王玄策 おうげんさく
生没年不明 中国、唐の太宗朝の役人。
641年、インドのマガダ国王シーラディティヤが唐に使節を送ったので、唐は李義表を正使に、王玄策を副使として帰国に祭して随伴させ、643年長安を出発してマガダ国へ。646年に帰国した。
翌年、王玄策は正使として再びインドにむかったが、シーラディティヤ没後の北インドではティラブックティ国王阿羅那順が王位を纂奪しており、王玄策の入国を拒否し、さらに捕えて投獄した。
何とか脱出した王玄策は帰国せず、なんとチベットとネパールから兵を借りて阿羅那順のゾウ軍団を破り、捕えて648年に帰国し、太宗に献じた。
658年にもインドに行き、翌年ヴリジ国に到着。お寺参りをして同年に帰国した。
この人、特に出世したとかそんな事も無いようで・・・。
恐るべき大唐帝国。一国を攻め取ったのに平然としてる。
ということで、詳しい人、語ってくださいな。
とりあえず2
田中芳樹
この人、なにげにすごくね?
紹介した田中先生がすごいと思う。
6 :
世界@名無史さん:04/06/27 11:58
朝散大夫になったよ
7 :
世界@名無史さん:04/06/27 12:04
映画化できそう。
単なる内政干渉じゃないか。
嫌だね侵略者は。
9 :
(○m○)/今のイラク情勢なんか:04/06/27 13:00
20世紀前半までの支那と比べたら、平和そのものだゾ。
マスコミは余計な解釈と小市民的偽善で、状況の真実を歪曲し、些末的な
ことを不必要に拡大して混乱を増幅させる元凶だな。
10 :
(○m○)/今のイラク情勢なんか:04/06/27 13:00
20世紀前半までの支那と比べたら、平和そのものだゾ。
マスコミは余計な解釈と小市民的偽善で、状況の真実を歪曲し、些末的な
ことを不必要に拡大して混乱を増幅させる元凶だな。
戦利品を書くときに虜囚の数の次に雑畜の数を書くのって対遊牧民戦の時なんだよね
インドって遊牧国家だったのか?なんかうそ臭い記事だね、こりゃ
12 :
世界@名無史さん:04/06/27 16:53
そう言えばインドって当時は何国家なんだろ?
遊牧では無さそうなんだが・・・。
>>11 王玄策が紀行した北インドは550年頃にクプタ朝インドがグルジャラ族や
エフタルの侵入によって滅亡している。
彼らはその後土着化ラージプートを構成する氏族となっている。
王玄策はクプタ朝滅亡後動乱に揺れる北インドを旅するが、この頃は
まだ土着化が終了していない。
>>12 アショーカ王の統一以来近代に至るまで統一インドは出現していない
ムガル朝ですら南のラージプートらを完全に屈服できなんだ。
玄策が往来していた頃の北インドはエフタルら遊牧民と仏教国ヴァルダナ朝
とヒンズー教国のベンガルの三大勢力が抗争していたが次第にヴァルダナ
が圧倒し北インドをほぼ制圧する頃だった。玄ちゃんはこのヴァルダナ国に
いく途中で捕まってしまうんだな。
ちなみにヴァルダナ国には西遊記で有名な玄奘が訪ねている。
当時の事情については大唐西遊記が詳しいが読みにくかったら玄策より
時代は前後するけど井上祐美子さんが書いた玄奘西域記という小説が出ていて面白いよ。
時代はハルシャ・ヴァルダナの末期から死後だよ。
阿羅那順はArjuna。
北インドは8世紀半ばにプラティーハーラ朝が
統一するまでは小国分立が続く。
玄奘だけじゃなく、慧超、義浄、玄照、玄太なんかのことも
知っておいた方がいいぞ。前二者は旅行記(地理書)もあるぞ。
それから文成公主も。吐蕃を何度も通過してる王玄策や玄照は
だいぶ文成公主に世話になったらしい。
それから1990年代に、王玄策がチベットからネパールへ
抜ける途中に残した碑文が発見されてる。これで当時は
キーロン・ルートが主要交易路だったことがわかった。
エフタル強すぎ。ササーン朝も弱体化させているわな。
ヴァルダナは西のベンガル東のエフタルをよくぞ圧倒したものだと
感心するが、当時の会戦の記録は残っているのだろうか。
歴史にIFはないがハルシャ王に嗣子があればヴァルダナ朝が
後世のイスラムの進入を防ぎ仏教文化圏が続いただろうか?
>>18 慧超のは『往五天竺国伝』。散佚していたが、ペリオが敦煌で
発見した。『大唐西域記』よりも約百年後(720年頃)の記録で、
『大唐西域記』と並んで、当時のインドに関しては貴重な記録。
桑山正進・編『慧超往五天竺国伝研究』京都大学 1992年 or 臨川書店 1998年
で全文読めるし、詳しい解説・研究もある。
義浄のは『大唐西域求法高僧伝』。作は690年ころ。
この人は往復海路でインドに行ってきた。
自分の旅行記はほんの一部で、有名無名の求法僧約60人のインド行を記録してる。
日本じゃ玄奘ばっかり崇め奉られてるが、立派な坊さんはもっとたくさんいたんだよ。
玄奘が一番きっちり業績(訳経)も記録も残してるから仕方ないんだが。
伊藤丈・章輝玉・訳『大唐西域求法高僧伝・海東高僧伝』大東出版社 1993年
で読めるけど、
足立喜六・訳注『大唐西域求法高僧伝』岩波書店 1942年
の方が解説は断然詳しいよ。
玄照という人は、チベット高原を西からラサまで横断した人で、カイラスにも行ってるらしい。
きちんと旅行記を残していれば大変貴重なものになったはずなんだが、インドで
亡くなっているので何も書き残していない。義浄が少しでも書き残してくれただけでも
よしとしようか。
23 :
世界@名無史さん:04/06/27 19:57
す、すごい知識量だ・・・
25 :
世界@名無史さん:04/06/27 23:32
中国じゃ三国志なんかより王玄策の方が人気だとか?
岳飛や劉秀や李世民の方が人気あると思うんだけど。
三国志演義より説岳全伝や東漢十二帝通俗演義とか隋唐演義が
人口に膾炙しているとは思えないが、中天竺行記が現存していれば
玄策もメジャーだったろうか。
>>25 本当に演義より人気あるなら古来より京劇で演じられているはず。
未だに北京京劇院で玄策が主人公の劇が捜索されたとは寡聞にして
聞かない。
http://zhuling.cool.ne.jp/xiangbala/wcgz/wc_16.htm 吐蕃の国境(くにざかい)が唐軍に荒らされていると聞きつけ、領地に引きこもっていたウメ・ロプサンも勇み駆けつけた。
突如現れた東の脅威にいかに対処すべきか、唐は友好を破ったのか?王(ツァンポ)と大臣たちの協議の最中、今度は南から知らせが届く。
唐の朝廷から天竺(インド)へ遣わされた王玄策が吐蕃に助けを求めてきたのだった。
天竺ではハルシャ王が亡くなったのに乗じて大臣アルジュナが王位を簒奪し、王玄策一行に略奪の兵を向けたのである。
唐側の真意がわからないうちは、東にも南にも動けない。“六部大法”制定の事業もとりかかってすでに二年になる。
焦りと苛立ちの中で、王の唐に対する疑念は日増しに膨らんでいった。
それをひそかに喜んでいたのは、国の混乱を狙うゴンドゥンと仏教に不満をもつボン教の大祭司だった。
. . . . . . . .
「公主よ、唐から来られたあなた様がお話しくだされば、必ずやツァンポも心を動かしましょう」、
ガル・ドンツェンの言葉に励まされた文成は、自分を避けて会おうとしない王に無理に目通ると、
唐のやり方に憤る王を前に、道理を尽くして、この一件が唐の朝廷を無視した一部の軍人たちの仕業であると説き、
自らを唐の誠意の証とするのだった。
文成の言葉は王の唐に対する疑念を解き、即刻、天竺へ派兵し王玄策一行を救援する決断が下される。
公主を唐の回し者と思い込んでいるウメ・ロプサンは、王の逆鱗に触れて、またしても領地謹慎を申し渡されてしまう。
ティツィンは文成とともに軍議の席に参上し、文成の故国唐の使臣を助けるために自ら故国ネパールに赴き、
兄王に加勢を要請したいと願い出るのだった。
天竺の騒乱は、ガル・ドンツェン率いる吐蕃軍とネパールの連合軍によって治められ、王玄策は吐蕃領内を通り、
無事長安へ帰還することができた。
同じ頃、吐蕃の東辺で暴れていた略奪者たちも唐の正規軍に平定され、首領の首級が、「唐と吐蕃の友好は不変である」
という太宗の言葉とともにラサまで届けられ、大いに王を喜ばせる。
. . . . . . . .
数々の珍宝を手に太宗に謁見する王玄策を、文成の実父李道宗は万感の思いをこめて見つめていた。
>>29 これは数年前にテレビで放映された文成公主のドラマでしょ
文成公主の話は、チベット支配正当化のための潤色がやたら多い。
フィクションとはいえ、共産党のプロパガンダ劇ですよ。
>>28 工房の頃、京劇見に連れて行かれたけど、呂布が主人公で驚いた。
呂布と項羽は、向こうじゃ二枚目がやる役だったんだねえ。
>紹介した田中先生がすごいと思う。
馬鹿まるだしですね
33 :
世界@名無史さん:04/06/28 20:43
>王玄策
でも、この人が連れてきた人間が作った薬で、太宗があぼんしたんだよな…。
たしか、旧唐書か新唐書の西域伝に書かれてた。
このへん、ガイエはどうするつもりだろね。やっぱスルー?
このスレで田中芳樹の著作から玄策の部分を引用するのはまずいかな?
さしつかえなければ転載したいのだが、やばいのなら引用しない。
36 :
世界@名無史さん:04/06/28 21:32
>>11 パルティア、ササン朝、バクトリア、漢帝国としのぎを削ったクシャーン朝が
元々遊牧民が樹立した王朝ですよ。
>>35 やって良し。情報は量を集める。これ鉄則。後は個人が取捨選択すれば良い。
>>19 > ヴァルダナは西のベンガル東のエフタルをよくぞ圧倒したものだと
> 感心するが、当時の会戦の記録は残っているのだろうか。
ハルシャ・ヴァルダナが登場した7世紀初頭には、エフタル(フーナ)勢力は
すっかり衰えていて、もはやたいした脅威じゃなかったよ。
5〜6世紀に活躍したアフガニスタン方面のエフタルは6世紀後半に
西突厥とササン朝の挟み撃ちにあって雲散霧消。
インド方面で活躍したフーナ(アフガニスタン方面のエフタルとは
全く別勢力という説がある)のミヒラクラは、530年頃、マールワー王
ヤショダルマンに撃退されてカシミールに撤退。カシミールのフーナが
いつまで続いたかわからんが、7世紀はじめにはカルコタ朝が立っている。
西インドのフーナ残存勢力はまとまりもなく、そのうち土着民族と
同化して後のラージプートになっていく。
> 歴史にIFはないがハルシャ王に嗣子があればヴァルダナ朝が
> 後世のイスラムの進入を防ぎ仏教文化圏が続いただろうか?
8〜9世紀にイスラム勢力の東進を阻んでいたのは、アフガニスタンの
テュルク勢力(カーブルのテュルク・シャーとザーブル)。9世紀末以降は
カーブル・シャーを滅ぼしたヒンドゥー・シャーが対イスラム最前線で
頑張っていた。ヒンドゥー・シャーは11世紀初にガズナ朝に滅ぼされ
イスラムのインド侵入が始まる。
王玄策とは関係なくてすまん。
>呂布と項羽は、向こうじゃ二枚目がやる役だったんだねえ。
呂布は元代の『三国志平話』の挿絵では佐藤慶みたいな感じなんですが、
明代の『三国志演義』の成立とともにチョウセンとの
ラブロマンスが付加された為、
美女と恋愛するイケメンということになったんです。
それ以来、呂布は二枚目俳優の演じるところとなって現在に至っています。
ちなみに、趙雲も二枚目がやることが多いです。
話題を本題にもどすと、王玄策は田中芳樹以前に貝塚茂樹先生が
1960年代に紹介しております。
シーラディティヤ王=ハルシャ・ヴァルダナ
メジャーネームのほうを出さない田中芳樹は知らなかったのか?ズレてるのか?
今秋に出版予定らしい芳樹の王玄策で、まだカマしてたら、最終的に見捨てるぞ。
>>34 婆羅門だったか婆羅寐だったか。
この人の長生薬が太宗を。
>>35 引用は著作権法で規定されてる。
必要最低限は無断でもOK。
44 :
世界@名無史さん:04/06/29 20:12
45 :
世界@名無史さん:04/06/29 21:14
>>41 田中が玄策の本を出すのか。
このスレの住民でヲチしようなw
46 :
世界@名無史さん:04/06/29 21:39
>>41 > シーラディティヤ王=ハルシャ・ヴァルダナ
> メジャーネームのほうを出さない田中芳樹は知らなかったのか?
いくら何でも知らないわけはなかろう。
登場人物の会話では尊称であるSiladityaが口に出るケースが
多はずだからそっちを使った、っていう設定はそれほど無理はない
47 :
世界@名無史さん:04/06/30 11:14
本が出るなら読みたいけどね。王玄策。
>>46 >いくら何でも知らないわけはなかろう。
田中御大にはそれがありうるから怖いのよ。
>登場人物の会話では尊称であるSiladityaが口に出るケースが
小説じゃなくて、ノンフィクションである『中国武将列伝』や
陳舜臣氏との対談本『中国名将の条件』でやってるからね。
登場人物の会話ってことはない。
王玄策の小説はまだ出てないよ。
49 :
世界@名無史さん:04/07/01 08:47
映画化してほしぃ〜!!!
主役の王玄策役は誰が良いかな?
50 :
世界@名無史さん:04/07/01 19:42
王玄策のインド行きを小説にするとなると、当時の吐蕃やネパールについて
どういう設定にするかで内容がかなり変わってくるだろうね。
諸説あるソンツェン・ガンポの年齢をどうするか?
文成公主はソンツェンに直接嫁いだのか?息子のグンソン・グンツェンに嫁いだのか?
ネパールから嫁いだティツンは、アムシュヴァルマンの娘か?ナレンドラデーヴァの娘か?
アルジュナ退治については、ネタは旧唐書、新唐書など中国側の史料しかないわけだから
どうせ「×万人殺した」「580城を占領」なんていう中国側にだけ都合のいい誇大表現を
そのまま使うんだろうか?まさかね。
>>22の玄照も脇役として絡めれば結構面白い話が作れそうな気がする。
玄照のことを知ってればの話だけど。
玄照・玄恪・恵輪がパミールを越えた時期は、ちょうど王玄策の二度目の訪印(アルジュナ退治)
と一致するんだが、この三人はインドへまっすぐ下っていかないで、どういうわけか吐蕃を回って
文成公主に会ってからインドへ出ている。謎だ。
この辺の推理なんかも絡めれば面白いエピソードの一つになるかもね。
王玄策は、三度目の訪印(658-661)でも(たぶんブッダガヤーで)玄照に会っていて、
帰朝後は高宗に奏上して、玄照を一時帰国させている。何か因縁ありげな二人。
吐蕃道が中国−インドを直接結ぶ交通路として機能していたのは、640年〜660年ころのわずか
20年あまり。その短期間に3度もこのルートを往復している王玄策っておもしろい存在ではある。
この期間だけは吐蕃道を通ってインドへ行った坊さんもいた。貞観末(649頃)に通った道生、
永徽年間(650〜655)に通った玄太なんか。彼らも時期的に王玄策と絡めやすいね(実際関係
があったかは別として)。
もう一つ面白いのは、王玄策の甥で智弘律師という人がいて、この人は670年代、海路でインドに
行っている。エンディングあたりで登場させてもいいな。
53 :
世界@名無史さん:04/07/02 20:15
映画化するなら王玄策ってどんなタイプの人間が良いかな?
私は忠臣蔵の大石内蔵助タイプが希望。
唐の本国ではあんまりうだつのあがらない文官役人だったけど実はすごい知将だったとか。
その方が面白そう。
7世紀後半に、海路でインドに向かった遣使に 王玄廓 という人がいる。やっぱり詳しい経歴は
わかんないんだけど、この人も王玄策の親戚かもしんないね。
当時のインド政情も記録が残ってないし、いったい誰に遣使を出したのかもわからん。第一
王玄廓 自身、無事に帰ってきたのやら?(同行の彼岸、智岸はインド到着前に亡くなった)
王玄策の役職名は、
第一次遣使(641-645?)のときは「前・(広西)融州黄水県令」(『法苑珠林』)
第二次遣使(646-648)のときは「右衛率府長史」(『両唐書』)
第三次遣使(658-661)のときは「左驍衛長史」(『大唐天竺出使銘』)
この感じだと武官でしょうね。
ただ、第二次遣使のアルジュナ事件では、率いてきた使節団(数十騎)は全滅しちゃって、
吐蕃+ネパールに助けを求めたわけでしょ?言葉も通じない他国の軍隊を自由自在に
指揮できたとは思えない。
吐蕃軍がインド平原部に強いとも思えないし、実際指揮をとっていたのはネパールの
将軍(無名)だったんじゃないかな。
> 第一次遣使(641-645?)のときは「前・(広西)融州黄水県令」(『法苑珠林』)
×(641-645?)
○(643-645?)だった。
57 :
世界@名無史さん:04/07/05 20:01
良スレあげ
最近、竜門石窟寺院で王玄策が奉納した(銘がある)
仏像が発見されたそうだ
昨日、宮崎市定の本読んでたら王玄策の名前が出てきた
いずれ中国がインド方面へ侵略始めるときには
正当化の道具として、あることないことくっつけて
英雄に仕立て上げるんだろうな。現在のチベット支配で
文成公主をやたら美化してるのと同じ
61 :
世界@名無史さん:04/07/06 20:36
まあ、今の中国人に王玄策のような優秀で侠気のある人物はいない。
まあ50年間、卑劣共産党に身も心も拘束され続けたら
国民総卑怯者になるのも無理はない罠。
>優秀で侠気のある人物はいない
そんな風に断言できるほど資料あるの?
63 :
世界@名無史さん:04/07/07 19:59
64 :
世界@名無史さん:04/07/08 13:34
【歴史】ゾロアスター教徒の墓地か、バーミヤンで発見
1 :潰れかかった本屋さんφ ★ :04/07/08 00:15 ID:???
独立行政法人「文化財研究所」は7日、先月行ったアフガニスタンの
バーミヤン遺跡の調査で、ゾロアスター教徒のものとみられる古い墓地を
発見したと発表した。
三蔵法師として知られる玄奘(げんじょう)が7世紀に記した「大唐
西域記」には、太陽神を中心にすえたゾロアスター教がバーミヤンで
信仰されていたと記されており、文化財研では「今後の調査でゾロアスター
教徒のものと最終的に確認されれば、記述が裏付けられることになる」と
している。
調査では、タリバンに破壊された東大仏の東方の山の斜面で、数十の古い
墓地を初めて確認。そのうち東大仏から約1キロ東に離れたザルギャラーン
地区の墓地は、盗掘されていたものの、聞き取り調査の結果、人骨一式が
つぼに納められていたことがわかった。埋葬形態からゾロアスター教徒の
墓と推定されるという。
引用
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040707-00000315-yom-int
65 :
世界@名無史さん:04/07/10 23:30
仏教がゾロアスター教に滅ぼされたわけか。
66 :
世界@名無史さん:04/07/11 00:02
バーミヤンでは、慧超が訪れた720年頃も大乗・小乗の仏教が
栄えていた。バーミヤンの仏教が滅ぼされたのは、8世紀後半
アッバース朝の将軍ムザーヒム・ビン・ビスタームの遠征で。
ゾロアスター教と仏教は特に対立する要素はないし、ギルギット
あたりでも仲よく栄えていた。ゾロアスター教が仏教を滅ぼした
なんていう証拠や文献があるのか?
67 :
世界@名無史さん:04/07/11 00:03
どっちにしろ王玄策とはこれっぽっちも関係ないから
この話はこれで終わり
68 :
世界@名無史さん:04/07/16 23:56
田中芳樹 『中国武将列伝』 読んでみたけど、
ずいぶん王玄策を持ち上げてるんですね、この人。
そのわりには書いている内容に事実誤認が多い。
こんな状態でちゃんと小説書けたのかちょっと心配になっちゃいますね。
69 :
世界@名無史さん:04/07/16 23:56
まず上巻の「私撰中国歴代名将百人」なんですが、ここでは
> 彼はネパール王国まで行き、アムシュヴァルマン王に談判して
> 七千騎のネパール騎兵を借り受けるのだ。
と書いている。
『旧唐書』を見ても『新唐書』を見ても、王玄策が助けを求めたのは
吐蕃王のはず。当時ネパール(といってもカトマンドゥ盆地のみ)は
吐蕃の属国となっていたので、ネパール王は吐蕃の要請に応じて
援軍を派遣したわけ。
それに、当時のネパール王はアムシュヴァルマン(620ころ死去)では
なく、ナレンドラデーヴァ。
ナレンドラデーヴァはリッチャヴィ王家の内紛で20年近く吐蕃に亡命
していたが、640年頃、吐蕃の助けを借りてネパール王となった。
その後は8世紀初頃までは吐蕃の属国となっていたようだ。
王玄策への援軍もこういった経緯を考慮しないと意味が分からないはず。
李義表と王玄策は643年のインド遣使の際にもネパールを通過し、
ナレンドラデーヴァ王に厚遇されているが、所詮一見さん。
647年に王玄策の要請だけではインドへ派兵などしなかったろう。
70 :
世界@名無史さん:04/07/16 23:57
本編・注でも、
> アムシュヴァルマンから兵を借りて、
と誤認はそのまま。この辺は古い学説を鵜呑みにしてるのかもしれない。
中国人学者は海外の研究にとんでもなく無知のケースが多いから、
中国出版のネタ本だけに頼ってると大恥をかくことがある。
> ティラブックティを捕虜として
というのも誤り。ティラブクティはアルジュナの国の名前。
その後に出てくる
> 高宗時代の九五八年にも
は単純なミスか誤植。658年が正しいのはいうまでもない。
田中王玄策小説で文成公主はどういう描かれかたをするでしょうか?
72 :
世界@名無史さん:04/07/21 00:28
山口瑞鳳の研究を当たっていれば、640年にグンソン・グンツェンと結婚して
マンルン・マンツェンを生んだ後643年に死別。3年間の服喪を経て
646年にソンツェン・ガンポと再婚という話で進めるだろうけど・・・
それよりも、
「ソンツェン王と結婚したが、ネパール公主ティツンが嫉妬して邪魔したため、
王とは会うことすらできなかった」(『王統明示鏡』)
とか
「ガル・トンツェンとできてる、と噂された」(『マニカムブム』)
とかの方が小説にしやすそうだから、こういう下世話路線で行くかもね。
73 :
世界@名無史さん:04/07/21 00:28
文成公主は680年まで生きて(享年60歳くらい)、マンルン王在位中
(649-676)は王母として安定した地位にあったことは間違いないだろう。
ガル一族が進めていた対唐強硬策をなんとかしようと、母子で色々
画策したところを見ると(全然うまくいかなかったが)結構気丈な
女性だったことは窺える。
とはいえ、人柄を伝える資料は皆無といっていい状態だから、
フィクション上ではいくらでも好きなようにいじれる便利な存在。
74 :
世界@名無史さん:04/08/21 20:03
田中芳樹の本が出るまで一応保全しておくか
10月(?)までま〜たり保守。
76 :
世界@名無史さん:04/09/17 00:32:29
age
77 :
世界@名無史さん:04/09/17 17:16:56
78 :
世界@名無史さん:04/09/20 06:17:32
田中芳樹 『天竺熱風録』 (新潮社)10月20日発売おめでとうございま〜す!!
79 :
世界@名無史さん:04/09/21 13:04:49
↑ マ ジ ニ デ ル カ !?
世界史板に田中厨ってマジでいるんだな
つか自作自演?
10月20日まで保守。
10月22日発売だって。初版部数が少ないらしいのでお気をつけて。
83 :
世界@名無史さん:04/10/22 10:48:58
age
84 :
世界@名無史さん:04/10/22 11:28:45
昨日、書店で見た。
図書館に注文を出すつもり。
86 :
世界@名無史さん:04/11/03 11:42:32
アルジュナ捕縛後の北インドの王統ってどうなってるんだ?
田中小説に出てくる「地婆西那」はだいぶ後の王様だろう?
88 :
世界@名無史さん:04/11/18 03:22:02
>>88 バレたか……。某亭主です。
参加といっても大したこと言ってませんけど。
ここだけの話、このスレの書きこみはかなり参考にさせていただいてます。
自分なりに裏は取ってるつもりですけどね。
ということでお許しください。
90 :
世界@名無史さん:04/12/21 23:11:46
age
ほとんどレスなし、ってことは、
田中ファンには駄作、一般人にも凡作、批判のある人には
既存の批判以上のものはなし、ってことでいいかな?
チベット関係については、たぶん田中センセも山口瑞鳳は
当たったんだろうけど、悪文で有名な山口氏の著作内容を
理解できずにテキトーにごまかした、ってとこだろうな。
92 :
世界@名無史さん:05/01/17 23:57:11 0
age
93 :
世界@名無史さん:05/02/11 19:42:35 0
age
94 :
世界@名無史さん:05/03/02 22:10:44 0
だろうな
95 :
世界@名無史さん:05/03/08 13:46:38 0
このスレの禿樹厨ほとんど一人だろ
キモすぎ
97 :
世界@名無史さん:エジプト暦2329/04/01(金) 20:23:06 0
スペクタクル大作で映画にできそうじゃんか!
98 :
世界@名無史さん:2005/04/23(土) 01:29:23 0
age
99 :
世界@名無史さん:2005/05/17(火) 16:01:16 0
age
100 :
世界@名無史さん:
我把百獲得了!