1 :
世界@名無史さん:
後漢を立てた光武帝は、漢の血を本当に引いているか
分からない田舎出身者。
ただ、自分が天下取りの過程で挙兵の大義名分として利用した
劉姓に義理だてて国号を「漢」に戻しただけ。
2 :
世界@名無史さん:04/09/03 21:15
光武帝の季父は舂陵侯でその資産管理を劉秀がやっていたようです。
そういう身分の人間なので宗正府の譜牒に皇親として登録されていたと思われ、
どこの馬の骨とも知れん人間ではありません。
3 :
世界@名無史さん:04/09/03 22:01
皇族じゃなくても、侯はもらえるでしょ
舂陵侯家は長沙定王家の分家。長沙定王は景帝の子
5 :
世界@名無史さん:04/09/04 14:18
皇族ってどこまでが皇族なの?
劉備なんかの代になると皇族って呼べないでしょ?
6 :
世界@名無史さん:04/09/04 14:26
>>2 プププ前漢の平帝自体が庶民からの上がり組でどこの馬の骨かあやしいんだよん。
わかったかいチャンコロ。
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/04 14:37
劉繇は?
8 :
世界@名無史さん:04/09/04 15:01
劉繇は地方の太守だから皇族扱いではないね
9 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/04 15:10
>>8 でも、劉繇は東莱郡牟平県出身で、高祖劉邦の長子の斉の悼恵王劉肥の
子孫と、ある史書では載ってるけど。
まあ、劉繇は後漢の系統ではないし、悼恵王から十世くらいの子孫になる
から、準皇族(宗室)クラスかな。
劉焉と劉表と同じかな。
10 :
世界@名無史さん:04/09/05 22:12
>>9 ○○の子孫ってことは、皇族として扱われていないってこと。
日本で例えれば、足利家は皇族から出た源氏の家系だけど皇族扱いされてないでしょ?
11 :
世界@名無史さん:04/09/05 22:13
どう否定しようが、天皇家は百済の直系
12 :
世界@名無史さん:04/09/05 22:24
>>6 平帝?平帝は成帝の弟、中山王の子どもなんだが。
それとも宣帝のことを言ってるのかな?
15 :
世界@名無史さん:04/09/05 23:44
削除するんだよ。文句あるのか?下民がっ!
削除に一票
18 :
世界@名無史さん:04/09/06 00:14
すまんスレタイ 「おとこ」 は四 百 年 じゃ な い に見えたマジでww
19 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/06 00:20
>>10 では、劉備は漢の宗族扱いもされない家系に属しているってこと?
つーか劉備が漢室の流れを汲んでると言うこと自体が胡散臭い
21 :
世界@名無史さん:04/09/06 22:04
同様に劉秀もな。
15年たっての再興は、全く新しい国を作ったといってもいいなぁ
方針も前漢と後漢は大きく変わったらしいし。
22 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/06 22:07
>>20 では東晋の司馬一門を虐殺した宋漢?の武帝・劉裕(彭城国出身)
は劉備よりも嘘に満ちた寒門出ということになるね。
そもそも劉さんなんて当時から星の数ほど居たんだから
家系とかほとんどあてにならん
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/06 22:37
>>21 劉邦と比較して貴族的な要素を身についたのでは?
25 :
世界@名無史さん:04/09/06 23:14
天皇家は万世一系じゃない、ってのと同じくらい正しい。
劉邦って言う名前自体「劉兄貴」ぐらいの意味合いしかない香具師が
前漢の創始者だから、劉秀クンは気にする事ないと思う。
27 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/06 23:29
↑
ヨカタね、エリートの劉秀君。
劉邦も劉秀も劉備も、単に血筋だけでなく実力があったからこそ
国を建国する事が出来たんだから、血筋を議論しても仕方ないんじゃないかな
とか言ってたらこのスレの意味はないか
29 :
世界@名無史さん:04/09/06 23:38
Oh,mo!
30 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/07 00:00
趙漢?の劉淵(匈奴の冒頓単于の後裔)と宋漢?の劉裕は、
このスレの脱落者。
/;;;;;;;;;;;;;\
/;;:::::::::::::::::::::::\
∈=━/,,;;:::::::::::::::::::::::::.;ヽ━=∋
L::;;,__ ..:::ゝ
//;;;;::::::.. ̄ ̄ ̄ ̄..::::;;;ヽ
/ ;;;;;;;;:::::::::::;;;;;;;;;;;;;::::::::;;;;; ヽ
/j/三三三三三三三三三三ヾ、
l::||:::: |l
/ ̄\ ヽ-=・=-′ヽ-=・=-′ ||
r┤ ト::::: \___/ ||
/ \_/ ヽ:::. \/ ,ノ
>>29 そちの頭に斧を叩き込んでくれよう。
| _( ̄ l―---oo-――'"ヽ__
| _)_ノヽ\ ハ // / ヽ
ヽ____)ノ  ̄ ̄ ̄ / ヽ、
32 :
世界@名無史さん:04/09/07 09:11
>>28 本当の劉備は、コロコロと匿っていた領主を裏切り
劉ってだけで無理やり劉表と劉璋に匿わせて、最期はその故地を奪い取った
稀代の詐欺師&梟雄
33 :
世界@名無史さん:04/09/07 09:13
追記
自分の環境を利用して皇帝までなりあがったのも実力といえば実力だが、
生涯何度も死に掛けたし、乾坤一擲の大戦で勢力を広げた曹操とは大違いだな
魏厨がキター!
つーか曹操の家柄もかなり胡散臭いだろ…
祖父は宦官で、曹操の親父は養子だから祖父と血の繋がりは無いしな
漢創設の功臣、曹参の子孫だって言ってるけど絶対嘘だし
36 :
世界@名無史さん:04/09/07 09:50
家系図なんて大概嘘。
何処もな。
>>33 乾坤一擲って、官度では勝っても赤壁では大敗してるじゃん
曹操の実家・夏侯家はほどほどの家柄じゃなかったっけ?手元に史料がないんで詳しくは・・・
>>38 漢朝創業の功臣、夏侯嬰の子孫とか抜かしてるけど
これも胡散臭いのには変わりない。
40 :
世界@名無史さん:04/09/07 10:13
今の中国人も「純潔の民族」を自称w
秦の始皇も胡散臭い。第一こいつ間男の子だし。
42 :
世界@名無史さん:04/09/08 10:27
>>35 別に曹操は先祖自慢で権力者になったわけではないだろ……
また魏厨が沸いてるな
ち、俺と同じ姓の有名人ていないな。
源さんや、藤原さんが羨ましいよ。
46 :
世界@名無史さん:04/09/08 20:10
>>41 始皇帝が呂フイの子というのは、世を治める正当性を作るために漢が
捏造したという説もある。
それに秦は、500年以上血統もちゃんと続いてる名家だから間違いはないと思うよ…多分
そもそも史記は漢の臣下である司馬遷の著した歴史書だしなー
項羽の阿房宮放火疑惑も実際に焼けてなかった品。
火のないところに煙りは立たない。
やはり呂政は不義の子。しかもパラノイア。
49 :
世界@名無史さん:04/09/09 11:00
本当は春申君の子なのに楚王になった幽王の話は史記の捏造だったんだから…
それぐらいあるだろう
元々司馬遷は演劇の大ファンで史記を書く際にそういうエンタメ性の強い「作品」を考証の根拠として入れたのではと
する説もあるね。
代表的なのが、四面楚歌での項羽と虞美人の最後の逢瀬。
秦の公室自体が野蛮人の馬の骨。
52 :
世界@名無史さん:04/09/09 19:42
そういえば、漢の成立以前に劉姓の人間っているのか?
今でこそ中国の代表姓トップ10に入っている劉だが……
やっぱり劉姓の人ってのは、漢の連枝なのか?
>>52 夏の時代に劉累って人がいるみたいだが…
夏は伝説だからなぁ…
54 :
世界@名無史さん:04/09/10 09:26
劉累って伝説で龍を飼ってた人だったけ?
あれも農民出身の劉氏が家系を高めるために捏造した可能性ありそうだけどな
>>52 そもそも、「劉」も「邦」も「季」も固有名詞じゃないっていうしね・・・。
「劉」は肉屋、「邦」は兄貴、「季」は四男坊(あるいは末っ子)。
だから「劉邦季」は、せいぜい「肉屋んとこの末っ子の兄ちゃん」
ぐらいの意味しかないという・・・。
>>55 そうしてみると、「皇帝から乞食まで皆姓名を揃って持っている」という
中国史において、秦末漢初は、「名無しの権兵衛」がいた最後の時代
なのかもね。
(まぁ中国史においても、水滸伝の阮三兄弟や、某スレで絶賛活躍中
の某乞食坊主陛下の旧名みたいに、兄弟順に数字振ったようなあまり
格調高くないのもあることにはあるけど。)
ずばりハンナン浅田が天下を掌握した世界かw
人権板の住民なら意味深くて味わい深いw
58 :
& ◆bpiXrPP7G. :04/09/10 14:11
放屁!放屁!放屁!放屁!放屁!放屁!放屁!放屁!放屁!放屁!放屁!放屁!放屁!放屁!放屁!放屁!放屁!放屁!
あまりに馬鹿すぎて反論する気にすらならないw
60 :
世界@名無史さん:04/09/10 15:41:33
孫子の子孫だとする呉も胡散臭いしな、
ていうか孫子一族って斉出身なのに河南地方に一時期住んでただけっしょ?
こんなこといったら801に叩かれる
61 :
世界@名無史さん:04/09/10 17:54:07
>>59 55,56のことを評してるんだったら鷲も1票
>>52 漢代以前においては周宗室の大夫であった劉氏の方が著名であった
但し姓は「姫」であったので、劉邦とは血縁なし
>>61 そうそう 55,66のことを言った。
でさ、もし漢高祖が堯、劉累の子孫で、范氏の子孫だという一般の説が正しいとすると、姫姓の劉氏と漢高祖は血縁がないとはいえないんだよね。
っていうのは、晋の正卿である范氏と子爵の劉氏は代々、婚姻をしてるから。(左伝参照)天皇家と藤原氏、足利氏と北条氏みたいな感じだよ。ちょっと乱暴なたとえかもしれんが。
63 :
世界@名無史さん:04/09/11 23:11:17
そういやどっかのスレの糞固定が「劉邦の家が貧しかったソースはあるのですか?」
とか言ってたな。
でも本当に范氏と関係があるのなら、無理やり系図を作ってその子孫を自称すると思うんだが…
それをもしなかったってことは、劉家は本当に田舎のどん百姓だったんじゃないの?
おとこは四百年じゃない?
65 :
世界@名無史さん:04/09/12 08:27:09
>>51 >秦の公室自体が野蛮人の馬の骨。
漢族化した犬戎(チベット系?トルコ系?)族の後裔ではないのか?
66 :
世界@名無史さん:04/09/12 09:46:26
>>65 周王朝が成立して直ぐに秦は成立しているよ
幽王を殺した犬戎が秦系とは聞いた事がないな〜
67 :
世界@名無史さん:04/09/12 14:02:39
>>66 犬戎でも、親周派と反周派に分かれていたのでは?
秦の始祖である宅皋狼は犬戎系の周の将軍では?
ただ、韓の宰相の張開地(漢の張良の祖父)は臨終前に“秦の蕃族めが!”
という言い伝えがあるらしい。
秦公は野蛮人とみなされ、中原の諸侯から差別された、仲間はずれにされた、って史書に書いてあんじゃん
69 :
世界@名無史さん :04/09/12 17:01:15
>>68 秦は瞳が碧いコーカソイドのヘブライ系の血が
濃く混じったチベット系?かトルコ系?では…。
楚は古代タイ族説が有力。
(ただ、タイ族は古代には中原にいた民族らしい)
70 :
世界@名無史さん:04/09/12 17:33:42
勾践と夫差なんて名前からして非漢人風の名前だしね。
71 :
世界@名無史さん:04/09/12 18:44:19
そういえば呉はどうなの?
呉は確か姫姓だったよね?でも王を称していたよね?
これはどういうことなんだろう?
っていうか呉は何系の民族国家なの?
72 :
世界@名無史さん:04/09/12 19:36:27
>>71 呉の場合、王族のみチベットの血が混じっている西岐族(周王室)らしい。
呉王と称されたのは、呉が元来、周王室の嫡流ともいわれ、周の武王・
成王・康王も呉の太伯の末弟の系統だから、負い目があって黙認したのでは?
呉の民は、多分海洋民族のマライ・ポリネシア語族ではないかと。
ひょっとしたら、台湾の高砂族とは同系統では?
73 :
世界@名無史さん:04/09/12 19:50:13
>>70 越の姓は“騶”かな?多分。それでも非漢族には間違いない。
越は、ベトナム民族の始祖とされる。現在でもベトナムを漢訳
すると、“越国”となる。
74 :
世界@名無史さん:04/09/12 20:54:34
まあ結論から言うと、劉秀は漢の皇族じゃないってことだな
75 :
世界@名無史さん:04/09/12 21:00:52
漢の宗室は子孫の証明が出来ればいろいろ税の減免特権が付いてきたから、脱税行為に繋がらないように一応のチェックは入っていた筈。
劉備についても正史とかを見ても漢の宗室である事を否定する資料はないし、逆に一族の共同体組織の一員であったことが知られるから、一応は宗室としての証明はあったのではないか?
76 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/12 21:27:41
>>75 >劉備についても正史とかを見ても漢の宗室である事を否定する資料はないし、
>逆に一族の共同体組織の一員であったことが知られるから、
>一応は宗室としての証明はあったのではないか?
自然に、朝廷の宮内庁にある皇族籍から抹消された漢の宗族の階級では?
まあ、祖父の劉雄は県知事を勤めたし、父の劉弘も局長クラスになれたかと…。
止どめに、本家のおじの劉元起が経済的に余裕だったために学問の費用を出して
いとこの劉徳然と共に盧植の門下になり、あの公孫瓉と出会ったのは史実通り。
77 :
世界@名無史さん:04/09/13 01:16:27
っていうか、ほぼ全国に広まって本当に関係あるのかすら怪しいのに
全国の劉氏全てに施しを与えるほど漢は金に余ってないんじゃないか?
結論からいうと劉秀はれっきとした皇族です。
79 :
世界@名無史さん:04/09/13 02:26:46
劉備は筵売りのバイトまでしてただろ。
そういえば、劉備が黄巾討伐に功績があったからって庶民から平原の相に
なれたのは凄いんじゃね?やっぱりこれも皇族待遇?
81 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/13 21:42:46
>>80 >そういえば、劉備が黄巾討伐に功績があったからって庶民から平原の相に
>なれたのは凄いんじゃね?やっぱりこれも皇族待遇?
全てがそうだとはいえないけど、ほぼ推測通りだと思います。
同郷で硬骨漢の盧植の弟子になったことは、後々の人生で影響が出た。
例えば、遼西の豪族の子である公孫瓉を初め、大儒者の鄭玄、鄭玄の
縁で、孔子の子孫の孔融と知り合い、北海の人の孫乾(孫濱の子孫??)
を得たことは大きいと思う。案外、曹操もその部分を細く見て、劉備の
ことを厚遇したのでは…。
なお劉備の先祖とされる劉貞は、涿県全体の陸成侯(涿鹿侯・臨邑侯説あり)
に封じられたが、前112年頃に漢の祭祀費を納める税金を怠って、叔父の武帝
の逆鱗に触れて爵位を剥奪され、劉備の代まで涿県の土豪だったとか…。
82 :
世界@名無史さん:04/09/13 22:08:06
そういや、盧植が一般の庶民にも講義を行っていたとは書いていないし
豪族の御曹司である公孫瓉と親しかったとも書いてあるし、やっぱり出だけは
よかったのだろうか?
でもしっかりとした系図がないのが激しく怪しい。
劉備の叔父が、「俺んちは皇族の末裔だ!」といって無理やり通わせた可能性もある。
83 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/13 22:15:12
>>82 推測するしかないけど、王氏の新王朝の時代に例の赤眉軍
の乱で、様々な劉一族の各系図とかが、登録不可になって、
ブランクに陥って?不明確になったのでは?
その叔父とは、劉元起?劉子敬?
平原相は公孫サンのコネじゃねーの?
85 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/14 00:11:32
削除に一票
87 :
世界@名無史さん:04/09/14 01:06:10
官職が普通に売り買いされていた時代にコネ如きで、貧乏庶民から相になれるとは思えない。
何か別の力があると思うのが妥当だろう。
劉備が平原相になった頃はもう官位を売り買いしてる時代(霊帝)じゃないんじゃない?
あと、公孫サンは当時青州まで影響力もってたからなぁ。
89 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/14 01:13:37
>>87 当時の中国は縁故社会だから、それなりの階級クラスの
劉備が、非階級クラスの連中を束ねる役目をやっていた
と思う。
貧乏とはいっても庶民ではなく士大夫層であることは間違いない。
91 :
世界@名無史さん:04/09/14 10:06:41
劉備にそんなに名声があると思わんのだが…
劉備は、武帝の時代に庶民に落とされた人間の末裔なんでしょ?
そんな人間に恩給を出すのかな?
92 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/14 22:02:14
失敬する。
このスレで誰もが思い浮かばなかった疑問レスをしたい。
@劉備の生母は、劉弘の妾のだった可能性はあるか?
A推測の段階だが、劉備の生母の姓は簡氏(耿氏説あり)
の可能性はあり得るか?それとも無理がある?
B張飛の実家は劉雄・劉弘父子に仕えた譜代の臣の家柄の
可能性はあるか?これも推測観。
C最後に、劉備は少年時代に人質生活を送った可能性は
あるか?案外と…。
追伸)劉備の人生観は師の盧植の影響が大きいと思うが。
93 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/14 22:57:38
94 :
世界@名無史さん:04/09/14 23:36:37
土豪か。
でも、史書に筵織ってたことが記載されてるって事はそうとう貧乏
だったことには間違いないだろう?
孫堅については、父親や家柄には一筋も触れられていないんだし。
>>92 誰の人質に取られてたん?
95 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/15 00:47:30
>>94 >でも、史書に筵織ってたことが記載されてるって事はそうとう貧乏
>だったことには間違いないだろう?
多分、それは生計のため。江戸時代の傘貼り浪人をダブれば
いいと思う。
>誰の人質に取られてたん?
案外と冀州牧の劉焉とか。
(なんとなく劉焉・劉璋父子とは腐れ縁のイメージがするから…)
96 :
世界@名無史さん:04/09/15 01:00:28
生計のために、立派な皇族が筵織るか普通?
眉唾なのは本当だろう。後漢時代に劉姓で皇族の連枝は腐るほどいた。
97 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/15 06:37:56
>>96 >後漢時代に劉姓で皇族の連枝は腐るほどいた。
そうだと思う。
劉備の場合、劉邦から17世の子孫でしかも、各皇族から
忘れ去られるほどの存在。つまり皇族籍が自然に抹消された
という意味では…。だから系図にブランクがあるのでは?
上レスした通りの劉秀とは比較もできないほどのくらい
漢王朝の血筋が希薄で、宗室どころか宗族ともいえない
劉一族の一人では。わかり易い例が南宋の理宗がいる。
(理宗は北宋の太祖の十世の子孫だが、庶民に没落した)
98 :
世界@名無史さん:04/09/15 14:11:46
皇族の連枝一人一人を丁寧に扱ってたら、それだけで財政破綻しちゃうよ。
それに漢王朝は呉楚七国の乱以降、身内に厳しいからね
それに劉備はわざわざ皇族の連枝だってことを隠してたという説もある
大明は数万といわれる皇族をきちんと養っていたんだから、
何かが違うのか。
100 :
世界@名無史さん:04/09/15 14:51:59
貿易や銀による利益がなかった
>>98 >それに劉備はわざわざ皇族の連枝だってことを隠してたという説もある
初耳
102 :
世界@名無史さん:04/09/16 09:38:09
↑誤爆?マルチ?
104 :
世界@名無史さん:04/09/17 14:37:37
105 :
世界@名無史さん:04/09/17 19:32:52
公孫サンは豪族の御曹司じゃないよ。
腕一つで成り上がったタイプ。
盧植に弟子入りできたのも上官に見込まれたから。
106 :
世界@名無史さん:04/09/19 02:07:52
失礼な!吉川だよ!
109 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/19 17:13:42
>>81の続きみたいなレスでふ。
中山国の靖王(劉勝)は、司馬遷の史記、班固(班超の同母兄)の後漢書によると、
同母兄の趙国の敬粛王(劉彭祖)が厭きれるほど、酒や美女に溢れた甘美の生活
を過して、それが祟って前113年に54歳で他界した。(共に賈貴人の子)
彼の妾の数は百人近くいたといわれ、孫も含めて120余人の大家族を成したという。
しかも彼の子孫の大部分が涿郡や涿県に土着したというらしいから、
劉貞の庶流である劉備など、端っこのいた末葉のようなものらしい。
劉焉が幽州牧というのは冀州牧の誤りとされるとか…。
110 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/19 17:36:14
ところで、劉備の猶子(養子)の劉封って徳川信康に似てない?
激しい気性で、剛毅な所が…。共に最年長の子だし…ね。
>109さん
>劉焉が幽州牧というのは冀州牧の誤りとされるとか…。
劉焉は冀州刺史を一度やったことはありますが、冀州牧になったことは
ないです。
>95
>案外と冀州牧の劉焉とか。
>(なんとなく劉焉・劉璋父子とは腐れ縁のイメージがするから…)
劉焉の冀州刺史就任期間はよほど短期であったようでして、
直ぐに南陽太守に転じたようです。本貫も南方の江夏ですし、
劉焉は黄巾の乱以前に益州牧に赴任しております。劉備が住んでいる
地域との関わりは非常に薄く、劉備を人質にするメリットが全くないと
思うのですがどうでしょうか。
>90
>劉備が黄巾討伐に功績があったからって庶民から平原の相に
なれたのは凄いんじゃね?やっぱりこれも皇族待遇?
劉備が黄巾討伐による功績でなったのは中山安喜県尉で、皇族が
なるような官位ではありません。しっかりした皇族であれば劉焉のように中郎という
幹部候補生にとりたてられるのが普通ですが、劉備は全然そんな事はありません。
普通貴族が家柄で仕官した時には中央官庁の官職に任じられるのが
通例ですが、中山安喜県尉というショボイ地方官になることはまあ、ありえないです。
なお、劉備は平原国相になるまで大変苦労しており、
中山安喜県尉(トラブルで辞職)→下密尉(何進配下として功績を挙げて
任官、その後辞職)→高唐尉→高唐令(盗賊に城を落とされ辞職)
→平原令(コウソンサンの所で功績を挙げ試験的に採用された)→平原国相
というひどい職務経歴をたどっています。
にのぼったわけで、劉備はまったくの叩きあげです。
112 :
世界@名無史さん:04/09/19 21:02:01
本当に皇族かどうか怪しいから、とりあえず地方の官職に任命してたんじゃねーの?
いずれにしろわらじ売りが官職につけるほど当時は就職しやすいとは思わんな
>>112 当時の就職の難易度について教えてくれ。
お前さんの主観以外で。
114 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/20 00:28:08
>>111おぎまるさん丁寧なレス、アリガト。
個人的には劉焉は今川義元、末子の劉璋は氏真のイメージがしたので。
>なお、劉備は平原国相になるまで大変苦労しており、
>中山安喜県尉(トラブルで辞職)→下密尉(何進配下として功績を挙げて
>任官、その後辞職)→高唐尉→高唐令(盗賊に城を落とされ辞職)
>→平原令(コウソンサンの所で功績を挙げ試験的に採用された)→平原国相
>というひどい職務経歴をたどっています。
おぎまるさんの言い分は理解できます。
それでも、当時の中国は縁故社会で、身分の壁は現在人の想像以上にぶ厚い
ものだったのではないでしょうか?
あの鄭玄や孔融と陳珪が劉備に肩を持ったのは、仮に劉備が非皇族ゆかりであっても、
士分の子であることを物語りませんか?なにしろ祖父の劉雄は孝廉に推されて東郡范県
の令(県知事)になっていますし、父の劉弘もやはり孝廉に推挙されて幽州の官僚になっ
ています。劉備の故郷には血の繋がりが希薄な親戚がたくさんいたでしょう。
その中で近縁者は本家のおじの劉元起といとこの劉徳然父子や叔父の劉子敬がたまたま
該当したのではないでしょうか??
>>114 劉備が士大夫層であることは誰も否定しないと思うよ。
横レススマソ。
>>114 >劉元起、劉徳然、劉子敬
揃いも揃って二字名だけど、やはりコレって
名ではなく字と見た方がいいんだろうねぇ?
117 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/20 01:32:48
>>116 >揃いも揃って二字名だけど、やはりコレって
名ではなく字と見た方がいいんだろうねぇ?
これは、劉備の“玄徳”といとこの“徳然”とは
“徳”の字がいとこの世代を著すのでは?
118 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/20 03:23:35
州の牧と刺史とは意義が違うの?
>>118 刺史は郡の監督のみ。牧は軍権もあり。
・・・だったと思う。
120 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/20 03:31:40
>>119 つまり、刺史は秦王朝の郡守で、牧は漢初期の諸侯王(宗室)
のように意義が異なるわけね。
刺史というのは巡回してくる監察官でそ。だからそもそも統治しない。
末期には現地常駐の統治官になったけど、本来は現地常駐ではないはず。
牧というのは唐の藩鎮みたいなもので事実上の諸侯というか群雄割拠では?
122 :
無名武将@お腹せっぷく :04/09/20 03:55:19
>>121 ア…節度使ね。宋でいえば団練使クラスかな?
とはいえ、西晋末あたりからは刺史も軍権を持ち始めて、
牧との実質的な差が無くなってくる罠。もちろん規定では
監察ONLYのままなんだけど、済し崩し的に軍権も獲得。
ていうか、そもそも晋の官制で「牧」ってあったっけか?(汗
124 :
世界@名無史さん:04/09/20 09:58:46
そういえば晋にはないね
涼州刺史の張氏が有名だね
125 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 12:49:45
ある書物で見たけど、孫堅の実家って、
劉備の実家よりも寒門出身って本当?
因みに孫堅の実父は本場の中国では、
古くから“孫鐘”という言い伝えが
あるらしい。確信はできないけど。
126 :
世界@名無史さん:04/09/20 13:06:48
127 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 14:43:37
>>126サンクス。
これは、歴史だけではなく、金融・財政の
勉強にもなるね。
君たち、テレビ見た?劉邦の甥っ子の骨を調べたところ、たくましい容貌の男だったそうだ。
劉邦がイケメンだったっていう史書の記述もウソではないんだなmaybe
129 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 20:35:41
130 :
世界@名無史さん:04/09/21 00:12:35
いや、呉楚七国の乱に参加した楚王の父親だって書いてあったな
131 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 00:26:12
>>130 ああ、楚王の劉戊の実父の夷王の劉郢ね。
132 :
世界@名無史さん:04/09/21 01:26:55
↑そんな名前じゃなかったような……
どちらかというと>>劉ヒに似たような名前だった気が……
もしかしてあの番組は、呉王と楚王を間違えたのだろうか?
ところで、劉郢って名前は暗記してたの?
それとも本か何かから参照したの?暗記だとしたら凄いな。
133 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 01:33:37
>>132 もしかして、劉濞の弟の沛侯のこと?
名は劉徳だったらしいが…。またその子が劉通らしい。
>ところで、劉郢って名前は暗記してたの?
それとも本か何かから参照したの?暗記だとしたら凄いな。
暗記でふ。
>>129 この名前って、鼻水ってこと?
すごい名前だなあ
136 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 21:39:20
>>135 水に関する広義的な意味を著すってことでは…?
いきなりだけど、関羽って演義では162年生
となってるけど、実際は劉備より年長だと
個人的にはそう思うが…。
(案外と曹操や孫堅と同年だったりして)
前漢の景帝の14人の息子達。
長子・劉栄、次子・劉徳、三子・劉閼于、四子・劉余、五子・劉彭祖、六子・劉非
七子・劉勝、八子・劉端、九子・劉発、十子・劉徹、十一子・劉越、十二子・劉奇
十三子・劉乗、十四子(末子)・劉舜 …以上!
突然だけど。
漢の劉備の子孫の記述をレスしたい。
263年に漢が魏(実質的には晋)によって滅亡すると、漢の皇族達は
劉禅と共に洛陽に移住した。
そして、安楽思侯の劉禅が271年に逝去し、その数十年後に晋の皇族
による例の“八王の乱”で、劉備の子孫達は戦乱に巻き込まれて、
多勢が落命した。
ただ、劉禅の従孫の劉玄(劉備の曾孫)のみ生き延びて、父祖の築いた
蜀に亡命した。当時、そこはチベット系の氐族の酋長の李特が成蜀を
建国していた。劉玄は李特に厚遇され、従祖父の劉禅と同じく安楽侯
に封じられた。以降、劉玄の系統のみが劉備の子孫らしい。
因みに劉玄は劉禅の異母弟の劉永の嫡孫である。
また個人的には劉備は、前漢の宣帝の劉詢と境遇が似ていると思うが、
どうか…??
140 :
世界@名無史さん:04/09/28 00:53:59
ちなみに成蜀は40年足らずで晋に滅ぼされている。
この際に晋に族滅されられた可能性が高いな
>>140.
成蜀を滅ぼしたのは梟雄として有名な
東晋の桓温将軍。
また、成蜀の後主?の李勢は東晋に降服
した後、帰義侯に封じられて、建康にて
361年に病没とある。
劉備の子孫がどうなったかは不詳。
142 :
世界@名無史さん:04/09/28 15:16:51
異民族は、滅ぼした王朝の一族を滅ぼす習慣でもあるのかな?
漢民族政権の晋は三国時代にも、呉の一族を殺さなかったし…
どちらかといえば、異民族の方が、禅譲でも武力で滅ぼしても前王朝の
一族を滅ぼしてるよね…
でもそうすると劉裕の立場は……?
>>142.
ちょうど宋漢?の劉裕の名が出てたので、レスしまふ。
西漢(前漢)・東漢(後漢)・蜀漢(季漢・晩漢)以外の非皇族王朝リスト.
趙漢の劉淵(匈奴)・宋漢の劉裕(寒門出)・後漢の劉知遠(トルコ系沙陀)
また、南漢の劉隠(アラブ系??)…以上ですた。
144 :
世界@名無史さん:04/09/29 13:35:13
だから劉裕は、華北系亡命貴族の下僕出身で
漢民族じゃないってば。
>>144.
>だから劉裕は、華北系亡命貴族の下僕出身で
>漢民族じゃないってば。
え…?劉裕は漢族じゃないの?確か彭城国の出身と聞いたが。
146 :
世界@名無史さん:04/09/30 00:22:02
>>145 それは晋に仕えているときに、建前として楚王の子孫を名乗っていた時期だろ?
だから彼は皇帝になったとたんに、楚王末裔伝説を否定した(つまり洋ナシ)
>>146.
いや…劉裕が漢の非皇族というのは
以前から知ってるけど。
その…つまり、
>>144.のレスが漢民族で
なく異民族の血を引いてるという…感じ
のような気がしたから。誤解ならスマソ!
劉裕は寒門だけど北府系軍人出身者だからおそらく漢民族だろ。
漢民族でないというなら証拠がほしいね。
149 :
世界@名無史さん:04/10/01 20:41:47
>>144はどういう根拠でカキコしたのだろう?
その理由を是非教えて欲しい。
>>111 貴族の子弟ったって、妾腹から孫からいるから、宗家の親玉が存命中にでも
下手すると何百人にもなるだろ。
大臣の係累だとしても、全部に一流の官職がめぐってくるわけでもあるまいて。
151 :
世界@名無史さん:04/10/06 22:43:18
漢は四年です。
>>152 陛下、何ゆえそのことをお知りになったのですか?
154 :
世界@名無史さん:04/10/10 21:34:01
劉備の本籍は幽洲涿郡涿県というのは
周知の通りだけど、
“原籍”は徐州沛県豊邑中陽里
だなあ〜というのは、俺だけか?!
155 :
世界@名無史さん:04/10/11 06:36:49
>>154 ていうか、史書に「誰某は○州○県○郡の出である」って書いて
ある時、その記載された地名が先祖の出身地(本貫)なのかある
いは自身の出身地なのか、人によってバラバラだよね。
例えば、《蜀書》〈馬超伝〉には「右扶風茂陵人也」と書いてあるけど、
これは馬超の出身地ではなく(馬超自身は涼州の生まれ)、先祖の
馬援の出身地、つまり一族の本貫の地なわけだ。
それに対し、劉備は一応皇族の分流を名乗ってはいるけど、記載
された本籍地は、高祖劉邦のそれとは異なり自身の出身地となっ
ているわけだ。こういうのって何か法則性とかあるのかな・・・?
>○州○県○郡
その組み合わせは存在しないことを指摘しておく。
157 :
世界@名無史さん:04/10/11 15:54:16
>>155 では、劉虞・劉繇・劉曄・劉焉・劉表ら
の本籍地はどうなるの?皇族系なのに…
158 :
世界@名無史さん:04/10/11 16:24:36
漢魂と書いてメンソウルと読む。
漢(オトコ)は四百年じゃねえゼ!
159 :
世界@名無史さん:04/10/11 16:54:32
錦馬超
容姿端麗・文武両道・勧善懲悪
160 :
世界@名無史さん:04/10/11 19:29:04
実は
漢 は 四 千 年 だった
161 :
世界@名無史さん:04/10/27 12:01:22
>>159 あんたは「三戦板」の方へ行ったらどうですか
162 :
世界@名無史さん:04/10/27 12:14:26
中国の歴史は日本より短い。あそこはずっと中国という国名はなかったからな。
↑んー、また暇人が釣りに来たのかね?
さんざんガイシュツだが、中国の語の初出は紀元前(戦国時代成立と推定
するのが定説)の春秋左氏伝。中原とほぼ同義。三国時代、魏の地域を
中国と称したことは三国志にも見える。
日本国号の初出は唐代の井真成墓碑か天武帝墓碑だから、
ま、中国国号の方が断然旧いやな。
>>163 > さんざんガイシュツだが、中国の語の初出は紀元前(戦国時代成立と推定
> するのが定説)の春秋左氏伝。中原とほぼ同義。
『詩経』が初出。「大雅 民労」、「大雅 蕩」など。「民労」で「中国」は
「四方」に対峙させられているから、確かに中原と同義ですな。
おお、訂正かたじけない。
詩経大雅であればもっとも正統的な儒家文献ですな。
紀元も相当な旧さをもつものでしょうな。
166 :
世界@名無史さん:04/11/13 10:46:05
久々の更新!
俺から見たら劉氏=漢
だから、劉淵が建国した国を『趙漢』
そして、劉裕が建国した国を『宋漢』
とする
ただ、劉裕自身は前漢〜蜀漢の非宗室系
と自らが認めているのは周知の通り
…以上
>>162 まあ、そりゃ確かに「中華人民共和国」の略称としての
「中国」という言葉は無かったし、それ以前にあった「中国」という
言葉にしても、その範囲は中原一帯に留められるものであって
今現在、我々が用いる所謂「中国全土」という意味合いを持つ言葉では
なかったのだが・・・。
しかし、ここはあくまで中国史の一部である西漢・東漢時代の連続性を
議論する所であるので、おたくの中国論が場違いな物だと思うのは
私だけだろうか・・・。
168 :
世界@名無史さん:04/11/14 18:16:19
【劉備】;漢・昭烈帝・先主若しくは先宗
字は玄徳。涿郡涿県の人。漢・延熹4(161)年〜漢・章武三(223)年。
土豪の家に生まれるが、孝廉に推挙された父は若死したために、
貧乏生活を味わった。一応、中山靖王劉勝(前漢景帝の子)の子孫らしい。
劉勝の庶子の劉貞は陸成侯(涿鹿侯・臨邑侯説あり)に封じられたが、
朝廷の祭祀納税を怠った過度で領土を没収された。彼は分家出身らしい。
また、劉備と中山との関係も二例がある(中山の商人張世平との付き合い、
中山国安熹県の尉に任命されたこと)も考慮に入れると一概には否定できない。
最近の劉備のイメージというと、傭兵隊長・ヤクザの親玉というイメージが強いが、
実際には学問だってそれなりにできた。(豪族の子弟なら当たり前なのだが)
従父の劉元起が妻の反対を押し切ってまで劉備に学費を援助したのは、多分、
劉備にその見込みがあったからだろう。(当時は同族間でも世帯間では家計は
別というのが普通。一族が学費や生活費の相互扶助を行うようになるのは
北宋時代以降になってから)
その学問の知識が直接劉備の行動に役に立ったかは知らないが、学問を通じた
コネは充分利用した。例えば先輩の公孫瓉の配下となったこと、鄭玄を通じて
孫乾を推挙されたことなど。(彼と劉備の師・盧植は同じ馬融の門下生)
または孔融と仲が良かったのも鄭玄の仲立ちがあったと思われる。この後の人生
はいろんなところで語り尽くされているから、ここでは述べない。
169 :
世界@名無史さん:04/11/14 18:23:31
170 :
世界@名無史さん:04/11/14 18:41:27
劉邦の時代に別の劉姓がいて、実は彼らまで後世僭称していた、なんてことは
あったでしょうかね。中にはいたかな?
172 :
世界@名無史さん:04/11/14 21:39:46
劉という氏は河南省にあった劉という土地に由来している。ここを領有したのは堯の末裔の劉氏と周王朝の分家の劉氏。んで劉邦は前者。
だから別系統の劉氏もある。ただし、秦以前は劉姓は稀少姓。
173 :
世界@名無史さん:04/11/15 20:05:22
前から思ってたんだが、
劉備が関羽・張飛・簡雍らと共に挙兵して張角が率いる
道教系の黄巾党討伐に、それなりの功績を残せたのは、
県令を務めた祖父の劉雄や孝廉に推挙されながら若死
した親父の劉弘の家来達が、劉備少年を支えながら、
地道に生計を立てて、軍資金や武器や鎧兜を蓄えて
いたのを提供した点が大きかったんじゃないかと思う。
他には旧知の中山国の商人の張世平や先輩の公孫瓉の
後盾もあったと思うが…
174 :
秋刀魚:04/11/15 20:13:26
中国人種は捏造・情報操作が得意だからな、どうせ中国四千年の歴史も
捏造だろう、実際中国は中華人民共和国はまだ建国から100年も立っていないがな
まぁ・・・いい加減世界放送で世界各国に歴史の捏造を謝罪したらどうだ?
175 :
世界@名無史さん:04/11/15 20:28:28
でも、新華社通信のホームページは、実に多言語だし、報道の速度も
日本より速いぞ。
日本は、ポーツマス講和会議の頃から、世界のマスコミ対策がなっとらんヽ(`Д´)ノ
すると我が国は捏造された国と貿易したりしてたわけですか(藁
177 :
允& ◆StaJQ5I7xE :04/12/15 22:25:13
age
178 :
サラミ:04/12/15 22:35:15
179 :
世界@名無史さん:05/01/04 23:04:21
>>173 にしては、劉備陣営に一門集が全くいないのは不自然だ。
180 :
世界@名無史さん:05/01/04 23:30:16
>>179 遠縁はたくさんいたと思うが、劉備を血縁のみの他人と思って、
親戚であるという意識が全く希薄だったんじゃないかな。
だから、一門といえる人々がいなかったのでは…。
唯一である一門の劉徳然は一緒に学問をやった事項以外は全く不明だし。
181 :
世界@名無史さん:05/01/05 16:37:18
血統がそんなに問題なのかな?漏れにはよく理解できない。
政府、または国家として考えると、前漢は230年(新含む)、後漢は564年(陳滅亡まで)となると思うが。
皇族が政権交代しただけで、国家が交替したわけじゃない。なので、漢は400年じゃない、には同意するが、その意味はちょっと違う。
ところで、前後漢政権交代期に、地方長官クラスで、留任している奴がいたはず。国が滅亡するということは、
そういう連中含めて交替してしまうことだと思う。
182 :
世界@名無史さん:05/01/05 16:45:59
そもそも則天武后の周が起ったとき、唐の滅亡という記載をあまり見たことが無い(ゼロではない)。
あまり唐滅亡といわないのは、政府として同じものが存続していたのだから、問題にしようが無いのだろうと思う。
これと同じことで、後漢ー魏ー晋・・・の交代なども、あまり問題にする必要が無いように思うけど。
唐などでは、寧ろ、半独立した地方政権である藩鎮の領土をきちんと歴史地図帳などには記載したほうがよいように思えるが。
唐の領土は事実上梁が誕生する前から、梁と同じ程度の規模しかなかったはずなのに、歴史地図でみると、突然統一国家が
解体したように見える。アッバース朝については、きちんと内部独立政権を「ハマダーン朝」「ブワイフ朝」とか各のに、中国史の場合
それがあまり見られない。何でだろう。
183 :
世界@名無史さん:05/01/15 13:44:27
劉備は一応、劉勝の諸子の陸成侯・劉貞の後裔だが、
中山王家は孫も入れて120人の大家族だったから
劉備の実家と中山王の他の諸子の系統は日本でいえば、
新田と足利の両氏の差があるといえるだろうな。
中山王の後裔の半分以上は涿郡に定住しているからな。
>>182 そう言う本はあったと思う、あるけど高い3マンぐらいした。スケッチブックよりやや小さいぐらいの大きさ
厚さは8cm以上でハードカバー、総ページ300ページ以上だった気がする。
中は詳細地図が主で、州や郡県をズームした地図まであり微細まさに微細
各王朝の領域の中を郡県の下までビジュアルに記載された本。
しかし、今は絶版どこにもない。
中国歴史詳細地図、と言うタイトルだったと思う1990年頃の刊行
あの時無理してでも買えば良かったと思っている。出版社も不明。
185 :
世界@名無史さん:05/01/15 23:10:11
>>184 地図出版社から出ている中国歴史地図じゃないですか?日本では3万円だけど、
中国で買えば2000円くらいで買えると思います。漏れも、中国いったとき、
買っておけばよかった、と思ってる口。でも荷物にになりすぎて、
その時は買わなかった。無理してても買っておけば。。。HISなどがやっている、
上海2泊3日3万円のツアーに申し込めば、旅行もできて、本もゲットできて
ほぼ同じ値段。(漏れは現在休暇が取れない身なので、2泊3日のツアーも無理、)
>>184-185 情報ありがとう。地図出版社の「中国歴史地図」、日本の古書店で扱っていな
いか調べたら、各種(王朝別など)扱っていることが分かって、欲しい王朝の
分冊だけ注文しました。2100円なら丁度良いかな。問題は中文表記がどれだけ
読めるか。