1 :
グラディエーター :
03/03/05 20:10 よくPCゲームに出てきますが、あのデカイ盾と探検持った兵士。 アレすごいかっこいい。
2 :
世界@名無史さん :03/03/05 20:15
> デカイ盾 あの長方形の盾はローマ軍団兵の象徴。 属州の補助兵の盾は円形、楕円、菱型、下が丸かったり、尖ったいわゆる盾型のもの。 ヨーロッパ貴族の紋章は盾のデザインから生まれてるが、もともとはローマ軍団の補助 兵の盾のデザインだったんだな。
4 :
世界@名無史さん :03/03/05 20:27
防備は盾と甲冑とマント、武器は投槍と短剣ですな。 あれは重装歩兵に分類されるんでしょうか。
5 :
世界@名無史さん :03/03/05 20:35
ローマ軍の投槍ってすごくない? すごく細くて、1度しか使えない。敵に刺さると体内で折れる。 地面に刺さっても、折れちゃうから敵は投げ返せない。最強。 良く考えたものだね。
7 :
世界@名無史さん :03/03/05 23:42
>>5 槍の単価が知りたいな。
それだけ威力があって、なおかつ使い捨てだったとすると、よほどコストパフォーマンスが
よくないと使いようがないよね。
8 :
世界@名無史さん :03/03/05 23:49
9 :
世界@名無史さん :03/03/06 00:53
短剣を持ち始めるのはスキピオ・アフリカヌスがスペイン原住民の 使っていた短剣を導入してからだよね?
>>10 それ以前からあった。
スキピオは従来のものを改良して規格を統一しただけ。
ここの10スレ後に軍事板から某研究者降臨の予感が…。
13 :
グラディエーター :03/03/06 17:11
小学生の時に読んだ漫画世界の歴史の ローマ兵の鎧に萌えてはや幾年。 ロリカ・セグメンタタこそ最高の甲冑!
>>13 そんな事言ってるとマジに某研が出て来るぞ。ヤシが3度の飯より好きなのは
レールガンじゃなくて中世か古代ローマ話しと睨んでいる。軍板の七人の侍
スレは後半からは某研ワンマンショーになったし。
17 :
世界@名無史さん :03/03/07 16:31
そーゆうこと言ってるとほんとに出てくるよ、ふれないほうがいいとおもう
18 :
AIRSHIP :03/03/07 16:57
ローマ帝国の鎧は現在オーダーメイド出来ます。 ブラック・ホールに出ているヴァ イス・ブラウ・レジデンスという処が扱ってます。 ロリカ・スクワマータ、ロリカ・セグメンタータ,ロリカ・ハーマータ,盾,歩兵用 の短剣,騎兵用の長剣がインターネット販売されています。 勿論,兜も一般兵様と センチュリオン様の物,インペリアル・ガード様の物も扱っています。 何人かマニアが買っていますから,銀座のハロウイーン・パレードでローマ軍団を遣 って見たいですね。 グラヂエーターの鎧も扱っていましたから,スパルタカスごっ こも遣りたいですね。
>>4 そう、あれが重装歩兵ですよ。
>>9 ゲルマン、ガリア、スラブはともかく、ユダヤを野蛮人と呼んじゃうのはチト
乱暴では?
まあ軍板に此処へのリンクが貼られていた訳だが 求める者には与えられず嫌う者にのみ与えられる某研殿ゆえ このスレに来る可能性は低いのではないか
ナポレオン等の胸甲兵がサーベルを鎧の上から受けても かなり厳しく鎧は余り役に立たず (銃に対しても鎧の表面で潰れた銃弾が傷口を広げるだけに 終わる懸念も有る訳だろうか) 上体の動きを制限するのみに終わる懸念も有る訳だろうか
>もともとはローマ軍団の補助 >兵の盾のデザインだったんだな。 まあこれをバイキングが真似て其れを更に 十字軍が真似たと言う事なのだろうか(苦笑
24 :
世界@名無史さん :03/03/07 21:18
某研キタ――――――――――――――――!!!
兎も角関節の動きを制限する様な中世のプレートアーマーの様な鎧を着たら 上のビデオを見る限り却って有害である様な気もするが
26 :
世界@名無史さん :03/03/07 21:31
別にいいじゃん。
27 :
LEXIUS :03/03/07 21:52
とりあえず、グラディエータとかベン・ハー、スパルタカスを見れば 良いのでは?
まあ上のビデオを見る限り 鎧等を増やすより 兵の人数と防弾装備・飛び道具の数を増やした方が 良いだろうか(笑
29 :
LEXIUS :03/03/07 22:09
タイタスも付け加えるが、ちょっと微妙だな
うひゃあ、先導してしもたか? 個人的には嫌いじゃないんだが、迷惑だったらスマソ
31 :
世界@名無史さん :03/03/08 10:58
>>30 ていうかこの人誰よ?なにしゃべってるのかわからないんだけど。
>>31 そういうもんだから
軍板でよさげなスレタイと思って入ってみたら
某研の独演会でした(´Д`;
33 :
世界@名無史さん :03/03/08 19:11
この板ではあまり見かけない語り口だが、軍事板では有名なコテハン なのだろうか しかし、古代ローマの補助兵の盾からフランク王国の騎士の盾へと考 えるのではなく、バイキングの円形盾を経由させている理由がよく理 解できないのだが バイキングの盾には特に色彩や図が描かれていたとも思えないのだが
34 :
waiwai :03/03/08 19:14
35 :
世界@名無史さん :03/03/08 19:22
そもそも、ローマ軍団の優越性は、訓練された集団としての戦闘力そのもの や軍団を支える兵站、土木技術などを含む総合力によるもので、兵士の装備 も共和制期にの個人負担であった頃であれば、周辺蛮族の装備と比較して優 越していただろうが、特に決定的な要素ではないだろう。
>バイキングの円形盾を経由させている理由がよく理 >解できないのだが まあバイキングにもカイトシールドが有った筈だが 確かこの盾を十字軍が模倣したのではないのか
37 :
グラディエーター :03/03/09 02:53
38 :
世界@名無史さん :03/03/09 10:19
某研は、軍板、世界史板、武道板、など不特定多数の、板に出没する有名なドキュンです皆、相手しなくていいよ! 某研呼んだ奴!迷惑じゃないだと!この変態ヤロウ!!
まぁ中世騎士のカイトシールドの起源がバイキングの盾の模倣にある という指摘は根拠のあることのようなので、十分に有益ではないのか 指摘を受けて調べてみたが、俗にバイキングシールドと呼ばれる円形 で中心部に取手がある形式の盾の下方を延長し、腰のあたりで持った 場合に、下端が地面につくようにした涙滴型のものがカイトシールド の元祖のようで、これが模倣されたということらしい。 紋章の起源は11世紀頃のカイトシールドへの識別文様や彩色なので、 そのベースとなった中世騎士の盾の形態に影響を与えたのは、ローマ 帝国の属州兵やその後継としてのフランク王国のものではなく、バイ キングの盾ということのようだ。
40 :
世界@名無史さん :03/03/09 15:18
あのへースティングの戦い(1066)で有名なハスカールとは、 バイキングと関係あるのだろうか。あやつらはいったい何系民族なので あろうか。その辺が知りたい。
41 :
世界@名無史さん :03/03/09 15:53
まあ、株板でも猊下を拝見するわけだが(苦笑
>>38 失礼
まあ多数の板を巡回するのは名無しにも珍しい事ではなく
コテハンにも居ない訳ではないのだろうが
ただリンクを貼ったのは私ではなくその点よく読んで頂きたい(苦笑
また彼の考察と文体は電波だろうが矢張りDQNと言うには当てはまらないのではないのか
43 :
世界@名無史さん :03/03/10 14:43
某研究者さん、このスレに紛争を持ち込むんだったら出て逝ってね。 まぁ、いいや。せっかくだからローマ帝国軍のこと、もっと語って 逝ってよ。
某研究者は文体がうっとおしいだけで 荒らしたりとか迷惑なことをやるわけじゃないから 居てもいいやんか
いや意外と悪質な瞬間あるよ。 ふだんは攻撃性や対人接触拒否する温厚なヒッキーなんだけど、 過去に何回か、「やめてくれ〜」てまともな論者が悲鳴上げてるとき、 あのコピペにちかい電波の連貼りしてスレ潰されたことも。 ただ追い出したら追い出したでスレが寂しくなるのも事実。 彼がいると素人さんも気軽に、1行レスができて、スレ参加者が多くなるんだ よね。
46 :
グラディエーター :03/03/10 18:20
>>44 ,45
それなら、某研究者にいてもらうとしますか。
コホルテス・エクイタータ
48 :
グラディエーター :03/03/10 23:07
49 :
グラディエーター :03/03/11 00:15
アレクサンドリア王→ハンニバル→スキピオと受け継がれ、 戦術的にローマ軍は強くなった。 一昨日の敵は昨日の先生で、今日の自分ですね。 ローマってすごいね。
>アレクサンドリア王→ハンニバル→スキピオと受け継がれ、 >戦術的にローマ軍は強くなった。 まあしかしアレクサンダーからハンニバルが何を学んだのか知らないのだが マケドニアの長槍騎兵と言うのは ペルシャの投げ槍騎兵を相手にせぬ程強かった筈だが ローマでは何故投げ槍騎兵のみが残ったのだろうか 矢張り長槍を使う様なファランクスもハンニバルには受け継がれていたのかと言う事だが ハンニバルはギリシャやマケドニアの様なファランクスでは無く ローマのレギオンと同様のやや散開している隊形を 用いていた訳なのだろうか (まあしかしレギオンはローマでは無くハンニバルが考えたと言う事は無いのだろうか)
ハンニバルからスキピオが学んだのも何かは知らないが 矢張りヌミディア騎兵を敵の背後に突撃させると言う事位なのだろうか
52 :
AIRSHIP :03/03/11 22:44
ローマやヌミディアの騎兵を語るには、鐙が存在していなかった事が重要だと 思います。 槍を持っての突撃では、蔵の腰当を高くした程度では落馬の危険 性が大きいと思われます。 槍は、第一撃によって敵の体内に残る確率が高い と思われます。 残ったとしても、第二撃、三撃に、拠って失われる事が多い と推察されますので、長剣(ハピタ)による擦れ違い様の斬撃が有効と推察し ます。 縦走歩兵の集団には、訓練を積まないと方向転換に時間が懸りますので、騎兵 集団の方陣後方への突撃は、非常に有効な戦術で有ると云う事は、アレクサン ダー大王の当時から友好であった事が史書に載っています。
ようするに包囲殲滅戦法をどう展開していくか、ってことですな。
>>52 氏のいう通り、鐙もなかったから、歩兵が主力になるしね。
>長剣(ハピタ)による擦れ違い様の斬撃が有効と推察し >ます。 まあこれでは相打ちの可能性も高いし マケドニアの長槍騎兵相手では投げ槍を外せば 長槍で一方的にやられると言う可能性も 有る訳だろうが投げ槍と言うのは 馬に近距離からでも当たらない物なのだろうか 歩兵に対しては盾が有るので騎兵の投げ槍は余り有効では 無い訳だろうか
ローマ歩兵も初期には長槍を使っていた様だが 後で機動力を重視した為か投げ槍に変化している様だが
まあコホルト(大隊)戦術以上の物がローマ帝国に有ったのかと言う事だが 他国の軍隊はマニプレス(中隊)戦術さえ無かったと言う事なのだろうか (矢張り中世の軍隊やテルシオ等未だファランクス止まりで有った訳であり フリードリヒの斜行戦術も厚みは無いだろうがファランクスの斜線陣に過ぎず ナポレオンの戦術がマニプレスやコホルト戦術と同等の物で 有った訳だろうか)
まあしかし騎兵を防ぐ為の中空の方陣の様な物は ナポレオン以前にも有ったのだろうか (諸葛の八陣がこれに近い物だろうが 方陣の内部は完全な中空では無かっただろうか)
東ローマ帝国は投射兵器にピルムでは無く より多く持てるダートを使っていたと言うが これはピルムより小型であるし盾を貫ける物なのだろうか (貫けぬとすれば牽制用・或いは対騎兵用の物なのだろうか)
カルタゴ軍はピルムは余り使っていなかったとの情報も有るが どうなのだろうか (矢張り長槍でローマ歩兵の剣を用いての近接戦 或いは騎兵の投げ槍に対抗出来たのかだろうが)
ザマではカルタゴの象兵がローマ歩兵の側面から突入したとの意見も有る様だが 以後は象兵が側面から突入して来た場合でも ローマ軍は対処出来たのだろうか
上失礼ザマでは無くカンネーの間違いだが 矢張りカンネーではマニプレスの厚みを増した事と 騎兵が敗れた事が敗因だろうが 仮にマニプレスを薄くしてカルタゴ軍を逆に包囲したとしても 騎兵にやられていた訳だろうか (これを防ぐには中空の方陣の様な物を取るしか無いだろうが 陣形の横幅が無くなり敵歩兵に包囲された可能性も高いだろうか)
>陣形の横幅が無くなり敵歩兵に包囲された可能性も高いだろうか) まあ歩兵が後退するスペースが有るなら 密集隊形よりまともに戦えはするだろうが (物量もローマの方が多いので勝てぬ迄も 負けはしない可能性は有るだろうか) しかし騎兵に方陣内部に突入されたらアウトだろうし 歩兵は何列かに分ける必要は有るだろうか
ローマ騎兵はヌミディア騎兵には勝てないなら 騎兵は中空の方陣の内部に入れて歩兵の陣形に穴が空いた所に 迅速に援護に行ける様にすれば良いだろうが しかしローマ側はカンネーで 騎兵対騎兵の戦いではヌミディア騎兵の存在等で 勝ち目が無いと考えていたので無ければ マニプレスの厚みを薄くし陣の横幅を広げ敵歩兵を包囲する事は兎も角 騎兵に対抗する為の中空の方陣(これは近世でも使われた戦法だが)や 騎兵を方陣の内部に入れる等と言う事を行うのは困難である訳だろうか
まあ後は象を方陣内部に乱入されて 背後を突かれれば対処出来るのかと言う問題は有るだろうが カンネーでは象は居なかったとの意見も有るだろうか
65 :
出会い系ビジネス他所とは違います :03/03/13 12:23
>カンネーでは象は居なかったとの意見も有るだろうか まあしかし騎兵や歩兵のピルム・或いはバリスタやカタパルトで 象は阻止出来ないのだろうか
(^^)
68 :
世界@名無史さん :03/03/13 18:00
素朴な疑問 行軍中、象のエサとかどうしていたんだろう? 現地調達ってワケにはいかんだろう そんなことした行った先々草木なくなるゾウーっ
>行軍中、象のエサとかどうしていたんだろう? まあ恐らく出来るだけ現地で調達して 足りない分は輸送した食糧を食べさせていたのではないのか(笑
70 :
世界@名無史さん :03/03/14 19:43
象軍が通ったところの住民は象の大量の糞で憤慨したであろう
71 :
世界@名無史さん :03/03/14 22:35
ゾウはもういいから、兵器の話しません?
72 :
AIRSHIP :03/03/15 22:26
ローマ騎兵は、騎士階級(エクスタス〔馬・エクウス〕に乗れる者?税金を多く納め 得る者)で構成されている為、ヌミディア騎兵の様に騎馬民族が騎兵を構成していな かった為、カンネー等の初期ハンニバル戦では、両翼の騎兵が駆逐され、亦騎兵のス クリーンに拠って偵察の不備が敗因の多くを占めていると思われます。 アフリカの本国では、ローマはヌミディアを買収してカルタゴを攻撃させます。 〔ローマ騎兵の攻撃能力に見切りを付けたのではないでしょうか?
まあ只騎馬民族である筈のペルシャ騎兵が マケドニア騎兵に負けた例も有る訳だろうが マケドニア騎兵は騎馬民族で構成されていたと言う事なのだろうか
74 :
ファシスト文学士 :03/03/15 23:42
>>73 ガリア(ケルト)から騎兵をつれていったんじゃないの?
カエサルはガリア騎兵を多用したようだから・・・
>カエサルはガリア騎兵を多用したようだから・・・ ガリア騎兵と言うのは騎馬民族では無いだろうが これはペルシャ騎兵より強かったのだろうか
>>75 ペルシャの騎兵は貴族で構成され、スケイルメイルと上等な武器、馬鎧で武装している精鋭だったそうで。
鐙のない時代にこんな重武装しているなんて・・・。これではほかの騎兵を捕まえられません。
>ペルシャの騎兵は貴族で構成され、スケイルメイルと上等な武器、馬鎧で武装している精鋭だったそうで。 >鐙のない時代にこんな重武装しているなんて・・・ まあそうするとマケドニア騎兵が強いと言うよりペルシャ騎兵が弱いだけであり マケドニア騎兵はヌミディア騎兵には勝てないと言う事だろうか
大変大変!! なんとオクタヴィアヌスまでのローマ軍の白兵戦のメインウェポンは、短剣ではなく短槍だったんだって! カエサルなんかガリア戦記で亀甲戦術(何人かで方形に固まって、前後左右真上を盾で固める)をやっているし。 短剣じゃあ並べた盾の隙間から攻撃できないもんね。
>なんとオクタヴィアヌスまでのローマ軍の白兵戦のメインウェポンは、短剣ではなく短槍だったんだって! まあそうするとピルムを投射して剣で攻撃と言うパターンは スキピオの時は未だ確立されていなかったと言う事なのだろうか (しかし騎兵はギリシャ時代同様投げ槍を使っていた訳だろうか)
>>54 投げ槍の重いヤツは、わざと盾で受け止めさせ刺さらせ、その重さで盾を持てなくさせたとか。
>>72 というより、戦術の進化から、騎兵の数の不足を感じていたのでは?
>>77 マケドニア騎兵はどうも騎兵より歩兵を叩くことを考えているような・・・。
「鎚と金床」戦術。
82 :
世界@名無史さん :03/03/16 01:00
まあしかし同じ時代の歩兵や騎兵も ピルムを持っていない物と持っている物が 存在している訳だがピルムを持っている物は散開させて ピルムを持たない部隊の前衛に配置し ピルムを持っていない物は割に密集して運用されていたのだろうか
>マケドニア騎兵はどうも騎兵より歩兵を叩くことを考えているような・・・。 まあ其れでもペルシャ騎兵よりは 強かったと言う事なのだろうか
>>84 ヌミディア>マケドニア>ペルシャ
騎兵に強い←−→歩兵に強い
あとは数の問題でしょう。
>ヌミディア>マケドニア>ペルシャ >騎兵に強い←−→歩兵に強い 長槍を持つマケドニア騎兵の方が 投げ槍を持つヌミディアやペルシャ騎兵より 歩兵に強いと言う事は無いのだろうか (ピルムでは盾を使用不能とするのみだが 長槍は歩兵を倒せる訳だろうか)
騎兵に対しては投げ槍の方が強く 馬に投げ槍を近距離から当てれば 投げ槍を持たない騎兵であれば一方的に倒せる可能性も有る訳だろうか
>>75 ペルシャ騎兵が重装備なのはその淵源が襲撃してくる騎馬民族の軽騎兵を追い散らすためとどっかで読んだ。
>ペルシャ騎兵が重装備なのはその淵源が襲撃してくる騎馬民族の軽騎兵を追い散らすためとどっかで読んだ。 まあしかし馬鎧が投げ槍に耐えられる共思えぬが どうだろうか
馬鎧では槍や剣は止められず 矢を止める程度しか出来ない訳だろうか
>>88 は
>>76 に対してです
>>87 移動しつつ、揺れる馬上で、移動している目標へ投擲するのは困難だと思われる
>>89 私が読んだ本では、軽騎兵の弓に耐え前進することが任務であったと書いてあったと記憶している。
それに襲撃任務の軽騎兵が携帯本数の少ない投げ槍を必ずしも携帯しているとは思えない。
もうこんな時間・・・オヤスミナサイzzz
>移動しつつ、揺れる馬上で、移動している目標へ投擲するのは困難だと思われる まあ只馬の足を止めて投げる・或いは下馬して投げると言う戦法を使われれば 投げ槍の無い方の騎兵は厳しいかも知れぬが
93 :
世界@名無史さん :03/03/16 01:59
>某研究者 おまい株板に出没するヤシと同一人物か?
94 :
世界@名無史さん :03/03/16 08:05
ローマ時代の騎兵って補助兵的役割しかなかったんじゃないの? 偵察・掠奪・撹乱・退却のしんがり・追撃などは使えそうだけど 歩兵みたいに大挙してガチンコ勝負に参加したの?
>>94 カンナエやザマなんかは騎兵が後方に回り込み、包囲殲滅が実行されています。
主力とは成り得なくても、十分な力を持っていたでしょう。
鐙がなかったため、力一杯敵を殴れなかったのが主力になれなかった原因ですね。
前近代社会では、私有地には国家の役人は立ち入りできず、しかして、人口や 領地は誤魔化し放題、脱税放題。戦争は、各中小の領主が私兵を連れて参加するが、 この私兵の数も、誇張放題。これが普通。とても、数学的合理的な戦術や補給は 行えない。戦う単位が、「関羽親分とその手下達」では合理的な戦術などできない。 しかし、ローマは、すごい。戦う単位は、人数のはっきりした第一軍団や第3大隊。 近代戦並の数学的合理的戦術が駆使できる。おそらく、前近代では、モンゴルに次いで 強い。
97 :
ガイウス(仮)さんの証言 :03/03/16 22:10
こないだ、海戦行ったんです。海戦。 そしたらなんかローマの軍艦が甲板に、橋みたいなのを、垂直に立てているんです。 で、ほかの兵士がそれ見て、ローマバカ、とか言っているんです。 もうね、アホかと。馬鹿かと。 お前らな、船の足並みがそろっていないくらいで油断してんじゃねーよ、ボケが。 橋だよ、橋。 なんか楽勝ムードな部隊とかもいるし。ピクニック気分か。おめでてーな。 よーしオレ大将首上げちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。 お前らな、先陣切らせてやるからもう戻ってくるな。 ローマとの戦ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。 うっかり正面からぶつかったらいつ虐殺が始まってもおかしくない、 刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。平和ボケは、すっこんでろ。 で、やっと接舷したかと思ったら、隣の奴が、なんじゃこりゃぁ、とか言ってるんです。 そこでまたぶち切れですよ。 あのな、新兵器に驚くなんてきょうび流行んねーんだよ。ボケが。 この世の終わりな顔して何が、橋が落ちてきた、だ。 お前は本当に驚いていたのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。 お前、楽勝って勘違いしてただけちゃうんかと。 プロの傭兵の俺から言わせてもらえば今、プロの傭兵の間での最新流行はやっぱり、 降伏、これだね。 後方で槍投げてて味方がほとんどいなくなったら降伏する。これがプロの生き延び方。 降伏ってのはローマの奴隷になる。そん代わり死なずにすむ。これ。 で、金貯めて身分を買い戻す。これ最強。 しかし運が悪いと農場で働かされ金が貯まらないという危険も伴う、諸刃の剣。 素人にはお薦め出来ない。 まあお前らド素人は、海にでも飛び込みなさいってこった。
この手記は、第1次ポエニ戦役のミラッツォオ海戦(BC260)において、カルタゴ側の傭兵として従軍したガイウス(仮)さんからの証言によって筆者(例の170)が書きとったものである。 ガイウス(仮)さんは、海戦後、パレルモの新興富裕商人の家にに家内奴隷として引き取られ、来月にも身分を買い戻すという。 なお、彼の言う「橋」とは、ローマ軍が海戦の未熟さを補うために作り上げた新兵器『カラス』という物だという事が我々の調査の結果判明した。 『カラス』とは船の帆に縦に取り付けられた『r』型の橋のことで、敵艦に接近すると、帆からはずされ敵艦に向かって倒れ込み、甲板に突き刺さり固定される。そしてそれを橋にして、ローマ兵が殺到する。 この新兵器は、海戦に不慣れな兵士が陸戦のように戦えることから画期的な物だったが、やがてローマ軍の海戦への慣れと海軍力の常備化により、船の機動性を損なうことから廃棄された。
すいません、もうしません、お願いだから殴らないで・・・。
いんや結構面白かったよ。他の人がどう思ってるかは知らんけど。 俺はあんまり歴史に詳しくないから、こういうのは分かりやすくて助かる。 しかし、そーか、カラスって結局廃止されたのか。 ローマが海に慣れるまでの一時凌ぎだったってことだな。
塩野はその欠点について何も触れないやね。 バカでかくて重いものを甲板上に据え付けたため、 復元性が極端に悪化しますた。 荒天時に相次ぐローマ艦破船の原因は、 航海経験の少なさとともに、これによる影響もありました。
>>101 確かに重心高くなりますね。気がつきませんでした。
103 :
例の170 :03/03/17 21:12
>>100 アホ文への評価サンクス。
>>101 ふむ、ラノベや漫画でガレー船にバリスタや投石機が乗せられていて、海戦でぶっ放すのをよく見ますが、現実にはそんなの攻城戦でしか使われなかったのもそのためでしょうか。
>>96 うーん、古代、前近代とひとくくりにしてしまうのはちょっと乱暴かと。
ギリシャや専制君主国ではそれなりの戦力計算もできたでしょう。
ローマ軍が優れていたのは、「ゴマカシのきかない軍の組織構造」と「戦闘意欲の高い市民兵」、「レギオン」による歩兵戦術の柔軟性、の三本柱かと私は思います。
それと
>>95 の補足。
鐙がない時代は、騎兵は馬の背中を太股でしっかりと挟み込まねばならず、それを戦闘中たゆまず維持するのはしっかりとした訓練が必要なため、騎兵の増強が困難だったことも。
鐙があったって馬上で武器を振り回したり突撃するのは大変だろうに。 それがなかった日にゃあ、 馬上で戦闘できたのは、事実上騎馬民族の連中だけだったろうな。 ヌミディアとかゲルマン出身以外で 騎兵になれた人がどれだけいたことやら。
>>104 あと、ガリアとエトルリアと・・・
他にはどこですかねぇ?
>馬上で戦闘できたのは、事実上騎馬民族の連中だけだったろうな。 鐙無しで馬上で弓を使った例も有るのだろうか (確か鐙無しでクロスボウを中国の騎兵が 馬上から使っていただろうか)
107 :
例の170 :03/03/19 12:43
冒険帰還!!
>>106 弓のほうが簡単でしょう。
踏ん張って反動に備える必要がないのだから。
まあどうやら漢の鐙の無い騎兵には馬上からクロスボウでは無く 弓を使用していた騎兵も居た様だが 末期のローマ兵の槍がピルムからジャベリンに成ったのは何故なのだろうか 軽装の蛮族相手にはダートが有効だったと言うが 蛮族はダートを止める盾も無かったと言う事なのだろうか (まあしかし蛮族はピルムの様な物は使っていただろうし 盾もかなり装備されている様に見えるが) ダートでは騎兵を一撃で仕留めるのは無理であるから ジャベリンを対騎兵用に携帯していたと言う事なのだろうか
109 :
通りすがりの者 :03/03/19 13:00
前1世紀頃からのローマ騎兵の鞍には四つの角のような突起があります。 この鞍角付の鞍を再現した研究者によれば、これを使用することで乗り手 は馬が急旋回しても振り落とされることは無くなり、馬上で剣を用いた時 にも踏ん張れるようになったそうです。 また、この鞍のために鐙の発想が遅れたとの説もあるようです。 ただし、鐙が無いと腰を浮かすことができないので、長時間の乗馬には、 向いていないでしょうが。
フランク族のフランキスカと言う投げる為の斧は 盾越しに敵を仕留められたと言う事は無いのだろうか (まあ只射程はジャベリンやダートより短いだろうか)
111 :
世界@名無史さん :03/03/19 19:18
古代ローマ式の甲冑ってのは何世紀くらいまで使われていたんですか? 東ローマのユスティニアヌスくらいまでですか? それとももっと後ですか?
112 :
世界@名無史さん :03/03/19 20:18
いまグラディエータ−って映画みてるんだけど、これって歴史的にどうなんですか? 凄い格好いいんですが
113 :
世界@名無史さん :03/03/19 20:37
塩婆の「ローマ人の物語]T」を読めば、史実と映画の違いが説明してあるぞ。 漏れも映画を見て思ったが、森林の切れ目みたいなチマチマした見通しの悪い 戦場でゲルマン人と闘っていたが、ありゃローマ軍にとっては不利な地形だな。
114 :
世界@名無史さん :03/03/19 21:06
自分もあんまり格好よすぎて、本当かな思いながら、いまビデオみてます。 ローマ軍て平原決戦専門なのでしょうか? あとすいません。不勉強でわからないのですが。 塩婆って何ですか?
115 :
世界@名無史さん :03/03/19 21:06
>>111 ローマの甲冑には、大きく分けてロリカ(鎧と言う意味であるが、革を使った浮き彫 りの有る、《筋肉や神々等を彫った物》豪華なもの、ロリカ・ハーマータ《鎖を編ん だ物)、ロリカ・スクゥワマータ(鱗状や小判状の小型鉄板を繋ぎ合わせた物)《ナ ウシカのクシャナが着ていたような物》、ロリカ・セグメンタータ(板状の金属板を 繋ぎ合わせた物)の種類があります。 貴方のイメージしている鎧は、どのような形 式ですか。 パレード用の甲冑には、中世でもロリカを模した物が遣われていた事が当時の絵に残 っています。
116 :
世界@名無史さん :03/03/19 21:11
>>78 それはピルムに代わって装備されるようになったピラの事じゃないのか?
スキピオの時代から、ローマ歩兵のメインウェポンはグラディウスだぞ?
投槍が重いピルム2本に代わって、軽いピラ4本の装備に代わったのは確かに事実だが…。
それと、亀甲隊形は防御を固める為の隊形なのだから、攻撃できないのも当然な訳だが…。
つーかローマの戦術は山岳や森林といった錯雑地形での戦闘を想定して 発展したものだからそれほど不利ではないし平原専用だったわけでもない
118 :
世界@名無史さん :03/03/19 21:26
>>114 塩野七生という女性作家が、ローマ史を全15巻の予定で年に1巻づつ書い
ている。最近、とみにふけてきたので、塩野の婆さん、塩婆ということ。
ローマ軍というのは、高度に訓練され、組織的な行動がとれるところに強み
があるので、見通しのきかない狭い戦場での混戦というのは本来の戦術面で
のメリットを発揮できないとういことで、不利だと考えられるな。
グラディエーターのストーリーが史実かといえば、それはかなり違うが、映
画に出てくるローマ軍の強さとか格好の良さということなら、史実はもっと
劇的だったと言っても間違いじゃない。
むしろ、マルスク・アウレリウスが指揮した戦いはあまりぱっとしない混戦
が多かったとも言われているくらいだから、当時のローマ軍の強さは圧倒的
だったと言えるだろう。
現代のアメリカ軍の強さと、第二次大戦時のドイツ軍のファッションを合わ
せたような軍隊と考えればいい。
というか、ナチ・ドイツの敬礼や軍旗はローマ軍のものを模しているんだな。
119 :
世界@名無史さん :03/03/19 21:37
ローマ軍は残忍さにおいて、13世紀のモンゴル軍や15世紀のチムール軍に匹敵しました。 包囲した都市に対しては、その抵抗を口実にして敗者の徹底的な虐殺を正当化しました。 翻って、現代。すでに抵抗する力の無かった日本に原爆を落としました。 硫黄島で、沖縄で徹底的に殺りくしました。 火炎放射器で、丸焼きにしているのです。 いつぞやの戦争映画で防空壕の中に手榴弾を投げ入れ、中で炸裂すると 同時に断末魔が聞こえると、口笛を吹いていました。 まさしく現代のローマ帝国とはアメリカのことでしょう。 特攻隊員の遺体をバラバラにして放置するだけでは物足らず、 隊員の首まで切り刻んで戦艦に船首に晒しました。 戦後、日本に乗り込んで、各地で婦女に狼藉を働き、あるいはかど交わして 後日、山中で白骨遺体として発見される事も珍しくありませんでした。 このような野蛮な行為は、抵抗せずに降伏した婦女子に対してもしばしば繰り返されたのです。 戦場で倒れた兵士を埋葬するのは義務であると考えていたギリシャ人には到底許せない行為でした。 写
120 :
世界@名無史さん :03/03/19 21:50
まあローマ軍は確かに残忍だったね。だからどうしたって感じだがな。 しかし某ゲームのおかげかローマ軍に興味持つ人が増えたね。 一昔前ならなんじゃそら扱いだったのだが。 はっ・・むしろ塩婆のおかげか?
>118 ありがとうございます。明日、本屋さんでさがしてみます。 ローマ軍って凄いんですね 無知なんでこれしかレス返せないのが悲しいです(w
>>119 あのな、ローマ軍の全盛期がいったい、いつのことだと思ってるんだね。
日本で言えば、卑弥呼の時代なんだよ。
敗者は皆殺しか奴隷にするってのが標準だった時代の話を現代に持ち込んで
どーするんだね。ローマ軍も負れば捕虜は皆殺しにあったりしている。
むしろ、敗者を属州として帝国に組み込み、市民権を与えていったローマの
寛容さが同時代の中では目立つくらいなんだがね。
属州民全員が市民権を与えられていたならともかく、被占領民の一部にしか 付与されなかった市民権は単なる占領政策の一環でローマの寛容さ故ではなかったんだが 確かに攻略した都市の住民に残虐行為を働いたのはローマだけではなかったが、 ほとんどが宗教的、政治的、軍事的な理由からで、無意味に虐殺したのは ローマの他にほとんど類を見ない 犬や家畜まで殺しているしな・・・・
124 :
世界@名無史さん :03/03/20 00:10
古代に戦闘捕虜の殺害権はともかく非戦闘員の殺害権が兵士各個の当然の権利として 認められていた軍隊がローマのほかにあるのなら是非とも教えて貰いたい
126 :
世界@名無史さん :03/03/20 01:00
127 :
世界@名無史さん :03/03/20 01:56
殺し合いを大衆娯楽にしてたような国が寛容だったって言われてもねえ。 同化政策と並行して弾圧とかもビシビシやってるし。 塩野さんの影響かな?
白人コンプレックスの有る人間はローマのこうした残虐行為や 白人の奴隷制・植民地支配に関しては余り語る事も無いのだろうか
白人コンプレックスの有る人間の良くやる 白人の一番良い部分と日本人の一番悪い部分を比較する行為は これは不公平であろうし 矢張り白人・日本人の一番良い部分と一番悪い部分同士を 比較せねば不公平ではないのか(苦笑
矢張り白人コンプレックスの有る人間の視野は果たして正常かと言う事も有る訳だろうし 戦争に負けたから白人を崇めているのでは単に力に屈しただけの人間だろうし これが果たして正義・正論等と言えるのだろうか
矢張り日本人より脳細胞の少ない白人等を 少なく共永久に崇め続ける事等が 進化論的に正常な状態と言えるのかと言う事だろうが(苦笑
>矢張り日本人より脳細胞の少ない白人等を 人種差別反対も結構だが自然=進化が白人の地球圏最終支配を 望んでいないとすれば結果はどう言う物に成るだろうか
133 :
世界@名無史さん :03/03/20 04:06
キティなガイだな
135 :
世界@名無史さん :03/03/25 06:30
>>125 つ〜か、古代においてそんなもの制度化されている軍のほうがごく一部だと思うが?
敗者への略奪・殺戮は洋の東西を問わず日常茶飯事でしたが何か?
単にローマ人が法律マニアだから、わざわざ制度になってたってだけのことだ、 と思うんだが、どないだしょ。 残虐さでいうと、アッシリアの他にはモンゴルかなー。 中国でも屠城なんてよくあることだったと思う。
ローマが寛容だったと主張してる香具師はどこ行ったんだ?
>137 言われてみれば、きちんと決まり事がないと 分捕り品の分配でもめますわなあ。 戦争をやるくらい発達したところであれば、 そういう決まり事があってむしろ当然か。 (分捕り品ってのは非戦闘員の捕虜を妻妾にしたり (なぐさみに殺したり奴隷にしたりってのも含むってことで4649
(^^)
∧_∧ ( ^^ )< ぬるぽ(^^)
142 :
第20軍団兵 :03/04/21 20:28
ギリシア=ローマ世界では、都市国家(ポリス)あっての市民権っていう考え方があったので"都市が滅びるとき個人も市民ではなくなる"という意識を常識として持っていた。 だからこそ、小スキピオはカルタゴの最後に感動するわけで、彼があそこで言いたかったのは「ポリスとの一体感が強いローマ市民なら、カルタゴ市民と同じように最後の1人まで戦うだろう」 と、彼らの気持ちを慮って感動しているわけです。 逆に、ポリスが滅んでも、のうのうとしているギリシア人に違和感を感じていたからこそローマ人は"ギリシア人嫌い"なわけで。 現代人の感覚で古代人を評すると、変な自己満足で終わってしまうと思うんですけど。
>>123 ローマだって無意味に虐殺したわけではないでしょう。
見せしめという政治的な意図があったのでは?
まあ、ローマが特別寛容だったとも思わないけど、
ローマだけが突出して残忍だったって訳でもないと思う。
ローマの場合寛容とか残虐とかではなく、
単に占領政策が巧みだったということだと思うが。
で、その巧みな占領政策を、ローマに対して好意的な目で見ると、
「寛容」なようにも見えると。
144 :
世界@名無史さん :03/04/22 00:36
>>142 カルタゴが最後まで戦ったのは、降伏しても皆殺しにされると確信していたからでは?
ポリスとの一体感とかはあまり関係ないと思うが。
>>143 あのカミルルスでさえ、あのスキピオでさえ反乱を恐れて
兵士の虐殺と略奪を制止できなかったのだがそのどこに政治的な意図が?
政治的な意図以前に無差別な虐殺と略奪はローマ軍の慣習だったんだが
まあ暴行され奴隷にされて生き地獄に落とされるより殺されたほうが
寛容だと感じることもあるかもしれないが
146 :
世界@名無史さん :03/04/22 01:13
>>145 歯向かった相手は徹底的に破壊して、
歯向かわなかった相手にはそうはしなかったってことでしょ?
立派に政治的だと思うが。
それともローマ軍は抵抗しない相手も見境無く襲いかかったとでも?
147 :
第20軍団兵 :03/04/22 01:20
>144 慮ってという書き方が悪かったですね。あくまで、"小スキピオがカルタゴ人の心理を想像して"って事で。 カルタゴ人にとって、奴隷になるという事がどのような意味を持つのかは分かりませんが。 ただ、第3次ポエニ戦争開始前にカルタゴ人が都市の移転に強硬に反対したのには、何らかの意味があったとは思いますが。 (賠償金や武器の引渡しは問題がないが、土地を手放すのには神々の怒りを買う等)
>>146 >それともローマ軍は抵抗しない相手も見境無く襲いかかったとでも?
抵抗しない相手も見境無く襲いかかってますが何か?
エルサレムでローマ兵がユダヤ市民に行った蛮行は政治的な理由からではない
戦闘員の殺害権のみならず非戦闘員の殺害権が慣習として存在している点で
ローマ軍の殺戮癖は農耕民族の中でも群を抜いている
149 :
世界@名無史さん :03/04/22 01:28
>>148 それってユダヤが反乱起こした後の話でしょ。
だから、歯向かった相手ってことになると思うが?
無抵抗という言い方が悪かったか。
要するにローマに対して従順な国家や都市を見境無く
襲ったりはしていないでしょ?
という意味です。
>>149 要するにローマに対して従順な国家や都市を見境無く
襲ったりはしていないから残虐ではないと?
いくらローマ軍でも狂人の群れではないのだが
非戦闘員への慣習的殺害権は政治的な理由とは関係ない
それに、捕虜として収容されていた市民に兵士が司令官の指示もなく
自発的に襲いかかったことのどこに政治的な意図が?
151 :
第20軍団兵 :03/04/22 01:55
>149 当然属州の事をいっているのでしょうが、属州統治の最終責任者が総督とされていて、不正があった場合告発でき、しかもその告発を利用して名を挙げようとしたり、総督の失脚を狙ったりする人間がローマ側にも沢山いるという事がうまく作用したのでしょうね。 古代にも戦争と交渉のルールはあったようですが「羊の頭が城壁をたたくまで」とか都市を攻略した後はその都市が神々の加護を失った事を示すために神域を破壊するとか... >148 戦闘員とか、非戦闘員とかの発明は最近の発明だし、氏族中心で個人の人格さえあまり意識されない時代にそんな非難は的外れでは?
152 :
世界@名無史さん :03/04/22 01:56
>>150 だから、
歯向かった相手は徹底的に破壊して、
歯向かわなかった相手にはそうはしなかったんでしょ?
充分政治的効果があると思うが
それに常に兵士は指揮官に従わずに略奪に走ったの?
なにやら極端な例ばかりのような気がするが。
153 :
世界@名無史さん :03/04/22 02:00
>>148 で、非戦闘員の殺害権が存在していなかった他民族は非戦闘員を殺害しなかったの?
>>151 例えばガリアの諸部族には戦闘員と非戦闘員の明確な区分があったが何か?
時代は若干下るがローマ法でも戦闘員と非戦闘員の区別がなされていたが何か?
まあ戦闘員、非戦闘員という言い方はしていなかったがな
>>152-153 非戦闘員の殺害権の有無ではなく慣習として確立していたか否かなのだがなにやら極端だな
非ローマ民族で非戦闘員の捕虜の殺害権が無条件に認められていなかったとは一言も言ってないぞ
非戦闘員の殺害権が慣習として存在していたという点でローマは残虐だったと言ってるだけなのだから、
自分を論破したければ非ローマ民族において非戦闘員の殺害権が慣習となっている実例を挙げるか、
ローマ軍において非戦闘員の殺害権が慣習として存在していなかったかを立証すべきだ
おっと名前が消えていた 154は自分だ
まあローマは占領政策自体も相当に苛烈だったがな 廃墟となった都市、消滅した言語、弾圧された社会階層等々 その発想は農耕民よりもむしろ遊牧民に近い部分も多い
157 :
世界@名無史さん :03/04/22 07:39
>>154 そもそも、
非戦闘員の殺害権が存在していた=他に比べて突出して残虐
とはならないでしょ?
他の民族だってやるときゃあやってるんだから。
158 :
世界@名無史さん :03/04/22 07:54
ところで、ローマにおいて非戦闘員の殺害権が慣習として存在していたってのの ソースは何なの。
159 :
世界@名無史さん :03/04/22 10:47
殺戮癖で群を抜いてて、遊牧民的なのにどうしてあんな長く続いたんでしょうね 実に不思議だ 見境無く殺戮しまくってたり遊牧民的だったら統治は長く続かないはずなんだけどね
あのカミルルスでさえウエイイが廃墟になるのを制止できなかった 古代ローマでは法の保護を受けない敵の生命財産を先占によって取得することは 指揮官の禁止命令や引渡命令によって排除されない
161 :
世界@名無史さん :03/04/22 20:47
162 :
世界@名無史さん :03/04/22 20:58
>>154 だからアッシリア。
当時の文書に「都市の住民達の生皮で城壁は赤く塗りつくされた」とか、「富を略奪し、住民を皆殺しにするのは勇敢なる兵士の受けるべき栄誉」てな記述も多々見られるがな。
大体、殺害権も何も指揮官による制止が無ければ、陥落した都市で略奪・殺戮が起きるってのは古代の戦争の常識だ。
殊更にローマの残虐性を強調するのもどうかとは思うが?
>>162 虐殺略奪を恐怖戦略の一環として行っていたアッシリアと
兵士への報酬として黙認していたローマとは事情が異なる
指揮官の制止も何もローマ軍では反乱を恐れて制止するような真似は
難しかった
同様に都市を住民ごと磨り潰すことを常としていた軍隊として
マケドニアの東征軍がいるが、こちらのほうが反論の事例としては
適切だと思うが?
164 :
世界@名無史さん :03/04/22 21:47
>>163 それは単なる詭弁。
ローマの敵対者に対する虐殺殺戮も、恐怖戦略としての意味はあった。
アッシリアのそれと何ら変わる所はないよ。
アッシリアの攻撃で事実上壊滅を免れたのはバビロンだけだと言っても過言ではない。
徹底的な殺戮と略奪が兵士の権利として認められていた以上、
>>154 の条件は満たしていると考えるがね?
指揮官の命令で行うのと命令の如何によらず当たり前に行うことのどこが同じなのか?
166 :
世界@名無史さん :03/04/22 22:12
>>165 シリア諸都市攻略の時には、指揮官の下命の前に略奪や殺戮が起こっている。
また、
>>162 で挙げているように、「富を略奪し、住民を皆殺しにする」のは「兵士の受けるべき栄誉」と認められていた訳だが?
これは、君の言う所の「非戦闘員の殺害権が慣習として存在していた」には含まれない訳かな?
アッシリアの兵士がネブカドネザル2世の意向に反して虐殺略奪に走っていた訳ではない それはアッシリアの敵を恐怖させる戦略的な姿勢の体現に過ぎない 指揮官の意向にかかわらず略奪行為を働くことが当たり前のローマ軍とは事情は違う かなり前にも書いたが、政治的軍事的宗教的その他の理由で虐殺や略奪を働く軍隊は アッシリア以外にも珍しくない
まあ残虐か否かという個人的主観を主張した自分にも問題はある罠 こう修正しよう 古代においてローマ軍は兵士個人レベルで残虐行為に走る傾向や それを許容する習慣があり、ローマ軍の軍事行動における特徴の一つでもあった
169 :
世界@名無史さん :03/04/22 22:51
>>168 そうゆう傾向は古代ではローマに限らないと思うけど。
で、あなたも言っているようにローマも他の民族も虐殺や略奪を行いる訳だけれど、
他の民族のそれは政治的軍事的宗教的その他の理由があったが、
ローマのそれは無意味なものだったとあなたが思う理由が知りたい。
170 :
世界@名無史さん :03/04/22 22:57
>>167 戦略的効果を狙って残虐行為をしたアッシリアと、
兵士の凶暴性の任せるままに無計画に残虐行為をしたローマで、
後者の方が圧倒的に長く安定して繁栄したというのもおかしな話だと思うが、
この辺はどう解釈しておられるのですか?
なんだか、ローマ軍は占領した都市を常に皆殺しにしていたかのような 印象を受ける文章だけど、ローマが占領都市で行った最も一般的な行為は 捕虜にした市民を奴隷として売り飛ばすという当時としてはありふれた行為だったと思うが?
172 :
世界@名無史さん :03/04/22 23:04
>>168 了解、それならまだ納得できる。
後、細かい話で申し訳無いが、
>>167 の>ネブカドネザル2世 は新バビロニアの王だな。
重箱突付いてスマソ。
>>169 イタリアやギリシアでローマ軍が行った残虐行為には兵士レベルでの暴力衝動によるものと見られる
事例が少なくない
特にマリウスの兵制改革以前においては無主物先占は兵役に就く際の大きな動機となっていた
>>170 軍隊の残虐行為と国家の安定や繁栄に強い因果関係が認められないだけだろ?
むしろおかしいと信じる理由をこっちが聞きたいぐらいだ
お行儀のいい軍隊を持つ国は長く安定して繁栄するとでも?
>>172 >>ネブカドネザル2世 は新バビロニアの王だな。
そうだった、すまん間違えた
>>173 いや、残虐行為の有無ではなくて、
戦略として行ったアッシリアよりも、
何も考えずに行ったはずのローマの方が安定したってのはどうよ?
ってことなんだけど。
アッシリアの戦略として残虐行為を行う作戦は失敗したってことか?
>>175 ローマ軍の残虐行為とローマの国家としての安定には
強い因果があるとは思えない
アッシリア軍の恐怖戦略が周辺国の恨みを買いまくって
アッシリア滅亡の原因となったという説もあるが、
自分には説得力は感じられない
まあアッシリアの徹底的な滅亡っぷりの遠因には
なったと思うが
177 :
世界@名無史さん :03/04/22 23:45
>>173 兵役に就く際の大きな動機になっていたなら、無意味なものじゃないですよね。
そういや、
>>163 でも兵士への報酬にしていたと言っていおられますな。
>>123 での「無意味に虐殺した」というのは、
言い間違いというか言葉のあやみたいなもんってことですか?
ところで、略奪はともかく虐殺が兵士への報酬とはずいぶん恐ろしい軍隊ですね。
アッシリアは残虐行為、恐怖政治をやりすぎたために、恐怖心と復讐心 にかられた周辺諸国の大同盟に滅ぼされてしまった。 翻ってローマを見ると、アッシリアほどに残虐な行為はしていなかったと思うし、 魅力的な文化もあったからね。
アッシリアの滅亡の原因はスキタイ騎兵なんだが 恨みを買おうが恐れられようが軍事的に優勢ならば 滅亡することはなかっただろう
>>179 その点については、当時のローマ軍と周辺勢力の軍事力、
アッシリア軍と周辺勢力の軍事力の比較をすればおのずと答えは出るんじゃないの?
手元に資料がないんで、俺ははっきりしたことは言えないんだが。
181 :
世界@名無史さん :03/04/23 00:26
>154 「ガリア戦記」でガリア諸部族の女、子供、老人、祭司について記述されているのは A:2巻13、B:2巻16、28、C:6巻14、15,18、19、D:7巻14、E:7巻26F:7巻47、48G:7巻78 ガリア諸部族で戦闘員と非戦闘員の明確な区別があったというのは6巻14の部分で「ドゥルイデスは一般に戦争とは縁の無い生活を送ることになっている」 と記述されている部分のみで、Aは開戦前の話、Cはガリア社会について、B&D&Gは戦闘前に非戦闘員を切り離した話、E&Fは戦闘中のエピソード 以上の分類で注目すべきはCとB&D&Gで、ガリア人たちは戦士とそれ以外の足手まといとしか分類していないのではないですか? また、足手まといとして処分してよいとの感覚が生まれる根拠としてCのガリア人の慣習を挙げています。 それをここで議論されているような現代的な感覚の"保護されるべき非戦闘員"と解釈するのは間違いだと思うのですけど。
古代に非戦闘員が「保護されるべき」存在だったとは一言も言ってないが?
議論されていたのは、非戦闘員の捕虜の殺害権が戦闘員の捕虜の殺害権と同じく 兵士個人に先天的に認められていた権利であったか否かだ
前もそうだったけどバルタソの話の持っていき方って行く先が 見えないよなぁ
185 :
第20軍団兵 :03/04/23 00:59
ローマ法については共和制時代、ポリュビオスの頃から正しい戦争/不正な戦争 との分類が始まり、キケロが(ちょうど「ガリア戦記」の頃)正しい戦争のルールを提唱していますね。 ただし、それは開戦に到るまでのルールで、いったん開戦されたら「武器の前で法は沈黙する」としてインペリウムを持った司令官の権限に属する事となったようですね。 カエサルは最終的に各部族から人質を取り忠誠を誓わせることで解決しています。 奴隷となるのは捕虜となった人間のみのようですね。 ただし、この処理を「カエサルの寛容」と取るべきで、まったく一般化できないものなのかどうかはもっと調べてみないとわかりません。 *181も私です
アッシリアとローマの軍隊のやってたことは、本質的に同じで、 記録の残り方が違うだけでは無いでしょうか。(ただの推測) アッシリア人は、残虐性が政策として役に立つ時しか記録に残していなくて、 ローマ人のは、残虐性が政策として問題がある時にも記録が残っている。 だから、ローマ兵の方が自分の欲求で殺害や略奪をしたように見える、とか。
187 :
第20軍団兵 :03/04/23 02:30
>182 "非戦闘員"って言ったらそう言う意味になると思うんですけど... ま、それは解釈の行き違いってことで... 当時のガリア人にとって(特に戦時に)戦争に役に立たないものは財産と同レベルで扱われるって事を言いたかった訳です。 >183 捕虜の殺害権なんて人間にはありません。明確な神託が神々から下された場合は例外ですが(それは神々が報酬の先渡しを要求したと言う事ですね) インペリウム(軍事指揮権)を持った司令官でさえ、捕虜を含む戦利品を管理する事ができただけです。 神々に感謝を捧げ(たとえば凱旋式)軍団を解散するまでは、神々、都市ローマ、兵士の取り分は確定していないのです。 だから捕虜を勝手に殺すのは泥棒と同じ行為で、特に神々の怒りを買う恐れがあります。 さて、問題はインペリウムを持つのが皇帝1人になり、軍団の解散も無くなった帝政期、ブリタニア&ゲルマニア(恒常的)、ユダヤ反乱&ダキア遠征(突発)での戦利品の処分がどうであったかなんだけれども...
それではピュロスは何故「どのような法も捕虜の生命を惜しまず刑罰を科すことを止めない」 と言ったのか? ヴェルギリウスがその著作の中で登場人物に「貴方がその女捕虜を殺したのは戦争の法に かなっている」と言わせているのは? スキピオがカエサレアの捕虜を助命した際に「戦争の法に基づいて捕らえられた私の 生命財産を保障」したことを感謝されたのは何故か? 大カトーがコンスル任期中にヒスパニアを略奪してまわって得た戦利品の一部を その場で兵士たちに分け与えたことで賞賛されたのは? しかも兵士たちは既に自分たちの戦利品を抱えていたというのに 実際には全ての戦利品が集められた訳ではなく、 全ての捕虜がその生命を神の許しが出るまで保障されていた訳ではない 凱旋式を飾るに相応しいと判断された戦利品と捕虜を除けば ローマ人はあまり神に気を使っていなかったようだが? むしろローマの法の庇護の外にいる人間の生命財産に対する ローマの扱いは極めて軽い まあこれはローマに限ったことではないが
189 :
世界@名無史さん :03/04/23 07:56
>>188 なんの反証にもなっていないように思うが?
結局、ローマ以外も残虐行為をしているし、
非戦闘員を保護したりはしていないんだから、
対した違いはないでしょう。
ローマのそれが目立つのは単純に当時ローマが軍事的に最も優勢で、
勝ち続けたからだと思う。
最初から、
ローマは他と同様に現代人から見れば残忍で寛容とは言えない、と言っていればよかったのに、
無理にローマだけを特別なものにしようとするからおかしな理論になってしまうのでは?
>>189 _, ._
( ゚ Д゚) …?
>>188 はローマ軍で捕虜の殺害権の有無について言及してるだけだが?
何言ってるんだ?
ずーっとテーマになってる、ローマ軍の残虐性の事だと思うけど?
192 :
第20軍団兵 :03/04/23 19:24
>188 軍団の解散までは"管理権"(そのまま訳すとインペリウム=支配だけれども)を司令官が持っています。だからこそ従軍商人に捕虜を売って現金化したり(現金化しておいた場合、現金を奉献することになる)、 司令官=都市ローマの取り分を減らす形で捕虜の解放を行うことができると解すべきだと思います。 よって、捕虜を殺害する事は後に軍団解散後に分配するモノがなくなるという点で問題なのです。 復讐を望むあまり司令官に対して戦役後に分配される戦利品はいらないからという条件で殺害を認めさせたという例が帝政期、ゲルマニアにおいてあったようですが。当然ながらこれは例外に属することですね。 もう一つの反証として帝政期にゲルマニア人がローマ人を柔弱とした根拠に兵士が「殺戮や略奪ではなく金(=給与)のために戦う」とした点があるでしょう。遠征等で兵士にボーナスが出る場合でもそれは通貨の形で渡されたということですね。 この場合、捕虜の形で報酬を受け取っていない以上殺せませんよね。 よって、>183のように兵士に生得的に虐殺権があるという事実は認められません。 >188の各事例については改めて回答します。
つ〜か、前から気になってたんだが、バルタンはローマが嫌いなのか? ローマ絡みの発言が妙に辛口のような気がするが…。
古代ローマを愛して止まぬこと人後に落ちぬつもりでいるが何か?
>>190 捕虜を助けたら感謝されたとか、
戦利品を分けたら兵士が賞賛したとか、
殺害権とやらと関係ないじゃん。
非戦闘員に対する殺害権というものを強調しているが、 バルタン氏自身も言っているように古代では非戦闘員は必ずしも保護の対象ではなかった。 当然ローマ以外も非戦闘員を殺している。 ローマだけが突出して残忍だったとは言えない。 ローマ兵は指揮官の命令に従わず虐殺をして、 ローマ以外は命令によって虐殺をしたと言うが常にそうだったとは思えない。 ローマに占領されても皆殺しにならなかった都市はあるし、 捕虜は奴隷として売られる方が一般的だった。
197 :
世界@名無史さん :03/04/23 22:21
古代では虐殺も略奪も一般的だったのに なぜローマのそれだけを特別なものにしたいのか理解に苦しむ。 ローマの残虐行為が目立つのは、 単純にローマが勝者である場合が多かったからだと思うが? あと、敵対者や反抗するものが徹底的に破壊されれば、 他の敵対者や非征服民に対して当然大きな影響を与えるはずだが、 そのことの政治的意味を頑なに否定する理由も分からない。
>>196 ローマ軍が捕虜の奴隷化を虐殺より優先するのは紀元前1世紀頃以降
捕虜の奴隷化について明文化されるようになるのは1世紀頃以降
それ以前のローマ軍は奴隷化よりも虐殺が一般的でしたが何か?
それと残虐という表現は修正してるんだが何か問題でも?
>>197 ローマ軍の残虐行為だけを特別視しているのではなく、
残虐行為におけるローマ軍の特徴を述べているだけだが何か?
>当然大きな影響を与えるはずだが、
結果的にそうであればその過程や動機は問わないのか?
ウエイイを廃墟にすることはローマの戦争計画には
含まれていなかった筈だが?
199 :
第20軍団兵 :03/04/24 18:20
>188について改めて回答 ピュロス-->スミマセンどのピュロスかを教えてください。 ヴェルギリウス-->これも出典と引用個所をお願いします。 共和政後期のローマ戦闘後にどのような関係をとるかは 1.戦闘相手はバルバロイか否か? 2.どのような形で開戦されたか? 3.ローマは戦後敵側とどのような関係を結ぶ事を狙っていたか? で変わります。
200 :
第20軍団兵 :03/04/24 18:27
>199つづき 問題になっているのはカエサリアじゃなくて、 カルタゴノヴァをスキピオ・アフリカヌスが攻略した時の事ですよね。 当時のカルタゴノヴァはカルタゴの植民市で、この都市が戦争の引き金を直接引いた訳ではなく、当然バルバロイではない。 しかもここでスキピオ・アフリカヌスの目的はスペインの諸都市を懐柔する事にある訳で、 「驚くほど温情あふれる処置」になったと。 しかし指導層はローマに送られているし、男たちの中にはガレー船漕ぎをすることになった人間もいるから、味方から非難が出るほど常識はずれな処置でも無いようですね。 同時期、ハンニバルも同盟市の捕虜の解放を行っているから、ヘレニズム世界では無償で捕虜を解放するというのは大きな外交カードとして一般的に認められていたのでは?
201 :
第20軍団兵 :03/04/24 18:29
>199からまだつづく 大カトーの処置については開戦した時から反乱鎮圧ということになっていましたよね。犯罪者の資産は没収というのが一般的なので、その場で分配を決めたのでは? 大カトーも対外戦争ではないからこの戦役で凱旋式を行う権利が生まれないので、あえて虐殺を行って凱旋資格を得て、後で非難されていますね。
202 :
第20軍団兵 :03/04/24 18:49
>188の回答続く。 凱旋式まで残っている捕虜は、特に反乱鎮圧の場合は反乱の引き金を引いた人物の場合が多いわけで、ここまで残っていると処刑される可能性が高いのでは? ユピテル神殿で斬首ってのは犯罪者の場合とは殺される場所が違うので生贄の意味合いの方が強いですね。 神々に気を使わなかったというのはおかしいと思います。 タキトゥスの断片に -ティトスは会議に諮って、あのような絶大な神殿を破壊して良いものかどうかを、あらかじめ討議したと言われている。(中略)「もし温存されるとローマ人の謙虚の証拠となり、倒されるとローマ人の残忍性の永久の象徴となるだろう」 (中略)ユダヤ人とキリスト信者の宗教をより徹底的に根絶やしにするためには、真っ先にこの神殿を取り壊すべきだと考えていた- つまり、他の民族の神殿を破壊したり汚したりする行為が自分たちの評判を落とす事になるという事。 あと、神殿を壊すことが残虐だという感覚に注目ですね。
>>198 古代ローマには「非戦闘員に対する殺害権」なる概念があったが、
だからと言って他民族よりも突出して残虐だった訳ではないって意味ですか?
それなら確かにつっかかる理由もなくなるが。
204 :
世界@名無史さん :03/04/26 00:12
>>198 ローマの残虐行為に結果的に政治的効果があったのは間違いない訳ですよね。
それなのに、ローマの指導者はその効果を意図的に利用することは全く無かったという事ですか?
他の民族はみな意図的に使っていたというのに?
にわかには信じられないんですが。
一部司令官の意図に反して兵士が暴走する例もあった、と解釈した方が自然なのでは?
それに、あらゆる場合においてローマの司令官は破壊を止めようとした訳ではないですよね。
司令官の命令によって都市を破壊した例も当然ある訳で、
そのような場合には、司令官は虐殺による他への威圧や、
略奪による兵士へのボーナスといった政治的意図を持っていたと思うんですが。
如何でしょう?
205 :
第20軍団兵 :03/04/26 00:20
196 シチリアの反乱とグラックス兄弟の改革の背景にラティフンディアの広がりがある以上、 自分たちがイメージするような奴隷の一般化はハンニバル戦争以後から本格化したと考えた方が良いと思うのですが。 ポエニ戦争以前はローマの方がバルバロイだった訳で、外国から奴隷を買うような力は無い。 よって当時の奴隷の供給元は拾った子供、あるいは戦争捕虜が一般的で、 だからこそ奴隷を開放して家を継がせるような事が認められていたのだと思います。
206 :
第20軍団兵 :03/04/26 00:50
>>204 パターンがあると思いますよ。
これまでA:ウエイィの破壊(共和制極初期)B:カルタゴノヴァの攻略(第2次ポエニ戦争)C:スペイン諸都市の反乱(内乱の1世紀直前)D:がリア戦記(内乱の1世紀)E:ユダヤの反乱(元首制)が例として挙げられましたが。
破壊or略奪の場合=A,C,E
忠誠and人質=B,D
反乱等,ローマとの間に何らかの違反行為があった場合-->破壊or略奪
責任は無いが成り行きで戦争することになった場合-->忠誠and人質
具体例について後で解説します。
>>205 我ながら説明不足で訳判らん。もちょっと判るように書かんとNGですね。
>>206 でも、第3次ポエニ戦争の場合は「責任は無いが成り行きで戦争することに
なった場合」で「破壊or略奪」じゃないの?
まあ、ローマ的には「ローマとの間に何らかの違反行為があった」と思いたい
のかもしれないけど。
>>207 第3次ポエニ戦争の原因はカルタゴの講和条約違反ではなかった?
209 :
世界@名無史さん :03/04/30 03:22
最初の某研は偽者っぽかったけど本物降臨してたみたいだね。
ウンコ喰いたいって言ってる香具師本気か? 興味本位に言ってるようだが、アレは本当に精神のネジが2、3本dでる香具師じゃないと無理。 まず、口に入れた時の臭いで吐く。臭いに耐えてもあの味、食感に耐えられず吐く。 食った後、2,3日は臭い取れないぞ 食事なんか出来やしない
ローマ軍の強さの秘密はやっぱり卓越した戦術 真ん中を堅固な重装歩兵で支えて左右を身軽の騎兵で回り込んで 包囲殲滅する ローマ人はその戦術をハンニバルから受け継ぎスキピオ=アフリカヌスが完成させた
ガリア戦記マンセー
グズ男といわれたファビウス=マクシムス萌え
215 :
世界@名無史さん :03/04/30 20:34
>>207-208 第2次ポエニ戦争後10年たつと、意外にも早くカルタゴは国力を回復し、賠償金を一括で払いたいと申し出たうえに、和平条約に基づいてイタリアへの輸出を大幅に増やしていた。
その底力をおそれたローマは、ヌミディアと組んで次々とカルタゴの領地を奪い取り、無理な要求をのませた。
そしてついにはカルタゴの武器をすべて提出させた後、住民に海岸線から18キロ以上遠くへ立ち退くよう求めた。
これに対してカルタゴ住民は激しく抵抗を見せた。
ローマはこのカルタゴの抵抗を条約違反として出兵し、4年間の攻囲の末カルタゴは陥落、徹底的な破壊と殺戮を受ける事になる。
カルタゴの側に明白な責任は無く、復興の早さがローマの恐れを買った事と東方政策の硬化が第3次ポエニ戦争の原因だったと言える。
条約違反はローマが自らの正当性を示すために仕掛けられた謀略によるものでしか無いだろう。
>>215 なるほど、
そういうことであるなら、徹底的に破壊された理由は簡単ですな。
要するに最初から徹底的に破壊する為に戦争を仕掛けたって訳だ。
立ち退けば良かったんじゃない? ローマとオスティアは18kmどころじゃ無いでしょ?
>>217 それが最後の要求とは限らない、
結局滅びるまで追い詰められるのがせきのやま。
まあ、ハンニバルが負けた時点でカルタゴの運命はほぼ決まっていたんですよ。
カルタゴに対するローマの過敏な反応は底力を恐れたというより、
ハンニバルによる衝撃が大きすぎたからであると思う。
>>218 カルタゴに対する過敏な反応は同時期にギリシアの諸都市が
執拗にローマに反旗を翻したりシリアと手を結んだりしたオリエントの
身の程知らずな態度に対するストレスが原因と思う
カルタゴはとばっちりを受けた
ハンニバルの衝撃はすさまじいと思うがローマにとっては
軍隊が鍛えられた点でプラス
220 :
世界@名無史さん :03/05/01 07:48
>>217 ローマ人とカルタゴ人(フェニキア人)の海対する思いは違うと思います。
海洋民族であるカルタゴが18kmも内陸に追いやられることは。
また、祖先の墓があったとかいう話もあります。
>軍隊が鍛えられた点でプラス 釣り?
バルタンのその場しのぎの反論にニヤニヤしてたんだが、彼もう来ないのかな?
必死だな、粘着。
224 :
世界@名無史さん :03/05/02 00:47
戦争がないとき兵隊は何をやっていたのですか?
225 :
世界@名無史さん :03/05/02 02:02
229 :
世界@名無史さん :03/05/03 00:29
マリウス以前は軍役は義務だったので、徴兵されたとき以外は 普通の市民生活を送ってたっぽい。 帝政期に入ってからは、広大な版図を保全するために 抑止力として前線に兵士を置いとく必要があった。 だからたとえ戦争がなくても訓練やら見張りやらで いろいろ忙しかったのでは。そういやローマ街道はほとんど 軍団兵が敷設したんだっけ。 ま、現代の軍隊だって年がら年中戦争してるわけじゃないもんね。
辺境防衛、哨戒、輸送などの護衛、土木工事 帝政期はこんなとこか。
ローマ軍の特徴は、平時の厳しい訓練にあったのですから、 まず、訓練を挙げるべきでしょうね。
232 :
第20軍団兵 :03/05/03 01:39
鉱山労働 *元首制期
233 :
第20軍団兵 :03/05/03 01:43
>>232 かなり特殊な場合ですが...
その軍団司令官その功績で凱旋式を挙げ、さらにその後運河掘りをやったそうです。
ローマの帝政期の中ごろから平和時にも軍隊は多大な影響力を持ち始めたみたいだ おかげで皇帝は民衆よりも兵隊の欲求を満たさなければいけなくなった セウェルスにいたっては民衆に非道なこともしていたが軍隊を懐柔したから彼の座は安定していた 以後のローマの皇帝の理想像になった
初代皇帝アウグストゥスの右腕アグリッパが、戦争が終わりひとまず平和が訪れた後 兵隊の処遇のために治水工事をしたのが初めなのかな? 軍隊の平時の公共工事への貢献が評価されたのは。
古代ローマの軍事技術は凄いね カエサルがラインに架けた橋とか ヨーロッパの多くの都市の起源はローマの戦略拠点だというし
238 :
世界@名無史さん :03/05/05 01:10
中国にローマ兵がいたという報道が昔あったね
239 :
第20軍団兵 :03/05/05 01:48
>>235 建築に詳しい奴隷の集団を組織して水道局の原型みたいなものを作っただけです。
水道は設計も施工もシビアだから、さすがに軍隊じゃなくて、企業(ただし現在の土建屋とは大いに違います)に投げました。
軍団基地はほとんど辺境だし。
しかし、軍団が橋まで自前で架けてしまうのには参りますね。
>>239 ローマは水道管に鉛を使っていたせいで鉛害もあったらしいね。
241 :
第20軍団兵 :03/05/05 02:41
>>241 鉛管工場等でならありますが(ガレノスが伝えていたと思います)
水道ではありえないですね。理由は
1.そもそも水が流しっぱなしだから。
2.水に石灰質が含まれていてそれが水道管の表面をコーティングしてしまうから
3.鉛管を使えた距離が短いから(日本でも鉛管を使っている部分がありますが問題になってないでしょう)
なるほどそうだったのか。感謝。
243 :
世界@名無史さん :03/05/05 11:48
兵士は駐屯地・兵舎では 家族・セックスは出来たの? 売春婦だけ?
244 :
世界@名無史さん :03/05/05 12:16
まさか掘り合(自粛
245 :
bloom :03/05/05 12:20
247 :
例の170 ◆vBOFA0jTOg :03/05/05 21:55
>>244 ローマでは兵士の結婚は禁止されていましたが、駐屯する街で、内縁の妻を作るのが慣習だったと聞きました。
40歳になって退役したら正式に籍を入れるとか。
248 :
第20軍団兵 :03/05/05 22:57
>>247 テバイの神聖兵団では?スパルタ人は慢性人手不足だから、結婚しなかったり、
いつまでたっても子供ができなかったりするとペナルティがあったんじゃなかったけ?
249 :
例の170 ◆vBOFA0jTOg :03/05/05 23:01
>248 テバイの神聖兵団って、おホモたちじゃなかったっけ。
250 :
第20軍団兵 :03/05/05 23:21
251 :
第20軍団兵 :03/05/06 23:08
>>247 元首制後期頃に法が改定されて、妻帯が認められたような気がするんですけど。
私の記憶違いの可能性大、どなたかご存知ありませんか?
252 :
世界@名無史さん :03/05/07 02:07
グラディウス
253 :
第20軍団兵 :03/05/09 02:15
>>251 セプメティウス・セウェルス帝が妻帯を認めているや。自己レスでスマソ
まだ塩婆本で確認したのみだけど...
254 :
「ど」の字 :03/05/09 02:33
>>253 元首制末期のセプティミウス・セヴェルス帝による法改訂までは、正式に妻帯は出来なかったようですね。
軍団基地の外にある街で女と子供は暮らし、休みの日に基地を出た兵士と面会していたようです。
ローマ兵は大抵現地の女性と結婚しますから、休日限定の通い婚のような形になるのでしょうか?
正式に妻帯ということになると、現地女性との間に生まれた子供は世襲のローマ市民権保持者になる……。
つまりセヴェルス帝の法改訂は、現地女性の子に手っ取り早く市民権を付与することになったわけか……。
父親の軍団兵が兵役終了するまで待つことも無く……。
もし父親と母親が離婚したり父親が死んだりしたら、その場合はどうなるのだろうか?
255 :
世界@名無史さん :03/05/09 12:47
>>254 その問題はすぐに、
息子のカラカラがアントニヌス勅令で、属州の自由民に、
ローマの市民権与えたからいいんじゃないですかね。
256 :
世界@名無史さん :03/05/10 05:48
基地に慰安婦は居たの? 女性が居ないと服を洗濯するものが居ないので現実問題困るはず
男には洗濯ができないものを思ってる阿呆のいるスレはここですか?
259 :
「ど」の字 :03/05/11 13:15
>>255 そうだった……。
カラカラ帝が決定的にローマ市民権の概念をブチ壊しにしてしまったんだった……。
それでは、あまり問題にならなかったのかも。というか大問題の前に霞んでしまったかも。
しかしセヴェルス帝とカラカラ帝の親子、ほんとにロクなことをしていないな。
親子して多神教多民族だった頃のローマを崩壊させたようなものだ。
せめてセヴェルス帝にヴェスパシアヌス帝レベルの器量があってくれれば……。
260 :
世界@名無史さん :03/05/12 12:32
>>260 一応、兵士には絶対の人気があったというのも軍事力を背景に
支えられていた帝位だったから仕方ないんでしょうね。
「兄弟仲良く、兵士には金をやれ、それ以外は無視しろ」でしたっけ?
セヴェルスの臨終のお言葉。
261 :
世界@名無史さん :03/05/13 04:59
経緯はともかく、結果としてあれ以降、ローマ軍団の「驕兵化」「悪い意味での『軍』の共同体化」が進んでしまったのは事実。
>262 一部大げさに語ってる気がしますが筋はあってると思いますよ。
しかし、
>>262 のリンク先の
>ポンペイウスが率いてたのはローマ市民からなる、ローマの高級貴族からなる子弟の軍隊
>だったんですけれども、それに対してシーザーの方はガリア兵からなる軍隊をぶつけた。その
>結果はどうだったかというと、もう勝負にならなかったんですね。ポンペイウスの率いていた
>ローマ市民の軍隊の方ははもう弱くて弱くて、一撃でシーザーにやられてしまったんです。
こりゃないだろ。
265 :
第20軍団兵 :03/05/14 01:37
「岩波講座 世界史2」によると、単に兵士だけの問題ではなく。
元老院階級の人たちが軍務につかなくなり、その穴を埋める形で
騎士階級が軍務のプロという形で軍人-->総督コースを進むことになったり、
ローマ軍のアマチュアリズムが失われていった。という主張をしていますね。
あと、「兄弟なかよく」とか「セヴェルス家の家族の肖像」といったようなメンタリティがそれ以前の
ローマ人のメンタリティと変化しているように感じますね。
元首制初期のイマゲルニア(肖像の継承)とはあくまで家門の名誉であったはずで、
アットホームなローマ人というのは、なんとも変わったものだな。と...
>>264 同感、お前「内乱記」読んだのか?と小一時間...
だいたいカエサル時代のガリア同盟軍って市民権を得ることができたんだったけ?
>>265 確か、元老院議員を排除していったという解釈している学者も
いたような気がします。
>>264 賛同。カエサルの軍隊をガリア人呼ばわりしないでくれ。
<アスペルガー症候群(自閉症スペクトラム)←脳の機能的疾患(遺伝が要因)>
http://www.ypdc.net/asuperugar.htm http://www.autism.jp/l-02-03-aspe3.htm http://www.geocities.co.jp/Beautycare/5917/as/ ●接し方のルールがわからず無邪気に周囲の人に対して迷惑なことをしてしまうこと
がある。人を傷つけるということには鈍感です。年配の先生に向かって「おばあさん
先生おはようございます」と明るい大声で挨拶する生徒もいる。こういった言動をす
る場合にも彼らには悪意はない。
●小さな声でひとり言を言ったり、考えていることを声に出して言うことがある。
●融通が利かないことも学校生活で問題になる。時間割の変更や突然の教師の欠勤と
いう事態で不安を感じたりかんしゃくをおこしたりする。あまりに規則に厳格なため
に、遅刻した同級生に延々と注意をしたり、修学旅行などで消灯時間をかたくなに守
り、他の生徒の顰蹙をかったりすることがある。
●行動・興味・活動のパターンが貧困で反復常同的なことも自閉症の特徴である。すな
わち、日常の活動の様々な面にわたって柔軟性のないルーティン(決まった手順や日課)
を押しつける傾向、これを慣れ親しんでいる習慣や遊びのパターンだけでなく、たいてい
は新しい活動にも押しつける。そしてルーティンや個人的な環境の細部の変化(家の中の
置物や家具の移動によるなど)に対する抵抗がみられることがある。
●揺れる木の葉を見続ける子どもは興味のレパートリーが狭いとも言え、視覚的な敏感さ
があるといっても良い。
●精神遅滞を伴うものと伴わないもので大きく分かれる。100%果汁のオレンジジュー
スを思い浮かべてください。それにだんだん水を加えて薄めて行くと終いには水にごく近
くなる。一口飲んで「オレンジジュースだ!」とわかるものは自閉症、水に近いけれどな
にかオレンジの味が混じっているのがアスペや高機能・・。その濃度はさまざま。濃いオ
レンジジュースであったとしても早期の療育や周りの対応によって水に近づいていくこと
は可能。しかし間違えてはいけないのはオレンジジュースが一滴でも落ちている場合は
「純粋な水」にはなれないのです。
カエサル軍におけるガリア兵の扱いって ハンニバル軍におけるガリア兵の扱いと同じようなもんなんじゃあ?
269 :
世界@名無史さん :03/05/15 21:28
ローマの正規軍団にはどういう人たちが入隊したの? アントニヌス勅令の前後で変わったということなの? 補助軍団はどうなったの? この軍団ってローマ市民権を持たない人たちの集まりですよネ?
270 :
世界@名無史さん :03/05/15 23:17
ガリアをどう捉えるかにも寄るからなあ。 というか「アルプスのこちら側のガリア」、いわゆるプロヴァンスや イタリア北部の属州地域をどう認識するかの問題。 カエサルの第十三軍団は、確かこの地域の属州民から募集されたはず。 あと、ローマの軍制って正規軍と援軍の二本立てで、 正規軍は最初から市民権持ってる奴のみでマリウス以後は一種の傭兵、 援軍が市民権持ってない奴から集めて最後に市民権付与、って制度だったような。 いずれにしても正規軍と援軍の比率は一対一だから、これがなくなると 財政上痛いってのは変わらないんだが。
271 :
世界@名無史さん :03/05/18 22:15
>> 270 アントニヌス勅令以降援軍も正規軍になったということなの? ローマ軍団が驕兵化したのはこれが原因なの?
272 :
世界@名無史さん :03/05/18 22:17
>> 241 鉛管の使用は横浜市を筆頭に日本でも問題になっていますよ。 WHOの基準を大きく上回っている場合もあるらしいっすよ。
273 :
世界@名無史さん :03/05/19 00:20
一つ凄い疑問があるのですが、どうしてギリシア・ローマは今から 2000年ほども前に、民主的な制度を創設できたのでしょうか? それにはやはりなにか必然があるのですかね? ギリシア・ローマにおいて民主的な制度ができたのは 紀元前ですからキリスト教の影響は考えられないですよね。 ギリシアは平民男子による直接選挙が行われていて、主要な官職の ほとんどが抽選で平民から選ばれていましたよね。 共和制ローマも、ホルテンシウス法で平民会の議決が国の最高意志に までなりましたよね。今から2000年も前に、このように民主的な 権利意識が強く、平民の権利が守られていた国があったなんて ほんと信じられません。日本は18世紀や19世紀の江戸時代になって も国の最高意思決定は平民が行うなんていう発想自体全く持って 出てきませんでした。また欧米世界を除いて日本のような状況が 一般的だったと思います。 それがなぜ紀元前の世界のギリシア・ローマに突如として現れたのかほんと不思議です。 紀元前の頃には先人の優れた哲学や思想の蓄積もほとんどなかったわけなのに・・ ローマ法なんて江戸時代の法律よりも優れていたんじゃないんでしょうか? 先人による書物・文献なんて近代ならいざ知らず、紀元前の世界には ほとんどないはずですよね、なんでそんな時代に近現代社会の起源となる 社会制度や法律体系ができたんだろう・・
>>273 簡単に言ってしまえば、部族社会的な所から以降で、発展方向の分岐があった、ということ。
他の地域では、集団の長への権力&権威(神格化)が進んだけれど、
ギリシャ-イタリア地域では、一種部族的な政治意識を保持したままの状態で、
一定地点で集住→先進地域の文明を受容→ポリス生活化、となったわけ。
後は必要が適応を産む形で社会制度や法律体系が創生されてゆく、と。
>部族社会的な所から以降で、発展方向の分岐があった、ということ。 >他の地域では、集団の長への権力&権威(神格化)が進んだけれど、 >ギリシャ-イタリア地域では、一種部族的な政治意識を保持したままの状態で、 >一定地点で集住→先進地域の文明を受容→ポリス生活化、となったわけ。 この説明で疑問が消えました。部族社会から社会が発展するところに分岐点が あったと。日本はその分岐点で集団長への権力&権威の集中方向へと進んで しまったから、18〜19世紀の江戸時代後期になっても自前の民主的な思想 や民主制を求める運動なんて出てきませんでしたよね。 一方ヨーロッパは古代のギリシアやローマで一種部族的な 政治意識からの発展制度(アテネの直接民主制やローマの議会主義) を経験しているから、国政は市民全体で決定するものだという意識が 強く、それが民主主義思想へと発展していったわけですよね。 そう考えると、部族社会から発展するときの何気ない方向性の違い 村長Aに権力を集中させてしまったか、村長Aを中心に村民も加わって 村の運営を行うようになったか、ということが18〜19世紀の頃の 社会制度&法律体系でお互いある程度の完成をみた、というわけですね。 つまり一方は部族意識を保持した社会の発展である 西欧の民主主義的な社会であり、もう一方は集団長に権力を集中させた 社会の発展である封建制としては最高にまで発展した身分制社会の江戸時代日本。 このように考えると、社会が発展していくと民主主義にむかうというのは必然 じゃない気がしてきました。日本は西欧の強烈な脅威・影響があったからこそ 西欧型の近代的な社会になったわけですが、もし西欧の影響がなくそのまま発展 していても民主主義思想なんて芽生えてこなかった気がしますね。その遠因が 部族社会から定住的な社会へと発展するときの西欧との何気ない違いによるもの だとしたらおもしろい
277 :
第20軍団兵 :03/05/21 23:02
>>269 正規軍団に志願するには、
ローマ市民権を持っていること。"簡単な読み書きソロバンができること"。
過去に恥ずかしい職業に就いていないこと(cf.剣闘士等)
この基準のミソは本当の貧民はふるい落とすことができること。
ローマ軍が大敗北を喫したような時は、国家が奴隷を買い集めて「奴隷軍団」を
編成するときもあります。(共和政期に1回、元首政期に1回だったかな?)
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
>>273-275 ギリシャ・ローマの民主主義を語る場合、忘れられがちなのは都市国家に
おける市民=戦士という理念的な関係です。
ギリシャにおいて完全な民主制にいたるまでには、ガレー船のこぎ手として
無産階級が従軍するという過程がありました。
国家を防衛し、勢力範囲を拡大維持する軍事力の担い手が政治の担い手
であったわけで、その意味では武士が支配者であった世界と大きな違いは
ありません。
もともとは戦車を所有する貴族階級が政治を壟断していたのが、戦力の中
心が重装歩兵となって甲冑や武器を自弁して戦士として参戦できる中産階
級が政治に参加するようになり、ペルシャなどの外敵との戦いの中で、下層
階級を含む全市民(男だけ)が政治の担い手となったのです。
ローマについては、その民主制は当初から戦士集団、ケンツリアと一体でし
た。
どうも、日本ではこの点の理解というか、政治の主体と軍事の主体が同一と
いう古代都市国家の構造への理解が足りないように思います。
280 :
世界@名無史さん :03/05/22 18:42
>>273 は古代ギリシア・ローマを美化しすぎ。
その「民主制」の基盤を支えていたのが奴隷制だという事を考えてない。
そこは置いておいても、近代民主主義とギリシア・ローマの「民主制」を
同一線上に並べている点は看過できない。
近代民主主義とギリシア・ローマの「民主制」において
最大の相違点は「人権」思想があるかないかに求められる。
近代民主主義においては「人権」尊重から政治体制が導かれたわけだが
古代民主制の根源は
>>279 が述べられている通りだ。
そこに「人権」思想が入っているはずも無く、そもそも「人権」という
概念が登場してくるのが近代という社会の一つの特徴である以上
古代に「人権」という概念は存在し得ない。
古代ギリシア・ローマにおける政治体制を「民主制」と
我々が呼ぶのは外見が近代民主制に似ているからで
古代人が民主主義だのの思想を持っていたわけではない。
>>279 が逝っている通り古代においては「戦う者=政治に参加する者」
だったわけだが、それは基本的に原始祭祀社会を除けば
大抵の時代・地域に当てはまる意識だったはずだ。
時を追うに連れて段々形式化していったのも多いが。
近代民主主義における初期段階もまだ「戦う者=政治に参加する者」
という考えが濃厚に残っていたが、それを「人権」思想を掲げ
「戦う者」以外へも政治参加を広げていくのが近代民主主義の歴史だ。
古代ギリシア・ローマの「民主制」は形だけ見れば似ているかもしれないが、
「人権」という近代民主主義の根幹を成す概念が存在していない時点で
近代民主主義と同一線上に並べるとことは不可能だ。
281 :
世界@名無史さん :03/05/22 22:24
>280 言っていることはよくわかる。 ただ「人権」って概念は強く強調するほど重要なものだろうか? ローマにおいては奴隷でさえ市民になる道が開かれていたし、マリウスの改革以来、軍人は職業軍人化していたよ。 現代と50歩100歩な感じがしてる。
282 :
世界@名無史さん :03/05/22 22:25
>280 というか、戦争そのもののあり方の違いでは? 多くの先進国で、女性に参政権が認められるようになったのは、 第一次大戦以降だ。 これは戦争が総力戦化・武器生産が複雑化する中で、軍需産業に多くの女性が 従事して、戦争遂行に女性の力が不可欠だと認識されたからだろう。 人権だの何だののお題目より、実際にはそういうことだと思う。 この点、近代民主主義も、戦争と参政権の問題に関しては 古代と大して違いはない。
283 :
世界@名無史さん :03/05/22 22:42
たしかに「人権」なんてものはお題目にすぎないね。 古代ローマの民主制と現代民主制の違いって、強いて言えば情報技術の違いによる差異にしかすぎんと思う。
284 :
世界@名無史さん :03/05/22 22:46
むしろローマなんかは情報技術が未発達にも関わらず、あれだけ広いエリアにあれだけ沢山の民族を抱えたものであるだけ、現代よりも普遍性・現実性があるんじゃないか?
奴隷に支えられてきた社会のほうが現代よりも普遍性・現実性があると?
その奴隷ってのを現代の意味で捉えるからだよ。 アメリカ合衆国の奴隷だって、主人を助けるために死地に飛び込んだ者さえいるぞ。 奴隷=ボロボロの服着て貧しい飯で鎖で繋がれて重労働、てイメージしかないのか? ローマでは家庭教師も奴隷、家宰も奴隷、子供の遊び相手(成長後股肱の臣となる)も奴隷。
奴隷が主人を助けるために死地に飛び込もうがどうしようが 社会を支えている階層に参政権がない点には変わりない。 そのような社会が現代よりも普遍性・現実性があると考えるのは変。 奴隷の忠誠度など問題ではない。
288 :
世界@名無史さん :03/05/22 23:30
奴隷制度はなくなっても、 奴隷みたいな境遇の人たちは一向に減らないが。
>>287 >>286 は、DQNも含めた社会の構成員全員に参政権が約束された社会より、
選ばれた階層だけに参政権が与えられている社会のほうが普遍性現実性があると
主張したいのだと思われ
俺には同意しがたい意見だが
ギリシア・ローマの民主制って、現代民主主義より貴族制の方が遙かに近いと思う。 貴族階級が「市民」って呼ばれているだけで。
>>291 参政権がなければ「進んでる」のか・・・
非常に興味深い意見だ
社会を構成するある階層が政治に関与できない社会のどこが「進んでる」のか
詳しく教えてくれないかな?
>>291 現代の民主国家よりローマのほうが「進んでる」根拠は?
人権や私有財産の要請は、古代でも近世でもそう変わらんのじゃないかな。 近世以降大帝国を作り上げた国がないのは、兵器の発達にも関係ありそうだ。
特定の文化を進んでるとか進んでないとか言うのはエスノセントリズムじゃないのか? しかし、レヴィ・ストロース以降文化人類学者は「未開」に対して臆病になってる気がする・・・
296 :
世界@名無史さん :03/05/23 00:07
>>294 確かに私有財産に関する法はローマで飛躍的に発展している。
ナポレオン民法典から始まる近代民法の体系は
2Cのローマの法学者の著述からきているほどだ。
しかし、人権という面で言えばローマにおいてさほど重視されたとは思えん。
「ローマ市民権」や奴隷との違いという点で言えば
法が存在していたようだが近代に見られるような
いわゆる自然権的かつ自由権的「人権」はなかったと思われ。
297 :
政治家にはだまされるなー!!有事法制反対!! :03/05/23 00:08
有事法制(戦争法)は必要ありません!!! 有事法制ができて、得する人たち(その理由) 1、日本政府 ―軍事的にアメリカ政府に良く思われる。市民の行動を監視し、命令どおりに従わせることができる。 2、アメリカ政府―アメリカが気に入らない国を攻撃するときに、日本に軍事的、経済的支援してもらえる。 3、政治家 ―アジアに対する軍事的支配を実現させる。愛国心をあおって、政治家としての地位を確実なものにする。 4、自衛隊 ―有りあまる武器を実戦で使うことができる。戦争ができる。 有事法制ができて、損する人たち(その理由) 1、日本国民 ―市民は日常生活における自由を制限され、財産は国家の所有物と化す。 戦争に協力しなかったり、反対すると犯罪になり、懲役や罰金が科せられることもある。 自分の家が軍事戦略的に邪魔なときは、没収、解体される。 医療現場では兵士が優先的に治療され、市民は後回しにされる。 2、アジア ―軍事大国である日本が、軍事的にアジアを威嚇することになり、アジア全体に軍事武装強化の動きが強まる。 3、世界 ―9.11以降、世界的に軍事的な緊張が高まるなか、さらに戦争やテロに依存する傾向が強まる。 4、平和にとって―話し合いによって進めてきた過去の平和外交を大きく否定することになる。 どちらでもない 1、北朝鮮 ―日本を攻撃する理由はない。戦争するための軍備も金も、資源も食糧もない。 有事法制は北朝鮮に対して、軍事的に大きく刺激してしまうことになる。 有事法制ができてしまうと、市民の人権や、生活の自由は大きく制限される。 有事法制は、国を守って市民を守らないものだという事を政治家が言っている。 北朝鮮は全然、戦争する気はないのだが、 北朝鮮問題を利用して、知らないに国会では、政治家や日本政府、アメリカ政府や 自衛隊などの権力者のための法律を作ろうとしています。 (武力に頼らない)本当の平和のために、市民の自由のために 有事法制は反対だ!と声を上げていきましょう!!!!!!! もう、政治家にダマサレていてはダメ!!!!!!!!!!!!!!!!
私はどちらかというと281氏に賛成だな。たしかに279氏(というかアリストテレス) の言うように、前6世紀から前5世紀初めにかけて、ポリス共同体の為に戦う者が 市民としての政治的発言権を確保していった、という歴史的経緯はあるだろう。 だが一旦民主主義が確立した前5世紀以後、ソフィスト(主にゴルギアスの弟子筋)達を 中心に、いわば後付でその正統性に関する議論が積み重ねられていったことも確かなのだ。 そのなかにはアルキダマスのように、「神は全ての人を自由人として解放した。 ピュシス(自然法)は誰一人をも奴隷として作りはしなかった」(メッセニア演説) という考えに到達する者もいたのである。これは「人権」思想とは違うものだろうか? たとえ現実にはこのような段階にギリシャ民主主義が到達しなかったとしてもである。 それにこういう風にまず実態(例えば「民主主義」とか「議会政治」といった)が先行し、 後付で正当化の理論が出来るのが先進国の特徴であろう。近代ならイギリスがそれに近い。 まず政治理論(「人権思想」といった)があって後、それに合わせて現実の社会革命を やるというのはむしろ「後進国」の姿なのだと思う(ヨーロッパ大陸諸国のように)。 だから280氏のように「「人権」尊重から政治体制が導かれ」なかったからというだけで 古代ギリシャの民主主義が近代のそれと全く異なるとする考えには賛成しがたい。
また「人権思想」を基本とする近代民主主義社会においては奴隷が存在しない、 ということもないと思う。 二十世紀ギリシャ学の最高の碩学の一人ケネス・ドーヴァーは、古代民主主義など所詮は 奴隷制に基づくものでしかない、と決めつける論者に対して、解放されることも多かった 古代の奴隷と、そういうことのあり得ないインド(自称「世界最大の民主主義国」だ)の 下級カーストに属する者の悲惨な生活の例を比較したり、あるいはまた彼自身の曾祖父が 1848年に孤児となって11歳で工場に働きに出た時、そこでは「長い一日の終わりに居眠り しそうになると、頭(かしら)が背中一面に鞭をくれた」という実話を挙げたりして 近代民主主義社会をギリシャのそれに対して、その実態面においても無条件に優越する ものと考えたりする驕りを戒めている(「私たちのギリシャ人」)。 我々だってそれ以上の例を挙げられるだろう。例えば世界で始めて人権と民主主義の 理念の下に建国された国が、奴隷解放令を出したのは、その一世紀近く後のことなのだから。 だから我々も273氏のように、古代ギリシャにおいて民主主義が成立したことに対して、 本当はもっともっと驚くべきなのだと思うよ。
身分間の流動性があるか無いかは大きいよね。
>298 むう〜。ときどきお前を尊敬するぜ。
∧_∧ ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。 =〔~∪ ̄ ̄〕 = ◎――◎ 山崎渉
303 :
世界@名無史さん :03/06/05 00:00
age
ローマ法で、領有権(dominium)と 管轄権(imperium)はどうちがうんですか?
4世紀のローマ軍てのは、どうだったのかな。 ディオクレティアヌス、コンスタンティヌス時代には、 そこそこ持ち直しているわけでしょ。
306 :
第20軍団兵 :03/06/15 22:53
>306 ローマ軍団の背骨である軍団兵にも鎧を十分に支給することもできなくなっているので、ダメダメ。 鎖帷子でさえ、供給できる地方のみ装備するという駄目っぷり。ロリカ・セグメンタータ(2世紀ごろから使われ始めた板金鎧) なんか夢また夢。
>>306 はあ。それって帝国全体の経済がダメになったってこと?
それとも徴税の問題なのか?
308 :
世界@名無史さん :03/06/17 01:36
ユリウス=カエサルと、アウグストゥスは、どっちが至聖者?
どちらも違います
310 :
第20軍団兵 :03/06/21 01:11
>307 キリスト教の広がりと、それにより帝国そのものを存続させる気が少なくなっていったという説に(小さな) 一票 パコミウス(287頃-347)です なんかここでいろいろ言われてるけど、パコミウスは自分でも, 世界帝国ローマ(imperium Romanum)-人間世界(ordis tettarum)のことを考えて あげる気持ちが足りなかったなって反省してる パコミウスが共住修道院始めたばっかりに、帝国を応援してくれてる元老院や騎士階級の ひとたちや兵士、その他たくさんの人達に迷惑をかけてしまったこと、深く お詫びします。 あのころ、あの隠遁生活には、クライマックスだから全員で一体となって神の国を想いたい、 地上の国(civitate terreae)もうすぐ終わっちゃうんだよ?神の国(Civitate Dei)は近づいているんだよ 財産なんて貧しき者に分け与えて、自分を捨て、神の子や使徒に習って厳しい生活を送りたい。 早くしないとアパテイアに達してる暇なんてないよ 。 って思いがほんとうは込められてたの。 文明に背を向けた生き方でそれが伝わるはずない、 それがわかんなかったパコミウスはホントばかだよね。 パコミウスは人間世界を傷つける気は全然なかった。 しかもユリアヌス帝が背教者になるなんてパコミウス自信もすごくショックで、 言葉が出ない。みんなに本当に心からあやまりたいです、 ごめんなさい。そしてこんなバカなパコミウスだけど、 これからも一緒に生活したい。みんなほんとにごめん。
311 :
第20軍団兵 :03/06/21 01:15
>310 ×tettarum ○terrarum
312 :
「ど」の字 :03/06/29 19:59
>>310 そうですねー。現世軽視でなおかつ排他的一神教たるキリスト教の広がりの影響は、大きいでしょうね。
鉱工業生産にしても、トライアヌス帝時代に最盛期になって以降は凋落の一途ですし。
(確か、カラカラ帝以後三世紀の危機以降になると、過去とは比べられないほど低下して、もはや回復していないはず)
ローマの公共工事にしても、セヴェルス帝の時代に最後の街道工事が行われて以降は絶えてしまいますし。
現世でなく来世のことを重点的に考え、しかもそれを他人に薦めた(あるいは押しつけた)当時のキリスト教。
その教えは、ローマ世界の精神的活力を削っていったんでしょうね。
ローマはきっと、蛮族に滅ぼされたのではなく、キリスト教に滅ぼされたのでしょう。
313 :
世界@名無史さん :03/06/30 21:31
>>312 アンタのいう公共工事ってどういう定義?
ディオクレティアヌスやコンスタンティヌスの浴場は
公共工事の範疇ではないんの?
新設でないと街道工事じゃないのかい?
有名どころだとコンスタンティヌスのアッピア街道修復工事があるんヨ。
314 :
世界@名無史さん :03/06/30 21:39
>>312 >ローマはきっと、蛮族に滅ぼされたのではなく、キリスト教に滅ぼされたのでしょう。
現代ヨーロッパ人の中には否定する奴もいるけど、禿しく同意。
315 :
第20軍団兵 :03/07/01 00:01
漏れとしては、少し視点が違っていて、キリスト教&その他の新宗教が禁欲生活に憧れる 心情を生み、それが人口に悪影響をあたえた事を押したい。 どういう事かというと、近代に至るまで子供が成人するまでにその多数が死んでしまうので、 家系の維持というのは大変難しく、指導階級である元老院&騎士階級に属する家族というのは 断絶によって常に入れ替わりがあった。家系の断絶をローマ人は嫌ったので成人になっての 養子や、解放奴隷(元来は家族同然の奴隷を市民として、家の祭祀を継がせる目的で成立した」) といったローマ独特の風習が成立していた。 この制度によって指導階級の構成員は属州へ属州へと拡大していったのだが、 (例えばローマ-->イタリア-->ガリア-->ヒスパニア) しかし、男女ともに修道生活を送るとなると、家族の構成員のうちある程度の人間は 子供を産まないという事になるので、家族の断絶=指導階級の入れ替わりのサイクルが これまでよりも加速し、ゲルマン人が"ローマ化"する前に指導階級の順番が回ってきてしまった。 どうでっしゃろ?
>「ど」の字さん いや、あえて漏れは「膨張を止めてしまった」故に愁落が始まった、としたい。 彼岸主義のキリスト教だって、イベリアのレコンキスタやら、エンリケ航海王子のプレステ・ジョアン国 の探索など、宗教的情熱から能動的なエネルギーが生み出されたことは多々ありました。 末期のローマ帝国自身に、無気力感・刹那主義が漂ってしまっていたため、キリスト教を受容する際に、 厭世的な思想として受け入れてしまった、というカンジかと。 >第20軍団兵 なるほど、しかし、ローマに侵入していったゲルマン人の間におけるキリスト教の普及率はどの程度 だったんでしょう。
げ、第20軍団兵さんに「さん」を付け忘れた。海より深く反省m(_ _)m
318 :
第20軍団兵 :03/07/01 14:16
>304 まず、大きな括りとして[dominium]が私法を扱い、[imperium]は公法を扱います。 [dominium]はdomus(家)から派生した言葉で一般に支配、所有権、主人権と訳されますが、 通常、取引関係とか所有権を確定させるときに頻発する言葉のです。 初学者用のローマ法辞書を引いてみた所、法律用語としてはdominium directum[本来的な所有権] dominium duplex「2重の所有権」、dominium stum「正当な所有権」等が出てきました。 これに対し、imperiumは[命令権、職権、権力、支配権、統治権、支配領域]と訳され用語としては imperium domi[市域における命令権]imperium infinitum[無制限な命令権] imperium majus[上級の命令権]imperium merum[単純な命令権]imperium militiae[軍事の命令権] 等が出てきます。 双方の言葉とも"支配"というニュアンスを持ちますが、imperiumが通常政務官の権力の範囲を 定義するのに使われる言葉に対しdominusは「家」の中、あるいは「家」対「家」の関係を決めるための 言葉として使われる。という理解でしょうか。
319 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :03/07/07 17:14
まあしかしローマ騎兵がマケドニア長槍騎兵に勝てたのかと言う事だが どうなのだろうか ギリシャのファランクスやマケドニアファランクスを崩したのも正面からではなく 側面や後方からと言う事は無いのだろうか (正面から歩兵投入後敵の陣形を崩して 其処に騎兵を突入させた事も有るかも知れぬが)
320 :
第20軍団兵 :03/07/08 02:22
>316 キリスト教の布教の影響は、ほとんどゼロに近いと思います。 ゲルマン人の中でアタナシウス派が大きく影響を及ぼすようになったクロヴィスの改修は496年。 西方での伝道に大きな役割を果たした、ケルト系修道院の成立は7世紀。 それ以前にゲルマン人にひろがったのは単性派のアリウス派であった事です。 単性派の心性が社会にどのような影響をあたえるかという点では、 私は判断が下せるほど詳しくはないのですが。修道制を作るような隠遁への憧れは持たない印象があります。 隠遁生活への憧れは特にアタナシウス派に特に強い。 したがって、キリスト教が人口問題でゲルマン人へ影響を与えるほどの力はまだ持っていなかったと思っています。 >319 3次にわたるマケドニア戦争でローマ軍がレギオンで勝っているという事実があるわけですから、騎兵はこの件では関係ないのではないですか?
>>319-320 ローマ騎兵は基本的に剣と盾を持つ軽装騎兵(当時は鐙が無かったからですが)です。
数の上でも、装備でも、当時の世界では劣っていた方のはずです。
最盛期(アレクサンドロス大王時代)のマケドニア長槍騎兵と戦っていたらまず負けていたでしょう。
しかし、ローマと当たる頃の大王の後継者たちは、騎兵の槍を長くして機動力を損ねています。
恐らくデカダンに陥った重装騎兵は、ローマ騎兵の側面迂回によって撃破されていったのでしょう。
あと、某研究者さんの予測通り、ギリシャやマケドニアのファランクスは側面からローマに崩されたようです。
ファランクスも時代が下るにつれて重装化し、機動力を損ねたことでは騎兵と変わりなかったとのことです。
結果、マニプレス戦術を会得したローマ重装歩兵のピラにアウトレンジされ、左右に回り込まれたようです。
ピラは、元はサムニウム族がローマ重装歩兵を破るために考案した、対重装歩兵(対大盾)兵器でした。
盾にピラが突き刺さるとピラの金属部分は曲がり、ピラが突き刺さったままの盾を使えなくするのだそうです。
盾を封じられた機動力のない歩兵は、スキピオ式の兵法を知るローマにとっては練習台同然だったはずです
322 :
例の170 ◆vBOFA0jTOg :03/07/08 12:51
>>320 なるほど、しかし修道院のルーツは、単性説のコプト教会なのではないのでしょうか。
やはり、様々な教説の中で修道院生活を憧れるようなアタナシウス派の教義を採用した
のは、やはりローマ人であり、受容されたモノ(キリスト教)自体より、受容した者(ローマ人)
にこそ問題がある気がします。
323 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :03/07/08 16:03
>ローマと当たる頃の大王の後継者たちは、騎兵の槍を長くして機動力を損ねています。 まあアレクサンダーの頃の騎兵の槍も長かっただろうが 後には更に長く成ったのだろうか まあ近距離で馬に投げ槍を当てられれば 長槍騎兵は短槍騎兵に一方的にやられる危険も有るだろうか >結果、マニプレス戦術を会得したローマ重装歩兵のピラにアウトレンジされ、左右に回り込まれたようです。 まあ只マケドニアやギリシャの重装騎兵の側面には騎兵や軽装歩兵が 存在した筈だが 彼等は騎兵や歩兵に排除されたと言う事なのだろうか (これを排除出来ず共ローマ歩兵にピラを投げられて撹乱され 其の後正面から突入されて ギリシャやマケドニアのファランクスは撃破されたと言う可能性も 有るだろうか)
324 :
第20軍団兵 :03/07/09 02:26
>322 聖アントニウス(=修道生活の祖とされる)の生涯を散々宣伝して回ったのはアタナシウスその人なんですよ。 確かに「砂漠の隠修士」の生活はすぐれてコプト的ですが、きちんとコプト教会として分離するのは451年ですね。 >320で「キリスト教の影響がゼロ」とは、「ゲルマン人へのキリスト教の影響がゼロ」と言う意味です。紛らわしい書き方でしたスマソ。 キリスト教が勝利を収めなくても、ミトラ教等、他の密議とシンクレティアズムの宗教が変わりに勝利を収めたでしょうから、 結果は変わらなかったと思います。 つまり、そこまでは例の170氏と同意見なのですが、問題は、なぜ東側は生き残ったか?という疑問に答えられないというのが この説の弱点ですね。
325 :
例の170 ◆vBOFA0jTOg :03/07/09 22:24
>>324 あー確かに東ローマはちゃんと生き残ってますよね。でもあちらもアタナシウスですし、
・・・しかしゲルマン族は侵入してないから、結局そのトリガーは引かれなかった。
押しとどめた東に活力が残っていたからか、それとも西が間抜けだったのか、ただ単に
西が不幸だったのか。
一応確認。
375・・・ゲルマン民族大移動
476・・・西ローマ帝国滅亡
101年、世代が何回も交代するのに十分ですな。説得力がありますね。
しかし395の東西分裂、本気でヤバくなった西を東が見捨てたんでしょうか(w
>>323 ギリシャやマケドニアの軽装歩兵は矢やスリングの玉を撃っていましたから、重装歩兵にはちょっと……。
コンポジットポウならともかくとして、当時の軽装歩兵の短弓ではなかなか殺傷力は得られなかったのでは?
また、運用法も時代遅れで、前哨戦として歩兵の前に出て撃てるだけ撃って離脱、が当時の軽装歩兵でした。
アテナイの知将イピクラテス(軽装歩兵運用の天才)とそのメソッドが健在だったらどうか、とも思いますが……。
327 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :03/07/10 12:51
>また、運用法も時代遅れで、前哨戦として歩兵の前に出て撃てるだけ撃って離脱、が当時の軽装歩兵でした。 軽装歩兵で自軍の重装歩兵の脆い側面や背後を防御すると言う発想は 無かったのかと言う事だが 軽装歩兵では自軍重装歩兵の側面や背後を狙う重装歩兵を正面から阻止出来ず共 背後や側面を狙うと言う方向も有ったかも知れないが これは敵の側面や後方を防御する軽装歩兵に阻止された可能性も 有る訳だろうか (まあ軽装歩兵では騎兵を阻止出来ぬだろうから 騎兵同士の戦いに勝てねば騎兵に重装歩兵の側面や後方を突かれた可能性も 有るだろうか) 側面を完全に地形で防護出来れば 騎兵が破れてさえマケドニアやギリシャのファランクス等が ローマ歩兵に勝利した可能性も有るのだろうか 或いはピルム・バリスタ・カタパルトの投擲や機動力で正面から隊列を崩された後 騎兵を突入させられた可能性も有る訳だろうか (或いは騎兵無しでもローマ歩兵は 正面からマケドニアファランクスやギリシャのファランクスに 勝利し得た可能性も有るのだろうか)
328 :
第20軍団兵 :03/07/11 03:33
>325 分割統治が後を引いたのかもしれませんね。ただ政治史はかなりその場、その場の決断に左右されますからね。 ローマ経済の崩壊に一票入れてみます。 何の気もなくローマへ入ると、大競技場の壁いっぱい位な大きな字で、【新金貨:ソリドゥス】と書いてある。 俺の顔を見てみんなわぁと笑った。俺は馬鹿々々しいから、【貨幣を改鋳したら可笑しいか】と聞いた。 すると市民の一人が、「然し最高価格令で物価統制は過ぎるぞな、もし」と言った。 ソリドゥスだろうがアウレウスだろうが、同じ金の鋳貨で俺が払うのに文句があるもんかと、 さっさと見世物を済ましてに帰ってきた。 しばらく経ってコロセウムに行くと【ラディアトゥスとは銀めっき也。デナリウスにあらず】と柱に書いてある。 さっきは別に腹も立たなかったが今度は癪に障った。冗談も度を越せばいたづらだ。 パントミモス(黙劇、人気はあったが悲劇のように高尚ではなかった)のようなもので、誰も誉め手はない。 プレブスは此呼吸が分からないから、どこ迄押していっても構わないという了見だろう。 荷車がすれ違う事もできない行き当たりばっかりの都に住んで、セステルティウスしか見た事がないから、 触れちらかすんだろう。憐れな奴らだ。 子供の時から、こんな教育されるから、いやにひねっこびた、植木鉢の楓見た様なプレブスができるんだ。 無邪気なら一所に笑ってもいいが、こりゃなんだ。平民の癖に乙に毒気を持ってる。 「こんないたづらが面白いか、プブリカヌス(=徴税請負人)の冗談だ。君らはプブリカヌスという意味を知ってるか」 と言ったら、 「自分がしたことを笑われて怒るのはドミヌス(専制君主)ぢゃろなかろうがな、もし」と答えた奴がある。 やな奴だ。わざわざメディオラヌムから、こんな奴を教化にきたのかと思ったら情けなくなった。
ローマってどれだけの戦力を保有していたのでしょうか?
>>327 ギリシャやマケドニアのファランクスは、一度隊形を組んでしまったら分派が出来ません。
そのあたりが、ローマのマニプレス戦術による重装歩兵との相違点です。
ローマ歩兵が側面へ展開するのを、当然前方に展開する軽装歩兵は防御しようとしたでしょう。
しかし、戦場で自由に部隊を分割できるローマは、分派した一部歩兵で軽装歩兵を掃討してしまった筈。
正面での叩き合いのみに持ちこめるなら、ローマ重装歩兵はマケドニアンファランクスの敵ではありません。
ピラは投げても突いても役に立つ武器ですが、さすがに堅牢な長槍と打ち合ったら長さと強度で負けます。
側面を騎兵突撃から防御する地形には、ギリシャは苦労しないはずです。しかし、歩兵が入れない地形となると……。
>>329 アウグストゥス時代の軍縮によって22個軍団。
(ライン河防衛線8、ドナウ河防衛線7、ユーフラテス河防衛線4、エジプト・アフリカ・イベリア各1、予備軍団3)
ティベリウス〜ネロ時代に30個軍団。
(ブリタニア4、ライン河防衛線8、ドナウ河防衛線12、ユーフラテス河防衛線4、エジプト・アフリカ・イベリア各1)
ヴェスパシアヌス〜トライアヌス時代に28個軍団。
(ブリタニア4、ライン河防衛線4、ドナウ河防衛線11、ユーフラテス河防衛線7、エジプト・アフリカ・イベリア各1)
ハドリアヌス〜アントニウス・ピウス時代に若干リストラを兼ねた異動がありましたが28個軍団。
(ブリタニア4、ライン河防衛線4、ドナウ河防衛線10、ユーフラテス河防衛線8、エジプト・アフリカ・イベリア各1)
戦乱の世になったマルクス・アウレリウス時代に30個軍団、そして2個軍団の増設予定がありました。
(ブリタニア4、ライン河防衛線6+予定2、ドナウ河防衛線11、ユーフラテス河防衛線7、エジプト・アフリカ・イベリア各1)
コンモドゥスによって予定された軍拡が中止され、以降セヴェルス時代まで30個軍団は変わらず。
28個軍団の正規兵合計が16万8千人。その他に補助兵14万人ほど、季節パートタイム兵が3万人あたりだそうです。
331 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :03/07/11 14:38
>しかし、戦場で自由に部隊を分割できるローマは、分派した一部歩兵で軽装歩兵を掃討してしまった筈。 つまりローマ軍の場合は 敵の軽装歩兵や騎兵に仮に重装歩兵の側面や後方に回り込まれ 側面や後方を防護していた味方の騎兵や軽装歩兵が撃破されても 重装歩兵を分割して側面や後方を守る事が 可能であるが マケドニアやギリシャは無理であると言う事だろうか >正面での叩き合いのみに持ちこめるなら、ローマ重装歩兵はマケドニアンファランクスの敵ではありません。 隊列がピルムの投擲で崩されれば ローマ歩兵や騎兵に間に乱入される危険も有るかも知れないし 極度な密集隊形で間を素早く埋めると言う事は可能なのかと言う事だが
>>329 マインツ近郊に駐屯していた第4レギオンがFELIXレギオンで
イスパニア人が隊長だったそうだ。
この部隊を元にした映画が「グラディエーター」だったりする。
映画でも冒頭の戦闘シーンで「W FELIX」の軍旗が出てくる
映画自身はいい加減だし、衣装も無茶苦茶だが、戦闘シーンの参加
部隊は正しかったりします。]]も見えたはず
>>331 >>つまりローマ軍の場合は
>>敵の軽装歩兵や騎兵に仮に重装歩兵の側面や後方に回り込まれ
>>側面や後方を防護していた味方の騎兵や軽装歩兵が撃破されても
>>重装歩兵を分割して側面や後方を守る事が
>>可能であるが
>>マケドニアやギリシャは無理であると言う事だろうか
この問いはYESです。
ギリシャ諸国の重装歩兵は戦闘単位が縦列で指揮官が居ないため、分派抽出は不可能です。
対するローマは指揮を執れる百人隊長に指揮された百人隊単位で固まっているので、外側なら抽出はたやすいです。
>>隊列がピルムの投擲で崩されれば
>>ローマ歩兵や騎兵に間に乱入される危険も有るかも知れないし
>>極度な密集隊形で間を素早く埋めると言う事は可能なのかと言う事だが
この問いの答えは、相手から攻撃を受ける方向によると思われます。
ファランクスは前後への機動性はそれなりに確保してありますが、左右へのスライドや旋回性は絶無です。
また、ファランクスでは一つの縦列が部隊の重要単位ですので、前が欠ける形の隊列の崩れの是正は容易です。
ですから、ピルムの投擲が前正面から行われれば、間はローマ軍に付け入りを許さないくらい素早く埋まったでしょう。
しかし、側面からの打撃に対しては、そんなに素早く埋めることは不可能であったと思われます。
上述の通りスライド能力も旋回性も絶無ですので、側面を取られたら正面を向くことも難しかったと思われます。
334 :
世界@名無史さん :03/07/12 12:44
ローマ軍団 対 機動隊
>>334 それは比べる対象が間違っていると思われ。
機動隊はあくまで犯罪者を武力で排除する警察。
ローマ重装歩兵は敵国軍を武力で排除する軍隊。
セプティミウス・セヴェルス帝以降の崩壊期ならともかく、それまでのローマ軍に機動隊は敵し得ないでしょう。
336 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :03/07/12 14:53
>しかし、側面からの打撃に対しては、そんなに素早く埋めることは不可能であったと思われます。 まあファランクス側が側面や後方を騎兵に突かれる事の無い地形に布陣していても 歩兵が側面や後方に入れる地形ならファランクス側に勝ち目は 無いと言う事かも知れないが 歩兵も側面や後方に入れない様な地形に布陣された場合はどうかだろうが (側面が崖や川等である場合は 歩兵も側面には投入できぬかも知れぬが 崖の上から石を落とす等の作戦も取り得るかも知れぬが 山の上等に布陣されていた場合は逆に側面に石等を落とされる可能性も有るだろうし 川も渡れるとは限らないと言う事だろうし 仮に渡れてもカタパルトで船を攻撃されると脆い部分も有るだろうか)
337 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :03/07/12 14:59
>歩兵も側面や後方に入れない様な地形に布陣された場合はどうかだろうが 無論この様な地形が無限に続く訳も無いだろうし 敵はここから出れないと言う問題は 有るだろうか
338 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :03/07/12 15:06
まあ仮に其の地形から出ず共 密集隊形では正面からバリスタやカタパルト・ ピルムを大量に打ち込まれれば脆いだろうし これで隊列を崩されれば歩兵や騎兵が乱入する隙も 生まれ得るだろうし ローマ歩兵も軽装歩兵のピルムや バリスタ・カタパルトの攻撃を受け得るだろうが ローマ歩兵は密集隊形ではないので 損害は軽微で済む可能性も有るだろうか (まあ只ローマ歩兵も散開した侭では騎兵に脆いかも知れないが 騎兵が接近したら素早く密集するかも知れぬし ローマ騎兵にギリシャやマケドニアの騎兵は 勝てないと言う事だろうし ローマ歩兵が騎兵に突入される可能性は殆ど無いと言う事だろうか)
339 :
例の170 ◆vBOFA0jTOg :03/07/12 22:58
>>328 んー?これは、コンスタンティヌスの手記かなんかでしょうか。
経済の崩壊の原因を、貨幣素材の不足・流出に求めれば、禁欲的なキリスト教が、東ローマの崩壊を
押しとどめたのかも知れません。
東はミトラ・ゾロアスター教などのシンクレティズムと馴染みが深かったため、しっかりとキリスト教
とその精神が根付いた。しかし西では東方から宗教が流入することはしたが、多神教の伝統が強く、
それらが深く定着することがなかったため、享楽に溺れ続けて、結果経済破綻を招いた。
あれ?(。∀゚)
>>326 スリングの弾の威力は、強烈ですよ。打撃兵器なので、装甲した歩兵への効果は高かったと思われ。
「アナバシス」でも、ロードス島の投石兵が高く評価されていました。
>>339 古代ギリシャでは、バリアレス諸島のスリンガーなど有名な傭兵がいたようですね。
ローマでも、最初の頃はスリンガー兵は軽装歩兵として使われていたようです。
しかし、そのうち廃れてしまったんですよね。
もしかして、ローマが勃興する頃には、技術の進歩(主に盾と兜)についていけなくなったのでは?
青銅製の鎧兜や簡素なチェインならともかくとして、鉄兜と牛の皮を貼った大盾に通用したかどうか…。
341 :
例の170 ◆vBOFA0jTOg :03/07/13 01:35
>>340 いや、トラヤヌス帝は、投石兵の密集隊形を試みたそうです。
むしろ、衝撃を与えてダメージを与えるという特性から、相手の装甲が厚くなればなるほど
その重要度は高まったと思います。
となれば、何故スリングが廃れたか検証しなければなりませんが、
1.弓・弩の発達
スリングはこれ以上発達させようのない武器だが、弓や弩は、弓本体の素材を変えたり
複数の素材を組み合わせたり、矢の鏃を変えたりするなどして、発展させることが出来た。
2.弾の重量
矢より石や粘土弾の方が重いことは明白。
3.訓練の手間
投石兵は、弓兵に比して組織的な訓練を要求されたという。
しかし、ローマで投石兵が廃れたっていつ頃からですか? 私の聞きかじった知識では、
ローマは弓兵より投石兵をより重んじたそうですから。
>>141 データ、ありがとうございました。
トライアヌス帝時代に、そういう実験があったんですか。
トライアヌス帝時代は、ローマが装備面で最も発達した時代ですよね。
その頃に投石兵を新編成して新戦術を求めたのは、何故だったのでしょうか?
ダキアやゲルマン対策だったのでしょうか?
ローマでは、軽装歩兵そのものがそもそも全く尊重されていなかったはずです。
また、時代が下っていき、ローマが豊かになるとそれまで軽装歩兵だった階級も重装歩兵になります。
飛び道具だけ持つ軽装歩兵は、ポエニ戦役時代にはプロレタリアの一つ上の階級のみだったはず。
そのなかで、弓矢ではなくスリングを持つ兵士は、さらに少なかったのではないでしょうか。
自分が漁った文献ではローマ軽装歩兵の装備の特徴はあまり書いてなかったのですが……。
自分が読んだところでは、エトルリアの影響を多分に受けていた時代にはスリングも良く出てきましたが。
ポエニ戦役時代にはスリング兵は相手(ハンニバルの軍)にいたことしか見れませんでした。
その後の諸内乱期にも、スリング兵の話題は出てきません。
記述に出て来ていないだけで、スリング兵は命脈を保っていたのでしょうか?
343 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :03/07/13 14:29
>ローマは弓兵より投石兵をより重んじたそうですから。 まあ石も矢張り投げ槍よりは数が持てるだろうし 矢では盾を貫けないだろうか (石なら盾を持っていてもかなりの衝撃を 与えられるだろうか)
344 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :03/07/13 15:56
>鉄兜と牛の皮を貼った大盾に通用したかどうか…。 まあ軽歩兵には通用したかも知れぬが これは弓でも十分だろうし 盾を構えないマケドニアファランクスは兎も角 巨大な盾を持ったギリシャやローマの重装歩兵には 石が通用したのかと言う疑問は有るだろうか
345 :
世界@名無史さん :03/07/14 17:57
ディオドロスは、バレアレス諸島の投石紐兵の優秀さを以下のように 記しています。勿論、彼らは投石紐兵としては別格かもしれませんが... 「戦争に従事した彼らは他の投石紐兵が放つものよりも遙かにおびただしい 数の石を浴びせ、さらにカタパルトから、放たれたほどの威力をもっていた。 そのため、城壁で囲まれた都市に対する強襲では、狭間や胸壁に身を隠した 防御者をねらい打ちにすることができた。また、会戦ではいかなる防具、 つまり楯や甲冑、兜など装備している者でもその双方をうち砕いた。さらに、 その狙いは非常に正確で、ほとんど標的を外すことはないのである。この理由は 彼らが幼少のころより、母親がそれを強いて、投石紐の訓練を行っていたことに ある。その方法は、少年のころから、投石紐を熟達するために、標的として棒に 固定された一個のパンを狙わせ、それを打ち落とすまで与えないというやり方で ある。そして、見事撃ち落としたものは母親の許可を得てそれを受け取りむさぼり 食うのである。」 と記しています。
346 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :03/07/14 18:59
>城壁で囲まれた都市に対する強襲では、狭間や胸壁に身を隠した >防御者をねらい打ちにすることができた。 まあ弓でも狙えるだろうが 甲冑を有効に貫けるとは限らない訳だろうか >また、会戦ではいかなる防具、 >つまり楯や甲冑、兜など装備している者でもその双方をうち砕いた。 矢張り投石兵は兵を盾越しに倒せたと 言う事なのだろうか
>>345 スポ根漫画の元ネタにでもなりそうな教え方ですね。
>>会戦ではいかなる防具、つまり楯や甲冑、兜など装備している者でもその双方をうち砕いた
ということは、拾った石ではなく専用の鉛玉を使っていたということですか。
どのくらいの大きさなら、盾や兜をカチ割って相手にダメージを与えられたのでしょうか。
詳しい資料が欲しいところですね。
すげーな。民明書房の世界だ
349 :
例の170 ◆vBOFA0jTOg :03/07/14 21:39
>「ど」の字 さん 投石兵やそれを含む軽装歩兵が、ポエニ以前からどうなっていたかは、ポエニ戦争後・マリウスの兵制 ・アウグストゥス・ティベリウス・トラヤヌス時代などの資料を漁ってみないことには何とも言えませんが、 >また、時代が下っていき、ローマが豊かになるとそれまで軽装歩兵だった階級も重装歩兵になります。 投石兵は、同盟国や属州からの補助兵に頼らず、原則正規兵でまかなっていたそうです。 この二つを合わせて考えれば、投石兵の姿が見えなくなってきたのは、スリングの有用性が損なわれた からではなく、ただなり手がいつの間にかいなくなっていたためかも知れません。
まあ投石兵も其れ程強い兵力なら廃れるのかと言う事だが コストの割に役に立たなかった 或いは訓練が必要な割に金が得られなかったと言う可能性も 有る訳だろうか
351 :
例の170 ◆vBOFA0jTOg :03/07/14 23:31
>>351 いかん、スリングと軽装歩兵がごっちゃになってる。流して下さい。
353 :
世界@名無史さん :03/07/15 00:05
一応、手元のガリア戦記の記述によると、少なくともこの時代までは 投石兵は(バレアレス族による)援軍だったそうだ。 更にこの頃は、通常は軍団兵が石を投げることもなかったらしいから、 投石兵が廃れた云々は、実は帝政期になってからの変化ではないかと思う。
354 :
第20軍団兵 :03/07/15 01:18
いやー流れの速いスレですね(笑) >339 貨幣&経済は私もまだまとめきれていません。 ちなみに >328 はディオクレティアヌス+コンスタンティヌス時代ですね。 さてマケドニアファランクスの崩し方ですが、BC200年以降のローマ軍のマニプルスの展開は 2m毎に1人という割合に対し、マケドニアファランクス(以後ファランクス)は0.9m毎に1人になります。 ファランクスは5列目まで槍を構えていたはずなので、計算上マニプルスの歩兵は1人で 約10本相手にしないといけないわけで、事実ピュドナの戦いでは押しまくられています。 押しまくられて戦列が凸凹になった時、あるケントゥリア(=百人隊)が乱戦に持ち込むのに成功した事と、 他の接敵していたケントゥリアが中隊毎に両側の敵兵に切りかかって行った事がファランクスを崩す 契機になりました。 凸凹を作るのにヴェレス(=軽装兵)も力を発揮したのですが、内乱記ではヴェレスの 騎兵に対する弱さが記述されています。 (続く)
355 :
世界@名無史さん :03/07/15 01:28
>投石兵は兵を盾越しに倒せたと言う事なのだろうか どうなんでしょうね? 日本史からですが、 印字打ち《武術》 投石戦闘のこと。比較的飛距離もあり、大量に投げることが可能で、 コスト的にも優れた印字打ちは、戦国期の戦争において重要な役割を 果たしたという。当時の死傷者は、一番が鉄砲、二番が槍、三番が投 石であると言われるほどである。 との事です。
>>355 あのー……。
日本の戦闘は、世界史の参考にはほとんどならないのではないかと。
日本には携帯用の盾という概念が、ほとんどありませんでしたから。
あと、日本には石を遠くに飛ばすスリングが伝わっていないんです。なんででしょう?
357 :
第20軍団兵 :03/07/15 02:53
内乱記の1巻70で、アフラニウスがcaetratae(軽装援軍、装備はヴェリテスとほぼ同じと思われる) を山地の確保のために4個大隊も送り出したのですが、カエサル軍の騎兵に捕捉され、 "ほんの一瞬も持ちこたえられず全員騎兵に包囲され、両軍の見ている前で鏖殺される" という結果に終わったようです。 野戦の際、弓兵、投石兵はハスタトゥス(第1戦列)とプリンケプス第2戦列の間に挟まれて配置されたようです。 (内乱記1巻83)
358 :
世界@名無史さん :03/07/15 08:25
たしか、投石紐ようの弾丸は拳大の鉛か鉄片、重さは約0.5kgもあった そうです。また、それが1ミナ(436g)という単位となったとも言われ ているとか。 大英博物館で発掘された投石紐用の弾丸(石弾)を見たのですが、 確かに拳大の大きさでした。
__∧_∧_ |( ^^ )| <寝るぽ(^^) |\⌒⌒⌒\ \ |⌒⌒⌒~| 山崎渉 ~ ̄ ̄ ̄ ̄
360 :
世界@名無史さん :03/07/17 00:39
>>356 弓矢が発達していたってのも関係あるんでは?
どっちも飛び道具だし、どうせなら狙いがつけられる方がいい。
確か中世以降のヨーロッパでも投石兵の話は余り聞かない。
擲弾兵の話はあるが、あれは爆弾投げるから目標から多少はずれても
被害は与えられそうだ。
361 :
????s??s :03/07/17 00:53
ハッキリ言ってアメリカなどの多民族国家では黒人の方がアジア人よりもずっと立場は上だよ。 貧弱で弱弱しく、アグレッシブさに欠け、醜いアジア人は黒人のストレス解消のいい的。 黒人は有名スポーツ選手、ミュージシャンを多数輩出してるし、アジア人はかなり彼らに見下されている。 (黒人は白人には頭があがらないため日系料理天などの日本人店員相手に威張り散らしてストレス解消する。 また、日本女はすぐヤラせてくれる肉便器としてとおっている。 「○ドルでどうだ?(俺を買え)」と逆売春を持ちかける黒人男性も多い。) 彼らの見ていないところでこそこそ陰口しか叩けない日本人は滑稽。
>>360 日本は地形の起伏が険しい温暖湿潤気候ですから、弓矢が奇形的に発達したというのはあるかもしれません。
しかし、上記で調べてくださった方が居ましたが、スリングも達人ならかなり正確に狙えるようです。
紀元前に発明されていたスリングですが、結局日本には伝わった形跡は無いようです。
シルクロードを越えて運ばれなかっただけ、なのでしょうか?
盾というものを持った歴史が全くと言って良いほど無い日本なら、スリングは恐ろしい威力を発揮したでしょうに。
(日本で大盾の密集隊形を使ったのは、自分の知るところでは京都の市街戦で足利尊氏を追い出した楠木正成のみ)
中世以降のヨーロッパは鎧が段々重装化していったようですので、それについて行けなくなったのかも。
366 :
第20軍団兵 :03/07/18 01:48
>358 表面に何か書かれていませんでしたか?自分が見た本には"L.XIII(=第13軍団)" 別の面に"A"(=徴兵した地名)が書かれている物が紹介されていました。 (おそらく時期から言ってイタリアの地方でしょう) ミナですか。うーん?上か下の単位もあわせてご紹介いただけませんか? ローマ世界でのメジャーな単位はリブラ(=324g)ウンキア(=27g)だと思っていたので。 ちなみに1リベラ=12ウンキア
>>365 スリングは、日本では「投弾帯」と呼ばれるものがあります。
確かスリングが存在しない地域は、オーストラリア大陸だけのはずです。
日本で投弾帯が廃れたのは、騎乗して使えなかったからじゃないでしょうか。
あるいは、それだけ日本の弓が高度で、進化が急激だったとか。
368 :
第20軍団兵 :03/07/18 02:44
どうも史料を(というか内乱記)を読んでみると、BC1c頃には軽装兵というのは同盟軍 にまかされていたようで、ヴェリテスという言葉に行き当たらないのです。 投石兵&弓兵も同盟軍のようですね。 ローマ軍が重装兵に特科していった理由として、 1.弾の補給が大変な割に殺害力に欠ける(ディッラキウム戦でにおいてポンペイウス軍は1日の戦闘で30,000本 消費したのに対しカエサル軍が被った損害は20人死亡、負傷兵多数-内乱記3巻53) 2.軽装兵、弓兵、投石兵は敗走したとき大損害を受ける >357 の戦い、パルサロスの戦い(内乱記93-94) 特に2は不利な状況で軍営地に戻って相手に攻城戦を強いるという手を封じられる戦術的なまずさと、軍団兵は将軍 (後には皇帝)の支持者なのでコロコロ死なれては票が減るので政治的にまずい点を挙げられるのではないかと思われ。 傍証として、元首制期には弩兵machinatoresを独立させ、カロバリスタ(11人で操作する)をケントゥリア(=中隊)に1機、 オナゲル(攻城用-ただし直射もできるように作られていた)をコホルス(=大隊)に1機の割合で配備したようです。 いずれもこれまでの歩兵隊の間ではなく、歩兵隊の後ろから援護できるだけの射程を持っているようですね。 トラヤヌス記念柱に弓兵が見られる事から、補助軍の方では依然弓兵のニーズはあったようですが...
369 :
世界@名無史さん :03/07/18 03:04
話題になっているminaは、小アジア重量・貨幣単位のでしょうか? 確かに、ギリシア・ローマ世界でも使われたとは思いますけど。
>>367 伝わっていたのですか!
一体、時代的にはいつ頃の資料でしょうか?
>>368 カエサルとポンペイウスの抗争を描いた「内乱記」の時代は、古代ローマのスペシャルケースなのでは?
カエサルもポンペイウスも、当時としては例外的な名将で、特にカエサルは騎兵運用の達人です。
ドゥラキウムの攻防戦では、カエサル軍もポンペイウス軍も主に(急造ではあれど)構造物に拠っての戦いでした。
それ故に損耗率が少なかったものと推定されます。
軽装兵、弓兵、投石兵は確かに潰走し易いのですが、潰走時の被害は重装歩兵>軽装射撃兵のはず。
重装歩兵は、一旦潰走し始めたら足が遅い分逃げられませんから……。
騎兵に包囲されるというような事態にならなければ、生存率は軽歩兵の方が上では?
アフラニウスの敗北もポンペイウスの敗北も、共に優れたガリア騎兵を擁するカエサル相手の敗北でした。
同時代での類似ケースには、スレナスの軽弓騎兵一万に潰されたクラッススのパルティア遠征軍があります。
これら全ては、機動力ある騎兵の運用に優れた軍事的指導者に敗北した例です。
>>342 トラヤヌスが投石兵の密集隊形を試みたのは、どうやらパルティア遠征に備えてのことのようです。
BC40,38に、執政官プブリウス=ウェンティディウス=バッススがカルラエの屈辱を果たすかのように、
小高い丘に陣取り、投石兵を中心とした軽装歩兵をもって、パルティア重装・軽装騎兵を二度とも潰走
させています。弾の重みによりダメージを与える投石は、高所の利をより生かせた事でしょう。
トラヤヌスは、このことからパルティア騎兵には軽装歩兵が有効と読み取り、それを強化しようとした
のでしょう。
遊牧民族を母体にした軽装弓騎兵軍に、農耕民族を母体とした歩兵軍が野戦で打ち勝つには、野戦築城
でなければ、強力・長大な騎乗して使えない飛び道具をもって戦うしかありませんし。
>>370 弥生時代のものが、遺物として見つかっているみたいです。
あと、平安時代の年中行事絵巻にも散見されるようです。
弥生時代後期には、長弓の普及に呼応するかのように早くも廃れてしまったようですが、その後も
年中行事などの印地打ちでしばしば使われたみたいです。
戦国時代の甲斐武田家が「水股隊」と呼ばれる投石部隊を要していた事が知られていますが、戦場で
投石をまともに運用するには、投弾帯や「飄石」というスタッフスリングの助けなくしては不可能だった
と思われます。
>>371 詳細ありがとうございました。
重い弩を使った野戦用の対軽騎兵(胡弓)戦術は、全周防御円陣による諸葛亮の八陣が有名ですね。
古代ローマにも、同様の重弩使用の陣形があったのでしょうか?
今度、モンゴルの軽騎兵がどうして敗れ去ったかと合わせて調べてきます。
モンゴルも基本は軽弓騎兵ですから、参考になる文献があるかも。
>371 訂正。 二段目一行目 >BC40,38× >BC39,38○ BC40は遠征開始の年度でした。すみません。
>遊牧民族を母体にした軽装弓騎兵軍に、農耕民族を母体とした歩兵軍が野戦で打ち勝つには、野戦築城 >でなければ、強力・長大な騎乗して使えない飛び道具をもって戦うしかありませんし。 まあ槍歩兵で騎兵が阻止された例も有っただろうが 弓を装備する軽装歩兵は槍歩兵では阻止出来ぬ訳だろうか >重い弩を使った野戦用の対軽騎兵(胡弓)戦術は、全周防御円陣による諸葛亮の八陣が有名ですね。 秦や漢の時代にも匈奴の騎兵を弩を装備した歩兵で撃退したと言うが この際には円陣は使わなかったのだろうか >今度、モンゴルの軽騎兵がどうして敗れ去ったかと合わせて調べてきます。 エジプトでマムルークに負けたのは数の問題も有るだろうが アラブ側も弓を装備した軽装騎兵や弓歩兵が 大量に存在した故で有るかも知れないが (十字軍はクロスボウ歩兵・重装歩兵+重装槍騎兵だろうから これは軽装騎兵と弓歩兵に撃破された訳だろうか)
まあしかし十字軍のクロスボウをアラブ軍が恐れていたとの 記述も有る様だが 十字軍のクロスボウはアラブ軍やモンゴル軍の弓やクロスボウを アウトレンジ出来たのか 或いはアウトレンジ出来ても数が無かったと言う可能性も有るのだろうか (或いは戦術の問題で西欧では騎士が常に戦場では先陣を切らねば成らず クロスボウは騎兵が突撃した後に使用されていた可能性も 有るかも知れないし 西欧の騎兵もモンゴルやアラブの弓騎兵や弓歩兵に突撃すれば 弓の使えない雨天でも無ければ壊滅は免れ得ない訳だろうか)
アルスーフではリチャードは騎兵を後衛に下がらせ クロスボウでアラブ兵をアウトレンジする戦術に 徹したのかも知れないが 結局自分が主役に成りたいと考えていた 騎兵の突撃は抑えられなかった様だが これは敵が混乱する迄遅らせられた訳だろうか
>ポンペイウス軍は1日の戦闘で30,000本 >消費したのに対しカエサル軍が被った損害は20人死亡、負傷兵多数 まあこれは攻城戦ではなく野戦での結果なのか 野戦であるとすれば地形やスクトゥム等で矢が 大量に阻まれたと見て良いのだろうか
378 :
世界@名無史さん :03/07/22 13:02
>366 たしか、ディオドロスに書かれていたものと記憶して います。 投石紐の弾=1ミナになったという話。 私が見た物は実物ですが表面に何も書かれて いなかったと思います。 (写真は撮ったのですが....いま、手元になくて....)
379 :
世界@名無史さん :03/07/22 20:45
>>377 攻城戦というか野戦というか、
ポンペイウス側からすれば「解囲戦」だな。
要はデュラキウムを包囲したカエサルが水脈を断ち、
ポンペイウス側は徐々に水不足に悩まされるようになっていく。
それを打開するべく戦った作戦。
包囲するカエサル側は、色々と見張りの塔などを作っていて、
解囲戦に際してもそこに篭もって防いだようだ。
二回目の、ポンペイウス側の夜襲では防ぎきれなかったらしいが。
380 :
世界@名無史さん :03/07/22 20:53
質問でーす。 ローマの国旗と国家ってどんなのだったんですか。
国旗はこんなんだったっけ? 軍旗だったかな? 映画でも観ればええと思われ S P 鷲 Q R 国家はこれ ここ 七つの丘 ローマ 目をあげて きみとぼく きみとぼく 市民と市民 元老院のなかからも きらめかねばならない 若い稲妻 ゆんゆん ああ 何のために奴隷はいるのか 発進しよう 激しい軍勢を ルビコンのむこう 蛮族の空の星にまで 発進 ゆんゆん 発進 ゆんゆん 発進 ゆんゆん 市民と市民
>>381 ふぉ。いやいや、久方ぶりに、切れ味のよいレスを見さてもらったのぉ。
善哉、善哉
383 :
第20軍団兵 :03/07/23 00:31
>370 >379 氏が戦闘にそのものについて語ってくれたので、壊走時の事についてお答えします。 前述のとおり、ハスタトゥスとプリンケプスの間に弓兵等を置くと、前列と後列を入れ替える際に 混乱する傾向にあるようです。弓兵達が恐怖で逃げて来るとプリンケプスの戦列が "方陣をずらしての壁"を作るタイミングを逸してしまうということだと思います。 ローマ軍は秩序だった行動を取れれば、軍営地まで戻ってそこにこもればよい訳ですから、 そこでの防御戦の事を考えても、弾幕型の弓や、投石よりも、直射タイプの投げ槍や、 バリスタが好まれたのかな?と思います。 「内乱記」を例に取ったのは、敵味方とも大規模な投射武器を投げ合い、かつ野戦の司令官の記述だと いうことからです。(ポリュビオスの記事ではまだ投石兵や弓兵が登場したばかりですしね。)
>>383 なるほど。ありがとうございました。
とにかく潰走せずに野営地に逃げ切ってしまえば良いわけですね。
そこに行くまでに兵力を消耗し尽くすと、「ガリア戦記」での15大隊壊滅みたいなことになるわけですか。
レギオンあげ
だっそうへいこそそそ
死刑。>386
十分の一いったれや。
QQQQRローマ帝国QR ローマ帝国、ローマ帝国 SPQR (文化放送の曲で…)
十分の一刑 1.くじ引きで10人のうち1人を選ぶ。 2.その一人を残りの9人が殺す。 3.9人中殺害に協力しないものは、死刑。 4.くじ引きで選ばれたものが死んだところで終了。
(⌒V⌒) │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。 ⊂| |つ (_)(_) 山崎パン
あたりです>388
化学的知識の進展が後300年早かったら、ローマは蛮族の撃退に成功していただろうか? ギリシャ炎火薬詰めた壺を発射出来る野戦用バリスタを数十門並べれば、ゲルマン人なんざ戦団ごと丸焼きw
ローマ人がジャポネーゼに会っていたとしたら、ゲルマン人と同じく蛮族扱いだっただろうな。
>>393 さて、西ローマ帝国滅亡の原因自体、自軍団の統制をミスったことこそが主原因だし、
ゲルマン人自体、ローマに戦争を仕掛けたわけでなく、強引な方法で居留地をもらおう
としただけだから、もし西ローマ帝国が存続したならば、ゲルマン人も以前の諸民族の
ようにローマに吸収されたかも知れない。
とすれば、そういう問題じゃないかも。
それに第一、ギリシア火が主に活躍したのは攻城戦と海戦だから、そのどちらのノウハウ
もないゲルマン人相手にはギリシア火はあんまり意味がないと思われ。
397 :
第20軍団兵 :03/09/23 23:31
>372 カロバリスタ(石弾、あるいは槍を飛ばす)がケントゥリアあたり1基、 オナゲル(石弾のみ)が大隊当たり1基、配備されているので、 当然騎兵防御用の陣形は訓練されたでしょうね。 それを明確に記している文献はちょっと思い付かないのですが、いつも劣勢のローマ騎兵は たびたび壊走するのですが、結局歩兵隊の陣地に逃げ込んで、再編後反撃に転じるのがパターンの様です。 他に、ガリア戦記か内乱記だったと思うのですが。劣勢の騎兵隊を補強するために騎兵と軽装兵の混成隊を 組んだりしていますね。
398 :
世界@名無史さん :03/09/24 11:39
>>297 騎兵と軽装兵の混成は、もとはゲルマニア人の戦法だった。
それをアリオヴィストゥスとの戦いで見たカエサルが、
後に自軍で採用したと思われる。
ちなみにゲルマニア人がそういう戦法をとった理由は、
彼らの馬が小さかった(道産子くらいの大きさ)ためのようだ。
>339 328は夏目漱石の「ぼっちゃん」が元ネタと思われ。 たしか温泉で泳いだ後のあたりだったかと。
対ポンペイウス戦だから、内乱記だね。 しかし、カエサルより前にローマ軍は混ぜ込みを使っていた。 同趣旨の書き込みをこの板で見た後で、本を読んで「ああ、カエサルが初めてというのは 違うのか」と感想を持ったので、俺的には間違いない。しかしどの戦いだったかわからないと、 信用ないだろうなあ・・・・・・確認までは日数がかかりそうだ。
401 :
例の170 ◆vBOFA0jTOg :03/10/07 01:14
軽装歩兵と騎兵の混成編成とはちょっと違うかも知れませんが、ローマには騎兵のケツに軽装歩兵を 乗せて目的地まで運んで、軽装歩兵を降ろして戦うという戦法が伝統的にあったそうなので、そこから 生まれたのかも。
書き忘れ。
>>399 でしたな。ガ板にもありました。
403 :
世界@名無史さん :03/10/16 13:15
>>320 924 :世界@名無史さん :03/10/06 20:04
>>920 >>921 アリウス派はギリシア哲学の流れを汲み、理性的「科学的」論理を重んじました。
「神性と人性は截然と分かつべきものであり、キリストの本質をなすのはその神性である。
神のみが永遠不滅であり、神以外のものはすべて神に創られたものである。したがって
子なるキリストにおける人性は、ほかの被造物とは異なる完全無欠のものではあるが、
あくまで創造されたものであり、その本質において父なる神とは異なる」
という主張です。
325年の公会議でいったんはアタナシオスの信仰を「正統」と認めたコンスタンティヌス
大帝自らが、会議後はたちまち親アリウスに傾いています。
404 :
世界@名無史さん :03/10/31 06:59
11月3日 TBS・TV 夜8時〜10時54分 超歴史スペクタクルU 古代ローマ夢と挑戦!!蘇る世界初の大帝国! 人類史上、最も愛され最も憎まれた男カエサル 2000年の謎が今、解き明かされる ▽ローマ帝国はなぜ栄華を極めたのか?答えはカエサルの夢にあった ▽作家・塩野七生が語るカエサル像 ▽暗殺された理由
405 :
世界@名無史さん :03/10/31 07:02
404の予告編 11月3日 TBS・TV 午後3時55分〜4時55分 今夜放送!古代ローマ夢と挑戦 雨宮塔子ローマ巡り
406 :
世界@名無史さん :03/11/03 10:34
TBSって正月にもローマを扱った番組をやってたような気が・・・ ハリウッド映画が情報ソースの電波番組だったが今回は大丈夫なんだろうか
407 :
世界@名無史さん :03/11/03 15:17
グラディエーターの衣装の詳細でてるサイトありません?
408 :
世界@名無史さん :03/11/03 15:19
映画と同時代のリアルローマの衣装じゃなく?
409 :
世界@名無史さん :03/11/03 15:58
410 :
世界@名無史さん :03/11/03 16:20
9時からTBSの 古代ローマやるってさ、おもしろう エイジオブエンパイアでもローマがいちばんすきだし、 ヒッタイト、ペルシアもすきだが
411 :
世界@名無史さん :03/11/03 16:35
またシオノですか。またカエサル賛美ですか。
本屋の売り場のような、スレの上がり方だw
リアルでもいいです。 模型板からきたんで細かい部分どうしようかとおもいまして。
グラディエーターの様に歩兵も密集隊形を取っては ピルムに貫かれバリスタ・カタパルトでやられるだろうし ローマ兵は攻城戦以外は密集隊形等取らなかっただろうか (攻城戦の際も盾越しに槍や投石でダメージは受けるだろうし 密集隊形は効果は無かった可能性も有るだろうが) まあ只ローマの敵である ケルトやマケドニア・ギリシャ・北アフリカ等が使用している槍は ピルムとは異なり槍の先端の金属部分が小さいし 槍を深く貫く事は出来なかった可能性も有るだろうし 密集隊形を取っても敵のバリスタやカタパルトの数が其れ程でも無ければ 損害は小さかった可能性も有るだろうし 槍や弓を避ける為に密集する意味は有ったかも知れないだろうか まあ只フランク族の使用するフランキスカやアンゴならローマの盾も 打ち破れるのかも知れないが この種の武器と言うのは何時頃使われたのだろうか
ローマの騎兵や歩兵もピルムのみを装備していた訳では 無い様であるし 長槍を持つ歩兵や騎兵もイラストには 描かれているが 此れはどう使われたのだろうか 騎兵の長槍はマケドニア騎兵よりは短い様に見えるが 投げ槍を持つヌミディア騎兵には勝てなかったのだろうか
初期にはローマ歩兵も長槍のみだったが 後には3列のマニプレスの二列目のみが 長槍を装備していたと言う事だろうか (矢張り投げ槍や剣だけではなく槍の接近戦での効果もローマは 考えていたと言う事だろうか) 軽装歩兵でピルムではなく長槍を持つ兵が存在するが これも接近戦のみを想定している兵である訳だろうか
末期ローマではピルムは使われずジャベリンとダートに成ったが これはローマの敵の蛮族が巨大な盾を余り使用していない所為なのだろうか ローマの騎兵や軽装歩兵はピルムでは無くジャベリンの様な投げ槍を持っているが これは対騎兵や軽装歩兵を主な敵に想定しているからだろうか
>後には3列のマニプレスの二列目のみが >長槍を装備していたと言う事だろうか 2列目ではなく3列目が長槍を持っていたとの記述も有るが 実際はどうだったのだろうか >ローマの騎兵や軽装歩兵はピルムでは無くジャベリンの様な投げ槍を持っているが >これは対騎兵や軽装歩兵を主な敵に想定しているからだろうか 楯で全体をカバー出来ない騎兵や軽装歩兵に対しては ピルムは無用でありジャベリンを使用すれば十分と言う事だろうが ピルムを持つ軽装騎兵も存在しただろうか ローマ歩兵も後期に成るに従い盾が小型化されている様に見えるが これはアンゴやバリスタ・カタパルト等を使われれば盾は役に立たないと見て 軽量化されたのだろうか
2列目の槍を持った兵はピルムで隊列が崩れた兵を槍で攻撃していたのか 或いは剣を持って突入した前列の兵士を後方から槍で援護していた可能性も 有る訳だろうか
420 :
世界@名無史さん :03/11/15 12:22
東ローマ帝国の秘密兵器、「ギリシアの火」の製法は最期の最期まで 他国に漏洩しなかったのか?
421 :
世界@名無史さん :03/11/16 18:50
>>420 アラブ・トルコ人が十字軍相手に使っている。
ローマ兵も雑兵は剣は余り使えず投げ槍もまともに投げられなかった可能性も 有るだろうし 殆ど長槍を使うしか無かったと言う事なのだろうか
423 :
ミルトン ◆cA7oIM8fok :03/11/18 17:58
>>422 歴板住人は戦術・兵器は詳しくないから
是非ソースを出してくれたまえ。
424 :
ミルトン ◆cA7oIM8fok :03/11/18 18:03
そういえば最近、東洋書林だったか?から ローマ、ギリシアの戦いの本でてたな。 初心者はあの本でよろしいのでありますか? 某研閣下
425 :
例の170 ◆vBOFA0jTOg :03/11/18 21:01
>>420 逆です。名前から誤解されやすいですが、ギリシア火はもともとはアラブ側の技術です。
673年にレバノン出身のカッリニコスという建築家が、ギリシア火の製法を手みやげに
ビザンツに寝返ったそうです。
当時のアスファルトの採掘場所や蒸留技術の発祥の地である事などから、おそらくは
西ペルシアあたりで開発されたものと思われます。
まあそうであればアラブ軍がギリシャ火を使ってコンスタンチノープルを 落とせなかったのかと言う事だが どうなのだろうか
古代ローマと関係ありませんが イスラムでは焼痍兵器が古くから使用されています。 これは化石燃料を使用することができたから。 それを使う専用の部隊(ナファットゥム)も編成されています。 良く知られているのは発火物を陶器につめたいわば手榴弾または火炎ビン などですが、投石器でルイ9世率いる十字軍の陣営に投擲して大きな効果 をあげたと伝えられています。これは13世紀のこと。 中国のモウカユキ(漢字をどわすれした)のようなザッカーラと呼ばれる 火炎噴射機の存在が9世紀の写本から知られています(少なくともそれ以前 に知られており、9世紀には公にされる程度の技術でしかないということ) 噴射された火炎はおよそ10mほどの距離までとどき、十字軍士はこの“龍”の 火炎に触れると絶命すると信じていました。 >426 ギリシア火のような兵器は射程の問題から、接近して攻撃をしなければならず、 コンスタンティノープルの城壁にとりつくには多大な犠牲が伴われると思われます。 また、そもそも燃やしてしまうつもりも無かったと思いますが。 あと、確か「ギリシア火」というのは十字軍達が呼んだ名称であって、 ビザンツやイスラムでは別称があったと思うのですがこれまた ど忘れしました(^^;
428 :
世界@名無史さん :03/12/26 00:09
>>424 そうそう、気になっていた。内容がしっかりしているのか否か。
しっかりしていれば、買う価値がありそうだが、
ただの情報の寄せ集めならイラン。
西欧文化は淵源にユダヤキリスト教的なものとローマ的なものがある。 ローマ的なものが男性で、キリスト教的なものが女性を現しているように 思われる。ローマ人は自殺をした。ローマ人に惹かれるのは、名誉、誇り、 、克己心があるからだ。人間観についても辛口なところが良い。老人に なると人間観も酒と同じで甘口は嫌いだ。
http://www.nippon-nn.net/mishima/annai/rome/ べるジャッキーニは「國のため現世に生きるより武士の魂を
蘇らせる行為に三島は価値をもとめたに相違ない」のであり
「サムライの精神はキリスト以前の古代ローマのサムライ精
神と酷似するものがあるに違いない」とし、まさに三島は
「名誉の人生を完結した」。だからイタリア人も「同じ行動
が必要とされるのではないか」と最後の檄文調である。
事実ジャッキーニの事務所で雑談したときに彼の自慢の
日本刀を見た。筋金入りの武士道哲学模索者である。
彼の書棚は西田幾多郎、鈴木大拙、道元などの禅とニーチェ、
ハイデガーが三島の著作とともに並んでいた
前の話題だけど、>427って元寇のてつはうと同じものなのかな。 > 良く知られているのは発火物を陶器につめたいわば手榴弾または火炎ビン これ。 博多沖から、直径約14cmのそういう感じの陶器が上がってるとかなんとか。
>>401 歩騎混成は、なんと『アレクサンドロス大王東征記』にあった。
交戦直前に騎兵の半数をおろして歩兵にし、残り半数の騎兵と組
んで戦わせるもの。地中海人にとって知らない戦術ではなかったと
すべきか。
ローマ人の物語のハンニバル戦記読んでハンニバルにほれちたよ ここらへんの物語で面白い本本他にある? もっと読みたい
>>427 ビザンツ側の呼称は『燃える水』ではありませんか?
ところでカリニコスはレバノン出身のギリシア人?
>>433 オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズの「カルタゴ戦争」なんてどうよ
オスプレイは図版がわりかし少ないよね。 特にカルタゴ側のが少ない。 リビア人とカルタゴ兵の軍装がもっとわかる、絵的な資料てないもんかな。
438 :
世界@名無史さん :04/01/22 17:49
【ハミッポイ(αμιπποι)】 アレクサンドロスが創設した新兵種。 “騎馬重装歩兵”と訳される。6,000騎ほどの騎兵部隊に300〜500名編制の 重装歩兵をその装備のまま騎乗させ、状況に応じて歩兵部隊として戦わせる という歩騎両用の部隊。クルティウスはこれをディマカエ(dimachae)と呼ん でいる。ギリシア世界では元来ペゾイ・ハミッポイという同種の部隊があった が、これは皆、軽装で戦場で騎兵部隊に随行しただけである。対してハミッポイ は敵の追撃戦など、長期的な作戦に用いることができる独立部隊であった。 【ぺゾイ・ハミッポイ(πεζοι αμιπποι)】 「軽歩兵」と訳される。騎兵に併走して戦闘を補助したと言われている部隊。 アリストテレスの『アテナイ人の国政(49.1)』に言及される箇所がある。 機動部隊に歩兵を加える試みは古代エジプトにも見られた。 新紀元社刊、『古代ギリシア人の戦争』より
とりあえずセヴェルス朝以後の編成とか階級とか興味があります。
440 :
世界@名無史さん :04/02/24 12:16
>>437 オスプレイのMAAより図版の豊富な資料って、何かご存知ですか?
>>439 共和制末期から五賢帝時代なら、
MAAの『ローマ軍 カエサルからトラヤヌスまで』
が丁寧に解説されているようです。
全期間に渡るなら、東洋書林の『【図説】古代ローマの戦い』ですかね?
もっとも図説というわりには遺跡/彫像/レリーフなどの写真が中心ですけど。
>【ハミッポイ(αμιπποι)】 > アレクサンドロスが創設した新兵種。 >“騎馬重装歩兵”と訳される。6,000騎ほどの騎兵部隊に300〜500名編制の >重装歩兵をその装備のまま騎乗させ、状況に応じて歩兵部隊として戦わせる >という歩騎両用の部隊。 まあ此れは騎兵としては運用されず 歩兵を乗馬して移動させるだけなのだろうか
443 :
世界@名無史さん :04/03/26 02:42
ハミッポイにしろ近代の竜騎兵にしろ 下馬戦闘の時は、どこに馬をつないでおくんだ?
竜騎兵は下馬しなかったと言う意見も有るだろうが 中世の騎乗して移動するタイプの重装歩兵や弓兵は 矢張り下馬して戦闘していたのだろうか
445 :
世界@名無史さん :04/03/26 16:10
騎兵には従卒・従者がついていましたから――レリーフなんかには雄々しく 戦う騎兵の後ろのほうで予備のピルムを数本持った従卒が小さく表現されて ます――彼らが馬の面倒を見ていたのではないでしょうか? ビザンツの頃になると、あまりにも歩兵が戦力にならんので――カロリング 朝フランク王国の徴収歩兵なんか農民が鎌を持ってるだけで、装備・編成・ 訓練のどれをとってもローマ時代の重装歩兵のような真似は無理でせふ―― カタフラクトが下馬して歩兵として戦うことか恒常化していたそうだ。
446 :
世界@名無史さん :04/03/26 16:27
>>445 従卒・従者が付いてたのは、騎兵じゃなくて「騎士」じゃないですか?
騎士とは、威厳の面からも実用の面からも、必ず馬に乗っていたと思われ。 (あの重い鎧を着て歩けますかい!) ただし、馬に乗っているからと言って、「騎兵」であるとは限らない。 日本の戦国時代、馬に乗った武士はたくさんいたが、いわゆる西欧的な「騎兵」はいなかった。 単独で馬に乗っているだけでは、「騎兵」的な戦いはできないね。 となると、従者を従えた「騎士」は「騎兵」ではないな。
448 :
世界@名無史さん :04/03/27 08:54
>>446 間違いなく『騎兵』であります。
手元に『ノリクム支援軍騎兵ティトゥス・フラウィウス・バッススの墓』のレリーフの
写真があるのです。蛮族を馬蹄にかけている構図なのですが、騎兵の後ろに予備の
ピルムを二本持った従卒が彫りこまれております。
共和制前半期に騎兵が重装歩兵よりも多くの大麦を配給されたのも、馬に喰わせるため
ではなく、従卒の食い扶持だったと思います。古代地中海世界の騎兵というのは後の世
のモンゴル騎兵のような使い方ができませんでしたから、其の辺区別してください。
>>447 そう言えば、司馬爺が日本の騎馬武者を騎兵として投入できたのは源義経と桶狭間の織田
信長だけだったとかいておりましたな。残りは騎乗歩兵として下馬戦闘に参加したとのこと。
>ビザンツの頃になると、あまりにも歩兵が戦力にならんので――カロリング >朝フランク王国の徴収歩兵なんか農民が鎌を持ってるだけで、装備・編成・ >訓練のどれをとってもローマ時代の重装歩兵のような真似は無理でせふ―― >カタフラクトが下馬して歩兵として戦うことか恒常化していたそうだ。 まあ歩兵の弓や投げ槍位は役に立つのかも知れぬが これは少数なのだろうか >そう言えば、司馬爺が日本の騎馬武者を騎兵として投入できたのは源義経と桶狭間の織田 >信長だけだったとかいておりましたな。残りは騎乗歩兵として下馬戦闘に参加したとのこと。 まあ只騎兵が乗馬して戦っている絵は非常に多いが 実際は余り無かったのだろうか
450 :
世界@名無史さん :04/03/27 10:57
カタクラフトと一言でいっても時代によって色々違っていた カタクラフトは少数精鋭
東ローマの装甲騎兵の馬鎧は ダートや投げ槍を止める為の物では無いだろうし 弓に対抗しての物かも知れぬが この時代には弓が多用され始めたのだろうか (西欧の十字軍頃の鎖帷子を用いた馬鎧等矢には全く歯が立たないだろうし 殆ど無意味な物だっただろうか)
452 :
世界@名無史さん :04/03/28 12:55
>>450 タギナエの戦いでナルセスが……という記述があったのでビザンツ初期の頃では
ないかとおもいます。
>>451 カタクラフトゥスが集団で駆け寄ってくるという姿は統制の取れていない
歩兵集団には、充分すぎるほどハッタリが利くのでは?
後世、イングランドのロングボウ兵は指揮統制・訓練・兵站が充分揃っていたので
フランス軍装甲騎兵に対してクレーシーで騎乗突撃を粉砕し、ポワチエで下馬戦闘を
試みた装甲騎兵を槍兵もろとも粉砕してますから。
>ポワチエで下馬戦闘を >試みた装甲騎兵を槍兵もろとも粉砕してますから。 まあ只ポワティエで決着を付けたのは英の乗馬騎兵の 仏下馬騎兵への突撃だろうが 英弓兵が仏騎兵を下馬させねば乗馬騎兵の数の差を考えれば 勝利は有り得なかった事だろうか
454 :
世界@名無史さん :04/03/28 20:30
豊島区立中央図書館の小松崎さん、かわいい。
455 :
世界@名無史さん :04/03/28 21:29
>装甲騎兵を槍兵もろとも粉砕 フランス軍の主攻勢をイングランドのロングボウ兵が矢の雨で磨り潰し、 ヘロヘロになったところを、ガスゴーニュ騎兵の馬蹄で蹂躙した……と 書かないとがまずかったですね。 かしこみかしこみ……。
仏騎兵も下馬してはランスも構えておらぬだろうし 英の槍騎兵の乗馬突撃には一方的に撃破されるだけだった訳だろうか
カタフラクトとカタクラフト、正しいのはどっち?
458 :
世界@名無史さん :04/03/29 15:30
英語の綴りは『CATAPHRACT』です。
459 :
世界@名無史さん :04/03/29 15:40
古代ローマの兵士 まだ、帝国を築く前の段階では男性市民皆兵士で、 野良仕事には父子で出かけ、 農作業の後には取っ組み合いで体を鍛え、 教養は1〜10まで数えられれば、十分だった。 貴族階級も当初は皆歴戦の勇士で憧れの的だった。 と世界史で聞いたが。
460 :
世界@名無史さん :04/03/29 22:41
>教養は1〜10まで数えられれば、十分だった。 頭が空っぽのほうが下手に教養の詰まった奴より、工兵としての技術が仕込みやすいということかな。
ローマって12進法じゃなかったっけ?
462 :
世界@名無史さん :04/04/03 09:23
『X』の次が『XI』だから十進法ですね。 暦や時間、度量衡に十二進法や十六進法、二十四進法、六十進法が混在しているのは 現代とさほど変わりがないようですし……。
『X』の次が『YI』だから六進法ですね。
六進法× 五進法○
465 :
世界@名無史さん :04/04/04 11:33
勘違いなさっているようなのでアラビア数字で表記しますが 五進法の1,2,3,4,10,11,12,13,14,20,21,22,23,24,30って 十進法の1,2,3,4, 5, 6, 7, 8, 9,10,11,12,13,14,15にそれぞれ対応するのですよ。 5円玉、50円玉、500円玉が混じっていても日本のお金の数え方を五進法で位が一つ上がる とは言わんでしょう? 単に『IIIII』と書くと面倒な上に場所を喰ってしまい数え間違うかもしれないから 『V』と表記しましょうとお約束したに過ぎないのですよ。
466 :
世界@名無史さん :04/04/06 21:12
PCのゲームで、プレトリアンガリアってのがあるんだけど、 やってる人いる? いろんな陣形組めるよ
467 :
第20軍団兵 :04/04/07 22:09
>460 ポエニ戦争以前の古き良き時代のお話だね。 つーか、ホルテンシウス法(BC287)までの身分闘争はどうなった?と突っ込みたくなる。 身分闘争が終わるとすぐポエニ戦争(BC264〜)に突入するんだけど。 工兵がある程度専門化するのはBC200年ごろに行われた軍制改革以後の話だと思う。
468 :
世界@名無史さん :04/04/07 22:29
プレトリアン・ガリア戦記もケルティック・キングスも持ってはいますが、 箱に入ったまま……。やらないともったいないとは思っているのです。
469 :
第20軍団兵 :04/04/07 23:03
プレトリアン・ガリア戦記、面白そうですね、でも鎧兜の考証は間違ってる。あれは5賢帝頃のモノ(でも面白きゃそれで良し!!) ちなみにSLGはWW2モノかSFものしかやったことがない。
470 :
世界@名無史さん :04/04/07 23:33
>448 信長はほとんど騎馬武者を使ってないよ。
471 :
世界@名無史さん :04/04/09 09:57
>470 だからわざわざ桶狭間の織田信長って書いたでしょ。
473 :
世界@名無史さん :04/04/13 14:53
>469 インペリアル・ガリック型の兜 ロリカ・セグメンタタ ティベリウス帝後期〜トラヤヌス帝時代の装備の良い軍団の歩兵か。 デザイナの参考にした資料が オスプレイのMAA『ローマ軍〜カエサルからトラヤヌスまで』 であるようなことをうかがわせるパッケージだ。
474 :
世界@名無史さん :04/04/23 20:20
>>474 激しくガイシュツ・・・。
コリント式の方がカッコ良さそう
476 :
世界@名無史さん :04/04/24 22:31
ロリカセグメンタタが40,000円 ローマントルーパーヘルムが18,000円 スクトゥムが20,000円 トルーパーベルトが15,000円 ローマサンダルが9,000円 軍人用チュニックが10,000円 マインツ型グラディウスが25,000円 軍団兵1人分で137,000円かぁ。 なるほど、共和政期は装備自前だからプロレタリアートは用意できないだろう。 帝政時代も員数揃えるために、いかに多くの国庫支出と皇帝の懐から銭が出て行ったか痛感するね。 でも有志で、亀甲隊形を組んでみたいと思うぞ。
>>471 どっちにしても疑わしいですよ。今では
「信長が攻めたのは桶狭間ではなく、桶狭間山。」
という事になっていますし、義経の方も全員馬に乗っていたかどうか。
鵯越の逆落の場所に行ってみたことあるんだけど、間違っても馬で降りられるような場所じゃない まあ、アメリカには自転車やバイクに跨って崖から落ちるだけのスポーツも存在するから、ぶっちゃけありえないとは言わんが、 あのアホみたいな峡谷を転げ落ちれたとしても、行き着く先は平氏じゃなくて源氏の本陣なんだよな
現在の「鵯越」とは別の場所だったのかもしれませんけどね。 変化が無かったとすれば確かに背後から攻めたというのはおかしい。
480 :
世界@名無史さん :04/04/25 23:24
大学時代の農学部畜産学科の友人が、卒業研究に木曽馬の繁殖をやっていたので その当時の写真を見せてもらったのだが、日本原産の木曽馬は小さいので武者が 跨っても徒歩立ちの雑兵とほとんど高さが変わらないと思ったなぁ。 となると日本史の中に於いては、騎兵の歩兵に対する優位さって何があるのか?
鉄拐山説と兵庫一ノ谷説か? どちらも決め手に欠けるのだが・・・ 逆落自体が架空だった可能性のほうが高い
482 :
世界@名無史さん :04/04/25 23:30
ところで、ローマとかヌミディアとかガリアとかゲルマニアの騎兵が使っていたのは 馬の産地はどこなのだ? パルティアはアラブ馬だよな?
>日本原産の木曽馬は小さいので武者が >跨っても徒歩立ちの雑兵とほとんど高さが変わらないと思ったなぁ。 木曽馬は確かにアラブ種よりは小さいが、それはないだろ
>480 >となると日本史の中に於いては、騎兵の歩兵に対する優位さって何があるのか? これもいまいち信用出来ませんが、『雑兵物語』の中に陣中に鼠が飛び込んで 大騒ぎをした話があり、「ましてや馬一頭にまともに対処出来るはずもない」 といったことが書かれていました。 移動中の馬の前に突然飛び出すのには勇気がいりそうです。
485 :
世界@名無史さん :04/04/25 23:42
基本的に馬は移動用。降りて戦った。 武田の騎馬隊は前線を瓦解させるため馬の大群で波状攻撃をした。 馬にまたがってやりで戦う、とかは一騎打ちの時だけ。だって、不利じゃん。
良好な視界が得られ、戦場で味方の目印になる 電信が実用化する以前の戦場ではこれは重要な要素
ウマ科動物の体高(前足の肩甲骨までの高さ)なんだが ファラベラポニー 70cm――世界最小のウマだそうだ モウコノウマ 120〜146cm キソウマ 124〜142cm アジアノロバ 140〜150cm シェトランドポニー 90〜110cm ドサンコ 124〜140cm キソウマ 124〜142cm アラブ 140〜158cm アングロノルマン 152〜163cm アンダルシアン 150〜160cm ペルシュロン 160〜170cm ペルジアン 160〜170cm アパルーサ 142〜152cm ブーロンネ 160cm サラブレッド 158〜170cm――なじみがあるので参考までに 元寇の折に――高麗と南宋の遺臣が主力だったが――日本の騎馬武者を『まるで犬に跨っているようだ』と せせら笑ったと言われる蒙古騎兵の逸話の信憑性ってどのくらいなんだ? キソウマとモウコノウマを比べる限りじゃ大きさがたいして変わらんじゃないか。 蒙古騎兵はアラブ種に跨っていたのかね?
488 :
世界@名無史さん :04/04/29 09:48
>木曽馬は確かにアラブ種よりは小さいが、それはないだろ うん。たしかに大袈裟でした。 家庭用の脚立を思い浮かべてください。 三段で90cm、四段で120cm、五段で150cmくらいの奴。 四段の脚立に跨ると、視界の高さは約30cm上になります。 身長175cmくらいの私だと、普通のワンボックスカー屋根が見えるくらい。 視界が格段に向上したという印象は受けませんでしたが、 周りの人間が160cmくらいであれば、周囲からはかなり目立つでしょう。 それと周囲に対してとても偉そうな感じになれるかもしれません。 しかし手を振り下ろした位置は120cmくらいの高さですから、徒歩立ちの歩兵の 身長が160〜170cmとしたら、騎乗戦闘の優位さを発揮するには30cmほど低く感じます。 歩兵が2〜3mの槍を持っていたとして、私が騎馬武者なら騎乗戦闘なんか仕掛けませんね。 全く有利な高さとは思えません。そのうえ不安定だし。 それと感じたのは、落ち武者狩りの農民が竹槍をエエイと突き出すとちょうど脇腹にヒットする 高さかなということです。 体高が100cm位のウマだったら、周囲から見て人間の足が地面に着きそうだと感じられたことでしょう。
当時の日本の馬は気性が荒く 馬単体でも充分強力な兵器だった 騎馬武者は猛獣使いに近いかんじだったとか
もともとウマ科の動物は、捕食者から逃れるために速く走れるように 進化した動物なのだから危険を察知すると逃げようとするのが本能。 野生馬を跨るまでには、容易に調練できなかったことであろう。 そういう意味に於いては、世界最初の騎馬遊牧民とといわれている スキタイ人は――ハミを発明したことを含めて――エライと思う。 ウマの歯並びを見て――門歯と臼歯の間が歯がはえていない―― その隙間に棒を加えさせて、その両端を紐で結ぶだけの簡単な代物を 思いつかなかったら、世界史の進捗はもっと遅かっただろう。 鐙も鞍も、それどころかハミさえも使わずにただ縄をウマの首にかけて 鞭もあまり使わず、もっぱら怒声だけで乗馬をコントロールしたという ヌミディア軽騎兵というのは、ほんとに凄いな。
ところで『甲陽軍監』で、騎乗戦闘を戒めた下りがあるって本当?
ロマリカ・セグメンテータはイイ? 蛇腹な感じなところが・・・
493 :
世界@名無史さん :04/05/03 10:05
ロリカ・セグメンタータって、軟鉄の板を組み合わせなんだって。 適度な硬さ・柔らかさが剣の打撃を吸収したらしい。
吸収ってあんたシリコンパッドじゃあるまいしw
でも、ローマ帝国が消滅後は廃れてまった・・・ 使えんかったということかな?
だって鱗鎧や鎖鎧なんかに比べると動きにくいんだもん
製造と維持が大変だったらしい。 製造原価も高いのではなかろうか? 『防御力は素晴らしく、柔軟性もあり、やや軽かった』という記述を見た。 四世紀になると、鎧もつけなくなる兵士が増える。 兜もインテルキサ型になるが、共和政期のモンテフォルティノ型・コールス型に 比べても造りが粗雑になってくるらしい。
498 :
ところでww2のイタリア戦艦て… :04/05/04 10:22
何か「超大型駆逐艦」みたいでカコイイ!!と思ふ。
499 :
世界@名無史さん :04/05/04 13:05
イタリア海軍は、地中海の三大要障ジブラルタル、マルタ、スエズを取れず敗退したヘタレ-軍。
500 :
世界@名無史さん :04/05/04 13:07
イタリア海軍は、地中海さえ制圧出来なかったな。なんでだろー?
501 :
世界@名無史さん :04/05/04 13:15
ところで映画「パッション」は、ローマ帝国ファンが観ても面白いでつか?
俺は、キリスト教徒が狂信者にしか見えないようになりました
503 :
世界@名無史さん :04/05/04 13:33
予告?でちらっとみたけど、あんなハゲた属州総督いるのかねぇ・・・・
504 :
世界@名無史さん :04/05/04 14:24
キリストはじめユダヤ人が全員ヘブライ語で話し、ローマ人が全員ラテン語で話すので字幕がないと(・∀・)ワケワカメ!!
505 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/05/05 18:37
>>487 始皇帝の兵馬俑の馬の体高が約132cmですから、木曽馬などと比べてみ
ても大差ありませんね。昔の日本馬はとにかく小さい事ばかりが強調されて
いるようですが、アジア諸国の中では平均的な大きさのものでした。
それでも約300kgの肉体で100s近い重量を支えていたのですから大
したものです。
なお武士が馬上から矢を射掛けた事に関してですが、これについては突撃し
ながら矢を射たという意見を否定する見解もあります。
敵に向かっている時は馬を止めた状態で射たのであり、流鏑馬(中世には前
に置かれた的を射た)のように馬を走らせながら射る方法は逃げる相手に追
い討ちを仕掛けた時ぐらいでは無かったか、というもの。
馬に乗って矢を射たのは、大鎧を来た状態で歩く事が人体に負担をかけ過ぎ
たからではないか、というものです。
未だ検討中の意見ではありますが、確かにとてつもない重みを味あわせた馬
を走らせてというのは大変そうです。
こうなると同時期の西洋馬の体格が気になりますが・・・。
汗血馬以降でないかな? 中国のウマが大型化するのは。 ムスリムの跨っていたアラブ馬は十字軍の馬に比べると軽量級。 飼葉節約の為に、ムスリム勢は雌ばかり使っていたそうだ。 十字軍の馬は雄が多かったため、発情した奴がムスリム軍に ついていってしまったと言う話が 講談社現代新書『馬の世界史』本村凌二:著 の164ページにあったよ。
507 :
第20軍団兵 :04/05/10 00:22
「大英博物館の至宝展」で、コリントス式兜、150年頃のローマ補助軍団の兜が展示されていた。 軍団の兜はコオルスE型?(オスプレイによると-大英博物館で見ることができる-とある) 日本の兜を見慣れている目から見ると、どちらも大変小振りに見えた。 おばちゃん「"まびさし"は失われているって書いてあるけど、あるじゃない」 漏れの心の声「前と後ろを間違えてるよアンタ」
>>500 操船とか射撃とか苦手なんだよ。
海戦はやっぱ接舷斬り込み。
トロイの映画では兵は割りに散開して突入していたが 実際はファランクスで密集してゆっくりと突入していたのだろうか
トロイア戦争の時期にファランクスがあったかどうかすら よくわかってないわけだが
>>510 ? ハリウッド新作のトロイで重装歩兵密集方陣の突撃でもあるんですか?
ギリシアで重装歩兵の密集方陣が最盛期を迎えたのが紀元前7世紀ころ? イタリアに密集方陣が導入されて広まったのが紀元前6世紀ころとなっておりますが 紀元前509年に最後のローマ王タルクイニウス・スペルブスが追放されて共和制に 移行した時期に何らかの関わりがあるような気がします。 王制期のローマ軍って、有力者の血族・郎党が戦士集団――というよりヤクザっぽい 徒党を組んで――を形成して、儀式化された小規模な戦闘と家畜泥棒とその報復合戦 を専らとしていたそうです。後世のレギオンとはエライ違いですな。
『ヤクザっぽい徒党』というより昔の『田舎の青年団』のほうが表現として 正しいような気がしてきたので、加筆しておきます。
なんかハンニバルを扱った映画が激しく観たくなったわけだが お勧めのはありますかね? 最近のトロイはギリシャのだしな。 ローマ重装歩兵一斉突撃、ヌミディア騎兵が回りこんだ! なスペクタクルをグラディエイターのオープニングな感じで見たいんよ。
>>514 映画での、古代の戦闘の描写が、だだっぴろい平原に散らばっての
チャンバラ・レベルから脱したのは、つい最近のことかと。
まあ個人的にはCGと分かる描写が有ると 何か白けるし CGで無ければ不能な部分以外は 極力実写を使えないのかだが 矢張りコストの問題も有るだろうし無理なのだろうか
517 :
世界@名無史さん :04/05/25 15:31
518 :
世界@名無史さん :04/05/25 16:11
>>514 大昔ですが「ハンニバル」の映画はありますよ。
あとハンニバルとは関係ないですが
「スパルタカス」
「ローマ帝国の滅亡」
もお勧めですね。
特に後者は、4勢力が入り乱れての大合戦があります。
ローマ北方軍とアルメニア軍の戦いが始まって大乱戦となり、
謀反して一度はアルメニア側についたローマ東方軍が、
ペルシャ軍の戦場介入に意を決して、ペルシャの軍列に騎兵隊で
なだれ込み、その後に歩兵の大部隊が続きます。
ペルシャ軍が3方向から戦場に突入してた為に、一時後退した
東方軍は両翼から包囲されて苦戦に陥ります。後方に火幕を張り
さらに弓兵槍兵の戦列を敷きますが、ペルシャの戦車隊と騎兵隊の
突撃に粉砕されてしまいます。そこに北方軍別働隊が現れて
アルメニア軍を半包囲した所に本隊が突撃して
520 :
世界@名無史さん :04/05/30 01:37
どなたか詳しい方教えてください。 ローマの各方面に配備されていた軍団は、 最終的にどのような末路を辿ったのでしょうか?(壊滅、解散、自然消滅等々) 西ローマ滅亡前後は、あまりその辺記録がない様でして・・・
>>8 かなり遅いレスですが・・・
左上にマイケルジャクソンみたいな男がでっかい団子みたいな杖(?)を持ってますよね?
いったいこの人はなんなんですか?
522 :
第20軍団兵 :04/05/30 09:52
523 :
世界@名無史さん :04/05/30 15:00
古代ローマ正規兵(男!)の平均身長150CMか(プ 彼らは少しでも上背を演出しようと兜に羽を直立させましたとさ(ゲラ 同時代ゲルマン人 男170CM 同時代日本人(シナ、朝鮮渡来系)男160〜165CM 同時代日本人(在来種=倭人)男155〜157CM 「倭人」より小さいよ アンタ!(大爆笑 偉大なるローマ帝国よ 永遠なれ!!
>>501 米国住んでるんでパッション観たけど娯楽の要素ないし芸術性ゼロでつまらぬ。
まあ、連中とは違う宗教圏だからだろうが。
大体、事実を描写するとかいっておきながらあんなラテン人みたいなキリストいるか(プゲラ
豚鼻、色黒、縮れ毛髪、低身長がジーザスの実像だろう?
526 :
世界@名無史さん :04/05/30 15:23
>>523 平均身長が150cmだったかどうかは知らないが、同時代のガリアや
ゲルマンの戦士と比べて体格的に劣っていたことは間違いない。
テレビ番組のインタビューでビルマやマレーシアの古老が150cm位の
日本兵が170cm以上の英兵を駆逐したのを不思議な光景として語っ
たりしていたが、銃砲が発達した現代であれば、体格差は戦闘力の差
にはならないだろうが、基本的に個々の戦闘力が体力に依存していた
はずの古代において、ほとんど常にローマ軍団が優位に立つことがで
きた理由は何だったんだろう。
528 :
世界@名無史さん :04/05/30 22:31
>>523 戦争は素手で殴りあうわけじゃねーだろ。
遠距離の弓、近接でも槍がある。兵力と戦術と軍事技術で勝敗が決まる。
やはり集団性、組織力では? 装備の揃った組織的で訓練と軍律の行き届いたローマ軍団と 比較すれば、個人的な体力や武勇に勝り、場合によっては戦 場での駆け引きでも優れていていたとしても、ローマ軍の組織 力に比較すれば、戦争の都度召集されるゲルマンやガリアの 兵は烏合の衆に近かったのでは
>>528 ローマの重装歩兵は弓使わないよー
遠距離でピルム、近距離はスペイン剣だよー
PHP文庫『30ポイントで読み解く「ローマ帝国衰亡史」』 E・ギボンの歴史的名著が手にとるようにわかるわかる 金森誠也監修 ¥600+税 1770年に発刊されるやたちまち稀代の名著と評された、ギボンの不朽 の傑作「ローマ帝国衰亡史」。帝国の絶頂期から滅亡への変遷を描き 上げたこの長大な歴史ドラマは、数世紀を経た今日まで多くの読者を 魅了している。本書はその骨子を、帝政の黎明期にまで遡りながら30 ポイントにまとめて解説。「大帝国はなぜ栄え、なぜ滅びたか」という 壮大なテーマを一冊に詰め込んだ格好の入門書。文庫書き下ろし。
ローマの末期以外で最大の危機は、やっぱカルタゴととの戦争だろうな。 ハンニバルがローマを落としてたら歴史が変わってたな。 カルタゴの習慣の生贄がもっと記憶に新しい習慣になるかもしれない。 スパルタカスの反乱も、イタリア半島を何度も往復したりしないで、ローマを落としてたら歴史が変わったな。
スパルタカスはイタリア半島からとっとと出て行けば助かったかもしれないのにな
「スパルタクス」だよ。
>>533 実際シチリアに渡ろうとしたが、予定の船が来ずに失敗。
確かローマ帝国衰亡史に詳しく書いてあった。
>>532 カルタゴなんかより以前の前390年には
ローマはケルト族に占領され、略奪されまくってるよ。
>>535 書いてない。
衰亡史は五賢帝以降の歴史書。
つーかレギオン自体は飛び抜けて強いわけじゃない 軍事的にも組織的にも欠陥が少なくないし実際にしばしば全滅したりしてるしな ローマ軍が強かったのは強力な後方組織が次々に軍団を仕立てることができたから 故に版図の拡大に伴って非ローマ系兵士の比率が上昇したのもある意味では必然の結果
>>536 ポエニ戦争以前のローマは、まだ弱小国だったから、ローマ帝国とはちょっとかけ離れてるよね。
ポエニ戦争時点でもローマは帝国でなく、半島の共和国だったし。
カルタゴ滅ぼしてその領土を奪って、やっと大国になったんだけど。
〉〉538
それ言うと、ポエニ戦争時の陣形はどこも同じだね。
ギリシャ時代の重層歩兵の名残だね。
でもローマは本国のローマ人で陣形が構成されていた。
カルタゴは異民族が集結して構成されていた。
それにしてもハンニバルは異民族を束ねてローマ軍を連覇したのだから天才だよな。
540 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :04/07/11 12:07
>>539 ハンニバルの唯一の失敗は、異民族を束ねられたのに
本国カルタゴをその中に組み込むことができなかったことだろう。
>ギリシャ時代の重層歩兵の名残だね。 これはちょっと違う。 中にはギリシアスタイルの重装歩兵もいたことはいたが、 主流派じゃなかった >でもローマは本国のローマ人で陣形が構成されていた。 ポエニ戦時もローマ軍の半分以上は非ローマ系なんですが 特に騎兵は大半が非ローマ系
>>539 イタリア半島統一した時点で十分大国だと思いますよ
>>540 すまんが意味がわからない。
「異民族を束ねられたのに
本国カルタゴをその中に組み込むことができなかった」の
もう少し詳しい解説ちょうだい。
>>541 確かにその通りだと思われる。
ポエニ戦争期のローマとカルタゴの軍隊の違いは
簡単に言うと徴兵か傭兵の違い。
(もちろん他にもあるが…司令官の立場の違い、象兵の有無etc)
ローマの軍団名の一覧表みたいなのが乗ってるサイトってありますか? 第T軍団 なんとか のなんとかの部分が知りたいんですが・・・。
546 :
世界@名無史さん :04/08/13 19:31
ちょいとお尋ねしたい。 Deiotarus ってどんな人物なのかな? 研究社の羅和辞典には『小アジアのある地方の王、Ciceroによって弁護された』 としか記載されていないのだな。AD80ころアレキサンドリアに駐留していた 第22『デイオタリアナ』軍団の編成に関わった人物なのだが、誰か知らんかな?
>>548 デイオタロス(Deiotarus)はガラティアの王族でミトリダテス戦争の時にポンペイに協力しているニャ。
内戦ではポンペイウス側について、ポンペイウス敗退後にキケロの取りなしでカエサルに許してもらい、
続く内乱ではブルートゥス側についてアントニウスに領土を奪われて死去。
第22軍団はデイオタロスがローマ式で作ったガラティア軍2個軍団の一つ。
ガラティア併合後にローマ軍へ編入された。もう一つの軍団は解散したみたい。
>>549 おおっ、早速に、ありがとうがざいますた。
551 :
世界@名無史さん :04/08/26 12:38
>>549 > ミトリダテス戦争の時にポンペイに協力
英語的にポンペイ(Pompey)って書くなよ。下ではポンペイウスって書いているのに。
ヴェスヴィオで埋没した都市ポンペイ(Pompeii)と間違えるだろ。
> キケロの取りなしでカエサルに許してもらい
「カエサル暗殺計画」の嫌疑をかけられて裁判となりキケロが弁護中だったけど
カエサルが暗殺されて結審に至らなかったはずだが。
> 続く内乱ではブルートゥス側についてアントニウスに領土を奪われて死去。
カエサル暗殺後、彼の領土を奪ったのではなく回復したのはアントニウス。
中曽根以上の風見鶏で、彼自身、彼の所領共に平穏無事だったはず。
私の勘違いか、それとも君か。ソースは何?
>>550-551 ごめんニャ。
思いっきり手抜いて読んでた。
カエサルの死において、彼はアントニウスの承認で失われた領土を再所有したが、
次の内戦ではブルートゥスに付いた。
フィリッピでカッシウスの死後に逃走して罰を逃れて平和りに40年に死んだ。
oxford classical dictionary 3rd ed.
キケロの取りなし云々は
バウダー,古代ローマ人名辞典,原書房,1994
新紀元社が日本語版をなかなか出してくれないので、 オスプレイのMen-at-Armsをアマゾンで買いました。 『Early Roman Armies』 BC7世紀の頃のローマ兵って軍団ではなくて呪術的な戦士集団みたいだね。 ギリシアからホプリテスが入ってくると急速に染まってしまうようです。
スマン、554は何かの間違い
>>553 >新紀元社が日本語版をなかなか出してくれないので、
翻訳打ち切りだとよ。
556 :
世界@名無史さん :04/09/07 08:16
>555 確か1000円のシリーズが打ちきりで、その後の エリートとかウォリアーを出版する計画は、一応、 続ける気はあるらしいですよ。
今出てるのは絶版? エリートとかは値段も上がるのかな。
559 :
ほへぇ〜 :04/09/12 18:17:38
原書を購入して、ちまちまと和訳するしかありませんか……。 ウォリア―<戦史シリーズ>も3冊しか出てないようで……。
560 :
ベニト・ムッソリーニ曰く :04/09/12 18:46:37
私は、徹頭徹尾、伊太利国民である。しかも古羅馬人の魂を信じている。 私は、独逸、アングロ・サクソン、スラヴ、の歴史や、 世界全体の歴史をば批判的に研究した結果、遂にこの結論に達したのである。 [TムT ]しかし肝心なことを忘れておった…「ローマは一日にして成らず」
またPCでローマオタにはたまらないゲームが出ますのう
http://www.totalwar.com/ 3Dで表現された数千〜数万のユニットを縦横無尽に指揮して戦うリアルタイムの合戦ゲーで、
ローマ、ギリシャ、カルタゴ、シリア、エジプト、パルティア、ガリア、ゲルマン、等の軍隊が登場するようです
これまでゲームでは不可能だったファランクス隊形の動きや機能性がかなりリアルに再現されてるあたりがステキ
562 :
世界@名無史さん :04/09/28 08:50:52
ワロタ 象というより恐竜だな
565 :
ほへぇ〜 :04/10/31 14:19:41
そう言えば塩野センセの新刊の題名は 『ローマ人の物語]V 最後の努力』 だそうで。考査前の学生みたいだな。 この板的には、 軍団の数が60を超えたけども、人員がかつての2割くらいの1千名程度とか、 スクトゥム、ピルムにかわって、円形・楕円形の盾に軽量のランケア、 それとプルムパタエ【投げ矢】や、弓兵の援護にかあったなんてことを書けば宜しいかな?
>軍団の数が60を超えたけども、人員がかつての2割くらいの1千名程度 二線級の警備隊がやっと務まる程度ってところなのかな……
この小麦イーターどもめ・・・
ポタージュを馬鹿にするなぁー!!。ヽ(`Д´)ノ
>569 いま読んでるところで、一つ例をあげると、p.194 3行目 〜その戦の模様は、〜『ダキア戦記』に詳しく記されている〜 まるで、ダキア戦記が紛失してないみたいな書き方 それとも、折れが知らないだけでどこかに残ってるのか? それなら、是非とも読んでみたいよ (゚Д゚)≡゚д゚)、カァー ペッ!!
571 :
ほへぇ〜 :04/11/02 23:36:18
>566 >二線級の警備隊がやっと務まる程度ってところなのかな…… 戦争の質そのものが変わって、大規模な軍事作戦が減った……というより、できなくなったらしい。 元首制時代のコホルス・エクイタタのような編成で、伏撃・襲撃や懲罰遠征は得意だったようです。 こののち戦略予備的な機動部隊である野戦部隊comitatensesと 特定の辺境属州の防衛に徹した辺境部隊limitaneiに役割が分化していく。
2chでの発言を封じる理由にはならんな。>二次三次文献うんぬん
>572 意味がわからん 監修者 金森 誠也はこんなところ見ないと思うよ 何のチェックもしないPHP、チェックなど出来るはずがない金森 そこらへんに問題があるんだが 仮にも教授なら、ドイツ語の文献くらい引っ張って来てほしい
<おしろい>成分再現したら使い心地サラサラ 古代ローマ (毎日新聞)
古代ローマ人が化粧に使ったとみられる白いクリームがロンドンで発掘された。この時代の化粧品が、そのままの形で見つかったのは珍しい。
英ブリストル大の研究チームが分析した結果、使い心地の良いおしろいだったことも分かった。4日発行の英科学誌「ネイチャー」に発表した。
クリームは円筒形のスズ製容器に入っており、テムズ川南岸の紀元2世紀初めの寺院跡から昨年見つかった。
湿地帯の泥の中に埋まっていたため酸化や乾燥が進まず、保存状態が良かった。この一帯は当時、ローマ帝国の支配下にあった。
研究チームが詳しく分析したところ、動物由来の脂肪とでんぷんがほぼ同量ずつ配合され、白い色は酸化スズによるものだった。
かつては、おしろいの白色成分の原料として鉛がよく使われたが、中毒を起こすため、現在はチタンや亜鉛が代わりに使われている。
研究チームは「当時の人々は鉛の毒性を知っており、より安全なおしろいを作っていた可能性がある」と指摘している。
同じ配合でクリームを作ったところ、体温で脂肪分が溶けて肌にしみ込み、サラサラとした使い心地だったという。
資生堂の佐藤潔・薬剤開発研究所研究員は「現代のクリームとはかなり違うが、当時の人々にも色白へのあこがれがあり、
使い心地に気を配って化粧品を作っていたことは興味深い」と話している。【元村有希子】
[毎日新聞11月4日]
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/science/diet.html?d=04mainichiF1104m132&cat=2&typ=t
古代ローマ人もサラサラがお好き…化粧クリーム発見 (夕刊フジ)
英国ロンドンにある2世紀半ば(古代ローマ)の神殿遺跡から、珍しい缶入り化粧クリームが見つかったと、
同国のブリストル大などの研究チームが4日付の英科学誌ネイチャーに発表した。
クリームの化学成分を分析して再現すると、真っ白で、現代のファンデーションのようにさらさらした付け心地だという。
発見されたクリームは茶色っぽく変色し、ざらざらした感じで、直径6センチ、高さ5.2センチの短い円筒形の缶に入っていた。
分析すると、牛か羊の脂肪、でんぷん、酸化スズが主成分と判明。成分の割合に忠実に再現すると、
最初は脂肪分のためにぬるぬるしたが、でんぷんの作用でさらさらした感じに変わった。
古代のおしろいとしては有害な鉛を含む鉛白(えんぱく)が有名だが、このクリームは酸化スズを白色顔料に使っているため無害。
でんぷんは現代でもファンデーションの原料に使われており、当時の化粧品技術はかなり進んでいたとみられる。
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/science/diet.html?d=04fuji46384&cat=7&typ=t
576 :
ほへぇ〜 :04/11/11 13:59:14
岩波書店『コンクリートの文明誌』小林一輔:著 ローマに関する部分は1/4くらいであったが、なかなか宜しかったな。 コンスタンティノープル遷都の原因が 『老朽化した建造物群に埋め尽くされた過密都市ローマに見切りをつけた』 というのは、実に言いえて妙である。 建造物のメンテナンスって銭がかかったのだろうなぁ。 帝國東部と北部の戦域で常に紛争状態であって、軍事費で予算が圧迫されて いたことを考えると、そうなのかもしれない。
コロッセウムとかの建造物から、使えそうな石材が片っ端から奪われたらしくて、泣けてくるぞ( ´Д⊂ヽ ローマの神を信じ続けてたら、そんなことにはならなかったのかな? おのれ、キリスト教め 明日から毎週土曜日3回、NHK総合でローマだねヽ(゚∀゚)メ(゚∀゚)メ(゚∀゚)ノ
578 :
世界@名無史さん :04/12/08 00:09:15
ブリタニアの国境警備兵は、金髪のブリテン女を妾にしていたのかね?
579 :
世界@名無史さん :04/12/08 01:42:43
>579 そのスレから参考にするためこのスレに来たんでワロタ
581 :
世界@名無史さん :04/12/13 02:34:38
三国志の諸葛亮孔明率いる三国連合軍とローマ帝国軍、同じ兵数(50万VS50万ぐらい)で戦ったら、どっちが勝ちますか? おしえてエロい人
政治や地勢と関係なしに戦う連中じゃねえぞ、そいつらは 兵力だって、どっちも補給に負担かかるの嫌うから減らすだろうし
どう考えたところでまともな答えにならん
>>581 そのスレ昔どこかにあった気がする。
三戦板かも試練
585 :
ノロイ :04/12/13 12:32:39
>>50-
>>70 あたりで投げ槍の考察があったが、
投げ槍はローマ軍団のような装甲歩兵にたいして有効だったのであって対騎兵用ではない。
さらに当時は弓が貧弱で装甲歩兵の盾にかなわなかったので投げ槍が対装甲歩兵武器として
用いられた。ようするに最強の軍団をもつローマが、自軍の弱点を見抜いていたということ。
弓が発達し出すと投げ槍のようなコストパフォーマンスの悪い武器は用いられなくなった。
時代は投げ槍→弓部隊、投げ槍騎兵→弓騎兵と発展していく。
矢張り正義・正論等日本人の力に屈しただけの脳細胞の良くやる 残虐行為やコンプレックスの人間だろうし 一番悪い部分を崇め続ける事等が 日本人より白人等を語る事も無いのだろうか 一番悪い部分同士を崇めているのでは単に 白人コンプレックスの少ない日本人の植民地支配に関しては 矢張り永久に比較する行為も有る訳だろうし これが果たして不公平と言えるのだろうか 白人の人間の視野はコンプレックスの有る人間ではないのか(苦笑 白人の奴隷制のこうした戦争に正常な状態と言えるのか 進化論的に少なく共白人はローマかと言う事なのだろうが(苦笑 これは矢張り白人を正常の人間と比較せねば不公平であろうし
>>585 食らって覚えたんだろ?盾をパァにする投げ槍は
589 :
世界@名無史さん :05/01/03 10:50:20
590 :
世界@名無史さん :05/01/04 11:06:14
アテナイやスパルタ、まあテーベとかコリントスとかシュラクサイでもいいですが、 どうしてこれらの有力都市国家はローマになれなかったんでしょうね。 単なる偶然?組織と規律(軍民とも&法整備)の勝利? 人材登用の開放性と閉鎖性に起因する人的資源(特にエリート)の多寡? どんなもんでしょうね?
>>590 やっぱり閉鎖性が一番問題だったんじゃない?
他の都市を併呑して肥大する体力が無かったということだろうが、 ローマになるための決定的な条件というのは何なんだろうなあ。
なんでもかんでもローマ化するより、ある程度文明的なところはそのままにしてるだけでは
594 :
教えて下さい :05/01/05 21:13:27
コホルトやマニプルスの先任ケントゥリオを差す用語ってありますか? ケントゥリオの中でも軍団主席のプリムス・ピールス(第1歩兵隊長)と 第1コホルト所属ケントゥリオ(プリムス・オーディネス)は 区分されていたようですが、作戦会議に参加資格があったらしい コホルトの主席ケントゥリオを差す用語はなかったのでしょうか? それと第1コホルトの5個ケントゥリアは実質80人編成の半ケントゥリアに 分かれていたようですが、ここの副隊長はやはり他のケントゥリアの副隊長 より格上だったのでしょうか? 最後に百人隊長補佐はプリンキパーレス、その先任者(つまり百人隊副長)が オプティオって理解でいいのですか? 詳しい人がおられたら教えてください。
>>590 地形による食料生産の少なさもあるかも。
596 :
世界@名無史さん :05/01/06 01:10:23
今、終わったNHKスペの次回はいつ?
>>594 作戦会議に参加資格があるのは、上級百人隊長
(プリモルム・オルディヌム・ケントゥリオネス)と呼ぶ。
ただ、作戦会議の参加資格のある百人隊長については幾つかの説があるらしく、
手元の本(講談社版のガリア戦記)では「第一大隊(コホルト)の百人隊長」が
参加するとなっている。
この場合、そちらの「プリムス・オーディネス」と意味は同じになる。
598 :
教えて下さい :05/01/07 00:00:24
Ryujuさんありがとうございます。 そう言えば前に見たなにかの本では上級百人隊長は第1大隊の百人隊長と、 第2〜第10大隊の先任百人隊長の二説があるってなってたような気がします。 それと時代の相違なのか第1コホルトのケントゥリオは本によって5名の場合と、 6名の場合とありますね。 もう一つトリブヌス(軍団副官)は各軍団6名?10名?どちらが正解でしょう? あるいはどこかの時代で6名から10名に増員になったんでしょうか?
軍団副官は、少なくともカエサルの時代には六名。 ほぼ大隊長級の指揮を執るとあるが、数からして二個大隊とかで編成される部隊の 指揮も執ったと考えていいと思う。
栄光の23get
601 :
世界@名無史さん :05/01/18 19:09:24 0
共和政期のローマ軍団って選挙された選任百人隊長(マニプルスを指揮)が副官である 任命百人隊長を指名するとかどこかで読んだことがある(ローマ軍の歴史?)んですけど、 選任百人隊長と任命百人隊長って原語で区分されてたんですか
602 :
世界@名無史さん :05/01/18 22:10:32 0
何でローマの重装歩兵ってあんなに短い剣(グラディウス)持ってるんですか? あの大きな盾を持って戦うには狭くても扱える槍のほうがよいと思うのですが。
東洋書林の「図説古代ローマの戦い」によると、 元首制期の戦術はまず無言のままゆっくりと敵陣前まで前進、 15メートルを切ったあたりで槍を投擲、同時に雄たけびを上げて突撃する。 これは隊形を維持し突撃の効果を高めること、槍の投擲による物理的衝撃と沈黙からの突然の突撃で受ける心理的ショックを狙った戦術だそうです。 そして理想的には敵はこの段階で槍が刺さり用をなさなくなった楯を捨てている。 そこで楯(5〜10s)を敵の顔面に叩き付け敵のバランスを崩し、そこで剣で胃に切りつける。 もっとも理想どおりにはいかないことも当然あるので、兵士は他の刺し方・切り方も修練している。 だそうです。
604 :
602 :05/01/26 18:34:44 0
>>603 ありがとうございます。
つまり重騎兵のように武器本来による威力ではなく、
突撃力を生かして攻撃すると言うことですか?
新紀元社の「武勲の刃」とかを読むと、密集隊形を組み楯に隠れて二人一組で連携攻撃を するから短い剣のほうが有効だったように書いてありますね。 それに対してガリア人側は間隔をあけて個々人が勝手に長剣を振り回す攻撃なので、 一旦グレディウスの間合いに入ってしまうと餌食になるしかなかったと言う事のようです。
606 :
世界@名無史さん :05/01/27 12:52:05 0
>>605 つまり、鉄パイプを振り回しているDQNと、たてと警棒をもっている機動隊のイメージだな。
たしかに、こういう戦い方ならば20代後半から30代が主戦力なのも納得する。
確かに機動隊とデモ隊みたいなイメージだな。 槍の投擲の変わりに放水や催涙弾って感じかな。
age
610 :
602 :05/01/30 14:37:58 0
ということは、ローマの武装が短剣になったのは戦う相手が陣形を組んだファランクスではなく、 密集しない戦い方をするガリア人になったからでしょうか?
どうでしょうね、間合いの中に入られてしまった場合には、マケドニア式ファランクスの方が ガリア人よりさらに悲惨なことになりそうですが。 相手側の戦術に合わせての変化というのものは当然あるんですが、その対応にしても 民族的な嗜好とか癖は出るんじゃないでしょうか。 間違ったイメージかもしれませんがローマ軍は個人レベルでは防禦を固めて、相手の隙を 誘う、あるいは疲れさせて効率的に攻める戦いが得意だったのでは? 数倍の敵と戦う時はなるべく疲れないようにしないともたないように思います。
ちと聞きたいんだが、ローマ時代は火はどうやってつけたんだ。 やっぱ火打石?
613 :
世界@名無史さん :05/02/06 13:35:21 0
>>610 グラディエス刀をつかい始めたのってポエニ戦争のあたりだった気が。
ヘレニズム諸国と本格的に戦うのそれ以降じゃね?
ピュルロスと戦ったときは、象とファランクスに苦戦していた。
しかし、スキピオ以降は象やファランクスに圧勝(?)している。
つまり、短剣はファランクスや象など小回りの利かない敵に有効である。
こんなところだろうか。
legio内におけるcenturioの序列は、新紀元社「ケルト人のガリア戦記」原修二著によると、 第一cohorsの5人のcenturioが最上位で、その五人中の序列がprimus pilus、primus princeps prior、 primus hastatus prior、primus princeps posterior、primus hastatus posteriorの順。 以下第ニcohorsの先任centurio3名、secundus primus prior、secundus princeps prior、 secundus hastatus priorと続き、以下第三〜第十cohorsの先任centurioが続き、最後は、 第十cohorsの第三位centurioのdecimus hastatus prior。 そしてその次に第ニcohorsの先任centurio3名secundus primus posterior、secundus princeps posterior、 secundus hastatus posterior、以下第三〜第十cohorsの後任centurioが続き、最後は第十 cohorsの第六位centurioのdecimus hastatus posteriorと推定される。となっています。 しかしcohorsの指揮は各cohorsの最先任centurioがとったらしいと複数の本で読みました。 そうであるなら、第三〜第十cohorsの主席centurioが第ニcohorsの主席centurioの下位に あるのはともかく、第ニcohorsの次席・三席centurioより下位なのは納得しがたいです。 別格の第一cohorsは別として、第二〜第十cohorsにおいてはcohorsの別にかかわらず、 primus prior、princeps prior、hastatus prior、primus posterior、princeps posterior、hastatus posterior の順(各階級内部では第二〜第十の順)では無かったのでしょうか? なんだか前から疑問なんですが、詳しい方教えてください。 ちなみに東京書籍の「カラーイラスト世界の生活史26ローマ軍の歴史」では、おそらく primus prior、princeps prior、hastatus prior、primus posterior、princeps posterior、hastatus posterior の訳と思われる歩兵先隊長、主力先隊長、長槍先隊長、歩兵後隊長、主力後隊長、長槍後隊長 の順で昇進するらしいとは読みとれますが、cohorsの序列は不明です。
615 :
世界@名無史さん :05/02/07 21:50:24 0
>>614 最強のスレッドストッパーの称号をあたえよう
遠くからみるとウィルススクリプト貼り付けたようにみえる
横文字交じりの日本語文って読みにくいな。 それはともかく、一度こういうのに付いて書かれた学術論文そのもの読んでみたいな。 自分理系な物だから、どんなかんじに書かれてるのか興味ある。
618 :
世界@名無史さん :05/02/09 08:28:18 0
>>613 スキピオがイベリア式のグラディウスを使用したということであって、
プルタルコスはカミルス(BC390年のケルトショック)以来、刀剣に
よる戦法を取り入れたといわれる。勿論、カミルスを架空の人物とする
話もあるが。
619 :
世界@名無史さん :05/02/09 12:30:36 0
イベリア傭兵を率いていたと思われるハンニバルとの戦いは、やりにくかったのかな。
620 :
世界@名無史さん :05/02/09 13:29:54 0
皇帝−総督−軍団長−千人隊長−百人隊長−兵 と単純に思ってたのだが、そんなに複雑怪奇だったんだな。
千人隊長と言う表現の妥当性はともかく、基本的にはその認識で間違いではない。 百人隊長の中に序列があるだけ。 あと百人隊長と兵の間に、下士官級がいる。 百人隊副長・百人隊旗手・合言葉伝達係が隊の三大幹部 他に十人隊長(実際は8人の長)等
さっき、グラディエーター借りて見たんだけど、 軍団長が騎兵を率いて、副官が歩兵を率いて戦うシーンがあったんだけど、 そんなことってあったのかな?
ローマ軍における騎兵と重装歩兵の重要度の逆転はセヴェルス朝以降だとは思うけど、 軍団長の方針によってはあったかも。
軍団内における百卒長の序列は、新紀元社「ケルト人のガリア戦記」原修二著によると、 第一大隊の5人の百卒長が最上位で、その五人中の序列が第一歩兵隊長、第一主力第一隊 長、第一長槍第一隊長、第一主力第二隊長、第一長槍第二隊長の順。 以下第ニ大隊の先任百卒長3名、第二歩兵第一位隊長、第二主力第一隊長、第二長槍第一 隊長と続き、以下第三〜第十大隊の先任百卒長各三名が続き、最後は第十大隊の第三位百 卒長の第十長槍第一隊長。 そしてその次に第ニ大隊の後任百卒長3名、第二歩兵第二隊長、第二主力第二隊長、第二 長槍第二隊長、以下第三〜第十大隊の後任百卒長が続き、最後は第十大隊の第六位百卒長 の第十長槍第二隊長と推定される。となっています。 しかし大隊の指揮は各大隊の最先任百卒長がとったらしいと複数の本で読みました。 そうであるなら、第三〜第十大隊の主席百卒長が第ニ大隊の主席百卒長の下位にあるのは ともかく、第ニ大隊の次席・三席百卒長より下位なのは納得しがたいです。 別格の第一大隊は別として、第二〜第十大隊においては大隊の別にかかわらず、歩兵第一 隊長、主力第一隊長、長槍第一隊長、歩兵第二隊長、主力第二隊長、長槍第二隊長の順(各 階級内部では第二〜第十の順)では無かったのでしょうか? なんだか前から疑問なんですが、詳しい方教えてください。 ちなみに東京書籍の「カラーイラスト世界の生活史26ローマ軍の歴史」では、歩兵第一 隊長、主力第一隊長、長槍第一隊長、歩兵第二隊長、主力第二隊長、長槍第二隊長に相当 するらしい、歩兵先隊長、主力先隊長、長槍先隊長、歩兵後隊長、主力後隊長、長槍後隊 長の順で昇進するらしいことは読みとれますが、大隊の序列は不明です。 不評なため全部日本語にしてみました。誰か本当に知りませんか?
その本が何を参照してるのか知りませんが、まず記述を疑ってみる必要があるんじゃ ないですかねえ。centurioのpromotionがそのような序列に従って行われていると記し ているのは、Vegetiusだと思うんですが(多分2巻XXI)、著者がそれを直接参照している わけではないと思います。で、Vegetiusという人は、確かにできる範囲できちんと取材 をしている人ではあるのですが、なにしろlegionが歴史の向こう側に行ってからの人で あるので、この点に関してはちょいと怪しいと思われているようです。もちろん、彼の 記述を事実として考えている学者もいないわけではありませんけれど。 わたしは英文のものしか持ってないんでもうしわけないのですが、たとえば、Adrian goldsworthyの"The Complete Roman Army"にはこんな記述があります(p.69)。 "Yet it is very difficult to see how this system could possibly have worked." で、実際のところ序列については、第1cohortのcenturionに関しては、他の9つのcohort のcenturionよりも様々な点(住居や俸給などの待遇や栄誉など)で優遇されていたもの の、残りの9つのcohortに関しては、 "The relationship between the centurions in the other nine cohorts of the legion is less clear." ということで、代わりにこの著者が提示しているのは、第2から第10までの各cohortには 順序はなく、同一cohort内において pilus prior > pilus posterior > princeps prior > princeps posterior > hastatus prior > hastatus posterior という序列を認めるというものです。別の著者によれば、これは階級差ではなく先任順 の違いに過ぎない(階級と先任順の違いについては近くの軍事に詳しい人に聞いてみて ください)ということです。あ、上のはもちろん仮説の域を出ません また、たとえ、Vegetiusの記述するシステムが正しいとしても、 >そうであるなら、第三〜第十大隊の主席百卒長が第ニ大隊の主席百卒長の下位にあるのは >ともかく、第ニ大隊の次席・三席百卒長より下位なのは納得しがたいです。 というのは、軍隊の指揮権についてある程度知見があれば、おかしいと感じることは ないでしょう。
>pilus prior > pilus posterior > princeps prior > princeps posterior
>> hastatus prior > hastatus posterior
>という序列を認めるというものです
三列時代の歴史的経緯を考えればそれもありうるんでしょうが、
それだと中隊ごとの序列の方が、中隊内部の中隊指揮官であるかどうかより
重視されるわけですね。
ありえる話ですがなにかそれも個人的には納得しがたいですね。
結局定説はないってことでしょうか。
では自分の信じたいように信じることにします。
最後になりましたが
>>625 さんありがとうございました。
>>626 >三列時代の歴史的経緯を考えればそれもありうるんでしょうが、
>それだと中隊ごとの序列の方が、中隊内部の中隊指揮官であるかどうかより
>重視されるわけですね。
centuriaに比べ、maniplus(中隊ってこれですよね?)は、単位としては重要では
ないようです。兵士はcenturiaに所属しているという意識はあったものの、maniplus
やcohortに所属しているという意識はそれほどなかったようで、さらにいうなら、
兵站単位としては、legionの下はいきなりcenturiaだったようで、中隊内部の序列
というのは、あまり意味があるものではなかったように思われます。
それでやっぱり思うんですが、
>pilus prior > pilus posterior > princeps prior > princeps posterior
> hastatus prior > hastatus posterior
この序列そんなに変ですか?共和政期の三列は主に年齢に基づいた区分であり、
この序列も先任順であることを考えれば、そうおかしなものとは思えないのですが。
628 :
世界@名無史さん :05/02/18 16:13:36 0
百人隊長にこれだけ序列があると千人隊長への出世はかなり厳しいな。
元老院議員階級の若者はいきなり主席軍団副官になるわけですが、 その他の5名の副官は中年の騎士階級のベテラン職業軍人などと説明されています。 とすると副官になる前はなにしてたんでしょう? やっぱり百人隊長?それとも補助軍の隊長あたり?
講談社版ガリア戦記の「解説」の記述だと、コホルスは「大隊」で、三個中隊から成り立つ。 で、一個中隊は二個百人隊から構成されるから、 コホルスの構成人数は最大600人前後ということになる。 >629 軍隊内の役職では、援軍の隊長が多いらしい。ただ、使者や連絡役など、 色々と非公式な任務で活動することもあったそうだ。
631 :
ほへぇ〜 :05/02/19 13:13:34 0
帝政期になると、コホルスは増強百卒隊×5個からなる第一大隊(800名前後)と 通常の百卒隊×6個からなる残りの第二〜十大隊(480名前後)から編成され るようになるようですね。 同時期の支援軍歩兵隊は通常の百卒隊×6個のクィンゲナリア(五百卒隊)と 通常の百卒隊×10個のミリアリア(千卒隊)。 支援軍騎兵隊(アラ)は、騎兵中隊16個編成のクィンゲナリアと24個編成のミリアリア。 コホルス・エクイタタは、通常の百卒隊6個・騎兵中隊4個編成のミリアリアと 通常の百卒隊10個・騎兵中隊8個編成のミリアリア。 戦術単位も共和政期のマニプルスから帝政期のコホルスへと変化する。 そのほうが支援軍と規模が近くなって運用しやすかったからと思われる。
632 :
ほへぇ〜 :05/02/19 13:16:36 0
>通常の百卒隊6個・騎兵中隊4個編成のミリアリア 訂正 通常の百卒隊6個・騎兵中隊4個編成のクィンゲナリア
>>630 回答ありがとう。
>使者や連絡役など、色々と非公式な任務で活動することもあったそうだ
それは総督とか軍団長が命ずるのでしょうか?
だとすると、清朝高官の幕友みたいな感じですかね。
635 :
ほへぇ〜 :05/02/19 17:17:33 0
>>634 だから
>支援軍騎兵隊(アラ)は、騎兵中隊16個編成のクィンゲナリアと24個編成のミリアリア。
が、騎兵のみで編成されている支援軍の部隊です。
千卒隊が編成されるようになったのは、ウェスパシアヌス帝時代です。
五百卒隊は属州総督の指揮下にあります。
千卒隊およびcR部隊は総司令官の指揮下にあります。
【cR:civium Romanorum〜ローマ市民権所有者の】
大規模会戦の場合は、コホルス・エクイタタより騎兵だけを抽出して、
騎兵だけの部隊を臨時に編成、もしくは支援軍騎兵部隊に臨時に編入して、
集中的に運用するとありました。
636 :
ほへぇ〜 :05/02/20 23:46:06 0
ローマ軍の最小編成単位である八人分隊を収容する天幕はラテン語のつづりが contubernium なんだが、天幕分隊(もしくはテント組)は contuburnia (contuburniumテント単位) になっておりました。(こちらは羅和辞典には載ってない) これでよいのかな? ←ラテン語に詳しい方 さらに疑問に思うことはヨセフスのユダヤ戦記に天幕分隊は六人編成で あったような記述があるらしい。 軍団はローマ街道を横六列で行進し、これはcontuburniumテント単位で はなかろうかと言うことなんだが?
contuberniaは、contuberniumの複数形なのでは?
638 :
ほへぇ〜 :05/02/24 08:34:01 0
>637 オスプレイのHadrian’s Wall AD 122-410 (Fortress 2)の用語解説で確認しました。 が、contuberniumとcontuburniumの違いが不明。 bの後のeとuの違いですが、語尾変化というわけじゃないだろう? これって何?
639 :
世界@名無史さん :05/02/25 07:36:32 0
>>638 オスプレイって結構、誤字と脱字が多いよ。
>contuberniumとcontuburniumの違いが不明 複数の辞書を調べてみましたが後者はどの辞書にも記載されてないので、 おそらく何らかの誤植でしょう。 語源的に言っても、その位置にuが出てくるのは変です。
641 :
ほへぇ〜 :05/02/25 19:06:55 0
おおぅ! 早速に感謝しますた。 >639 余分な文字がついているのも、二つほど経験しました。 その綴りをそのまま書いて、『違うぞ』と窘められたから判ったんだけどね。 >640 >語源的に言っても、その位置にuが出てくるのは変です。 ココのところをもう少し詳しく教えてもらえると嬉しいのであるが。
士気さえ高ければローマ兵でもゲルマン兵に勝てる
643 :
世界@名無史さん :05/02/26 20:21:43 0
ローマ軍が主食にしていた、小麦を使った食べ物の作り方知ってる方いれば教えてください。 お粥みたいなものと聞いてますが、うまいんでしょうか?
644 :
あきぴうす :05/02/28 20:32:21 0
>>644 おお、ありがとさん。料理帖は早速買ってみます。
646 :
あきぴうす :05/03/01 08:19:36 0
>645 アッラ・ガルムは買わないのですか? 是非とも味わっていただきたいものです。
647 :
あきぴうす :05/03/02 20:58:23 0
648 :
世界@名無史さん :05/03/02 21:30:50 0
シナの唐帝国の時代にローマ兵を5000人ほど、とっ捕まえて 珍しいので皇帝が喜んで家来にした言うのがあったけど彼ら そのあとどうなったの。
649 :
世界@名無史さん :05/03/03 00:06:36 0
>648 彼らの子孫の一人が朝鮮半島を経て日本に渡来し生まれたのが坂上田村麻呂だ。 彼の容姿を記した古文書によれば髪の毛も産毛も金髪で皮膚は赤みを帯びて いたそうな。若いころからその軍略の才を発揮し天皇にかわいがられた。 また彼を快く思わない貴族たちは彼のことを「金髪の小僧」呼んだとか 呼ばなかったとか。
650 :
世界@名無史さん :05/03/03 01:51:06 0
>>649 ローマ人は金髪じゃない。ゲルマン人だそれは
652 :
世界@名無史さん :05/03/03 02:55:27 0
>>649 その話の出典はなんですか?
読みたいので教えてくださると有難いのですが。
ハリウッド・ローマ軍だと、下っ端の兵隊まで赤い房付きの金属ヘルメットに深紅のマント翻してるからなぁ(笑)
654 :
世界@名無史さん :05/03/03 13:28:34 0
>652 日本後記、田村麻呂の薨伝より 「赤面黄鬚」(せきめんこうしゅ)とある。これを人によっては赤面を白人のような肌 黄鬚を黄色のもじゃもじゃのひげを金髪(髪の毛のことを触れていないので 年齢がいってはげてからの記述?)と解釈するこたがある。
655 :
652 :05/03/03 15:09:26 0
>>654 有難うございました。今度図書館に行ったときに六国史探します。
656 :
世界@名無史さん :05/03/16 20:05:39 0
>>653 真紅のマントは古代ギリシアのスパルタ軍が採用していた。
敵の返り血が目立たない事と。自分の出血が目立たないようにするため。
あと戦場で色覚効果狙ったらしい。
ローマ軍は普通に白いマントだったんじゃ。
喪前らモムゼンの「ローマ史」の邦訳がついにとうとう出ますよ。 一冊6500円
>656 司令官限定ですよね(各大隊長もかな?) 深紅のマントで印象が強いのは"ぐず男"(コンクタトール)ファビウスですねぇ。
659 :
世界@名無史さん :05/03/18 20:31:29 0
あげるノシ
元老院が前線に引越できていれば、元老院も平和ボケできなくなって、議員の質の向上に繋がったと思う。 マルクス・アウレリウス帝あたりまでにやってくれれば、 たとえば、帝治世時のゲルマン部族侵入時に引っ越せれば、元老院の反発も少なかったのでは無いかと。 ローマからの距離では、ラインドナウが防衛にはちょうどいい距離かもしれないけど、その分、気も緩む。 共和制時の元老院が活気づいてたのは、最前線を常に意識していたからだと思うから。 また、ローマからドナウ河やライン河が遠かったからこそ、ゲルマンの制覇を諦めなければならない一面もあったと思う。 引越地は、リメス・ゲルマニクス中央、もしくはストラスブールにでも、と思ったが、やっぱウィーンがいいね。 そうすれば、国境線を、アゾフ海、ドニエプル川、ウィスラ川に設定できる。 でも、国境をどれだけ遠くに設定できようと、蛮族の侵入は止まらないのかもしれない。 貧困と、それによるセックスのし過ぎゆえの人口爆発が、その原因だろうから。 あと、東方ロシアに繋がる後背地はでかすぎるね、いくら攻め入ってもきりが無い。 でも、勝ち続けて家畜や奴隷を略奪できなかったから、ローマの気概や国力が失せていったのではと。
662 :
世界@名無史さん :05/03/18 22:02:39 0
今日、グラディエーターやってるよね。
663 :
世界@名無史さん :05/03/19 09:22:12 0
軍事費の増加や軍団への権力集中が問題になるけど、インドや中国との 貿易で片務的に貿易赤字が膨らんで金・銀の流出が止まらなかったのも 原因では?
664 :
世界@名無史さん :05/03/19 09:34:34 0
木材伐採しすぎて燃料不足になったのが原因じゃないかと、以前、堺屋太一が言ってた。
665 :
世界@名無史さん :05/03/19 11:44:03 0
>>656 真紅の布は非常に高価なはずですが。
しかし、スパルタはドケチでも戦争には金は惜しまなかったかも。
666 :
世界@名無史さん :05/03/19 12:00:20 0
燃料不足説は環境学者等から出てますね。木の沢山ある所に人口が移り、 文明が発展していくと言う説。ただ、ローマの場合ローマ滅亡後も人が 大勢住んでましたし、考古学的見地からいくと滅亡直前の方がローマ興隆期 より体格が良いって報告もあります。
そもそもローマって滅亡じゃなくて分裂じゃ…。
668 :
世界@名無史さん :05/03/19 12:54:11 0
>>661 ローマは地中海での安全な航海と交易を目標としていたので、
そんなに北に膨張する意思はなかった。ローマの仮想敵国はササン朝ペルシアと、
カルパチア・バルカン山脈の自然障壁を越えて侵入してくる東の遊牧民(アヴァールなど)
の二つ。敵は東に位置したので、軍隊・兵站の輸送の観点からローマに首都があると不利。
だから、ギリシアと小アジアを結ぶコンスタンティノポリスに遷都し、難攻不落の城壁で囲った。
同時に、黒海と地中海を結ぶ航海路の安全も確保される。実は、ゲルマン民族の大移動というのは、
ローマの国家戦略の誤算だった。北から攻撃されるとは予期していなかったので。
コンスタンティノポリスも海から大規模艦隊に攻められ陥落。これも誤算だった。
669 :
世界@名無史さん :05/03/19 21:27:52 0
>>661 >元老院が前線に引越できていれば、元老院も平和ボケできなくなって
ガリエヌス帝の元老院〜軍団分離政策以後の話かとも思ったが、
マルクス・アウレリウス帝が出てくるということはそうではないということ?
軍人皇帝時代以前なら、元老院階級も軍団の将官クラスを勤務したと思うが。
>共和制時の元老院が活気づいてたのは、最前線を常に意識していたからだと思うから。
賛同。同じ執政官経験者でも、凱旋式をやるやらないで元老院での序列に
差が付くのだから皆必死にならざるを得ない。共和政期というのは、ある
意味じつに国内政治的な事情により対外戦争を継続しなければならなかった。
>貧困と、それによるセックスのし過ぎゆえの人口爆発が、その原因だろうから。
乳児死亡率は元首制期のローマであっても零歳時で30%を超えている。
半数の子供が五歳を迎える前に死んでしまうといわれている。
ましてや、衛生・医療が整わない北方蛮族ではいかがなものか?
第一、貧困なんでしょう? 人口爆発はおかしいぞ。
北方蛮族の移動は、武装した経済難民と考えるほうが無理がない。
>東方ロシアに繋がる後背地はでかすぎるね、いくら攻め入ってもきりが無い。
賛同。ローマの攻勢限界点は結局のところ、マンパワーなどの戦争資源の
量によって決まったと考えられる。
670 :
世界@名無史さん :05/03/19 21:37:01 0
>>663 ローマ領内で生産できる手工業製品は、中国・インドでも作れるが、
中国産の絹や陶磁器、インド産の砂糖や東南アジア産の香辛料は、
ローマ領内では生産できなかった――とロストフツェフが書いていた
と思ったが。
671 :
世界@名無史さん :05/03/19 22:10:19 0
>>668 地中海がローマの内海である以上、海上輸送のコストが陸上輸送のコストの1/30であることを考えれば、
首都がローマだろうとコンスタンチノポリスであろうと大した差はないのではなかろうか?
それに事前備蓄として軍団基地が辺境に構築されているのだから、策源地を首都に求める必要はどこにもない。
ローマにあるコンクリート製の構築物のメンテナンスの量のあまりの多さに音を上げて
コンスタンティノポリスに逃げ出したと言うほうがまだ現実味があると思う。
実際は経済の重心が帝国東部に移ったと言うことなんでしょう。
二回にわたるダキア戦役、二回にわたるマルコマンニ戦役、
その他、サクソン、フランク、アレマンニ、カエティ、ブルグンド、
スウェビ、ヴァンダル、ゲピド、ゴートと四世紀にわたって戦い続け、
レヌス〜ダヌウィス河に沿って防衛線を築き、軍団基地を数珠繋ぎに
建設してきたのに、
>北から攻撃されるとは予期していなかったので。
は、いくらなんでもないだろう……。
672 :
668 :05/03/20 04:38:04 0
>>671 主力は首都にある。首都は戦地から比較的近いほうがよい。
大規模な戦闘になれば、兵士だけでなく技師・大工などを大量に戦地に派遣。
トラヤヌス以降、征服でなく守成に回ったが、東側が脅威として残った。
コンスタンティノープルのテオドシウス城壁が、軍事拠点としての性格を
物語っている。陸側3方を厚い城壁に守られ、残る海側1方は金角湾という
入り江になっているので、ここに艦隊を集結させておけば磐石。
ペルシア大艦隊を狭い入り江に引き込んで勝利したサラミス海戦の教訓もあった。
カルパチア・バルカン山脈が防壁になっており、遊牧民が侵入したら迎撃でき、
ペルシアとの境界小アジアにも兵を繰り出せ、いわば最高の戦略的拠点だった。
ゲルマン人は傭兵として雇われていたし、ローマとも交易していたので、
敵とは思っていなかった。北東のゲルマン人から攻められるとは予想外だった。
>>672 > 主力は国境沿いにある。軍団基地は戦地から比較的近いほうがよい。
> 大規模な戦闘になれば、近衛だけでなく技師を戦地に派遣。
> トラヤヌス以降、征服でなく守成に回ったが、北・東側が脅威として残った。
> コンスタンティノープルのテオドシウス城壁が、政治的経済拠点としての性格を
> 物語っている。軍事的必要を超えた長大な城壁を強いられ、残る海側1方は金角湾という
> 入り江で弱点にもなるので、ここに艦隊を集結させる必要が生じる。
> ガラタ地区を守る必要まで生じた。
> カルパチア・バルカン山脈はただの山脈で、遊牧民の侵入が予想でき、
> ペルシアとの境界小アジアにも兵を繰り出すにも便宜で、いわば東地中海の戦略的拠点でもあった。
> ゲルマン人も傭兵として雇われていたし、ローマとも交易していたので、
> 常時は敵と思っていなかった。北東のゲルマン人が定住しようと移動してくるのは予想外だった。
674 :
世界@名無史さん :05/03/20 08:36:25 0
>主力は首都にある。首都は戦地から比較的近いほうがよい。 軍人皇帝時代には、すでに北部や東部の前線に皇帝が軍の主力と常駐状態であった。 (ほとんど首都ローマにはいなかったわけだ) ローマならびにコンスタンチノープルに常駐していた軍団名をあげてみたまえ。 半径500km以内の軍団基地でもかまわんぞ。 戦略的な『縦深』を考慮に入れれば、首都が前線のそばにあって好ましいわけがない。 情報の流れや人員の移動を密にするために、ローマ街道があるのではなかろうか? >大規模な戦闘になれば、兵士だけでなく技師・大工などを大量に戦地に派遣。 攻城塔や投擲兵器などを扱える技術者は、既に軍団兵であるか皇帝専属の奴隷、もしくは 雇われている職工であるから、既に軍団と帯同していると考えるべきである。 >コンスタンティノープルのテオドシウス城壁が、軍事拠点としての性格を 物語っている。 軍団都市でなくとも三世紀以降城壁を持たずに安穏としていられた都市があるのかね? >ゲルマン人は傭兵として雇われていたし、ローマとも交易していたので、 敵とは思っていなかった。 懐柔策が効く近隣蛮族と接触もとりにくい遠隔地蛮族を一緒にするのはどうか? まぁ、ゲルマン人傭兵がローマのために同族とも喜んで戦ったというのも事実だが。 交易に関して言えば、ペルシアとの交易の方が質量ともに遥かに上回っていたことを無視するのか? 帝国東部の在住しローマ軍にかかわるペルシア系住民のこともお忘れなく。
Emperor Diocletian was largely responsible for the reforms of the army which followed the tumultuous third century. He addressed the chief weakness of the Roman defence system by creating a central reserve. Had large invasions of barbarians broken through the defences, there never had been anyone in the interior of the empire to stop them, due to the system introduced by Augustus by which all the legions were based at the edges of the empire. So Diocletian created a central reserve, the comitatenses, who now enjoyed the highest status among the army. They were what the legionaries in their bases along the border, now referred to as the limitanei, had once been. These new, mobile units were organized into legions of one thousand men, rather than the traditional full-scale size of the old legion.
ディオクレテイアヌス帝は、混乱にみちた3世紀の後の軍制改革の主たる実行者であった。 彼は、中央軍を創設することで、ローマの防衛体制の主要な弱点を克服した。 蛮族が大規模な侵入を行って防衛線を突破したなら、帝国内にはこれを阻止する兵力がなくなる。 それは、すべての軍団を帝国の辺境に駐屯させていたアウグストゥス帝の軍制が原因である。 そこで、ディオクレテイアヌス帝は、comitatensesと呼ばれるローマ軍の最高位を占める中央軍を創設した。 中央軍は、limitaneiと呼ばれる国境沿いの軍団に代わるものであった。 この新しい機動性に優れた兵力は、大規模な旧軍団とは違い、千人単位の軍団に編成された。
678 :
世界@名無史さん :05/03/20 16:34:21 0
ディオクレテイアヌス帝の改革って方針は正しいけど問題解決にはなって 無いと思う、まるで独ソ戦で守勢に追い込まれた後のドイツ軍みたいに、 防御線が突破される→機動力のある部隊が送り込まれる→ソ連軍追っ払う →機動力のある部隊後方に戻る→戦力を回復する為戦線を縮小する→始め に戻る。でジリ貧に追い込まれる。アウグストゥス帝の軍制は国境警備で あると共に辺境のローマ化・蛮族の無力化が目的だったから、機動力が無い ・中央が空に等で批判するのは間違いだと思う。
>>678 「独ソ戦で守勢に追い込まれた後のドイツ軍」とは少し違うと思う。
独ソ戦では、戦線ができあがり、両軍が対峙していた。しかも、ドイツ軍は
絶えず西部戦線の状況を睨みながら、兵力の配分を考えなければならなかった。
このときのローマの場合、事情が違う。攻撃される危険性は内部と東にあった。
内部というのは、軍人皇帝時代、辺境の駐屯部隊が反乱を起こし、ローマに進撃
する危険性。外部は、いつ大規模攻撃をしかけてくるかわからない蛮族と、
ササン朝ペルシア。諸刃の剣とも変わりえない国境軍の兵力を割き、東方の
仮想敵国にも機敏に対応できるよう、中央に兵力を集中しておく必要があった。
ディオクレテイアヌスの頃、欧州部の国境は、ブリタニア(イギリス)の
ハドリアヌス城壁と、上にもあったライン・ドナウ線。繰り返しになるが、
人的交流や交易などを通じて、徐々にローマ化されていると信じたゲルマン人に油断。
>>674 にペルシアとの貿易量は多かったと書かれてあるが、アケメネス朝時代、
何度も「地中海の平和」を脅かしたペルシアを信じることはできなかっただろう。
680 :
世界@名無史さん :05/03/20 22:42:46 0
>>675 重装歩兵から騎兵へと戦力の中心が移動したのは三世紀半ばであり、
ガリエヌス帝時代には分遣隊vexillationisは騎兵団として構成され、
遊撃隊として各地に投入されております。
騎兵団の基地は、イタリア半島ではシルミウムとメディオラヌム。
侵入経路を察知した後、迎撃戦に向かったため前線の軍団基地より
内奥部に根拠地が設けられました。
ガリエヌス帝時代に創設された分遣隊がなければ、プロブス帝による
蛮族迎撃戦――大半がレヌス・ダヌウィス河を渡河してきたゲルマン
系蛮族――の成功はありえなかったでしょう。
681 :
ほへぇ〜 :05/03/20 22:59:56 0
672氏へ >何度も「地中海の平和」を脅かしたペルシアを信じることはできなかっただろう。 そうであるならば…… 何度もドナウ河に沿った属州へ越境侵入を繰り返す――おかげで北部属州は荒廃化―― 北方蛮族を徐々にローマ化が進んでいるという理由でなぜ信用できるのであろうか?
682 :
672 :05/03/20 23:03:14 0
>>680 ご情報、ありがとうございます。
騎兵団でないと素早く迎撃できないことは納得です。
683 :
ナポレオン ◆vYVYAtFe0o :05/03/20 23:06:44 0
それよりもアケメネス朝ペルシアが「地中海の平和」なるものを脅かしたというのが、 私には何のことだかサッパリわからないのですが。 それがアケメンス朝が滅んだずっと後のローマと関わっているのかも謎。
>>683 ペルシア戦争。ローマ高官はよくギリシア詣出をしていました。
>>681 ゲルマン人は部族制社会だったので、散発的な略奪襲撃以外の
統率のとれた大規模戦争はおこせないとタカをくくっていたのでないでせうか?
685 :
世界@名無史さん :05/03/21 00:33:14 O
映画グラディエーターを見たら野戦で投石機を使ってましたが、実際に使えますか?
>>685 クレモナ@ウェスパシアヌスvsウィテリウスで描写があったような気が
>>684 おいおい、書き間違いかと思ったが、本当にアケメネス朝時代の影響があったと思ってるの?
幾らなんでも非現実的だぞ。
そんな無茶なこじつけしなくたって、ローマにとってササン朝だけで十分脅威だろう。
同様に北方のゲルマン族も大いなる脅威、当然警戒している。
「タカをくくっていたのでないでせうか?」ってそんなのあなたのただの思い込みに過ぎない。
>>685 少なくとも映画で出てきたような戦場では使えません。
組み立てに時間がかかりすぎるわりには効果が少なすぎるからです。
映画でも直撃に近い状態じゃないと殺傷能力が発揮できなかったのでは?
それだとアーチャー1人と同じ攻撃力です。
記憶モードですが、あの映画では投石器もリアルに再現しようとして
当時の投石器を再現したそうですがあまりにも威力、迫力が無くてボツになり、
実際にはモーターか何かを内蔵したもので撮影を行っていたはずです。
投石器は篭城してる相手への嫌がらせ程度の威力しか持っていません。
中世に入ってからでさえ投石器で城壁を破壊して突入という戦いはありません。
曲射弾道(上から落とす感じの砲撃)で城壁を狙ってもほとんど当たらないですし
当たったとしても連続で同じ場所に当てないと壊れません。
閉じこもってる相手を心理的に追い詰めるために動物の死体を撃ちこんだり
汚水を撃ちこんだりするのが一番効果的な使い方でしょう。
689 :
世界@名無史さん :2005/03/21(月) 12:01:59 0
まあ、火薬発明以前だからそんな所だよね。どちらかと言えばあんなでかい もん作る技術力と言うか動員力をアピールするのと、敵に城の中にいても安全 じゃないとアピールして心理的に追い詰めるのが目的の心理戦兵器ってのが 妥当だと思う。
690 :
世界@名無史さん :2005/03/21(月) 12:17:34 O
矢に火を付けてたけど、あれも意味ない
城攻めで最も効果的な兵器は、破城鎚じゃない? 投石器は、破城鎚が城門に近づくまでの援護射撃のような気が汁。
当時の弓矢がどの程度の射程だったかにも寄るが、 投石機は射程が100〜200メートルあったらしい。 なので弓矢で届かない敵に攻撃を加えるという効果はあったろうし、 特に高い櫓にいる敵には地上から矢は届きにくいだろうから、 その辺を狙ったかも知れない。
>>684 ごめん、呆れちゃった。
根本的には
>>627 の言うとおり、
しかもペルシア戦争で脅威を受けたのは地中海どころかエーゲ海でしかない。
そのころローマはド田舎国家。
ペルシア戦争のことなんて考えもしてないでしょ。
694 :
ほへぇ〜 :2005/03/21(月) 13:50:16 0
>>676 >>677 コミターテンセス【comitatenses】――野戦部隊――
個々の辺境属州に属さない地方軍を含む。遊撃部隊。
パラティーニ【palatini】――宮廷親衛隊――
野戦部隊よりも格も威信も高かった。古代後期では、野戦部隊の一部となったこともある。
アウクシリア・パラティーニ【auxilia palatini】――支援軍宮廷親衛隊――
リミタネイ【limitanei】――辺境部隊――
帝国後期に属州が分割されてできた各辺境の部隊で、辺境公dux limitis(duce limitis)が指揮した。
プセイドコミターテンセス【pseidocomitatenses】――準野戦部隊――
野戦部隊に配属された辺境部隊。
フォエデラーティ【foederati】――同盟部隊――
同盟関係により皇帝に兵の供給義務を負う蛮族の部隊。通常は独自の部隊編成を維持し、同じ部族出身でローマ軍団の階級を持つ指揮官が率いることもあった。時とともに、特に東ローマ帝国では、この部隊は正規軍団と見分けがつかなくなった。
スコラ【schola】――親衛隊騎兵部隊――
もともとは学校という意味だが、後期ローマ軍団の親衛隊騎兵部隊を指す。多くの上級司令官を輩出した。
ウェクシラティオ【vexillatio】――分遣隊――
帝国後期の野戦部隊に配属された騎馬部隊。兵員規模はかつての支援軍騎兵部隊alaとほぼ同じ――512騎もしくは768騎――である。
もう答えは出てるけど補足すると、野戦で投石器を使った場合は数が撃てない。 相手が射程距離に入ってから敵と味方の前線がぶつかるまでの時間しか使用出来ない。 撃てるのはよくても3〜5発というところになるだろう。
>>695 でもタキトゥスの「同時代史」だと
「投石器が…重い石で敵の戦列を破壊していた。二人の護衛隊兵が…被害は拡がっていただろう…投石器の発条索を切り落とした…二人の功績は疑う余地はない。」
なんてあるんだよね。
そんなに限定された効果しかないのに、わざわざ危険を冒して投石器を破壊するだろうか。功績を特筆するだろうか(しかもタキトゥスが)。
正直疑問が残る
それ以前に、カタパルトがそんなに使えない物であるのならば、あの現実主義者のローマ人が、わざわざギリシアから 輸入したり、移送用に道路を整備したりして何百年も使ったことの説明がつかないような気が(苦笑
698 :
世界@名無史さん :2005/03/21(月) 18:47:17 0
・・・カタパルトを輸送する為に道路を整備したと思ってる人がいるとは。 きっとこの種の人は心理戦なんて概念なんてないんだろうなきっと。 あとカタパルトはローマ以前も以後も大砲発明まで古今東西で使われてますが 何か?
一応、映画から話題が始まっているので投石器=3,4mの高さの大型のもの
という認識でいいと思うのだが、投石器というと車輪つきで動かせる自動車くらいの大きさの物もあるな。
あれだと野戦でも使えるし射程が短いかわりに命中率も良いので
>>696 に有るように
敵の戦列を崩して野戦で活躍できると思う。
破城鎚はどうなったんだ?
映画に出てこないし... でも、間違い無く立派な兵器だと思うよ。
兵器の輸送用に道路を整備したってコンスタンティノープルの時のオスマントルコと混同してないか? ローマが道路の整備に熱心だったのは保有している兵士の数が同じでも輸送が速ければ 戦場に動員できる兵士の数が増えるから見かけ上の戦力アップになるという理由じゃなかったかな。 軍事的な目的に論点を絞るとね。
カタパルトは第二次世界大戦で日本も使用しようとした。 そう、あれは‘45年。北海道での出来事だったな。 ソ連が来そうだったんだけど大砲が無かったんだよ。 そしたら元考古学者の仕官が作ってみようって言い出した。 結局使われなかったが…
704 :
ほへぇ〜 :2005/03/23(水) 17:38:32 0
投石器――バリスタ、スコルピオ、オナゲル――も、破城鎚も攻城塔も 運搬するには分解して、ロバの引く車に乗せたと思うのだが。 そのままローマ街道を長距離動かすのでは、車輪と車軸が磨耗してしまうよ。 古戦場の地図にしばしば戦列の後方に『ローマ軍のキャンプ』と記載されて おりますが、その近辺で組み立てた上で前線へ移動させてのではないかと思う。
ところで、ローマ軍の紋章の銀鷲っていつ頃からつけられるようになったんでしょうか? 双頭になったのは東ローマになってからというのは調べたのですが・・・。 塩野某の本に書いてあったのは覚えてるのですが、よくおもいだせなくて。 マリウスあたりだったけかなぁ。
706 :
ほへぇ〜 :2005/03/23(水) 23:39:51 0
>>705 あたりです。
BC104年 マリウス二度目の執政官の年。
ローマ軍団に鷲のスタンダードを与える。
それ以前には鷲は牝狼・ミノタウルス・馬・牡猪と共に使われた。
牝狼 LEG.T
ミノタウルス LEG.U
馬 LEG.V
牡猪 LEG.W
707 :
705 :2005/03/23(水) 23:46:09 0
>>706 どうもありがとうございます!
あの頃の軍団って双頭ではなかったんですよね。
いろいろと図書館を巡り渡ってるんですけど、なかなか資料にたどりつけませんで・・・。
708 :
ほへぇ〜 :2005/03/24(木) 00:22:44 0
投擲兵器の射程なのだが、後世の実験値より金石文や文献に残る記述から 推定される最大値とではずいぶん差があるようだ。 バリスタの場合 実験値1.1`の太矢を274m 推定最大値4.5`の太矢を365〜420m オナゲルの場合 実験値4.5`の石弾を320m 推定最大値22.6`の石弾を365m 【出典:『武器』マール社】 何でこんなに差が出るのだろうと思っていたが、実験モデルで使われた 捩りバネの材質は一般的なロープを束にした物を代用した。 で、昔々の捩りバネの材質は何だったのだろうかというと、牛のアキレス腱を 集めて加熱処理を施し長く繋げた繊維を使用したらしい。 しかもこの作り方が文献などに残っていないため、事実上再現不可らしい。 ばね定数が格段に違うのだろうな。 バリスタの場合、その投射物の描く弾道は比較的低伸するため、先は 青銅製の被りに覆われている太矢を直接照準に近い形で城門破壊に 使ったようだ。 二重捩りバネのため構造が複雑だが、より構造が簡単なオナゲルよりも 早い時期(二世紀以前)に使われたようである。 とはいえアクティウムの海戦の折、オクタビアヌス側の陸上部隊がオナゲルを 使ってアントニウス側の艦隊を自軍の想定戦域に押し込んだと言う覚えがある のだけれども、詳しい方はいらっしゃいますか?
たった一人しか殺せない兵器でも、その一人になるのは誰でもいやだからな。 しかも盾で防げないんだったらなおさらだし。
破城鎚が大活躍した攻城戦ってあるの?
破城鎚は特別に大活躍するというより有るのが当然という兵器では?
712 :
世界@名無史さん :2005/03/24(木) 21:13:00 0
ミナス・ティリス攻防戦での破城槌は凄い迫力だった
破城槌の迫力は男女差別
714 :
第20軍団兵 ◆vthFSU.BqE :2005/03/24(木) 21:58:25 0
>>710 『ユダヤ戦記』3巻がイェルサレム攻防戦だから、ちょうどそのあたりを扱ってますよ。
結構面白い、死傷者数がむちゃくちゃだけど。
破城鎚って邪魔さえされなければ常に一定の戦果をあげる物だから 破城鎚の活躍=用兵の成功という感じになる気がするな。
破城槌ってまさにこつこつする頑張り屋さん。 砲ができるまで、攻城戦の主役だったのに
今でもSWATとかが屋内に突入するときに似たようなのを使ってたりするけどね。 ちょっと違うか… 原理は同じなんだけど。
718 :
ほへぇ〜 :2005/03/26(土) 09:22:18 0
ローマの破城槌ってなにゆえ牡羊をかたどった金属性の被りをしているのさ? なんか宗教的な意味合いでもあるのかな?
720 :
世界@名無史さん :2005/03/26(土) 19:58:35 0
近代的な組織・訓練が行われたローマ軍ですが、兵站はどうだったんでしょうか? 弓矢や剣・盾その他の武器や日常品などはどう生産され、使用されたんですか。
721 :
ほへぇ〜 :2005/03/26(土) 22:17:40 0
あるサイトの掲示板で話題になったのだが、兵站業務を誰が担ったかという話。 王政〜共和制前半 上級クラシスに従っていた従者(従卒ではない) 戦時に従軍する騎兵クラシスなどは、下位のクラシスよりも多くの大麦を供給されている。 多分一人分ではないのではなかろうか? 共和制後半〜帝政 従軍商人と陣営奴隷 従軍商人は元退役兵の場合もあったらしい。 目端の利く騎士階級〜富裕な平民が多数派なんだろうけど。 陣営奴隷については『ガリア戦記』の註にも記載があるよ。
722 :
ほへぇ〜 :2005/03/28(月) 14:11:50 0
ついでなんですが、ローマ軍には『輜重兵』なる兵站専門の兵種と言うものが存在しておりません。 それでも情報と兵站を軽視していたということはありえないのです。
退役軍人が民間として軍に関わるというのは米軍と似ているような。 米に関わらずそうなのかも知れないが。
724 :
世界@名無史さん :2005/03/28(月) 20:31:15 0
ローマ海軍ってどうだったの?陸兵より待遇悪かったみたいだけど記録 にも残らないって気の毒だよな。実際の生活・活動・歴史はどうだったの? 教えてエロイ人、もしくは塩バア。
725 :
世界@名無史さん :2005/03/31(木) 07:51:57 0
>>690 火矢が全く効果のないというものでもなく、スッラがカイロネイアの会戦で
火矢を使用したという戦例はあります。
これは、恐らく敵(ポントスだったか)の騎兵を混乱させるためだったかも
知れない。
映画のあれは、単なる演出ということではないかな。
ただ矢を射るだけだと、遠目に攻撃しているのが判らないので、
火矢を放って弾道を見せることで、シロート目には攻撃しているのが
判るということだと思う。
726 :
世界@名無しさん :2005/03/31(木) 14:21:05 0
軍板より転戦です、良スレ発見したので >720 兵站に付いては基本的に現地徴用です ローマ軍は征服部族に対して人質を取る風習があったので 食料提供を断れなかった。 個人の持ち物はサンタクロースの袋に担ぎ、陣地の中央に置き負傷者 と共に戦いが終わるまで守っていた。(ガリア戦記に詳細有ります) 武器に関しては、身分に拠って兵役の際用意する物が違う。例えば貴族なら盾、剣一振、投げ槍2本 その下だと盾なし以外同じ、最下層は投石用の石と革の投石革(カタパルトでは無く、印字打ちに近い物) 生産地に関しては、エスパーニャが帝国の鉄の供給地になっていますが、製品は何処で作られたかは分りませんが 恐らく当時の鍛冶屋は野鍛冶(出張鍛冶)が多いだろうから、お抱えの鍛冶屋が多かったのかな? ローマの産業は政治と呼ばれる位、産業は製紙と鉛官ぐらいしかなかった様ですから 武器製造の産地とは聞きません。
727 :
世界@名無史さん :2005/03/31(木) 16:17:55 0
弓矢の大量補給が難しかったから昔は白兵戦の重装備歩兵が主力だった のかな?でも3頭政治の一人クラッススはパルティア相手に駱駝部隊による 包囲されながらの射撃で壊滅している。ローマ・パルティアともこの戦術に 学ぶ所はなかったのかな。
728 :
726 :2005/03/31(木) 23:36:18 0
弓矢は勿論使用されていましたが、ローマ軍の根幹は重装歩兵が主力となりますので 馬等を使用した機動戦や遭遇戦の確立が低く、専ら包囲戦や陣地戦を得意としていました。 故に、飛び道具は投げやり(テラ)を多用していました。 軽騎兵が軍の中核を為すのであれば、>726氏が指摘する様に弓矢を多用したでしょう。 その裏付けが、フビライのモンゴル軍で証明されているのでは?
729 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 02:05:27 0
重装歩兵が相手なら盾を使用不能にさせて隊列を崩す投槍は一定の効果が 有るんだろうけど。火矢でも同じ効果ないか?(雨天では使えないけど)射程長いし。 それとも盾には防火対策でもしてたんかな。
730 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 08:01:35 0
>>727 正しくは騎馬弓兵だったと思う。パルティアン・ショットの起こりでは。
駱駝部隊は前線に矢を供給するために使われたと思うのですが?
731 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 09:23:31 0
>>726 はなしがごちゃ混ぜになっていますね。
>武器に関しては、身分に拠って兵役の際用意する物が違う。例えば貴族なら盾、剣一振、>投げ槍2本 その下だと盾なし以外同じ、最下層は投石用の石と革の投石革(カタパルト
>では無く、印字打ちに近い物)
これは、共和政初期の話ですね。伝承では王政時代の話です。財産による武器の自前装備
ということでしょうか。歴史的には前5世紀頃までに成立したとするのが妥当のようです
が。
ちなみに、“貴族は....”となっていますが、これは個人の資産によるもので、厳密に
は貴族(パトリキ)だけでは無いと思います。
セルウィウス王の軍制改革は、果たすべき市民の義務を財産の多寡に応じて定めた「財産
階級別軍制」で貴族を中心とした最富裕の「エクイタス」、次いで市民を5つの階級(クラ
シス)に分け、ほかは無産市民とされた。「平時の重荷も戦時の重荷も相応に背負う」この
制度では、装備は自弁で、馬を養なえる貴族たちは騎兵とされ、それ以下の市民は歩兵と
されて、資産(クラシス)に応じた装備と役割が規定されたということ。
ちなみに、第1クラシスは円形盾をもち、装備は総じてギリシアのホプリテスと同じ。長
槍を2本携帯。第2クラシスはサビニ人風の大きな楕円形盾をもち、胸甲は装備しなくて
もよい。第3クラシスは第2クラシスと同様。ただしすね当てはつけていない。第4クラ
シスは盾だけを防具とし、兜はかぶらない。短槍や投げ槍を武器とした。第5クラシスは
投石ひもや、ただの石をもった軽装兵として従軍した。階級の外にいる無産市民は国家存
亡の危機といった非常時以外は兵役免除。仮に召集されても唯一の財産ともいえる己の身
ひとつで出陣し、敵が投げつけてきた槍や、遺体がもっていた武器を拾いあげて戦う。
装備については色々な解釈があるようですが、セルトサで発見された青銅製の
桶に刻まれた装備が、このクラス毎の装備を表していると言われています。
732 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 09:24:44 0
731の続き >生産地に関しては、エスパーニャが帝国の鉄の供給地になっていますが、製品は何処で作>られたかは分りませんが ヒスパニアがローマに組みいられるのは前3世紀からで、つまりは第二次ポエニ戦争頃からの話ではないかと思われます。共和政初期の兵器は青銅製のものが大半。特に甲冑は青 銅で造られています。 そして、青銅の供給源はエトルリアでした。エトルリア人はアレティウムで武器を生産し ています。また、鉄はポプロニアが供給源となりました。ポプロニアで採掘された鉱石を 溶解するための木材はエルバ島で伐採されました。甲冑の製作ではカプアやシラキュース、 イタリア半島統一後はタレントゥウムとブルンディシウムなどが行っています。また、ギ リシアが勢力範囲に加わるとギリシアの東部、ペルガモン、キュジクス、ロドスおよびシ ノペが兵器工廠に加わりました。勿論、第二次ポエニ戦争後、正しくはスキピオがヒスパ ニアを制圧した後は、優良な鉱物資源が供給されましたが。 >恐らく当時の鍛冶屋は野鍛冶(出張鍛冶)が多いだろうから、お抱えの鍛冶屋が多かった>のかな? ローマは伝承ではヌマの時代に職種別に区分されることになり、一種のギルドが形成され ていたと思われるのですが。少なくともセルウィウスの軍制改革と称されるものによって、 確か、第一クラシスには2個ケントゥリアが雑多なそれら職能兵だったかと。
733 :
ほへぇ〜 :エジプト暦2329/04/01(金) 19:37:04 0
セルウィウスのケントゥリア制度 クラシス ケントゥリア数 装備義務 騎士 18 馬・馬具・兜・丸盾・鎖帷子・馬上槍・剣 T 現役40+予備役40 兜・丸盾・鎖帷子・脛宛・長槍・剣・投槍 U 現役10+予備役10 兜・長盾・脛宛・長槍・剣・投槍 V 現役10+予備役10 兜・長盾・長槍・剣・投槍 W 現役10+予備役10 長槍・投槍 X 現役15+予備役15 投石器 等級外 1 装備免除 職工 2 装備免除 ラッパ吹き 2 装備免除 上級クラシスには従者が付く場合が多いです。 上級クラシスから投票しますから、Tが投票を済ませれば(98)過半数に達するので 残りの下位クラシス(95)が投票することはほとんどなかったのではないでしょうか?
734 :
ほへぇ〜 :エジプト暦2329/04/01(金) 19:49:24 0
合成弓以前の話ですので、ローマ時代の弓の有効射程距離って60mくらいじゃないですか? しかも斜め上方に向かって放ち、弾道は山なりです。 ピルムは有効射程15m、最大射程30mくらい。 重量がありますから貫通力は弓矢より格段に優れているでしょう。 ちなみに19世紀のトルコ弓は征矢で400m、遠矢で600m飛ぶそうです。
735 :
ほへぇ〜 :エジプト暦2329/04/01(金) 23:46:00 0
>>733 訂正
鎖帷子→胸当て
丸く削って仕上げられた投石器の石弾の発掘品の写真を見たが………
で、でかいな。
投石器で飛ばされた石弾は、かなりの運動エネルギーを持っているので、
32列の縦深をもった密集方陣に打ち込んだら、反跳して兵士をミンチに
してしまうんではないかと思い、気分が悪くなった。
メル・ギブスンの『パトリオット』でも、英軍大陸派遣部隊の砲兵が放った
砲弾が目に見える速さで植民地軍の一列横隊に飛び込んで兵士の足などを
もぎ取っていったシーンを思い出しました。おえっ………。
736 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/02(土) 00:22:53 0
流石に火薬の発明される以前だからそこまで効果があるとは思えないぞ。 榴弾みたいに炸裂する訳でもないし、運の悪い奴が一人か二人やられるの が関の山だと思うぞ。連弩の方が殺傷能力は高いと思う、まあ当たった奴は は連弩より酷い事になってるかも知れないけどな。 <32列の縦深をもった密集方陣に打ち込んだら、反跳して兵士をミンチに・・・ ボーリングのピンじゃないんだから。
737 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/02(土) 00:31:05 0
突然&話題豚切りの質問失礼しまっす。 イラスト修行の一環として、ヨーロッパの古代末期から中世初期の武装の変遷を調べたいのですが、参考になる書籍教えていただけないでしょうか? 読みやすければ、図版があまりなくても構いません。 ちなみに、オスプレイの日本語版の大部分と三浦さんの甲冑本は所有しています。
投石器で歩兵を狙うなら500gくらいの石弾を大量にばら撒いた方がマシでしょうね。 大砲でも至近距離では釘などを大量につめて巨大ショットガンのような使い方をします。
739 :
ほへぇ〜 :エジプト暦2329年,2005/04/02(土) 23:07:36 0
>>736 投石器といってもオナゲルのようなものと考えていただくと石弾の弾道は山なりになるので、着弾後に地面にめり込むのだと考えておられるのだと思う。
浅い角度でも石弾を投射できるバリスタを考えていただきたい。オスプレイの『Greek and Roman Artillery 399BC-AD363』より引用させていただく。
「30ミナ(13kg)の投石器の計算弾道」
最大射程は43.5度の射撃角度によって到達されるが、9.6秒の飛翔時間の間に投擲物はその持っているエネルギーの1/3ほどを空気抵抗によって失う。
(到達距離は約430m)
19.5度および60度の弾道も同様な理由によりエネルギーを失う。
(19.5度:約300m、60度:約370m)
5.7度および10度の弾道は、よりずっと効果的である。たった1〜2秒の飛翔時間の後、100〜170m先の標的は最大の打撃を被る。
(5.7度:約100m、10度:約170m)
↑
変な英語の文章なので、多少意訳してあります。
一定の速さと浅い角度で投射された物体がかなりの重量物であるにもかかわらず反跳するという事実は、第二次大戦時の米陸軍航空隊のB-25が反跳爆撃により日本側の艦艇・船舶に多大なる損害を与えたことからも理解できると思う。遅発信管の500ポンド爆弾が海面を跳ねてます。
運動エネルギーの損失が一番少ない浅い角度で投射された球形の石弾が、着弾と同時に運の悪い奴を1〜2人殺傷した後、その場で停止するのならその理由を説明してはもらえないであろうか?
球形砲弾というのは15世紀中葉から18世紀中葉までの約300年間に滑空野戦砲の砲弾としてポピュラーに使われたものであるが、敵の歩兵や砲兵の列へ砲撃する
場合、ほぼ水平にして発砲しますた。発射された球形砲弾は何回もバウンドして肉眼で見えるほど遅くなっても充分に人馬を殺傷したということです。
>ボーリングのピンじゃないんだから。
ボーリングのピンよりはましだな。前進は容易に出来るようだ。左右と後方への移動は手間取るぞ。密集方陣という奴は。
740 :
ほへぇ〜 :エジプト暦2329年,2005/04/02(土) 23:14:20 0
>>738 網袋に手ごろな大きさの石を沢山詰めて、それを投射するというやり方もあったと思います。投射と同時に網袋が裂けて中身がバラバラに飛んでいく。
本来なら敵の歩兵を狙うのは投石兵が革帯で投げる鉛製弾とか、軽装歩兵の投槍の仕事だとは思いますが。
それとブドウ弾と散弾とでは、登場が早いのはどちら?
741 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 02:53:11 0
<739君、君は石の威力だけしか考えていない。 重量20キロ以上の重装備の人間の群が移動するのは大変だろう。しかし高さが 3メートル以上、重さが何トンもある投石器の移動・方向転換とどっちが楽だろう? 大勢の牛馬や人間がえっちらこっちらやってる間に敵に攻められるとは考えないか。 あるいは前方に護衛の兵をつければ良いと考えるかも知れないが、敵・味方が混合 したら投石器なんて使えない。あるいは護衛を多くしたら相手は逃げてしまうかもしれない し、別の場所を攻めるかも知れない。あるいは騎兵が出てくるかもしれない。 投石器が野戦ではなく攻城戦で多用されたのも相手が出てこれないからで 相手が自由に動けたら馬鹿正直にわざわざボーリングのピンのように射程に入ってから動かない奴なんて いないって。実際、野戦で投石器が戦局を変えた例は古今東西存在しない。 こんな所で理解してくれたかな?
密集方陣じゃあ機敏にかわすって訳にも行かないだろうしなあ。
それだけで戦局を変えることはなくとも、
>>739-740 言うとおりくらいには効果があったのだろうな。
744 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 18:47:45 0
ソースが無い事自体が投石器が野戦で重要視されなかった証明だと思う。 投石器の生産・移動・組み立て・発射などには当時としては高度な訓練がいる。 そんな貴重な投石器兵を前面に押し出して危険に晒すのはリスクが高いし、 重装歩兵が列を組み展開するのには2〜3時間かかるが相手が陣形を組むなら、 味方も同じような陣形を組まなければいけない。そういった時何十人もの人間や牛馬が右往左往しているのは邪魔でしょうがない。 また何千・何万もの兵を動員・展開できる国家・地形は限られる。また陣形を組んで睨み合う場合もお互い500メートル から1キロ位離れるので投石器だと前面に展開しても軽い石しか届かない。 これらを勘案すると投石器が大きな石を投げて兵士をバッタバッタと倒すのは 現実的ではないと思う、無論陣形を組んでる最中に石を投げつけられるのは実害が無く ても嫌だろうし、投石器の破壊・鹵獲は戦果として解かり易い。しかし投石器が野戦におけ る重要な兵器かといえば違うと思う。
多分どの程度重要な兵器として捉えているかに齟齬があるんだろう。 まんざら全然使えないわけではないよ。くらいの意見と、 野戦での主力武器にはなれ得ないよ。という意見があるだけで、 議論の内容的には大して対立点があるわけではないような気がするが。
746 :
ほへぇ〜 :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 23:51:58 0
投擲兵器は石弾を飛ばすオナゲルだけではなく、太矢と石弾両方に対応できるバリスタや 太矢に対応する軽量のスコルピオなどあるのだけれども、あまり区別が付いていないような反論が多いな。 もともと投石器の威力が、運の悪い1〜2人を殺傷できるだけだから弓と大した差はないという暴論にだけ 反論するつもりだったが、論点をずらされてしまった。 あとは茶々を入れるだけだから、まともにおれの相手をしなくてもええで。 >大勢の牛馬や人間がえっちらこっちらやってる間に敵に攻められるとは考えないか。 【中略】 >し、別の場所を攻めるかも知れない。あるいは騎兵が出てくるかもしれない。 ある時期からローマ軍が諸兵科連合を構成していたって知ってる? >投石器が野戦ではなく攻城戦で多用されたのも相手が出てこれないからで いえいえ、籠城戦にも使われましたし、野戦でパルティア騎馬弓兵相手にも使われましたよ。 >相手が自由に動けたら馬鹿正直にわざわざボーリングのピンのように射程に入ってから動かない奴なんて いないって。 横隊というのは間を空けると敵につけ込まれますので、歩調を揃えて前に向かって進むしかないのです。 自由に動けることは出来ても、自由に動くわけにはいかないというのはナポレオンの時代でも同じです。
747 :
ほへぇ〜 :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 23:52:29 0
>ソースが無い事自体が投石器が野戦で重要視されなかった証明だと思う。
そんなこと言わずに探してごらん。特に対パルティア&対ササン朝ペルシア。
>投石器の生産・移動・組み立て・発射などには当時としては高度な訓練がいる。
>そんな貴重な投石器兵を前面に押し出して危険に晒すのはリスクが高いし、
比較的長い射程距離があるのに、前面に押し出す必要がどこにあるのだろうか?
高度な訓練を施された貴重な歩兵や騎兵も必要とあらばいくらでも前線に投入されました。
投擲兵や工兵は数学的・幾何学的・工学的な素養も必要とされた特殊な連中でしたが、
それでも軍司令官が必要と判断すれば、惜しげもなく投入されたと思います。
>重装歩兵が列を組み展開するのには2〜3時間かかるが相手が陣形を組むなら、
>味方も同じような陣形を組まなければいけない。そういった時何十人もの人間や牛馬が右往左往しているのは邪魔でしょうがない。
その程度の段取りを組むのが下手な人物であれば、百人隊長とか歩兵大隊長に出世できるとも思えないぞ。
>また陣形を組んで睨み合う場合もお互い500メートル から1キロ位離れるので投石器だと前面に展開しても軽い石しか届かない。
500m〜1kmというのは無理だが、22.6kgを365mほど飛ばしたらしい。22.6kgって軽くはないぞ。
ローマ軍は決戦至上主義みたいなところがあるから、マグネシアの戦いのように毎日毎日陣形を組むのにも
マケドニア軍との間を少しずつ詰めて、最終的に決戦を強いた。しかも毎晩帰るキャンプ地も前進させている。
いざ決戦というという時には投擲兵器も射程距離まで前進させていたのではないかな?
スコルピオのような軽量弩砲もあったことだし。
………なんか空しくなってきたので、これで止めにするよ。
うんうん。
>>745 氏。まったくあんたの言うとおりだよ。
時間と労力はもっと有意義なことに使うことにするよ。
・使われたという事と有効な兵器であったという事は同一ではない。 ・敵に打撃を与える事が出来ていてもコストパフォーマンスの良し悪しとは別問題。 (同じ金銭と同じ兵力を別の兵科に投入していた場合と比べてどうか?) ・問題なのは一発の威力ではなく射撃間隔。(戦闘開始から終了までに何発撃てるのか)
749 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 12:33:15 0
>>737 新紀元社の『武器甲冑図鑑』はいかが。
古代から近代までの軍装がイラストで描かれています。
^^^^
オスプレイのダイジェストと言った感じですが、オスプレイには
無い時代も含まれていますし、同じ時代でもビミョーに解釈が
違うようです。
750 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 15:30:58 O
投石が有効だったという記録は、クセノフォンの「アナバシス」にありますよ。 ギリシャ軍が撤退中にパブラゴニア人という民族の支配地域を通過するとき、投石器によるゲリラ戦を仕掛けられ、甚大な被害を受けたという。
751 :
世界@名無しさん :エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 20:48:19 0
労力と時間を考えたら野戦なら テラ(投槍)>>>>>>>>>カタパルト まぁ原始的機械兵器(木造の歯車など)萌えるわけだが
752 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/05(火) 03:10:39 0
カタパルト萌えの気持ちはわからんでもないが、現実的には剣・槍・弓による死傷者や退却時における落ち武者狩り による虐殺で死んだ奴の方が遥かに高いだろう。あるいは広義的に捉えれば傷がもとでの病死や疫病死、あるいは事故 死なども統計に採るとカタパルトでの死傷は1〜2%だと思います。
でしょうね。 カタパルトは象のように敵を心理的に圧迫する兵器だったのではと考えています。 世界史板はずっとエジプト暦のままなんですね。
空気を読まずに、陣形を崩すために使ったんじゃないか?と何の根拠も無く言ってみるテスト。
755 :
世界@名無史さん :2005/04/05(火) 19:02:23 0
昔は通信機なんて存在しなかったから相手の陣形を崩すのは勝利と同じ。 だからその1手段としてカタパルトが使われたのは間違いない。しかし 陣形を崩す手段はカタパルトだけではない。労力と時間考えたら騎兵や 弓兵を大量動員した方効果的だっただろう。無論いざ戦になれば使える 物は何でもやるだろうからカタパルト使って相手の士気が落ちたり陣形 崩れたらめっけもん位で使ってたんじゃないか? カタパルトは本来城攻めに使われるもんなんだから野戦で効果的でなくて も別に無問題だろう。
756 :
ほへぇ〜 :2005/04/05(火) 22:29:50 0
ほへぇ〜です。
いつのまにか本人もあずかり知らぬ間にカタパルト萌え男にされてしまいました。
ほへぇ〜です。
ローマにあるトラヤヌス記念柱のレリーフに
『アウキシリアの部隊がダキア人の軍勢に応戦している間に、ローマ軍団が防御物を構築しバリスタを設置している』
という場面があります。御存知でしたでしょうか? 築城中にダキア人に襲われたか、もしくはダキア人との遭遇戦で急遽防御拠点を設置し、投擲兵器を構えたということなのでしょう。紀元1世紀から紀元2世紀に変わる節目あたりの時代に、これだけの
緊急時にいける即応力の高さを示すとは正直言って驚きであります。
ほへぇ〜です。
……と、ソースやデータを示して、ほかの皆さんにもなるべく客観的に考えてもらおうと思っても、彼は書き込むでしょう……
運の悪い1〜2人を殺傷するだけ
コストパフォーマンスが悪い
象のように敵を心理的に圧迫する兵器
etc.
ほへぇ〜です。
ほへぇ〜です。
ほへぇ〜です。
主観的なイメージと断言には食傷気味です。頼むから根拠となったソースやデータを皆に示してください。
>>744 投石器の生産・移動・組み立て・発射などには当時としては高度な訓練がいる。
そんな貴重な投石器兵を前面に押し出して危険に晒すのはリスクが高いし、
【中略】
ても嫌だろうし、投石器の破壊・鹵獲は戦果として解かり易い。しかし投石器が野戦におけ
る重要な兵器かといえば違うと思う。
『貴重』であって『重要でない』
成金の道楽のようなことを現実的なローマ人がやると思っているのだろうか?
あきれずに戻ってきてソース付きで反論を書いていただけるのはありがたいです。 他の人がどうかは知りませんが私が欲しいのは投石器の統計スコアなんです。 ほへぇ〜氏のソースは少なくとも戦記として確かなものでしょうが 複数の条件における複数の戦いでの統計データでなければあまり意味をなさないのです。 1や2のデータで良いのであれば有名どころだと戦艦大和で米空母を叩く事は容易という結論も簡単に出せます。 ちょうどシーズンですが、5打数5安打だから打率1.000という野球選手もいます。 ソースを出せと言われますが仮に真実だったとしても投石器が統計的に見ると 非効率的な兵器であったというソースを出せる人間が世界に一人でもいるでしょうか? となると結局、現代の知識で見るしかないという事になるのです。 こちらはコテハンではないのでレスに混乱されるかとは思いますが、 「運の悪い1〜2人を殺傷するだけ 」という所では反証が成功していると思いますし 私も適当な場所に発射されればかなりのダメージになるとは思います。 射撃間隔と一回の戦闘での投射量に関してはどうお考えですか? これが一番のネックになっているように思えます。 20mmファランクスのように毎秒50発なら地獄を演出できるでしょうが 1分で1発だとかなり厳しいでしょう。
758 :
世界@名無史さん :2005/04/06(水) 01:16:22 0
カエサルの「内乱記」にポンペイウスがクレタ・ポントス・スパルタ・シリア から弓兵3000、投石兵1200を雇いいれたと記録があるのでわざわざ地域 を限定して雇った事を考えると投石兵は技術的伝統を重視された「貴重」な存在 だったと思います。しかしポンペイウスは当時5万人程度の歩兵と1万騎近い 騎兵を動員してるので全体比率としては2%程度なので敵に大打撃を与える存在 とは言えないと思います。城攻め・陣地攻撃の際に使用される特殊技術部隊だった と思われます。(てかそれが本職だし) また当時の投石器では5キロ程度の石を弓形に飛ばして1キロ程度飛んだか 飛ばんかが限界です(まあそれでも当たれば相手は死にますが)。当時は1キロ 程度離れて睨みあうので前線までもっていって最前列の兵に当たるか当たらんかです。 また一回戦いが始まれば兵士が1分間に100メートル前進するとして10分で 投石器の所に達してしまいます。もし一分/一発としたら一つの投石器で10発 また相手も弓矢等で妨害するでしょうし、あの重さでは後方に曳いて再び撃つといった事 は難しかったでしょう。これらを考えると投石器が野戦で大活躍と言うのは 難しかったのではないでしょうか?
大変含蓄のあるスレッドで、いつもROMってばかりで恐縮しているのですが、 ローマ軍の軍旗の双頭の銀鷲って英語またはラテン語でなんていうのでしょうか? 鷲のラテン語名がaquilaというのは分かったのですが、ローマ軍の紋章の双頭の銀 鷲というのはなんといえばいいかがわからなくて困ってます。 どなたかご教示いただければさいわいです・・・。
横レスですが 大砲>投石器 というのは一致した見解ですよね。 大砲の野戦での能力を調べていまいちという事になれば 投石器の能力もおのずと知れると思うのですが。
>>760 戦術戦法も全く違うわけだし、後代の兵器と比べても意味ないのでは?
純粋に殺傷能力を比べようというなら別だが、あくまで戦場での有効性な訳でしょ?
っていうか投石器の話はほへぇ〜氏以外もういいんじゃね?
結論先ありきな話で萎える
762 :
世界@名無史さん :2005/04/06(水) 17:59:04 0
帝政移行期から五賢帝時代までのローマ軍の編成では軍団に技術隊?が 60名います。これは1個軍団が6000名とすると1%、補助軍団600 0名まで加えると0・5%程度になります。無論これだけでは戦力になりま せんので、実態は軽く言うと大工の親方、あるいは技術士官・下士官だった と思われます。彼等を中心にして平時なら街道の建設や維持、街作りなどを 行い、戦時なら陣地構築・バリスタ・オナゲル・スコルピオの生産・移動・ 指揮などを行っていたと思われます。 当時のローマ軍の移動速度は歩兵では1時間に5キロ、騎兵なら最大一日 80キロ程度こなせますが、重い荷馬車だと蹄鉄が無い所為もあって一時間 に1・5キロしか進めません。よって技術隊はバリスタ・オナゲル・スコルピ オの生産に必要な器具や部品だけ持っていって現地で自作したと思われます。 これだと陣地で待ち受けるか、あるいは陣地を攻めるか以外で大規模に 投石器を運用するのは行軍速度をメチャクチャ遅くしない限り時間的に不可能 だと思われます。 <ほへぇ〜氏の『アウキシリアの部隊がダキア人の軍勢に応戦している間に、 ローマ軍団が防御物を構築しバリスタを設置している』についてはローマ軍の 野戦築城・技術力の高さを証明するものではありますが会戦において大規模に 運用された証明にはなり得無いと思われます。無論現場の兵士が可能な限り 努力して柵・スコルピオを設置して攻撃力・防御力を高めようとした可能性は 高いと思いますが。
763 :
ほへぇ〜 :2005/04/06(水) 23:59:01 0
>>759 羅和辞典に
aquila 1.鷲 2.鷲の徽章(軍旗) 3.切妻の三角壁面(神殿など)
とありますので、aquilaでよいのではないでしょうか?
銀鷲も最初は金であったそうです。緊縮予算の関係ですかね?
鷲軍旗旗手はaquila+feroでaquiliferといいます。
参考までに皇帝肖像旗手はimaginefer、百人隊旗手はsignifer。
764 :
第20軍団兵 ◆vthFSU.BqE :2005/04/07(木) 01:41:23 0
>>762 それは工兵隊faburiのことではありませんか?工兵隊は分遣される事も多く、また技術力も相当高かったようで、
バタヴィ第9大隊が駐留していたヴィンドランタの浴場を建設したのは第6軍団の工兵隊だったそうです。
それとは別に砲兵machinatoresgaがあり、彼らがオナゲルのような重投石器を運用したのでしょうね。
各軍団には歩兵大隊ごとに1基(=1個軍団につき10基)配備されています。砲丸の動きを止めるストッパーの角度を
調整することによって直射出来るように設計されていますが、初速が小さいため(*初速は61-67m/secで一定です)
実験によれば攻城戦に使う130kg級の砲弾で有効射程は450m前後が限界、
敵の歩兵隊に向かって発射するような場合は軽量弾を使用して50%増しです。
初速を固定して、射程は仰角で調整するという仕組みを取っていることから、試射が終われば
かなり速いサイクル(15sec〜20secに1回?)で打ちまくる事が出来ます。
また、これは城壁に据え付ける事が出来ません。射撃の際に反動でオナゲルの前に反動が集中するため、
城壁に据え付けると石組みを徐々にずらしてしまうためです。
これよりも野戦における本命は、各中隊に1基ずつ配備され、11人の"重火器チーム"で運用されたカロバリスタなのですが、
それはまた後日。
*オナゲルについての記述はほとんどを『技術の歴史』4に拠っています。
765 :
世界@名無史さん :2005/04/07(木) 02:45:34 0
<764 工兵隊で良いのでしょうか?重機なんて無い時代なので技術士官・下士官 の集団だと思うのですが。後世の言葉で訳すので齟齬が出てるのかもしれ ませんね。また砲兵についても専門的な組織が当時あったのでしょうか。 どちらかと言えば現場の兵が手近にあるもので自作・運用したのが実態で そういった兵士の中で上手い人が砲兵と呼ばれたのが正しいのではないで しょうか。私もいざ戦闘になったら前線兵士は可能な限り柵や堀・バリスタ 等の攻撃・防御施設を作ろうとしたと思うのですが、オナゲルやカロバリス タ等の重装備を時間的に運用できたかは疑問なのですが、というより当時の 人の感覚ではそういった物が完成してしまうと野戦ではなく攻城・陣地戦に なったと思います。
766 :
大きなお世話だが :2005/04/07(木) 11:35:35 0
>765氏や>762氏は不等記号が逆ですよ 他人を指定する時は >> もしくは > の後、番号やコテで表示して頂くと便利なんですが。
ちと質問だが。 ローマ宿営地の面積の計算式知っている人いない? 何人に対して、どれぐらいの辺と面積の求め方。
768 :
ほへぇ〜 :2005/04/07(木) 22:09:19 0
>>767 コホルトの総部隊数の平方根の200倍が方形陣の短辺として適応され、
長辺がその1.5倍と定められていたということです。
レギオンだけでなくアウキシリアも一緒の宿営地に入っていたからでしょう。
八人分隊用の天幕は10ペス(約2.93m)四方の面積を占有していたそうです。
769 :
ほへぇ〜 :2005/04/07(木) 22:43:33 0
ローマ時代の弓は純木製だったと思うのだが、矢を飛ばすエネルギーは木の歪みエネルギー容量に よって、そのエネルギー量が決まります。動物の角を加工して造った弓に比べ、木製の弓は歪み エネルギー容量が小さいためあまり遠くまで矢を飛ばすことが出来ないそうです。 さらに厄介なのは木の歪みエネルギー容量というものは温度に大きく影響を受け、摂氏25℃を境に より高温になれば、かなりの性能劣化をおこすそうです。 地中海世界においては戦争のシーズンは25℃を簡単に越えてしまうでしょうから、弓の投擲能力と いうものが当てにならなかったのかもしれません。ローマ軍が重装歩兵に重きを置いた理由の1つ であると思います。また投擲兵器は捩りバネ方式を採用するしかなかったのでしょう。 ちなみにイングランドの長弓はイチイの木が使われていますが、想定される戦場が寒いところなので 単弓構造の長弓でも問題にならなかったようです。 それはそうと、ペルシア戦役のころよりも有名なクレタ弓兵ですが、彼らの弓は動物の角を加工して 造られたのでしょうか? 少々気になります。
to:ほへぇ〜様 双頭の銀鷲を質問したものです。 ちょっとしらべてはみたのですが、ラテン語の知識などがかけておりなんぎしていたところでした。 どうもありがとうございました〜
>>769 >さらに厄介なのは木の歪みエネルギー容量というものは温度に大きく影響を受け、摂氏25℃を境に
>より高温になれば、かなりの性能劣化をおこすそうです。
それだとインド、東南アジア、中国、日本、ペルシャ、メソポタミア、アフリカ、モンゴル
で弓が盛んに使われてることが説明できないと思うのだが。
むしろ問題になるのは湿度とそれの温度との兼ね合いでは。
772 :
世界@名無史さん :2005/04/08(金) 01:39:49 0
中国の映画「英雄」で兵士が寝っころがって足で弓引いてたけど、ああゆう 戦術はローマには無かったのかな。発射速度や命中精度は悪そうだが長距離 に放つのには有効だと思うんだが。
>>771 そこら辺は木はあまり使ってないのではないかい?
774 :
世界@名無史さん :2005/04/08(金) 09:11:51 0
日本は純100%木製だろう。まあ材質は竹と籐なのでローマ人には絶対 手に入らない物だけどな。
775 :
世界@名無史さん :2005/04/08(金) 10:16:55 0
>>771 マグネシアの戦いでシリア側の弓が朝霧によって弦や投げ槍用の革ひもがしけって
威力が落ちたという記述がありますね。
776 :
世界@名無史さん :2005/04/08(金) 11:07:32 0
>>774 そんなことはない。
鯨の髭とか使っているぞ。
>>768 すまん。馬鹿だからいまいちわからん。
六千人の一個軍団だと、辺は何メートル?
>>777 仮に基本をペス単位とすると、
>>768 の計算式によれば
一個軍団だと十個大隊(コホルト)だから、10の平方根で約3.16ペス。
これが1ペス=29.3cmで計算したところ約92.5cm。
で、この200倍だから約185m。これが短い方の辺で、
長い方はこれの1.5倍だから約278mと出た。
細かい数字は省略してるが、概ねこんなものか?
780 :
ほへぇ〜 :2005/04/09(土) 12:28:02 0
>>779 Ryujuさん。フォローありがとうございます。
ほぼそんなところです。この宿営地の面積は約5.14haというところでしょうか?
10ペス四方の天幕ならば、単純計算で5990個張る事が出来るでしょう。
ちなみにハドリアヌスの防壁上の砦や出城27個の広さは
平均値 1.899ha
最小値 0.81ha
最大値 3.78ha
となっており、500人隊、千人隊、軍団の分遣隊が常駐するとしたら
更地で考えるならば人数あたりで宿営地より広く感じると思います。
城内には常設の兵舎、厩舎、工房、倉庫、駐留部隊司令部、司令官宿舎、
公衆浴場、公衆便所、小さな神殿まで揃っているので建て込んでいる事
でしょう。
781 :
ほへぇ〜 :2005/04/09(土) 13:06:03 0
>>771 >それだとインド、東南アジア、中国、日本、ペルシャ、メソポタミア、アフリカ、モンゴル
>で弓が盛んに使われてることが説明できないと思うのだが。
>むしろ問題になるのは湿度とそれの温度との兼ね合いでは。
たしかにご指摘のとおりです。
25℃を境に云々というのは、英レディング大学のJ=G=ランデルズの著書
『古代のエンジニアリング〜ギリシア・ローマ時代の技術と文化』
より引っ張ってきたものです。
中国でも殷周時代の弓は60mほどしか飛ばなかったらしいので、木製単弓では
ランデルズ先生の言うとおりなのかもしれません。
他の地域では、技術的なブレークスルーがあったのでしょうか?
たしかにモンゴル弓は世界帝国を建設する時期には合成弓になっていました。
トルコ弓もそうですし、インドでは欧州人来航以前に鋼鉄製の弓があったそうです。
【註】
単弓 :一種類の材質からできた一本の棒からなるもの
合板弓:同じ材質の薄板を三枚以上はりあわせたもの
強化弓:単弓を動物の腱などで背を裏打ちしたもの
合成弓:異なる三つの材質をはりあわせたもの
ローマの弓は木製単弓で留まったのだろうか?
工学的才覚があるのに早期に鐙を使わなかった例もあることだし。
782 :
世界@名無史さん :2005/04/09(土) 15:14:36 0
古代人って現在の人が考えたら何でこんな事に気がつかなかったんだろう? て事多いよな、立派な大浴場とかコロッセオとか作ってるのに遠近法に気が つかないとか。弓は仮に単弓として矢には細工とかしたんだろうか。例えば 鏃に毒を塗るとか、笛矢にして合図にするとか。
783 :
世界@名無しさん :2005/04/10(日) 11:17:52 0
古代ローマでは無いのですが、弓の材質調べていた序でに、材質よりも人力と言うか 根性で補う先人に驚いたので紹介 三十三間堂に代表される通し矢。約120mの距離の堂内で、一昼夜(約24時間)の間に何本射通すことができるかを競う。 120m飛ばすのではなく、高さの制限5mを越えることなく射通すのである。一回の通し矢には千両以上の金額がかかった といわれ、藩の名誉と己の名声を賭けて、命がけで挑むものであった。中途で挫折した射手は恥じて切腹した。歩射とは 目的が違うため、その射法はまるで違う。一回500本を打ち終わると矢取りをする。その間に弓師・矢師が手入れをし、 按摩師が射手の体をほぐし、師範が射手に指導を行う。 貞亨三年(1686年)、紀州の武士、和佐大八郎(18歳)が13053本を引き、8133本通した。これが最高記録である。 食事や休憩の時間などを除いて計算すると、5〜6秒に1本の速さで発射したことになる。想像を絶する世界である。体力・筋力を 温存するため、いろいろな工夫がなされた。従来の三つガケでは手首に負担がかかり長時間の行射が難しいため、四つガケを 開発し、親指(帽子)を硬くして、あまり力を入れなくても強い弓が引けるように改良した。押手には押手ガケをつけ滑り止め(松ヤニ等) を塗り、弓返りしないようにした。押手の肘を曲げながら引き分け、右肩につけた肩当てに右手がつくと同時に押手を伸ばし、60間 (120m)先まで低い放物線で射抜くのである。つまり四つガケは近距離の物に的中させることを目的としていない。低い矢道でいかに 遠くに飛ばすかという目的で開発された道具である。私個人の考えとして、現在近的において四つガケを用いている射手は、なにか 勘違いしているのではないかと思う。当てることを目的としないゆがけを用いて的に当て、それでご満悦なのだろうか。 この通し矢は、金銭的疲弊・肉体的酷使があまりにもひどくなったため、後に禁止された。しかし、藩の名誉をかけたこの通し矢によって 弓具や技術が進化し、発達していった。
784 :
661 :2005/04/10(日) 12:31:36 0
>661 貧困と、それによるセックスのし過ぎゆえの人口爆発が、その原因だろうから。 自己レスだけど、梅棹読んだらちょっとちがった_| ̄|○ 貧困じゃなくて、騎馬民族は家畜の数が増大して豊かになると、元気が出て略奪に出かけるらしい。 あと、ギボンで触れてたけど、黒海東岸にはギリシャ植民市、北岸にはボスポロス王国という同盟or緩衝国があった。 つまり、ローマの勢力範囲は同盟国を含めると黒海沿岸全域まで広がっていた、ということだろう。 それが蛮族に侵略され、次に黒海東岸南岸まで略奪された。塩野、ちゃんと書いといてくれよ_| ̄|○
弓といえば、日本の源平の頃の鎧は、弓対策だったんですよね? 古代日本のあの中国っぽい鎧からどうして、「おお、にっぽん!」と叫んでしまえる鎧に変わったのでしょうか? また、それは一体いつ頃発明され、どれくらいの期間で日本中に広まったんでしょうか? 鎧の変化による戦術の変化などはあったのでしょうか? 書名は不確かですが、「勝者の条件」とかいう本に、 元寇の際、モンゴル弓は日本の鎧を貫けなかった。日本刀は、薄い鎧の敵兵を次々と切り裂いた。 日本刀の切れ味は、西洋鎧など真っ二つにできるほどであった。 (鎌倉は首一つでも恩賞を約束したので、騎馬戦の出来ない蒙古船隊は、鎌倉武士が相争う首狩場と化した!) などと言う記述がありましたもので、気になって仕方ないのです。 日本刀は、戦闘用ではなく、むしろ首狩用に使われた。というのもネットかどこかで見ました。 そういえば、首狩りの風習は、世界のどのあたりまでなんでしょうか? ローマ人が首狩りするとは想像し難いですが、どうやってローマ軍は恩賞を決めてたんでしょうか?自己申告?
>>785 それは日本刀最強伝説のたぐいに属するものだよ。
日本刀では対日本の鎧武者でも急所を狙わないと倒せない。
日本刀は確かに戦場でも使われたけど長巻きといって薙刀に近いものだったし
短いものは持ち運びやすい範囲内で戦場で使えるサブウェポン、もしくは首取り用。
戦場では突くのが基本、斬るなら腕か露出してる部分。
間違っても大鎧を着けてる武者の胴や兜を斬り付けるような事はしない。
(力に自信のあるものなら兜に当てても敵の首の骨をおれるが)
787 :
ほへぇ〜 :2005/04/10(日) 23:53:45 0
『マリウスのロバ』とか申しますが、八人分隊所有のその他の装備――たとえば天幕――は 分隊に支給された本物のロバに運ばせたそうです。
788 :
朱由檢 :2005/04/11(月) 00:50:17 0
三十三間堂の前で行われる、堂前の競技は、 火矢を放つ技術向上のために行われていたと聞いています。 和弓は基本的に威力重視ですが、 この競技では飛距離重視の専用の弓と矢が使用されるようです。 しかし、高度5m以下で33間堂を射通し、 なおかつ、狙いを定めて5秒間に一本の割合で放つなんて、 常人では考えられないです。
789 :
世界@名無史さん :2005/04/11(月) 18:55:36 0
>785 ローマ軍の勲功は自己申告と仲間による推薦、指揮官の認定があったみたい です。日本と同じで城壁に一番乗りしたとか、敵将を討ち取った個人・部隊 には指揮官が昇進・増給・金品・奴隷・勲章なんかを分配していました。 ちなみに名誉的に一番高いのは仲間を救助した者に与えらたみたいです。 軍団における出世の早道は勇気や武芸も大事ですが、有力者の関係者はやはり 有利ですし、乗馬が上手いといった特殊技能があれば有利でした。また文章が 書ければ指揮官の代筆などで重宝され出世に有利でした。裏技としては美青年 だと・・・・。
>>785 当時の武士の騎射の心得は、「内兜を狙え」でした。死者というのは、直接刺
されでもしない限りは、ここか首を射られて生じたものです。
組打ちとなり、腰刀で刺す場合でも、首や間接を狙いました。
太刀で打ちかかる場合、兜の真正面を狙って脳震盪を起すか、手足の関節を
狙って動きを封じ、しかる後致命傷を与えました。
首を切るなら、長い刀よりも腰刀などの短刀の方でしょう。
ただ、首を切って軍神に奉げる事を誇る習慣があって、首切りというものは
単に論功行賞を目的としていた訳ではありません。
首が恩賞認定の手段として定着するのは、南北朝時代頃の様です。
なお、日本でも手柄の証拠が無ければ、証人を立てていました。
長巻は「長巻の太刀」の略称だといいますが、これは打刀とは別に装備してい
たもので、役割としては鑓や長刀に近い。
刀は刀で、しっかり装備していました。出番では長巻>刀というのはその通
りです。
なお、弓についてですが、湿度との兼ね合いから、戦場では丸木弓(木製単弓)
も併せて使用されていました。
791 :
ほへぇ〜 :2005/04/12(火) 22:12:57 0
>>785 >ローマ人が首狩りするとは想像し難いですが、どうやってローマ軍は恩賞を決めてたんでしょうか?自己申告?
トラヤヌス記念柱に、ガリア人・ゲルマン人の補助軍兵士が討ち取ったダキア人の
首を皇帝に差し出している場面があります。多分帝皇帝からの賞賛と褒賞を期待した
のでしょうが、ローマ人は首狩を禁止していたようなので、トラヤヌスも迷惑そうに
しています。ガリア人・ゲルマン人にとっては部族戦士の首長に対する儀礼的な行動
だったと思いますけど。首狩禁止令というものがあったかは知りませんが、強制でき
なかったようですね。
792 :
世界@名無史さん :2005/04/13(水) 08:01:19 0
ゲルマン人は敵の首を油に漬けて友人に自慢したり、骨になったら家の玄関 にして守り神にしてたんじゃなかったけ?
>789 カエサルのヅラの代わりのアレも元々はそうだったんだよな。
794 :
世界@名無史さん :2005/04/14(木) 23:16:34 0
それはケルト人かな。首を信仰してた。
795 :
世界@名無史さん :2005/04/14(木) 23:23:30 0
フランスのサン・ドニ聖堂は、ドニ聖人がモンマルトルの丘で斬首されたあと、 自身の首を抱えて歩き続け、ついに事切れた場所に建てられた、という。 ケルトの首信仰と、キリスト教が合体した伝承だ。
796 :
朱由檢 :2005/04/14(木) 23:37:22 0
>>794 たぶんそうだよ。
首を刈り取り玄関に打ち付ける風習の記述は
タキトゥスの「ゲルマニア」がソースのはず。
エグくて印象に残ってるから。
「ガリア戦記」かもしれないけど、
どっちにしてもケルト人だよ、確か。
797 :
世界@名無史さん :2005/04/22(金) 01:04:08 0
平将門の首飛び伝説も一種の首信仰なのかな?
ローマ時代のの壁絵にも「首だけの人物」を装飾的に描いたものが多いと思うけど
799 :
ほへぇ〜 :2005/05/03(火) 09:40:17 0
自分で振っておいてなんだけど、『首狩』とか『生首』に話題が飛んだら 書き込みが減りましたね。皆様好みでないのかな←『首』の話 FIFAから北朝鮮が制裁を受けて『第三国開催・無観客試合』で。 ローマ兵が切り落とした敵の生首を蹴飛ばしあったのが、サッカーの 始まりというのを子供のころ読んだ本に書いてあったのを思い出したよ。
>>799 その本オレも読んだよ。
確か民明書房から出ていたはず。
801 :
世界@名無史さん :2005/05/03(火) 15:10:59 0
昔の人間って死に対して鈍感だよな。コロッセオの剣闘士の殺し合いなん て本当に娯楽なんだろうな、現代人が見たらPTSDになりまくりで精神病院 は大混雑だろう。ところでローマ軍では年季が明ければローマ市民権と退職金 がもらえたけど傷病兵や戦死者の遺族には保障はあったんだろうか?あるいは 共和政の時は市民皆兵が建前だがこの時も残された家族とか傷病兵には保障は あったんだろうか。
>>801 今じゃあそういう刺激的な娯楽を得るのに、
リアルに殺す必要があまりなくなったってだけでしょう。
>>801 >>802 に同意だな。後、日常生活に昔ほどのストレスがかかってない
ってのもでかいと思う。特に都市生活。
804 :
世界@名無史さん :2005/05/08(日) 23:29:58 0
ローマ軍の兵站はどうなってたんだろう。大カトーはスキピオを公金横領 で失脚に追い込んで成功したけど、略奪品の金額算定とか現地での小麦購入 や馬購入、兵士への給料支払いってどうやってたんだろう。
>>801 まさに現代の価値観を古代に押し付ける典型例
806 :
第20軍団兵 ◆vthFSU.BqE :2005/05/10(火) 01:33:09 0
>>801 あれは残虐だってのはセネカも言っているし、小プリニウスもあれが残虐でないとはまったく考えていない。
ただ、戦士共同体だった"先祖の遺風"を守るためには必要悪だという立場、その他にも剣闘士の戦いは
軍事訓練の一旦で必要だという意見等、最前列で見ている階級は結構意見が分かれている。
後ろで見ている下層の人々があんまり気にならないのは、一つは彼らが普段の祭祀で結構動物を絞めたりして、
死に身近だったから。
"どの観客も,より身近なこととしては宗教的いけにえを連想したにちがいない.(K.ホプキンス『古代ローマ人と死』) "
>>801 プロレスや相撲を楽しむ感覚だったんじゃないか?
格闘技だって見方を変えれば野蛮そのものだろ。
まあ、現代よりも死や戦闘が身近だったというのもあるんだろうけどね。
後、共和政時代ではそういう類の保障は司令官の温情次第だったんじゃないか?
そういう話は帝政時代になるまで聞いた事ないし、第一給料だって必要経費までしかなかったからなかったと考えるのが自然だと思われ。
多分、そういうのは周囲の人たちが自主的に支援したんじゃないかな?
>>804 その為の公金だろ?
808 :
第20軍団兵 ◆vthFSU.BqE :2005/05/10(火) 02:19:39 0
>>801 保証については給料の半分が天引貯金だから、戦傷/戦死の場合はそれが渡されたと考えるのが自然。
809 :
世界@名無史さん :2005/05/11(水) 00:34:44 0
カエサルの地方選挙法によって軍経験者は優先的に公職につく事ができる ようになったと書かれているが、実際どの程度の割合で公職につけるよう になったんだろうか?例えば100人隊長とか勤めた歴戦の勇士なら軍内 部なら一目置かれる存在だろうけど民間だとそういう知名度はあまり役に 立たない気もする。今も昔も金とコネがあれば有利なのは世の常だし、 ローマの公職って結局金持ちが社会に富を還元する為にやってるようなもん で兵士にはそんな金ないんじゃないか。誰か資料ください。
810 :
世界@名無史さん :2005/05/11(水) 00:38:00 0
一日にしてならずか。
811 :
世界@名無史さん :2005/05/11(水) 00:44:15 0
パックス・ロマーナ
Yo-Yo-、ローマちょー強えーのに イタリア軍ってゲロ弱じゃん。
813 :
世界@名無史さん :2005/05/15(日) 00:32:41 0
サッカーはそれなりに強い。
814 :
世界@名無史さん :2005/05/15(日) 00:54:12 0
>>812 都市レベルでは強いが、まとまると弱い。それが現在イタリアクオリティ
>804 5賢帝後のローマの話ですが給料のエピソードを紹介 192年コンコドウス帝が親衛隊に殺された後、親衛隊は都長官のペルティナクスを皇帝に推挙したが、 ペルティナクス帝が軍紀を厳しくしようとしたので在位3ヶ月で親衛隊がまた暗殺。次に親衛隊は、空前絶後の 「帝位のセリ売り」を行った。 つまり、彼らに最も高額のボーナスを約束した者に、帝位を与えようというのである。 政治など我関せず、美食がなにより大好きという裕福な元老院議員ディディウス・ユリアヌスが、妻や娘、 居候たちにおだてられてこのセリに参加し、親衛隊員一人につき6250ドラクマ(約625万円)の賞与金(全額で 約750億円)を約束して帝位をセリ落とした。今まで様々なひどい状況を見てきたローマ市民だったが、 さすがにこれにはあきれ返ると同時に大きな憤りを感じ、辺境守備の諸軍団に、侵された帝国威信の回復 を呼びかけている。 まぁ、帝国の最後はゲルマン傭兵への給料未払いが発端だったりするが
817 :
世界@名無史さん :2005/05/21(土) 01:23:09 0
>>815 確かにサッカーもクラブチーム>イタリア代表だ。
まあ、古代ローマ帝国のイタリアの諸都市には、「ローマ市民」がいっぱいいたわけだが
819 :
世界@名無史さん :2005/05/24(火) 18:28:13 0
ローマ人の子孫がイタリア人だとしてなんであそこまでおちぶれたの? むしろドイツ人のほうがローマの子孫にみえるけどゲルマンだからちゃうか
821 :
世界@名無史さん :2005/05/25(水) 08:46:39 0
よんでないおしえて
822 :
世界@名無しさん :2005/05/25(水) 12:43:47 0
>819 つ「神聖ローマ帝国」
神聖でもなければ、ローマ的でもない。それどころか帝国ですらない。
824 :
世界@名無しさん :2005/05/25(水) 16:11:43 0
>823 俺にケチつけられてモナー、銘々したしとに文句いってよプンプン(AA略
825 :
世界@名無史さん :2005/05/25(水) 18:30:20 0
?初期のローマと分裂後のローマで人種構成が変わったりってことですか?
>>824 多分あなたに文句言っているのではなくて、
誰かの言葉だったと思いますよ。
神聖ローマ帝国についてそのように評した人がいたはず。
ヴォルテールじゃなかったかな
828 :
世界@名無史さん :2005/06/04(土) 01:48:11 0
ヨーロッパ人の中でローマとキリスト教は文明の基本・正統性の根本だか らな。
829 :
ほへぇ〜 :2005/06/18(土) 09:16:30 0
ホワイトカラーの労働生産性は日本の約二倍。 製造業の事業者数もG7の中で唯一増加しているということを考えると、 イタリア人が自ら卑下するほどローマの末裔に相応しくない……というわけでもないような気 がする。
830 :
世界@名無史さん :2005/06/18(土) 10:27:41 0
>>829 製造業といってもいろいろだしな。イタリアの場合。
831 :
ほへぇ〜 :2005/06/19(日) 21:28:47 0
うむ。 製造される製品のデザインは多様過ぎて、中国製のコピーが追いつかないそうである。 経済アナリストというより変な物収集家として名高い森永卓郎氏が講演会で言ってた。 そのとき紹介されたイタリア製品は、オシャレではあるが何でこんなものにこんな高い 値段が……? というようなものばかりでした。
832 :
世界@名無史さん :2005/06/26(日) 13:01:22 0
ローマ帝国の防衛力って30万程度らしいけど、 面積ってどれくらいだったの?人口は5千万ほどらしいけど
どの時期の話よ
>832-833 こういう質問には、アウグストゥスの襲名時か崩御時か、帝国の最大版図時を答えておけばいいと思う 塩野「ローマ人」最新刊を読んだけど、もうやる気がなくなってたような気の抜け方。 あの当時で分っている文献などが、あの程度という推測もできるけど、 塩野はカエサル好きだけの理由で書いていたから、もうコンスタンティヌスとかはどうでもいいんだろうなぁ。 でも、ここまで詳しく分りやすく書いてくれた本は他に見かけないよねぇ。 正直、こっちも気が抜けてしまった。混乱の3世紀は省略が多かったと思う。2巻分にしてくれても良かったと思う。 あと、ローマについてもっと知りたいと思ったら、ギボン「ローマ帝国衰亡史」などの岩波文庫を読むくらいしか無いのだろうか。
>>834 専門の論文を読むという手があるぞ。
ちと壁は高いがガンガレ!
837 :
ほへぇ〜 :2005/06/29(水) 22:57:00 0
もう少し手軽にと言うなら、 『古代ローマを知る事典』長谷川岳男・樋脇博敏/共著 東京堂出版 がお勧めであります。 上記の内容によると、 フラウィウス朝――密偵ファルコが活躍していたころだな――の時代に 少なくとも人口5000万、総面積500万平方キロメートルに達したと推定されるらしい。 AD74年ころで、Legioが28個軍団――仮に定員充足率100%として(5,240+120)×28で約15万 それと」Auxiliaの兵力ががLegioの総数を超えることがなかったそうだから最大に見積もって 15万弱。あわせて30万というところで。この時期ではなかろうか?
838 :
世界@名無史さん :2005/06/29(水) 23:50:47 0
映画 STAR WARS 「シスの復讐」は、ジョージ・ルーカスの反戦平和のメッセージ
に他ならない。恐るべきカルト集団キリスト教原理主義者に支えられ、イラク侵略
以降、ますます独裁政権化する悪の帝国=ブッシュ政権をカルト集団シスに支配された
銀河帝国成立に重ね合わせ警鐘を鳴らした。
おりしも平和憲法を踏みにじるファシスト小泉政権の動きが顕在化している
今こそ平和を愛する日本人としてルーカスのメッセージを真摯に受け止める
べきではないだろうか。
【ファシストの卑劣な攻撃によって炎上した町山智浩アメリカ日記】
「スターウォーズ」評を配給会社が検閲!
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20050611
>835-837 とんくす 機会探して読んでみます。
840 :
世界@名無史さん :2005/07/01(金) 20:57:27 0
ところで軍隊と言えば諜報だが、ローマにはスパイや秘密警察のような 機関があったんだろうか?クリエンテスがやってるのかもしれんが、公的 機関としてありそうなもんだが。システム化大好きローマ人なのに・・・。
841 :
ほへぇ〜 :2005/07/02(土) 22:54:15 0
階級は下士官もしくは上等兵で、古参兵より選ばれるベネフィキアリウス【beneficiarius】という階職制があります。 部隊から派遣されて政治工作・行政任務を担当するとありますが諜報任務にも係わったのではなかろうか。 あれだけの巨大な版図を維持するために実務を粛粛とこなす公務員のいなかったローマで、実際に種種雑多の公務を 押し付けられたのは、軍団から派遣された兵士たちであったから彼らに諜報活動も任されたのではないか? ローマ帝国には諜報網は組織されていたかもしれないが、諜報機関というのは無かったのではないかと思います。
842 :
ほへぇ〜 :2005/07/02(土) 23:05:23 0
暗号の歴史を物語る本では、最初のチャプターに記載されるのが『カエサルの暗号』 少なくとも共和制末期には、暗号を必要とされる諜報活動があったわけだ。 その担い手を考えると、軍団の外部には交易商とか外交使節とかかねぇ?
843 :
世界@名無史さん :2005/07/03(日) 00:06:22 0
秘密警察クラスになると大量のペーパー資料が必要だから近代的な組織は 当時では難しかったかもしれんね。結局有力者が信頼できる子飼いに情報を 集めさせるのが精々だったって事かな? しかし皇帝クラスになれば国防・外交・内政上情報はいくらも必要だった と思うんだがなあ。
>843 当時で考えられるのはパピルスか粘土ですか。 でも、布地や木簡があれば、筆記出来るはずですよね。 粘土じゃかさばるとしても、筆記媒体にはさほど困らなかったのでは。 困ったのは、この「かさばる」ということくらいでしょうね。諜報活動に支障はなかったでしょう。 もしも、ローマが滅びずに、資料類が戦乱火災などにも遭わずにいたら、現代の我々も目にすることが出来たのでは。 まぁ諜報資料などは、関係者が自ら処分してしまうとは思いますが。 日本でも例えば京都で火災、戦災が無かったら、鳥獣戯画その他が欠損無しで拝めたかもしれない。
846 :
世界@名無史さん :2005/07/04(月) 19:01:17 0
いつの時代も隠密は死して屍拾う者無しなんだね。
いやか?
ヌマは王ですがな。 それから七曜用いるようになる前のローマ暦では、日にちの数え方は実に 複雑怪奇なものだったわけで、 「ローマ暦」でぐぐると幸せになれるでしょう。 で、どこが「古代ローマ帝国の軍隊を語るスレ」と関係するわけ?
鋼が広く武具に使われる様になったのって何時ごろ? ローマ兵の鎧は鉄製なの?
850 :
世界@名無史さん :2005/07/06(水) 00:53:17 0
皮と板金と鎖帷子の混合だね。TVとかで良く映ってる、アレ。頭の羽は身長 を高く見せる為、マントは赤でなく大抵無地だった。装備が標準化されたのは 帝政になってからかな。
基本糧食について
852 :
世界@名無史さん :2005/07/06(水) 01:16:06 0
基本糧食は小麦、パンやお粥にして食べた。後、オリーブオイルや 塩、油脂が調味料。チーズ・ワインも供給された。ローマ人は魚が好き だが豚や牛・羊・鶏も食べた。デザートは葡萄やナツメグ・林檎などかな。 大麦は馬の飼料だが、食料が不足すれば人間も食べた。基本的に現地 調達だからその土地で採れる物を食べた。後世になればなるほどゲルマン 化で肉食が主流になる。
853 :
世界@名無史さん :2005/07/06(水) 01:33:40 0
古代ローマの将軍の中でも、特に兵士の食事に気を使ったのが カエサルだった。 彼の軍の基本糧食は、豚のラードで煮た大麦の粥だった。 それに玉ねぎとニンニクを大量に加えていた。 この食事は好評で、士気の維持に役立った。 しかし、この食事による匂いは強烈で、カエサルの軍が来ると臭くて困る との悪評をローマ中に広める事になった。
854 :
世界@名無史さん :2005/07/06(水) 02:05:32 0
ローマ軍の移動で広まった食文化ってあったんだろうか? 人種なんてミックスされまってるのに。
俺もよくキムチ食うから臭い臭いって言われてるよ
856 :
世界@名無史さん :2005/07/06(水) 15:24:13 0
>>852 >食料が不足すれば人間も食べた。
ローマでも窮乏時は、人肉を食したのか・・・
中国はわりかしボーダーが低いけど(あまり困ってなくても食べちゃう)、
やっぱり窮乏時はどこもそうなんだね。
マジボケなのか揚げ足取りなのか判断に困るな
>>856 窮すれば「馬の食料である大麦を」人間も食べた。
859 :
ほへぇ〜 :2005/07/07(木) 14:22:39 0
古代ローマ料理を食べさせてくれるレストランがローマにあったな。 結構うまかった。
斥候の選定基準について。学があれば身分は問わないのか。 馬術が出来れば学は問わないのか
862 :
ほへぇ〜 :2005/07/13(水) 21:36:56 0
ローマの斥候って騎兵のみで編制されているのか? ↑ 威力偵察みたいなこともやるので、歩兵と騎兵の混成隊が斥候として前衛に 派遣されるというような文章を読んだ記憶があったので。
863 :
世界@名無史さん :2005/07/14(木) 20:34:03 0
PHP文庫 『戦争で読む「ローマ帝国史」 建国から滅亡に至る63の戦い』 柘植久慶著 ¥552+税 2005年7月19日第1版第1刷 ローマの歴史は"戦争の歴史"である―――。ティベリス河畔の小さ な羊飼いの集落から、地中海を制覇する超大国へとのし上がってい った事実は、まさにそれを裏付けていると言える。本書は、建国当時 の戦いからヴァンダル人のローマ制服まで、勃興から絶頂期、衰退 そして終焉に至るまでの主な戦争63を、時代を追って取り上げてい る。ローマの命運を決した戦いの数々がここにある。文庫書き下ろし。
864 :
世界@名無史さん :2005/07/16(土) 12:10:01 0
ロリカ・セグメンタータ鎧が廃れたのはなぜですか?
865 :
第20軍団兵 ◆vthFSU.BqE :2005/07/24(日) 20:15:40 0
>>864 1.着心地の悪さ。量産品だから個人の体型に合わせて作ったわけでなく、かつ、すべて鉄板は夏場は熱くてかなわない。
その暑さは「雨の奇跡」が起きて欲しいくらい。
あまりガバガバでは役に立たないから、後で簡単に調整できるようにセグメンタタには焼き入れや鍛造を行っていない。
鎖帷子等なら腰のベルトである程度調整できるがセパレート型ではそうもいかない。腰のベルトは重さを分散してくれたりもする。
2.修理のやりにくさ。鉄板が損傷した場合、鎖帷子のように"ほつれた"部分だけ直すことができるが、鉄板はその部分だけ丸ごと交換
する必要がある。逆に鎖帷子よりはセグメンタタの方が製造は早い。
3.防護の性質。槍に対しては鎖帷子は弱い(貫通される)が相手が剣ならあまり変わらない。飛び道具にはまずは盾がある。
以上の点を念頭に置き、兵站担当者の視点で考えると、いささか安くつき、歩兵に強行軍を行わせても兵の疲労が少なくて済み、修理の手間や
別の兵隊に着せるのにも配慮が少なくてよい...とロリカ・ハマタのほうに利点が多いように思える。
もちろん、着せられる方は命は1つきりだから、死ににくいセグメンタタの方がもちろん良い。ダキア戦争の際などはさらに"篭手"も装備したりしている。
といったところでしょうか。
アッララララーイ アッララララーイ / /////////////// / /////////////// / /////////////// / /////////////// ( ・∀( ・∀( ・∀( ・∀( ・∀・)・∀・)・∀・)・∀・) | ̄ || | ̄ || | ̄ || | ̄ || | ̄ || ⊃─────── ─ ─ ─ ─ ─ \/ \/ \/ \/ \/-J -J -J -J
867 :
世界@名無史さん :2005/08/05(金) 20:31:49 0
すまん誤爆
870 :
世界@名無史さん :2005/08/18(木) 13:17:09 0
ギボンのローマ帝国衰亡史読もうと思ってるんですけど、岩波と筑摩どちらの訳がいいですか? 私的には筑摩の方が良さげなんですが、どうなんでしょうか? 呼んだことある方宜しくお願いします。
原書が一番。
872 :
ほへぇ〜 :2005/08/21(日) 20:26:34 0
ヨセフスのユダヤ戦記に記述があるというローマ軍の行軍隊形。 AD66〜73ころのユダヤ人叛乱に対処すべくガリラヤ侵攻時のもの。 前衛 弓兵を中核とした補助軍兵士 本隊その一 重装備の歩兵&騎兵 その二 軍団の百人隊から選抜された測量隊 その三 工兵隊 antecursores その四 精鋭騎兵&司令部の軍用行李 その五 騎乗した司令官&歩兵・騎兵・槍兵からなる護衛隊 その六 軍団騎兵 その七 砲兵部隊……カタパルト、バリスタなど その八 将官、大隊長、軍団旗&軍旗護衛隊&コルニケン その九 主力歩兵部隊【六列横隊】 その十 荷駄隊 後衛 傭兵隊&後衛の歩兵・騎兵混成隊 砲兵部隊にはラムなどの攻城兵器なども随伴する。 これらはプレハブ構造で分解して分散駄載ののち運搬された。
873 :
世界@名無史さん :2005/09/03(土) 19:23:35 0
保守
874 :
世界@名無史さん :2005/09/09(金) 17:09:38 0
保守・保守・保守・保守・保守ぴたる〜♪
とうとうここも病院行きか・・・。そろそろなぜローマ軍が解体した か装備・戦術面から語らないか?
過疎ってるから久しぶりにカキコ やっぱ軍隊を語るスレってのが、微妙に間口をせまくしちゃったんじゃあ 次スレあったら、「ローマ帝国総合スレ」でいいんじゃないだろうか で、塩婆のうろ覚えだけど、 帝国に侵入した蛮族の略奪品をローマ軍が奪い返したけど、持ち主には返さなかったってあったような・・・ カラカラ以後のローマ軍隊の収入は、ひょっとしてこの分捕り品オンリー? そのころのローマは騎馬隊中心ともあったけど、 最盛期のローマ軍がローマ人歩兵本隊、シリア?弓兵、ゲルマン騎兵などの混成だったのに対して、 ひょっとして、ゲルマン騎兵だけが残ったようにも曲解できてしまう記述だったような。 つまり、混乱期はローマ内外のゲルマン人が、ローマ人の財産をただ奪い尽くしてるだけだったのかもと邪推。
879 :
世界@名無史さん :2005/10/03(月) 20:46:37 0
保守
>861 ヴェスパシアヌス即位前後のローマ軍だと、騎馬隊の中からクジで選ばれる っつー記述が「ユダヤ戦記」で有った様な希ガス。 (ちくま文庫版2巻冒頭のローマ軍の兵種・編成についての記述あたり)
881 :
世界@名無史さん :2005/10/16(日) 03:15:58 0
後期帝政ローマ(東西分裂後あたり)の軍装について、特に騎兵の武装について知りたい。 参考になる書籍、映画などあったらご教授ください。 オスプレイ日本語版は読了しています。
882 :
世界@名無史さん :2005/10/16(日) 13:34:45 0
883 :
世界@名無史さん :2005/10/16(日) 23:11:59 0
884 :
881 :2005/10/19(水) 03:09:40 0
レスしていただいた方、ありがとうございました。
>>882 それがありましたか! アマゾンで購入してみよう
>>883 そうですね。
やはり英語で読まないとダメですかね…
メンアットアームズなら40ページぐらいだから根性で読めるしょ。 気になる部分だけ辞書引きながら読むとか。
886 :
ddd :2005/10/21(金) 01:31:43 0
共和制ローマ以降の共和国って次はいつ頃のどこの国ですか? 教えて下さい。
帝政ローマ
>886 イタリア共和国からイタリア社会共和国(サロ共和国)、朝鮮民主主義人民共和国 ジサクジエン共和国までいろいろ。
>886 次の共和制国家が興ったのはいつですかっての意味みたいだから、ヴェネツィアになるのかな
890 :
ddd :2005/10/22(土) 00:27:32 0
回答ありがとうございます。 次の共和国はヴェネチアですか。随分と間があくのですね。 しかし、民主主義とか自由ってのはやはり西洋ですね。 少し悔しい気もしますが、東洋人は芸術(異論はあるだろうが)・産業技術だけでなく 政治システムや人間らしく生きる理念にも正直劣っているように思う。 日本にも自由民権運動とかあったけど、ついに主流にはならなかったしね。 ただ気づいた以上は西洋の追随と言われようが、日本は(言論の)自由を愛して 死守すればいいし、技術もパクリだけでなく、独自の技術で渡り合っていって 欲しい。 中国に対しても堂々と正面から民主化を要求すればいいのだ。そうやって人民を 味方にすれば、将来にわたって、悪いこともしたけど、いいこともしたって言わ れるだろう。謝罪や賠償・援助ではバカにされるだけだ。 ただ、本当に民主化してしまたら、それはそれで脅威なんだけどね、実際は。
>>890 東洋の民主主義がどうとか中国がどうとか言う前に、
ヴェネツィアがいつ頃どういう経緯で出来たのか、調べてみような。
帝政時代にレギオンに入るにはどうしてたんですか? 町に応募所でもあったんですか?
894 :
ddd :2005/10/22(土) 08:50:59 0
はっはっは! 随分と不評だなぁ。 明治の賢人達の足元すら見えないっすけどね。 ただ、優れた部分は事実として認める事が将来を明るくすると単純に思う。単純に。 自慢にはならないが、なんだかんだいっても、アジアの中では日本は自由の意義を 理解して実践している唯一の国。ただ左翼マスコミの扇動でまともな野党が育たない のが最大のネック。 やはり抽象的な概念に弱い国なのかなぁ。
895 :
ddd :2005/10/22(土) 09:01:01 0
>ヴェネツィアがいつ頃どういう経緯で出来たのか、調べてみような。 はい、調べました。日本の将来を見定める為にも興味深い共和国ですね。 1000年も繁栄したとは知らなかったなぁ。(爆)
なんかバカが粘着してるな
そのうち志賀直哉のように日本語廃止してフランス語使おうと言い出しそうだ。
つか、帝政ローマの住人は共和制に帰れと言われても否定するだろ
899 :
ddd :2005/10/22(土) 16:29:59 0
手厳しいなぁ、ったく。 >日本語廃止してフランス語使おう あの、私ナショナリストなんですけど。 >帝政ローマの住人は共和制に帰れと言われても否定するだろ 正解。民主主義は最悪のシステム。賢者より愚者の方が普通は多い。 >バカが粘着してるな 正解。面白い表現だね。疑問を言っているうちは馬鹿といわれてもしょうがない。 欧州の共産国が市民の力で崩壊し、まがりなりにも民主化したのに、なぜアジアでは 同じことがおきないのだろう。なにが欧州とアジアはちがうのだろうと。 欧州の共産国も秘密警察が凄かったはずだが、ルーマニアも最後はあっけなかったし、ドミノ現象も 早かったように記憶している。 なぜアジアでは同じ事が起きないのだろう。 人間はどうあるべきか、という哲学の違い?従順なのがアジア人の特徴なのかな? スレ違い恐縮。
スレ違い粘着は放置で。
頭の悪い自称愛国者ほど厄介なものないね。 どこかに利口な愛国者はいないものか…
902 :
世界@名無史さん :2005/10/24(月) 01:39:49 0
疑問をもつのはかまわないけど、物事がひとつの要因で決まっていると考えるのは愚か。 元首制はたしかに軍事独裁に他ならない、だけどそれだけで語れるほど単純じゃない。
諸君 私はレギオンが好きだ 諸君 私はレギオンが好きだ 諸君 私はレギオンが大好きだ 殲滅戦が好きだ電撃戦が好きだ打撃戦が好きだ防衛戦が好きだ 包囲戦が好きだ突破戦が好きだ退却戦が好きだ掃討戦が好きだ撤退戦が好きだ 平原で 街道で 塹壕で 草原で 凍土で 砂漠で 海上で 空中で 泥中で 湿原で この地上で行われるありとあらゆるレギオンによる戦争行動が大好きだ 戦列をならべたバリスタの一斉発射が轟音と共に敵陣を吹き飛ばすのが好きだ 補助兵の操るカタパルトが敵戦車を撃破するのが好きだ 悲鳴を上げて燃えさかる陣地から飛び出してきた敵兵を補助弓兵がなぎ倒した時など胸がすくような気持ちだった 空中高く放り上げられた敵兵が効力射でばらばらになった時など心がおどる 剣先をそろえた重装歩兵の横隊が敵の戦列を蹂躙するのが好きだ 恐慌状態の新兵が既に息絶えた敵兵を何度も何度も刺突している様など感動すら覚える 敗北主義の逃亡兵達を十字架に吊るし上げていく様などはもうたまらない
904 :
世界@名無史さん :2005/10/24(月) 12:00:21 0
泣き叫ぶ原住民達が私の振り下ろした手の平とともに怒声を上げる軍団兵に次々と嬲り殺されるのも最高だ 哀れな蛮族達が雑多な装備で健気にも立ち上がってきたのを軍団重装歩兵大隊が戦列ごと木端微塵に粉砕した時など絶頂すら覚える フン族の騎兵に滅茶苦茶にされるのが好きだ 必死に守るはずだった村々が蹂躙され女子供が犯され殺されていく様はとてもとても悲しいものだ 蛮族の物量に押し潰されて殲滅されるのが好きだ 蛮族に追いまわされ負け犬の様に森林を逃げ回るのは屈辱の極みだ 諸君 私は戦争を地獄の様な戦争を望んでいる 諸君 私に付き従う軍団戦友諸君 君達は一体何を望んでいる? 更なる戦争を望むか? 情け容赦のない糞の様な戦争を望むか? 鉄風雷火の限りを尽くし三千世界の鴉を殺す嵐の様な闘争を望むか? 『戦争! 戦争! 戦争!』 よろしい ならば戦争だ
905 :
世界@名無史さん :2005/10/24(月) 23:15:18 0
『広告の守護者』でつか……。 そういえば、俺と同い年だな→佐藤大輔。 埋めようの無い大きな溝の彼方に彼は居る。
民主政がそんなにいいと思うものなら、民主制を奉じたアテネが ペリクレスのあといきなり腐敗、衰退したことを知っていたほうがいい。 民主制、君主制、封建制、独裁政、皇帝、天皇… どれが一番いいじゃなくて、その当時当事に応じた政体ってのがある。 所詮は選択可能な統治システムって考えていたほうがいいよ。 そうしないと、「民主主義的でないイラクは悪!よって軍を派遣し民主化するべきだ!」 っていうどこぞやの現在の十字軍と同じになってしまう。
907 :
世界@名無史さん :2005/10/30(日) 13:08:41 0
>>906 >>選択可能な統治システム
んなわけないだろ(笑)
日本の憲法だって改正後の政体を明記してないけど独裁制への移行なんて許されないと考えるのが憲法学の通説だぞ
同じ腐敗でも、民主制の腐敗と独裁制の腐敗では国家に与える打撃がけた違い(後者の方がでかい)と言う事を人間は学んだの
908 :
世界@名無史さん :2005/10/30(日) 17:27:38 0
イラクは連邦制がいいな
民主制の腐敗→ナチス台頭って例もあるんですけど。イタリアでも可。
独裁者って大多数の支持があって成立するもんすよね。 ローマ皇帝も軍団(有権者?)の支持があってだし 誰かを国民の大多数が支持したら簡単に憲法改正→独裁制に移行する気はする。 第二次世界大戦前のドイツみたいに。
質問ですが、帝政時代の一個軍団は 約6000人のローマ市民正規兵(重装歩兵) 約4000人の非ローマ市民補助兵(弓兵、槍兵、散兵、騎兵) と言う認識であってるんですか?
912 :
世界@名無史さん :2005/11/05(土) 09:40:19 0
非ローマ市民補助兵も数的には同数の6000です。またローマ市民正規兵も 重装歩兵だけでなく騎兵や弓兵もいます。正規兵の方が基本的に重装備ですが 場所や戦況によっては軽装だったり工事現場の労働者みたいな事もするので 頭に描くいかにもローマ兵と言う格好は現実的ではないかもしれません。当人 達にすれば戦は勝てばよいし作業は楽であれば良く格好なんてどうでも良いと 答えるでしょうが。(w)
913 :
アメリカ支配層 :2005/11/05(土) 11:48:35 0
ジャップども、アメリカはお前らの国富を吸い上げて アメリカでより強力な新兵器を開発してやったぞ! おかげで兵器企業は大いに潤った。 次はジャップどもはアメリカ主導で中国と戦争をするのだ。 アメリカの財政赤字も日本の国家財政破綻も これでうやむやにできる。政府の強権発動でな。 すでにウィグル動乱、鳥インフルエンザ細菌兵器をばら撒いて 準備はしてある。 日本の事を本当に考える護国派、中国寄りの売国奴もろとも アメリカの邪魔になる政治家、官僚どもを排除して マスコミも国賊を使い外資に買収させて、日本国民どもの戦争気運を大いに 盛り上げて、またまた大いに儲けさせてもらうぞ。 アメリカの犬どもで日本を仕切る体制は確立した。 米軍の前線司令部は東京に移設してやったし 原子力空母もジャップどもが面倒みるんだぞ。 米軍は自衛隊をあごで使い、 自衛隊は日本の民間人を徴用してあごで使う。 この図式を忘れるなよ。 日本の一般国民どもは徴用されて中国戦線で アメリカの為に戦い、アメリカ軍の為に死んでいくがいい。 増えすぎた世界人口削減にもちょうどいいのだ。
914 :
ほへぇ〜 :2005/11/06(日) 02:01:28 0
軍団の定数は10個コホルト――5460名から成ります。 ウェスパシアヌス帝時代のころに編制されなおした補助軍は ミリアリア【千人隊】とクィンゲナリア【五百人隊】の単位で配備・投入されています。 コホルト【歩兵隊】、アラ【騎兵隊】、コホルス・エクイタタ【歩騎混成隊】に分類されます。 クレタ弓兵やバレアレス諸島の投石紐兵のような特殊な技能の兵士を除けば たいていは重装歩兵として、戦列中央の持久正面を担当させられたようです。 これは『補助兵には複雑な戦術機動は出来ないであろう』というローマ軍上層部の 偏見に基づいているという話です。塩婆が記述しているような補助軍イコール 軽装歩兵というのは、前述の特殊な技能をもった兵士に焦点を当てすぎたということ だろうとおもいます。
ペルシャに捕まったローマ捕虜がつくったペルシャの建築物 旧日本兵がソ連に捕まって中央アジア各地に作った建築物 時々、日本はローマに似てるかもとおもってしまう
916 :
世界@名無史さん :2005/11/09(水) 10:53:25 0
あの長方形の盾はローマ軍団兵の象徴
917 :
ほへぇ〜 :2005/11/10(木) 00:10:11 0
スクトゥムって登場したのがピュドナの戦いのころで、三世紀には廃れ始め 四世紀にはほぼ消えてしまっていますから、400年位しか使われていなかったんだよな。 しかも同じ時期の補助軍には楕円形で平たい盾を供給していたし。
400年くらい「しか」ということも無いと思うが…w
919 :
世界@名無史さん :2005/11/10(木) 09:10:37 O
ローマの歴史からみれば象徴と言うには400年は短いと まぁ現代人がよく思い描くかっちょえー装備をしていた時代は全体から見れば短く、それも一部の兵士だけ
ハリウッド映画「クレオパトラ」のローマ兵はどうだったかな・・・
922 :
ほへぇ〜 :2005/11/11(金) 23:10:52 0
『スパルタカス』はロリカ・ハマタで、『グラディエータ』はロリカ・セグメンタタ。 『パッション』は皮革製の鎧を着けておったけど、あれはなんと呼ぶのであろう。
923 :
世界@名無史さん :2005/11/24(木) 17:14:16 O
あげ
924 :
第20軍団兵 ◆vthFSU.BqE :2005/11/26(土) 12:47:57 0
>>922 あれは鎧ではなく一種の作業着のような奴で、ブルターニュで現物が発掘されているそうです。
ただ、ブルターニュで見つかった奴は後世のオラニエ公の肖像にあるような板金鎧のような形状で、
素材がなめした皮製。
察するにあれはビジュアル担当との間の妥協の産物かと。
それより騎兵でも西方の補助軍団兵でもないのに"ズボン"をはいているのが激しく気なりますね。
(これは出演者との間の妥協の産物ではないかと...)
925 :
世界@名無史さん :2005/11/26(土) 18:46:17 0
ローマ兵のマントがみんな赤いのはハリウッド演出。当時のマントは無地 で赤紫に染められるのは皇帝クラスの高官だけ。でもワインとかで染められ なかったのかな?ワイン零した染みなかなか落ちないと思うんだけど、経験上 。
926 :
世界@名無史さん :2005/11/26(土) 19:05:50 O
ローマ軍て知れば知るほど米軍みたい 土木が本領の所とか
927 :
世界@名無史さん :2005/11/26(土) 23:29:06 O
まぁあれほど統率され訓練された職業軍人ってのは古代では異例だしね 現代の軍隊に似てるな
現代軍がローマを真似たと言った方が近い。火器の発達・兵器の機械化が 部族や王権による一時的な動員での戦闘員確保を不可能にした。ローマも 広いリメスを常時維持するには常備軍が必須になる。目的も時代も異なるが 常備軍を効率良く確保しようとすれば組織は似てくるのかな。
929 :
ほへぇ〜 :2005/11/28(月) 00:03:57 0
>>924 フェミナリアでしたっけ? あのひざ下までのズボン。
1世紀には、騎兵なら全てそれを身につけるまでに普及してますよ。
長ズボンのブラカエのほうは、その名前自体が差別語なので
わざわざ好んで履かれていたかどうなのか判りません。
寒いところでは結構履いていたような気もしますけど。
>>925 下っ端は、白もしくはオフホワイトでしょう。
わざわざ手間隙金をかけて染めたりはしないかと。
>>929 墨とかで黒く染める程度は出来るでしょう。真っ黒マント着た6000人の
人間の集団は結構怖いと思うんだけど。あるいは軍団ごとにシンボルマーク
付けるとか、軍団ごとにニックネームつける位なんだからそん位の事やって
欲しかったな、変な所でストイックだよローマ人orz。
まあ、ローマ帝国っていっても、いろいろな国の集合体だからな。 エンジョイ&エキサイティングなのはラテン人だけじゃないのか?
932 :
世界@名無史さん :2005/11/29(火) 23:54:26 0
ローマ兵の医療体制ってどうなってんだろう。大きな大病院やそれに付属し た浴場・娯楽施設は発掘されてるけど医師や看護士は固定だったのかな? 出陣の際とか同行したのだろうか?ローマ兵も負傷したら 「衛生兵!衛生兵〜」とか言ったのかな。
933 :
世界@名無史さん :2005/12/01(木) 18:56:10 O
基本的に治療は後方で行われた 最前線で負傷した場合は戦闘が終わるまで倒れてるか自力で後方に抜け出すしかないと でもローマ軍は規律が厳しいから勝手に後方に行ってしまうと処罰されるかも…
934 :
ほへぇ〜 :2005/12/02(金) 00:43:18 0
早稲田大学から出版されているカ林雅夫先生の 『古代ローマの人々――家族・教師・医師』 の137頁から159頁にかけて詳細に書かれております。 トラヤヌス記念柱には軍団兵の負傷者には軍団の包帯兵capsariusが、 また補助軍の負傷者には補助軍の包帯兵がそれぞれ応急手当を施す様子が 刻まれています。 カエサルのころの傷病兵の待遇というのも記述がありまして (1)傷病兵は過酷な行軍・戦闘からは除外された。 (2)戦闘に耐えられないと見られるものは、陣営に残置/後送される。 (3)友好地域であれば住民に傷病兵の看護を託す。 (4)敵性地域であればロバのひく車両に乗せてでも連れて行く。 それがかなわぬ場合は傷病兵の残置となるが、これは事実上の遺棄なので 兵士から不興を買うようなことを指揮官がやるかどうかは判断に苦しんだことであろう。 ただ、ガリア戦記も内乱記もカエサルが記述の必要はないだろうと考えたせいか、 軍隊内における医療関係の記述がとても少ない。 あっても『(激戦の故に)負傷兵でさえも持ち場を離れて養生する機会が与えられなかった』という程度。 軍隊の内部には医療技術の教育機関は存在しませんので、 (1)ギリシア系の契約医師が 軍医medicus legionis/cohortis/alae/castrorum/castrensis/etc. として従軍。 (2)彼らの元で経験をつんだ包帯兵、看護兵がやがて軍医として従事。 というパターンが普通だったらしい。 医師の社会的地位の低い古代ローマ社会でも、手に職があれば除隊後の生活設計も 何かと有利ではなかったであろうか?
>>925 皇帝のマントは貝紫。
現在、地中海で貝紫は採れない。
日本でも貝紫は貴族や高僧が染料として利用していた。
936 :
世界@名無史さん :2005/12/02(金) 01:02:38 0
937 :
世界@名無史さん :2005/12/02(金) 01:20:07 0
古代ローマ軍では、ゲイは流行っていたのでしょうか。 兵士も将校もみんなブラザーだったとか。
938 :
世界@名無史さん :2005/12/02(金) 03:28:04 0
ゲイ行為は発覚次第処刑。 上官が特定の部下に特別な感情を抱くのは良くないからだろう。 まあ、逆に言えば極刑で望まなければならないほど 問題になってたってことでも有るわな。
939 :
937 :2005/12/02(金) 09:09:50 0
>>938 ふむふむ。
また質問なんですが、ローマ軍に女性兵士はいたんでしょうか。
正規兵としては考えにくいが、臨時の徴用で女性兵が参戦した
とかならありそうな気もする。
たとえば、兵力が一人でも欲しかった第二次ポエニ戦争あたりで
その姿があったかもしれないと、思うんですが。
ローマ軍に女性兵士はいません。ローマも基本は男尊女卑の国で 兵役は神聖な市民の義務と権利と言うのが建前なので女を入れるな んて皇帝が言えば反乱が起こったでしょう。ローマの女に求められた のは産めよ育てよ家庭を守れで戦前の日本と同じです。開放的な女性 の一部には馬を乗り回したり、剣闘士の真似事をする人もいましたが 20世紀になってもローマの堕落の証拠に分類されてる位でローマ人 も後世の人間も顔を顰める恥ずべき行為だとずっと考えていたのです。 フェミニストの意見も聞いてみたいですね。
941 :
世界@名無史さん :2005/12/02(金) 15:57:57 O
銀鷲旗カコイイ
>>940 軍隊で防衛せねば、国(生活)が成り立たない時代は仕方ない。
一人前の市民と一人前の兵士が同等の時代では、
戦えない女性の身分は低くなるのは当然でしょう。
しかし、現代は外交と平和憲法で国を守れる時代なので全く話が違う。
現代に、昔の価値観を持ち込もうとするのが、大きな誤りだ。
>>938 ホモだけで構成した部隊がなかったっけ?
ウッホ!
945 :
世界@名無史さん :2005/12/03(土) 08:37:08 0
>開放的な女性の一部には馬を乗り回したり、剣闘士の真似事をする人もいましたが 敢えて男尊女卑の風潮に抗した(あるいは傾奇者だったのか) 女性がいたことのほうが興味深いです。名前とか分かりませんか? >兵役は神聖な市民の義務と権利と言うのが建前なので それなのに異民族の傭兵は普通に入れてたりする罠 ケルトには女性兵士がいたと聞いたことがあるし、 アマゾンなどの伝説も知られていただろうから、女が兵士になるなど 蛮族にこそ相応しいという観念もあったのかも知れませんね。
946 :
世界@名無史さん :2005/12/03(土) 09:11:05 0
>>945 ユウナリーリスと言う諷刺家が昔のローマはこんなんではなかったと
嘆きながら書いてます。
〜胸を露わに馬を駆り、エルトリアの猪を狩る女性、メーウイア。
彼女達は女性用スポーツガウンを着て、レスラー用の軟膏を塗りつける。
あるいは兜を被り、練習用の剣を振りかざし、盾で身を守る稽古をする。
しかし、いくら女が男の真似しても所詮女じゃないか。あのざまを見ろ
、はあはあと喘いでるではないか、兜の重さで首を垂れてるではないか、
武器を下において室内便器を使ってるあの格好を見ろ。裾をまくってしゃ
がみこんでる。やっぱり女じゃないか。〜
と馬鹿にしてます。ただ名前はありませんが彼女達と書いてるので一部の
傾奇者達がいたのは事実のようです。
947 :
世界@名無史さん :2005/12/03(土) 09:13:29 0
948 :
世界@名無史さん :2005/12/03(土) 09:23:56 0
>>943 それってローマじゃなくてテーベの神聖部隊じゃないの?
950 :
世界@名無史さん :2005/12/03(土) 13:55:19 0
ローマにおけるゲイ行為ってのは、 攻める方は別に普通の行為として受け止められてたけど、 攻められる側というのは非常に侮蔑されたからな。 男に突っ込めるのはそう出来るだけの金と権力が 有るからであって、それに対して文句を言う筋合は無いが、 男に突っ込まれるのは男じゃないってことだ。 要するにギリシャは横社会で、ローマは縦社会ってことだな。
951 :
世界@名無史さん :2005/12/03(土) 14:11:10 0
突っ込まれるのが好きな権力者も入ると思うんだが
>>950 みたいにそっち属性が無いので解らんが。
952 :
世界@名無史さん :2005/12/03(土) 15:35:02 0
壷少女とかもいたらしいな。手足おとしてふぁいおぇばlhbg
>951 ネロとかな。
954 :
ほへぇ〜 :2005/12/03(土) 22:07:39 0
>951-953 ヘリオガバルスをお忘れなく。
955 :
世界@名無史さん :2005/12/03(土) 23:39:27 0
>>951 侮蔑されてるから権力を失うってものでも無いからな。
尊敬されてるから権力を掴むとも限らないし。
侮蔑ってのはしばしば愛にも変わる。
…ほら、カエサルは皆のカエサルだから。
956 :
世界@名無史さん :2005/12/08(木) 19:48:44 O
映画のグラディエーターは軍装の最もかっこいい時期のローマ?
>>956 かっこいいと言うのは個人の主観に影響されるので答えられない。
958 :
世界@名無史さん :2005/12/09(金) 12:42:57 0
装備的にもっとも充実してたのは5賢帝時代かな?
959 :
ほへぇ〜 :2005/12/09(金) 18:20:37 0
エイドリアン・ゴールズワーシー先生も映画『グラディエータ』に関して 『少なくとも遠くから眺めるかぎり、兵士たちの装備は適度に正確であり、 遠征途上でいかにも汚れた恰好をした兵士たちの様子をよく表現している』 と、褒めているしねぇ。 映画冒頭のゲルマニアにおける対マルコマンニ戦争の戦闘シーンの始まる前に マクシマスが騎乗で軍団兵と東方系支援軍弓兵のあいだを駆け抜けるシーンに ついてですけど。
映画の場合にはね、時代考証ももちろんだけど、 映像的に・・・分かるよね?
962 :
世界@名無史さん :2005/12/10(土) 16:46:14 O
グラディエーターほど正確な映画はないんじゃないか? 完璧ではないが
>961 主人公が脇役に埋没するような地味な格好をさせられないから、 絵的に映える格好を意図的に作ると言うこともあるといいたいのだろう。
映画の空想を歴史上の真実のように語るなよw アーサー?ケルト人で騎士?→明日便所に流してきます。 ローマ兵がホモ?→結婚ぐらい許してやらないからそんな喜劇的結末になー。 ローマ兵の装備について当時の彫像を参考にしているなら半分嘘だな。 彫像は一般兵まで百人隊長クラスの鎧着てるからな。 貝紫のマントと言えばをフランク人は貝と魚を勘違いして、尻尾切った魚の血で染めたと勘違い。 ああ勘違い、勘違い。生臭そうだな。 ローマは属州の友軍とかと一緒になって戦争していたよな。
966 :
世界@名無史さん :2005/12/13(火) 06:45:13 0
ローマ時代の映画はキリスト教関係で絵がかれる場合が多いからな。あるい はローマの堕落や精々カエサルを主人公にした話がちょぼちょぼ。 カンネ会戦なんかを徹底的にリアルに軍事視点で作って欲しい。
>966 興行的に成功するとでも?
>>966 ヴィン・ディーゼルが監督兼脚本兼主演で今ハンニバルの映画を製作している。
製作っつーか撮影はまだ始まってなくて今はインドで象に乗る訓練をしているらしい。
本格的な映画にしたいらしく劇中の台詞は全てラテン語やフェニキア語になるらしい。
969 :
世界@名無史さん :2005/12/13(火) 22:25:01 0
>>968 変にハンニバルやスキピオの恋人役の女性が出てきたりしたら嫌だな。
アレキサンダーなんてそれで萎えた。
>>967 全然。
>>ヴィン・ディーゼルが監督兼脚本兼主演 激しく地雷な予感。
ラストサムライのニッポンぐらいにはなるのかな。 ローマ人に聞いてみないとな、今どこにいる?
全てラテン語とフェニキア語、でか。。。 メル・ギブソンが「パッション」をアラム語と ラテン語のセリフにした影響かな?
>>267 これをコピペしまくる、キミはどうなのかと。
>>973 2年半も前の書き込みにレスをつける、キミはどうなのかと。
976 :
ほへぇ〜 :2005/12/14(水) 09:38:35 0
二年半前の書き込みに対するレスかもしれないが、 靴下履いてますね。 ウィンドランダ出土のテキストに靴下の存在が記述されているとのことですから、 細部に凝っているわけですな。
977 :
世界@名無史さん :2005/12/14(水) 19:38:20 0
>>966 カンネ会戦は「ハンニバル」の名前で大昔に映画化されてる。
70年代以前は盛んにローマ帝国映画が作成されてるから外にもあるかも。
そういや、今週マッドマックスが放送されてたけど、
あれに出てくる敵はグラディエーターの剣闘士そっくりなんだが、
元ネタはどっちなんだ? まさかマッドマックスの方が原点だったりして
(もちろん剣闘士だけの話)
ヒューマンガス様の事か?
979 :
世界@名無史さん :2005/12/14(水) 22:56:13 0
サンダードームのほうか?
>>974 こう言う団体って日本にも無いのかな?
とても楽しそうだ。
981 :
世界@名無史さん :2005/12/15(木) 00:09:33 0
どいつがソックリだったのか教えてくれ。 まさかモヒカン頭がミュルミッロー(魚人剣闘士)に似ているなんていうわけじゃないだろうな。
侍の恰好したりってのはそこら中にあるだろうけど どうだろうな 日本人がローマの装備しても似合わないだろうしな
983 :
世界@名無史さん :2005/12/16(金) 10:15:54 0
ここでは「古代ローマ軍団大百科」の話題が無いみたいだけどみんなスルーしてるの?
984 :
世界@名無史さん :2005/12/16(金) 11:28:12 0
リア厨が好む軍隊ネタ(それしか興味ない、理解できない)は、 ご法度です。ここは青年以上が集う学問板ですから・・・
985 :
世界@名無史さん :2005/12/16(金) 13:13:16 0
「大百科」っていう単語もテキトーなムック本とかに使われて有り難味ねぇよな。 表紙はメタルフィギュアの見事なやつとかのが良い気がする。
本屋でざっと立ち読みした限りでは、かなり詳しくて良い感じだったよ。 ただ残念なことに値段が高すぎ・・・
988 :
ほへぇ〜 :2005/12/17(土) 10:41:08 0
13,000円の消費税だから、仮病を使って2〜3回付き合い酒を控えれば、何とかなる金額ではないかと思ふ。
世界的な戦いで知られるのは共和制ローマの軍隊のほう 対ハンニバルなんかはもろそれ 歴史好きの人でも帝政ローマ以降の戦いってあんまり知らないんじゃない? 東西分裂後に到っては区別がつくかも怪しい
そこまで行くとローマと言うのか?名前は継いでも別の国だろう。
共和制ローマと帝制ローマだって別の国だろう。
ビザンツ帝国の軍隊は火炎放射器もっていたりとかなりのものだったらしいけど
>>989 欧米での印象は日本とは違うのではないかな?
あっちではキリスト教を弾圧したネロがローマ全史を通じて一番の有名人らしいし。
宗教絡みでユダヤ戦争とかコンスタンティヌス帝関連の戦いとかの方が知られているかも。
次スレ立てる?もう終り?どうする。
どなたか立ててください・・・・需要ありそうだし。 書籍案内(amazon等)や関連サイトのでも貼れば尚いいかも