【中世の秋】ブルゴーニュ公国【マイナー?】

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1世界@名無史さん
教科書・資料集の類だとスルーされがちだけど、ブルゴーニュ公国はヨーロッパ一の
大都会だった。そういうわけで、ブルゴーニュについて語ってみないか?
2世界@名無史さん:05/02/14 11:39:08 0
ぶだうの種類ですな
3世界@名無史さん:05/02/14 11:42:44 0
ブルグンド王国
4世界@名無史さん:05/02/14 12:56:54 O
中世の秋…ホイジンガだっけ
5世界@名無史さん:05/02/14 13:32:01 0
ブルゴーニュ公領(仏王主権下)+ブルグンド伯領(神聖ローマ皇帝主権下)
+フランドル伯領+アルトワ伯領(仏王主権下)etc.
6世界@名無史さん:05/02/14 15:04:55 0
エノー伯領とかヘルレ候領とかもあったな。あの辺の地名は色々ごちゃごちゃ
しててわかりづらい時がある。

中公新書だったか、「ブルゴーニュ家」でフィリップ善良公のヘアスタイルに
吹いた。あの時代そういうカットが普遍的だったということを考慮に入れても、
あれは笑える。
あとシャルル突進公は綽名からして頭悪そうな顔してんだろうと思っていたが
そうでもなかったよ。微妙にがっかりした。
7世界@名無史さん:05/02/14 15:40:15 0
>>6 イギリスの裁判官のカツラも笑える。
8世界@名無史さん:05/02/14 19:27:15 0
>>7
どんなヅラ?話には聞いたことあるが実際に見たことない…
ロココっぽい横ロール付とか?
9世界@名無史さん:05/02/14 20:15:20 0
ガリヴァー旅行記の映画に出てきたイギリスの裁判所のシーンで
鬘の裁判官が壁際にズラーッと並んで腰掛けてるシーンが出てきて一瞬ギョッとしたなあ。
クローン人間かとおもたよ(w
10世界@名無史さん:05/02/14 20:18:31 0
それは壮観だなw
11世界@名無史さん:05/02/14 22:32:01 0
>>5-6
ttp://www.cr-npdc.fr/reperes/France/Histoire/05/05-02.htm
領土の真ん中をフランスと帝国の国境が通ってるな。
12世界@名無史さん:05/02/14 22:40:14 0
確か最後の公女マリーがはハプスブルグ家のマクシミリアンと結婚したんだよなー。
13世界@名無史さん:05/02/14 22:45:27 0
>>1
都会?
141:05/02/14 23:03:35 0
>>13
都会だろ。毛織物業で繁栄してるし、国庫は無尽蔵といわれていた時期もあったとか。
フィリップ善良公時代が一番栄えてた。まあ折角の財産をシャルル突進公が戦費に費や
してしまう訳だが…でもトリーアのフリードリヒ3世との会見で、ブルゴーニュ側の盛り
上げぶりは凄かったらしいぞ。超豪華。御馳走オンパレード。騎士団、侍従とかぞろぞろ。

それにウィーンの片田舎からマリーと結婚するために旅してきたマクシミリアンがガン
にたどり着いて、はじめて見た大都会にびっくりしてるし。マリーは愛する旦那様の為
に毎日のように贈り物してたそうだ。
って、ブルゴーニュが都会であるという証明になってないかも知れん。
15世界@名無史さん:05/02/14 23:08:19 0
いや、都会というと特定の都市のことというイメージが・・・

開化されている、とか都市が発達している、とかならわかるが・・(ry
16世界@名無史さん:05/02/14 23:08:47 0
ヨーロッパ一の大都会?
171:05/02/14 23:22:34 0
都市の発達というなら、裁判所とか法的な機関も整備されていたようだし…当時の
ヨーロッパでは先進国じゃないか?マクシミリアン1世はブルゴーニュの文化を帝国
に持ってきたが(裁判所とかね)あんまりうまく行かなかったらしい。
あと確か複式簿記制度とかもきちんとしてたそうだ。商業系にはあんまり詳しくない
からよくわからんが。あと、メディチ銀行のブリュージュ支店とかあったし…ネット
ワークに入れるだけの大都市だったってことかな?

ブルゴーニュの財政は毛織物業の他にワイン・塩とかで賄ってそうだな。あと漁業?

18勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :05/02/14 23:37:25 0
ブルゴーニュ(ブルグンド)は中世を通じて西欧世界の経済的な中心を占めたといって
良いと思います。
フィレンツェ(メディチ家)にしても、提携先だったシャルル突進公の没落が
衰退の決定打のひとつになっていますし、物流の中心であった事も確かでしょう。
19世界@名無史さん:05/02/15 00:39:23 0
ブルゴーニュつーかフランドルやブラバンドは文化の先進地域でもあった。
音楽でもブルゴーニュ楽派やフランドル楽派(どっちもフランドルやカンブレー
出身者が担い手)が栄えた。突進公没後も、イタリアの教会は競ってフラン
ドル出身の音楽家を雇用し続けた。17世紀冒頭のモンテヴェルディの登場
まではイタリアよりこっちの方が本場だった。
20アクィラ ◆0fUIPC892c :05/02/15 01:17:12 0
ローマ時代から、
ローヌ川を利用した河川交易の要所だったから、
経済的に繁栄する条件は整っていたんじゃないですかねぇ。
葡萄栽培>ワイン生産も、
ウィエンナ(現、ヴィエンヌ)を拠点としたアッロブロゲス人が既に始めていたことですし。
21世界@名無史さん:05/02/15 02:18:48 0
ディジョンは当時西欧でもっとも栄えていた都市だったそうだね
22Ryuju ◆RlujhF6VrA :05/02/15 11:23:56 0
>>20
ブルゴーニュ地方は紀元前にはハエドゥイ族の本拠地でもあったんだよね。
共和政ローマと友好関係だったのもそのせい?
交易の要所ということは、純粋な交通(軍事移動なども含む)面でも
便利な場所だったろうし。
231:05/02/15 11:41:46 0
うお!自分の書いたのよりよっぽど説得力のあるレスが一杯!!
>18〜22の皆さん
詳細なレス助かります。有難うございます!

今度から敬語にすべきだろうか…
24世界@名無史さん:05/02/15 12:53:43 0
ディジョンにいい人が多いのは、元都会人の余裕があるからなのか。
25世界@名無史さん:05/02/16 06:52:22 0
>>21
さすがに「西欧でもっとも」というのは違うんじゃないの?
ブルゴーニュ家南部領では第一の都市だったことは間違いないと思うけど。

26アクィラ ◆0fUIPC892c :05/02/16 07:49:29 0
>>Ryuju氏
OCD, s.v. Aeduiによると、
(Haeduiでなく、こちらの記述の方が一般的なのか否かは、知りません)
前121年には、fratres consanguineique「兄弟にして血族」の称号を、
ローマから得ているようですから、
その時にローマに併合されたアッロブロゲスよりも、親ローマ的ですね。>ハエドゥイ
アッロブロゲスは前60年代末(ガリア戦記直前)に反乱を起こしていて、
急速なローマ化を果たすのは、その後のことです。
(古代ネタでスマソ)>ALL
271:05/02/16 11:50:28 0
>>21
ディジョンよりはガン・ブリュージュみたいなイメージだな。
いや、単にこっちが勉強不足なのでイメージが先行してるだけだ…横槍スマソ

そういえば、この前金羊毛皮騎士団のトランプがあったから買ってきた。
絵柄とか中世の雰囲気がよく出ていて綺麗だぞ。年代的にはフィリップ
善良公時代のものが重点的に取り上げられてた。クロワ家のやつとか、
色々出てたけど自分フランス語読めないんだ…orz
絵札はフィリップ善良公とか他の騎士が16枚、あと金羊毛皮騎士団の
成立とか歴史がそれぞれフランス語・ドイツ語・英語・日本語で書かれ
たのとか、騎士団メンバー表とか(これはフランス語)が他の札だった。
札の裏は騎士団の首飾りとブルゴーニュ家の紋章が組み合わさったデザ
イン。お気に入りだけど、前これでポーカーやっちゃったよ…

…トランプ話長々とゴメン。話題を変えるけど、シャルル突進公に対して
なんか持ってるイメージとかある?自分としては「領土広げるのはいい
けど、親の財産食いつぶしてまでやる事?引き際弁えろよ。2度も負け
戦したならそこで一旦引き下がるべきだったんじゃねえの?」と説教し
たくなる。突進公の綽名もなんかバカっぽいし。いや、好きな人物では
あるんだが、かなり抜けてるようなイメージが先行する。
それにしても、スイス兵は本当に強いなあ…

>>26
ハエドゥイってゲルマン民族の一派ですか?文脈から見るとなんかそれっぽい
のでそう思った次第…
28勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :05/02/16 12:45:28 0
>>27
多分、スイス兵との敗戦を放置して退却しても、所領は空中分解の危機
に陥ったのでは無いでしょうか?
強権的な政権でしたし、本家との折り合いも良くなかったわけですし。
何としても勝って格好を付ける必要があったのではと愚考しますが。

ブルゴーニュの発展というと、やはり古ブルグント王国が連想されます。
ブルゴーニュ公国が秋だとすると、あの辺りが春になるのでしょうか?
29世界@名無史さん:05/02/16 13:09:27 0
>>アクィラ氏
>OCD, s.v. Aeduiによると、

OCDはOxford Classical Dictionaryかなと思うけど
[s.v.]ってなんですか?
英和辞典引いても出てないし.....
30:05/02/16 16:55:13 0
>>28
>強権的な政権
それぞれの都市が独立志向だから戻った所で弱みに付け込まれて諸権利を要求されるか、
突進公が締め付けを強めてネーデルラント諸邦の独立が早まったり…みたいなことにな
るかもしれません。

>本家との折り合い
フランス王家から独立して…と突進公が考えていたにせよ、まずお膝元の都市をどうにか
しなければ何ともならないかも。たとえ神聖ローマの帝冠を戴いたところで同じようなも
のか……?



それもこれもロレーヌをぶん取るような手荒な事をするから…
31勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :05/02/16 19:05:38 0
>>30
>ロレーヌを分捕るような手荒な事をするから・・・。
旧ブルゴーニュ王国の版図を考えると獲得を目指すのは自然かと思います。
中世盛期のプロヴァンス伯で地中海帝国の建設を狙ったシャルル・ダンジューも
下ロートリンゲン地域にあたるエノー伯領への進出を図っていたりします。
両者が共に向こう見ずな人間という評価を与えられてはいますが
旧ブルゴーニュ王国の繁栄ぶりが当時の王侯に根強くあったのではと思いますが。
32世界@名無史さん:05/02/16 22:58:10 0
フィリップ善良公→社交家の女好き
シャルル突進公→軍ヲタでホモ疑惑
33アクィラ ◆0fUIPC892c :05/02/17 01:02:00 0
>>27=1氏
Celtic peopleとあります。

>>29
s.v. は、sub(=UNDER) verbo(=WORD)の略で、
この場合は、「OCDのAeduiの項目(を参照)」位の意味です。
34:05/02/17 11:28:29 0
>>30
考えなしに書いてしまった感想にまでしっかりしたレスを付けてくださり、恐縮です。
手元の資料集・用語集を見たところ、ブルグント王国の位置は確かにロレーヌを含んで
いますね。だからあれだけ拘ったのかな…しかしそれで命を落としてしまうのはちょっ
とどうかと思います。命あっての物種ですし…本人もあの戦で自分が死ぬなんて思わな
かったでしょう、たぶん。〔総大将が混戦のさなか行方不明→2日も経ってからその他
大勢の死体の中に紛れてなんか戦死してた〕ということ自体中世からの戦争観からは考
えられないことだと思います。すみません、自分がかなり無知なものではっきりしたこ
とは言えないのですが…

>>33
アクィラ様、どうも有難うございます!ナチュラルにゲルマン系だとばかり思い込んで
いました(゚Д゚;) ケルト系だったのですね。

>>32
簡潔すぎる表現に吹いたwてかフィリップ善良公は子供多すぎだ。庶子だけで両手で数
えきれない状態!母親なんて尚更だ!さすがに庶子に家督を継がせるということは無
理だったようだが。





庶子と嫡出子とは分け隔てなく育てられてたんだよな?ルネサンスはそうだったみたい
だが、1430年代のブルゴーニュをルネサンスに入れていいのか???


そういえばブルグント王国は「ニーベルンゲンの歌」の舞台だった…忘れてたorz
35:05/02/17 11:32:02 0
>>34
>母親なんて尚更
それぞれの母親の顔なんていちいち覚えてられねえだろ…という意味合いで宜しく。
36世界@名無史さん:05/02/17 11:55:09 0
>>アクィラ氏
29です。どうもご教示ありがとうございました。
37世界@名無史さん:05/02/17 17:54:07 0
製本画家ランブール兄弟をお忘れなく( `ー´)φ ★
38:05/02/17 19:02:23 0
>>37
最初分からなかったからぐぐって「ベリー公のいとも豪華な時祷書」見てきた。
そうか、フィリップ豪胆公時代の画家なんだな。
10月の絵は資料集に「中世の農耕生活」みたいなので取り上げられてて、見た
ことあるような気がするよ。紹介してくれてdクス!!
当時の人々の生活の様子が描かれていて、雰囲気がのどかでいい感じだな。


当方最近までファン・デル・ウェイデンも知らなかったもので、非常に助かる。
そういえばベルリンのシャルル突進公って言われている絵はファン・デル・
ウェイデン作らしいという説が結構有力らしいけど、どうなんだろう。
39勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :05/02/17 21:12:37 0
>>34
私は古代史は門外漢ですが、ゲルマン民族なのはブルグンド族なので
ケルト系住民はブルグンド族の侵入時に駆逐されてしまったのでしょう。

ルネサンスの話題ですが、15世紀始めには北方ルネサンスの中心となっていたと
考えて良いと思います。絵画ではむしろイタリアをリードしていた面もあるかと。

庶子と嫡出子の格差は中世初期にはあまり無かったと言って良いかと思います。
庶子から君主になったウィリアム征服王が代表でしょうか?
キリスト教思想とゲルマン民族伝統のムント結婚の影響が強いので。
(とはいえ後者は実力主義の一面もあったようです)
40勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :05/02/17 21:57:59 0
>>39での格差というのは、育てられ方の時の話です。
継承権に関しては、一貫して格差は存在していました。
しかし、嫡出子であっても年少であったり無能だったりすると
あっという間に没落したのが中世初期〜盛期なので。
41世界@名無史さん:05/02/18 09:06:26 0
宮廷料理もなかなかのものだったようですが、当時はイタリア料理に劣っていたのでしょうね?
42:05/02/18 18:39:28 0
>>39・40
度々詳細に調べていただいて本当に感謝しております。勉強不足なスレ主ですみません…
ウィリアム征服王はノルマン朝の開祖だったかと記憶しているのですが、なんと!庶子だ
ということまでは知りませんでした。
>継承権の格差
やはりそういった格差はあったのですね。折角子だくさんでも嫡子でなければいけないな
んて、なんだか気の毒な気がします。

>>41
中世の料理の事が書いてある本で、シャルル突進公再婚時の料理の事がちらっと書いてあ
ったのを目にしたような覚えがあります。自分は中世の料理についてはほぼ何も知らない
のですが、ジャガイモや香辛料がない分あまりカラフルな食事は想像できないのでしょう
ね。もしかしたら香辛料はムスリム商人から細々と輸入している物を王侯が使っていたかも…





43:05/02/18 18:42:17 0
唐突なんだけど歴代のブルゴーニュ公のイメージについて皆の見解はどう?
因みに自分のイメージ→ フィリップ豪勇公…フランドルゲットは後々大変な事に
                     なるけど基盤を固めた点でGJ。

            ジャン無畏公…百年戦争ってややこしい。てかオルレア
                   ン公殺したことで自分の寿命も縮めたな。
                   つーか共倒れじゃねーか!!! 

            フィリップ善良公…結婚記念に騎士団創立かよ、おめで
                     てーなwでもって王家には従順にですか。
                     まあそうしなきゃ百年戦争の収拾がつか
                     なかったな。この時代は大きな戦争もな
                     かったし、総合的にGJ!
           
            シャルル突進公…基本的には前述した内容なんだが、なんと
                    いうか周りに牙剥き過ぎ。フランスが喧嘩
                    売ってきてからそれに拍車がかかったよう
                    な…でもまあ、婿に敬愛されてよかったな。
                    てか、3回結婚ですか。そして娘一人ですか。
                    最初はまあ置いといて、子供の一人や二人
                    孕ませられるだけの暇がないのか?
                    そんなんだから後世の人からホモ疑惑が(ry



読みづらい点はスマソ…なんか突進公のとこだけ異様に長ッ!!       
44:05/02/18 18:46:31 0
>唐突に→改めて
つーか、なんて偏ったイメージなんだ…orz
もしかしていい加減しつこいか…?なんか乗っ取ってるみたいでごめんなさい…
45Ryuju ◆RlujhF6VrA :05/02/18 21:10:55 0
>>42
香辛料に関しては、確か十字軍以降はイタリア諸都市の商人が
結構輸入していたと思う。
これがイタリアの経済的繁栄をもたらし、ルネッサンスの背景になる。
で、ブルゴーニュは多分それをドイツやイギリスやフランス北部に運ぶための
「中継貿易地」だったように思う。
46世界@名無史さん:05/02/18 22:23:39 0
>>45
高校の世界史教科書に載ってるような事を書かれても・・・。

イタリアの早期の主要貿易港、ナポリ・サレルノ・アマルフィといった町は
既に10世紀初頭にはイスラムの貨幣制度を採用し、エジプトやチュニジアとの
積極的な交易で大いに栄えた。
ブルグンドが交易の十字路だったのは、中世を通して常に不変。
47世界@名無史さん:05/02/20 19:45:42 0
>ブルグントが交易の十字路
でも教科書・資料集では「フランドル地方」と十把一絡げ…
48世界@名無史さん:05/02/21 06:20:30 0
>>43
シャルル突進公は、軍政家としては有能だし、古典にも堪能で軍事史的知識はあるんだけど、
現場の指揮官としてはまるで赤点。

グランソンの戦い→とりあえずカンナエみたく全包囲を狙ってみた
・・・がスイス歩兵の衝力を吸収しきれず全軍崩壊。

ミュルテンの戦い→野戦防御陣地を築いてモード・アングレな展開を狙ってみた
・・・が、またもやスイス歩兵の衝力を挫くことが出来ずに全軍崩壊。
49:05/02/21 12:22:07 0
>>48
……で、ナンシーであぼーんな訳ですな。
それ以前(スイスとぶつかる以前)はなんとかそれなりに領土拡大できてたようだけど、
その辺は偶々ラッキーだっただけなのか?押さえつけてた不満分子がいつ爆発してもおか
しくない状況だった訳だから、突進公の統治方法はかなり綱渡りっぽいと思う。

あるいはスイスが強すぎたとか…地形や気候に関しては向こうに圧倒的有利だったから、
それにやられてあぼーんという状況になった。それに向こうの戦い方が従来のものとは違
い、ファランクスという形をとったものだったとか、そういうこともナンシーあぼーんに
繋がってくると思うのですが……もう手元の資料が少なすぎて憶測の域を出ないorz
「ブルゴーニュ家」と「中世最後の騎士」だけではどうにもならん…

「中世の秋」は図書館にでも行って読んでこようと思います。
あと「ブルゴーニュ公国の大公たち」みたいな題名の本があったと思うのですが、買うべ
きか……六千円は痛い。
50世界@名無史さん:05/02/21 13:11:19 0
>>49
「ブルゴーニュ公国の大公たち」はブルゴーニュ公礼賛な作品なので、
ある程度、客観的に読める能力が必要。
51世界@名無史さん:05/02/21 19:31:44 0
中世の秋は文庫版があった希ガス
52世界@名無史さん:05/02/21 19:46:19 0
>>51
今、手に入る「中世の秋」の邦訳をリストアップしてみました。

■堀越孝一訳 中央公論新社刊
・世界の名著版 \1,786(背表紙には「ホイジンガ」としか書いてない)
・中公文庫版 上巻\780 下巻\840
・中公クラシックス版 全2冊 各巻\1,470
上二つは同じ訳。ただし文庫版は一部の図版と堀米庸三氏による解説(?)が省略されている。
中公クラシックス版は改訳。

■兼岩正夫、里見元一郎訳 河出書房新社刊
ホイジンガ選集 全1冊 \3,873
(同じ訳者のものが角川文庫でも出ていたようだが、品切れ)
53:05/02/21 23:54:12 0
>>50
ブルゴーニュ公礼賛…?あの突進公をどうやって褒めちぎってるのかが凄く気になる…
情報ありがとうございます!とりあえず財布に余裕が出来たら買います(`・ω・´)

>>51>>52
お手頃価格で買えるものもあったのですね。本屋で探してみる事にします。
わざわざリストを挙げていただき、感謝です!

>>48
>軍政家としては有能・古典にも堪能で軍事史的知識はあるけど現場の指揮官としてはまるでだめ
知識はあるけどその知識を扱えるだけの力がないタイプ?古典にも堪能とは意外……
いやいや、当時の上流階級としては至極当り前ですね。しかし突進公とかいうとどう
も馬鹿っぽいイメージがついてきてしまう…(´ヘ`;)ナゼダロウ

54:05/02/25 13:33:17 0
実際シャルル突進公の戦死って、そこまでヨーロッパに影響を与えたのだろうか。
55勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :05/02/25 16:21:54 0
>>54
それによって古ブルグンド王国の夢が完全に瓦解したという事と
ハプスブルク家が彼の家産を相続したという事を考えると
非常に重要な事件だと思います。
突進公が生きていたら、もしかするとマクシミリアンとの婚約は
解消されていたかも知れませんし。
まぁ、最初の中世的な夢はシャルル・ダンジューの地中海帝国の挫折で
既に結論が出ていたという考え方も出来ますが。
56世界@名無史さん:05/02/25 17:44:09 0
むしろシャルルが長生きして男子をもうけ、
その子が「ブルゴーニュ公国」を継いでいたら?
という可能性との対比では?
57世界@名無史さん:05/02/25 19:08:54 0
確かに「あんときゃ惜しかった」史観がある罠。
オランダやベルギーの(二昔前ぐらいの)歴史家の中には。
P・ヘイルとか。
58世界@名無史さん:05/02/25 22:43:36 0
>>56
ハプスブルグと縁組した時点で負けのような。
スペインは唯一の男子ファンとマルガレーテ、次女ファナとフィリップ美公の
二重結婚で、ファンは半年で病死。
ハンガリーはラヨシュ2世の妻にファナとフィリップの娘のマリアを迎えたら
子供は生まれず、ラヨシュ2世は20歳で戦死。ラヨシュ2世の姉はマリアの兄の
マクシミリアンと結婚したら成長した子だけでも15人。
結婚に関してはハプスブルグの強運には勝てません。
59世界@名無史さん:05/02/25 22:47:28 0
系図見ると、ハンガリーのマリアとラヨシュ2世の父親は、ガストン・ド・フォワ
でした。意外なところに子孫がいますね。
6059:05/02/25 22:49:15 0
>父親は、ガストン・ド・フォワ
すみません。祖父(母方)の間違いです。
61:05/02/26 11:30:38 0
>>55
>突進公が生きていたら…
その可能性は結構高いかと思われます。過去にマリーに求婚して
きた多くの貴族が婚約破棄されていることを考えると…
それにフリードリヒ3世の食い逃げ事件に始まるノイス包囲とか、
マクシミリアンはよくても親同士が険悪になってましたし…
突進公が戦死したことは他の国にとっては( ゚Д゚)ウマーだったのか
……?

>>57
でも突進公の統治の仕方悪杉だからどっちにしろオランダとかベ
ルギーとか分離独立されてそう…むしろ独立が早まってそうな気
が…
>>56・58
なんで子供が中々生まれないのか…ってこれは部外者の口出しす
る話じゃないですね。しかも500年前に死んでる人に…
>縁組した時点で負け
ハプスブルク家としてはラッキーですが、本人達のことを考える
と気の毒な話ですよね。
マルガレーテとラヨシュ2世夫妻は気の毒すぎて。・゚・(ノД`)・゚・。

>>59
ガストン・ド・フォアってサッコ・ディ・ローマ辺りで活躍した
人のことですか?なんか同姓同名の人がいたような…?
62世界@名無史さん:05/02/26 13:19:52 0
>>61
イタリアで活躍し、ラベンナの戦い(1512)で壮絶な戦死を遂げたガストン・ド・
フォアは、ルイ12世の姉マリーとフォア伯ジャン3世の間の子。
>>59さんが挙げてる同名人物は、フォア伯ガストン4世(1422-1472)。

ちなみにフォア伯の家系にはガストンが沢山いて、ガストン3世フェブス
(1343-1391)はなかなか面白い人物です。
モットーはFebus Avant(輝ける者よ、進め)。自分の領土であるフォアと
ベアルンの間に立ちふさがっていたアルマニャック伯領を征服したり、
宮廷でアルス・スブテリオル様式の音楽を保護したり、自ら『祈りの書』や
『狩の書』を書き残したりと、教養のある猪突人、といった感じの人です。
ttp://yushodo.co.jp/pinus/49/tyusei22.html
63世界@名無史さん:05/02/26 13:56:00 0
訂正します
>>62 2行目

  ×フォア伯ジャン3世

  ○ナルボンヌ子爵ジャン5世(フォア伯ガストン4世とナバーラ女王
   レオノールの子)

なんか脱線し過ぎですね。失礼いたしました。
64:05/02/26 16:28:27 0
>>62-63
すみません、やっぱり間違ってましたかorz
しかもサッコ・ディ・ローマより10年以上前の話だった…
62さん、ありがとうございます!
65世界@名無史さん:05/02/26 16:52:24 0
素人ですが、すみません。
 ブルゴーニュ公国というのは、いくつかの領地を一人の君主家が治めていた、
 その家領の総称と思っているんですが、ここまではよいですか。

 ここでブルゴーニユ公領(ディジョン)は、フランス王の宗主権がある。
 ブルゴーニユ自由伯料は、ドイツ皇帝に宗主権があるということでしょうか。
 また、海とのつながりをつける領土である、
 バール公領(Furst? Prince)はどうでしょうか。
 また、下ロレーヌもあります。
 ルクセンブルク(公領?)もあるんですが。

は、どうなんでしょうか。
66世界@名無史さん:05/02/26 18:54:16 0
何を質問しているのかよくわからんのだが。
67勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :05/02/26 19:33:34 0
>>61
何かと批判に晒されるシャルル突進公の統治ですが
彼の無謀さは同時期の隣国の君主、例えばルイ11世やフリードリヒ3世の
慎重さとの対比で一層強調されている向きがあると思います。

ブルゴーニュが『王号を持たない独立国』の状態を保つには
隣国(特にフランス)が混乱していて、介入する余力を持たないか
一層の勢力を拡大を図るしか方法がありません。
善良公の時代には前者が可能だったというだけに過ぎません。
(勿論、彼の政治的センスの高さを否定するものではありませんが)

公領の商人層はフランス・ライン川流域の諸侯領との交易が重要ですから
そこと干戈を交える事を嫌うのは当然で、公に反発するのは自然な動きです。
68:05/02/26 19:51:43 0
>>65
ブルゴーニュ公領はもともとフランスの親王領だから、フランスに宗主権があるはず。
またフランシュ・コンテは神聖ローマ皇帝に宗主権があるはずです。
ルクセンブルク・下ロレーヌ・バール公領についてはこちらも素人なのでよく分かりません…
(てかバール公領って初めて聞いた単語…勉強不足で申し訳ないです。・゚・(ノД`)・゚・。 )
突進公ご執心のロレーヌ地方は…上・下どっちだったっけ……?

>>67
二つに一つしかなかったのですね…時代が悪かったということもあるのでしょうか。
その気になればフィリップ善良公時代に領土拡大できたと思うのですが。
って、そうなったら「善良公」なんて呼ばれませんね。

ルイ11世と同時代だったというのが不運だったのかなあ…
69:05/02/26 19:53:25 0
すみません、なんかよくわからん文章になった上にあげてました(゚Д゚;)アワワ
70世界@名無史さん:05/02/26 19:59:55 0
>>65
>ブルゴーニュ公国というのは、いくつかの領地を一人の君主家が治めていた、
>その家領の総称と思っているんですが、ここまではよいですか。
よいです。

>ここでブルゴーニユ公領(ディジョン)は、フランス王の宗主権がある。
>ブルゴーニユ自由伯料は、ドイツ皇帝に宗主権があるということでしょうか。
そうです。ただしドイツ皇帝にでなく、神聖ローマ皇帝(ドイツ王国のローマ王)
にですが。

>また、海とのつながりをつける領土である、
>バール公領(Furst? Prince)はどうでしょうか。
>また、下ロレーヌもあります。
>ルクセンブルク(公領?)もあるんですが。
バール公(Duc de Bar。1354年以前はComte)領は仏国王に、下ロレーヌ
(ブラバント)公領とルクセンブルク公領は神聖ローマ皇帝に属します。
71世界@名無史さん:05/02/26 20:47:45 0
ブルゴーニュ公国は、宗主権がいろんなところにあるのですね。
王号を獲得するというのは、この場合は、
宗主権を返上するということとイコールのように思います。
王号があっても、ボヘミア王のようにローマ王の宗主権を認める場合もあるようですが、、、
突進公としては、宗主権は迷惑であったと思います。

突進公は下ロレーヌ出身なんですね。知りませんでした。本拠地のディジョンかと思っていましたので。
たまたま、母親が下ロレーヌで出産ということでしょうか。
72勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :05/02/26 22:14:43 0
>>71
ブルゴーニュ公はヴァロア王家の後援をした功績により
フィリップ善良公一代に限って封臣の義務を解除されています。
更にこの特権はシャルル突進公の時代の戦勝によって、恒久的な権利として
認められたのではなかったかと思います。

更にスイスの同盟と対立していたオーストリアと結ぶ事で
下ラインやアルザスなどの支配権を譲られ、古ブルグント王国の再建は
あと一歩という所まで進んでいました。
73世界@名無史さん:05/02/26 22:55:11 0
「サン=ジュスト研究会」http://www.kt.rim.or.jp/%7Evulcan/saintjust/
(URLにあるバルカンという文字は、自称画家・長谷川佳子氏(60歳)
が作った自費出版会社/代表取締 兼 社員一名・長谷川佳子氏)
これは私がサン=ジュストを研究するサークルの人間と関わったことから生じた
トラブルの一部始終である。交わした会話のごくごく一部もアップした。
実際のところ、元をたどれば、この研究会のドン(60才女性独身)が、私が
ネットで発表している小説が気に入らない、という個人的感情に端を発している。
恐るべしサン=ジュスト「の」研究会。

根拠もないのに「お偉いさん」だと思いこんでいる人々ほど、扱いにくいものはない。
意見を出し合い、それが自分の意に添わないものであれば、ネチネチ嫌みから始まり
やがてヒステリックな攻撃となる。善意で人が何かを引き受けたら、確認を求めても
気が乗らなければ返事をしない、それでいて相手が思い通りに動かなければ、悪口を触れ回る。
それがサン=ジュスト「の」研究会の実態である。
74世界@名無史さん:05/02/26 23:24:00 0
独仏間の領域(今は仏・白・蘭だが)の人には独立願望のようなものがあるのだろうか?
75:05/02/27 11:39:55 0
昔から微妙な地域だから、そういった願望は強いと思う。
76世界@名無史さん:05/02/27 12:34:56 0
ブルターニュ公国やドンブ公国もフランス王国に「編入」されるまでは封臣の義務を
免れていたんでつか?
77:05/02/28 19:52:46 0
>>76
フランス史を読んでみたところ、なんかフランス対これまでの権利の保全を求める周辺諸国との
戦いがあって、シャロレー伯シャルル・ド・ブルゴーニュが諸国軍の中心となってフランスに対
抗、丁丁発止の結果和約が成立してブルターニュは貨幣特権とやらをゲットしたそうです。
封臣の義務と関係するかはよく分からないのですが…

ドンブ公国が何処だか分からないのでググってきます。
78:05/02/28 19:54:07 0
と思ったら無かった…orz
79世界@名無史さん:05/03/01 15:28:57 0
Dombes(ドンブ)ならリヨンの近くの町の名前だが、関係あるかな?
80:05/03/02 11:31:53 0
>>79
全くの勘で物を言ってみるが、関係有るかもしれんと思う。
もしそのドンブが昔公国があった所だとすると、そういう地名が残っててもおかしくないなー
と思うんだけどどうだろう。

>>71
>突進公は下ロレーヌ生まれ
シャルルが生まれた時点では、フィリップ善良公のブルゴーニュ公国本拠地はディジョン
だったのでしょうか。ブリュージュ・ガンに都市機能が集まるのはもう少し後…?

>>72
>フィリップ善良公一代に限って封臣の義務を解除
シャルルがブルゴーニュ公に就任した時点で特権は無効になっていたのでしょうか?
そこで色々と戦勝を挙げたことで特権再ゲットみたいな流れなのですか?

そういえばブルゴーニュ軍は精強な軍隊だったそうで、兵力は当時のヨーロッパでは最強
クラスに入ったと言いますが…騎兵の割合が高かったのかな?
81世界@名無史さん:05/03/02 11:52:17 0
82:05/03/02 14:35:20 0
□⊂(・∀・)>>81サン、アリガタク チョウダイイタシマス♪
色分けが分かり易く、助かります!
83世界@名無史さん:05/03/03 13:22:50 0
雛祭りついでに話題に上らないマリー・ド・ブルゴーニュの名前を挙げてみる。
やっぱり箱入り娘で育てられたのだろうか。
84世界@名無史さん:05/03/03 13:53:18 0
あえてマリア・フォン・ブルグンドと言ってみる。
85:05/03/03 18:14:41 0
フラマン語だとなんと呼ぶのかな?
というか>>83は自分のレスなのだが、名前を入れ忘れてた…(゚Д゚;)
86世界@名無史さん:05/03/04 02:31:04 0
Maria van Bourgondië
マリーア・ファン(ヴァン)・ブールホンディエ、かな?
87:05/03/04 11:24:03 0
>>86
わざわざありがとうございます!翻訳サイトを使って突進公の名前の方も
調べてみたのですが、ファーストネームの綴りは変わらないみたいです。
というかフラマン語を読めません。シャルルでOK?
フラマン語のことをドイツ語+フランス語÷2のような言語かと考えて
いたのは間違いだと思いましたorz

いっそのことブルゴーニュ家の人の名前を全部翻訳にかけてみようか…
88世界@名無史さん:05/03/04 11:36:11 0
フラマン語はオランダ語とほとんど一緒です(というと、ベルギー人に怒られますが)。
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/gogaku/1109626397/
89世界@名無史さん:05/03/05 11:51:46 0
>>88
ありがとうございます!しかしオランダ語の読み方が…orz
取り合えずぐぐって人名の読み方だけでも調べてきます。

あと1として書き込みしている事について、何かと皆様のお気に障る事もあるかと
思いますので(無知な点や書き込みすぎでうざいなど…)次からは名無しに戻りま
す。
90ブランデレン:05/03/05 19:49:50 0
>>88

 表記は、どうなっていますでしょうか。
 今は、フラマン語としての表記もできているのでしょうか。

 オランダ王国自体で自国の表記など、それなり触っていると思いますが、
 ベルギーのフラマン人は、それをそのまま取り入れているのかな、
 それとも、なんらかの事と加味しているのかな。

  
91世界@名無史さん:05/03/05 19:52:08 0
>マキシミリアンの奥さんのマルガリータ(ブルゴーニユ公の姫)が急死しなかったら、
> >  ブルゴーニユ公国が丸ごと、つまり、フランスに蚕食されずに、
> >  ハプスブルク家に転がり込んだのに、惜しかったと思う。

>@ブルゴーニュ公国から、アルトワなどが奪われたのは、
> 二人の婚約の後で、フランス側がマリアとの結婚を果たせないことが
> 確実になった時点はないかな。
> 親父の突進公亡き後の、公国の動揺状態を狙った事件のはず。
>Aマリアの事故死後の、フランスの介入では、マックスの対応が良く(戦闘指揮を含め)、
> どこも奪われなかったんでは。


こういう書き込みがあり、無視されていますので、こちらへ転記してみました。
92世界@名無史さん:05/03/05 19:52:54 O
オランダ語ってスペインからの独立時に独自につくった言語でしょ?
93世界@名無史さん:05/03/05 20:06:26 0
>>92
オランダ語の元は、ドイツ語の方言。
そう言えば、ホーラント伯、ゼーラント伯、エノー伯、ヘルデルラント伯は、
神聖ローマ帝国の宗主権下なのに、
なんでブルゴーニュ公国は神聖ローマ帝国領内じゃ無かったのか不思議。
94世界@名無史さん:05/03/05 20:08:30 0
って>>68で既出だった。
95適当にまとめてみました。:05/03/05 20:09:59 0
プレブルゴーニュ史:他スレを見て

@ロートリンゲン(ロタリンギア)は
特にロタール王国(「中フランク王」のロタール1世の王国)が消滅した際に
誕生した空白地の事を指す場合もあります。
ロタール王国の版図からイタリア王国と、ブルグント(ブルゴーニュ)地方
そしてアーヘンやケルンなどの若干の所領を除いたのが狭義な意味での
ロタリンギアだったかと思います。(細かい点はうろ覚えですが・・・)


A「中フランク王」ロタール1世(818-44)の死後、王国は分割され、
長男ルートヴィヒ2世(844-75)がイタリア王、次男ロタール2世(855-69)がロタリンギア王、
三男シャルル(855-63)がプロヴァンス王。
ここでロタール2世が相続した地域をロタリンギアというわけです。
すなわち、ロレーヌ(ロートリンゲン)は「ロタール王の」という意味でも使われ、
これは中フランクの分割相続時にロタール2世に相続されたことによります。
つまりもともと中フランク王国領で、メルセン条約その他の結果ドイツに帰属した領域です。
(ロタール2世の死を受けて、870年にメルセン条約が結ばれるという流れです)。

B中世初期はこのロタリンギア争奪戦が非常に熾烈で、
独自の王権(890年には最有力者であったヴィエンヌ伯ルイ(盲目侯)がヴァランスで 戴冠)も成立し
この復興されたブルグント王国は 13世紀にはアルル王国と呼称されるようになります。
最終的には東西フランクに(主に東)分割吸収されたようですね。
96世界@名無史さん:05/03/05 20:13:40 0
ここで95について、質問させてください。
@でみると、ロタール1世王国(中フランク:ベルダン条約で誕生?した)
がバラバラになって、イタリアとブルグンドとアーヘン・ケルンなどを全部除くと
ロートリンゲンみたいに見えます。
Aで触れている、プロバンスはどう考えるのでしょうか。
97世界@名無史さん:05/03/05 20:35:30 0
ドイツはもともと5つの公爵領の集合体として出発したそうで
ロレーヌはそのひとつです(あと4つはバイエルンとザクセンとフランケンとシュヴァーベン)。
10世紀半ばに公爵位を巡って争いが起きたらしく、上下に分裂。
上ロートリンゲン公がのちのロレーヌ公。マリア・テレジアの夫の時にトスカナと交換でフランス領。
下ロートリンゲン公は別名ブラバント公。1430年からブルゴーニュ公、次いでハプスブルクと同君連合です。
911-28年に西フランクに属したことがあるみたいです。

 ・・・有名な世界コテハンの方の書き込みを勝手に加工して書き写しました。
    10世紀半ばに分裂したとのことですが、もともとは一体にて領域的にも
    接していたんでは、と思うのですが、どうでしょうか。
    江村本「ハプスブルク家」に掲載のブルゴーニュ公国地図では、
    ロレーヌ(上ロレーヌ:ナントが中心)、ブラバント(下ロレーヌ)は
    全く離れていますが、だんだん細かく分裂していったのでしょうか。
     
98世界@名無史さん:05/03/05 20:37:16 0
>>91
折角ブルゴ−ニュ公としてフランス王の手から土地と国民を守り抜いたのに追い出されてしまう
マックス。昔から民衆なんてそういうもん?なんか悲しくなってきますね。(自分もその民衆の
一人なんだけど、そう思った)

あと正直言ってアルザス・ロレーヌ地方は教科書・資料集レベルだとわかりづらいorz
広いのか狭いのか、位置的にもあんまり言及されてない。その割に重要地域として近代まで出て
きます。はっきりせんかい!!!と怒鳴りつけたくなります…
しかし、本当に世界史板の人々のレベルは高いですね。自分ももっと色々調べて勉強しなくては!
99世界@名無史さん:05/03/05 20:47:01 0






  ピ   レ   ン   ヌ





100世界@名無史さん:05/03/05 21:03:04 0
アルザス・ロレーヌって、バルザックの『従妹ベット』とかルパンもので
差別されていたような。
101世界@名無史さん:05/03/05 21:04:56 0
そりゃないぜ、とっつぁ〜ん。
102世界@名無史さん:05/03/05 21:42:57 0
>>97 ロレーヌ(上ロレーヌ:ナントが中心)、

ナントの勅令ってありますね。
 上ロレーヌは、ブルボン王朝の完全な領域だったということですかね。
  すると、マリアテレジアの夫君のご先祖(ロレーヌ公)も、
   完全にブルボン王家の膝下にあったということでしょうか。
    
  上ロレーヌ家(領)は、
   トスカナとロレーヌの交換までは、どういう立場だったんでしょう。
   神聖ローマ皇帝の下にあった?わけではないんでしょうか。
    
  なお、フランスの歴史スレで見た内容のゆえ、下記の諸点が気になります。
  @ギーズ公位がフランス王に与えられたものであること。
  A「帰化」とはどういう意味か、臣従を指すのか。
  B「帰化」したところで、
    それまで持っていたロレーヌ公位」と「ロレーヌ公領」がどうなるんだということ。
  Cシャノワ家って、フランツの家なのかどうか(マリアテレジアの夫のフランツ)

    >ヴァロワ朝時代に活躍したギーズ一族はもともと
     ロレーヌ(ロートリンゲン)公国 の出身。
     ロレーヌ公ルネ2世の末子クロード・ド・ロレーヌが、その功労によってフランソワ1世
     からギーズ公位を賜ってフランスに帰化した。
     ギーズ公クロードの娘マリーがスコットランド国王ジェームズ5世に嫁ぎ、
     二人の間に生まれたのがメアリ・ステュアート(スコットランド女王兼フランス王妃)。

    > シャトノワ家はロレーヌ(ロートリンゲン)公
  
 
103世界@名無史さん:05/03/05 21:46:33 0
下ロレーヌは、別名ブラバント、すると第一言語としてフラマン語を話す人が多いから、
まさに 支配者云々ということ以前に、住んでいる人自身、東フランク系ともいえますね。

上ロレーヌはどうなんでしょうか。
ロマンス語が母語でしょうか。

アルザスは、ゲルマン語系なわけですが。。
104世界@名無史さん:05/03/05 21:56:41 0
アルトワ伯領、アルトワ伯位は、いつごろできたんでしょうか。
当初より、仏王に臣従する地位だったんでしょうか。

 >>>91@にアルトワの記載がありますね。
 >>>ttp://ikebukuro.cool.ne.jp/fleurdelis/a/Arutois.htm
105世界@名無史さん:05/03/05 22:36:50 0
>>97 >>102
上ロレーヌ(狭義のロレーヌ)の中心地は、ナンシーです。
ナントはブルターニュの中心地。
106世界@名無史さん:05/03/05 23:27:48 0
>>96
プロヴァンスのその後は、ここがよくまとめている。
ttp://salut3.at.infoseek.co.jp/basic/provence03.html
107世界@名無史さん:05/03/06 02:43:24 0
(上)ロレーヌは地図とかみると神聖ローマ帝国の領域だよね
同じく神聖ローマ帝国でフランスの影響力が強かったサヴォワと立場的には近いのかな
108上のWebによると::05/03/07 03:13:44 0
@カール大帝の死後、843年にヴェルダン条約(TRAITE DE VERDUN)のフランク王国3割譲により、 プロヴァンスは
「孫のロタールのものとなった、中部フランク(LOTHAIRE、ロレーヌ地方の語源)・西ローマ皇帝領」に属します。
 すなわち、ロタール1世の領地です。
A855年〜863年、ロタールの子シャルルにより初のプロヴァンス王国(ROYAUME DE PROVENCE)が成立。領地を広げました。
B870年、メルセン条約で、イタリアを除く中部フランクは東西フランクに割譲され、
 現在のフランスの国土は西フランク王シャルル(カール2世)の所領となりました。
 すなわち、プロバンスも西フランクに属すことになりました。
C879年、フランク王シャルルの義兄であるブルゴーニュ公・アルル伯ボゾンがプロヴァンスの独立を宣言、
 初めてプロヴァンスに世襲領主による王朝が現れます(〜1112年)。
 890年にはボゾンの子ルイによってプロヴァンス王国が再編成されます。
 なお、1482年にフランス王国に吸収されるまでは、独立性を保ちながら、
 名目上は神聖ローマ帝国に属していました。
D934年〜1032年、プロヴァンスがブルゴーニュ公国に併合されます。
109 続:上のWebによると::05/03/07 03:14:49 0
E1032年には、プロヴァンスはブルゴーニュ公国とともに、
 東フランク改め神聖ローマ帝国の名目上の領土となり、
 ローヌ河西岸域ラングドックはトゥールーズ伯領に属しました。
 ギヨーム4世(1037年没) には世子がなかったため、妹のエマに領主権を譲りました。
 エマがトゥールーズ伯ギヨーム・テルフェールに嫁ぎ、
 その子孫にプロヴァンスの領地を引き継ぎます。
F1112年、 プロヴァンス伯領の相続者ドゥスとバルセロナ伯レイモン・ベランジェ1世
 との婚姻により、新しいプロヴァンス伯家が誕生(〜1245年)。
G1125年、相続争いから、トゥールーズ伯にデュランス川以北のコンタ・ヴネサンと
 フォルカルキエが割譲され、プロヴァンス侯となりました。
H1160年バルセロナ・プロヴァンス伯がアラゴン王として即位
I1181年プロヴァンス伯に従属していたオランジュ伯領が公国として格上げ。
110さらに、上のWebによると::05/03/07 03:17:37 0
J1246年、フランス王ルイ9世の弟アンジュー公シャルルとプロヴァンス伯ベアトリス
 の婚姻よって、プロヴァンスはカペー・アンジュー家の所領となり、フランス国王の勢力下となります(〜1481年)。
 が、シャルルはナポリ王への野心に燃え、1262年ナポリ王となると、
 プロヴァンス伯領はナポリ王国に合併されました。

Kフランス王フィリップ2世とルイ9世が、
 異端を庇護したトゥールーズ伯とベジェ・カルカソンヌ伯の領地を
 破壊・没収し、ローヌ河対岸のラングドックまで王権を広げます(1209年1226年)。
L1382年、カぺー・アンジュー家プロヴァンス伯ジャンヌが殺されると、
 激しい相続争いの末、フランス王シャルル5世の甥のヴァロワ・アンジュー家ルイ2世が
 プロヴァンス領を引き継ぎます(〜1482年)。
M1388年、ニースを中心としたヴァール川以東のプロヴァンスが、
 先の家督争いに嫌気がさして、地中海への野心を持つサヴォワ伯(神聖ローマ帝国の封建家臣)
 の庇護下に走り、「新しいプロヴァンスの土地」となり、
 1526年、「ニース伯爵領」と命名されました。
N1482年プロヴァンス伯シャルル3世の遺言により、
 ルイ11世のフランス王国へ正式に併合。
 エクスに議会を持ち、フランス王に任命される非世襲の統治者を持つ一地方となった。
O1486年正式にフランス国プロヴァンス地方として承認。
P1713年、オランジュ公国がフランス王国に統合
..............................
111世界@名無史さん:05/03/07 21:13:02 0
>C879年ブルゴーニュ公・アルル伯ボゾンがプロヴァンスの独立を宣言、
> 初めてプロヴァンスに世襲領主による王朝が現れます(〜1112年)。
> 890年にはボゾンの子ルイによってプロヴァンス王国が再編成されます。

領土の格を考えると、プロバンス王国というより、
 ブルゴーニュ公国とアルル伯国の同君連合みたいなものでしょうか。(公領と伯領)

>D934年〜1032年、プロヴァンスがブルゴーニュ公国に併合されます。

  公領と伯領の区別区分けをなくしてひとつの領邦領地にしたんですか。
 なぜ、なんでしょうか。保持しているタイトルが減るのに。
112世界@名無史さん:05/03/07 22:22:54 0
なんだか「帝国・仏国境域の諸侯領の歴史」っぽくなってきたな。
それはともかく、公や伯などの称号保持者の出自を辿りたいなら、この
サイトが便利だ。称号保持者、家系双方から調べることができる。

ttp://nekhet.ddo.jp/
113世界@名無史さん:05/03/07 22:26:28 0
ロートリンゲン公は、>>97にもある通り、もともと部族大公扱い。しかし、
ザクセン族の居住域が概ねそのまま設定されたザクセンなど他の所領に
比べると、人為的に作られた領域という感を否めない。その後細分化される
のは、所領の分割相続、皇帝による意図的な封土分割などのせいもあるが、
もともと求心力に乏しい地域だったことも影響していると思う。
皇帝に臣従しながらも、古くからフランスの影響下にあることが多かった。
西カロリング家のクニグンデを嫁に取ったモーゼル家が公位を持ち、その
傍系のヴェルダン家〜同シャトノワ家〜同ヴォーデモン家(皇帝フランツ1世
の家)と受け継がれている。15世紀には一時アンジュー家(ヴァロワ傍系。
ナポリ王兼アンジュー公兼プロヴァンス伯)が領したこともある。

ラインの左岸に位置し、皇帝から見れば川向こうで統制を及ぼしにくく、
フランスから見れば直接パリを狙える位置。フランスとしては、地政学的にも
自分の影響下に置きたい地域であったろう。
ちなみにシャルル突進公と激しく争ったロートリンゲン(ロレーヌ)公ルネ2世
は、アンジュー家が絶えた後に相続したヴォーデモン家の初代。
114世界@名無史さん:05/03/08 09:45:32 0
ブルゴーニュの来歴

ヴェルダン条約以来のフランク王国の分割による混乱の中、879年に
イタリアとフランスの混乱に乗じてボゾーがブルグンド南部に支配権を
確立。
888年にはユーラ伯ルドルフ1世がドイツの混乱に乗じてブルグンド
北部に支配権を確立。それぞれ「ブルグンド王」を称した。
ボゾーの王国を、その首都アルルにちなんで「アルル王国」と呼んだり、
ユラ山脈(ジュラ山脈。「ジュラ紀」の語源になった)の手前側のブルグンド
王国だというのでキスユラ・ブルグンド王国と呼んだりする。
これに対してルドルフ1世の王国は、彼が王を称する前はユーラ伯
だったことにちなんで、ユーラ・ブルグンド王国と呼ぶ。

そして更に、898年、フランス王国内のオータン伯リシャールが、
フランス領内のブルグンド(ブルゴーニュ)地方をまとめ上げ、
ブルゴーニュ公を称した。これで、ユーラ・ブルグンド王国、キスユラ・
ブルグンド王国、フランス王国のブルゴーニュ公領と、3つの「ブルグンド」が
並び立つ事態に。
115世界@名無史さん:05/03/08 09:55:19 0
933年、2つのブルグンド王国は、ユーラ・ブルグンドによるキスユラ・
ブルグンド(アルル)の併合によって統合された。新しい王国はキスユラ・
ブルグンドの首都アルルに首都をおいたため、引き続きアルル王国
とも呼ばれる。
王国はドイツからイタリアに向かう要地に位置していたため、神聖ローマ
皇帝の介入を受けるようになり、1032年に王家が絶えたのを
機に、神聖ローマ帝国に併合されてしまう。併合といっても王国は存続し、
ドイツ王(≒皇帝)がブルグンド王を兼ねた。
以降ブルグンド(アルル)王国は形式上1806年まで存続したが、実質的に
は存在しないに等しい。13世紀の大空位時代以降はフランスが
この地域に影響力を及ぼすようになった。
両ブルグンド王国の統合後、首都ではなくなったユラ地方に、新しく
ブルグンド伯爵領が誕生した。この伯爵領は、皇帝から封建的臣従を
免除されていたため、「自由伯領」とも呼ばれるようになる。

一方、フランス王国内のブルゴーニュ公国は、956年に公家が絶え、
フランス王ユーグ・カペー(当時はまだ王になっていないが)の弟が
相続した。このカペー系のブルゴーニュ公は1361年まで続き、その
分家はポルトガル王にもなっている。(ブラガンサ家)
1361年のカペー系ブルゴーニュ公家の断絶を受けて、1363年に
フランス王ジャン2世の末子フィリップがブルゴーニュ公となって成立
したのが、ヴァロワ系のブルゴーニュ公家。おしまい。
116世界@名無史さん:05/03/08 17:50:35 0
ブルグント自由伯領(Freigrafschaft Burgund ; Franche-Comte)は11世紀初頭に
成立。次の世紀に入るとやたら女伯が多いのが目立つ。
夫に迎えたのは神聖ローマ皇帝フリドーリヒ1世(バルバロッサ)やらフランス国王
フィリップ5世やら、錚々たるメンバー。あとになればなるほどフランスの影響力が
強まってるのは、ロレーヌと同じのようだ。
なお、正式に「自由伯」という称号があるのではなく、ブルグント伯あるいはブルグント
宮中伯を名乗っていた。
しかし、なんで封臣義務を免除されたのか、誰か知らんか?
http://mentai.peko.2ch.net/whis/kako/964/964588376.html
ttp://pozyu.hp.infoseek.co.jp/wol/bloodtree/france16.htm
117世界@名無史さん:05/03/08 17:59:32 0
20万リーブルで自由を買ったから。
118世界@名無史さん:05/03/12 20:14:25 0
1タソはどこ行っちゃったの?
119世界@名無史さん:05/03/12 21:09:44 0
名無しになってますが、ここにいますよノシ
正直無知∞ですので、皆様のレスを読んでいて非常に勉強になります。
ややこしくて分からないところもあったりしますが、そこらへんは気合
で頭に詰め込んでます。

はっきり言ってフランシュ・コンテとブルゴーニュ公領は隣り合ってい
るせいか非常にややこしい…しかし、なぜ自由伯領になったかという流
れが>>114->>116で分かりやすく掴めるのでありがたいです。

これまでのレスを読んでいて思ったのですが、ヴァロア系ブルゴーニュ公
国は本当に独立志向の強い領邦国家という感じがします。
なんだか神聖ローマ帝国を小さくした感じ?です。歴代の公は国として纏
めるのにとても苦労したでしょうね…

しかしこの流れだと人物話がしづらい…かも(´・ω・`;)
120世界@名無史さん:05/03/13 12:13:06 0
>>119
2chのスレでは、複数の話題が同時進行するのはあたりまえのこと。
気にせずどんどん人物話してよ。  

本拠をブルゴーニュのディジョンからブラバントのブリュッセルに移したのは
善良公でよかったよね?
121世界@名無史さん:05/03/13 16:58:47 0
>>119
多分善良公だと思います。時期的に無畏公とか突進公はありえないし…
ブリュッセルに移したのはやっぱり貿易とか栄えているからかな?

119さん、フォローありがとうございます。正直に言いますと、皆様の
博識さにちょっと怖気づいておりました。あ、あと1として書き込みし
ていると「1出てきすぎ!ウザッ!」ということにもなりかねないと思
ったので名無しで書き込みしているのですが、1と名乗った方がよろし
いでしょうか?
122世界@名無史さん:05/03/13 17:00:13 0
アンカー間違えた(´・ω・`)
120さんごめんなさい!つか自分にレスしてどうすんねんorz
123世界@名無史さん:05/03/13 18:07:14 0
フランス料理の起源はトスカーナですが、ブルゴーニュ宮廷も料理には力を入れていたのですよね?
124世界@名無史さん:05/03/15 21:12:28 0
>>123
「食卓の世界史」とかいった本でブルゴーニュの料理が本当にチラッと出てきましたが、
なんか豪華だったようです。メインディッシュは鳥のローストだったかと…
銀食器の多さ=富裕度だったようです。
125勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :05/03/15 23:27:59 0
>>124
>銀食器の多さ=富裕度
収入が多い諸侯でも、現金を多量に常備している事が稀だった中世では
いざとなったら鋳潰して資金にする必要が在った為だそうです。

中世でも指折りの金持ちと呼ばれたブルゴーニュ公ですが
領土から得られる収入では、フランス王に大きく離されていました。
やはりあの特異な国際状況が存続を許した中世型国家と考えるべきかも知れません。
126世界@名無史さん:05/03/16 20:31:18 0
108のD934年〜1032年、プロヴァンスがブルゴーニュ公国に併合されます。
109のE1032年には、プロヴァンスはブルゴーニュ公国とともに、
   東フランク改め神聖ローマ帝国の名目上の領土となり、。。。

 ですが、
  これは、ユーラ・ブルグンド王国のよるキスユラ・ブルグンド王国の
 併合だったんですね。
 格式という面というか、称号の点では、
 二つの王位が、纏まって、一つの王位になったんでしょうか、
 それとも、当面は、王位は別々なのか。
 また、王位といっても、それぞれ自称に過ぎず、正式に王位になったのは、
 神聖ローマ皇帝がブルグンド王(一本化?)として兼任してからでしょうか。
 
127世界@名無史さん:05/03/18 21:34:44 0
>>125
>いざとなったら鋳潰して資金に
そういえば七年戦争のときにフリードリヒ大王が銀食器を鋳潰して
戦争資金にしていたという話がありましたね。只の金持ちのコレク
ションではなかった訳だorz

>収入が多い諸侯でも、現金を多量に常備している事が稀
この現象は、当時の年貢の納め方が金納ではなかったから起こった
ことなのでしょうか。マクシミリアンの時も貧乏なのはその所為だ
と伺いましたが…
128勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :05/03/18 22:40:00 0
>>127
中世の貴族制度は貨幣制度が崩壊の影響を大きく受けて
地域内での自給自足と共に成立したものだからです。

そもそも一般的な諸侯には貨幣の流通によって、様々な地域が
活発な経済活動をするという概念がなかったと思っても良いのでは無いでしょうか?

ですから戦費がいる時はいちいち臣下の了解を取り付ける必要があり
百年戦争以降、租税制度の確立が進んでいたフランスや商業が盛んだった
イタリア諸都市との戦争では、慢性的な現金不足に悩まされるのはしょうがないかと思います。
129世界@名無史さん:05/03/20 00:00:33 0
>>128
ブルゴーニュの租税制は発展途上だったんですね…というか都市郡の独立志向の強さ
が災いしたと見てよろしいでしょうか?現代的な視点から見ると、貨幣の流通→経済
が活発という図式が成り立たないというのが驚きです。本当に大変な時代だったので
すね。

それにしても、ブルゴーニュ公国は裁判所とか簿記制度も整っていたと伺っていたの
ですが…近代的なのか中世的なのかわからないYO!!
あと気になった事が…ペロンヌ事件の時のシャルルの慌てっぷりは物凄かったようで
すが、なんかとても一国の君主らしくないように思えます。あれは著者の誇張表現?

〜会談中〜
Σ( ゚Д゚)「なにぃ?リエージュがまた反乱を起こしてきただと!」
( ̄ー ̄)「それは大変な事になりましたな」
(゚Д゚ ;)(このままリエージュの奴らを懲らしめに行けば、ルイの
     野郎に後ろを衝かれるかもしれねえ…マズイぞ)
( ̄ー ̄;)(なんかやな予感)
( #゚Д゚)「ルイ、てめーもついて来やがれ!ノンとは言わさん!!」
ΣΣ(゚д゚lll)「なぬ?!」
ζ≪ハヤクコイ!! λ.....
……こんな展開??
130勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :05/03/20 01:11:15 0
>>120
ブルゴーニュ公の宮廷は常に移動していました。
善良公の時代に公国の比重がネーデルラント方面に決定的に傾き
宮廷もリル・ブリュージュ・ガン・ブリュッセルのなどの都市に置かれる事が
多くなっていったようです。
中でもブリュージュはガンに比べると公家との結び付きも強く、公国の金融を
一手に担った感があります。あのメディチ銀行もブリュージュに支店があった筈ですし。

この都市ですら反旗を翻したという辺り、ブルゴーニュ公が推し進めた急速な
統治システム改革への強烈な反発が感じられます。
131世界@名無史さん:05/03/20 01:49:07 0
>>130
宮廷移動って、トルコとかモンゴルのようだ…
132世界@名無史さん:05/03/20 02:17:52 0
フランクやドイツでは普通だ>宮廷移動
133世界@名無史さん:2005/03/21(月) 20:10:16 0
>>132
そうだったのか!知らなかったよ、教えてくれて有難う。
134山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/03/21(月) 21:29:25 0
スペインでも移動していた様な。数年前の高校の世界史の教科書でも、カール
5世やフランソワ1世を例に挙げて、宮廷移動が紹介されていました。
食料生産率が低いからとか書いてありましたが。
135世界@名無史さん:2005/03/21(月) 22:11:37 0
>>134
話には聞いておりましたが、宮廷移動だということは気付いてませんでしたorz
戦争ばかりだったからいろいろな所を転々としていたのかと思っていました…
フランスで食料生産率が低いとは意外です。現在は「EUの穀物庫」とまで呼ば
れている所が…?
136アクィラ ◆0fUIPC892c :2005/03/21(月) 22:16:13 0
>>135
9世紀に三圃制が広まる以前の話ですからネェ。
現在までには、数多くの改良が為されておりますので、
単純な比較は不可能かと。
137世界@名無史さん:2005/03/21(月) 22:17:13 O
飯のあるところに移動って、なんか蝗みたい...
138アクィラ ◆0fUIPC892c :2005/03/21(月) 22:18:38 0
9世紀はフランク王国の一部に三圃制が広まる時期で、
ロワール川以北全体に広まるのは12世紀です。
説明不足スマソ。
139世界@名無史さん:2005/03/21(月) 22:31:06 0
>>136>>138
習ったのに…習ったはずなのに忘れてましたorz
いっぺん中世関係の本に埋もれて、出直してきます。

>>137
そう考えると王様って…ある意味害虫ですね…
140勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :2005/03/22(火) 02:12:52 0
食糧生産率の低さも原因のひとつとして指摘されますが
より重要なのは食料の輸送体制が整備されていなかった事でしょう。
(ローマ帝国がローマを維持できたという例を見れば明らかかと)
現在のように税制度が確立しておらず、税の一種として諸地域に宮廷の食を賄わせるという事をしており
スムーズに運んでこられないから、宮廷ごと移動して食べに行くというまさに>>139さんの
ご指摘の通り、害虫もどきに見えますね。(苦笑)

事実、決められた日数以上に宮廷が滞在した場合、都市などの代表が何度も
退去を求めて陳情していたようです。
フリードリヒ・バルバロッサのイタリア進出では戦争しているんだか、飯を
食いに行っているのかよく分からない有様でした。
141世界@名無史さん:2005/03/22(火) 02:47:51 0
中世欧州の麦の生産率ってどれぐらいだっけ・・
イスラム帝国の10分の1ぐらいだった気がするんだけど

スレ違いだがナポレオン軍も害虫か・・・
142世界@名無史さん:2005/03/22(火) 05:52:42 0
一粒撒いて三粒以上帰ってくればその年は豊作。
標準的には二倍程度で、場所や年にとっては撒いた分すら帰ってこない。
143世界@名無史さん:2005/03/22(火) 16:24:21 0
フランスで言うと、ジョルジュ・デュビィの古典的研究では、
カロリング期:1粒あたり2.5粒
盛期中世:1粒あたり4〜5粒

ただ最近では
このカロリング期の数字低すぎね?
とか、
盛期中世では、1粒あたり10粒以上いったんじゃね?
という見解もあるらしい。

11〜13世紀が、ヨーロッパ史上異例の超成長期であったことを考えに入れると、
農業生産性の点でも相当な改善が見られた、としたいところだが・・・
144世界@名無史さん:2005/03/22(火) 18:50:59 0
確かにそれは低すぎ。農業用品とかある程度は発明されてるんじゃないの?
日本だって千歯こきとか色々発達したんだし…
145勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :2005/03/22(火) 20:18:04 0
>>144
蹄鉄の使用、農耕での馬の使用と繋駕法の改良、有輪重犂の普及に
三圃制の導入と水車の普及という一連の農業技術上の変化を西欧の技術革命、または
農業革命と呼びます。
時代的にはシャルルマーニュの治世時から11世紀にかけて漸次、発展していきました。
で、それを受けて11〜13世紀は>>143さんの言われるとおり、大開墾時代と呼ばれる
膨張の時期を迎えるわけです。

自分で書いておいて何ですが、蒸気機関発明まで後一歩だったギリシア・ローマ文明が
これらの利便性に目を付けて発展させなかった事にいつも疑問を覚えます。
ホントに農業方面への技術開発には興味なかったんですかね?
146アクィラ ◆0fUIPC892c :2005/03/22(火) 21:26:35 0
>>145勇者トンヌラ氏
それなりの技術革新はしてますよ。

ただ、あんまり工夫しなくても、
中世北西ヨーロッパよりも、古代地中海世界の方が、
地域差で生産性は高かったというだけかと。
プリニウスを信じるならば、
10倍程度の収穫率を得られる地域はザラにあるようですし。
(極端な例として、100倍という数字もあります)

後、平均気温もローマ期の方が高かったとされています。
ラデュリの『気候の歴史』に書いてあったと思いますので、ご確認下さいませ。
147世界@名無史さん:2005/03/22(火) 21:41:07 0
>>146
>平均気温もローマ期の方が高かった
中世は寒冷気候だったと聞きます。2〜3度の差でも穀物には深刻な影響が
あるのでしょうね…
148アクィラ ◆0fUIPC892c :2005/03/22(火) 21:44:30 0
そのように書いてあったと記憶しております。
『気候の歴史』は所有しておりませんが、
まず間違いないです。
149世界@名無史さん:2005/03/22(火) 22:09:48 0
>>148
ご教授感謝です。

そういえばロマネ・コンティはブルゴーニュ産のワインでしたっけ?
何となく「高そうなワイン」というイメージしかないのですが…
そもそもワインのブランドは中世の昔からあったようですが、ロマネ
は比較的近代のブランドなのでしょうか。
150世界@名無史さん:2005/03/22(火) 22:31:24 0
ロマネ・コンティは戦後のものでしょう。
コンティというならコンティ公と繋がるのじゃ、と調べても何もなし。
中世では「修道院」ブランドがあったようです。
近代になっても「修道院製のレース」というのは、特別扱いで代々伝えました。
151勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :2005/03/22(火) 22:35:32 0
>>146
そうなんですか。
私はローマ・ギリシアは門外漢なので、やはり奴隷労働に頼りきって
余り技術改良には熱心ではないのかなと思っていました。
勉強になりました。

>>149
ワイン関係もまた門外漢なので確答できませんが。
13〜4世紀頃のシトー会修道士が開墾したのが始まりだったと思います。
ロマネ・コンティというブランドになったのは、コンテ公とポンパドゥール夫人が
畑の所有を争って、前者が独占に成功したから・・・と読んだ事があるような。
152アクィラ ◆0fUIPC892c :2005/03/22(火) 22:35:44 0
>ロマネ=コンティ
ブルゴーニュの1.8haぐらいの地域だったと思います。
名前の由来は、ポンパドール夫人と、
この地を争ったコンティ伯の名前に由来すると聞いたことがあります。
それが正しいならば、18世紀以降と言うことになりますね。
153勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :2005/03/22(火) 22:51:04 0
>>151に補足です。

ルイ15世の食卓に出すワインとして、ロマネ・コンティ(が取れる畑)を争った二人ですが
当の国王は負けた夫人が探し出してきたボルドーワインを気に入ってしまい
コンテ公の目論見は半ば外れてしまったという事です。
ちなみにこの時のボルドーワインは後にシャトー・ラフィット・ロートシルトと
格付けされた、こちらも一級品だそうで。

コンテ公は負けてしまった腹いせか、自身の名を付けたこの畑から取れたワインを
自家で秘蔵する事にして、市場から引き上げてしまったそうです。
現在の生産元であるDRCが設立されたのは1867年だそうです。

ところでワイン話で脱線しますが、ナポレオン3世の時代にはボルドーワインが第一品で
ブルゴーニュ産はあまり話題にならなかったそうですね。
154アクィラ ◆0fUIPC892c :2005/03/22(火) 22:57:02 0
>>153勇者トンヌラ氏
脱線に乗りますとwナポレオン3制期に、
ボルドーワインが伸張したのは、
同地への鉄道伸張のお陰とか。

おかげで、もともと反皇帝派だった同地が、
皇帝支持に切り替わったとかw

後、1855年のパリ万博で、
ボルドーワインの格付け表がつくられてます。
155山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/03/22(火) 23:40:30 0
>>147
>中世は寒冷気候だったと聞きます。
いささか場違いな紹介になりますが、10世紀と13〜15世紀は気温が低
く、現在の札幌よりも当時の京都の方が少し早く雪が降った程でした。
13世紀には、武蔵や美濃で新暦7月頃に雪が観測されており、この時期の
飢饉の原因にもなっていた様です。
中世の戦争に参加した兵士たちは、食料の略奪を主な目的にしていたという
研究もありますが、中世における戦乱の原因の一つに、寒冷化による絶えざ
る飢饉への不安と食糧不足を見る向きもあります(以上日本史)。
勿論、長い目で見れば相次ぐ戦乱は余計に危機をもたらした訳ですが・・・。
156山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/03/22(火) 23:42:06 0
>武蔵や美濃で新暦7月頃に雪が観測されており
流石に珍しい例でしたが。この後、『方丈記』に出て来る様な大飢饉に。
157Ryuju ◆RlujhF6VrA :2005/03/23(水) 16:22:20 0
大冷害でしょうな>新暦七月に雪
フランス革命と冷害との関係ほどは知られてませんが、
ヨーゼフ2世の改革が挫折したのも冷害が絡んでいるそうで。

>>153
割と最近(と言っても数十年前ですが)格上げで最上級になった
ロートシルト系のワインがあるそうですが、それがそのラフィットじゃなかったですかね?
それともムートンの方ですか?

>>147
人間の体でも平熱が36度で、三度上の39度とかいったら
インフルエンザの領域ですからね。34度台だと冷え症とか低体温の部類ですし。
植物に影響が出るのは無理もないかと。
158世界@名無史さん:2005/03/23(水) 18:44:10 0
>>157
シャトー・ラフィット・ロートシルトは1855年の万博時の格付けで
最上級になってる。
159世界@名無史さん:2005/03/23(水) 19:20:03 0
ムートンは1973年に1級に昇格。ワインのエチケットには昇格前は
「1級ではないが2級の名には甘んじられぬ。余はムートンなり」
と書かれてました。1級に昇格した1973年のラベルはそれを記念してピカソの絵が用いられた。

160世界@名無史さん:2005/03/23(水) 20:26:53 0
>>124-125
銀って貴金属として相場はどうですか?
今日でも、英仏の上流階級は所有していますよね?
161世界@名無史さん:2005/03/23(水) 20:28:39 0
>>154

(*゚∀゚)=3 ナポレオン3世って、もっと評価されてもいい政治家ですよね。
フランス語よりドイツ語が得意だったそうだけどw
162世界@名無史さん:2005/03/23(水) 20:47:17 0
>160
金がグラム単位で相場が形成されるのに対して
銀はキログラム単位だからなぁ。

鉄のd単位よりはマシかもしれんが。
163世界@名無史さん:2005/03/23(水) 22:42:14 0
>>162
゚ ゚            Σ( Д ;)
キ、キログラム単位…!?
金と銀でえらい違いだなオイ!まあ食器とか色々使われるから仕方ないのか?
鉄のd単位はもっと需要があるからなあ…
164世界@名無史さん:2005/03/23(水) 23:00:39 0
>>155
7月に雪ですか…流石に珍しいというか、まず有り得ない気候ですね。
超異常気象ではありませんか?!中世の寒冷気候の程度が極端すぎてよくわからない…

>>150->>154・>>157->>159
なるほど…ワイン一つとってもそんな複雑な経緯があるのですね。
これからワインを飲む機会があったら、ディオニュソスに感謝し
つつワインの歴史を噛み締めながら飲まなくては!
ボルドー・ブルゴーニュとか名前しか知らないので勉強になります。
どれも美味しそうに聞こえます…いつか飲み比べしてみたいです。
165世界@名無史さん:2005/03/23(水) 23:09:59 0
漏れなんか「ロマネ・コンティ」って、
「仁義」ってヤクザ漫画ではじめて知ったよ。

・・・関東一円会ってとこの理事長さんが痛飲。
166アクィラ ◆0fUIPC892c :2005/03/23(水) 23:58:02 0
>>161
下手すると、ナポレオン3個人よりも、
セーヌ県知事だったオスマンの方が、
研究されているような気がしますね。

中世に話を戻すと、当時は現在では産地でない場所が、
一大産地だったりするようですね。
パリ近郊なども、その一つだとか。
167世界@名無史さん:2005/03/24(木) 20:27:03 0
>>165
最後、株で飲まれてスッテンテンになっちゃった人だっけ。
168世界@名無史さん:2005/03/24(木) 21:25:27 0
マクシミリアン1世とかフィリップ美公、カール5世も広義のブルゴーニュ公、
ブルゴーニュ家に入りますか?そもそも狭義のブルゴーニュ家というのがよく
わからないのですが…
169勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :2005/03/24(木) 23:17:56 0
>>168
狭義のブルゴーニュ家といわれると、通常はヴァロア王家の分家を指すと思います。
つまりフィリップ豪胆公からシャルル突進公(あるいは娘のマリー)までかと。
170世界@名無史さん:2005/03/25(金) 22:07:35 0
>>169
ありがとうございます。マリーはあくまでもブルゴーニュ公女という認識なのでしょうか?
なんだかマリーだけ宙ぶらりんな感じがします……(´・ω・`)
171世界@名無史さん:2005/03/27(日) 12:38:04 0
>>170
マリーはブルゴーニュ公女というより女公(マリー本人が領主)ですし、
紛れもないヴァロア系ブルゴーニュ家の5代目だと思いますよ。
172世界@名無史さん:2005/03/27(日) 19:55:39 0
(・∀・)<ageる価値高し
173世界@名無史さん:2005/03/27(日) 20:47:33 0
>>171
ということはブルゴーニュ公国はマクシミリアンとの共同統治ですか?
マリーは「女公」として君臨してはいるけれども、実質上の仕事は夫が
引き受けてるとか…?
174世界@名無史さん:2005/03/27(日) 20:53:47 0
つかフランス王国内のブルゴーニュ公領はシャルル突進公の死とともに
フランス王に接収されて「ブルゴーニュ公領」は消滅するんでは。

ドイツ側の「ブルゴーニュ自由伯領(フランシュコンテ)」はマリー、カール、フェリペと
続くと思いますが。
175勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :2005/03/27(日) 20:57:07 0
>>173
共同統治ではありますが、マクシミリアンはマリーの夫である故をもって
ブルゴーニュ公と認められていました。なのでマリーの単独統治と言って良いと思います。
(女系相続は事実上、認められていたので)
事実、彼女が死ぬと公位はフィリップに譲られていて、マクシミリアンの
後見を認めるか否かが論点になっていたと思います。
むしろ夫はいるだけで宮殿で子作りに精を出していた時期なんじゃないかと。
(軍役は別ですが)
176世界@名無史さん:2005/03/27(日) 21:07:44 0
>>174
ブルゴーニュ公領は接収されたけど、ブルゴーニュ公の名跡と
公国は残った。そういえば何故に消滅しているのだろう?
177世界@名無史さん:2005/03/27(日) 21:15:28 0
>176
領地が接収されても「公国」って残るの?
名跡はともかく。

ブルゴーニュ自由伯領もルイ14世の頃にフランスに併合されて
消滅するんでしたっけ?
178世界@名無史さん:2005/03/27(日) 21:38:46 0
>>175
>彼女が死ぬと〜論点に
そういえばそうでした…_| ̄|○女系相続は中世に結構ありましたね。
では>>171氏の言うように「紛れもないヴァロア系ブルゴーニュ家の
5代目」という認識で良いわけですね。疑問がすっきりしました。
ありがとうございます!!
>むしろ夫は〜
それすら邪魔してくるフランスの商人王…uzeeeeeeeeeeeeee!
当時においてああいった倫理無視っぷりはどう見られていたのでしょう…

>>174
領地すべてひっくるめて「ブルゴーニュ公国」という認識だったとしたら
フランス側の「ブルゴーニュ公領」が無くなっても問題無いような気が…
179世界@名無史さん:2005/03/27(日) 21:56:33 0
ブルゴーニュ家というのは不思議です。
ブルグンド王家の名は、ヨーロッパの歴史上何度も消えてはかつ浮かび、血統はいまだに残っているらしい。
スペインの「残酷王」ドン・ペドロ1世も、ブルグンド家です。
男系はエンリケ・デ・トマスタマラにのっとられても、イギリスのランカスター家に嫁入りしたコンスタンツァ
を通して、イサベル女王を生み、今のスペイン国王はその子孫。
180世界@名無史さん:2005/03/28(月) 20:02:11 0
女系で見れば・・・多いですね
181世界@名無史さん:2005/03/31(木) 17:15:19 0
>>179
ブルグンドってあのブルグンド族?
182世界@名無史さん:2005/03/31(木) 17:24:30 0
>>181
ロタールの王国解体後に成立したブルグンド伯国の血統。
古ブルグンド王国といえば、クローヴィスの妻はここの王族だった。
183世界@名無史さん:2005/03/31(木) 22:47:17 0
>>182氏サンクス。えーと、カペー系ブルゴーニュ家の前の
やつという認識で良いのかな……?
184世界@名無史さん:2005/04/06(水) 21:41:57 0
やはりマイナーなのか
185:2005/04/09(土) 23:57:27 0
「中世の秋」を偶然読む機会ができたため、今必死で読んでいます。
近代人らしい洞察眼・客観性に優れた、中世を知る上ではいい本だ
なあ…と思いながら読みすすめています。

フィリップ善良公について、中々の辛口批評で驚きました。
「名君」というイメージしか抱いていなかったので。
それに、シャルル突進公については>>48氏の言うとおり古典に堪能
で、市民の訴状を聞いたりするなど「善き政治家」を目指していた
面も見受けられ、綽名に対して抱くイメージとはかなり違うもので
した。人は綽名で判断してはいけない。

今私の手元にあるのは昭和39年版のものですが、>>51氏・>>52
の情報提供が無ければどう探していいか分からなかったと思います。
本当に有難うございました!
そのうち文庫版を買おうとも考えています。
186世界@名無史さん:2005/04/13(水) 20:35:02 0
下がりすぎage
187世界@名無史さん:2005/04/13(水) 22:47:08 0
堀越孝一の変な文章。悪夢のようだ。
188:2005/04/13(水) 22:56:05 0
>>187
「ブルゴーニュ家」のときは面白い書き方だなあと思ったのですが…
話がやたらあちこち飛んでいくのにはまいった。
189世界@名無史さん:2005/04/13(水) 23:30:59 0
それが堀越クオリティ
190:2005/04/13(水) 23:34:53 0
このスレ的には彼の訳した史料の出来ってどうなんでしょう。
色々と出版しているようですが…

>>189
『中世の秋』も話あっちゃこっちゃ飛びまくり?
191世界@名無史さん:2005/04/14(木) 02:45:19 0
師匠に比べたら・・・。
192世界@名無史さん:2005/04/14(木) 09:10:59 0
>>190
「中世の秋」は翻訳しただけなので、話そのものは飛びませんが、
妙な体言止めを多用するクセは同じです。

>>191
堀米センセ(だよね?)の文章はそんなに読みにくいとは思わないけどなあ。
193世界@名無史さん:2005/04/14(木) 18:01:16 0
いや、だから師匠の足元にも及ばないといいたかったんだが。
194:2005/04/14(木) 22:19:02 0
>>192
ありがとうございます。よく考えたら翻訳書で話が飛ぶなんてありえないorz
変というか特徴的というべきか…とりあえず本屋で文庫版『中世の秋』探して
みます。

そういえば、『ブルゴ−ニュ家』の塩と硬貨の話には挫折しかけました。
でも読み直していて「意外と面白いかも」と思い直した。
なんかこの人の文章って特徴的。
195192:2005/04/15(金) 10:35:18 0
>>193
ああなるほど。
堀越氏の文章は読みにくいという話の流れだから「師匠に比べれば(マシだよ)」
と言ってるのかと思いました。

>>194
堀米さんの話が出たから言うわけじゃないけれど、文庫版より世界の名著版を
おすすめします。解説に堀米さんがホイジンガの故郷を訪ねた時の話が出てく
るんですが、それがなかなか良い。
おそらく長期在庫品ばかりだから、紙が変色してたり活字がかすれてたりする
かもしれませんが…。
あるいは改訳版の中公クラシックス版もいいかもしれません。(堀米氏の解説は
ありませんが)
196:2005/04/15(金) 21:23:14 0
>>195
重ね重ね本当にありがとうございます!よ〜し、近いうちに必ず探してこよう…
世界の名著版のほうを重点的に探していこうと考えています。

そういえば…ホイジンガって20世紀人だったんですね。てっきり16世紀くらいの
人だとばかり思い込んでいました…なんでこんな勘違いをorz
197193:2005/04/15(金) 22:08:56 0
>>195
言われて見ればそう読めるね。失礼した。
しかし両者の作品を比べてみると、どちらが現在第一線の人だか分からなくなってしまうw。

堀米さんは大世界史でも西洋中世史の巻を担当されてたと思うんだけど
そちらも概説書なのに、非常に楽しく読めた覚えがあるよ。
198世界@名無史さん:2005/04/17(日) 17:08:00 0
広義のブルゴーニュ公としては
ハプスブルク家の君主達も含まれますよね?

フリップ美公やカール5世はブルゴーニュ公として
扱われることが多いようですが
その後のハプスブルク家の君主たちの扱いはどうなのでしょう?
単純にネーデルラントの君主としてなら

@スペイン王フェリペ2世
Aスペイン王女イサベル
Bスペイン王フェリペ4世
Cスペイン王カルロス2世
D皇帝カール6世
Eマリア・テレジア皇后
F皇帝ヨーゼフ2世
G皇帝レオポルト2世
H皇帝フランツ2世(フランス革命で公領喪失)

と続いていますが。
199:2005/04/17(日) 19:04:19 0
ネーデルラントはウェストファリア条約までは形式的にハプスブルク治下?

フランツ1世が金羊毛皮騎士団の勲章をつけていたらしいから、金羊毛皮騎
士団長=ブルゴーニュ公として扱われていた可能性もなきにしもあらず。
形式的にではあったにせよ。

ありきたりな意見でゴメソ。誰かもっと詳しい人の降臨キボン。
200世界@名無史さん:2005/04/17(日) 20:31:57 0
形式的にはそうだけど、大公として憲法宣誓を行ったのは
レオポルト2世が最後だよ。
201世界@名無史さん:2005/04/17(日) 20:41:52 0
1477年に、ブルゴーニュのみフランス王国に統合されました。
フェリペ2世はブルゴーニュ公の称号を持っていましたが、彼は
スペイン領ネーデルラントの支配権を娘のイサベル・クララ・エウヘニアと
その夫のアルブレヒト大公に譲りました。
しかし夫妻の間に子供が出来なかったので、再びこの地域はスペイン領と
なります。
202世界@名無史さん:2005/04/17(日) 20:43:50 0
35 :世界@名無史さん :2005/03/24(木) 13:39:31 0
Don Carlos por la gracia de Dios, Rey de Castilla, de Leon de Aragon,
de las dos Sicilias, de Jerusalen, de Navarra, de Granada, de Toledo,
de Valencia, de Galicia, de Mallorca, de Menorca, de Sevilla, de Cerden~a,
de Cordoba, de Corcega, de Murcia, de Jaen, de los Algarbes, de Algeciras,
de Gibraltar, de las Islas de Canaria, de las Indias Orientales y Occidentales,
Islas y Tierra-firme del Mar Oceano;
Archiduque de Austria,
Duque de Borgon~a, de Brabante y Milan;
Conde de Habsburgo, de Flandes, Tirol y Barcelona;
Sen~or de Vizcaya y de Molina, etc.

スペインスレのお約束、スペイン王が所持する称号一覧。1792年のカルロス4世の
署名から。東西インド、サルデーニャ島やブルグント、ブラバント、ハプスブルク、
チロル、ミラノなどイベリア以外の所領も含まれる。
203:2005/04/17(日) 20:59:45 0
うわ、長!
当のスペイン王にとってはチロルだのブルグントだのブラバントだのって
何の思い入れもない見知らぬ国という認識だったんじゃないかな…

チロルとかミラノはどちらかと言うとオーストリア・ハプスブルク側の土
地っぽい気がする。これと似たような称号をオーストリア側も持っていた
んだろうか。フランツ・ヨーゼフ帝がこれまた無駄に長い称号を持ってい
たような覚えが…
204192:2005/04/18(月) 15:28:26 0
>>203
カルロス一世は「オレはブルゴーニュ人。スペインなんか知らんもんね」とか
言ってたらしいけどw
205:2005/04/20(水) 16:50:26 0
>>204
カルロス1世はチャキチャキのブルゴーニュっ子だもんなw
もし弟のフェルディナントがスペイン統治を任されてたらどうなったかなあ。
土地柄に合った政治をしたりしてスペイン・ハプスブルク朝が続いていたか
も…フェリペ2世が居ない分スペイン統治が上手く行きそうな気がする。

てか、どうしてスペインがネーデルラント統治することになったのだろう。
単純に近いから?
206世界@名無史さん:2005/04/20(水) 19:14:20 0
というよりも対トルコ戦の為に、常時、君主を必要とした
オーストリアが分離する必要が生じたという感じ。
207世界@名無史さん:2005/04/23(土) 04:26:12 0
>>206
ハプスブルクの長子相続制って確立されていたの?
オランダみたいに総督を置かないで、分離させた意味がわらかない。
208世界@名無史さん:2005/04/23(土) 04:27:40 0
総督制にしておけば近親婚で血統が途絶えることもなかったのに。
オーストリアも男系は絶えた。
209世界@名無史さん:2005/04/23(土) 11:45:00 0
>>207
オーストリア方面の君主は常時、帝国諸侯との折衝の任務も任されていたから
ネーデルラントのような総督制が受け入れられる余地なんて無かった。
帝国の基幹を為した等族制度と完全に矛盾するから。
210世界@名無史さん:2005/04/27(水) 23:49:33 0
ネーデルラントの総督制っていつまで続いたの?
マルガレーテが有名だけど…
211世界@名無史さん:2005/04/28(木) 22:57:16 0
>210

ヨーゼフ2世が姉をネーデルラント総督にして
ウィーンから追い出したってことだから
たぶん、フランス革命で喪失するまではあったのでは?
212世界@名無史さん:2005/04/29(金) 20:53:45 0
>>210
その場合、やっぱネーデルラントに行くのかな。
でも当時ってとっくにオランダ独立してたような…
形式的にフランツ2世まであったということになる?
213世界@名無史さん:2005/04/29(金) 21:28:13 0
>210
ヤフーの女性主権者トピにあった総督一覧表によるとフランス革命までは続いてたようで、
かのオイゲン公も就任したことがあるらしい。

>212
オランダ独立後も今のベルギーにあたる地域は
スペイン領ないしオーストリア領ネーデルラントとして存続してます。
214世界@名無史さん:2005/04/30(土) 19:46:38 0
>>212
だけど、ネーデルラントの君主として宣誓をしたのはレーオポルド2世が最後。
215世界@名無史さん:2005/05/01(日) 19:50:10 0
じゃあ何処に行ったんだろう…
216世界@名無史さん:2005/05/05(木) 00:14:46 0
いったんあげ
217世界@名無史さん:2005/05/08(日) 10:36:35 0
ベルギーの歴史(オーストリア領ネーデルランド)
1789年フランス革命が起こると、オーストリアに対抗する為に立ち上がった。そして1790年
ベルギー合州国として独立を宣言したが、新しい国の指導者達の団結心の欠如のため、あえなく
オーストリアに制圧される。しかしその後オーストリアはフランス共和国との戦争になり、
1795年戦勝国フランスはベルギーを「解放」した。

こういう経緯のようです。フランスの占領下におかれ、ナポレオン没落後はオランダ支配で
1830年に革命を起こし、1831年1月20日独立。近代史なんですね。
218世界@名無史さん:2005/05/08(日) 11:02:22 0
オランダ式算術
219世界@名無史さん:2005/05/08(日) 22:14:26 0
>>217
ベルギー独立ってかなり最近だったんだな。まだ200年と経ってない…
お隣のオランダと比べてすったもんだ…占領されてばっかりだ。
220世界@名無史さん:2005/05/15(日) 11:15:45 0
質問があります。
フィリップ善良公が「善良」と綽名された所以は「フランス王家にたいして
逆らわなかったから善良」という基準なのでしょうか。書籍などで見る彼の
性格は「激しやすい」という感じで、とても善良とは思えません。

あと、シャルル突進公の統治はそんなにダメダメだったのでしょうか。
国民から搾取しまくる暴君という評判がついて廻るようですが、政治ともい
えないような政治をしていたというわけでもないのでは?
221世界@名無史さん:2005/05/15(日) 14:42:32 0
>>220
フィリップ善良公はブルゴーニュの統治に対しての渾名。
彼がフランス王家に逆らわなかったなんて事はとんでもなくて
むしろ彼の時世では、どっちが本家か分からない位の繁栄ぶりでした。

またシャルル突進公はより近代的な封建的中央集権国家を目指してたわけ。
フランスでは成功した試みだけど、ブルゴーニュでは結局は失敗してしまった。
この改革ってのは、旧来の都市などに与えられてた自治などに代表される特権の剥奪を含んでいたから
ブルゴーニュやネーデルラントの自治勢力からは暴君と見られても仕方無いよね。
222世界@名無史さん:2005/05/15(日) 18:55:44 0
肝心なのは、当の住民にとっての良し悪しですよね。
223世界@名無史さん:2005/05/15(日) 23:11:46 0
>>221
ありがとうございます。どちらも住民視点から見たことなんですね。
側近の人は「シャルル公ほど君主らしい君主はいなかった」と言って
いるので、矛盾してないか?と疑問に思っていました。

ブルゴーニュ・ネーデルラントは商業が活発だったこともあって、自
治を求める声が強かったから中央集権化の難しい土地柄だったのでし
ょう。自治特権を認めていたら国がばらばらになってしまうし、難し
いところですね。お隣のフランスで王権強化できたのに対してブルゴ
ーニュでそれができなかったのは、彼らが「フランス王家から来たよ
そ者」だったから…というのも一因であったかもしれません。
224223:2005/05/15(日) 23:13:45 0
×一因であったかもしれません
○一因であったかもしれないと思うのですが、どうなんでしょう?
225勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :2005/05/15(日) 23:33:27 0
>>223-224
>67と合わせて読んで頂きたいのですが。
善良公の時代には、百年戦争の混乱もあって英仏両王家に対して
政治的優位に立つ事が出来ていましたが、戦乱が終わって見れば圧倒的に
不利に立たされていたという事は事実です。
収入の面でもブルゴーニュ公はフランス王には遠く及びませんでしたので。

また平時の際のフランスの国際戦略はライン方面への封建的裁判権を行使しての浸透でした。
百年戦争が終わって、その戦略を再開する段になった場合には半独立勢力となったブルゴーニュ家は
障害以外の何物でもなかったでしょう。
226世界@名無史さん:2005/05/17(火) 17:42:01 0
一時は専用スレまであった堀越孝一氏は「お人好しのフィリップ」と
訳してますね。
227世界@名無史さん:2005/05/18(水) 15:50:49 0
>>225
なるほど、納得しました。どうもありがとうございます!
228:2005/05/22(日) 12:08:47 0
>>226
豪胆なフィリップ、おそれしらずのジャン、お人よしのフィリップ、むこうみずの
シャルル…と訳しておられますね。非常に分かりやすいです。一般的な綽名で「善
良公」とか言われても「…何が?」というツッコミを入れたくなる。

堀越氏の専用スレがあったのですか。ちょっと調べてみようかなあ…
229世界@名無史さん:2005/05/25(水) 18:59:40 0
友情ホシュ
230世界@名無史さん:2005/05/27(金) 09:28:24 0
フランスとドイツの間にブルゴーニュ国が存続する事は
結局政治力学的に絶対に不可能だったのか??


いまもあったらおもろい
231:2005/05/28(土) 12:57:31 0
>>230
もし存続していたら色々と面白い事になっていただろうな…
しかしフランスと神聖ローマ両国の封臣という立場に変わり
は無いし、「ブルゴーニュ公国」としては動きにくかったか
もしれませんね。なんとか国力を上げようとしてシャルル公
が動いてみたらああなったわけだし…

シャルル公にもうちょっと軍事的才能と政治の才があったら
面白い事になっていただろうに…
232世界@名無史さん:2005/05/28(土) 18:20:22 O
>>226
講談社の新書ですね?
あれはムチャクチャ読み辛かった(汗
「閑話休題」が多すぎ!
いい加減にしろ!と言いたかった(怒
233ゑ゛じゃないか解放戦線伊勢派 ◆Q.pECj.Kaw :2005/05/28(土) 20:54:24 0
>230 >231
オランダ、ベルギー、ルクセンブルクが現在でも独立国なのは
ブルゴーニュ公国の北部領(フランドル伯領他)の名残じゃないのか?
234世界@名無史さん:2005/05/28(土) 23:19:56 0
違う。あの辺りは強大化したイギリスの大陸政策の強い影響による。
235世界@名無史さん:2005/05/31(火) 10:56:21 0
堀越先生、西洋史の前に日本語を学ぶべきだ、絶対!!
一度でも彼の著書を読めばその意味不明な文はトラウマと化して読者を生涯
西洋中世史から遠ざけてしまう…。
236:2005/06/04(土) 16:37:39 0
>>233
あの辺りは貿易中継点ということで町々の独立志向が強いから、ブルゴーニュ
公国の名残とはいえないと思う。
237世界@名無史さん:2005/06/07(火) 13:09:02 0
>>228
「善良公」(le Bon)に関してはトロア条約がお人好しなのか、シャルル7世との
和解がお人好しなのか、はたまた善政を敷いたからなのか、あだ名の由来が
はっきりしませんからなあ。
238:2005/06/08(水) 00:10:42 0
>>237
あの「善良公」っていう綽名は善政を敷いたからということでいいのでしょうかね…?
シャルル7世との和解は必然的なものだったと思いますし…しかし息子との口喧嘩騒動
を見るに、性格からではないことは確かだw
239世界@名無史さん:2005/06/11(土) 13:53:37 0
ジャン2世も同じ棹名だから、
お人よしって意味が強そう。
240世界@名無史さん:2005/06/11(土) 13:55:21 0
ジャン・サン・プールがルイ・ダレルアンを暗殺していなかったらどうなっていたかな?
241:2005/06/11(土) 17:26:14 0
>>240
百年戦争が短くなってた…なんてことはないかなあ('A`)
他の貴族がブルゴーニュ派とアルマニャック派を煽って
最終的には殺し合いに追い込んでいたか?
…ジャン・サン・プールの性格とか人格上無理かもしれ
ない…これは綽名のイメージによる偏見でしょうか?
242よりしくお願い:2005/06/18(土) 20:21:31 0
>>114>>115:(古い話で悪いけども)
>ユーラ・ブルグンド王国、キスユラ・ブルグンド王国、
>フランス王国のブルゴーニュ公領と、
>3つの「ブルグンド」が並び立つ事態に。


  このユーラ・ブルグンド王国、キスユラ・ブルグンド王国の王号:
  @これは、ロタール王国の王号の継承という意味かなー。
  西フランク、東フランクと対等なので、王号がそのまま認められてしまったのかなー。
  Aどちらが正当なという考えはなかったのかなー。
  ロタールの後継なら、ひとつのはずとは考えないのかなー。
  
243世界@名無史さん:2005/06/18(土) 20:31:53 0
>>115から引用:
>933年、2つのブルグンド王国は、ユーラ・ブルグンドによるキスユラ・
>ブルグンド(アルル)の併合によって統合された。新しい王国はキスユラ・
>ブルグンドの首都アルルに首都をおいたため、引き続きアルル王国とも呼ばれる。

  @(質問)  合邦してブルグンドですが、北と南は領土的にはつながっていたの。
  A(ボクの理解)1:北の方は、自由伯領となって、南のブルゴーニュ王国から名目的に分離独立して、
            ローマ皇帝からの直接の封土に。
          2:フランスのブルゴーニュ公領と同君連合を組んだ。
          3:フランス側ブルゴーニュ公領が仏王に収公された後、ハプスブルクの一領邦として存続した。
   B(ボクの理解)1:北の部分が分離させられた。
           2:名目的には、ブルグンド王位は、ローマ皇帝が兼任したが、実質的には、フランス王の領土と化した。
             フランス王は、ブルゴーニュ(ブルグンド)王にはならず、その意味で皇帝の臣下ではない。
             したがって、ブルグンド王位は有名無実の王位であった。
           
244世界@名無史さん:2005/06/22(水) 21:32:45 0
名スレage
245世界@名無史さん:2005/06/22(水) 21:52:19 0
フランス王もブルゴーニュ人の王と名乗ってる時代があった。
いろいろな理解がごっちゃになってるから、専門書でも読んできちんと理解した方が良いよ。
246:2005/06/25(土) 11:25:21 0
ようやく「ブルゴーニュ公国の大公たち」を入手いたしました。
シャルル突進公とばらのジャム、リルケの捏造かと思ってたら本当のこと
だったんですね。というかシャルル突進公は君主として以前に人間として
傍迷惑だと思いました('A`)中世の君主でもあんな暴君いないよ…

>>245
ブルゴーニュの専門書って日本ではまだ翻訳されていませんよね?
ということは必然的にフランス語かドイツ語かオランダ語かの原書を入手
して読まなければ駄目なんでしょうか。


さて、ブルゴーニュ家は実際のところ民衆からどういう見方をされていた
のか。現地の人から見るとヴァロア家のよそ者?フランス王家から見ると
いけ好かない親戚?いくらなんでもそこまで極端な見られ方はされてない
か。
247世界@名無史さん:2005/07/02(土) 13:19:00 0
ageage
248世界@名無史さん:2005/07/09(土) 18:35:58 0
どんな専門書がよいのかな。
そもそも、ブルゴーニュ人というのは、なんだろうか。
249世界@名無史さん:2005/07/09(土) 19:27:33 0
それにしてもブルゴーニュ公国ってのは、
中世国家と近代国家の差異を理解するのにうってつけの素材かもね
250:2005/07/15(金) 00:01:30 0
ブルゴーニュ公は臣従義務はないが形式的には神聖ローマ皇帝の家臣にあたる
んだよね。ブルグント伯の帝国内での権力というのはどれくらい大きかったん
だろうか?ヴァロア系ブルゴーニュ家は善良公と突進公の代でめちゃくちゃ発
言権を持っていたらしいが、カペー系ブルゴーニュはどうだったんだろう?
251世界@名無史さん:2005/07/15(金) 21:11:52 0
四大諸侯の一人じゃなかった?
>帝国内
252世界@名無史さん:2005/07/21(木) 23:50:26 0
age
253世界@名無史さん:2005/07/25(月) 20:45:41 0
ホシュ(・∀・)
254:2005/07/27(水) 13:32:50 0
>>251
初歩的な質問ですが四大諸侯とは具体的に誰を指すのかがわかりません…
ぐぐったらベーメン王・ファルツ選帝侯とか出てくるしorzしかも三十年
戦争中の帝国内四大諸侯だった…

ブルグント伯は選帝侯たちとは無関係で、尚且つ権力者だったようだけど、
なにゆえ?これはひとえにフィリップ善良公の努力のおかげか、それとも
以前から帝国内での発言権もあって、ある程度の権力をもっていたのがフ
ィリップとシャルルの代で目立って伸長してきたのか…?
255世界@名無史さん:2005/07/28(木) 00:17:44 0
単純に実力があったから、ってのは違うのかね?
256世界@名無史さん:2005/08/05(金) 23:40:17 0
age
257世界@名無史さん:2005/08/16(火) 08:40:37 0
age
258:2005/08/16(火) 22:07:55 0
ブルゴーニュ公国は突進公死後の崩壊が恐ろしく速かったですね。
善良公みたいな政治をしていれば民衆の反乱やフランスのブルゴー
ニュ奪取やハプスブルク家介入などはなかったのでしょうか…
259世界@名無史さん:2005/08/17(水) 00:40:21 0
>>258
跡継ぎが嫁入りの決まった娘しかいなかったからねえ。

私にはマクシミリアンは「助けに来た」ように感じられるんだけれど、
「侵略者」にも見えるのかな。
260世界@名無史さん:2005/08/17(水) 12:25:19 0
叔父とか従兄弟とかはいなかったのでしょうか?
261:2005/08/17(水) 13:53:51 0
>>259
マクシミリアンというより、マクシミリアンの子孫のやったことを
考えると結果的には侵略者だったのかな…というふうに思います。
当初は助けにいくという目的だったのが、だんだんずれていったよ
うな感じです…

>>260
従兄弟はフランス王ルイ11世w
いや、マジレスするとフィリップ善良公には殆ど庶子しかいなかっ
たと思います。嫡子がシャルルのみで、さらにシャルルには一人娘
しか生まれず→あわやお家断絶になりかけた、ということ…だった
かと。
262世界@名無史さん:2005/08/17(水) 20:42:57 0
う〜ん、それなら純法律的(?)にはマクシミリアンより
ルイ11世の方が上位の継承権を持っていたと見なせるのかもしれませんね。
ハプスブルクの結婚政策はやっぱりあくどいのかも・・・
263Ryuju ◆RlujhF6VrA :2005/08/17(水) 21:38:26 0
>>262
ブルゴーニュの相続法がどうなんだろう?というのも
一つの問題としてあるね。
ずっと後の話になるが、ルイ十四世が「妻の」領地相続権を主張した地域が
フランドル、ブラバント、そしてブルゴーニュ自由伯領だったらしいし。
その地域の相続法として、女系も認められていたという説明だった。
264世界@名無史さん:2005/08/17(水) 21:54:29 0
でもマリーの後にマクシミリアンに相続権が行くという法的根拠はあるんでしょうか。
それとブルゴーニュ公国領の相続はあくまで公国法の問題で、
その上にあるフランス王の法は意味を持たないんですか?

それと公国の解体ということから気になるのは、
ブルゴーニュ公国が公本人と、各地の下位小領主や
都市との個別の条約の集積によって成り立っていたのか
公国全体が(実体はどうあれ)ひとつのまとまりとして公家の支配下にあったのか、なんてとこですね。
265Ryuju ◆RlujhF6VrA :2005/08/18(木) 00:48:54 0
>>264
マリーとマクシミリアンには子供がいたからね。後でスペイン王女と結婚したフィリップなど。
フィリップはカール五世とかの父親だ。
形式的には、ブルゴーニュはフィリップやカール五世が相続して、でも彼らは幼いから
実際にはマクシミリアンが治めている形だったんじゃないかと。

フランスとの関係はよく分からない。ただ、当時はブルゴーニュは実質独立状態だった上、
マクシミリアンは父親が神聖ローマ帝国皇帝だったから、
フランスが政治的影響を及ぼすのは難しかったのでは?と思う。
266世界@名無史さん:2005/08/18(木) 11:32:31 0
なるほど。納得しました。
267:2005/08/18(木) 11:46:08 0
つまりブルゴーニュのマリーとマクシミリアンの婚約を早めに決めていて
よかった…ということですね。オーストリア側にとっていい偶然が続いた
ことでブルゴーニュを手にすることができた。
それをフェリペ2世がぶち壊しにしたせいでフランスに吸収されてしまった
…orz
268:2005/08/26(金) 13:09:04 0
「シャルル」という名前はオランダ語読みだと「カレル」または「カルル」に
なるようですね。図書館にあった結構年季の入った本に『ブルゴーニュのカル
ル豪勇公』と紹介されていたのですが、あの名前の表記はオランダ語読みに忠
実だったんですね。

フランス語とドイツ語がいい具合にミックスされてるみたいで微妙…(´・ω・`)
269世界@名無史さん:2005/08/26(金) 16:50:33 0
>>266
いやいや納得してはいけないかと。残念ながら>>265の記述はデタラメも良い所。
そもそもマクシミリアンに継承権なんて無かったよ。
マリーの死後、ブルゴーニュ公はフィリップ。マクシミリアンはその後見人として
家内法によって総覧していたに過ぎない。当初はガンなどの急進派が後見人は不用と
主張して、マクシミリアンを追い落としたわけ。

またブルゴーニュ公はあくまでもフランス王国のアパナージュが骨子であるから
フランス王の承認が必要だったよ。しかし正統な後継者の封を世襲を認める事は
封主である王の義務であったから、マリーと結婚できなかった以上、フィリップや
ブルゴーニュ公国内のフランス派を焚き付ける位しか方法が無かったわけ。
(とはいえ純粋なアパナージュは接収していたと思うけど)
ブルグンド伯はそもそもフランス王とは関係ないタイトルだから除く。
公国内の法制度は非常に複雑。公国法と貴方が表現したような統一的な制度は整備されておらず
旧来の封建的制度を複合させた過渡的な国家(封土の複合体)とでも言えば良いかな?
一読すると、過去ログでかなり述べられてる点もあるので参照をオススメする。

そもそもRyujuという人はフランス王家の対ライン戦略の原則を理解していないようなので
封建制度と合わせて、もう少し勉強した方が良いと思うよ。
また>>258も公国の実態をあまり理解できてないんじゃないかな?
封建君主というものは、スムーズな継承が出来ないとあっという間に分裂する事が
珍しくないんだけれども。
270:2005/08/26(金) 23:56:36 0
>>269
詳細なご説明ありがとうございます!
あまり理解できていないどころか当方は中世の封建社会については
全くの初心者です…orzとりあえず中世関係の過去ログにダイヴして
社会・制度等頭の中に叩き込んでからもう一度出直してきます…
271世界@名無史さん:2005/08/30(火) 13:49:26 0
スレの流れとは少し違うので閑話休題と思ってください(上記の話題は続けてください)

ブルゴーニュの宮廷というと華麗な、といういめーじがありますよね。金曜騎士団、否、金羊騎士団など、
江村氏のハプスブルク家という新書読むと特にそう。
オーストリアという田舎のマクシミリアンはびっくりした、、、、
スペインの田舎貴族は、カールたち一行にびっくりした、、、、

 ただ、ブルゴーニュというのは、めいもく的には、フランス王の芳信に過ぎないのですから、
 陪臣として、フランスの他の貴族(田舎貴族だろうが)、スペイン貴族の連中からみて、
 格下ではなかったんでしょうか。
272世界@名無史さん :2005/08/30(火) 13:49:26 0:2005/08/30(火) 13:54:59 0
付け足します。

  マックスが連れてきた家臣は、ドイツ王国(帝国)の
  封を受けた(名目でしょう)オーストリア太公の家来であって、
  ドイツ王の位からみると、又家来(陪臣)のようですね(あっていますか)。
  
  どういう意味では、マリアとマックスの結婚時の両家の臣下たちの
  位置づけは、まあまあ対等であったと言えるんでしょうか。
273世界@名無史さん:2005/08/31(水) 00:20:36 0
名目上は陪臣で合ってる。
でも封建関係は二者間のものなので、その関係に属さない者には関係がないというのが原則。
特に国際的な比較になると尚更だから、ほとんど関係がないというのが正解。
勿論、近世以降になって封建制度が国家体制に組み込まれていく様になると
違ってくるわけだけど。
274世界@名無史さん:2005/08/31(水) 02:19:58 0
>>271
> 江村氏のハプスブルク家という新書読むと特にそう。

中丸明氏の「ハプスブルク一千年」を読むと、もっとそう感じると思うw
275世界@名無史さん:2005/08/31(水) 13:26:05 0
中丸氏は初めて読んだ時登場人物の名古屋弁に笑いを禁じえなかったww
不思議と名古屋弁が話にマッチしててテラワロスw
276世界@名無史さん:2005/08/31(水) 18:40:07 0
>>275
食い逃げするフリードリヒ、マクシミリアン親子とかねw
まあ、いわゆる「ヨタ話」的なところもあるから、まじめな人は怒り出しちゃうかもしれない。
277世界@名無史さん:2005/09/01(木) 16:03:36 0
>>276
エレオノーレ王女とフリードリヒの結婚式の顛末も笑えるw
普通の歴史モノもいいけどああいうノリの本は大好きだ。
278世界@名無史さん:2005/09/03(土) 19:48:51 0
>>273
オランダやベルギーの古い貴族っていうのは、この陪臣の子孫?が多いもしれない。
当時のブルゴーニュの時代にすでに爵位を持っていたかは知らない(諸侯が陪臣に爵位を出すのは越権だろうが)

>>271 マックスが連れてきた家臣…
  オーストリアのカウニッツ伯爵とうのも、
  ほんとうはオーストリア公国(捏造の「太」公国)の陪臣爵位であって、
  フランスの爵位より、格下なんだろうね。
  つか、ドイツの貴族爵位はほとーんど全部が「陪臣爵位」だといえるかも。
279こぴぺ:2005/09/03(土) 21:10:03 0
Regnum Arelatense (アルル王国) 1033-1200
Regnum Burgundiae (ブルゴーニュ (ブルグント) 王国) 1200-1456

 都はアルル 
大法官府はブサンソン、1157年からヴィーン、1308年からトリエル

**************
実質フランス領(1378以降は実質フランス領)
 ただし、ブルゴーニュ公国 (1477-1793, 都はブリュッセル)

280こぴぺ:2005/09/03(土) 21:10:58 0
>>273
オランダやベルギーの古い貴族っていうのは、この陪臣の子孫?が多いもしれない。
当時のブルゴーニュの時代にすでに爵位を持っていたかは知らない(諸侯が陪臣に爵位を出すのは越権だろうが)

>>271 マックスが連れてきた家臣…
  オーストリアのカウニッツ伯爵とうのも、
  ほんとうはオーストリア公国(捏造の「太」公国)の陪臣爵位であって、
  フランスの爵位より、格下なんだろうね。
  つか、ドイツの貴族爵位はほとーんど全部が「陪臣爵位」だといえるかも。
281世界@名無史さん:2005/09/04(日) 01:46:01 0
>>278
だから中世には『爵位』という概念がまだ未発達なんだって。
というわけで傍目から見ると陪臣なんだけど、王と陪臣の間には何の関係も無いんだよ。
爵位なんてものは無いけれども、ブルゴーニュ公が自身の封地から割いて、家士に封を授けるのは
もちろん合法。
282世界@名無史さん:2005/09/12(月) 14:16:02 0
つーか国によって爵位の考え方が違うとなると、外交とか大変なんじゃないか?
283世界@名無史さん:2005/09/12(月) 17:25:01 0
下請けの社長が、取引先の課長クラスに頭下げてるようなものか。
284世界@名無史さん:2005/09/17(土) 19:58:18 0
>>280
 「陪臣爵位」,
いい表現だ、使える。

>>281
 爵位とはいわず、タイトルと訳すのがよいかも。
 つか、爵位という言い方、これは意訳かも。
 英語だとタイトルだし。職名の場合も含むはず。
 
285世界@名無史さん:2005/09/17(土) 23:52:05 0
>>284
高期中世のタイトルは職制身分から出生身分に変化していったんだけど
そこんとこ理解できてるかい?

つか、封建制度は個人対個人の関係だから、陪臣なんて発生しえないんだよ。
近世以降の英仏なんかでは成立しうるかも知れないが。
ドイツでは領邦高権が成立したから、やっぱり陪臣とは言わないね。
そもそも帝国等族制度は国内のみに運用された制度だから、対外的には影響しないんだが。
個々が所属する領邦の実力によるのは言うまでも無いけど。
286世界@名無史さん:2005/09/21(水) 21:15:46 0
場違いだと思うのですが、質問してもよろしいでしょうか。
ブルゴーニュ公国も、これから勉強していきたいのですが、私は現在、
フランドルの11世紀半ば〜末について、数冊の資料を読み進めています。

フランドルの内陸部の四大都市では、月に一度、市が立って、それが都市を繁栄させたらしい、というのと、
商人が領主に権利を売ってもらい、修道院を建てて市が開かれるようになり、都市として発展していった。
…ここまではいいでしょうか?(領主と「フランドル伯」は別人ですよね? たぶん。)

しかし中世中期に入ると、北方商業(←これ、なんの商業なのでしょうか?)との関係が強まり、
その結果、都市集落が一部地域に偏りそうになったことを恐れたフランドル伯は、
内陸部の空洞化(過疎化?)を避けるため、「定住ポイント」を造りだしていった……とあるのですが、
ここら辺のことが、わかりません。

現代に置き換えてみると、
市場のある「東京」という都市に「埼玉」から買物に行くよう、市民を誘導した、
というように、受けとればいいのでしょうか? 
それまでは、市場の立つ周辺にばかり、人間は住んでいたのでしょうか?
出産によって人口は増大したのか、フランドルが豊かだと聞いて移住してきたのでしょうか?
287286:2005/09/21(水) 21:17:05 0
伯は、城というより「砦」と呼ばれる場所を居住区にしていたのか?
これらは定住ではなく、豊作地へ<彼らは移動していたのか?
私の知りたい時代は、11世紀なのですが、家系図が載っている本はあるのでしょうか。
(王族がフランドル家に嫁ぐとか、嫁いできた、とか時々見かけるのですが、
 これって『フランドル伯』の家系の人間のことなのでしょうか…?)

私の持っている本が、フランドル都市の流通の本ばかりで、
『フランドル伯』という、その時代時代の個人は、まったく出てこなくて困っています。

13世紀、フランスとイギリスにはさまれて、フランドル伯が苦悩したのは有名で、
その光景も、資料を読むと頭に浮かぶのですが、11世紀のフランドル伯やその家族の生活様式や、
召使い達の生活、フランドル伯の嫁取り事情など、個人的な部分を固めてから、
歴史に入っていけるといいなぁと思ってしまうのです…。

11世紀だと、フランドル市場の計算は、まだアラビア数字ではなく、インドからのものなんだろうなとか、
羊皮紙を使って、すでに書物はあったなとか、
修道院や城・砦の窓ガラスはステンドグラスが大半だったとか。
目に浮かぶ、この時代のことが知りたいのです。
場違いな質問、長々すみません…。
288世界@名無史さん:2005/09/21(水) 21:41:00 0
>>286-287
まず、読んでる資料の名前を挙げてみよう。
それと市の立つ場所に人が集まってきて都市が出来るのではなくて
人が集まっている場所に商人がやってきて市が立つのが基本。
その地方の領主は自領の都市を通過する際には、持っている品物を売買する事を義務付ける事が
多かった。
中世高期になって、人口が増えてくると新しい都市の建設ラッシュが始まったんだけど
都市が生む利益に目を付けた領主が主導した事もあった。
ただフランドルやブルゴーニュはカロリング時代から発展していた地域だったので
東方に比べて、大規模な都市の建設ラッシュは無かったように思う。
289世界@名無史さん:2005/09/22(木) 00:05:43 0
>>288
レスありがとうございます。現在読んでいるのは、
・中世ヨーロッパの城の生活 ジョゼフ・ギース/栗原泉 訳
・中世フランドル都市の生成 ミネルヴァ書房
・岩波講座 世界歴史(8)ヨーロッパの成長11〜15世紀
・文字の歴史  創元社
・金持ちの誕生 刀持書房

明日、『中世ヨーロッパ 食の生活史 /ブリュノ ロリウー』
   『中世への旅都市と庶民 /ロリウーハインリヒ・プレティヒャ』
   『中世ヨーロッパの生活 /ジュヌヴィエーヴ・ドークール』
…が届くのですが、内容に11世紀があるかは、読まないとわからない状態です。
とりあえず
・中世ヨーロッパの城の生活 ジョゼフ・ギース/栗原泉
は、13世紀以降についての書だと、今読んだのでわかりましたが、11世紀はまだガラス窓の城は
珍しかったと記述が中にあり、それはこの本がイングランドの城メインだからでなく? と
疑問に思っている次第です。

>ただフランドルやブルゴーニュはカロリング時代から発展していた地域だったので
…なるほど。
イングランドは、本当にたった100年で城の建造が、50から500に増えたそうで、
ちょっと驚きましたが、フランドル・ブルゴーニュはそんなことは、なかったのかなぁ…。
290世界@名無史さん:2005/09/22(木) 06:07:00 0
ステンドグラスはないんじゃないか・・・?
291世界@名無史さん:2005/09/22(木) 09:12:17 0
>>290
6世紀、フランスのサン・マルタン教会の窓に、色ガラスがはめられています。
7世紀から8世紀、モザイク芸術の影響を受け、色ガラスの欠片を組み合わせた
ステンドグラスの原型と言えるものが誕生していたよう。
9世紀頃には、現代のステンドグラスで使われているH字型の鉛を使い組み立てる技術が
使われ始めたらしい。
フランス アルザス北部のサンピエール・サンポール教会から出土したキリストの頭部の
ガラスが、破損せずに残っている最古のステンドグラスと云われている。(ノートルダム美術館に展示)

完全な窓の形で残っているのは、11世紀末のもので、
ドイツ・シュヴァーベン地方のアウグスブルク大聖堂の五預言者像。
292291:2005/09/22(木) 09:18:21 0
でも城と砦は、なんだかんだ言っても、防御の拠点なわけだし
まだまだ住居としての快適さを求めた建築からは程遠かったので
(個人主義になったりプライベートが考慮されるようになったのは14世紀末だとか)
色ガラスは、修道院や教会に対して使われたものと思われ。
293世界@名無史さん:2005/09/22(木) 17:54:23 0
「北方商業」とはバルト海沿岸地域の交易ルートのことでしょうか?
だとしたら、それは毛皮やスラヴ人奴隷をフランドル地方に運んでいたのでしょうか?
詳しい人お願いします。
294世界@名無史さん:2005/09/22(木) 18:57:19 0
スラブ人奴隷!? 
い、いたのかな、やっぱ!?
しかしフランドルはタイミングと要領悪くて
歴史から消えただけかと思ってたが
295286:2005/09/22(木) 19:12:02 0
城生活について、わりと忠実かも。朝から読みふけりました!
 
・中世の城日記 少年トビアス小姓になる 岩波書店
・絵解き 中世のヨーロッパ フランソワ・イシェ 原書房

『絵解き』のほうはフランドル伯の言葉なども、掲載してあって嬉しい!
でもやはり、家系図などはないようですね。わりと探したつもりなのですが。
奴隷のこととか、もっとどこかに出てこないかなぁ。

296世界@名無史さん:2005/09/23(金) 10:18:57 0
大航海時代以前の奴隷は、スラヴやスキタイ、ヌビアが主流だと聞いたことがある。
297世界@名無史さん:2005/09/23(金) 10:22:18 0
実際、ムスリムも北アフリカの黒人奴隷よりヨーロッパ白人や中央アジアのトルコ人を重視していた。
298世界@名無史さん:2005/09/23(金) 10:27:04 0
フランドル伯に嫁いできた王族って仏王ロベール2世の娘?
299世界@名無史さん:2005/09/23(金) 15:59:26 0
参考に、
フランドルとブルゴーニュの地図をドーゾ
ttp://www.asahi-net.or.jp/~eh6k-ymgs/book/sekaishi/bourgogne/fb-map.htm
300世界@名無史さん:2005/09/23(金) 16:12:07 0
>>298
そう、
名前:アデル
血筋:カペー家
父親:ロベール2世(敬虔王)
母親:コンスタンス・ダルル
夫:フランドル伯ボードゥアン5世
301286:2005/09/25(日) 02:00:20 0
今さらですが、
ギヨーム征服王の父親は、ブルゴーニュ公ロベールでいいんでしょうか?
アンリ1世とは腹違いの兄弟だから、合ってますよね?(た、たぶん)
今までフランス王ロベール2世と、勘違いしてしまっていましたが、
ギヨーム征服王の誕生前に、フランス王ロベール2世亡くなってました…。
(没時を見逃して、恥ずかしい間違いでした)

征服王って、20歳でノルマンディ公を継ぐまで
父親の下に(母親と)引き取られたのかな。
当時の『庶子』の扱いがわからないのですが、ご存じの方、いらっしゃいますか?

>>300
ボードゥアン5世の娘が、ギヨーム征服王と結婚でしたね。
この頃の、フランドル伯ボードゥアン5世は、
その後のアンリ2世の後見人としても、多大な利益を得ていたし、
ギヨーム征服王とは、良関係だったと見ても良さそうでしょうか?
302286:2005/09/25(日) 02:24:24 0
>>299
ありがとうございます。見やすいものを教えてくださって。

リンクを辿り、少しずつ文献などの目安がつきました。
感謝しています。
303286:2005/09/25(日) 03:42:25 0
>征服王って、20歳でノルマンディ公を継ぐまで
>父親の下に(母親と)引き取られたのかな。
>当時の『庶子』の扱いがわからないのですが、ご存じの方…

不勉強でした。資料に書いてありました。今読んでます。
304300:2005/09/25(日) 17:27:41 0
家系図などはこちらへ
http://pozyu.hp.infoseek.co.jp/wol/king_top.htm
http://nekhet.ddo.jp/
これらでヨーロッパの家系図のほとんどが埋まるとおもいます。
305286:2005/09/25(日) 23:44:01 0
>>300
わわ! 凄い家系図! ありがとうございます!
ググっても見逃していたようで…!(感涙)

フランドルを調べていたら、11世紀は[ボードワン5世]ばかり、ひっかかり、
結局、ノルマン王朝とイングランドの関連歴史(ウイリアム1世の幼少時)
ばかり、読みふけってしまいました…。
そのおかげで、ようやくこの時代の関係図が見えてきた気がします。

フランドルが、12世紀(もしかしたら11世紀から)には、
ヨーロッパには珍しいほど、風俗が乱れに乱れていたらしいのも、
14世紀15世紀のスペイン資料から見えてきて、個人的には楽しくてホッとしています。
中世の歴史や風土を調べたいなら、その時代だけとか、その国だけ見ても
駄目なんですね…。

そろそろ名なしに戻りますが、この数日、手を貸してくださった皆様、
本当にありがとうございました。ブルゴーニュ公国も、このあと勉強していきます。
306世界@名無史さん:2005/09/29(木) 18:25:57 0
歴史は縦じゃない横なんだ!
と豪語してみる俺。
307世界@名無史さん:2005/10/01(土) 16:20:29 O
そうそう、横に繋がらないと歴史は面白くない…と呟いてみる。
308世界@名無史さん:2005/10/01(土) 18:05:33 0
ただageてみたかったんだよ・・・・それだけなんだ・・・・・ごめん・・・・・
309世界@名無史さん:2005/10/01(土) 20:44:48 0
ニコポリス十字軍について詳しい本を読んだけど・・・
ハンガリー王の忠告を無視してトルコ軍に突っ込んでやられたジャン無畏公・・・馬鹿。
310世界@名無史さん:2005/10/01(土) 21:15:51 0
おそれ知らずのジャンですからw
311世界@名無史さん:2005/10/01(土) 21:32:38 0
だから無怖公なんでしょうに
312世界@名無史さん:2005/10/01(土) 21:42:21 0
躊躇ったら「慎重者のジャン」とか「ヘタレのジャン」とか「ジャン臆病公」になっちゃうじゃん
313世界@名無史さん:2005/10/01(土) 22:06:06 0
>>309
フランスの血がなせる技かも。
フランス人って歴史的に見ればヨーロッパ一の突撃バカだし。
314世界@名無史さん:2005/10/02(日) 18:50:24 0
最近伸びが悪くなったな

質問投下

ブルゴーニュ公国がフランス王国から
独立しようとして立って本当?
315世界@名無史さん:2005/10/02(日) 19:40:05 0
少なくともボンちゃんにはそんな考えはなかったんでないの?
316世界@名無史さん:2005/10/02(日) 20:30:23 0
>>314
伸びはいいような気がするが。ブルゴーニュって意外とネタあるのかね。
317314:2005/10/02(日) 20:41:43 0
>>316
支配地が広いから
多いんでねぇの?

既出だとフランドル・政体・決して平凡とはいえない君主・・・

はっ!大事なものを忘れている『ワイン』が無い!!
318314:2005/10/02(日) 20:42:46 0
伸びが悪いのでage
319世界@名無史さん:2005/10/02(日) 20:43:55 0
ブルゴーニュワインって中世からあったのかな
320世界@名無史さん:2005/10/02(日) 20:45:43 0
>>317
しかしブルゴーニュは延びても
シャンパーニュ、ノルマンディー、アルトワ、メッツ……とどこも伸びるとは限らないだろうし。
やっぱり「中世の秋」が大きいのかな、と思う。
321314:2005/10/02(日) 20:46:55 0
>>318
昔から葡萄の産地なのは確か

中世、ブルゴーニュでは修道院や王族がブドウ畑を所有していたが、
フランス革命時に国庫に没収され小作人達に分け与えられた。
その後相続等により、さらに土地が細分化され、
同一の畑に複数の所有者が存在することが多い
その為、同じ畑のブドウから造られるワインでも造り手によって
バラつきが出るので、ブルゴーニュワインは「造り手で選べ」と言われる

このページから抜粋

http://www001.upp.so-net.ne.jp/voyage-du-vin/sub9-bourg.html
322314:2005/10/02(日) 20:48:07 0
500いくかどうかだな
323世界@名無史さん:2005/10/02(日) 20:52:11 0
>ブルゴーニュ公国がフランス王国から
>独立しようとして立って本当?
フィリップ善良公が皇帝からブルゴーニュ(ブルグント)王位を貰う工作してたって話がある罠。
324世界@名無史さん:2005/10/02(日) 20:52:19 0
どうやら昔からあったようだ
手元の堀越サンの本にあるべ
325314:2005/10/02(日) 20:53:42 0
『ブルゴーニュワイン』と言えば、
マコネ・ボジョレが主な産地だが、

そもそもフランスのワインは、
川の水が汚いから飲み水の代用品としてワインを飲んだ、
だから、フランスのワインはアルコール度数が低い。

と言うのを聞いたことがある。
326世界@名無史さん:2005/10/02(日) 20:58:31 0
>>325

>そもそもフランスのワインは、
>川の水が汚いから飲み水の代用品としてワインを飲んだ、
それは本当。当時の川はマジで汚かった

>だから、フランスのワインはアルコール度数が低い。
それはどうかわからない
327世界@名無史さん:2005/10/02(日) 21:00:09 0
公国から王国になるのってメリットあるの?
328世界@名無史さん:2005/10/02(日) 21:10:15 0
プロイセンのフリードリヒ・ウィルヘルムに聞けば教えてくれると思うよ
329世界@名無史さん:2005/10/02(日) 21:24:57 0
虚栄心ってかいてる
330世界@名無史さん:2005/10/02(日) 21:29:30 0
野比が悪いのでage
331世界@名無史さん:2005/10/02(日) 21:30:09 0
野比が悪いのでage
332世界@名無史さん:2005/10/03(月) 01:52:27 0
>325
>『ブルゴーニュワイン』と言えば、
>マコネ・ボジョレが主な産地だが、

おいおい。。マコネはまぁいいとしても、ボジョレなんか
ブルゴーニュとして扱う方がおかしいくらいですよ。
一応産地呼称としてはブルゴーニュの枠内という扱いだけど。
地図見てごらん。

このスレでワインと歴史を語るのであれば、ブルゴーニュワイン
とクリュニー派やシトー派修道会との関係、
ボーヌの修道院のホスピスの話あたりでしょう。

例えば、ディジョンからボーヌへ向かう途中、ブドウ畑の真ん中に
Chateau de Clos de Vougeotという館が残ってる。
ここなどは12〜14世紀にクリュニー派が作ったもの。
周囲の畑からは特級ワインがとれる。
人生変わるほどうまいです。もちろんその分高いけど。

中世ブルゴーニュ史を語るのであれば、クリュニー、シトー両派の話ははずせないのでは。
そういやサンチアゴ・デ・コンポステラへの巡礼の出発地、ヴェズレーも
ブルゴーニュにありますね。
ブルゴーニュ公国と宗教権力との関係はどうなってたんでしょう?
333332:2005/10/03(月) 01:58:34 0
>332
間違えた。
Chateau du Clos de Vougeot はシトー派が作った館です。失礼。
334世界@名無史さん:2005/10/04(火) 01:00:21 0
シトー派がブドウ畑、手に入れた方法は
青池保子のマンガ、「修道士ファルコ」で読んだ。
335世界@名無史さん:2005/10/04(火) 07:26:00 0
>>325-326
きれい汚い以前に硬水で飲めない
ワインやビールを水代わりにするのは周りの国も同じ
336世界@名無史さん:2005/10/04(火) 16:20:53 0
水道水が飲めるってのは、ごくごく最近のことだそうですね。
ニュースになるくらい。
337世界@名無史さん:2005/10/08(土) 18:58:08 0
338世界@名無史さん:2005/10/09(日) 02:29:20 0
あげ。
でもエロ画像はやめれ。

どの時代あたりから、兵士が戦いの相手の領土で略奪を働いたら、
罰がくだされるようになったんでしょう。
ブルゴーニュ公国の『罰則』とか『名判決』とか、あるのか?
339世界@名無史さん:2005/10/09(日) 03:21:33 0
>>338
『神の平和』を調べてみよう。
また略奪による富を兵士ではなく、軍隊維持の為に徴集するようになったと
いうのも重要なポイントかな。

そもそも既出だけど、ブルゴーニュ公国は封の集合体だから
法も様々なバリエーションがあるんだよ。
フランス王国だって革命まで統一されていなかった位で。
340世界@名無史さん:2005/10/09(日) 21:08:04 0
19世紀前半までのユーロの国の主な体系は

イタリア半島諸国のような『完全分離型』
神聖ローマ帝国領・フランスの『封建体制そのまま移行型』
イギリス・スペイン・ロシアの『完全統一型』

《封の集合体としての国》が《所属意識を持った国民がいる国》になるのは
19世紀以後
341世界@名無史さん:2005/10/09(日) 21:14:07 0
いつも疑問に思うんだけど
何でブルゴーニュ公国って百年戦争で
イギリス側についたの?
名目上の主君はフランス王じゃなかったの?
342勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :2005/10/09(日) 21:53:29 0
>>341
イングランド側からも封を得ていましたし、イングランドは
フランドル地方の有力な産業である毛織物産業の材料輸入国でもあったからです。
またフランス王家が四分五裂しており、当時はまだ国家という概念が未発達であったので
容易に利益で動いたと考えられています。
血統上の論理では、イングランド側にもそれなりの分があるわけで。
343世界@名無史さん:2005/10/13(木) 19:56:36 0
>>342
イングランドから封を受けていたって初耳なんですが、詳しく説明してください。
344世界@名無史さん:2005/10/14(金) 00:46:04 0
>>343
封ってのは別に土地に限った話じゃない。
年金や特許状も一種の封。ブルゴーニュ公(フランドル伯)はイングランドから
金銭的な封を受けていたんじゃなかったかな?
345世界@名無史さん:2005/10/19(水) 12:00:10 O
質問です。
イングランド王が突進公からルイ11世に鞍替えした件は、
突進公の暗黙の了解のうちだったんですか?カルメット
氏の本では怒り狂ってエドワードに直談判、堀越氏の本
では了解のうちにとなっており、矛盾した二つの事実の
うちどちらが本当なのか気になっています。
346世界@名無史さん:2005/10/29(土) 03:29:11 O
スレ沈没回避age
347世界@名無史さん:2005/11/07(月) 14:47:55 0
wikiのブルゴーニュ関連記事にルーベンス作のシャルル突進公肖像
画があるが、マルテの手記に書いてあった「じっさいこぶしをかためて〜」
「いかにも聞かん気で、すてばちで」と評されていたのはこのルーベ
ンスの絵か?いかにも偉そうな態度でそれっぽいと思ったんだが。
348世界@名無史さん:2005/11/20(日) 00:58:29 O
ボジョレーの季節あげ
349世界@名無史さん:2005/11/20(日) 11:51:58 0
>348
このスレで取り上げるなら、ボーヌの栄光の3日間の方がふさわしいかと。
今日までだったっけ?今年は。ボジョレ何ぞとは比べ物にならないおいしいワインが飲めます。

1440年ブルゴーニュ公の宰相ニコラ・ロラン夫妻が、貧富の差なく病人を治療する目的で
ボーヌにホスピスを創設。以来治療施設として非常に高く評価され、
カトリーヌ・メディシス、ルイ14世らが訪れたという記録も残っている。
1950年代までホスピスとして機能し続けた。

ブルゴーニュという土地柄、寄贈された周辺の土地には、ぶどう畑も多く、
ここから醸造されたワインは非常に高く評価されていた。
現在では約57ヘクタールのGrands Crus、Premier Crus の畑を所有しており、
年に一度11月の第3週にその年のワインをせりにかけるというチャリティーイベントがある。
今年で145回目を迎えるこのイベントは世界最大のワインのチャリティーオークションとして
世界中から業者、愛好家が集まる。

http://www.beaune.com/
http://beaune.tctourisme.com/
350世界@名無史さん:2005/11/20(日) 23:25:14 0
堀越孝一さん、今なにしてるの?
あの読みにくい文章は相変わらずかな。
351世界@名無史さん:2005/12/13(火) 00:20:15 O
堀越さんのあのわかりづらい文章は、いったい何に
よって培われたものなんだろう…
352世界@名無史さん:2005/12/18(日) 23:48:06 0
ブルゴーニュ公家のコンデュイ権は具体的にどのようなものなの?
353世界@名無史さん:2005/12/18(日) 23:55:05 0
その前に「コンデュイ権」って何よ
ぐぐっても出てこないぞ
354世界@名無史さん:2005/12/19(月) 10:53:47 0
AGE
355世界@名無史さん:2005/12/21(水) 11:11:44 0
堀越さん、1月に横浜で講義をするらしいよ。

でコンデュイ権ってなに?綴りだけでも教えてくれ。
356世界@名無史さん:2005/12/29(木) 22:43:07 0
初代 :度胸良しのフィリップ
2代目:怖いもの知らずのジャン
3代目:ええ格好しいのフィリップ
4代目:向こう見ずのシャルル

ちなみに、昔読んだ歴史の本には、「シャルル無謀公」と書いてあって
すごくワロタ。
357世界@名無史さん:2006/01/01(日) 09:10:27 0
AGE
358世界@名無史さん:2006/01/01(日) 15:07:33 O
>>356
無謀公と言われるともう王侯貴族の気品もなにもあったもん
じゃないなw
字面だけで頭悪そうに見えるw勇胆公と呼ばれる人ととても同
一人物と思えない。

もし邦訳される上でテメレール=無謀公がデフォになってい
たらと考えると…少なくともカエサルとかリチャード獅子心
王みたいにおおっぴらにはファンはつかないだろう…元々い
るかどうか怪しいがw
359世界@名無史さん:2006/01/04(水) 01:47:25 0
>>356,358
国を滅ぼしちゃったからねえ。いや、滅んでないか。
なんて言えばいいんだろう。まだマリーがいるから公家が滅んだわけでもないし…。
360世界@名無史さん:2006/01/06(金) 23:57:18 O
でも突進公が父親の遺産を結果としてめちゃ
くちゃにしてしまったわけだしなあ。
361世界@名無史さん:2006/01/09(月) 17:39:22 0
>>360
男子後継者がいたらなんの問題もなかっただろ。
マクシミリアンがルイ11世を退けているのをみればわかる。
362世界@名無史さん:2006/01/16(月) 10:16:32 0
>>361
ほんとに、どうして男の子をもうけておかなかったのか。
戦にかまけるのもいいがその前に後継者対策しとけよ!

ブルゴーニュ公国内に王太子が亡命してきたとき、公国
の人間は本当に誰も危険性に気づかなかったんだろうか。
「おかわいそうな王太子殿下」というふうに同情しちゃっ
て目が曇っていたとか?
363Ryuju ◆RlujhF6VrA :2006/01/16(月) 15:47:23 0
男が生まれるか生まれないかは、特に当時はそれこそ運だから仕方ないと思う。
生まれても幼少で死んだかも知れないし。
おおむね生まれた子供の二人に一人は死んでるから。
364世界@名無史さん:2006/01/28(土) 17:50:26 O
そういえば善良公もなかなか嫡子に恵まれなかったね。
365世界@名無史さん:2006/01/28(土) 21:31:28 0
庶子ならたくさん男子が生まれていたのになあ。
徳川将軍家は家光と慶喜以外は側室の子供ということを考えれば、
キリスト教を禁止してよかったな。
366世界@名無史さん:2006/01/29(日) 16:09:11 O
でも鎖国政策はどうかなあ。あれって外国勢力を退けた点は
すごいと思うけど、日本はそのせいで発展が遅れてたわけだ
し。ところで、善良公と突進公って意外とイケメンじゃない
か?
367世界@名無史さん:2006/02/01(水) 21:08:03 0
>364
ルイ11世もなかなか跡継ぎがな…

してみるとシャルル7世はすごい
368世界@名無史さん:2006/02/03(金) 17:57:00 0
まあフランス王家はともかく、周辺の分家とかは女子でも継承
可能だったんだよね?
369世界@名無史さん:2006/02/10(金) 18:49:01 0
>362
ブルゴーニュ貴族たちには警戒する者も多かった
ただそれは王太子個人への警戒というわけではなく
フランス王に公然敵対することになるという事と
王太子がフランス側のスパイとしての役割を持っているのではないかという疑いによる

善良公はフランス王への対抗心もあり、
懐に入る窮鳥を救う騎士道的な役割に酔っていた
王太子のほうは公のその性格を見抜いていた

王太子の滞在中に公もその抜け目のなさや性格に気付いたがもう遅い
滞在後半には双方関係が冷えきっていたらしい
370世界@名無史さん:2006/02/19(日) 12:45:33 0
祝一周年!
371世界@名無史さん:2006/03/06(月) 05:58:41 O
age
372世界@名無史さん:2006/03/25(土) 20:43:59 0
ペストの影響はどの程度だったの?
373世界@名無史さん:2006/03/30(木) 18:40:24 0
age
374世界@名無史さん:2006/04/13(木) 13:27:22 0
>>367
ルイ11世の子供たちは女ばっかりだったし半分くらい死んでる
しな。嫡子のシャルル8世も跡継ぎを残さず死んでるし。シャル
ル7世はその点ラッキーマンだったんだな。

>>369
居候させていて王太子の性格をだいたいわかっていたのなら、
王太子が公国に居候してる間にフィリップ善良公は「こいつが
国王に即位したらマズいことになる」とは考えなかったんだろ
うか?居候させてやってたんだから、とその辺りを甘く考えて
いたのかな。
375世界@名無史さん:2006/04/15(土) 07:09:00 0
>>374
当然計算したと思うね>庇護の恩義
普通礼節ってもうちょっと感じるもんだろうけど
相手が悪かった、と。

そういえばシャルル7世の死ぬ前あたりに、亡命中の王太子が世話になった代金を渡すとかいう約束をしたとか云々あったな

でもルイ11世には本国に弟いただろ
すごく若くて兄よりはパパに従順な。
亡命前後には廃太子にされるんじゃないかと噂も流れてたことだし
パパもなかなか死にそうにないし本人借金まみれだし
なんていうかある意味飼い殺し状態な雰囲気だったのかも

でも、どんなに自分のほうが公国の主として権力絶大で彼を庇護してても結局自分より目上の立場の人間なんだよな
結構、王太子に嫉妬してたらしいと読んだ事がある>善良公

*偉そうに喋ってるけどたまたま本で読んだだけなんで(普段世界史板の住人でもないし)、いろいろ間違ってたら許してちょね
376世界@名無史さん:2006/04/17(月) 12:56:20 0
>>375
>王太子に嫉妬してたらしい
そういえば王太子ルイが国王として即位したときに、善良公が派手派手しく
着飾って即位式典にやってきたものだからルイよりも善良公の方がはるかに
王様らしく見えた、という話があるね。
この話だけ読むと善良公ってかなり「ええかっこしい」に見える。
オレの方が金持ちだし権力あるんだぞー、ってわざと見せ付けてる感じがひ
しひしとする。

結局ルイは公家に世話になった分のお金は返したのか。返してないだろうなぁ。
それにしてもよくあれだけ父親を蹴落とそうと企みまくっておいて廃嫡されな
かったもんだ。シャルル7世がさっさとルイを勘当してたらブルゴーニュ公家が
もしかしたら寿命を長らえてたかもね。
377世界@名無史さん:2006/04/21(金) 14:59:42 0
もしもこの時代に2ちゃんねるがあったら…

今日のブルゴーニュ公国〜五日目〜
230:ブルゴーニュの名無しさん:1456/06/27(水)14:17:05 0
シャ口レ伯妃がおめでただってさ

231:ブルゴーニュの名無しさん:1456/06/27(水)14:23:47 0
>>230は釣り

232:ブルゴーニュの名無しさん:1456/06/27(水)14:24:30 0
Ω ΩΩ<な、なんだってー!!

233:ブルゴーニュの名無しさん:1456/06/27(水)14:24:45 0
>>230
嘘つくなよ。シャ口レ伯はHGだから子供は出来ん!

(中略)

753:ブルゴーニュの名無しさん:1456/06/27(水)15:09:24 0
ちょwwwwwwwwwガセじゃないって分かった途端流れ早杉www

754:ブルゴーニュの名無しさん:1456/06/27(水)15:09:27 0
この速さなら言える




ぬるぽ
378世界@名無史さん:2006/04/21(金) 15:01:27 0
【腹黒】ルイ王ってどうよ?其の参【ロリコソ】
950:百合と名無しさん:1470/03/12(月)17:08:04 0
>>942
お前の目は硝子玉か?あんな人間の屑の何処がいい王様なんだ。
あいつは親戚に居候しておきながらその恩を仇で返してくる人
でなし!最低!屑!!

951:百合と名無しさん:1470/03/12(月)17:12:25 0
>>950はブルゴーニュ公か?wとりあえず牛乳飲めつ旦
あと新スレよろしく(・∀・)ニヤニヤ

952:百合と名無しさん:1470/03/12(月)17:17:14 0
げっ、しまった!うっかり950踏んでた…orz
379世界@名無史さん:2006/04/21(金) 16:01:30 0
>>377-378
噴いたw
380世界@名無史さん:2006/04/24(月) 16:39:46 0
【まだ】ブルゴーニュ公スイス出兵142【やるの?】
573:ブルゴーニュの名無しさん:1476/06/21(水)10:05:23 0
さすがにグランソンとムルテンで懲りただろ、あのウマヅラも。
これを教訓にスイスからさっさと撤退してくれよー。
もうヲチし続けるのもだるくなってきたしw

603:一兵卒◆MoudAmePO:1476/06/23(金)02:54:19 0
我らが主君たるウマヅラの人が「サヴォア公夫人と公子をさらっ
てこい」とメチャクチャな命令をしてきますた。
服従無きは死を賜らんばかりの勢いです断れません誰かボスケテ

606:ブルゴーニュの名無しさん:1476/06/23(金)02:58:02 0
やめろ一兵卒氏!それをやったら今度こそ取り返しがつかなくな
るぞ。やったら最後ブルゴーニュは国際的な信用がガタ落ちだ!!
とりあえずウマヅラにやんわりと諭すくらいはできんのか?

609:ブルゴーニュの名無しさん:1476/06/23(金)03:00:07 0
ちょwwwwwwwwwウマヅラヤバスwwwwwwwwwww




これって釣りだよな?な?

610:ブルゴーニュの名無しさん:1476/06/23(金)03:00:30 0
>服従無きは死を賜らんばかりの勢いです
下手に諌めたら一兵卒さんの首がdでもおかしくないな…しかし
これをやったらマズいって。なんとか巧く切り抜けられないのか?
てか一兵卒さん、これはネタだと言ってくれ!!!

381世界@名無史さん:2006/04/24(月) 17:00:26 0
ブルゴーニュ板でありそうなスレ

57:クロワ家正直うざいと思ってる人の数→(18)
1:ブルゴーニュの名無しさん:1457/09/15(土)04:12:38 0
クロワの奴ら超うぜー。おまいらもそう思うだろ?

2:ブルゴーニュの名無しさん:1457/09/15(土)04:15:21 0
シャロレ伯乙

59:【ネタ?】シャルル公がナンシーで死んだって…14【マジ?】(382)
60:マリー・ド・ブルゴーニュに萌えるスレその3(814)

68:【合言葉は】ライクでオフ会しようぜ5【ペロソヌ】(420)
356:ブルゴーニュの名無しさん:1468/10/30(月)16:43:58 0
この速さなら言える



実は合言葉をペロソヌにしたのは俺
ほんの出来心だったお、許してほしいお(;^ω^)

360:ブルゴーニュの名無しさん:1468/10/30(月)16:46:41 0
>>356
お前かぁぁぁぁあああああああ!!111!!1!!!!!!!
お前が「陛下がペロンヌに行ったときに決行」なんて言わなかっ
たらこんな風にはなぁあああああ!!!!!!!!!!111

そろそろスレ違いになりそうなので消えます。スレ汚し申し訳ない。
↓以下普通にブルゴーニュの話題をどうぞ
382世界@名無史さん:2006/04/25(火) 08:34:37 0
ブルゴーニュ公国の栄光と没落を偲んで
遠い将来ヨーロッパに観光旅行したいんですが
このスレ的にはどういうコースがお薦めですか?
期間は一週間から十日くらいで。
ここは外せないという観光ポイントがあれば教えてください。
383世界@名無史さん:2006/04/25(火) 11:45:45 0
ブリュージュのノートルダム教会には突進公とマリーの棺があるらしいね。
フィリップ豪勇公とかジャン無畏公の棺はディジョンだったっけ?
あれ、善良公の墓はどこだっけ…ブルゴーニュ公国は広すぎてどこから見
ればいいのかわからないなあ。国境地帯の国だし。

あとルーベンス筆のシャルル突進公肖像画がウィーンの国立美術館にある
らしいよ。Wikiで画像を見たけどかなりムッチリしておられる。
参考になるかどうかわかりませんが、Wikiで拾ってきたブルゴーニュ公関
連の画像をどうぞ。既にご覧になっているのでしたら申し訳ない。

フィリップ豪勇公(ル・アルディ) なんとも言えないファニーフェイス。
ttp://fr.wikipedia.org/wiki/Image:Philip_II_duke_of_burgundy.jpg

ジャン無畏公(サン・プール) 凸面鏡の前にでも立っていたのですか?
ttp://fr.wikipedia.org/wiki/Image:John_duke_of_burgundy.jpg
384続きです:2006/04/25(火) 12:01:31 0
フィリップ善良公(ル・ボン) 父親よりはだいぶマシな顔してます
ttp://fr.wikipedia.org/wiki/Image:Philip_the_good.jpg
ディジョンにあるという善良公の石像↓
ttp://fr.wikipedia.org/wiki/Image:Statue_de_Philippe_le_Bon_Dijon.JPG

シャルル突進公(ル・テメレール) ヅラかぶってるとしか思えねえw
ttp://fr.wikipedia.org/wiki/Image:Charles_le_temeraire.jpg
その2 じゃりン子チエのテツに似てるような気がする。
ttp://nl.wikipedia.org/wiki/Afbeelding:CharlesTheBold.jpg
その3 ルーベンスのやつです。妊娠6ヶ月ですか?
ttp://de.wikipedia.org/wiki/Bild:Charles_the_Bold_dsc01646.jpg
その4 (゜д゜)ウマー ファン・デル・ウェイデン作の一番有名なやつです
ttp://de.wikipedia.org/wiki/Bild:Karl_der_K%C3%BChne.jpg

ブルゴーニュ公女マリー あ、あれ…?思ったより美人じゃn(ry
ttp://de.wikipedia.org/wiki/Bild:Maria-von-burgund-1457-1482_1.jpg
その2 かわいいけど禿げ上がりすぎだろw当時の流行はよくわからん…
ttp://nl.wikipedia.org/wiki/Afbeelding:Maryburgundy.jpg
その3 マリーの棺。多分奥にあるのは突進公の棺だろう。
ttp://nl.wikipedia.org/wiki/Afbeelding:Grafmarg.JPG

おまけ:ルイ11世 あ…安西先生…バスケが…したいです……
ttp://nl.wikipedia.org/wiki/Afbeelding:Onzelowie.JPG
おまけ2:マクシミリアン1世 パステル調でなんか可愛い。
ttp://nl.wikipedia.org/wiki/Afbeelding:Maximiliaan.png
385世界@名無史さん :2006/05/02(火) 00:42:49 0
ブルゴーニュ公国についての日本語一般書は、
かの悪名高き、「ブルゴーニュ家―中世の秋の歴史」(堀越孝一著 講談社現代新書)
しかないんでしょうか??

百年戦争でキャスティングボールを握っていたり、
ジャンヌ・ダルクを捕まえたのがブルゴーニュ派だったり、
なかなか活躍してると思いますが。

「ドイツとフランスの間にもう一つの王国をつくる可能性」
というのも、ロマンがありますね。

386世界@名無史さん:2006/05/02(火) 03:12:07 0
あの本は講演とか授業の速記だと思えば読める。
387世界@名無史さん:2006/05/02(火) 04:26:55 0
キャスティングボールではなくキャスティングボードではないか
388世界@名無史さん:2006/05/02(火) 04:44:50 0
>383
遅くなりましたがありがとうございます。
やはり各国にまたがるから移動が大変ですねえ…。
この旅行は将来の夢なので、じっくり案を練りたいと思います。
ありがとうございました。

ついでにフランス国内のブルゴーニュ関係で記述されている地域も訪ねてみたいのですが…その頃にはデモ落ち着いているといいなorz
389世界@名無史さん:2006/05/02(火) 09:06:10 0
>>385
ブルゴーニュ公国の大公たち があるだろ
390世界@名無史さん:2006/05/02(火) 10:41:28 0
>>387
casting vote
391世界@名無史さん:2006/05/02(火) 19:57:54 0
ジャンヌ・ダルクのドン・レミ村を襲撃したのって、
ブルゴーニュ派の軍隊??
映画だとイングランド軍っぽく描かれていたが。
392世界@名無史さん:2006/05/05(金) 16:11:35 O
今31のアイスで「バーガンディチェリー」っていうのが出てるみたいだね。
ブルゴーニュとさくらんぼって何か関係あったっけ?
393世界@名無史さん:2006/05/08(月) 09:42:53 0
>>385
ブルゴーニュ家は読み返して3回目くらいで面白くなるよ。
あと「ブルゴーニュ公国の大公たち」は密林に在庫あるよ
394世界@名無史さん:2006/05/12(金) 07:49:24 0
系図みると、ブルゴーニュの2代目無怖公ジャンの妃は、
バイエルン公家のマルグリッド。
要するに、フランス国王シャルル6世の王妃イザボーの妹。
イザボーといえば、「淫乱王妃」として史上名高い。
一方、イザボーの実妹であるマルグリッド・ブルゴーニュ公夫人は
「貞淑と評判」だとのこと。姉妹で性格が正反対なのか??

ちなみに、無怖公ジャンが暗殺したルイ・ドルレアンは王妃イザボーの愛人。
無怖公ジャンはルイ暗殺の理由として、ルイが、ジャン夫人マルグリッドの
「名誉を汚した」ことを挙げていた。ルイは、イザボー、マルグリッドの姉妹を
ものにしたってことになるのか?


395世界@名無史さん:2006/05/12(金) 09:10:26 0
ネーデルランドの結婚相続による継承入手経路が非常にわかりにくい。
まとめると、

フランドル・ブラバンド→フィリップ剛胆公と、
フランドル伯家のマルグリットの結婚によって。

エノー・ホラント→フィリップ善良公の従兄弟ジャンと、
バイエルン公家のジャックリーヌ・ド・バヴィエールの結婚によって。

ルクセンブルグ→フィリップ善良公の叔父アントワーヌと、
ルクセンブルグ家のエリザベート・フォン・ゲーリッツの結婚によって。

フランドル伯家のマルグリットはともかく、
バイエルン公家のジャックリーヌ・ド・バヴィエールと、
ルクセンブルグ家のエリザベート・フォン・ゲーリッツの二人は、
プルゴーニュ家の男性と結婚した後、別の男と結婚している。
それなのに、ブルゴーニュ家に相続権が残るのか??

フランドル・ブラバンド以外のネーデルランド継承はすんなりいかず、
イギリス・ドイツとの間で継承戦争が勃発したのはそういう背景か。

396世界@名無史さん:2006/05/12(金) 09:22:35 0
年代的には、
まず、エノー、ホラントをめぐってイギリス・ブルゴーニュが対決し、
(フランスではイギリス・ブルゴーニュ同盟の真っ最中!!なのに)

その後、ルクセンブルグをめぐって、ドイツと対決。
この間の経緯は非常にわかりにくく、しかも英仏百年戦争と並行している。

ちなみに、ネーデルランド継承戦争っていうのは、
イギリス・ブルゴーニュの抗争を指すのかな??
397世界@名無史さん:2006/05/12(金) 15:09:09 0
>>395
調べて見たけどムチャクチャ複雑だな。
特にエノー・ホラント・ゼーラントの方。

大まかなとこだけ言うと、
善良公はジャクリーヌの夫ジャンを後見して、
彼女及びその第二の夫グロスター公ハンフリーと戦うわけだが、
ここで善良公は、
1.ジャクリーヌの伯位継承権を認めつつも、
2.正当な夫ジャンの伯としての地位(←ジャクリーヌとの婚姻による)を擁護し、
3.他方、ジャクリーヌとハンフリーの婚姻の無効を主張し、
4.並びに、ジャクリーヌの非行(←ジャンを捨てハンフリーに走った)を糾弾する、
という論法を使っている。
そんでタイミング悪く(良く?)ジャンが死ぬと、
「ジャクリーヌの非行」というポイントをことさら言い募って、
各伯領の等族に自らへの忠誠を誓わせ、更に軍事的に彼女を追い込んで、
1427年のデルフトの和約で自らを彼女の後継者に指名させる。
398世界@名無史さん:2006/05/12(金) 15:16:13 0
>>395
ルクセンブルクの方はもうちょっと簡単だな。

結論から言うと、善良公は、
借金まみれだったエリザベートへの資金援助と引き替えに、
相続者として指名して貰っている。

>プルゴーニュ家の男性と結婚した後、別の男と結婚している。
>それなのに、ブルゴーニュ家に相続権が残るのか??
だからどちらの場合も相続権は女性の元に残っており、
ブルゴーニュ家の男性との結婚は、
それ自体ではブルゴーニュ家に相続権を移す効果はなかった。

ていうかやっぱ、どちらの女性もどの男性とも子を成さなかったのが大きいよね。
399世界@名無史さん:2006/05/12(金) 15:30:56 0
>>398
>フランスではイギリス・ブルゴーニュ同盟の真っ最中!!なのに
ここは重要なポイントで、
ジャクリーヌ・ド・バヴィエールが善良公に敗れたのも、
イングランド側のフランス摂政ベドフォード公(=ハンフリーの兄&善良公の盟友)が
本国に圧力を加えてハンフリーの軍を撤兵させた、という事情にもよるらしい。
(逆に言うと、ハンフリーの大陸介入は英本国の反ベドフォード勢力によるものと考えられる)

もっとも、ハンフリー本人もジャクリーヌの猛女ぶりに嫌気がさし、
早々に帰英してしまった、という話もあるらしいですが。
(おまけに彼女の侍女とデキてしまい、連れ帰って後に妻とした。)
400世界@名無史さん:2006/05/12(金) 15:56:28 0
>>397>>398>>399
早いレス、サンクス。
やっぱり、結婚相続だけじゃダメで、
カネと軍事と政略がものをいったわけですか。
あと、ネーデルランド諸国にたまたま、ちゃんとした男子継承者
がいなかったことも大きいのかな。これは、単なるラッキーだけど、
ちなみに、突進公シャルルの後、ブルゴーニュ公国自体が男子後継者不在で、
フランスとハプスブルクに分割されてしまうのは歴史の皮肉か。
401世界@名無史さん:2006/05/12(金) 16:02:57 0
>>399
イギリス・ブルゴーニュ同盟は、対フランスだけじゃなく、
プルゴーニュ家のネーデルランド獲得にむしろ、貢献したってこと?

英仏戦争から最大の利益を引き出した店では、3代目フィリップも
単なる「おひとよし」とはいえないような。

ちなみに、「ブルゴーニュ公国の大公たち」に突進公シャルルの
ダメっぷりがよく描かれている。スイス・ロレーヌ相手に2度の惨敗の後、
さらに攻勢に出て、とうとう戦死。
この人、44歳で男子無しだったわけだけど、後継者のこと、
どう考えていたのかしらん。
402世界@名無史さん:2006/05/12(金) 22:05:36 0
>>401
まだまだ死ぬ気はなかったから作る気まんまんだろ。
403世界@名無史さん:2006/05/13(土) 06:02:37 0
>401
ル・ボンには中世には戦上手とかなんとかいう意味があったとかなんとか読んだ気がす(うろ覚えだから間違っているかもしれない)
なんにしても「おひとよし」って日本訳は誤解を生むと思うんだけどなー…もっといい表現ってないのかな
404世界@名無史さん:2006/05/14(日) 23:37:21 0
「ブルゴーニュ公国の大公たち」から、ネーデルランド絡みの記述拾ってます。
ブルゴーニュ家が、異様に利害・相続・領有関係が錯綜したネーデルランドの
一円的領土化に成功した要因は、

1:ネーデルランド諸侯に、たまたま男子継承者がいなく、女子継承者
との結婚による獲得が可能だった。

2:対照的に、ブルゴーニュ家は正嫡男子に恵まれていた。

3:ライバルになりそうな、ルクセンブルク神聖ローマ皇帝家が、ちょうど没落した。
すかさず、ブルゴーニュ家は、後継皇帝家ハプスブルクと結ぶ。

4:ネーデルランドの強力な利害関係者イギリスが、英仏戦争・内乱で、
身動きとれなかった。

こんな感じ??
405世界@名無史さん:2006/05/15(月) 17:09:12 0
>>399
>(おまけに彼女の侍女とデキてしまい、連れ帰って後に妻とした。)
まさか正妻として? もう少し詳しい話を聞かせていただきたい。
>>401
ダメダメだよな、ル・テメレール。
「ブルゴーニュ公国の大公たち」では英語でイングランドのエドワード王と
大喧嘩した、とか『余ひとりでも戦ってみせる』なんて中国の豪傑みたいな
発言してるけど、状況が状況だけに…どうみてもマヌケそのもの。

アレクサンダー大王に憧れて、本人も勉強家。4ヶ国語話せるし、政治の手
腕も中々のものなのに…戦争となると、モンテリーの戦いとペロンヌ会談以
外見せ場がないんじゃない?なんかカッコ悪いよ、ル・テメレール。


「新書ヨーロッパ史・中世編」の堀越さんの項を読んで気になったんだけど、
ブルゴーニュ→ブルグーン
アルマニャック→アレマナック
ヴァロア→ヴァレ
…その他もろもろ。なんだか普段目にする表記と違うせいか、読んでて気持ち
悪かった。中世って本当にこんな読み方だったのかなー。
406世界@名無史さん:2006/05/15(月) 18:40:00 0
スレ違いになるかもしれないけど、コミーヌの回想録を収録している本を
読んだ。ルイ11世の人物像が朧気ながら見えたような気がする。
そこで、よく比較対象になるルイ11世とシャルル突進公の特徴を挙げて
いってみようと思う。


ルイ11世
◎疑り深いようだ(前妻はルイの過剰な嫉妬心に疲れていたみたいだし)
◎どうやら毒舌家?貴族がルイの毒舌に対する謝罪を請求したこともあるとか
◎女好きらしい(実子もたくさん、庶子も数人)
◎世界の蜘蛛と呼ばれるほどの切れ者だ。(ペロンヌは置いといて)

シャルル突進公
◎自分の感情の赴くままに動く激情家、かつ疑り深いらしい
 ここ一番というときに冷静になれない(ペロンヌでの一幕、フラン
 ス味方したイングランド王への難詰)
◎壮麗な儀礼が好きらしい?(父親・フィリップ善良公の影響か儀式
 ばったことを好んだ。食事の時のマナーなどきっちりと守ったとか)
◎女の噂はあまり聞かない(前のレスでホ○疑惑もあったな)
◎ここ一番というときに冷静になれないので重要な局面での判断を誤
 りまくり、破滅した(フィリップ善良公ならもうちょっと上手くや
 るんじゃないかなぁ)

…ルイについての資料が少ないので比較になってないな。回想録の一
部を読んだだけだもんな…もっと詳しい資料ないかな。

それにしてもルイがペロンヌに先立って、シャルルのことを舐めてか
かったのもわかるような気がする。リエージュの反乱があのタイミン
グで起こらなかったら会談は上手く纏まったんじゃないだろうか?
407世界@名無史さん:2006/05/15(月) 18:41:32 0
>>403
ポワティエの戦いのフランス王ジャン2世もル・ボンだっけ。
ジャン2世は騎士道精神を愛し、豪快に戦った人物。
やっぱ、「おひとよし」は変か。
もっとも、ジャン2世も、捕虜の身代わりの王子が英国から逃げ帰って
来ちゃったんで、自分がわざわざ英国に捕虜になりにいったりした。
そういう意味では、「おひとよし」「善き人」でも、
的はずれじゃないかな。

ちなみに、百年戦争で成果を挙げるフランス王は、
シャルル5世・シャルル7世・ルイ11世といった、陰険な謀略家タイプばかり。
英国サイドが戦場で有能な王なのとは好対照だ。
408世界@名無史さん:2006/05/15(月) 18:44:43 0
>>406
ペロンヌ事件については、堀越本と、「大公たち」で、
微妙にニュアンスが違って描かれている。
堀越先生はシャルルの肩をもっているような。
409世界@名無史さん:2006/05/15(月) 18:49:00 0
シャルルの末期については、これまでフランス王家・イギリス王家・
神聖ローマ皇帝家と互角に戦ってきたブルゴーニュ家が、
スイスの民兵風情に負けた、というので相当頭に血が上っちゃったんじゃ
ないかな。

それまでは、信じられないくらい成功・幸運が続いていたわけだし。
410世界@名無史さん:2006/05/15(月) 18:51:35 0
>>407
百年戦争はフランス王家が絶対王政を敷くことになる上での最初のステップ
だったから、陰険タイプの王様がたくさん輩出されたというのは足固めをす
るにあたって必然的だったのかも。騎士道マンセーの筋肉バカでは国内のゴ
タゴタをうまく纏められないだろうし。
イングランドはアーサー王やケルト英雄伝説が色濃く残る国だから、勇猛な
王が好まれた…とかそういうことは……ないか。同時代で王様の体質が異な
るのは時代とお国柄のせいかも、と思ったんだが。

中世の価値観に基づいたル・ボンの巧い訳し方はあるのかな。
>>403氏が言ってたように「戦上手」のほうが「おひとよし」「善良公」より
は適切な気がするけど。
411世界@名無史さん:2006/05/15(月) 19:00:04 0
>>409>>410
個人的には堀越さんの書き方に賛成したいんだけどなあ。シャルルだって
そこまで乱暴者だったわけじゃないだろうに。「大公たち」を見てるとど
うもシャルルに対する風当たりがキツイように思う。

あと『スイスの農民風情に負けるなんてっ…』とシャルルの頭が沸騰した
のも致し方ないとは思うけど、スイスの危険性については百年前にもハプ
スブルク家が彼らにコテンパンにされているんだから少しは危機感を持っ
てもよかったんじゃないの?

グランソンでボロ負けして、ムルテンで更に泥をかぶって、挙句の果てに
ナンシーで玉砕なんて…ここまで猪突盲進だといっその事清々しいがw
412世界@名無史さん:2006/05/15(月) 19:07:51 0
スマン、言ってることが矛盾した。
個人的意見としては、シャルル晩年のスイス三連戦についてはあまりに救い
のないダメっぷりなので、どんな歴史家がシャルルの肩をいかに持とうと思
っても無理だろうなあ…と思ったんだ。

リチャード・ヴォーンの書いた本ではシャルルはどんな描かれ方をされてい
るのかな。ブルゴーニュ研究の第一人者と書いてあったし、シャルルについ
てもっとマシで新鮮な記述があるかもしれないな。
413世界@名無史さん:2006/05/15(月) 19:43:52 0
>>406
ルイは贅沢はしないわりにワイン通、シャルルは禁欲的でワインは嗜まず食事中はもっぱら水…ほんと随分違うよな。
でも共通点もある。
ルイもシャルルも狩りが大好きだった。
ルイの亡命中は結構狩りに招いたり招かれたりしている。

ルイの軽口と毒舌は有名で、即位後も当時シャロレ伯のシャルルの激怒の身ぶりの物まねを自らやって楽しんでいたらしい。
亡命中によく見てたんだろうなw
414世界@名無史さん:2006/05/15(月) 19:55:50 0
ネーデルランド継承戦争の経緯をまとめてみた。
要は、バイエルン家の女相続人ジャックリーヌが、
英国のグロスター公と組んで、ブルゴーニュに対抗した戦争。

問題勃発前のネーデルランド関連の主要勢力は、
・ブルゴーニュ家・・・フランドル・ブラバンド領有
・ルクセンブルク家・・・ルクセンブルク領有
・バイエルン家・・・エノー・ホーラント・ゼーラント領有
・イギリス・・・利害関係者。ネーデルランドに関心あり。

415世界@名無史さん:2006/05/15(月) 19:56:27 0
〜ネーデルランド継承戦争第一幕〜

1385 ブルゴーニュ・バイエルン家の二重結婚
     ルクセンブルク家に対抗。

1406 無怖公の弟アントワーヌ、ルクセンブルク家のエリザベートと結婚

1411 ルクセンブルク家の男子継承者死。エリザベート、ルクセンブルクの
     女相続人に。結果、ルクセンブルクもブルゴーニュ傘下に。
416世界@名無史さん:2006/05/15(月) 19:57:27 0
〜ネーデルランド継承戦争第二幕〜

1415 アザンクールの戦いでアントワーヌ死。
     結果起こったルクセンブルク家とのゴタゴタに対抗し、
     アントワーヌの子ジャン4世と、バイエルン家のジャックリーヌ結婚。
     ブルゴーニュ家・バイエルン家同盟でネーデルランド確保。
     (未亡人エリザベートの立場はどうなっていたのか??)

1417 バイエルン家の総領ギヨーム死。ギヨームの娘ジャックリーヌに、
     バイエルン家領転がり込む。 
     これを面白く思わないギヨームの弟の「移り気な男」リエージュ司教ジャン
     が還俗、未亡人エリザベートと結婚し、ブルゴーニュに対抗、バイエルン家
     の権利主張。  
     (ジャンがリエージュ司教に任じられたのは、無怖公のおかげ。
      つまり、「移り気な男」ジャンはブルゴーニュを裏切ったわけ)
417世界@名無史さん:2006/05/15(月) 19:58:21 0
〜ネーデルランド継承戦争第三幕〜

1419 こうした事態を、後の善良公フィリップが調停。
     「移り気な男」ジャンが、ジャックリーヌの夫ジャン4世の封臣になることで決着。
     一応、紛争収まる。

     ところが、ジャックリーヌは不満を募らせた。夫ジャン4世のダメダメぶりに
     女傑ジャックリーヌは飽きたらなかったし、ジャン4世の封臣「移り気な男」ジャン
     がジャン4世・ジャックリーヌの領土で好き放題だったのである。
     (「移り気な男」ジャンはジャックリーヌの叔父)

同1419 無怖公ジャン暗殺。フランスは内戦・英国介入で未曾有の混乱に。
418世界@名無史さん:2006/05/15(月) 20:00:16 0
〜ネーデルランド継承戦争第四幕〜

1422 ブルゴーニュ・フランスの混乱をみたジャックリーヌは、遂にブルゴーニュへの
     戦いに立ち上がる。無能な夫ジャン4世を棄て、英国のグロスター公と結婚。
     姪の攻勢を受け、「移り気な男」ジャン、慌てて善良公と結束。

1424 グロスター公、ネーデルランド上陸、戦争始める。  
     善良公、ネーデルランドで戦う。
     グロスター公の兄ベドフォード公、英国・ブルゴーニュ関係維持のため、
     戦争終結に工作。     

1425 「移り気な男」ジャン死

1427 グロスター公とジャックリーヌの仲こじれ、離婚、英国、ネーデルランドから手を引く。
     善良公勝利、ジャックリーヌ降伏。
419世界@名無史さん:2006/05/15(月) 20:01:08 0
〜ネーデルランド継承戦争第五幕〜

1433 隠棲していたジャックリーヌ、ブルゴーニュ配下の総督と最後の結婚。
     夫を使ってブルゴーニュへの抵抗を再び画策する。
     善良公、陰謀を粉砕。ジャックリーヌから相続権とりあげる。

1436 ジャックリーヌ死。

1443 善良公、借金漬けの未亡人エリザベートから、ルクセンブルク購入。 
420世界@名無史さん:2006/05/16(火) 12:05:42 0
>>413
>シャルルの激怒の身ぶりの物まね
よっぽどシャルルの怒り狂う様が面白かったのかなw
亡命中によく見てたというか、シャルル本人が感情を表に出しまくってたか
ら見ざるをえなかったんじゃww身近にシャルルみたいな奴がいたら誰だっ
て生暖かい目で彼を見つつ、陰でネタにしたくなるのではないかな。
シャルルもルイも、タイムマシンが有るなら是非会ってみたい人物だね。

>狩りが好き
ルイもか。シャルルが狩りが大好きということはシャルル所有の聖遺物
『狩猟の守護聖人の角笛』とか、いろんな本に書いてあったから知って
はいたけどルイも狩りが大好きだったんだね。
あの脂肪のつきっぷりから考えると馬に物凄く疲れが溜まりそう。しょ
っちゅう馬を乗り換えなくちゃいけなかったんじゃないの?w

>ルイの軽口と毒舌は有名で
回想録にあった、名誉を損ねたと異議申し立てをする貴族に対して『確かに
私のおしゃべりのせいで君の名誉を傷つけたのは悪かったよ。でもこういう
おしゃべりっていうのは場を盛り上げるのに非常に役立つものだからね…
(だから洒落をいちいち本気に取らないでくれよ)』
という返事からも、ルイのひねくれた性格がにじみ出てると思う。

ルイが女好きという情報は「フランスの歴史を作った女たち」で初めて知っ
たんだけど、最初読んだときはえらく驚いたなあ。ルイ11世といえば、な
んか陰険で腹黒くて疑心暗鬼で冗談通じなさそう…というイメージだったも
のだから。非常に面白い人物だったみたいだね。

>>414-419
すごくわかりやすい!これくらいわかりやすい年表が本についてたらいいの
に。しかしジャックリーヌはブルゴーニュ公家にとって厄介な相手だったん
だなあ。ものすごいしつこいよこの人。
421世界@名無史さん:2006/05/16(火) 23:16:53 0
>>420
ネーデルランド継承戦争は、後期百年戦争の裏番組としてなかなか重要なのに、
ジャンヌ・ダルク関連百年戦争関連の本じゃ、まず出てこないですね。

オランダ・ベルギーあたりじゃ、ジャンヌ・ダルクより、
ジャックリーヌの方が有名なのかしらん。

この女傑がネーデルランドをかきまわしたおかげで、英国・ブルゴーニュ間に
蹉跌が生じたし、フランスでの進軍も鈍ったわけだ。
なにしろ、重要な時期に、ブルゴーニュはネーデルランドに全力投入したわけだし。

1429年のオルレアンを準備したのも、この女傑といえなくはない。
422世界@名無史さん:2006/05/16(火) 23:25:29 0
「ブルゴーニュ公国の大公たち」を読んでて引っかかったんだけど、
ジャックリーヌとグロスター公の結婚は、
ベドフォード公(グロスター公の兄)の「高圧的な命令」
によって行われたとのこと。

「高圧的な命令」は当然、弟グロスター公に対してだろう。
グロスター公は、後にジャックリーヌと別れて、侍女と結婚することからして、
あまり、この女傑との結婚に前向きじゃなかったのでは。

ベドフォード公としては、ブルゴーニュに対するカードとして
結婚を推進したんだろうけど、案に相違して、強い反発を引き起こし、
あげく、ジャックリーヌの大暴走が始まって、慌てて火消しに回ったわけか。

ちなみに、本にジャックリーヌの生年がでてなかったんだけど、
知ってる人いたら教えてください。
最後の結婚の時は、何歳くらいだったんだろ。
423世界@名無史さん:2006/05/17(水) 00:04:27 0
424世界@名無史さん:2006/05/17(水) 01:01:57 0
>>405
>まさか正妻として? もう少し詳しい話を聞かせていただきたい。
これはエレナー・コバム(Eleanor Cobham)というケントの地方貴族出身の女性。
おそらくジャクリーヌの英国亡命中に侍女になったのだろうが、
まあ相当な美人だったらしくて、
英国でか大陸でか不明だが、グロスター公の寵愛を受けるようになり
ジャクリーヌとの仲が悪くなったグロスターが1424年英国に帰還するとそれに同行し、
1427年グロスターとジャクリーヌの離婚が成立すると
(というか教皇によって婚姻無効の裁定が下ると)、
晴れて1430年頃にグロスターと結婚するに至った・・・というから大変な玉の輿ですな。

なおこの女性には後年にも面白い運命が待っていて、
1441年に、黒魔術によってヘンリー6世を呪詛したという嫌疑を、
(反グロスター勢力のボーフォート公一派に)かけられて、
グロスター公との離婚に追い込まれると、
マン島に幽閉され最後はウェールズのボーマリス城で終わった・・・ということです。
425世界@名無史さん:2006/05/17(水) 01:02:43 0
>>423
サンクス。1401年生まれですか。
14歳!!でブラバンド公ジャン4世との結婚。
16歳!!でネーデルランドのバイエルン家領相続。
ハイティーンのときは、叔父やブルゴーニュ家とバチバチ火花。
21歳!!!でグロスター公との結婚。戦争開始。
26歳で降伏、隠棲。
32歳!!!で最後の結婚!!!
35歳で肺結核死ですか。

スゴイ人生ですね。
なんか、上の記事と、「大公たち」の記述・年代が
微妙に違うような。
結局、トゥレーヌ公とは結婚したのか??婚約だけ??
「大公たち」だと、結婚したみたいに書いてあるけど。
426世界@名無史さん:2006/05/17(水) 01:08:55 0
失礼、ジャックリーヌがブラバンド公ジャン4世と結婚したのは、
17歳、1418年ですか。
なんか、「大公たち」の書き方、誤解を招くような。
ジャン4世・ジャックリーヌの結婚は、対ルクセンブルクというより、
バイエルン家の総領ギヨーム(ジャックーヌの父)の死後起こった
お家騒動対策か。
427世界@名無史さん:2006/05/17(水) 01:20:42 0
>>422
Richard VaughnのThe Dukes of Burgundyシリーズによると、
グロスターとジャクリーヌの婚姻を進めようとしたのはヘンリー5世らしいですな。
もっとも彼は1422年に死んじゃうけど。
ただ、息子のヘンリー6世の名親にジャクリーヌを選んでいたりするから、
彼がジャクリーヌを厚遇したというかコマとして押さえとこうと思ってたのはたぶん確実。
428世界@名無史さん:2006/05/17(水) 01:48:55 0
>>427
なるほど。いずれにせよ、英国からモーションをかけた
のは確かなんですね。
ヘンリー5世は、善良公も軽く扱っていたから、
あわよくば、ブルゴーニュ家も圧倒しようとしてたのかしらん。
ヘンリー5世・シャルル6世の死で情勢激変、
困った結婚になってしまった。
ベドフォード公が善良公の妹と結婚したりして、むしろ、
ブルゴーニュの引きとめに躍起になる。
429世界@名無史さん:2006/05/17(水) 13:09:43 0
>>421
そうですね、百年戦争関連の本はジャンヌを大きく取り上げたものが多くて
ネーデルラント継承戦争に関しては手軽な本とかではなかなか出てきません
。どうしても学者とかそういった人の書いた冊子とにらめっこしなくてはな
らないみたいですね。とっつきにくいんだよなー。
中丸明さんのギャグ混じりの文章だったら気楽に読めるんだけど。

ジャックリーヌが凄すぎる…カテリーナ・スフォルツァ並みに凄い。
こんな凄い人が500年前にいたんだなー。どうしてこういう人が
日本の西洋史系の本でページを割かれないんだろう。
ジャンヌやシャルル7世を取り上げるのもいいけどもっとブルゴー
ニュ公国の事にもスポットを当てて欲しいなあ。
430世界@名無史さん:2006/05/17(水) 13:17:18 0
>>424
詳細な情報ありがとうございます。侍女から公爵夫人なんて、当時でも相当
な玉の輿ですね。でも最期が悲惨ですね…やっぱり成り上がり、玉の輿に乗
っても後が大変ということでしょうか。
>黒魔術によってヘンリー6世を呪詛したという嫌疑
このあたり、なんか政治的陰謀にかけられたような気がするし…
イングランドにおける重要人物の奥さんだったからってことで危険人物あつ
かいでもされたのかな。
431世界@名無史さん:2006/05/17(水) 13:26:15 0
>>427
>Richard VaughnのThe Dukes of Burgundyシリーズ
先日この方の書かれた本の「Charles the bold」というのを注文し
たのですが、文章の難易度がどのくらいか見当がつかなくて果たし
て買ってよかったのかと悩んでます。堀越さんの本でも紹介されて
いたし、きっと通り一遍じゃないブルゴーニュ史を知ることができ
るんじゃないかと思うんですが…
432世界@名無史さん:2006/05/20(土) 22:02:05 0
「ブルゴーニュ公国の大公たち」に重大な疑問が。
バイエルン家の家系図なんだけど、「大公たち」だと、
無怖公夫人マルグリッド、オランダ伯ギヨーム、仏シャルル6世王妃イザボー、
リエージュ司教ジャン、ルイ(王妃イザボーの兄)の、
五人がみんな兄弟姉妹ってことになっている。

しかるに、堀越本だと、無怖公夫人は、シュトラウビンク家系バイエルン家、
王妃イザボーは、インゴルシュタット家系バイエルン家。

その他、いろいろ本読む限り、どう考えても姉妹ではない。親戚だろうけど。
「大公たち」の系図が間違ってるってことはないんですか??
433世界@名無史さん:2006/05/20(土) 22:53:32 0
http://pozyu.hp.infoseek.co.jp/wol/bloodtree/germany8.htm
の系図みると、イザボーとジャックリーヌが、また従姉妹です。
やっぱ、「大公たち」の系図は間違いってことで?
434世界@名無史さん:2006/05/21(日) 17:53:03 0
唐突ですが
自分はブルゴーニュ大公の中では善良公が一番好きです
最盛期だからってのもあるかもだけど

>432
系図の信頼性はどうだかしらないけれど
その本かなり偏ってるイメージがある
面白いけどね
435世界@名無史さん:2006/05/21(日) 19:36:12 0
善良公は懐の広い器量人、あるいは老獪な政治家に見えて、
案外馬鹿っぽいとこがあるのも面白い。

エノー、ホラント&ゼーラントを争ったグロスター公ハンフリーにも、
ルクセンブルクを争ったサクセン公ヴィルヘルムにも、
一騎打ちのタイマン勝負で領土争いにケリをつけようではないか、と挑戦したりしている。
よっぽど腕に自信があったのか、それとも絶対に相手が受けないという計算があったのか。
436世界@名無史さん:2006/05/22(月) 02:02:05 0
善良公は中世騎士道に結構真面目に憧れてたみたい。
十字軍に行けなかったことや、アザンクールに参戦できなかったことを、
終生気にしてたり、腕に防具つけないとかの中世風誓約したりとか、
決闘申し込んだりとか。
百年戦争で中世が終わるというから、善良公は中世最後の世代ですね。
437世界@名無史さん:2006/05/22(月) 13:00:56 0
善良公が息子と大喧嘩して逆ギレかまして家出する項が好き。
変なところでガキっぽくて。でも、いかにも「西の大公」という豪華絢爛
な雰囲気もいい。「中世」を集大成した人間という感じだね。
ん、シャルルは中世最後の世代ではないの?
438世界@名無史さん:2006/05/24(水) 11:32:24 0
1415以降の、後期百年戦争は、シャルル7世、ブルゴーニュ、
イングランドの3者が虚々実々の駆け引きを行ったわけで、非常にわかりにくい。
研究者によって、其々の動向の評価がかなり違ってくるね。
そこが面白いわけだけど。

堀越先生の本だと、善良公がヴァロア王家に対し、「おひとよし」だったことを、
やたら、強調しすぎてるような。
1420年代は、ネーデルランド継承戦争があったから、善良公としては、
英仏戦争になるべく中立の態度をとりたかったし、1435のアラスの時点では、
英陣営はベドフォード公が死去、一方仏陣営はリシュモン大元帥の復帰で、
かなり巻き返していて、流れからしてフランスと協調するのが自然なような。

439世界@名無史さん:2006/05/24(水) 11:37:31 0
「百年戦争とリッシュモン大元帥」(ジャン・ポール・エチュヴェリー著 大谷暢順訳)
を読んだけど、なかなか面白い。
リッシュモン大元帥は、善良公の義弟(善良公の妹マルグリットの夫)
で、かなり複雑な役回りをしている。
440世界@名無史さん:2006/05/24(水) 11:44:08 0
大谷暢順さんて本願寺の一族でジャンヌダルクの研究してる人だっけ?
441世界@名無史さん:2006/05/24(水) 11:54:29 0
>>440
それっぽいですね。「聖ジャンヌ・ダルク」とかいう著書があるし。
この人、仏文出身なのか、
「プランダジュネ朝」とか、日本で定着してる訳を無視するのが困る。
「フィリップ善良」とか「シャルル無謀」とかも出てくる。
独自の訳語をふりまわすのは堀越先生もか。
442世界@名無史さん:2006/05/24(水) 14:45:00 0
>439
あまりに身びいきが過ぎて萎える本だ…
443世界@名無史さん:2006/05/24(水) 17:32:59 0
>>442
著者はブルターニュ人なの??
日本のジャンヌ関連の本でも、この本の影響受けたらしいのが結構あるような。
444世界@名無史さん:2006/05/25(木) 01:02:58 0
善良公は1435にフランスと和平、1438年にイギリスと和平を
成立させ、背後を固めた。
そして、1440〜50年代の英仏戦争のクライマックス期には中立を保ち、
ルクセンブルクを獲得したり、ネーデルランド諸都市の叛乱を押さえ込んだり
してるから、なかなかの手腕。
「おひとよし」というのはちょっと違うような。
445世界@名無史さん:2006/05/25(木) 22:37:14 0
>>443
作者の出身は知らないが
対象に思い入れが激し過ぎると思わないか?
それとも訳者のスタイルの問題かな
446世界@名無史さん:2006/05/26(金) 13:15:46 0
独自の訳語を振り回す、といえば江村洋さんの著書「皇帝マクシミリアン1世伝」
でシャルル突進公が『シャルル・テメレール』って終始表記されてたけど、冠詞の
「le」はひょっとしてわざわざ書かなくてもいいの?シャルル・テメレールで意味
は通じるか?

フランス語だと「ル・テメレール」
ドイツ語だと「デァ・キューネ」
イタリア語だと「イル・テメラリオ」
wikiで見てみたぶんには、きちんと冠詞をつけて表記されてたんだけど。
447世界@名無史さん:2006/05/26(金) 17:47:52 0
>446
よく見てみろ
きっとシャルルル・テメレールとかの誤植だ
448世界@名無史さん:2006/05/26(金) 21:01:21 0
>>446
江村洋さんのハプスブルグ関連の本、好きなんだけど。
この人、フランス語ダメなわけ??
449世界@名無史さん:2006/05/29(月) 12:43:58 0
件の「皇帝マクシミリアン1世伝」では、フィリップ善良公にはきちんと『ル・ボン』
とルビが振ってあるんだよね。不思議なことに突進公は終始『シャルル・テメレール』。
まさか、『シャルル・ル・テメレールなんて言いづらいし、冠詞を省いちゃえ!』てな
顛末ではないよな…

ところで、突進公の『おれは四分の一フランス人』発言のソースは何だろう。
450世界@名無史さん :2006/05/30(火) 21:56:43 0
性格には、8分の一フランス人じゃないの??
剛胆公夫人は、プランドル伯の娘
無怖公夫人は、ホーラント伯の娘
善良公夫人は、ポルトガル出身
歴代の公妃はフランス人じゃないわけだ。
451世界@名無史さん:2006/06/02(金) 02:15:51 0
保守
452世界@名無史さん:2006/06/02(金) 12:09:47 0
>>450
家系図を見てみるとどう見ても8分の1フランス人です。本当にありがとうございました。
…のはずなんだけど、堀越さんの『ブルゴーニュ家』で気になる記述があったんだよ。
「父親のフィリップは結局ヴァロア家の人間だった、対するに息子のシャルルは『おれは
 4分の1フランス人だ』と言った」というような文章だったような気がする。

江村さんの『皇帝マクシミリアン1世伝』に書いてあった、のちのちフランツ・シュテフ
ァンの手に渡ったという「突進公所有のダイアモンドの兜飾り」っていうのは今でも残っ
てるのかな?「突進公所有の角笛」が残っているくらいだから有りそうなものだけど。
453世界@名無史さん:2006/06/03(土) 21:53:51 0
>>452
堀越本の第9章に、シャルルが「おれは四分の一フランス人だ」と
言い放ったとあります。
単に、祖父母の代までしか考慮しなかったのでしょう。
そもそも、ヨーロッパの王侯貴族は、何代にも渡って国際結婚(現代風にいえば)
してるから、シャルルに限らず、血統で○○人とはいえないはず。
454世界@名無史さん:2006/06/03(土) 22:14:45 0
カペー系のブルゴーニュ公家について詳しく語ってください。
455世界@名無史さん:2006/06/04(日) 16:54:00 O
語れと言われても…具体的にどんなことを話題にしたいの?
456世界@名無史さん:2006/06/05(月) 13:02:22 0
>>453
なるほど。てっきりシャルルが計算できない奴だったとか、シャルル本人の
勘違いかとあらぬことを考えるところだった。
>ヨーロッパの王侯貴族は、何代にも渡って国際結婚してるから
王侯貴族って本当に「雑種」だなあ…
457世界@名無史さん:2006/06/05(月) 22:58:55 0
ところで、剛胆公の長女で、善良公の姉(妹?)にあたる、
マルグリットの生年ご存知の人いますか??

マルグリットは最初王太子ルイ(シャルル6世の長男)と結婚、
ルイの死後は、仏大元帥リシュモン伯アルテュールと結婚、
なかなか重要人物ですが。
458世界@名無史さん:2006/06/05(月) 23:12:59 0
>>456
雑種も何も西欧で国なんて固定概念が誕生したのは近世以降。
459世界@名無史さん:2006/06/05(月) 23:19:48 0
あの〜ちょっとよろしいでしょうか??

フランスでは庶子は家督を相続できなかったんですか?
イギリスのウィリアム征服王やエリザベス一世は庶子ですよね。
シャルルの娘マリーやアリエノール・ダキテーヌなんかを見てると、なんだかあれだけの領土を娘の嫁ぎ先に接収されるなんて父親の気持ちはどうだったんだろうな〜と思って。
あきらめるしかなかったんでしょうか?
日本なら庶子が家督を継ぐか養子をもらいますよね。
サリカ法的に庶子相続はアウトだったんでしょうか?
460世界@名無史さん:2006/06/06(火) 12:44:45 0
>>457
1390年らしいですよ。
461世界@名無史さん:2006/06/06(火) 12:47:20 0
>>459
女子相続については自分も疑問に思ってた。
娘に婿養子を取ればいいのに、と日本人的に思ってしまうわけだが(無理?)
いずれ娘の子孫が大公を名乗るとしても、他家の当主(マリーの場合ハプスブルク家)が
タイトルのひとつとして名乗っているような物じゃないの?
それってかなり屈辱的じゃないか?
462世界@名無史さん:2006/06/06(火) 20:50:17 0
>>459
ウィリアムは庶子だけど、エリザベスは庶子じゃない。ちゃんと王妃から生まれてる。
腹違いの姉弟がいただけで。
庶子相続はキリスト教の影響と言われるが、これは間違いでゲルマン社会でもギリシャ・ローマ社会でも優遇されなかった。
結婚=家門を繋ぐ物って概念が強かったんだろう。
ついでにいうと既出過ぎる話だけど、サリカ法と庶子相続は全然関係ないし、フランス王家の女系相続禁止もこじつけでしかない。

>>461
ttp://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1050271082/489
財産相続と封の相続は全く違うんだよ。
463世界@名無史さん:2006/06/06(火) 22:53:13 0
>>462
そうですか。ありがとうございます。

結局、庶子相続を禁止する法律はないってことですか?
464世界@名無史さん:2006/06/06(火) 23:17:57 0
>>463
どこをどう読むとそうなるのか。
相続法なんてのは地域によるんだよ。だからそんなアバウトな質問には答えられない。
フランス王の場合は慣習法的に庶子相続が禁止されてる。
465世界@名無史さん:2006/06/06(火) 23:48:48 0
フランス王はもともとは選挙王制だったから庶子なんて論外でしょ。
466世界@名無史さん:2006/06/07(水) 00:01:57 0
>>460
ありがとうございます。
じゃあ、2度目の結婚の時は33歳ですか。
リシュモン伯の生年は1393だから、
3歳マルグリットの方が年上か。

善良公の生年が1396だから、マルグリットは文字通り
ブルゴーニュ家の長女ですか。

王太子ルイ、第二王子ジャン(妻は例のジャックリーヌ)の病死で、
シャルル7世が王位につけたわけだけど、ルイ、ジャンの一人でも
生きていたら、歴史は全く変わったでしょうね。
467世界@名無史さん:2006/06/07(水) 09:07:10 0
>>465
選挙制を庶子相続の否定要素に挙げるのには無理がある。
468世界@名無史さん:2006/06/07(水) 12:55:55 0
注文していたリチャード・ヴォーン著の『Charles the Bold』が今日届く
予定です。面白いのかなあ。
469世界@名無史さん:2006/06/07(水) 16:27:27 0
中世のブルゴーニュ(公)が現在のリヨンと思ってたんですが、
全く関係なかっかんですね。
470世界@名無史さん:2006/06/08(木) 05:13:01 0
リヨンはリヨン
ブルゴーニュはもうちょっと北だ
471461:2006/06/08(木) 11:52:17 0
財産相続と封の相続は全く違うということは分かったが、
具体的にどう違うのかがよくわからん・・
とりあえず関連スレの過去ログを辛抱強く読んでいる。
472世界@名無史さん:2006/06/08(木) 13:38:08 0
日本だと、戦国時代の大河ドラマ、映画が大人気だけど、
フランスとかオランダ、ベルギーだと、どうなんだろ。
ブルゴーニュ家の歴史は人気あるの??
大河ドラマや映画になってるのだろうか??
少なくとも、ジャンヌ・ダルクがらみの映画じゃ、
ブルゴーニュ家はまず無視されてるけど。
473世界@名無史さん:2006/06/08(木) 13:43:58 O
俺、高校のとき世界史得意だったけど、ブルゴーニュ公国の存在を知らんかった・・・。
オランダ・ベルギーの前身、超重要じゃねえか!!
なんでこんなにマイナーなんだ?
474世界@名無史さん:2006/06/08(木) 14:45:13 0
>>473
やっぱり、消滅したからでしょ。
同じ複合王朝でも、ハプスブルクは近代まで生き残ったから、知名度も違う。
475世界@名無史さん:2006/06/08(木) 15:09:41 0
オランダ、ベルギー自体が重要じゃないからでしょ。
476世界@名無史さん:2006/06/08(木) 16:46:55 O
えーっ、フランドルは重要でしょう
欧米経済史なんかではプロト工業化絡みで出てくるし
当時の欧州では先進地域のひとつだが
477世界@名無史さん:2006/06/08(木) 16:53:14 0
ブルゴーニュそのものの歴史的意義が低い。
強いて言えばハプスブルクの踏み台になったぐらい。
478世界@名無史さん:2006/06/08(木) 17:08:16 0
>>473
高校世界史の資料集で百年戦争末期の国勢にちょっと出てくるくらいだもんなあ。
せめてフィリップ善良公くらい出してあげてください…
ブルゴーニュ公国の政治機構とか、近代的で絶対王政につながる部分もあるわけ
で。そこらへんもうちょっとクローズアップしてもいいと思うんだ。
479世界@名無史さん:2006/06/08(木) 18:01:19 0
>>478
政治機構なんてフランスからパクっているだけ。
ブルゴーニュ公国とはいってもバラバラのラントを纏めただけのものに過ぎない。
480世界@名無史さん:2006/06/08(木) 20:41:51 0
高校教科書(≒30年ぐらい前の史学界)的問題点で言うと、
1.国民史学の呪い
(イギリス屋・フランス屋・ドイツ屋はいてもオランダ屋・ベルギー屋はいない)

2.マルクス主義的市民革命論(絶対主義→市民革命→国民国家)の呪い
(低地諸地方みたく中世的立憲主義がそのまま生き残って連邦型モザイク国家が出来ちゃったとこは論外)

3.大塚史学の呪い
(イギリスモデル(農村家内工業→産業革命)を持ち上げてオランダ都市商業資本なんかはボロクソ)
・・・って感じ?
481世界@名無史さん:2006/06/08(木) 22:56:56 0
>>471
その辺理解しようと思ったらキチンと勉強しないと。
2chのログ程度は知ったかさんが一杯だから。

>>478
ホイジンガが言っているようにブルゴーニュ公国は中世の最後の煌き。
絶対主義とは全然関係が無いよ。
ブルゴーニュ公国の統治機構は本当に中世封建主義的。

>>480
オランダ・ベルギー史学会は昔からフランス史の中心学派ですが。
フランスやオランダ・ベルギーといった辺りの話だけど。
482480:2006/06/09(金) 00:15:42 0
>>481
いや、>>480で言ったのは日本の話ですけど。
ほんの10数年前までは(or今でも?)オランダ・スイス・北欧なんかをやろうとする者は、
「隙間産業ですか?」
みたいな視線を感じたものですが。
483世界@名無史さん:2006/06/09(金) 00:34:34 0
オランダじゃ、ジャックリーヌとかの評価ってどうなんですか??
484世界@名無史さん:2006/06/09(金) 00:41:04 0
>>482
政治史に関しては同意。経済史はフランドルが今も昔も中心だけど。
485世界@名無史さん:2006/06/09(金) 13:00:45 0
>>481
そうか…勘違いで的外れな発言してしまってすみません。
では一般的な見方から言うと、ブルゴーニュ公国っていうのは極めて中世的
な国家ということになる?本で読んだ公国内の裁判所の仕組みとか金融機関
の説明に近代的な印象を持ったんだけど。少なくとも当時のヨーロッパでは
抜きん出た先進地域だったんじゃなかったっけ。
486世界@名無史さん:2006/06/09(金) 13:06:36 0
抜きん出た先進地域≠近代
絶対王政とは根幹が違ってくる。
487世界@名無史さん:2006/06/09(金) 17:23:51 0
>>485
「絶対王政につながる部分」て言うのは、無いわけじゃないけど、
世界史教科書に載せるほどか? というのはあるわな。

集権化を図る君主と、身分制議会に拠る等族の二元的な対峙
という構図は後期中世には割とあるパターンだけど、
ブルゴーニュ公国は後者の方にかなり流れが傾いているケース。

ブルゴーニュの後継国家オランダなんかは、
身分制議会が近世以降にも統治主体として転生した
(イングランド、スイスなんかとならぶ)珍しい事例。
488世界@名無史さん :2006/06/10(土) 22:17:47 0
中世に浮かんでは消えた王朝群の中では、有名な方なんじゃないの??
ハプスブルク帝国の基盤の一つというのが、大きいのかも。
基本は、フランスの親王家なんだし。
489世界@名無史さん:2006/06/10(土) 22:54:11 0
確か歴史教科書か資料集に載ってたと思うぞ、ブルゴーニュ。
490世界@名無史さん:2006/06/11(日) 09:13:05 O
「フランドル地方」は、世界史の教科書に欠かせない存在だ。産業・経済・文化の面で、
はずせない地域です。でも、教科書には「ブルゴーニュ公国」が出てこない。
一方、「1581年、オランダが独立」は要暗記項目とされている。やや唐突な印象を受けます。
491世界@名無史さん:2006/06/11(日) 12:37:50 0
いや、ブルゴーニュ公国は出てくるって。山川には出てきたと思うぞ。
文化的な功績とハプスブルク家関連で。
492世界@名無史さん :2006/06/12(月) 02:48:22 0
>>491
山川出版社の世界歴史大系「フランス史 1」の
百年戦争のくだりは、堀越先生が担当しているだけあって、
かなりじっくりブルゴーニュが描かれてるよ。

例によって、当時の歴史の基礎知識無いと、理解不能だけど。
493世界@名無史さん:2006/06/12(月) 10:46:52 0
>>491
旧版教科書:記載なし 用語集:記載なし
新版教科書:記載なし 用語集:「ブルゴーニュ公」頻度1

ブルゴーニュ公(ジャン)Bourgogne@
フランスの大諸侯。百年戦争中イギリスと結び、一時フランスを劣勢に追い込んだ。

世界史全体から見ればブルゴーニュ「公国」のウエイトはこんなもん。
フランドルの繁栄は重要だけど、別にブルゴーニュ公国のことを知らなくても問題ないし
ブルゴーニュ公国がフランドルの繁栄を築いたわけでもない。むしろ逆。
494世界@名無史さん:2006/06/12(月) 11:33:51 0
ブルゴーニュ公はジャンヌ・ダルクがらみで出てくる方がおおいんじゃなかろうか。
495世界@名無史さん:2006/06/12(月) 13:55:24 0
>フランドルの繁栄は重要だけど、別にブルゴーニュ公国のことを知らなくても問題ないし

('A`)
496世界@名無史さん:2006/06/12(月) 18:18:34 0
>>494
ジャンヌ・ダルク関連だと「空気扱い」か「聖女を捕らえた悪い公爵」みたい
な扱いが多いような…みんなジャンヌ贔屓しすぎだ。
497世界@名無史さん:2006/06/13(火) 00:03:40 0
宮廷儀礼はカール5世経由なんかでけっこうスペインに入ってるらしいね。
498Ryuju ◆RlujhF6VrA :2006/06/13(火) 00:21:23 0
個人的には、最初に「ブルゴーニュ公国」について知ったのは
ハプスブルク家繋がりだったな。高校の頃に「図説 ハプスブルク帝国」って本を買って。
ブルゴーニュでなくてブルグント表記だった。

教科書レベルには載ってないけど、新書や薄い図説でもう少し勉強すれば、という感じ。
同じハプスブルク家関係だと、オイゲン公とかと同レベルな印象だね。
499世界@名無史さん:2006/06/13(火) 01:08:48 0
ビジュアル史料集だっけ?副読本には載ってるよ、ブルゴーニュ公国。
500世界@名無史さん:2006/06/13(火) 12:25:50 O
ブルゴーニュ公国自体が重要かどうかよりも、「あの重要なフランドル地方を、フランスの
一領主が所有していた」ということを知るのが、欧州史理解への目を開かせると思う。

それを言ったら、イングランドの領主だったノルマンディー公の方が凄いんだが。
501世界@名無史さん:2006/06/13(火) 13:19:23 0
ブルゴーニュ公国のフランドル支配なんて一時的だろ。
502世界@名無史さん:2006/06/13(火) 13:42:00 0
やっぱりブルゴーニュ公国自体はあんまり重要じゃないのかね。
大陸縦断国家である必要性も感じられないし、いずれ瓦解するのが目に見えていた…
ということから軽んじられているのかな。当時は「おいおいなんかスゲー国があるぞ」
っていう目で見られていたんだろうに。

そうなると、世界史全体的な見方としては「フランス領ブルゴーニュ公国」ということ
になるの?あれだけ突進公はフランスから離れたがっていたのに。
503世界@名無史さん :2006/06/13(火) 17:19:17 0
>>502
複合国家だから、カール5世のハプスブルク帝国と同じでしょ。
504世界@名無史さん:2006/06/13(火) 17:27:15 0
>>502
だから中世的封建国家の好例にして最後の代表例として扱われてるって。
505世界@名無史さん:2006/06/13(火) 19:16:30 0
歴史社会学的には、隣に先行するでかい国(=フランス)があったせいで
ステート・ビルディングに失敗した例だね。
ブルゴーニュ、ブルターニュ、ロレーヌ・・・・
サヴォイ・ピエモンテは希有な例外。
506世界@名無史さん:2006/06/13(火) 20:46:29 0
フランス王国から枝分かれした雄国としては
シャルル・ダンジューの未完の地中海帝国の方がスケールがデカイし
後に続くハプスブルクに対してはしょせん踏み台でしかない。
フランドルだってブルゴーニュ公国成立以前から栄え始めていたし、
その経済的な全盛期はもっとずっと後だろう。
結局「中世の秋」とかホイジンガとか、派手な宮廷文化の印象だけが強い。

でも世界システム論的な立場からブルゴーニュ公国の
史的意義を考えるのはおもしろいかもな。
507世界@名無史さん:2006/06/13(火) 20:48:38 0
シャルル・ダンジューの地中海帝国もブルゴーニュ公国も
古ブルグント王国への見果てぬ夢という共通路線にあるんだよね。
既出だけど。
508世界@名無史さん:2006/06/13(火) 20:57:18 0
ブルグントってそんなに凄いのか。

フランク王国メロヴィンガ朝草創期の宿敵だったかな。
だとすると中世ヨーロッパの独仏伊三国の史的骨格自体へのアンチテーゼみたいでおもしろいが・・・
むしろロタールのイタリア王国への憧憬のようにも思えるが。
509世界@名無史さん:2006/06/13(火) 21:28:59 0
ブルグンゴ王国の支配領域を考えれば>>507みちあな妄言は出てこない
510世界@名無史さん:2006/06/13(火) 21:37:57 0
>>509
中世の王侯にとってはブルグント王国の繁栄は物語などで身近だった。
地中海帝国っていうかシャルル・ダンジューの古ブルグント王国版図への進出を指す。
例えばエノー伯領なんかがそれだ。
511世界@名無史さん:2006/06/14(水) 13:41:00 0
>>505
サヴォイも結構えらい目にあってるけど、なんだかんだで最終的にはイタリア
纏めちゃったんだよな。一体ブルゴーニュはどこで間違えたのかな…

踏み台扱いされてるとはいえ、やっぱりブルゴーニュ公国の存在は西欧中世史
の中では重要だと思うぞ。ヨーロッパの王家の文化面には結構影響を及ぼして
るし。ところでここでシャルル突進公以後のブルゴーニュ公国について語るの
はスレ違いになるの?あんまり話題にならないから気になったんだが。
512世界@名無史さん:2006/06/14(水) 14:26:22 0
>>510
アルル王国と古ブルグント王国は切り離して考えろよ。
それから、シャルル・ダンジューがアルル王国復興に興味を持ったのは
ごく初期だけで、中期以降はイタリア征服からビザンツ遠征へと興味
が移っていった。
俗にいう地中海帝国だが、アルル王国とはなんの関係もない。
後、エノー伯領と古ブルグント王国はなんの関係もない。
513世界@名無史さん:2006/06/14(水) 15:52:13 0
>>511
>ところでここでシャルル突進公以後のブルゴーニュ公国について語るの
>はスレ違いになるの?
全然OKだと思います。
148X年にマリー・ド・ブルゴーニュが死ぬまで一応ヴァロア・ブルゴーニュ家は続いているし、
カール5世あたりまで「ブルゴーニュ的」拡張政策とか取られてるし。
(ヘルダーラントへの侵略とか、ブルグント・クライスの帝国からの切り離しとか)
514世界@名無史さん:2006/06/15(木) 17:10:55 0
>>513
>ヘルダーラントへの侵略とか、ブルグント・クライスの帝国からの切り離しとか
それってカール5世時代の政策?マクシミリアンはそんなオープンな侵略政策はして
いなかったような気がするし、フィリップ美公は白痴だからありえないし…
515Ryuju ◆RlujhF6VrA :2006/06/17(土) 17:32:00 0
>>514
カール五世の頃だね。フランソワ一世を捕虜にしたりもしている。
結局「ブルゴーニュ公領」はフランスが手にしたけれど、
フランスは同時にフランドル・アルトワ辺りの支配権を放棄している。
516世界@名無史さん:2006/06/19(月) 13:07:34 0
>>515
なるほど!分かりやすい解説ありがとうございます。
やっぱりカール5世だったか。ブルゴーニュ公の遺産はこの頃になってもイザコザ
を引き起こしていたんだな…しみじみブルゴーニュ公国というのは罪な国だ。
517世界@名無史さん:2006/06/20(火) 16:39:44 0
以前フィレンツェに行ったとき
ある美術館(忘れてしまった…)の窓から
中庭を望むと、壁に金羊毛騎士団の紋章がついてました。
毛織物なのか資金援助なのか
ブルゴーニュとフィレンツェがどのような
深い関係にあったのかご存知の方、教えて下さい。

ちなみにそこはブルックス・ブラザースではありませんでした。
518世界@名無史さん:2006/06/20(火) 16:45:02 0
フィレンツェっていうか、メディチ家がブルゴーニュ公家に金貸してた。
毛織物の優先輸入とか樟脳の採掘権と引き換えでね。
519517:2006/06/20(火) 18:00:52 0
>>518
ありがとうございました。
そうだったんですか。
でも建物が特定できないと
なんでトアゾンドールがそこについているのかなんて
わからないですよね。
520世界@名無史さん :2006/06/21(水) 00:30:33 0
ネーデルランドの一円的領土化、ていう点では、
ブルゴーニュの意義、大きいんじゃないかな。
普通に考えると、ネーデルランドは、英仏独の草刈場になったでしょ。
521世界@名無史さん:2006/06/21(水) 00:38:25 0
ならない、というかなれない。
ネーデルラントは重要すぎてどこか一国が確保すると、他の利害関係国が
共同して奪回に当たるから。
522世界@名無史さん :2006/06/21(水) 18:34:54 0
>>521
それはむしろ、16世紀後半以降のイギリスの政策じゃないの??
現に、ハプスブルクが一円的領有してたわけだし。
ブルゴーニュの存在が無ければ、ネーデルランドは15世紀段階で、
英仏独に分割領有されてたんじゃないかな。
523世界@名無史さん:2006/06/21(水) 21:23:47 0
ハプスブルクが支配してたっていっても飛び地支配だからな。
フランスや統一ドイツなんかが支配するのとは訳が違う。
どっちにしろ百年戦争がある以上、フランスが拡大できずに大勢は変わらないだろうけどね。
524世界@名無史さん:2006/06/21(水) 22:28:16 0
>>520
善良公がGeneral Estates(低地諸地方全体の身分制議会)
を作って置いたというのが、結果的に大きいね。
後々これが北ネーデルランドなり南ネーデルランドなりの凝集核として効いてくる。
列強同士による牽制、という国際システム上の要因ももちろん重要だけど。

それに比べて、似たような地政学的・社会構成的条件の下にあった北イタリアは、
そういう制度的要素を欠いていたこともあって、
16世紀以降は完全に列強の草刈り場になる。
525世界@名無史さん:2006/06/21(水) 22:57:20 0
オランダの建国はブルボンの対ハプスブルク政策。
オランダの存続はイギリスの対フランス政策。
526世界@名無史さん:2006/06/22(木) 05:26:22 0
みんな複雑に絡みあってるんだなぁ

情勢の推移って指導者層の個人の資質「だけ」じゃ語れないよね
ここで言うと突進公がもっと…だったら、とか
でもやはりそういうのも深い影響を与えてる
527世界@名無史さん:2006/06/22(木) 17:16:19 0
情勢の変貌に関しては統治者にもどうにもならないものではあるけど、めま
ぐるしく変わる情勢にどう対応していくかというところに統治者の資質が問
われてくると思う。突進公については外野から言わせてもらうと『もっと巧
くやりようがあっただろう』と思うけどな。突進公にとってはあれが精一杯
の対応だったんだろうか?
528世界@名無史さん:2006/06/22(木) 18:21:45 0
>>527
>>67
529世界@名無史さん:2006/06/22(木) 19:22:20 0
>>527
スイス兵とガチでやったらあかんわな。しかも続けて三度も。

530世界@名無史さん :2006/06/22(木) 22:13:19 0
>>527
「ブルゴーニュ公国の大公たち」の著者カルメット教授の見解は、

1:英国との対ルイ11世共同作戦では、別行動をとらず、
英国と一緒に進軍するべきだった。別行動のため、英国王は疑いをいだき、
ルイ11世と単独和平してしまった。

2:英仏和平成立後も、サヴォワその他の同盟国と結束して、ルイ11世を
直接攻撃すべきだった。そうすれば、情勢はわからなかった筈。

とのこと。まあ、結果論だからなんとでもいえるが。
しかし、東西の敵と一時に対立したのは、いかにもまずかった。
531世界@名無史さん:2006/06/22(木) 22:52:10 0
合従策は敗れる運命にあるからな。
532世界@名無史さん :2006/06/22(木) 23:35:46 0
ブルゴーニュといえば、豪奢な宮廷生活だけど、
ブルゴーニュ宮廷の料理とかのレシピって、残ってるのかな。
基本は鳥獣の丸焼きだったみたいだけど。
533世界@名無史さん :2006/06/23(金) 00:58:07 0
最後の3話だけみたからなんともいえない…
セイバーかわいかったから、全部みたかったな。
ラストバトルはイマイチでした。
534世界@名無史さん:2006/06/23(金) 01:13:58 0
ラストバトルはナンシーw
535世界@名無史さん:2006/06/23(金) 13:00:29 0
>>532
パイの中から人や動物が出てきて劇をしたとかいう話もあるけど、パイの中って
暑くないのかな。冷ましたパイに入ってるとしても密閉空間で暑そうだ。

>>533
ナンシーの戦いはイマイチですかそうですか
…誤爆だよな?
536世界@名無史さん:2006/07/10(月) 13:20:04 0
ブルゴーニュ公家の食卓の様子を誰か再現してくれないかなあ。
一回でいいからブルゴーニュ流の豪勢な食卓をリアルで見てみたい。
537世界@名無史さん:2006/07/12(水) 05:55:23 0
現代人がみたら貧相なんじゃないか?
538世界@名無史さん :2006/07/14(金) 01:53:01 0
豪快な鳥獣の丸焼きとかは、現代と変わらんでしょ。
539世界@名無史さん:2006/07/14(金) 20:39:29 0
ローマや清朝の貴族には負ける
540世界@名無史さん :2006/07/16(日) 02:38:45 0
15世紀だから、新大陸の産物は、ブルゴーニュ公家の宴席には登場しなかったか。
そうすると、やっぱ、ローマ以下かな。
541世界@名無史さん:2006/07/16(日) 10:13:52 0
派手ではあってもまずそうだな
542世界@名無史さん:2006/07/17(月) 22:07:07 0
test
543世界@名無史さん :2006/07/18(火) 17:32:18 0
そういや、この頃のフランス・ブルゴーニュじゃ、手づかみで
食べてたんだよね。
544世界@名無史さん:2006/07/18(火) 20:08:46 O
この時代はスプーンとかってまだ無かったっけ?
545世界@名無史さん :2006/07/19(水) 02:00:20 0
スプーンはあったんじゃないの??
スープとか、飲めなくて困るでしょ。
ナイフとフォークのイタリアからフランスへの導入の話はよく出てくるけど、
スプーンは言及されないから、もともとあったと思われ。
546世界@名無史さん:2006/07/22(土) 06:27:09 0
百科事典によると
・ギリシャ・ローマ時代には給仕用のスプーンはあったが、基本的には食器から直接orパンを浸して食べていた
・中世になるとスープを入れた容器とスプーンを回して交代で食べていた
・その後旅行や宴会の際に自分用のスプーンを持ち歩くように
とあるな。
547世界@名無史さん:2006/07/23(日) 20:57:17 0

ヨーロッパとはローマとゲルマンとケルトとヘブライの混合体である!
それは古代末期、ライン川中流のローマ軍駐留基地と植民都市群において
ケルトとローマの混血児たるガロ・ローマ人とゲルマン人が融合し、
かつその緊張のなかにミトラ教やキリスト教といった東方諸宗教が浸透するなかに萌芽を生じた!

ゆえにヨーロッパの原点はラインの流域であり、ヨーロッパ文明はこの線上から東西に拡張した!
ヨーロッパの地理的中心も文明的中心も歴史的原点も、すべてはライン中流域である!!


すげーなブルゴーニュ。この地政学的重要性。
548世界@名無史さん:2006/07/23(日) 21:01:09 0
ついでに現代ヨーロッパの経済的中心もライン流域から北海を取り巻く一帯にかけてだな。
古代ローマの北方防衛線そのままに、アルペスの北から南ブリタニアに続いてる。
夜の衛星写真を見れば光の帯が一目瞭然だ。


ブルゴーニュの成立も衰退は必然的だったのかね。
549世界@名無史さん:2006/07/31(月) 13:28:21 0
肉類をよく食べるヨーロッパでフォークとナイフの発明が比較的遅かったっていう
のが不思議だな。もっと前からフォーク・ナイフに相当する道具があったんじゃな
いかって勘繰りたくなる。
550世界@名無史さん:2006/07/31(月) 22:57:02 0
手と歯じゃないのか?
551世界@名無史さん:2006/08/01(火) 12:36:31 0
やっぱり手づかみなの?
552世界@名無史さん:2006/08/17(木) 14:02:33 O
浮上
553世界@名無史さん:2006/09/09(土) 22:55:36 0
食卓のナイフじゃなくて
剣に突き刺して食っていたとかないの
554世界@名無史さん:2006/09/11(月) 12:31:57 0
突進公が戦死したあとルイ11世がブルゴーニュ公領とフランシュ・コンテを
奪っていったけど、フランシュ・コンテってもともと神聖ローマ帝国領じゃ
なかったっけ?神聖ローマ帝国側はこれに対して何も言わなかったの?
555世界@名無史さん:2006/09/11(月) 17:10:23 0
一応短期的には、1482年のアラスの和で、
マルグリット・ドートリッシュとシャルル8世の結婚の際に婚資としてフランスに譲渡される形になり、
(↑マリー&マクシミリアンの娘)
後にシャルルがマルグリットと別れてアンヌ・ド・ブルターニュと再婚した際に返還。
(シャルルはブルターニュの併合を優先した。)

いずれにせよ、この時代はフランスとしても帝国の封として領有するわけだから、
法的には問題無いと言えば問題ないです。
ただパワーバランスの点からは16、17世紀と、
ハプスブルクvsヴァロワ(ブルボン)対決の焦点の一つとして係争地であり続けます。
(最終的にフランス王国に併合されるのはルイ14世の時。)

フランシュ・コンテの話です。
556世界@名無史さん :2006/09/13(水) 00:46:53 0
>>555
シャルル8世は、マルグリッドと別れなければ、
ハプスブルク領土の相続人になれたんですか??
ブルターニュ併合に焦って、フランス・オーストリア帝国を
失ったの??
557世界@名無史さん:2006/09/13(水) 00:54:23 0
>>556
なれない。
フィリップがいたから。
つーか、フランシュ・コンテにもフランス王からのレーエンとドイツ王からのレーエンとあったような。
ライン西岸のレーエンは百年戦争以前からフランス王が貨幣レーエンばら撒いてたから錯綜してる。
558世界@名無史さん:2006/09/13(水) 22:08:53 0
>ライン西岸のレーエンは百年戦争以前からフランス王が貨幣レーエンばら撒いてたから
>錯綜してる。

ルイ14世のレユニオン政策の根拠になったポイントですね。
(↑実はあそこはうちのシマだった、という法的イチャモンつけ作戦)
559世界@名無史さん :2006/09/14(木) 16:08:58 0
>>557
もちろん、ハプルブルク領全部は無理でも、
あれこれ横槍入れて、ある程度かっ攫うことはできたのでは。
ネーデルランドとか。
560世界@名無史さん:2006/09/22(金) 13:15:34 0
>>559
そのころのフランスの政策がイタリア寄りになってたから、そこまで手が
回らなかったのかも。ネーデルラントは自治の気風が強いしフランス領に
できたとしても苦労するだけかもね。
561世界@名無史さん:2006/09/22(金) 21:59:42 0
>>559
無理です。当時の状況を確認し直せば分かる事。
562世界@名無史さん :2006/09/25(月) 23:45:27 0
ヴァロア系ブルゴーニュ家って、現代フランスでの人気ってどうなんだろ。
時代劇ドラマ・映画とかになったのってあるんですか??
563世界@名無史さん:2006/09/26(火) 16:28:51 0
百年戦争で腐るほど話題になっとりますがな。
564世界@名無史さん:2006/09/28(木) 12:41:45 0
切手が発行されてるくらいだから人気もそれなりなんじゃない?
565世界@名無史さん:2006/10/03(火) 12:58:32 0
ttp://synnthor.free.fr/PLAYMOLIVIER/ducdebourgogne01.htm
ドイツ製のおもちゃ・playmobilでフィリップ善良公を忠実に再現してる。
完成度めちゃくちゃ高いw
566ぬこ好き講座:2006/10/03(火) 14:24:37 0
>>565
ヘルメットでか過ぎじゃないのかw…戦場でこんなん出てきたら、笑うかもしれんw
まさにフィリップ=ル・ボン〜♪って感じだな
567世界@名無史さん:2006/10/20(金) 13:13:49 0
フランス国内でシャルル突進公が果たして人気があるのかどうか気になる
568世界@名無史さん:2006/11/06(月) 16:02:35 0
フィリップ美公の時代のブルゴーニュ公国は、彼自身が統治に関わっていたとか
そういうことはなかったの?周辺貴族が彼を操り人形みたいにして好き勝手にし
ていたんでしょうか?
569世界@名無史さん:2006/11/28(火) 12:51:58 0
質問が来てるようなので定期age
570世界@名無史さん:2006/12/22(金) 13:37:45 0
クリスマスはナンシーでage
ところで、ラエス・デ・リントゥレってリエージュの貴族なんだよね。
相当力を持ってたから、権力を削がれたくないがためにシャルルに対抗したのか?
シャルルの代に入って一時権力を剥奪されたクロワ家と同じように公国内でもそれ
なりの地位はあったのかね?
571世界@名無史さん:2007/01/23(火) 19:08:02 0
572世界@名無史さん :2007/01/26(金) 13:59:49 0
山川出版のフランス史の、百年戦争のトコ読み返してたら、(書き手は堀越先生)
1420年代の複雑きわまる政情の中での、ブルゴーニュに姉妹の結婚の記述が気になった。

フィリップ善良公兄妹の、マルグリットは、アルチュール・ド・リシュモンと、
アンヌは、ベドフォード公と結婚するんだけど、
この政略結婚の背景が、異様に複雑すぎる。

アンヌ・ベドフォード公の結婚は、イギリス・ブルゴーニュ同盟強化の役割としていい。
しかるに、マルグリット・アルチュールの結婚は??
当時、ネーデルランド継承戦争で、善良公がイギリスとギクシャクしてたから、
親シャルル7世のアルチュールと縁組して、シャルル7世政権との関係も強化しようってこと?
アルチュールがフランス王国大元帥として、シャルル7世政権に参加するのって、
この後だっけ??

してみると、ブルゴーニュ姉妹の結婚は、善良公による英仏中立政策(二股外交)
の表れってこと?
573世界@名無史さん:2007/02/28(水) 13:15:22 0
>>572
もしそうだとしたら、善良公って心底食えない奴だよね。
フランスもイングランドも善良公に関しては「よくわからない奴」と不気味がっていたんじゃないか?
574世界@名無史さん:2007/03/02(金) 22:32:36 0
ところでAge of Empires IIというゲームを知ってるか?
もう8年前のゲームなんだが、これがなかなか面白い。
中世を舞台とした本作はRTSといういわゆるリアルタイム進行型の戦略ゲーム。
経済を発展させ、資源を増やし、軍隊を作って敵国に攻め入る過程で
プレイヤーの戦略と判断力が直に反映される。
特に対人戦が熱い。もし興味があったらとりあえず無料の体験版をやってみてくれ。
体験版とはいえかなりやり込める。5年前のPCでもサクサク動く。

体験版ダウンロード先。
http://www.microsoft.com/japan/games/age2/trial_japan.aspx

現行の体験版スレ。
http://game11.2ch.net/test/read.cgi/netgame/1170085841/l50
575世界@名無史さん:2007/03/02(金) 23:36:22 0
>>574
マルチイクナイ
576世界@名無史さん:2007/03/23(金) 22:16:22 0
お菓子みたいな名前
577世界@名無史さん:2007/03/24(土) 14:08:59 0
ブルボンのほうがお菓子っぽいと思うぞw
578世界@名無史さん:2007/03/24(土) 14:10:52 0
過疎ってるのであげとく
579世界@名無史さん:2007/04/04(水) 19:25:59 0
ブルゴーニュといえば、いまじゃワインだろ。
あと、いろいろ特産名産のある豊かな土地らしいね。
もっとも、ヴァロワ朝ブルゴーニュの本拠地は、ネーデルランドだが。
ややこしいね。
当時は、ブルゴーニュ・フランシュコンテより、
ネーデルランドの方が発展してたんだっけ??
580世界@名無史さん:2007/04/04(水) 19:54:39 0
マックス時代の公国は嫁さんが死んでからとその前とだいぶ広さも違う。
フィリップ美公の時代のブルゴーニュ公国は小さくなっていると思う。
フランスに併合された方はどんな気持ちだったんだろう。
581質問してよい?:2007/04/04(水) 19:56:59 0
南のアルル公国は、いまのプロバンスに近いと見てよい?

ならば、サボイ公国とも文化的には近いと見てよい?
いまはフランス領だが。
582世界@名無史さん
>>580
>嫁さんが死んでからとその前とだいぶ広さも違う。
嫁さんて誰??突進公シャルルの娘マリー??
フィリップ美公の頃は、ブルゴーニュはフランス王国領だから、
もう「ブルゴーニュ公国」は存在しないでしょ。
フィリップ美公は称号だけでも「ブルゴーニュ」と
名乗ってたの??