>山犬氏
最初のモノコック構造のボディは1920年代のランチアでは無かったかなと思うです。
量産車なら、2CVとかでしょうか。
さて、ロシアに於ける自動車というと、帝政期は欧州各国からの輸入が殆どを占めて
いました。
ソ連成立後、時代が落ち着いて、1924年に1.5t積のトラックAMO-F-15と言うのがソ連初の
自動車として、AMO工場で1931年まで製造されました。
これに搭載された35馬力4気筒エンジンは、当時のFiat1.5lエンジンを基にしていました。
F-15の"F"はFiatの、15は1500ccの事を指します。
この同じシャーシで、乗用車型(フェートン)も何台か作られました。
1927年に、MoscowのSoviet及びEngine研究協会(NAMI)が設計、シュパルタク工場で
初めての量産型車両として、NAMI-1が製造されました。
これは20馬力空冷2気筒の乗用車で、1932年までに300台ほど製造されています。
1933年、AMOはZavod Imeny Stalin、即ちZISとなりました。
1956年には、この工場はStalin批判の煽りで、当時の指導者だったLicachev(リカーチェフ)
の名を冠し、ZILとなります。
もう一つ、1931〜32年にGorkyに、米国の援助でZavod Imeny Molotov(ZIM)工場が建てられ、
これは、GAZ(Gorky Automobile Zadad)工場となりました。
GAZに設置された工作機械は、BerlinのGermany Fordが移転して、ModelBを生産したときに
入手したもので、Fordの全面協力で、1932年に乗用車のGAZ-Aが、トラックのGAZ-AAが
生産を開始しました。
1933年にはGAZ-AAAと言う6輪トラックも生産されています。
これらは、1930年のFord Model-AまたはModel-AAで、1936年にはModel-Aの4気筒エンジン
を用いながら、1933〜34年型Fordそのままのボディーを架装した、GAZ-M-1乗用車に発展
しています。
1940年からは、同じボディーでラジエータ周りを少し変更したGAZ-11-73に変わりました。
このシャーシの4×4型は、GAZ-61として1948年まで細々と生産されています。
大戦中、連合国から各種の軍用車両を入手したソ連は、特にジープに着目し、1943年にそのCopy
生産版として、GAZ-Aのエンジンを用い、4×4の軽量シャーシに載せた、GAZ-67を生産しました。
また、Ford GPA(水陸両用ジープ)は、MAV(GAZ-46)としてそっくり同じ物が生産されています。
これらは、1953年まで生産され、GAZ-69に変更されました。
大戦後、ZISは政府要人用に大型乗用車を生産します。
これは、「テールライトの赤いレンズまで」Rooseveltが送ったと言われた、ZIS-110で、これは1942年の
Packard Super 8リムジンのそっくりそのままCopyで、毛沢東や、金日成などにも送られました。
金日成が使ったと言われているZIS-110は、朝鮮戦争で国連軍に捕獲され、今は韓国にあるそうです。
ちなみに、占領下の日本にも、ソ連代表部が2台、このクルマを用いていました。
ZIS-110は、その後1957年にZIL-111に変わりました。
これも、1955年型Packard殆どそのままのスタイルで、その頃の米国車と同じく、V型8気筒5980ccEngineに、
プッシュボタン式2段ATを備えていました。
1965年に、機構はそのままでボディだけ、1959年型キャデラックスタイルのZIL-111Gに変更され、1967年に
スタイルと機構を一新し、米国車の影響を脱した、ZIL-114、ショートホイルベースのZIL-117に代わり、85年まで
生産されています。
1978年には、新ボディのZIL-115が加わり、これは、未だに生産されています。
GAZからは、一つランクを下げた幹部用の乗用車、ZIM-12とか、更にワンランク
下がった、中堅幹部用のPopiedaが1947年から生産されていました。
これらは、古いFordのEngineをModifyしたもので、前者が3500cc6気筒サイドバルブ、
後者は、2000cc4気筒55馬力のものです。
1958年から、ZIMはChaikaにモデルチェンジしました。
勿論、ZILと同じく、55年型Packardそのままのフロントマスク、機構で、Engineは、V型
8気筒5500ccを搭載しています。
1960年頃に1958年型ランブラーと同じ様な4灯式が試作されましたが、1963年まで2灯
のまま作られました。
1964年から、ZIL-114風にモデルチェンジされています。
一方、Popiedaの後継は、1955年にモノコックボディを採用した、Volga GAZ-21が誕生し、
これらは、警察車両やら、タクシーとして主に使用されています。
1969年にモデルチェンジし、1979年には近代化型が作られています。
なお、VolgaはBelgiumでも組み立てられ、ローバー、プジョーのDiesel engineを搭載した
型が西側にも売られていたそうです。
61 :
山犬 ◆R200HRTAe. :03/06/21 16:58
>>眠い人さん
その通りです。世界初のモノコックボディー車は1922年に発表され、翌年から
市販された、ランチアの「ラムダ」であるといわれています。
シャシーフレームを持たずにサイドのパネルで強度を維持して、フレームの役割
を担当していました。今のモノコックボディーとはちょっと違いますね。
量産車だと、シトロエンの「トラクシオンアヴァン(7CV)」(1934年発売)なんかが、
初期のモノコックボディー採用車でしょうか。確かヒストリーチャンネルの「世界の
名車」だったかと思いますが、このトラクシオンアヴァンを崖から落として、モノコック
ボディーの頑丈さをアピールするCM、なんてのを見た記憶があります。
ところで、眠い人さんは何でそんなにロシアの車に詳しいんですか?
私は、ロシアの車はジルくらいしか知りません。
金日成に贈られたジルは、現在は平壌の博物館に展示されているそうですね。
まぁ、どうも金日成はベンツのSLの方が好きだったみたいですが…。
金正日も世界的なベンツのコレクターで、貴重な車を多数所有しているらしいですが、
北朝鮮の崩壊後は、イラクの博物館の二の舞にならないよう、これらのコレクション
を米軍にしっかり警備してもらいたいところです。ちなみに、金正日はFCも所有して
いるそうです。
参考までに、各国の乗用車生産台数です。
各国の自動車産業の盛衰を図る、一つの目安にはなるかと思います。
アメリカ ドイツ フランス イギリス イタリア 日本
1938年 2001 277 190 341 59 9
1950年 6666 214 257 523 101 2
1960年 6703 1817 1175 1353 596 165
1970年 6550 3376 2226 1650 1696 3130
1980年 6428 3533 2880 937 1581 7040
2002年 5017 5123 3009 1628 1126 8618 (単位1000台)
日本の1950年から1970年までの生産の伸び方が異常ですね。他には、
イタリアやイギリスといった国の地位の低下などが読み取れるかと思います。
ちなみに、これはあくまで乗用車の生産台数ですので、トラックやRVなどは除外
されています。これらを含めた自動車の総生産台数は、2002年ですと、
アメリカ…12272(7255) 日本…10257(1639) ドイツ…5469(346) となります。
(カッコ内は乗用車以外の生産台数)
アメリカはピックアップやRVを含めると、今でも世界一の自動車生産国です。
古代の自転車スレに迷い込んでいた鉄板&車板住人でありんす。
山犬ダンナに遭うとは奇遇、漏れも遊ばせていただきやす。
まずは仁義の代わりに。
さてちょっと長くなる。ウザかったら許して欲しい。
>>22で山犬氏が紹介された黎明期のレースの中でも、
1895年のパリ‐ボルドーは史上初の長距離レースとして名高い。
何しろ往復1000km以上、東京−京都往復ってな位だ。
このレースのレギュレーションは4座。
しかし、敢えて違反扱いになるのは承知で
自ら開発した2シーターでこのレースに参加した男がいた。
それがエミール・ルヴァッソール、当時53歳だった。
彼は親友ルネ・パナールと共に、木工会社
パナール・ルヴァッソール(PL)社を経営していた。
1888年、彼らの知人である弁護士のサラザンが、
ガソリン自動車の発明者ゴットリーヴ・ダイムラーから
フランスでのダイムラー・ガソリンエンジンの製造権を買った。
自動車用のみならず、定置動力や船舶・鉄道等、
考えられる応用範囲は広かった。ベンチャーの口としては悪くない。
サラザンは、PL社に実際のエンジン製造を依頼した。
が、エンジン生産計画が進められていた矢先、サラザンが急逝。
ここで乗り出したのがサラザンの未亡人、ルイーズだった。
行動派の彼女は自らドイツのダイムラー社へ乗り込み、
ダイムラー本人から、サラザン弁護士の取った製造権は
夫人たる自分に継承されている旨の了解を取ってきたのだ。
こうして、PLでのガソリンエンジン製造は頓挫を免れたが、
あろうことかルヴァッソールとルイーズが結婚してしまった。
……エンジンのパテントはルヴァッソールのものになった。
元々ルヴァッソールには発明の才能があった。
出来上がったガソリンエンジンを利用して、
1890年に後部エンジン式の自動車を試作したが走行不安定。
そこで思い付いたのがフロントエンジン方式だった。
早くも1891年にフロントにボンネットを備えたモデルを試作。
この元祖FRレイアウトは他社のRR式より安定性が高く、
以後数年間に渡ってPL社の主力モデルとなった。
一方で初期のプジョーにエンジン供給もしていて、
山犬氏ご紹介のパリ−ルーアンレース(1894)で活躍した
プジョーのエンジンは何れもPL製ダイムラーエンジンだった。
ルーアンレースで堂々1着だったのに1等賞をもらえなかった
蒸気自動車のド・ディオン伯爵は、いたくご立腹。
雪辱を期して自ら開催に奔走したのがパリ−ボルドーレースだ。
さてこのレースでの、ルヴァッソールのマシーン(!)、
パナール・ルヴァッソール「No.5」は、例のフロントエンジン車。
しかし、ダイムラーが新たに開発したV型2気筒エンジン
「フェニックス」(SV1200cc、5馬力)を搭載していた。
(多分、史上初の愛称付パワーユニットではあるまいか)
長距離レースだが、クルー交代の方法に制限はない。
途中に多数の交代要員を置くチームが大半だったが、
大型蒸気バスで参加のチームは、キッチンやトイレまで装備していた。
(これ、レースでしょ……すごく勘違いしている気がする)
スタート日の昼、ルヴァッソール組はパリを出発。
最高速度は30km/h(それでもレースではトップの速さだった)。
馬車並のぐにゃぐにゃな全楕円リーフサスに
2気筒エンジンの爆音と振動、革製の原始的クラッチ、
原始的変速機(ギアボックスではない。歯車は裸でホコリまみれ)、
ラジエーターでなく水の自然蒸発で冷却するので100km毎に給水、
屋根もウィンドシールドも、シートベルトもヘルメットもなく、
ハンドルは丸ではなくバータイプで、絶えず舵角修整しないと
直進できないシロモノ。しかもコースはほとんどが未舗装路。
激しい振動、騒音、ホコリに晒されながら、難行苦行の大爆走、
これなら自転車で走る方がまだ楽なくらいだ。
それでもルヴァッソールは怯まず走り続けた。
助手にハンドルを握らせたのは、低速になる上り坂だけだったらしい。
計画ではボルドーまでの中間点で、別のクルーに交代する予定だった。
しかし、深夜に交代場所に着いても誰もいない。
こんなに早く着くとは予想外で、ドライバーはホテルで寝ていたのだ。
ルヴァッソールは思い切りよく、さっさと出発してしまった。
馬車並の暗い石油ランプ頼りで夜道を激走、翌日昼にボルドー着。
チェックポイントのサインを済ませたルヴァッソールは、
ワインをちょっと飲んだくらいで
まともな休憩も取らず、すぐにパリへと出発した。
帰りの中間点では、さすがに交代のドライバーが待ち受けていた。
だがルヴァッソールは「俺が運転する」と言い張った。
そして助手だけ取り替え、構わず休みなく走り続けた……
パリ出発から48時間半後、ルヴァッソールのNo.5はパリに帰った。
2位以下に大差を付けての1着だった。
フェニックスエンジンもタフだったが、ルヴァッソールが鉄人過ぎた。
車を降りたルヴァッソールはゆで卵2個とブイヨンを平らげ、
元気な様子で、新聞記者のインタビューに答えたという。
「夜道のドライブは実に危険だ。夜間レースはすべきでない」
……48時間休まない53歳の方が、ずっと危険だと思う。
のちにルヴァッソールが、レースの事故が元で亡くなったのは、
山犬氏の書くとおり。だから危険だと言ったのに。
>61 山犬氏
ソ連と言えば、軍用車両がメインで、漏れはその方面に主に住んでいるコテ
ですので…。
まぁ、小国の歴史好きとでも申しましょうか。
それにしても、トラックの歴史を書いた本はなかなか出ませんねぇ。
さてさて、もう少しソ連の自動車の歴史について書いてみましょうか。
昨日は高級車を主に紹介しましたが、今日は大衆車について。
とは言え、共産圏で自動車は高嶺の花ではありましたが。
1945年、ソ連は旧満州、東欧、独を占領下に置き、其処にあった資産を全て貨車に積んで
本国に送ります。
毛沢東が激怒したのも、その頃のお話。
Germanyの旧ソ連占領地域にあったOpelの工場では、戦前Kadetを生産していました。
戦後、ソ連の占領を受け、賠償として工場の設備一切を接収され、本国に持ち去られました。
この設備を搬入したのは、MoscowのAZLK(Lenin自動車工場)で、1947年から此処から、
戦前のOpel KadetそのままのMoskvitchが生産されています。
1000cc23馬力のEngineも、そのまま用いたほどです。
ただ、流石にstyling的に見劣りがしたと感じたのか、数年後には、前面を1949年型Fordに似せた
ものにフェイスリフトされました。
(まぁ、戦前のダットサンの金型を用いて、ダットサンスリフトを作ったと思いねぇ)
1956年には、Kadetそのままのボディから変化した402が誕生しました。
402は50年代英国の小型車風のStylingでまずまず近代化されています。
Engineも1200ccにボアアップされ、1958年には1400cc45馬力まで拡大されて407となっています。
4ドアセダン、バン、四駆Versionも生産され、少数が西側にも輸出されていました。
1964年に407のボディを箱スカみたいにした408が生産され、Deluxeは横4灯式、Standardは2灯式
ヘッドランプを設けています。
これには、ワゴンが加わり、426と呼称されました。
また、1968年からは、初代コルトに似た角形ヘッドランプを備えたボディに、軽合金ブロックSOHC
1500cc70馬力Engineの412とワゴンの427が登場し、ハッチバックIshも登場ました。
ちなみに、このEngine自体は、BMWのCopyらしいです。
1975年には、408と412はボディをルノー12風にアレンジされ、2140/2142となり、初めてシートベルト
が取り付けられます。
これは、1993年まで生産されたりしています。
Khrushchevは、Stalinとは違うことを見せつけるために、色々な施策を行いました。
で、Moskvitchを買えない大衆でもクルマを買えるように、UkraineのZaporojetzに
あるZAZ工場に、小型大衆車の開発を指示しました。
まず、Fiat600を基に、746cc空冷V型4気筒EngineのRRと言うZAZ965が作られました。
ボディはFiat600に限りなく近く、Suspensionは前がVW式のトーションバー、後がFiat600と
同じ方式です。
このEngineは、直ぐに馬力不足が判明し、887ccに拡大されZAZ-965Aとなりました。
ベネルクス三国にも輸出され、Yalta850と言う名称で販売されています。
前作965Aは、67年まで生産され、後継車はそのパワートレインを流用し、構造は同じで
ボディスタイルをGermanyのNSU PrinzIVそっくりにしたZAZ-966を1965年から生産しています。
1968年には1200ccが追加され、Belgiumでは、Yalta1000として、Renaultの直列4気筒を搭載
して売られました。
1973年には高性能版のZAZ-968が追加され、1994年までこのModelが、968Mまで生産され
ています。
ソ連では、かなり売れたようです。
1970年代はデタントの時代。
ソ連は元々関係の深かったItalyとの提携を行い、Fiat 124の工場プラントを
そのまま導入し、VAZ工場で生産を始めます。
1977年には英国を抜いてソ連の自動車生産台数は世界第6位となり、1979年
には単一車種として年間生産台数世界一位を記録する70万台を生産しています。
1970年に生産を開始したVAZ2101は、原型のFiat 124にEngineは5バルブ軽合金
ヘッドの1200ccSOHCを搭載したもの。
1972年にワゴンを追加。1974年には、ボアアップして1300cc68馬力Engineを搭載した
VAZ21011が追加されています。
1973年にはFiat 125のソ連版VAZ2103が登場しました。
しかし、本国の物と違い、ボディのみならず、足回りまで124のものを用いていました。
(本国の物は、足回りは124より前の旧式な物を用いる)
1975年には1600cc78馬力のEngineを搭載したVAZ2106が追加されています。
以後、マイナーチェンジを繰り返しながら、VAZ2105/2107として現在も生産が続いています。
なお、これらは低価格を武器に共産圏のみならず、西側諸国へも輸出され、Lada、今はNivaの
名前で販売されています。
特に、Suspensionを124そのままに、EngineをVAZ2106の1600ccにしたフルタイム4WDのVAZ2121
西側にLada Nivaの名前で売り込まれ、現在も生産されています。
日本にもこれは数台入っていたはずです。