20世紀最大の捏造 ホロコースト 08

このエントリーをはてなブックマークに追加
729世界@名無史さん
1947年1月、いわゆる「面通し」がダッハウ特別収容所で始まりました。
囚人と3回対面しましたが、私を告発した者は一人もいませんでした。
囚人ザンナー博士は、自分は彼のことを知らないし、もしも囚人を殴って
死に至らしめたり、射殺したことがあったとすれば、この話は収容所で
知られていたことであろうと述べました。
その他多くの長期囚も、無罪を証明してくれるようなこの証言に賛同してくれました。
1947年7月15日、起訴状を受け取り、共同被告人とともに、ダッハウ収容所の
ブンカーTに移送されました。
無罪を証明してくれるような資料をここで手に入れることは不可能でした。
外界からは遮断されていたからです。
裁判は、1947年8月6日に開廷し、8月21日まで続きました。
弁護側証人は検事の騒々しい声によって脅迫され、偽証との烙印を
押されました。弁護側証人が非ドイツ系囚人によって脅迫され、殴られたために、
もはや弁護のために出廷してこなくなったということもありました。
彼らは自分たちも告訴されてしまうことを恐れていました。
私たちが答えていた供述証書は、検事や通訳を介して、検事側証人に
前もって渡されていました。だから、検事側証人は、偽証となる恐れを抱かずに
正確な日付を証言し、被告の犯罪を立証することができたのです。
にもかかわらず、交差尋問の過程で矛盾をおかすことがありました。
しかし、検事側証人はアメリカの法廷の保護下に置かれていたので、偽証の罪を
恐れる必要はまったくありませんでした。
私たちには被告として、自分の意見を述べる権利がまったく与えられていませんでした。
私はリトアニア人で、ドイツ語が少々わかるだけなので、裁判の大半を理解できませんでした。
休廷中に、私の訴因を同僚から聞き出さなくてはならないほどでした。
弁護士による最終陳述はありませんでした
私は1947年8月21日に死刑を宣告されました。1948年6月26日に承認されました。

1948年9月10日、グスタフ・ペトラト