【Rouml;misches】神聖ローマ帝国 【Reich】
>>598 >1254年〜皇帝の大空位時代を経てから教皇権力も暫くしてから弱体化する
むしろ教権の衰退の方が早いんじゃないか。
帝権追い出すためにフランスにべったりになったのが教皇の大チョンボだと思う。
>>598 どっちかが衰退したから、両者ともに衰退したというより
両者の権威の基盤が国家という枠組みを超えた所にあって
中世も半ばを過ぎてくると、国家という概念が強調されてきたから
結果として皇帝と教皇が持っていた権力が喪失されていったんではないかな?
603 :
世界@名無史さん:2007/11/24(土) 13:55:51 0
604 :
佳:2007/12/23(日) 10:57:24 0
>>595フス派やら兄ヴェンツェルとの対立やら色々問題を抱えていたジギスム
ント帝じゃダメだろう。彼に男子がいたとしてもボヘミヤの統治で手一杯だっ
たはず。
605 :
世界@名無史さん:2008/02/02(土) 03:42:10 0
質問なんですが、
フリードリヒ美王って、フリードリヒ3世ですよね??
じゃあ何で大愚図の方のフリードリヒは4世ではないんでしょうか??
同じハプスブルク家でも、
ルドルフ1世と2世の例を考えてみれば
ローマ王と皇帝とで区別してるようにも思えないし、
対立王であってもちゃんとローマ王として即位していたのに…。
それと、幼童王の方の4世がいるのに
なんでルートヴィヒ4世はルートヴィヒ5世ではないのでしょうか??
ロタール3世やカール4世とかの例を考えると、
〜○世って数えるのはフランク時代も含めてると思うのですが、
ルートヴィヒ4世とかは例外なんですかね??
俺、頭の出来が悪いから、
○○○n世とか、しっかり覚えていないんだよねえ
そういうのしっかり覚えている人、尊敬するなあ
マルチですみません。
中世ヨーロッパでは神聖ローマ帝国とカトリック教会は
どんな地位(位置づけ?)だったんですか?
そしてどんなふうに変化したんでしょうか
>>607 中世といっても長いのですが、中世高期になるまでは
神聖ローマ帝国の版図に入っていない地域においても皇帝を賛美する礼拝が
教会で行われていました。
ドイツ王国という点では明確な版図があるのですが、理念上皇帝は
カトリック教会の保護者であり、これがある程度の実効性を持っていた時代が中世です。
609 :
世界@名無史さん:2008/02/07(木) 13:04:50 0
>皇帝を賛美する礼拝
もしかしてイスラムの金曜礼拝のフトバで支配者の名を読み上げるように
会衆の前で定期的にやったりするのかな
610 :
佳:2008/03/15(土) 16:53:16 0
保守
611 :
世界@名無史さん:2008/05/04(日) 23:52:00 O
保守
612 :
世界@名無史さん:2008/05/05(月) 00:19:45 0
>>605 〜世は特定の地位にあった同名者に序数を付け区別するもの
だから神聖ローマ帝国最後の皇帝フランツ2世は
自ら作ったオーストリア帝国では皇帝フランツ1世となる
フリードリヒ美王はオーストリア公1世・ドイツ王3世
大愚図のフリードリヒはオーストリア大公5世・神聖ローマ皇帝3世
称号の昇格だけの場合は通算される
>>607 教会が皇帝を任命して
皇帝が教会を保護する
もちつもたれつ
カトリック世界では教会の保護者として
「教会を保護する皇帝は立派です」という感じで皇帝賛美が行われた
皇帝の宗教的権威が通じなくなったのは
アヴィニョン捕囚で教皇に失礼なことをしたあたりからかな?
神聖ローマ皇帝の宗教権威が通じなくなったのは、ハプスブルク=ロートリンゲン朝になってから、戦争で
フランスやらプロイセンやらにボロ負けするようになってからだぞ。
615 :
世界@名無史さん:2008/05/11(日) 20:58:24 0
よくヴェストファーレン条約以後は300近くの領邦が事実上独立したって記述を見るけど、
その300の領邦が詳しく書いてあるサイトか書籍しってる方いませんか?
617 :
世界@名無史さん:2008/05/11(日) 21:50:00 0
>>615 ウィキで検索したら、有名どころの領邦の歴史は大体つかめるぞ。
>>613 アヴィニョン捕囚の加害者誰だか分かってる?
620 :
世界@名無史さん:2008/05/15(木) 03:02:51 0
621 :
世界@名無史さん:2008/05/15(木) 07:14:48 0
>>616 thx 学生だから6000円近い本買う金ねーけど
大学の図書館探してみるよ!
>>617 有名どころなら20〜30ぐらいはウィキに乗ってたね。
もっと知りたいって欲が出ちゃったんですよ。
>>618 英語ウィキはきがつかんかった!
日本語版より充実してるみたいっすね。
英語は単位落として再履修なるぐらいヘボイけど
エキサイト翻訳使ってみますよ!
みんなありがとう
>>65 Friedrich der Schoene ことフリードリヒ美王は最初ルートヴィヒ四世に対する
対立国王(正式な王ではない、のちに共同統治者となる)だったからじゃないかな?
一方東フランク時代の Ludwig das Kind ことルートヴィヒ幼童王は東フランク国王には
ついたがローマ帝にはついていない。(父王アルヌルフの後を継いで西ローマ皇帝の地位
についたのはルートヴィヒ三世盲目王、恐らくバイエルンのルートヴィヒ四世はこの盲目王
の次にルートヴィヒと名乗る皇帝だったから四世になったのだと思う)
623 :
世界@名無史さん:2008/07/29(火) 14:26:11 0
>>621 そこでPCの辞書使って自分で訳していけば
数年で英語の歴史論文読めるくらいの英語力は付くだろうに
624 :
カラジチ ◆mWYugocC.c :2008/07/30(水) 14:26:29 0
>>622 まとめさせて。
・ルートヴィヒ
皇帝1世 = フランク王1世 ルートヴィヒ敬虔王、在位781-840、皇帝戴冠813,816
皇帝2世 = フランク王2世 在位850-875、敬虔王の長男の長男
皇帝3世 盲目王、 在位901-905、イタリアの対立王
フランク王3世 幼童王 在位876-882、ザクセン王
フランク王4世 在位900-911 ケルンテンのアルヌルフの子、東フランクのカロリング朝最後の王
皇帝4世 = ドイツ王5世 ヴィッテルスバハ家、在位1314-46、皇帝戴冠1328
・フリードリヒ
皇帝1世 = ドイツ王1世 赤ひげ 在位1152-90、皇帝戴冠1155
皇帝2世 = ドイツ王2世 シチリア王の人 在位1196-97,1211-50、皇帝戴冠1220
ドイツ王3世 美王 在位1314-30
皇帝3世 = ドイツ王4世 大愚図 在位1440-93、皇帝戴冠1452
むしろ問題はルドルフ世をなぜ2世呼ばわりか、だと思うんだけど。
・ルドルフ
対立王 ルドルフ・フォン・ラインフェルデン 在位1077-80
ドイツ王1世 1273-91 ハプスブルクの最初の人。皇帝戴冠せず
皇帝2世?= ドイツ王2世 在位1576-1612
このひと、ドイツ王としてもボヘミア王としても2世だけど、皇帝としては1世だと思う。つか神聖ローマ皇帝でルドルフはこの人だけ。
まあハプスブルクの始祖と混同するから2世なのかもしれんけど。
625 :
話題ずれてるんで 1マス下げます:2008/08/16(土) 23:05:38 0
閑話休題で一言
神聖ローマの中で争いがあり、領邦が併合されたりするじゃないですか、
このとき、そこの領主は、帝国諸侯から格下げで陪臣になるんでしょうか。
オーストリアに併合されれば(宗主権みとめるとかも)、帝国諸侯の位は維持ですか。
ナポレオン戦争の際も、その後のウィーン体制でも、領邦は減っています。
陪臣になったか、逃亡して終わったか。領土のない帝国諸侯となったか?
626 :
世界@名無史さん:2008/08/18(月) 23:24:04 0
ボヘミア王とドイツ王の関係って、
ナバル王とフランス王の関係、スコットランド王とイングランド王の関係に似ている。
627 :
世界@名無史さん:2008/08/20(水) 00:53:37 0
>>624 ルドルフ1世は戴冠こそしていないが大空位時代を終わらせた実質皇帝
として扱われている。即位していない曹操を武帝と呼ぶようなもの。
ハプスブルク家当主のルドルフは以下のとおり。
後に帝位を戴冠したドイツ王はローマ王と呼ばれる。
ブライスガウ伯ルドルフ1世(?〜1063)
ハプスブルク伯ルドルフ2世(?〜1232)
ハプスブルク伯ルドルフ3世(?〜1249)
ハプスブルク伯ルドルフ4世(1218〜91)
→ オーストリア公ルドルフ1世=ドイツ王ルドルフ1世 (神君)
オーストリア公ルドルフ2世(1270〜98)
オーストリア公ルドルフ3世(1281〜1307)=ボヘミア王ルドルフ1世
オーストリア公ルドルフ4世(1339〜65) (建設公)(大公を僣称)
オーストリア大公ルドルフ5世(1552〜1612)
=ハンガリー王ルドルフ=ボヘミア王ルドルフ2世=ローマ王ルドルフ2世
→ 神聖ローマ皇帝ルドルフ2世
628 :
世界@名無史さん:2008/08/20(水) 06:08:33 0
全然、知識の無い分野だから、
頭を整理するために このスレを開いたんだが、やっぱり判らない。
「何かグダグダだったようだ」というビフォー状態から、
「やっぱりグダグダだったんだな」というアフター状態に成長したよww
629 :
カラジチ ◆mWYugocC.c :2008/08/20(水) 15:26:47 0
>>627氏
やはり始祖を1世扱いなんですかね。
>即位していない曹操を武帝と呼ぶようなもの。
それはおくり名だから違うでしょう。
>後に帝位を戴冠したドイツ王はローマ王と呼ばれる。
これは初耳なんですが、本当ですか?
ドイツ王とローマ王は別段区別なしに使われているように思うのですが。
630 :
世界@名無史さん:2008/09/05(金) 14:30:22 0
>>627 曹操よりはカエサルのほうが近いんじゃないかな
>>627 アウグストゥスなど、古代ローマの堂々たる歴代皇帝がそんなの聞いたら激怒するだろうな
>>627 ドイツ王とローマ王はカラジチの言う通り、≒の称号だよ。
ローマへの監督権を強めようとしたザリエル朝がことさらに強調しはじめて
定着した称号がローマ王だから。
神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサのことが詳しくわかる本はないでしょうか?
634 :
世界@名無史さん:2008/11/27(木) 22:51:39 0
age
635 :
世界@名無史さん:2008/11/30(日) 08:42:38 0
アホみたいに宗教戦争やってないでモンゴルの侵略からポーランドとハンガリー救ってやれよ・・・・まぁーオゴタイが死んだおかげで本当助かったな馬鹿どもめ
1241年ノイシュタットの戦い
モンゴル軍が現在のオーストリア北西にあったノイシュタット城を包囲
神聖ローマ皇帝兼シチリア国王フリードリヒ2世は子エンツォ率いるドイツ諸候・シチリア王国連合軍を派遣
連合軍はモンゴル軍を撃退し、ノイシュタット城の解囲に成功する
フリードリッヒ・バルバロッサが
最高の名君扱いされてるのはなぜ?
イタリア遠征とか失敗してるし
そこまで高い評価な理由を誰か教えてください。
成功失敗はともかく、皇帝かくあるべし、というイメージを体現していたからではないか。
639 :
世界@名無史さん:2008/12/02(火) 21:50:05 0
ローマ=カトリック教会の盛衰について
フランク王国・ビザンツ帝国との関わり、十字軍の影響を交えて教えてください。
640 :
世界@名無史さん:2008/12/02(火) 21:52:14 0
>>637 クロニクル程度しか出てこない、しかもたいした業績は残していない中世の人間が最高の名君だとかいわれるのは、
17−18世紀のロマン主義の時代にドイツ人が自分で歴史を歪曲して、こいつを美化したため
なるほどそうなんですか。
>>640さんありがとうございます。
つづけてすいませんが誰かバルバロッサさんの凄いところを教えてください。
さすがに最高の名君とかは誇張だとしても
下地がなければ美化はできないし、中世の数多の皇帝達の中で彼が
ここまで崇拝されたのもそれなりのものがあったからでしょうし。
彼の名君たるゆえんはどこにあるのでしょうか?
誰かお教えくだされば幸いです。
>>641 確かにイタリア政策の失敗や行軍中の溺死は有名であるけど。
ドイツ王国の混乱を収拾し、ポーランド王国やボヘミア王国を傀儡にし、
第3回十字軍ではアイユーブ朝を相手に勝利する等、
それなりの「名君」としての実績はある。
しかし、彼が神聖視された一番の要因は彼自身の容姿にあるだろうと思う。
>>642 おお!
なにやら凄そうな実績ですね。ありがとうございます。
やはりそれなりの実績はあるのですね。
容姿というと赤い髭が有名ですけど、そんなに美しかったのですか?
聞いてばかりですいません。
バルバロッサのやったことといえば、ヴェルフェン家のハインリヒ獅子公の追放とかもあるな。
つーか、ボヘミアが王国になったのってフリードリヒ2世の時代じゃなかったっけ?
シュタウフェン家の最後って悲惨だよな。
それに比べて、ヴェルフェン家は勝ち組だ。
>>642 ポーランドに対しては傀儡にしようと考えて王に推したクラクフ大公が失脚したんじゃなかったっけ?
グニェズノ大司教座の大司教とこの大公の兄弟親戚が、大公をポーランドから追い出して、自分たちで新たに大公を立てた
それでバルバロッサがポーランドを支配しようとした企みは頓挫したはず
>>644 少ししらべましたけどハインリヒ獅子公はすごい人みたいですね。
彼を失脚させたのは普通にすごいと思います。
>>646 そうなんですか。赤毛ってヨーロッパでは珍しいのでしょうか。
赤毛のアンとか赤毛のエリクとか聞きますが。
あまりにありふれていてもあだ名にはならんと思う
シュワルツコフなんてありふれた黒髪ってことだぜ。
ゲルマン人の間で黒髪がありふれてるとでも?
つーか、同名が山ほどいるから適当な身体的特徴で区別するわけだよ。
渾名だけで呼ばれるわけじゃなくて、本名と渾名のセット。
>>651 ありふれてるぞ。金髪はもっと北の人種の特徴。
654 :
世界@名無史さん:2008/12/31(水) 02:14:46 O
この前習ったばかりだが名前負け杉ワロタwww
イタリア政策www
655 :
世界@名無史さん:2008/12/31(水) 15:14:14 O
シュタウフェン朝の断絶で死んだ帝国。
オーストリアのハプスブルク−ロートリンゲ朝は自分の領地の経営だけだったし
ドイツ王の基盤ができていなかったのに、世界帝国なんて夢見たからだよ。
そこらの遊牧民族と同じ行動原理。
ドイツ諸侯はお互いの足を引っ張ることしか考えてないから、結果死に体の帝国だけが残った。
独逸(Deutschland)の語源を調べてたんだけどさ
誰か詳しく解る人いるかい?
専門別なのに無駄に時間掛けてしまったorz
俺が調べたところでは独逸の学者間でも由来については侃々諤々らしいってとこまでは判った
一応ほぼ確定的な事実を列記すると
ラテン語でtheodisucus(民衆の)という形容詞から
アルプス以北に居住している人をlinga theodisca(民衆の言葉)を話す人々ってな感じで使っていたらしい
それを叙任権闘争期において教皇側が、皇帝側を卑下して指す言い方でrex teutonicorum(民衆の王)と使ったらしい
これが次第に名詞化してteuto→deutschになっていったらしい
因みにそれ以前だと東フランクには西ほどの纏まりが無いからただ単にrexと文書に記すだけで
西フランクと対等に和平を結ぶためのボン条約(921?)のときだけ唯一rex francorum orienta(東フランク王)とした事例がある程度らしい
てな感じで実体性のない東フランクって名前から段々「民」って意味の言葉が地域名化していったのが「ドイツ」みたいだねぇ
中央集権、民族主義も遅れたのは名前からして既に一体性が無かったからなわけだ
俺が調べられたのはここら辺まで、さらに知ってるお方情報plz
>>658 俺も詳しくないんだけど、補足的な感じで。
ドイツ語、即ちlingua teodiscaは既に8世紀にはそう呼ばれていたことが
わかってるんだけど、東フランクでは言語はこの「民衆語」で共通だったけど、
集団として機能するのは部族単位だったから、彼らをひっくるめて指す
言葉はなかった、というのは685の言う通り。
というわけで、ドイツはまず言語名として成立して、それを使う集団
としてドイツ人が定義されて、そのドイツ人が住む場所として地域と
してのドイツが定義された、という感じ。
で、Deutschlandという言葉の成立は、17世紀以降になる。
それ以前はdas teutsche Landだから、「ドイツ人の土地」と言ってる
だけで固有名詞になっていない。
なるほど
teutonicorumに定冠詞dasを付けてdeutscheか
ふむふむ、なるほどなるほど
するってーと、Das Deutschlandは「おみおつけ」的な言い回しということになるわけかい?w
教えてください。
16世紀末、ルター派の民衆は自分たちのことをなんと呼んでいたのでしょうか?
新教とでもいっていたのでしょうか?
また、カトリック側はルター派をなんと呼んでいたのでしょうか?
>>662 16世紀末だとルター派が既に自称として使われていたはず。
カトリックからは「ルター派の異端」。
ルター自身が宗教にしか興味なくて保守化したのが許せん
宗教が生活に影響することを知りながら、いざ民衆が政治的に急進化したら「俗世は知らん」だもんな
こういう人間を扇動家と言わずしてなんて言うんだよ
聖界にしか興味がないならそもそも地上に降り立つなと言いたい
400年前の人間に何を滾ってるのか俺もわからんがこいつは嫌いだ
いや、民衆からローマ教会のくびきを解き放った結果がドイツ農民戦争で、
これを踏まえてルターは依然として教会が必要だと考えて領邦教会の
設立に奮闘したわけで、「俗世は知らん」ってこたないだろ。
本人が当初は全く意識してなかったとはいえ、扇動家であったということは
間違いないけどね。
打ち殺せ、刺し殺せ、絞め殺せ
炭鉱夫だか農夫だかの出身なんだから、農民の味方でもよかったのにね。
単純にルターの「二王国論」からすれば、
行き過ぎた信徒より、そいつらから善きキリスト教徒を守るための世俗の罰の方が大事だったんでしょ。
669 :
世界@名無史さん:2009/02/06(金) 15:22:23 0
新晴雨
>>659 その「民衆語」も統一した言語があったわけではなかったからね
なんとなく互いに似ていて、エルベ川より東に住んでいるヴェンド人(スラヴ人)諸部族の言葉とは
どうも違うから、たぶん民衆語それぞれは互いに同じ系統の言葉なのだろうという程度の認識はあった
>>666 >民衆からローマ教会のくびきを解き放った結果がドイツ農民戦争
その認識はイデオロギー臭すぎ
まあイデオロギー云々を別にして、ドイツ地域がローマ教会から相当な搾取されていたのは間違いない。
いくら扇動したって、その扇動を受け止めるだけの実態が無ければ、火は燃え広がらないよ。
673 :
世界@名無史さん:2009/02/07(土) 07:35:22 0
>ローマ教会のくびきを解き放った結果が
解き放ったどころか、現実はその後カトリック教会が「対抗改革」で自己浄化に成功したのに対し、
ドイツ人は集団心理でさらに自分たちを新教会とそれをあやつる王侯貴族の奴隷にしたから、
解き放ったというのはイデオロギー臭いわ。
674 :
666:2009/02/09(月) 01:57:14 0
うーん、イデオロギー的な意図を込めたつもりはなかったのだが、
なんかくだらん論争を起こしてしまって申し訳ない。
人は常に何かに縛られているもので、それは教会だったり
法だったり専制だったり自由思想だったり時代精神だったり
するわけだが、たまたま当時のドイツではそれがローマ教会だった、
と言いたかっただけなのだ。
みんな趣味と暇つぶしで書き込んでるんだからくだらなくないよ
過疎スレだし話題さえありゃどーでもいいだろw
まぁ
>>666的な「解放」には確かにイデオロギー的な意味がこもってるね
というより宗教的側面が強すぎってことを皆言いたいんだと思う
実際にドイツ農民戦争で農民が主張したことは封建制の打破であってルター派云々なんてのは出汁に使われてるだけだしね
宗教的な解放をルターは求めてたけど
農民自身は経済的な解放を求めていたわけだ
676 :
世界@名無史さん:2009/03/04(水) 19:30:04 0
677 :
世界@名無史さん:2009/03/05(木) 18:22:04 0
678 :
世界@名無史さん:2009/03/10(火) 22:02:54 0
帝国の範囲?
こまけぇこたぁいいんだよ!!
そこらの王が皇帝を仰げばみんな帝国なんだよ。
まあ欲を言えば聖地まで地続きでみんな服属させてーよ。
あと東方もな。
ま、俺らの子孫がへぼ過ぎたらドイツ語喋ってる連中だけ
になっちまってドイツな帝国なんだよ とかなるかもな。ガハハ!
神聖でローマで帝国なんだぜ!
680 :
教皇:2009/03/11(水) 02:29:37 0
神聖ってことは俺のナワバリだよな!
12世紀にローマが取れてただ単に「神聖帝国」だった時期があるけど、
なんかあったの?
ローマが取れて、というより、その前は単に「帝国」だったんだよ。
まあラテン語とドイツ語の公文書で国名食い違ってる時期もあるしな。
たしかにローマだの神聖だの呼称は大事だが帝国は帝国なんだ。
帝国がこの世に二つも三つもあるなら別問題だが、まさか東方の
蛮族が帝国とか抜かすことなど神が許されない。
西方の王国と同等とういうこともありえない。
もちろん我らの父のいる天上と肩を並べようなどと思わない。
帝国は帝国以外の何物でもない。それ以上でもそれ以下でもない。
>>683 その前はフランク王がローマ皇帝に戴冠してるってだけ。
ローマ帝国の復活というわけじゃないよ。
687 :
世界@名無史さん:2009/05/11(月) 12:20:12 0
596 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2009/05/11(月) 12:04:27 ID:pfgCvDaV
ポーランド王って神聖ローマ帝国皇帝から見れば格下だわな。皇帝と王ではね。ははは。
ローマ教皇&神聖ローマ皇帝
|
ドイツ王&ポーランド王
えーとですね、神聖ローマ帝国というのは決してドイツではなく、
ドイツ王国をそのなかのさまざまな国家の一つとして含めた帝国、結局はローマ帝国なのです。
帝国内のドイツの王とイタリアの王を兼ねた者が神聖ローマ皇帝に即位するのが習慣だったのです。
帝国内の領域にあるドイツ王国と、帝国外にあるポーランド王国は同格、そしてポーランド王はドイツ王とは同格です。
えーと、ドイツ王国というのはいつどこにあったんですか。
690 :
世界@名無史さん:2009/05/11(月) 18:18:17 0
>>689 東フランク王国→ドイツ王国、なのでは?
>>690 その「→」の意味を明確にして欲しいんだけどね。
東フランク王国が名前だけ変わったもの、という趣旨で言ってるの?
それとも、東フランク王国が崩壊してその主要な一部がドイツ王国という国家になったと言ってるの?
俺の認識では、ドイツ王国という国家が成立したことはないんだがね。
ドイツ王というタイトルとポーランド王というタイトルが同格だっつー主張自体は受け入れられないこともないが、存在もしないドイツ王国とポーランド王国が同格というのは無茶だろう。
692 :
世界@名無史さん:2009/05/11(月) 19:11:45 0
東フランク王国=ドイツ王国
イタリア王国同様、のちに実態のなくなった、概念上の国家
概念はずっと残って、神聖ローマ皇帝は、ドイツ王とイタリア王を兼ねた者が即位するのがしきたりになった
693 :
世界@名無史さん:2009/05/11(月) 19:13:10 0
国家というのは概念と実体の両方あるのが普通だが、ドイツ王国やイタリア王国も実体が消えて概念だけが残ったように、
神聖ローマ帝国もついには概念だけの国家になってしまって、滅亡した
神聖ローマ帝国存在中にドイツ王がイタリア王を兼ねなかった例はあるのか?
自称としてのドイツ王という称号はザクセン朝末には消滅するのだが、それでもドイツ王国という概念は存在したのか?
ドイツ王という称号の消滅後は、それと同義とされたローマ王という称号は帝位継承権者の称号となるのだが、その場合、ポーランド王と同格のドイツ王というのは何のことを指しているのか?
695 :
世界@名無史さん:2009/05/11(月) 19:55:38 0
ドイツ王とイタリア王を兼ねた人物→(即位)→神聖ローマ帝国皇帝
イタリア王という概念は19世紀まで続いた
ドイツ王の概念はそれより早い時代に消滅したはず
つまり東フランクが有名無実になって実体どころか名(概念)も滅亡した
別にポーランド王でなくともよいが、帝国外のポーランド王やハンガリー王などと
帝国内の王国の王との違いはこう考えるとすっきりする
*帝国外の王→ケーニッヒ・in・どこそこ王国
*帝国内の王→ケーニッヒ・von・どこそこ王国(・in・神聖ローマ帝国) ←in以降は言わずもがなだから省略されている
ドイツ王・イタリア王・ボヘミア王は「帝国内の王」でOK?
ところで、ネーデルラントはいつからドイツとは区別して考えられる
ようになったんだろう。
>>696 ドイツ王・イタリア王・ブルグント王とボヘミア王は違うだろう。
後者は基本的に王号を許された諸侯に過ぎない。
まあ、結局皇帝=ボヘミア王だった時期の方が長いが
ネーデルラントとスイスはウェストファリア条約で帝国離脱するまでは一応ドイツだろう。
最大の疑問が解決されている!
inとvonの違いなんて高校でちゃんと教える世界史の先生いないもんな
目からうろこが落ちた
そもそも、ドイツという地域が発生したのがかなり後代なわけで、ドイツという地域の王が「帝国」内に存在するわけがない。
ドイツ王という言葉の当初の意味は「民衆の王」だし、それと同義であったローマ王も「ローマ人の王」。
つまり、どちらも、ローマ帝国に所属する人々の王、という意味になる。
従って、ドイツ王というのは、まず帝国があって、その君主である、という意味があるわけで、皇帝が帯びた他の王号とは次元が異なる。
要するに、某学会の名誉会長は民衆の王であるが、そういうことだな。
インスティテューションとしての王国の君主としての王ではなく、民衆の王。