ジョージ・F・ケナン

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19世界@名無史さん
中国は、この国にしてみれば、国全体として画期的な興隆を経験しつつある。これはまだ
終わってはいない。この興隆は中国社会にその痕跡を刻み付けるだろうし、われわれも、
事実、中国社会が毛沢東出現以前と全く同じなどと思ってはならないのだ。とはいっても
多くの面で中国民衆は従来通りのままであることも間違いない。ひじょうに知的で、文明の創造者、継承者として豊かな才能を持つ偉大な国民。だが、米国人とは大いに異なり、
外面的には丁重かつ(ある段階までは)儀礼を重んじるが、内面的には外国人との関係に
おいてとげとげしく、中国人以外、とくに東洋人以外とは容易に親密になろうとしない
人々である。
われわれは外国人との意思疎通に際し、中国人が持っている一種の器用さ(それは中国人がその隣人、日本人とは決定的に際立っている点だが)にまどわされてはならない。一見、
理解を容易にするように見受けられるが、多くの場合、意見の相違があると、率直な忠言として表面化させるより、かえっておおいかくし、根深いものとしてしまうのである。
米国はいまや、一世紀を超す中国との接触および関与の歴史を持っている。その記録は
さほど米国にとってかんばしいものではない。商業的もしくは個人的利益という動機が、
表面に掲げた信仰、政治上の利他主義の動機と、あまりにもしばしば混在してきたのだ。
中国人と広く付き合った米国人の態度は、いわれなき極端な冷笑主義から、保護者ぶった
感傷主義までさまざまである。そこに住んだもののなかには、中国的環境の中での外国人
の生活につきものの種々の楽しみによって、ひそやかに堕落するままにいたものも多い。
そして中国人も(責めることはできないが)この堕落をすすめ、上手に利用する術を
心得ていることを示してきた。むろん目立った例外もある。しかし全般的に言うならば、
毛沢東以前の数十年間、個々の米国人と中国人の接触は、双方ともあまり自慢できる
ものではなかったし、互いにさほど有益だったとはいえないのである。