【カール大帝】カロリング【シャルルマーニュ】

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1世界@名無史さん
フランクすれぜんぜん伸びないし
2世界@名無史さん:04/02/14 20:21
>>1がこんなんじゃ、伸びるものも伸びないな
3世界@名無史さん:04/02/14 20:23
Carolus Magnus
4:04/02/14 20:28
書き込んでくれるだけでうれしいよ
日本語の本少ないし思い入れのある人が少ないのかな?
51:04/02/14 20:32
ttp://www.shajisitu.or.tv/c3l5.htm
とても威厳のある聖ヨハネ像ですね
って、まさに暗黒時代って感じで面白い時代なんだって
6世界@名無史さん:04/02/14 21:17
小ピピンの子カール大帝は教皇を脅かすロンバルド王国を征服し、北は異教のサクソン族を討ち、
東はアジア系のアヴァール族をしりぞけ、南はイスラム教徒を破って、西ヨーロッパの主要部分を統一した。
また全国を多くの州に分け、各州に箔を置いて統治させ、巡察使を派遣して伯を監督させた。
さらに法律を制定し、経済の発展をはかり、アルクインらの学者を招いて教育や文化の信仰につとめた。
このためフランク王国はビザンツ帝国に並ぶ強国となった。

そこで800年、ローマ教皇レオ三世はカールにローマ皇帝の帝冠を与え、ここに「西ローマ帝国」が教会との提携のもとに復興した。
7世界@名無史さん:04/02/14 21:18
らしいよ
8世界@名無史さん:04/02/14 21:28
エインハルドゥス(アインハルト)の『カロルス大帝伝』に『ローランの歌』ぐらいしか知らんわ。
9シャルルマーニュ:04/02/14 21:28
フランス・ギャルに文句言われちゃったよ(´・ω・`)
10世界@名無史さん:04/02/14 23:44
シャルルマーニュは暴飲暴食、いい年こいてお肉が大好き・・・だったという。
11世界@名無史さん:04/02/14 23:57
当時って肉食中心だったんじゃ?
12世界@名無史さん:04/02/15 08:02
教科書に載ってるあの黄金のカール大帝の像を見た。
小さすぎ
13世界@名無史さん:04/02/15 08:12
「シュトラスブールの誓い」ではシャルルマーニュの子供たちは既に言葉が通じなかったらしい。
14世界@名無史さん:04/02/15 13:05
>>3
カール大帝に思い入れ?ふーん。
15世界@名無史さん:04/02/15 13:30
カール大帝アニメに出た事あるよ。
悪役だけどね。
16世界@名無史さん:04/02/15 20:09
ナポレオンもヒトラーもカールを意識してたんじゃないの?
ヨーロッパではいっぱい本でてるしこないだ戴冠1200周年でしょ
17世界@名無史さん:04/02/15 20:18
どうなんだろね?
ナポレオンは「東方の夢」ことエジプト遠征当時はアレキサンダー大王や
ガリア戦記を夢見たけど、結局、ローマ帝国を意識したんじゃないかな?

シャルルマーニュ大帝もそうだけど、結局、「蛮族に食い散らかされ、
修道院制度のキリスト教会の紐帯によってかろうじてつなぎとめられている
ローマ帝国の残骸を正規の形に戻す」いうのが、欧州の歴史だから
18世界@名無史さん:04/02/15 21:00
シャルルマーニュの軍隊とカエサルの軍隊が戦ったらどっちが勝ちますか?
19世界@名無史さん:04/02/15 21:17
軍事技術は知らんが人数は大違いだな
2013:04/02/15 21:28
最後のセナトール貴族と言われたボエティウスの後にラテン語文化は完全に途絶えて
12世紀ルネサンスまでラテン的ローマ的文化は暗黒時代になってしまったと言われていたけど
宮廷ルネサンスと言われ、真のルネサンスと言えないかもしれないが、
カロリング・ルネサンスもかろうじてラテン文化を絶やさなかった功績があるかもしれない。

アイルランド修道士たちもいたし。

すまん。20年以上前の学生時代の知識しかない。
中世文化史の研究者をめざしていた頃だ。
21世界@名無史さん:04/02/15 21:38
一応今はカロリングルネサンスって言う人はすくなくなって
宗教活動中心の時代ということになってるっぽいけど

古典の復興を重視しない傾向にあり、キリスト教化を強調する風潮
>>11-12
シャルルマーニュは炙り肉が大好きだったが、炙り肉は体に悪いとされていたため
こっちは控えて、体に負担を掛けないと信じられていた煮込みを食べるよう医師団に
言われたため、ヘソ曲げたって話を聞いたな。

>>18
重装歩兵と重装騎兵、前者が後者へ特別に対抗策を採って無い限り後者の方が
優位に立つというのが世の常だが、はてさて。
2313:04/02/15 22:03
>>21
なるほど。ありがとう。
俺の学生時代(80年代初め)は「12世紀ルネサンス」を学びたいなんて言っても
まだ中世は「暗黒時代」だっていう認識が、教師さえ多かったからね。

カロリング時代は特に詳しくなかったが、ソールスベリのヨハネス、M.カペラ、七自由科目などを調べていくうちに
ヴェーダとかアルクインやコロンバヌスにつながったよ。

最近の中世文化史研究はどうなんだろう。
24世界@名無史さん:04/02/16 07:35
アルクインってイングランド人なんだよな。
もっともどの系統かは当時のイングランドがハチャメチャなため
今ひとつ分からんらしいが(ノルマンなのか、サクソンなのか、デーン系か)
なんかカール大帝と辺境から来た田舎の物知りかあ、と素人のおれは思ったりする。
25世界@名無史さん:04/02/16 08:39
>>9ワロタ
26世界@名無史さん:04/02/16 16:14
カール大帝は文盲と聞きますたが本当でしょうか?
また、彼らはどんな言葉を話していたのでしょうか?
おしえてくだせえ。
27世界@名無史さん:04/02/16 17:36
>>26
>彼らはどんな言葉を話していたのでしょうか?
フランク族の言語。
ラテン語も聞きとり、話すことができたらしいけどな。
文盲だったのは本当。

>>22
>重装歩兵と重装騎兵、前者が後者へ特別に対抗策を採って無い限り後者の方が
>優位に立つというのが世の常だが、はてさて。
ディフェンシヴに重装騎兵を止められるのは重装歩兵だけだけどな。

>>18
軍の組織や、兵站や工兵のレベルを取ってもローマの方が全然上。
古代ローマの軍に対抗できるのは、西欧ではナポレオンあたりまでないでしょ。
28世界@名無史さん:04/02/18 18:41
すぐおちるな
29世界@名無史さん:04/02/20 06:50
>>26
カール大帝が何を話していたか、文盲だったかについての情報は、
アインハルト「カール大帝伝」によるところが大きい。
アインハルトによれば、外国語の習得に勉強を行い、ラテン語は普段母国語と
同じぐらいに精通していた。ギリシア語も多少理解できたとしている。また、
字を書けるように練習していたが、晩年から始めたので、ほとんど実を
結ばなかったとしている。「食べ物を自制することはできなかった」など
カール大帝の都合の言い分のみを記載しているわけでもないので、比較的
信頼できるとされている。
30世界@名無史さん:04/02/21 00:04
>軍の組織や、兵站や工兵のレベルを取ってもローマの方が全然上。
でもそれだとローマ帝国末期にゲルマン人の傭兵が多数いて、
あまつさえオドアケルやテオドリックに壟断された理由が説明できない。
だいだい教会が保護を求めたのがカール大帝だもんね。
31世界@名無史さん:04/02/21 11:36
ピレンヌ・テーゼ マンセー
話題自体はあるんでしょうけど、お約束のネタでお約束の解答になってしまうんでしょうね。
メロヴィング朝からカロリング朝へ王朝交代
弟カールが兄カールマンの死後支持を取り付け領土拡大
カールの書(リブリ・カロリーニ)などに見られるビザンツ帝国に対する対抗意識
ローマ教皇の庇護がビザンツからフランクへの乗り換え
フランク王国と教皇、ロンゴバルト、ザクセン、アヴァール、イスラム勢力、ビザンツの
思惑と駆け引き
カロリング・ルネサンスとは何か?
キリスト教の聖戦?
王女たちはなぜ結婚しなかったの?
33世界@名無史さん:04/02/21 12:35
カルル大帝伝70万でうってたよ
3427:04/02/21 12:53
>>30
古代とそれ以降の軍事能力の比較については、
A・フェリル「戦争の起源」なんかを読んでくれ。

あと、帝国末期はそもそも「ローマ」じゃない、という話があるぞ。
>佐藤彰一「ポスト・ローマ期フランク史の研究」
この本は、帝政末期ローマとメロヴィング期の連続を言う一方で、
盛期ローマと帝政末期の断絶を強調している。
35世界@名無史さん:04/02/21 19:38
軍事力のことはは知らんですが
ショウイチさんはメロヴィング=後期古代の一部(ポストローマ?)って言ってるけど
いまどき断絶とか連続とか社会の全側面が同時に劇的に変わるって言うのは無理だと思いますが…


36世界@名無史さん:04/02/21 19:52
そこでムハンマドですよーってことじゃないの?
結局ピレンヌテーゼって正しいのか?
37世界@名無史さん:04/02/21 19:56
あ、ごめん、盛期ローマと帝政末期の断絶ね。
38世界@名無史さん:04/02/21 20:30
ピレンヌは商業重視しすぎで批判されてる感じ
ピーターブラウンって人が司教とか見て同じような時代区分を最近提唱
彰一氏もそれに乗っかってます
>>34
>A・フェリル「戦争の起源」
アレクサンドロスの軍隊がナポレオンの大陸軍と互角に戦える、なんて主張を見ると
どうしても白眼視せざるを得ないんだが。

>盛期ローマと帝政末期の断絶
断絶の時期は、軍制・兵制の視点から見ると共和制末期のマリウスから、共和主義
の断絶という観点からだとアウグストゥスの治世になるな。
40NMR:04/02/22 20:13
>>30

>>軍の組織や、兵站や工兵のレベルを取ってもローマの方が全然上。
>でもそれだとローマ帝国末期にゲルマン人の傭兵が多数いて、
>あまつさえオドアケルやテオドリックに壟断された理由が説明できない。

そもそもカエサルの時代と比較するとローマ帝国末期は野戦軍の動員数も
規律も大きく低下していたんじゃないですか?

その原因の一つにあげられるのが貨幣経剤の衰退。
給料がインフレで実質低下の状況では厳しい規律を兵士に求めることはできないし、
組織だった兵站もできない。

これじゃあ、スレ違いになるので、カール大帝が現物
経済の時代に使いものになる軍隊をどうやって組織したかなら、
テーマになるかな?
4130:04/02/22 20:49
んー、じゃあまあもう少し近い例でいくと、
ガリア戦役末期にローマ2個軍団がガリア人の襲撃を受けて壊滅してますよね。
それにガリア戦記に、ガリア人の築城技術が戦役のさなかどんどんよくなってきていて、
またローマの戦術を学び手強くなったという記述もある。
それにローマはゲルマン遠征に失敗して結局ライン川を境界にしている。
つまりゲルマン人はずっと蛮族だった訳じゃなく、ローマの技術を取り入れてよりよく進化している。
だからこそゲルマン人やガリア人をローマ人は傭兵や将軍として雇っていたわけでしょう?
だから、技術的に断然上って事はないんじゃないかなと思うんです。

とりあえず関係ないのでサゲ。

カール大帝の軍隊組織はどうなんだろ。教えてプリーズ。
42NMR:04/02/26 18:37
>>41
紀元前390年、ケルト人がローマを占領。
紀元前105年、ゲルマンの部族のチュートン人、キンブリ人がローマ軍を破る。
紀元後2世紀後半、マルクス=アウレリウス=アントニヌス皇帝もゲルマン人に苦戦しています。

これらと、民族大移動の時代との違いは、蛮族が強くなったというより
ローマに回復力が無くなっていたことでしょうか。

>>34
じゃないですが、
3世紀のローマ帝国の混乱で断絶があったことになりますか?


43世界@名無史さん:04/02/29 09:37
カール大帝に関する本の邦訳はいくつかあるけどオットー大帝に関するものは皆無だね。
44世界@名無史さん:04/02/29 10:16
サクソン族平定や対イスラム戦がメインだよね。
45ザグレウス:04/02/29 12:53
ナポリやシチリアの土産物店では「プーピ・シチリアーニ」というシチリア伝統の
操り人形を売っているらしいですね。シャルルマーニュ、オルランド(ローラン)、
リナルド、ブラダマンテなどの、中世騎士の人形が主になっているようです。

特に人気があるのは、東洋の姫、アンジェリカを求めて旅をする『騎士道物語』や、
ルイジ・プルチの『モルガンテ』、ボイアルドの『恋するオルランド』、その続編に
あたるアリオストの『狂乱のオルランド』などから題材をとった人形だといいます。

これらの操り人形は、19世紀にナポリやシチリアを中心に発達したものだそうですが、
『シャルルマーニュ伝説』などの中世の「武勲詩(シャンソン・ド・ジュスト」が、
革命後のフランスでは、すっかり廃れてしまってからも、イタリアでは、相変わらず
「文学」として定着していた、ということがいえるでしょうね。
46世界@名無史さん:04/02/29 13:33
イスラムがフランクを支配すれば彼らにも平安が訪れたアッラーアクバル!
47世界@名無史さん:04/03/04 20:07
シャルル単純王とかは単純だったんですか?
48世界@名無史さん:04/03/04 21:41
Charles le Simple
49世界@名無史さん:04/03/07 04:21
モロワのフランス史上巻、どっかになくしちゃった。。。
50世界@名無史さん:04/03/28 18:38
カロリングルネッサンス・・・・収集された異教資料ってほとんどというか、まったく
残ってないんだよね。もったいない。
51世界@名無史さん:04/05/12 01:47
age
52世界@名無史さん:04/05/23 14:04
カロリング家の家名の由来って「カール大帝」の名前なんだよね?
53世界@名無史さん:04/06/02 15:41
「カール大帝」「シャルルマーニュ」って、
ヨーロッパ人がそう呼びたがるのは仕方がないが、
日本人がそう呼ぶのって、なんか気持ち悪いな。
54世界@名無史さん:04/06/02 16:27
>>53
その他大勢のカールやシャルルと紛らわしいだろ。
55世界@名無史さん:04/06/02 16:49
>>18
戦闘では土地や気候、指揮官の統率力や兵士の士気、その時々の作戦や戦術
などが大きく左右するので条件次第で勝敗が変わります
全盛期のローマ軍とフランク軍の全面戦争だったらローマの圧勝でしょう
武将としてのカエサルとカールの比較だったら・・・
どっちが上か分かりません、スマン

>>52
家名の由来には
カール大帝の祖父「Charles Martel」って説と
カール大帝本人の名からと、2説あります
56世界@名無史さん:04/06/02 20:17
>>53
別にどう呼んだっていいじゃねえかよ、なんで日本人がなんだよ。
おまえ、変に気にしすぎw
57世界@名無史さん:04/06/22 16:04
選書メチエの「地上の夢キリスト教帝国」以外に日本人の書いた
カール大帝の伝記ってあるのかな?(絶版のぞく)
58世界@名無史さん:04/06/22 18:44
この時代興味あるね。
今のヨーロッパの原型を作った時期だよね。
でもあんまり知らないよ。
漏れの感覚ではこの時代から第一次世界大戦までずっと戦乱期にあるようなもの。
59世界@名無史さん:04/07/13 12:00
メロヴィング期もゲルマン人移動の時期も戦乱期じゃないの?
60世界@名無史さん:04/07/14 19:27
カエサル時代の戦時編成のローマ軍の騎兵保有率は最大で約25パーセント
カール大帝時代のフランク野戦軍の騎兵保有率は25〜30パーセント
更にこの時期のフランク騎兵はそれ以前の騎兵よりも重装備
そしてローマのレギオンは騎兵戦力で優位にある敵に対してはまず勝てない
61世界@名無史さん:04/08/16 13:20
シャルルマーニュ十二卿将ってどんな人たちだったの?
62世界@名無史さん:04/08/16 13:22
フランク王国こそ中国と対比して語られるべき存在だろう
63世界@名無史さん:04/09/07 15:40
やっぱり伸びないな
64世界@名無史さん:04/09/07 16:57
ちんこのある人
65世界@名無史さん:04/09/13 17:13:08
>>61
『ローランの歌』に登場する。
66世界@名無史さん:04/10/10 05:05:14
age
67世界@名無史さん:04/10/10 05:33:32
カール死んだ後グダグダすぎ。
68世界@名無史さん:04/10/23 14:19:11
日本人がカール「大帝」なんて、持ち上げすぎ。
西洋人がそう呼びたい気持ちは分かるが、東洋人にとっては意味ない。
カロリング朝のカール1世で十分。
ちなみに、テオドシウス「大帝」も東洋人にとって意味なし。
キリスト教を国教化したのでキリスト教徒から「大帝」と呼ばれるのはよい。
しかし東洋人にとってはまるで意味なし。
それと比べると、コンスタンティヌス「大帝」は東洋人にとっても、尊敬するに足る偉大な存在だ。
意味あり。
69世界@名無史さん:04/10/28 22:00:14
ただ翻訳しただけだと思うんだけど…
訳す側の思想的背景に応じて変える方が混乱を招くんじゃねぇ?
70世界@名無史さん:04/10/29 00:34:04
『シャルルマーニュの時代』ブウサール 平凡社大学選書
『シャルルマーニュの戴冠』フォルツ 白水社
『シャルルマーニュ』カルメット クセジュ
たぶん全部絶版

五十嵐氏のやつ以外にこれ以上の本あるの?
71世界@名無史さん:04/10/29 05:09:16
>>60
だからカエサルはガリア戦記のケルト討伐のときケルト騎兵にやられたし、
次回はケルト人より獰猛なゲルマン騎兵を雇ってケルト軍に勝ってる。

北アフリカでも騎兵は異民族傭兵の場合が多いね。
普段遊牧してたり牧畜してなきゃ騎馬なんて養えなかったのかな?
72世界@名無史さん:04/10/29 05:16:43
>>41
ローマは分断して統治せよ「デバイドアンドルール」をモットーに異民族を支配してきた。
当然、ゲルマン人のなかに敵と味方をつくって戦ってたわけだが、味方になったヤツには
当然、戦争中協力して要塞や陣を建設したり、鎧や戦術を供与していた。

アメリカ軍が日本や韓国やフィリピンに武器供与、イージス供与したりするのと同じ。
ケルトの反逆者、ウェルキンゲトリクスもかつてはカエサルの同盟者だった。
73世界@名無史さん:04/10/29 14:23:44
>>70
翻訳は原著者の思想を紹介する作業だから、そのままでよい。
しかし、それをもとにして批判研究する際には、十分な注意を要するんじゃなかろうか。
基本的な用語・名称ほどね。
74世界@名無史さん:04/11/10 00:23:34
「大帝」というのは身体がデカかったからそう呼ばれたとか聞いたことがある。
禿げカールやデブカールなんかとおなじようなレベルの命名か
75世界@名無史さん:04/11/10 23:06:01
カール巨体帝
76世界@名無史さん:04/11/25 21:50:50
しかし、カロリング期ってのは世界史板の名だたるコテハン連中も
手を出せないほどにマイナーな話題なのでしょうかねぇ
とかいって挑発したら誰か話題を振ってくれるかしら…
77世界@名無史さん:04/11/25 21:53:35
話題を限定しすぎたから。
78世界@名無史さん:04/11/25 21:57:24
カロリングってだけでかなり広いと思っていた私が大間違いでしたね…
いや、別にメロヴィングとかオットーネンとかカペティアンとか何でもいいんだけど
79世界@名無史さん:04/12/23 08:36:33
age
80世界@名無史さん:04/12/23 12:41:56
この人って今のフランス人、ドイツ人から見てどういう感覚なんでしょうか
フランス人は自国の英雄、ドイツ人は他国人という感覚ですか
イタリアなど他の国からの視点も知りたい
81世界@名無史さん:04/12/23 12:55:52
カール大帝はドイツもフランスも自国の建国の英雄としていて、
取り合いになっているんじゃないかな。
最近はそうでもないか。
82世界@名無史さん:04/12/25 13:01:59
戴冠1204周年
83世界@名無史さん:04/12/26 03:53:48
>>80-81
そういう民族主義的な視点は時代遅れ。
そもそもこの時代フランスもドイツも存在していない。
84世界@名無史さん:04/12/27 22:16:13
>>83
イタリアなりローマなりはどうだったんだろ 
85世界@名無史さん:04/12/27 22:41:18
シャルルマーニュってビザンツやヴェネツィアからみたら田舎者もいいところだったのでは…
86世界@名無史さん:04/12/29 05:38:42
睦仁日王って大韓や北京からみたら田舎者もいいところだったのでは…
87ハリネズミ ◆qBLXpo7Q9Y :05/01/01 00:15:39
中世史家のカール・フェルディナント・ヴェルナーが、パリのドイツ歴史学
研究所所長のときに、ドイツの駐仏大使が、ヨーロッパ連合の集まりで、
自国の代表的な人物として、カール大帝の名を挙げたという。そこで、
ヴェルナーがそうではないと主張したそうです。駐仏大使にとっては、
カール大帝=ドイツ人だったというエピソードです。
88世界@名無史さん:05/01/09 02:44:10
age
89世界@名無史さん:05/01/26 22:35:33 0
age
90世界@名無史さん:05/01/27 01:50:30 0
メロヴィング期末期、フランク東部(アウストラシア)を実効支配していた
カロリング家は、ラインラント地方で発見された鉄を武器に加工して勢力を拡大した。
ライン下流のフリースランド商人を介してノルマン人に武器を売って金を儲け、
またみずから武装してイスラム教徒に勝利した。
イスラムから見れば地の果ての果ての戦いだったが、フランクにとっては奇跡的勝利。
これがカロリング時代をもたらす一要因となるが、ノルマン人に武器を売りつづけらことが、やがてアダとなる。
91世界@名無史さん:05/01/27 02:31:57 0
>>90
続きたのむ。
92世界@名無史さん:05/01/28 14:15:01 0
メロヴィング期末からカロリング期にかけて、フランクは銀本位制に移行している。
この銀本位を支えた銀どこからきたのか、いまだ不明だけれども、
有力な説として、大量産出したトランスオクシアナ地方の銀がノルマン交易を介して流入したという。
そうだとすれば、一国に銀本位を成立させるほどの銀、そしてその交易の規模はいかほどのものだったか。
交易品がすべて鉄製刀剣ではないにせよ、かなりの量の武器が輸出されたようだ。
その収入はカロリング朝の基盤になったに違いない。
93世界@名無史さん:05/01/28 14:29:43 0
じゃ、銀の産出が途絶えた時点が、王朝の終焉?
94世界@名無史さん:05/01/28 15:39:00 0
金の産出が途絶えた時点が、国家の終焉であったローマ(西ローマ)と同じ
95世界@名無史さん:05/01/28 18:27:20 0
メロヴィング時代初期には広大だった王領地の縮小も見逃せない。
カール・マルテルなど、教会への寄進地を奪ってまでも再編を図ってる。
あとフランク王は祭祀者的な要素が強くて、実権が下部に移っていく傾向も
あった。
カペー朝成立以前に、既に北フランスの軍権はカペー家がかなり容喙していたし。
96世界@名無史さん:05/02/01 21:43:24 0
揚げるよ
97世界@名無史さん
メロヴィング期中期の王クロタール2世の時代が、のちの時代への画期になる。
彼はネウストリア(西部フランク)王だったが、何の因果か、アウストラシア(東部フランク)を併合してフランクを統一した。
時に613年。しかしこの「統一」はさまざまな妥協の産物で、のちの封建的分権化の遠因になる。
1)パリ勅令。アウストラシア側の豪族の連合勢力の圧力に屈し、聖俗の裁判権を地元勢力に対して承認した。
このときの豪族代表が大ピピン。ピピン一族の台頭の始まり。
2)宮宰の設置。メロヴィング家の家政の長という役回りだったが、やがてウラの実権を握られるようになる。これもピピン一族の台頭の隠れ蓑となる。
3)金貨の悪鋳。ローマ期以来のトレミシス金貨が悪鋳されるようになったのはこの時代から。アンリ・ピレンヌが注目した「金貨の消滅」という事態は、この時代にルーツをもつ。
金貨の悪鋳に直接かかわったのは、名高き聖エリギウスだったのかもしれない。