フランク王国という王国

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1世界@名無史さん:05/02/01 21:41:29 0
おまいらって西洋中世についてあんまり興味ないみたいなんで
立てますた。
一体どんな王国だったのか語ってください
2世界@名無史さん:05/02/01 21:54:10 0
>>1
重複してますが如何でしょうか。
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1076757616/
3世界@名無史さん:05/02/01 21:54:27 0
4世界@名無史さん:05/02/01 21:56:18 0
5世界@名無史さん:05/02/01 21:58:34 0
これは時代区分的な話ではなくて、あくまでも自論というか
感じた事なのですが、カロリンガーまでのフランク王国の時代の
西欧は中世というよりは、まだ古代に近い部分があると思います。
中世を通じての規範であり続けた封建制度が整備されたのは
カロリング末期の混乱の最中でしたし、シャルルマーニュ以前と以降では
明らかに王国の体制は変質していると。

ところでフランク時代だったらシャルルマーニュ、中世だったら
皇帝権と教皇権を通しての中世史という感じのスレがありますが
1さん的にはどんな時代区分のおつもりなんでしょうか?
6世界@名無史さん:05/02/02 14:19:59 0
イスラム勃興までは貨幣も流通してた
後、かなりの数のフランク人がセーヌ川北に移住したので
他のラテン系言語と似ても似つかぬ発音になった
7世界@名無史さん:05/02/02 14:33:31 0
確かに世界史板は西洋中世にはあまり関心が無いみたい。
そういえば、TBSの左翼ばばあが口を開けばブルボンだの
マリーアンアントワネットはどうだのうざくて
辟易してた。でもフランクは古代ゲルマンの名残があるから
興味ある、。
8世界@名無史さん:05/02/02 14:36:18 0
反日左翼ばばあはホントうざい
9世界@名無史さん:05/02/02 14:38:33 0
フランクからフランスへの変化ってどういう風に生じたの?
いつまでがフランク?
10世界@名無史さん:05/02/02 15:57:37 0
Frankreich
11世界@名無史さん:05/02/02 17:05:40 0
>>9
カペー家からじゃない?
カペー家もフランク系貴族だけど
12世界@名無史さん:05/02/02 17:23:21 0
>>11
カペー家は当初、フランス人とアキテーヌ人とブルゴーニュ人の王と
名乗ってた。フランスが西フランク共通の名称になるのは中期以降かな。
13世界@名無史さん:05/02/02 20:23:52 O
そういえば、カール大帝のあとの国王達がどういう人
物だったかって、あんま知られてないな。
14世界@名無史さん:05/02/02 20:33:23 0
ルードビィヒ敬虔王とシャルル禿頭王じゃなかた?
15世界@名無史さん:05/02/02 20:51:07 0
フランク初期はどのような言語を喋っていたのでしょう?
それと今のようなロマンシュ語になったのはいつでしょう
16世界@名無史さん:05/02/02 20:54:14 0
今回の西欧文明の発祥地となったのはフランク王国の領土にあった国々といえますね。
中世の道路なんかもドイツとフランスの国境辺りを中心に伸びてるし。
17世界@名無史さん:05/02/02 21:23:33 0
ローマ帝国という帝国
ドイツ帝国という帝国
イングランド王国という王国
共和国という共和国
18世界@名無史さん:05/02/03 06:45:04 0
「大人の時間」の時間
19世界@名無史さん:05/02/03 11:37:03 0
フランク初期はフランク族はゲルマン系フランク語
それ以外はガリア訛りの俗ラテン語
ゲルマン系の人も長い時間かけて俗ラテン語話すようになる
それで訛ったのがオイル語(今のフランス語)
南フランスのオック語は伊・西語のが近い
10世紀にはほぼフランク人はゲルマン系フランク語を話せなくなったと思う
20世界@名無史さん:05/02/03 11:46:57 0
875 イタリア地域
911 ドイツ地域
987 フランス地域
21世界@名無史さん:05/02/03 12:59:46 0
息子三人に分けなかったらローマのような巨大帝国が存続して
サラセンやトルコと戦争しながら20世紀?
22世界@名無史さん:05/02/03 13:25:31 0
ローマのようなって全然ローマのように巨大じゃありませんよ
23世界@名無史さん:05/02/03 21:00:21 0
>>21
そりゃ無理だな。サラセン、ノルマン、アヴァールなどに国土を荒らされて各地が
分裂状態に。その後の経過は神聖ローマ帝国と同じで、皇帝権は名ばかりに・・・
24世界@名無史さん:05/02/03 21:06:46 0
いやそうはおもわないけどな
デーン人を半島に閉じ込めたのは誰でしょうか?
サラセンの侵入を退けたのは?
255:05/02/03 21:20:39 0
>>24
フランク族は分割相続が基本だったから(メロヴィング朝なんて酷いもの)
まず巨大帝国の存続っていう点で不可能だと思います。
ただ仮定として常に後継者が1人だけで、一括相続されたとしても
>>5で述べたように王国が変質していて、なおかつカロリング朝初期に
無理矢理回復させた王領地も減る一方だったので、強力なリーダーシップを
取る事は不可能だったと思いますが。
26世界@名無史さん:05/02/03 22:42:47 0
>>24
いや、そういう事じゃなくて、統一した皇帝権などというものが維持できない
という意味で言ったんだよ。その原因は外来の多民族でなくても良いわけで。
27世界@名無史さん:05/02/03 23:01:59 0
カール大帝以前はなぜあんなに王権が強かったのか?
俺が思うには支配体制のバランスが良かったからだと思う
つまりフランク族の軍事力で抑えられる範囲を支配してた上、
カリスマ制のある英主も続いた。
しかし、カール大帝が国土を増大しすぎたおかげで
つまり国が大きくなりすぎたおかげでフランク族だけでは統治できず、
分割統治になり封建制へ移行という過程じゃない?

285:05/02/03 23:19:44 0
>>27
カール=マルテルの時代で既に配下の掌握に細心の注意を払っていた事が
分かっています。この段階で既にフランク王国は分権的な志向を持っていたと
言っていいでしょう。カロリング朝の王権はメロヴィング朝初期と比べて
取り立てて強いとは到底言えません。
シャルルマーニュの時分にはかつて軍隊の中心的存在だった自由農民兵が
極端に弱体化し、やむなく兵役に義務を緩和しています。
29世界@名無史さん:05/02/04 01:04:19 0
弱体化の原因はなんでしょうか?
30勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :05/02/04 01:28:33 0
5ですが、コテハンスレの成り行きでコテハンになりました。
>>29
自由農民兵の弱体化でしょうか?
簡単に言って軍役に耐えられなくなってきたからです。
元は族長に従い放浪生活を送り、戦士でもあった彼らですが
定住して農業を営むようになると、長い軍旅が負担になります。
(武装は自由民の権利だったので自弁でした)
彼らの要望を受けてシャルルマーニュは軍隊の編成を農民兵から
豪族(貴族)の志願兵に転換せざるを得ませんでした。

また王権の弱体化の理由としては、当時の恩賞制度が挙げられます。
恩賞・給与は基本的に土地を与えられていたので征服地が拡大している間は
良かったのですが、王国が安定すると王領地を削るしか方法が無くなります。
またメロヴィング期の内紛の度に臣下を繋ぎ止める為に土地が給付され
王領地は激減してます。
(かわりに臣下の発言力が高まるという悪循環なのは言うまでもありません)
31世界@名無史さん:05/02/04 13:41:10 0
>>21
もし3人に分けなかったら教皇権との衝突はカノッサの屈辱などとは
比べ物にならないくらい大きくなっていたのでは?
32世界@名無史さん:05/02/04 15:29:06 0
スレ違いだけど、フランク族は人工的に結成された部族だとか読んだことがある。
するとメロヴィング家は本来もとになった小部族の内のどこかの族長?
それとも、その際に指導力をかわれて擁立されたの?
まあそのどちらでもあることもありえるけど。
33世界@名無史さん:05/02/04 16:38:21 0
>>32
サリー系、クロヴィスが他のフランク王を征服して
実力でフランク王になる
34勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :05/02/15 14:35:41 0
>>33
他のフランク王(族長)どころか、親兄弟、遠縁の親戚に至るまで
ライバルになりそうな層は皆殺しにしてますね。
当時、兄弟間の争いは珍しくなかったようですが、それにしても完璧主義者です。
35世界@名無史さん
×フランク王国→○フランス王国