【夏王朝】歴史の証明【伝説】

このエントリーをはてなブックマークに追加
777世界@名無史さん:2010/04/08(木) 23:27:37 0
ロロ人のことは、漢字で書かないでね。
音価自体は蔑称でないけど、「彝人」と書いてあげてください。
778世界@名無史さん:2010/05/11(火) 16:55:53 0
巴蜀文字の初期の文字はインダス文字に似ているらしいが、仮にそれが本当だとしたら
インダス文字が解読できれば巴蜀文字の初期が解読できるかもしれない。
雲をつかむような話だが。
779世界@名無史さん:2010/05/11(火) 18:58:26 0
夏商周断代工程の成果物は、いい日本語訳がなくて
Webサイトにころがっているのも誤訳だらけ。
元が学際的なプロジェクトなので、いろんな専門の人が集まって訳さないと難しいな。

氐、三苗、崑崙とかの用語説明があるはずだが、その部分を日本語に訳しきるには
言語とか民俗誌の背景がないと挫折してしまう。
780世界@名無史さん:2010/05/14(金) 20:40:56 0
>>775
鄒平県丁公遺址について記述発見!
山東龍山文化 2007.07.18更新
ttp://abc0120.net/words/abc2007031802.html
> また、横7pばかりの刻文陶片(H1235:2)が見つかり、文字(『出版ダイジェスト』 1993-9-30)の
> 可能性があります。鉢の平らな底の一部に、尖ったもので刻(『考古』1993-4) されています。
> 馮時氏は、彝族の文字(古彝文)(「山東丁公龍山時代文字解読」『考古』 1994-1)だとし、
> 解読しています。古彝族の文字とすることは、前述の、大汶口文化・山東龍山文化は、
> 中国東部黄河下流地区に居住していた東夷の部族の文化が発展して形成した、
> 相前後する二つの文化であることからして、充分に可能性が高く、現在異論は出ていません。

彝族=ロロ人
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E6%97%8F
> シナ・チベット語族のチベット・ビルマ語派ロロ・ビルマ語支に属する彝語を使用。ビルマ語と緊密な関係をもつ。
山東省にも西戎といわれる集団もいたということだな。東夷の一部には西戎と同じ系統のがいたということ?
いわゆる「古羌族=姜族」の一支族がいたっぽいね。
781世界@名無史さん:2010/05/15(土) 10:55:57 0
中国版邪馬台国っすか。
穴掘り教授達が運に恵まれることを祈るしかない。
782世界@名無史さん:2010/05/15(土) 22:49:14 0
トンデモ説だが、2700年前の遼寧省西部にいた山戎というのは、彝族の1系統かもしれんね。
その後、鮮卑の禿髪部とか宇文部になった者もいるであろう。
陝西の犬戎も、彝族の1系統である可能性が高い。
今いるロロ人の彝族も6系統ぐらいあって、多数の系統からなるミニ合衆国。
史書では、唐に朝貢していた烏番というのがそれの先祖で、何人もの通訳を用意して会議をしていたという。
もともとが遊牧民族の出なので、あちこちに散らばっていてもおかしくない。

そのロロ人は、ペルシャとも交易していた自称しているぐらいで、昔はかなりの移動力を持っていたと想定できる。
四川の涼山の古民家からは、ペルシャやスキタイ発祥の意匠がゴロゴロとでてきて、やはり交易していたのかと。

新羅の羅は、ロロ人の羅じゃないかというのは、トンデモ説でワロスワロス。
783世界@名無史さん:2010/05/17(月) 16:52:30 0
3500年前と同じ丁公陶文ロロ文字金文を持った銅鏡が
日本からザクザク出土してきたらこわいな
784世界@名無史さん:2010/05/21(金) 14:38:47 0
確かに甲骨文字や金石文から「夏」の文字は出てはいる。でも意味は
大きい人とかそんな意味であって夏王朝の事ではない。

変わりに殷甲骨文字に「杞侯」、「周来」、「斉」と言った諸侯の封じられた国の
名前が出てくる。特に「杞侯」は明らかに杞にいた諸侯を指している。
それも甲骨文字の初期に出ている。杞国が西周時代ではなく殷時代に存在したと言う事だ。
しかし、「夏侯」だの「禹王」だのは一切出てこない。「禹」の甲骨の意味は虫とかそんな意味で
王の名前ではない。
やはり夏の自称は杞だったのでしょう。
周は杞を夏と呼び、商を殷と呼んだ。杞を実情以上に強大な国に仕立て上げた上に商を貶める為に
西周が呼び名を変えたのだと思う。
785世界@名無史さん:2010/05/21(金) 15:38:06 0
>>783
日本で発見された青銅器が周王朝の時代の銅を溶かした物だという話も聞いたことがある。
そして、越族は倭族とも呼ばれる海洋民族で九州南部と春秋時代に行き来していたようでもある。
786世界@名無史さん:2010/05/21(金) 16:07:01 0
越族=倭族なんて初耳
百済を中継地点とした黄海勢力ならよく聞くのだが。。。
日本の古墳時代ならば大陸は東晋から南朝六朝になるので
「海洋民族」が史書にないのがとても奇異。
787786:2010/05/21(金) 16:26:18 0
次に春秋時代に関してだけど、青銅器はまだ九州には出現していない。
東周時期の史書に出てこない地域ということで、春秋時代の「海洋民族」は
福建とか広東のことでOK?
788世界@名無史さん:2010/05/21(金) 17:07:31 0
>>786
九州南部の隼人とか熊襲の事じゃないかな?越人が倭にやってきた説は・・・
789世界@名無史さん:2010/05/21(金) 17:09:25 0
とは言っても自分自身も眉唾な説だと思ったんだけどね、倭族=越族は・・・
なんか刺青しているのが似ているとか何とか。
790世界@名無史さん:2010/05/21(金) 18:41:06 0
>>787
南シナ海だと、台湾へ渡ってから琉球孤という進路があるけど、人数は多くないだろうね。
足掛りとして、台湾の阿里山側に一旦落ち着くだろう。
洪雅部族や邵部族・鄒部族の記録とか無いから残念だな。(実は鄒部族の口承で興味深いのがある。)

でも、間違って太魯閣側に上陸したら、泰雅部族や阿美部族がいるので生きて帰ってこないと思うけどw
791世界@名無史さん:2010/05/21(金) 21:03:55 0
周は商を必要以上に貶す為に殷と呼び
周は杞を必要以上に美化する為に夏と呼んだ

殷ってあんまりいい意味じゃないみたいだし、夏は「大きい・大きい人」と言う意味か。
周は自身を正当化するのが目的だったのだな。
周金石文でも殷は名前変えられただけじゃなくボロクソに叩かれているしね。
杞も再び封じているけど、先祖を夏と呼び実情以上のそんざいにしたて上げた。

理想国家夏を滅ぼした殷を滅ぼした周は素晴らしいとしたいのだな。
脚色されている周の甲骨文字よりも殷の甲骨文字、具体的には殷墟以前の甲骨文字の発見が待たれる。
殷墟の直前の都ってまだ判明してませんよね?いわゆる殷の中期に相当する遺跡が・・・・
今見つかっているのは殷末期の殷墟と殷初期の湯王の居た都とされる二里頭(多分これは夏ではなく殷の最初の都だと思う)や二里岡とか
だけで殷中期の遺跡がスッポリ抜けている気がする。
何とか発見できれば甲骨文字の原型が見つかると思う。そして、夏の正体も・・・
792世界@名無史さん:2010/05/21(金) 22:56:19 0
本当は19代目盤庚では無く22代目武丁が殷墟に遷都したのだろう。史記は1000年後の
資料なので間違いがあっても仕方が無い。
殷墟の直前の都をなんとしても発見してもらいたい。謎に包まれた殷中期を解明する為に。
殷初期と殷末期の都が判明しているのに殷中期の都が未発見なのが問題を複雑にしている
793世界@名無史さん:2010/05/23(日) 11:43:20 0
殷墟の直前の盤庚が遷都したとされる都らしきものは既に発見されているがまだ発掘は本格化していない模様。
どうやら相当規模が大きい模様。これで不明だった殷中期について何か分かるかもしれない。
本当に殷墟に遷都したのは武丁だろうね。何しろ武丁以前の遺物は甲骨文字に限らずほとんど発見されていない。
よって前々から盤庚の殷墟遷都説に疑惑が生じていた。

1、盤庚が真に遷都したとされる殷墟の直前の殷中期の遺跡の発掘
2、西周初期の「周公旦?墓」とされる遺跡の発掘
3、殷が滅んだ直後に末裔が封じられたと言われる宋の初代王とされる墓の発掘
ここまでが既に発見されている

1、西周時代の杞の遺跡の発見
2、殷時代の杞の遺跡の発見
3、桀王の逃亡先とその墓の発見
まだ発見されていないが杞の発見が夏の発見につながるであろう。
西周時代の杞と殷時代の杞の場所は当然違うだろうからまだまだ発掘のしがいがある。
794世界@名無史さん:2010/05/23(日) 14:52:16 0
殷時代の杞は殷寄りの諸侯なので一旦周により廃されて姒姓である一族の東楼公を
杞国の王に封じた。殷時代の杞国と西周時代の杞国は同じ姒姓で同族だが直系ではないし
おそらく都の場所も別なのだろう。
殷と殷の一族が封じられた宋も同じく直系じゃないのと同じこと。

ハッキリしているのは杞国が殷時代と西周時代とで分かれている事。杞国の王族は姒姓の持ち主である事。
彼ら杞国人が春秋時代の少し前あたりから夏人と呼ばれるようになった事。禹王の存在は殷時代や春秋以前の西周初期の時代には
全く見えない事。戦国時代になり夏、夏人、禹王の存在が突如クローズアップして様々な伝説が生まれた事。

795世界@名無史さん:2010/05/24(月) 09:54:49 0
二里頭文化は焼肉文化圏で殷は肉煮込み文化圏、杞の遺跡から焼肉文化が出てきたら二里頭は
杞と同列の文化である可能性が濃厚。
796世界@名無史さん:2010/05/24(月) 21:47:11 0
杞国のあった杞県は二里頭から割と近い位置にある。無関係とは思えない。
797世界@名無史さん:2010/05/27(木) 00:20:26 0
それから日本人がはまる罠として現地中国語発音と日本語発音の違いですね。

杞国の「杞」と夏王朝二代目啓の「啓」ですが。日本語だとそれぞれ杞=キ、啓=ケイと
発音しますが。中国語だと「杞」も「啓」も同音異義語でqi(キ、とかクィ)と発音するんです。
禹王はほぼ間違いなく神武天皇と同じく架空の存在でしょう。
二代目啓こそが真の初代帝王であると思われます。啓と杞が全く同じ発音なのも偶然ではないでしょう。
中国語の漢字は日本と違ってそんなに多くは同音異義語は無いんですからね。むしろ同音異義語の方が珍しいぐらいです。
啓と杞と言う文字は同じ意味をさしていたのではなかろうかと推測されるわけです。

798世界@名無史さん:2010/05/27(木) 08:44:29 0
>>796
杞は二里頭文化圏の範囲内に存在する。禹王が没したとされる会稽は二里頭文化圏から離れすぎている。
799世界@名無史さん:2010/05/27(木) 09:24:39 0
>>798 質問スレでこんなの見つけた。鹿とかのマーキングと同じで、2箇所ぐらいは勢力圏限界かな?

269 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2010/05/06(木) 02:27:58 0
 越の始祖である夏王朝初代の禹王の陵墓が会稽山にあるというが、あれは浙江省か
 良渚文化が洪水で滅んだ後、北上して黄河中流域に住み着いたのが夏人って説もあるらしいが
270 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2010/05/06(木) 02:33:56 0
 禹王の陵墓は複数あるらしいよ
272 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2010/05/06(木) 13:21:45 0
 >>269-270
 禹王陵は4つあるらしい。
       河南
 四川

          浙江
    湖南
800世界@名無史さん:2010/05/27(木) 15:09:32 0
1、杞侯の名が記されたのは殷時代が初めてで西周時代ではなくもっと古い
2、夏王朝の事が記されたのは西周初期が始めて
3、禹王の名が記されたのは春秋時代が始めてでこの時は洪水神の扱いで夏王朝とは関係が無い
4、禹王が夏王朝の始祖とされたのは戦国時代になってから、それまでは夏王朝と禹王は無関係だった

以上の事からも禹王と夏王朝(杞国)は元々は関係無かったが、戦国時代の諸侯が結びつけたと考えられる。
801世界@名無史さん:2010/05/27(木) 16:55:50 0
>>799
それ、検証してみた。

× 河南〜禹王台は、明代に造営された記録あり、漢代以前の記録が「偽書」の類にもない。
▲ 四川〜禹里は、禹王生誕の地とされる 四川大地震で瓦礫の下へ(いつの大地震か不明 1933か?2008か?)
◎ 浙江〜会稽は、禹王終焉の地とされる 漢代の大禹陵の記録があるらしい(出典不明 史記か?) 今の廟は清代のもの
○ 湖南〜衡山1000年前の宋代に消失した『禹碑辨』の巨石が最近でてきたという。レプリカが全国7箇所程度に置かれている。

どれも陵廟という扱いなので、古墳のようなものは存在しない。
鹿のマーキング論?からすると、四川と浙江のラインが基本テリトリーで、河南と湖南は勢力限界側かな?
後漢の河南省洛陽には、禹王信仰が無かった。湖南省も、宋代に何か文化工作をやったっぽい。

自分は、調べてみて、逆によくわからなくなってしまった。トホホだ。
802世界@名無史さん:2010/05/27(木) 18:17:37 0
ウーム、禹王と夏王朝は切り離して別物と考える方がよさそうな気がするな。
例え夏王朝の存在が証明されても禹王の実在を証明できるとはとても思えない。
邪馬台国の位置やその後の大和朝廷の誕生のいきさつが証明されても神武天皇の実在は
証明できないだろうし。
803寂しい唐揚げ:2010/05/31(月) 01:12:40 0
うおー、おまいら珍しく盛り上がってるなw

>800
西周初期に夏王朝の記述があったなんて初耳。
尚書?金文?最近研究文献から遠ざかってるんで教えて!

「禹は伝説だけど夏王朝は実在」って割と日本では常識だよね。
そこからすると、「元々無関係」ってのはストンと腑に落ちる感じ。

後は、史記の伝える系譜のどこまでが史実を反映しているかだよね。

太康の不格好な物語を読むと、これを捏造してもしょうがない気がするんで、
これは史実なのかなと思うんだけど。

啓の甘誓は…やっぱり作りものなのかな?と思うけど。
804世界@名無史さん:2010/05/31(月) 10:18:45 0
>>803
殷を滅ぼした時は夏じゃなくて杞と呼んでた。殷時代に杞は諸侯として甲骨文字に存在していた。
周が勝手に夏だの殷だの呼び始めてそれが定着した。
禹王=神武天皇(架空)、啓=祟神天皇(実質的な初代)と考えている。
三皇五帝=アマテラスとかイザナミ・イザナギ等の神話(神様の話だから実在はしない)

戦国時代の諸侯が神話の神であって人間ではない禹王と夏を無理やりくっつけてしまったんですね。
戦国時代の諸侯は自称黄帝の子孫を名乗ったりとにかく自身の系統を昔にさかのぼらせようと単なる神話上の神様を
実在した人間に仕立て上げてしまった。禹王だって南方の神様の話で夏とは全然関係なかったのに・・・・
だから禹王を切り離して考えないといけない。あと史記の言うような夏は存在しないかったが杞は存在した。
殷の前に杞と言う殷より大きな国が存在したが殷が他の国と力を合わせて打倒したってのが真実だろう。
杞は当時の黄河の諸国で一番大きい国だったと言うだけで後世に言われているような夏王朝と言うような強大な存在では
無かったと思う。曹操に敗れた袁紹とか、織田信長に敗れた今川義元とかみたいに天下を統一したわけじゃないけど
当時の最大勢力だったと言う感じで。小が大を飲み込む。国力に劣る殷が杞を打ち倒して杞の領土を得て殷は絶大な力を得て
割拠していた諸侯も全部平伏してしまったと。こんな感じじゃないかな?
袁紹や今川義元も大勢力で天下に一番近いと言われてたけど天下は取ってなかった。杞も同じく・・・・
805世界@名無史さん:2010/05/31(月) 10:22:41 0
禹は禹、夏王朝は夏王朝。別個の物として分けて考えるのが妥当。おそらく夏王朝の創世神話が
欠けていたかしょぼすぎたので禹と言う初代王を作り上げて夏を実情以上の存在に仕立て上げたのだろう。
中国は禹を実在の人物と考えているみたいだが神武天皇の実在を証明するぐらい難しい。
まあ不可能でしょうな。夏王朝らしき遺跡は見つかっているが禹の実在を証明できる遺跡は何も見つかっていない。
806世界@名無史さん:2010/06/11(金) 22:32:43 0
807世界@名無史さん:2010/06/23(水) 10:08:06 0
殷に敗れた桀は最初に後の三晋の一角である魏(例の竹書年間の出土地)の地に逃げたが湯に追われて長江下流の
良渚文化の地である巣まで逃げ込んでここで最期を遂げた。
巣は今の巣湖とされ巣湖には竜神伝説と湖に沈んだ大都会の神話が伝わっており実際に湖の中には大量の遺跡が存在する事が
判明し何らかの都市があったことが推測されている。二里頭文化圏から離れた巣の地まで逃げ込んだ事からここに夏王朝と繋がりの
深い勢力があって桀はかくまわれた物と思われる。
夏王朝は長江文明との関係が深いのではなかろうかと思われる。禹が没したとされる地も
桀が逃げ込んだ地にわりと誓い。禹はこの地方で信じられる神だったのではないかな。
808世界@名無史さん:2010/06/23(水) 10:14:34 0
二里頭文化圏の範囲内に魏と杞が存在するのが夏の範囲を物語っていると思う。
また二里頭文化圏は西方の勢力との結びつきが非常に強い。後の周や秦が興る地やその更に西の勢力と
関係が深いが東の勢力とはあまり関係が深くない。後の西域に当たるタリム盆地やフェルガナ盆地にも
人すんでいて夏と関係があったと推測される。夏は西と南の勢力と繋がっているようだ。
それに対して殷は東の勢力や北の勢力と繋がりが深い。
809世界@名無史さん:2010/06/23(水) 12:35:54 0
>807
大海嘯で良渚文化は滅んだのだ
二里頭文化のほうが良渚文化よりも後の時代なので
桀は水中に没したムー大陸のような良渚の都市でどうやって暮らすのだろう?

蘇東坡先生のような土木行政官が現れる前の浙江省は沼沢だらけの地........
810世界@名無史さん:2010/06/23(水) 15:07:23 0
>>809
なんでこんな所に逃げ込んだのかは不明。桀が逃げてきた時点で既に巣湖に大都会は沈んでいた。
まともな都市は無かったはずなんだがね貧しい村落があっただけと思われる。竹書紀年が出土した魏に夏の伝記が伝わっていたが桀が最初に逃げ込んだのが
まさに後に竹書紀年の出土した戦国時代の魏国の地。ここにもやはり夏と関係が深かった事実が見え隠れする。
811世界@名無史さん:2010/06/23(水) 21:31:34 0
荊州-咸寧-蕪湖-建業のベルト地帯は、孫呉あたりから再開発が始まる。
その直後の竹書紀年=晋期の3世紀というのがちと怪しい。
趙宋が湖南省衡山で、禹王で文化工作やったっぽい?のと似ている。謎w
812世界@名無史さん:2010/06/24(木) 01:13:26 0
>>795
>>809
東坡肉(トンポーロー)は、重慶や湖北の料理法(渝菜)を
蘇東坡先生が江南に持ち込み、杭州の名物となりました。
蘇東坡先生は、重慶(渝)の近所の出身だったみたいだ。
重慶火鍋は、後の時代に湖南省から入ってきたから、趙宋時代の渝菜は劇辛ではなかった。

火力が弱く水も少なくてもじっくり煮込むことにより、プルプルの角煮を作る今の形になりますた。
今では東坡肉は日本全国にも広がっているお。
813世界@名無史さん:2010/06/24(木) 09:46:49 0
春秋時代の呉は周人、越は夏人。しかし小国で発展はしていない。楚も秦も特に開発に
力を入れた形跡無し。
814世界@名無史さん:2010/06/24(木) 12:01:51 0
呉王や越王が中原や楚出身だとしても
《太平御覽》や《周禮》を読むと
呉越の多数派住人は王族と違っていたっぽい
815世界@名無史さん:2010/06/25(金) 01:04:45 P
黄帝と戦ったとされるシュウウはどこの文化圏の神だったんだろう。
816世界@名無史さん:2010/06/25(金) 10:30:21 0
いま蚩尤の廟があるのは湖南省だろう
武陵山に蚩尤の像がある
817世界@名無史さん:2010/06/25(金) 16:35:06 0
湖南人の祖先にはミャオ族がいる
818世界@名無史さん:2010/06/26(土) 00:59:19 0
生苗,熟苗
湖南の漢族は多分熟苗だな
819世界@名無史さん:2010/06/28(月) 10:31:49 0
中原西部に居たのが夏人で
東夷=殷人及び山東半島や遼東半島の半分農耕民の遊牧民(農耕と遊牧の両方を行う)
北狄=匈奴の前身である遊牧民
西戎=後に周人や秦人、犬戎となるカラスク文化をになう遊牧民
南蛮=楚人や巴人・蜀人、更には良渚文化のミャオ族も含める
820世界@名無史さん:2010/06/28(月) 10:42:45 0
百越(閩・粵)も南蛮だ
821世界@名無史さん:2010/06/28(月) 19:58:36 0
http://kohkosai.web.infoseek.co.jp/kaisetu/17-ka.htm
確かに二里頭から出土した刻印符号は甲骨文字に似ているように見える、写真が不鮮明すぎるのが難点だが。
二里頭は全部で4期に別れるらしいが
1期=龍山文化末期
2期=夏王朝前期〜羿・寒浞の簒奪時代
3期=夏王朝後期
4期=殷王朝
と言う感じではなかろうか。
今の所、二里頭からは王墓は見つかっておらず。庶民や豪族と思われる小規模な墓のみが発見されている。王墓は別の
場所に存在すると思われる。王墓が見つかって初めて夏王朝の実在が証明されるだろう。中国では今も二里頭遺跡の発掘は
続いているが遺跡の場所は畑なので春から秋にかけての時期は発掘調査が行えない為に冬の期間限定で発掘を行っているので
少しばかり効率が悪い。エジプトとかインドの遺跡みたいに乾燥地帯にあったら畑とか気にする必要が無かったんですけどね。
822世界@名無史さん:2010/06/28(月) 20:37:09 0
823世界@名無史さん:2010/06/28(月) 20:54:15 0
  ↑
孟獲の同盟者たち(笑)
824世界@名無史さん:2010/06/28(月) 23:15:27 0
 |__ __
 | ` く/  にゃあ〜
 |ノ人)〉  
 |゚ヮ゚イl  孟獲さまが
 ⊂)ノ||   孔明に捕えられちゃった・・・
 |/_|〉ノ
 |'ノ
825世界@名無史さん:2010/06/29(火) 22:34:19 0
二里頭は完全に麦畑で覆われている。夏人も後世の考古学者の事を考えて
砂漠地帯に町を作ればよかったのに・・・・
中々立ち退かせるわけにはいかないしな。

と言うのは冗談ですが、麦畑の人も生活かかっているから仕方ない。
冬に大急ぎで発掘して春になったら埋め戻してまた冬に発掘だから時間がかかって仕方が無い。
エジプトは砂漠だから年中掘り放題なのがいいね。
826世界@名無史さん
いっその事国で買い取ればいいのに…