643 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/09/27(火) 00:37:32 0
>>638 劉邦が范氏の子孫だという説は「漢書」の「高帝紀」の末尾の賛にちゃんと書いてありますよ。
劉氏出自祁姓.帝堯陶唐氏子孫生子有文在手曰:「劉累」,因以為名.能擾龍,事夏為御龍氏,
在商為豕韋氏,在周封為杜伯,亦稱唐杜氏.至宣王,滅其國.其子隰叔奔晉為士師,生士_.
_生成伯缺,缺生士會.會適秦,歸晉,有子留於秦,自為劉氏.生明,明生遠,遠生陽,十世孫,
戰國時獲於魏,遂為魏大夫.秦滅魏,徙大梁,生清,徙居沛.生仁,號豐公.生_,字執嘉.
生四子:伯、仲、邦、交.邦,漢高祖也
645 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/09/27(火) 16:38:04 0
>>644はソースを示していませんが多分「帝王世記」でしょう。誤解があるといけないので
「高帝紀」の賛を書下しておきましょう。
贊に曰く:春秋の晉の史なる蔡墨に言有り(「左傳」昭公二十九年)、陶唐氏の既に衰ふるや
其の後に劉累有り、龍を擾(な)らすことを學び孔甲に事ふ、范氏は其の後也、而して大夫の
范宣子(士匃)も亦た曰く「祖は虞より以上は陶唐氏と爲し、夏に在りては御龍氏と爲し、
商に在りては豕韋氏と爲し、周に在りては唐杜氏と爲す、晉の夏の盟を主るや范氏と爲す」と、
范氏は晉の士師と爲り、魯の文公の世に秦に奔り、後に晉に歸る、其の(秦に)處(とどま)る
者を劉氏と爲す、劉向は云く「戰國の時に劉氏は秦より魏に獲(とらへ)られ、秦の魏を滅ぼすや
大梁に遷り豐に都す、故に周市は雍齒に説きて『豐は故は梁より徙れる也』と曰へり、是を
以て高祖を頌して云く:漢帝の本系は唐帝に出自す、降りて周に及び、秦に在りて劉と作 り、
魏に渉りて東し遂に豐公と爲る」と、豐公は蓋し太上皇の父なり、其の遷りてより日淺く、
墳墓の豐に在るもの鮮し焉、高祖の即位するに及び祠祀の官を置き、則はち秦・晉・梁・荊の巫
有り世よに天地を祠り、之を綴して以て祀る、豈に信ならず哉、是に由りて之を推すに漢は堯の
運を承けて、コ祚は已に盛にして、蛇を斷ちて符を著はし、旗幟は赤を上(たっと)び、火コに
協ふは自然の應にして天統を得たり矣、
646 :
世界@名無史さん:2005/09/27(火) 20:38:29 0
漢高祖が范氏の子孫だとすればまぎれもなく貴族の子孫ということになる。
単なる富農出身だという従来の学説を覆すな。
ちなみに朱元璋は一時期、朱子学の朱熹を先祖に置こうとしたが
断念したらしい。
648 :
世界@名無史さん:2005/09/27(火) 20:41:06 0
晋の正卿だからな范氏は。日本でいえば付け家老というところか。
姫姓の劉氏と婚姻していたというから子爵相当なのだろうか。
649 :
世界@名無史さん:2005/09/27(火) 22:55:24 O
貴族の子孫と単なる富農は矛盾しないよ。
先祖は貴族だけどどこかで農民になったんだろ
江戸時代の大名の家老の子孫だからって現代でも経済的政治的に重要な地位にいるとは限らない。
650 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/09/27(火) 23:10:51 0
但し漢室が帝堯の後裔という説は漢が火徳の運を承けたとする主張を強化するための
工作という疑念は残りますので、范氏の子孫というのが果たして歴史的真実か否かは
断定できない所です。
651 :
世界@名無史さん:2005/09/28(水) 08:04:07 0
>>644 によると劉邦の父が劉タン(執嘉)その父が劉仁(豊公)その父が劉清その親父が魏の大夫でその十世の祖が劉陽でその父が劉遠でその父が劉明でその祖父が士会。
ということか。
ソース激しくきぼー
652 :
世界@名無史さん:2005/09/29(木) 20:34:11 0
当時の中国は激しい階級社会だからそれなりの出自じゃないと人はついてこない。
653 :
世界@名無史さん:2005/09/29(木) 20:37:05 O
陳勝も?
654 :
世界@名無史さん:2005/09/29(木) 20:43:30 0
陳勝は舜の子孫
655 :
世界@名無史さん:2005/09/29(木) 20:46:38 0
劉,最早的兩個來源,一是出自堯帝,堯帝尹祁氏,其後裔封於劉,得姓。劉姓後裔在周時姓杜。周宣王時,殺大夫杜伯,杜伯後裔逃往晉國,官拜士師,遂姓士,後代士會曾歸秦,他在秦國的後裔復姓劉,即祁姓之劉。
其二,周匡王少子封劉邑(河南偃師),其後裔為姬姓之劉。劉邦就很可能出自這支劉姓。
656 :
世界@名無史さん:2005/09/29(木) 20:50:20 0
以邑為氏,據《元和姓纂》及《通誌.氏族略》載,帝堯裔孫劉累之後,在周為唐杜氏,遷於杜邑(陜西西安東南),時稱杜伯。周宣王殺杜伯,其子逃奔晉國擔任士師。曾孫士會。食邑於范邑(河南范縣),世稱范武子,子孫逐有范氏。
657 :
世界@名無史さん:2005/09/30(金) 17:43:07 0
晋の正卿ってたらすごいよな。日本で比較するときぱっと尾張藩の付け家老を思い起こすが、春秋時代当時の晋は尾張よりはるかに(相対的に)強力だったし。
じっさい6つある正卿のうち、3つは後に天子から侯爵に叙されてるしなあ。
658 :
世界@名無史さん:2005/09/30(金) 17:49:56 0
周の制度で日本の家老にあたるのは大夫。
正卿は天子みずから叙するので上。晋のような大国にしか存在しなかった。
660 :
世界@名無史さん:2005/10/03(月) 18:33:30 0
劉邦って魏と縁が深いのか・・道理で魏がひいきなわけだ。
661 :
世界@名無史さん:2005/10/03(月) 18:59:23 0
劉邦は漢民族だろうけど朱元璋当時の中原住民も同じ漢民族と言えるのかな?
著しく混血が進んだようだけど。
漢文化の中で育っていれば漢民族でしょう
隋、唐だってまぎれもない漢民族王朝だよ
血だけみて異民族王朝っていうのは、それこそ乱暴だ
664 :
世界@名無史さん:2005/10/07(金) 23:46:56 0
帝堯陶唐氏→劉累→御龍氏→豕韋氏→杜伯(亦稱唐杜氏)→杜隰叔→士_→ 士缺→士會→劉氏→
劉明→劉遠→劉陽→(十世)→ 魏大夫劉某→劉清→劉仁(豐公)→劉端(太上皇執嘉)→
劉邦(漢高祖)→ 劉恒(文帝)→劉啓(景帝)→劉発(長沙定王)→ 劉買(春陵節侯)→劉外(鬱林太守)
→劉回(鉅鹿都尉)→劉欽(南頓令)→劉秀(光武帝)→劉荘(明帝)→劉タツ(章帝)
>>661 横槍を入れてすまんが、個人的には劉邦が漢民族っていう表現には違和感があるな。
漢の統一以降生まれた人間に使うならまだいいんだが。
666 :
世界@名無史さん:2005/10/31(月) 22:00:09 0
だったら劉邦は何民族つーわけ?
667 :
世界@名無史さん:2005/10/31(月) 22:27:05 0
劉邦が生きていた時代に漢族と言う概念はない。
漢族と言う概念は近代に作られたものだから、
近代以前のシナ大陸人に漢族と言う表現が当てはまるとは思わない。
それに当時は民族と言う概念自体、ないのではないか?
民族と言う概念は世界が繋がり始めて作られたものだと思うから。
当時の世界は地域的なもので小さいものだった。
668 :
世界@名無史さん:2005/10/31(月) 22:30:37 0
民族と言う概念がない時代の人物に対して、
何民族か区分しようとするのはできないのではないか?
669 :
世界@名無史さん:2005/11/05(土) 19:35:40 0
劉邦はすごいね
670 :
世界@名無史さん:2005/12/09(金) 12:46:16 0
朱元璋って貧農の出身だしそんなに学があるとは思えないんだが
郭子興の部下になって速攻嫁までもらえるぐらい手柄上げてるのって
何でできたんだろう?
671 :
世界@名無史さん:2005/12/10(土) 09:01:43 0
正直朱元璋にとっては劉基達も無学な彼が学を得るためだけの道具に過ぎなかったのかも
劉邦と違う点は彼自身が優秀過ぎたということ
猜疑心から部下を殺したというけど俺としてはある意味予定調和だったんじゃないかなあと
672 :
世界@名無史さん:2005/12/12(月) 20:26:09 0
朱元璋の場合、天性の才能+幼少から培われた富裕層(知識人も含まれる)
への憎悪が大きく関係していると思う。
それと皇帝独裁権の確保という名目での功臣粛清も出身地などから
派閥作って横暴を極め始めた臣下側にも責任はあっただろう。
とりあえず民族という概念自体が実はいい加減な作りをしていると気付くべきだよな。
何故かは自分で調べろ。
675 :
世界@名無史さん:2005/12/13(火) 01:25:43 0
朱元璋は英雄としても暴君としても超A級のすげー面白い人物なのになぁ。
現地で人気イマイチなのが納得いかん。
中国では聖人君子しか受けないのかね?
最近のメッキを半分剥がされた毛沢東の人気の無さなんかもそう思う。
あまりにアクが強過ぎて政府が扱いかねてるんじゃないかね
677 :
世界@名無史さん:2005/12/13(火) 21:45:18 0
明史とか見ると朱元璋強すぎだろって感じがする
ほとんど負けらしい負けないし軍事においても内政においても超優秀
確かに部下いらねーよ
>>672 元々派閥自体朱元璋が恩賞を出身地ごとに偏らせたからできたんじゃねーの?
陳友諒とか思いっきり噛ませ犬
>>677 まあ、あんだけ強くなければ最下層から這い上がることなんてできないだろうしね。
農民だった紅巾軍に参加してから元滅ぼすまでわずか十六年
ここまで急激に成り上がった例って他にあるのか?
劉秀が父親が県令という程度の身分から挙兵して即位するまで3年、天下統一まで14年。
奴隷身分だと石勒だけど、八王の乱で奴隷から山賊になり、趙王になるまでが約20年、
帝位につくまでが約30年。
県令は大分アドバンテージがあると思う。
劉氏だったから割と歓迎されてたようだしね当時の風潮は
普通に劉邦の方が早いと思うけど>挙兵から即位まで
劉邦はBC.209に挙兵してBC.206に漢中王。BC.202に皇帝即位。7〜8年ですな。
685 :
世界@名無史さん:2005/12/20(火) 12:03:52 0
漢字、漢語、漢民族、漢化。。。
もともと「漢」なんてのは辺境の地名だったのに、漢王朝成立以降は
漢≒中国みたいな使われ方をしている。
中国の基本的な骨格を完成させたという意味で、史上、漢の存在は相当インパクトが大きいのでは?
(先代の秦も画期的だったけどあまりにも短命だし、殷周は時代が古すぎて伝説的要素が大きく、支配領域も狭い)
そういう一時代を画す大王朝の創始者が、「いつも武ばあさんと王ばあさんの酒屋で飲んでいた」
なんて史書に書かれるほど庶民的な男で、粗暴で好色で貴人の相のかけらもなかった俗物なのに、
いつのまにか皇帝になってしまうというサクセスストーリー、部下たちも個性的で名脇役揃い
という点で、劉邦は人気があるのかも。
あと、三国志演義で培われた庶民の劉備贔屓が、漢王朝や劉氏への親近感に影響しているかも。
686 :
世界@名無史さん:2005/12/20(火) 12:15:27 0
しかもツケで飲ませてもらって、結局チャラにしてもらってた>劉邦
687 :
世界@名無史さん:2005/12/20(火) 17:29:21 0
劉邦が飲みにくると、自然とその友人知人が集まって繁盛するから
大目に見たんでしょ。
それとも皇帝になった後でツケを払ったかも。
688 :
世界@名無史さん:2005/12/20(火) 18:13:56 0
>皇帝になった後でツケを払ったかも。
とんでもない額を受け取っていそうだな
689 :
世界@名無史さん:2005/12/20(火) 18:59:12 0
韓信も楚王になった時に昔、飯恵んでくれた婆さんに千金あげたから
あり得る話だな。
>>675 毛沢東の偶像が落ちているのか?
大衆レベルではそこそこあったと聞くが。
691 :
世界@名無史さん:2005/12/20(火) 19:27:48 0
毛沢東の話題はスレ違い。他所でどうぞ。
692 :
世界@名無史さん: