中世におけるプラトンとアリストテレスの影響、及びそれと普遍論争の絡みについてだが、
これはとても複雑である。特に後者に関しては私も十分理解しているとは言い難いけれど、
ここまで出ているレスに関していくつか気がついた点があるのでそれについて書いてみる。
まず中世におけるプラトン観についてだが、
>>144氏の、
>中世欧州の修道士や神学者たちは、なぜかアリストテレスに傾倒し、これを中世キリスト
>教神学と融合(?)させ、スコラ哲学(十三世紀)へと変化させていきました。
(逆に蛇蝎の如く嫌われたのがプラトン。ダンテの神曲では地獄の最下層に落とされています)
というのは誤解だろう。普通「スコラ哲学」の成立はもっと前(十一世紀末から十二世紀)
だとされてるし、それに中世においてプラトン当人のテキストは殆ど知られていなかった。
十二世紀までに確実にラテン訳があったのは「ティマイオス」ぐらい(それも抄訳)で、
天地創造を扱ったこの作品は初期スコラ哲学を代表するシャルトル学派においてはむしろ
極めて尊重されていたし、他にはせいぜい「メノン」「パイドン」とプロクロスによる
「パルメニデス注解」によってテキストの一部が知られていたぐらいである。(もっとも
新プラトン主義哲学はプロクロスや偽ディオニュシウス・アレオパギテスを通じて流入し、
後者の思想は中世の神学・政治思想におけるヒエラルキー論に多大な影響を与えているが)
ダンテの神曲「地獄編」におけるプラトンの居住地も「徳はあるがキリスト教の洗礼を
受けなかった者」の住まう、地獄の第一圏(リンポ)であり、ここでも彼は他のギリシャ
ラテンの英雄や文化人たちとともに特別に優遇されている。即ち、その居住地は緑豊かな
広野の中の美しい川に守られた威厳ある城であり、ここで彼はホメロス他の詩人(案内役
のウェルギリウスも本来ここの住人)、ヘクトールやアエネアス、のような伝説の英雄、
カエサル、ルクレツィアその他ローマの英傑・貞女らと並んで一連の学者らとともに名を
挙げられているからだ(ここでも主役は「賢者の師匠」アリストテレスではあるが)。
なお興味深いのは、彼らの中にアヴィケンナ、アヴェロエスの名があるだけでなく、
なんとイスラムの英雄サラディンの名まであることで、当時の彼の名声が忍ばれる。
それともう一つ、
>>155氏のようにアリストテレスを「古代ギリシア思想を集大成した」
というふうに理解するのも実は少しまずいと思う。実際問題として、アリストテレスの
生前公開されていた著作はその死後(BC322)徐々に散逸してしまい、現在彼の主要著作と
みなされている部分を含む未公開草稿も、これを秘蔵していたアペリコンの蔵書がスラの
アテナイ征服によってローマに持ち込まれ、前一世紀後半にアンドロニコスによって
校訂されて世に出るまでは知られていなかったからだ。このことはD=ラエルティウスの
挙げるアリストテレスの著書目録(恐らくアレキサンドリア図書館の目録に基づく)に
今は伝わっていない物が多いのに、逆に現在主要著作とみなされているものが殆ど入って
いないことからも窺える。(「ギリシャ哲学者列伝」(中)岩波文庫、p.29ff.)
もちろん弟子のテオフラストスやエウデモスが師の遺稿の一部を校訂して出した可能性
はあり、その痕跡はエピクロスが書簡でアリストテレスの論理学等に触れているという
事実からも推測されるが、このような例が見いだされるのは希で、アンドロニコス以前に
知られていたアリストテレスは、主に彼が初期に書いて生前に出版されていた文学的な
対話編、即ち現在ではむしろその大半が失われている通俗的作品によってなのである。
またヘレニズム初期の哲学の本流はなんといってもストア学派だったから、ある時期まで
古代哲学に対するアリストテレスの影響力は、エウデモスを通じこの学派に受け継がれた
論理学その他の限定的な内容によってでしかない。従って少なくとも古代的文脈から見た
哲学や他の学問の本流にはアリストテレスの思想とは無関係に展開した部分が多いと思う。
(現在ではそれらの内のかなりの部分が失われているので現代人からはそう見えないが)
だが紀元二世紀ごろからアリストテレスの影響力は徐々に高まり、精密な註釈も為される
ようになってきた。実はあとで普遍論争に関して問題となる三世紀のポルフュリオスも
これらの注釈者の一人である。とはいえ、古代世界滅亡後、ラテン訳されて西欧に残った
アリストテレスの著作はボエティウスによる論理学関係のテキスト(の一部)でしかなく
著作の主要部分は主に十二世紀以後、シリア語→アラビア語を経由して西欧に入ってきた
こと、それが十二世紀ルネッサンスの原因の一つだったことは、ご承知の通りである。
さて、ここで普遍論争の問題に入るが、元々この論争のきっかけになったのは先に挙げた
注釈者ポルピュリオスによる「アリストテレスのカテゴリー論への序論」である。
彼はここで類や種といった普遍は実体として存在するのか、それとも単に人の思考の内に
あるだけなのかという問題を提起した。そしてしばらく忘れられていたこの問題提起が、
十一世紀頃から議論の対象となっていったことが普遍論争の始まりだと言われている。
最初に問題となったのは、この書が何について論じているのかという点を巡って、それが
もの(res)についてであるという立場に対して、この書は音声言語について述べている
のであり、そもそも普遍はものの前には存在せず、普遍は多くのものの名称である音声の
流れにすぎない、とする音声言語論派(初期の唯名論者)の解釈が対立した。
これに対して普遍は根元的なものとして個物に先立つという反論を述べる人々が現れた。
イデア論、新プラトン主義、アウグスティヌス主義、といったプラトン主義的な見解を
根底に持つ彼らの立場は「実在論(実念論)」と呼ばれるが、これでないと三位一体論が
説明しにくく三神論になりかねないとか、人類という普遍概念が実在しないとアダムの
行為に起因する「原罪」を説明しにくいといった理由があったため、カトリック教会に
とっては、こちらの方が都合がよく、しばらくはこの立場が主流となっていた。
十三世紀におけるトマスらドミニコ会による神学へのアリストテレス哲学の導入は
この流れを変える可能性をもっていたのかもしれないが、トマスらは「普遍はものの中に
ある」としてアリストテレス的見解を加えつつも実在論の内にとどまった。これは一方
では、実体に関する、もとからアリストテレス哲学に内在する両義性(プラトンに反発
しつつもプラトンの影響を受けていた彼の哲学の)からの帰結だが、他方においては
当時の保守的なアウグスティヌス派との闘争において、むやみに相手を刺激したくない
というドミニコ会による政治的判断があったのかも知れない。
ともあれ唯名論の本格的復活は十四世紀のW.オッカムによってであり、彼は、普遍が
実在するならそれは創造に先立ち神の心の中にあるが、これは無からの創造という教義と
矛盾するがゆえに、普遍は単なる名辞であり実在するのは個物のみだとした。そして彼は
普遍を志向する人間の理性には限界があり、それゆえ神に関する事柄は教権に従って信仰
されるべきものだとしたが、この主張は知覚を人間の認識の根拠とすべきだとする英国
古典経験論の源泉となると同時に、本来は信仰と理性の一致を主張するカトリック本流の
立場に対して打撃を与えることになった。(なぜならこの主張の一部を入れ替えれば
「聖書のみ」「信仰のみ」というプロテスタント的立場になりかねない)
こうしてみると、プラトンvsアリストテレスの対立図式が実在論vs唯名論の対立
によって再燃したのでは、という
>>154氏の指摘は半分(プラトン主義的な傾向の持った
役割に関して)は当たっていると思うが、唯名論を単純にアリストテレス主義に帰す
わけにはいかない、という点で妥当性の限界があると思う。
それとリーゼンフーバーなども強調するように(「中世思想史」平凡社ライブラリー)
中世哲学の主題は極めて多様であり、ある時代の論争を全て「普遍論争」という鋳型に
はめて理解しようとするのは危険だと思う。例えば英語版の一巻物の哲学事典などでは
現在、普遍論争という項目を探しても立項されていない事があるぐらいで、もう中世の
哲学論争に関してはその内容の多様性を尊重し、相異なる時代における形而上学的議論
は、それぞれ個別の問題を扱っているとみなすのが現在のあり方なのかも知れない。
蛇足を加えると現在の哲学的論理学と言われる分野において実在論は決して廃れた分野
ではない。たとえばデイビッド・ルイスのように(現実の世界においては)実在しない
対象を扱う事の出来るフリー・ロジックとよばれる特殊な論理学を用いてアンセルムス
的な実在論から由来する神の性質に関する議論を再評価する試みもあったりするのだ。
(cf. D.Lewis:"Anselm and Actuality": in Philosophical Papers Vo.l.2:OUP:1986)