1 :
世界@名無史さん :
05/02/06 10:20:46 0 イングランド王エドワード一世の情報求ム! 王の生い立ち・業績・容姿性格… なんでもいいので、どうか皆様の知恵をお貸し下さい! よろしくお願いします!m(_ _)m!
2 :
世界@名無史さん :05/02/06 10:27:27 0
英王として初めて息子を「プリンスオブウェールズ」と名乗らせたんだっけ?
3 :
世界@名無史さん :05/02/06 10:40:13 0
ウェールズの反乱を鎮圧するとき「英語を話せないウェールズ生まれのプリンス(諸侯)から ウェールズ公(プリンス・オブ・ウェールズ)を任命するから」とウェールズ諸侯の多くを味方につけた。 鎮圧後妻を連れてウェールズを行幸中に妻が産気づき王子(チャールズ2世)を出産。 「ウェールズ生まれの英語を話せないプリンスだ」と言って息子をプリンス・オブ・ウェールズに任命してしまった。
とてつもない偉丈夫で、同時代では周囲の人間よりも頭一つでかかったという。 18世紀に棺が開けられた時の記録では、身長6フィート2インチ。 さすが Longshanks(長すね王)の異名は伊達ではない。
ググればいいだけだと思うんんだけど、なんでこんなことにいちいちスレたてんの?
折角だからLlywelinとかOwain Glyndwrとかの話をしちゃうってのは? さすがにこっち方面は人がいなさすぎるか。
ホント、まずググって頂きたい。 〜〜容姿に関して〜〜 とりあえず、ヘンリー3世の像はゲムーの『珍技巣ハーン』の肖像と似ているが、 そのヘンリー3世の横のエドワード一世の像は『チンギス』の香具師とはにていません。
連カキで申し訳ないが・・・・
>>4 プランタジの人は大柄な人が多かったみたいですね。
9 :
世界@名無史さん :2005/03/23(水) 09:33:20 0
ジョン様のご令孫age
10 :
世界@名無史さん :2005/03/23(水) 10:19:11 0
最初のイングランド風の名前の王。 エァドワルド懺悔王はイングランド前史の王。
11 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 15:50:58 0
エドワードって名前は懺悔王に由来するんですね。 名付け親は確か、レスター伯シモン・ド・モンフォール。 初のアングロサクソン風の名前をつけたということですが、 どんな思いでつけたんでしょね。 ねこ様来ないかなあ…
12 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 18:26:07 0
単純にだったら森護氏の著書「英国王室史話」を読めばいいのでは。歴代の国王について書いてありますよ。数年前に文庫化もして、求めやすいし、肖像画も歴代付いていますよ。 メル・ギブソンが監督主演した、映画・・・題名忘れました〜これでのエドワード1世はまったく違いますね。
置き土産乙 が、全部英語読みだな。サウェリンにダヴェズにアベラストゥイスもみんな違和感ばりばり(笑
16 :
世界@名無史さん :2005/03/30(水) 16:34:15 0
>>13 息子のホモ達を窓から投げ落として殺した人?
17 :
世界@名無史さん :2005/03/31(木) 12:52:25 0
エドワード1世は、子供のころに父王ともに逮捕・幽閉の憂き目に会ってるんだよね。 イングランドに限らず、中世ヨーロッパには貴族たちが国王を逮捕・幽閉するという 例は多いね。
>>17 逆にそれが国王の権威を象徴していると言えます。
諸侯の中に埋没してしまう実力でも、権威は誰もが認めていた事の
証明として、堀米庸三氏は中世西欧における国王殺害数の少なさを
挙げています。
19 :
世界@名無史さん :2005/03/31(木) 14:16:09 0
>>18 中国・ビザンツ・イスラーム圏では王や皇帝をあっさり殺して、
新しい王朝を開く例が多いけど、
ヨーロッパでは血統意識というか、「神に聖別された王」
という意識が強いんでしょうか?
>>19 ヨーロッパの王はゲルマン民族時代からの、祭祀者としての性格を
持ち続けていました。よって血統よりも実力が重視される風潮が高まった
中世初期においても、例外的に血統の神聖さが強調されています。
重要なのは国王という地位にではなく、その家全体に敬意が持たれていたと
いう事です。
21 :
世界@名無史さん :2005/03/31(木) 15:06:51 0
>>18 スコットランド王で天寿を全うした人はほとんどいないんですが。
暗殺、戦死、処刑、事故死・・・
>>21 この場合、処刑だけを問題とすべきじゃないか?
暗殺という方法自体、対象を正々堂々(?)と殺せない理由が
あるから実行されるわけだし。
事故死はどうしようもないし、戦死はゲルマン民族の間でも名誉ある結果。
スコットランド王の起源というか、元来の役割を考える必要もあるかも。
血統の神聖さだ?どこの話だ。 ノルマンの血統にどういう神聖さがあるんだ?
>>24 ノルマンも部族制だったろうが。
その頃からの話って事。『ゲルマニア』あたりの解説書を読もう。
ヨーロッパの王権は、
1.血縁カリスマ
2.キリスト教的理念(キリスト教を擁護する香具師に支配の正統性アリ)
3.選挙王政的な原理(「人々」or「王国の共同体」のためになる香具師に支配の正統性アリ)
の3つによって複合的に支えられていた。
だから
>>17 に戻って考えてみると、
>中世ヨーロッパには貴族たちが国王を逮捕・幽閉するという例は多いね。
という指摘は、まず、選挙王政的な原理の現れとして見るのが普通なんじゃないの?
>>26 それは時代や地域によってかなり異なると思う。
まずありきは1で、3はそれの補完ないしは代替要素である場合が多い。
2に関してはカロリング朝成立期には血統を否定する為に使われたし
皇帝権への対抗(模倣)として導入された例(フランスとか)もある。
28 :
世界@名無史さん :2005/03/31(木) 18:08:30 0
ヨーロッパの国王で臣下にしい逆された人というと、 カスティーリャ王ペドロ1世(異母兄のエンリケ・デ・トラスタマラに殺害される)、 イングランド王リチャード2世(ヘンリー・ボリンブロクによって捕らえられ、 餓死させられる)とかの例があるけど…
血統を強調するのはどうかと思う。 イングランドの場合は王位につく際には選挙王政に基ずく点が強調されることが多い。 有名なのはスティブン王の例だけど、 ジョン王も即位の際には選挙された王といういう点を強く主張していた。 血統に基ずく相続に関する取り決めが固まるのはヘンリー三世が即位する辺りで、 それ以前は候補者が前王の死後直ぐに王になるってこともなかった。 イングランド王ウィリアム1世とか、 シチリア王ロゲリウスなんかは血統がどうのとかいえる立場じゃないし。 エドワードが若い頃に幽閉された時は王の権威以前に 幽閉した側のシモン・ド・モンフォールの立場の弱さも大いに関係があると思う。 シモンは王党派との和解の可能性を探ってたし、同士とも衝突が多かったから、 下手に王家の者に手を出せる状況になかったみたい。 王の幽閉なんかだと政治的な駆け引きの道具としてとか、身代金を取る目的とかも多いよ。 リチャードは身代金の支払い完了と同時に解放されてるしね。 ヘンリー三世とエドワードの幽閉もどちらかと言えば政治的な駆け引きの道具としての側面が強いと思う。 フランス王ジャン二世とか、スコットランド王デイヴィド二世の場合も政治的に利用することと身代金目当てみたいだし。
30 :
世界@名無史さん :2005/03/31(木) 19:44:01 0
>>25 初代ノルマンディー公のロロって高貴な血統だったのですか?
略奪団の親玉には違いないんでしょうけど、
単に略奪行為を働く中で頭角をあらわした流民ってことはないのですか?
31 :
世界@名無史さん :2005/03/31(木) 19:49:56 0
ノルマンディー公ウィリアムは、1027年頃、ノルマン公ロベール2世と 皮なめし職人の娘、アーレッテとの間に庶子として生まれた (この時代、イングランドでは嫡子と庶子の間に家系や王位の継承に ついての差別はまだ存在しなかった。庶子に正統承継者の道が 閉ざされるのはヘンリー1世の時代になってからである)。
32 :
世界@名無史さん :2005/03/31(木) 19:51:31 0
33 :
世界@名無史さん :2005/03/31(木) 19:55:49 0
>>29 メロヴィング朝の名祖のメロヴェウスは、母親とネプチューン(海の神)
が交わって生まれたとか、
サクソン七王国の王家は、先祖がゲルマンの戦いの神ウォーデンだとか
いう伝説がありますが、こういう考え方はいつまで残っていたんでしょうか?
ロイヤル・タッチ(王が手を触れると病気が治癒する)とかいう迷信は
この影響?
>>29 選ばれる事は王の正統性に深く影響を与えますが
この場合には被選挙者の資格として、ある種の血統が重視されていた事
は疑いありません。
つまりこの場合の選挙とは、王家の中から適切なものを選び出す行為に
他なりません。(勿論、後代になると例外も多く発生します)
ノルマン・コンケストやシチリアの征服行などは中世西欧史を考える上では
例外的な部類に属します。
(とはいえ、後者が非常に家族的な組織からスタートしたという事には異論はないと思いますが)
中世初期において、血統とは父系を指す事が圧倒的です。
ですから嫡出の論議は別問題と考えるのが妥当です。
カロリング王家も庶出の子弟で頭を悩ます事が多かったわけで。
この場合の血統とは、狭い範囲ではなく一族全体を含むものと考えて良いでしょう。
>>33 メロヴィング王家の血統への畏怖はアルヌルフィンガー氏族の宮宰(後のカロリング王家)が
宮廷の実権を握った後も根強く残りました。
王家の長髪には霊威が宿るとされ、ピピンは傀儡の国王を廃する時に
この髪を切っています。
この廃位の際に、彼が国王家に体現されたゲルマン的な権威に対抗する為に
キリスト教会を利用しています。
ロイヤル・タッチには様々な要素が流入されているようです。
例えばローマ皇帝にあった宗教的な権威の模倣や、ゲルマン部族時代から
王が持つ特別の救済力といった思想などでしょうか。
(こちらに関しては、これだけで専門的な一分野を為していて門外漢である
私には明確な答えは出せません。)
35 :
世界@名無史さん :2005/03/31(木) 20:31:43 0
>>29 スティーブンスは例外的な状況だったでしょう。
彼の時期にイングランドは混乱状態に陥ったのは、彼の王権に
血統の証明が無かったから。だからこそ諸侯からの推挙を強調しているんだし。
>>30 最初っから高貴な血統があるわけない。
重要なのはその集団で指導的な地位にいたという事。
36 :
世界@名無史さん :2005/03/31(木) 21:01:33 0
>>21 スコットランドの場合、王位継承権者には母系も含まれ、男系長子相続
ではなかった。タニストリーという王位継承制度は、現在の王の孫までを含む
王族の中から、国王に相応しい人物が国王存命中に主要な族長たち
の会議で次王に選ばれた。婚姻を通じて大氏族は姻戚関係になって
いるので、母系を含む候補者は多数になった。
マルコム3世の時代にタニストリー制度は終わりを告げる。
神聖王権・呪術王権という発想は汎ヨーロッパ的だろうけど、 ロイヤル・タッチ自体は英仏限定じゃないかな。 マルク・ブロックの「王の奇蹟」だと、 ある特定の時期(フランスだとフィリップ1世、英国もその前後)に制度化され整序された儀式である、 という理解だったと思うけど。 (後に皇帝が真似しようとしたときにはtoo lateだったとか。)
38 :
世界@名無史さん :2005/03/31(木) 21:26:12 0
フランク王国のサリカ法典では女子による王位継承が禁止されていたが、 イングランドやスペインではそうではないね。 こういう違いはどこから生まれてきたんだろうか。 クヌート法典、リブアリア法典、ブルグンド法典、西ゴート法典など、 ゲルマン諸国の法典の特徴について知りたい。
39 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 11:32:11 0
>>12 映画「ブレイブハート」では極悪非道な王のように描かれていたけど、
実際はかなり英邁な面を持った王ですね。
ソフィー・マルソー演ずる王太子妃のイザベルは純情可憐なお姫様ですが、
この女性は後に夫のエドワード2世を廃位して息子を新国王に立て、最後には
夫を暗殺しています。その殺し方は遺体に外傷が残らぬよう、真っ赤に熱した
焼火箸を肛門から突き刺すというものでした。
40 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 11:35:43 0
>>16 そのホモ達のモデルはおそらくエドワード2世の幼なじみである
ピエール・ドゥ・ギャヴスタン。
>>38 フランクというかサリ族では禁止されてたけど
フランスでは禁止されてなかったよ。あれはもう一度引っ張り出してきたの。
42 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 14:56:14 0
43 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 15:29:22 0
エドワード1世がスコットランド遠征の軍費のために召集した議会は、 模範議会と称され以後の手本になった。 ○貴族院:僧侶・貴族を成員とする。 ○庶民院:各州2名の騎士と各都市2名の市民。
44 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 15:50:30 0
江戸語(エド・ワード)
45 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 17:15:20 0
46 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 17:20:41 0
>>33 うーん、わかんない。聖人伝なんかによく出てくる話だね。
黄金伝説を読むと色々出てくる。ロイヤル・タッチはむしろ聖書の影響が大きいと思う。
今すぐ思いつくものというと
たしかマタイ記にイエスが目の見えない人の目を触っただけで治すって話があったね。
だけど、祖先が神とか言ったら教会が怒りそう。
>>34 これは2つ質問しないと話が噛み合わない気がする。
血統とか家を王位継承の絶対(or 必要)条件と見てるの、
それとも王位継承を有利にする条件の一つ(有力な条件)と見ているの?
それからもし後者だとしたら、いつの時期に前者になったと思う?
前者と見ているように見えるけど。
私は後者で、相続による王位継承が確実になるのはエドワード1世のころと思っているよ。
選挙王政の形から12世紀を通して変化し、12世紀末頃にようやく相続が当たり前になり、
13世紀に相続の方法が明確な形になって、相続による王位継承が固まったって流れじゃないかな。
統治開始年の記録についてもエドワード2世からは前王の死後の翌日から統治開始と記録されるけど、
それ以前は戴冠式の日から統治開始ってことになる。
前王の死から戴冠式までの空白期間は2週間から2ヶ月くらいかな。
その間は王位予定者とか名乗ってるみたいだね。当然複数の王位予定者が現れることもある。
原因は相続の方法がまだ固まっていないからじゃないかな。
それと王の権威は戴冠式によって与えられるってことみたいだね。
普通、最も支持を集めやすいのが王家ってだけで、
条件が整えば別の家の者が王になる可能性だってあるってことだと思うよ。
それが起きたのがハロルドだし、スティブンだし、ヘンリー2世だし、
可能性が生まれた例だとジョン王の後をルイが継ぎそうになってるね。
それで実力で勝ち取ったのが、ウィリアムであり、ロゲリウスなんじゃないかな。
>>39-40 エドワード2世の映画もあったね。
シェイクスピアと同時代の劇作家クリストファー・マーロウ原作の
性描写にぼかしが入るほどの凄い映画。
>>45-46 いってみたいな.......
>>48 ですから、相続候補に挙がるのは原則として国王の一族(ジッペ)に
属している必要があるのです。父系に限るのか、それとも母系も含むかは
地域や時代によって差が発生しているので、一概にいう事は出来ませんが。
そこから選挙によって選ばれるか、ジッペ内でのフェーデで決着するのかも
非常に差があるところだと思います。
>>36 氏が例を挙げられていますね。
これを考える上では
>>37 氏の指摘されている『神聖なる王権』という概念が重要です。
どうも貴方の書き込みを見ていると、血統=国王の子弟と考えられているように思いますが
これは間違いであって、非常に広い範囲が王族として見なされている場合が多いですよ。
これに対して国王は自身の統治権の強化と自身の子弟に相続させる為に
長子を共同統治者に指名するという現象が起こりました。
ここから事実上の世襲に発展するのは遠い話ではありません。
代表例としてはカペー朝フランスが挙げられるでしょうか。
もしかするとこれが貴方の言う所の“相続による王位継承”なのかも知れません。
51 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 18:45:50 0
>>21 スコットランド王では、
ダンカン1世はマクベスに殺害された。
マクベスはマルコム・カンモー(ダンカン1世の子)に倒された。
ルーラッハ(マクベスの継子)もまたマルコム・カンモーに殺害された。
ダンカン2世は弟のドナルド3世に殺害されて王位を奪われた。
ドナルド3世はエドガーに敗れて捕らえられ、目を刳りぬかれて追放された。
ジェームズ1世は、パースの修道院に泊まっていたところをロバート・グレアム
ら3人の貴族に急襲され、暗殺された。
52 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 18:49:35 0
>>3 後にイングランドの国民的武器となるロングボウは、対ウェールズ戦において、
騎士の装甲を無効化する武器としてイングランド軍を悩ませたが、エドワード
1世はこれを抜け目なく対スコットランド戦で取り入れた。雲霞のごとき
ロングボウの矢幕によってシルトロンの陣形を崩し、そこへ騎士部隊が突入
して蹂躙するという、騎士とロングボウの連携作戦は効果絶大であった。
こうした戦術によって、ウォレス率いるスコットランド軍は、1298年、
フォルーカクの戦いでイングランド軍に完膚なきまでに叩きのめされた。
53 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 19:29:10 0
>>48 王族の宗教的権威って、概説書レベルでも普通に出てくると思うんだが・・・。
それともアレか、猫は新進気鋭の歴史学者で、通説に対して真っ向から反対論を
ブチ上げてるって奴なのか?
怒っちゃやだよ。喧嘩腰で来られるとこっちも身構えなくちゃならなくなるからね。
それにおまえはこう考えてるみたいな決めつけもやだよ。
質問してどこがズレてるか、相手はどう考えてるのかを確認した方が建設的じゃないかな。
>>例外的に血統の神聖さが強調されています。
重要なのは国王という地位にではなく、その家全体に敬意が持たれていたと
いう事です。
>>王家の中から適切なものを選び出す行為に他なりません。
ここがひっかかってね。家のことを指してるように見えるね。
だから私は家単位で、相続の点から考えてみたんだけど。
特別な家ってなんだろうと思ったのと、
王家とは別の家から王が出てるのになんでだろうかと思ったんだ。
血統って言葉を文に交ぜたのはマズかったかな。
正直、家の成員くらいの意味で余り意識せずに使ってたね。
確か家って同じ祖先の血を引くという意識を持った男系の血縁集団でしょ。
で、きくけど上の文は家じゃなくて王に連なる一族のことを指してるってこと?
>>国王の一族(ジッペ)に属している必要があるのです。
それと、今頃、家をジッペに変えたのはなぜ、意識せず家って言葉使ってたってこと?
>>53 そんなことはないよ。単に私が無知なだけ。
それに王族の宗教的権威は否定してないよ。
それは大きいとはいえ一要素に過ぎなくて、王の権威付けには他の要素もあるよって言おうとしただけ。
元々は王の権威って何って感じの話だからね。
>>54 ジッペってのは家の歴史的用語ですよ。
家というと両親子供みたいに、現在の概念で考えちゃうから
わざわざ区別したんだと思う。
にゃあにゃあさんが分かり易いようにって事じゃないですか?
56 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 22:44:51 0
>>54 何に引っかかってるのかがよく分からん罠。
この場合の“王に連なる一族”ってのは何なんだ?
あと王の権威付けの他の要素ってのも気になるな。
57 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 22:56:53 0
ttp://www.ff.iij4u.or.jp/~yeelen/system/law/treason.htm 興味深いことに、「七つの大逆罪」のうち、現代から見て最も反逆と呼ぶに
相応しく、現に今もイギリスで反逆罪を構成する「国王に戦争を仕掛けること」
(3)は、最も遅く成立した大逆罪であった。
この一見奇妙に思える事実は、当時全盛を迎えていた封建制度の特質に原因を
有する。封建制のもとにおいては、封臣が領主や国王に戦争を仕掛けても、
それだけで反逆罪となるわけではなかった。封臣の領主に対する忠誠は絶対的
な隷従ではなく、あくまで条件付きの服従であって、もし領主が永続的に不正
を行うならば、封臣は封建的紐帯が破壊されたとして公然と領主に反抗する
ことが認められていた。
58 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 22:58:05 0
1136年、即位したばかりのスティーブンは、新王への忠誠を拒む エクセター城を包囲戦の末に陥落させながら、投降した城の守備隊を 処刑することなく許している。いかにも寛大な処置のようだが、 封建制度の原理からは、エクセターの忠誠拒絶と軍事的抵抗は決して 反逆ではなかったのである。 また、ノルマン・コンクェスト後の3世紀ほどの間、イングランドの 貴族の多くはイングランド王とフランス王の両方に対して忠誠を 誓っていた。それどころか、フランス内に広大な領地をもつイングランド 王自身がフランス王の封臣の立場にあった。こうした状況のもとで イングランドとフランスの間で戦争が勃発した場合、イングランド貴族 がフランス王についたというだけで反逆罪に問うことは不可能だった。
>>54 家をジッペに言い換えたのは、より正確を期せるかと思ったまでの事です。
どうも家では語彙が広すぎて、誤解されているように感じたので。
王家というと王の家族を連想する場合もあるのですが、この場合はもっと広い範囲
つまり同一の始祖を持った人々と考えてください。
王家(王のジッペ)には血統的栄光があると考えられていましたが
その家に宿る救済力(つまり権威ですね)が失われたと判断されたり
または完全に断絶した際には他の家に移る事は有り得ました。
これは家制度を考える上での基本概念ですので、当然、時代変遷や例外は
有り得ます。それで反論をされても、原則そうなっているとしか言えませんが・・・。
>>57-58 『誠実な主君ありて誠実な臣下あり』という封建制度の基本概念です。
これは王の権威とは別の次元で成立しているので、分けて考える必要があります。
60 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 23:19:04 0
>>54 どっちかっていうと、猫の方が喧嘩腰だぞ。
王の権威ってのは、宗教的権威+軍権が基本を構成しているとされる。
クローヴィスが自分に楯突いた臣下を殺すのに、軍権が適用される閲兵式まで
待たなければならなかったというエピソードが好例だな。
これが時代を降るにつれて、常時適用されるようになっていったわけ。
これが分からんとなるとお手上げ。もっと本嫁としか言いようがないな。
61 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 23:42:29 0
西欧の封建制度は、対等の独立人同士の相互不可侵の誓約。
契約を破った場合、いずれの側からも契約を破棄できる。
>>59 ところで、ドイツ語にグナーデという言葉がありますが、君主も人民も
聖なる法秩序に拘束されていて、君主が神の法を破った場合、臣下が
神の法の名の下において抵抗する権利がある、とか。
>>61 グナーデはGnadeで宜しいんでしょうか?
とすると意味は“恩赦”ですので、法秩序の単語ではないように思います。
(不勉強に付き、確答できません。申し訳ないですが)
しかし王も民衆(自由人)も共通の法律(人民法)の下に置かれるというのは
ゲルマン法制史においては正しい考え方だと思います。
ミッタイスによれば、初期のフランク王国においては国王は人民法に新たな要素を
付け加える事は出来ても、既存の法を一方的に廃止・変更する事は出来ませんでした。
喧嘩腰に見えた。ごめんね。それは怯えてるからだよ。 うーん。王権の件はまだ理解が足りないか。 トンヌラさん、煩わせてごめんなさい。まだわだかまりがあるみたいです。 またしばらく頭を冷やしてきます。
>>63 にゃあにゃあは一体何が不思議なのか、そこをまず書いてみたら?
国王や王族の宗教的権威なり神聖性なりをどこまで一般化できるのかな? というのも教会は、国王自体の神聖性という考えをひどく嫌うでしょう。 (「漏れが聖別してやって始めて一人前なんだぞ」的な発想) だから、王や王族自体に属する呪術的な神聖性という概念が、 教会との綱引きでどう屈折していったか見る必要があると思う。 漏れ自身は、国王自身の祭祀者的性格っていう話は、 メロヴィング朝あたりっていうか、教皇改革あたりまでのような気もするけど・・・
66 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/02(土) 02:27:46 0
>>65 確かに、教皇革命(グレゴリウス改革)によってカトリック圏は大きく変わるね。
それ以前は“皇帝=キリストの代理人、教皇=使徒ペテロの代理人”という
考え方だったし。(インノケンティウス3世以降、ローマ教皇がキリストの
代理人を名乗るようになる)
教皇革命以前は、国王や皇帝は俗人とみなされておらず、いかなる人間よりも
高められて聖なる職位についているとみなされていた。
ただ、教会は批判しても、民衆レベルでは国王の神聖性という考えはかなり
後の時代まで残っていたんじゃないかと思う。
67 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/02(土) 03:04:59 0
>>65 その頃には国王を頂点とする封建体制が固まってた。
国王にはいてもらわないと各階層のバランスが崩れるわけだ。
教会が国王に宿ると考えられてた神聖性の否定にかかったのは確かだけど
その対抗案が教会による聖性の授与だったという事も事実でしょ。
王と教会の関係はその通りだけど、王と臣民との間の関係にはそれほど差異は無い筈。
sippeは普通家とは訳さないだろ。家と訳すとシュタウフェン家とかの家とごっちゃになるからな。 これは氏族、共同体、血縁者団体と訳すだろ。 家門、家、門閥は貴族に関してはgeschlechtの訳語だぜ。 geschlechtはsippeより範囲が狭いぞ。 俺も家といわれてるところにいきなりsippeといわれたら混乱するぞ。
69 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/02(土) 12:56:54 0
あっ!ねこさまだ!(今さら…) エドワード一世と王妃>> 幼少の頃は体が弱い子だったらしいですね。 あんなに大きくなるとは…(190cmくらいでしたっけ?) 何故か逞しくなって15才でカスティーリャのエリナーと結婚。 ちなみにエリナーのお父さんは聖フェルナンド三世。 (あ。エドワード一世の叔父あたるフランス王ルイ九世も列聖されてますね。) 奥さんとはらぶらぶだったらしく、浮気しなかったという。 リーズ城はエドワード一世がエリナーにあげたものだといいます。 『エリナー・クロス』は、エリナーの遺体をウェストミンスターアビーまで 運ぶのにエドワード一世がエリナーの棺が停まった場所に建てさせたもの。 子供16人いますよ。よく生みましたね…エリナーさま。 二番目の奥さんとの間にも三人子供います。 このうちの一人ケント伯エドマンドが、のちのち黒太子エドワードの奥さんになる 『フェア・メイド・オブ・ケント』ジョアンちゃんのお父さんです。 エリナーが亡くなってからは、九年間結婚しなかったみたいです。
70 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/02(土) 14:05:21 0
エドワード1世って聖地でバイバルスに暗殺されかけた人ですね?
>>68 確かに。トンヌラも軽率だな。
でも猫の言ってる同じ祖先の血を引くという意識を持った男系の血縁集団って
まさにジッペだろ。これで理解できんのが良く分からん。
しかし王家って定義も曖昧なんだな・・・。
いやsippeはもっと曖昧だ。男系とも限らん。それにこれは単純に血が繋がっているという意味じゃない。 幾つものgeschlechtを巻き込む血縁団体だ。 家をgeschlechtとするか、sippeとするかで食い違いが起きたんじゃないか。
>>72 つーか、トンヌラと猫のやり取りを見てるとジッペ云々はあんまり論点になってないな。
王制に血統は関わるか、関わらないかが焦点だと思うが。
それはともかく。
ジッペといっても固定的か開放的かで規模は変わってくるだろ。
宗教的権威云々の話をしてるんなら、この場合は固定的ジッペを念頭に置いて
解釈すると、まぁ間違いは無いんでは?
宗族的ジッペと特定すれば話は簡単だったと思われ。
そうかもな。最初から両者が固定的sippeを土台にすれば混乱がなかったのかもな。 トンヌラは開放的sippeを土台に猫は直系男系のgeschlechtを土台にしている。 それで互いに家というから混乱する。考える土台からして異なっている。話が噛み合うわけがない。 俺はこう感じたね。まあスレ違いの話題を延々としてもしょうがない。抜けるよ。
75 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/02(土) 20:40:13 0
>>69 エドワード黒太子って、カスティーリャのペドロ1世に肩入れして復位させるけど、
そのときにペドロ1世からもらったのが、英国王の王冠の中央にくっついている
巨大なルビー(実際はスピネルと判明している)。
ペドロ1世の娘2人は、エドワード黒太子の弟ランカスター公ジョン・オヴ・
ゴーントとヨーク公エドマンド・オヴ・ラングリーと結婚した。
>>74 どうも書き込み見てると猫は王制の相続に血統が絡む=世襲と勘違いしてる罠。
ジッペを猫は知らないようだから、話したところで議論は成立せんわね。
トンヌラももっと用語は厳密に使わないといけないだろ。
言われてみればスレ違いな話題だ。
選挙王制には血統が重要な要素であるという事でFAでOK?
そうだな。sippe概念を知らない奴の方が多いだろうからこの絡みを話す時は気を付けないといけないな。 重要な要素か。いいポイントだな。賛成だ。
>選挙王制には血統が重要な要素であるという事でFAでOK? 言われてみれば、現代の合衆国大統領も血統が重要だなw
>>78 それは事実上の問題でしょう。血統がもたらす諸特権があるかないかの話しで。
選挙王制における血族的栄光は、持ってないとスタートラインにすら並べなかったわけで。
でもアメリカというか欧米って、こういう面は強く残ってるみたいですね。
こらこら。スレ違いをいつまでやってるんだ。
>>79 必ずしもそうではないぞ。教会がそれを望まなかったからな。
Sachsenspiegel Landrecht 3.54.3 にも教会側の理念が表されてる。12か13世紀以降なら理論的には血統権は関係ない。
だからスタートラインに立つことはできる。だが血統権は事実上大きく作用したからないとかなり不利になるだろうな。
12世紀のドイツの二重選挙について調べてみればわかるんじゃないか。
それから上の話は王の権威の源泉はなにかという話じゃないのか。
>>26 にある通りだろ。ただし12世紀以降なら1を絶対とするのは俺も賛成しないな。
>>29 と
>>48 をみると猫もそういいたかっただけじゃないか。
トンヌラが血統権を絶対と見るのは12世紀以前を想定して話してるからなんだろう。
その意味だと家をgeschlechtかsippeとするかだけでなく時代までずれた議論をやっていたのか。
もしそうなら二人とも中世史を学んだとは思えないようなポカをやってるよな。
熱くなりすぎたか。
>>80 おいおいドイツ王権は最後まで血縁が重要視されてたぞ。
シュタウフェン朝崩壊後の選挙は、シュタウフェン王朝の血縁者を
意図的に外して選ばれてたし。
皇帝戴冠はキリスト教の保護者という理念上、教会の意図が強く出るのは当然だけど。
高期中世前後からは国制も固まってくるから、
>>67 で良いと思う。
そしてこの話題はスレ違いなわけだが。
>>20 は中世初期に話を限定してるんだから、正しいで終わりだろ。
当然だろ重要視してるぜ。絶対じゃないがな。
血統無視はあくまでもSachsenspiegel Landrecht 3.54.3 にも示された教会の理念としてだぜ。
教会はそれを実現しようと動いてるじゃないか。だからスタートラインには立てるがそこまでって事だろ。
>>20 は正しいぜ。だからトンヌラが12世紀以前を想定しているといってるんだろ。
何かへんか?というか
>>81 と
>>80 の対立点がみえんな。
>>82 正直スマンカッタ。言われてみると確かに同じ事言ってるな。
84 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 18:14:48 0
ところで、スレたてた
>>1 氏はまだここを見てる?
何か質問とかある?
85 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 20:17:17 0
>>16 >>40 ピエール・ドゥ・ギャヴスタンは、映画と違って実際には殺されておらず、
エドワード1世の死後、息子のエドワード2世は彼をコーンウォール伯に叙任。
その後も、枢密院議員、宮内庁長官への抜擢などに取り立て、貴族たちの反感を
買うことになります。
エドワード2世は父に似ぬ暗愚な国王で、1314年、スコットランド中部の
バノックバーンでロバート・ブルース率いるスコットランド軍に、将兵の
8割以上が死傷または捕虜になるという大敗北を喫し、1323年、事実上の
降伏である屈辱的な休戦条約を締結し、イングランドはスコットランドを
失いました。
87 :
世界@名無史さん :2005/04/05(火) 20:31:32 0
プランタジネット朝はリチャード2世をもって終わりますが、彼の死後、 スコットランドに自分がリチャードであると主張する若い男が現れ、 真のイングランド王として自分を支持するよう要求しました。 結局、この男は反逆罪でスコットランドからヘンリー4世に引渡され、 自らも王位簒奪者であるヘンリーによって処刑されます。 神聖ローマ帝国で偽フリードリヒ2世が現れたり、ロシアで偽ツアーリが 現れたりといった事件がありましたが、イングランドにもこういう例が あったんですね…
88 :
世界@名無史さん :2005/04/06(水) 22:27:37 0
ええ!!?ねこさん!! エドワード一世ってママが13才の時に生まれたんですカーーー(=o=;)!? ヘンリー三世って…ヘンリー三世って…!!(以下略) それはともかく何であんなに大きくなったんでしょ?虚弱児だったのに(。_。;) ヘンリー五世もそうですよね。…確か…
エレナー・オブ・プロヴァンス(1223−1291) エドワード1世(1239-1307) エレナーがヘンリー3世と結婚したのは1236年。
>>88-89 他の本も確認したところエリナーの生年について諸説あるみたいです。
森護先生は1226年と見ていて、石井美樹子先生は1224年頃、それで
>>89 によると1223年。
但し、森護先生は年代記が正しいのならって前提を付けてます。
根拠史料がわからないからなんとも言えないですが、
おそらく森護先生の根拠はマシュー・パリスの年代記だと思います。
パリスはけっこう危うい部分を多く持つ史料なので実際のところはわかりません。
プレストウィチは明言を避けているみたいに見えます。
私の参照資料名出しますね。
森護,英王室史話,大修館書店,1986,pp.89-121
石井美樹子,イギリス王妃たちの物語,朝日新聞社,1997,pp.147-180
michael prestwich,edward I,yale,1997(orig.ed.1988)
すみませんが、
>>89 の参照資料教えて頂けませんか?
だけど、中世に虚弱児で生き残るんだから運が強いのか、体は弱いけど精神力が強いのか、
いろいろと想像できますね。
>>87 この事件は知らなかった......
91 :
89 :2005/04/07(木) 21:40:26 0
>>90 The Penguin Dictionary of British History と、
Oxford Dictionary of British History です。
そもそもの元ネタは知らんけど。
けどまあ、少女を14でセクース、17で妊娠させたとなれば、今だとどっちみちナントカ条例違反やね。
>ヘンリー3世
>>87 ヨーク朝断絶の時も天一坊みたいな事件がありましたね。
パーキン・ウォーベック(Perkin Warbeck)→エドワード4世の息子ヨーク公リチャードを名乗る。
ランバート・シムネル(Lambert Simnel)→エドワード4世の甥ウォリック伯エドワードを名乗る。
>>90 読み物としては楽しいが、森護を史料扱いするのはどうだろう?
森護は史料でなく参照資料ととしているだけに見えるがな。 森護がマシューを史料にしてるってことだろ。
でも森護が怪しいって事には違いない罠。
>>90 を見てもそう見えるな。
森護は危うい史料を基に書いてるぞってことなんだろうからな。
そしてそれを意識しているようだってことだろ。
>>91 ありがとうございます。
今日他の本も調べてみたのですが、1223年生まれの方が有力に見えます。
17歳なら出産もそう厳しくないかも.........
でも今ならホントにナントカ条令違反で新聞沙汰ですね。
john carmi pasons(ed.),medieval queenship,new york,1993,p.67
>>92-95 森護先生の本はネタを拾うには面白くていいですよ。
森護先生が依拠したと思われるマシュー・パリスも
エピソードが多くて使い勝手のいい年代記みたいです。
王侯貴族の手紙なんかもたくさん収録してあってネタを拾うにはもってこいなんだと思います。
マシュー・パリスで収録されている手紙などはともかく、
エピソードの信頼性は森護先生ですら疑うようなものみたいですが..........
レーモン・ベレンガール5世 Ramón Berenguer V 1209-1245 プロヴァンス伯 妻:ベアトリス(父:サヴォイア伯トンマーゾ1世) 1221-1295 マルグリート(夫:フランス王聖ルイ9世) 1226?-1291 エレオノーレ(夫:イングランド王ヘンリー3世) ????-???? サンチャ(夫:コーンウォール伯リチャード) 1234-1267 ベアトリス (夫:アンジュー伯シャルル) ある意味、プロヴァンス伯最強。
98 :
世界@名無史さん :2005/04/09(土) 21:12:05 0
ヘンリーを条例違反で糾弾するなら、12歳(30歳以上年下) の嫁に軍事助力を求めたドイツのヘタレ赤ひげ王の立場は どうなる?こちらは嫁さんが20まで子供は生ませてないが。
99 :
世界@名無史さん :2005/04/10(日) 17:42:27 0
13歳はもう立派なレディだと聞きましたけど。 でも本当に13歳で産んだとしたら 中世ながらすごいですねえ(^^;)
100 :
世界@名無史さん :2005/04/10(日) 18:19:41 0
>>99 現在でも13歳では、一般的に出産能力はありません。
中世だと10歳で結婚しても、14歳になるまでは「白い結婚」が慣習ですが。
101 :
世界@名無史さん :2005/04/10(日) 21:08:54 0
つまり、初潮があって妊娠できるようになっても、骨盤はまだ出産できる形状に発達していない・・・か。
102 :
世界@名無史さん :2005/04/10(日) 21:20:48 0
あまり早すぎる段階で結婚させると、 兄妹のようになって第一子の出産が遅れます。 曾爺ちゃんが28歳のとき、曾婆ちゃんは13歳で嫁いできた。
103 :
世界@名無史さん :2005/04/11(月) 21:40:21 0
>>88 中世ヨーロッパでは、結婚の法定年齢は、
男子は14歳、女子は12歳ときいたけど…
ところで、「白い結婚」が続いた場合、床入れ式などは行われないの?
やるよ。足入れるだけの奴だけど。
105 :
世界@名無史さん :2005/04/11(月) 21:44:18 0
戦前の民法では男16歳、女14歳で結婚可
106 :
世界@名無史さん :2005/04/11(月) 21:44:54 0
107 :
世界@名無史さん :2005/04/13(水) 21:11:22 0
スコットランドは長い間クラン(氏族)意識が強く残っていたけど、 ウェールズの場合はどうだったんですか?
>>107 ウェールズには無いかもしれない。
少なくとも聞かないね。
スコットランドの連中とはちょいと違う流れだし>ウェールズ人。
かなり初期にクランの様な氏族意識は希薄になったのかもしれない。
ちなみにお土産物屋はでっちあげた民族衣装(緑のキルトとか)売ってますが、当然後代の商売用ですから
109 :
世界@名無史さん :2005/04/14(木) 10:59:48 0
同じケルトでもスコットランド、アイルランド、ウェールズ、ガリシア、 ブルターニュとまったく違うのが面白いな。
言語の差で言うとケルト系といっても大陸系のケルトと島嶼ケルトは違うわけで、同じ島嶼ケルトでも ゴイデリックと呼ばれるアイルランド、スコットランドのゲール語とブリソニックと呼ばれるウェールズ、 コーンウォール、ブルターニュ(ブルトン)はそれなりに系統が違う。 そこから見ると文化的な差異も何となく判るかな?という程度ではあるけどね。
111 :
世界@名無史さん :2005/04/15(金) 00:45:21 0
イングランド人は「ブレイブハート」についてどう思ってるんだろう。
112 :
世界@名無史さん :2005/04/15(金) 16:56:06 0
>>111 そーゆーところは懐が深いイングランド人(たぶん…)
113 :
世界@名無史さん :2005/04/16(土) 00:25:18 0
原始ゲルマン人は、五体満足でなければ王になれないという考え方があったけど、 ヨーロッパ諸国でこういう考え方が無くなったのはいつごろ?
114 :
朱由檢 :2005/04/16(土) 01:10:59 0
>>113 それはゲルマンじゃなくてローマじゃない?
先代皇帝の目を潰して身体的障害を理由に追放するでしょ。
>>114 それは身体障害者だから追放するのではなく、皇帝が不完全な存在になったから。
ゲルマンでも同じ。目を潰すことや腕、特に右腕の切断は対象者の権利を
奪うという意味合いがあった。
116 :
世界@名無史さん :2005/04/19(火) 19:43:29 0
中世のイングランド人に対する評判は、 「暴れん坊で喧嘩好き、しかも戦わせるとめっぽう強い」 というものだったらすぃ。
117 :
世界@名無史さん :2005/04/19(火) 21:35:26 0
身体的障害が王位の不適格事由となる話。
>>115 の意見は卵鶏論争。
違う。皇帝や王の資格の問題であって、彼は身体障害を負ったからではなく それによって資格を失ったと考えられたから。 確かに卵鶏論争のにおいもするが、障害はあくまでも様々ある喪失の一要因に含まれている。
119 :
朱由檢 :2005/04/20(水) 01:36:36 0
>先代皇帝の目を潰して〜追放と、書いたのに、 「追放」の部分だけクローズアップしてるよね。 「廃位」に変えたほうがわかりやすかったかな。 身体的な健全性をローマ皇帝の資質と考えていたから、 目を潰すことで、資質が失われたと大義名分をつけて、 簒奪者が前帝を廃位したという話だったのに。
まぁ、どっちみちローマに限った話じゃないわけだ。
ローマ帝国やビザンツで、クーデターや反乱で打倒した皇帝の目を潰したり 鼻を削いだりするのは、本来なら殺すべきところをその代わり生命は助けて やるための慈悲の措置。
そうかな?
124 :
世界@名無史さん :2005/06/14(火) 01:04:25 0
エドワード2世はおそらくホモ
125 :
高橋 :
2005/06/19(日) 19:44:49 0