〔元アウシュヴィッツ強制収容所長ルドルフ・ヘスの手記〕
〔Bunker は「倉庫」と訳されている〕
「〔1941年夏か〕アイヒマンがアウシュヴィッツの私〔ヘス〕のもとに来た。〔中略〕・・・
われわれは、虐殺の実行法について話しあった。〔中略〕アイヒマンは、簡単に作れて
しかも特別な設備を必要としないようなガスを調査した上で、私に報せるといった。次に、
われわれは、適当な場所を探すためにあたりの地勢を見てまわった。われわれは・・・
〔ある〕農場を適当と判断した。〔中略〕われわれは、適当なガスを濃縮化すれば、そこの
既存の屋内で、優に800人は殺害できると計算した。〔中略〕ユダヤ人虐殺がいつ始め
られたかについては、私はもう正確に覚えていない。・・・多分、1942年の1月のこと
ではないかと思う。最初に対象となったのは、上シレジア東部のユダヤ人である。
〔中略〕ユダヤ人は、倉庫〔Bunker〕脇で脱衣させられた。〔中略〕夏の間に移送者が詰
めかけ、われわれは、さらに大規模な虐殺施設を作ることを余儀なくされた。そのため
・・・〔ある〕農場がえらばれ、手を加えられた。脱衣用には、第T倉庫脇に二つ、
第U倉庫脇に三つのバラックが建てられた。第U倉庫の方が大きく、約1200人を収容
できた。1942年夏にはまだ、屍体は大量埋葬壕に埋められた。その夏の終わりごろに
なってはじめて、われわれは、焼却ということを始めた。〔中略〕壕内では、ひっきりなしに、
従って昼夜をとわず焼却がつづけられた。」
ルドルフ・ヘス(片岡啓治訳)『アウシュヴィッツ収容所』講談社学術文庫、1999年、381-388ページ。