中国史における遊牧民の歴史

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59世界@名無史さん
>36
禿髪=拓跋 Tabgatch
乞伏 Kivugh
赫連勃勃 Ghoren Borbor
沮渠蒙遜 Tsugu Mengsun

なんていう推定があるよ。こうすると俄然北方民族っぽくなる。
60世界@名無史さん:03/09/12 21:45
>47
>「タングート=羌」ですよね?

「羌」という民族は長い歴史があって、その概念も時代ごとに
変化しているが、まあ「10世紀頃のタングート」と「現在の羌」が
近縁の民族であるのは間違いない。

「タングート=羌系民族の一派」とした方が誤解が少ないだろうね。
61世界@名無史さん:03/09/12 21:45
>47
> 明代以降の西夏遺民の消息がよくわかりません。

チベット人は「タングート」を「ミニャク」と呼んでいて、現・四川省西部
(チベットで言うところの「カム」)にその末裔がたくさんいる。「ミニヤ
コンガ」なんていう山は「タングートの白い峰」という意味だ。

現在は「チベット人(蔵族)」に区分されていて「チベット語」も話すけど、
その他に「ギャロン(ヂャロン)語」「アールゴン語」なんかの羌系
言語も話す。

西夏滅亡後、ここに流れたタングートもかなりいるらしいよ。実は
「西夏のタングート」もこの辺が原郷で、「王国滅亡後故地に戻った
だけ」という説もある。
62世界@名無史さん:03/09/12 21:46
それから西夏貴族の中にはチベット各地に流れ着いて豪族として
活躍した連中もいる。もう完全にチベット化したけど、それでも
「先祖はミニャク」と名乗っていた。

シッキムの王家も「ミニャク」だったよ。はるばる西夏から流れた
のか東チベットから来たのかはよく知らないけど。

ただ西夏滅亡後、現地に残ったタングートの多くは周辺民族に
同化してしまったんだろうね。
63世界@名無史さん:03/09/12 21:47
>57
> タングート(党項)は鮮卑族拓跋部の末裔とも言われています。

西夏王家の祖先は鮮卑拓跋部を名乗っていたから、王家は鮮卑
出身だった可能性もある。が、箔をつけつため拓跋姓を名乗ったと
いう説もあるよ。

ただ領民は羌系民族が多かったんじゃない?(だいぶいろんな
民族が混血していたろうが)。鮮卑語がわからないから、西夏語に
鮮卑の要素がどれほどあるか不明だけど、今のところは羌系言語
との共通性が多く指摘されているよ。
64世界@名無史さん:03/09/12 22:09
>59
ちなみに
頭曼 Deuman
冒頓 Baghdur
という推定があって、この辺から匈奴は
原トルコ・モンゴル系か?という説がある。
65世界@名無史さん:03/09/12 22:19
両者に文化する以前の集団ってことでしょうか?
66世界@名無史さん:03/09/12 22:28
匈奴時代にトルコ系言語とモンゴル系言語が
どういう関係にあったのか(また確立していたのか)
わからない。
ただDeumanもBaghdurも両言語に共通する
単語らしいよ。

Baghdurは延々受け継がれて、現モンゴル語の
「バートル」、それからムガル帝国最後の
皇帝の名「バハドゥル・シャー2世」まで
続いてるのを見ると感慨深いね。