〜 ピタゴラスの世界史クイズ 〜

このエントリーをはてなブックマークに追加
1ピタゴラス
3問出します。ヒマつぶしに解いてみて下さい。

≪アブシンベル大神殿 イギリス人がピンチを救う≫   
【問題1】
 古代エジプトの数多い遺跡の中で、ピラミッドやスフィンクスと並ぶ
 壮大なものがアブシンベル大神殿だ。砂の中に埋まっていて、歴史から
 消えかかったのを発見したのはスイス人のブルクハントで、2000年以上も
 経った1813年の事であった。その後、多くの人たちによって完全な姿を
 現したこの神殿に欠かせないラムセス2世の像の顔を、あるヨーロッパ人が
 型を取ったために、その漆喰の後が白く残ってしまっていた。
 そこでその漆喰の跡を消す作業が、1874年に一人のイギリス人女性に
 よって行なわれた。その時にある物が使われた。それは現地で調達しや
 すかったものだった。では、それは何?

≪ヘロドトスも驚いた!? アラブのヒツジはシッポが命≫
【問題2】
 古くは紀元前8000年頃、既に家畜化されていたというヒツジは、
 その後さまざまに品種改良されていった。その中の一つに、シッポが
 非常に長く、また脂肪がたくさん蓄えられていた太いシッポを持つ
 ヒツジがアラブを中心に飼われている。この種のヒツジについては、
 ヘロドトスも注目していた。
 しかし、このヒツジのシッポはあまりにでかいので、歩く時に地面を
 引きずってしまい損傷してしまう事が多かった。そこで、飼い主は
 ある工夫をして、シッポを傷つかないようにしていたのだ。
 ではその工夫とは何?
2ピタゴラス:03/03/30 01:22
≪古代ローマ 荘厳なる権力者たちの葬式≫
【問題3】
 古代ローマでは、共和制時代に法務官や執政官たちが絶大な権力を握って
 いた。それは葬式からもうかがえる。彼らの葬式では、多くのローマ市民に
 その死を悼んでもらうために、何人もの人たちが棺の後ろに列を作って
 葬列をなし、大人数でローマ広場へと向かったのだが、その時にある物を
 使う習慣があった。
 帝政ローマでも続いたその習慣に使う物は奴隷はもちろん、一般市民も
 作る事は許されていない物で、普段は家に納められていた物であったが、
 大きな選挙の運動をする時や葬式を行なう際には外に持ち出されていた。
 では、その家の家柄もあらわしていた葬式には欠かせなかった物とは何?
3世界@名無史さん:03/03/31 18:06
問題3は剣のような武器かな?
4ピタゴラス:03/04/02 21:51
>>3
残念ですが違います〜(>_<)

【ヒント】
  問題1はある食品です。
  問題2はヘロドトスの『歴史』にもこの話しは登場しています。
  問題3はその人、個人を表す何かです。
5世界@名無史さん:03/04/02 22:32
問題3の答えは、「ファッショ」という言葉の語源となった、斧の回りに鞭を
束ねたfasces(fascio littorio)というものですね。
6トトメスV世 ◆prgqkIQ406 :03/04/02 22:49
問題2の答えは「尻尾に車輪をつけた」では無いでしょうか?
7ピタゴラス:03/04/02 23:34
>>5
確かに執政官の権威あるいは権力の象徴は「ファスケス」ですが、問題の答えでは
ありませんよ。

>>6
正解です〜☆
後日答えのフォローをしますです。
8山犬@泥酔 ◆g.bAIhTm1I :03/04/02 23:57
この文体は、ひょっとしてラムセスX世陛下ですか?

【問題3】胸像
他に思い浮かばない…。
9ピタゴラス:03/04/03 00:39
>>8
山犬さん、お久しぶりです(^^)♪
問題3はいい所まできていますが、胸像ではありませんよ。
10山犬@泥酔 ◆g.bAIhTm1I :03/04/03 00:46
やっぱりラムセス陛下でしたか。おひさしぶりです!

問題3の答 それじゃ、自画像を掘り込んだコインではいかがですか?
11ピタゴラス:03/04/03 00:50
>>9
あら、離れちゃいました(>_<)
それを葬列者の1人が身につけるんですよ。
12世界@名無史さん:03/04/03 05:10
まあ2の答えは車輪というか車輪のついたミニ大八車だね。
それの絵を『家畜の歴史』かなんかで見たことがある。
13ピタゴラス:03/04/04 00:11
【正解2】 シッポを台車に乗せる……問題は>>1
 
  人類の歴史上、イヌ以外で最初に家畜化された動物がヒツジである、と言われる
 くらいにヒトとヒツジの付き合いは長く、古くは紀元前8000年頃のメソポタミア地方の
 遺跡から既に家畜化されていたと思われる形跡が見つかっています。
  『歴史』の著者であるヘロドトスは、シッポの両側に脂肪が蓄積した大きなそれを
 持つヒツジがアラビア地方にいる事を紹介していますが、そのヒツジのシッポは
 車輪の付いた台に乗っていて、首から紐を下げて引きずっていると記しています。
  【アラビアにも賞賛に値するヒツジが2種おり、どちらもこの地でしか目に
   できない種である。その一つは、尾が長く、少なくとも3キュビット
   (キュビットは長さの単位でおおよそ50o)には達する。もし、地面に垂れ
   下がったままにしておけば、傷がつき炎症を起こすところである。
   ところが心配する事はない、どの牧者も手飼いのヒツジの尾の為に工夫を
   凝らし、小さな車の台を作ってやることぐらい百も承知している。尾の下に
   車を置くと――つまり、ヒツジ1頭ごとに専用の車が与えられるわけである
   ――それに尾が縛りつけられているのだ。
   もう一方のヒツジは幅広の尾をもっており、その幅たるや直径1キュビット
   に達する事が間々あることである】
                               (『歴史』巻3)

  ヘロドトスが2種類いると紹介した通り、尾に脂肪を蓄える脂肪尾種には2種類に
 分けられます。1つが四角く分厚い座布団のような尾をしたヒツジと、もう一つが
 台車を引いている棍棒状の尾をしたヒツジです。
 これらの脂肪尾種の尾は大変なごちそうだそうで、他の肉と区別されて売られています。
 尾には他の部位とは違って、不飽和脂肪酸が非常に高く含有されている為に質も味も
 いいのだそうです。
14ピタゴラス:03/04/04 00:23
>>13
〔訂 正〕
  キュビット:50o⇒50p弱。ヒジから中指の先までの長さで、時代や場所に
        よってその長さが変わります。
15世界@名無史さん:03/04/04 01:27
>>1
なんか「世界不思議発見」みたいなクイズだな
16世界@名無史さん:03/04/04 01:45
>15
世の中の圧倒的多数のヒトにとって、歴史とはまさに「世界ふしぎ発見」なのです。
17ぴのこ ◆8ZZLbodyk2 :03/04/04 22:12
tesuto
18ピタゴラス:03/04/08 18:47
【正解1】 コーヒー(コーヒー豆)・・・・・・問題は>>1
 
  ラムセス2世の像で知られるアブシンベル大神殿は1813年、スイス人のブルクハルトに
 よって砂の中に埋まれていたのを発見されました。この神殿には、クシュ王国の
 ブサムティコス2世の軍事的な遠征に参加していたギリシャの兵士による文字が
 刻まれていたので、この文字が刻まれた紀元前591年以降に砂の中に消えていった
 事が分かります。ブルクハルト以降、1828年にはシャンポリオン(ロゼッタストーン
 の発見者)や、1850年にはフローベルとマキシム・デュ・カン(世界で最初にこの
 神殿を写真で撮影)などの人たちによって、この神殿は2000年ぶりに砂の中から
 姿を現したのです。
  そんなアブシンベル大神殿のラムセス2世の像に、あるヨーロッパ人が型を取って
 しまった為に、漆喰の跡がついてしまいました。そこで、一人のイギリス人女性が
 その跡を消そうと試みました。

  彼女の名前はアメリア・アン・ブランフォード・エドワーズ(1831年〜1892年)で、
 友人のマリアンヌ・ブロックルハーストと画を描く為に訪れていたイタリアで、
 雨が降り続いていたので止むを得ず、雨の降らないエジプトを選び、偶然にこの神殿に
 やって来ました。それは1874年1月31日の事でした。神殿を目の前にした彼女は、
 画を描くことから、この古代エジプト自体の魅力を吸収する事に目的が変わって
 いきました。
  その彼女の著書『一千マイル、ナイルをのぼる(1877年刊)』の中で、クイズの
 エピソードが記されています。
         
                                  後に続く・・・・・・。
 
   
19ピタゴラス:03/04/08 18:51
【正解1】 コーヒー豆(の続き>>18

【(エドワーズとブロックルスハーストを船に乗せた)船乗り達が退屈して
   いるのを見て、我々は一番北側の巨像の顔をきれいにする仕事を彼らに
   与えるという事を思いついた。
    このうまい思いつきは直ちに実行された。彼らのなすべきことは、
   表面に今なおくっついている小さな塊を取り除いて、白い漆喰をコーヒーで
   ぼかす事であった。彼らは、棒の先端につけたスポンジのかけらでその作業
   を進めた。ハッサン親分だけは、威厳のしるしとして画家の古いブラシを
   持っていてそれを自慢していた。
    午後だけ働いて、3日間でこの仕事は終わった。リスカスリ(人名)と
   料理人はあちこちと、目的に合わせて『厚く』あるいは『薄く』調合した
   コーヒーをリレーで運ぶ。
    ラムセスのコーヒーに対する渇望はおどろくべきものであった。
   1日幾ガロンかも分からないほどに消費した。我々の料理人は、彼の
   手持ち量に対して次々と出される要求におどろき、呆れ返っていた。
   彼は幅3.5フィートの口を持つ客に、コーヒーをサービスした事は
   これまでに一度だってないのである。
                    (所々、中略して掲載しました)】

                                   後に続く・・・・・・。

  
20ピタゴラス:03/04/08 18:54
【正解1】 コーヒー豆(のつづき>>19)

  彼女が利用したコーヒー(アラビカ種)は、エジプトより南に位置するエチオピアの
 アビシニア高原地域、或いは紅海を隔てたアラビア半島が原産とされていたために
 手に入りやすかったのです。
  こうして、エジプトに興味を持った彼女はそれ以後、エジプトの遺跡や遺物に関心が
 強くなっていきました。
  彼女がエジプトを訪れる少し前の1858年に、エジプト政府によって考古局が作られ、
 古代エジプトの遺跡や遺物の学問的研究がなされ始めていましたが、徹底はされて
 いませんでした。そこで、「古代エジプトの歴史と芸術を明らかにすること、および
 旧約聖書の記述をエジプト人の関与する範囲で明らかにすること」を目的とする
 『エジプト調査財団』が設立される事になったのです。1882年のことでした。
  そして、この時から彼女の古代エジプトの学問的な研究が本格化しました。
 ロンドンのタイムズ誌にトピックスや報告を寄稿したり、1889年から90年にかけて
 アメリカへ講演旅行をしに出かけています。そして、多くのアメリカ人をエジプト学に
 目を向けさせたのです。その講演については『ファラオと農民と探検者』として
 1891年に出版されています。
  
  さらに彼女は、イギリスの大学にまだ無かったエジプト学講座を創設しようと
 行動に出ました。そして、1885年にロンドンのユニバーシティ・カレッジをその
 大学として選びましたが、結実しないまま1892年4月15日死去しました。
  エドワーズは遺言に、エジプト学講座の開設を挙げ財産を大学に寄付しました。
 また、遺言の中にその講座の初代教授として、フリンダース・ビートリの名を記して
 います。彼はエジプト調査財団が最初に援助した人物で、その遺言どおり40年間に
 渡って1933年まで教授の地位に就いていました。
  その後、エジプト調査財団はエジプト調査協会(Egypt Exploration Society)と
 名称を変えて、その目的も「エジプトとスーダンの古代史、宗教、芸術、文学、
 民俗学に関して知識を得る事」となり、旧約聖書云々という部分が削除されました。
 
                                    後に続く・・・・・・。 
  
21ピタゴラス:03/04/08 18:55
【正解1】 コーヒー豆(のつづき>>20

  因みに、アブシンベル大神殿が1年に2回、63mもの奥の聖所に太陽の光が射し、
 神の顔を照らす事を学問的に証明したのは、1960年代のフランス人ルイ・アンドレ・
 クリストフですが、既に彼女は1874年の旅行記でこの事を書いています。
   
   【太陽の最初の光線が、大神殿の正面を照らすのを見るのは印象的である。
   しかし、一年の中の数日の朝、このまぎれも無い山の中にはもっと
   印象的な何かがある。
    太陽が東の丘の上の頂上に上がるとき、最初の光線が水平に入り口に射し、
   矢のように内部の闇を破り、聖所に届き、天から放たれた炎のように、
   祭壇で神々の足下に落ちるのである】  
22ピタゴラス:03/04/09 18:37
【正解2】 デスマスク・・・・・・問題は>>2
 
  共和制ローマ時代、法務官に就けば執政官と並んでローマを代表する権限(命令権)を
 持ち得ることとなり、軍隊を指揮する事もできました。また、法務官在職中か任期が
 終了した後には、経済的にも政治的にも大きな利益を得るチャンスとなる属州総督と
 して赴任する事も可能となりました。
  その法務官や執政官の選挙を控えていた公職者たちは、葬式においても一般市民との
 違いが自然と生じてきました。例えば、多くの市民たちに故人を悼んでもらおうと、
 いくつかの催しものが行なわれましたが、その中の一つに剣闘士の試合がありました。
 共和制の末期には独立して市民の娯楽になりましたが、当初は葬式の一部でも行なわれて
 いました。そして、広場での演説や市内を通る葬列なども行なわれました。

                                      後に続く・・・・・・。
  
23ピタゴラス:03/04/09 18:39
【正解3】 デスマスク(のつづき>>22)  

  葬列の際に、亡くなった故人の先祖の顔をかたどったロウでできたマスクが使われ
 ます。このマスクは、一般市民は作ることは許されていませんでした。「イマーゴ」と
 呼ばれたこのマスクは、普段は木でできた厨子に納められていましたが、大きな選挙や
 子孫の葬列が行われる時には持ち出されて市民たちに公開されたのでした。
  マスクを葬礼の時に被って練り歩く人は、背たけや仕草などが先祖に似た人が選ばれたと
 ポリュビオスは記しています。また、最近の研究でアメリカのフラワー氏によると、
 マスクを被った者は遺族ではなく、庇護民や解放奴隷の中から選ばれ、共和制中期以降は
 専門の俳優が雇われて、先祖の役を演じていたそうです。また、帝政ローマ時代には、
 ウェスパシアヌス帝の葬列において、パントマイム(無言劇)の俳優が【風習にあるように、
 彼(皇帝)の仮面を帯びて生前の言動を模倣した】 〜スエトニウス『ウェスパシアヌス伝』
 19節の2より〜 と伝えられる事から、葬られる故人のマスクが自分自身の葬列にも登場
 していたと考えられると主張しています。
  さらに、競技場で見られる可笑しな踊り手たちが、先祖のマスクの後方に続いていた
 との証言があることから、荘厳であるべき葬礼にも喜劇的かつ自己風刺的要素が存在して
 いることを指摘し、その点において葬列が凱旋式や競技の行列と類似している事が示唆
 されると述べています。
24ピタゴラス:03/04/12 23:47
今回も3問出します。

【問題4】 ≪アインシュタイン 天才と呼ばれた男は特許好き?≫
  20世紀を代表する科学者アインシュタイン(1879年〜1955年)は、大学を卒業した後に
 スイスの連邦特許局に就職した。この事は彼の将来を大きく変えた。1904年9月に正式に
 採用された翌年の1905年には、「光量子説」「ブラウン運動論」「特殊相対性理論」の
 3つの理論を発表し世界中の話題を呼んだ。これらの考えは特許局の仕事を済ませた後や
 仕事中に、普段の仕事をしていた時と同じ机で思案され生まれたものであった。
  更に彼自身も、申請された特許を扱うだけではなく、その後逆にヨーロッパや
 アメリカの各地で特許を申請するという事を行なっている。
 例えば、大きな雑音のしない電機冷蔵庫や難聴の知人の歌手の為に考案した補聴器などが
 それである。そしてもう一つ、私たちも使うある物も特許申請し受理された。
  1936年に友人とアメリカで共同申請し特許を得たこのある物は、当時すでにあった物を
 もっと使いやすくした「改良品」であった。
 改良に成功したこれは1942年には商品化され、当初は医療現場で使われていたが、
 アインシュタインは軍事的にも、また普段の生活においても役立つと意見を述べている。
  では、アインシュタインらが改良し、使いやすくしたそのある物とは何?
25ピタゴラス:03/04/12 23:49
【問題5】 ≪文字だけではなかった 色でも分かる西夏の歴史≫
  1032年に建国された西夏では、色を使った言葉で自分たちの国(西夏)の人を表現していた。
 例えば、「赤面(あかづら)」という西夏文字で「西夏の人」という意味になる。
 これは、元々チベットの顔を赤く塗るという習慣が西夏にも流入した為にこの言葉が生まれた。
 そしてもう一つ、色を使った「西夏の人」という意味の言葉がある。
  この言葉は実際には厳密に言うと「西夏の先祖」という意味を表す言葉なのだが、
 生まれたきっかけは1033年に、建国者である李元昊(景宗またはギウ・ミ皇帝)がある習慣を
 するように、との法令を出したことに始まる。元昊自ら実行して民衆にも強要し、それを
 しない者は死刑になったという。
  この法令によって西夏の人たちは、それまでの西夏の人たちがしなかったあることを
 しなければならず、その為に法令が出る以前の西夏の人(主に先祖)を、その習慣に象徴的な
 色を使った言葉で呼ぶようになった。
  逆にいうと、法令以後の人たちは、この色とあまり関わりがなくなってしまったのだ。
 では、「西夏の先祖」という意味を表す、色を用いた言葉が生まれるきっかけになった
 李元昊が出した生活習慣上の法令とは何?
26ピタゴラス:03/04/12 23:50
【問題6】 ≪ロンドン万博 吸血鬼(ヒル)の驚くべき利用法≫
  一見すると薄気味悪い生き物であるヒル(蛭)は、実は古代から有益な生き物とされていた。
 主な使い方としては、肩や腕などにヒルを置いて悪い血液を吸ってもらって病気を治そうという
 医療目的であった。これは、古代において、病気は血液が悪くなる為に起こるという考えから
 発したものだ。因みに、文献に最初にヒルの医学的な効果を記したのは、古代ローマの
 ニカンドロスで紀元前2世紀のことだ。
  そして、近世のイギリスでは毎年1600万匹ものヒルが利用されていたという。
 もちろん自然のものだけではなく養殖も行なわれていた。
  しかし、19世紀に入るとヒルの別の役立つ利用法が科学的に研究された。
 そして、1851年世界最初の万国博覧会であるロンドン万国博覧会では、ついにヒルを
 用いたある装置器具が開発され展示までされた。「装置器具」とはいっても主な材料は、
 ガラスのビンだけであった。しかし、不思議なことに20世紀に入ると、あまりヒルについての
 その分野での研究はされなくなっていった。
  では、ロンドン万博で展示されていたヒルを利用したその装置とは何?
27とてた:03/04/13 00:34
>>28
ヒルの医療目的利用…、

「内出血での止血」ですか?
28トトメスV世 ◆prgqkIQ406 :03/04/13 00:41
>>24
確か、自動調光式のカメラじゃ無かったですかね?
29ピタゴラス:03/04/13 01:04
>>27
医療以外の使い方で考えてみて下さい。

>>28
お見事、正解です〜☆
30山崎渉:03/04/17 09:30
(^^)
31山崎渉:03/04/20 05:00
   ∧_∧
  (  ^^ )< ぬるぽ(^^)
32ピタゴラス:03/04/20 23:59
【正解4】 オートフォーカスカメラ・・・・・・問題は>>24
 
  アインシュタインはチューリッヒ工科大学を卒業後は、より深く物理学を研究する為に
 助手になるべく資格を取りましたが、残念ながら不採用になってしまいました。
 生活に困った彼は、家庭教師などをしていましたが、そんな彼に手を差し出したのが
 大学時代の恩人であるマルセル・グロスマンでした。彼の父はスイス連邦特許局の長官と
 親しかった為に、父にアインシュタインが特許局に就けるよう懇願したのです。
  そのおかげでアインシュタインはスイス特許局に就職できました。この事は後の彼に
 大きく影響を与えました。それが彼の特許申請だったのです。

  アインシュタイン自身いくつかの特許を残しています。
 例えば、ハンガリー出身のSF愛好家であるレオ・シラードとベルリンで知り合い、
 ドイツで8件(1927年11月〜1930年12月)、イギリスで6件(1927年12月〜1929年12月)、
 アメリカで1件(1927年12月)、オランダで1件(1928年12月)、スイスで1件(1928年12月)に
 上る申請を共同でしています。これらはイギリスの2件を除いて全て受理されました。
  どういうものかというと、全部が雑音の出ない電機冷蔵庫に関するものでした。
 スイスの特許申請はもちろん、アインシュタインがいたベルン特許局に1928年12月21日付けで
 申請し、1930年8月16日に公開されました。
  理論によると、交流磁場を誘起してナトリウムとカリウムの液体金属合金を磁場の作用で
 交互に反対方向に動かす事によって、ポンプ作用をそれに務めさせて、そのポンプの働きを
 使って冷却剤を物理的に圧縮して液化させ、更にそれを膨張し再気化させる事によって、
 冷気を供給しようというものでした。
  これによって当時の冷蔵庫に付き物であった不快な音を大幅に削減できる、というもの
 でした。

                                    後に続く・・・・・・。
 
  
33ピタゴラス:03/04/21 00:01
【正解4】 オートフォーカスカメラ(のつづき>>32
 
  2つ目が補聴器です。これはリヒアルト・ゴールドシュミットと共同で特許を取った
 ドイツ特許第590783号(1934年1月10日)で、題が『電流の変化が磁気歪み(ひずみ)を
 通して磁性体の移動をもたらすことを利用した、特に音の再生の為の装置』とうものでした。
  これは音の振動を小さな装置で上手く増幅させる為に、アインシュタインは、お得意の
 ‘電磁誘導現象’を利用しようというものでした。
 つまり、コイルの電流が変動すれば、中の鉄の芯の磁気状態が変わります。
 これによって外部から磁気作用が惹起されるだけではなく、内部的には磁気歪みによる
 力が発生する事になります。しかし、その一方で、鉄芯本来が持つ剛性がこの力に
 抵抗するはずです。その剛性を上手く利用して、振動を増幅させようというものでした。
  つまり、その剛性を人為的に破壊する事によってそれを不安定化し、そうする事によって
 特別な接片なしに磁石を運動させればよいとしたのです。
 
  そして最後に、自動的に焦点を合わせてくれるカメラをつくり出した事も書いておきます。
 これは、1936年10月7日付けでアメリカ連邦特許局第2058562号として、医師の
 グスタフ・バッキーと共同取得したものでした。
 当時のパンフレットには ≪たった一つのユニット、ピント不要、照明器具不要、
 スタジオやセット不要、時間の節約、患者の運搬不要、いかなる場所いかなる時でも、
 生物・物体を問わず撮影可能≫ と記されていました。文字通り、これが世界で初めての
 オートフォーカスカメラだったのです。
  そして、1942年にはある実業家に実施権を与えて『コレコ』という名前で商品化して
 います。パンフレットの中にある「患者の運搬不要」というように、当初は医療用として
 使われていました。それまで撮影が困難とされていた子宮や膀胱、胃腸内部の撮影や
 眼底検査に主に役立ちました。

                                    後に続く・・・・・・。
  
34ピタゴラス:03/04/21 00:03
【正解4】 オートフォーカスカメラ(のつづき>>33

  アインシュタインは『コレコ』に関して次のように述べています。
   【 このカメラはたくさんの素晴らしい可能性を持つと信じております。
    民生用に限らず、陸海軍にも多大な価値があるはずです。
    また、全ての医療機関に役立つことでしょう。
     このカメラはガソリン機関のシリンダー内部も精密に撮影できる
    でしょうから、検査目的に機関を解体しないで内部を観察する事が
    できます。また、次のような利点を与えてくれます。
      a)撮影対象にピントを合わせるような調節がいらない
      b)絞りや露光時間の調節がいらない
      c)特別な照明装置があるので内孔写真が容易に撮れる
      d)焦点深度の大きいスナップ写真が撮れる           】

  しかし、この『コレコ』は3年後に事業家が勝手にライセンス料を打ち切ってしまった
 為に、せっかくの販路を開拓するヒマもなく、裁判沙汰になってしまいました。
 アインシュタインも証人として法廷に立ち、バッキーとの発明を説明し、事業家が
 アイディアを盗用している事を陳述しています。 
35世界@名無史さん:03/04/21 00:51
アイカワラズキシヨイ1ダゼ

クワバラクワバラ
36世界@名無史さん:03/05/09 15:03
このスレって過去スレありませんでしたっけ?
よろしければアドレスを教えていただけませんか?
37ピタゴラス:03/05/20 18:45
『ラムセスXの世界史クイズ』
  http://academy.2ch.net/whis/kako/1015/10155/1015593167.html

『ラムセス5世の世界史クイズ その2』
  http://academy.2ch.net/whis/kako/1023/10237/1023714673.html
38山崎渉:03/05/21 22:53
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
39世界@名無史さん:03/05/24 04:31
★難問★ SPHINXからの挑戦状 ★奇問★
http://academy.2ch.net/whis/kako/1025/10256/1025607028.html
40山崎渉:03/05/28 15:34
     ∧_∧
ピュ.ー (  ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄〕
  = ◎――◎                      山崎渉
41世界@名無史さん:03/06/25 01:42
age
42山崎 渉:03/07/15 12:52

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
ハッキリ言ってアメリカなどの多民族国家では黒人の方がアジア人よりもずっと立場は上だよ。
貧弱で弱弱しく、アグレッシブさに欠け、醜いアジア人は黒人のストレス解消のいい的。
黒人は有名スポーツ選手、ミュージシャンを多数輩出してるし、アジア人はかなり彼らに見下されている。
(黒人は白人には頭があがらないため日系料理天などの日本人店員相手に威張り散らしてストレス解消する。
また、日本女はすぐヤラせてくれる肉便器としてとおっている。
「○ドルでどうだ?(俺を買え)」と逆売春を持ちかける黒人男性も多い。)
彼らの見ていないところでこそこそ陰口しか叩けない日本人は滑稽。
44ピタゴラス:03/08/13 23:03
とりあえず正解だけでも(・・;)

【正解6】 天気予報・・・・・・問題は>>26
  ミミズと同じ環形動物であるヒルは英語では leech といいますが、これは古代
 ゲルマン語の le'ce もしくは le'ace(医者)に由来するとおり、昔から人々は
 ヒルの血を吸う性質を医療に利用していました。
  古代に虫などの生き物を書物で紹介したアリストテレスは、この生き物については
 言及していません。文献に登場するのは古代ローマ時代になってからの事で、紀元前
 2世紀のニカンドロスが最初に紹介しています。それによると、それまでの小さい
 壺を肌に押し当てて血を吸い出す「カッピング」という瀉血療法に代わって、ヒルを
 利用するとよいと記しています。そして、中世の博物学の文献である『健康の園』
 では、ヒルが非常に大きな胃を持っていて、場合によっては血を吸いすぎるあまりに
 死んでしまうと指摘しています。
  また、その後の時代に書かれた『虫たちの歩んだ歴史』によると、近代ヨーロッパに
 おける医療用のヒルの消費量は、イギリスだけでも毎年1600万匹ものヒルが使われ、
 フランスでも6〜8万匹が利用されたという事です。
  中国でも吸血目的で医療に使われています。
 おなじみの『本草綱目』では、赤白丹種というできものの治療に使うと良いとあります。
 また、李時珍によると、ヒルを誤って飲み込んでしまった場合には、泥土を水と一緒に
 大量に飲むと下って治るといいます。また本草綱目では、ウシやヒツジの熱い血を
 1〜2升、イノシシの脂と一緒に飲み込めばよいとありました。
  中国ではヒルを卵生類としているのに対して、日本では卵から生まれるのではなく、
 湿気から自然に発生する「湿生類」と考えられていました。寺島良安は『和漢三才
 図会』で「海帯(アラメ)や昆布を長い事雨水にふやけさせるとヒルになる」と記して
 おり、ヒルは食塩と石灰が苦手で、それらをかけると体が縮んでしまうとも述べて
 います。
 
                                     〜後につづく〜
45ピタゴラス:03/08/13 23:05
【正解6のつづき】・・・・・・>>44
  そんなヒルを19世紀のイギリスで、天気予報に利用しようという試みがなされました。
 1806年、科学雑誌に初めてヒルと天気の関係を公表したヘンリー・シーズンは、
 ガラスの広口のビンにヒルを入れてそれを布で覆い飼育した結果、晴れの時には
 ビンの底でじっとしているのに対して、雨の場合にはビンの先にまで上って天気が
 変わるまでそこにいる。さらに、風が強い時にはビンの中を飛び跳ねるように素早く
 動き回り、雷の時にはけいれんのような動きをとり、霜が降りる時にはビンの底に
 横たわっている。雪の時には、雨の日ようにビンの口に這い上がってくっついている
 というものでした。
  そしてこのことから、1851年のロンドン万国博覧会のときに「暴風雨予測器」
 なるものが展示されました。製作者はジョージ・ウエザーで、ヒルを入れた12個の
 ガラスビンをヒルが互いに見えるように並べて置いたのでした。そうして、暴風雨の
 時にヒルが這い上がってくると、ベルが鳴る仕掛けを施して誰もが分かるように
 したのです。
  因みに18世紀には、貴婦人のドレスの刺繍のデザインにもなったヒルは、
 血を吸う際にその顎の近くから血液の凝固を防ぐ抗凝固物質を出します。これを
 ヒルに因んで「ヒルジン」と呼んでいます。
46山崎 渉:03/08/15 18:34
    (⌒V⌒)
   │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  ⊂|    |つ
   (_)(_)                      山崎パン
>25
このスレまだ生きてるのかな?
とりあえず問い5の答え 禿頭令。その後先祖のことを「黒頭」と言うようになった。
48世界@名無史さん:03/09/17 09:39
age
49世界@名無史さん:03/10/10 08:24
age
50ピタゴラス:03/10/19 01:19
このスレはまだ生きていたんですね(゚o゚)

>>47
正解です〜☆
【正解5】 髪を剃ること・・・・・・問題は>>25
  1032年、近隣の諸民族を征服し西夏を建国した李元昊は、その数ヵ月後の1033年
 (明道3年)に突然、髪を剃り上げるよう法令化しました。
  まず彼が率先して髪を剃り、3日の内に坊主にならない場合は処刑すると脅した
 のです。ですから、それ以前の西夏の人には黒髪があったのですが、元昊の時代には
 皆、髪を剃り上げていたのです。剃っていたと言っても前額部の髪は残す形になって
 いましたが、それでも以前とは全然違う習慣が突然にやってきたのです。
  故に、この法令が出る以前の西夏の先祖の人たちを「黒頭」と呼ぶようになったのです。

  また、西夏は南にチベットと接していたので、チベットのある習慣も入ってきました。
 それは顔を赤く塗ると言うものでした。これは寒風から皮膚を守る為や、美容としての
 目的もありました。唐からチベットへ輿入れした文成公主は、この習慣にひどく恐れを
 覚えてチベット国王にこの習慣を止めるように頼んだという記録があります。
  この「赤面」で西夏人を指してもいました。

  「黒頭」と「赤面」という言葉を使った碑文が凉州の大雲寺に残っています。
      (この塔は)天下の黒頭〔西夏〕には苦楽二つの福を求め得て、
      地上の赤面〔今の西夏〕には勢守二つながらの根源である。

  また、他にも西夏の詩にはこんなものもあります。
      皇天のもと千の黒頭の福には高下あり、
      陸地のうえ万の赤面の智識は等しからず。
51ピタゴラス:03/10/20 02:32
今回は4問出題します。

【問題7】 <オリンピア史1 ヘラクレスが決めたスタディオンの秘密>
  今回はまずオリンピアで行なわれた競技会の問題を3問。
  古代ギリシア人は、葬式や神の祭典の時に併せて競技会を行なう習慣があった。
 その中でも、4つの神に対する競技会としてネメラ、コリント、デルフィ、オリンピア
 で開かれたものが有名ではあったが、とりわけゼウス神に対してオリンピアで行なわれた
 競技会がその後1000年以上に渡って行われた。
  記録に残っている最古のものは、紀元前776年のもので以後、4年ごとに行なわれる
 ようになった。この4年ごとというのは、いろいろな説があるようだが、先の4つの競技会が
 それぞれ年に1回ずらして行なわれていたので、4年で一順することになり、ここから
 来ていると考えられる。
  オリンピアでは紀元前776年の(記録が最古なので便宜上)第1回から紀元前728年の
 第13回までは短距離走のみが行なわれていた。19世紀末に遺跡として発見されたオリンピア
 の競技場からは、この短距離走のコースが発見されている。トラックの長さは約192
 メートルで、これは1スタディオンという古代の単位に基づいている。

  古代バビロニア人は、太陽が地平線に現れ始めた瞬間から、太陽が地平線を離れる
 瞬間までに大人が普通の速さで歩いた距離を「スタディオン」という単位にした。
 1スタディオンは場所や年代によって異なり、古代バビロニアでは約184メートル、
 古代エジプトでは約179メートル、そして古代ギリシアでは192メートルであった。
  この古代ギリシアの1スタディオン、つまり192メートルは「600オリンピック
 フィート」という単位で表す事もできる。これは神話でおなじみのゼウスの息子、
 ヘラクレスが自分の足の長さを600倍にしてできたレースの距離であるという。
  また、ヘラクレスに関していえば別の話もある。
 それは、彼があることをしながら走れた距離が約192メートルであったので、
 この距離を1スタディオンにしたという。
  では、ヘラクレスが走りながらしたこととは一体何?
52ピタゴラス:03/10/20 02:34
【問題8】 <オリンピア史2 壺の絵で解く五種競技の謎>
  オリンピアに参加するにはいくつかの条件をパスしなければならなかった。
 一つには、バルバロイではなく市民権を持つ自由人である事。二つめは、法律違反者
 ではない事。三つめは、女子ではなく男子である事などである。女子は特に結婚して
 いる場合には競技を見学する事すらできなかった。
  しかし、これらの条件をパスしたからといってすぐに出場できるわけではなかった。
 その後、約10ヶ月のトレーニングを行い、大会前の30日間の合宿訓練の総合的な成績に
 より審判が適当と認められたものが初めて大会に出場できたのだ。
  競技の方は、第14回(前724年)に1スタディオンを往復する「ディアウロス」が
 登場して以降、さまざまな競技が登場した。特に第18回(前708年)から登場した
 五種競技は、当時の壺などに多様に描かれている。
  
  壺の絵の中には選手がある道具を用いて競技をしているものが描かれている。
 この道具は、大きさは約12〜29センチ、重さは1〜4kgの石ないしは金属製のもので
 あった。
  「五種競技」とは、1)ヤリ投げ 2)短距離競走 3)円盤投げ 4)レスリング 
 5)走り幅跳びを指している。そして、問題の道具はこの中のある競技に使われていた。
 では、その道具の使い方とは何?
53ピタゴラス:03/10/20 02:35
【問題9】 <オリンピア史3 蘇った美と力の祭典・近代オリンピック物語>
  盛んになったオリンピアは、ローマ帝国がギリシアを併合するとギリシア人以外の
 ローマ人なども参加するようになっていった。挙句の果てには、ローマ皇帝も競技に
 チャレンジするようになった。ネロは自ら参加するので、旅程をあわす為に、本来
 紀元前65年に開くはずの第211回大会を2年遅らせて紀元前67年に開くなど、ギリシア
 時代の神聖的な性格が失われていった。
  そして、遂にはテオドシウス1世が西暦392年にキリスト教を国教にしたことにより、
 ゼウスを奉るオリンピアの火は翌年の393年に消えてしまった。そのときの回数は
 第293回であった。
 
  しかし、それからおよそ1500年後再び火は灯される。
 1871年の普仏戦争で敗北したフランスのプロシアに対する敵対心に疑問を持っていた
 クーベルタンは、体育を元に祖国の青少年の心身の健康を作ろうと考えていた。
 そんな中、クルチウスが1876年にオリンピアの遺跡を発見したというニュースを聴き、
 オリンピアを復活させればスポーツを通して世界的な平和を実現できると思いついた。
  そして1894年6月にパリで行なわれていたスポーツの国際会議で、クーベルタンは
 初めてその考えを公にした。これが元でIOC〈国際オリンピック連盟〉が発足し、
 1896年4月6日にはギリシアのアテネで近代オリンピック第1回大会が行なわれたのだ。
  この第1回大会は、欧米13カ国が出場し、競技としては陸上、水泳、体操、レスリング、
 フェンシング、射撃、自転車、テニスの8競技42種目が行なわれた。当初はヨットも
 予定にはあったのだが悪天候の為に中止された。
  そして、オリンピアを元にできたとあっていくつかの共通点もあった。
 例えば、1周333メートルの陸上トラックの直線距離が非常に長く、カーブが急であった
 事。そしてもう一つ、それは大会全体に関する事であった。これはクーベルタンの
 考えが反映された事がこれにつながったとされている。
  では、オリンピアと第1回近代オリンピックとのもう一つの共通点とは何?
54ピタゴラス:03/10/20 02:36
【問題10】 <神話の国のミステリー・前橋の人が食べていた神の使い>
  今回最後の問題もギリシアから。
  神話の国のギリシアでは、ある生き物が女神アテネの宿敵と考えられていた。
 その生き物は、ギリシア神話にたびたび登場し、縁起のいい生き物、また逆に縁起の
 悪い生き物として考えられていた。
  中国名の由来は、その生き物の子供が成長すると、親にエサを持ってきて恩返しを
 するという言い伝えから名付けられている。
  日本では、群馬県前橋市の人は昔、この生き物の肉を食べていた。
 他の地域でも縁起のいいものや悪いものと考え、神の使いともされていた。
 では、その生き物とは何?
55トトメスV世 ◆prgqkIQ406 :03/10/22 22:07
問題7の答えは『息を止めた』ではないでしょうか?
56ピタゴラス:03/10/22 23:41
>>55
トトメスV世さん、正解です〜☆
答えて頂いてありがとうございます。
後日、解説しときます。
57世界@名無史さん:03/11/25 23:53
age
>【問題8】
普通に考えれば、 3)円盤投げ で投げるため、だけど・・・。
59ピタゴラス:03/11/26 20:51
>>58
残念、違います(>_<)
【ヒント】
  Q8は、紀元前6世紀の半ばに使われ始めたらしく、形は最初は一昔前の電話の
  受話器のような形をしていました。その後、改良がなされていきました。
  この道具を使う事によって、その競技の記録を更新していく事ができたそうです。
60トトメスV世 ◆prgqkIQ406 :03/11/26 21:08
問題8の答えですが、『走り幅跳び』ではないでしょうか?
器具の使い道は、『練習の際の負荷重量とするため』で、現在のダンベルやバーベルのような使い方だったのでは無いかと思いますが。
61ピタゴラス:03/11/26 23:09
>>60
正解です〜☆
62世界@名無史さん:03/12/25 16:59
dat落ち防止age
63例の170 ◆vBOFA0jTOg :04/01/22 22:46
【問題9】
トラックを右回りで使ったこと?
64ピタゴラス:04/02/13 23:52
すみません、だいぶ遅れましたが正解を順不同で載せておきます。

【正解10】 カラス(問題は<<54)
  漢字の『烏』は象形文字ですが、『鴉』は鳴き声を元にできています。
 また中国では『慈烏』と書きますが、これはヒナが成長すると、親にエサを
 くわえて恩を返してくれるという考えに基づいています。和名『カラス』は
 「黒し」の音が転じたといいます。
  西洋では、カラスの黒い色は太陽に近づきすぎて焦げたからと考えられたり、
 太陽黒点を象徴するものとされていました。ですから、太陽神アポロンが怪物から
 逃げる時にカラスに変身したというギリシア神話や、カラスは太陽黒点の数である
 3本の足を持つ聖なる鳥であるという伝説はここから発しています。
 また、ギリシア神話では女神であるアテネの宿敵と考えられていました。
 これは、女神の化身とされたフクロウとカラスは仲が悪く、互いのたまごを
 取り合って食べているというところから来ています。
  都市国家であるアテナイでは、牛飼い座のアルクトゥルスが見え始めてから
 ツバメが飛んでくるまでの時期に、カラスは女神アテネの寺院でごく稀に姿を
 見かける珍しい鳥とされていました。
  キリスト教においてカラスは、聖書に出てくる最初の鳥として知られています。
 大洪水の40日後、地上の水が引いたかどうか確かめる為にノアが放った鳥がこの
 カラスだったのです。しかし、カラスは行ったきり戻ってこなかったというのは
 有名な話です。また『レビ記』では食べてはならないものの中に「もろもろ
 カラスの類」として挙げています。  
65ピタゴラス:04/02/13 23:55
【正解10】 カラス(のつづき>>64)
  一方、中国では、「金烏玉兎(きんうぎょくと)」と言って太陽にはカラスが、
 そして月にはウサギが棲んでいると信じられていました。
 中国ではカラスを1:慈烏{ミヤマガラス}、2:鴉烏{トウガラス、コクマル
 ガラス}、3:燕烏{クビワガラス}、4:山烏{ベニハシガラス}と分類していまし
 た。『本草綱目』によると、中国の北ではカラスの鳴き声を聞くと吉であり、
 カササギのそれを聞くと凶になるが、南方ではその逆になると記しています。

  そして日本では、記紀によれば神武東征の時に、大和の手前で難渋していた
 皇軍の前に天から八咫烏(ヤタガラス、八咫とは巨大なという意味)が下りてきて
 道案内をしたといいます。また、天皇は大和の土豪の兄弟に帰順を勧めたときに
 この烏を使者にしました。
 この大きなカラスは鴨〔賀茂〕県主(あがたぬし)の祖とされます。鴨県主は主殿
 (とものり)の職を世襲しましたが、その仕事には車駕(しゃが)の行幸に供奉する
 事(『職員令』)や大嘗祭の時に燭を執って天皇を迎え入れる事(『延喜式』)
 が含まれています。八咫烏が先導役を務めるのは鴨県主のこうした職務の反映で
 あり、神話と儀礼が深く結びついている事が分かります。
 因みに八咫烏神社が実際に奈良県宇陀郡榛原町高塚にあります。また、カラスを
 神の使いとするのは他にも熱田神宮や厳島神社などがあります。
  
66ピタゴラス:04/02/13 23:56
【正解10】 カラス(のつづき>>65)
  しかし、群馬県前橋地方ではカラスは食用になっていました。
 肉を細かくたたき、ネギを混ぜてうどん粉を加え細い竹筒に塗りつけて焼く料理で
 『ローソク焼』と呼ばれていました。
 因みに、日本の童謡に『七つの子』がありますが、ここに出てくる歌詞
 ≪カラスなぜ鳴くの カラスは山にかわいい七つの子があるからよ≫の
 「七つの子」とは、狂言小舞や地唄の曲にある『七つ(7歳)になる子』から
 引用したものであって、「七羽の子」という意味ではありません。  
67世界@名無史さん:04/03/07 11:11
age
68世界@名無史さん:04/04/05 08:21
age
69世界@名無史さん:04/05/18 08:09
age
70世界@名無史さん:04/05/18 08:10
クイズか・・
71ピタゴラス:04/05/19 23:58
【正解7】 (走りながら)息を止めた・・・・・・問題は>>51

  古代ギリシャ世界では人々の暮らしにおいて神の存在は絶対でした。
 故に、その神を祀る儀式もさまざまなものがありました。
 中でも、ネメアのネメア祭、デルフォイのピティア祭、コリントのイストミア祭、
 オリンピアのゼウス祭は神に対して身体を張った祭として知られています。
 いずれも元々は地方的な祭りでしたが、オリンピアはやがてギリシャ世界だけでは
 なく、その後のローマ世界でも歴史に登場することになります。
  オリンピアを管理していたのはエリスというポリスで、その王であるイプィトスが
 当時、内戦に明け暮れていたギリシャを救うために何をなすべきかをデルフォイの
 神託に問うたところ、競技会を行なうべきというお告げを受けたという話があります。
  そうして始まった古代オリンピアの第1回目は紀元前776年であると考えられます。
 この年号を突き止めたのが、紀元前5世紀の終わり頃にエリス出身のソフィストで
 あったヒッピアスです。彼は年号を定めるだけではなく、口伝や記録をまとめて
 優勝者の一覧表を編纂しました。彼の業績はその後、アリストテレスや
 エラトステネス、ユリウス・アフリカヌスらによって受け継がれ完成します。
 
  古代オリンピアでは4年に一度、競技会が行なわれました。
 そして、この4年を1単位とする「オリンピヤード」という年号単位が作られ、
 当初はオリンピアを記録する上で活用されていましたが、後に社会的なできごとや
 個人の出没年を特定する上でも有効に使われました。現在の私たちが見聞きする
 古代ギリシャの文化や政治に関する年代はこの「オリンピヤード」を元に決定されて
 いるのです。
                           ≪後につづく・・・・・・。≫
 
72waza_fire:04/05/20 00:01
(・∀・)ピタゴラス!
73ピタゴラス:04/05/20 00:02
【正解7】のつづき・・・・・・>>71

  そして、オリンピアが始まる前後1ヶ月間には、あらゆる戦争や軍事的な行動に
 出てはならない決まりがオリンピアが生まれると共に作られました。これは
 ‘オリンピアの平和’と呼ばれています。
 元々は敵対関係にあったエリスのイプトスとピサのクレオステネスとスパルタの
 リュクルゴスの三者で結ばれた休戦協定に始まります。
  これによってゼウスの聖地であるオリンピアはもちろん、そこを管理するエリスも
 また神聖な土地とされ、軍隊の通過や武器を携行しての立ち入りを禁止されたのです。
 また3つのポリス以外にも適用されていき、あらゆる戦闘行為は違反とみなされ
 ました。
  当初は前後1ヶ月間であったこのオリンピアの平和はやがて時間が延びていき、
 遂には前後3ヶ月間にまでなっていきました。この期間中はオリンピアへと続く
 主要な街道は全てエリスによって安全が保証されたので、多くの人たちがオリンピア
 を見物しようとやってきたのです。

                         ≪後につづく・・・・・・。≫
 
                                
74ピタゴラス:04/05/20 00:05
【正解7】のつづき・・・・・・>>73

  具体的には全ギリシャに‘オリンピアの平和’が宣せられると、エリスの自由民
 から選ばれた「スフォンドフロイ」と呼ばれる3人の伝令使がオリーブの冠を被り
 ポリスからポリスへと歩いて休戦を布告します。そして完全にそれが履行されて
 いるかどうか監視できる特権も持っていました。
  違反した場合には、それがポリス全体であろうが個人であろうが、協議会に
 かけられ、時には処罰の対象になりました。例えば、個人の場合には大会に参加
 できる資格が剥奪されるというものでした。さらに悪質な場合には、競技会に関する
 ものだけではないペナルティーも課せられたのです。それはデルフォイでアポロンに
 よる神託を受ける事ができないというものでした。最初にも言ったとおり、古代
 ギリシャでは神がなければ暮らしが成り立ちません。難しい言い方をすれば、
 この処罰は個人の存在を否定されることを意味します。
  スパルタもかつて、紀元前20年にこの平和を乱したために2000ムナ
 (ムナ:金額の単位。1ムナ≒金43g)の罰金を命じられ渋々応じています。
 注目すべきは、軍事面では他のポリスより力のあったスパルタが、決定に従わざるを
 得なかったほどこの不文律である‘オリンピアの平和’は強制力を持っていたと
 いう事を表しているのです。
                          ≪後につづく・・・・・・。≫
 
  
75ピタゴラス:04/05/20 00:06
【正解7】のつづき・・・・・・>>74

  オリンピアは紀元前776年(第1回)から紀元前728年(第13回)まで開催期間は
 1日だけで、競技も短距離走のみでした。その距離は約192メートルで、これは
 古代のオリエントやヨーロッパ世界で活用されていた「スタディオン」に由来
 します。メソポタミア地方で生まれたスタディオンは184メートルでしたが、
 場所や時代によってその長さは変化していきました。古代ギリシャでは192メートル
 で「1スタディオン」になると同時に「600オリンピックフィート」でもありました。
  これは、神話によればヘラクレスが、自分の足の長さを600倍にして作った距離と
 いう事です。また別の説によると、ヘラクレスが一息で走れた距離がこの距離だった
 というのです。「スタディオン」がギリシャ語の「耐える」から派生したのは
 この為だと考えている学者もいます。
  オリンピア当初はこの短距離をするための競技場はありませんでした。
 選手は砂にスタートラインが引かれた場所で競技をしていました。
 これが「スクラッチ(ゼロからの出発)」という意味の語源でもあります。そして
 立派なスタディオン走ができるようにと、競技施設が後に神域の外にできました。
 紀元前350年の事です。
76ピタゴラス:04/06/01 20:22
【正解8】 走り幅跳びの時に重りとして持った(・・・・・・問題は>>52)

  競技は元々、1スタディオン(約192メートル)を走るスタディオン走だけでしたが、
 やがてスタディオンを1往復する『ディアウロス』を皮切りにさまざまな競技が
 行なわれていきました。別表にはそれを書きました。興味があればご覧下さい。
  中でも、ヤリ投げ、短距離走、円盤投げ、レスリング、走り幅跳びのいわゆる
 ≪五種競技≫は競技会の代名詞になった競技といえます。そして問題に出た道具は
 この中の走り幅跳びに使われました。
  「ハルテレス」と呼ばれたこの道具は、時代によって材質や形、重さが異なります。
 長さは12センチ〜29センチ、重さは1kg〜4.5kg程度です。このハルテレスは、
 紀元前6世紀頃に使われ始められました。形状は石包丁のように平べったく、電話の
 受話器のような形で石か金属でできていました。競技の時にこれを持って、跳ね上が
 る時に全力で前に振り出して前方への推進力にしたのです。そして着地をするとき
 には、この重りを今度は後ろへ持って行って勢いを少しでも得ようとしたのでした。
  紀元前6世紀後半には既に改良が為され、受話器型の前方(受話部分と送話部分で
 いう受話部分)が重くなっていました。これは親指と他の指の為のくぼみのサイズから
 判断すればずっと後ろの方を持っていたと考えられます。
 そして紀元前5世紀には別の形のハルテレスが登場しました。
 石で基本的にはできていて、形は円筒型になり指がしっかりはまるようにそれぞれの
 指のはまるくぼみができているというものでした。
                               〔後につづく・・・・・・。〕

  
77ピタゴラス:04/06/01 20:24
【正解8】のつづき>>76

ギリシアの伝記作家のフィロストラトス(2〜3世紀)によると、挑戦者は両足を
 揃えて砂にきれいに足跡をつけなければ失格とされたといいます。
 しかし、現代のアスリートが重りを持って実験したところ、尻餅をついてしまった
 そうです。また、走り始めて18メートル先に踏切板(バーテル)があるのも現代の
 選手にとっては中途半端な距離だそうです。ですが、古代ギリシアのアスリートは
 絶え間ざる訓練を施し記録に挑んだと考えられます。因みに発掘された壺は紀元前
 575〜550年頃のものです。

  古代オリンピアでは、幅跳びは何段跳びだったかははっきりと分かりません。
 古代オリンピアでの幅跳びの記録は歴史上2つしかありません。一つはファウロス
 (クロトン)によるもので16.28メートル。そしてもう一つが、キオニス(スパルタ)
 で16.66メートルを出したそうです。マイク・パウエルの8.96メートル(1991年・
 東京)の約2倍もあり、これらは作り事だと否定されてきました。
  しかし、古代の幅跳びが何段跳びだったかを考えればこの記録は意味を持つと
 考える学者もいます。また記録では、ファウロスは15メートルの砂場を約1.5
 メートルも飛び越えた為に足を折ったといいます。ただの幅跳びならこんなに長い
 砂場を設ける必要はなかったのではないかというのも根拠の一つです。

78ピタゴラス:04/06/01 20:25

     ≪古代オリンピア 競技導入の年代≫
   
  回数    開催年(紀元前)   競技種目
   1     776       スタディオン走
  14     724       ディアウロス走(スタディオン走の往復)
  15     720       ドリコス(長距離走)
  18     708       五種競技
  23     688       ボクシング
  25     680       テトリッポス(4頭立て戦車レース)
  33     648       パンクラチオン(禁じ手がほとんどない
                          レスリング)と競馬
  37     632       少年の競走とレスリング
  38     628       少年の五種競技(⇒直後に中止)
  41     616       少年のボクシング
  65     520       武装競走
  70     500       アペーネ(ラバのカートレース)
  71     496       カルペ(子馬のレース)、アナバテス(下馬競技)
  84     444       アペーネとカルペ、中止
  93     408       シュノリス(2頭立て戦車レース)
  96     396       触れ役とラッパ手の競技
  99     384       4頭の子馬チームの戦車レース
 128     268       2頭の子馬チームの戦車レース
 131     256       子馬の競技
 145     200       少年のパンクラチオン     
79世界@名無史さん
age