漢魏の制度を語る

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694世界@名無史さん:05/02/27 19:44:22 0
当時、一般的な武器は銅剣だっけ?
それとも銅製の矛?
695世界@名無史さん:05/02/27 21:11:56 0
漢献帝(魏山陽公)は諸侯より上の席次で魏の臣下ではない扱いだった。
696世界@名無史さん:05/02/27 21:14:56 0
>>689-690
後周の恭帝じゃないのか?
本人は早世したが皇帝として葬られ、他の一族も宋朝一代にわたり厚遇されたしな。
697世界@名無史さん:05/02/28 09:42:42 0
後漢書とかに、「この年、○○県に鳳凰が飛来した」とか
立派な史書に突飛なことが書いてあることが多いんですが、これは政府の指示なんですか?
698世界@名無史さん:05/02/28 09:59:45 0
身分としての厚遇なら、陳留王になった元帝じゃない?
ただ晋があれだったんで、東晋になってからもただの貴族だったが。
699世界@名無史さん:05/02/28 11:09:55 O
>>697
地方からそういう報告があったから。
地方官の中央へのご機嫌取りか?
700世界@名無史さん:05/02/28 11:41:17 0
そんな虚構の報告をして、興味津々の若き皇帝が巡幸に来たら
どう責任とるつもりなんだろう?
701世界@名無史さん:05/02/28 12:39:22 0
宦官に賄賂をまいて皇帝を足止めすればいいんでは?
702世界@名無史さん:05/02/28 12:46:58 0
>>701
北朝鮮では今でもやっているが、、、
703世界@名無史さん:05/02/28 12:55:48 0
>>699-700
そういった吉兆は皇帝の徳の高さを表すものだから別に文句は言わんだろ。
704世界@名無史さん:05/02/28 15:58:57 0
いや、文句じゃなくて喜んでさ、↓みたいなことってないのかな?
皇帝「なに!?鳳凰が現れただと!?」
文官「ははっ、天も善政を評価している由にございます」
皇帝「すぐに見に行こう!仕度をせい!」
文官「……」
705世界@名無史さん:05/02/28 18:23:43 0
>704
まぁ、色々捏造はできるしね。クジャクの羽を鳳凰の羽だといったりとか。

ありがちなのが、真っ白な動物が出たという吉祥かな。
これは実際にアルビノと言って自然界に実在するものだし。
706世界@名無史さん:05/02/28 18:35:27 0
>>704
「これが陛下が来られるちょっと前まで七色に光っていた玉です。」
「あちらの方へ陛下が来られるちょっと前に鳳凰が飛んでいきました。」
707世界@名無史さん:05/02/28 18:58:20 0
>>706
ワラタ
708世界@名無史さん:05/02/28 21:45:15 0
当時の役所の面積って決まっていたんですか?
あと、首都の外で政務を行っていた中央組織はありますか?
709世界@名無史さん:05/03/01 10:12:11 0
「右庶長」ってそんなに偉かったんだ。
いつ頃か忘れたけど大庶長以下がカネで買えるようになってから下落したのかな。
710世界@名無史さん:05/03/01 12:37:54 0
皇帝の墓所を掘り出す、専門の役職があったそうですが
詳しい方いませんでしょうか?
当時から、墓所を発掘して古代の伝承を調べる習慣があったのでしょうか?
711世界@名無史さん:05/03/01 23:43:28 0
流れを読まずに、
『爵位制度の変遷』 新まで
 二四史&様々な本の劣化コピーの集合体ですが。
殷(商)
 卜辞などで復元されたところでは子・婦・侯・伯・甸・男・方・亜の8種類があったよ
うですが、後代の爵位と同じようなものなのかどうかは不明です。
 なお子は王子、婦は王の夫人、侯・伯は重臣(領地は辺境)、甸・男は農務官、方は外
様、亜は近郊の領主と言った感じらしいです。


 五等爵は実在せず、侯(尊称が公か?)・甸・男の3段階らしいです。伯・子は侯の一
族中の有力者の尊称らしく、爵位ではないらしいです。また男もそれ同様だとの説もある
模様です。また甸・男も官職のようで爵位とは違うようにも思えます。
 一方これとは別に君・卿・大夫・上士・中士・下士の六等の序列があったらしいです。これ
は孟子の説では天子・公侯伯子男の爵位に対する、禄位の序列のようです。

戦国時代
 王の下に君と称する領主が存在したようですが、君が爵称かどうかは不明です。
 また戦国策等に秦以外で関内侯等が見られるそうです。
 このことから秦以外の六国にも、秦のようになんらかの爵位制度はあったのでしょうが、
細かいことは良く分りません。

商君書等から推定される秦の爵
 侯・倫侯・大庶長・駟車庶長・大良造・少良造・右更・中更?・左更・右庶長・左庶長・
正卿・客卿(以上が卿で軍職は大将に相当)・五大夫(大将に相当)・公乗(二五百主)・
公大夫(五百主)・官大夫(将=百人長)・大夫(屯長=五十人長)以上が大夫・不更・
簪ジョウ(衣の冠と下の間に馬)・上造(以上が卒)・公士(校徒・操士)以上が士。
 倫とは何々のたぐいの意味で、関内侯に相当する模様です。
 左庶長以上は、本来全て大良造庶長等○○庶長(将軍)であったらしいです。
712世界@名無史さん:05/03/01 23:44:48 0
 この時代の爵は軍功(敵を殺す)により与えられるものであり、爵を持つと田宅を与え
られ、庶子(従者?)を抱えることを許され、任官資格が出来ました。
 また五大夫以上は税邑を与えられたようです。

楚漢抗争期
 史記には、楚の爵であるらしい七大夫(第七級の公大夫?)・国大夫・列大夫・執帛・
執圭・卿・○○君・○○侯等が見られます。
 実例として曹参は、七大夫→五大夫→執帛に封じ建成君と号す→戚公→執圭→建成侯に
封ず→列侯の爵を賜い平陽侯と称する、と変遷しています。
 樊カイ(口+會)は、国大夫(第六級?)→列大夫(第七級?)→上間爵→五大夫(第
九級)→卿→封を賜わって賢成君と号す→増封→列侯(臨武侯)→列侯(舞陽侯)
 レキ(麗+郡−君)商は、爵を賜り信成君→武成侯?→列侯(タク(シ+琢−王)侯)
→曲周侯
 夏侯嬰は、七大夫→五大夫→執帛→執圭→爵・封を賜り、転じて滕公→列侯(昭平侯)
汝陰侯
 灌嬰は、七大夫→執帛の爵を賜り宣陵君と号す→執圭の爵を賜り昌文君と号す→列侯(昌
文侯)→穎陰侯
 傅寛は、五大夫→卿→封地を賜い共徳君→通徳侯→陽陵侯
 キン(革+斤)キュウ(上が合+下が羽+欠)は、爵・封を賜り臨平君と号す→建武侯
→信武侯
 劉敬は、奉春君→関内侯(二千戸:建信侯)

 これらから序列は、国大夫→七大夫又は列大夫→上間爵→五大夫→卿→執帛(○○君)
→○公→執圭(○○君)→○○侯と推定しました。
 ちなみに最後の列侯・関内侯は劉邦の皇帝即位後の爵です。
 初期の大夫クラス等は実際の任命者は劉邦でしょうが、名目上は楚の懐王(懐帝)の任
命でしょうか?漢王即位後は自分で任命したのかも知れません。
713世界@名無史さん:05/03/01 23:46:14 0
前漢
 侯王・徹侯(列侯・通侯)・関内侯・大庶長・駟車庶長・大上造・少上造・右更・中更・
左更・右庶長・左庶長・五大夫(以上は原則的に六百石以上の官にのみ与えられる)・
公乗・公大夫・官大夫・大夫・不更・簪ジョウ(衣の冠と下の間に馬)・上造・公士
 この下に無爵(第零級爵)の士伍が有ります。
 公乗以下は一般庶民が与えられた爵です。また世襲は関内侯以上です。漢初は七大夫以
上は食邑があったのですが、おそらくこれは戦功ゆえの特例でしょう。
 二十等爵と称しますが侯王以下公士までで、二十一級有りますが、侯王と列侯を合わせ
て諸侯として一等に数えるのだそうです。
 個人的には漢代の爵の大分類は、諸侯・関内侯・大庶長〜五大夫の官爵・公乗以下の民
爵に四分されるのだと思っています。

 侯王は漢初以外は劉氏のみで、当初は数郡数十県に及び中央とほぼ同じ官僚機構を有し
ており、太傅と相国(後丞相)を除く官僚の任命権を有していました。
 しかし呉楚七国の乱の鎮圧後、丞相を相と改め、御史大夫・廷尉・宗正・博士を廃止、
大夫・謁者・郎・諸官長丞等も減員されています。この時重臣の内残ったのが内史・中尉
・郎中令・太僕のみで、残った官僚の任命権も剥奪され、王は単に租税収入を得るだけの
存在に成ったらしいです。
 元帝の時には諸侯王の相は太守の下位に定められました。
 更に相続の際に領地を割いて王子を王侯に封じて王国を細分化したり、金の上納制度の
際に品質に難癖をつけて取りつぶしたりといろいろ圧迫を加えています。

 列侯は封が有り、家臣として家丞・門大夫・洗馬・庶子・行人が有りました。後漢では
家丞・庶子のみ(千戸未満は庶子のみ)です。
 領地は特定地域と戸数を指定する形で与えられ、前漢末以降郷・亭程度の場合が多くな
るそうです。そして県が侯国になるか、県の一部に侯国が置かれると県全体が侯国に改ま
り、県の長官である令・長は相と称されます。この相は職務的には令・長と変らず、侯の
家臣ではありません。単に戸数相当分の租税が列侯の収入となるだけです。
 なお侯国が置かれたのは、原則的に王国内ではなく漢の直轄地だそうです。
714世界@名無史さん:05/03/01 23:47:18 0
 列侯は世襲でありますが、跡を継げるのは原則的に前侯の子供だけで、皇帝の特別な恩
寵に因るほかは孫や弟でさえ継げなかったそうです。
 これは平帝の時に、諸侯王・公・列侯・関内侯について、孫や兄弟の子で養子で有るも
のが居るときは襲封を許されることに改められました。王莽の人気取り政策でしょう。

 列侯は主に軍功による功臣侯、王子が封ぜられる王子侯(全ての王子が封じられたわけ
ではない)、外戚や丞相等が封じられた外戚恩沢侯が有ります。
 ちなみに列侯は元は徹侯と呼ばれていましたが、武帝の名を避けて列侯または通侯と呼
ばれるようになります。

 続漢書百官志列侯の条によると、奉朝請で長安在住の列侯は位三公に次ぎ、特進の位を
賜るものは車騎将軍に次ぎ、以下朝侯は五校尉、侍祠侯は大夫に次ぎ、その他は博士・議
郎の下にあると有り、列侯の中に序列が出来てきたようです。

 関内侯は、列侯と大庶長以下との中間に位置する爵です。関内侯から列侯に昇格したり、
逆に降格しても領地がそのままだったりすることもあり、列侯より領地の戸数が多いこと
もありますが、身分的には列侯と懸絶していたようです。
 逆に下位の爵とは世襲であること、通常は封邑が有ることで区別されています。
 宣帝・元帝が太子を立てたとき、御史大夫を関内侯に封じています。

 爵位の特権としては、五大夫以上は本人のみ傭役を免除されることが有ったらしい他、
爵を引き替えに罪を減免されました。
 この減免にも五大夫以上と公乗以下では取り扱いが異なったようです。また爵三十級を
集めれば死罪が免除になることがありました。
 最高位の諸侯でも二十級なのにどうするかというと、爵は一級単位で売買できるものだ
ったからです。

 なお五大夫以上は通常左庶長・右更等爵名を指定して与えられたのに対し、公乗以下は
通常爵○級(一級から三級)を与えるという形で与えられ、累積していくものだったよう
です。ただしどれだけ累積しても原則として公乗以上には上がれなかったようです。
 その為ある時期以降は、余った分の爵は兄弟や子供に分与することが出来るようになっ
たそうです。
715世界@名無史さん:05/03/01 23:48:55 0
 武功爵は武帝の時に軍費捻出のために作られた爵(一級十七万銭)だとされています。
下から造士(一級)・閑輿衛(二級)・良士(三級)・元戎(四級)・官首(五級)・秉鐸(六
級)・千夫(七級)・楽卿(八級)・執戎(九級)・政戻庶長(十級)・軍衛(十一級)
 第八級の楽卿までは購入可能(特例有り)で、五級の官首は見習官に、七級の千夫(第
九爵の五大夫に相当)は正式官に任用されます。
 他の特権としては、武功爵一級で罪二等を減免されることがあります。
 上は卿に任命されたとの記述から、実際には十二級以上が存在したのでは無いかとの説
があり、また約六十年後の宣帝期に武功爵の保持者が見えることから、一時的な売爵制度
に過ぎなかったのかとの疑問も有るようです。

 謎の爵位「長子爵一級」、筑摩版漢書武帝紀元光元年の条に「天下に赦を下し、民を長
子爵一級賜い……」と有り、注釈に「もと宗室の爵位第四等」とあります。これはなんな
んでしょうね?ひょっとして「民の長子に爵一級を賜い」の間違いでしょうか?原文を確
認しないとなんとも言えないか?

 武帝の時に周の後裔を周子南君に封じ、元帝が周承休侯に進めて諸侯王に継ぐ席次とし
たと各本紀に有ります。単に改称と判断したのか、周承休侯の方は外戚恩沢侯表に載って
ませんが。
 その後成帝は殷の子孫を捜し出して殷紹嘉侯とし、更に翌月周承休侯とともに公とし、
領地は方百里となっています。
 平帝の時には、周公(魯公の系統)を褒魯侯(周承休公との関係はどうなんでしょう
か?)、孔子の子孫を褒成侯に封じています。また同時に孔子を褒成宣尼公に追封してい
ます。この後孔子の子孫は、中断があるかもしれませんし爵は変化しますが、概ね清末に
至るまで爵位を継いでいくことになります。
 その後殷紹嘉公を宋公、周承休公を鄭公(王莽伝では衛公?)に改めてもいます。
716世界@名無史さん:05/03/01 23:50:03 0
 安漢公について、王莽の爵は新都侯のままであり、その後に号として安漢公が加えられ
たようです。また王莽の母が功顕君(二千戸)に封ぜられています。
 更に前漢末摂皇帝の時期に、列侯の内高いものを侯伯、それに次ぐものを子男、関内侯
を附城としています。その後三男安を新挙公、四男臨を褒新公にそれぞれ侯から進号、こ
れは公爵のようです。すると安漢公も爵になっていたと思われますが、どの時点で号とし
ての公が爵としての公になったのか不明です。
 なお宰衡となったときに、諸侯王の上位とされたようです。


 王莽は即位後、四男臨を皇太子にし、三男安を新嘉辟(辟は国君の意味)、長男宇の六
子を公に封じています。安が王でないのは、天に二王なしと言う思想のようです。
 ちなみに辟王は君主、辟公は諸侯の意味があるようです。

 家臣に対しては、重臣の四輔・三公・四将の十一公を全て公爵に封じています。この公爵
には功臣の他、占いで選んだ怪しげな連中も含まれています。これは建国時の特例のよ
うで、後任者は必ずしも公爵ではないようです
 また王氏一族を親疎の別よって侯伯子男に封じ、その娘を全て任(公女)としています。
 天に二王なしと言うことで、諸侯王を公とし、周辺諸国の王も、高句麗王を下句麗侯に
改めるなど、勝手に侯に改めています。
 また、漢の最後の皇太子を定安公に封じ賓としたほか、漢の諸侯王のうちには公に改め
られた実例もあります。その他、古代の天子等や孔子の末裔を公以下に封じ、州牧を男爵・郡守を附城に封じたりもしました。

 後に臨は後烈風の変事の際に符命に従い太子を廃され、統陽義王になり、更にその後に
王莽の暗殺を謀り自殺を強要されました。また同月、新遷王になっていた安は病死してい
ます。天に二王なしの建前はどうなったんでしょうか?
 これで王莽の嫡子は全員死亡したことになり、その為隠していた側室の子を安の名を借
りて公表し、公・任に封じています。
717世界@名無史さん:05/03/01 23:50:58 0
 九廟官制の功績で都匠仇延を邯鄲里附城に封じる記事もありました。これをみると附城
は里に封じられたのでしょうか?

 新では王及びそれに準ずると思われる辟はごく例外的な存在で、公が前漢の侯王に、侯
伯子男が列侯に、附城が関内侯に相当するようです。
 ちなみに公は方百里一万戸、侯・伯は方七十里五千戸、子・男は方五十里二千五百戸、
附城は最大で方三十里九百戸と言うの観念的な制度のようです。

 後漢以後についてはまた後日。
718世界@名無史さん:05/03/01 23:56:27 0
>>710
それは考古学的調査ではなくて、目的は金銀財宝狙いの墓荒しだと思われます。
曹操はそう言う専門の中朗将・校尉を設けたと言われていますが、
政敵による言いがかりらしいです。
もっとも墓荒らしの場合や偶然に見つけた場合に、発掘した墓について知的好奇心から
調査した例もあるようです。
719世界@名無史さん:05/03/01 23:59:56 0
周に五等爵がなかったってマジ?
では、色々な史書に子爵や伯爵として登場してきた春秋の諸侯の立場は?
カクや宗などの公国は、特別な待遇がされていたという伝承は?
楚が子爵に封じられた経緯は?
720719:05/03/02 00:00:33 0
宗→宋
721世界@名無史さん:05/03/02 03:02:47 0
五等爵位は都市国家の規模の大小の差。

しかし子爵は例外的に規格はずれであっても
異民族の君主は子爵までにしかなれなかった。
722世界@名無史さん:05/03/02 09:55:54 0
>>709
本来は庶長は将軍、大庶長は大将軍であったらしいです。
庶長は春秋時代にすでに軍将として見られ、原義は衆列の長の意味だとの説もあります。

>>710
袁紹が曹操を攻める時の檄文に発丘中郎将(墓堀中郎将)・摸金校尉(金探り校尉)を
置いて、梁王の墓を暴き金銀財宝を略奪したと非難されています。
多分墓暴き自体は本当でしょうが、専門官職を置いたは嘘でしょう。
723世界@名無史さん:05/03/02 11:54:23 0
春秋時代、許の国は男爵の国だったと書いてあるのですが
これもなかったって事ですか
724世界@名無史さん:05/03/02 14:03:17 0
西周の金文では公侯伯子男の五等爵及び卿・大夫は確認できないそうです。
いわゆる諸侯相当らしい○侯を△侯に封ずとか、◇侯に領地を与えるとかは有るようです。
また○伯と言うのも見られますが、これは王や侯の家臣であり、むしろ大夫クラスであるよ
うです。王から七伯とか三伯率いる民が○侯に与えられるとかそう言う形で登場。
かわりに侯・甸・男と連称する形で出てくるようです。


おそらく侯一本で、公は本来的には侯(だけでもないようですが)の尊称のようです。

公はおそらく、うちは一般の侯と核が違うと自称したもの、伯子男は逆に貶めて言われたも
のらしいです。
許男については、許侯の分家に許男家があり、あそこはその程度の存在だと貶めたもの
だと言う説もあるようです。子も同様。
春秋の爵位に揺らぎがある(宋子・宋公等)のはそのせいだとも考えられています。
無論単なる勘違い、書き違い、転写ミスの可能性も有りますが。

春秋時代になるとあるいは諸侯の称号に序列が出来たかの制は有りますが、少なくとも
西周の時期にきちんとした五等爵の制度がなかったことは事実のようです。
もちろんそれは西周の諸侯が対等だったことを意味はしませんが。
725世界@名無史さん:05/03/02 17:04:10 0
「長史」も「別駕」も州の刺史の補佐役というか副官みたいなものですよね?
なんで二つあるんですか?それともまったく同じ物の別名?
二つあるとしたら役割などはどう違うんでしょうか?
726世界@名無史さん:05/03/02 18:16:59 0
>>725
別駕、長史は本来別系統の官。
南北朝期だと思うが、別駕−治中という州官系統と長史−司馬という府官系統があった。
府官というのは都督府(将軍府かもしれん)の属官のことで、当時の刺史が都督を兼ねていたから。
多分隋だと思うが、州官、府官の2系統が1本化され、唐代には刺史−長史−司馬−録事参軍以下というようになった。
これは官吏の数を削減することと、州官が中央から任命される官ではなく、地方貴族の就く官だったため中央集権化を進めることを目的としたものと思う。
ただ、別駕だけは官職表を見てもまだ残っているが、やることは殆どなかった筈だ。
ここの学者並の皆さん間違ってたら指摘して。
727725:05/03/02 18:38:16 0
つまり刺史の下に州官系統の「別駕」と府官系統の「長史」が別々に存在したと?
その場合「別駕」と「長史」はどういう役割分担なんですか?

「録事」や「参軍事」は録事参軍とはどう違うんですか?
「司馬」の下なんですか?
728726:05/03/02 18:53:05 0
>>727
刺史兼都督で刺史の部下が州官、都督の部下が府官だから単純に考えれば州官は民政、府官は軍政ということになる。

「録事参軍」「諸司参軍」「参軍」「録事」全部存在する。
唐では上述の順番だ。「録事」は官ではなく吏だったかもしれん。
南北朝期が最も複雑だけど、オレも詳細は覚えていない。
宮崎市定著「九品官人法の研究」を読んでくれ。文庫版がでてるから。
729726:05/03/02 18:58:06 0
追記
「参軍」はその名前からも推測できるように都督府系統の官で司馬より下位。
730世界@名無史さん:05/03/02 19:27:57 0
ちょっとだけ付け加え、
別駕−治中という州官系統は漢の時代から存在。ただし漢魏のうちは百石以下の属僚に
すぎない。この属僚と言う性格は長く続き、南北朝時代を通じて刺史が任命できた。
ゆえに州官系統には官品がなく(中央任命でないから)、隋で廃止された。
唐で長史の上に別駕のみ復活、しかし別駕・長史・司馬共にすぐに冗官化した模様。
あげくに宋になると長年勤めた吏が貰える肩書きになったようだ。

長史−司馬という府官系統は、もともと三公の府や将軍府にあったもの。
南北朝時代では1人が将軍(等級を示すもの)・都督・刺史の3役を兼ねており、将軍・都督
の下に府官がいた。
なお最初は都督自体の府はなく、将軍府の参軍が増員されるだけだった。
また都督には格によって大都督・都督・監・督の別があった。

それと全ての刺史が都督を兼ねたわけではない、重要な州だけで、その他の刺史は軍政
上は都督の指揮下にあった。時代が時代なので事実上は部下。
731世界@名無史さん:05/03/02 20:05:06 0
この頃の石高って、今で言うとどの位の割高?
732世界@名無史さん:05/03/03 09:21:34 0
石(セキ)は本来重さの単位で120斤(約30グラム)
しかし早くから容積の単位として使われるようになり、その場合コク(角+斗)=約20リットル
に等しい。
官秩の石は最初は実際の棒級を示していたらしいが、漢の時代では単に等級を示すもの
になっている。

ちなみに後漢の棒級を穀物立て(実際の支給は銭と混ざる)で示すと、
公(万石)丞相・大将軍        月350石(本来はコクだが石で表現)=年4200石
中二千石 いわゆる九卿       月180石=年2160石
二千石 准九卿クラス・校尉・太守 月120石=年1440石
比二千石 郡都尉等          月100石=年1200石
千石 御史中丞等           月90石=年1080石
比千石 太中大夫等          月80石=年960石
六百石 尚書等             月70石=年840石     
比六百石 中郎等           月60石=年720石
四百石                  月50石=年600石 
比四百石 侍郎等           月45石=年540石  
三百石                  月40石=年480石
比三百石 郎中等           月37石=年444石
二百石                  月30石=年360石
比二百石                 月27石=年324石
百石 郡の属僚の最上層       月16石=年192石
斗食                    月11石=年132石
佐史                    月8石=年96石           
733世界@名無史さん:05/03/03 10:14:48 0
かなり恣意的に解釈すると、中二千石=大臣級、二千石=副大臣・県知事級、比二千石
=次官級、千石〜六百石=局長・市長・副知事級、四百〜三百石=局次長・部長・町村
長・市助役級、二百石=町村助役級、百石=県課長級、くらいだろうか?
734世界@名無史さん:05/03/03 10:45:52 0
大将軍・丞相は月に米7000ℓ分の給料を貰っていたのか。
これは凄いな。

古代中国の報酬は金の混じった米で支払われていたってことだよね?
米問屋(あるいは穀問屋)みたいなのはなかったのかな?
735世界@名無史さん:05/03/03 12:03:30 0
漢代には有価証券取引法に該当する法律が既にあったって聞いたけどマジ?
どんな法律ですか?
736世界@名無史さん:05/03/03 16:33:43 0
校徒・操士って何する役目?操士は運転手のような気がするけど。
737世界@名無史さん:05/03/03 19:20:26 0
大漢和辞典からメモしたノートだと、兵卒(秦)としか書いてなかった。
それだと上造以上の卒となにが違うのかよくわからない。
738世界@名無史さん:05/03/03 19:23:47 0
後漢当時の、戦車・武器・甲冑が見れるサイトとかってありますか?
無論発掘品のやつを
739世界@名無史さん:05/03/03 19:26:02 0
『爵位制度の変遷』 後漢以後
後漢
 基本的には復古主義で前漢の制度を受け継いでいるわけですが、実態に合わせて列侯が
県侯・郷侯・亭侯に分化した模様です。
 また後漢書ケ禹伝の章懐太子注に引かれた漢官儀では、列侯の序列が三公の下が特進・
九卿の下が朝侯・以下侍祠侯・下士小国侯となっています。
 なお二十等爵の大枠は変化が無く、民に爵を授けることも引き続き行われています。

 諸侯王・長公主は金印赤綬、公・侯・公主・封君(女性)は金印紫綬です。

 漢末の曹操の部下の中に都郷侯・都亭侯が多く見られます。そのうちに都亭侯から、○
○亭侯に成ったものが見られ、一般の郷侯・亭侯より格下だったのでしょうか?
 都亭侯は有る連名の上表文に二名が見られることがあり、一時期に複数存在することが
あるようです。多分都郷侯も同様でしょう。

 ちょっと面白いのは、劉備・関羽・張飛が漢から与えられた爵がそろって亭侯だったこ
とです。なお劉備は、諸臣の推挙で漢中王に即位した時に亭侯の印綬を返還しています。

 一方呉の始祖である孫堅は烏程侯に封じられ、嫡子孫策は袁術と袂を分った後に曹操の
推挙で呉侯に封じられました。その弟で後の呉の大帝孫権は建安五年の兄孫策の死後に跡
を継いでいますが、呉侯の爵位は孫策の子息が継いだようです。孫権自身は建安二十四年
にようやく、南昌侯に封じられたようです。
 なお三国志孫策伝に引く魏書によると、孫策は父孫堅の爵を継いで侯と成るはずだった
が、弟の孫匡に譲ったそうです。そんなことが出来たのでしょうか?また同伝に引く江表
伝によると、呉侯に改封となっており、これだと父の爵を継いでいたように思えます。
740世界@名無史さん:05/03/03 19:27:58 0
 三国志武帝紀に引く魏書によると、戦功を賞するために名号侯(十八級)・関中侯(十
七級:以上二級は金印紫綬)・関内侯・関外侯(十六級:銅印亀紐墨綬)・五大夫(十五
級:銅印環紐墨綬)が後漢末に置かれ、従来の列侯・関内侯と合わせて六級になったそう
です。またこの時に大庶長以下左庶長までは廃止になったようです。
 なお、名号侯以下は租税を与えられることはなかったようです。
 爵級が飛んでいるようですが、五大夫以上の官爵は公乗以下の民爵とは異なり、一級ず
つ積み上げていくようなものではなかったので、問題なかったのでしょう。
 もともとほとんど実例が見られない爵も有ったようです。

 曹操はまず費亭侯、続いて武平侯に進み、赤壁の敗戦後封邑三万戸の内二万戸を返上、
しかし内一万五千戸を持って曹植等3名の子を各々五千戸の侯に封じられています。
 さらに建安十八年十郡を持って魏公に封じられ、その後年内に魏国に丞相・御史大夫・
尚書・侍中・六卿を設けました。
 翌十九年魏公の位を諸侯王の上に置き金璽赤綬を授け、更に翌二十年、独断で諸侯・太
守・国相を任じる権限を与えられています。
 そしてついに翌二十一年魏王に封じられました。ちなみにその時の詔では、魏公に封じ
たことを上公に封じたと表現されています。六卿が九卿になったのは王国になってからの
ようです。なお嫡子曹丕が魏王太子とされたのは翌二十二年です。

 二十五年曹操の死に伴い太子曹丕が魏王に即位、同年(延康元年に改元)子である後の
明帝が武徳侯に封じられました。
 なお曹操・曹丕の子は漢朝で概ね列侯(県郷亭)に封じられているようです。


 文帝紀によると、漢魏交代後に前帝を昌邑王に比して山陽公(一万戸)に封じ、位は諸侯
王の上、漢の正朔を行い、上書で臣と称さず、等の特権が与えられました。なお山陽公
の四子を列侯、漢の諸侯王を崇徳侯に、列侯を関中侯に封じました。
 同時に民に爵一級、父の跡継や孝行者等に爵二級を与えています。また明帝も数次に渡
り民に爵二級を与えていますので、魏にも公乗以下の爵はまだ存在していたようです。
741世界@名無史さん:05/03/03 19:29:26 0
 なお崇徳侯とは列侯のうちに含まれるものなのか、あるいは列侯より下位の特別な侯な
のかはよくわかりません。
 ちなみに山陽公が明帝の時に死亡すると嫡孫桂氏郷公が跡を継ぎ、魏一代はもちろん西
晋の時代も受け継がれて、献帝の玄孫の代に五胡十六国の混乱で跡が絶えたそうです。

 同じく文帝紀によると、文帝は即位後に諸君弟を王に封じ、封王(初代王)の庶子を郷
公、嗣王の庶子を亭侯、公の庶子を亭伯とする制度を定めたそうです。
 宗室には公侯伯子男の五等爵があり、臣下は県侯・郷侯・亭侯の散侯のみとの説をどこ
かで見たことがありますが、子・男が実在したのか不明です。

 また文帝は黄色初二年、後嗣絶えていたの孔子の子孫褒成侯に代り孔子の祭祀を継続さ
せる為に、議郎孔羨を宗聖侯(百戸)に封じています。
 同年孫権を呉王に封じ九錫を加えています。更に孫権の長子孫登を万戸侯に封じようと
しましたが、これは呉側で病弱と言うことで断わっています。おそらく、子供の代に臣従
関係を持ち込みたくなかったからだと思います。
 第四代皇帝斉王は廃位後邵陵県公に封じられ四十三歳で死亡。
 第五代高貴郷公の時、亡命してきた呉の一族を呉侯に封じました。

 三国志の皇子の伝をみるとは○○公、○○県王、○○郷公、○○王等が見られます。ま
た后妃伝には、○○君・○○郷君(ともに女性の爵)、○○県公、○○郷公、国侯(郡侯?)
等の外戚用と思われるの爵位がみられます。もっとも亭侯程度の場合も有ったようです。
 県王は、王が多すぎて領地が足りないと言うことで、一時期文帝が王全てを改めたもの
のようです。しかし元々漢で言えば列侯程度の領邑しか無かったわけで、精神的な節約宣
言みたいなものでしょうか?
 そう言うわけで県王・県公が独立した爵称として有ったのかどうかは不明です。
742世界@名無史さん:05/03/03 19:30:47 0
 蜀の後主劉禅が安楽県公(一万戸)に封じられたのは有名ですが、子孫の多くが侯に封
じられ、劉禅の弟と別の弟の跡継は郷侯に、一部重臣も列侯に封じられています。
 遼東の公孫氏は平郭侯(最初は漢代の襄平侯)、続いて楽浪公に封じられています。
 同様に漢中に独立政権を建てていた張魯も、降伏後ロウ(門の中に良)中侯(一万戸)
に封ぜられ、五人の子供全員と一部重臣も列侯に封じられています。

 文帝曹丕と後継者争いしたという弟曹植の護衛兵は老人と子供だけで二百人とか言うの
は極端にしても、一般的に魏の王は警戒されて窮屈な生活だったようです。領地も前漢の
列侯程度のようです。

 武帝曹操・文帝の諸子は文帝即位後しばらく後に○○公(郡公?)、更に後黄初三年に
王(郡王?)に封ぜられています。燕王等の国号の王は特別な存在だったのだと思います。
 ちなみに明帝は黄色二年斉公、同三年平原王になっています。

 王は最大で一万戸(初期のみの例外か?)、ほとんどは五千戸以下で千戸に満たない場
合(それも数度の加増を受けた上で)もありました。
 県侯は司馬氏を除いても一万戸以上(小は数百戸)も有り、郷侯でも数千戸(小は三百
戸)に及ぶものもあり、亭侯でも八百戸程度(小は百戸)も有ります。
 これだけ見ると、名前のみ王で実質は侯ですね。

 諸侯の封邑を割いて、子弟甥従兄弟等を亭侯・関内侯に封ずることが度々行われていま
す。この場合は亭名は記載されていませんが、爵名が無かったのか、編集上記載しないこ
とに成っていたのか不明です。
 この場合の関内侯は、百戸が多い(最大四百戸)ようです。

 列伝を見ると魏では「皇帝が即位すると侯に封じられたと」の表現が多数見られ、文字
通り解釈すると、戦功をあげた場合の他、即位をきっかけに封爵・進爵することもあった
ように思われます。

 司空崔林が安陽亭侯に封じられたのが先例になって、魏においては三公が列侯に封じら
れることが慣例になったようです。
743世界@名無史さん
 列伝では関内侯→亭侯→郷侯→○○侯(県侯)と言う例が多く見られます。
 名号侯以下については、まず廃帝斉王の時期に敵に捕まりながら説を曲げずに殺された
兵卒二名が関中侯に封じられ兵戸から解放された例があります。
 また劉放伝によると魏国の秘書郎となった劉放と孫資は、文帝即位後に各々中書監・中
書令となり、関内侯・関中侯に封じられました。その後そろって亭侯・関内侯、続いて郷
侯・亭侯にと昇進しています。この劉放が一段上にある雁行の形は最後まで続き、最終的
に封邑は千百戸と千戸になりました。
 ただ名号侯・関外侯・五大夫は列伝には例がないようです。

 以上から推定される魏の爵位は、宗室用が王(郡王?)・県王?・公(郡公?)・県公?
・郷公・亭侯・亭伯となり、臣下用が県公?・郡侯?・列侯(県侯?)・郷侯・亭侯、以
上がいわゆる諸侯(二十級)です。
 その下にあるのが、関内侯(十九級)・名号侯(十八級)・関中侯(十七級)・関内侯・
関外侯(十六級)・五大夫(十五級)、とここまでが官爵で、更にその下には漢同様に公
乗(八級)以下の民爵八級が存在していたようです。
 ただ宗室の亭侯と臣下の亭侯との関係はよくわかりません。
 なお魏では爵を官品になぞらえることはまだ無かったようです。

 第二案、諸侯(二十級)・関内侯(十九級)・名号侯の関中侯=関中名号侯(十八級)・
関内名号侯(十七級)・関外名号侯(十六級)・五大夫(十五級)、つまり名号侯とは十八
〜十六級の関中・関内・関外侯の総称と言う考え方です。
 または第三案として、諸侯(二十級)・関内侯(十九級)名号侯(十八級)・関中侯(十
七級)・関外侯(十六級)・五大夫(十五級)だったのかもしれません。

 これは宋書の礼志では、亭侯・関内侯・関中名号侯・関外侯と言う記載順に成っている
こと、関中侯・関外侯が同じ十六級であることがやや不審であること、関内侯が十九級と
十六級でだぶっていることの三点からの推定です。なお十六級の方の関内侯は転記ミスの
ダブリだという説も有り、それに従うと第三案が正答になります。三国志に関中侯の例は
見られるのに、名号侯は実例がないのがやや不審ですが。
 ちなみに晋の官品では、亭侯の下には関内侯・関外侯しか見えないらしいです。