教科書が教えない朝鮮の歴史

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また書かざるを得ないテコンドーの歴史 (転載)

幼い頃、テコンドーはひとつの憧れの対象だった。絢爛な蹴り、世界的な我々固有の武術、日本人たちが習って行き
カラテを作った我々の武術・・・・・・・・・・これが幼い頃のテコンドーの印象だった。実際、テコンドーは我々の固有武術
として世界に広がり、他の何よりも韓国の存在を知らしめることができる道具になった。
今やテコンドーを知らない人はほとんどいないほどに世界的な我々の武術になった。今のスポーツ化されたテコンドー
が明らかに我々のものであることは間違いない。
テコンドーの歴史は、テコンドー側の主張どおりに高句麗の花郎とかいうものに言及できるほど古い伝統性のある
武術ではない。国内にある数多くのテコンドー書籍や数多くのテコンドー関連論文は、テコンドーの歴史を歪曲している。
誰か本屋に行ってテコンドー書籍の歴史の部分を見てみなさい。高句麗壁画や石窟庵の金剛力士像や海東竹枝、
朝鮮上古史などに触れていない本がほとんどない。東亜大百科事典を見ても例外ではない。「・・・・・・・このような我々
の伝統武術が日本の空手道(コンスド)とか唐手道(タンスド)の亜流だと思われているが、まことに残念なことである
・・・・」と言って、伝統武術であることを一層強調している。
しかし、大部分の本で引用している高句麗古墳壁画や過去の記録の中の我々の武術は、すでに私が「また書かざる
を得ない韓国武術の歴史」で明らかにしたように、韓国の全体的な武術歴史であっても、それがテコンドーなどのある
特定の武術の歴史として引き入れてはならない。
8786:04/01/10 00:42
テコンドーの歴史の主張方法は一般的に三つに分類できる。一つ目はテコンドーが元々あったが、日帝時代を通じて
日本人が我々の伝統武術、すなわちテコンドーを唐手(タンス)、または空手(コンス)と呼ばせたという主張と、二つ目
は解放以前までの韓国武術の歴史をそれがまるでテコンドーの歴史であるかのように記述する場合と、三つ目に
カラテの流入事実を認めつつ、同時にそれが伝統武術テッキョンと結合したと主張するものである。
三つの主張はすべて、結局はテコンドーは我々固有の武術だというのが結論だ。はたしてそうだろうか?
残念ながら、テコンドーという武術は1945年以前にはこの地に存在もしなかった武術であり、テッキョンの長所を結合
させたりもしなかったし、テッキョンから派生したものでもない。テコンドーは解放後、日本から留学生たちが戻ると
ともに、彼らが留学時代に習った空手道(コンスド)すなわちカラテを普及したのが韓国テコンドーの母体だ。
黄g(ファン・ギ)、李元国(イ・ウォングク)、盧秉直(ノ・ビョンジク)らがその代表的な人物であり、韓国テコンドーの
父と呼ばれる「蒼軒 崔泓煕(チェ・ホンヒ)」氏もやはりそのような部類の一人だった。当時の名称は空手道(コンスド)、
唐手(タンス)、拳法などを使い、以後に手道(テスド)と呼ばれてから、1960年代に入って拳道(テコンドー)という名称
の下に統合されて、黄g館長は「手道」という名称を持って渡米し、今でも「手道」という名称で活動しているのだ。
(以下略

テコンドーの歴史をもう少し詳しく知りたい方に推薦図書:
キム・ヨンオク教授の「テコンドー哲学の構成原理」

ヤン・ジンバン教授の「解放以後の韓国テコンドーの発達過程とその意義」
(ソウル大学体育教育と修士学位論文、1988)

金槌日報(掲示板ベスト)
http://members.at.infoseek.co.jp/koreawatcher/docs/www_14.htm
テコンドーの歴史
http://homepage1.nifty.com/OUTERHEAVEN/taek/history.htm