どうも周りには、歴史はただの暗記科目で、知識量を問うものだと思っている奴が多すぎる。人間を感じるんだ。人間を。俺はそう思います。皆さんはどうおもいますか?
歴史法則の発見だろ。
人間はオマケだよ
人間の定義は時代により社会により違いますので、
歴史学は社会の存在様態を扱う学だと思っています。
「人間を感じる」には、文学とか芸術の方が向いてるかな、っと。
歴史は時間を扱う学問です
1は高校生?中学生?それとも・・・釣り?
社会の存在様態(by
>>3)+社会と個人との関係性の変遷が歴史だと思ってます。
人間を感じる、というのは大切だと思うが、「その時代の人間の環境や考え方に
則って、人間を感じる」のが肝要かと。
>>3 で、変遷のない「社会」の定義とは?
日本では維新以来の翻訳語だよね?
>>5 それは人間の存在様態と言い換えても
あまりかわらんな。
>>6 >日本では維新以来の翻訳語だよね?
それは、近代西欧的な社会をモデルにした、特殊概念でしたね<維新後の翻訳
現在では、人類学的にヒトは本来群性動物だったことがわかっていますし。
「猿の社会」なんて使い方も、学術的に認められていますから。
明治期的な「社会」の方を、「近代西欧的社会」などと使いわけるべきですね。
一般的な「社会」の超歴史的な定義を試みにしてみるなら、例えば、
「群性動物であるヒトが、共同生活を維持するために編み出し共有する価値体系と物的システム(社会的インフラ)の複合態」とかで概ねいいと思いますよ。
上記の意味での「社会」の多様な様態を歴史的に研究するのが歴史学だと思います。
ちなみに
>>5氏の唱えてる「社会と個人との関係性」は、私の意見では、
「共同生活を維持するために編み出し共有する価値体系」の一部に折り込み済みですね。
技術史や科学史は社会とあんま関係無い気が・・・
でもその人間の営みによって、歴史が作られたというのは無視できないと思う。歴史の法則というのは、人間がなにかをして、その人間の行動の規則性というものが結果として法則や他の地域とのつながりとして出てくるわけで。
>>8 いえ、技術史は、ある社会が持つ社会的インフラと関係してますでしょ。
また「技術」に1次産業の技術を含めるなら(私は含めると言うか……、連結すべきと思いますが)、
ある社会の対環境戦略と関連してますし。
科学史の方は、ある社会が共有してる価値体系と関連してるはずです。
>>9 >でもその人間の営みによって、歴史が作られたというのは無視できない
その場合の「人間」は複数形で、「人間集団」て意味だろうから、
「社会」と言うのと大差ない罠。
わざわざ、「人間」とこだわるところにロマンチシズムを感じる。
>>7激しく同意。ただ無意味に単語を覚えているだけじゃだめ。そこに社会との関連性が意識できて初めて歴史の面白さがわかってくると思う。
>>7 社会との社とは祖先信仰と言う意味の漢字だよ。
祖先信仰の集団が集まったと言う意味だよ。
欧米の教会中心の村落に対して日本の神社中心の村落を対置したのだよ。
だからこの用語が選択され造語された。
で、社会の定義は土木工事や箱物と価値観と言いたいわけだなw
どちらも古来からの人間の営みの一部でしかないな。
人間の有様と言ってもかわらんよ。
日本語は必ずしも単数や複数に拘らない言語なんだな、これが。
社会なんて抽象的な概念になんか拘泥せんでも人間で十分だよ。
社会と言う用語は寧ろ一定の信仰の下の地域を想定したと思うよ。
そう言う意味では人間と言う言葉よりも寧ろ限定的で観念的。
価値観こそ社会の社の字の意味するところだ。
社会の定義なのに社会的なんて用いては定義になっとらんね。
インフラも社会基盤と訳すことも多い。やはり明確な定義にはなっていないね。
物的システムではそもそも何言っているかわからんな。
無理して観念と物質の二元論をとってつけた感じだな。
社会は単なる「人間集団の営み」だな。
観念と物質を区別する実益はあまりないと思うよ。
それこそ時代や地域性に限界づけられた定義だな。
思想的背景に二元論の臭いがするね。
観念と物質なんて自然世界で統合しちまえば一つだよ。
自然環境やそれへの対応から生産や信仰が始っているべ。
インドが自然界への信仰が強いのと歴史叙述をあまり残さないと言う
のも関係ありそうだな。輪廻と言う発想は自然界の循環そのものからだ。
自然はあまり移ろわないが、人間は実におっちょこちょいだなww
>>13 >日本語は必ずしも単数や複数に拘らない言語なんだな、これが。
そこは、日本語が拘らないというより、日本語の使い方が曖昧なんだと思いますね。
個人と、人間集団は区別しなくては、歴史の話なんぞ、まともにはできないでしょう。
したがって「社会なんて抽象的な概念になんか拘泥せんでも人間で十分」という意見には賛成できません。
>社会の定義なのに社会的なんて用いては定義になっとらんね。
「物的システム(社会的インフラ)」のくだりですか?
かっこ内は単なる補足と思ってください。
>価値観こそ社会の社の字の意味するところだ。
いや、古語的意味に基づいて、そういう用語定義を限定されるのも、また思想の自由ですが。
断定されても、私には賛成できません。
繰り返しも含みますが、「恒常的な共同生活の維持体制」という意味では「社会」を「人間集団の生活形式」とみなしても構わないでしょうが、これを「人間の営み」と総括するのは、曖昧すぎます。
「人間の営み」には「個人の営み」も含まれますが。個人の営みは偏差が大きすぎるでしょう。社会と個人の関係という枠を設けなくては、学的研究の対象にならないと思います。
>時代や地域性に限界づけられた定義だな。
>思想的背景に二元論の臭いがするね。
ナンセンス。分析手法の出自がどこであろうと、方法として有効かどうかが問われるべきです。
二元論云々については、社会の定義を拡張詳細化しても構いません。(先に挙げたのは、試みのものいわば仮定義ですので)
15 :
世界@名無史さん:04/12/18 15:56:47
このスレって一人でやってんの?
もう飽きたの?
>>1 歴史学が知識量を競うものでは無いことには激しく同意。
人間を感じるというのは定義としては不透明。
見識を高めることと言い換えてはどうか?
未来はこうなると決め付けることはできず、常に不測の事態にどう対処するかが
人生における最難問である。
この難問を上手く、タイミング良く捌くには各自が見識を高めるに如かず。
もちろん「俺は頭は駄目だ。XX中央部(orXX教祖などなど)に一生随うというのも一つの見識であることは否定しない。
なお、歴史を以って見識を高めるには
・事実認定:謙虚に科学の力を大いに借りる必要がある。
・評価:自己の哲学を涵養し、良く批判の声を聞くべし。
17 :
世界@名無史さん:
意味わからん議論ですなw