「赤軍部隊は収容所から解放したロシア女性さえもレイプした。」
by ダニエル・ジョンソン
ナチス・ドイツが死に絶えつつあった時期、赤軍のレイプの嵐(大騒ぎ)は、軍事史家・
アンソニー・ビーバー氏の新刊本によれば、これまで疑われていた以上にはるかに大規模
に行われていた。ベストセラーになった、「スターリングラード」の著者・ビーバーによると、
進軍するソ連軍部隊は、強制収容所において、何百万ものドイツ女性と同様、ものすごい
数のロシア、ポーランド女性をレイプした。赤軍の無秩序、堕落(腐敗)の規模(程度)は、
バイキングから4月にこれから発刊される「ベルリン」という本の著者が、ソ連の公文書を
研究した時に現れてきた。ビーバーは、サンドハーストで教育を受け、アルバート王子所有
のエリート騎兵連隊である第11軽騎兵として勤務した。ビーバーによると、ソ連兵士の行動
の詳細は、彼をしてその人間性に対する観方を根本からひっくりかえさせた。ほとんどの
人は潜在的にレイピスト(強姦者)であるという過去の人を馬鹿にしたような考えをずっと
持ってきたので、私は以下のような結論に至った。もし「軍律」というものがなければ、ほと
んどの武器を持った男は、2〜3年戦争体験を過ごせば人間性を失い必ず潜在的レイピス
トとなるとビーバーは書籍販売員に話した。彼はアメリカのフェミニスト・マリリン・フレンチの
悪名高い主張、「女性と関係を持つことにおいて、全ての男はレイピストで、男とはそういう
ものだ」という言葉をそのまま言ってるように見える。しかし、そのような類似は表面的なも
のである。ビーバーは、1944年以降に起こった出来事は、とりあえず典型的な平和時の
男の行動だという暗示に対しては注意深い。しかし、彼は、強制収容所から解放された
ロシア、ポーランド女性もまたレイプされたことを発見して、「核心を揺るがされた」ことを
認めている。赤軍兵士達は、ドイツ人に対する復讐の形としてレイプを使ったのだと言うこと
は、人をむしばむ(傷つける)概念だとビーバーは言う。ロシア人達がベルリンに到着する
までには、赤軍兵士達は、女性をほとんど肉欲の戦利品とみなしていた。彼らは自分達が
ヨーロッパを解放しているのだから、自分らが好むように振る舞うことができると感じていた。
そのことは大変驚くべきことだ。だから、人々は文明はひどく表層的で、彼らの見せかけ
(解放)は、非常に短期間に剥ぎ取られてしまうと悟る。ビーバーは歴史家として高い評判
があり、彼の主張は重大な関心を持って取り上げられるだろうことは保証できる。
「スターリングラード」は広く賞賛され、評価の高いサミュエル・ジョンソン賞、歴史の分野の
ウォルフレン賞、ホーソーンデン賞を授与された。しかしながら、彼のベルリン包囲攻撃の
報告は議論を引き起こす可能性がある。「多くの点で、ベルリンの婦女子はスターリングラ
ードで餓えて、苦しんでいた兵士よりはるかに苛酷な運命であった。」ドイツでのレイプが
他に例をみないほど、とてもひどいのは何故かということを理解するためには、次ぎのよう
な背景が欠かせない。バルバロッサ作戦(1941年、ナチスのロシア侵略)は、歴史上、
最も大虐殺的紛争の始まりであった。今では、おそらくソ連の3000万の住民が、戦争中
に死んだと考えられていてその中には、ドイツの捕虜収容所で故意的に餓死させられた
300万人を含む。何の利益も要求しないドイツ人たちは、何の見返りも期待できなかった。
ドイツ人の死傷者は莫大な規模だった。ベルリンの戦いだけで、100万以上のドイツ兵が
殺されるか、捕虜の状態で死亡し、それに少なくとも10万人の市民が含まれる。ソ連軍は
30万以上を失った。この恐ろしい背景に対して、スターリンと彼の司令官たちは、レイプを
ドイツ女性ばかりか、同盟国のハンガリー、ルーマニア、クロアチアの女性に対しても許す
か、正当化さえした。ユーゴスラビアの共産主義者、ミロワン・ジラスがスターリンにレイプ
の件で抗議した時、独裁者は感情を爆発させた。「やつは、血と砲火と死の中を何千キロ
も行軍した兵士なら女との楽しみやふざけごとなどを持つことがわからんのか!」
ドイツの共産主義者がスターリンにレイプは人々を我々からそむかせることになると警告
した時、スターリンは「私はぬかるみの中の赤軍の評判の足を引っ張るも者を許さないだ
ろう」とひどく腹を立てた。レイプは赤軍が1944年に東プロシャとシレジアに入った時に
始まった。多くの町や村では10歳から80歳までの全ての女性がレイプされた。ノーベル賞
受賞者のアレクサンダー・ソルジェニーツィンはその時、若き士官でその時の恐怖(戦慄)
を物語詩・「プロシャの夜毎」で綴っている。「マットレスの上の生気を失った少女達、何名
の兵がその上に乗ったか?一個小隊、たぶん一個中隊だろう」しかしソルジェニーツィンの
ような人は稀であった。ほとんどの彼の同志達はレイプを正当なものとみなした。ドイツ奥
深くへの攻勢が進んだ頃、彼らの司令官であったツコフ元帥は述べている。「殺人者の土
地に悲惨を持ち込め!我々はあらゆることに対しての恐ろしい復讐を手に入れるだろう!」
赤軍がベルリンに到着するまでに、ナチのプロパガンダで補強されたその評判は、すでに
住民(その多くは逃げ出した)をひどくおびえさせていた。希望のない闘争は1945年5月
に終末を迎えたが、ドイツ女性の厳しい試練は終わらなかった。
何人のドイツ女性がレイプされたのか?推測するとソ連圏に住んでいた人あるいは、東部
地域から追放された人の内、高い割合で、少なくとも1500万人となる。レイプの規模は、
1945〜48年の間、毎年200万の女性が非合法に妊娠中絶した事実から暗示される。
ソビエト当局が病気のまん延を心配し、敵との親交に対し、東ドイツにいる赤軍兵士に重罰
を課すようになったのは、1946年から47年の冬になってからのことであった。
ソビエト兵士はレイプを見物した。スラブを劣等人種として扱い、そのような人種との性交は
やめるように仕向けたドイツ人の自尊心を傷付ける適切な方法として、レイプはしばしば
女性の夫や家族の目の前で行われた。レイプの下地としてロシアの父権制社会と酒による
どんちゃん騒ぎもまたその要素だが、もっと重要なことは、ドイツのかなりの富に対する
恨みであった。ビーバーによる最も重要な事実は、ソ連軍がドイツ人ばかりか、強制収容所
から解放したばかりの犠牲者までもレイプしたことである。征服された地のドイツ人に比べ、
それらの地域から解放された時レイプされたロシア、ポーランド女性の数ははるかに少ない
けれど、性的暴力はしばしば無差別であった。しかしながらユダヤ人は、必ずしもソ連軍に
より、ナチによる犠牲者と同類とはみなされていなかった。ソビエト兵站部は、ナチの役人と
同じく、階級敵を含む自らの政治犯を収容するため強制収容所を徴用した。ソ連軍の以前
の収容者(ユダヤ人)に対する態度は、控えめに言っても、感傷的(同情的)ではなかった。
何百万というロシア人囚人やナチスにより生き残らされた奴隷労働者に関しては、反逆者と
して処刑されなかった者、Gulagに送られなかった者は、幸運な者にカウントできよう。
それらの内女性は、おそらくドイツ人からの扱いと比べ良いどころか、ひどく扱われた。
ドイツでのレイプは苦々しい遺産である。そのことは、東ドイツでの共産主義体制とその
結果起こるStasi秘密警察に頼ることに対する不人気に貢献した。レイプの犠牲者自身は、
永久にトラウマ(心的外傷)を背負うことになった。戦時世代の女性は今でもベルリンにおけ
る赤軍の記憶(記念碑)を「未知のレイピスト(強姦者)の墓」として言及されている。