923 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :
「誰がための強さ」
アンドレアス・プロコプ(???〜1434)フス派全軍司令官・孤児団指導者
戦争の勝敗と言うのは、戦略と物量によって決まります。
これは古今東西不変の原理ですが、長い世界の歴史においては、当然数少ない例外と言うのも存在します。
15世紀初頭、中欧の小国チェコに、一人の偉大な思想家が現れます。
その名は、ヤン・フス。カトリック教会の横暴を批判し、
全てのキリスト教信者の神の前における平等を唱えるジョン・ウィクリフの思想を信奉する彼は、
集会を開いて教会批判の演説を行い、ウィクリフの著書をチェコ語に訳して出版し、
またたく間にチェコの人々の心を掴みました。
そして、学会で議論されるに留まっていたウィクリフ思想を、
自由と平等を希求する一大改革運動へと発展させていきました。
この動きを危険視した教会は、1415年7月、フスを「異端」として処刑しました。
憤激したフスの支持者達は、自らを「フス派」と称して活動を続け、
1419年7月に、チェコの首都プラハの市政を掌握します。
924 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/06/26 02:13
混乱の中で、チェコ王ヴァーツラフ4世は憤死。
時のチェコの王位継承権者にして神聖ローマ帝国皇帝ジギスムントは、
教皇マルティヌス5世を動かして、異端撲滅十字軍を結成。
参加した王国・領邦は実に30以上。遠くイギリス、スペイン、南ロシアの諸侯も参加していました。
チェコは北欧以外の全カトリック世界を敵に回してしまったのです。
1420年7月、十字軍全軍8万はプラハ郊外に集結し、総攻撃を開始します。
プラハに立てこもるのは、プラハのフス派貴族と市民の混成軍数千。
そして、南部のフス派の拠点であるターボルから援軍に来ていた2000の農民兵でした。
誰もが十字軍の勝利を信じて疑いませんでした。
しかし、そこで奇跡が起きました。
ターボルの農民兵が城壁を出て野戦を挑み、十字軍の先鋒を撃破したのです。
十字軍が混乱したのを見たプラハ軍も攻勢に討って出ました。
十字軍は雪崩を打って敗走し、軍旗や十字軍の勅書までフス派の手に落ちたのです。
この奇跡を演出したのは、ターボル軍の司令官ヤン・ジシュカ・トロツノフ。
傭兵隊長やチェコ軍の指揮官を経て、病気と高齢のために引退していましたが、
軍事の専門家を欠くターボル軍の司令官として、引っ張り出された老軍人でした。
彼は、荷車を立ててバリケードとしてロングボウの攻撃を防ぎ、
その隙間から射撃実行班と銃身掃除班と発射準備班に分かれた鉄砲隊が間断なく射撃を続けるという新戦術で、
騎士突撃を跳ね返し、さらに当時の欧州世界で最強とされていたロングボウ戦術も打ち破ったのです。
さらに、彼はこの戦いにおいて、大砲も巧みに運用して見せました。
後世で「ジシコフの戦い」と呼ばれるこの戦いは、補助兵器でしかなかった鉄砲が、
世界史上初めて主力武器として用いられた戦いでした。
セリム1世のチャルディラーンに先立つこと94年、織田信長の長篠に先立つこと155年。
しかも、この2者は敵軍に倍する大軍を擁していました。
それに比べて、ジシュカは十倍近い大軍を打ち破ったのです。
925 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/06/26 02:14
その後、ジシュカは、1421年のヴィシェフラッドの戦いで第二次異端討伐十字軍を壊滅させ、
フス派内部の急進派と穏健派の対立に足を引っ張られ(ジシュカは急進派に属していました)、
さらに腐敗しつつあったターボルの他の指導者に見切りを付けて、自らオレーブ派を結成するなど、
政治的には苦境にありましたが、皇帝軍やチェコ国内のカトリック諸侯に勝ち続け、そして穏健派との内戦にも勝利し、
急進派と穏健派の抗争に終止符を打ち、「フス派全軍司令官」の称号を帯びました。
1424年に病死すると、ジシュカの死を悲しんだオレーブ派は、自らを「孤児団」と称するようになります。
ジシュカの死で動揺する急進派を取りまとめたことにより、「孤児団」の指導者に推され、
新たに「フス派全軍司令官」の称号を帯びることになったのが、本編の主人公アンドレアス・プロコプです。
926 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/06/26 02:15
アンドレアス・プロコプの統率力について、考察します。
彼は、急進派の動揺を収めて、孤児団の指導者に推されました。
その後、第四次異端討伐十字軍を壊滅させた後に、後世に「スパニレー・イーズディ(偉大なる行軍)」と称される大遠征を企図します。
そして、フス派の全軍を率いて、ドイツ・ハンガリー・オーストリアに侵攻しました。
カトリック軍は大軍を集めてこれに対抗しましたが、ことごとく打ち破られます。
一時、カトリック軍のコルディッツが反攻に出て、フス派軍の別働隊を破りますが、これも焼け石の前に水でした。
しかし、あまりに勝ちすぎたために、かえって遠征軍の統率に乱れが生じてきました。
強さを恃むあまり、プロコプの命令を無視して勝手な作戦行動を行う軍が出たり、
戦利品を着服して私財を蓄え、民衆に対して封建領主のように振る舞い、
フス派の理念である清貧と平等を無視する者まで現れてきていました。
もはや、強くなりすぎたフス派軍は、プロコプの手に負えなくなってきていたのです。
「全キリスト教世界を教会の圧制から解放する」という理想を抱いていた彼が、華々しい軍事的成功にも関わらず
カトリック側との和平を模索したのは、勝てば勝つほどフス派の人々が、
ヤン・フスの掲げた理念からかけ離れていく事に絶望したからでした。
彼は1432年のバーゼル公会議で、教会側との和平交渉に入りましたが、
その間に「全キリスト教世界のフス派化」の夢に取り付かれた急進派の一部が、勝手に軍事行動を開始し、
チェコからバルト海までの一大打通作戦を成し遂げると言う、洒落にならないことをやらかしています。
しかし、プロコプはこれを放置せざるを得ませんでした。
そして、自らの主導による和平を断念し、急進派に引きずられるように軍事行動にのめり込んでいきます。
927 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/06/26 02:15
1434年5月、和平を望む穏健派は、ついに急進派の切り捨てを決断します。
チェコ国内のカトリック諸侯と連合した穏健派軍3万は、プロコプ軍を急襲します。
プロコプはリパニでこれを迎撃しました。
しかし、「孤児団」のチャペック将軍が突如として裏切り、挟み撃ちにあったプロコプは戦死したのです。
チャペックは「偉大なる行軍」で膨大な富を手に入れ、フスやジシュカの掲げた理想を忘れてしまいました。
そして、寝返れば貴族に列すると言う穏健派の誘いに乗ったのでした。
プロコプは、ヤン・ジシュカの後継者の名に恥じない優れた軍事指導者でした。
フス派軍の全軍を「孤児団」式に再編成し、彼が指揮を取らない戦場でも勝利できる軍隊を作り上げました。
そして、「偉大なる遠征」では彼の本軍も、別働隊も連戦連勝を重ねました。
彼の命令を無視して、暴走した軍ですら、勝ち続けました。
一国の軍の総帥として、これだけ強大な軍隊を築き上げたのですから、
彼の統率力は「ど」の字フォーマットの国家的業績に値する80台はあります。
しかし、「偉大なる行軍」の後半期になると、あまりに勝ちすぎたために部下を統御できなくなりました。
そして、平和を望んでいたのに、軍の暴発を抑えきれずに、
統率を放棄した挙句に不本意な戦争に引きずり込まれ、最後は長年の戦友に裏切られて果てました。
この時期を見ると、ろくでなしレベルの20台と言っても過言ではありません。
プロコプの統率力は、前半は一級レベルの「81」、後半はろくでなしレベルの「23」とします。
そして、足して2で割って、歴史的人物としては可も無く不可も無いレベルの「52」とします。
928 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/06/26 02:16
アンドレアス・プロコプの武力について、考察します。
1426年6月、第四次異端撲滅十字軍を、ウースチーで打ち破り、
「ドイツ人の死体が、麦束のように地平線の彼方まで散乱した」と言われるほどの大勝利を収めました。
「偉大なる行軍」においては、プロコプ軍と対峙したカトリック軍は、
兵力の多寡に関わらず、無残に敗北する以外の選択肢を与えられませんでした。
プロコプ軍の進軍ルートにいる諸侯や都市は、蹂躙されて灰塵と化すか、抵抗を断念して逃げ出すか、
多額の貢物を差し出してきて和議を乞う以外の選択肢を与えられませんでした。
1430年2月には、神聖ローマ皇帝ジギスムントのドイツにおける本拠地であったニュルンベルク市、
七大選帝侯であり、大貴族中の大貴族であるブランデンブルク辺境伯、ファルツ伯などが、
多額の金を差し出して、和議を結びました。
1431年2月、異端であるフス派軍がヨーロッパを縦横無尽に荒らしまわっていることに憤激した、
教皇マルティヌス5世は、第五次異端撲滅十字軍を起こすことを決意し、
カトリック諸国に「異端撲滅のための十分の一税」を課し、
さらには教皇庁からも多額の資金を拠出し、免罪符をヨーロッパ中にばら撒いて軍資金を用意しました。
マルティヌス5世は準備中に病死しましたが、後継者のエウゲニウス4世が十字軍の編成を引き継ぎ、
異端撲滅十字軍としては、史上最大の13万の大軍が集まりました。
929 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/06/26 02:17
1431年8月に十字軍がチェコ侵攻を開始したとの報を受けたプロコプは、
各地に分散していた別働隊と合流する時間が無かったため、
手元にあった2万の兵を率いて、迎撃に向かいます。
戦場のドマジュリツェに到着した時点で、十字軍は既に有利な地形に布陣していましたが、
プロコプは迷うことなく、いつものようにフス派の賛美歌「汝、神の戦士たれ」を全軍に合唱させ、前進を命じました。
すると、恐怖心に駆られた十字軍の兵士が逃げ出し、それに指揮官が続き、
最後には軍司令官や従軍していたカトリックの聖職者まで逃げ出しました。
プロコプ率いるフス派軍の強さは、カトリック教徒にほとんど迷信的な恐怖を与えていました。
その恐怖が、いつもフス派軍が士気を鼓舞するために歌っている賛美歌で喚起されたのです。
帝国軍旗、王国軍旗などが戦場に投げ捨てられ、教皇特使として従軍していたチェザリーニ枢機卿までが、
枢機卿服を脱ぎ捨て、十字軍勅書を投げ捨てて、逃げ出す始末でした。
全軍がすぐに逃げ出したおかげで、戦死者が200人で済んだと言うのは、不幸中の幸いだったでしょう。
ちなみに、この戦史上有数の情けない敗北は、教皇をノイローゼに陥らせ、
「フス派軍がローマまで攻めてくるのではないか」という被害妄想を植えつけました。
教皇と神聖ローマ皇帝の威信は地に落ち、異端撲滅十字軍を行うことは二度と出来なくなりました。
もはや、教皇も皇帝も、フス派との和議のテーブルに着かざるを得なくなりました。
930 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/06/26 02:18
1434年5月、フス派穏健派とチェコ国内のカトリック諸侯の連合軍3万は、
出兵していたプロコプ軍の背後から急襲を仕掛けました。
不意を突かれたプロコプは、十分な準備の出来ないままに、
急いでかき集めた2万の兵を率いて、リパニで連合軍と対陣しました。
連合軍の主力を占める穏健派軍は、これまで戦った騎士・弓兵・歩兵からなるカトリック軍とは違い、
プロコプがヤン・ジシュカから受け継いだ鉄砲・大砲の運用と、改造された荷車による車砦防壁のミックス戦術を用いる軍隊でした。
そして、「偉大なる行軍」に従軍して、連戦連勝を収めた有能な指揮官と、歴戦の兵士を擁していました。
フス派軍の中核部隊である「孤児団」とターボル軍がプロコプに付いていましたが、
兵力的には劣勢であり、準備不足もあって、完全にプロコプが不利な状況から戦いが始まります。
しかし、プロコプは連合軍の攻勢を跳ね返し、攻勢に出ました。
プロコプ軍の勝利は目前と思われた時、突如として長年の戦友チャペック将軍が裏切ります。
四方八方から銃撃や砲撃を浴び、プロコプは壮絶な戦死を遂げました。
7年間に渡って、小国の軍を率いて全カトリック世界を敵に回して戦い、
ローマ教皇と神聖ローマ皇帝さえも、その武威に屈指させた一代の英雄の最初にして最後の敗北でした。
なお、連合軍は戦場から離脱出来なかったプロコプ軍の兵士を皆殺しにしています。
同じフス派の間でさえ、プロコプ軍の強さは、恐れられていたのです。
すさまじくスノッブな奴だよな。
知識は認めるが、鼻について仕方がない。蘭太郎も似たようなもんだし。
つーか、自前でサイト立てろや。ここでやる意味無いだろ。
932 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/06/26 02:34
この時代の名将には、直接プロコプと戦ったわけではありませんが、
1415年にアザンクールの戦いでフランス軍を壊滅させ、
百年戦争におけるイギリスの優位を再び確立したヘンリー5世、
1429年にオルレアン包囲を解いて、不利な状況にあったフランス軍を優勢に導いたジャンヌ・ダルク、
1436年にイギリスからパリを奪回し、1449年にノルマンディーを奪回し、
百年戦争を終結に導いた真の英雄フランス軍大元帥アルツール・ド・リッシュモン、
1410年にタンネンベルクでドイツ騎士団を壊滅させたポーランド=リトアニア連合王国国王ヴラディスラフ2世、
1443年にアルバニアをオスマン・トルコから独立させ、1468年に亡くなるまで、
年中行事のように攻め寄せてくるオスマントルコの大軍を撃破し続けたアルバニア王国国王ギエルギ=カストリオティ、
オスマン・トルコの北上を食い止め、
正義王マーチャーシュの父としても知られるハンガリー王国摂政フニャディ=ヤーノシュ、
もはや説明の必要も無いであろうワラキア公ヴラド3世、
分裂したモンゴルを再統一し、1449年に土木堡の戦いで明の大軍を破って、
皇帝英宗を捕虜にしたオイラートのエセン・ハーン、
エセン・ハーンから北京を守り抜いて、明帝国の滅亡を防いだ明の兵部尚書于謙、
1453年に奇策をもって、難攻不落の要塞コンスタンチノープルを陥落させた
オスマン・トルコのスルタンメフメト2世などがいます。
しかし、小国の軍を率いて、無限の回復力と戦略的優位を有する相手の攻勢を防ぎ続けただけでなく、
逆に攻勢に打って出て、敵国の首都に匹敵する大都市を降伏させ、
キリスト教異端とされた信仰を史上初めてカトリック教会に認めさせるという快挙を成し遂げたプロコプの武勲は、
これらの将星と比べても遜色ないどころか、遥かに凌ぐと思われます。
純粋な戦術的技量では、世界の戦史上屈指の将帥と言っても過言ではありません。
異論がある方がおられるかもしれませんが、
プロコプの武力は「ど」の字フォーマットの歴史的業績に匹敵する「97」とします。
933 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/06/26 02:35
アンドレアス・プロコプの知力について、考察します。
プロコプはチェコ国内の体制を固めると、「偉大なる行軍」を企図します。
その目的は、神聖ローマ皇帝とカトリックの聖俗諸侯に打撃を与え、
異端撲滅十字軍の企図を挫き、教皇を交渉のテーブルに引きずり出すためでした。
また、7年間も周囲のカトリック諸国・領邦から経済制裁を受けていたため、
経済が崩壊しつつあり、内政が極度の混乱状態に陥っていました。
この閉塞状況を遠征によって打開するという目的もありました。
彼はフスの理想をキリスト教世界全体に広げ、世界の姿を変革することを目指すフス派急進派でしたが、
軍事力でそれを成し遂げることが不可能であることも知っていたのです。
遠征軍は、別働隊が途中で暴走したり、
ポーランド=リトアニア王国とドイツ騎士団の戦争に巻き込まれるなど、
紆余曲折を経ましたが、カトリック勢力に恐怖を植え付け、
最終的に教皇を交渉のテーブルに引きずり出すことが出来ました。
ただ、チェコの国力の限界を越えて戦い続けたため、
内政の混乱は収まるどころか、深まっていきました。
戦略目的の半分は達成されましたが、残りの半分は達成されなかったのです。
それでも、カトリック世界との和解が成立すれば、これも達成されるはずでした。
934 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/06/26 02:36
しかし、あまりに勝ちすぎたために急進派が暴走し、
プロコプの統制を受け付けなくなるという予測を越えた事態が発生してしまいます。
また、理想を守るための戦争だったのに、勝ちすぎて多くの物を手に入れすぎたために、
心がすさんでしまい、フスの理想を忘れて私利私欲にふける人々も現れました。
戦争に勝利して、戦略目的も達成されつつあったのに、
勝ちすぎたせいで間違った方向に進んでしまうと言う不本意な結果に終わってしまったのです。
皮肉なことに、あまりに強過ぎた事が、彼の戦略を狂わせてしまいました。
急進派に引きずられていくうちに、自分自身が心から望んでいた和平の障害となってしまい、不幸な最期を遂げました。
問題への正しい理解・判断能力、戦略眼を高いレベルで備え、現実的な思考の出来る人物でしたが、
行き過ぎた強さがもたらす弊害を予測する先見の明に欠け、それを克服する意志力にも欠けていたので、
プロコプの知力はまあまあ有能なレベルの「64」とします。
935 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/06/26 02:36
アンドレアス・プロコプの政治力について考察します。
プロコプは、ヤン・ジシュカの死で動揺していた急進派をまとめ上げ、指導者の地位に就きました。
しかし、教会との和平交渉では、暴走する急進派の軍事行動を放置しながら交渉を進めたために、
和平の意思を疑われ、交渉相手を穏健派のヤン・ロキツアナに変えられると言う致命的失敗を犯しています。
また、相次ぐ戦争で国内が疲弊したのに、軍資金を捻出するために重税を課しました。
そのため、民衆の反乱や逃散が相次ぎ、多くの町や村が廃墟と化しました。
フス派の支配地域では、基本的に聖職者や有力な市民が合議制で統治に当たっていたのですが、
これらの人々が腐敗してしまったために、民衆の怒りは頂点に達していました。
プロコプは肩書きこそ「フス派全軍司令官」でしたが、実際には政治面でも最高権力者でした。
それなのに、このような状況を招いてしまったのですから、内政・外交能力の欠如は明らかです。
政治的実績はヤン・ジシュカの死後に急進派をまとめただけで、対外交渉では初歩レベルのミスを犯し、
内政においては何の手も打たず、政治的調整においては、穏健派との協調路線を取っていましたが、
最終的には不本意な形で切り捨てられてしまったので、プロコプの政治力はろくでなしレベルの「25」とします。
936 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/06/26 02:37
アンドレアス・プロコプの魅力について考察します。
彼は「聖書にのっとった清廉な生活」「神のもとでの万人の平等」といったフスの理想をキリスト教世界全体に広げ、
世界の姿を変革することを目指すフス派急進派の指導者であったにも関わらず、決して狂信者ではなく、
チェコ国内でのフス派の信仰をローマ教皇に認めてもらえるなら、それで構わないと考える穏健派についても、
理解を示すだけの器の大きさを有していました。
そのため、急進派に対して激しい反発を抱いていた穏健派に安心感を与え、協調していくことが出来ました。
また、政治センスに致命的に欠けていたのに、ヤン・ジシュカ死後の急進派の動揺を抑え、
指導者に推されたのは、おそらくは人格的魅力によるものと思われます。
彼は戦場では悪魔のように恐れられていましたが、個人としてはかなり魅力的な人物であったようです。
よって、プロコプの魅力は優秀レベルの「70」とします。
937 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/06/26 02:37
アンドレアス・プロコプの最終的な評価を発表します。
【統率】52 ※当初は81、「偉大なる行軍」の後半以降は23とします。
【武力】97
【知力】64
【政治】25
【魅力】70
とても優秀な軍人です。
到底聖職者出身とは思えません。
たぶん、世界史上最強の聖職者です。
生涯の前半なら、全軍の総帥も任せられます。
手堅い判断が出来るので、独自で行動させても問題ありません。
武力がとてつもなく高いので、どんな戦場に送り込んでも絶対勝ちます。
軍事指導者に留まっていたら、本当に幸福でいられた人でした。
政治に手を出さざるを得ない立場にいたこと。
そして、あまりに戦争に強過ぎたことが、この人の悲劇でした。
人智を越えた強さは、人を幸福にしないのではないか。
プロコプの生涯を追っていくと、そう思わずにはいられません。
お疲れ様。
すごい分量ですな。ヤンジシュカかと思いきやブロコブですか。
ご苦労様。すごく面白かったです。
青の評伝を眺めてると、単に基督教徒間の争いだったからじゃないのかと、穿ってみたくなるな。
941 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/06/26 04:47
>>938 いやあ、軍事史的な意義はヤン・ジシュカ・トロツノフの方が大きいんですが、
実際にあげた軍事的功績では、アンドレアス・プロコプの方が遥かにでかいんですよ。
ジシュカの場合は歴史に登場した時点でかなりの年寄りですので、当然と言えば当然なんですが。
プロコプは、現実的な思考が出来る人なのに、意志力が伴わなくて、
暴走する連中を止められず、あげくの果てに引きずられていってます。
また、理想主義者で、他の連中が腐敗してるのを嘆いているのですが、
だからと言って、それを自分でどうにかしようとはしないのです。
戦場では物量も戦略的不利も、軽々と粉砕してしまい、
カトリック世界の二大巨頭のローマ教皇と神聖ローマ帝国皇帝を同時に敵に回して、
しかも、勝ち続けて軍事力で争うことを完全に断念させるほどの英雄なのに、
性格が妙に中途半端なところと、勝ちすぎて自分の首を絞めてしまうところが面白くて、
評伝を書きました。
>>939 お楽しみいただけて、幸いです。
執筆に一週間かけた甲斐がありました。
やっぱり、こういうどこか抜けてる人の方が、書いてて楽しいですね。
942 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/06/26 05:14
>>940 異教徒は、キリスト教を信じてないだけの連中ですが、
異端は、「ローマ教会は間違ってる。俺達が本当のキリスト教徒だ」と主張してる連中です。
ローマ教会にとっては、異教徒を放置するより、
異端を放置して、彼ら流の「本当のキリスト教」を広められる方がずっとヤバイのです。
30年戦争がとことんこじれたのも、そういう事情です。
蛇足ながら、ローマ教会が「ヤン・フスの処刑と、その後のフス派への弾圧は間違いだった」と公式に認めたのは、
1999年12月17日の事です。
944 :
世界@名無史さん:03/06/26 14:57
うるせーベルオタ
945 :
前々スレ927:03/06/26 17:05
この文章量、さすが永遠の青さん。
すごく面白く読ませていただきました!
私はこの辺の時代には疎いので、これほどの名将がいるとは知らず驚愕しました。
あと、941を読む限り武力は
アンドレアス・プロコプ>ヤン・ジシュカ
となるのでしょうか?
>942
いや、だから同じ基督教徒であるが故の畏怖が、実際以上にフス派の
軍事行動を強大にしたのではないかと思えてくるなという話でね。
又フス派の軍隊の神がかり的強さは、指揮官の賜物ではなくて信仰心が第一って
感じもするし。数値的には異論ないんだけど、青の評伝は胡散くさいんだよw
947 :
世界@名無史さん:03/06/26 18:26
948 :
世界@名無史さん:03/06/26 18:31
このスレは進行が早いから950の人が次スレをたててください
お疲れ様です。楽しみにしていたかいあって、とてもためになる評伝でした。
ヨーロッパでグリフィスに似たのといえば、グスタフアドルフをぶち殺した
無敵の傭兵隊長で、最後は謀略で果てたヴァレンシュタインかな、
とか想像してましたが、なるほどプロコプでしたか。ドイツ人を文字通り
稲穂のように薙ぎ倒した彼なら、まさに最強と呼ぶに相応しいですね。
>>898>>899 幕末で評価の分かれる人物といえば、徳川慶喜なんていい感じです。
このポークマニアを普通に評価すれば、典型的「策士策に溺れる」タイプの
見事に痛い人ですが、
でも最初から全ての行動が、幕府に幕を引き新体制に移行させる確信犯的計画だっ
たという視点で眺めれば、参預会議を空中分解させ、大政奉還し、倒薩表を
掲げて上京、大阪城脱出、徹底抗戦派を退け、江戸城無血開城。
すんなり幕府が倒れる為には、どれ一つ欠かすことのできない重要な行為です。
それを幕府側の人間を騙しつつやり遂げるという手並み、もしそうだとしたら、
知力100候補に挙げたいです。
↑次スレよろ
____________ 諸君らの歴史上の人物をコーエー風数値化するスレの次スレを立てろという約束・・・
ヾミ || || || || || || || ,l,,l,,l 川〃彡|
V~~''-山┴''''""~ ヾニニ彡| 守りますとも・・・蘭太郎・・・
/ 二ー―''二 ヾニニ┤
<'-.,  ̄ ̄ _,,,..-‐、 〉ニニ| ことスレ建てに限り・・・虚偽は一切言わぬ・・・
/"''-ニ,‐l l`__ニ-‐'''""` /ニ二|
| ===、! `=====、 l =lべ=| 守る・・・! 守るが・・・
. | `ー゚‐'/ `ー‐゚―' l.=lへ|~|
|`ー‐/ `ー―― H<,〉|=| 今回、まだその時と場所の指定まではしていない・・・
| / 、 l|__ノー|
. | /`ー ~ ′ \ .|ヾ.ニ|ヽ そのことをどうか諸君らも思い出していただきたい・・・
|l 下王l王l王l王lヲ| | ヾ_,| \
. | ≡ | `l \__ つまり・・・私がその気になれば・・・
!、 _,,..-'′ /l | ~'''
‐''" ̄| `iー-..,,,_,,,,,....-‐'''" / | | 次スレを建てる時期は・・・
-―| |\ / | |
| | \ / | | 1年後、2年後!!忘れられているころに建てる
ということも可能だろう・・・ということ・・・!
>>902 僕は幕府側が完全勝利で幕を下ろすには、勅許が下りる前の段階で斉彬一行を
撃退するしかなかったと思います。
薩摩と戦うにしても、勅命を得た薩摩を討ったとあれば朝廷対幕府という構図、
幕府にとっては最悪のカードです。勅許を得ずに条約を結んだだけで嘗てない
ほどの高まりを見せた幕府非難の風潮は、武力で勅許を退けたことで爆発し、
それこそ幕府が朝敵になる可能性も出てくるでしょう。
井伊がいかにその可能性を恐れ、そういった性質の勅許が下らないよう躍起に
なったかというのは、水戸藩降勅問題を受けての執拗な朝廷工作と、梅田雲浜捕縛
に伺えると思います。
斉彬に下された勅許が倒幕を招くような性質のものならともかく、幕府にとっては
井伊の失脚と一橋慶喜が将軍後見職に就く程度のものです。(その程度が日本の
進路を決定付けるには重要なものですが)それを撥ね付ける為だけに、朝廷との
全面衝突も覚悟して迎撃するとは考え難いと考えます。
それでも井伊が徹底抗戦を選べば、朝廷内でも反対が根強く形の上では許可が
あったにも関わらず、幕府の私闘と見なされ、出兵を見合わせる藩が続出した
第二次長州征伐以上に傍観する藩も増え、そして薩摩以外にも武力で対抗しよう
とした福井藩などを始め、井伊の強権政治に反発している藩も多く、斉彬に協力
する所もかなりあると思います。
幕府を揺るがす一揆や打壊しが続出した原因が、長州征伐による物価高騰に端を
発しているように、武力衝突が起これば時代の流れは必然的に幕府崩壊に向かっ
て加速することになるのではないでしょうか。
そして降勅を未然に防止される可能性ですが、時間的制約と雄藩の地勢的条件から、
京都に上がるまでに薩摩を撃退できるほどの兵力を展開するのは難しいと思います。
斉彬はその為に各地に配下の者を派遣して情報を収集させ、念入りに計画を立てて
いたようです。それでも上洛してから、久光のように勅許が得られるまでもたつけば
そこで迎撃される可能性も高くなりますが、事前の朝廷工作と『戊午の密勅』事件
での朝廷の動きを見る限り、すんなり勅命が下る可能性も高いと考えます。
もちろん、ただの一藩が兵を率いて上洛し、幕府に対抗しようという嘗てない大作戦、
どんな念入りに立てた計画でも失敗する可能性はあると思います。
斉彬自身それは解っていたようで、「薩摩が滅ぶことも覚悟の上だ」と語っていた
ように、一世一代の大博打という心境だったのでしょう。
>>903 僕も井伊があの時点で日米修好通商条約を結んだのは正しい判断だったと思います。
情勢的に朝廷の勅許を待っている余裕は、日本にはありませんでしたから。
ただ、その後の対応に問題があると思います。朝意に反して条約を結んだ事で、
朝廷始め公家や諸藩、志士達の反発は幕府の想像を超えて深刻だったわけですが、
そこで徳川一族の大名や一橋慶喜達が求めたような、幕府の立場を説明して前非を
謝罪するという方法をとるか、もしくは反対者を徹底的に弾圧するか、
井伊が後者を選んだのは日本にとって大きなマイナスだったと考えます。
幕府はそれまでに国難を打開する為、自由な意見を全国の有識者に求める、柔軟な
施策をとっていて、様々な建白書が幕府に寄せられていたのですが、「安政の大獄」
によってその建白書が元で投獄されるという、志士の側からすれば見事に騙された
ような形になったわけです。
それまでの幕府のように、出身や身分の限られた一部の人間だけで統治するような
やりかたでは、諸外国に対抗できる強固な体制には、到底成り得ないでしょう。
井伊の選んだ武断政治では自由な意見主張が統制され、その後の国創りに於いて
建設的な方向にはならないはずです。そういう点で封建制度の固持に綿々としてい
る井伊の政策は、国内の体制を整備する上では有害だったと思います。
956 :
世界@名無史さん:03/06/26 20:51
ヴァレンシュタインは二人も評価出てるから、
書く方ではマイナー好みっぽい青はやるまいと思ったが・・・。
宗教が絡むと人は何でも出来るし、やるからな。
これは厳密には宗教に限った話ではないかも知れんが、
実際、宗教は集団的狂信状態に陥りやすい要素を多分に持っている。
ベネディクト・アンダーソンは「ナショナリズムは宗教の親戚だ」と
書いたが、ヒトラーでなければ集団的狂信状態を作り出せなかった
ナショナリズムは、やはりそういう系譜からすれば傍系だろうな。
957 :
世界@名無史さん:03/06/26 20:56
なんとか上洛はできただろうね
禁門の変や鳥羽・伏見の戦いでも、幕府は薩長を京都に着くまでに防止できなかったし
>>951 あ、950踏んじゃった・・・
ごめんなさい、2ちゃん始めたの今年に入ってからで、
まだスレ立てたことないんです。
ごめんなさい、まだ僕の能力では無理っぽいです。
誰か変りに、お願いします。
ハハハ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ イキデキネーヨ
∧_∧ /
>>957激ワラタ ハライテ- ゲラゲラ
. ( ´∀`) < ∧_∧ 〃´⌒ヽ モウカンベン
. ( つ ⊂ ) \_______ (´∀` ,,)、 ( _ ;) シテクダサイ
.) ) ) ○ ∧_∧ ,, へ,, へ⊂), _( V V )_ ∧_∧ ○,
(__)_) ⊂ ´⌒つ´∀`)つ (_(__)_丿 し ̄ ̄し ⊂(´∀`⊂ ⌒ヽつ
タッテ ラレネーヨ ワラウシカネエダロ!! ドウニデモシテクレ!!
ワハハハ
テンプレ変えなくていいんですか?
いろいろ議論ありましたが決着はつかなかったようで
>>958 ちゃんとトリップ付きましたね。
前に騙りが嫌ならキャップ付けたらいいとか言われたので、少し調べてみました。
不発すると恥ずかしいので、なかなか実行に移せませんでしたが。
ちなみにこのスレに現れた影武者は、
>>426と
>>677と
>>952の三本です。
965 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/06/27 00:02
>>945 武力で言えば、わずかにプロコプの方が高くなるかもしれません。
ただ、総合力では明らかにジシュカの方が上です。
>>946 >いや、だから同じ基督教徒であるが故の畏怖が、実際以上にフス派の
>軍事行動を強大にしたのではないかと思えてくるなという話でね。
当時のカトリックにとって、同じキリスト教徒はカトリックとギリシア正教だけです。
同じキリスト教徒と思われてないから、十字軍を起こされるのです。
>又フス派の軍隊の神がかり的強さは、指揮官の賜物ではなくて信仰心が第一って
>感じもするし。
過去に宗教を背景にして、国家を形成した勢力の発展過程には、
いつも優れた政治家や軍事指導者がいました。
いかに信仰心があろうと、優れた指導を受けなければ、
強い国家や軍隊を作ることは出来ないのです。
スレ建てしてみる。
訂正
>>443-444 ヴラド3世 by前971
>>814-818 吉田松陰 by蘭太郎
今スレではアウゼングラーブ、ヴォーバン、ミュラ、ブロコブ
などの評伝が個人的には特に面白かったです。
>965
カトリックの立場なんか別にどうでもいいんだけど。
当時の諸侯軍の一般兵なんかは彼等の側に神がいるのかと畏怖したのではないか?
というか、そういう心理が働いた結果ではないかと言ってるんだけど、そんなに変?
それでも信仰からくる強い裏づけがある兵隊を指揮するのは楽だろうと思うけど?
もっとも結果を出すには、貴方の仰るとおり優れた指導者は不可欠ですけどね。
971 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/06/27 00:19
>>950 名前倒れの典型ですね。
>>953 島津斉彬が勅許を得ても、
井伊直弼は「島津斉彬が朝廷を脅迫して、無理矢理勅令を出させた。奴こそ朝敵だ」と、
主張することができます。
勅許の有無が問題ではなく、諸侯が天皇の勅令を盾にして、
国政に介入しようとしたことの方が遥かに大きな問題なのです。
これを座視していれば、幕府の権威に関わります。
執政者がよほどの軟弱な人物で無い限り、討伐は行われるでしょう。
島津斉彬が討伐軍の前に敗北しても、反井伊勢力の諸侯と共に内戦を展開しても、
日本にとっては悲惨な結果を招いたと思います。
一橋派に政権を握らせるためだけに、日本の国家体制が崩壊しかねない賭けに打って出た島津斉彬は、
とてつもなく危険な人物だと思います。
972 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/06/27 00:43
>>955 >そこで徳川一族の大名や一橋慶喜達が求めたような、幕府の立場を説明して前非を
>謝罪するという方法をとるか、もしくは反対者を徹底的に弾圧するか、
>井伊が後者を選んだのは日本にとって大きなマイナスだったと考えます。
民主国家なら前者を選ぶべきでしょうが、封建体制なら前者を選んだ方が弊害は大きかったでしょう。
勅許問題で世論に譲歩したら、朝廷の世俗的権威が、幕府の世俗的権威を上回りかねないからです。
つまり、皇帝・国王の権威が、ローマ教皇の権威に脅かされ、
政治に大きな弊害をもたらした中世ヨーロッパと同じ状況になってしまうわけです。
幕藩体制という領邦国家体制自体が、そもそも外圧に弱いのに、
さらに朝廷が実質的な権威を持ってしまったら、もっと危険なことになるからです。
>幕府はそれまでに国難を打開する為、自由な意見を全国の有識者に求める、柔軟な
>施策をとっていて、様々な建白書が幕府に寄せられていたのですが、
このことが、かえって幕末の混乱を招いたような気がします。
平時ならともかく、緊急時は自由より統制を優先するべきだったと思います。
>それまでの幕府のように、出身や身分の限られた一部の人間だけで統治するような
>やりかたでは、諸外国に対抗できる強固な体制には、到底成り得ないでしょう。
私もそう思います。
ですから、私は井伊直弼を、政治体制そのものの変革には手を付けず、
近代化のみを推し進めた曽国藩や李鴻章と同類の政治家だと思っているのです。
>井伊の選んだ武断政治では自由な意見主張が統制され、その後の国創りに於いて
>建設的な方向にはならないはずです。そういう点で封建制度の固持に綿々としてい
>る井伊の政策は、国内の体制を整備する上では有害だったと思います。
彼の立場は、あくまで封建国家の宰相でした。
そして、その立場で最善を尽くした人物でした。
国家体制そのものの変革には、革命か戦争が必要だったでしょう。
しかし、それは彼の仕事ではありません。
973 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/06/27 00:59
>>970 >当時の諸侯軍の一般兵なんかは彼等の側に神がいるのかと畏怖したのではないか?
>というか、そういう心理が働いた結果ではないかと言ってるんだけど、そんなに変?
私もそう思います。
物量の差も、戦略的不利も、常識もことごとく無視して、勝ちまくる軍隊が存在すれば、
神か悪魔か、何か超自然的なものが付いているのではないかと思う方が、
自然な反応であるような気がします。
実際、「偉大なる行軍」の洗礼を受けた地域の住人の中には、
フス派に転向した者も存在していました。
>それでも信仰からくる強い裏づけがある兵隊を指揮するのは楽だろうと思うけど?
場合によると思います。
信仰が強力な結束力を生み出す場合もあれば、
信仰のためにコントロールを失って暴走する場合もあるからです。
974 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/06/27 01:07
>>962 >>963 >>968 評伝をまとめていただき、お疲れ様です。
>今スレではアウゼングラーブ、ヴォーバン、ミュラ、ブロコブ
>などの評伝が個人的には特に面白かったです。
典型的な英雄・名将・名宰相などより、一風変わった人物の方が面白いですからね。
>>945 15世紀の東欧・中欧は、優れた人物がたくさん出ているんですよ。
あまり知られていない時代や地域にも、立派な人物はいるんです。
それを書きたくて、このスレにいるのです。
>>971 計画の成功率、これ以上は技術論に踏み込み、煩雑になるので止めておきますね。
ただ斉彬の思想について、あと少しだけ述べさせていただきます。
斉彬は幕府に、西洋に対抗するだけの国防力の強化を進言し続け、軍艦を献上し、
またペリー来航以降の幕府の狼狽振りを目の当たりにして、各個たる体制の
元で強力な外交力を持つ事が諸外国と渡り合うためには必要だと考えるなど、
先進的に日本の行く末を考える事の出来た人物です。
けして自分の権勢欲の為だけに日本を混乱に導こうとしたわけではなく、
慶喜を将軍にするというのも、開明的な彼の元で様々な改革を行い、外国に対抗で
きるよう国を強化したいと考えていたからに他ならないと思います。
井伊の武断政治に対抗しようとしたのも、斉彬が計画を藩士に打ち明ける際に
「このような方法は望むところではないが」と付け加えているように、
外国文明にとても理解のあった彼こその、旧態然とした幕府のままでは何れ亡国に
なり、もう尋常な手段では幕府を改革できないという、ゆくゆくの思案の果ての
ことだったと思います。
現実に斉彬の死後、圧倒的な弾圧政策の前に、諸藩、薩摩はもとより長州でさえも、
恐れおののいて波風を立てないよう「安政の大獄」に協力姿勢を取るなど、
独裁は井伊の元に確立されそうになっていました。そうなっていれば革命も戦争も、
到底起こりえなかったでしょう。国家制度の改革が日本が生き残る為の必要条件で
あるのなら、井伊政治に具体的計画をもって唯一対抗しようとし、それにより薩摩
をしてその後の維新を方向づけた有力諸侯として、これを斉彬の評価を下げる材料
にはしたくないと考えています。
>>972 僕も井伊を統率トップ候補にあげてますので、彼の指導力には並外れた凄さがあると
思っています。徳川体制を維持するという手腕に於いては、国難の時期にあって
彼以上の適任者はちょっと見つからないでしょう。
「井伊大老ではなく義言大老」と言われるように、井伊政策とはつまるところ
長野主膳ですが、この有能な謀略家を腹心として活躍させたのも統率者として優れて
いた証明で、幕府の指導者としてはとても有能な人物だと思います。
けれどもこの時期に封建体制を守るために尽力したというのは、国家的な視点では
迷惑なことで、暗殺された事が結果的にプラスだったのでしょう。
やはり幕府の人間であっても、幕府に幕を下ろすことに貢献して国家全体を優先した
勝海舟や徳川慶喜などのほうが歴史に果たした功績は大きいのではないでしょうか。
ドストエフスキーが『罪と罰』で述べているように、時代の先駆者というのは、
社会にとっては危険な側面があるのだと思います。フランス革命、アメリカ独立戦争、
南北戦争しかり、理想的に成功した明治維新ですら、幕府側指導者の賢明な選択が
なければ、江戸城無血開城までは常に泥沼の内戦に陥る危険を孕んでいました。
失敗した場合のリスクに臆さず、断固として時代をリードした英雄の存在が、
歴史的な変革には必要条件なのだと思います。
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