になります。
ったってあんまもう語ることないよ。
キリスト教の本質からして史実のイエスを全肯定できないだろうし。
1)キリストは救世主であり、信者を救ってくれる存在である。(故に多くの人達が信じる)
2)その事は聖典である聖書に書かれている
3)史実が明らかになり、聖書に誤りがあることが見つかる(人間は生き返らない)
4)聖書は聖典ではなく、誤りが含まれているかも知れない単なる書物になる
5)単なる書物になってしまえば、聖書に書かれているからといってイエスが信者を救ってくれる保証が無くなる
6)( ゚Д゚)マズー
それまでの伝統的ユダヤ教からちょっと逸脱しかけた新興宗教のドンで大食らいであるのは信仰の都合上困るわけだ。
>>475 故に、ファンダメンタリストなんかは聖書に誤りがあることを認めないで、
聖書に誤りがないように解釈するわけだが。
まあ、親鸞くらい真面目に考えて割り切れる宗教向けの人間ならそれを気にしないだろうが、
なかなか凡人はそこまで突き詰めて考えられない。
嘘かホントかわからんけど俺は信じる、あんたらは好きにしろ、ってのは凄い正直だと感心する。
---以下引用---
私は、ただ念仏をすれば、阿弥陀様にたすけられて必ず極楽往生ができるという、
あの法然聖人の言葉を、馬鹿正直に信じている以外に、別の理由は何もないのであります。
念仏をすれば、本当に極楽浄土に生まれる種をまくということになるのでしょうか。
それとも、それはうそ偽りで、念仏すればかえって地獄に堕ちるという結果になるのでしょうか。
残念ながらそういうことは私はとんと知ってはいないのであります。
たとえ法然聖人がおっしゃったことがでたらめであり、
私は法然聖人にだまされて念仏をしたために地獄に堕ちたとしても、
ちっとも後悔はいたしはしません。
といいますのは、私が念仏以外の他の行を一生懸命勤めて、
その結果仏になることが出来るような身でありながら、
念仏をしたために地獄に堕ちるというならば、
法然聖人にだまされたという後悔も起こり得ましょう。
しかし、私はそんな知恵も徳行もなく、念仏以外の他の行によって
仏になることなどはとっても期待できない身でありますから、
念仏の行によらなかったら、永遠に地獄にいるより仕方がない身なのであります‥‥‥。
だから皆さん、以上の私の言葉をとっくりお考えの上、念仏をなさるもよろしいし、
念仏を捨てなさるのもよろしい。全くみなさまの自由勝手、
皆様方がご自分でお決めになることであります。
--- 親鸞『歎異抄』 梅原猛訳---
まあ、キリスト教徒の中でも色んな考え方の人がいるのは確かだが、
内村鑑三みたいな考え方はあまり歓迎されない(一般的でない)のは確かだと思われ。
服従を旨とするカトリックじゃまず無理じゃないかと。
---またも引用---
余輩は必ずしもキリスト教を説かず、余輩が真理と信ずることを説く。
余輩は聖書が示すゆえに真理なりと言わず、真理なるが故に真理なりと言う。
余輩は聖書を研究す、聖書に盲従せず。余輩は神の愛を信ず、
ゆえに僭越を恐れずして余輩の確信を語る。
--- 内村鑑三、『内村鑑三文明評論集』(三)山本七平編 ---
>>477 日本のカトリックは結構こんなもんじゃないか?
多くの人と語り合ったわけではないが。
一番辛いのが服従、というコメントは聞いたことがある。
日本でカトリックが流行らないのもその辺が原因なのかも知れん。
つか、バチカンの方針にゃそぐわんわな。
>>475 しかし、アレだ。それを言っちゃお仕舞いという…。
イエスは旧約聖書に書かれている救世主で新約聖書がイエスの言行録である限り、
旧約聖書にこだわらず、その言行にこだわるヤツが出てきても良さそうだけど…。
つまり新訳はより生活に近い身近な教えな訳だしそれ自体が否定されるわけではないから。
話が飛ぶけど個人的にはイエスの復活=マグダラのマリアの出産=新たなイエスの誕生て思ってるけどどうなんだろ?
ダヴィンチ・コードじゃないよ。
>>476 歎異抄は身近な分かりやすさがあるけど、親鸞は素直すぎて教団も否定しまってるからね。
本覚の一種といえばそうなんだろうけど。しかし天台宗系でない徳一の言行録や文献が少ないんだよと思う今日この頃。
>>478 カルトの基本は自己倒錯。キリスト教はそういう流れだから厳密な解釈すれば自己愛だけになる。
本当にキリストが再臨したら困るのは教会だっていうか、「もしキリストが
現れて教会の教えと異なるところを説くならば、これを捉えて処刑する」
とか堀田善衛が「路上の人」かなんかで僧侶に言わせていたな、そういえば。
にしても親鸞って異様だよな。自分は宗教学・史やったことないけど、
世界的に見てもかなり異様な存在じゃないのか?
>>482 わからない領域のことについては語らない、というのは釈迦以来の仏教の思想の一部。
もっとも、今じゃ大分変質したが。
無記(捨置)というのは形而上的問題に対する釈迦のスタンス。
---以下引用---
さらにヴァッチャは、霊魂と身体とは同一であるか別であるか、
人は死後もなお存在するか存しないか等のことについて、世尊がいずれの意見であるかを問うた。
だが、世尊は、そのいずれの意見をもとらない旨を答えた。
かくて、ヴァッチャは、さらに問うて言った。「いったい、世尊は、いかなるわざわいを見るがゆえに、
かように一切の見解をしりぞけられるのであるか。」すると世尊は、かように教えて言った。
「ヴァッチャよ、[世界は常住かどうか、霊魂と身体とは一体であるかどうか、
人は死後にもなお存するかどうか、などのような種類の問い]に対する見解は、
独断に陥っているものであり、見惑の林に迷い込み、見取の結縛にとらわれているのである。
それは、苦をともない、悩みをともない、破滅をともない、
厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない。
(マッジマニカーヤ 中部経典72、増谷文雄訳「火は消えたり」『仏教の根本聖典』、大蔵出版、240〜242頁
マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、
ということはない。また人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、
ということもない。マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があろうと、
人間は死後存在しないいう考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。
現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである…。
マールンキャプッタよ、ゆえに、わたしが説かないことは説かないと了解せよ。わたしが説くことは説くと了解せよ。」
以上のことを世尊は語られた。尊者マールンキャプッタは歓喜して世尊の教説を受け入れた。
(「毒矢のたとえ」、長尾雅人編集『バラモン教典・原始仏典』、中公バックス、473〜478頁)
みなさん、わたしは「一切」について話そうと思います。よく聞いて下さい。
「一切」とは、みなさん、いったい何でしょうか。それは、眼と眼に見えるもの、
耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、
身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。
これが「一切」と呼ばれるものです。
誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、
それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないでしょう。
さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。
何故でしょうか。何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。
(サンユッタニカーヤ 33.1.3)
たとえば、ここに一人の人があって、深き湖の水の中に、油のつぼを投じたとするがよい。
そして、つぼは割れ、油は水の面に浮いたとするがよい。そのとき、大勢の人々が集まり来て、
「油よ沈め、油よ沈め、なんじ油よ、水の底に下れ」、と祈りをなし、合掌して、
湖の回りを回ったとするならば、なんじはいかに思うか。
その油は、人々の合掌祈祷の力によって、沈むであろうか。
(相応部経典42.6 増谷文雄訳)
---以上引用---
と、まあ、こんなことを言っていたので、わかる人にはわかるが、その後一般受けはしなくなり変質したと。
周りがバラモン教だらけで、霊魂の不滅だの輪廻だのを信じてる人間がゴロゴロいるとこで、
こんなことを言ってたんだからその方が釈迦の伝説よりよっぽど凄いと個人的には思うんだが。
>>481 イエスの言行にこだわるなら新約なんて殆どアテにならんぞ。
西遊記読んで玄奘の言行に迫るようなもんだ。
>>485 自己訂正
西遊記というよりは三国志演義だな。
>>481 >個人的にはイエスの復活=マグダラのマリアの出産=新たなイエスの誕生て思ってるけどどうなんだろ?
ファンダメンタリスト並のこじつけとしか思えん
なんか朝から盛り上がってるなあ。
いいことだ。
>>481 >しかし、アレだ。それを言っちゃお仕舞いという…。
事実は事実じゃん。
>つまり新訳はより生活に近い身近な教えな訳だしそれ自体が否定されるわけではないから。
否定されるよ。神の存在が土台になった教えだから信者以外には通用しない部分も多いからね。
>>482 私生活はもにょもにょな人だが、宗教者としての適性は十分にあった人だと思われ
>475
だからガリレオとかにも当時の教会は反対してたわけだよな。
協会が何を恐れたかといえば聖書ではなく単なる道徳の書物程度に
聖書の質が落ちることを恐れたからだろ。
このまま落としてもいいのだが……折角のなので関係のない話をw
宗教者としての適性はまあ色々あるが、
平安末期〜鎌倉期の日本には割と真面目でエキセントリックでない宗教家がいたように思う。
言うまでもなく念仏とは祈りではない。
阿弥陀如来は誰でも浄土に連れていってくれるのだから祈る必要などないのだ。
むしろ他力を信じるなら祈ってどうこうというのは論外。
南無阿弥陀仏というのは実は感謝の言葉なのである。
踊り念仏というのも救われる喜びを踊って表現と言うもので、時宗の開祖に一遍という人物がいる。
ある時一遍が踊り念仏を主宰したところ、紫雲がたなびき、空から華が降ったという。
参加者は皆一遍の偉大さを称えたのだが、当人は苦い顔をしてこう言ったらしい。
「花のことは花に問え。紫雲のことは紫雲に問え。一遍知らず」
彼にしてみれば、踊ったから何か起こるというのはそもそも踊り念仏を理解していないことなのだ、
ということであろう。
親鸞もそうだが、一遍も真面目に宗教を考えた宗教者であろう。
ついでに一遍は死ぬ時自分の著作も何も焼き捨てて、
「一代聖教みなつきて南無阿弥陀仏になり果てぬ」
と言って遺体も野に置いて獣に布施するように遺言したという。
つくづく凄い人物である。
>493
死にも意味を持たせるのが人間だとおもう。
たぶん彼は自分の著作に仏の前には無意味だとおもったのだろう。
彼の書物や墓は生き残らなくても彼の生き方は残った。
キリストだってそうでしょ。
494 :
世界@名無史さん:2005/07/20(水) 00:44:35 0
【宗教】「歪んだ精神を学んでしまう」とローマ法王は「ハリー・ポッター」に批判的
1 :丑子φ ★ :2005/07/16(土) 02:31:08 ID:???0
★ローマ法王は「ハリー・ポッター」に批判的
[ベルリン 14日 ロイター] ベネディクト法王は「ハリー・ポッター」を
好きではないことが明らかとなった。その理由としては、この本を読むと、
若い人達がきちんとキリスト教の精神を学ぶ前に、歪んだ精神を学んでしまう
可能性があるからだという。
以前、バチカンは同シリーズに対して、善と悪を見分ける目を養うのに少しは
役立っているとの見解を示したため、容認しているかのようにみえていた。
同シリーズを批判した本「Harry Potter - Good or Evil」の著者であるガブリエル・
クビーは、2003年に当時まだ枢機卿だったベネディクト16世から2通の手紙を
受け取ったとし、その文面の一部を自身のウェブサイト上で公開した。
法王から許可も得ているという。
それは、「人々にハリー・ポッターシリーズの問題点を提起するのはとても
素晴らしいことです。同シリーズは読者が気付かないうちに、キリスト教の
精神とは違う方向へと巧妙に誘惑しているのです。これでは正しい精神を学ぶ前に、
歪んだ精神を学んでしまう可能性があります」というもの。
クビーは「読者に対する巧妙な感情操作や、歪んだ知識を植え付けることにより
『善悪を判断する目』を養うどころか、霞ませてしまっている」と一貫して
批判の立場を取ってきた。
ロイターの取材に対し、バチカン当局は「法王が休暇中のためコメントできない」
としている。また、クビーからもコメントを得られていない。
今年初めにバチカンは、「ダビンチコード(著者ダン・ブラウン)」に対して
「同作品は、歴史を歪曲して伝えている。安っぽい嘘ばかりが書かれた本だ」との
声明を発表し、書店から排除するよう求めた。
REUTERS
http://www.excite.co.jp/News/odd/00081121425520.html
ageるなよ!もう、また死んだかと思ったじゃねーか。