ベトナム史総合スレ

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47世界@名無史さん
阮朝の末裔は今どこで何してるの?
48あやめ:03/04/06 17:36
貉龍君の許に遺った五十子の長男が君位を継ぎ、雄王と号し峯州に都して
文郎國を建てます。領域の範囲は東は南海(南支那海)から西は巴蜀に及び
北は洞庭から南は胡孫(後の占城)に接するという大国と謳われています。
どの民族でも古代には大帝国を形成してたと誇称したいもののようです。
この境域を十五部に分かち相を貉侯といい将を貉將といった体制を整備し、
子孫6代に世傳して雄王の号を継ぎ、その間には越裳氏と号し周の成王に
聘して白雉を献じたとあります。これは「史記」の記事から取ったものかと
思われます。
雄王の季世に王女の媚娘の艶を聞きつけた蜀王が求婚してきますが、何か
魂胆があるに相違ないという貉侯の意見に従って拒絶します。また群臣も
王女は元来僊種なのだから才徳兼備の者と婚姻すべきですと進言します。
するとある日のこと二人の者がやってきて庭下に拝して求婚し、それぞれ
水精と山精であると名乗ります。王は明日を約し聘物を具えた上おいでを
願う、先着者に娘を上げましょうと申し出ます。翌日になって先ず山精が
珍宝や山の幸を持参して来ましたので、約束どおり嫁がせましたが遅参の
水精はやけを起こして洪水でアダをします。
49あやめ:03/04/06 18:29
>47
阮永瑞(元の保大帝阮福晪)は1997A.D.の7月30日に逝去されました。日付は
資料によっては31日となっています。パリとハノイの時差によるものかも?
享年83歳とのこと。
晩年はパリでプレイボーイの名をほしいままにしたという噂で、ポルノグラフィ
コレクションが凄いとか、有ること無いこと色々言われてます。シアヌーク氏と
比較したら格段に無能だったことはまちがいないでしょう。
元皇太子はフランス空軍の将校だとか、元公主はヨーロッパの某貴族と結婚し今
未亡人だとかの記事を目にしたことはあります。
日本に亡命していた畿外侯彊柢(クォンデ)という方はどうなさったのかしら。
50あやめ:03/04/06 19:46
やけっぱちの水精が惹起した洪水災害はめでたく婿入りした山精の奮闘で
何とか収まります。しかし収まらないのは前に肘鉄を食わされた蜀王で、
その子孫に文郎國をいつか必ず滅ぼしてくれと遺嘱して死にます。果たして
孫の蜀泮の代に文郎國に攻め込んできます。初めは文郎の将兵は勇敢に戦い
蜀軍を撃破しました。雄王はこれに慢心し我に神力ありと武備を廃し酒宴に
溺れ、蜀軍が迫ってきても泥酔していて遂に井戸に落ちて薨じ、その軍隊も
戈を倒かしまにして降伏し文郎國はここに滅亡しました。
かくて蜀泮は文郎國を併合し甌貉國を建て安陽王と号します。周の赧王の
五十八年甲辰(257B.C.)に当ります。そこで王城を築くことにしましたが
広さ千丈にして盤旋すること螺形の如しとあって、何だかバベルの塔あたり
イメージしてしまいます。この城は築き終わるとやがて崩壊してしまうと
いうとこもバベルの塔を連想させます。
苦に病んだ安陽王は斎戒して天地山川神祇に祈り再び着工しました。すると
神人が城門を指して「一体いつになったら出来上がるのやら」と笑いました。
王は殿上に招き成功の方を問いますと「江使の来るのを待ちなさい」との答。
ある日の朝のこと王が城門を出ると金の亀が東から江に浮かんで来たのです。
51世界@名無史さん:03/04/06 22:48
はあー、勉強になるな・・・・
52世界@名無史さん:03/04/07 00:24
>>49
クオンデは半世紀ばかり前に日本で亡くなりました。

バオダイは個人的な資質という点ではシハヌークに引けを取らない程度では
あったと思います。むしろベトナムの政治状況が彼を必要としなかった点が
大きいのでは?