劉邦について

このエントリーをはてなブックマークに追加
261あやめ
>>29
>司馬遷は『仲尼弟子列伝』で子徒の名「邦」を「國」に書き換えてます。
>これが避諱でないのなら一体何なのでしょう?
「中国の大盗賊」という本で高島俊男さんが「漢の高祖にはまともな名なんぞなかった」という
説を書いてたためか、「邦」という名は漢末に捏造されたもののように思ってる人がいます。
しかし尊敬する高島先生の仰ることですけどそれは当ってないと考えています。少なくとも彼は
盧綰と学書した時か試みられて吏となった時か泗水の亭長になった時か、どんなに後だとしても
漢王になった時か皇帝になった時には立派な名を名乗ってたに相違ありません。だって彼の臣の
中でも犬殺しの樊カイ(口偏に會)も葬式のチャルメラ吹きの周勃もアパレルセールスの潅嬰も
車引きの婁敬も、皆さん一応は素敵なお名前を持ってらっしゃるじゃありませんか。それなのに
劉家の四男坊だけが偉くなってからも天子@名無しさんてことはないでしょう。
ただその証拠として「仲尼弟子列傳」を持ち出すのは必ずしも適切ではないでしょう。なぜなら
「仲尼弟子列傳」には「邦巽」という人も出てくるのに避諱していません。また仲弓に答えた
孔子の語の中の「邦に在りては怨無し」をそのまま引用しています。なお子徒の氏名を「史記」は
「鄭國」としていますが「孔子家語」では「薛邦」となっています。
その外にも「史記」中には10箇所以上も「邦」が頻出しています。
262あやめ:03/10/11 17:19
序でに「漢書」の方もチェックしてみるとやはり「邦」が十数か所で使われています。光武帝の
諱の「秀」だって何箇所か見かけます。個人の著述の中ではさほどナーバスに気を遣ってるって
ほどには思えません。もちろん上奏文のようなものでは慎重に避諱していたでしょう。朝廷での
発言などオフィシャルシチュエーションでも言葉を択んでいたはずです。その外では制度上での
官職とか公的施設の名称などは当然に用字に神経を使ってたと思われます。
漢初から「邦」という字を敬避していた証拠はあるのです。「太平御覧」に引かれた「齊職儀」に
「魏の襄王は公孫衍を以て相邦と爲す」とあります。また秦でも国政の総理の官名を「相邦」と
称していたことは「文物参考資料」などの考古文献に張儀・魏冉・呂不韋などの名を銘した銅戟が
数件も著録されています。いずれも書籍史料では「相國」と記載されていた人物です。
秦漢の易代によって従来の「相邦」の称号が「相國」に変更になったものと見るのが妥当でしょう。
そしてその事情としては高祖のために避諱したと推定するべきでしょう。
なお「漢石經」の残碑に刻された「論語」の「微子」篇の文句が「何必去父母之邦」とあるべき
文句が「父母之國」となっているそうで、漢末には確実に用字を慎んでいたことが判ります。
263怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/10/11 17:29
「漢の高祖にはまともな名なんぞなかった」説
には、学説的にけっこう微妙な問題があるっぽいですね。

要するに、
高祖にまともな名はなかった=下層民=農民→農民による革命!
という、生産段階やら何やらと絡んだお話です。
高祖にまともな名はなかったなら、この時の反乱は「農民反乱」と言う説を補強できます。
一方、高祖にはしっかり教養や財産があり、当然ちゃんとした諱を持っていたとすると、
高祖らが加わり成功させた反乱はむしろ中間層、
あるいはその上の貴族的存在が主導した事を裏付けます。

どちらに位置付けるかで中国史のとらえ方そのものが大きく変わるわけです。


うろおぼえで書いてしまった。
あ、私は「漢の高祖にはまともな名なんぞなかった」なんてバカ言うな、って思ってますよ。