1 :
世界@名無史さん:
ロシアの英雄アレクサンドルが800の軍勢で5000のスェーデン軍を破った
ネヴァ川の戦いなどを語ってください。
2 :
世界@名無史さん:04/08/08 06:01
桶狭間はだめ?
3 :
世界@名無史さん:04/08/08 06:03
世界史板ですからねぇ・・・
タンネンベルク。
5 :
世界@名無史さん:04/08/08 06:42
【スーパーマリオはわいせつだ!】
まず、男二人が主人公で、捕まるのは女性。これは明らかに女性差別です。
主人公が好色なイタリア人の男。これも子供の教育にはよくありません。
特に二人のあの鼻!!卑猥すぎます。
ブラザースが土管に出入りする、つまり穴兄弟です。
ピーチ姫って、ピーチですよ。オシリです。明らかに性の象徴じゃないですか!!
そして敵がクリボーにノコノコ。これらはキノコに亀です。
明らかに男性器を象徴しています。
ブラックパックンやパックンフラワーなんてもう・・・女性器そのままです。
ゲッソーも性器の形ですし、プクプクもまんま電動フグじゃありませんか!!
ハンマーブロスですって!!まぁ!!
パワーアップアイテムもそうです。キノコに花。これも男性器と女性器です。
しかも、大きくなるんですよ。勃起です勃起。子供には早すぎます。
あのスターってなんですか?よく男性の読むいかがわしい漫画で女性の乳首や性器を
隠すのに用いられるのが星マークですが、それが逃げる、マリオが追いかける、
こういった姿は見せたくないものを無理やり剥ぎ取ろうとするレイプを
連想させます。あぁ、もう言い尽くせません。
マントマリオは当然女性器の俗称をもじったものですし、
しっぽマリオなんてネーミングも外見も全てがセクシャルハラスメントです。
コインを集めると1UP、これはお金さえ出せばもう一回できるということです。
コインがたくさん出るブロックなどを叩く姿などは
ピストン運動そのものではありませんか。
無限増殖はクローンの大量生産。倫理上とてもよくないことです。
さらに、クリアー時のお城は子宮、花火は女性の絶頂とまたは妊娠を表しています。
ドクターマリオが出てから女性の飲み物に薬物を混入する事件が増えたと思いませんか?
マリオカートはレースゲームとしてイカサマ、妨害なんでもあり、どんな手を使ってでも
良いゲームです。つまり、これはレイプです。
マリオゴルフは穴に入れますし、マリオテニスは男性性器をもじっています。
まさにわいせつの宝庫ですね。
WW2、アフリカ戦線でのイタリアとイギリスですかね
7 :
1945年4月12日:04/08/08 09:55
アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト急死!
もしアメリカが専制君主制だったら、この時点でアメリカは敗北していた。
オーストリア=ハンガリー帝国が、フランツ・ヨーゼフ皇帝の崩御で崩壊したように。
ペルシャ戦争
官渡、赤壁
10 :
世界@名無史さん:04/08/08 14:50
アレシアの戦い
最近の戦争は少数側が勝つことが多いね
12 :
世界@名無史さん:04/08/08 16:19
神武東征
13 :
世界@名無史さん:04/08/08 17:52
カハマルカの戦いの超える戦は他にあるまい。
なんといっても180人 VS 30000人だからな(藁
15 :
世界@名無史さん:04/08/08 18:15
ピサロがたった200人たらずの兵でインカ帝国を征服した戦い。
16 :
世界@名無史さん:04/08/08 18:22
毛利元就。
17 :
世界@名無史さん:04/08/08 18:27
最後の項羽らの奮闘ぶりは異常。破っておりませんが。
1228年の大昌原の戦いでスブタイ率いるモンゴル軍8000人を400人
の兵で打ち破ったという完顔陳和尚というのもおりましたね。
まあこの手の話はどこまで信用してよいのか分かりませんが。
日本海海戦
>>20 日本海海戦は戦略的各個撃破だからこのスレの主旨とはちょっと違うような
多々良浜の戦い
第二次ウィーン攻囲のポーランド軍なんか桶狭間の信長軍に似ているかも
世界史板で少数が多数を、と言ったら
ハンニバルのカンネーの戦いでしょうな
25 :
世界@名無史さん:04/08/08 22:01
>>18 確かにあの状況の項羽は凄かったですね。高校の時
横山光輝の漫画で読んだけど、凄いと思いました。
第2次世界大戦のパルチザンとかベトナム戦争のベトコン
が取った戦術だって少数が大軍を破った立派な戦例。
27 :
世界@名無史さん:04/08/08 23:42
10万の重装備明軍を弓矢でやっつけてしまったサルフ戦での
ヌルハチ八旗軍って結局何名くらいなの?
28 :
世界@名無史さん:04/08/08 23:53
色々あるけど、一番凄いのは、スペインのピサロとインカ軍の対決ではないかと。
記録によると150人対数万でしょう。
項羽の最後も凄いけど、ちょっと司馬遷の贔屓の脚色があるかも。四面楚歌の
例えようもない名文、名場面を読むとね。
日本史では第2次長州征伐が凄いかと15万対4千人でしょ。
あの時期に15万の大軍を送れる幕府って、腐っても鯛とはよく言ったものだなあ、
と感心すると同時に、やはり腐った鯛は駄目なんだなんて、何とも言えない矛盾した
感動があったなあ。
一週間戦争
日華事変。
日本軍26万 中華民国軍77万
上海攻防戦で日本軍は数倍の敵を敗走させ
その後の掃討戦を含めると約25万の損害を与えたが、
自軍の損害は2万ほどだった。
この決定的戦果が、捕虜の虐殺等で汚されたのは勿体無いなぁ・・・
31 :
世界@名無史さん:04/08/09 05:40
ここのスレの住人は、某提督(紅茶好き)の言葉を思い出すべきだな。
戦術的勝利で戦略的敗北を覆した戦いなんぞいくらでもある。
むしろ紅茶好きの提督は戦史を勉強し直すべきだろう。
ジャワ派遣軍第16軍VSオランダ連合軍
34 :
世界@名無史さん:04/08/09 06:45
常勝不敗の紅茶好き提督を侮辱することは許さーん!! (`・ω・´)
35 :
世界@名無史さん:04/08/09 11:19
>34
ヤン提督かのことか???
彼は不敗だけだろ???
常勝は獅子帝ラインハルトさ。ジークカイザー!!!!
36 :
世界@名無史さん:04/08/09 19:20
その提督も認めているように、少数で多数を破るのは、確かに華麗だからね。
だから結構語り継がれる。
もっとも、それで勝ち続けた人は、ほとんどいないだろうけどね。
>>32 ヤンの言ってるのは最初からそれをあてにするなということ。
戦略的優位を確保してから戦術レベルの戦いに持ち込むべき
というのは、軍事の基本中の基本。
>>37 戦術的勝利で戦略的勝利は覆せない、と何度もヤンは言ってますが。
ペルシャ戦争なんかペルシャの完全な戦略的優位ではじまった戦いだが、
ギリシャの戦術的勝利でひっくり返った。
こういう例は歴史にいろいろあるわけで、
それを無視した発言をしてるのはどうだろうか、ということですよ。
まぁ、銀英伝なんか読んでないで、航空宇宙軍史でも読もうぜみんな。
戦略的敗北を、だな。すまん。
40 :
世界@名無史さん:04/08/10 20:10
まあまあ、銀英の話はさておいて。
ちょっと違うかも知れないけど、義和団と8カ国連合軍の戦いなんてどう?
一応少数VS多数でしょう。
やはり、近代軍隊と拳法が頼みの軍隊(?)では、例えが悪すぎるかな?
最近の戦いなら、イラク戦争かな。
米軍22万 VS イラク軍40万
結果は言うまでもないな。
ただ、イラク戦争はアメリカの勝ちと
いっていいのか?結局「負け」になる気がする。
桶狭間がでてねー。
そう言えば、信長は寡兵を持って敵を破るのは、下策の下だって言って、
桶狭間の勝利を誇らなかったって聞いたことある。
44 :
[神風特攻第二御盾隊]:04/08/10 20:35
昭和二十年二月十六日、硫黄島攻略の米機動艦隊を僅か32機で攻撃。
護衛空母ビスマーク・シー撃沈。
正規空母サラトガ大破。他4隻に損傷を与え、
ニミッツ提督をして「日本軍200機の攻撃を受けた」と思い込ませた大健闘。
45 :
世界@名無史さん:04/08/10 20:40
やっぱ最強はインカ征服だろ
非対称戦争だと少数で大軍を破るのはよくあることだからなぁ。
官渡、赤壁
籠城戦では10倍くらいの兵力差はざら
遊牧民族が騎馬で農耕民の大軍を破った事例は結構ある。
50 :
世界@名無史さん:04/08/11 00:03
>>48 なるほど。日本史でいうと確か小田原城は秀吉が攻めるまでは、圧倒的多数の
大軍を防ぐのに成功してるもんね。
上杉謙信も、武田信玄も小田原城には手も足も出なかったんでしょう。
本気で落とすつもりはなかったという説もあるけど。
破っちゃいないけどいちお戦術目標を成功させたってことでテルモピュライの戦い。
レオニダス王率いるギリシャ軍7000は数で劣るも、クルセクセス王率いるベルシャ軍30万を
翻弄するが内通者によって危機的状況に陥る。
そこでレオニダス王はギリシャ軍本隊を逃がすため、スパルタ軍300を率いてペルシャ軍に
立ちふさがる。
レオニダス王とスパルタ軍は奮戦しペルシャ軍を三日間にわたり食い止め、ギリシャ軍本隊
は撤退に成功をさせたがレオニダス王以下スパルタ軍は全員戦死。
遼来々
>>43 織田は大軍の方が弱い気がする。
姉川でも、八千の浅井に二万三千の織田が押し捲られた。
徳川が朝倉を破って、浅井の横をついていなければ、織田が潰走していたよ。
13だったか、23だったか憶えてないけど、その陣の最後の一つでギリギリ救われた。
>>50 武田は二万くらいだから、落すつもりはなかったと思うけど(落せるわけないし)
上杉は10万近く動員しているから、落す予定だったと思われ、長い間囲んでいるし。
日本史ネタばかりでスマソ。
桶狭間は義元の本隊を直接叩いたから少数対多数って分けじゃないと思う。
少数が大軍を破る戦いって、戦争技術(別に武器に限らず戦術も含む)
に余程の差が無い限り、大抵中央突破か各個撃破だぞ?
桶狭間の場合は、雨だか嵐だかに紛れて浸透→敵司令部を直接攻撃、だし
十分、寡兵をもって大軍を破った戦いだと言えるでしょ。
アルベラの戦い。ペルシア軍100万ってのは大げさとしても20万くらいはいたでしょ
>>54 別に全員に当たることはないじゃん。
戦略なんだし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そもそも全員と戦ったらバカだと思われ。
奇策や奇襲、陣形や新兵器、地形などを使って破るから勝てるんじゃん。
んじゃ、私はナルヴァの戦いを上げておこう。
ポーランド軍、デンマーク軍、ロシア軍に連戦するカール12世スゲー。
スェーデン人はポルノだけじゃない。
グスタフ=アドルフとかもいるし。
訂正
別に全員に当たることはないじゃん。
戦略なんだし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
↓
別に全員に当たることはないじゃん。
戦術なんだし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
同じ数の兵力同士の戦いでも
全員は戦わないしな。
60 :
世界@名無史さん:04/08/12 03:04
各個撃破といえばイエナの戦いもそうでしたよね。
61 :
世界@名無史さん:04/08/12 07:32
毛利 対 陶
義経は常に小勢で戦っているよな。
ズール戦争で、130人の英守備隊が3000人のズール族の攻撃を
丸1昼夜凌いだことがあった。
第四次中東戦争当時、ゴラン戦線ではツビカ・グリーンゴールド中尉が僅か
四両の戦車を率いて、シリア軍の戦車・APC200両以上による猛攻を凌いで、
24時間を稼ぎだしたことがある。
宇宙戦艦ヤマトは常に・・・
66 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/08/13 00:23
>>62 一の谷や壇ノ浦はそうでもありませんし、屋島でも水軍が期待出来なければ
ああいう行動はとれなかったかと。軍才が無かったとは言えませんが。
余談ながら、平家が陸戦に弱かったとか源氏が海戦に弱かったとかいうのは
俗説です。そもそも源平とか東西で見る事自体が正確ではありませんが。
ところで、ベリサリウスはどうでしょう。
67 :
世界@名無史さん:04/08/13 00:27
例えば、フィンランドの冬戦争はどうでしょう?
>>67 勝ってはないと思う。
相当がんばったけど。
>>60 イエナといえばアウエルシュテットとかアウステルリッツのダヴーのあたりとかどうよ?
視点がミクロすぎるがな
70 :
世界@名無史さん:04/08/13 00:39
女一人で10人位の男にレープされそうになったが勝ちましたが?
71 :
世界@名無史さん:04/08/13 01:11
>70
お前は凄いよw
72 :
世界@名無史さん:04/08/13 03:53
第三次中東戦争。
ところで各個撃破or大将だけ討ち取ってトンズラとかは戦史上では十分に少数で多数を破った戦いだが、
視線を実際の戦闘に限定すれば少数で少数を破った戦いだと言えないこともない、というわけか。>上の方
そこへ行くと少数で多数を殲滅したハンニバルは凄いな。そういうのに話を限定すれば他は誰がいるんだろう?
蘭花フランボワーズvs20万人の戦いで
蘭花は勝ちますた。
74 :
例のにゃあにゃあ:04/08/14 00:28
>>66 ベリサリウスで探したら、たくさん出てきそうだニャ。
リデル・ハートが「歴史上比類に絶する」とか大絶賛してたし。
ペルシア相手のダラス戦役だと、ペルシア4万に対してベリサリウス約2万。
アフリカ戦ではヴァンダル10万に対して、1万5千。
エルサレム戦役ではペルシア20万に対して、約1万。
イタリア戦役だと、ゴート15万に対して、1万。
一つの会戦じゃなくて一つの戦役での兵力だけど、これだけ差があって全部で勝利するってけっこうすごい。
リデル・ハートの記述を信じるなら、相手に心理戦を仕掛けて
不利な条件で攻撃させるとか、戦わずして退却に追い込むとか、なんか「ペテン師!」と呼びたくなるような戦いが多い。
75 :
世界@名無史さん:04/08/14 00:37
>>74 ペルシアは諸民族の糾合軍だったし、ゴートはお家騒動で相当ゴタゴタ
していたようですし、戦意と指揮系統という点ではローマ側に分が
あったのは確かなんでしょうけれど、やはり凄いです。
しかも徒手空拳で派遣されても勝っちゃうし。
個人的には恐妻家なんだけど、絶妙なカップルといわざるを得ない
奥さんに目が行ってしまいますが。
76 :
例のにゃあにゃあ:04/08/14 18:32
77 :
コピペ推奨:04/08/14 18:53
そういえば、ベリサリウスってあんな活躍してんのに、
映画にも小説にもなってないなぁ。
79 :
例のにゃあにゃあ:04/08/14 21:10
>>78 うるおぼえだけど、たしか歌劇ならあるニャ。
ベリサリウスに付いて各地を従軍したプロコピオスの著作でも、ベリサリオスらのことを描いた『戦史』よりもスキャンダラスな『秘史』の方が有名かも。
ベリサリウスの時代って結構横のつながりが見えて面白いよね。
東ゴート-ビザンツ-ササン朝-エフタル-突厥
有能で英雄的な生涯なのに、いまいち影が薄いのは何故でしょうか。
もう少しアクの強い人間の方が良かった?
才能が少々欠けていても、悪党ならそれだけで有名になれる。
>>82 彼がアクの強い人物だったら、このような功績は残せなかったでしょう。
その前にユスティニアヌスに粛清されてますよ、きっと。
愚直に命令に従い続けたから、兵権を取り上げられるだけで処分が済んだんだと
思います。
英雄が持つ悪の部分は奥さんが担当していたという事で。(笑)
・・・悲劇的以前に「損な人」という印象が強くなりますねえ。
イメージが有能な将軍というよりは愚直なサラリーマン。
(「サラリー」はローマ起源らしいからある意味正しいか。)
>>83 兵権だけじゃなくて、これまでの名誉もうしなったのでは?
死の直前に名誉回復するけど。
ユスティニアヌスには前帝までにはあった寛大さってのがない
15世紀 Vlad4th率いるトランシルバニアVSオスマン帝国
軍事革命論と百年戦争の研究者の新鋭!
ロジャーズの論文が始めて日本語になったニャ!
軍事革命とRMAの戦略史,芙蓉書房出版,2004,pp.29-59
この論文の一節から。
「エドワード三世の戦績リストはナポレオンの勝利に匹敵するものであろう。
なぜなら、イギリスの軍隊はすべての戦闘において戦力比が劣勢というハンディキャップを克服したからである。
各戦闘において控えめに見積もっても、
ダプリン・ムーア1対10、ハリドン・ヒル1対2、クレシー1対2、
ネヴィルズ・クロス1対1.9、ポアティエ1対2.3、ナジェラ1対1.5となっている。」
88 :
世界@名無史さん:04/08/29 02:54
>>81 全然関係ない話なんですけど、突厥って凄い遊牧帝国ですね。
私は最初、中国史でしか知らなかったのですけど、ビザンツ史の入門書読んでると
ここにも出てくるんですね。ひょっとしたら、この当時最強の国だったりして。
淝水の戦い。
90 :
世界@名無史さん:04/09/05 06:19
>75〜78
ヴェリサリウスの出自が宮廷奴隷だったことを考えると、敵にまで『当方将軍』と呼ばれ、あまりにも目立ちすぎだったと思われ。
敵軍からスカウトされて寝返ったりしたら、ユスティニアノス自身が危うくなる。
だからって後継のナルセスは着任時70歳(w
>だからって後継のナルセスは着任時70歳(w
趙定国のような人だ(w
趙充国の間違い(「百聞は一見にしかず」と言った人)。
ヴィレルボカージュ戦車戦。
ポルティンホイッカ戦車戦。
金の使節団を南宋の歩兵が捕らえようとした時に、
14対2000という兵力差にも関わらず金の弓騎兵が歩兵を翻弄し、
壊走させて勝った事が有ったな。
宋兵弱すぎw
すまそ。
×当方将軍
○東方将軍
97 :
世界@名無史さん:04/09/14 21:50:46
1991の戦い
そして、俺は一人で勝った・・・・
98 :
中華@名無史さん:04/09/14 22:20:36
昆陽の戦い。
99 :
世界@名無史さん:04/09/14 22:40:47
いや、根性の闘い
100 :
世界@名無史さん:04/09/14 22:43:48
昆布100
キューバ革命はどうよ?
82人で始めて最終的にはバティスタ政権を崩壊させると言うのは結構すごいと思うが。
おれなら一人でやれたが
↑キューバ無双の主役
104 :
Cipher:04/09/15 15:43:48
泗川の戦いはどーよ。
1万で明軍20万を撃破!!(実数は3〜4万だろうが)
世界史の範疇にも入ると思うが。
105 :
世界@名無史さん:04/09/21 00:07:17
このスレの1000取り合戦。
それまでに書き込んだ999人+α人対漏れ1人
そこまでスレが持たずに結局105がひたすら保守して
結局100人対105のレス900回という戦いになるかも。
107 :
世界@名無史さん:04/09/22 13:24:38
戦いと言うには小規模過ぎるが、WW2のドイツ軍のシュライネンは
一人(しかも歩兵)で戦車30両とガチでやって勝っている。
109 :
世界@名無史さん:04/09/23 17:58:22
少数対多数と言っても兵力差が2:1とか3:1では少数対多数とはあまり言えない
な。せめて10:1ぐらいないと。(特にこの前のイラク戦争とか)
110 :
世界@名無史さん:04/09/23 18:13:57
6月26日、ソ連軍の戦車部隊が跨乗兵を乗車させて前線を突破し、戦闘団の
第27SS戦車猟兵大隊第3中隊の陣地へ殺到した。ここでレミ・シュライネン
SS一等兵は対戦車砲によりT34を6両を撃破して、敵を食い止めることができた。
4日後に再び敵の攻勢が発起された時、すでにシュライネンを除いて彼の分隊は
全員死傷しており、彼は撤退命令が出ているにもかかわらず、その場に踏み
とどまってたった一人で照準・装填を行って砲撃を続けた。しばらくしてソ連軍の
歩兵部隊の大軍が押し寄せて来て絶体絶命となったが、海軍出身の無線手が死ぬ
直前に味方砲兵へ自軍陣地への砲撃を依頼していたため、敵歩兵部隊は壊滅状態に
陥った。しかしながら、その後方から敵は新型JS戦車を含む戦車30両が続いており、
ここにシュライネンとの劇的な一騎打ちが行われた。
ここでもシュライネンの神業的砲撃が勝り、JS戦車4両とT34 4両が撃破されたが、
最後のJS戦車は彼の対戦車砲の僅か30m手前で討ち取られたものであった。彼は敵の
砲撃で負傷して倒れたものの、その後の味方の反撃により擲弾兵の手で救い出された。
ミ月巴水の戦いは?
神ががっとるというか神だなw
113 :
世界@名無史さん:04/09/23 18:37:08
114 :
世界@名無史さん:04/09/23 19:02:06
李舜臣将軍だろう
115 :
世界@名無史さん:04/09/23 19:08:28
>>111 淝水の戦のことかよ、数分かんがえこんじゃったぞ。
坊やこの字コピペしときなさいね。
116 :
世界@名無史さん:04/09/23 19:13:24
ネーズビーの戦い。議会派のクロムウエル軍3000と国王軍7000が戦いクロムウエル軍が勝利する
118 :
世界@名無史さん:04/09/24 19:27:22
ベトナム戦争
119 :
【神風特攻敷島隊】:04/09/24 21:42:25
昭和十八年一月三十日の「レンネル島沖海戦」での重巡シカゴ撃沈以来、
一年九ヶ月にわたり一隻も米軍艦(巡洋艦以上の船)を沈めることができ
ずマリアナ沖、台湾沖でも大敗を喫した帝国海軍航空隊が、僅か五機の爆
装零戦によって栗田艦隊にも匹敵する大戦果を挙げた。
あれから六十年、今年も十月二十五日、愛媛県西条市楢本神社で慰霊祭が挙行される。
>>117 悪い悪い、ごめんな坊や、あんたOSかなり古いんじゃない?
XPか2000だったら出せると思うよ。
?水の戦
恐らくWinなら2000以後、MacならOSX以後のOSでブラウザ(IEなら恐らく6以後とかSafariとか)でコピペだといける
が、それ以前のOSなりブラウザ、あるいは2chブラウザだとダメな場合がかなりある。
最後は数値参照だろうなぁ。あれならたぶんちゃんと出ると思うぞ。
コードポイントは自分で調べてくれ(w
123 :
世界@名無史さん:04/09/25 15:33:40
竹中半兵衛は数人で稲葉山城を占領しちゃったんじゃなかったっけ
124 :
世界@名無史さん:04/09/25 16:28:05
それは戦いというよりクーデターだな
アレクサンドロスの名前が出てないな。
イッソスの戦いなんかは、騎兵と重装歩兵の有機的連携で大軍を破ってるが。
126 :
世界@名無史さん:04/09/25 19:41:19
北条氏康は8千で関東連合軍8万破ったがな。
異民族、異文化、異教徒相手の戦争の方がえげつないな。
128 :
世界@名無史さん:04/09/25 20:52:40
日本なんかすげーマシだと思うが・・・・
だよな。海に囲まれててほんとによかったよ
131 :
世界@名無史さん:04/09/26 08:18:44
韓信なんてほとんどそうだろ
132 :
犬童知遠 ◆tmc8JAPANo :04/09/26 12:19:04
>111、>115、>117、>120-122
JIS外漢字の書き込みを簡単にする方法。
1.まずは該当漢字をコピーする。(ここでは>115の「淝」をコピー。)
2.goo(
http://www.goo.ne.jp/)の検索欄に貼り付けて、検索ボタンをクリック。
3.するとあら不思議、検索結果画面の検索欄に、さっき貼り付けた文字が
数字参照の形で表示される(ここでは「淝」)ので、これをコピー。
4.あとは2chブラウザの書き込み欄なり自分のHPなりに貼り付ければ、
これでみっともない複合表記(「シ肥」)やカナ書き(「ヒ水」)ともオサラバだ!
gooを使うのがミソ。Yahoo!じゃ文字化けしてしまうし、googleじゃ貼り付けた漢字
そのままで検索結果が出てしまう。gooだと何故か、ご丁寧にも数値参照の形に
解析されて化けてくれるので、これを使わない手は無い。恐怖のATOK要らず。
>>132 お手軽な方法だね。おすすめしとこう。
てかツール作ってたりする漏れはある意味負け組だな(w
てすと
淝
淝
淝
淝
139 :
世界@名無史さん:04/09/28 06:27:39
淝
淝
ミ肥
ベリサリウス初めて知りますた。
いや、ローマは人名が長すぎてどうも・・・(汗
しかしこいつら寄せ集めて現代のリアルタイムシミュやらせてみてー。
索敵要素があれば心理戦も少しはできそうだし。
どうせ「なぜこの騎兵は圧倒的多数に向かっていくのか? 逃げるぞ普通」と
クレームだらけになるとは思いますけど。萌え。
145 :
世界@名無史さん:04/10/25 12:32:25
淝であげ
勝ってはいないけど真田昌幸vs徳川秀忠
147 :
世界@名無史さん:04/10/25 15:40:42
元寇
ま、自滅だが
少数が圧倒的な装備などで戦力が敵より上回っていただけの戦いではなく、
機略や用兵といった指揮官の能力、兵士の士気の高さ・心理状態、
天候・地形などによって勝利した戦い、
あるいは理由すら分からぬような奇跡的な勝利をした戦いを知りたい
オルレアン解放戦。本当か?
150 :
世界@名無史さん:04/10/25 21:20:34
>>148 7万対5万と、少数で大軍を駆逐したとは言いがたい戦力比ですが、
7万の側が錬度・装備・実戦経験で圧倒的に勝っていたのに、
5万の側が勝ってしまったヴァルミーの戦いが典型的だと思います。
この戦いは本当に士気の差や心理状態が勝敗を分けました。
僅かな戦力差で負けたのを見ると同情するするが、
第一次ポエニ戦争とかインカ帝国滅亡とか、圧倒的戦力を持ちながら負けたのを見ると
情けなくて同情する気もなくなるわな。
>>151 インカ滅亡の時は、全戦力を投入できたわけじゃなくて、
帝位継承争い、地方反乱などで内部がガタガタでした。
また、戦争文化の違いもあって、アンデスの辺の連中は農作業のために勝手に戦線離脱しちゃったり、
戦争中でも絶対夜は寝るから夜襲も警戒も無しというのどかな戦争やるのが普通だったそうです。
だから、数は多くても圧倒的戦力とは言いがたかったのが実情です。
>152
うわ、久しぶり!!
154 :
世界@名無史さん:04/10/26 08:29:46
源平合戦で義経の一ノ谷の戦いでの鵯越の坂落とか、屋島の戦いでの少勢での奇襲速攻な戦い方って凄いよね。
155 :
世界@名無史さん:04/10/26 11:56:08
インカ戦は西洋人が持ちこんだウィルスでやられたというのが一般的
軍用犬、騎馬戦術、鉄砲、天然痘、内部紛争、
これだけあれば、獰猛なコンキスタドーレにはかなわない。
同情する。
158 :
世界@名無史さん:04/10/26 15:15:42
昆陽の戦い
漢を再興した光武帝は三千の兵で百万の敵を打ち破った。
楠正成 1000人vs80万
160 :
世界@名無史さん:04/10/26 18:56:47
メッセンブリア会戦
161 :
世界@名無史さん:04/10/26 19:01:14
一の谷の戦いの場合、主力である源範頼が正面攻撃をかけていて
平家の主力はそっちの防衛中じゃなかったですか?
それでも総兵力では平家が上かもしれんけど。
162 :
世界@名無史さん:04/10/26 19:37:57
明代、南海大遠征の時、鄭和がスリランカでセイロン王に謁見した際、
王の謀略で5万の大軍に包囲され、鄭和がたった20人の手勢で王宮に
乱入し王を人質にしたまま手出しの出来ない大軍のど真ん中を
通って港まで引き返し、セイロン王を北京まで連行した話はまだ出てませんね。
中国の史書って、そういうのは大抵十倍くらいに誇張しているから・・・
実際は五千くらい?
それでもたいしたものだw
鄭和側は二人か。すごい!
李舜臣将軍ははずせないな。
日本軍15万を2度にわたり撃退。
東郷平八郎も尊敬していたアジアの誇る名将。
166 :
永遠の青 ◆pkFA3D428. :04/10/27 01:46:47
>>362 それをあげて良いなら、36人で100人以上の匈奴使節団を襲って殺し、
同じく36人でホータンを屈服させ、
五カ国連合軍五万や大月氏七万の大軍を小勢で撃破した班超もその資格はありますね。
あと、七千で三万のインド軍を破った王玄策も少数で大軍を破ったと言って良いですね。
167 :
世界@名無史さん:04/10/27 01:55:41
宮崎正勝著の『鄭和の南海大遠征―永楽帝の世界秩序再編―』によると
1411年(永楽九年)セイロン島に寄航した鄭和一行に対しセイロン王アラガクコナールは
金銀財宝を献上すると偽り鄭和を誘き寄せ、約5万の軍勢をもって停泊中の艦隊を攻撃しようとした。
王宮に向かう途中でそれを察知した鄭和は急いで停泊港に引き返そうとしたが既に退路はセイロン王の
軍勢によって断たれていた。
そこで鄭和はわずかな手勢を率いて王宮に侵入、王や王妃ら王族を捕らえ首に短剣を突きつけたながら
包囲する軍勢の中を港までとって返した。
王を人質にとられた軍勢は総崩れになりなす術も無くただ呆然と見守るだけだった。
翌年、泉州に帰着した鄭和は北京の永楽帝に戦果を報告し永楽帝は鄭和をはじめとする士卒に
戦勝の褒美を与え、セイロン王に帰国を許した。
その後、セイロンでは王族で賢者の誉れが高かったパラク・カーマ・ボフ6世が王位を継ぎ
明帝国に対し朝貢とインド洋貿易に関して明に有利な利権を結んだ。
168 :
永遠の青 ◆pkFA3D428. :04/10/27 02:17:01
>>165 釣りだと思いますが、あえて釣られます。
日本軍は約15万の大軍で攻め込みましたが、その中で水軍は1万足らず。
李舜臣はそれに対して基本的に各個撃破で応じています。
彼を蹴落としてた元均のせいで朝鮮海軍主力は壊滅し、
復帰後は小勢での戦いを強いられたため、各個撃破を徹底させていました。
つまり、彼は1万足らずの日本水軍を各個撃破していっただけで、それはそれで大きな功績なのですが、
彼の力だけで日本軍15万を撤退させたわけではありません。
日本軍の撤退には、日本側の内部事情や明の援軍の力も大きかったのです。
閑山島の海戦では12隻で79隻の日本軍を撃破してますから、スレ違いではありませんが、
そのような書き方はネタか工作か真性か、疑ってしまいます。
170 :
世界@名無史さん:04/10/27 04:01:36
嬰陽王高元や泉蓋蘇文の高句麗も凄そう。
第1回の遠征(611)には、113万の軍勢を率いた隋を撃退している。
唐に入ってからも李世民や李勣らと激闘を繰り返した。
668年に力尽きるまで戦い続けたのは、国力差を考えれば凄いの一言。
>>50 上杉謙信は小田原城を落城寸前にまで追いつめたことがあったはず。
ただ、背後で北条側が策動したために帰途に就いた。
秀吉の時も恐らく是を再現しようとしたが、交渉相手が伊達政宗だった
ことが不運。交渉を担当した五代目の氏直は、さぞ無念だったろう。
>>148 >少数が圧倒的な装備などで戦力が敵より上回っていただけの戦いではなく、
>機略や用兵といった指揮官の能力、兵士の士気の高さ・心理状態、
>天候・地形などによって勝利した戦い、
代表的なのはカエサルの一連の戦いだと思う
172 :
世界@名無史さん:04/10/27 11:58:01
世界でもっとも有名なのはカンネ会戦だろ。
ハン二バルによる騎兵戦力による両翼包囲と伏兵による背後からの強襲、
敵主力を非戦力化しての包囲殲滅戦。
ハンニバル:カルタゴ軍(歩兵4万名、騎兵1万名)
VS
執政官ワロとパウルス率いるローマ軍(歩兵8万名、騎兵6千名)
カルタゴ軍は6千の損失(主な損失はガリア傭兵、ハンニバル子飼いの精鋭はほぼ無傷)
ローマ、ローマ同盟軍の戦死者は合わせて5万以上
戦術的にはカンネーは満点だが、戦略的にはローマの粘り勝ちというのが凄いところだな。
174 :
世界@名無史さん:04/10/27 12:25:23
粘り勝ちというか、カルタゴはハンニバル1人。
ローマはハン二バルには劣るが、堅実な将官と作戦を立案した元老院が機能したからな。
実際カンネ以降1度も半島内でハンニバルとは会戦をやろうとはせず、
補給路と後背地を絶って戦略的に地中海全域に包囲網をひいたからな。
結局ハン二バルは1度も負ける事無くイタリアから撤退するわけだ。
175 :
世界@名無史さん:04/10/27 12:39:04
>>170 彼の国は誇張が酷すぎるるからなぁ。
113万の軍勢といっても実際は5,6万の動員と見るのが妥当だろうな(恐らく5,6万でも餓えたはず)
実際に戦闘したのは5000もいるのか?
176 :
世界@名無史さん:04/10/28 20:47:00
中国だと戦果報告で10倍まではOKだったはず。(公式文書上で)
今はしりませんが。
177 :
世界@名無史さん:04/10/28 21:08:00
中国の100万=他国では10万以下
178 :
世界@名無史さん:04/10/28 21:18:51
牧野の戦い
179 :
世界@名無史さん:04/10/28 23:14:34
赤壁の戦い
13万対4万?
ある意味イープルの戦いはどう?
風向きによっては全滅の予感だけどw
181 :
世界@名無史さん:04/10/29 12:50:51
赤壁はようわからんな。
魏はたいしたダメージ食らってないようだし、将クラスの死者も0だしな。
182 :
世界@名無史さん:04/10/29 13:52:41
魏軍は疫病に悩まされてたそうだから
183 :
世界@名無史さん:04/10/29 16:54:48
疫病に悩まされている所に、船やかれたから引き返したってだよな。
刑州の劉氏を併呑したわけだし、目的は達している
そうか? 赤壁に勝っていれば統一は目前だったわけだから痛いぞ。
後に関羽に悩まされることも無かっただろうし。
185 :
世界@名無史さん:04/10/30 04:20:45
悩まされて1年経たずに殺してるがな
186 :
世界@名無史さん:04/10/30 06:45:27
>>186 おいおい、せめて出典から史料以外の創作物は外そうぜ。
この中に創作物以外の史料があるのが凄すぎ。
189 :
世界@名無史さん:04/10/30 11:01:40
>>185 けど呉蜀が戦わないとそれはありえないわけで、
自らの力で排除したわけではないんじゃないかな?
後方をたたれてなければ、徐晃も宇禁の二の舞。
191 :
世界@名無史さん:04/10/30 19:25:02
>>190 呉蜀は事実戦ってるわけだが?
外交を自らの力といわないのであればそうだろうな。
ちなみに、自らの力で排除する必要があるのか?
が、実際は二の舞にはならずに関羽はあっけなくこの世を去ったわけだ。
そもそも曹操は統一を目的としていないだろ。
>>191 つまり回りの状況に助けられただけだろ。
運が良かったねってだけ。
呉が魏の提案飲まない可能性だってあるわけなんだから、
呉と魏が争っている間に、刑州を占拠した劉備とかわらん。
イラクvsアメリカ
だれか、正確な数字しらね?
194 :
世界@名無史さん:04/10/31 15:14:22
>>175 戦闘員で113万と記載されている。輸送兵はそれ以外に統計が記載されている。
多分、本当に100万人近く出したと思われ。兵員の士気が低かったのはそうかもしれない。
兵力の差=戦力の差ではないのでは。
196 :
世界@名無史さん:04/10/31 19:13:37
194は三国人口推計みたことないのか?
大体大陸全人口で600万位な訳だが
司馬仲達VS公孫淵
30万の兵力で公孫淵軍100万を一年で鎮圧した。
どこにそんな兵力が?
199 :
世界@名無史さん:04/10/31 21:24:29
司馬仲達VS公孫淵
翻訳:3万の兵で公孫淵軍1万を一年で鎮圧した
古代の戦いは数万が限度です。それ以上は絶対に無い。
国民徴兵制のナポレオンでさえ10万超えるかこえないかだ。
だいたい兵站はどうするんだ。一箇所に100万も集めて1日の食料
どっからどうやって集めてくるんだ。新潟地震の食料集荷の比じゃないぞ。
現地調達なんてしても間に合わない量だ。
だいたい古代の軍勢の数なんて正確に数えれるわけが無いんだよ。
100万の軍勢→8万
5万の軍勢→5千
がだいたいあってる。
201 :
世界@名無史さん:04/10/31 22:22:05
中国フィルター掛けると
100万の軍勢→5万
5万の軍勢→3千
古代ローマは自軍の数についてはほぼ完全だがなw
203 :
世界@名無史さん:04/11/01 01:58:33
中国以外は大抵まともな数になってるよな。
中国ではなぜか負けた国の兵力が異常に強大。
春秋戦国時代なんて各国が100万近くの軍事力を誇ってるしな。
でも当然といえば当然。
あの国の歴史は勝者側の国選歴史家に書かせるわけだが、
武勇伝には尾ひれが付きものだ。
日露戦争の沙河会戦
増強して南下したロシア軍に対し、日本軍は弱点である右翼に集中攻撃を受けながら左翼を前進させて
弱小な兵力で強大な兵力を包囲するという意外な作戦をとり勝利した。
上でも挙がったが、アレシアは凄いな。まさに総力戦っつーか
どっちが包囲されてるんだか分からん状況だし。
なんかよく覚えてないが、中国である兄弟が率いた少数の軍勢で
60万近い大軍を破ったって話聞いたことある
宋の時代あたりだったかな
カエサルのすごいところは、軍団あたりの兵力を補充できる権限が
あるにもかかわらず、士気や錬度の低下を防ぐためにそれをせず、
結果的に敵より常に少ない兵数で戦って勝ってるところだな。
209 :
世界@名無史さん:04/11/01 14:36:47
60万は水増しすぎだが、呉兄弟のことか。
ところで兄弟で思い出した。
春秋時代の済の華周・杞梁兄弟は従者一人を合わせた三人で敵地に攻め込み、
三人だけで迎撃軍を撃破し続けて本拠地まで迫った。
最後は堅固な城門に突撃して、それを突破したところで休戦。
それこそ敵兵をちぎっては投げちぎっては投げの大活躍だったそうだ。
人類史上、少数で大軍をやぶった輝けるNO1は文句なしにこれだな。
勝ってはないけど、
ヒッタイト軍に囲まれてピンチなところを自分と僅かな護衛だけで切り抜けたラムセス二世。
>>202 ガリア遠征ではカエサルが自分の功績を誇張するため
敵の兵数を誇張し、自分の兵数を少なく報告してる。
だいたい戦争ってのはどこもそう。
ナポレオンがアレシアの戦いを研究してあれは6万が限界だろうと言ってる。
兵站や人口考えても古代に10万超えるなんて軍隊は無理。
コンスタンティノープル包囲でもビザンツ側は30万のトルコ兵が〜とか
言ってたけど、トルコ人は16万と言ってる。別の人は8万だったと言ってる。
それぞれそのとき見た人が言ってるんだけどこんだけ違うんだよね。
ざっと見渡して数えるだけだから。今までそんだけの人数見たこと無い人は
わからんだろう。
満州事変とかは入らないかな?
日本の場合は外国との戦いのほとんどが少数側じゃない?
215 :
世界@名無史さん:04/11/01 19:07:22
ガリアに関しては戦力=その部族の男って感じで書いてるな。
数自体はおかしいとは思わない
216 :
世界@名無史さん:04/11/01 19:14:20
>>215 ガリア人から聞いた話ではって前提付で書いてるところもあるね
関ヶ原の戦いにおける薩摩軍の正面突破退却戦
218 :
世界@名無史さん:04/11/02 01:21:47
219 :
世界@名無史さん:04/11/02 02:17:40
蒋介石の逆感状
拉孟
騰越
ミートキーナ(ミキーナ)
220 :
世界@名無史さん:04/11/02 02:41:41
ヴァルミーの戦い?
221 :
世界@名無史さん:04/11/02 02:45:55
マユラム(・ω・丱)
222 :
世界@名無史さん:04/11/02 03:08:34
>>172 カンネも凄いけど、タンネンベルグも凄くないですか?
これも少数のドイツ軍が多数のロシア軍を破った戦いでしょう。
223 :
世界@名無史さん:04/11/02 04:29:58
WWIなら
イタリア軍に大打撃を与えたカポレットー戦の独墺軍
優勢なドイツ軍攻勢を跳ね返したカイザー戦→最終攻勢の連合軍という所か
ヘタレア軍相手にはいくら勝っても、、、
オーストリアにもボコボコにやられているし。
>>211 >ガリア遠征ではカエサルが自分の功績を誇張するため
>敵の兵数を誇張し、自分の兵数を少なく報告してる。
自分の兵数に関しては、運用した軍団数と1軍団あたりの兵数が決まってるから、
だいたい正確ってことでは。
欠員分をどう表現するかもあるが、誇張ってことはそれほどないよーな。
相手の戦力はなんともいえん。
ただ、あれは超大掛かりなゲリラだから、人口から考えると無理かもしれないが、
実は思ったより兵站は無理ではなかったりする。
226 :
世界@名無史さん:04/11/02 17:38:48
>>158 >漢を再興した光武帝は三千の兵で百万の敵を打ち破った。
すげーな
中国の数字は当てにならん
中世だと、日欧ともに数字が大袈裟過ぎますね。相手の戦死者数千人に対して
味方は数人という例が、『中世の秋』でも紹介されていましたが。
十字軍は三万五千人が二十倍に膨れ上がるし、日本でも承久の乱の十九万騎と
か、文永の役の十三万八千とか言われているものの、あてになりません。
文永の役で一万人、弘安の役で二万人(+援軍)程度だったでしょう。
以前『太平記』の動員数(時に百万を超える)を鵜呑みにしている人とやり取り
をした時には参りました。一般向けの本にすら誇張と書いてあるのですが。
古代の例も少々。白村江の戦いで日本側が動員したのが二万七千人。
藤原広嗣の乱で広嗣が九州中から動員したのが一万人で、朝廷が動かしたの
が一万七千人。こちらも合せて二万七千人。
同数というのが解せませんが、案外何か理由があったのかもしれません。
当時の日本の総人口は500〜600万人ほどと言われているので、実に日
本人全体の二百人に一人が参加させられた計算になります。
もっとも13世紀以降気候の寒冷化の進んでいた鎌倉時代の人口も同程度ま
で落ち込んでいたのではないか、という説もあるのですが。
1230年には、新暦七月頃に美濃や武蔵で雪が降りましたからね。
極端な例ですが、その後には『方丈記』の描写した様な飢饉がありました。
なお寒冷化は15世紀半ばにピークに達し、16世紀末に回復します。
10世紀にも一時落ち込んでおり、964年には旧暦9月15日(今年は10月
28日)に京都で積雪が観測されていました。
(・・・途中からわき道に逸れてしまった。)
平安時代って重ね着してると思ったら寒冷期だったんだよね。
戦国時代になると薄着になると思った。
15世紀に倭寇が跳梁した要因は、
深刻な寒冷化の影響で、日本と大陸が地続きだったためだと考えられている。
↑
まじで!?
ソースキボンヌ
>>230 11〜12世紀までは寧ろ温暖化が進んでいましたけどね。藤原道長は倹約
家で、女たちの衣も五枚までと定めていました。多い時には20枚にはなり
ましたが、通常は6〜7枚。寒ければ綿入れを着こんで火鉢を焚いた。
234 :
世界@名無史さん:04/11/05 01:22:02
綿て出回るのは戦国期だよね
ここでは絹綿の事です。藤原頼通は寒がりで、火鉢にあたり過ぎて焦げた衣
を下賜していましたが、もらった方も嬉しくはないものでしたね。
木綿の反物は17世紀になってから普及し、全国に広がるのは18世紀から
の事です。麻その他を駆逐するのはそれこそ戦後になってからでしょう。
237 :
世界@名無史さん:04/11/05 04:58:43
あれ、綿は戦国期に急速に普及しなかったか?
三河の特産品になってたと思うが
238 :
世界@名無史たん:04/11/05 10:06:22
織田信長の九鬼水軍と毛利の村上水軍が衝突した木更津沖海戦
艦対艦戦闘で数百隻対数隻というあまりにも極端な兵力差がありながら
わずか数隻の織田方が勝利し、数百隻の毛利方大部隊はほぼ全滅させられた
と聞いている。
軍艦に数百年分の性能差があったのではないだろうか?(まるで戦国自衛隊か
ジパングみたいだが・・・)
ロスバッハとロイテン
。。。。がいしゅつ?
>>238 木更津て……千葉でやったんかい。
木津川口だろ。
木更津沖海戦
オウム支部を海上から襲った警官隊と信者の戦い。
>>237 既に栽培は始まっており、木綿の衣は関東でも着用される様になってはいま
したが、流通・普及したとされるのは近世からです。
>>238 「鉄甲船」とする明確なソースは無いようですが。全滅云々はどこから?
『多聞院日記』に「鉄の船也」とあるのも、鉄壁の護りという意味であった
ともとれますからね。織田方も、大安宅船だけでは無かった筈です。
一応『日葡辞書』に、「テッセン」の項目がありますが、逆に言えば別に珍
しい存在では無かったという事。せいぜい甲板に防火用の鉄板を貼り付
けたというレベルでは無かったかと。
そもそも上部構造物全体にそれなりの効力を持つ鉄板を張り巡らせたら
トップヘビーになって横波一発で転覆したりせんのかな?
仮にも大湊から紀伊半島回って回送してきたんだし、太平洋は危ないと思うけど
亀甲船みたいなの作ったんだろ。あれも少数で大軍破ってる。
>>238 あのー、織田方も数百は繰り出していたんですけど。
正確な数字は忘れたけど、毛利方の七、八割は織田も繰り出してました、
まあ、織田の方が多少少ないのは事実ですけどね。
なお毛利は遠征軍で、なおかつ食料の輸送がメインで、その大半は強力してくれた瀬戸内水軍なんで、
実際は毛利家の水軍はあまりいません。
それに小早などの、小型の船が多かったと思います。
毛利や瀬戸内の水軍の戦法は焙烙による焼き討ちなので、
7隻?(正確な数字覚えてないけど)の鉄張の大安宅船が大活躍したのは事実みたいですけどね。
そろそろ突っ込んどくか
日本史板逝けと
248 :
世界@名無史さん:04/11/07 19:22:10
良スレage
249 :
名無しさん:04/11/07 20:24:01
トロイ戦争でアキレスがたった数十の兵士で難攻不落のトロイを落としたのも
そうじゃないか?
250 :
世界@名無史さん:04/11/07 21:08:45
今だ!!250get!!
251 :
世界@名無史さん:04/11/07 22:16:11
アキレスはトロイ落ちる数年前にあっさり死んでるよ。
253 :
世界@名無史さん:04/11/09 19:49:41
age
254 :
世界@名無史さん:04/11/13 23:50:21
中国原潜VS海上自衛隊
255 :
世界@名無史さん:04/11/14 03:17:00
>>226 昆陽の戦いは本当のところ50万VS三千だったそうだが
それでもすごいな光武・・・ 聖皇といわれるだけある。
256 :
世界@名無史さん:04/11/15 22:32:46
會世祖(光武帝)悉發郾・定陵兵數千人來救昆陽,
(王)尋・(王)邑易之,自將萬餘人行陳,敕諸營皆按部毋得動,
獨迎,與漢兵戰,不利.大軍不敢擅相救,漢兵乘勝殺(王)尋.
昆陽中兵出並戰,(王)邑走,軍亂.
258 :
世界@名無史さん:04/11/16 00:31:34
>>256 光武帝(劉秀)がまだ武将時代の戦いでしたっけ?
確か味方の城を包囲している敵の大軍に光武帝が先頭に立って突撃したら
城の中の味方が「あの慎重な劉秀が少数で攻めるはずはない、
きっと(城からは見えないけど)味方が大軍で助けにきてくれたんだ、うちらも突撃だー」って感じで
城内からも打って出たら挟み撃ちにして勝てちゃったという展開だったと思います。
259 :
世界@名無史さん:04/11/16 01:16:15
小林教授派と小崎助教授の戦い。
>武将時代
大槻教授V.S.オカルト肯定派の皆さん
電波度では大槻教授が勝ってました
あの人本当に大学教授?
電圧と電流間違ってたし・・・
イスラエルvsイスラム・アラブ連合
イスラエル強すぎ
確かにイスラエルは強いが、
それよりもモサドの諜報能力と、情報分析能力が凄すぎ
兵器の性能の差もあったかな
メルカバ一台で歩兵大隊を相手できる。
266 :
世界@名無史さん:04/11/23 12:15:25
>>265 戦車なんて一歩兵の対戦車砲でおしまいでしょ。
>>265 その教訓からメルカバ(装甲が厚い)を造ったような
第四次中東戦争の序盤でエジプト軍の対戦車砲で大損害被ったから。
現代の軍事に関しては素人なのね皆さん。
>>258 違います。
少数の部隊で、包囲軍を掻い潜り城を脱出して、
周辺の城から友軍を集めて来て、包囲軍の外側から攻撃を仕掛けたんですよ。
そこに城内の軍も呼応して城門を開けて打って出て、新軍が大混乱して敗走です。
272 :
世界@名無史さん:04/11/25 21:40:47
>>271 同じ内容のような気がしますが・・・。
>少数の部隊で、包囲軍を掻い潜り城を脱出して、
の部分だけ違いますが。
ココの部分は私の記憶間違いかもしれません。
273 :
世界@名無史さん:04/11/25 21:59:05
赤壁の戦い10倍計算で魏100万=10万 呉5万=5千 10万対5千ならば
結構凄い気もするけど。 実際 北朝鮮と韓国との戦争で平気な顔して10万弱の
軍勢を遅れるほどだから、赤壁の戦いもあながち100万まで行かなくても40〜
50万弱ぐらいの軍勢はいたかもしれんし。どうなんだろうか。
274 :
世界@名無史さん:04/11/25 22:23:40
1972年7月19日、南アラビア・オマーンの小さな町ミルバートを、完全武装の共産ゲリラ250名が襲撃した。
当時、ミルバートの守備に当たっていたのは、軍事顧問の英軍兵士10名、オマーン軍30名、民兵40名の計80名。
鉄条網で囲われただけの町に、カラシニコフ自動小銃やRPG7ロケット砲で武装したゲリラは易々と迫り猛攻を加えたが、
SAS(英軍特殊部隊)所属で弱冠23歳の指揮官キーリー隊長の下、守備隊は旧式ライフルを頼りに激しく防戦、守備隊側8名の死者に対し、ゲリラ側は30名の死者を出して敗走した。
守備方がすごいのもあるが
ゲリラがヘタレすぎだなw
>>275 戦闘の事情はよくわかりませんが、そもそもゲリラなんだから、こういう包囲戦では本領を発揮できなかったんでは。
>>273の赤壁にしても、南船北馬と言われる様に、北方の騎馬兵が南方での戦闘や気候に慣れなかったことが主な敗因でしょうし。
兵科の適性に合わない戦闘方法を選ぶと、たとえ兵力差があっても、簡単に負けてしまうという例でしょう。
>>272 文章が、かなり端折られていると思うんですが、
読む人によっては誤解してしまうと思います。
大軍で突撃して来た。と思って、城内の軍も呼応した。
と言うのと、
ある程度状況を打破出来る戦力を、周りで揃えてから突撃。
実際に敵が乱れるのを確認して城内も呼応した。
でだいぶ意味が違うと思います。
自分は貴方の書き込みを、前者の意図で読みました。
私は、後者の意図の違いを強調しようと思って書いた訳です。
>>273 いるわけないだろ。
あんた、中国人か?
赤壁なんて実際はどうだったか疑わしいものだよ。
せいぜい数千人の大騒ぎだった。
>>279はこうやって、世の中の矛盾を体現していらっしゃるのでおわす。
282 :
世界@名無史さん:04/11/26 22:21:37
>>277 えーと、私の記憶では(確か陳瞬臣の書かれた中国の歴史に関する本で読んだと思います)
日本でいうなら川越夜戦みたいなシチュエーションだったのではないかと思います。
(川越夜戦:城内にいる北条綱成らを上杉(山内・扇谷)氏の大軍が包囲していたが、北条氏康が救援軍を率いて
数が多い上杉勢を打ち破って関東の覇権を握った戦い)
包囲網の外側の軍(劉秀が率いた救援軍)も対した数じゃなかったんですよ。
>>255 でも50万対3千といわれているし。
敵に十分対抗できる兵を集めてきたわけじゃないです。
283 :
世界@名無史さん:04/11/27 09:14:27
みんな参考文献は何か書いてほしいな。詳しく知りたくてもわからん。
284 :
世界@名無史さん:04/11/27 10:28:05
韓信の背水の陣、白起の長平の戦い、項羽の鋸鹿等での戦い。
誇張もあるだろうけど普通にすごいと思う。
>>282 陳さんの中国の歴史3にも、城外に兵を集めた事書いて有りますよ?
>>284 長平の戦いはなにも寡兵だったわけじゃないでしょ。
287 :
世界@名無史さん:04/11/27 15:34:43
>286 そうだったのですか、馬鹿なものですみません。
趙軍は大袈裟に言って45万。
秦軍の数は分かりませんが、遠征軍がそれより多いとはかんがえにくい。
多くて10万くらいかなと勝手に思っていました。
それで趙軍を巧みに誘い出し45万を包囲捕虜にしたのはすごいと思ったもので。
白起の業績のすごいから偏見をもってしまったようです。
288 :
世界@名無史さん:04/11/30 21:07:42
age
>287
白起は確かに凄いが、山上に陣をはった挙句、突撃して戦死した将軍が無責任
+無能だっただけ。もっと言うなら実践経験が無い香具師を将軍にした(ry
韓信の背水の陣に関しては、韓信軍はワザと兵数を少なく喧伝していたのでは?
若しくは、攻め手の実兵力が2〜3万くらいで、宣伝したのより圧倒的に少なかったか。
でなければ、砦をからにして全軍で攻撃する理由が無いからね。
290 :
世界@名無史さん:04/12/09 23:09:32
数が多ければ持久戦ではなく決戦戦争に持ち込むのは普通の考え。常道だと思う。
初陣の趙括に新たに軍をあたえて長平に送り出しているようだし、王様からしたら万全期したつもりだったろう。
それを逆手に取るのは例え指揮官がミスを犯したとしても、すごいことだと思うが。
なかなか出来るもんじゃないと思う。
291 :
世界@名無史さん:04/12/10 00:10:36
51にもありますが、テルモピレイの戦いは最終的に、300の兵で20万の大軍を隘路
に釘付けにしてギリシャ連合軍の撤退を成功させたのですから、玉砕したとはいえ
十分に戦略的勝利といえるでしょう。
この戦いでペルシャ側の戦死者は2万とも言われますね。レオニダス王&スパルタ兵強すぎ。
>>287 白起の戦歴でいえば、楚への侵攻と伊闕の戦いの方が戦力としては
不利だったと思うんだけど。
楚への侵攻戦では白起麾下の戦力は僅か数万だったようだし、この
時の戦果から考えれば驚くべきこと。
伊闕での戦いでは、秦の戦力は魏・韓・周の半分以下だったらしいし、
斬首二十四万という戦果を信用するなら、秦軍は十数万程度でしか
なかったという事になる。
もちろん、古代中国の数字を鵜呑みにしてはいけないのは承知のうえで
の話しだけどさ。
293 :
世界@名無史さん:04/12/13 22:47:43
古代の物の生産性や交通からいって白起の遠征軍は少数精鋭にならざるを得なかったのでしょうか。
それにしても白起に殺された人間の数や秦に対する功績はどれほどなんでしょうね。
>290
>数が多ければ持久戦ではなく決戦戦争に持ち込むのは普通の考え。常道だと思う。
それはどうかな? 趙側の戦争目標は、自国の防衛だから、決戦を急ぐ必要は無いはず。
(趙奢が閼与でどのような戦いをしたか思い出していただきたい)
だからこそ、秦側は、決戦を急がせるような策略を持ち出したわけだし。
そもそも初陣?の趙括を将軍にした時点で誤りだと思う。
(山上に布陣して・・・というのは、俺の誤り。戦列を分断されて包囲ですね。すいません。)
趙王にしろ、陳余にせよ、無闇に決戦を急いだために滅亡(orそれに近い状態)したわけだし。
295 :
世界@名無史さん:04/12/16 22:50:24
普通倍以上の数がいれば会戦に持ち込みますよ。
それが出来ないのはレンパ将軍に何らかの事情があったのでしょう。
ジョウトウの避難民を抱え込んだり趙軍内は意外と諸問題を抱えていたかもしれません。
秦軍が疲弊するのを待っていたかもしれません。
しかし王様からすると大軍を維持するのは一日としてしんどい。
戦国期は農民を含めた総力戦ですから百姓が農業に従事しないのも国力にかかわる事。
多方面からいろいろ突き上げがあったでしょう。王様は将軍のように戦争だけ考えるわけにはいかない。
レンパに大軍を与えているのだから早々に秦を追い払って欲しいと思うのは当然です。
そういう事情をねらって情報操作を成功させ極秘に王コツと交代し作戦を成功させるのはなかなか出来ませんよ。
簡単じゃないです。天才にしか出来ません。
296 :
世界@名無史さん:04/12/17 06:55:03
韓信軍は行軍しながら募集してきた兵を合わせた混成軍しかも長躯遠征。
兵の熟練度も低かったと思います。秦が指名手配するほどの陳余がこれからのことも考えて「小細工いらず」と言っても無理からぬことだと思います。
未だ世間に認められていなかった韓信の天才ぶりを見抜いた李佐車が凄いだけ。
韓信は背水の陣を取らなければ兵が動かないほど軍を掌握しきれていなかったと考えられます。
ある種賭けだったでしょうね。戦いのあと「何で背水の陣を取ったのです」と部下に突き上げを食らっていますから。
秦もきわどかったはず白起が包囲に成功したあと昭王自ら軍を率いて趙軍の糧道を断つ作戦を敢行している。
昭王は英主だったといえると思います。 何にしろ天才しかやりとげれませんよ。
負けたほうはそれほど馬鹿だったと言える失態じゃないと思います。
>山上に布陣して バショクでしょうか
297 :
世界@名無史さん:04/12/17 10:57:13
ところで両軍が7割以上の壊滅的な被害を受けた戦いってあるのでしょうか?
298 :
世界@名無史さん:04/12/21 00:15:01
>>297 包囲されたりして片方が壊滅した戦いは多いでしょうけど、両軍ともというのは少ないでしょうね。
おそらく兵力差がそれほどないから、どちらも積極的には戦を仕掛けないと思うし。
包囲戦なら包囲側が7割も被害受ける前に戦意喪失しそうです。
ちなみに日本だと武田信玄と上杉謙信の川中島の戦い(たしか4次くらいまでやっててそのどれか)
が一番両軍の被害が大きいと思います。たしか被害3割とかそんなものだったかと。(うろ覚えですが)
霧が晴れたらいきなり両軍の主力が目の前にいて乱戦になったという状況ですね。
俗に信玄と謙信が打ち合ったとかいわれてますし、武将クラスも結構討ち死にしてます。
信玄の弟で副将だった信繁とか。
似たような両軍が予期しないような乱戦のようなシチュエーションを世界史で探してみては?
299 :
世界@名無史さん:04/12/21 03:18:49
少数で大軍を破った戦いというと。。
日本人なら誰でも一番最初に思いつくのは尾張のうつけのあの戦いかな?
なぜ記載が少ない?
正面からぶつかり合って
たまたま勝っちゃった えへ♪
だからなー
いや、世界史板だし・・・
302 :
世界@名無史さん:04/12/26 10:35:07
インドネシアの英蘭豪5万立てこもるバンドン要塞に750万人の日本兵が突っ込み勝ったって本当ですか?
いくら要塞が堅いといっても、さすがにそんだけ突撃したら勝てるかもしれない。
304 :
世界@名無史さん:04/12/27 11:19:03
750万って当時の日本人の1割弱じゃん('A`)
流石に嘘じゃ・・・
>>304 さすがにっつうか、いくらき○○い日本陸軍でもそんなに動員できるわけ無い。
そもそも750万もいたら立錐の余地もないんじゃないか。
307 :
世界@名無史さん:04/12/27 14:09:54
魚釣島(尖閣諸島)の戦い
中国人愛国主義者数名が日本軍海上保安庁の包囲網を振り切り魚釣島占領
308 :
世界@名無史さん:04/12/27 14:14:17
池田小の戦い
宅間守(一名)が池田小学校の軍勢(数百名)相手に奮闘
13人の生徒を討ち取った。
309 :
世界@名無史さん:04/12/27 15:31:18
あんま笑えない。
笑える神経を疑う。
自演乙。
314 :
世界@名無史さん:04/12/28 08:59:49
>302
750人の日本兵が5万人のバンドン要塞にです。
一個大隊強で旅団規模の兵隊が篭る要塞を陥落させたのか。
316 :
世界@名無史さん:04/12/29 00:39:40
バンドン要塞地区(バンドン要塞及びバンドン市街を含む)にいた連合軍は、約3万5千でした。
実際に、バンドン要塞で戦ったのは、連合軍は約4千、日本軍は、若松部隊のみです。
若松大隊は、麾下の4個中隊の内、1個中隊は予備として戦闘に参加していませんから、兵力は約750でした。
バンドン要塞が突破されると、他に防御陣地を持たないため、バンドン要塞地区にいた連合軍は戦意を失い、降伏を申し入れました。
(「戦史叢書 蘭印攻略戦」) ということらしいです。航空部隊の援助を受けたとしてもすごいですね。
317 :
世界@名無史さん:04/12/29 00:45:51
上記は戯れに調べただけです。真偽のほどは分かりません。
詳しい方解説お願いします。
318 :
世界@名無史さん:04/12/29 00:54:09
>>314 その後ろに日本軍3万がいるのでわ?
寡兵大軍を打ち破るとしては戊辰戦争白河の戦いかな
官軍700名(カノン砲2・臼砲2)VS奥羽列藩同盟2500名(カノン砲4)
戦死者:官軍12名・奥羽列藩同盟700名以上
4倍近くで攻めて戦果12名ってなんなんだよ…
奉天会戦は?
320 :
世界@名無史さん:04/12/29 05:28:33
奉天会戦は違うと思う
クロパキトンは元々奉天で日本軍と決戦するつもりはなく
じりじり後退しながら戦う後退戦術をとった(ロシアのお家芸だけど)
最終的にロシア軍は、時折の黄砂に紛れて撤退。疲れ果てていた日本軍は追撃する力も弾薬もなかった
日本軍はハルピンを占領したものの、日本軍の方がはるかに被害が大きく
実際、ロシア側は奉天会戦を勝ったと思っているし、日本は良くて引き分け。むしろ戦略的に手痛い失敗だったと当時の陸軍は思っていたはずだよ
321 :
世界@名無史さん:04/12/29 14:40:05
やっぱ本能寺の変でしょ
324 :
318:04/12/30 17:08:32
>>323 まず総司令官に問題がある
経済の専門家であった国家老・西郷頼母が格序列で司令官になった。
奥羽列藩同盟中、唯一薩長との実戦経験がある会津なのに肝心な反撃
作戦に際して実戦経験が全くない西郷頼母が選ばれた。
次に作戦に問題がある
官軍は白河城の防衛を諦め後退した後、防禦線を張って待機していた。
そこに真正面から散開もせずに突っ込んでいった。山頂からの集中射撃
とカノン砲を有効に使用して官軍は損害が無かった。
戦国時代初期の戦術VS近代戦 の戦いだった。装備面では会津藩の方が
優っていたんだが…
325 :
世界@名無史さん:04/12/30 19:26:00
日清戦争もそういう意味じゃ同じ
清の装備は日本軍よりはるかに近代化されていた
326 :
世界@名無史さん:04/12/30 22:13:48
>>325 海軍だけがね…陸軍の鹵獲品の話しは凄いよ
エンフィールド銃、スナイドル銃、モーゼル銃など一世代前の武器で、
中には壬申刻印(明治5年に政府が洋式銃の現数調査をした時に打刻
した刻印)が打たれた中古銃が混ざっていた。戊辰戦争の中古品で清国
は戦ってたし、北洋軍以外は戦う意思もなかった。
327 :
世界@名無史さん:04/12/30 22:22:44
フランスが19世紀にメキシコ干渉をやってた時に、フランス外人部隊60人ぐらいでメキシコ軍2000人とやり合って勝った戦いがあるらしいが、ソースが見つからん。。。
328 :
世界@名無史さん:04/12/30 22:29:11
>>327 我が家に19世紀会戦事典(洋書)があるが、そんな記録は載ってない
フランス−メキシコ戦争はフランス軍がだいたい7千〜2万です。
>>320 死傷者はどうみてもロシアの方が多いけど、なんで日本の方が損害が大きいことになるの?
>>324 経験っていっても失敗ですし、河井みたいに意外とがんばった人もいますから、
それはちがうんじゃないかな。
330 :
世界@名無史さん:04/12/31 01:37:22
>>330 馬鹿は君だよ、それ+ロシアは失踪(つまり行方不明)が29330人、
捕虜21792人
捕虜を死傷者には普通いれないけど、失踪は普通含める。
だからロシア軍の存在が最低でも9万となり、日本軍の損害を上回る。
損害という形では捕虜も含まれれるから、11万にもなる。
これは「日露戦史」などでもかかれている、言わば常識。
馬鹿は寝てろ。
んでクロパキトンは自身が自己の作戦失敗を明言している。
存在→損害
なんでミスったんだ。
日中戦争での各地の会戦では、日本軍はほぼ常に半分以下、ひどいときには1割2割もザラだが、
殆ど勝っているんだよなあ。
何故か上がらないけど、まあイタリア軍にどんなに勝っても自慢できないのと同じか。
334 :
世界@名無史さん:04/12/31 04:26:21
335 :
世界@名無史さん:04/12/31 10:48:11
>>333 それは、ロシア側が後退戦術を取ってるからでしょ。
基本的に国土が広いロシアは、敵を引っ張りこんで補給線が伸びきった後で
反撃するのが基本。(ナポレオンにもヒトラーにも、そして日本にも)、
増援も主力であるヨーロッパ側からシベリア鉄道使ってどんどん送り込むことが可能。
対して日本は予備役の兵隊も根こそぎ動員して、戦力を維持している。
現状維持がやっとで、兵力を増やせる余裕はない。
長期戦は無理だから、どっかで決戦に勝利してロシアと早く講和したかった。
そして結局日本が求める決戦は出来なかった。
損害率で考えず、数で比較しても無意味でしょ、この場合。 母数が全然違うんだから。
講和会議で日本が有利な条件で講和できたのは、海軍がバルチック艦隊を壊滅できたのと
ロシアの国内事情で、戦争長期化が難しくなったから。それと行司が日本びいきだったから。
もう少し戦争続いてたら陸上の戦はどうなったかわかんない。
(それを理解して、強硬な国内の世論を抑えて講和したから、当時の日本首脳部は高く評価されているわけ)
後退戦術なんてとってません、まけて後退しただけ、
奉天だって、ここで日本軍を撃滅すべく、「進撃」を命令してます。
沙河、黒溝台、遼陽だってそうです。
で、作戦を指揮していた人は、国内に帰ったら、次々に首、左遷ですよ。
これでなんで作戦成功なんです?
損害率でも日本7:25=2、8
ロシア11:31=2、9でロシアの方が高いです。
338 :
世界@名無史さん:04/12/31 14:14:06
奉天開戦がどうであれ330のようにいきなり馬鹿とか抜かすアホは論外
ただ奉天開戦が「少数で大軍を破った戦い」にはいるかどうかはきわどいと思うので主張が分かれるのはしかたない
339 :
世界@名無史さん:04/12/31 14:31:20
http://military-web.hp.infoseek.co.jp/shiryou/nichiro_14.htm 戦史室
抜粋
しかし、両軍合計57万に及ぶ大軍の戦闘は、史上初めての大会戦であり、世界の兵学界に大きな影響を与えた。
本会戦で日本軍の損害は7万で、ロシア軍の損害は9万であった。
クロパトキン大将はこの会戦の後に司令官を解任され、日露戦争における陸戦はこの会戦をもって終了した。
しかし、クロパトキン大将は、元々、ハルピン付近に後退し増援部隊と合流して後方連絡線の延び切った日本軍を撃破する構想であったので、
奉天で決戦して戦争終結のきっかけをつかもうとした日本軍は戦略的に失敗だったという見方もある。
実際、ロシアは奉天会戦で敗れたといっても戦争に負けたという意識などは当然なく、従って即時講和には至らなかったのである。
損傷(率?)はロシアの方が多い
クロパキトンは第一次大戦で復帰したみたいだが解任された。
一応、奉天会戦そのものは日本の勝利といえる。
>>333 ソ連(ロシア)の戦争は常に相手軍の損傷より自軍の損傷の方が大きいよ
340 :
335:04/12/31 14:53:39
あー、335の内容は日露戦争時のことでした。
間違って
>>333にしてしまいました。済みません。
337さん、ご指摘ありがとう。
で、336へのレスですが、ロシア軍は日本軍撃滅目指して進撃してたんですか?
重要拠点だから守りきれば大成功、守りきれなくても主力がうまく後退できれば成功
ロシアには戦力的に次の機会を待つ余裕ががあるからね
日本は講和を有利な状況で結ぶために敵主力を捕捉・撃滅したかったけど
それが出来無かったから失敗でしょ。
いい表現ではないかもしれないけど国力・兵力的に余裕があるロシア兵と
兵力に余裕がない日本兵では命の重さが違うのですよ。
最終的には満州での権益をロシアから取り上げて日本のものになったから
日本の勝利といえるとは思いますけど、それは戦場で勝利した結果ではなくて
政治的な勝利だと思いますよ。
341 :
世界@名無史さん:04/12/31 15:03:01
そもそも日本軍の20万のどこが少数なんだというツッコミが入らないのが不思議だry
342 :
世界@名無史さん:04/12/31 15:10:32
どうみても大軍対大軍
>>339 >ソ連(ロシア)の戦争は常に相手軍の損傷より自軍の損傷の方が大きいよ
中国なんだが、ついでにソ連は何倍の死傷者をだしたが、とりあえず自力で勝った。
だけど、中国軍は最後まで負けつづけ。
20年頃でやっと、なんとか日本軍の攻勢を支えられるようになったくらい。
クロパトキンは第一次大戦でも戦っているが、ドイツ軍に完敗してるな。
意外と日露戦争時代の将帥が参戦してるんだよな、ロシア軍。
ずっとスレ違いの話が続いてるってことは、そろそろネタ切れなんかな
346 :
世界@名無史さん:05/01/03 23:11:44
これはどうかな?
伊19潜
空母ワスプを狙って魚雷6本を扇状に発射
空母ワスプに2本
別の輪形陣にいた戦艦ノースカロライナに1本
駆逐艦オブライエンに1本
更に別の駆逐艦の艦底を1本擦った
この攻撃でワスプとオブライエンが沈没、ノースカロライナは本国帰り
となり、ソロモン海域で行動可能空母がホーネット1隻となったため
米軍の反撃が一時止まった。もっとも日本側が攻勢に出なかったため
状況は変わらなかったが…w
347 :
世界@名無史さん:05/01/03 23:23:17
相手がヘタリアや中国の場合は該当しないことにしたらどうかね
348 :
世界@名無史さん:05/01/04 12:43:20
もまいら島津は無視ですか?
世界史板だからな。
350 :
世界@名無史さん:05/01/04 22:53:41
やっぱ、ノモンハンの関東軍しょ。
351 :
世界@名無史さん:05/01/04 23:01:47
ノモンハンはソ連が勝ったけどな
352 :
世界@名無史さん:05/01/04 23:07:09
奉天会戦論争の再来になりそうな悪寒
日中戦争みたいなのは虚しいな。
いくら戦術で勝っても、戦略で敗北してると無意味だよ。
勝っても戦争終わらないし。
やっぱり、起死回生の逆転劇みたいなのが一番イイ。
ノモンハンは三分の一の日本軍がソ連軍を撃破し、有利な講和を手に入れた戦闘だな。
355 :
世界@名無史さん:05/01/07 17:13:54
ソ連軍に勝っても自慢にならぬ
356 :
世界@名無史さん:05/01/08 01:55:57
大体ソ連の犠牲者が対戦国より上回るなんていつものことだろ
独ソ戦もそうだし、フィンランド戦もそうだ。
よくわからんがソ連軍の犠牲はどんな弱国相手でもそれを上回る。
弱兵国ヘタリア、中国と同様、ソ連と戦った戦闘も該当させるべきでない。
357 :
世界@名無史さん:05/01/08 02:00:07
教育がない上に多民族の軍隊だからウラー突撃しか出来なくて死体の山なんだけど数だけはいて勝てることは勝てる
358 :
世界@名無史さん:05/01/08 02:46:56
ソ連中国はそうだがイタリアは多民族国家じゃないだろ
359 :
世界@名無史さん:05/01/08 02:51:46
イタリアはそもそも勝てない。
360 :
世界@名無史さん:05/01/08 04:50:53
フランス、イタリア、中国は戦争弱いよね
概して文化や料理の栄えているところは戦争苦手なんだろうか
ロスケは戦争弱いというか、人命を消耗品のように扱うからな。こちらはただのキチガイといったところか
>>152 1525年に、ワイナ・カパック王が後継者未決定で死去。
そのため息子のワスカルとアタワルパは王位継承をめぐって
対立、帝国は分裂していた。
1932年、アタワルパがワスカルを捕らえたちょうどその年に、
優れた軍事的才能があったと考えられるピサロが来たんだ。
インカ帝国としては、史上もっとも悪いタイミングに、
20年も新大陸を探検(虐殺&略奪)をしていた、絶好調の
ピサロ率いる180人の精鋭が国家ごと略奪するための
騙まし討ちだもの。
合戦や戦場での戦闘とは若干違うんじゃ?
でもスレタイ見てまっさきに思い浮かぶのはこれだね。
ピサロ側180人がインカ帝国の全戦力と戦闘した
わけではなくて、自分たちより肌の白いスペイン人たちを
インカの神の化身なんじゃないかと思ったインカの人々の
勘違いとかもうまく利用しつつ、そのアタワルパ王を捕らえて
「ハイ!おまいらそれまでよ。お宝くれくれ」だしね。
ちなみにアタワルパは、自分が捕らえた王位継承ライバルの
兄弟ワスカルが、ピサロたちに利用され王位に立てられると
思って、処刑。莫大な身代金をピサロに差し出すも、ワスカル
処刑なんかを理由に絞首刑。
その後ピサロが王位に立てたのが、ワスカルの弟マンコ。
有名なマンコ・カパック王でございます。
伊藤カイジと地下パチンコ一条グループとの戦い。
イタリアはそもそも勝ち負け以前
366 :
世界@名無史さん:05/01/08 14:10:51
ヘタリアありならやはりイギリス軍のエジプト戦のだな
ヘタリア軍35万がリビアからエジプトに進入。(ドイツに報告なし)
イギリス軍は僅か3万軍勢で果敢に反撃し圧勝。
逆にリビア領であるキレナイカ半島の全域を制圧
13万人の捕虜、火砲1300門、戦車400両を鹵獲する。
イギリス軍の損害は殆ど無かった。
当時連合国に対し北アフリカ・地中海で圧倒的に優位な立場であったへタリア軍であったが
この戦いで一気にその勢力を失い、ドイツは北アフリカにも戦線を拡大しなければならなくなった
367 :
世界@名無史さん:05/01/08 17:07:57
>>364 パチンコでカイジの敵ってそんなに居たか?一条VSカイジだろ?少数対多数じゃない。
368 :
世界@名無史さん:05/01/09 01:06:19
空城の計
戦わずして勝つ
やっぱコレでしょ
369 :
世界@名無史さん:05/01/09 03:03:13
ヘタリア軍は弱くないよ
むしろ陸軍は日本軍並の装備だったし
日本軍も作戦ミスでミッドウェーで米軍にボロ負けしたじゃん
イタリアはたまたまその「ミッドウェー」が最初に来ちゃっただけなんだよ
>>367 カイジ軍 カイジ 遠藤 虚無僧おっさん
一条軍 一条 副支配人 黒服 下っ端多数。
おれは少数で大勝だと思うんだが・・・
371 :
世界@名無史さん:05/01/09 17:25:36
×レッドリポン軍vs○孫悟空
372 :
きりぎりす:05/01/09 18:11:38
1777年 モンジザールの戦い
エルサレム王国のボードワン四世、ハンセン病に侵されながらも約五百人の騎士(そのうちテンプル騎士団が八十人ほど)で三万のマムルークを撃退。
記録が真実なら凄い人達ですね。
>>372 年号合ってないような気がするんだが、直す気はあるよね。
375 :
世界@名無史さん:05/01/09 20:36:07
>>370 だってパチンコ編は一条が作った"沼パチンコ"にカイジが挑むんだから
副支配人とか黒服は関係ないだろ。妨害工作してるわけでもないし。
七億は大勝だろうが・・・
377 :
世界@名無史さん:05/01/10 00:50:31
漫画の世界上げればきりがないよ
むしろ大軍が勝つケースのほうが少ない
380 :
世界@名無史さん:05/02/03 14:41:35 0
赤壁の戦い
幕末長州の四境戦争なんかも該当するな。
382 :
世界@名無史さん:05/02/13 18:08:44 0
豊臣秀吉は、15万人の軍勢を朝鮮に送り込みながら、朝鮮半島征服に失敗している。
逆にスペイン人のピサロはたった170人の軍勢でインカ帝国を征服した。この違いはなに?
>>382 違いはなにも何も、
共通項を探す方が難しいほど極端に状況が異なる場合だと思うが?
384 :
世界@名無史さん:05/02/13 21:30:47 0
アジャンクールの戦い
1415年のアザンクールの戦で、フランス軍に勝利したイングランド王ヘンリー5世の物語は、
シェークスピアによっても有名となった。6000人のイギリス軍に対し、フランス軍は2万5000人。
「劣勢軍が優勢軍に勝った戦例研究(1)〜(4)」
(『幹部学校記事』第190〜193号、1969年7〜10月)
386 :
世界@名無史さん:05/02/28 14:19:24 0
>>382 当時の朝鮮半島には底なし沼がそこかしこに点在し、行軍途中で兵力の大半を失ったため。
387 :
世界@名無史さん:05/02/28 15:12:31 0
やっぱり
>>158の昆陽の戦いがダントツだな。
三千で百万の敵を破るなんて壮絶
>>382 人口60万、兵力15万のホンタイジが明を征服できたのと比べるべきでは?
1973年10月6日。
エジプト軍のスエズ渡河と歩調を合わせ、シリア軍はゴラン高原に侵攻を開始した。
その戦力は、機甲二個師団を含む、五個師団、兵力8万、戦車1500両、砲1000門。
対するイスラエル軍はこの方面にわずか第7及び第188の合計2個旅団しか配置しておらず、
その戦力は、兵力一万足らず、戦車170両に過ぎなかった。
この圧倒的な戦力差に加え、さらに、イスラエルはこの攻撃を全く察知できず
完全な奇襲を受けたこともあり混乱し苦戦を強いられた。
このような状況の中、第188旅団のツビカ・グリンゴールド中尉は休暇中であったが
開戦の第一報聞くと前線に急行し、損傷した戦車から死体を引きずりおろすなどして
なんとか戦車4両をかき集めて、200両を遙かに越えるシリア軍の機甲部隊に遅滞防御戦闘を挑んだ。
結果、シリア軍の戦車・装甲車多数を撃破し、24時間もの時間を稼ぐことに成功した。
この一連の戦闘でシリア軍は、ゴラン高原の早期突破に失敗。
戦争全体での勝利も失ってしまった。
イスラエル軍強すぎ。
390 :
世界@名無史さん:2005/04/06(水) 01:38:48 0
おお、強い!強い!
日中戦争全般。
392 :
世界@名無史さん:2005/04/08(金) 01:03:27 0
>>386 さらに朝鮮半島は寒すぎて、西国出身の兵が多かった上ワラジ履きな
日本軍は凍傷で続々と戦闘不能になっていった。
>>360 >概して文化や料理の栄えているところは戦争苦手なんだろうか
何よ、それなら日本は一体何なのさ?
…いや、大東亞戦争で襤褸負けしましたけど orz
飯の美味いところってのはそれだけ裕福だから
裕福な人間でハングリー精神を維持できる人間ってのはもう極少数だから仕方ない
395 :
世界@名無史さん:2005/04/08(金) 22:35:59 0
孫子によれば、少数で大軍を相手にしなければならない状況を作ること自体が
愚行であり、戦略的敗北なわけだが。
尊師によれば、寡兵で籠城しても、いずれ見つかり捕囚になるのだが。
397 :
世界@名無史さん:2005/04/09(土) 00:49:34 0
牛刀で牛を裂くのが軍事
398 :
世界@名無史さん:2005/04/09(土) 00:50:07 0
おっと間違い。牛を裂いてどーするw
牛刀で鶏を裂くのが軍事ね。
399 :
世界@名無史さん:2005/04/09(土) 02:13:17 0
食や芸術やその他の風俗といった奢侈は、富の蓄積が多くて平和な期間が長いほど成熟していきます。
イブン=ハルドゥーン(1332〜1406年)は「実例の書」の中で、奢侈に目覚めることによって、放浪民が
定住民化することで軍事面での衰退を招き、王朝が滅亡すると説いています。
簡単に言えば、
>>394氏の言うとおりです。
清朝、オスマン朝、徳川政権といった、いずれも現代で高い評価を受ける食文化が花開いた時期に、
相対的に軍事力でヨーロッパに対して守勢に立たされて行くわけで、当ってます。
400 :
世界@名無史さん:2005/04/09(土) 08:26:14 O
| 今だ400ゲットォォォ!! |
\_ _________/
V
∧∧ (´⌒(´
(゚Д゚ ) ∩∩(´⌒;;;≡≡≡
⊆⊂´ ̄ ソ(´⌒(´⌒;;
食文化か
イングランド最強ってことでFA?
>>399 でもその頃のヨーロッパは貧困と言うよりむしろ裕福なんじゃないのか?
403 :
世界@名無史さん:2005/05/14(土) 19:48:27 0
あg
米軍に統率されて戦闘に専念出来る自衛隊は史上最強に成り得る
>>404 それならイタリア人もそうだ。
11人以下の戦いなら奴らは強い。
最近は15人でも強いぞ
そもそも戦争は常に勝ってるぞ
戦争になってもイタリアとは頼まれても同盟したくない感じ
410 :
世界@名無史さん:2005/05/27(金) 20:45:10 0
プラッシーの戦いは?
ロバート・クライブ率いる784人のヨーロッパ人兵士と、10門の野砲、
2100人のインド人兵士で5万の敵軍を破った。
411 :
世界@名無史さん:2005/05/27(金) 21:08:03 0
【薩水大捷】
隋の大軍30万が乙支文徳将軍の率いるわずかの高句麗軍に瞬殺された戦い
412 :
世界@名無史さん:2005/05/27(金) 22:08:57 0
オスマントルコも結構、少数の兵に負けてるな。
ペルシャと同じで巨大な帝国なぶん寄せ集めが多く不利になると総崩れになる傾向がある。
中国は異民族との戦闘には物凄く弱いから。
ズール族4000人vs英軍100人で砦を守りきったローク浅瀬の戦い。
415 :
世界@名無史さん:2005/06/11(土) 02:47:48 0
>414
装備の差だろうか?
>>413 そうでもないでしょ。
もっとも、中国の王朝って異民族が結構多いんだけどね。
>>411 高句麗軍は寡兵で隋・唐の大軍を何度も撃退してるよね。
あれはやはり、兵士の大半が騎兵と言うところにあるのだろうか。
30万ってことは3000人くらいだな。
項羽が数万の軍勢で70万の劉邦軍を散々に蹴散らした戦いがあったと思う。
実際にはそんなにいなかったと思うけど
423 :
世界@名無史さん:2005/07/31(日) 12:49:37 0
子宮の戦い
数億の精子を打ち破りましたが何か?
424 :
世界@名無史さん:2005/07/31(日) 13:12:17 0
あげ
ブラウ作戦の前段階となる、1942年1月から始まった赤軍冬季大攻勢に端を発する
ハリコフ攻防戦で、ネポクルイタヤ地区幅一キロを守備するドイツ軍はエルヴィン
・クルーガー曹長以下15名に過ぎませんでした。この地域を突破点に選んでいた赤
軍は大隊規模、実に100倍の兵力をもってクルーガー達に殺到します。
この時クルーガーは15名を扇状に展開させ、後方に一定間隔で予備弾薬を配置し随
時に後退しながら敵の進撃を食い止めるという神業的戦術で、驚くべきことに5次に
渡って敵の進撃を撃退しました。全員がランボー並の活躍です。
426 :
世界@名無史さん:2005/07/31(日) 15:07:55 o
確か伊達政宗が手勢わずか26騎で800万騎余りの相馬氏の軍勢を敗った
後に小田原攻めの際にこれを聞いた秀吉は
「政宗があと20年早く生まれていたら天下を取っていただろう」と言ったそうな
相馬氏の軍勢はWW2の赤軍よりも強大ですね。
428 :
世界@名無史さん:2005/07/31(日) 15:18:28 0
当時の日本の人口約半数の軍勢って凄い
429 :
世界@名無史さん:2005/07/31(日) 16:40:54 0
子宮の戦い
数億の精子を打ち破りましたが何か?
800万?800だろ
騎乗800万なら、従者など含めればいったい・・・。
431 :
世界@名無史さん:2005/07/31(日) 17:30:28 0
>>426 その強さなら20年早ければどころか、
20年遅く生まれても200年遅くても天下を取れそうだ
>>429は、そこで一生分の運を使い果たしました。
433 :
429:2005/08/01(月) 13:12:01 0
精子軍1億以上 自軍1
勝利
800万騎って.......どれだけのスペースがいるんだ
435 :
世界@名無史さん:2005/08/01(月) 13:51:01 0
ベトナム関係で有名な戦いはないの?
宋、元、明、清の侵略を撃退した国なら
壮絶な武勇伝が山ほどありそうだけど。
436 :
世界@名無史さん:2005/08/01(月) 15:38:17 0
バクダンガンの戦い。河口で元水軍を杭だの潮流だの駆使して劇は。詳しい事は知らん。
淝水の戦
1945年2月17日「空の宮本武蔵」こと武藤金義少尉の操る単機の紫電改は、厚木上
空において12機のF6Fヘルキャットと交戦し、4機を撃墜して残りも追い散らすとい
うマーベラスな戦果をあげました。
これは空戦の力学上まったく考えられないことで、数百の撃墜数を誇るドイツなど
の撃墜王ですら、通常こういった状況では逃げ惑うしか術はありません。とくに集
団戦術に練達した米空母艦載機が相手では尚の事の筈であって、「大空のサムライ」
こと坂井三郎氏ですら硫黄島上空でほぼ同数のF6Fと交戦した際は必死に逃げ回り、
雲と地上砲火に助けられてようやく一命を取り留めたほどです。
やはりただのサムライと宮本武蔵では強さの次元が違うのかもしれません。
>>438 剣部隊の戦果は眉に唾付けて見た方がいいよ
>>438 それはありえないから
よほどの証拠が残ってない限り信じられない
441 :
世界@名無史さん:2005/08/03(水) 03:48:31 0
ドイツでは第2次大戦末期になると、飛べる機体も非常に少なくなり、例えあったとしても、圧倒的な連合軍機の数に比べれば、
戦争の趨勢を変えることにはならなかった。
1945年3月18日、7機のMe262が、連合軍の1,221機の爆撃機とそれを護衛する632機の戦闘機からなる大編隊を迎撃した。
その結果、1153機の爆撃機と588機の戦闘機を撃墜したが、自らも3機失った。
Me262は当時世界最速の最高時速820kmを出したメッサーシュミット社製のプロップターボジェット戦闘機。
wikipediaのMe262の項の改変、乙。
いくら改ざんしているとはいえ、引用元は明記しろ、悪臭公害の包茎くん。
ちなみに正しくは「12機の爆撃機と1機の戦闘機を撃墜した」
443 :
世界@名無史さん:2005/08/03(水) 06:05:59 O
もちつけ
444 :
世界@名無史さん:2005/08/03(水) 06:23:07 o
>442
つーか、パッと見で釣りって分かるだろ
わざわざググるなってば
玄人なら、わざと釣られて遊べ
444=公害
446 :
世界@名無史さん:2005/08/03(水) 10:56:00 0
パールハーバー
少数の日本海軍飛行隊がアメリカ海軍をぼこぼこにした。
447 :
世界@名無史さん:2005/08/04(木) 03:50:08 0
「明の永楽帝の親征」
永楽帝は5度にわたり北元(モンゴル)とオイラートへの遠征を実施したが、その4回目に
内蒙古で北元とオイラートの連合軍4000万余騎の奇襲に遭った。
実は明軍は北元と3日前に和睦しており、総兵力8000万騎の殆どの師団を北京および長城の北辺防備に戻らせた後であり、
永楽帝と側近ら含め3万騎に満たない状態だった。
しかし、皇帝自らが先陣を切って敵陣営に突進しこれを撃破、実に700万に及ぶ敵将兵を殲滅し、さらに2400万に及ぶ捕虜を得た。
448 :
世界@名無史さん:2005/08/04(木) 06:18:20 o
すげえな
両軍合わせて1億2000万騎かよ
これに従者も含めたら当時の世界の人口超えるんじゃね(笑)
449 :
世界@名無史さん:2005/08/04(木) 06:24:43 o
たが、シナの歴史書は数を1000倍くらい誇張しているからな
史実は総数12万てところだろうな。
中国の史書は白髪三千丈というか敗軍の兵力がかなりインフレ気味ですが、『梁書』
の陳慶之の記述など実に素敵ですね。
梁武帝は陳慶之に7千の兵を与えて洛陽に進撃させますが、対する北魏は7万の大軍
で迎撃して即日敗退し、勢いに乗る陳慶之は続けて2万の守兵の篭る城まで陥落させ
ます。窮地に陥った北魏は榮陽で15万の兵をもって待ち構えますが、結局敗走。
自暴自棄になり2万余りの兵を送り出すもやっぱり壊滅。陳慶之は47戦悉くに勝利し、
最終的に三〇万の軍勢に追われてもこれを撃退させ撤退を果たすという、小をもっ
て衆を討つテンプレートのような戦いを演じています。
>>439-440 私も旧海軍航空隊の過大戦果報告には首を傾げており、武藤金義少尉の戦果を完全
に信じているわけではありませんが、しかしこの戦果というのは厚木基地の地上要
員の多くが地上で目撃して証人になっているのでただの自己申告というわけでもな
いんですね。武藤金義は坂井三郎が日本のトップエースとして太田・西沢といった
撃墜最多記録(協同撃墜を含む)を誇る嘗ての戦友以上の評価をしているのも理由
があるのかもしれません。特に否定できるような証拠も見当たりませんし、あくま
で逸話の一つとして紹介させていただきました。
(;´Д`)y-・゜゚ 高校時代のモレの脳裏に焼きついた北魏の負けっぷりがフラッシュバックしていまつ…
ボーア人vsズールーのブラッドリバーの戦い
この戦いは、約2万人のズールー族の人々に対し、
464人のボーア人との戦いでした。ボーア人は、牛車を
円形に並べ、銃(じゅう)を持ち女性も子どもも戦いました。
その結果、ボーア人側はわずか数名のけが人を出しただ
けだったのに対し、ズールー族は約3000人の死者を出
しました。その血で、戦場の川が血で真っ赤にそまったこ
とから「ブラッドリバー (Blood River)」と呼ばれるようにな
りました。この戦いに勝利したボーア人は、
トランスバール共和国とオレンジ自由国という自分たちの国を建てました。
ちょうど今日ネットで見つけたやつ。ちょっと衝撃的。
ボーア戦争も負けたとはいえ頑張ってる。
ライフル以降の銃の火力はそれだけすごかったって事だ罠
455 :
世界@名無史さん:2005/08/22(月) 20:36:28 0
○ 漢の韓信軍3万 VS 趙の陳余軍20万 ×
○ 漢の韓信軍3万 VS 楚の龍且軍20万 ×
○ 楚の項羽軍3万 VS 漢の連合軍60万 ×
456 :
世界@名無史さん:2005/08/24(水) 04:51:51 0
原爆1個で広島市民30万人が最強だろ。
457 :
世界@名無史さん:2005/08/24(水) 10:03:47 O
名前は忘れたがイギリス・エジプト連合軍もスーダンでスーダンの大軍を破ってるよな。その時は確かライフルに機関銃を使ってたよな。
ロンメルの北アフリカ戦線ネタならいくつもあるよね
ダーウィン
460 :
世界@名無史さん:2005/09/03(土) 15:14:34 0
ウィリアム・ウォレスにはネタない?
461 :
世界@名無史さん:2005/09/04(日) 14:13:16 0
911はテロとはいえすごい戦果だよな。
9/11といえば造反組はどうなることやら・・・はてさて
過去、公明党が自民党に勝った小選挙区
463 :
世界@名無史さん:2005/09/04(日) 15:21:53 0
アハマッド・シャー・マスードも、ソ連軍と互角に渡り合ったと言うことで
少数vs多数の戦いに勝った事例かな。「パンジシールの獅子」よ永遠に。
464 :
世界@名無史さん:2005/09/04(日) 15:41:34 0
●竜造寺6万余騎v.s.○島津4千
●明軍30万v.s.○島津1万
●中国の女性・子供・老人100v.s.○鹿児島兵2
○フィリピン・アメリカ連合軍・数十万v.s.●小野田ひろお
465 :
世界@名無史さん:2005/09/05(月) 05:54:52 O
スパロボなんかによくあるよね
466 :
世界@名無史さん:2005/09/05(月) 21:34:27 0
ガトーはたった1機で、連邦艦隊を壊滅させたからな。
楽天イーグルスとソフトバンクの戦い
アニメオタクは隔離板に帰って死ねよ
469 :
世界@名無史さん:2005/09/08(木) 00:57:50 0
一度たった一人で10人くらいのおねいさんと対戦してみたいもんだ。
>470
妄想してみたが、ひとり歓楽させる前に氏んでる俺の姿が見えて欝だ
472 :
世界@名無史さん:2005/09/08(木) 16:24:53 O
伊507
対
米太平洋艦隊
>>466 コンペイ島周辺の艦隊は消え去ったが月艦隊や地球軌道艦隊がまだまだ健在だぞ
しかしまだまだ圧倒的とはいえ総数の三分の二やられるってなんじゃらほry(w
とスレ汚しですたwwww
474 :
世界@名無史さん:2005/09/09(金) 11:31:10 0
というか宇宙空間で半径数十キロの範囲をあぼーんさせる核って何よ(笑)対消滅爆弾ですかい
475 :
世界@名無史さん:2005/09/09(金) 12:29:33 O
個人的に
キューブリックにガンダムの実写を撮って欲しかった....
>>474 まあ、核爆発を利用したデブリ飛散装置と考えれば、
実世界ではすごいことになる罠。
477 :
世界@名無史さん:2005/09/09(金) 16:24:59 0
ネオ vs 100人スミス
478 :
世界@名無史さん:2005/09/09(金) 20:33:57 O
EVA弐号機VS量産型EVA
青山里の戦闘だな
日本以外では未だに称賛の対象だし
全ての軍隊で学ぶ教科書みたいな戦闘
480 :
世界@名無史さん:2005/09/09(金) 21:02:48 O
詳しく
>>466 ありゃ実体は核を応用したプラズマ兵器
という設定の筈。
483 :
世界@名無史さん:2005/09/09(金) 23:07:40 0
楠政重は既出?
484 :
世界@名無史さん:2005/09/10(土) 00:30:37 0
ゴルゴだろ。
485 :
世界@名無史さん:2005/09/10(土) 01:20:59 O
アンパンマン
ショクパンマン
カレーパンマン
対
バイキンマン
キヤシャーンだろ。
487 :
世界@名無史さん:2005/09/10(土) 16:29:29 0
仮面ライダーなんて毎週、数十人のショッカーを成敗してるよな
488 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 06:45:07 O
ウルトラ兄弟の中に一人くらいは
怪獣とタイマンしたら負ける奴いるよな
加藤鷹
490 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 11:28:26 0
どの辺からネタスレになった?
492 :
世界@名無史さん:2005/09/17(土) 18:26:20 0
保守系オヤジ10名(上下関係に厳しい)
保守系オバン(OL,パート)50名(社内風紀管理に厳しい)
パラサイトシングル坊ちゃんと娘ちゃん60名(行楽に金使いまくり)
対
地方出身技術系社員5名
>>479 歴史を演義みたいにする韓国テラオソロシス
494 :
世界@名無史さん:2005/10/26(水) 22:49:21 0
age
>493
ホロン部の成れの果てでしょうな。
ハン板や東亜N板で論破されまくりなので
過疎板のここで叫びまくって憂さ晴らしってな所じゃない?
ここなら幸せ回路を思いっきり作動させても
あまり咎められないしw
497 :
世界@名無史さん:2005/11/10(木) 10:10:39 0
496 :世界@名無史さん [sage] :2005/10/29(土) 23:13:49 0
>>493>>495 一ヶ月放置されてるレスにまで反応するほうがキモイ
ホロン部乙
お前みたいなチョン丸出しの在日のほうがキモイ
498 :
甲斐犬 仕事休み:2005/11/11(金) 17:11:44 0
前近代社会の場合、君主は、
庶民には徴税、領主には徴兵を課したわけだ。
領主は、戦場へ兵を連れてくるのだが、兵数はハッタリ。千人なのに、5千人
とか。君主もそれを知りつつ、わざとだまされる。真実を要求などしたら
敵側に寝返ってしまう。ここは、ダマされて、ハッタリにのった方が良い。
「勝つ方につく」勢力が多いんだから、兵数は過大に宣伝した方が良い。
しかし、中央集権をある程度成し遂げられると、日頃から正確な生産力と
人口を把握しているし、兵数も正確だ。そして、戦略戦術もより、数学的な
合理主義で遂行できる。
史上、少数が多数を破った戦いには、
「中央集権・正確な兵数・合理的な戦略戦術」が
「分権・過大な兵数・政治的宣伝第一の戦略・不合理な戦術」を破った、
という側面が多いと思う。
499 :
世界@名無史さん:2005/12/04(日) 03:24:28 0
言われてみれば確かにねえ・・・
500 :
世界@名無史さん:2005/12/04(日) 16:42:53 0
500ゲット
そうかな?
502 :
世界@名無史さん:2006/01/06(金) 19:41:23 0
インカもアステカも欧州産の病原菌にやられた
そう言っておけば良心が痛まないで済むからな。
504 :
世界@名無史さん:2006/01/07(土) 00:50:35 0
なんで?
505 :
シュタイナー:2006/01/07(土) 01:06:27 0
第二次世界大戦でドイツの戦車エースのミヒャエル・ビットマンというひとが
一人でソ連の戦車10両中6両を戦闘不能にしたんですよ!!凄腕じゃないですか
506 :
世界@名無史さん:2006/01/07(土) 01:24:23 0
(´ω`)
507 :
世界@名無史さん:2006/01/07(土) 02:37:23 0
170 名前:世界@名無史さん[] 投稿日:04/10/27(水) 04:01:36
嬰陽王高元や泉蓋蘇文の高句麗も凄そう。
第1回の遠征(611)には、113万の軍勢を率いた隋を撃退している。
唐に入ってからも李世民や李勣らと激闘を繰り返した。
668年に力尽きるまで戦い続けたのは、国力差を考えれば凄いの一言。
>>50 上杉謙信は小田原城を落城寸前にまで追いつめたことがあったはず。
ただ、背後で北条側が策動したために帰途に就いた。
秀吉の時も恐らく是を再現しようとしたが、交渉相手が伊達政宗だった
ことが不運。交渉を担当した五代目の氏直は、さぞ無念だったろう。
いつ落城寸前まで追い詰めたんだ?
>>505 レミ・シュライネン一等兵の話を知った後では霞む
509 :
世界@名無史さん:2006/01/08(日) 03:17:53 0
木崎原の戦い ○義弘軍2百 対 ●伊東軍3千
島津のお家芸、釣り野伏で見事勝利。
この戦いでミリタリーバランスが島津に傾く。
耳川の戦い ○島津軍2万 対 ●大友軍4万
九州の覇者を賭けた戦い
前半は大友勢が押しまくるが、
義弘の冷静沈着な側面攻撃と家久の同時攻撃で勝敗が決定。
以後、大友は衰退。
沖田畷の戦い ○家久・有馬連合軍5千 対 ●龍造寺軍6万
龍造寺はこの戦いで隆信、四天王を失い島津の傘下に入る。
戸次川の戦い ○家久軍1万 対 ●豊臣四国連合軍
寄せ集めにすぎない連合軍は歴戦の勇将・家久の敵ではなかった。
この戦いで長宗我部信親・十河存保戦死。
長宗我部元親、ショックで廃人になる。
泗川の戦い ○義弘軍7千 対 ●明・朝鮮軍20万
慶長の役の末期に秀吉が死んだので、
朝鮮にいる武将たちに帰国命令が下りる。
それを知った明軍・朝鮮軍は20万の軍勢を日本軍の中央を守る義弘の泗川に向ける。
義弘は、泗川にいくつかあった支城を破棄、泗川に新たに築いた城に立て籠もる。
ここで敵を引きつけるだけ引きつけてから鉄砲の一斉射撃ののち突撃をし散々に打ち破った。
明軍の死者は8万
露梁津の海戦 ○義弘軍 対 ●朝鮮水軍
この時も義弘は水軍を率いて活躍。
順天の小西行長を救出し、さらに全軍の殿を務め
朝鮮の名将・李舜臣と交戦し見事討ち取る。日本軍退却成功。
もし義弘が朝鮮出兵に参加してなかったら日本軍は朝鮮で全滅してた。
秀吉は大名の領地加増を禁止してたが
島津だけはあまりの戦功の大きさに加増された。
関ヶ原退却戦 ○義弘軍3百 対 ●無傷の家康本体
福島隊を突破。
追撃してきた井伊直正と松平忠吉に重傷を負わせる。
この傷が元で2人は数年後死亡。
510 :
世界@名無史さん:2006/01/08(日) 03:49:34 0
木崎原の戦い ○義弘軍200 対 ●伊東軍3000
島津のお家芸、釣り野伏で見事勝利。 この戦いでミリタリーバランスが島津に傾く。
耳川の戦い ○島津軍20000 対 ●大友軍45000
義弘の冷静沈着な側面攻撃と家久の同時攻撃で勝敗が決定。
こんな大規模な野戦をガチでやって大友軍の死者20000人、武将数名戦死という一方的な大勝利を収めている。
稀な大勝利、武田信玄 対 上杉謙信の川中島合戦の比べるとその大勝利ぶりが際立っている。
以後、大友は衰退。
沖田畷の戦い ○家久・有馬連合軍5000 対 ●龍造寺軍60000
龍造寺はこの戦いで隆信、四天王を失い島津の傘下に入る。
戸次川でも長宗我部信親・十河存保を討ち取るが、指揮官を討ち取ると言うのは野戦では珍しく、それを何度もやり遂げている島津家久は戦国一の戦上手といえよう。
戸次川の戦い ○家久軍10000 対 ●豊臣四国連合軍
寄せ集めにすぎない連合軍は歴戦の勇将・家久の敵ではなかった。
この戦いで長宗我部信親・十河存保戦死。 長宗我部元親、ショックで廃人になる。
泗川の戦い ○義弘軍7000 対 ●明・朝鮮軍200000
慶長の役の末期に秀吉が死んだので、 朝鮮にいる武将たちに帰国命令が下りる。 それを知った明軍・朝鮮軍は20万の軍勢を日本軍の中央を守る義弘の泗川に向ける。
義弘は、泗川にいくつかあった支城を破棄、泗川に新たに築いた城に立て籠もる。
ここで敵を引きつけるだけ引きつけてから鉄砲の一斉射撃ののち突撃をし散々に打ち破った。
明軍の死者は8万。
露梁津の海戦 ○義弘軍 対 ●朝鮮水軍
この時も義弘は水軍を率いて活躍。
順天の小西行長を救出し、さらに全軍の殿を務め、朝鮮の名将・李舜臣と交戦し見事討ち取る。日本軍退却成功。
もし義弘が朝鮮出兵に参加してなかったら日本軍は朝鮮で全滅してた。 秀吉は大名の領地加増を禁止してたが 島津だけはあまりの戦功の大きさに加増された。
関ヶ原退却戦 ○義弘軍300 対 ●東軍80000
福島隊を突破、追撃してきた井伊直正と松平忠吉に重傷を負わせる。 この傷が元で2人は数年後死亡。
大阪城に残された妻を取り戻し、薩摩へ無事帰還。家康は島津を恐れ、関が原後も減封する事が出来なかった
信長が今川義元を討った桶狭間の戦、
家康が秀吉を破った小牧・長久手の戦、
薩州・長州・土州が幕府陸軍・會津・桑名を破った
鳥羽・伏見の戦ぐらいしか知らんな。
楠正成は勝ったわけではないし。
河越夜戦
天文15年(1546)4月20日
北条氏康率いる兵8000が古河公方足利晴氏を擁した山内・扇谷の両上杉氏の
総勢8万余りの大軍を破った戦い。
厳島の戦い
弘治元年(1555)10月1日
毛利元就が兵約4000で陶晴賢の2万の大軍を破った戦い。
この二つに「桶狭間の戦い」を入れて「日本戦国三大奇襲戦」とも言う。
ここは世界史板だけどな。
朝鮮出兵関連は世界史の範囲に入るのかしら
入るんじゃね?朝鮮出兵もアジア史では大きな出来事の一つ、
ひいては世界史の一つだ。
ただ、変な輩が流入してくる恐れもあるから扱いは慎重に。
つーか、明の歴史に出てくるから。万暦の三大征っつって。
島津厨はどうしてここまで絶望的に頭弱いのか
ほかに自慢できるものがないから
519 :
世界@名無史さん:2006/01/10(火) 09:06:46 0
>>1 アレクサンドル・ネフスキーも800の軍勢でまともにぶつかった訳ではないよ。
ネヴァ河の南岸にあった対ノヴゴロド十字軍の野営地に、夜明け頃に奇襲を仕掛けて壊走させた。
520 :
日本@名無史さん:2006/01/10(火) 09:38:55 0
1 ファルサロスの戦い。カエサル軍22000 ポンペイウス軍 55000
カエサルのすごいのは臨機応変に作戦が立てられる企画力と統率力。
直前にドラキュムの攻防戦に敗れたあとだけに価値がある。結局この後
ポンペイウスはエジプトに逃亡したがアレキサンドリアでエジプトに殺される。
2アレキサンダーだすべて兵力ではペルシャに劣っていた。イッソスの戦いで決着。
3厳島の戦い 毛利元就VS陶晴賢 大軍が動けぬ隘路に誘って追い込む。
桶狭間の戦いなどもその一例だ。戦ではないが宮本武蔵と吉岡道場の一乗寺下り松の決闘
もこの法則の沿っている。
4井徑口の戦い 漢・韓信VS趙 少数の兵で川を背にして敵を油断させる。
そして伏兵を敵城に侵入させ挟撃する戦法。この戦いで背水の陣という故事成語が生まれた。
521 :
世界@名無史さん:2006/01/10(火) 09:53:39 O
プラタイアの戦い
最初はギリシャ11万、ペルシア35万(戦闘開始時はギリシャ18000,ペルシア35万
両軍とも4キロ以上の戦列を敷き、アソポス河を挟んで対峙
しかし戦闘開始直前にギリシャ軍の8割が退却
これを見たペルシア軍は一気に突撃した
しかしギリシャ側の陣の両端に布陣していたアテナイ軍・スパルタ軍(約18000)はそのまま戦場にとどまっていた
隊型も崩れバラバラに突撃したペルシア軍は、強固に密集方陣隊型を敷いたアテナイ・スパルタ軍に見事に返り討ちになり混乱して砦に敗走
アテナイ・スパルタ軍は更にその砦に猛攻を加え、遂に陥落させた
結果的にギリシャ18000対ペルシア35万の形になり、ギリシャ側は最大1400、ペルシア側は最低で10万、最大で25万ほどの損失だと言われおり、ギリシャ側の圧勝となった
522 :
世界@名無史さん:2006/01/10(火) 14:21:23 0
マラトンの戦い。ベタだけど。
昆陽の戦い
光武帝軍3000対新軍53万の戦いだが、光武帝が勝利。
524 :
世界@名無史さん:2006/01/10(火) 20:08:48 0
寡兵が大軍を破った戦いで、敗れた方が
1開戦まもなく指令中枢を直撃された
2遊兵を作り、各個撃破された
3武装に大きな差があった
4内紛、政変、低士気、疫病、司令官の急死や発病など
(勝者の努力とは関係ない原因)で戦闘継続が不可になった
以上に当てはまらない戦いってある?
525 :
世界@名無史さん:2006/01/10(火) 20:15:45 0
長平の合戦とか。
6万の秦軍が40万の趙軍を長期間に渡って包囲し続けた。
>>524 カンネーも数に勝るローマ側が完全包囲されて殲滅されてる。
528 :
世界@名無史さん:2006/01/10(火) 20:54:24 0
1879年1月に起こった「ローク砦の戦い」(南アフリカ)
100名ほどのウェールズ将兵が3000〜4000人ものズールー王国軍を相手に籠城し、孤軍奮闘の後、18名の犠牲者を出しながらもなんとか砦を守り抜いた。
11名にビクトリア勲章が授与された。
529 :
世界@名無史さん:2006/01/10(火) 21:17:32 0
歴史上有名な戦いの多くは、大抵数が少ないほうが勝利している
このことから、戦いに人数をかけるのはアホであり
相手より、数が少なければ少ないほど勝率は上がるという結果が導き出される
白村江の戦いでも数で劣る唐の艦隊に挟み撃ちにされてたな。
532 :
世界@名無史さん:2006/01/10(火) 22:18:28 0
>>530 騎馬戦術や海上戦闘に不慣れだったと思われる日本軍はともかく、百済の兵士は大陸式戦闘を知ってるはずなのに、
なぜ負けまくったんだろ。
533 :
世界@名無史さん:2006/01/10(火) 22:52:28 O
俺はやっぱり、マリオがクッパ軍団を倒してピーチ姫を助け出した戦いかなー。
迫りくるクリボーやノコノコをなぎ倒し、マリオ1人の力で大軍をやっつけちゃったからなー。
534 :
世界@名無史さん:2006/01/10(火) 22:55:29 0
グラディウスの戦いもすごくないか、たった1機の戦闘機で
535 :
世界@名無史さん:2006/01/10(火) 22:57:53 0
ソ・フィン戦争(ソビエト・フィンランド戦争)は?
536 :
世界@名無史さん:2006/01/10(火) 23:00:19 0
>>535 フィンランドが「国家の存続」という目標を達した以上成功とする。
兵力差は言うまでも無し。
537 :
世界@名無史さん:2006/01/10(火) 23:04:08 0
538 :
世界@名無史さん:2006/01/10(火) 23:05:21 O
フィンランド萌えるよ
539 :
世界@名無史さん:2006/01/10(火) 23:08:06 O
ドラゴンボールで悟空がレッドリボン軍を壊滅させた戦いは?
たった1人で何千何万の軍隊を蹴散らしたから歴史的大勝利だおね。
540 :
世界@名無史さん:2006/01/10(火) 23:09:00 0
>>537 16万人(フィンランド軍)
45万人(ソ連軍・過小発表臭い)
↑
自分のレスが大好評だと思ってるんだろうね。
542 :
世界@名無史さん:2006/01/10(火) 23:16:06 O
543 :
世界@名無史さん:2006/01/10(火) 23:18:04 0
>>540 >45万人(ソ連軍・過小発表臭い)
なぜ、わざわざ過小発表する理由があるの?
それが過小発表だというなら、実数はどれくらいだと思うの?
544 :
世界@名無史さん:2006/01/11(水) 10:15:20 0
日露戦s(ry
海戦は陸戦と違って番狂わせが起こりにくいね。
タラント空襲とルンガ沖夜戦ぐらいしか思い浮かばん。
548 :
世界@名無史さん:2006/01/11(水) 22:53:03 0
イタリアvsオーストリアのリサ海戦と
黄海海戦(日清戦争)もそうだな。
あれも明らかに劣勢な方が勝った。
>>546 むしろ逆じゃないか。
陸のほうが数の差が出やすい。
550 :
世界@名無史さん:2006/01/11(水) 23:52:52 0
海戦では、かの有名なスペイン無敵艦隊(アルマダ)を弱小海賊のイングランドが
破ったじゃないか。
スペインはこの艦隊の喪失で国威さえ、地に落ちてしまった。
551 :
546:2006/01/12(木) 00:15:19 0
サラミスの海戦はギリシャ艦隊(380隻)ペルシャ艦隊(750隻)
戦力比2:1程度。
アルマダの戦いはイギリス艦隊(197隻、兵員約1万5千名)
スペイン艦隊(130隻、兵員約3万名 ガレー船の奴隷等含む )
で隻数だけでいえばイギリス艦隊にの方が多く、海上戦闘員では
イギリスの方が多かったんじゃなかったっけ。
ルンガ沖夜戦の日本軍(駆逐艦8隻)アメリカ軍(重巡4隻、軽巡1隻、駆逐艦6隻)
のように明白に少数で大軍を破ったといはいいにくいのでは?
海上戦力の比較は難しい物があるけどね。
ワイワイと楽しいスレ。
一日の疲れを吹き飛ばしてくれる仲間が毎日集まるスレ。
喧嘩とかやめてみんなで仲良く雑談しましょ!
コテハンも名無しもなかよく集合!
前みたいに楽しくやろうよ…。
かつて良識の下院とまで言われた雑談スレは、今は見る影もありません。
全部リセット!
Krtさん、ナポレオンさん、とてたさん、水さん、おぎまるさん、山野野衾さん、あやめさん、怨霊さん、かきつばたさん、
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\(^■^ ラさん、ジーモンさん、あかねさん、アマノウヅメさん、山犬さん、るさん、永遠の青さん、モアさん、
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そしてそしてなによりも、今これを読んでる世界@名無しさん!m9(`・ω・´)
かつての雑談スレなんて目じゃない。再興でもない。
私達で最高の雑談スレ、そして2ちゃんねる一番の良板をつくろうじゃない!
みんな俺の夢に協力してよ!
★☆★雑談スレ リセット!★☆★
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1136992296/l50 ↑
みんなあつまれ!楽しい仲間がいっぱい
553 :
世界@名無史さん:2006/01/12(木) 16:04:03 0
554 :
世界@名無史さん:2006/01/12(木) 22:11:25 0
有田中井手の戦い ○毛利軍1500 対 ●武田軍7000
元就の初陣。 当時の毛利家の領土は3000貫といわれ、15000石〜25000石ぐらいといわれているほど少ないものだった。
初陣、そして圧倒的劣勢にもかかわらず圧倒的な戦力差を華麗な戦術ではねのけ、総大将武田元繁を討ち取り軍団を総崩れにさせる。
元就の天才ぶりはこの時から発揮されていた。
後世西国の桶狭間と呼ばれる。(状況を考えれば桶狭間以上の大勝利)
佐東銀山城死守戦 ○毛利尼子連合軍 対 大内軍
有田合戦で敗れた武田氏が尼子の力を借りようとし、友田興藤は武田氏の援助を受けて、桜尾城を奪った。
一方の大内義興は自ら出陣し桜尾城を包囲した。そして息子の大内義隆と副将・陶興房に銀山城を攻撃させた。
元就はまだ尼子方の武将だったので、銀山城死守するようにと尼子経久に言われていた。
劣勢に陥った尼子武将。
見かねた元就は軍義で夜襲を提案、意表をつかれた大内軍は大混乱に陥り城の包囲を解かざるをえなかった。
吉田郡山城の戦い ○毛利軍3000 対 ●尼子軍30000
圧倒的な数の軍勢を率いる尼子軍を巧みな篭城戦でこれを撃退する。
その後尼子は衰退する。
折敷畑の戦い ○毛利軍3000 対 ●陶軍7000
山に布陣した倍以上の敵軍を下から攻撃し、大将宮川長房を戦死させ完勝を収める。
地理的にそして兵数的にも不利な状況ながら、総大将を討ち取るという完勝っぷりは元就、そして息子達の戦上手ぶりが垣間見れる。
宮尾城攻防戦 ○毛利軍500 対 ●陶軍16000
圧倒的な敵の大軍の大攻勢に耐え抜き、厳島合戦への足掛かりを作る。
厳島の戦い ○毛利軍5000 対 ●陶軍25000
自身の頭脳を駆使して厳島へ上陸した陶軍を壊滅させ、西国無双と呼ばれた陶晴賢を自刃へ追い込む。
運だけの桶狭間とは違い、自身の頭脳を駆使した完璧な戦だった。
この戦だけでも元就の凄さが分かると思う。
この合戦後、元就は戦国随一の勢力になる。
555 :
世界@名無史さん:2006/01/12(木) 22:14:37 0
木崎原の戦い ○義弘軍2百 対 ●伊東軍3千
島津のお家芸、釣り野伏で見事勝利。 義弘、槍の達人柚木丹波を一騎打ちで討ち取る。 この戦いでミリタリーバランスが島津に傾く。
耳川の戦い ○島津軍2万 対 ●大友軍4万5千
九州の覇者を賭けた戦い。 義弘の冷静沈着な側面攻撃と家久の同時攻撃で勝敗が決定。 こんな大規模な野戦をガチでやって大友軍の死者2万人、 重臣多数戦死という一方的な大勝利を収めている。
稀な大勝利、武田信玄 対 上杉謙信の川中島合戦と比べるとその大勝利ぶりが際立っている。 以後、大友は衰退。
沖田畷の戦い ○家久・有馬連合軍5千 対 ●龍造寺軍6万
龍造寺はこの戦いで隆信、四天王を失い島津の傘下に入る。 戸次川でも長宗我部信親・十河存保を討ち取るが、指揮官を討ち取るというのは野戦では珍しく、それを何度もやり遂げている島津家久は戦国一の戦上手といえよう。
戸次川の戦い ○家久軍1万 対 ●豊臣四国連合軍
寄せ集めにすぎない連合軍は歴戦の勇将・家久の敵ではなかった。 この戦いで長宗我部信親・十河存保戦死。 長宗我部元親、ショックで廃人になる。
泗川の戦い ○義弘軍7千 対 ●明・朝鮮軍20万
慶長の役の末期に秀吉が死んだので、 朝鮮にいる将たちに帰国命令が下りる。 それを知った明軍・朝鮮軍は20万の軍勢を日本軍の中央を守る義弘の泗川に向ける。
義弘は、泗川にいくつかあった支城を破棄、泗川に新たに築いた城に立て籠もる。
ここで敵を引きつけるだけ引きつけてから鉄砲の一斉射撃ののち突撃し散々に打ち破った。 また自らも刀を振るって奮戦した。 明軍の死者は8万。
露梁津の海戦 ○義弘軍 対 ●朝鮮水軍
この時も義弘は水軍を率いて活躍。 順天の小西行長を救出し、さらに全軍の殿を務め、 朝鮮の名将・李舜臣と交戦し見事討ち取る。日本軍退却成功。
もし義弘が朝鮮出兵に参加してなかったら日本軍は朝鮮で全滅してた。 秀吉は大名の領地加増を禁止してたが 島津だけはあまりの戦功の大きさに加増された。
関ヶ原退却戦 ○義弘軍3百 対 ●東軍8万
福島隊を突破、追撃してきた井伊直正と松平忠吉に重傷を負わせる。 この傷が元で2人は数年後死亡。
大阪城に残された妻を取り戻し、薩摩へ無事帰還。 家康は島津を恐れ、関ヶ原後も減封する事が出来なかった。
557 :
世界@名無史さん:2006/01/13(金) 12:52:41 0
桶狭間って既習じゃないんでしょ
558 :
世界@名無史さん:2006/01/13(金) 13:06:50 0
世界の中の日本
まぁ世界の中の日本という事に関しては日本史板なんて素敵な物があるんだから、そちらの当該スレ
(あればだけど)で存分にやってください。って、事は言いたくなるよな(笑)。
日本史板云々言う前に
2chで(笑)なんて使いなさんな('A`)
ま、勝者は自分が負けた戦いは抹消するわな
徳川家康は三方ヶ原の敗戦でうちひしがれた自分の姿を描かせているけどな。
563 :
世界@名無史さん:2006/01/16(月) 10:32:03 O
勝ってはいないが…
アラモ砦の戦いは?デビー・クロケット率いる解放軍200人VSメキシコ共和国軍3000人。
解放軍全滅、メキシコ軍は1500人戦死。
一人で八人倒してることになるぞ。
>>524 帝国海軍上海陸戦隊(三八式)1200人 ○ VS ●国共軍(米ソ軍装備)20万。
柳家金語楼が当時慰問に訪れていた最中に遭遇し、陸戦隊とともに戦った事で有名。
曰く「戦力差が大きすぎるので、落語家といえども華々しく戦死しようとしたが、
あっさり勝ったので拍子抜けした」。
>>563 ディビー・クロケットの狙撃と
ジム・ボウイの白兵戦の記録が神な予感
566 :
世界@名無史さん:2006/01/19(木) 16:01:29 0
楠木正成の早坂・千早城の籠城戦
幕府軍数十万に対し 楠軍は千人くらいだったらしい
ソ連のカツコフ大佐麾下の一個機甲旅団が
あのグデーリアン率いる、ドイツ装甲軍まるまる一個を阻止した
ムツェンスク正面の戦いとか。
あとは破ってはいないけど、同じくソ連のKV戦車一両が
ドイツ装甲師団を三日にわたってくい止めた
レニングラード戦線での防御戦とか。
>>566 数十万は号して百万とかそういうレベルで、実際は2〜3万程度だろう。
元寇という国家の危機に対する御家人の動員数すら1万とかそのレベルだったと思う。
>>567 第2装甲集団のうち実質戦った(戦えた)のは1個師団にも満たない(消耗しつくしていたため)>ムツェンスク
有名な伝説だが戦闘そのものは数時間、停止は補給上の問題が大きい>レニングラード戦線
数じゃないがどう考えても完全包囲されてたのに勝った関が原の家康。
秀忠も昌幸に足止めされててかなりヤバい状態だったのに……。
というか、俺が小早川や島津なら迷うことなく東軍の横っ腹に突っ込んだぞ。
あのまま家康に天下取られたら自分たちがどうなるか容易に予測ついただろうに。
逆に光成が勝ってりゃその後巧くことを運べば毛利天下とかも夢じゃなかったろうに。
未だに不思議でしょーがない。
571 :
世界@名無史さん:2006/02/04(土) 13:43:37 0
栃尾刈谷田川の戦い ○謙信軍 対 ●反乱軍
謙信の初陣。病弱な兄、晴景に変わって出陣した。
実戦経験の無い謙信だったが、油断していた敵を畳掛け、初陣とは思えない華々しい勝利を飾った。
これによって家中の期待が高まり、上杉家は謙信が継ぐ事になった。
北条征伐 ○上杉軍 8万人 対 ●北条軍 9万
関東管領として、北条を征伐した戦。 関東豪族のほとんどが上杉謙信の側についた。
北条軍は撃破されまくり、殺されまくりで小田原城に追い詰められる。
北条軍は小田原城落城寸前まで追いやられるものの信玄が助けに入ったため助かる。
関東管領として始めての戦であった。
川中島の戦い ○上杉軍1万3千 対 ●武田軍2万
無敵の武田騎馬軍団も毘沙門天の化身上杉謙信には勝てるわけがなかった。
啄木鳥戦法も軍事の天才謙信には見破られ、武田軍は山本勘助や弟ら重臣を失う。
車がかりの陣で武田軍は追い詰められ、死者四千六百三十人、負傷者七千五百人を出す大被害を追った。
謙信は単騎特攻して信玄と一騎打ちするなど大活躍を見せた。
唐沢山城救援戦 ○上杉軍13 対 ●北条軍3万
上杉側の関東の豪族、佐野昌綱を救援するため、北条の大軍の中を数騎で特攻。
謙信の威勢に恐れをなした北条軍は怯えて近づく事が出来なかった。
手取川の戦い ○上杉軍2万 対 ●織田軍4万8千
最大勢力の織田も軍神上杉謙信の前では赤子同然だった。
能登畠山を軽々と滅ぼし、謙信に怯え逃げる織田軍を追撃。
織田軍は二千人近くの死傷者を出して、大敗する。
信長自身、近習ら数十騎とともに命からがら美濃へ逃げ帰ったという。
もし謙信が寿命で死んでいなかったら信長は滅んでいただろう。
松川の戦い ○上杉軍2千 対 ●伊達軍4万
この20倍にも及ぶ戦力差を本庄繁長の巧みな戦術で克服し、奇跡的な大勝利を得ている。
伊達軍は大量の死傷者を出して大敗、撤退する。
この戦いを捏造と言う伊達厨がいるが、もちろん負け惜しみから来る妄想なので注意が必要である
木崎原の戦い ○義弘軍2百 対 ●伊東軍3千
島津のお家芸、釣り野伏で見事勝利。 義弘、槍の達人柚木丹波を一騎打ちで討ち取る。 この戦いでミリタリーバランスが島津に傾く。
耳川の戦い ○島津軍2万 対 ●大友軍4万5千
九州の覇者を賭けた戦い。 義弘の冷静沈着な側面攻撃と家久の同時攻撃で勝敗が決定。 こんな大規模な野戦をガチでやって大友軍の死者2万人、 重臣多数戦死という一方的な大勝利を収めている。
稀な大勝利、武田信玄 対 上杉謙信の川中島合戦と比べるとその大勝利ぶりが際立っている。 以後、大友は衰退。
沖田畷の戦い ○家久・有馬連合軍5千 対 ●龍造寺軍6万
龍造寺はこの戦いで隆信、四天王を失い島津の傘下に入る。 戸次川でも長宗我部信親・十河存保を討ち取るが、指揮官を討ち取るというのは野戦では珍しく、それを何度もやり遂げている島津家久は戦国一の戦上手といえよう。
戸次川の戦い ○家久軍1万 対 ●豊臣四国連合軍
寄せ集めにすぎない連合軍は歴戦の勇将・家久の敵ではなかった。 この戦いで長宗我部信親・十河存保戦死。 長宗我部元親、ショックで廃人になる。
泗川の戦い ○義弘軍7千 対 ●明・朝鮮軍20万
慶長の役の末期に秀吉が死んだので、 朝鮮にいる将たちに帰国命令が下りる。 それを知った明軍・朝鮮軍は20万の軍勢を日本軍の中央を守る義弘の泗川に向ける。
義弘は、泗川にいくつかあった支城を破棄、泗川に新たに築いた城に立て籠もる。
ここで敵を引きつけるだけ引きつけてから鉄砲の一斉射撃ののち突撃し散々に打ち破った。 また自らも刀を振るって奮戦した。 明軍の死者は8万。
露梁津の海戦 ○義弘軍 対 ●朝鮮水軍
この時も義弘は水軍を率いて活躍。 順天の小西行長を救出し、さらに全軍の殿を務め、 朝鮮の名将・李舜臣と交戦し見事討ち取る。日本軍退却成功。
もし義弘が朝鮮出兵に参加してなかったら日本軍は朝鮮で全滅してた。 秀吉は大名の領地加増を禁止してたが 島津だけはあまりの戦功の大きさに加増された。
関ヶ原退却戦 ○義弘軍3百 対 ●東軍8万
福島隊を突破、追撃してきた井伊直正と松平忠吉に重傷を負わせる。 この傷が元で2人は数年後死亡。
大阪城に残された妻を取り戻し、薩摩へ無事帰還。 家康は島津を恐れ、関ヶ原後も減封する事が出来なかった
古代の歴史は全て誇張が入ってるからな。
アレキサンドロスの誇張なんて酷すぎるし
>>568 何で君って日本の歴史は誇張だって言うのに、
欧米の歴史は誇張にしないの
白人の豚ですか?
否定派は根拠を示せよ
豚、チョン扱いされるよ
576 :
世界@名無史さん:2006/02/04(土) 14:32:20 0
あげ
577 :
世界@名無史さん:2006/02/04(土) 15:01:07 0
馬賊やってた、俺の爺さんの戦い
500人くらいの関東軍や警察がうようよいる中、わずか15人の「北満紅旗匪」が満州銀行チチハル支店を襲撃
金塊と札束を持って逃走
善良な満人と日本人開拓團が血の滲み出るような苦労で節約したお金も、
ただ預けただけではすべて持ち去られてしまうのだな
矢張り満洲國國債にしておくのが賢い國民の知恵というものだろう
580 :
世界@名無史さん:2006/02/04(土) 15:22:13 0
アルマダ海戦とか
無敵艦隊をやぶったイギリスにはほれぼれ
581 :
世界@名無史さん:2006/02/04(土) 15:38:27 0
>>570 徳川本隊は、メチャクチャ強いよ。本多忠勝や伊賀の忍びが護衛している家康を討つことはできんだろ。
小牧長久手で、実力立証。
>>581 それはなにか忍びを誤解してないか?
三河の兵が精鋭だったのは俺も知ってるさ。
だが、精鋭というのは指揮官と軍隊組織の優秀さに戦術的優位が+されて
初めて最大限に効果が発揮される。
少なくとも、あの状況で小早川が東軍に突っ込んでたら、どうにもならん
かったと思うんだがなあ。
>>581 圧倒的優位だったはずの大阪夏の陣で総崩れだけどな
>>583 あれは講談による脚色が定着してしまってるからなあ。
どこまで本当なんだろう。
まあ、追い詰められた者の決死の凄みという奴に加えて、当時はまだ
個人の武勇に対する信仰心という者があったからな。
そのあたりが原因だと思う。
585 :
世界@名無史さん:2006/02/04(土) 22:12:16 O
三河以来の旗本の類がくずの集まりなのは幕末でも明らかだったな。
>>582 家康本隊が既に正面の敵と戦闘に入っていたならそうだろうけど、
3万はまだ後方で予備をしていて戦闘未参加だったから、
その段階で小早川が家康本隊をせめても、単純に3万対1万5千の戦いになるだけ。
その状況で背後の毛利隊2万が動いたらさすがにやばかっただろうけどね。
>>588 小早川が動けば毛利も動く、と考えるのが妥当では?
そうなれば雪崩れ式にどっちつかずだった奴らが西になびくだろうし。
>>587 家風って奴も年月がたてば廃れるんだろうw
>>589 別に毛利、というか毛利を押しとどめていた吉川は、
小早川と連動していたわけではないので。
>>590 そうか。
では、むしろ毛利が動いていたら、と考えるべきなのかな?
後ろから大軍が雪崩れてくれば、小早川も動かざるをえんだろうし。
>>591 毛利秀元自身はやる気はあったけど、吉川が押しとどめていたらしいから、
小早川よりは可能性あると思うけどね。吉川を振り切って無理やり参戦すれば。
ただ一応家康本隊の後方も全く無防備だったわけでもなく、
1万4千ほどの対毛利隊への押さえがいたから、これを突破しないといけない。
というか、そろそろお互い日本史板へ行きましょう。
ぐあ……そうですね。
いいかげんスレ違いでした……。
>>584 とはいえ、島津だの上杉だののこのスレで出てきた事例より、
大坂の陣の真田信繁や毛利勝永の事例のほうはよほど確度はあるな。
真田についてだと上田合戦も徳川側の資料もきちんと残っているから、
これも兵力差についての確度は高い。
世界史を頼むよ
上の方でも出てるけど、やはりハンニバルかな。
どうやって食料調達してたんだろ。
それにしても、そんだけで何年も補い続けられるもんなのかな……。
>>598 三十年戦争やナポレオン戦争の時代ですら現地調達だぞ
だが、ハンニバルの場合はそれのみでかなり長い間敵地で孤立しながら戦い続けたわけだろう。
そこが不思議なんだが……。
現地調達ONLYでは遠からず限界が来るように思える。
>>600 イタリア半島南部にはハンニバルに降った都市もあったから、
3万から5万の兵を食わしていくなら何とかなったのでは?
うーん、しかし3万って古代ではけっこうな数だろうしなぁ。
だが、やっぱりそう考えるのが順当か……。
サンクスー。
>>602 現代でも町の人口が3万ふえたら大事だよ
銀英だったら大したとこnくぁwせdrftぎゅhじこlp;@:
>>602 都市といっても、純粋にその街だけじゃあなく、
それなりの範囲は領土的に支配していたはずだよ。
少なくとも一時的には。
>>605 でも、生産活動を行わない軍隊の3万となると負担もちがってくるだろうし……。
いや、他に説明のしようがない限り、俺もそれが妥当な考えだとは思うんだけど。
俺の苦労がわかるだろ?
面白そうなスレだが書き込みがないんであげときます
Palembangの戦い
>>580 アルマダの多くは輸送船で戦闘艦はエングランドのほうが多かった件
1944年のちょっとした戦車戦。
この戦いでソ連軍のアレクサンドル・オスキンは
T34/85を駆ってティーガー2を三台撃破。
613 :
世界@名無史さん:2006/04/03(月) 18:00:14 0
age
>610
乗員の大半が陸戦隊だったんだよな。
616 :
世界@名無史さん:2006/04/18(火) 03:47:06 0
ninngennsei saiteidana
617 :
世界@名無史さん:2006/04/18(火) 04:19:58 0
>>611 小林源文先生が劇画にされたエピソードですね。
オスキンはこれでソ連邦英雄になったんでしたか。
逆に言えば、常に圧倒的優位な側にいれば軍事的才能はあっても名将としては名は残せないよね。
いや、当たり前っちゃ当たり前なんだが、例外とかあるのかな。
スレの範囲内なのか微妙な話題だが。
619 :
世界@名無史さん:2006/05/07(日) 13:12:36 0
あげ
>常に圧倒的優位な側にいれば軍事的才能はあっても名将としては名は残せない
そんなわけない
理由を訪ねてもよい?
ああ、言い方が悪かったというか極端だったな。
つまり、上記のような派手な功績は立てにくいから名将でも、不利な側
にいた方よりどうしても過小評価されてしまうんじゃないかってことで。
歴史的に名を残すならそんなことはないだろ
ただ歴史好きが名将を語るとき侮られることにはなると思う
624 :
世界@名無史さん:2006/05/15(月) 14:06:47 0
フス戦争の対異端撲滅十字軍戦はほとんど圧倒的な劣勢にもかかわらず勝利している。
特に第一次十字軍は七万とも八万とも言われている大群なのに、ヤン・ジシュカの名采配の前に完敗。
第五次十字軍はそれを上回る兵力を揃えておきながら、戦う前にフス派軍が賛美歌を歌った時点で壊滅した。
なんか眉唾物だが記録を調べると記述は一致しているらしい……。
625 :
世界@名無史さん:2006/05/28(日) 09:35:22 0
たしかに、ロンメルやグデーリアンは名将として語られるのに、
アイゼンハワーもニミッツは勝つべくして勝ったという点で地味か。
ハンニバルは名将として語られるけど、
大スキピオは戦略性はすばらしいと思うのに、名将と呼ぶには地味
626 :
世界@名無史さん:2006/05/28(日) 11:03:31 0
地味に勝つべくして勝つのが名将。(孫子の兵法)
627 :
世界@名無史さん:2006/05/28(日) 22:32:12 0
常に大軍を率いた名将と言えばソ連のゲオルギー・ジューコフ。
独ソ戦で有名だけど、ノモンハンでも不利だった形勢をひっくり返している。
戦後も国防大臣として赤軍を強化して軍政家としても一流。
ていうかロシアの将軍て、たいてい、いつの時代でも相手より大軍率いているけどな。
>ていうかロシアの将軍て、たいてい、いつの時代でも相手より大軍率いているけどな。
小国が分立していた中世はスルーですか。
「帝政・ソ連時代は」という但し書きをつけた方がいいな。
629 :
世界@名無史さん:2006/05/29(月) 18:01:53 0
中世ロシアの名将だと、ノヴゴロド大公アレクサンドル1世ネフスキー
帝政ロシアだとナポレオンを破ったクトゥーゾフ
この二人が有名だが他に誰か居たら挙げてくれ。
630 :
世界@名無史さん:2006/05/29(月) 18:57:44 0
ジューコフが日本に生まれていたら牟田口になってたような気がする。
綺麗に勝つタイプじゃなくて血みどろの勝利を得るタイプだよね。
第一次世界大戦並みの貧弱装備+当初の2割の戦力でABCDを圧倒した日本軍は神
個人的にはクトゥーゾフよりバグラチォン
サゾノフ最強伝説と言ってみる
>>631 +中世並みの参謀本部を付け加えるべきかと思われ
前秦VS東晋の八十万VS八万がまだ出ていないことに驚き
639 :
世界@名無史さん:2006/07/03(月) 22:02:12 0
保守
640 :
世界@名無史さん:2006/07/03(月) 23:07:44 0
>>629 クトゥーゾフはアウステルリッツ会戦で大敗を喫しているじゃないか…。
ボロジノの戦いでも圧倒的有利なのに負けている。
クトゥーゾフはモンゴル貴族出身で、先祖はあのチンギス・ハーンらしいから
なにやら贔屓したい気もするのだが…。
※4万5千人が30万人の大軍を打ち破った戦いーマンジケルトの戦い
1071年、ビザンツの皇帝ロマノス4世は30万人からなる大軍を率いて、小アジア半島を東へ向う。
これに対するセルジューク・トルコ軍は4万5千人。
セルジューク・トルコのリーダー、アルプ・アルスランはビザンティンの大軍接近の報に接すると、講和の使者を送るが、ロマノス4世はこれを一蹴する。
講和の申し入れを蹴られたアルプ=アルスランはマンジケルトにてビザンティン軍を迎え撃つべく敵を見下ろせる丘の上に軍を配置する。
アルプ・アルスランは両翼の部隊でビザンティン軍に奇襲をかける。
劣勢のトルコ軍からの思わぬ奇襲に、ビザンティン軍の両翼は後退してしまう。
ロマノス4世率いる中央軍は果敢に前進。
これを見たアルプ・アルスランは自軍の中央軍を後退さる。
ロマノス4世は更にトルコ軍を追うが、この時先に討って出たトルコ軍の両翼が反転し、ロマノス4世率いる中央軍を完全に包囲した。
ビザンツの後続部隊を率いていたアンドロニコス・ドゥーカス将軍は中央軍がトルコ軍に包囲されたのを見ると「皇帝は戦死した」とのデマを流し皇帝を見捨てて早々に退却する。
ロマノス4世は捕らえられ耳に穴をあけられ、奴隷の印である輪を通されてアルプ・アルスランの前に引き出される。
※後日談
アルプ・アルスランはビザンティン帝国を倒すことが目的でなかった為、ロマノス4世を釈放する。
しかしこの間に、アンドロニコス・ドゥーカスは一族のミカエル(ミカエル7世)を皇帝に即位させる。
コンスタンティノープルに戻ったロマノス4世でしたが、毒を盛られて失明し投獄されてやがて死亡する。
642 :
世界@名無史さん:2006/07/06(木) 17:50:11 0
>コンスタンティノープルに戻ったロマノス4世でしたが、毒を盛られて失明し投獄されてやがて死亡する。
ビザンツ皇帝の末路のパターンだな。
>>641 典型的な包囲殲滅だな。ローマのくせにカンネーの教訓は思い出せなかったのか。
あと、「ロマノス4世率いる中央軍」は30万のうちどれくらいだったの?
>>643 >カンネーの教訓
ビザンツ人は、ギリシャ・ローマ古典文化の継承者と自負していたのに
不思議です。歴史から教訓をきちんと学ばなかったら滅亡があるという
教訓のように感じました。
>「ロマノス4世率いる中央軍」は30万のうちどれくらいだったのか
どの史書にも
「ロマノス4世は軍を3つに分け、左右の軍に傭兵軍団を配置し、
中央軍は皇帝自らが指揮する。」という趣旨の記述だけでした。
ごめんなさい、中央軍の正確な兵員数が解りませんでした<(_ _)>。
ただ、皇帝自らが指揮していた中央軍は、
「ビザンティン正規軍である重装騎兵部隊(カタフラクト)は、
中核となる農民が貧困に陥ってしまっていたために、装備も馬も満足
に揃わない状態で、カタフラクトの栄光も過去のものとなっていた。」
とあり、かなり士気が低い状態だったようです。
単純にビザンティン軍の総兵力30万人を3で割ったとしたら、中央軍は
10万人ぐらいですね。それにセルジューク・トルコ軍も総兵力4万数千人を、
3つに軍団を分けていたから、リーダーのアルスランの中央軍は2万人以下
だったでしょう。
いずれにしてもアルスランは、すごい劣勢の中を冷静に敵側の動きを正確
に分析して上手く対応し、勝利したようです。
645 :
世界@名無史さん:2006/07/22(土) 00:07:13 0
猪突した敵軍を複数の方角から攻撃して殲滅する、非常に
オーソドックスなパターンだな。ただ、3方向からの包囲殲滅というのは
あまり例がないかもしれないが。
646 :
世界@名無史さん:2006/07/23(日) 04:38:42 O
宮本武蔵VS吉岡一門の決闘(乱闘?)は出ましたか?
647 :
世界@名無史さん:2006/07/23(日) 09:27:14 0
レミ・シュライネンSS一等兵とソヴィエト陸軍戦車1個中隊との戦いでしょう。
モルガルテンの戦いは未出?
649 :
世界@名無史さん:2006/08/27(日) 17:04:38 0
age
淝水之戰は参考記録
シモ・ヘイヘが参加した冬戦争でのコラー河攻防戦
フィンランド軍守備隊32名vsソヴィエト赤軍4000名
非公式ながらシモ・ヘイヘはSMGで200〜500名殺害
狙撃の最低505人の記録と合わせて、下手するとリアル一騎当千
シモの話しようとしたら先を越された
シモの話ならえっちねた板をどうぞ
654 :
世界@名無史さん:2006/09/13(水) 17:05:11 0
655 :
世界@名無史さん:2006/09/13(水) 21:05:08 O
特殊景品争奪戦
先月の事だが、友人のフリーターが近所のパチ屋に出向き、なけなしの3千円で見事確変獲得!
友人の漢気に感服したのは言うまでもない。
656 :
世界@名無史さん:2006/09/14(木) 01:05:52 0
jcom株の戦い
一円に値下がりしたjcom株を買って自軍を何千万倍にした人
658 :
世界@名無史さん:2006/09/24(日) 18:13:07 0
やっぱり古今東西烏合の集の大軍より士気盛んな少数の軍の方が勝つよな
ケンカは数でするもんやないんやで
は、ヤクザ映画の常套文句。
660 :
世界@名無史さん:2006/09/24(日) 19:32:20 0
>>658 限界あるべ。日米戦みたいになったら幾ら士気があっても絶望的。
>>660 658は戦術レベルの話じゃないの?
それにアメリカ軍は烏合の衆じゃないしな
戦術面も戦略面も技術面も(国家の)体力面も動員可能数も支援も
何一つとっても勝ってる要素がないからな
あるのはやる気ぐらいだ
というか、普通は勝ってるからこそ士気も上がるんだよね。
軍隊の質の違いやらその戦争の背景やらで、そうでない例もわりとあるけど。
664 :
世界@名無史さん:2006/09/25(月) 19:12:26 0
>>627 >ノモンハンのジューコフ
政府から全面的な攻勢を禁止され、支援を受けられず、
兵站装備が劣勢な日本軍に対して、
数倍の兵力と圧倒的な機械化部隊をもってして
日本軍を上回る損耗率と死傷率を記録してしまった挙句、
南部地域では日本軍の主張どうりの国境線を確保されてしまったという愚戦。
この戦いだけ見るならジューコフは凡将もいいとこだ。
むしろノモンハンは日本軍が劣勢なのに
健闘した良い例として挙げるべきだろうな。
>〜を上回る損耗率と死傷率を記録してしまった挙句、
ロシア、ソビエトでは良くある事。
>>664 ノモンハンは勝ち戦くんは本当に頭が弱いなぁ
>>666 頭悪いのはオマエ。
どこに勝ち戦だったなんで書いてんだよ。
戦史としての事実を指摘してるだけだっつーの。
668 :
世界@名無史さん:2006/10/15(日) 15:11:31 0
祝二周年!
669 :
世界@名無史さん:2006/11/04(土) 11:25:04 O
レミ・シュライネンの話で飛んできてから一年、よく続いてるなあ
670 :
世界@名無史さん:2006/11/05(日) 11:09:38 0
1.項羽 ホウジョウの戦い
3万で、劉邦の漢軍56万を蹴散らした。
2.高杉晋作のクーデター(世界史じゃないが)
確か、80人かそこらで長州藩の俗論党政権を覆したはず。
671 :
世界@名無史さん:2006/11/05(日) 11:19:31 0
>>664 だってさ。結局日本軍はソビエト機械化部隊怖しの感覚が残っただろ?
だったら、失敗も良いトコだ。
↑汚い日本語だなぁ
674 :
世界@名無史さん:2006/11/09(木) 00:34:23 0
>結局日本軍はソビエト機械化部隊怖しの感覚が残っただろ?
>だったら、失敗も良いトコだ。
んじゃソ連もあれほど兵站や機械化で圧倒的優位に立ちながら
簡単に勝てないって事実が立証されて日本軍怖しの感覚が残ったから
失敗もよいトコじゃんw
675 :
世界@名無史さん:2006/11/09(木) 22:36:21 0
新の王もう100万(もちろん誇張あり)を破った戦い。
スパルタ王レオニダスは勝ってなかったっけ?
677 :
世界@名無史さん:2006/11/10(金) 03:06:04 0
ノモンハンで日本軍は虎の子の戦車部隊を送ってみたりしたけど
あまりのに損害にびびって早々に下げたり
砲・弾薬をかき集めてソ連の砲に対抗しようとしたけど
補給の弱さがすぐに出て速攻で備蓄が尽きて、一方的にぼこられたり
教科書に乗ってるような両翼包囲を食らって一個師団が壊滅したりしたけど
その後のラインはあんまり変わらなかったから日本の勝ちなんですよねwwwww
>>676テルモピレイは全滅の美学ですね。
近々また映画が出来るそうですが。
合衆国陸軍兵士&/or海兵隊隊員向けの教育映画?
このスレで語るならテルモピレーよりサラミスの海戦だと思うがねえ。
銃や大砲が使用されるようになった後の戦いで、装備が敵軍とさほど変わりなく、
奇襲ではなく正面から戦った戦いで少数が大軍を打ち破った戦いではやはり
ダブー元帥の第3軍団2万6千がブラウンシュバイク公率いるプロイセン軍主力
6万を破ったアウエルシュテットの戦いははずせないなあ。
ナポレオンの読み誤り・友軍の柔軟性を欠く行軍・濃霧等によって2倍の敵と
正面から戦うハメになった。
最初の時点では互いに敵の詳細も掴めておらず、全軍の集結も未完了で、
互いに到着した軍団を逐次投入するありさまだった。
ダブーの指揮は、到着した軍団を逐次投入する場所、直営師団の動かし方、
軍団別の攻勢・守勢の選択・タイミングにおいて完璧に近いもので見事
プロイセン軍を撃破した。少数が大軍を撃破した事以外にも、
味方主力と離れた別働隊が数で倍する敵主力を打ち破った事でも希有な戦いだった。
682 :
世界@名無史さん:2006/11/12(日) 21:20:04 0
さすが不敗のダヴーといった戦いですね〜
でも「常勝」ではなく「不敗」のダブーなんだよね。
やはり活躍した状況をみると数的劣勢の中、敵の猛攻を耐える、跳ね返し続ける、
拠点を確保し続けるといった防御戦が多い。鍛えに鍛えた軍団を率い、鉄の意志と
氷の冷静さを持って敵の攻勢を打ち砕く・・・攻勢よりも防御を得意とした感が強い。
攻城戦、攻囲戦、機動戦ではランヌやマッセナに軍配があがるかもしれない。
それでも能力だけを考えればナポレオン麾下で最優秀である事に変わりはないが。
にしても、根っからの共和主義者が、
ナポレオン皇帝を戴いて忠節をつくすなんて、一体彼は何を考えていたんだろうか
それくらい魅力的な人物だったんだろうか
685 :
世界@名無史さん:2006/12/02(土) 21:44:39 0
ルソー
その共和主義者たちは単に、王侯貴族の主権を奪い取りたかっただけで
理念も何もない。あるのは私欲だけ。
革命後の再分配が完了した途端、真の共和主義者であるロベスは粛清され
後は私有財産を保護してくれる強権者なら誰でも良かった。
王侯くたばれbyカール14世
ダヴーはどっちかというと、そういった族的なものへの関心が薄い人間だったようだが。
ネイもそうだったので、二人はウマがあった。
真田幸村のとーちゃんvs家康のむすこはでた?
それ板違いだからw
とーちゃんよりもじーちゃんの城攻めの方がスゴイのではないかと個人的に思うが。
692 :
世界@名無史さん:2007/01/05(金) 22:33:55 0
age
693 :
世界@名無史さん:2007/01/05(金) 22:34:56 0
age
2ch vs 男性会社員
695 :
1:2007/01/15(月) 17:48:04 0
このスレも長いなぁ。あの頃はチンギスハーン4にはまっていてノリ
でたててみたんだ。今は世界史の知識も豊富になった。このスレは全然
見ていないが皆さんありがとう。
696 :
世界@名無史さん:2007/01/15(月) 21:12:51 O
まあソ連のコトだから赤軍名物のアレやれば勝とうが負けようが損害はとんでもない数値行くな…
少数の騎兵で徒歩の大軍をやぶってもそれほど価値は無いな。
洒落じゃないよ。
思いついたローマの武将をあげるスレはここですか?
ルクルスとかどう?
699 :
世界@名無史さん:2007/02/22(木) 16:40:03 0
記念上げ
500人で100万人(だよね?)の軍隊破ったコルテスは既出?
●ルドルフ・シュタイナー「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)読書会
1904年から5年にかけての日露戦争にアストラル的諸存在が存在したのですが、
その中にはロシアの死者たちもいて、
彼らはロシア民族に対して戦ったということが霊的な観察から明らかになります。
ごく最近のロシアの歴史の中で、多くの高潔な理想主義者たちが牢獄や断頭台で命を失いました。
彼らは立派な理想主義者でしたが、自分たちを処刑した者たちを赦すことができませんでした。
彼らは自分たちを殺した者たちに対する猛烈な復讐心を持って死にました。
このような復讐心は、欲界期においてのみ存在することができます。
死後、彼らはアストラル界から日本の兵士の魂に、
ロシア民族に対する憎しみと復讐心を浸透させました。
神界に至ったとき初めて、彼らは自分の敵たちを赦すことができるのです。
・・・霊的な探求は、いかに民族全体が祖先の影響下にあるかを明らかにしています。(P76-77)
702 :
世界@名無史さん:2007/03/23(金) 22:27:40 0
シュタイナーによるとキリスト教を受け入れ始めた時期のゲルマン民族が
明治日本を作ったという
小田原の戦い
赤壁の戦い
冬戦争の「コラー河の奇跡」
32対4000でフィンランドがソ連に勝ってる。
シモ・ヘイヘなんかもいたし
706 :
世界@名無史さん:2007/05/12(土) 21:36:16 0
age
707 :
世界@名無史さん:2007/06/19(火) 18:54:49 0
井ケイの戦い
韓信が魏豹を破った際の両軍の兵力ってどうなの?
708 :
世界@名無史さん:2007/06/20(水) 15:13:47 0
(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
710 :
世界@名無史さん:2007/06/27(水) 21:01:41 O
〈巣伏の戦い〉
789年(延暦8年)3月9日
倭の大和朝廷は蝦夷の地を侵略するため、多賀城に集結し、胆沢に向け侵攻した
蝦夷側はこの時、まともな鎧甲もなく、武装も弓矢中心であった
しかし蝦夷には有能な指揮官である首長のアテルイとモレがいた
倭の侵攻軍の指揮官は征東大将軍紀古佐美
3月28日衣川を渡河するもアテルイのゲリラ戦で停滞
6月3日増援を得た紀古佐美は倭軍を前軍2000、中後軍4000に分け北上開始
倭軍は途中の蝦夷の村落を次々襲い、女は犯し、男は残忍に虐殺し、集落を焼き
払いながら進軍した
北上川東岸を北上していた中後軍は巣伏村で蝦夷軍300の攻撃を受けるがすぐに
撃退し追撃した
しかしこれはアテルイの罠であった
蝦夷軍800が倭軍の後方に現れ攻撃、更に東の山岳地からも400の蝦夷軍が現れ
三方を包囲された
明らかに蝦夷軍の練度は倭軍のそれを上回っていた
倭軍は壊乱し北上川へ逃げた
溺死者も多数出た、倭中後軍は5人の部将も全て戦死
生存者は武器も鎧甲も捨て裸で泳いで逃げ、倭軍は壊滅した
アテルイはその後、延暦年間に3回も倭の侵略を受けたが、全て撃退した
〈ヴェトナムの名将チャン・フン・ダオ〉
1257年モンゴルは将軍ウリャンハタイをヴェトナムへ派遣、大軍でヴェトナムの
陳朝に侵攻
陳朝の太宗は自ら軍を率い立ち向かうが、敗れ、昇龍城が陥落
しかし28歳の将チャン・フン・ダオが反撃、モンゴル軍を撃退
モンゴルはフビライ・ハンが即位、元を称した
1284年元は陳朝に最後通牒送るが、陳朝の聖宗は拒否
1285年フビライの子トゴンと将軍ウマルは50万の軍で侵攻
この大軍に対し、チャン・フン・ダオはゲリラ戦で敵を疲弊させ、3ケ月後、総反
撃開始し、ヴァンキエップで元軍を撃破し、駆逐した
1287年トゴンとウマルは今回は水陸両軍に分け、30万で陳朝に侵攻
チャン・フン・ダオは陸上で敵をゲリラ戦で遅滞させる一方、海上で敵の補給船
団を壊滅させた後、元水軍の本軍を満潮時のバクダン川河口へ追い込み、干潮に
なったとき一気に水陸から攻撃、敵は壊滅し、将軍ウマルを捕虜にした(1288年2
月)
〈高句麗の名将乙支文徳〉598年まず隋の文帝は30万の大軍が高句麗に侵攻するが、高句麗はそれを撃退
612年隋の煬帝は113万の大軍を3軍に分け侵攻
4月隋軍は乙支文徳の守る遼東城を攻めるが、ことごとく撃退された
平壌を攻めた別軍も高句麗軍により壊滅させられた
6月遼東城を攻め落とせないと見るや煬帝は30万の軍を字文術と于仲文に指揮さ
せ平壌へ向かわせた
乙支文徳は平壌へ戻り、隋軍を誘い込み、7月薩水(サルイ)で総攻撃し、隋軍を
壊滅させた
遼東に生きて帰れた隋兵は2700人に過ぎなかった
〈黄天蕩の戦い〉
1130年金の完顔宗弼は12万の軍で南宋へ侵攻、首都臨安も陥落し、略奪した
やがて金軍は長江へ向かった
その時、南宋の韓家軍の将韓世忠はわずか8000の兵で金軍の船団を撃退させた
長江に来た金軍は船団の不在を知ったが、その時、南宋の韓世忠と岳飛に攻撃さ
れ、敗走
しかし岳飛の軍の損害は大きく脱落、韓世忠が単独で追撃続行
金軍を黄天蕩に追い込んだ
金軍はそこで金軍の生き残っていた船団2000隻に分乗し、長江から脱出を図った
韓世忠は300隻で得意の水上戦に切り換えた
もともと黄天蕩は韓世忠の企図していた戦場で川底に鉤付きの鉄鎖を敷いていた
金軍はこの日だけで2万5000を失って壊走した
〈寧遠城の戦い〉
1622年後金のヌルハチは明を攻撃開始、広寧を陥れ進軍したが
明の有能な孫承宗と袁崇煥を派遣し、新兵器の西洋砲の紅夷砲11門も使用し、反
撃、広寧を奪回
しかし明の朝廷を牛耳る腐敗した宦官魏忠賢の奸計により孫承宗が失脚し、魏忠
賢の息のかかった高第が遼東経略に着任
高第は何もせず、戦線を山海関まで退かせることを決定した
袁崇煥はそれを拒否し、寧遠城に残り、紅夷砲を集め、射線を阻害する城外の家
屋を取り壊した
1626年1月23日案の定、ヌルハチは13万の軍を率い、寧遠城の明軍2万を攻囲
しかし明軍は紅夷砲、急造の手投げ弾、沸騰した油で反撃
26日大損害をうけた後金軍は撤退、この戦いでの負傷がもとでヌルハチは8月に
逝去した
715 :
世界@名無史さん:2007/06/29(金) 15:24:07 O
さすがベトナムだな
モンゴル本隊が参加せず、ほとんど高麗歩兵だった日本の元寇でも日本軍は大苦
戦したのにベトナムはモンゴル本隊の騎兵部隊と海上からの攻撃を“神風”なし
に撃退した上にモンゴル軍の将軍を捕虜にしたとは
東アジア最強はベトナム
次いでモンゴル、鮮卑、金、遼、匈奴、ウイグル、清、漢、高句麗・・・・・倭
という感じか
そりゃ倭の時代は国家としての成立すら怪しいから弱いだろうな
神風って恩賞を出し渋った北条政権の「嘘」なんだが。
普通に鎌倉武士の圧勝でしたが何か?
おっ!
また日本マンセー・トンデモ野郎登場の予感
>>717 日本の元寇時の元軍総兵力の内訳
・文永の役
元軍船舶 900
元軍総兵力 25000
内、高麗兵 12700
内、モンゴル兵 30
他、宋人等
・弘安の役
元軍船舶 4400
元軍総兵力 50000
内、高麗兵 25000
内、モンゴル兵 150
他、宋人等
松本一夫氏HP『歴史へのいざない』―元寇失敗の背景―より抜粋
確かに当時、世界最強のモンゴル兵を文永の時は“30人”、弘安の時は“150人”
も破っている
確かに“30人”、“150人”に対しては圧勝だなwwwww
二万五千の蒙漢軍は何処へ?
ああ、というか「元軍総兵力 25000」のことか
元寇は上陸戦なんだから蒙古兵がいても足手まといになるだけじゃね?
ヴェトナムに対する元寇にはモンゴル兵は海陸双方の侵攻軍に多数加わっていた
ヴェトナム側が大勝し元軍司令官の一人将軍ウマルを含め、多くの捕虜を得た
元がヴェトナムに対し本格的侵攻であったのはウマルの他にフビライの子トゴン
をもう一人の司令官として派遣したことでわかる
それに反し、日本の元寇では日本側は敵将を捕虜にどころか名もわからず、一般
の敵兵すら捕虜に出来なかった
大勝利を吹聴するにも関わらず、その侵攻軍の大量の遺骨もどこからも発見され
ていない(勿論、敵の軍馬の遺骨も含めて)
戦利品も皆無、つまり日本側の伝承以外、日本が実際に戦って勝ったという証拠
は皆無である
やはり元側の史料の通り、暴風雨と食糧欠乏による元側の自主撤退が本当の史実
だろう
>>719 モンゴル史の専門家の杉山は文永の役のために朝鮮半島に駐屯していた部隊を
「5000のモンゴル騎馬軍団」って書いてるよ。
>>723 元側の史料
「八月一日、風舟を破る。五日、文虎等の諸将、各々自ら堅好の船を択びてこれに乗り、
士卒十余万を山下に棄つ。衆議して張百戸なる者を推して主師となし、これを号して張総管といい、
その約束を聴く。方に木を伐りて舟を作り還らんと欲す。七日、日本人来り戦い、尽く死し、
余のニ、三万は、そのために虜去せらる。九日、八角島(博多)に至り、尽く蒙古・高麗・漢人を殺し、
新附軍は唐人たりといい、殺さずしてこれを奴とす。」
元側の史料には、元軍10余人の内2〜3万人は日本軍の捕虜になり、その他は全員殺されたと書かれている。
だから
なんで敗北した側の遺骨が出てこんのよ
この辺りは都市化が進んでるから少し掘ればザクザク出てくると思うがな
北フランスのカタラウヌムでローマ・西ゴート連合軍とアッチラ率いるフン・ゲ
ルマン連合軍が決戦し、フン側が大敗した
フンの本営のあったシャロンの丘での考古学的発掘ではフン族の多数の遺体が発
見されたけどな
騎兵5000騎が参加しており、敗北したというならそれぐらいの馬の遺体だって発
堀されるはず、まさか主のいなくなった馬が高麗まで泳いだと言うのか
生きて日本に住み付いたというなら蒙古の馬のDNAが和製馬に残っていないの
はなぜか
それに捕虜が一人もいないってなんで
陸上から攻撃じゃなくて渡海してきてるんだぞ
そんな大敗なら船にわざわざまた乗り込んで整然と全員一人残らず帰ったのか
それに沈没した元船以外からしか甲冑や武器が残ってないじゃないか
敵に多数の戦死者が出たというならおびただしい甲冑や剣が戦利品として捕獲さ
れるはずじゃないのか
ヴェトナムに人的、物的戦勝証拠があって、日本には何もないのはなぜだ
とにかく万人が納得できる物的証拠を示して欲しいな
じゃ戦ってないじゃん
日本側の船舶なんかわずかなんだし
>>726 遺骨に関して言うなら日本の場合は土質が火山性の酸性土のため
カルシウムが分解され甕棺や石棺に埋葬されたもの以外、骨は残らない。
もっと時代の新しい激戦地関ヶ原や田原坂の発掘調査でも鉄砲の玉や
鏃、刀剣は出てくるが遺骨はざくざくと出てくることはない。
>>726 ヴェトナムにある人的、物的戦勝証拠って何さ?
>>711 おまえの読んだ「物語ヴェトナムの歴史」の著者は、経歴を見ればわかるように
東南アジアの現代史が専門であって、モンゴル軍が侵攻した時代のことは基本的に
門外漢。
そいつが1285年にヴェトナムに侵攻したモンゴル軍の数を50万なんて書いてる根拠
は「大越史記全書」というヴェトナム側の史料。
大越史記全書
「唆都元帥領兵五十萬、由雲南經老タ直占城」
この既述についての、モンゴル・ヴェトナム関係史の専門家の評価は、
山本達郎著「安南史研究. 第1」山川出版社
「即ち是によると、唆都は雲南から老タを通って占城に赴き、次いで海岸地帯を
北上したといふのであるが、是は果して如何であらうか。既述の如く唆都は
十九年に占城に赴いてから、引続き二十二年まで占城の地乃烏里方面に滞留して
ゐたと認められるのであって、彼が歸還したという傳へも、雲南方面に赴いた
といふ傳へも全く存在していない」。
それじゃあ、十九年から二十二年まで占城に駐屯していた元軍の兵数はといえば、
元側の史料では、1282年に占城に侵攻した唆都率いる5千と、1283年に増派された
1万5千の合計2万でしかない。
元史世祖本記
「六月戊戌、以占城既服復叛、發淮浙、福建、湖廣軍五千、海船百艘、戦船二百五十、
命唆都爲将討之。」
「二月丁未、命阿塔海發兵万五千人、船二百艘助征占城、船不足、命江西省益之。」
この2万の唆都軍が1285年に北上してヴェトナムに侵攻した訳だ。
つまり「大越史記全書」に書かれた50万という元軍の兵数は、元側の史料に書かれた
兵数を25倍に誇張した数なんだよ。
この二人、どっかよそのスレでも同じようなことを言い合ってたな。
論点が細かい割りに二人とも「モンゴル騎兵は世界最強」というナイーブな前提で話してるのが微笑ましいが。
何でベトナムのジャングルや、ジャワ島や日本のように
水陸両用戦を行わなければならない戦場には
モンゴル騎兵は不向きだって事が分からないのかね?
元寇の際、モンゴル軍は騎兵運用に適した博多平野で鎌倉武士に完敗したのだが・・・
文永の役では鎌倉武士は敗退。弘安の役では元軍上陸できず台風を迎える。
いつモンゴル軍は博多平野で鎌倉武士に負けたのだろう?
736 :
世界@名無史さん:2007/07/05(木) 19:24:02 0
文永の役はフルボッコにされたけど
弘安の役は上陸すらさせなかったんじゃなかったけ?
おー
ここもモーソースレになっとるけ
孟宗?
739 :
実は大勝☆菊水一号作戦:2007/07/05(木) 21:46:03 O
[鎮●魂]大本営発表(昭和20年4月8日17時)
一、我航空部隊並に水上部隊は4月5日夜来反復沖縄本島周辺の敵艦船並に機動部隊を攻撃せり
本攻撃に於て
(一)我方の収めたる戦果
撃沈 特設航空母艦2隻、戦艦1隻、艦種不詳6隻、駆逐艦1隻、輸送船5隻
撃破 戦艦3隻、巡洋艦3隻、艦種不詳6隻、輸送船7隻
(二)我方の損害
沈没戦艦1隻[大和]、巡洋艦1隻[矢矧]、駆逐艦3隻[霞、浜風、朝霜、他に磯風処分]
二 右攻撃に参加せる航空部隊並に水上部隊は孰れも特別攻撃隊にして
右戦果以外その戦果の確認せられざりしもの尠なからず
740 :
世界@名無史さん:2007/07/05(木) 23:59:55 0
>>735-736 文永の役でモンゴル軍は鎌倉武士に歯が立たず、大宰府に指1本触れられないまま、
たった1日で敗退してるじゃん。
戦ってない証拠だな
自ら墓穴を掘るなよ
久しぶりに覗いたが、万人が認める物証出せないのわかったからさ
もうこの件は終了だな
これ以上やっても水掛け論の挙げ足取りになるだけだからな
まあ骨が残らないと言うレスには思わず失笑したが
(だったら縄文人や弥生人の骨や貝塚の動物や魚の骨とかどうして残ったんだ)
>文永の役でモンゴル軍は鎌倉武士に歯が立たず
マンセーぶりが加速している
743 :
世界@名無史さん:2007/07/06(金) 00:48:52 0
鎌倉武士にボロ負けしたモンゴル兵の死体なら志賀島の蒙古塚に埋まってるよ
744 :
世界@名無史さん:2007/07/06(金) 06:07:32 0
蒙古塚w
>>741 お前は「ある」と断言していたヴェトナムがモンゴルに勝った物証を何時になったら出すんだよ?
>>741 >(だったら縄文人や弥生人の骨や貝塚の動物や魚の骨とかどうして残ったんだ)
貝塚はともかく人骨が日本の遺跡で出土するのは珍しいことだぞ。
周囲の環境が余程良いとかじゃないとな。
甕棺墓にだって人骨が残ってるのは少ない。
747 :
世界@名無史さん:2007/07/14(土) 03:01:55 0
スレ本来の話に戻って
>さてでは実際に倭寇による南京攻略というのはあったのだろうか。何と、あったのだ。
1555年の7月から8月、杭州から上陸したわずか七、八十人の「倭寇」集団が、
そのまま内陸に突入。遮る官軍を撃破しつつ徽州・太平などを経由して北上し、ついに
南京城下に至ってしまったのである!さすがに南京入城とはいかず、かすめるように
今度は東へ。その後蘇州付近にいたり、一枝も通った滸塹で官軍の攻撃を受け全滅している。
中国の学者の本を見てたら「世界戦争史上の奇蹟」とまで書いていた(笑)。
しかし確かに凄いことではあるのだが、いったい何をしに来たものかよく分からない。
掠奪というよりもこれでは単なる暴走族である。こんな内陸まで少人数で何をしに来たものやら。
どうも日本人を中心とした集団であったようなのだが…
「倭人襲来絵詞・第二日」
ttp://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/kikou/ertien3.html 世界戦争史上の奇蹟w
このとき全滅させたのは戚継光だったか?
フィンランドの冬戦争はこの手の話の宝庫だな。
750 :
世界@名無史さん:2007/07/20(金) 18:45:24 0
どうせチョンだから戦いになる前に逃げ出したんだろ。
751 :
世界@名無史さん:2007/08/05(日) 14:15:18 O
【花びら2回転の戦い】
その日、徹夜明けの私は疲れマラの状態で店に突入した。
一人目はかなりの美形の為、五分で撃破出来たのだが、二人目はいろんな意味でキツイ!!
…続きは次週を待て!
710辺りから湧いてる奴って
他の2つくらいの別スレでもみかけたぞ。
753 :
世界@名無史さん:2007/09/22(土) 05:46:40 0
昔からおもってたんだが中国の三国時代の人口が5〜600満なんてありえるのか?
どうも信じがたい。
魏は屯田民を戸籍に入れない計算方式だったから
屯田民を入れれば1200万くらいいくんじゃなかったか?
晋が中国統一した時代になってから屯田民を戸籍に入れるようになったら
いきなり数値が倍増したらしい。
755 :
世界@名無史さん:2007/09/27(木) 22:23:22 0
諸{
アルジュバロータの戦い
757 :
世界@名無史さん:2007/09/28(金) 10:56:45 O
少数で大軍を破るというと一番にローマ軍団が思い浮かぶ。
指揮官、相手、時代、が変わっても少数で破り続けたのはすごい。
勿論ハンニバル等に負けた事もあるし、無敵ではないが、
一つの国家が長期間に渡ってあれだけの強さを維持出来たのは他に類を見ない。
何故ローマ軍団はあそこまで強かったのだろう?
最強と呼ばれたスパルタの軍を破った同性愛者部隊は?
759 :
世界@名無史さん:2007/09/28(金) 13:05:13 0
>>757 相手が周辺の土人だったからでしょ
格上のイスラム相手だともうボロボロで
ローマなんてどうみても雑兵の集団
既にローマでもなんでもなかった東ローマ帝国はともかく、西ローマ帝国が滅んだころにはまだイスラムなんぞこの世に存在してなかったが。
>>759はどうも煽り大好きみたいね。
簡単に雑兵とまで言い切るクオリティ。
このタイプ、たまに居るからキニシナイ。
まあ、vs パルチア、vs ササン朝のことは頭に入れておくべきなのは確か。
北アフリカのフェニキア人は土人ですか
>>763 vs カルタゴの場合、ローマ軍のほうが大軍というイメージがある罠。
765 :
世界@名無史さん:2007/10/04(木) 20:48:10 0
>>749 冬戦争は結果だけ見れば完全にフィンランドの敗北だな。
766 :
世界@名無史さん:2007/10/04(木) 23:24:57 O
魏って最低の時は50万人くらいだったと何かで読んだ。
767 :
世界@名無史さん:2007/10/04(木) 23:26:33 O
てゆーか、モーセだかイエスだかの時代って世界中の人口合わせたら一億人くらいしかいないんだよね?
>922
あの悪魔君事件のせいで、ドキュソ親どもが
「そうか、こんな名前でも認められる可能性があるんだ!」
と、要らぬ知恵をつけてしまったからな・・・
769 :
768:2007/10/04(木) 23:44:31 0
すみません、誤爆です。
770 :
世界@名無史さん:2007/10/04(木) 23:44:32 O
「きの こさみ」 だね。
皇室から賜った「姓」を読む場合には「〜の」となる。
源 :みなもとの
平 :たいらの
藤原:ふじわらの
橘 :たちばなの
紀 :きの
清原:きよはらの
豊臣:とよとみの
陳倉防衛戦
○赫昭率いる魏軍兵約1千 vs 諸葛孔明率いる蜀漢軍兵2万以上?●
撃破じゃないが