南京大虐殺は無かった。

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92世界@名無史さん
◎「大虐殺」を主張する人々は、下記のような疑問に答えられない。
1.日本軍は30万人殺したと言うが、当時の南京の人口は16〜25万人である。しか
  も戦闘が迫って避難する人々も多かった。さらに日本軍の南京入城から1か月後
  には人口25万人になっている。その後の日本の8年にわたる軍政下で、人口は増
  えつづけている。虐殺があったとしたら、一般市民は南京に戻らないのではないか。
2.日本軍は南京が平静を取り戻したのち、軍人と民間人を識別するために「良民票」
  を発行したが、その発行数は約20万で、これは外国の機関にも確認されている数
  である。
  つまり、南京攻略戦で一般市民はほとんど死んでいないということである。
3.何十万人もの人間を短期間で殺すためには組織的な準備が必要である。ナチスの収
  容所のような所でも、一度に殺すには限界がある。ちなみに広島の原爆で人口30万
  6500人のうち24万7000人が死んだ。それに匹敵する人数を、数日間で行うことは
  物理的に不可能である。仮に東京を絨毯爆撃しても7〜8万人が限界であると考えら
  れている。しかし、もちろん日本軍はそのような準備はしていなかった。
4.大量に死体を放置しておけば当然伝染病が発生するので、直ぐに殺した側の軍隊はそ
  こから離れなければならないはずだ。しかし、日本軍は南京を統治する意思があった
  ので組織的に大量虐殺を行い、病気をはやらせるわけがない。
5.軍隊が貴重な「鉄砲の玉」を抵抗能力のないものに対して無駄遣いさせるはずがない。
  また石油をかけて殺したという話もあるが、当時は「石油の一滴は血の一滴」と言わ
  れており、これもまた考えられない話である。
93世界@名無史さん:03/08/03 07:08
6.欧米の外交団や反日的なキリスト教牧師や大学教授,ジャーナリストが南京城内に残っ
  ていたので、司令官の松井石根大将は細心の注意を払っていた。近くにある中国革命の
  父・孫文の墓を荒らさぬことまで気に掛けていた。
7.軍需品や必要な食料を占領地域から徴収することは国際法上合法である。これは日本軍
  人の犯罪ではない。

8.東京裁判で初めてこの事件が公にされたが、証人のマギー牧師が実際に見た殺人事件は
  たった1件で、しかもそれは被害者が警備兵に誰何(すいか)されて逃げたからであった。
  誰何して逃げれば味方でも殺すのが戦時国際法の措置である。それ以外の彼の証言は伝聞,
  噂話,憶測ばかりであった。
9.マギー牧師は当時の南京城内の実写フイルムを所持し、これは現存しているが、死体の
  映像が写っているだけで、日本軍の仕業かどうかはわからない。東京裁判にも証拠とし
  て提出されなかった(つまり、採用される見込みがなかったということ)。
10.中国軍は国際法で禁止されている便衣隊(非戦闘員を装った兵士、ゲリラ。便衣隊を
  銃殺してもジュネーブ条約第4条により合法である)の取締りをしなかったために、
  便衣隊に混じって、不幸にも民間人が殺されたケースは考えられる。ヴェトナム戦争の
  ソンミ村の虐殺はその典型である。このたぐいの事件を含め、日本軍人による若干の事
  件はあったが、松井大将は犯人を軍法会議にかけ、厳しく処断している。ちなみに軍法
  では強姦者は銃殺であった。
  cf. ハーグ条約(1907年)では、敵から見えるように武器を持ち、正規兵の服装をしな
  い者(つまりゲリラ)は、条約の与える保護を受けることはできないと定められている。
  これは、現在も生きている戦時国際法である
94世界@名無史さん:03/08/03 07:09
11.南京は国際都市で、非戦闘員を集めた「安全区」があり、欧米人が管理していた。当時
  日本に反感を持っていた米,英,仏も外交的な抗議を行ってはいないし、「安全区」を
  砲撃せず、病院に肉などの食料を贈った日本軍の行為に対して感謝状まで贈っている。
  感謝状を贈った本人こそ、『ラーベの日記』で有名になった、あのラーベである。
12.蒋介石は小さなことでも国際連盟(日本は脱退していたが)に訴えていたが、南京での
  出来事を国際連盟に提訴していないし、他の問題で日本を非難した国際連盟が、南京
 「大虐殺」を非難していない。
13.当時、支那事変のニュースを送っていた欧米の通信社(マスコミ)が、本国に「大虐殺」
  事件を打電していない。
14.日本の新聞記者や評論家など 120人も南京陥落と同時に南京入りしたが、戦時中は軍が
  怖くて批判が無理だったとしても、戦後に至っても「大虐殺」に関して何の記事も書いて
  はいないし発言もしていない。ちなみに、支那事変の初期には、報道は自由であった。
  「大虐殺」を非難する「ジャーナリスト?」本多勝一や歴史学者(?)の洞富雄,藤原彰らに
  よる著作は、当時少年だった数人の「証言」を一方的に伝えたもので、検証を行っていない。
  ゆえに信憑性が薄く、また関係者の「回想」なるものも、矛盾に満ちており、時流便乗的
  なものばかりで史料とはなりえない。
15.日本軍は首都南京の被害が大きくなることを考慮し、蒋介石に対して南京をオープン=
  シティ(無防備都市=国際法により、降伏する代わりに敵に攻撃されない)とすることを
  勧めたが、彼はこれを拒否した。責任者である将軍達は市民や敗残兵 (中国人敗残兵はタ
  チが悪いことで国際的に古来有名である。また、虐殺したり、死体を辱めることも常であ
  った)を残して逃げてしまっていた。彼らによる略奪や強姦,殺人といった事件もあった
  (米国の外交官や新聞記者が、中国人敗残兵が市民から衣服を奪い、抵抗する者を殺して
  いるという報告している)。オープン・シティにしないのであれば、降伏するか、徹底的
  に戦うかの意思を内外に表明すべきであった。首都南京で戦闘が行われた混乱の責任は国
  民政府にある。
95世界@名無史さん:03/08/03 07:09
16.南京陥落前に南京を脱出したドイツ人の日記なるものが南京「大虐殺」事件の新資料とし
  て宣伝されたことがあったが、そこには、「南京の揚子江岸は、死骸が山のようにあった」
  と書いてある。この時日本軍はまだ南京に入っていない。これが事実なら「大虐殺」は日
  本軍以外の何者かが行った、という新資料になるのではないか?