【馬車】 車の歴史 【自動車】

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1山犬 ◆R200HRTAe.
西洋やその他多くの地域において、人や物資を運ぶ手段として、あるいは戦争の道具
として、非常に重要な役割を果たしてきた馬車と、19世紀末以降、その馬車に取って
代わっていった、自動車の歴史に関するスレです。

古代メソポタミアで馬車が発明されて以来5000年。
アッシリアの戦車、ローマの駅伝制度、中央アジアのキャラバン、西部開拓時代の
幌馬車。ダイムラーのガソリンエンジンや、フォードのベルトコンベアによる生産、
ドイツ軍からパリを救ったマルヌのタクシー等々、技術史、文化史的な事柄だけでなく、
ちょっとした車に関する豆知識やエピソードなど、とにかく車に関することなら何でも
結構です。

ぜひぜひ、マターリと語りませう。
2世界@名無史さん:03/06/14 12:12
>>1
    |┃三
    |┃  、))
    |┃, --" - 、
    |┃〃.,、   ヽ
    |┃ノ ノハヽ、  i
    |┃l'┃ ┃〈リ
    |┃|l、 _ヮ/从 わたすの出番?
    |┃/∀_ヽ.
______.| (ゝ  〈、つ
    |┃/___ゝ
    |┃/-/-|
    |┃二) ニ)
 ガラッ
3世界@名無史さん:03/06/14 12:31
BMW=バイエルン自動車工業
4世界@名無史さん:03/06/14 12:40
KKKのシンボルは、人類最大の発明である車輪をモチーフにしている
5山犬 ◆R200HRTAe. :03/06/14 13:15
とりあえず、どこから話を振ればいいのかわかりませんが。
ワゴン、クーペ、カート、バギー、コーチ、キャブ、バス、バン、ロードスター、カブリオレ、
等といった車種の分類や、リム、ワイヤハーネスなど今でも使われる自動車用語には、
馬車の用語をそのまま引き継いでいるものも多いですね。

ワゴンは四輪の荷馬車。クーペは一頭立てで二人乗りの四輪馬車。バンは箱型の
有蓋貨車。キャブは一頭立ての二輪馬車。カブリオレは、折り畳みの幌の付いた、
一頭立て二人乗りの二輪馬車、をそれぞれ意味していました。

世界でもっとも売れたオープン2シーターとして、ギネスブックにも載っている、マツダの
「ロードスター」という車がありますが、この「ロードスター」というのも馬車の用語で、
もともと、無蓋の2人乗り二輪馬車の事をさしていました。
カブリオレとほぼ同義ですが、現代では「ロードスター」は2シーターのオープンカーを
指すのに対して、カブリオレは2シーター、4シーターどちらにも使われる用語になって
いますね。
6山犬 ◆R200HRTAe. :03/06/14 13:36
ロードスターつながりでもう一つ。

ロードスターといえば、1936年に開発された「くろがね四起」という軍用車両が、
このロードスタータイプでしたね。空冷1400ccの4WDで、もともと満州で使う
事を目的に開発されましたが、太平洋戦争が始まって、陸軍が南方に進出すると
様々なトラブルが起こったため、水冷エンジンを積んだタイプも開発されました。
ちなみに、エンジンはドライサンプだったりします。

戦前に富士山の4合目や5合目まで登ったり、上野の石段を登ったりと、様々な
走破性のテストが行われ、なかなか優秀な結果を残し、約5000台が生産されましたが、
日本に現存しているのは、石川県小松市の日本自動車博物館にある1台だけです。

ちなみに、ドイツ軍で用いられたキューベルヴァーゲン・シュビムヴァーゲンの生産
台数は約7万台、アメリカのジープの生産台数は約60万台であったと記憶しています。
この数字からも、当時の日本の工業力やモータリゼーションの立ち遅れを読み取る事が
できますね。

余談ですが、自動車評論家の小林彰太郎氏が初めて運転した車が、このくろがね四起
だったそうです。
7轣駕輜:03/06/14 13:43
馬車のメーカーにも現在の自動車のようなブランドはあったのかな。

>>3
バイエルン発動機会社(Bayerische Motoren Werke)
は元々航空機のエンジンを作る会社だったかと。
8山犬 ◆R200HRTAe. :03/06/14 13:59
>>7さん
その通りです。もともと、第一次大戦中に飛行機のエンジンを作る会社として
設立されて、その後バイクを作るようになりました。自動車を作るようになった
のはさらに後、1928年にアイゼナッハ自動車工場を買収した後です。
ちなみにドイツ軍の例の有名なサイドカーを作っていたのもBMWでしたね。

馬車のブランドに関しては、自動車の黎明期に自動車を生産し始めた会社は、
もともと馬車を生産していた会社が多かったので、ブランドというものも、あったの
ではないでしょうか。
とりあえず、高名な馬車の製作者というものは存在していましたし、馬車の形式に
その製作者の名前が冠される事もありました。
イギリスの辻馬車などで使われた、二人乗り無蓋馬車の「ハンサム」という形式が
ありましたが、これは製作者のジョセフ・ハンサムにちなんで命名されたものです。
9アマノウヅメ ◆2atuWPtiaQ :03/06/14 14:06
キュリー夫人のご亭主のピエール・キュリー教授は馬車に轢かれて亡くなった。
教科書には交通事故死と書いてあったが、交通事故には違いない。
10yp:03/06/14 14:24
俺も元気だったらガンガン迷惑な厨書き込み出来るのに(笑
とりあえずシトローエンSM、CXが大好きだと中途半端に宣言して。
シトローエンSMはマセラッティのV6積んでます。

で、肩車ってなんで車なんでしょうかね?(冗談

会社に新しく入った子でロイヤルエンフィールド(インド製のバイク)
を買い、近々納車だと言ってましたが、イギリス統治下以降の第3セ
クター的なものだそうです。シフトも逆に付いてるそうな。
タイヤメーカーにせよ、こういう形で旧植民地に残ってるのって多い
ですよね。

試乗報告書かせてもらいますね。(いいって?
11山犬 ◆R200HRTAe. :03/06/14 14:27
>>9
初めての自動車事故は、1771年にキュニョーが蒸気自動車を発明したときに
起こっていますね。フランスの役人が内緒で動かしているときに起こったそうです。
まぁ、自動車と自動車事故は切っても切れない関係だという事で。

ちなみに、このキュニョーの作った蒸気自動車は「ファルディエ」という名前で、
もともと大砲を運搬するために作られたものでした。前輪駆動で、大きさは全長7.25m、
幅2.19mで、重量は2800s、積載量・牽引力が5000s(結構すごいですね)、速度は
時速4キロほどだったそうです。

この「ファルディエ」は、蒸気自動車の開発を推進していたアンボワーズの失脚後は、
捨て置かれ、結局公試試験走行すらされませんでした。
まぁ、走らせるのも大変な手間がかかり、実用化はまだ遠かったでしょうが、フランス
政府のお偉いさんがもう少し自動車に興味を持って、改良を行っていれば、ナポレオン
時代の戦争の様子が、少しは変わっていたかなぁ、と思う事があります。

この「ファルディエ」は、今でもパリの国立工芸博物館に展示されているそうで、機会が
あったら見に行きたいなぁ。
12世界@名無史さん:03/06/14 14:29
東周の6頭立て馬車が見つかったらしい
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/topics/2003jun/13/K20030613MKG1Z100000123.html
13世界@名無史さん:03/06/14 14:34
すまん。上ではとべん。写真あり
http://www.kyoto-np.co.jp/
バックナンバー→6/13→文化
14世界@名無史さん:03/06/14 14:42
>>13
感動した。
壁紙に設定しますた。
15世界@名無史さん:03/06/14 14:44
>>13
へぇー、馬の骨ってこんな形なんだ
16山犬 ◆R200HRTAe. :03/06/14 14:57
>>YPさん
どうも、お久しぶりです。
シトロエンはいいデザインの車が多いですね。2CVをはじめ、DSとかCSとか、最近
だとエグザンティアとか。まぁ、このうち私が実物を見たことがあるのは2CVとエグザ
ンティアだけなので、あんまり偉そうな事言えませんが…。
って言うか、フランス車自体、プジョー206なんかを除けば、日本じゃあんまり見られ
ませんね。シトロエンは販売台数も月に100台と200台程度ですし。

ところで、シフトが逆についているとは?
インドは日本やイギリスと同じ左側通行で右ハンドルですけど、バイクのシフトは逆に
ついてるんですか?

>>13
綺麗に残ってますね。いい物を見せて頂きました。
17世界@名無史さん:03/06/14 15:52
F・スペンサーと84年式NSR500
人類史上最強の組み合わせだった
18世界@名無史さん:03/06/14 16:30
バイクのシフトは大方が左足つま先で行うのですが、稀に右足
で行うものあります。
いつもの事ながら詳しくわかりませんが、年代が古いと規格が
定まってないので古い車種に見受けられるみたいです。

>フランス車
一番がんがってるのはルノーじゃないでしょうか?
何の尖った魅力も無いメーカーですが。
シトローエンも現状は解りませんが、過去にプジョーに吸収さ
れたり、販売代理店が西武系列だったり、ユーノス(マツダ)
だったりですしね。
有名な話ではシトローエンのトレードマークがV字ギアからと
いう事ですか。

あ、ついでに俺、ろくに調べもしない落書きしかしなく無意味
にやっと気が付いてコテハンは辞めますた(笑。
というより殆どロム専です。



>>17
スペンサーの初期色のレプリカヘルメットが欲しい。
中期?のロイヤルブルーのはあるんだけど。
19世界@名無史さん:03/06/14 17:38
ブラーフシューペリアage
20世界@名無史さん:03/06/14 21:29
>>18
そりはバイクで自動車じゃないぞなもし。
21山犬 ◆R200HRTAe. :03/06/15 23:09
うーん、このスレあんまり盛り上がりませんねぇ。さて、どうしたものか。

ご覧になられた方も多いかと思いますが、昨日と今日、世界でもっとも有名なレースの
一つであるル・マン24時間耐久レースが開催されてます。なんか、今年は今のところ
上位陣にリタイアする車が少ないので、少し盛り上がりに欠けるような気もします。
まぁ、ベントレーがリードしているので個人的には満足ですが。
というわけで、少し教科書的な説明になりますが、モータースポーツとル・マンの歴史
を少々。

自動車レースは、1894年にパリの新聞社が主催し、パリ・ルーアン間で行われたものが、
世界初であると言われています。21台の蒸気自動車とガソリン自動車がエントリーし、
126kmの距離を争われ、一番最初にゴールしたのはド・ディオン製の蒸気自動車、2位と
3位がプジョー製のガソリン自動車という結果でしたが、蒸気自動車は運転に二人必要で
あるという理由で、プジョーが繰上げで一位になりました。ちなみに、一位でゴールした
蒸気自動車の平均時速は18.7kmでした。
22山犬 ◆R200HRTAe. :03/06/15 23:16
自動車が発明されて間もない頃の初期のレースは、都市と都市の間を結ぶ都市間レース
がメインで、こうしたレースの多くは、当時世界一の自動車王国であったフランスの
首都パリを中心として開催されていました。これらのうち、主要なものを挙げると、

パリ・ボルドーレース    (1895年) パリ・マルセイユレース     (1896年)、
マルセイユ・ニース往復  (1897年) パリ・アムステルダムレース  (1898年)
フランス一周自動車レース(1896年) パリ・トゥルーズレース     (1900年)
パリ・ベルリン        (1901年) パリ・ウイーンレース      (1902年)
パリ・マドリード       (1903年) などです。

パリ・ボルドーレースに一位でゴールした、エミール・ルバッソールの運転するパナール・
ルバッソールの平均時速は24km程度でしたが、パリ・アムステルダムレースで優勝
したパナール・ルバッソールの平均時速は43km。パリ・マドリードレースでは、ついに
時速100kmを超えます。
パナール・ルバッソールというのは、レネ・パナールとエミール・ルバッソールによって
設立された世界初の自動車製造会社で、1898年に日本に初めて上陸した自動車が、
このパナール・ルバッソール製の車でした。ちなみに、エミール・ルバッソールはパリ・
マルセイユレースで事故を起こし、それがもとで亡くなっています。

1903年に開催されたパリ・マドリードレースは「死のレース」とも呼ばれ、見物人や
参加者の死亡事故が多発した為に、途中のボルドーで中止され、その後フランスでは
都市間レースは禁止されてしまいます。
23山犬 ◆R200HRTAe. :03/06/15 23:18
都市間レースが禁止された後、1906年の6月26日と27日の二日間に渡ってフランスの
ル・マンで、世界初のグランプリレースである「フランスGP」が開催されました。
11チーム、計32台が参加して、一般道をつないだ全長103kmのサーキットを一日6周
合計12周して争われ、フェレンツ・シスが運転するルノーが優勝しました。平均時速
は約101.kmでした。

ちなみに、優勝したこのルノーのエンジンは、排気量が13リッターもありました。なにぶん
ターボやDOHCなどの技術が存在しなかったため、馬力を稼ぐためには排気量を増やす
しか無かったんですね。(スーパーチャージャーはこのレース以前にルノーが特許をとって
いましたが、その後しばらく実用化されることはありませんでした。)

第一回ル・マン24時間耐久レースは、第一次大戦後の1923年5月26日・27日に開催
され、参加メーカーは18社でうち16社がフランスで、他にベントレーとベルギーのエ
クセルシオールで、台数は計35台でした。

参加資格が認められたのは30台以上生産された4人乗りの車で、修理に使用する工具も
車に搭載する事が義務付けられ、車の修理やガソリンの給油も、ドライバー自身が行わ
なければならないという規則が定められていました。
この第一回のル・マンで優勝したのはA・ラガシュとR・レオナールの乗るシュナール・
ワルケルで、走行距離は2209.5km、平均時速は約92kmです。ちなみに、1991年にマツダが
優勝した際の平均時速は205kmで、現在では210kmくらいですかね。

ちなみに、有名なル・マン式スタートが採用されたのは1925年の第三回からで、それ
以前はグリッドスタートでした。この1925年の大会からアメリカやイタリアのメーカー
も参加するようになり、以後国際レースとしての地位が高まっていき、現在に至ります。
24世界@名無史さん:03/06/16 02:19
おまいら、車輪というものがいつ頃できたか
教えてつかあさい!
25世界@名無史さん:03/06/16 02:39
>>24
紀元前3世紀ごろ、秦王・政(始皇帝)の太后の愛人「ロウアイ」が
自らの巨大ティムポで廻して太后を喜ばしたのが始まりとされる。
彼はその功績により、始皇帝から「車裂きの刑」を賜った。
26世界@名無史さん:03/06/16 02:54
>>24
古代ガリアだかゲルマンだかの土着神が車輪だったりするよね。
無論コイツラいわゆる蛮族が発明したとはとても思えないけど。
信仰の対象足り得るモノだと思います。
27世界@名無史さん:03/06/16 08:33
>>23
スーパーチャージャーって、そんな昔からあったんだ。
ちょっと驚き。
28世界@名無史さん:03/06/16 13:29
>>24
たしかに今でも不思議なのは、コロがどうやって
軸と車輪を持つ乗り物にまで一気に飛躍したか、ですよね。
ゴロゴロ転がす丸太からどうやってあそこまで発想できたのやら?
29世界@名無史さん:03/06/16 15:50
文明の発達ということを、人間がだんだん利口になってきたと
誤解してる人がいる。昔も今も人間の能力は同じ。
30世界@名無史さん:03/06/16 16:08
確か、インカ文明には車輪がなかったんだよね。
3124:03/06/16 16:10
>>25
僕も巨大テ(ry
その頃から車輪はあったんですね。
>>26
ご教示感謝。それは知らんかった。
>>28
同感なのであります。
32世界@名無史さん:03/06/16 16:31
>>30
というよりむしろ、車輪があったのは世界で
ユーラシアと北アフリカだけ、ともいえますな
33世界@名無史さん:03/06/16 16:34
なぜ日本では車を使わずに
籠なんていう非効率的なものが使われたのだろう?

インカと違って日本人は車を知らなかったわけではない。
日本にも牛車とか山車とかがある。
それなのにわざわざ籠なんかが使われてたのは不思議だ。
34世界@名無史さん:03/06/16 16:41
坂道・悪路が多すぎて車輪よりも人力のほうが
結局早く進むからと思われ。
35世界@名無史さん:03/06/16 18:15
文明開化によって、籠から人力車に進歩。
36世界@名無史さん:03/06/16 18:34
今も使われている馬車は?
観光を除けば日本では宮中関係くらい?
皇室でももっとつかってほしいです
37山犬 ◆R200HRTAe. :03/06/16 19:07
>>24さん
紀元前3000年頃書かれたと思われるシュメールの絵に、車輪が描かれたもの
があるので、その頃には(あるいはそれ以前から)存在していた事は確かなようです。
紀元前2800年から2600頃になると、馬車を描いた絵も増え、それらの絵からは車輪が
2枚以上の板から作られていた事が読み取れます。

>>26さん
仏教でも、仏像が作られる以前には、仏陀を車輪で表現したりしていましたね。
車輪は輪廻を象徴する存在です。ちなみに、輪廻は英語では Wheel of life 
と言います。

>>28さん
コロから車輪に変化したと主張する学者や、そりが変化したと主張する学者など、
色々な意見がありますね。最初の頃の車輪は、大きな木を輪切りにしたものを用い
ていたと考える学者もいますが、なにぶん資料が残っていないため、初期の車輪が
どのように生まれたかについては、結論は出ないかもしれません。
38山犬 ◆R200HRTAe. :03/06/16 19:29
>>27さん
スーパー・チャージングに関しては、ゴットリープ・ダイムラーが1885年にすでに
取得していたんですが、全く手を付けられる事無くほったらかしにされていました。
初めてスーパーチャージャーを搭載した車を作ったのは、アメリカのチャドウィック・
オートモービルで、1907年の事だと言われています。

その後、イスパノ・スイザの設計者でもあるマルク・ビルキヒトをはじめ、様々な
技術者によって研究され、第一次大戦中にはダイムラー社によってスーパーチャー
ジャーを搭載した航空エンジンが製作されました。スーパーチャージャーを搭載した
初の市販車は、1921年のメルセデス・ベンツだそうです。

日本の皇室でも御料車として使われたグロッサー・メルセデスも、スーパーチャー
ジャー付でしたね。7.7リッター直列8気筒で、230馬力を発生する化け物です。
日本ではスーパーチャージャー付きの車っていうのは少ないですね。スバルのサンバー
位かな?これに関しても、次のマイナーチェンジで無くなるという噂がありますが。
3924:03/06/16 19:41
>>37
我感謝貴方詳細返信。
40山犬 ◆R200HRTAe. :03/06/16 19:45
>>38
×ゴットリープ・ダイムラーが1885年にすでに取得していたんですが、
○ゴットリープ・ダイムラーが1885年にすでに特許を取得していたんですが、

ついでに、もう少し技術の話を。

ターボチャージャーに関しては、第一次大戦中からアメリカ軍が航空機エンジンに
搭載して実験を行い、主として航空機用に開発が進められました。
ターボが市販車に搭載されたのは、もっとずっと後、1962年のオールズ・モービルの
F85ジェットファイアが初で、故障が多発したために、わずか二年で生産中止になり
ました。ヨーロッパ車で初めてターボを積んだのは1974年のBMW2002ターボで、
同じ年にポルシェ930ターボも登場しています。

DOHCエンジンも、アイデア自体は自動車が開発されてすぐの頃から存在しており、
1912年のフランスGPでプジョー車に搭載されたのが最初です。

4WDやFF等の駆動方式や、ウィッシュボーンやストラット等の懸架方式、それに
ディスクブレーキやドラムブレーキ、オートマチック・トランスミッション、ワイパー
等、基本的な自動車に関する技術の殆どは、自動車が生まれて間もない頃にアイデア
が生まれています。

日本だと、100年の自動車の歴史の中で、その後半部分に自動車が大きく進化した
と言う印象を持つ人が多いのですが、実際には車は最初の50年に大きく進化したと
いうのが正しいと言えます。
41世界@名無史さん:03/06/17 02:01
ヒトラー考案、ワーゲンビートル
先程ついに最後に残ってたメキシコ工場がついに生産を中止しましたよね。
俺が小学生まで(80年代初頭)は、プレミア的な存在ではなく、けっこう
普通にガイシャとして街中をチラホラ走ってましたが。
オート3輪のミゼットも朧げに記憶あります。

オート3輪で思い出したのですが、イタリアに逝った時、
ベスパのオート3輪タイプがガンガンに田舎では現役でした。
2ストはうるさくてしかたがない。
42山犬 ◆R200HRTAe. :03/06/17 19:00
>>41さん
ビートルは知り合いに数回乗せてもらった事があります。
乗り心地は、まぁ…w

ビートルと言えば、設計者のフェルディナンド・ポルシェは、一時期オーストリア
皇太子のフェルディナンド大公の運転手を勤めていたことがありました。

…まぁ、ただの豆知識です。酒の席などでどうぞ。
43山犬 ◆R200HRTAe. :03/06/20 00:47
丸2日間書き込みなし。さみしぃ…。
そこで、ある日、山犬は、じぶんのスレのまえに、木の立てふだを立てました。

ココロノ ヤサシイ ヤマイヌノ スレデス
ドナタデモ カキコンデ クダサイ
クルマノシツモン オコタエ イタシマス
クルマノウンチク ヨウイシテ ゴザイマス

そう、立てふだにかかれました。やさしいかなの文字をつかって、山犬は、ことば
みじかく、かきしるしたのでありました。

ここで問題を出します。
史上初めて速度記録100km/h以上を記録した自動車は、カミーユ・ジェナッツィの乗る
ル・ジャメ・コンタント号で、それは1899年4月29日の事でした。
それでは、初めて自動車が200km/hの壁を超えたのは、果たしていつの事だったでしょうか?
西暦でお答えください。
44世界@名無史さん:03/06/20 01:28
>>43
1935年くらい?
45山犬 ◆R200HRTAe. :03/06/20 01:36
>>44さん
こんなに早く答えて頂けるなんて、嬉しいです…(´;ω;`)ウッ

答えは、来週の月曜日あたりに発表いたします。
正解された方(一番近かった方)には、名誉を差し上げます。
46世界@名無史さん:03/06/20 02:00
>>43
ずばり、1945年!
47世界@名無史さん:03/06/20 02:55
鉄道馬車
http://www.tokyo-gas.co.jp/gas_museum/nishiki_e/pic/19.html

今読んでる「モスクワ」という本の写真では2階建てで
車両自体も鋼鉄フレームでかなりの重量がありそうだけ
ど、2頭曵きではようするに2馬力な訳で(W
48世界@名無史さん:03/06/20 21:02
>>43

> ココロノ ヤサシイ ヤマイヌノ スレデス
> ドナタデモ カキコンデ クダサイ
> クルマノシツモン オコタエ イタシマス
> クルマノウンチク ヨウイシテ ゴザイマス

この元ネタなんだっけ?

うーん時速200`ねぇ
瞬間スピードなら1910年くらいに達成されてたんじゃね?


自分は、自動車メーカーの離合集散の歴史とかに知識はないが興味があるので
板違いかもしれんがそのあたりをやってくれるとうれしいかも
49世界@名無史さん:03/06/20 21:33
>>48
んー、雰囲気的には宮沢賢治あたりのネタですかね。

>>43
自動車の最高速度の定義なんですが、たしか一定区間の平均時速で
計測するんですよね?
瞬間最高速度って話じゃなければ、やはり戦後でしょうか。
50とてた:03/06/20 22:21
>>49
「泣いた赤おに」は浜田廣介の作品です。
51眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/06/21 00:04
>>7
馬車のコーチビルダーから、自動車のボディ架装に転身した例があったかも知れ
ません。

異業種から、自動車に転身したのは、歯車メーカーのシトロエンを筆頭に色々あり
ますが、航空機メーカーからの転身組は、GermanyのHeinkelとかMesserschmittが
有名ですが、英国のBristolも1947年にBMWを生産することから自動車に参入し、
未だに独立系メーカーとして頑張ってますね。
他に、英国ではArmstrong-Siddley(Vickers系)とかが高級車メーカーとして孤軍
奮闘していました。

また、英国にはAlvisと言う会社がありました。
この会社は高級サルーンを作っていましたが、片や軍用トラックの大手メーカーでも
あります。
52世界@名無史さん:03/06/21 01:45
>>38
国産スーパーチャージャーは
豊田のAE92/AE101、GX80、GS130、AW11、あと型番知らんがESTIMAにもある
日産のK10
富士重工のPLEO、REX、VIVIO(型番不明)
ああそういや三菱のDEBOにもあったな。

もはや絶滅危惧種


53世界@名無史さん:03/06/21 10:46
もし仮に1989年の自動車税の改正が無かったならば
今でも幅狭で過給機付の車が主流だったかもしれない。

当時はワイドボディなだけで現在の4リッター車並の
税金を納めなくてはならなかったのだから・・・。
54山犬 ◆R200HRTAe. :03/06/21 12:40
>>眠い人さん
もともと馬車を作っていて、現在自動車メーカーとして残っている例と言うのは殆ど
無いでしょうね。細々とボディ架装をやっている所はあるでしょうけど。

あるいはピニンファリーナのようにデザインスタジオのような形で残っていたり、パーク
ウォードのように車名に残っている例などはありますね。
(まぁ、ピニンファリーナも、もともと自動車の架装を行うメーカーとして出発している
ので、本来の意味の「コーチビルダー」ではありませんね…)

眠い人さんの書込みにある、「ボディ架装」ということに関してちょっと補足説明させて
頂きます。自動車というのはもともと馬車から発達したものだというのは皆さんご存知
だと思いますが、馬車というのはシャシー(車台)とキャビンが別々になっていて、その
二つを組み合わせて作られていました。

初期の自動車も、このような馬車の作り方を踏襲しており、コーチビルダーは多くは、
ボディーの製造に特化し、ベンツやルノーといった自動車メーカーからシャシーを買い、
王侯貴族や大富豪向けに、豪華なキャビンをワンオフで製造したりしていました。
まぁ、自動車が大衆的なものとなり、またモノコックボディーが主流となってくると、
こうしたコーチビルダーが廃れて行ったのも無理からぬことと言えるかもしれません。

ちなみに、現在のようなモノコックボディーの車が量産車として作られ始めるのは
1930年代ごろからでしょうかね。
55山犬 ◆R200HRTAe. :03/06/21 13:01
自動車メーカーの、航空機メーカーからの転身組だと、他には日本の三菱とスバル、
スウェーデンのサーブなんかがありますね。あとは日産も、プリンス自動車の母体と
なったのは立川飛行機と中島飛行機ですので、航空機メーカーの流れを受け継いで
いることになります。

>>52さん
>>38で挙げたのは、現在残っているスーチャ搭載車ということで…。
プレオを忘れていたのは不覚でした。

>>53さん
特に年配の方などには、いまだに3ナンバーに抵抗感を持っていらっしゃる方が多い
ですね。3ナンバー化したセダンは軒並み販売不振といった感じですし、レガシィも、
たった3.5センチ幅広になっただけで、最小回転半径は先代より小さくなってるにも
関わらず、色々言われてますし。個人的には、3ナンバー枠・5ナンバー枠という無意味
な括りは無くして欲しいと思うのですが。昔のように税金が変わるわけでもないですし。
56世界@名無史さん:03/06/21 13:43
ジャガーがフォード傘下になる以前の英国国営企業だった頃は
マーガレット・サッチャー首相が来日の際にも営業活動して
たよね。

57世界@名無史さん:03/06/21 14:51
馬車に興味があるのですが、
基本的な構造がのったページをご存知ないでしょうか?
58眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/06/21 16:04
>山犬氏

最初のモノコック構造のボディは1920年代のランチアでは無かったかなと思うです。
量産車なら、2CVとかでしょうか。

さて、ロシアに於ける自動車というと、帝政期は欧州各国からの輸入が殆どを占めて
いました。
ソ連成立後、時代が落ち着いて、1924年に1.5t積のトラックAMO-F-15と言うのがソ連初の
自動車として、AMO工場で1931年まで製造されました。
これに搭載された35馬力4気筒エンジンは、当時のFiat1.5lエンジンを基にしていました。
F-15の"F"はFiatの、15は1500ccの事を指します。
この同じシャーシで、乗用車型(フェートン)も何台か作られました。

1927年に、MoscowのSoviet及びEngine研究協会(NAMI)が設計、シュパルタク工場で
初めての量産型車両として、NAMI-1が製造されました。
これは20馬力空冷2気筒の乗用車で、1932年までに300台ほど製造されています。

1933年、AMOはZavod Imeny Stalin、即ちZISとなりました。
1956年には、この工場はStalin批判の煽りで、当時の指導者だったLicachev(リカーチェフ)
の名を冠し、ZILとなります。
もう一つ、1931〜32年にGorkyに、米国の援助でZavod Imeny Molotov(ZIM)工場が建てられ、
これは、GAZ(Gorky Automobile Zadad)工場となりました。
59眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/06/21 16:24
GAZに設置された工作機械は、BerlinのGermany Fordが移転して、ModelBを生産したときに
入手したもので、Fordの全面協力で、1932年に乗用車のGAZ-Aが、トラックのGAZ-AAが
生産を開始しました。
1933年にはGAZ-AAAと言う6輪トラックも生産されています。
これらは、1930年のFord Model-AまたはModel-AAで、1936年にはModel-Aの4気筒エンジン
を用いながら、1933〜34年型Fordそのままのボディーを架装した、GAZ-M-1乗用車に発展
しています。
1940年からは、同じボディーでラジエータ周りを少し変更したGAZ-11-73に変わりました。
このシャーシの4×4型は、GAZ-61として1948年まで細々と生産されています。

大戦中、連合国から各種の軍用車両を入手したソ連は、特にジープに着目し、1943年にそのCopy
生産版として、GAZ-Aのエンジンを用い、4×4の軽量シャーシに載せた、GAZ-67を生産しました。
また、Ford GPA(水陸両用ジープ)は、MAV(GAZ-46)としてそっくり同じ物が生産されています。
これらは、1953年まで生産され、GAZ-69に変更されました。

大戦後、ZISは政府要人用に大型乗用車を生産します。
これは、「テールライトの赤いレンズまで」Rooseveltが送ったと言われた、ZIS-110で、これは1942年の
Packard Super 8リムジンのそっくりそのままCopyで、毛沢東や、金日成などにも送られました。
金日成が使ったと言われているZIS-110は、朝鮮戦争で国連軍に捕獲され、今は韓国にあるそうです。
ちなみに、占領下の日本にも、ソ連代表部が2台、このクルマを用いていました。

ZIS-110は、その後1957年にZIL-111に変わりました。
これも、1955年型Packard殆どそのままのスタイルで、その頃の米国車と同じく、V型8気筒5980ccEngineに、
プッシュボタン式2段ATを備えていました。
1965年に、機構はそのままでボディだけ、1959年型キャデラックスタイルのZIL-111Gに変更され、1967年に
スタイルと機構を一新し、米国車の影響を脱した、ZIL-114、ショートホイルベースのZIL-117に代わり、85年まで
生産されています。
1978年には、新ボディのZIL-115が加わり、これは、未だに生産されています。
60眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/06/21 16:42
GAZからは、一つランクを下げた幹部用の乗用車、ZIM-12とか、更にワンランク
下がった、中堅幹部用のPopiedaが1947年から生産されていました。
これらは、古いFordのEngineをModifyしたもので、前者が3500cc6気筒サイドバルブ、
後者は、2000cc4気筒55馬力のものです。

1958年から、ZIMはChaikaにモデルチェンジしました。
勿論、ZILと同じく、55年型Packardそのままのフロントマスク、機構で、Engineは、V型
8気筒5500ccを搭載しています。
1960年頃に1958年型ランブラーと同じ様な4灯式が試作されましたが、1963年まで2灯
のまま作られました。
1964年から、ZIL-114風にモデルチェンジされています。

一方、Popiedaの後継は、1955年にモノコックボディを採用した、Volga GAZ-21が誕生し、
これらは、警察車両やら、タクシーとして主に使用されています。
1969年にモデルチェンジし、1979年には近代化型が作られています。
なお、VolgaはBelgiumでも組み立てられ、ローバー、プジョーのDiesel engineを搭載した
型が西側にも売られていたそうです。
61山犬 ◆R200HRTAe. :03/06/21 16:58
>>眠い人さん
その通りです。世界初のモノコックボディー車は1922年に発表され、翌年から
市販された、ランチアの「ラムダ」であるといわれています。
シャシーフレームを持たずにサイドのパネルで強度を維持して、フレームの役割
を担当していました。今のモノコックボディーとはちょっと違いますね。

量産車だと、シトロエンの「トラクシオンアヴァン(7CV)」(1934年発売)なんかが、
初期のモノコックボディー採用車でしょうか。確かヒストリーチャンネルの「世界の
名車」だったかと思いますが、このトラクシオンアヴァンを崖から落として、モノコック
ボディーの頑丈さをアピールするCM、なんてのを見た記憶があります。

ところで、眠い人さんは何でそんなにロシアの車に詳しいんですか?
私は、ロシアの車はジルくらいしか知りません。
金日成に贈られたジルは、現在は平壌の博物館に展示されているそうですね。

まぁ、どうも金日成はベンツのSLの方が好きだったみたいですが…。
金正日も世界的なベンツのコレクターで、貴重な車を多数所有しているらしいですが、
北朝鮮の崩壊後は、イラクの博物館の二の舞にならないよう、これらのコレクション
を米軍にしっかり警備してもらいたいところです。ちなみに、金正日はFCも所有して
いるそうです。
62山犬 ◆R200HRTAe. :03/06/21 17:57
参考までに、各国の乗用車生産台数です。
各国の自動車産業の盛衰を図る、一つの目安にはなるかと思います。

      アメリカ  ドイツ  フランス イギリス イタリア  日本
1938年  2001    277    190     341      59      9 
1950年  6666    214    257     523    101      2
1960年  6703   1817   1175   1353     596     165
1970年  6550   3376   2226   1650   1696   3130
1980年  6428   3533   2880     937   1581   7040
2002年  5017   5123   3009   1628   1126   8618  (単位1000台)

日本の1950年から1970年までの生産の伸び方が異常ですね。他には、
イタリアやイギリスといった国の地位の低下などが読み取れるかと思います。

ちなみに、これはあくまで乗用車の生産台数ですので、トラックやRVなどは除外
されています。これらを含めた自動車の総生産台数は、2002年ですと、
アメリカ…12272(7255) 日本…10257(1639) ドイツ…5469(346) となります。
(カッコ内は乗用車以外の生産台数)

アメリカはピックアップやRVを含めると、今でも世界一の自動車生産国です。
63世界@名無史さん:03/06/22 09:51
古代の自転車スレに迷い込んでいた鉄板&車板住人でありんす。
山犬ダンナに遭うとは奇遇、漏れも遊ばせていただきやす。
まずは仁義の代わりに。

さてちょっと長くなる。ウザかったら許して欲しい。
>>22で山犬氏が紹介された黎明期のレースの中でも、
1895年のパリ‐ボルドーは史上初の長距離レースとして名高い。
何しろ往復1000km以上、東京−京都往復ってな位だ。
このレースのレギュレーションは4座。
しかし、敢えて違反扱いになるのは承知で
自ら開発した2シーターでこのレースに参加した男がいた。
それがエミール・ルヴァッソール、当時53歳だった。
彼は親友ルネ・パナールと共に、木工会社
パナール・ルヴァッソール(PL)社を経営していた。
1888年、彼らの知人である弁護士のサラザンが、
ガソリン自動車の発明者ゴットリーヴ・ダイムラーから
フランスでのダイムラー・ガソリンエンジンの製造権を買った。
自動車用のみならず、定置動力や船舶・鉄道等、
考えられる応用範囲は広かった。ベンチャーの口としては悪くない。
サラザンは、PL社に実際のエンジン製造を依頼した。
が、エンジン生産計画が進められていた矢先、サラザンが急逝。
ここで乗り出したのがサラザンの未亡人、ルイーズだった。
64世界@名無史さん:03/06/22 09:51
行動派の彼女は自らドイツのダイムラー社へ乗り込み、
ダイムラー本人から、サラザン弁護士の取った製造権は
夫人たる自分に継承されている旨の了解を取ってきたのだ。
こうして、PLでのガソリンエンジン製造は頓挫を免れたが、
あろうことかルヴァッソールとルイーズが結婚してしまった。
……エンジンのパテントはルヴァッソールのものになった。
元々ルヴァッソールには発明の才能があった。
出来上がったガソリンエンジンを利用して、
1890年に後部エンジン式の自動車を試作したが走行不安定。
そこで思い付いたのがフロントエンジン方式だった。
早くも1891年にフロントにボンネットを備えたモデルを試作。
この元祖FRレイアウトは他社のRR式より安定性が高く、
以後数年間に渡ってPL社の主力モデルとなった。
一方で初期のプジョーにエンジン供給もしていて、
山犬氏ご紹介のパリ−ルーアンレース(1894)で活躍した
プジョーのエンジンは何れもPL製ダイムラーエンジンだった。

ルーアンレースで堂々1着だったのに1等賞をもらえなかった
蒸気自動車のド・ディオン伯爵は、いたくご立腹。
雪辱を期して自ら開催に奔走したのがパリ−ボルドーレースだ。
さてこのレースでの、ルヴァッソールのマシーン(!)、
パナール・ルヴァッソール「No.5」は、例のフロントエンジン車。
しかし、ダイムラーが新たに開発したV型2気筒エンジン
「フェニックス」(SV1200cc、5馬力)を搭載していた。
(多分、史上初の愛称付パワーユニットではあるまいか)
長距離レースだが、クルー交代の方法に制限はない。
途中に多数の交代要員を置くチームが大半だったが、
大型蒸気バスで参加のチームは、キッチンやトイレまで装備していた。
(これ、レースでしょ……すごく勘違いしている気がする)
65世界@名無史さん:03/06/22 09:52
スタート日の昼、ルヴァッソール組はパリを出発。
最高速度は30km/h(それでもレースではトップの速さだった)。
馬車並のぐにゃぐにゃな全楕円リーフサスに
2気筒エンジンの爆音と振動、革製の原始的クラッチ、
原始的変速機(ギアボックスではない。歯車は裸でホコリまみれ)、
ラジエーターでなく水の自然蒸発で冷却するので100km毎に給水、
屋根もウィンドシールドも、シートベルトもヘルメットもなく、
ハンドルは丸ではなくバータイプで、絶えず舵角修整しないと
直進できないシロモノ。しかもコースはほとんどが未舗装路。
激しい振動、騒音、ホコリに晒されながら、難行苦行の大爆走、
これなら自転車で走る方がまだ楽なくらいだ。
それでもルヴァッソールは怯まず走り続けた。
助手にハンドルを握らせたのは、低速になる上り坂だけだったらしい。
計画ではボルドーまでの中間点で、別のクルーに交代する予定だった。
しかし、深夜に交代場所に着いても誰もいない。
こんなに早く着くとは予想外で、ドライバーはホテルで寝ていたのだ。
ルヴァッソールは思い切りよく、さっさと出発してしまった。
66世界@名無史さん:03/06/22 09:52

馬車並の暗い石油ランプ頼りで夜道を激走、翌日昼にボルドー着。
チェックポイントのサインを済ませたルヴァッソールは、
ワインをちょっと飲んだくらいで
まともな休憩も取らず、すぐにパリへと出発した。
帰りの中間点では、さすがに交代のドライバーが待ち受けていた。
だがルヴァッソールは「俺が運転する」と言い張った。
そして助手だけ取り替え、構わず休みなく走り続けた……
パリ出発から48時間半後、ルヴァッソールのNo.5はパリに帰った。
2位以下に大差を付けての1着だった。
フェニックスエンジンもタフだったが、ルヴァッソールが鉄人過ぎた。
車を降りたルヴァッソールはゆで卵2個とブイヨンを平らげ、
元気な様子で、新聞記者のインタビューに答えたという。
「夜道のドライブは実に危険だ。夜間レースはすべきでない」
……48時間休まない53歳の方が、ずっと危険だと思う。

のちにルヴァッソールが、レースの事故が元で亡くなったのは、
山犬氏の書くとおり。だから危険だと言ったのに。
67眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/06/22 13:49
>61 山犬氏
ソ連と言えば、軍用車両がメインで、漏れはその方面に主に住んでいるコテ
ですので…。
まぁ、小国の歴史好きとでも申しましょうか。
それにしても、トラックの歴史を書いた本はなかなか出ませんねぇ。

さてさて、もう少しソ連の自動車の歴史について書いてみましょうか。
昨日は高級車を主に紹介しましたが、今日は大衆車について。

とは言え、共産圏で自動車は高嶺の花ではありましたが。
1945年、ソ連は旧満州、東欧、独を占領下に置き、其処にあった資産を全て貨車に積んで
本国に送ります。
毛沢東が激怒したのも、その頃のお話。

Germanyの旧ソ連占領地域にあったOpelの工場では、戦前Kadetを生産していました。
戦後、ソ連の占領を受け、賠償として工場の設備一切を接収され、本国に持ち去られました。
この設備を搬入したのは、MoscowのAZLK(Lenin自動車工場)で、1947年から此処から、
戦前のOpel KadetそのままのMoskvitchが生産されています。
1000cc23馬力のEngineも、そのまま用いたほどです。

ただ、流石にstyling的に見劣りがしたと感じたのか、数年後には、前面を1949年型Fordに似せた
ものにフェイスリフトされました。
(まぁ、戦前のダットサンの金型を用いて、ダットサンスリフトを作ったと思いねぇ)
68眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/06/22 13:49
1956年には、Kadetそのままのボディから変化した402が誕生しました。
402は50年代英国の小型車風のStylingでまずまず近代化されています。
Engineも1200ccにボアアップされ、1958年には1400cc45馬力まで拡大されて407となっています。
4ドアセダン、バン、四駆Versionも生産され、少数が西側にも輸出されていました。

1964年に407のボディを箱スカみたいにした408が生産され、Deluxeは横4灯式、Standardは2灯式
ヘッドランプを設けています。
これには、ワゴンが加わり、426と呼称されました。
また、1968年からは、初代コルトに似た角形ヘッドランプを備えたボディに、軽合金ブロックSOHC
1500cc70馬力Engineの412とワゴンの427が登場し、ハッチバックIshも登場ました。
ちなみに、このEngine自体は、BMWのCopyらしいです。

1975年には、408と412はボディをルノー12風にアレンジされ、2140/2142となり、初めてシートベルト
が取り付けられます。
これは、1993年まで生産されたりしています。
69眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/06/22 14:02
Khrushchevは、Stalinとは違うことを見せつけるために、色々な施策を行いました。

で、Moskvitchを買えない大衆でもクルマを買えるように、UkraineのZaporojetzに
あるZAZ工場に、小型大衆車の開発を指示しました。
まず、Fiat600を基に、746cc空冷V型4気筒EngineのRRと言うZAZ965が作られました。
ボディはFiat600に限りなく近く、Suspensionは前がVW式のトーションバー、後がFiat600と
同じ方式です。
このEngineは、直ぐに馬力不足が判明し、887ccに拡大されZAZ-965Aとなりました。
ベネルクス三国にも輸出され、Yalta850と言う名称で販売されています。

前作965Aは、67年まで生産され、後継車はそのパワートレインを流用し、構造は同じで
ボディスタイルをGermanyのNSU PrinzIVそっくりにしたZAZ-966を1965年から生産しています。
1968年には1200ccが追加され、Belgiumでは、Yalta1000として、Renaultの直列4気筒を搭載
して売られました。

1973年には高性能版のZAZ-968が追加され、1994年までこのModelが、968Mまで生産され
ています。
ソ連では、かなり売れたようです。
70眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/06/22 14:18
1970年代はデタントの時代。

ソ連は元々関係の深かったItalyとの提携を行い、Fiat 124の工場プラントを
そのまま導入し、VAZ工場で生産を始めます。
1977年には英国を抜いてソ連の自動車生産台数は世界第6位となり、1979年
には単一車種として年間生産台数世界一位を記録する70万台を生産しています。

1970年に生産を開始したVAZ2101は、原型のFiat 124にEngineは5バルブ軽合金
ヘッドの1200ccSOHCを搭載したもの。
1972年にワゴンを追加。1974年には、ボアアップして1300cc68馬力Engineを搭載した
VAZ21011が追加されています。

1973年にはFiat 125のソ連版VAZ2103が登場しました。
しかし、本国の物と違い、ボディのみならず、足回りまで124のものを用いていました。
(本国の物は、足回りは124より前の旧式な物を用いる)
1975年には1600cc78馬力のEngineを搭載したVAZ2106が追加されています。
以後、マイナーチェンジを繰り返しながら、VAZ2105/2107として現在も生産が続いています。

なお、これらは低価格を武器に共産圏のみならず、西側諸国へも輸出され、Lada、今はNivaの
名前で販売されています。

特に、Suspensionを124そのままに、EngineをVAZ2106の1600ccにしたフルタイム4WDのVAZ2121
西側にLada Nivaの名前で売り込まれ、現在も生産されています。
日本にもこれは数台入っていたはずです。
71山犬 ◆R200HRTAe. :03/06/22 21:04
>>63さん
大変面白い話を、どうもありがとうございました。
エミール・ルヴァッソールは、元祖車バカといった感じで、大好きな人物です。
レースで亡くなられてしまったのは残念ですが。

パリ・ボルドーレースに参加したパナール・ルバッソールは、やはり63さんの
仰られるように、FRレイアウトとエンジンフードの採用が特徴的ですね。
プジョーなど他社の車は、RRレイアウトの上エンジンむき出しで、砂埃の影響
をもろに受けるのに対し、砂埃を被りにくい構造のルバッソール車は、長い距離
を走ると差が大きく出たのでしょうね。

FRといっても、まだプロペラシャフトが採用される以前ですので、べベルギアで
回転方向を変えて中間軸に動力を伝え、そこからプーリーとチェーンによって
後輪を駆動させているという構造ですが、自転車の構造にやや近いです。

それにしても、パリ・ボルドーレースは全長1180kmの距離を争われたそうですが、
発明されてまだ10年しかたたないガソリン自動車が、よくまぁ走りきったものです。

ちなみにこのレースの結果、蒸気自動車にこだわっていたドゥ・ディオン・ブートン
伯爵もガソリン自動車の優位性を認め、その後数年間で2万基以上のエンジンを
生産し、モータリゼーションの進展に貢献しました。
72山犬 ◆R200HRTAe. :03/06/22 21:16
日本でも大正時代から好事家によって規模の小さなレースは行われていたそうですが、
本格的な自動車レースの開催は1963年の第一回日本グランプリが最初です。今でも
日本では、こうしたモータースポーツの人気や地位は、アメリカやヨーロッパにおける
それと比べると、かなり低いですね。

上に挙げたような自動車レースが、自動車の発展に与えた影響は絶大です。過酷な
条件のレースに参加して、様々な試行錯誤を繰り返し、そうすることによって自動車
の性能や信頼性といったものを向上させていくことができました。先進的な技術が、
まずレーシングカーに採用され、その後市販車に採用された例も数限りなくあります。

日本の場合は、完成された生産技術ごと西洋から輸入してしまったので、こうした
レースの伝統というものが希薄なのでしょうね。ですが、現在の日本は世界第二位の
自動車生産国であり、自動車産業は日本の主要産業なのですから、せめてWRCや
ル・マン位は、もう少し放送時間を延ばして欲しいものだと思います。

>>63さんも、もしよろしければ、このスレに色々書き込んでください。貴方や眠い人さん
のような知識のある方がいらっしゃると、非常に助かります。色々至らぬ点はあるかと
思いますが、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
(あ、あと私も車板や車〆板の住人ですよ。コテハンは使ってませんが)
73山犬 ◆R200HRTAe. :03/06/22 21:51
>>眠い人さん
眠い人さんは軍板の方なのですね。

ソ連の自動車産業に関しては殆ど知識がありませんでしたが、大衆向けの小型
自動車に関しては、基本的にヨーロッパの生産技術に頼っていたという事なのですね。
大変勉強になりました。

ソ連の車に関してぐぐって見たら、色々出てきました。
ttp://www.amazon.ru/~eagle/vaz/vaz_model.html
共産圏の車などというと、トラバントみたいな化石のような車か、もう少し無骨な車を
想像してしまいましたが、なかなかスタイリッシュですね。(フィアット製だから当然か)

それにしても、フィアットという会社は昔から共産圏とつながりが深いですね。
最近ですと、北朝鮮に技術供与をして、南浦に年間1万台程度の生産能力を持った
自動車工場が建設されましたし。(フィアットは出資はしていませんが)

あ、あと、>>61に書いた
>金日成に贈られたジルは、現在は平壌の博物館に展示されているそうですね
ここの部分は、ちょっと間違ってました。正しくは、妙香山近くの「国際親善展覧館」
というところに展示されているそうです。
74世界@名無史さん:03/06/23 00:11
現在、文藝春秋に連載されている「ザ・ハウス・オブ・トヨタ 自動車王 豊田一族の150年」が
日本のモータリゼーションについて書かれてあり興味深いものがあります。
75世界@名無史さん:03/06/23 02:29
硬派スレですねー

各国首脳の乗る車(馬車)についての歴史なんてのも御教示頂けると
嬉しいっす。
装備も同じ車種の市販車と違うだろうし。
76眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/06/23 23:45
>73 山犬氏
Fiatは、昔からあちこちに進出していました。
あちこちに進出というと、GMとかFordが有名ですけどね。

1929年にドイツに進出。
これはNSUが自動車生産から撤退した際に、ハイルブロン工場を購入した物で、
NSUが再び自動車生産に参入した1958年にNSU-FiatからNeckerに社名を変更
しました。
オーストリアには、License生産で、Steyer-Puch社がFiat500に独自のエンジンを
積んだクルマを生産していますし、スペインでは、1950年に子会社Seatを設立して
います。

1934年、フランスに設立されたSociete Industrielle de Mecanique et Carosserie Automobile、
略してSimcaも同じく、Fiatの資金援助を受けています。
これは、フランスの高関税を避けるために、部品の形で輸入して最終組立を始めた
もので、その後、戦前に完全国産化を進め、1951年に中身はFiat系で外見は戦後派のアロンド
がヒットし、フランス第四のメーカーになりました。
1954年にはFrance-Fordを、1959年にはTarubotを吸収し、旭日の勢いかと思われましたが、
1963年にChryslerに買収され、今はPeugeotに吸収されて消滅しています。

ソ連・東欧圏では、先述のZhiguli(VAZ)がありますが、Polandには戦前からPolski-Fiatがあり
ました。
戦後はソ連との関係が優先され、ソ連お下がりのクルマなどを生産していましたが、陳腐化し、
1968年に、WarsawのFabryka Samochodow Osobowych(FSO)でFiat125の生産を始めました。
これは、ソ連と違い、機構はItalyのものと同じく、旧型のFiat1300/1500を流用していました。
これらは、1991年まで生産されてました。
1972年から、Fiat126Pが本国の126と同じく生産されています。
このModelは、FSOではなく、FSM(Fabryka Samochodow Malolitrazowych)で作られています。
1978年には、125Pを基に、ジウジアーロデザインの車体を載せたPolonezが開発され、1988年まで
生産されています。
77眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/06/23 23:45
Yugoslaviaでも、Belgrade南方の兵器/機械メーカーのZavodi Crvena Zastava(ZCZ)がZastava
と言うブランド名で、Fiatを生産していました。
最初は、600Dと旧1300を作っていましたが、600DはSpain Versionで、後に124/125の製造を開始し
ました。
しかし、この124は、ソ連のVAZ2101を国産化したもの、125はPolski-Fiat 125Pの国産化版で、オリ
ジナルのFiatのものは無かったりします。
唯一、Original ModelのZastava101は、Fiat128を基にそのNotchBackをRear Gate付のハッチバック
セダンにしたものでした。

1976年、VWに独占されていたBrazilに、Fiatが殴り込みました。
元々、BrazilにはFabrica National de Motores SA(FNM)という国営航空機Engineメーカーがあり、
その株式をFiatが80%握っていました。
まず、Alfa-Romeoが先兵として、1956年、トラック生産で先発し、高級車市場で、Willisと共に名を
馳せていました。
そして、大衆車に進出すべく、Fiat127を基にボディ、Engineを新設計にした、Fiat147を開発したの
です。
これはそこそこ売れ、1987年まで生産されました。

Argentinaでは、Fiat-Concordeという現地法人が、最大のシェアを持ち、本国からのノックダウン生産
を行っていました。
生産していたのは、600に800ccEngine、850ccEngineを載せた、600R/S、128、125でしたが、国情に
併せて、ピックアップそれに、本国の125では遂に日の目を見なかった125のクーペモデル、Sportも
独自モデルとして生産されていました。
78眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/06/24 00:07
>74
板違いだけど、日本の戦前の話ですが、戦前は、黒地に白字でプレートが
交付されていました。
余談ながら、特殊車が白地に黒、後に青地に白、小型車がオレンジ地に黒で、
小型車のプレートは前面に無くても良かったそうです。
また、バス、タクシーなど営業車には、乗客に見えるところに第三のプレートを
表示する必要があったとか。

で、このプレートは世襲というか、持ち回りが可能だったりします。
他道府県の場合、そのプレートには県名が一文字目に書かれましたが、東京
市の場合、無記名で番号だけ書かれていました。

そのうち、1〜100の番号はアンタッチャブルで、警官でも手を出しかねるもの
だったと言います。

ちなみに、「1」のナンバープレートは明治屋のトラックが常に所持していました。
これは、横浜でプレート無しで使われていましたが、内務省が自動車に番号を
付けることにしたと聞いて、真っ先に駆けつけたものだそうです。
しかし、残念ながら「1」は三越に取られ、「3」を貰い受けました。
ところが、三越は「3」が欲しかったので、「1」は目出度く明治屋の手に入った
そうです。

>75
もう少し待って下しい。
明日辺り、忙しくなければ、その辺に触れてみようかと。
79山犬 ◆R200HRTAe. :03/06/24 18:25
>>75さん
うーん、各国首脳の乗る車ですか。そういったVIPの乗る車は、自動車を生産
している国であれば、その国の最高級車をコーチビルダーに依頼して改造し、
使用してますね。暗殺などの危険を避けるため、詳しいスペックは明らかに
されていない事も多いです。

各国のリムジンに関しては、下記のページにいろいろ載ってます。
ttp://mitglied.lycos.de/albeyer/index.htm
上のUS limousines、German limousinesとかをクリックしてみてください。
アメリカの大統領ですと、伝統的にキャデラックが使用される事が多いですね。
ケネディ大統領はリンカーンでしたが。暗殺された時、1964年型のリンカーン・
コンチネンタルに乗っていたことはあまりに有名ですね。

今の小ブッシュもキャデラックに乗ってますね。これは、シボレーのサバーバン
をベースに作られているという話で、この事は上記のページにも書かれています。

他の国ですと、イギリス王室ではロールスロイスのファントムがエリザベス女王
のお気に入りですし、フランスのドゴール大統領はシトロエンDSに乗っていま
したね。下のページに、ドゴール専用DSの写真が載ってます。
ttp://www.tcp-ip.or.jp/~citron/paris/retromobile.html
80山犬 ◆R200HRTAe. :03/06/24 18:41
次に、日本の皇室に関して少々。

日本でも皇室の行事の際などには馬車が用いられる事もありますが、その頻度
は多くはありませんね。馬車の方が見栄えはするのですが、過激派が爆発物を
投げ込んだ場合の安全性などを考慮すると、仕方無いかも知れません。
馬は基本的に臆病な動物ですので、爆発音などを聞くと驚いて暴走する危険も
ありますし。(もちろん、こういった馬は大きな音がしても驚かないよう、きちんと
訓練されているそうですが、万一ということもありますので)

さて、皇室で初めて自動車を導入する事が決定されたのは、明治44年の事でし
た。自動車マニアとして知られていた大倉喜七郎が車種選定の責任者に任命され、
同年ヨーロッパへの視察旅行に出発し、様々な車種を比較検討した結果、デイム
ラー車が選ばれました。これはイギリス王室でも御料車として採用されていた、
当時の最高級車でした。

ちなみに、デイムラーというのはイギリス最古の自動車メーカーで、ドイツの
ダイムラーからエンジンのライセンスを取得し、それにちなんで車名が付けられ
たそうです。綴りもダイムラーと同じです。第二次大戦後にジャガーに吸収合併
されますが、今でもデイムラーというのは車名に残っていますね。
81山犬 ◆R200HRTAe. :03/06/24 18:47
さてさて、このデイムラーの日本到着は明治45年の12月に予定され、これに
向けて運転手を養成したり車庫を建設したりと、宮内省では様々な準備に追わ
れていましたが、45年7月に明治天皇は一度も自動車乗ることのないまま崩御
されてしまい、日本初の御料車の使用は大正期に入ってからの事になりました。

その後御料車として採用された車には、上に少し書きました、ナチスドイツが
威信をかけて開発したグロッサーメルセデスや、エリザベス女王も愛用したロー
ルス・ロイスのファントム等がありますが、戦後に日本の自動車産業が興隆
してくると、国産の御料車をという動きが高まって来ました。

そしてプリンス自動車に開発が依頼され、1967年にV8、6400ccのエンジンを
積んだプリンスロイヤルが完成しました。大きさは全長6155mm、全幅2100mm
全高1770mmで、これは昨年ダイムラー・クライスラーが開発したマイバッハより
も巨大です。(全長は10mmだけマイバッハの方が長いですが)
また、当時としてはまだ珍しかったATが採用されていました。

このプリンスロイヤルは合計7台が製造され、4台は宮内庁に、2台は外務省に
納入され、1台は日産に保管されているそうです。ちなみに、宮内庁の4台の内
1台は霊柩車に改造され、最近ですと高円宮様が薨去されたときに使用されまし
たね。

いずれにせよ、このプリンスロイヤルは製造されて35年以上経ちますので、老
朽化が進んでおり、とっておきの時にしかその姿を見る事はできません。現在
では皇室行事や地方に行幸される際などにも、主としてトヨタのセンチュリー
が使用されています。専用の御料車を作ろうという動きもありませんね。
82山犬 ◆R200HRTAe. :03/06/24 19:47
>>眠い人さん
うーん、相変わらずお詳しいですねぇ。

>>78で書かれている明治屋は、この「1」のナンバープレートを、その後昭和30年
代まで宣伝に使っていたそうですね。東京でナンバーが義務付けられたのは明治
末の事でしたが、大正元年の東京の自動車登録台数は300台以下ですから、
所有者は大きな会社か、華族や大富豪などに限られていました。
警官が手出しできなかったのもむべなるかな、という感じですね。

現在のイタリアなどでも、警官はフェラーリが速度違反をしていても取り締まらない
というような話を聞いた事があります。フェラーリに乗っているのは貴族や大企業
の社長ばかりだからだそうです。(真偽の程は知りません)

自動車の規則という話しが出てきましたので、その点を少し。

自動車が出現すると、最初は各県ごとに規則が定められていましたが、大正8年に
内務省は自動車取締令を出し、初めて全国一律の自動車に関する規則が設けら
れ、自動車の定義、最高速度、構造装置などの他、免許制度も定められました。

それ以前は自動車を運転するのに試験を受ける必要は無かったのですが、これ
以降試験を受ける事が義務付けられ、合格者には写真付きの免許証が交付されました。

この免許制度も今とはだいぶ違い、有効期間の5年を過ぎると、試験を受けなお
さなければならず、また免許を取るためには車体検査証がなければなりません
でした。(つまり車を所有していなければ免許はもらえませんでした)

ちなみに、このとき定められた最高速度は14マイルです。
83世界@名無史さん:03/06/24 20:41
眠い人氏をこんなところで見るとは・・・
84眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/06/25 00:03
>83
あっちに居づらくなったもので(苦藁。

さて、>75氏のネタフリがあるので、漏れもVIPカーの話をちょこっと。

世界史板らしく、世界で最初に自動車なるものに乗った王族は、1893年、ドイツのバート・ホンブルクに於いて、
チョコレート製造業者のガストン・メニエという人が所有していた、フランス製セルボレー蒸気自動車に同乗され
た、Prince Of Walesでした。
当時は内燃機関ではなく、蒸気機関も有力な動力源となっており、鉄道でもセルボレー式蒸気動車というのが
あります。(客車の端に蒸気機関を載っけたと思いねえ。なお、実物は明治村に行けばあります)

さて、その当時、英国では自動車は馬車業者、馬匹業者の目の敵にされており、その圧力で、1865年に制定さ
れた、Red Flag Act、俗に言う赤旗法というのがありました。
これは、Road Locomotive(まぁ、当時は蒸気自動車ばかりなのでこの名称が使われていた訳ですが)を走行
させる際には、3人のAttendantsを必要とし、1人は操向を、1人は罐焚きを担当し、最後の1人が、赤い旗(夜間
はランプ)を振りながら、クルマの前を走るというものでした。
その速度は、市中で2mile(3.2km/h)、郊外で4mile(6.4km/h)に制限されています。
ちなみに、日本では市内電車に対して同種の法律があり、京都電鉄(N電)では、前に先触れの小僧が走って
電車を先導しています。
当然、クルマと違って、制動が余り効かないですから、転けたら最後だったようです。
85眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/06/25 00:07
余談はさておき、1896年、自動車専門誌The Autocarが、議会に対して自動車合法化の請願を行い、5月8日から
3ヶ月間、ロンドンのImperial Instituteで自動車の展示会を開き、その前に国会議員、名士を集めて、自動車の
Demonstrationを行いました。
この時に興味を示したのが、かのPrince Of Walesで、2月14日に、エヴェリン・エリスの運転するカンシュタット製
Daimlerに試乗し、そのオーナーのF.R.シムズから説明を受けています。

こうした活動が功を奏し、1896年にEmancipation Act(解放法)が発効し、重量3トン以下のRoad Locomotiveは、
3名のAttendantsは不要になり、制限速度は、12mile(19.3km/h)に緩和されました。
これを記念して、The Autocar誌は全頁赤インクで印刷した特別号を出し、11月14日にはロンドン〜ブライトンまで
のEmancipation Runが行われました。
これが、London to Brighton Runの始まりとなっています。

ちなみに、Prince Of Walesは1901年、Queen Victoriaの跡を継いで、EdwardVII世となっています。
で、この人は、1896年のカンシュタット製Daimlerをいたく気に入り、1899年に英国で生産を開始したDaimlerを買い
上げ、王室御用達として使用しました。
と言う訳で、第二次大戦後まで英王室専用車と言えば、Rolls-Royceではなく、Daimlerがその任に就いていました。
86眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/06/25 00:18
但し、最初に自動車を買った王族は、帝政ロシアのAlexandra皇后が最初。
1898年にフランスのド・ディートリッシュというクルマを買い入れています。
1901年には既にロシア皇室には、数台のクルマがあり、その面倒を見ていたのが、
フランス人の自動車技師、アドルフ・ケグレスでした。

しかし、ロシアは冬になると道路が凍り付き、走ることが出来ません。
ところが、皇帝は「雪原をクルマで走りたい」と言う要望を出したりしたからさぁ大変。
1902年、そのうちの1台の後輪をCaterpillarに改造し、最初の半装軌車として実用化
しました。
これは特許を取りましたが、後にケグレスはシトロエンにこの特許を譲り、有名な
シトロエン・ケグレスが生まれた訳です。

王族、皇族に限らず、影響力の大きい世俗権威としては、ローマ教皇があります。
最初に自動車の献上を受けたのは、ピウス10世で、1909年のこと。
クルマは当時最高級車だった、Italy製のイターラでした。
ところが、彼は頑として新技術を認めようとせず、それに乗ることを拒否、馬車を
死ぬまで使い続けたそうです。

日常的に自動車を使い続けた教皇は、ピウス12世で、以後、Fiat、キャデラックが
主に用いられています。

と、今日はここまで。
8775:03/06/25 02:57
わっ! わっ
山犬サン眠い人サンありがとう。

日本語で車は車、自動車とまんまですが、Carの語源についてどうよ?
辞書パラパラ眺めながら素人的に石炭とか関係あるのかと推測しちゃい
まいしたが。

他、語源を紐解いてみるのも面白いかもです。
ドイツ語  der Kraftwagen:das Auto
ロシア語  koleso
イタリア語 automezzo (zの有声アルファベットが解らん)

あとは知らんです。 という事でネタ振りしときまつね。(笑
8875:03/06/25 03:16
ちなみにモンゴル語では машин(machine)みたいで、
語源に歴史的背景などなく、文明の利器がまんまですね。
可笑しかったので書いてみますた。
89眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/06/25 22:25
>87
Carの語源はラテン語だそうで、「(四輪の)荷馬車」から来た言葉だそうです。
ちなみに、automobileのautoはギリシャ語 autos=self から、mobileはラテン語 mobile 「動く」の意
から来た言葉だそうです。

さて、昨日の続き。

戦後のクルマ好き王族と言えば、Iran帝国皇帝のレザー・シャー・パハレヴィが有名です。
1959年のTorino Showで展示されたMaserati 5000GTの第一号車のオーナー(全部でこの
クルマは32台しか作られなかった)で、他にもMercedes Benz 300SLガルウイングなどの
Sports Carを多数所有していました。

戦前では、まず、Romaniaの王族はこういったクルマ好きの人々を輩出しており、Mihai I世
の摂政だった、Nikolasは、1933年のLe Mans24hに、自分でデザインしたボディを持つ、
デューセンバーグモデルJを駆って出場しています。
ちなみに、この時は規定より早く給油したので失格となったそうです。

それから、忘れてはならないのが、戦前Spain最後の王だったAlfonsoXIII世で、若いときには
自らハンドルを握るエンスージァストで、自国のHispano-Suizaには有形無形の援助を与え、
スイス生まれマルク・ビルキストが生み、1910年の最後のクプ・ド・ロトに上位を占めたHispano
のボワチュレットに、彼は自分の名、"AlfonsoXIII"を冠すことを許したのです。
90山犬 ◆R200HRTAe. :03/06/26 19:26
以前問題を出しましたが、その答えを書くのをすっかり忘れてました。
スイマセン。

初めて200km/hの壁を超えた自動車は、ドイツのブリッツェン・ベンツです。
「ブリッツェン」というのはドイツ語で稲妻の意味で、OHV・21.5リッターエンジンを
積み、200馬力を発生する化け物マシンでした。
そして1909年11月8日、イギリスのブルックランズ・サーキットでフランス人の
ヴィクトール・エメリーの搭乗するこのブリッツェン・ベンツは、202.69km/hの速度
を記録しました。

その後、このブリッツェン・ベンツはフロリダのデイトナ・ビーチまで運ばれ、1910年
3月には、初期のアメリカモータースポーツ界を彩った伝説的レーサーである、
バーニー・オールドフィールドの操縦で211.8km/hを記録し、1911年4月にはロバート・
バーマンの操縦で228.1km/hを記録します。この記録はその後しばらくの間、破ら
れる事がありませんでした。

ちなみに、初めて時速200kmの壁を破った乗り物はジーメンス・ウント・ハルシュケ
製の電気機関車で、1903年の10月27日に210.15kmを記録しています。
91山犬 ◆R200HRTAe. :03/06/26 20:17
車好きの王族といえば、オーストリア皇太子フェルディナンドもそうですかね。
オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が車を毛嫌いしていたのとは対照的に、
彼はフェルディナンド・ポルシェの開発した電気自動車、ローナー・ポルシェや、
グラーフ&シュティフトの車を愛用しています。

ローナー・ポルシェは1900年のパリ万博にも出品され、ガソリンの匂いや騒音
を嫌う人々に大評判を呼んだ車でした。1902年に行われたオーストリア軍の
大演習の際には、フェルディナンド・ポルシェの運転するローネル・ポルシェに
乗り、各地を移動するのに用いられました。
グラーフ&シュティフトはオーストリアの皇室御用達メーカーでしたが、今では
ドイツのトラック製造会社であるマンの子会社となり、バスやトラックを製造する
メーカーとして残っています。

>>眠い人さん
シトロエン・ケグレスといえば、1924年・25年のサハラ砂漠縦断や1931年・32年
のアジアの奥地探検に挑戦したエピソードが有名ですね。
半装軌車といえば、そのほとんどは軍用車として開発・使用され、戦争と密接な
関わりを持っていますので、眠い人さんの得意分野ですよね。というわけで、
半装軌車に関する面白いエピソードなどございましたら、ぜひご教示ください。
92世界@名無史さん:03/06/26 23:06
>>90
なんと。20世紀初頭には200k突破されてたのね。

コテハン両氏の博学ぶりにシャッポを脱ぎました
93世界@名無史さん:03/06/27 01:09
ではそろそろヒュンダイクーペ FX V6について語ろうか!?
94世界@名無史さん:03/06/27 14:50
かの国が未だに自動車の起源はウリナリにあるニダと言わないのが不思議だ
95眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/06/28 00:21
さて、半装軌車の話は暫く置くとして。

Hyundaiが出てきたので(ぉぃ、李氏朝鮮の話でもしませうか。
李氏朝鮮に初めて御料車が導入されたのが、1903年のこと。
これも、英国製Daimlerだったりします。

色は溜塗で赤系統の色。
1911年には、最後の国王純宗と、純貞孝皇后の為に、Daimlerが購入されました。
後、1913年にはCadillacが導入されたそうです。
今、この二種類の御料車は、将徳宮に保管されており、レストレーションが進んでいるそうです。

韓国の自動車産業は、起亜産業、現代、大宇などで、1970年代以前からノックダウン生産が行われて
いました。
Hyundaiは、1968年からFord Cortinaなどのノックダウンを行っています。

1970年代に入って、BLの重役、ジョン・ターンブルを招いて自動車産業の梃子入れを行い、英仏から
工作機械を買い付け、三菱からSaturn Engineの製造権を買い、工場レイアウトと、クルマの設計は、
Italyのイタル・デザインに発注して、Ponyを作り上げています。
9663:03/06/28 10:16
週末にしか書き込めないもので、ご無沙汰でした。
過密な板ではないようなので、落ちていなくて良かった。やれやれ。
実は、私はラ板者でかつ軍板ROM者でもあるのです。
漢字2文字コテハンは多いので、混同して気付くのが遅れました。失礼。
>眠い人師
東側の車では、ビュイック風なZIM‐12と、タトラ各車が好きですな。

山犬さんが編年体で語るなら、私は紀伝体で個別のトピックを紹介しようという次第。
あと失礼ながら、ド・ディオン・ブートンは複合車名でして、
ド・ディオン伯に雇われた技術者のブートンが実際の開発を行っていたものです。

>>71でご説明いただいた初期のFRレイアウトについては、
後車軸が回転しない構造であることから、英国ではデッドアクスルと呼ばれています。
デッドアクスル式は、後車軸自体の構造は簡単なので、初期の自動車では普通でした。
パナールはもちろん、その後の自動車の祖型とも言われる1900年型メルセデスや
レースで常勝を誇った初期のモンスター・フィアットなども、デッドアクスル型です。
しかし、最終減速をチェーンに頼る構造は騒音や耐久性の面で難があり、
ホイールベース間床下にデフとドライブシャフトが通るので床が高くなる弱点もあって、
早くも1910年代に入る頃には廃れています。
これを独立サスのシステムとして近代に蘇らせたのが、ホンダのS500&600ですな。
確かにバネ下重量の軽さが魅力的な方式ですが、やはり特殊なものでしょうね。

9763:03/06/28 10:17
現在われわれがよく知っているタイプのリジッドアクスルは、
デッドアクスルに対して「ライブアクスル」と言います。車軸で直接駆動しますからね。
プロペラシャフトとライブアクスルを組み合わせたFRレイアウトは、
早くも1878年、フランスのボレー父子が蒸気自動車「ラ・ヌーヴェル」で実用化してます。
「ラ・ヌーヴェル」は異常に進歩的で、蒸気シリンダーはフロント搭載(ボイラは後)、
フロントは2段重ねの横置きリーフスプリングによるウィッシュボーン風の独立サス、
かつアッカーマン操向で丸ハンドルという、30〜50年は進んだ思想の車でした。
特異な存在故に、歴史に埋もれてしまいましたが。
ガソリン車でライブアクスルを採用した早い例は、ド・ディオン・ブートンの三輪車を
ルイ・ルノーが改造した4輪車でしょうね。
1900年代中期以降は、ライブアクスルが一般化しました。
ロールスロイス・40/50hpシルヴァーゴースト(1906)や、フォード・モデルT(1908)も
ライブアクスルです。
9863:03/06/28 10:18
先に記したメルセデスは、ゴットリーヴ・ダイムラー最後の傑作と言われています。
(ゴットリーヴがすでに病床にあったため、実際の開発は息子パウルと
名技術者ヴィルヘルム・マイバッハが手掛けましたが。事情がポルシェ356と似てますね)
以下は有名な話ですが、オーストリアの実業家にしてニース駐在の領事であった
エミール・イェリネックという大金持ちがおりまして、これが無類の自動車好き。
彼は1899年、ダイムラー社にレースに勝てるような高性能車をオファーします。
これに応じてダイムラーが送り出した車が、4気筒35hp車でした。
それまでの車の多くはシャーシに木材ないし鋼管をを用いていましたが、
新型ダイムラーは、剛性の高いはしご型の鋼製チャンネルフレームを採用。
これに効率の良いハニカムラジエーター、確実なシフトを可能にするゲート付シフトレバー、
パナールがいち早く採用した丸ハンドル、マイバッハの手になる優秀なキャブレターを備え、
ワイドトレッドと相まって、当時としては最高にバランスの良い車に仕上がりました。
一般人がクラシックカーと聞いてイメージする車のスタイルが、このダイムラーの姿です。
かような傑作車を最後に残して、ゴットリーヴ・ダイムラーは世を去ります。
さて、イェリネックは35hpダイムラーでレースに出場し、次々に好成績を収めました。
ほくほくの彼はダイムラー社に申し出を行います。
「この車は売れる。ぜひとも私の手で大々的に売り込ませてもらいたい」
ただし条件がありまして、車名はイェリネックの娘にちなんでメルセデスと付けること。
ダイムラー側は乗り気ではなかったんですが、イェリネックには資金面での借りもあり、
やむなく条件を呑むことになります。
こうして35hpダイムラーはメルセデスの名で呼ばれることになったのですが、
レースでの常勝ぶりも手伝って、先進的な設計は多くのメーカーの模範となり、
数年のうちに「メルセデス」は高性能車の代名詞として定着することになった訳です。
そしてダイムラー社も自社のモデル全てを、「メルセデス」と称するに至った次第。
99眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/06/29 15:54
Ferrariと言えば、金持御用達の感がありますが、各国の王族にも人気がありました。

ブガッティ、イスパノスイザ、アルビスなどの高級Sports carが次々に消えていくなかで、
新興のメーカーとして目を付けられたものです。
戦前、ブガッティType59のオーナーだった、Belgiumの前国王レオポルド III世は、戦後に敗戦の
責を取って退位後、クルマ三昧に転じ、1953年にピニン・ファリーナに、Ferrari342America
を製作させました。
このクルマは、2.6mのLight Weight Bodyに、4.1l、200HpのV12気筒エンジンを搭載した
化物で、僅か3台しか作られていません。
2年後の1955年、Ferrari 375 Plus Cabriolet、Ferrariの中では一番美しいものと呼ばれている
そうですが、これを作らせたのも、レオポルド国王だったそうです。
ちなみに、375 Plusは、1954年のLe Mans 24hの勝者だったそうな。

それに対抗したという訳ではないでしょうが、Hollandのユリアナ女王の夫君である、ベルンハルトも
可成りのFerrari好きで、ピニン・ファリナのクーペボディを載せた黒一色の1957年製Ferrari250GTを
オーダーしています。
更に4年後には1961年型250GTを購入。
今度のボディ色はフォレスト・グリーン、内装はコノリー・レザーでした。

1957年型と同じものが、Belgiumのリリアーヌ・ド・レシィ王女によって発注されました。
但し、より安全に、と言うことで、フロントグリル下にもバンパーを2カ所追加し、後のバンパーも強化
しています。
塗色はスモーキーグレーで、内装は、Hollandは緑でしたが、オーソドックスな革の内装でした。

なお、250GTのクーペボディはピニン・ファリーナで353台作られました。
そのモディファイ型として2+2のキャビンにしたものを、Swedenのベルティル王子が発注しています。
ボディ色は、SwedenのNational Colorである薄いブルーだったそうです。

異色なFerrariオーナーと言えば、Viet Namの保大帝で、1955年に退位し、Parisに亡命した後も優雅な
生活を送り、1954年にたった一台しか作られなかったメタリックブルーの375ミッレミリアのピニン・
ファリーナ・スパイダーを乗り回していたそうです。
また、彼は1957年には410Super Americaを購入していたそうです。
100眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/06/29 16:39
さて、半装軌車の話についてちょこっと。

余り此処で触れると軍板になるので、さらっと。

シトロエン・ケグレスと言えば、「黒の旅」「黄色の旅」(ドラクエじゃないよ)に使われた
ものですが、トラックよりも不整地走行に強く、なおかつ、数を揃えられるのではないか
と言う期待から、フランス、ドイツ、日本、米国でそれぞれ独自に発展しました。

ケグレスのSystemは、無限軌道が短く、不整地走行は余り得意ではありませんでしたが、
反面、速度性能は良かったようです。
一方、ドイツの半装軌車は、接地面積が大きく、不整地走行に主眼を置いていました。

米国は1925年にケグレスを購入し、1931年に改良型を購入して種々のテストを行った結果、
ケグレス式の駆動装置を発展させ、自国のトラックをベースにカニンガム社で試作車が作られ、
それを更にロックアイランド陸軍造兵廠で改良したものを、1933年にM1として制式化します。
更に、マーモン・ハリントンに対し、本格的な半装軌車の開発を契約、1938年に試作車が出来、
馬力不足が判明したため、ダイヤモンド・T・モーターによってエンジンの強化を行い、これが、
1940年にM2となりました。
それを更に発展させたのが、M3/M5系列で、これは今でもIsrael、南米諸国で使用されています。

一方、ドイツでは、1934年から、ビューシング-NAG、クラウス・マッファイ、ダイムラー・ベンツの
各社がこういった半装軌式車両の開発を始め、ビューシング-NAGがその装甲Versionの開発を
行っています。
これらの車両は、Czechoslovakiaでも生産が行われ、Skodaに於いて、その近代化型OT-810が、
最後の半装軌装甲兵員輸送車として、1958年に開発、生産されています。
この車両は、一部を除いて、戦時中にドイツが生産した、SdKfz251Dそのものだったりしています。
で、これは1990年頃まで東側各国で使用されていました。
101眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/06/29 16:57
ちなみに、OT-810は軍を退役しても、そのシルエットから色々な方面、特に劇映画
の世界では引っ張りだこで、映画プライベート・ライアンにも出演?しています。

もう一つ、ドイツで用いられた系統は、普通のトラックに、後輪の代わりに履帯を付けた、
簡易半装軌車Maultierです。
これが生まれたのは、1941年の独ソ戦の際、親衛隊に半装軌装甲兵員輸送車が行き
渡らなかったので、苦肉の策として、Fordの3tトラックV3000Sの後輪に、大量に捕獲し
ていた英国の機関銃搭載軽戦車、カーデンロイドの足回りを取り付けたのが始まりです。

その後、1号戦車の足回りとか、重トラックでは2号戦車の足回りが使用されるようになり、
ステアリングには、Rearのドラムブレーキを使用し、キャビンに取り付けた二本のハンド・
ブレーキレバーで操作されています。
これらの車両は、Ford(France Ford、German Ford)、Mercedes-Benz、Opelの各工場
で生産され、大型車にはMercedes-Benzが主に使われています。

ちなみに、何処でも同じ事を考える人がいるもので、Australiaとか英国でも同じFordの
トラックに、同じくカーデンロイドの足回りを取り付けた半装軌車が試作されたりしています。
102山犬 ◆R200HRTAe. :03/07/02 00:22
>>63さん
イェリネックは南フランスでダイムラーの代理店を経営していたこともあって、
販売促進につながる、レースに勝てるような高性能車を欲しがったのだそうですね。
ダイムラー自身は特殊なレースカーを作る事には、それほど乗り気ではなかった
そうですが、結果的にはメルセデスを開発する事で、ダイムラーは大きな飛躍が
できたと言えるでしょう。

メルセデスの発売以前は、ダイムラーの販売台数はベンツの10分の一程度だった
そうです。この頃のダイムラーの正確な販売台数というのは記録が残っていない
ので、良く解らないそうですが、ライバルであるベンツの販売台数が
 1900年…603台 1901年…385台 1902年…226台 1903年…173台
と、年を追うごとにどんどん減っていることからも、1900年のメルセデス発売以降
ダイムラーがかなりシェアを伸ばしたことが伺えます。

               1898年製ダイムラー    1900年製メルセデス
最高出力(PS/rpm)      23/900            35/1000
総排気量  (cc)         5295               5918
重量     (kg)         322               238
パワーウェイトレシオ       14               6.8
 
鋼製フレームのおかげで重量が減ったにも関わらず剛性が上がり、パワーウエイト
レシオが2倍以上になったのですから、カタログスペックの上でも相当な進化といえ
るでしょうね。

あ、あと、ド・ディオンに関しては、最初「ド・ディオン伯爵」としていたのを、あとから
「ド・ディオン・ブートン」と書き直して、「伯爵」を消すのを忘れていました。
2chにカキコする時はお酒が入ってる事が多いので、どうも誤字脱字が多くなって
しまいますねぇ。誤爆もよくやるし…。
103山犬 ◆R200HRTAe. :03/07/02 00:24
>>93さん
韓国車だと、デーウの「マティス」とかは良いデザインですね。さすがジウジアーロが
手掛けているだけあります。まぁ、あからさまなデザインのも多いですが…。これとか
http://autos.yahoo.com/newcars/details/hyundai03sonata/model_overview.html?refsrc=autos/make

韓国車も、最近はだいぶシェアを伸ばしているようですね。ヒュンダイなどは、北米で
は外国メーカーとしては、トヨタ、ホンダ、日産に次ぐシェアを獲得しているようです。
JDパワー・アンド・アソシエイツの品質調査などでも、以前は明らかに初期品質で
劣っていたのが、近年急速に改善されつつあるようです。

まぁ、技術供与がなされなかった場合の開発能力といったものが、どの程度あるのか
はわかりませんが。参考に、上記のJDパワーの品質調査結果を挙げておきます。
この数値は新車100台当たりのユーザーによる不具合指摘件数ですので、数字が小さい
ほど問題が少なく、品質が高いことになります。ちなみに、トヨタはこの調査で5年連続
一位です。

1. トヨタ 115
2. ポルシェ 117
3. BMW 124
4. ホンダ 128
5. GM 134
6. 日産 135
7. フォード 136
8. ダイムラークライスラー 139
9. フォルクスワーゲン 141
10. ヒュンダイ 143
参考までに、スズキ…11位 スバル…12位 三菱自動車…13位です
104世界@名無史さん:03/07/02 00:28
人力車、オート三輪、サイドカーについても語ってくれ
ナチのサイドカー萌え
>>104さん
R75のことですね。>ナチスのサイドカー

私の知り合いにバイクマニアがいまして、R75がホシィと言ってた奴がいますが、
このR75には実際に今でも熱狂的なマニアがたくさんいますね。
側車は乗り心地最悪で、サイドカー自体も非常に運転が難しいそうですが。

レプリカはいろんなところで作られていたそうですが、私は正直言いまして、2輪は
よく分かりませんので、どなたか他に詳しい方がいらっしゃいましたら、お願い致します。
106世界@名無史さん:03/07/02 09:34
>103
韓国もだんだん技術レベルが上がってきたね。
技術やデザインがパクリだって笑ってられるのは、今のうちだけかもしれない。

そもそもある程度の技術レベルがなければパクリすらできない。
日本でも戦後、DSKなどがBMWから「コピーすら無理」と嘲笑されながらも
ついには「音まで同じ」フルコピーのバイクを作りあげた歴史を踏まえて
現在の技術立国があるわけで。
107世界@名無史さん:03/07/02 23:30
自動車ばっかりつまらん。
108世界@名無史さん:03/07/03 00:25
20世紀の最も偉大な起業家に
フォードとゲイツが選ばれたらしい
ゲイツはともかくフォードは納得
現代的なインダストリアルデザインとマスプロダクションと中産階級
を創造した20世紀で歴史に最もインパクトを与えた人物だろう
109眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/07/03 00:48
>104
ドイツ軍では、BMW R75と共に、戦前のR12とか、ツェンダップ KS750などが
使われました。
R.12は1941年まで製造され、R.75は1940年末から生産されています。
更に小型のものでは、NSU 251OSLとかね。

ドイツ軍と言えば、大型バイクですけど、実際はl.krad(350cc以下)、m.krad(350-500cc)、
s.krad.(500cc以上)の三種類に分かれていました。
但し、Sidecarについては、Einheins Saitenwagenと言う統一の筐体を用いています。
これは、兵員輸送用の四輪車の不足から生まれたもので、もし、四輪車が不足してなければ、
この車両の普及はなかったのでしょう。
ちなみに、後車軸の動きをそのままSidecarの方に使える方式を採っているので、不整地走行性能
はかなりのものだったようです。

BMW R.75とSidecarの組み合わせは、ソ連でM-72として生産され、戦後も長く使われています。
それが回り回って、治具一式が中国に流れ、上海で生産されました。
今、レプリカとして出回っているのは大半がこの中国製ですね。

英国はトライアンフとBSA、米国はインディアンとハーレーダビットソンが有名ですね。
ただ、米国のものにはSidecar付が非常に少なかったようです。
なお、日本の戦前製バイクの殆どは、米国のものを元にした、陸王と、くろがねが主でした。

イタリアは、ヴィアンキ、グッチが有名で、中でも後者は、英国の兵士に引っ張りだこだったようです。

三輪車は税法上や免許制度上有利と言うことで、英国ではリライアントとボンドというメーカーが屹立しました。
また、米国では郵便配達用の243cc4サイクル単気筒エンジンを搭載したクッシュマン・モーター社製のものや、
GMの一部門デルコ・プロダクツが作った、リアアクスル付の三輪車もありましたが、いずれもジープに追いやら
れています。
110世界@名無史さん:03/07/03 00:49
>>106
こぴーしていいですか?と聞いたら
出来るものならやってみろといわれて
やったらつくった部品が本物に使えるほどちゃんとコピーできたそうな
111世界@名無史さん:03/07/14 23:14
風力で走る帆車(はんしゃ)もありますね。
今はもっぱら観光・レジャー用になりましたが。
112山崎 渉:03/07/15 12:29

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
113世界@名無史さん :03/07/15 22:14
保守。
114世界@名無史さん:03/07/18 20:58
>>111
帆車って、どこに行けば乗れるの?
115世界@名無史さん:03/07/18 21:45
砂浜のあるリゾート地なら海外のあちこちで観光用に乗せてくれるよ。
ただしその日の天気次第だねw
116世界@名無史さん:03/07/19 00:23
ウィーン会議の時は馬車の接触や狭い路地の混雑でトラブルが絶えなかったらしいね
117よろずこ:03/07/19 00:38
>>109
後輪駆動にデファレンシャルギアを使っていたということだろ?
118世界@名無史さん:03/07/19 01:18
インドバイク、ロイヤル・エンフィールドちょこっと試乗しました。
新車なのでアレですが、エンジンかけるの超ムズいです。

まったくスレと関係ないですが、JTBが出している都電の本超面白い
ですよ。

119山犬 ◆R200HRTAe. :03/08/08 17:17
スイマセン、7月下旬からテストがあったり山に登ったりで結構忙しかったので、
全然書き込み出来ませんでした。
ずいぶん間があいてしまったので、何から話してよいやら…。

とりあえず、自分から話を振るのは苦手なので、どなたか質問していただければ、
その質問に沿ったお話をしたいと思いますので、何か車の歴史に関する質問して
ください。

>>118
YPさんですねw
バイクの運転頑張ってください。都電といえば、この板には鉄道関連のスレッドって
ありませんよね。鉄道も近代史と密接な関連を持っていますし、それ関係のスレッド
があってもいいんですけどねぇ。
このスレで鉄道に関する話題も扱いましょうか。蒸気機関車も、「車」ですし。
120世界@名無史さん:03/08/10 21:58
では早速。
第一次大戦前の各国の総動員体制の確立に、鉄道の普及が大きな役割を果たしたって聞いたことあるんですが、ほんとですか?
121世界@名無史さん:03/08/10 22:24
>>120
ふぉ。第一次大戦がなんで世界大戦になったのかというテーマはの、なかなかに難しいこと
なのじゃが、いくつかある説のひとつに、鉄道を使った動員計画には柔軟性がないため、一
度、戦争のための動員と兵員輸送をはじめると、政府には戦争を開始する積極的な意図が
なくとも、相互の国の参謀本部が相手国の動員状況を見ながら、事前の計画に従って自動
的に動員をエスカレートしていくため、大規模な形で開戦せざるを得なくなったという分析も
あるのじゃな。ま、この分析に対する反対論もあるがの。

第一次大戦時の各国の総動員体制の確立に鉄道の普及が大きな役割を果たしたどころか、
鉄道の普及とそれを利用した短期間の戦時動員プログラムの存在そのものが大戦勃発の
原因じゃったということじゃ。

つまり、この説が正しいとすればじゃが、サラエボの銃声は、鉄道普及以前ならば精々が国
境での威嚇行動か小競り合い程度に終わるはずのいざこざだったものが、兵力集中の原則
に基づき、鉄道を使った大量動員プログラムが機械的に発動されてしまい、大戦になってし
まったということなんじゃよ。
122世界@名無史さん:03/08/10 23:13
なんで日本は牛車で馬車がなかったんだろう?
123世界@名無史さん:03/08/10 23:18
>>122
日本の風土があまり牧畜に適していなかったので、
馬がさほど多くなく、その馬は軍事用だったから。
124世界@名無史さん:03/08/10 23:42
何の根拠もないけど、昔の日本は舗装率が低いし、ぬかるみが多くて、車はあまり有用ではなかった気がしますね
125世界@名無史さん:03/08/11 02:06
道も狭かったしね。
126世界@名無史さん:03/08/11 10:33
昭和30年代くらいまで、国道1号線でさえ途中に未舗装区間があったくらいだからなぁ。
127世界@名無史さん:03/08/11 11:00
この列島で最速の乗り物、駕籠のお通りだ〜どけどけ〜い!
128世界@名無史さん:03/08/13 00:36
田舎住まいの私の爺さんにとっては、車といえば大八車だったらしい。
街には人力車があったらしいが。
親父の世代になってやっとバスやパトカーをみるようになったとか。

>>122
馬車って幕府が禁止していたらしいね。
駕籠業者を圧迫するなどの理由かららしい。
129世界@名無史さん:03/08/13 00:52
ウチの親父の話によると、親父(74歳)の子供の頃、鉄道馬車という物が
あって、レールに沿って馬が客車を引っ張って行くものらしい。
専門の馬糞処理係が後ろから付いて歩いてたそうだ。

因みに鈍行と急行があって、急行は御者がムチを鈍行の倍叩くそうだw
130山犬@素面 ◆R200HRTAe. :03/08/21 19:28
「質問してください」などと大口を叩いてしまいましたが、8月10日から一昨日
まで、ちょっと旅行してました。質問にお答えできず、どうもスイマセン。

>>120さん
ドイツの場合には、大モルトケが鉄道輸送に関する研究を積極的に行い、
戦場に迅速に戦力を輸送できる仕組みを作りあげ、普仏戦争の勝利に一役
買ってますね。彼が参謀総長だった時代に「鉄道課」なるものが設置されたと
いうくだりが、ゲルリッツの「ドイツ参謀本部興亡史」にあります。
私は鉄道は好きなんですけど、あんまり詳しくはないので、この辺でご容赦ください。

>>126さん
中仙道が舗装されたのも戦後になってからで、進駐軍が軽井沢へ避暑に行く
ために舗装されたそうですが、このときの舗装もアスファルトの厚さが数cmしか
なく、すぐにヒビが入ってしまったということです。確かこの事は埼玉県史に書い
てあったと思います。
まぁ、中仙道という主要道でもこんな具合だったわけです。

>>128さん
戦前だと、一般の人にとって車は縁遠い存在でしたね。
昭和に入ると、東京では円タクが走り始めて、一般人が乗る機会も増えますが、
それ以前に一般の人が車に乗るというと、霊柩車くらいでしたかね。
霊柩車は1920年代半ばころまでには地方でも割と普及していたようです。

>>129さん
戦前の日本には人の力で動かす「人車鉄道」と言うのもありました。
ちなみに人が歩くスピードよりも遅かったそうで…。
131山犬@素面 ◆R200HRTAe. :03/08/21 19:35
>>122さん
それに関しては一つの理由だけではなく、様々な理由が考えられますね。
よく言われるのは、「道が狭かった」「道がぬかるんでいる」「国土が山がち」
などですね。

道幅に関しては、東海道の場合、箱根など峠道で細くなった所だと2間程です
が、平地だと大体4間から5間位で、馬車が十分に通れる幅がありました。
江戸・小田原間は馬車が走って、小田原・沼津間は人と馬の背、沼津から
先は再び馬車なんて方法も、とれないことも無かったとは思います。
17世紀のヨーロッパの道路事情もそれ程良くなかったにも関わらず、馬車は
走っていましたし、私自身は道幅以外の理由が大きいのではないかと思います。

寛政の改革の際には、大坂の儒学者であった中井竹山という人が幕府に馬車
の利用を進言していますが、採用されなかったという事がありました。道中奉行
の管理下にあった街道においては「人馬継立」といって、人と馬の背を使って、
宿場で積み替えながら物資を輸送する、という原則が厳しく守られており、こう
した幕府の規制の問題も大きかったと思います。

江戸中期以降は大八車が広く利用されるようになりましたが、東海道でこの
大八車を含む車輌の使用が正式に許可されるようになったのは、安政年間に
なってからの事です。もちろんそれ以前から黙認状態だったのですが。
まぁ、とりあえず、馬車の存在や欧米で馬車による陸上輸送が行われていた
ことに関しては、江戸時代の日本においても知られていたようです。
132山犬@素面 ◆R200HRTAe. :03/08/21 19:36
(続き)

また、近世の日本の馬は小さすぎて、重い車を牽けなかったという理由も大き
かったのではないでしょうか。馬車の代りに牛車が日本各地で利用されていた
という事実は、この事を裏付けるものだと思います。

牛車というと、平安時代の貴族を思い浮かべる方が多いと思いますが、近世に
おいても物資輸送に利用されていました。安藤広重の東海道53次の大津の図
には、米などの物資を運ぶ牛車の列が描かれています。京都・大津間の難所で
あった日岡峠では、人や馬が通る道と牛車が通る道とが分けられ、牛車道の方
には、車輪を通すための溝が彫られた、車石が敷かれていました。

京都・大津間の他には、駿府や仙台などの一部の城下町とその近辺や、脇往還
の一部などでは牛車を盛んに用いていた地域もあります。こういった牛車が用
いられていた場所では、峠などの難所に車石が敷設されていた例も多いようです。

江戸でも寛永年間に牛車が導入されていますが、18世紀頃になると廃れてしま
いました。これは承応年間に利根川の瀬替え工事が完成して、水運の方が便利
になった事も大いに関係していると思います。水上輸送は大量の物資を運べ、
また荷物の積み替えの回数が少なくなるため、荷物が痛まないという利点もあ
ります。
133世界@名無史さん:03/08/22 16:25
>>131
> 江戸中期以降は大八車が広く利用されるようになりました

ふぉ。間違いというほどのこともないのじゃが、大八車と呼ばれる荷車が
流行したのは江戸を中心とした関東地方のことでの、大阪を中心とする
関西圏では、車輪に輻、つまりはスポークを持たぬ方式のより簡易な車、
べか車と呼ばれる荷車が主流じゃったようだの。
134山犬@ ◆R200HRTAe. :03/08/22 17:50
>>133さん
>大八車と呼ばれる荷車が 流行したのは江戸を中心とした関東地方のことでの
ふぉ。間違いというほどのこともないのじゃが、関東以西の、名古屋をはじめ
とした中部地方の城下町や在方では、大八車が主として使われたようじゃの。

…あんまり気を悪くなさらないで下さい。ちょっとした冗談です。
べか車は知ってますよ。守貞漫稿にも絵が載っていますね。
スポークがない事の他には、綱で前から引っ張る点と、楫と呼ばれる、後ろ
から押すための棒が付いている事が特徴ですかね。

大八車の命名の由来は、人夫八人が運ぶだけの荷物を運べたという説や
車台の長さが八尺、幅が二尺五寸の大きさであった事から名付けられた、
という説がありますね。大八車の他にも「大六車」や「大七車」や「大十車」が
存在する事から、後者の説のほうが有力ですけど。

それにしても、べか車を知ってらっしゃると言う事は、ひょっとしてシナ爺さん
は関西の方ですか?
135世界@名無史さん:03/08/22 23:25
>>134
> 中部地方の城下町や在方では、大八車が主として使われた

ほい、こりゃ見事に一本とられたのぉ。大八車とべか車の分布境界を調
べずに、うろ覚えで書いてしもうたしくじりじゃ。

> 関西の方ですか?

いやいや、坂東の在じゃよ。べか車については研究入門書が出ておった
のを読んだだけで現物を見分したことはないのじゃ。
その本を読むまで関西では大八車とは別種の二輪荷車が発達していた
と知らなんだで、あるいは博識の山犬氏にも見落としがあるかと口を挟ん
だまでのことじゃが、ご存知なれば失礼をしたの。
136世界@名無史さん:03/08/23 01:28
>>牛車
牛車と言うと、零戦を思い出します。
この最新式戦闘機を、部品が壊れないように牛車で運んだそうです。
驚くべきことに、工場付属の飛行場の滑走路が短かったために、
かなり後期まで牛車が活躍したそうです。
うろ覚えですが、後に飛行場拡大か、トレーラー導入で
牛車で運ぶことは無くなったそうです。

こぼれ話として。
137山犬@ ◆R200HRTAe. :03/08/25 22:59
>>135さん
べか車に関する研究書があるのですか。少し読んでみたいですね。

べか車と大八車の分布に関しては、私もそれ程良く知っているわけではない
ので、あまり偉そうな事は言えませんが、名古屋では元禄時代ごろから利用が
始まったようですね。江戸ではもう少し早く、明暦の大火以後、それまで使われ
ていた車長持に、大八車が取って代わって行っようです。

まぁ、大八車とべか車の分布に関しては、どちらかというと民俗学の範疇に
入るような事柄ですね。

>>136さん
三菱の名古屋工場から各務原飛行場までの輸送では、終戦間際まで牛車
が活躍したようですね。馬車を使わなかったのは、馬は暴走の危険があった
為だそうで、後期になるとペルシュロンという馬を使うようになったそうですが。
まぁ、戦争が激しくなってくると牛もあまりの酷使のために、バタバタ死んだ
そうで…。

私はそのお話を、吉村昭の「零式戦闘機」という小説で知ったのですが、最初
に読んだときには、さすがにぶっ飛びました。
138世界@名無史さん:03/09/16 13:18
age
139世界@名無史さん:03/09/16 15:57
バイクっていつ頃発明されたの?
140世界@名無史さん:03/09/18 22:22
>>139
ふぉ。自動車が発明されたのと同時期なのじゃが、これにまつわるジョークが
あっての、「なぜ自動車にはスペアタイアが付いているのか」という話じゃ。

様々な連中がほぼ同時期にガソリンエンジンで動く自動車を開発しておったの
じゃが、特に有名なのはダイムラーが1885年に特許をとった2輪車と、翌年の
ベンツの3輪車での、このダイムラーとベンツが合同して設立したのが、言わず
としれたダイムラー・ベンツ社じゃ。両者が合併したのじゃからと5輪の自動車を
造ろうとしたが、うまくいかんので、4輪の自動車を製造し、余った1つの車輪は
スペアタイヤとして搭載するようになったのが由来じゃ、というヨタ話じゃよ。

まぁ、冗談はともかく、歴史に刻まれておるのは1885年のダイムラーのバイク
じゃが、写真で見ると補助輪のようなものが付いておるの。
141世界@名無史さん:03/10/05 23:59
バイクの補助輪がとれるまで結構年月がかかったんですよね。
142世界@名無史さん:03/10/06 01:29
となたか2stのチャンバーの歴史を話してください。
聞いた話では、チェコの何とかというレーサーが開発して、
スズキがレースの途中で、バイクごとその人をさらってきて、
日本かどこかに亡命させて、その技術でいちやくスズキの2stが
早くなったとかならないとか・・・。
この話は、バイク屋のオヤジさんから聞いた話で、
裏は取っていません。
ですから、この話が本当なのかどうかご存知の方、ご一報くださいです。
>142
東独のMZの技師ヴァルター・カーデンの発明だったと思います。
この人は元々アマチュアだったのがMZに雇い入れられたと聞きました。
彼がチャンバーを導入するまでは2サイクルエンジンもメガホンマフラー
を使っていました。チャンバー+ロータリーディスクバルブを装着した
MZワークスのレーサーは凄まじく速く、125〜350クラスの有力
チームとなりました。その秘密が日本にもたらされたのは有能なレーサー
にしてカーデン技師の右腕ともいうべき存在であったエルンスト・デグナー
が日本に亡命したことによります。マン島でスズキチームと同宿となった彼
は技術的には低いものの自由な雰囲気のあるスズキチームに興味を持ちました。
彼の心の中で「自由にレースがしたい。」という思いが大きく育ちやがて、その
思いは彼を亡命へと駆り立てました。
61年のスェーデンGPでタイトル争いの最中にも関わらず彼は亡命を決行します。
彼の妻子も時を同じくして亡命します。友人の車の荷物箱に潜み、子供は泣
き声を立てないように睡眠薬で眠らせてのまさに命がけの亡命でした。
彼は偽名で浜松のスズキの寮で生活し、MZの技術が日本に導入されることとなった
と言います。

スズキチームにしてもヤマハにしてもデグナー亡命以前から排気チャンバー様のもの
は使ってましたし、それが性能の要とは気が付いていたそうですが・・・。

144世界@名無史さん:03/10/12 12:06
>>143
ありがとうございました!!
これで長年の謎が解けました!!
>144
お役に立てて光栄です。
そのデグナーがクラッシュしたのがスズカのデグナーカーブです。
ここで負った大火傷がデグナーの後半生に暗い影を落とすのです・・・。
デグナーが交通事故で亡くなったとき、我が国の雑誌でまともに
取り上げたものがなかったように思います。
もう少し知られてもよい名ライダーなのですが・・・。
146世界@名無史さん:03/10/21 02:57
15社一括、ただで自動車保険の見積りがとれて
一番安い保険がどの会社なのかわかりまつよ。

http://many.k-free.net/bang.htm
147世界@名無史さん:03/11/08 11:49
荷馬車に積まれた水がこぼれた。




バシャー
148世界@名無史さん:03/11/08 11:50
一緒に積んでた土砂もこぼれた。




ド゙シャー
149世界@名無史さん:03/11/08 12:19


この人の地獄車は凄かったぞ。

150世界@名無史さん:03/11/08 13:37


このひとの横車もひどかったぞ。
151世界@名無史さん:03/12/10 19:29
車輪の起源の話ですがオケーイすか?

一般には「シュメールでそりに敷いたコロが発展して車輪の起源になった」と
言われていますが、コロと車輪の隔たりってまだかなり離れていると思うのですが・・・

ろくろや糸紡ぎの紡錘軸が先行して存在したことも関係がありそうですが、
運搬に応用するにはかなり発想が飛躍しないと難しかったのでは・・・

みなさんならどう車輪運搬が発生したと想像しますか?
152世界@名無史さん:03/12/11 01:13
【海外】ドイツ車神話、足元で崩壊?…自国で人気は日本車

乗用車や洗濯機などを通じて、「値段は少々高いが、性能と耐久性は抜群」との
評価を勝ち得てきたドイツ製品。その「メイド・イン・ジャーマニー」神話が、
おひざ元のドイツの消費者の間で崩れ始めた。

自家用車を持つ人々の最大の相互扶助組織、全独自動車クラブ(ADAC)が、
会員のうち約3万8000人を対象に行った最新の自家用車満足度調査では、
全33ブランド中、トヨタをトップに上位7位までを日本車が独占。
ドイツ車は、ポルシェの8位が最高で、BMWは11位とかろうじて面目を保ったが、
大衆車の世界標準を作ったフォルクスワーゲンは31位、
高級車の代名詞とも言えるベンツは32位と屈辱の結果となった。

ドイツ国内での乗用車ブランドの格付けはこれまで、主にプロの目で査定され、
ベンツ、BMW、ポルシェ、アウディが「四天王」の座を占めてきた。
消費者の印象だけにとどまらず、実際に「ドイツの技術」に疑いを投げかける事件も起きている。
「ドイツ製品はかつて、規定以上の頑丈な部品を使い、8―12年かけて開発された。
それが今、競争激化でコスト削減と短期間での製品化を迫られている」。専門家は“異変”の
原因をそう指摘するが、ツァイト紙は「厳しい競争にさらされているのはドイツだけではない」
として、「ドイツ製のだらしなさ」だと嘆いている。

引用元:http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20031210id25.htm
153世界@名無史さん:03/12/11 01:20
>>152
ちょっと酷い状況だな。
税金がかかるから日本では高いドイツ車もドイツでは安いはずなのに・・・。

>ポルシェの8位が最高で、BMWは11位

という状況だから、特殊な自動車扶助会なのかな?
正直、信じられないというのが感想です。
日本が逆の状態だったら、自分は不買運動起こすぞ。
154世界@名無史さん:03/12/11 07:22
東ドイツのMZが2輪国際レースに参戦していたのは前に触れられていますが、
共産圏の国で4輪でレースに出場したことはあったのでしょうか?
国内では愛好家がレースをしていたらしいですが。

日本の道路事情の悪さはやはり江戸時代に道路整備を積極的にはおこなってないのが
原因でしょうね。西国が簡単に攻め上れないようにするためでは?
為政者が道路整備するのは洋の東西を問いませんが、日本の場合は幕府が連邦制度み
たいなものだったわけで例外でしょうね。
155眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/12/11 07:34
>154
F1なら確かシュコダが60年代頃に参戦していたかと(うる覚え。
レギュレーションの変更と、資金不足で撤退しましたが。
156世界@名無史さん:03/12/11 12:48
>>153
ADACは日本のJAF、英国のRACのようなものではなかったかと。
157世界@名無史さん:03/12/11 14:38
そういやはじめて国際レースでトヨタだかホンダか
日本車や日本チームが一位から五位ぐらいまで
独占した時は欧州チームの嫉妬と中傷がものすごかったんだろ?
下位にしょぼしょぼと入るならわかるけど、いきなり最優秀で
JAPANがずらっと並んでるだからそりゃ憎まれるわなw
158世界@名無史さん:03/12/11 22:05
>>154-155
シュコダ(SKODA)は今もWRCに参加していますよ。
http://www.skoda-auto.com/sport/news/

>>157
嫉妬と中傷、剽窃と引き抜きはオートレースの常識ですけんねぇ。

159世界@名無史さん:03/12/11 22:47
160世界@名無史さん:03/12/12 02:58
>>155-159
おおっ!どうもありがとうございます。
こんなに沢山の写真を見れるとはおもわなんだです、はい。
161世界@名無史さん:03/12/19 09:02
トヨタ、フォード抜き世界2位へ グループで678万台

トヨタ自動車は18日、03年の販売見込みと04年の販売・生産計画を発表した。
子会社のダイハツ、日野自動車を含めたグループの03年の販売見込みは02年に比べて10%増の
678万台で、マツダを除くフォードグループを抜き、ゼネラル・モーターズに次いで世界2位に
躍り出るのがほぼ確実になった。また、グループの04年の全世界の販売は、同4%増の708万台と
グループとして初めて700万台を超える計画だ。

03年のグループの販売見込みでは、北米で200万台と好調で、欧州でも05年の目標にしていた
80万台を超えそう。国内でも3%増の173万台になりそうで、シェアは42.5%と変わらない。

一方、世界2位のフォードの今年1月〜9月の販売台数は前年比6%減の485万台。
トヨタの678万台を超すには10〜12月に、これまでの販売ペースの2割増しの193万台の売り上げ
台数が必要になる。フォードが発表している販売台数には関連会社のマツダ分は含まれていない。

トヨタは04年には欧州で新型プリウスを投入したり、中国でカローラの生産・販売を始めたりするなど
増産計画が目白押しで、全世界で03年に比べて7%増の728万台の生産を計画している。
http://www.asahi.com/business/update/1218/114.html
162世界@名無史さん:03/12/20 03:26
マン島のオートバイの国際レースが開催されることになったいきさつをキボンヌ。
163世界@名無史さん:03/12/21 04:18
>>154
ロシアのトラック、カマズのパリダカ参戦は崩壊後でしたっけ?

http://www.yomiuri.co.jp/hochi/car/2003/dakar/result/030116track.htm

何しろ本場物の四駆トラックですから、
それなりに強いみたいです。
164世界@名無史さん:04/01/23 16:35
あげ
165世界@名無史さん:04/01/23 22:39
冬は寒いでバイク乗れんです。>山犬さん

トレビアスレだったかで見た記憶。
ロールスロイスのフィギュアヘッドの名前を
“スピリット・オブ・エクスタシー”

・・と呼ぶのはホントなんすか?
結構ネタで使わせてもらってんだけどW
ジャガーなど他のシンボルの呼び名も知りたいな。
166山犬 ◆RDX1.dOCHY :04/01/23 23:13
>>165
YPさんですね? お久しぶりです。
仰るとおり、ロールスロイスの例のマスコットの正式名称は、
「スピリット・オブ・エクスタシー」であってますよ。
日本では「フライングレディー」って呼ぶ人の方が多いですけどね。

トリビアっぽいネタですけど、あれ、実は日本円で100万円以上します。
去年販売開始された「ロールスロイス・ファントム」なんかで、あのマスコット
が収納式になってるのは、盗まれるのを防ぐためだそうで。

あと、私はどうも二輪は苦手で、原付すら殆ど乗ったことがありません。
原付で行ける範囲なら、自転車で用を足してます。
167山犬 ◆RDX1.dOCHY :04/01/23 23:19
>>157さん
うーん、それがいつの出来事なのかよくわからないので、
なんとも言えません。

90年のル・マンの時には、優勝争いをしていた日産チームのタイヤが
キリで穴をあけられた、なんて話を聞いたことがありますが。

でも、マツダが優勝した時にはそういった嫌がらせがあったという話も
聞きませんし・・・。

まぁ、158さんの仰るように
>嫉妬と中傷、剽窃と引き抜きはオートレースの常識ですけんねぇ。
と言う事で・・・。

>>162さん
知りません。二輪は全然わかりません。
168世界@名無史さん:04/01/24 00:00
どもです。
なんか、この前逢ったwの方が山犬さんかなーとか思ったりして
るんだけど。 …違いますよね。

右側通行及び左側通行の概念はいつごろからあるのでしょうね?
とか書いてテキトーにばっくれるけど怒らいでね。
>155
シュコダはF1はなかったと思いますよ。
なんかフォーミュラに出ていたとは思いますが。

バイク方面だとチェコのJAWAとCZは有名でした。
あとユーゴのモペットメーカーだと思いますがトモス
は80年代まで今はなき50ccクラスに参戦していました

159の上はソビエトのGPマシン「ボストーク」ですね。
話には聞いてましたがこんなマシンでしたか。


170世界@名無史さん:04/01/24 04:40
昔は、日本のワークスチームが入賞しても、マイナー過ぎて、表彰式でかけるはずの国歌のレコードがなかったことがあったのは有名?
171ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w :04/01/25 13:30
アメリカ人ライダーのパット・ヘネンが優勝した時も国歌のレコードが
なくて、歌詞を知ってる連中が皆で歌ったそうですね。
172山犬 ◆RDX1.dOCHY :04/02/09 07:43
>>168
どもですw しばらく、アジアの某右側通行の地域を旅行してました。

右側通行・左側通行に関しては、詳しい事は存じませんが、どうも
車の発明以前から、各国で法律によって定められていたと記憶
しています。
20世紀初頭にイギリス車がアメリカに輸出された際に、左ハンドル
右ハンドルの問題が云々された事があったように思います。

日本では左ハンドルの車も通行できますが、世界にはそうでない
国も多いですね。先日旅行した某地域は、左ハンドルの車は禁止
ですので、フェラーリもポルシェも、全て右ハンドルに改造されて
ました。イギリスには17世紀から有料道路網が存在したので、
ひょっとしたらその頃からあったかもしれませんね。右側通行・左側
通行に関しては、少し本を読んで勉強したいと思います。

あと、たぶんこの前会ったwの方は、僕じゃないと思いますですw
この数ヶ月間、新しい人との出会いも無いですしねぇ・・・。
173世界@名無史さん:04/02/11 15:41
発展途上国ではゴムタイヤの馬車・ロバ車がよく使われているが、
先進国ではあまり見かけないのはなぜだろう。
(農村には多少あるけど特に市街地)
ヨーロッパではいまだに昔ながらの鉄の輪をはめた車輪のままが多い気が。
タイヤばきじゃ風情が出ないだけの理由だろうか?
174世界@名無史さん:04/03/21 22:19
>>173
リアカーの発明と普及が絡んでいる気がしますが。
175世界@名無史さん:04/03/21 22:27
>>173
発展途上国の荷車=実用品
先進国の馬車等=趣味・観光用
ということだろ。

実用にするならゴムタイヤのほうが安価で実用的だが、
観光資源にしたり、伝統行事に使ったりするならオリジナ
ルの形態を維持する必要がある。
176世界@名無史さん:04/03/21 23:03
モンタネッリの「ルネサンスの歴史」読んでたら
ボニファティウス8世が、教会財政補填の為に全欧州にローマ巡礼を
よびかけ、それでローマ市内の交通が過密になった。

そのとき右側通行が始まったとか、どっかで読んだ気がするんだが、
いま探すとないね。おれの勘違いかな
177山犬 ◆RDX1.dOCHY :04/04/19 00:10
スレ立てしたにも関わらず、しばらく書込みしなくてスイマセン。
何か車に関するご質問などありましたら、お気軽にどうぞ。

自分から話し振るの、どうも苦手なんです・・・。
178世界@名無史さん:04/04/20 12:22
>>177
レシプロ・エンジンの話ですが、クランクシャフト・ジャーナル、
クランク・ピンのメタルベアリングの採用はアメリカのデューセン
バーグが最初ってことでよろしいですか?
179世界@名無史さん:04/05/03 22:05
>>177
日本の皇室の馬車・自動車の歴史を教えてくだされ(特に馬車)。
180世界@名無史さん:04/05/11 02:13
馬車が埴輪と一緒に出土したとか
181世界@名無史さん:04/05/17 22:12
結局、車などの乗り物を挽いた役畜は
ウマ・ウシ・ロバくらいですかね。
あとは背中に背負って運ぶタイプだものな。

まあ、橇も含めるならイヌとトナカイが加わるか。
182世界@名無史さん:04/05/27 20:25
そういえば、ゾウやラクダが荷物を運ぶ姿は知ってるが、
車を牽く姿を知らないな。実際、牽いてたの?
183世界@名無史さん:04/05/28 22:10
インドの場合↓
聖牛様に肉体労働は畏れ多いので荷車の牽引はラクダの仕事のようで。
http://www.gld.mmtr.or.jp/~hiroh/ryokoki/let120320.htm

一方の象車は聞いた事ないね・・・あるかも知れないが。
 
184世界@名無史さん:04/05/28 22:13
インドの場合↓
聖牛様に肉体労働は畏れ多いので荷車の牽引はラクダの仕事のようで。
http://www.gld.mmtr.or.jp/~hiroh/ryokoki/let120320.htm

一方の象車は聞いた事ないね・・・あるかも知れないが。
 
185世界@名無史さん:04/05/28 22:14
インドの場合↓
聖牛様に肉体労働は畏れ多いので荷車の牽引はラクダの仕事のようで。
http://www.gld.mmtr.or.jp/~hiroh/ryokoki/let120320.htm

一方の象車は聞いた事ないね・・・あるかも知れないが。
 
186世界@名無史さん:04/05/30 12:50
イヌが車両を牽引する例としては:

ドッグカートレース
http://dogcart.huskyteam.ch/

こっちは実用の荷車でしょうか。
http://www.dogworks.com/
187   :04/05/30 13:27
戦前日本のものばっかりですが、ちょっと貼らせてもらいますね
http://syasinsyuu.cool.ne.jp/koutuu/koutuu2.htm(写真)
http://syasinsyuu.cool.ne.jp/koukoku/kuruma.htm(広告)
188世界@名無史さん:04/05/30 13:31
これはヤギ車。検索すると写真がけっこうあるのですが
荷車は見かけずほとんどが一人乗りの乗用のようですね。
http://www.disabilitymuseum.org/lib/stills/386card.htm
189世界@名無史さん:04/07/10 16:27
>>181
あとスイギュウが牽きますね。

役畜のすべてが車を牽くわけではないんですね。
リャマやヤクは非力なのかな。
190世界@名無史さん:04/07/11 01:03
リャマを近くの動物園で見たことがあるけれど、そんなに大きくないし
性格はヤギみたいにいやしんぼ。調教しにくそうだ。
191世界@名無史さん:04/07/24 16:13
アルパカは荷役には不向きだが、
リャマなら背中に荷を背負う運搬労働は現に行なっているので
(牽ける重量に限度があるものの)車を牽くことは一応可能と思われ。
192世界@名無史さん:04/08/28 23:38
荷車ではないのだけれども、古代の中東には脂肪が地面に届くほどに
垂れ下がる種がいたようで、歩行を助けるために小型の台車を下に敷いて
自分の首から牽かせてたそうなw
193世界@名無史さん:04/09/07 21:40
プロジェクトXでスカG伝説を放送中。
桜井真一郎、砂子、青地など登場。

よくNHKが・・・
194世界@名無史さん
「R380のぶっちぎりのゴールイン」

トモロヲ氏のナレーションで「ぶっちぎり」という言葉を聞くとは・・・