1 :
世界@名無史さん :
04/08/25 16:55 英空母がバルト海に侵入してワルシャワ蜂起を成功させていたりしたら、 ポーランドは西側化していた!?
2 :
世界@名無史さん :04/08/25 17:12
>>1 |┃三 , -.―――--.、
|┃三 ,イ,,i、リ,,リ,,ノノ,,;;;;;;;;ヽ
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|┃ |} ,,..、_、 , _,,,..、 |;;;:|
|┃ ≡ |} ,_tュ,〈 ヒ''tュ_ i;;;;|
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|┃ .「| イ_i _ >、 }〉} _________
|┃三 `{| _;;iill|||;|||llii;;,>、 .!-' /
|┃ | ='" | < 話は全部聞かせて貰ったぞ!
|┃ i゙ 、_ ゙,,, ,, ' { \ お前はシベリア送りだ!
|┃ 丿\  ̄ ̄ _,,-"ヽ \
|┃ ≡'"~ヽ \、_;;,..-" _ ,i`ー-  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|┃ ヽ、oヽ/ \ /o/ | ガラッ
4 :
世界@名無史さん :04/08/26 00:27
>>1 ま、していただろうな。ロンドン亡命政府が戻ってくる。しかし対岸にはすでにソ連軍が来ていたので、そこまでは赤化されたかもしれない。
つまり、2つのドイツでなく、ヴィスワ川を挟んで2つのポーランドという状況に。
5 :
世界@名無史さん :04/08/26 00:33
トルコを裏切って襲撃した如く、 フランスを裏切ってアメリカに擦り寄ったが如く、 連合国を裏切ってソ連に擦り寄る。
6 :
世界@名無史さん :04/08/26 00:40
トルコを裏切って襲撃した如く、 フランスを裏切ってアメリカに擦り寄ったが如く、 結局1989年に共産圏で初めて民主化しソ連を裏切って西側に擦り寄っただろ
ポーランドってそういう国家だったのか。
しかし一時的にせよナチスを倒すためにソ連の助けが必要だったチャーチルがそこまでの行動に出れるかどうか
自由ポーランド政府vsルブリン政権なんてスレがたったのスゲー。 誰がカキコすんの? とりあえず、フランスなら、 自由フランス政府(ジロー、ドゴール) vs ヴィシー政府(ペタン) vs 地方植民地政府(ガムラン、ダルランetc) ってところか
「ナチスへの攻撃」だから逆にスターリンも強力に拒否できたかどうか。 ルーズベルトの機嫌を損ねる心配もあるし。
逆に英空母がポーランド内の独空軍力を叩いてしまったら、 ソ連の進撃ペースが早まってドイツでの東西境界線は もっと西よりになってた可能性も考えられるな。
12 :
世界@名無史さん :04/08/26 01:36
>逆に英空母がポーランド内の独空軍力を叩いてしまったら、 ソ連も有利になるが、一方英米はバルト海沿岸部からの上陸が可能になる。
13 :
世界@名無史さん :04/08/26 01:37
>>12 そういう計画(バルト海からの上陸)が出たら、イタリア戦線にいたアンデルス将軍の自由ポーランド軍も上陸作戦に参加していただろう。
14 :
世界@名無史さん :04/08/27 19:01
age
15 :
世界@名無史さん :04/08/27 20:25
ルーズベルトが反対するから没。
16 :
世界@名無史さん :04/08/30 09:25
まだトルーマンじゃないか。
17 :
世界@名無史さん :04/08/31 01:21
>>11 それよりドイツの東部国境がどうなるかが心配。
18 :
世界@名無史さん :04/08/31 16:53
おそらく東部国境線はそのままで、 ダンチヒ及び、東プロイセンはポーランドに帰属する事になっていただろう。
19 :
世界@名無史さん :04/09/01 20:48
無理だって シコルスキ将軍亡き後 ロンドン亡命政権に残っていたのはへたればかり ミコワイチクだって糞だし スターリンと五分に渡り合える香具師なんぞ居らぬよ
20 :
世界@名無史さん :04/09/01 23:48
背後にはチャーチルがいるが?
ポーランドの西部国境線は保全、東部国境線はソ連に侵食されただろうが、 東プロイセンはポーランドのものとなって、ドイツ人を追放。 これで民族構成もすっきりしたはずだ。
22 :
世界@名無史さん :04/09/02 23:56
>>18 メーメルラントも東プロイセンの他地域と一緒にポーランド領?
23 :
世界@名無史さん :04/09/03 00:27
東プロイセンはヴァルミア地方を除けば ポーランド人の執着心はほとんど無かったよ 問題はヴィルノとルブフとその周辺 さすがのルブリン政府も 特にルブフの帰属を巡ってソ連に懇願していたみたい
24 :
世界@名無史さん :04/09/03 00:36
そういえばルブリン政府の有った建物はルブリンの目抜通りに今も有って 1階はたしか洋服屋 隣がEMPIK(本とその他諸々のチェーン店)と 食料品屋 近くに古本屋が有って良く通った
>>19 指導者の無能有能は関係ないんだよ。
アメリカやイギリスがどれだけ押してるかで決まるんだよ。
現に、自由フランス政府は初め、ドゴールより有能だったジローが主役だったが、後押しがなかったために終わってしまった。
東欧でソ連が譲歩したら、日本にその分介入してくるんじゃないの? ポーランドには悪いが、俺はソ連も社会主義も御免だ。
27 :
世界@名無史さん :04/09/03 01:49
またウヨ坊かよ(プ
右予 予防法により>26はシベリア送りだ! 特別高等警察
>>23 いや、戦後処理として、東プロイセンの民族浄化は絶対に必要。
あそこにドイツ人がいては、また将来戦争の種になる。
政治的判断から、ポーランドに帰属するのが理想。
ポーランド一般の国民感情は別の問題。
30 :
世界@名無史さん :04/09/05 03:09
>>29 戦前はポーランド回廊(西プロイセン)を含めて、東西プロイセンはともに
ドイツ人が多数派だったわけだから、飛び地にせずに西プロイセンも含めて
そのままドイツ領なら、それはそれでよかったと思う。
また、西プロイセンは、ヴェルサイユ体制下と同様にポーランドに帰属で、
なおかつドイツの飛び地を消滅させる場合、東プロイセンという地域区分を
維持したまま、全体でどこかの国に帰属させるなら、リトアニアが理想だったと
思う。
中世のポーランドとリトアニアの合邦以前に遡っても、プロイセンは基本的には
リトアニア領だし。
但し、ポーランドの東部国境については、概ねカーゾン線を受け容れるとしても、
ルヴフ周辺の東ガリツィア地方はポーランドに帰属が望ましかった。
31 :
世界@名無史さん :04/09/05 03:14
>>30 続き
ケーニヒスベルクをポーランドが取得し、ポーランドがこの地域で軍事大国化する
ことは、それはそれで地域の安定に不安要因を残したはず。
そう考えれば、東プロイセンなどよりも、ポーランド人が一般的に執着していた
東ガリツィアなんかをポーランド領として与えておくほうが良かった。
リトアニアだろうがポーランドだろうがどっちでもいいが、 東プロイセンからドイツ人を追放するのは正しい政策だ。
33 :
世界@名無史さん :04/09/05 10:11
>>30 >ルヴフ周辺の東ガリツィア地方はポーランドに帰属
あの界隈はルブフ市を除けばウクライナ人が圧倒的多数派
今のルブリン県カルパチア山麓県東部のUPAに手を焼いた
ポーランドは戦後すぐにヴィスワ作戦なんて無茶をやって
無理矢理平定したくらいだし 旧ルブフ県をポが抱えるのは
爆弾を懐に抱えるようなものではないかな
第二次大戦がなくてそのまま第二共和国が存続してたら
民族紛争でえらい騒ぎになってたように思う
特にウクライナ人には手を焼くよ きっと
34 :
世界@名無史さん :04/09/05 14:14
>>32 ケーニヒスベルクのドイツ人にかなり恨みがおありのようですね。
>>34 恨みとかは全然関係なく、あそこにドイツ人がいたことが全ての間違いの元だという(ry
欧州の領土画定と民族とは複雑怪奇なり。
37 :
世界@名無史さん :04/09/08 21:08
>>37 ハンガリーに追い出されたドイツ騎士団が、マゾフシェ侯の傭兵として行ったのが最初。
その後教皇の勅書を偽造して、あそこに住み着いたので、そもそもが違法な居座り行為。
呼んだマゾフシェ侯の失敗ともいえるが、居座ったドイツ人が悪い。
39 :
ごるごるもあ ◆753Z/RLFiY :04/09/10 19:49:09
軍事経済のリスクは雪達磨式に膨らみ、既に米国の国債赤字を発行限度額にまで押し上げている。
戦争はもともとハイリスク・ノーリターンなのである。
それにも関わらず米軍主導の経済運営を一体どこの国が望んでいるのかである。
表向き米軍に逆らわないのは単に米軍が世界最大の軍事国家であり、資本主義経済の利権を独占しているからであり、ひとたび世界に目を向ければそれこそ奴隷文明のハイリスクが渦巻いているのである。
軍事経済はそのリスクの切れ端に過ぎない。
実に狭い価値観の中で我々は背後から突き動かされているに過ぎないのである。
米国が我々のアイデンティティーを弾圧し、軍事経済を正当化してきたのなら、そこに最初から正義などあろうはずもなかったのである。
【米国主導の奴隷文明、すべてのリスクは弱者から被る】沖縄・琉球民族
http://homepage3.nifty.com/darkelf/
40 :
世界@名無史さん :04/09/10 20:39:22
>>38 ドイツ人は謝罪と賠償を、数百年前の分までしろと?
>>40 謝罪・賠償などいらん。
ドイツ人支配地域でなくなっただけで充分。
43 :
世界@名無史さん :04/10/11 22:00:30
Na górę.
>>41 ミェシコI世からボレスワフII世まで苦労して築いた領土が600年ぶりに元にもどったわけだな
45 :
世界@名無史さん :04/10/12 20:18:18
Kazimierz Wielkiが獲得した東ガリチアは奪られたけどな
東プロイセンはプロイセンの故地なのに・・・ 日本でいえば近畿地方を奪われたようなもんだ。
任那みたいなものだろ もともとドイツじゃないんだよ
東プロイセンはドイツ騎士団が土地の権利関係の文書を偽造して居座った土地で、現代の話ならばあそこにいたドイツ人は詐欺罪だ。
文書偽造して居直ったぐらいなら可愛い方だな、東漸策、南進政策のロシアとか フロンティアスピリッツの一言で西漸策のアメリカとか
51 :
世界@名無史さん :04/10/31 03:28:46
いずれにしても、東プロイセンは700年以上にわたって、ドイツ人が開拓して いった土地、現実に第一次大戦後はどうみても不公平な住民投票の結果でもドイツ 領として残った土地だ。 その結果を無視することはできない。 これは西方のシレジア地方もそうだが、800年間の歴史の流れのなかでドイツの血と なり肉となっていた地域だし、そこの住民を一度に暴力で土地、財産、あまつ命さえ奪ったあげく 追放してしまったことはソ連やポーランドの許されざる国家的犯罪として記憶されるべきだと 思うね それに、700年前って日本で言えば、平安時代から鎌倉時代のあたりだよな その時代のときはどうのこうのと言って、それを理由にドイツ領土強奪、住民追放を正当性化しようなんてすること 自体おかしな話だ。
52 :
世界@名無史さん :04/10/31 11:06:10
でっ 今更領土問題を蒸し返してEUを混乱させるのはドイツにとっても得策ではないわな この手の潜在的領土問題を抱えているのは独波間だけじゃねえぞ それとも何癖つけて1939年9月1日の様なことをもう一度ドイツはやるのか 今度こそドイツは世界から抹殺されるぞ
53 :
世界@名無史さん :04/10/31 11:18:23
ポーランドがEUに加盟した現在となっては、どうでもいい問題だな。
54 :
世界@名無史さん :04/10/31 17:04:27
カリーニングラードはこのまま、ずっとロシア領なのだろうか?
>>51 戦争に勝ったから領土を奪った、ってそれだけの話だろ。
国際紛争には付きものの普通のこと。
頭おかしいんじゃないの?
58 :
世界@名無史さん :04/11/08 22:43:18
>>57 戦争に勝ったから領土を奪った、ってそれだけの話だろ。
ポーランドって戦勝国っていえるの フランスもそうだけど
じゃ、北方領土を要求する日本の態度もおかしいというわけだ
59 :
世界@名無史さん :04/11/08 22:50:40
領土はともかく、戦後になっても奪ったドイツ領からドイツ住民を追放したのは 明らかに国際法上の犯罪だろう 国家間の戦争と個人の財産権は別物だからだ その土地、財産はもとの住民やその子孫に無条件で返されるべきだね EUの世界になったらなおさらだ
60 :
世界@名無史さん :04/11/08 23:17:09
この手の問題は独波 独チェコ間だけじゃ無い罠 ポーランド一つ取ってみても旧東方領土のポ人は大多数が追放されているわな ヴィルノ市(ヴィリニュス)なんてドイツ人に虐殺されたユダヤ人の分を 除けば ほぼ全部がポ人の土地 財産と言っても過言ではないが 今更 それを言い出す馬鹿はポーランドにはほとんど居ないワ Nie ma lekarstwa dla głupców.
61 :
世界@名無史さん :04/11/08 23:45:29
ポーランド東部領土はもともと、ウクライナ人のほうが多数派だったとような 戦後、カーゾン線西に居住していたウクライナ人と東に居たポーランド人とは 交換になったはず しかも、追放されたドイツ人とちがって、財産の持ち出し 量に制限はなく(ドイツ人は一人5kg以内の荷物をもって6時間以内に行く 先もなく放り出された) 増して、避難途中にポーランド暴民によって命の危険にさらされることもなかった。 それに引き換え、東部からきたポーランド人は行く先も、移動の安全も保障されており、その多くはドイツ人が残した土地、 家に住み着くことができた。 こういうのは、本当の「移住」というのであって「追放」とは呼ばない それに、チェコの場合、ドイツ人追放は「遺憾」であったと認めているが ポーランドはその事実さえ認めていない もっとも、ポーランドはつい最近まで、イエドワブネのユダヤ人虐殺を ドイツのせいにしてのほほんとしていたし、戦中・戦後のブロンベルグの虐殺、 もいまだにほっかぶりしたままだ それでも、ポーランドは戦争の一方的被害者を装い、その罪を覆い隠そうと 努めて来た
62 :
世界@名無史さん :04/11/09 00:08:58
ブロンベルグ(ビドゴシチ)の虐殺でナチスが主張していたものは捏造の可能性が高い。 ドイツ人も殺されたが、ドイツのルフトバッフェによるものだそうだ。 ビドゴシチで確信犯的に殺されたのはポーランド人だそうだ。 イェドバブネも調査が進むにつれてドイツ兵によるそそのかしあるいは脅迫があったことが明らかになるだろう。
>>61 飽きずに同じこと何度も。。。
一つのスレで完全に論破されるとまた他スレで騒ぐ。まさにキチガイだ。
64 :
世界@名無史さん :04/11/09 00:26:45
下シロンスク 旧東プロイセンの旧住民の権利を認めたら 当然 ポ人にも旧東方領土の権利が認められるのが筋だわな それに旧ヴィルノ県はポーランド人が多数派だったわな 馬鹿の一つ覚えのようにイエドヴァヴネ事件のことを持ち出しているけど キルツェ事件の話は出て来たことがないな 大騒動の元になった問題のSąsiedziぐらい読んでいるんだろうな Nie chcę bawic się z małpą Niemiecki.
いけね 姓と格を間違えた Niemiecki × Niemiecką ○
西に逃げるドイツ人を襲ったポーランド人はドキュソ 支那人みたいな奴らだな
ドイツ人が逃げていなくなってからポーランド人が移住したから時系列的に矛盾がある。
ポーランドってナイチンゲールやキュリー夫人の出身国だからか、 弱者で正義の国のように書かれやすいが、 実際にはあの辺りでは結構好き勝手やってた国なんだよね。
69 :
世界@名無史さん :04/12/10 00:16:51
age
ヒトラーはポーランド侵攻に反対だったって本当? ヒトラーはもともとポーランドには無関心で、 防共の観点からもポーランドとの戦争を望まなかったが、 プロイセン系の人間がポーランドを伝統的に敵と捉えていて、 仕方なく彼らの意見に従ったらしい。
南京大虐殺は事実。 多数のドイツ人がポーランド人に殺されたのが事実ならば。
72 :
世界@名無史さん :04/12/10 00:52:47
つか、対戦前の領土を取り戻していただろう? 現在の領土より20%以上大きく、農地も肥沃、ヴィルノも奪還。
73 :
世界@名無史さん :04/12/10 08:04:49
>>72 そして厄介窮まりないウクライナ人等の少数民族を抱え
農地改革も進まず COPも名ばかりで工業化も困難
74 :
世界@名無史さん :04/12/10 18:17:43
>>59 その考えがおかしいんだよ。完全にドイツの術中にはまってる。
>領土はともかく、戦後になっても奪ったドイツ領からドイツ住民を追放したのは
>明らかに国際法上の犯罪だろう
国境線変更もドイツ系住民の放逐もどっちもポツダム会談の合意事項なんだよ。
>国家間の戦争と個人の財産権は別物だからだ
これはドイツが自国にいる被放逐者に賠償をしたくない(もしすれば他の納税者から非難を浴びて
どの政党が与党であっても政権が維持できなくなる)から便宜的に領土と私権を分離しているんだ。
こういうことは歴史を通じてドイツお得意のレトリックであって、こんなことでドイツに賛同していたら、
ただの単純バカだぞ。
75 :
世界@名無史さん :04/12/10 18:19:00
だから日本人のほとんどはドイツ崇拝者のバカばっかりなんだよ。
>>74 ドイツ側の言い分は「ポツダム会談はドイツの署名が無いから無効」なんだが。
ポツダム会談でなく、ニュルンベルク裁判だろ
>>77 ニュルンベルグ裁判同様、ポツダム協定も無効だと言ってるよ。
>>78 ポツダム協定を受け入れるということは、
国境線変更
住民の追放
のどちらも認める事になり、
特に問題なのは、後者を認めるということは
旧住民の私権を否定する事になる→ドイツ政府が補償義務を負う→他の納税者(or有権者)が反対→政権交代
となるから、どの政権もできなかったんだよ。ズルイといえばズルイ。
前者は、1950年に東ドイツが、1972年に西ドイツが、1990年に統一ドイツが承認済み。
ただし、後者については、強硬だった被追放者連盟が請求権の放棄の方針を打ち出し、ドイツ・ポーランド両政府に
ドイツが承認しなかったポツダム協定にかわる法的な最終的解決を求めている。
連盟の方針に納得しない分子はプロイセン信託公社という組織を通じて強攻策として、今年中に
ポーランドと欧州人権裁判所で訴訟を起こす決定をしていたが、今のところ動きはない。
少なくとも西欧諸国との外交には注意が必要だな。 空手形、白紙手形、何でもアリだから。 ロウに指輪の印を押す風習って、その辺から来てないのかな?
もういい加減にスレ違いの話題は止めたら?
ポモルスカ旅団の戦闘(この戦闘で「対戦車突撃」の伝説ができた)について詳細な説明が書いてある↓ German propaganda: Most known is the cavalry 'charge' on 1.September 1939 in the area of the 'passage' between Pommern and Danzig. What really happenend was that two squadrons of the 18th Polish Lancer Regiment, under instruction of Colonel Kazimierz Mastelarz tried to surprise a German infantry unit (belonging to German 20th Motorised Infantry Division). By late afternoon, with a company of tankettes of the 81st Armoured Troop the 18th Lancers were holding the most northern Polish positions near Chojnice while the remainder of the Pomorska Cavalry Brigade fell back southward.
The Regimental Colonel Kazimierz Mastelarz had already sought permission to fall back across the Bzura River, which was in his rear to a more easily defendable and less risky position. Permission had been refused. By late afternoon Mastelarz decided he had no choice but to take some sort of active initiative on his own. Abandoning the broken down tankettes he mounted half his men giving him a force of less than two normal line squadrons. He aimed to outflank German infantry positions and take them from the rear. At about 7 P.M. the Poles came across German infantry in a forest clearing. Determined upon a surprise attack Mastelarz swept into the clearing with a mounted sabre charge that annihilated the German units.
The Poles chased the German infantrymen in the gallopp, when a German armoured car unit (and possibly Panzer I), which had arrived on the scene. The German vehicles emerged around the corner (left hand side of the area being charged were some woods which took a left hand curve). Colonel Mastelarz then had two possibilities: stop the attack and turn and make flight - and being shot to pieces by the automatic cannons of the German vehicles (or tank machine guns)before getting out of shooting distance. Or head straight for the tanks and disappear between them (and thus put the Germans at risk, mutually to shoot themselves) and finallly into forest area. Mastelarz decided for the second possibility.
Bystanders could take this as a cavalry charge. In truth it was a desperate, but ingenious escape attempt. The Germans were so surprised of the sight of the 'charging' cavalry that they hardly fired. Colonel Mastelarz actually succeeded in saving his units. 20 men were lost. On the next day Italian reporters visited the place of the happening, where German officers told them, on the basis the dead cavallerists, of the 'antiquated and helpless' charge. A myth was born. This report was then taken up and cannibalized by the German propaganda machinery, in order to support the alleged 'inferiority of the slawic race' (tenor: 'only mentally inferior races are so thick as a brick to attack tanks with sword and lance'). Also wanting to demonstrate a Polish military recklessness and foolishness. Far from the truth.
愚かで旧弊なポーランド軍に対して、近代的で科学的なドイツ軍 が圧勝したという宣伝ですね。当時のナチスはいちはやく1939年 10月の雑誌の表紙にまでして宣伝に努めています。 ポーランド軍が短期間で壊滅したために、イタリア人記者が伝え た騎兵旅団が戦車隊に抜刀突撃を行って全滅したという記事が 神話として長く流布することになったのでしょう。 すでに日露戦争の戦訓で、槍やサーベルによる騎兵の突撃では 機関銃を装備し、遮蔽物に拠る敵には対抗できないことがわかっ ていますし、ポーランド軍は第一次大戦を戦い抜いているのです から、機動兵力として騎兵を使用することはあっても、抜刀突撃 を敵の正面から実施するなどナンセンスです。 もともと、戦車に突撃して壊滅したと伝えられているのはポモルス カ騎兵旅団ですが、実際には軽戦車(タンケッテ)と連携して侵攻 してきたドイツの歩兵部隊を圧倒し、退却する歩兵を掃討しようと して乗馬追撃を開始したところをT号戦車の部隊と遭遇包囲され たので、やむを得ず戦車部隊正面方向への突破を行い、大きな 損害は出したものの、脱出に成功したというのが経緯です。 目撃していたイタリア人ジャーナリストが、これを騎兵旅団による 機甲部隊への愚かな正面攻撃として喧伝したということで、一般 的に行われたものではないです。
ありゃ、おおまかな説明を書き込んでいたら、詳細な英文資料が同時に紹介 されてましたね。正確な話は、これを読んだほうが早いでしょう。 補足しておくと、ポーランド軍の主力はあくまで歩兵部隊です。騎兵旅団は貴 重な機動部隊で、11個旅団程度しか存在しない虎の子的な存在で、その内 の第10騎兵旅団は自動車化を進めていました。これを軽機甲旅団と表記し ている資料もあります。 他の騎兵旅団も基本的には馬で移動し、下馬して小銃や機関銃、対戦車砲 で戦うのが基本パターンです。 まぁ、「電球を取り替えるのに5人のポーランド人が必要」と同等の話だと思え ば間違いないでしょう。 というか、騎兵旅団が勝てるだろうと思って戦車部隊に抜刀突撃して全滅した
というか、騎兵旅団が勝てるだろうと思って戦車部隊に抜刀突撃して全滅した なんて話は、本気で電球を取り替えるのに5人いると言ってるようなもんです。
問題としては、映像の世紀二十世紀での 世界は地獄を見た篇。 ポーランド軍とドイツ軍との戦闘シーンにおけるナレーションと背景映像が誤解を招くって事かな。 ナレーション 昔ながらの騎兵と歩兵で編成されたポーランド軍は、戦車を主力としたドイツ軍の前に壊滅 シーン 騎兵の突撃 仕方がないかなぁ
NHKって時々デタラメやるからな そういえばドイツ在住の元NHK記者のサイトも所々滅茶苦茶書いてある
91 :
世界@名無史さん :05/01/04 11:17:33
age
ポーランドの連帯 ワレサ議長ってまだ生きているらしい。
生きてるどころか、財団作ってアメリカなど講演してまわって儲けてるし、 先日のウクライナ大統領選では混乱収拾と称してユーシェンコ陣営の応援にいってるし。 相変わらず元気だよ。 ヤルゼルスキ将軍も生きてるよ。 何件も裁判があって大変だが、ときどきワルシャワの街中で愛犬の散歩している姿を見かけるそうだ。
>>93 元気なのか、thanks。
やっぱり冷戦まっただ中の強烈な共産国家で、
共産党員らしい闘争を続けたオッサンではあるな。
連帯の戦い振りは当時のテレビニュースでは絶えずカッコいいワレサ議長が出てたし。
ワレサ萌え。
95 :
世界@名無史さん :05/01/07 22:22:38
大統領時代のドキュソな行動でワレサの権威は地に堕ちたけど 最近復権されつつあるみたい ちなみにあのおっさん党員だったことは一度もないよ 連帯騒動の随分前から反体制の札付き者だったからね 70年12月事件の後からささやかながら運動を始めているし
げに、ポーランドは複雑怪奇なりだったな。 共産体制下なのに反体制勢力が公然と活動していたという事実が。 ソ連も軍事介入に何度も躊躇したしなー。 >反体制の札付き者だったからね 拘束された事もあったけ
>共産体制下なのに反体制勢力が公然と活動 それどころか70年代後半から西側の大衆文化流入も自由化されていたという不思議な国
そろそろ、冷戦下における東欧諸国の政治体制、民衆の生活等々を再発掘する時かもしれん。 >大衆文化流入も自由化されていたという不思議な国 オーストリアの人がカーテン越えて隣国の共産圏の街にお買い物ってのもあるな。 物価安いだけでなく品質も良しだから、当該国の市長も大いに経済活動を奨励<共産圏だろ 後、ベルリンの壁崩壊直前は、東ドイツ、オーストリアって重要な線があったなぁ。 直前のTV映像で多数の東ドイツ住民がオーストリア国境付近で屯してたし
>オーストリアの人がカーテン越えて隣国の共産圏の街にお買い物 特にチェコスロバキア政府はそのアングラ経済を黙認していたそうだ たとえばブラチスラバはウィーンからすぐだしね >ベルリンの壁崩壊直前 あれはハンガリー国境だったね
100 :
世界@名無史さん :05/01/08 20:54:40
あの国はわけ解らんよ 公然反体制組織とか編集者の住所名前入りの反体制機関紙だの 戦後一貫としてカトリック大学が存続出来たり スターリニズム時代にもカトリック大は存続していたんだぜ 信じられるか
あの頃はロマンがあったな。
>>100 それどころじゃない。
共産主義国のはずなのに、国軍に「カトリックの従軍司祭」が一貫して存在してたんだぞ。信じられん。
ポーランド国歌斉唱! 漏れの辞めた職場仲間の奥さんはポーランド人だった!可愛かった亜麻色の髪白い肌 でも、その人も漏れと一緒にその会社辞めたんだよな。
共産主義時代にローマ法王まで輩出してるな 結局ソ連はポーランド支配に失敗していたってことか
105 :
世界@名無史さん :05/01/09 01:22:22
曲がりなりにも支配できていたのは1948~1956迄の8年間だけ
あの事よりまだ過去にポーランド分割に参加したロシア、 オーストリア・ハンガリー帝国、プロイセンの気持ちがよく分かる。
ポーランド分割 していなければプロイセンは滅亡していたかもしれない
108 :
世界@名無史さん :05/01/10 22:56:10
そういや士族もいたな。 共産主義国なのに。
109 :
世界@名無史さん :05/01/11 00:17:09
法的には第二共和国成立後階級としてのシラフタは廃止されてる
謎が噴出する国だな…
共産主義一枚岩じゃない国だったってことさ 常にカトリックとシラフタの価値観が強くこれが良識として機能し しばしば労働者と結びついて共産主義に対抗していた
ルブリン政権すなわちその後1989年までポーランドを支配した政権は 最後までポーランド国民の支持を得ることはなかったわけだ
むしろ東西両超大国に対して、ポーランド国民が総出で担ぎ上げていた 傀 儡 政 権 だったというわけか、 英国にいた亡命政権だって似た様なひも付き政権だし
は?逆だろ。担ぎ上げていたんじゃなくて総スカン食っていたんだろ。 亡命政権は連帯やカトリック教会と繋がってたぞ。
115 :
世界@名無史さん :05/01/11 20:09:53
>>112 1956年に復権したゴムウカは最初の数年間
間違いなく国民から強い支持を受けていたぞ
フルチチョフの雪解け……甘かったな。
ゴムウカか、、、早大入試に出たな
119 :
世界@名無史さん :05/02/03 15:37:16 0
120 :
世界@名無史さん :05/02/28 01:15:42 0
亡命ポーランド旅団は戦後どうなったのだろう マーケットガーデンに参加した旅団とか
121 :
世界@名無史さん :05/02/28 01:33:33 0
>>120 大半はイギリスやアメリカに渡った。
ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の近くにポーランド貴族たちのコミュニティがある。
一部は祖国を忘れられずポーランドに戻ったが、反ソ分子のスパイとして政府に逮捕・投獄され、
ゴムウカの復権とほぼ同時に彼らも釈放された。その後ポーランド軍の軍人として働いた人もいる。
122 :
世界@名無史さん :05/02/28 22:29:18 0
123 :
世界@名無史さん :05/03/01 01:00:25 0
ワルシャワ蜂起の鎮圧司令官だった、フォン・デム・バッハ=ツェレウスキーSS大将 の第二次大戦後の処遇はどうだったのかご存知の方いらっしゃいませんか? シュトロープSS少将共々処刑されたのでしょうか?
124 :
世界@名無史さん :05/03/01 02:29:53 0
>>123 ニュルンベルク裁判で、元上司達の犯罪に関する証言をすることを引き換えに、
戦争犯罪には問われなかった。一種の司法取引が成立した。
身柄はポーランドにもソ連にも引き渡されなかった。
1951年に、30年代初期に政治的反対者を殺害した罪で10年間の労働キャンプでの懲役が課せられたが、
刑務所に収容されたのは、長いナイフの夜事件であるSS将官を殺害した罪が確定した1958年になってから。
1961年には、30年代に10人の共産主義者を殺害した罪で10年間の軟禁刑が課されている。
1972年にミュンヘンの刑務所にて獄死。
125 :
世界@名無史さん :05/03/01 02:40:29 0
>>120-122 空軍で戦った人の話になるが、スカルスキ中佐は対独占終了後、英空軍から高い地位を提示されたが、
ポーランドが既にソ連の支配下に入っていたにもかかわらず、祖国に帰ることを選んだ。
まず初めは、共産党員が支配するポーランド空軍に勤務した。
しかし冷戦時代にスカルスキは逮捕され、「米英の帝国主義者のためにスパイをはたらいた」として告発された。
同様のことが、スカルスキと同時期に西側から帰国したポーランド空軍パイロット達の身にも起こった。
スカルスキは内務省管轄の調査機関によって拷問を受け、馬鹿げた告発の後、死刑を宣告された。
結局、共産主義者たちは「慈悲をもって」終身刑に判決を変更する。1953年にスターリンが死ぬとポーランドでも
事態は少しずつ変わり始め、1956年、ゴムウカの復権と共にスカルスキは8年の獄中生活ののちに釈放された。
彼はただちにポーランド空軍から仕事を提示され、若干ためらいはしたが、これを受諾した。
やがてミグ・ジェット戦闘機や他の型で飛ぶ機会も得て、1970年代までポーランド空軍の高級将校の職にあった。
結局、准将まで昇進した。
その後、軍を退役し、ポーランド飛行クラブの会長をつとめ、現在はワルシャワに居住している。
126 :
世界@名無史さん :05/03/01 02:50:57 0
>>120-122 別の空軍軍人の話だが…
ヴィトルド・ウルバノヴィチュ大佐バトル・オブ・ブリテンの英雄であるが、彼の多くの戦友とは異なり、
戦争がおわっても英空軍から公式には任務を解かれず、かわりに1945年7月以降、永久休暇のあつかいとなった。
その年、彼はポーランドへ帰国した。共産主義者たちは、世界に向けてポーランドの「正常化」を証明するため、
戦中の英雄達を母国に呼び戻そうと躍起になっていた。到着したウルバノヴィチュは誤って逮捕され、
獄中で1日を過ごした後釈放された。それでもこの経験は、ポーランドに定住する気持ちを萎えさせるのに充分で、
ウルバノヴィチュはアメリカに移住し、航空宇宙産業で職を得た。
共産主義崩壊後、彼は何度かポーランドに帰国し、1995年にはポーランド軍から「大将」の位を贈られた。
翌年5月、ウルバノヴィチュは戦前に彼が所属していたワルシャワの「第1飛行連隊」の創設75周年記念式典のため、
戦闘航空第1連隊「ワルシャワ」を訪れた。心温まるこの式典のなかで、老エースは若い戦闘機パイロット達に祝福を送った。
亡命50年の後、ついに「帰郷」がかなったのだった。アメリカに戻って数週間後、
ヴィトルド・ウルバノヴィチュは世を去った。
127 :
世界@名無史さん :05/03/01 05:44:16 0
超大国と陸続きだと起こる歴史的悲劇だな。個人のバランス感覚も凄まじいね・゜・(ノД‘)・゜・。 某国は周りが海でよかったよ、魚市場視察に午前9時…アフォか4時にこい。
チェコだけど、ダーク・ブルーが正にそういう話だったね…・゜・(ノД‘)・゜・。
129 :
123 :05/03/01 22:49:03 0
>>124 ありがとうございます。訴追を免れていたとは知りませんでした。
配下の部隊、指揮官は残虐行為で有名ですが、バッハ=ツェレウスキー大将
自身は蜂起軍降伏の際に相手を騎士道的に扱ったなどとのエピソードも
聞いた事もありましたが・・・。
130 :
ナポレオン ◆vYVYAtFe0o :05/03/01 23:16:02 0
バッハ=ツェレウスキは特別行動隊の隊長だったころ、 あまりに凄惨なユダヤ人虐殺にショックを受け精神病院に入院したことがあります。 それでヒムラーに「そろそろユダヤ人虐殺を止めたらどうか」と進言して、 不興を買ったりもしています。 虐殺に関わったSS高官の中では、まだ割と「いい人」の部類ですね。 それからシュトロープですが、戦後ポーランドの刑務所に入っていたとき、 反スターリン言動の故に逮捕された「ワルシャワ蜂起指導者の1人」と、 同室になってます。 彼はシュトロープとの間に対話を重ね、 『死刑執行人との対話』(邦訳あり)という本を書いてます。
131 :
世界@名無史さん :05/03/01 23:34:23 0
いろいろあるんだな本を読もう
>>129 >蜂起軍降伏の際に相手を騎士道的に扱った
さあ、真相はどうだかわからないが、ともかくも彼の家系はポメラニア出身の西スラヴ系民族だから
ナチス党員とはいえ、同じ西スラヴ系文化のポーランド人に親近感を抱いていた可能性はあるかもしれない。
134 :
世界@名無史さん :
2005/04/09(土) 22:43:26 0 もったいない