385 :
海兵七十五期:
みなさまおはようございます。
井上中将でしたら七十期氏のおっしゃられるとうり、我々の方が詳しいと思います。
こういう言い方は何ですが、中将本人がおっしゃられていたとうり
「海軍兵学校最後の『まともな』校長」であったと思います。
入学初期の頃は、きわめてリベラルな雰囲気を持たれ
戦闘教本や精神教本を完全否定され、
独自の戦略論を持たれる反骨精神の方と言う印象が強かったのですが
はっきりと偉大なる人物と認識するようになったのは、
在任中最後の2ヶ月間であります。
というのも井上中将は我々の入校から約半年のお付き合いでしたが
昭和19年8月をもって、次官へ転任されております。
19年8月という時期は、6月にサイパンが陥落して事実上の敗北が決定した直後で
その前後から、井上中将は今までの海軍兵学校校長がまず行わなかった様な事を
なされてから、転任なされていかれました。
何かと言いますと、宿舎で枕を並べて夜が明けるまで生徒と話されたり
(当然、その分隊には翌日寝坊したものが続出しましたが、特段処罰はされませんでした)
昼食時に食堂で、生徒とおなじ席に座り食事時間をはるかに延長して
ひたすら生徒の身の上話や猥談などや、またかと思えば
「万が一帝國に敗北が訪れるならどのような形か?また如何に復興するか?」などの話を
などといった海兵の本分を明らかに逸脱したお話を夕食の時間になるまで
ひたすら議論するようになられました。
386 :
海兵七十五期:03/11/20 08:15
今思えばマリアナ失陥以降は明らかに「海軍軍人」ではなく、「政治家」や「実業家」を
養成される様な教育をなされるようになり、驚嘆し今更ながらに尊敬いたしております。
井上中将の在任中最後の2ヶ月間の海兵は明らかに戦後空間を醸し出しており
自分は亡き後の海兵が、どのような校長に率いられようともやがて必ず訪れる、
終戦(敗戦)時に精神までも玉砕精神に染まって、軽挙妄道に走らないように
先手を打たれていたように思います。
生徒の中には敗北主義と議論を吹っかける者もおりましたが、大本営が
隠匿する資料までも閲覧させてもらえましたので、一定期間後には
ほとんどの生徒が最早勝利の見込み一分もなしという現実を理解しておったと思います。
(中にはそのせいで精神衰弱に陥る者もおりました。通例から言うと、海兵ではそういった
『学習続行を行うに不適格なる状況に陥りし者』は情け容赦なく対向にするのですが
井上中将は「殺し合いをするなら退校だが、再建者なら少々軟弱者でも問題ないと」と結局退校には
なされませんでした。)
387 :
海兵七十五期:03/11/20 08:30
七十期氏
おっしゃられますとうり、終戦時に一部潜水戦隊で暴動が発生いたしました。
多少記憶不鮮明ですが、確か16日だと思いますが
『終戦の勅命は肝族の陰謀!皇国は断固聖戦を貫徹せん!』
というような内容のビラを持って伊号潜水艦の乗組員達が決起を促しに参られました、
正直なところ最早戦争遂行が不可能な事は誰の目にも明らかでしたし、
彼らが大騒ぎするその背後に大破着低して大傾斜した重巡洋艦利根や青葉
艦尾が海面に没した戦艦榛名が文字どうり朽ち果てて座り込んでおり
海兵も一部機銃掃射を受けた状態で、正直戦闘する事そのものに我々も
嫌気がさしておりました。大騒ぎする彼らに、最後の校長であられました栗田健男中将が
「後ろにあるクズ鉄を見てよく考えろ!」と一喝され、その日は引き上げていきましたが
翌日に再び参られ、生徒の一部と怒鳴りあいになっておりました。
以外にも我々が終戦を主張した事に驚き、また怒りを感じているようでしたが。
話し合いで解決しそうもなく、一部の生徒は「カッターで乗りこんで実力行使しよう」などとさわいでおりましたが
「最初の実戦が同胞との戦いになるのはまっぴら」という生徒がほとんどでしたので、
結局参加はできないという書簡を渡し、敬礼して見送りました。
記録にはありませんが、一部の艦が停戦後回天で特攻を敢行したのではないでしょうか。
>>385-387 おはようございます。
井上中将って自分たちの中では小説の中の硬いイメージの人なので
こういう生のお話を聞けて何よりです。
>正直なところ最早戦争遂行が不可能な事は誰の目にも明らかでしたし、
これはやっぱりそうだったんですね。
話を聞くと「負けた気がしなかった」と言うのと、
「もうダメだ」と言う人がいまして、どちらだったのかな?と思っていました。
無論、場所によっても違う様子ですが。
389 :
武 ◆y9synVxvE2 :03/11/20 14:07
うちの爺さんは沖縄戦前に台湾に運ばれてたすかった。
大和建造に参加して5年前に96歳で亡くなった人・・・の妹に話を聞いたことがあります。
これだけだとしょぼい話だと思われるでしょうが、100年後にはもっとすごいものとされ
ているのでしょうねえ。
391 :
世界@名無史さん:03/11/20 18:48
私の祖父は母方も父方も両方戦死してしまったため、
体験話を直に聞くことが出来なかった。
祖母たちも私がモノゴコロ付く前に両方とも病死してしまったし。
だからこのスレが本当にありがたい。
体験者のみなさまも2ちゃんねるやるんだな、パソコン広まってるんだなって思います。
ご健康に留意してくださいましね。
もう高齢かと思われますし・・・・。
このスレに来ると、孫になった気分で見てます。ありがたい良スレ。
もっとお話聞かせていただけると嬉しいです。
私は介護職についてますが、なかなかそういう話は聞けなくて。
それにしても本当に「ロスケ」って言葉使ってたんですね。
あと花火のヒューって音が焼夷弾の音と同じで怖い、と空襲を思い出す、
などというおばあさんがいました。
おお、これは正座して拝聴しなければならんな。
>>379 兵科出身でいらっしゃったと思うのですが、空母と大和のような大戦艦に
乗り込まれていた当時は航空戦力の重要性はどの程度認識されていました
でしょうか?
現在では大艦巨砲主義から素早く転換できなかったとよく批判されて
いますが、私自身は仕方なかった部分も多々あると思います。不躾な
質問で恐縮ですが、当時の方の意見を参考にしたいと存じますので、
よろしく御願いします。
>>385-387 なるほど…。やはり井上中将は凄いですね。私も阿川弘之氏の作品で
初めて井上中将を知りましたので、このようなエピソードは非常に面白い
です。
2chねらーの元将校・・・嫌すぎる
394 :
世界@名無史さん:03/11/20 22:07
はじめまして七十期の方。
俺のじいちゃんも瑞鶴に乗ってたんですけど、沈む時に
傾いた甲板に全員集合させられてそこで一人一人に菊の御紋
の入ったタバコが配られてそれを一服してから解散になった。
という話を聞いたことがあります。
この話って本当でしょうか?
ちなみに沈んだ後じいちゃんはしばらく立ち泳ぎをして救助を待
っていると、船が2つ来て助けてくれたそうです。
でもその船のうちの1つは沈められたそうです。
じいちゃんとは今一緒に住んでないのであんまり
話を聞く機会がないのですが、そういうのをじいちゃんから聞くと
すごいリアルで本当に戦争してたんだなぁって思います。
395 :
世界@名無史さん:03/11/20 22:19
傾いた瑞鶴の甲板に乗組員が集合してる写真は見た事がある・・・確かアメリカ側の資料だった
>>394>>395 総員上甲板の号令。
軍艦旗、降下。
期せずして起こる、「軍艦瑞鶴、万歳!」
このような一連の写真を見たことがあります。
「丸スペシャル」だったかなあ。
>最後の校長であられました栗田健男中将が
>「後ろにあるクズ鉄を見てよく考えろ!」と一喝され、
意外と気骨のある所もあったんですね、栗田中将・・・・・。
>>396 軍事板の写真スレでまだ見れるはず。
昨日見たところです。
スレの名前は忘れちゃったや。
スゲェ ここに紛れも無い「歴史」がある。。。
もうすぐ三連休だし実家かえってじいちゃんの話聞いてこよう
>>377 >海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2さま、レスを賜りまして誠にありがとうございます。
当方には出版物や映像などの資料でしか触れられない事柄を、
文字通り身を持って体験された方のお話は誠に胸に迫る物があります。
>菅野大尉
古い写真に凛々しく写る撃墜王も、やはり良い意味での「普通の若者」であったのですね。
>丹羽大尉
実は、大和隊の沖縄特攻の際、当方の祖父の義弟が駆逐艦・磯風に乗っておりました。
その人は、重油に塗されながら無事に泳ぎきって生還いたしましたが、
当方が子供の頃事故死されてしまいました。
そんな縁もあるので、丹羽氏の当該の手記を興味深く読んだ覚えがあります。
もっとも、丹羽氏自身は、あの吉田満氏の『戦艦大和ノ最後』の該当の個所で、
「・・・カノ瀕死ノ老船団ヨリ、惜別ノ辞ヲ受ケントハ(略」
と書かれてしまい、
『俺の率いてた輸送隊の駆潜艇や輸送艦は全部戦時急造艦で、大和なんかより余程の新造船なのに。』
と思われたらしいですが(w
>>394 のおじい様はこの中におられたのですね。
海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 様
海兵七十期で前述の三方以外で私の知ってるのは302空の森岡寛大尉位ですが
森岡氏の印象的なエピソードなどはありますでしょうか?
404 :
世界@名無史さん:03/11/21 17:52
片手のひと?
海兵、陸士というと当時はどれくらいの偏差値なんだろう
やっぱ今でいう東大、京大クラス?
試験科目とかも知りたい
406 :
世界@名無史さん:03/11/21 20:07
一高とほぼ同じくらい。
407 :
世界@名無史さん:03/11/21 20:09
むずさは一高と同じくらい。それに、
身体検査とかきついらしい。約50倍。
408 :
世界@名無史さん:03/11/21 20:20
すまん、一高ってどのくらいなのかわからんw
今で言う開成みたいなもん?
409 :
世界@名無史さん:03/11/21 20:45
駒場にあったけど今は東大の教養学部になってる。
>>408 陸士の席順で大臣になれるかが決まっていましたよ、当時は。
少なくとも末は県知事とかそこらへんではないでしょうか。
日本のブレインになる人を育成する学校だと思えばよいかな。
七十五期様
井上成美将軍の素晴らしい話をお聞かせいただきましてまことに有り難うございます。
敵性言語として、陸軍などでは忌避されていた英語教育を重視されていたとは伺っておりますが、
兵学校生徒を、再建者としても位置づけて教育をされていたとは・・・。
教育者としても一級の方ですね。
412 :
武藤最強 ◆5Gq56Wc946 :03/11/22 00:52
うるせんだ。珊瑚海で井上が逃げなかったらミッドウェーも
クソもねーし栗田がサマールで逃げなかったらフィリピン
陥落もねぇんだ。顔ぶれ見てみろよ。兵学校長ってぇのは
左遷されるダメ将官の指定席だったんだよ。
413 :
世界@名無史さん:03/11/22 10:02
414 :
世界@名無史さん:03/11/22 17:35
端鶴ってどんな艦? 瑞鶴なら知ってるけど。
七十期氏が騙りだというつもりは別にないけど、
日本の元軍人さんって結構記憶いい加減な人多いよね。
>>415 貴様はPCを使用していで一度もタイプミスした事はないのか。
すごいね。
>416
アホか。
「瑞鶴(ずいかく)」はどう打ち間違えても「端鶴(たんかく?)」にはならんよ。
>>417 指摘してあげるにしても言い方ってものがあるだろうさ。
そうちょっと柔らかく言って上げないと反感を感じるだろうね。
IME2000だけど入って無いから、一文字、一文字入れたんでしょ。
そのときに「瑞」と「端」の文字がうろ覚えだったんじゃないかな?
手書き入力だったら勘違いして確定してしまうこともあるのでは?
「翔鶴」と入力するのは瑞鶴より手間だよね?
厨は帰れ
お前等のせいで先輩の貴重な意見がきけなくなったらどうすんだゴルァ?
取り巻きキモイ。
で、偽者だったらどうするのやら。
それくらいは覚悟の上で匿名掲示板をやっているに100円。
>>422 ふ、甘いな。そんなんじゃオカルト板は歩けないぜ。
426 :
世界@名無史さん:03/11/23 22:59
ようするに本物でも偽者でもどっちでもいいということで。
でもそれじゃ、聞く意味なくない?(←注:これは疑問文ではなく修辞的用法です)
ええやん。偽者だったら本物の時のシミュレーションで。
それとも意味ないとまずいの?
429 :
世界@名無史さん:03/11/24 15:49
2chで本物かどうか疑いがあるから擁護するなって主張する香具師っていったい・・・
430 :
世界@名無史さん:03/11/24 22:36
かつて、ニフティサーブで海軍予備学生で招集されて、横須賀鎮守府で
終戦を迎えた方の話を読んだことがあります。
書き込みからして本当にそのような体験をされた方のようでした。
海兵の方の書き込みは今回はじめて拝見しました。
よろしければ、オフ会(成立するかどうか分りませんが)で
直接お話を伺えたら、旧海軍に興味がある若輩者として大変ありがたいのですが。
その気はございませんか?
ちなみに、僕は旧敵国のカナダ人の73歳の知り合いがいましたが、
真珠湾攻撃の時どう思ったか?ということを聞いても、
いつも話をそらされるばかりで、結局、何も話を聞かせてもらえませんでした。
あなたのことはともかく
1 昔のことはほじくり返したくない
2 日本(軍)は卑怯だ
3 忘れた
のどれかじゃないかな?
そのカナダ人は米国が大嫌いで(カナダ人にありがち)、日本、ドイツに対する
戦略爆撃や米軍の中東での軍事行動を非難するメールをよく僕に
送ってくる人でした。(あんまり日本やドイツがWW2でしたことは気に
ならないみたい)
もしかしたら、正面きって日本の真珠湾攻撃を賞賛はできないが、心の底では
「ざまーみろ、アメリカ人」みたいな思いがあったのかもしれません。
434 :
世界@名無史さん :03/11/25 09:56
エアガンの撃ち方を近所のお祖父さんに教えてもらったことある。
「両手で軽く包むように持って、頭上から真っ直ぐ下ろしていって
標的と照準、目線がピッタリと揃ったら引き金を絞るんだ。引いちゃだめだよ。
俺はモーゼルを使ってたけど、あれは良く当たったねぇ。
西部劇みたいな撃ち方をしたってあれは当たらないよ」
と言ってました。若々しい方でした。
435 :
世界@名無史さん:03/11/25 10:23
仙台大空襲に遭った祖父母の話を。
祖父は明治生まれで肺を患っていたので徴兵には遭わずに、
疎開で仙台に住んでいました。祖父母の住んでいた区域は幸い、
焼夷弾が落ちなかったので助かりましたが、隣の区域に焼夷弾の束が落ちたそうです。
が、銀行の金庫室に落ちたので分厚い壁の中で完全に燃えきったらしく、
延焼も無かったそうです。祖母曰く
「中の金やら証券やらは燃えただろうけど、まあその辺一帯の燃えなかった代金
として考えれば、どっこいどっこいだろうね。」と笑ってました。
祖母が話してくれた焼夷弾の記憶は、
「まず大きな束がB29から落ちてきて、しばらくするとバラバラになってね、
それが燃えてるから光の雨みたいだったね。それの音が凄かったよ。
トタンの屋根があるじゃない、あれを竹ボウキで掃いたような「ザァー」って音だったよ。」
祖父は戦前からアメリカの文化が好きだったのと、どこか飄々としていて、
当時まだ珍しかったカメラを持っていたので、特高に目をつけられた事もあったとか。
あと、六角形の工業地帯用の焼夷弾の破片を拾っています。
祖父は空襲に遭った時に、前を走っていた中学校の先生の頭に焼夷弾が直撃して、
眼球や脳漿が飛び散るのを見たそうです。
海軍兵学校卒業生様はまだかな?
別海に住んでたうちの祖母ちゃんの話では、終戦後かなり長い間
国後との間では日本の領海なんぞあってなきがごとしで、
夜な夜なソ連の哨戒艇が沿岸ギリギリまで接近しては、
港や集落を探照灯で照射して歩いていたそうだ。
「人狩りに遭うぞ!」といって、夜は誰も外に出ず、
電灯にも灯火管制に使ってた傘を被せたって聞いた。
440 :
世界@名無史さん:03/11/27 01:51
酔ってタクシーで帰宅しマスタ。
タクシーの車中での会話。
ドライバー:日本の平和憲法は世界各国で絶賛されている。
自分:ちなみにどことどこですか?
日本にならい、軍隊をもたいないと決めた国はどこですか?
ドライバー:.......
ドライバー:戦後日本が平和だったのは、平和憲法のおかげです。
自分:僕は日米安保があったからだと思いますが、平和憲法を制定するだけで平和になれるのなら、なぜ他の国は平和憲法を制定しないのですか?
ドライバー:......
酔っぱらいの言動を分析するのに何の意味が?
443 :
世界@名無史さん:03/11/27 09:00
その老ドライバー氏によると、空襲で逃げ回ったりするのは二度とごめんだ。 ということで少しはスレに関連していると思いますた。
氏によると、イラクに自衛隊を派遣すると日本は戦争に巻き込まれるのだそうです。 なんで? と聞いても答えてくれません。
終戦後にいわゆる平和教育を受けて育った世代にはこういう、観念を押しつけてくるタイプが多いような気がします。>土井たかことか。
444 :
世界@名無史さん:03/11/27 09:08
自衛官がゲリラに殺されはするだろうね。
見返りに米国が対北朝鮮で日本に肩入れしてくれるかだな。
ブッシュが落選後イラク撤退もありうる。
米国全体では中東への石油依存度は4割を切ってるはずだ。
>>443 それが体験者さんであったならば
それはそれで生の声だから価値はあるよ。
どんな事をしても戦争はイケナイというね。
それが戦後の人であったならば
我々の様に聞きかじりの知識だから意味は無いけど。
軍事板の井上成美スレから来ました。
漏れの高校時代の担任は海兵出身でした。(七四か七五期)
数学を教えておられたのですが、「遅くてもいいから確実に
結果を出せ」(海軍で云う所の「スロー・バッド・ステディー」ですね)
といつも言っておられました。
漏れが「帝國海軍に興味がある」と言うと豊田譲氏の「江田島教育」を
薦めて下さった事も忘れられない思い出です。
調べてみたら、その父方の祖父の義理の弟さんが
海軍兵学校第65期生だったそうです。
東京裁判をすべて傍聴して、それ関連の本を出版している人だとか。
448 :
世界@名無史さん:03/11/27 12:06
家にはもう戦争体験を語ってくれる人はいませんが、祖父の弟の戦死状況を伝えた
上官から曽祖父に当てた手紙があります。社交辞令的なものかもしれませんが
当時の状況を知る一助になるのではと思います。(判読困難なところ空白)
拝啓
御令息知勝殿には十一月二日北部江蘇省灌雲県鎮頭庄附近の戦闘において
壮烈なる戦死を遂げられ候 国家の 家の 哀痛の極みにて謹みて
お悔やみを申し上げると共に御礼を申上候
頭庄附近の戦闘は近距離激烈なる戦闘にて倍 敵に対して激戦 る遂に
多大の損害を与へて之を撃破せるもので精強なる皇軍にして極めてよくし得る戦闘に御座候
御令息には分隊長として率先勇敢に戦闘を指揮し敵弾雨下の中に立ちて
敵を 撃中不幸にも一弾を腹部に受け遂に名誉の戦死を遂げられ申し候
戦場に屍を曝すは軍人の本懐とは云へ返す返すも残念に御座候
御令息は小沢隊に属して御出征以来常に謹厳誠実中隊家庭の模範たりし
のみならず幾十度の戦闘に於て最も重要なる照準手として正確無比の照準は
小沢隊戦力の中枢で数え切れぬ程の武功を樹立せられ特に昨夏澤
攻撃における奮戦振りは小官も眼のあたり見ることを得て感銘今に及ぶも深く忘れ難きもの有之候
今や征戦二年有余知勝殿にも下士官に累進せられ小沢隊幹部の一人として戦闘
にね 又隊内薫陶に 一貫精励努力を続けられ候 此の度の出 にお
分隊長として蘇北の戦野に散華せらる 到り申 戦闘状況並に知勝殿戦死
の報告を受け万感胸に迫りて申上る言葉も無 な 赫々たる武勲と御尊父様
を始め御一同様の御心情を偲びつつ御悔み申上候 敬具
高見部隊 八部部隊長 八部安太
○○(名字)勝治殿 待史
追伸 小沢隊長より色々 持参せるそ が
不 のる 御遠慮なく御申越され度
449 :
世界@名無史さん:03/11/27 12:41
443はバグダッドにでも行って一回空襲で逃げ回ってみるべき。
450 :
世界@名無史さん:03/11/27 15:43
旅費出してくれるなら考えるぞ。
451 :
猿山の岩石:03/11/27 16:19
ヒッチハイクで。
452 :
世界@名無史さん :03/11/27 16:32
>>448 こういう戦死の弔電ってプライベートライアンで描かれたように
事務的に「多大な損失」「英雄的行為」を並べるだけなのかな・・・・。
453 :
世界@名無史さん:03/11/27 23:13
>>452 弔電ではないよ、おそらく指揮官の自筆。
指揮官の部下に対する「最後の責任」と幹候校の教官が言ってましたです。
>445
うーん、戦後でも昭和20年代生まれの人は実感こもってると思うけどね。
昭和10年代〜20年代生まれの人は安部譲二いうところの
「大人が勝手に始めた戦争で割を食わされた世代」
だからね。
なんか日教組教育のせいだけにしたい人もいるみたいだけど。
455 :
世界@名無史さん:03/11/28 13:27
>>453 現地の指揮官、将校が戦死した隊員の家族に送るやつですね。
>>454 割り喰ったの大正10年代〜昭和10年代生まれまでだろ
昭和20年代生まれは対米コンプレックスの塊になって
米国の功績を素直に認められない火病世代
457 :
世界@名無史さん:03/11/29 10:41
>>452 >>453 >>455 448ですがそうです。直筆です。軍事郵便で送られてました。
葬式の時の弔辞もたくさん残ってますが、そっちの方が
軍国的美辞麗句が凄いです。それなりに興味深いですが。
でもみな恐ろしく達筆です。まだ戦争が激しくなる前のためか、
陸軍大臣からのものもありました。
大叔父の遺髪や軍から貰った弔慰金が手つかずのまま残っていたり、
部隊の活躍が載っている新聞の切り抜きがあったり、
60年以上前のこととはいえ、それらを前にすると妙に現実感を感じます
458 :
世界@名無史さん:03/11/29 14:38
>>457さん、貴重な話を聞かせていただいてありがとうございます。
なんというか、「西部戦線異状なし」でも主人公が故郷に帰ってきたら
親や、親戚、先生は戦争賛美でしかもゲーム感覚でしか考えていないってのがありましたね。
そういえば、祖父の遺品の中に配給切手と
リーフェンシュタールが撮ったベルリン五輪の
「民族の祭典」の戦前の小冊子がありました。おもいっきりナチス賛美でした。
>>457さん、やはりそうでしたか。
そういう物を残しておられると言う事は素晴らしい事だと思います。
大事になさって下さい。
しかし、遺族への手紙というのは定年まで書きたくないです。
本音の話…。
海兵七十期さんが来られたら聞きたいことがあるのになぁ。
杉野修一大佐はどんな方でした?
権平中佐、奥田少佐、航海士高島少尉、葛宇特務大尉、なぞなぞ、阿川弘之氏の「軍艦長門の生涯」に出てくる登場人物の生の姿を語ってもらいたい気がするが・・・。神降臨キボンヌ。
以前聞いたうちの祖母の話。
それなりに良い家の長男の祖父と、一人娘だった祖母が結婚したんだけど、
祖母が家を継ぎたいっていうんで、祖父が祖母の家に婿養子としてやってき
たんだって。「まだ弟がいるからそっちに家を継がせればいい」って。
勿論周囲は大反対。今なら分かるが60年前だしなぁ。
周りは見合い結婚とか多かったらしいんだけど、良い家と普通の家の子供同
士の恋愛結婚だったから大変だったって言ってた。
ちなみに祖父は意志が強くてよく働く人(というか母曰く「話した記憶があまり
ない」)だったらしい。私が小さな頃亡くなったんだけど、よく可愛がってもらっ
ていたとか・・・覚えてなくて御免おじいちゃん。
>461
?
464 :
世界@名無史さん:03/12/06 01:55
祖父の話(89歳)
警察学校を出て東京で警察の騎馬隊で見まわりをした後
徴兵で今の北朝鮮へ 二年で除隊になり帰国
それでまた徴兵で中国へ
そこで騎馬隊の副隊長で曹長だったそうだ
南京にも行ったことがあるそうだ そこでまた除隊で帰国
その後、満州開拓団に参加(南満州)
経験を買われ 兵錬で教官になったそうだ
そこで終戦 満州から朝鮮経由で帰ってきた
おれの母も満州生まれ
今いろいろ聞き出してます。
465 :
世界@名無史さん:03/12/06 02:38
戦争っていっぱい暴力振るえて楽しそう。
466 :
世界@名無史さん:03/12/06 04:58
467 :
世界@名無史さん:03/12/06 06:18
ひそかに良スレ
>>465 釣りをするつもりならもっとうまくやってください。
>>466 ・・・鶯谷の笠俊商店に行って、ヘルメットとボディアーマー買ってれば死なずに済んだのにな。
実売で二つ合計¥30,000-程度の品なんだが。
あのパジェロ、防弾仕様だぞ。
ヘルメットとボディアーマー程度じゃムリだよ。
装甲車とかで無いとあの襲撃は防げなかっただろうね。
>>470 ランクルじゃなかったか?
確かにウインドゥは貫通してなかったね
防弾仕様の車のドアを貫通して、更に中の人間を殺傷するんだから、
自動小銃の威力って凄いな
>>470 防弾と言っても“軽”防弾に過ぎなかった。
しかしながら、薄いながらも防御鋼鈑を貫通した時点でかなり弾丸の速度は減速してる。
(実際、被弾は全て盲貫銃創)
それならば、ボディアーマー&ヘルメットで十分対処可能。
顔面がはじけるほどの疵を受けたり、肺を片側失う程度の重症は受けるかもしれないが、
命は助かった可能性はある。
(例の“ motorcycle.jpg”の男性も、今では顔の形成手術を受けてちゃんと口と顎があるとの事)
祖父に聞いてみました
中国にいたのは昭和12年〜13年の間で
基本的は広州の陸軍本部にいたそうですが 上海 南京などにも行っていたそうです。
南京大虐殺の事を聞いたら 「あれはオーバーだよ」と言っていました。
日本軍の規律は非常に厳しかったそうです。
夜、見まわりをしていたら弾薬庫の衛兵が居眠りをしていて
それを上官に報告しようとしたが 報告するとその衛兵は死刑になるだろう
と思い 起こしてあげてその場で注意し上官には言わなかったそうです。
まだまだありますが またそのうち書きます
>>473 桁の増え方がどう考えてもオカシイ中国側の発表信じる香具師など
今時いるのかねぇ…
母方の祖母。
終戦直前は女学生で福井の田舎の比較的裕福な自作農の娘だった。
かなりおてんばだったらしい。
もんぺ姿が奨励された時には京都の呉服屋にいって
もんぺを仕立ててもらったそうな。弟も国民服をそこで作ったそうな。
さすがに友禅とかではなかったらしいが、一般的な戦時下イメージとは
ちょっと違うよな。
戦中後も食べ物に関しては困ったことがなかったらしい。
米兵の捕虜の一団がしばらく道路工事みたいなことをしにやってきた
ことがあったそうで、英語の歌とかをみんなで歌って
結構気楽に働いていたように見えたそうな。
ただ、やはり田舎は田舎の悲哀があったらしく、
名古屋の親類の所に遊びに行ってホテルで飯を食ったんだが、
同年代の親戚の子がホットケーキなるものを注文してて、
それをはじめて見た時ものすごくうまそうに見えた、といっていた。
そのせいかどうかしらんが祖母は今でも
バターと蜂蜜たっぷりのホットケーキが好きだったりする。
その祖母と結婚する祖父の場合。
滋賀県の山間部の貧しい大工兼炭焼きの家に長男として生まれた。
負けず嫌いかつ強情な性格だが勉強も頑張ったみたいで、
中学に上がり奨学金をもらって宇都宮大の獣医科に進学。
卒業後軍隊に入り軍用の馬やらロバやらの面倒を見ていたそうな。
転属で満州に行かされるとか言う話が出ていた矢先に終戦となる。
実家近くの地方都市の職員になり、いろいろあって祖母と出会い、
公務員時代に作ったコネを使って銀行に金を借り、
ペットブームを見越して開業。酒乱だったが俺にとっては良い爺ちゃんだった。
父方の祖母。
北海道南部。東北系の開拓移民の末で、
あまり広くない農地を持った公務員の家に生まれる。
母方の祖母と同じ年なんだが、こっちの祖母は物資不足で苦労したらしい。
石炭が次第に手に入りにくくなり寒くて難儀した話や、
米食うが減ってすいとんを食うようになってすごく嫌だった話などをしている。
兄が鮭を密漁して闇ルートでさばいて糊口を凌いでいたそうな。
女学校には行かせてもらったが母親が若いころ死んで
継母との折り合いが悪かったらしい。
卒業後しばらく事務員をしていたがすぐ祖父と見合い結婚。
父方の祖父。
北海道旭川。祖母の先祖と同じ藩の屯田兵の末裔だったが、
その初代屯田兵の男が、旧藩のしがらみを嫌って更に奥地に入り、
幕末時に内職で関わっていた細工屋を旭川で開いたらしい。
祖父の父の代で三代目で仏壇や箪笥を作って職人も雇い、
そこそこ繁盛していたようだ。
ただ、祖父の父は放蕩者だったらしく、店を潰した上愛人に捨てられ、
旧道庁に勤めていた祖父の兄のところに転がり込み、
結局祖父の兄が戦争前後ごろは一家を支えるようになっていたらしい。
祖父自身は兄の家から大学に通い、学徒出陣の対象になり陸軍に入るが、
内地配属中に終戦。よく聞くしごきもそんなにはきつくなかったようだが、
訓練期間中には嫌いな教官がいたらしく、
同期の訓練生とささやかな嫌がらせをしたらしい。
戦後林野庁の職員になった。
ちなみに父方の祖父の家系の誰かがシベリア出兵に行っていたらしく、
捕虜にしたソ連の将校から個人的にもらった(タバコと交換したらしい)
銀製のマグカップが実家に現存。
ちょっと薄っぺらいがイングレーブが精緻で結構綺麗。
祖父本人は「露助」にあまり良い感情はないようだ。
仙台空襲に遭った祖母の話。
「広瀬川の一面に人間と馬の死体が浮かんでいて、
焼夷弾の炎で燃えながら流れてたよ。本当に地獄絵図だった。」
祖父は勤めていた会社が全焼して
近くにあった防火水槽に黒っぽい物が浮かんでいたので
持ち上げてみたら焼け爛れた人間の頭部だった。
その祖父は東京生まれで関東大震災も経験していて
火災が鎮火したあとに街中を見に行ったら
死体がピラミッド状に積み重なっていたそう。
どうやら炎に巻き込まれた人々が、他の人や死体の下に潜り込んだためらしい。
そこら中の川や池にも焼死体や水死体が溢れていて
死体を引き揚げても引き揚げても膨れた死体が水底から浮き上がり続けたようです。
481 :
世界@名無史さん:03/12/09 19:34
>>480 ああ、うちのばあちゃんも似たようなこと言ってたなあ
富山空襲で妹が行方不明になって死体ひとつひとつ
確認して歩いたそうだ。後で生きてることがわかったんだけど
当時は必死で怖いとも気味悪いとも思わなかったそうだ
482 :
世界@名無史さん:03/12/09 21:11
>>480 その投稿を見ると書きづらいですが。
私の母の体験。
東京から、石巻(仙台の東北方向)近郊の親戚の家に疎開していました。
ある夜、仙台のほうが綺麗に光り輝いているのを見て、昔見た花火を思い出していたそうです。
ちょうど、それが仙台大空襲の火。
483 :
世界@名無史さん:03/12/13 00:06
じいさんは、終戦時には怪我して入院していたらしい
一緒に入院してた上官は重症で、「地獄のようだ」の一言が心に残ってるらしい
んでもって今日資料集めでマレーの空戦参加リスト見てたら
偶然俺と同じ苗字の奴が・・
名前も知らないが、じいさんの兄貴は飛行機のりだったときいていたので
じいさんに聞いてみたら、俺の兄貴だ、といっていた
昭和19年に戦死した、とも言っていた
名前をぐぐって、
http://www.warbirds.jp/senri/11-1/22/22.htmlも見たので知っていた・・・・
じいさんの兄貴の名前出してもいいけど、(兄弟多いし個人割り出せないだろうから)まあ、とりあえず伏せとく
484 :
世界@名無史さん:03/12/13 00:12
自分には、中国大陸で任務を遂行した軍曹と、シベリアへ抑留された2人の血が流れている。
485 :
世界@名無史さん:03/12/13 00:14
ちなみに、シベリアへ抑留されたのが親戚に2人という意味。
だから、計3人。
父方の祖父
20の時徴兵されて青森から関東入りしたものの、配属先が決まらず
横浜の軍需工場で働く事に。戦車のキャタピラとか作ってたらしい。
上司の目を盗んでは仲間と工場の道具で飯盒や鍋を作っては売り払い、
ちょっとした小遣いゲト。
空爆も頻繁にあったが根性で生き残り、結局配属先が決まる前に終戦。
かせいだ小遣いでみやげ物を買いつつ帰郷。
もっとこう、胸躍る活躍をしてくれよ。
487 :
世界@名無史さん:03/12/13 03:11
>>486 平穏でいいじゃん(皮肉ではない)。
胸躍る活躍=危険に身を晒す行為
なわけだし。
むしろ、リアル。生活感がある。
そうだよ。祖父が死んでたら
>>486の存在はないんだし。
根性で生き残ったお祖父さんに感謝すべき。
そして日本の為に命を散らした人達への敬意も忘れるな。
489 :
世界@名無史さん:03/12/13 09:11
日本ヲタ、必死だなw
490 :
世界@名無史さん:03/12/13 11:19
祖父は北海道の名士?(といっても北海道、たかが知れている)の末子だったようだ。
そのおかげで兵役免除され、軍用犬を育てていたらしい。
その頃の陸軍大佐一家と交流があったらしく、軍用機で上海に遊びに行ったと言っていた。
中国人が日本人にスリを働き、それを見た日本兵が拳銃でただちに撃ち殺したのを目撃したらしい。
今はもう亡くなったが、わたしが昔のことを訊ねると半ば惚けていた爺様にその部分だけを繰り返して聞かされた。
祖父は末子にありがちな放蕩者だった。
そのせいで曽祖父の遺産を分けてもらえず、祖母も娘である母もひどく貧しい暮らしを強いられていたらしい。
492 :
世界@名無史さん:03/12/13 23:09
父親に聞いた話だが、祖父は公務員だった。年が行っていたので、徴兵されな
かったけど、終戦間際に徴兵。ただし将校だったそう。少尉あたりだったはず。
将校になったらすぐに家に軍のトラックがやってきて、当時はまず手に入らない
牛の缶詰とか砂糖とかをおいていったそうだ。実際の戦いはしなかったらしい。
母の祖父は近衛師団の軍曹。背が高くて男前だったそうだ。中国にいったらしく、
その後除隊。戦争の話はしなかったけど、もって帰った中国のお金を貰った。
その祖母に新しく聞いた話。
8月15日の敗戦の玉音放送直後に
狂信的な陸軍将校が仙台市内で「一億総決起」や
「白虎隊」のビラを配っていたそうです。
でも勝ち負けどうこうよりも、皆戦争が終わって喜んでいたので完全シカト。
それに6〜7月位から、仙台に駐屯していた兵士はワラジを履いて
銃がないらしく、訓練用の木銃か農具のようなものを担いでいたらしい。
「白虎隊」か・・・
まあ、要するに自爆テロ的なことを虚しくも呼びかけていたそうです。
496 :
世界@名無史さん:03/12/15 18:45
俺のじいさんの弟の話…。当時早稲田大学生で、学徒動員で海軍に配属に
なり佐世保で終戦を迎えたそうだ。当然負けると思っていたとか。壊れた
船舶とか原爆とかでもう末期状態だった…。
498 :
世界@名無史さん :03/12/19 16:20
祖母に1945年8月15日のことを聞いてみた。
玉音放送どうこうよりも、琴の六段が放送され「平和っていいなぁ」と思ったそうだ。
天皇云々や敗戦もそんなに気にせずにほぼ全員が電気のカバーを外して
窓の紙テープも剥がし、何も気にせずに生活できることを喜んだらしい。
499 :
[萬○歳]嗚呼12月8日:03/12/19 18:04
[萬●歳]嗚呼12月8日、大東亜聖戦開戦記念日!
まだ「百年戦争」のやっと63年目だ!!
[必●勝]サア!タタカイハ、
(・∀・)コレカラダ!!
⊂ 〇 )ウチテシヤマン!!!
(( (
⊂ ⊂ )
500 :
悪の連合王国:UK|米|:03/12/19 18:06
500
(´3`)V サインはヴィ!
スレ違いだが、雨本国のヒストリーちゃんねるのインタビューで「体験者に聞く第一
次大戦」があった。出演者は90歳以上ばかしw。
「いやぁ機関銃が凄かった」
とかを聞きながら、あんたの話がTVで聞けるほうがすごいよと1人ツッコミ
502 :
世界@名無史さん:03/12/20 15:08
>>498ですが、祖母の弟は183cm以上あって甲種合格して
中国に行ったらしい。そして敗戦まで生き残った。
が、武装解除の為に弾薬を廃棄した帰りにトロッコから投げ出された
医薬品も無い状態だったので、その負傷が元で亡くなった。
祖母の姉夫妻は満蒙開拓団に参加。
いい場所で普通に生活していたが、敗戦後にソ連軍の侵攻によって
子供2人を殺し、夫妻も首を切って一家で自決した。
祖母の出身地(俺も含め、現在も住んでいる)からは
全部で75人の満蒙開拓団がいたが、生きて帰還できたのは2人だけだった。
戦争が終わったのに死ぬなんてバンド・オブ・ブラザースのようでショックだった。
503 :
世界@名無史さん:03/12/20 17:41
祖父さんは軍属だったんだが終戦の日奉天では
軍の倉庫から市内のある場所まで約4キロ兵隊が道の両側固めて
軍人軍属の家族がリュックかついで物資を運び出したそうだ
翌年の帰国まで楽に売り食い生活ができたみたい
俺のじいちゃんは終戦を舞鶴鎮守府で迎えた。
戦後暫くは米軍の投下した機雷の処理をしていたそうだ。
とにかく喰うものがなく、毎日松茸喰っていたらしい。
(何故か昭和20年は松茸が大豊作だったらしい)
故にじいちゃんは松茸をありがたがらない。
あ、浮島丸事件は米軍の機雷が原因で、断じて海軍の謀略
ではないと怒ってます。
引き揚げ
507 :
世界@名無史さん:03/12/28 05:36
>>507 あれ。ポーカ派さんは、もともとこのスレの出身?者ではないですか…?
>>508 書かれている内容の具体性(しようとおもえば本人特定できる)からして
本物と思いますが。
自分が参加した(らしい)満州でのある小さな作戦の書類を、
じいちゃんがなぜか持ち帰っていた。
(じいちゃんは一兵卒)
その黄ばんだ書類には「目的」「装備」・・・「人馬の損耗」とかいう文字が見えた。
おいらたちが今普通に作成している企画書や報告書なんかと、
あまり変わらんなあとオモタ。
511 :
世界@名無史さん:03/12/28 21:10
今年のコミケの入場者数ってどのくらいだと思う?
46万人だって。
関東軍と互角に戦えそうな軍事力ですな。
512 :
世界@名無史さん:03/12/28 22:36
オタクにさほどの軍事力があるとは思えませぬ。
しかも統制全然取れてないし。
514 :
(○±○)宣統帝溥儀です:03/12/28 22:48
終戦間際の寄せ集めの関東軍どころか、満洲事変を起こした石原莞爾の部
隊にさえも、蹴散らされるであろう。(藁
515 :
世界@名無史さん:03/12/29 00:09
関東軍が勝てるわけない。
・ヲタ軍集団----------エロゲ師団------------------------ちよれん連隊
| |-----泣きゲー連隊
| |-----葉鍵部隊
| |-----陵辱部隊
|
|------アニヲタ師団----------------------デジキャラット連隊
| |-----CCさくら連隊
| |-----十二国記厨房部隊
| |-----りぼん・ちゃお部隊(大きいお兄ちゃん部隊)
|
|------コスプレ師団----------------------メイド連隊
|-----格ゲー連隊
|-----ネットアイドル部隊
|--------盗撮小隊
516 :
世界@名無史さん:03/12/30 02:50
どこか?ww2の映像とか多く置いているサイトってないでしょうか?
なかなか見つからん!!
海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 殿
海兵七十五期 殿
遅まきながら、拝読させていただきました。
いろいろご事情はあろうかと存じますが、貴重なお話を再びお聞きしたいものであります。
また、本年もお元気に暮らされることをお祈り申し上げる次第であります。
518 :
世界@名無史さん:04/01/02 00:23
>>515
臭い支那あ・・
520 :
世界@名無史さん:04/01/02 02:28
私の父は、弱兵で有名な「第8連隊」にいたそうです。2年と3ヶ月の軍隊生活で、
戦争が終わったので、助かった思いがしたそうです。2年3ヶ月の間、満州辺りに
約4ヶ月ほどいたそうで、列車の扉を少し開き、手摺のようなところにしがみついて、
小便をしたときに、中国の大地の広さに驚いたと言ってました。遠くの方にある
ものすごい小さな建物が、同じ位置にずうっと何時間も止まっているように見えたそうです。
列車は、ものすごいスピードを上げて進んでいるのは、すぐ傍の景色というか、体に感じる振動等
からも解っているのに、あの小さな建物は、通り過ぎる景色にはならないように見えたそうです。
どこまで行っても同じ画面が続くと、列車が止まっているような気分になるそうだ。恐ろしい
空間があることを知ったといってました。今年80歳になります。中国では、歩いてばかりで戦闘状況に
なったことが無いようです。(今の私が、ここにいるのも、そのおかげですが 何か?)
何かよく解らないうちに内地に戻され、三重で終戦を迎えたといってます。親父の部隊は、本当に
運のよい人ばかりで、ほとんど助かっているそうだ。第8連隊は、ある意味、無敵の連隊ではなかったか?
521 :
世界@名無史さん:04/01/02 03:32
>>520 玉砕命令を出しても逃げ惑って使い物にならなかった
522 :
世界@名無史さん:04/01/02 05:58
うちのじいちゃんは、昭和20年4月1日にアメリカ軍に撃沈された
阿波丸に乗ってて亡くなりました。
安全航行を保障されてた船だったのに・・・
ばあちゃんは、結局その後再婚しないで息子(俺の親父)を育てました。
後に遺品が回収された時、うちの名前が入った指輪が出てきて
ばあちゃんに還されたそうです(TVにも出たとか)
3年前にばあちゃん死んじゃったんだけど、もっと話し聞いとけばよかったなぁ・・・
523 :
世界@名無史さん:04/01/02 10:59
524 :
世界@名無史さん:04/01/02 11:14
俺のじいちゃんの兄さんも中国で戦死したらしい。
本当、戦時中の日本は狂ってたね。
日ソ不可侵条約を破棄したソ連軍の侵攻で、北方漁業で財を成していた
私の祖父母(2人とも子供だったが婚約していた)一家は
命からがら樺太から北海道まで漁船で逃げ出したそうです。
当時知り合いだった人たちの半分以上が行方不明だそうで、
二人とも、特に祖母はロシア人が大嫌いです。
それはもう嫌露厨という表現がピッタリなほど・・・。
>>519 サンクス。了解しました。
>>520 大阪の連隊ですね。
「またも負けたか8聯隊、これでは勲章9聯隊(くれんたい)」とか言う連隊。
良くも悪くも、大阪人の合理精神があったと考えますなぁ。
527 :
世界@名無史さん:04/01/03 00:52
玉砕なんて作戦の内に入らない。
死ぬのは簡単だが、生き残って責任を果たすのは難しい。
528 :
世界@名無史さん:04/01/04 01:29
529 :
世界@名無史さん:04/01/05 01:31
軍板のスレはもうメチャクチャですね
上のを保存した人、どこかにウプお願いします…。
>>533 一応保存してたけど何が欲しいの?
画像?
それとウプるにもどのアプロダがいいのやら…
HOSYU
帝大在学中海軍予備学生として引っ張られた祖父は
口を開けば「あんな無教養な奴らが戦争を指導してたと思うと、腸が煮え繰り返る。」
って海兵出の士官の悪口ばかり言ってた。
戦後型エリートの無教養ぶりが問題になったときも、
「昔の陸士、海兵の奴らと変わらんな。奴らにあるのは出世主義だけだ。」って言ってた。
旧制高校出の人からはそう見えるのかな・・・
536氏
予備学生でも十分に一級士官だったのもいれば、
適当にウナギ生活で海兵を卒業したどうしようもない阿呆もおりました。
要するに人間性という事なのでしょう。
538 :
世界@名無史さん:04/01/24 22:59
あ、ポーカー様だ。復活祝いage
539 :
世界@名無史さん:04/01/27 00:39
>>537 戦争末期には「少佐以上は全員辞めよ!」と言われていたらしいですが、
末期の腐敗はそんなに酷かったのですか?
お国の為に死ぬ気なんかまったくなかったと言います。
少佐以上で特攻戦死は何人おるでしょうか?
上行くと戦陣訓作ったくせに自殺未遂の揚げ句収監されたあの人とか敵前逃亡の富永、部下だけ特攻させた菅原とか・・・・・。
特攻思いついた源田とか・・・。
>>540 東條の自殺失敗はある意味不可抗力かと・・・
普通の人と心臓の位置が違ってたらしいし
542 :
世界@名無史さん:04/01/30 03:17
源田は、源田の死後になって某エースパイロットがかなり叩いていたよね。
世界的潮流もそうだったから仕方が無いとは言え、開戦直前に戦闘機無用論を
実施に移し、戦闘機パイロットを思いっきり削減したところで開戦だからねぇ。
開戦しょっぱなから少数精鋭主義になっちゃったのは、ある意味これが原因だ。
他所の国だと、「爆撃機優位論」なのに、いきなり「戦闘機無用論」だもんなぁ。
源田サーカスの紫電改伝説も、嘘八百みたいに書いていたし、その他も諸々。
ところで、特攻を思いついたのは別の人じゃなかったか?
543 :
世界@名無史さん:04/01/30 09:34
544 :
世界@名無史さん:04/01/30 10:21
戦争の話はあんまりしなかったけど、俺のじいさんは中国戦線に行ったと言ってた。
激戦区ではなかったようで、戦闘の話はあんまりなかった。(剣道の話はよくしてたな)
「昼間に戦闘が終わると中国人の子供が遊びにきたので、漢字を教えてあげた」とか、
「〜(地名忘れた)の人たちは熱くて辛い料理を長〜い箸を使って食べる」
とか懐かしそうに語ってくれたことがある。
今にして思うと、俺のじいさんにとっては大戦争というよりも
青年期に異国の匂いに触れた思い出って感じだったのかもしれない。
もっと聞いとけばよかったんだなあ・・・
test
546 :
世界@名無史さん:04/02/07 05:10
age
547 :
世界@名無史さん:04/02/10 12:17
test
548 :
世界@名無史さん:04/02/15 03:31
あげとこう
549 :
世界@名無史さん:04/02/20 23:56
近所に住んでた元貨客船乗組員の人から聞いた話(5年前に聞き取ったメモより)
軍事板にも書いたがこちらにも
その人が乗り組んでたのは600トン余りの貨客船、これが明治時代の蒸気機関船だった
低速で煙突からは黒煙を濛々と吐き出し、船体が不気味に軋む代物 武装は機銃のみ
その人は似たような旧式船や機帆船ばかり数隻で船団を組んで沖縄に向かったものの
煙突から黒煙を吐いてるため敵機群に見つかり、銃撃を受けた
「ドロドロドロ・・・」と機銃が船団を舐めるたびに周りの船が火を発していく
先頭の1000トン級の輸送船は弾薬に引火 轟音とともに火柱を吹き上げ真っ二つに折れた
右側を航行中の機帆船は同じく弾薬が発火したらしく、爆発とともに木っ端微塵になってしまった
その人の船も銃撃を受け、甲板上の構造物や荷物、そして人が目の前でバラバラに千切れ飛んでいった
そして機関部をやられたらしく「ゴォー」という音とともに船室のガラスが破れ
窓やハッチから蒸気が噴き出してきた
同時に転がるように機関室付近の生き残りが飛び出して来たが
全員頭顔が焼け爛れ海坊主のよう 甲板上には手足や内臓が散乱し目も当てられない
そのうちに積荷の弾薬が発火誘爆し手が付けられなくなったので、船長は総員脱出を決意
用意の筏を海中に放り込み、続いて生き残りは皆海中に飛び込んだ
筏に掴まりながら、爆発を繰り返し炎上する各船を呆然と眺めていたという
勿論船団は全滅 暗くなってから赤々と燃える船がやたら美しかったらしい
その人たちの筏は2日後近くの島(名前失念)に漂着 終戦後やっと帰ることが出来た
550 :
♪\[^ム^](○m○)(^■^)/!:04/02/21 00:36
わしもアメ公の戦闘機が、船団、飛行場、港湾、機関車、灯台なんかを攻
撃するガンカメラ映像を持っているが、何度見てもムカつく。
確かに彼等にも「国際法」で攻撃を禁じられた目標があったはずだが、ほ
とんど無差別な感じだな。
たまに助かった人が「米軍も人道的だった」なんて新聞に電波流している
が、誤爆なんて当たり前って感じだな。
学校で「平和教育」がしたいなら、こういう映像も見せるべきだな。
551 :
世界@名無史さん:04/02/21 08:33
>>550 そしてもちろん民間人もね。
石原都知事も子供の頃敵戦に追われたらしいね。
日本の特攻機は戦闘機に爆装したものが多かったのに、突入時に機銃掃射
している場面を見たことがありません。敵の防御力を削ぎながら突入した
方が効果的だと思うのですが、これはいったい何故なのでしょうか?
553 :
世界@名無史さん:04/02/21 10:16
>>552 1.機銃を外している
2.被弾したり過速に陥ってる飛行機を必死で操縦しててそれどころじゃない
この二つかと
そもそも戦争末期の機銃不足は目を覆うばかり
超ベテラン艦爆乗りの山川新作氏が彗星でフィリピンに進出する際の話だが
前方固定銃が最初から付いておらず、「こんな飛行機には乗らん」とダダをこね
色々工面してやっと一機にだけ装着できた・・・こんな感じ
特攻機になんか勿体無くて積めないとでも考えていたのかと
>>553 補足
3.すでに操縦者が重傷を負っていて操縦桿握るのがやっと。
合掌。
うちのばーちゃんに聞いた話。昭和20年に北海道室蘭がアメリカ艦隊から
艦砲射撃を受けた。俺が色々調べたら大和の砲身なんか作った
富士製鉄(現新日鉄)などの軍需施設を目標にしたらしい。
ミズーリやら混じっていてかなり強烈だったらしい。
当時ばーちゃんは花の17歳、製鉄所近くの配給所で働いていたんだが、
警報がなったので、急ぎ防空壕へ。最初大型の防空壕へ入ろうとしたんだが、
何故か気が変わって、少し離れた小さな防空壕へ非難したんだそうだ。
しばらく友達とガクブルしてたところ、凄まじい轟音がなって思わず
防空壕から飛び出した。すると最初入ろうとした防空壕が艦砲の直撃
を受けて酷いことになっていたそうだ。その時印象に残っているのが、
沢山の札束がパラパラと辺りに舞っていたことだそうだ。
これはあんまり関係ないが、当時の写真みせてもらった。
ばーちゃん、一人だけデカイ(W当時の女で164CMって和田アッコか
ちゅーねん。
そんなばーちゃんの作るカレーライスが大好きです。
私の祖父は学徒出陣で満州に送られました。戦争も末期でついにソ連軍が侵
攻して来てあちこちで激しい戦闘がおき、もちろん祖父も戦闘で敵兵を撃っ
たり、また逆に撃たれて、足に弾が直撃したりしました(祖父は獣医学校に
いたのでなんとか弾を自力で出すことができたらしいです)。
結局、日本の敗戦が決まると祖父のいた満州方面の部隊はソ連軍に降伏して
シベリアに送られました。いわゆるシベリア抑留というやつです。収容所に
行く途中でかなりの人が倒れたそうです。祖父は近くで倒れた人に持ってい
た角砂糖をあげたと言っていました。
収容所生活はともかく悲惨だったそうです。夜、トイレに行き、戻って来る
ともう自分の寝る場所がなくなる、それぐらい狭い部屋にたくさんの人が収
容されていました。その上、極寒の地で過酷な労働作業ということもあって、
死んでいく人が後を経ちませんでした。幸い、祖父は柔道をやっていたので
体力はあり、なんとか生き延びられました。数年後、帰国の日が来て無事に
祖国の土を踏むことが出来ました。
ある日、たまたま祖父が出かけていたときの事、町内を見知らぬ男の人が、
「○○さん(祖父の苗字)、満州で一緒だった○○さん」と訪ね歩いていた
そうです。後に分かったことですが、この男の人が先に書いた祖父が角砂糖
をあげた人だったそうで、その時のお礼をしに来たのだそうです。
そんな祖父も去年、他界しました。もうこの話は聞けませんが、私はこの話
を忘れません。
だらだらと長文を書いてしまい、すみませんでした。
アチキの通っていた中学校の教頭から聞いた話
教頭は昭和20年の夏、新兵訓練で呉で訓練を受けていた。
8月6日、朝の訓練を始めてすぐに轟音がして地面が揺れ、顔を上げると広島方面
からきのこ雲が上がっていて、空が暗くなっていたそうだ。
訓練は中止され、しばらく待機。昼過ぎになって広島に爆弾が落ちて大きな被害
が出ているらしいと言うことで救援活動に向う。
広島市内が見える辺りまで来ると一面の焼け野原であちこちで黒い煙が出ているのが
見えすごい匂いがしていたそうだ。
市内に入ると小隊ごとに分かれ生存者の救出と死体の搬出をすることになったそうだが、
その教頭の小隊はかなり不真面目だったようで、頭が割れて脳みそが飛び散った死体は
拾い集めるのは面倒だからと、トタン板をかぶせて他の小隊に見つけさせるようにした
りしていたそうだ。
印象的だったのが、倒れた電柱の下敷きになった焼死体を見つけた時に電柱を取り除く
と今まで電柱がのってへこんでいた部分(わき腹)がぶーっと膨らみ、慌てて電柱をもと
どおりに戻して逃げたと言う話。
その教頭は直接原爆の被害はうけていないが、爆発直後の被災地を歩き回ったせいで被爆
し、原爆手帳を持っていた。この話を聞いた当時も冬に体調を崩して血を吐いたと言って
ました。
559 :
世界@名無史さん:04/02/22 21:44
母親の話(故人)名古屋の覚王山近辺に米軍機が墜落した。それを聞いて見に行ったそうだ。
現場では、普通の人が、寄ってたかって「米兵の遺体」を棒で突付いていたそうだ。
熱田区の、白鳥橋<今もある国道1号線に架かる橋>には橋一杯に死体が並んでいた。と、其処を
通るたびに話していた。
隣の床屋の主人は、中国で死体を食べたと言っていた。
560 :
世界@名無史さん:04/02/22 21:46
↑味を聞くのを忘れた。W
爺さんから聞いた話。
爺さんは台北の国民学校で教師をしていたが、ある日米軍機が学校に向って
低空で機銃掃射をしてきたそうだ。
校舎の外にいる人がおらず被害はほとんどなかったが、機銃掃射をした米軍機
は余りに低空で飛びすぎたため立て直しが効かず校庭にあったイチョウの木に
翼を接触させ校庭に不時着したそうだ。
そこで爺さんはじめ学校の職員、近所の軍人などが飛行機を包囲し、操縦士を
捕獲した。その時の操縦士の姿はサンダル履きでパジャマの上にジャンパーを
羽織っただけと言うラフな格好でガムをくちゃくちゃ噛んでいたそうだ。
爺さんはそれを見て、日本は負けたな。と直感で思ったそうだ。
その後、その操縦士は憲兵にどこかに連れて行かれたが、数日して学校の雲梯
に吊るされていたそうだ。
無論、559の人がカキコしたようにみんな棒でつついたり叩いたりした、と言う
よりするように強制されたそうだ。
うちの爺さんは満ソ国境警備をしていたらしいがソ連軍が怖くて仕方なかったらしいw
こんな装備で勝てるわけねーだろ!!って自分に突っ込みいれまくってたって。
その後台湾二駐留してバナナ食いまくって終戦だって
>>552 そもそも機銃射撃をする突入進路と、
特攻の突入進路が違うから。
固定機銃だから前に撃てば当たると言うモノでは無いので、
付いていても撃てる位置からは侵入しない。
確か特攻は低空から進入してどうのこうのって感じだった。
564 :
世界@名無史さん :04/02/23 16:10
うちの父ちゃんは大正15年産まれ
ワシはかなり年取ってからの子供なんだけど
今のうちに、戦争当時の話を聞いておこうと思うんだに
当時、実家は樺太の大泊郡字馬群丹というところにあって
じいちゃんが床屋をやっていた
徴兵で幹部候補生として旭川の駐屯地にいて、腰にサーベル,長いマント
な〜んていでたちで写真見るとかっこいいんだわ、これが
でも肋膜をわずらって病院にいるうちに所属する大隊ガ、アッツ、キスカ島に
・・・んでもしキスカにいたら玉砕してたって・・・今でも時々話してくれる
終戦後は英語がしゃべれたのでアメさん相手に通訳みたいなことをして
当時のビールとか毛布とかもらったんだって
なんせ戦争時は食べるもんがないもんで、一食にジャガイモ2個とか
砂の入った海泡麺とか食べてた
ロスケ、とチャンコロはいまだにキライらしい 笑
565 :
世界@名無史さん:04/02/23 20:59
当年とって50歳。
伯父がサイパン島で戦死したらしい。
祖母が、次いで父が戦没者遺族となり、ずっと「特別弔慰金国庫債券」を受け取ってきた。
父が死んで私が継承する。
しかし、伯父とはこの世を共有していない。
この債券を平成17年まで受け取る権利がある。年額4万円。
いいのかなあ。
566 :
世界@名無史さん:04/02/23 22:10
第二次世界大戦の被害者は、天皇陛下や一般国民。
中には良い政治家も居た。
しかし、加害者であるクソ官僚どもは、アメリカ軍に取り入り、意地汚く生き残り、その子孫ともども今も笑って暮らしている。
しかも反省していないから、今も閨閥を作り、国民を苦しめている。
ドイツは、日本のクソ官僚に当るナチスにちゃんと罪を総括させた。
なぜ、日本は官僚どもを追及しなかったのか?
そのお陰で、支那のバカや朝鮮のクソどもに、被害者である天皇陛下や国民全体が「謝罪しろ!」などと暴言を吐かれて屈辱を耐えている。
しかも、加害者であるクソ官僚の子孫どもが、捏造された罪を勝手に謝罪し、血税をどんどん渡している。
奴らの罪を知る人々は、大戦で命を失い、生き残った人々も高齢だ。
我々は何ができるのか?
未来の日本の為に総括しなければならない。
歴史から正しく学ばなければならない。
反省のないところからは発展は生れない。
567 :
世界@名無史さん:04/02/24 00:39
うちのじいちゃんの話
うちのじいちゃんは中学出たあと大阪湾沿いの造船所に就職した。
(小型ボート型の特攻兵器とか作ってた)
それで給料月30円だったんだって
(当時月15円あれば一人で暮らすのには充分だったらしい。)
それで終戦の日は休日だったので映画館で映画見て、外にでたら
玉音放送が大音量で流れてたって。
じいちゃんは終戦の年の10月に18歳になるからギリギリ徴兵免れた。
ちなみにじいちゃんの親戚は奈良の大地主だったので、
じいちゃんは戦争中白米のご飯しか食べたことないらしい。
そんなじいちゃんでも志願兵で特攻行こうとしたが
男5人の末っ子で、兄貴は全員兵隊に行ってたから
親に「跡取がいなくなるかもしれんからダメ」と
止められたんだって。
ちなみに今も元気でここ3年連続海外旅行行ってます。
ラッキーな人だ。
568 :
世界@名無史さん:04/02/24 04:40
横浜に住んでた母の子供のころ空襲にあい、防空壕からでると
首のない人が走っていたんだって〜
569 :
世界@名無史さん:04/02/24 05:11
うちの父方の祖父はルーズベルトが死んだ時
「こりゃ負けるな、なぜなら次の大統領は日本をトルーマンだからな」
と言ったそうです。しょうもない話ですが。
571 :
世界@名無史さん:04/02/29 02:11
test
572 :
世界@名無史さん:04/03/01 15:52
高校生の時のクラスメイトに駆逐艦「天霧」の艦長をしていた親戚(クラスメイトの祖父の弟)がいる奴がいて後日調べて見ると確かにそれは事実だった。クラスメイト曰く「戦後ケネディに呼ばれ訪米したとの事」
そんなクラスメイトの家は祖父、父共に軍人だ。
573 :
世界@名無史さん:04/03/01 16:46
花見弘平艦長閣下ですか。
>クラスメイト曰く「戦後ケネディに呼ばれ訪米したとの事」
その前、上院議員時代にいわゆる「ペンフレンド」になってますな。
574 :
世界@名無史さん:04/03/01 16:48
うちのばあちゃんは満州で電話会社で働いてた。
男性がいなくて(?)身長が高かったばあちゃんが
男のふりしてソ連兵に会社で応対したそうだ。
開放されたらしいが、「青酸カリ持ってて、いざというときは死のうと思った」
って言ってたなあ。
なんか生きるか死ぬかって覚悟を俺は持ったことないけど、やっぱ
こういう経験をしてるから強いと思う。
予断だが俺の高校は戦時中に修学旅行とかでスキーしに行って軍から怒られたらしい・・
うちのじいさんは陸軍で中国いったんだけど、食いモン
うまかったなぁ〜なんてのんきなこといってる。年金で
キャバ通いするし(W
じいさんを学校まで出してくれた兄さんが大和乗り組みで帰って
こなかったそうな。何年か前海に沈んだ大和がTV番組で写ってたけど、
それを見ていたじいさん、まるで別人みたいな怖い顔で見てた。
うちのエロじいさんの中では、戦争終わってないのかもしれない。
>>576 前に聞いた話だけど、どこかのもう痴呆出ちゃったおじいさん、
夕食とかの途中に突然、
「そう言えば○○(戦死した弟の名前)はどうした?まだ学校から帰ってないのか?」
とか言い出しちゃって家族を困惑させるらしい。
最初は家族の方(息子の嫁とか)も『○○おじさんは戦争で・・・云々・・・』とちゃんと説明してたんだけど、
次の日の夕方にまた、
「おい、○○(戦死した弟の名前)はまだ学校から帰ってないのか?」
と言うので、家族の方もしょうがなく、
『○○おじさんは今日はクラブで帰り遅いって。』とか言う様になったらしい。
(そう言えばおじいさんは「そうか、今日もがんばっとるのう。」とすぐ納得するので)
とにかく、ついこの間まで赤ん坊の人形を抱いたおばあさんとかも普通に居たしなぁ...。
うちのばあちゃんの話(関西)
日米開戦当時s16は物資も十分あって、牛肉だって食べれた(当時鶏肉の方が高い)
s18頃から物不足が感じられて終戦時とか結構な物不足だったらしい
ただ環境が良くてそれほど本当に食うに困る事はなかったみたい
朝鮮人は給料がいいから、内地によくきて、環境が良いからどんどんと内地に呼ぶから
あちこちに普通にいたし、当時日本国民ということで違和感はあんまりなかったらしい
ただ肉体労働やら中心で、給料もそんなには良くなかったが、それでも一杯来たらしい
差別は実際あったというか、一流企業が中卒高卒を雇わない、みたいなもんだろうね
外の食い詰め物や素性がわからないから、日雇いの肉体労働中心だったみたい
でもこれは常識であって差別と言えるのかといえば言えないと思うな
近所にいた朝鮮人とばあちゃんは仲が良くて、風邪を引いたときにはその朝鮮人が
心配して栄養がつくようにと野菜などくれたりしたそうだ
とりあえず世間で言われてる朝鮮人差別みたいな空気はあんまり無かった
少なくともばあちゃんの語った戦時の話じゃ、就労とかの差くらいか
ただ差別が無かったとは言えないが地域差もあるしひどいところじゃ
ひどい例もあったんだろうとおもうが、今の日本人にも朝鮮人にも
助け合ってやっていけた時期があったのを知り改心して欲しい
ばあちゃんの仲が良かった人は上に描いたように出来た人だったみたい
嫌韓の言う事も悲しいけどほぼ事実だけど、なんとかして仲良くやっていきたいものだ
戦時みたいな大変な時期でも仲良くやっていけたのにどうして平和になって
仲良くなれなく、揚げ足取りとかやるようになってしまったのかと思うと残念だ
追伸
10歳くらいの子供だったころは、戦争は良くないとか
反戦教育みたいな感じに当時の話されたが
(当時小学校の図書室にあったはだしのゲンを読んで
戦争の時の話を聞かせてとせがんだのが経緯で
子供だったのではだしのゲンをまるまる信じていたから
戦争って悲惨だったんでしょ?とか聞いたんだが)
20過ぎて、聞いてみるとそういう説教臭い事は言われなかった
思想とかじゃなく、孫とか家族を失いたくない気持ちで
小さい子供の頃は戦争反対を強調して過去の事はなしてくれたんだろうな
20過ぎれば大人だしそういう善悪じゃない方向で受け止める事が
できるから説教めいた当時の話をしなかったんだろうとおもった
結局、嫌韓だ嫌日だと騒いでいるのは両国の一部でしょ。
俺は、ワールドカップのとき一緒に応援したよ。
日本の分まで頑張れとね。
なんかすっきりとしない試合だったけれど
まぁよく頑張ったと思う。
>なんとかして仲良くやっていきたいものだ
マジレスすると、これは日本人に言うよりは
朝鮮人に言うべきセリフだよね。残念だと思う
感情も極めて最も、ただもういい加減その段階を
超えつつあることもまた事実なわけなんで(仲良くってより、
もう単に関わりたくないって意味で)、賛否両論のバランスが
どうなるか、それすらあやしいといえばあやしい気もするね。
拉致、日本海、竹島、この辺は100年前なら十分開戦理由に
なってるところだと漏れは思ってたりするんで。
今の民間人レベルのぎくしゃくした感情は、
ほぼ100%戦後の朝鮮人の言動によるものと思われ。にも
関わらず、今後仲良くやっていくために謝らなきゃならんのは
どっちなのか、その辺を普通の朝鮮人がわかってない以上、
仲良くなんてなりようが無い。
いわゆる嫌韓も、W杯を境に激増したんだよね。
あの大会見て「一緒に応援出来た」なんてのは、朝鮮に
なんらかの縁があるとか、洗脳教育受けて育ったとか、
愛読紙が朝日新聞ですとかいう奴じゃなければ絶対に無理。
自分でレスつけておいてこんなこというのもなんだけど、
朝鮮ネタは不適切な気もするね、このスレだと。
そもそも2002年W杯なんて、全然関係ないし、第二次大戦に。
農村ではそれなりに物資がある地域もあったみたいだね。
うちのばあちゃんは戦時中でも食事に困ったことはなかったと言っていた。
秋にキノコ狩りに行けば山盛りの松茸が取れたそうな。
585 :
世界@名無史さん:04/03/13 00:14
私の知り合いの人は(昭和50年頃)勤めていた工場で腕を根本から落とす事故に遭いました。
激しい性格の人でしたが、会社にも文句も言わず、「この腕は悪いことをした腕。無くなって当然」と周りに話していたそうです。
聞くところに行くと、戦時中、大陸の方に行ってらしくて、たびたび村を襲っては食料などを調達していたそうです。
そんなに武器もなく戦況もよくなくて、村を襲うときは皆殺しにしないと、他のところに連絡されて、こっちがやられるとか。
それで、ある村を襲ったときに、子どもが2人ほど逃げて行くのがわかり、かわいそうなので、一瞬ためらいそのまま逃がした。とか
そしたら、案の定、敵が攻めてきたので肥壺の中に入って隠れて命拾いをしたらしいです。
586 :
世界@名無史さん:04/03/13 00:19
父方は都会に住んでいて、空襲に遭ったそうです。
避難して、遠目に炎上する街が輝くのをみて思わず「きれいね〜」とか言ってしまったとか。
あと、家には天井を貼らなかったらしい。なぜか理由は忘れた。
母方は田舎住んでいたそうです。
周りは農家が多かったそうですが、農家は食料を持っているので、戦中、戦後は、すごく威張っていたそうです。
587 :
世界@名無史さん:04/03/13 00:30
第二次世界大戦っていつどんな戦争ですか?
分かりやすく教えて下さい
>587
むか〜し昔、ある所にお爺さんとお婆さんがいました。
二人は戦争をしました。
以上
589 :
世界@名無史さん:04/03/13 12:00
590 :
世界@名無史さん:04/03/13 15:27
>>587 第1次大戦で負けたドイツはめちゃくちゃいじめられた。
あまりにもいじめられすぎて、一人のイッちゃった人が現れて・・・
591 :
世界@名無史さん:04/03/13 22:07
>>590 一次ではどことドイツが戦ったの?いっちゃった人って誰?
ちょっとスレ違いかもしれないけど大学の図書館の地下に戦争関連の資料本があってなんとなく眺めてたら最後のページに、「我々が経験した悲惨な戦争を絶対に繰り返さないため未来の子供達に贈る。昭和30年寄贈〇〇」と書かれていたのにはなんとなくジワッときた。
>>592 そうですね、次は勝つほうにつきましょう。
594 :
世界@名無史さん:04/03/15 01:05
良スレage
爺さんの言葉
シナ人の平民は、黙っていれば軍服着てるのは皇軍(日本軍)だがシナ軍(国民党軍)か判別出来なかったと。
少しばかりの中国語で話すとシナ軍(国民党軍)だと思われていたと。
国民党軍が少しばかりの日本語を喋れば誰もが皇軍(日本軍)だと思ったとも。
違うと言うとシナ人はビックリしてたとも言う。
皇軍の戦争犯罪が出始めた頃に爺さんは皇軍がやったのもあるけど、
シナ軍がシナ人にやった犯罪が沢山あると言っていた。
当時、そんなに気にしていなかったが爺さんが亡くなって後は
もっとよく聞いていれば良かったと思う今日この頃。
ちなみに、上に載ってるように戦時中は食べ物の困る地域と困って無い地域があったそうだ。
都市部は困った所が多かったようだが地方や都市部周辺の農村は困って無かったと。
逆に九州の山奥の農村などは食べ物が不作で困ったとも聞いた。
地域によって差が出てる。
599 :
世界@名無史さん:04/03/27 13:40
良スレだね。
私の中学時代の校長先生は特攻隊の生き残りです。
法政大学在学中のことだそうな。(今はサヨか?法政は?)
5回出撃、5回共敵影発見できず。
そして終戦。生き残ったそうな。
特に感慨深く話されている様子はなかったな・・・
今、どうされているのだろうか?もっと話を聞いとけばよかったな。
川越市立J中学のK元校長先生。お元気ですか?
600 :
NHkが沖縄戦での:04/03/27 15:53
日本軍の女装した「自爆テロ」を取りあげるそうだが、こんなことは国際
法なんかなかった「古事記」「日本書紀」に、ヤマトタケル命がやった戦
法で油断した米兵がアホやねん。それを逆恨みして民間人大虐殺したのも
アメリカ軍だよーん!
このスレにも春厨が(つ∀`)
602 :
世界@名無史さん:04/03/28 22:09
わしの父親は海軍の予科練でした。小型潜水艦の乗組員でした。
中学の途中で、予科練に入隊した。奈良→宝塚、と移り、最後に瀬戸内海に移った。
その過程のどこかで、特攻隊に志願した。
そして飛行予科練習生なのに、小型潜水艦の乗組員になった。
「こう竜」というらしい。
計画では、母艦に乗せられ、アメリカ艦隊の近くまで連れて行ってもらい、そこで切り離され、潜航して敵艦に近づく。
そして魚雷発射。
でも、魚雷を発射すると軽くなるので、自動的に浮かび上がってしまうらしい。アメリカ艦隊のすぐそばなのに。
それからまた水を入れて潜航して、自力で戻ってくる…ことになっていたらしいのだが。
どう考えても、無理がありますよね。
体当たりではないが、特攻隊であるとのこと。
予科練に入ってから、志願したらしい。
ばあちゃんは、「親に黙って勝手に志願して」と言っていた。
603 :
コンスル ◆6akkgQyWx. :04/03/28 22:22
太平洋戦争というよりは第二次世界大戦中になってしますのですが、私の祖父は高校を農学校へ行ったこともあって
高校時代に郷里から東京の満州国開拓者の養成施設だかなんだかに農業を教えに行ったとか
604 :
世界@名無史さん:04/03/29 00:04
573氏 上院議員の時から交流が有ったんですか。太平洋戦争の本を読んでいたらクラスメイトと同姓だった人が文中に出てきたので聞くと「それ俺の親戚」と聞いたときは驚いたのを今でも覚えてます。宜しければ天霧の経歴等教えてください。
605 :
\(^■^ ラ 【卍】\(^■^ ラ 【卍】\(^■^ ラ 【卍】:04/03/29 00:40
ねー見てー見てー●●●☆が立ったー!
皇軍キタ━━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━━
カッコいい!
>>604 天霧 特型駆逐艦 昭和5年竣工
昭和18年8月2日、ソロモン水域ベラ湾で米魚雷艇「PT109」と交戦、
船体を直接接触させ、魚雷艇を沈めた。
近代戦で極めて稀な戦例であること、PT109の艇長が後の大統領、
J.F.ケネディ中尉だったことで戦史に名を残す。
映画もあります。「魚雷艇PT109 (1963米)」
で、天霧に話を戻すと、同方面でその後も活躍。損傷して内地に回航する。
昭和19年4月マカッサル海峡で触雷、沈没。
608 :
世界@名無史さん:04/03/29 22:51
606、607さん有難うございます。僕の祖父母は4人共健在で聞いた話によると、父方の祖父青年満州開拓団に参加するも体調を崩し昭和19年に帰国。親戚の方が松本連隊の一員としてトラック島に行き帰国後戦記を自費出版しました。
母方の祖父は九州に派兵されて終戦を迎えました。殴られた思い出しか無いとか同じ部隊にとろい人がいてどんどん痩せていったと母に言ったそうです。祖母の親戚は特攻隊、潜水艦(南シナ海で撃沈)の一員で帰って来なかったそうです
609 :
世界@名無史さん:04/03/30 03:05
最近、亡くなった祖父に聞いた話を思い出してみると、
どうやら、台湾かフィリピンで憲兵やってたそうです。
パイナップルが旨かったとか、バナナが旨かったとか、
踊りが楽しかっただとか、嫌な思い出らしきものはなかったそうです。
前線に出てなかったみたいなんで、
そんなもんかなって思ったのを覚えている。
もう一人の祖父は訓練中に終戦したので、出征したことはないとか。
610 :
名無的発言者:04/04/10 15:47
良スレだからあげときます
611 :
世界@名無史さん:04/04/11 02:59
609追加。
法要で機会があったので、祖父の日記を発見。台湾第六部隊所属と判明。
隊歌も載ってました。日記の随所に短歌があって、ちょっとびっくり。
帰国時に、親しかったらしき現地人の名前を挙げて、さらば、懐かしき台湾。
で締めくくり、家に帰ったときには、さぁ○○家(実家)の再興だ!と意気込んでいる。
切り替えが早いなぁ、思ったが、日記の後ろの方にあった、新聞の写真の切抜きに出てきた
東条英機氏全てに墨でバッテンが書かれていた。
じいちゃんの心情はいかばかりか。
どうでもいいけど、昭和天皇陛下とツーショットの故皇后陛下の切り抜き見て、
大いに引いた。
612 :
世界@名無史さん :04/04/11 04:38
死んだ祖父から、軍属で南洋諸島(タラワ島)に働きに行った話を聞いたことがあります。
陣地とか防空壕を作っていた、と聞きました。
コンクリートがものすごい厚くて、どれだけ爆撃されてもやられることはないって、
海軍の人が言っていたそうです。
サラトガ型の空母が来襲して、艦載機の攻撃を受けたことがあると言っていました。
タラワ島は、調べてみると米軍は上陸戦に、相当苦労したそうですね。
たしか、兵役検査のため本土に帰ったので、結果的にタラワ島では命拾いしたかたちに
なあと言っていました。
その後→ソ満国境→マレー(途中で輸送船が雷撃され轟沈、運よく助かる)→ニューギ
ニアの方に行く予定が、船が無いのと、敵潜水艦うようよで中止→英軍と戦闘→終戦
なにぶん昔聞いた話なので、僕の勘違いもあるかもしれませんが。
マレーの時、宣撫班にいた時があると言っていました。
ここを見て、思い出して書き込んでみました。長文失礼しました。
保守
戦争は、もう、ごめんだよ。
615 :
世界@名無史さん:04/04/24 20:44
東条英樹は英霊という人間は戦争を知らない世代。
彼の命令で動いた人間にとっては100回切り刻んでも許せない存在。
彼は日本のために動いたのでない。体制のために国民を無駄死にさせた。
祖父は戦争中は会社の都合でアメリカに居たらしいんだけど、
特別、差別などは受けなかったそうです。
そのせいか、戦争のことを聞いても
「戦争に参加したという意識がない」とのこと。
その祖父はおとつい逝きましたが、苦しまずに逝けたのかな…
617 :
世界@名無史さん:04/04/24 21:11
/  ̄ ̄ ̄ ̄ \ / \
/ \ / /
/λ \ / /
/ / \ ヽ / /
/ / \ | / / /\
/ / `ー 、 | \ \ / \
| .| ー―-、 | \ \ / \
| | U | | \ \ / /\ \
| | l \ | \ / \ \
,^ヽ.| ,;;_llliiillli_iJ ,;;iiillIIii_ |/= \ / \ ,`
|i^.| | <・>’ <・>' | i | \ / \ \/
ヽ | | ヽ  ̄'/ 【  ̄ , |_// \ / /\ \
| ||  ̄ ┃  ̄ |_l\ \/ / \ \
`-| U / ┃ | \ / \ \
| | _,__i ) U .| \ / / /
l i| ||;|||||||i |. \/ / /
ヽ、 |||||:|||||||||ll ( / / /
|\  ̄ ̄二 ̄ ̄ |//^\ / /
_ ,――| \ / / \ \ /
/ |\ ー――一 / / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ ` '
/ | \ _/ / / \
| / 入 / / \
やっぱアメリカはすげえや
618 :
世界@名無史さん:04/04/27 01:11
少し余談になるかもしれませんが・・・
私の父は、若くして戦争に参加してます(私は、父が非常に年を取ってから
の末娘なんです)
父は近衛だったので皇居等にいたそうで、現天皇陛下がご幼少で足こぎの車
に乗って、遊んでおられたそうで、その「きこきこ」って音が聞こえてきて
、聞こえなくなるまで敬礼をしてた等の話しを聞きました。
食事は困らなかったようですよ。
うちに、当時の父が、正装(近衛の)で写った写真があり私の宝となってます。
私のおばあちゃんが言ってますた。
1、関東大震災の時ここ(岡山)もゆれた。。。
2、太平洋戦争の時田植えをしてると大きな飛行機が来て
撃たれるかと思った。。
ある時某番組でおばあちゃん(私のではないですけど^^)
にアナウンサーがインタビューしてますた。
”おばあちゃん大変なことが起こったんですよ!”
おばあちゃん曰く”なんじゃ、戦争がまたはじまったんか?”
さすが長生きした女性も変化とかすのか。多少のことでは
動じないみたいですた。(これ実話)
おばあちゃんは大正6年生まれ。
戦争がはじまった。
当時日本位置高い山は新高山(台湾)だったが
ボルネオにはもっと山がある。
戦争が終わったら遠足にいけると楽しみにしていたそう。
戦前日本の軍国主義の「暗黒」なんて物は
ぜんぜん感じなかったそうだ。
>>615 ただの釣りなんだろうけど、東条ってそんな大した人間かなあ。
あの時点でたまたま軍のトップにいた軍人に過ぎなかったんではないか。
>>615 というより、戦争が不可避になった状況で「たまたま」首相になってしまったと言った方が良いと思うが?
じいちゃんがこどもの頃の話。
ソビエトから逃げてたとき、林のなか
で10〜12歳くらいの女の子が下半身血だらけの裸で
死んでたそうだ。じいちゃんビビッて泣きながら
その場を離れたそうだ。その時はまだこどもで
良くわからんかったけど、兎に角怖かった・・・
とのことだった。
その話を聞かされた漏れは、話のヘビーさでへこんだ。
624 :
世界@名無史さん:04/05/16 19:20
父方の祖父さんは、台湾で警察をしていたらしい
捕まえてきた(容疑名は知らない)被疑者は祖母さんが
逃がしていたとのことで、次の日には誰もいなかったらしい・
母方の祖父さんは徴兵されて歩いてフィリピンだかその辺に行かされた
とか言ってた記憶がある。いつもは何にも考えてなさそうな祖父さんだったが
記念文集みたいなのに寄稿したのの写真の眼光は別人のようだった。
東南アジアの国々が独立できたのは俺たちが戦ったからだと言っていたのを良く覚えている
祖父さんの葬式に何々(忘れた)連隊とかいう花と戦友が形容しがたい表情で出棺を見つめていたのを忘れられない
625 :
第20軍団兵:04/05/17 00:46
うちの母方のバサマの話。
九州の炭鉱地帯の話。
近くの町が空襲を受けた。-->特に何にも感想なし。
機銃掃射の話-->「バリバリ、って音がしてね。瓦がザー、って音がするんだよ。」
機銃掃射、空襲より怖かったみたいです。
626 :
世界@名無史さん:04/05/18 22:02
うちの爺さんは、招集されスマトラ島に行きましたが
偶然にもスマトラ島は激しい攻撃にあわなかった様です。
終戦を迎え、帰ったときにはひどいマラリアに掛かっていたらしいです。
当時の事は、多くを語りません。
いまだビックリするのが、85歳を過ぎても毎日3Km以上あるくように
しているとのことで、元気一杯である事。さすがに生き残るだけの事はあって
体力的にすごいのでしょうね。
ちなみにウチの爺さんの家には内閣総理大臣 海部 俊樹とかいてある
旧対戦中は〜という功労の表彰状が有りますが、皆様のところにもあるのでしょうか?
>旧対戦中は〜という功労の表彰状が有りますが
死んだ爺さんの所にきた。
婆さんが「死んだあとにこんなモンもらってもクソの役にもたたんわ」と怒ってた。
「旧大戦中」でした。
629 :
世界@名無史さん:04/05/19 09:23
終戦後に日本に返らずにインドネシア独立の為に
戦った日本兵が2000人程いたって本当?
なんでなの?
それはスレ違いですよ
631 :
世界@名無史さん:04/05/19 12:27
<629
気のきいた図書館で調べたまえ。ただしインドネシア関係では、西嶋、内海なんかの左翼DQN学者は
シャーシャーと嘘電波を出しているので、中島慎三郎氏や宮本静夫氏など元軍関係者の本をお奨めする。
映画「ムルデカ170805」もお奨めだ!
ビルマ独立のために戦った旧日本兵も忘れるな!
彼の国の小学校では、日本兵による悪行も
共に戦った日本兵のことも教えているそうな。
また、ビルマに進駐していた旧日本兵が
資金を出し合って日本への留学を支援しているという。
633 :
世界@名無史さん:04/05/20 08:49
>>631 ありがとう本屋6件探したけど見つかりませんでした。
少しずつ捜してみます。ムルデカは見ました。
>>632 ビルマにもいたんだ!! それも捜さなきゃ!
学校では習わない事を2chでは知ることができ感謝してます。
勿論、戦争を美化するつもりはないけど学校では日本軍の悪い
部分だけを習い日常は,戦争の話題には目をそらしてきました。
私の世代の人間の殆どが何が真実で何がウソなのか判断できない
人の方が多いと思います。自分自身で調べ判断し正しい歴史認識
ができるようになりたいと思います。
>>630 スレ違いごめんなさい。
634 :
世界@名無史さん:04/05/20 08:51
韓国人や中国人の手先となり、同胞を差別する売国奴を糾弾することが、
われわれにとっての差別解消です。
635 :
世界@名無史さん:04/05/20 09:20
ミャンマーは、民主化が性急だと中国に軍事的にも経済的にも飲み込まれてしまいます。
それに大の英国嫌い。
636 :
世界@名無史さん:04/05/20 13:10
良スレだったのにな。
変なのが湧いてきてしまった。
638 :
世界@名無史さん:04/05/20 18:14
[北朝鮮の反日教科書]
全く赤色匪賊どもの電波は…抗日一偏倒だな。
こういうヤツラに和田春樹は媚なくてはならんのだから、大変だな。
639 :
世界@名無史さん:04/05/20 18:19
私の大叔父はかの有名な陸軍中野学校出身で、満州でスパイやってたそうです。
大変な秀才で、口癖が「堯瞬なにするものぞ!」だったそうで。ちなみに堯と瞬は古代中国の
伝説上の名君で、ようするに「世界で一番俺様が偉い」と言う意味です。念のため。
640 :
世界@名無史さん:04/05/20 20:13
>639
この板の住人なら「尭」と「舜」は知っているかと。
>642
まあ、厨の中の人も混じってるようですし
644 :
世界@名無史さん:04/06/12 02:00
漏れのおじいちゃん 南方に行ったらしいが 戦闘があって仲間が死ぬこともあった
でも、そのうち死体に慣れたと言っていた で最後には投降して捕虜になって飯を運ぶ係りになって、飯をポッケにこっそり詰めて、なんとか生き残ったらしい
父方の祖父は知らないのですが祖父の兄は流れ弾が心臓の上に入り、手術でとることもできないそうです。
だから今もレントゲン写真を撮るとピストルの弾があるそうな その人元気で 80超えて原付でバリバリ走っているそうです。
645 :
世界@名無史さん:04/06/12 02:13
戦争自身関係ないけど うちの母方の祖母は「大和」に乗艦したことがあるらしい
詳しい人なら分かると思うが、大和が港に来たときの記念乗艦?一般人の人が乗れる特別なセレモニーみたいなものかな
ただ詳しく聞いてないので今度聞いてみます。
646 :
世界@名無史さん:04/06/12 02:28
無くなったおじイ様は大日本帝国海軍ですたので、その当時の海軍の写真が
かっちょよく残っています。しかし、彼自身は戦争に行くぞと船にのったとき
終戦となりいけなくて、残念だったそうでつ。
彼の兄弟はガダルカナルでなくなってしまったのか、骨壷に石ころが入ったのを
家族は渡されたそうです(泣)もう一人のおじイ様は一般人(かなりいい家柄)ですたが
押さないときにきいたのでよくおぼえてませんが、どうやら満州に穴掘りに行っていたらしい。
>645
大和って一般に知られたのは
戦後じゃなかったっけ?
記念乗船なんてありだろうか・・・
>>647 本当かどうか知らんが、うちの祖母は戦前陸奥に乗ったって言ってたな。
大砲がとてつもなくでかいんでびびったって言ってた。
まあ、あれだ。余程な軍国少女じゃなきゃ船名なんて詳しかないだろうし
ばあさん的にはでかいのはみんな大和や陸奥(当時は一番でかかった訳だし)
だと思ったんじゃねえか?
649 :
世界@名無史さん:04/06/13 13:21
650 :
世界@名無史さん:04/06/13 22:37
>648
だから、大和は存在を隠していたはずだ。
まぁ、隠せるようなもんじゃないが
わざわざ公開もしないだろう。
陸奥や長門なら納得する。
すまそん 話に食い違いがあって
母の職場の同僚の父と大変遠い関係の人が大和の乗員だったという話でした。
>>647 まあ、艦艇に詳しくない人にとっては、
大きい海軍さんのフネ = 大 和
ですからねぇw
砲の並び/艦橋構造物の並びが近い妙高級だったかもしれませんね。
漏れの物故したばあちゃんも「霧島に乗った。」って言ってましたけど定かじゃないです。
(艦名が具体的なので正しいとは思いますがw)
超小ネタ
俺のじいちゃんは、応召して内地でごちゃごちゃやっているうちに終戦。戦後は石屋。
部隊では、捧げ銃の姿勢で整列させられ、少しでも銃が振れると、殴られたといってた。
俺が小2の時に死んだので、ほとんど話しは聞けなかったが、楽しい思い出は
あまりなかったようだ。
で、そのじいちゃんの弟は、志願兵で大陸を転戦。ある日の戦闘では、あまりの敵射撃の
激しさに、当ろうが外れようが、板塀の節穴から銃口だけ出して、とりあえず撃ちまくった
らしい。この弟も死んじゃったので、ほとんど話しは聞けずじまい。
655 :
世界@名無史さん:04/06/20 16:44
656 :
世界@名無史さん:04/06/20 22:36
>>648 当時のイロハかるたには「長門と陸奥は国の守り」という
札があったくらいだから、軍国少女でなくても当時の主力
艦である陸奥の名前は知っていると思う。
逆に戦前に大和の名を知っていたのは軍国少年くらい。
941 名前:Now_loading...774KB 投稿日:04/05/01 21:35 ID:???
>>927,928
初期の今村均率いる第16軍は住民加担の占領政策を行ったから結構評判はいいわけだ。
逆に本国からは滅法評判悪かった。
で、その人道司令官は「ヌルい」って理由でラバウルに飛ばされる。
で、16軍も半分がガダルカナルに飛ばされ、後にやってきた海軍と25軍は
ひどい収奪を行うもんだから、住民感情は一気に最悪。
敗戦後の日本の本国政府の方針はどうだっていうと連合軍のいうことを聞いて
独立運動を弾圧しろってことだった。
オーストラリア軍と一緒になって独立を弾圧する日本軍を見て、幻滅した
1000人近くの連中は脱走、国民党軍を弾圧した日本軍と戦った。
その結果、日本国軍vs国民党軍+日本人義勇兵っていう変な構図ができあがった訳だ。
確かに日本人はインドネシアの独立のために戦ったが,それは日本国が
戦ったって訳じゃない。
日本では軍歴も剥奪、脱走兵の汚名の元、家族は晒しものさ。
お前らの情報操作のやり方は腐れプロ市民共と全く同じ。
何かを知ろうと思えば全てを知らなければならない。全てを伝える義務がある。
>>932 剥奪されたというのが事実。独立派が日本軍基地を包囲して槍や斧で脅迫し、
武器の引渡しを要求、拒否した場合は殺すというコトがあり、
それに従った連中はその後、対蘭日本軍降伏協定違反としてBC級極東軍事裁判法廷に連行、
274名が処刑された。
他にも鉄橋下に突き落とされたり、民間人(婦女子含む)70名が武器引き渡しの人質にされた挙げ句
全員が虐待死もしくは射殺された。
659 :
世界@名無史さん:04/06/25 03:40
660 :
↑巨大な「バカの長城」がソビエトるな!:04/06/25 08:42
アカ馬鹿の西嶋本をもとに書くシッタカ奴!
10年以上前に近所の書店のお婆さんから聞いた話。
お兄さんが海軍士官で呉におられたので、戦時中家族で会いに行ったことがあるそうです。
その時お兄さんが
“もうすぐ出陣するが、この戦に負けたら日本はお終いだ”
と言っていたことを良く覚えているそうです。
お兄さんが言っていた戦とは、どうやらミッドウェー海戦のことだったらしく、お兄さんはそこで
戦死されたとか。
お婆さん曰く
“何となく、この戦争には勝てないと皆が感じていたようだったよ。
それに下級士官の兄にまで、次の戦は重要な戦だなんて話が漏れ伝わっているようでは
いけないよね”
と言っておられました。
日本軍は、情報統制が甘かったという話を何かの本で見聞したことがありますが、戦時中の
情報管理について詳しい人がおられたら、是非とも教えてください。
662 :
世界@名無史さん:04/07/03 04:22
真珠湾だって負けたら日本はお終いだったし・・・
本当に綱渡りな戦争をやったもんだ。
663 :
日日是決戦:04/07/03 07:51
「戦争を直視しよう。それにあの緊張感がいい」橋田信介
664 :
世界@名無史さん:04/07/03 09:43
>>657 大和が完成したのは大戦中だよ。
ついでに言えば戦時中はあくまでも「新鋭戦艦」としてしか発表されておらず
どのような戦艦だったのかは一般国民は知らなかった。
昔、国会で中曽根さんと社会党のナントカ委員長が討論したとき、片一方は主計少尉
、かみついてる方は二等兵。まったくかみ合わないのがおもしろかった。
666 :
世界@名無史さん:04/07/04 17:56
昭和六十三年に起きた「女子高生コンクリート詰め殺人事件」で逮捕された
少年四人のうちの一人が、知り合いの男性を監禁して殴るけるの暴行を加え
たとして、警視庁竹の塚署に逮捕監禁致傷の疑いで逮捕されていたことが
三日、分かった。
逮捕されたのは埼玉県八潮市、コンピューター会社アルバイト、神作譲容疑者
(三三)。
667 :
世界@名無史さん:04/07/06 23:10
間宮中尉の長い話
それは…
このような者だったかな?
669 :
世界@名無史さん:04/07/07 02:02
私が小学生の時に戦争体験についての作文を書くため、父方の祖父に聞いたはなしです。
メモもないし、それまで聞きづらかったこともあって
その時1度しか聞いたことがないのでうろ覚えなんですが。
祖父は満州大学を卒業して、スパイのような事をしていたそうです。
当時なら機密兵とか言うのかな?偵察用の飛行機に乗る事が多かったそうです。
偵察用の飛行機というのは見つからないようにものすごい高度を飛ぶんだそうです。
しかしろくに気圧に耐える装備がついてる飛行機じゃなかったからものすごく揺れるし
気温を調整する機械なんて付いてるわけないから、痛いくらい寒かったそうです。
私がふと、「日本は負けるって思ってた?」って聞いてみると
「そりゃそうさ。世界情勢を知ってたなら思うはずだ。」と。
どうやら終戦の大分前にはもう負けるのは確定してたんだそうです。
何年前には、と言ってたんですがよく覚えてないです。3・4年前だったかな。
終戦後、祖父は偵察をしていた事のためかあったのか、
位置で言えば今のロシアにある収容所に収容されたそうです。
ご飯は毎日じゃがいもばっかりで、重労働をさせられ、
所内は伝染病がはやって仲間や祖父もかかり
高熱と下痢の続くつらい日々を送ったそうです。
祖父はその時を思い出すのかジャガイモを絶対食べません。
671 :
世界@名無史さん:04/07/07 02:26
>>670 なるほど。
諜報の方なら世界情勢に詳しくなければ勤まらないでしょうね。
ただ、ネットはおろかTVなども存在しない時代に
日本国内に世界情勢を知る人はそう多くなかっただろうし、
知り得る立場の人もおいそれと現実的なことを発言できなかったことが
最大の問題だったといえるでしょう。
そういう意味では今の日本もつい最近までそれほど変わりない世の中だった。
核武装を考えるべきというだけで閣僚をクビになるとか。
針の向きがが180度違うだけで精神構造は同じ。
日本人が歴史に全く教訓を得ていない証拠だ。
ちょっと質問していいですか?
うちのじいちゃん大戦時に天皇を守る部隊にいたみたいでちゃんと、
武道館だがどっかだかの石牌に名前も載ってる。
親戚やら親やらはすごいすごい言うだけで具体的に何がすごいんだかちっともわからん。
もしかなりすごいのなら貴重な人物だと思うので戦争の話を聞いてみてここにカキコしたいと思ってます。
どなたか教えてください。
673 :
世界@名無史さん:04/07/07 04:07
>>672 近衛兵は全国の市町村などからたった一人しか選ばれないエリート。
近衛兵のなごりが今の警視庁で、
今でも全国の警察本部(警察庁)と別格になっている。
俺も大した話聞いてないが
俺の祖父の兄にあたる人が戦闘地は忘れたがそこに行って終戦。
終戦後、終戦間際に戦死したと言われて葬式挙げてたそうな。(遺骨も届いたそうな)
で、奥さんが居たんだが独り身じゃー大変で可愛そうだし(そのとき子供が2人居た)、
親戚一同から再婚の話があがってきてどうするか悩んでた時、
ひょっこりその祖父の兄が帰ってきたそうな。
祖父兄曰く、
戦争が終わったということを知らなかった。
戦闘で捕虜になってやっと日本が負けてたのを知った。
拘留されて数年?(数ヶ月?そこらへんが思い出せん)でやっと日本に帰ってきた。
小説やドラマのような話だけど、身近にあった話。
その後、その届いた遺骨は誰のだ?ってもめたそうなw
(そりゃそうだよな、やっと帰ってきたら自分の遺影があるんだもんw)
677 :
世界@名無史さん:04/07/07 10:06
オヤジ(67)
終戦当時7歳。
戦時中、爺ちゃん・婆ちゃん・兄弟達で近所の人達と一緒に防空壕へ。
その時赤ちゃんだった叔母が泣き出して「静かにさせろ!」と怒鳴られたそうな。
あと、自分が小学生時代にオヤジが聞かせてくれたのは
「(戦争当時)朝鮮人が勝手についてきた」(実際近所にいたのかは聴けなかった)
「パチンコ屋は朝鮮人がやっている」ということ。
かあちゃん(享年60)
終戦当時2歳なので戦時中の記憶無し。
大叔父が水兵さんだった。その時の写真がかあちゃんの実家にある。
父方の爺ちゃん(享年77)
大工。余りにガリガリだったので徴兵検査に不合格。
その事を悔やんで戦争のことは一生話さなかった。爺ちゃんの兄弟も戦争に行っていない。
父方の婆ちゃん(94)
防空壕の話をしてくれたのが婆ちゃん。
現在子供7人・孫16人・ひ孫6人(だったような気が)
やはり、瑞鶴の沈没寸前の話しは語りたくないのですね。
それどころじゃないだろうし、あの傾き写真取れたのだって奇跡に近い。
大淀が寄ってきたときはそうでもなかったが、左舷の重量物を右舷に移すって作業も
あんまし意味無しやったし、そうこうしているうちに総員上甲板で、艦内の兵も上がってきたが。
すくなくとも、映画の連合艦隊での瑞鶴の最後は酷すぎ嘘だ。
そりゃ酷かったのは事実だが出来るだけ助ける暇はあったぞ、
敵さんも撃墜したパイロット拾いに来るし。
・・・あの引き込まれる早さは思い出したくない
679 :
\(^w^ ウ [=+=]:04/07/07 12:39
余の帝国を思い出せ!
それでもって、サイパン、テニアン、バラオを日本が統治していたこと知らないで、行くヤツラ大杉。
余って・・・(^^;)
漏れの高校で原爆先生というあだ名がついた先生がいた。
その先生は爆心地から100Mぐらいしか離れていない工場で働いていて、仕事の途中で腹が痛くなって休憩所への階段登っている最中に原爆が落下。
んで、吹き飛ばされてそのまま井戸に落下して生き残ったらしい。
つか、爆心地から100Mぐらいしか離れてなかったら吹き飛ばされる前に死んでる気がするのですが、どうなんだろう?
よくそこら辺は知らないが、爆心地から500メートルほどの家にいた人でも全滅してる。
よほど運がよかったんだろう。
おまけにその後長生きしてるなら。
683 :
日本@名無史さん:04/07/09 12:09
684 :
世界@名無史さん:04/07/12 17:35
家族で原爆資料館行ってきた。
うちのじいさん(昭和10年生)は当時小学生だったので、小学生が竹やりの練習してる写真の展示見ながら
「じいさんもこういうことやったの?」と聞いたら、
「やってない。俺らはひたすら校庭でかぼちゃやいもをつくってたなぁ…」とのこと。
竹やりの練習は6年生以上しかやらなかったらしいです。
うちは田舎で飛行機も飛んで来なかったし、農家だったんで食料も困らず、
じいさんは直接戦争を肌で感じたことはなかった様。
たまに都会の方から野菜を買いに来る人がいたとか言ってた。
曾祖父さんの弟が満州で商売をしてて、その関係で祖母も満州に行ってた。
満鉄のお偉いさんの家(奥さんがものすごいけち)で行儀見習いしてたけど、祖母は結婚の為に帰国。
曾祖父さんの弟はそのまま終戦まで満州にいた。豪放磊落な人で、使ってる現地人に炊き出しして
ご飯食べさせたりして面倒みてた人で、現地の人に「ジャングイ」と呼ばれて慕われていたそうだ。
日本の敗戦が伝わると、それまで現地人を苛めていた日本人は、現地人が沢山乗った人力車を
裸足で引かされたり、仕返しされていた。曾祖父も八路軍に捕まって殺される所を、世話をした現地人が
庇ってくれて、無一文になってなんとか日本に戻ってきた。
祖父は大正末に徴兵されて海軍に。横須賀の航空隊で飛行機の整備してたり八雲でオーストラリアまで
行ったりした人だったけど、除隊して戦時中は水力発電所で働いてた。
たまたま人手の足りない部署にいたので戦地には送られなかったけど、本当なら真っ先に出征させられて
戦死してたといつも行ってた。
訓練航海の写真が家に残ってて、戦艦の甲板を高いところから撮った写真とか、当時のメルボルン市内の
様子とかいっぱい映ってたな。全員で撮ってる記念写真では、真ん中に三毛猫(船のお守り代わり?)が
ちゃんといて、しかも嫌がって動くのを周りの訓練生達が押さえ込んでる感じだった。
ま、ホントにダークな話は抹殺されるだろうな。きっと。特に孫になんて話さないよな。
俺の父方の祖父は学徒出陣で大和特攻の生き残り。
でも俺が生まれる前にアボーン。.無念。めっちゃ凄い話が聞けただろうに。
母方の祖父は戦争中、小学生だったそうで。学童疎開してたそうで。
「どんな寒い冬の日でも裸足で歩かされた」って話が印象的だな。
>>685
その押さえ込んでる写真みたいw すげー微笑ましいな。
ああ、あとお婆ちゃんが、糠漬けの糠を食ったとか言ってたけど、ホントかねえって感じ。
あとその人、俺にご馳走振舞いながら、昔はこんな物食べられなかったのにねえ、
とかいびって来るから腹立つんだよな。
担任ではなかったが小学校の頃の先生が某沖縄戦司令官の孫だったそうだ。
もちろん先生が生まれる前に死んでるから直接話を聞いてるワケじゃないが、
沖縄戦に関する本を数年前上梓したらしい。
読んでみたいがタイトル忘れた上に確か自費出版だと思ったからたぶん絶版
してんだろうな。
691 :
世界@名無史さん:04/07/13 12:37
うちのじーちゃんはラバウルに行ったそう。
ラバウルでは現地の女の子と遊んで楽しかったと言っていた。
浜辺で見る夕焼けが最高にキレイだったと言っていて
今の家を新築した際にラッセンを飾っていた。
ラバウルの景色とよく似ているそうだ。
692 :
世界@名無史さん:04/07/13 17:03
なんか終戦時らへんの時はスリ等の泥棒が多発していたそうだ。
>>685 >曾祖父も八路軍に捕まって殺される所を、世話をした現地人が庇ってくれて・・・
その“庇った”現地人は、恐らく文革でアボーンされたことでしょぅ。
人民内部にいる、日帝のスパイ、とか何とかいう罪状で・・・
693は2ちゃんらしいレスだなw。
>>690 そのとおりです。ありがとうございます。
つーか卒業アルバムでフルネーム調べて検索しろって話ですよね。
それにしても色々活動してる先生だ。ガキの頃はただ説教長い人
としか認識してなかったけどな。まあ教育熱心って事なんだね。
最近やっと、じさまのことやことばが思い出される年齢が僕にきました・・・。
私の祖父は4年前になくなりました。
小さい頃よく、じさまはソ連のスパイだったんだって言ってました。
その頃はへぇ〜ってかんじだったけど、いってみれば赤旗とってたな。
天皇がどうとか。満州にいってたんで抑留されての思想だと思います。
家の実家は戦前は呉服屋でそれは裕福にすごしてたらしいです。
その頃の写真は立派な着物すがたの若者や娘たちが親御さんといっしょでした。
30前後でじさまは終戦迎えたんですけど、まだ日本に戻れませんでした。
。
698 :
30後半です:04/07/18 22:08
最近やっと、じさまのことやことばが思い出される年齢が僕にきました・・・。
私の祖父は4年前になくなりました。
小さい頃よく、じさまはソ連のスパイだったんだって言ってました。
その頃はへぇ〜ってかんじだったけど、いってみれば赤旗とってたな。
天皇がどうとか。満州にいってたんで抑留されての思想だと思います。
家の実家は戦前は呉服屋でそれは裕福にすごしてたらしいです。
その頃の写真は立派な着物すがたの若者や娘たちが親御さんといっしょでした。
30前後でじさまは終戦迎えたんですけど、まだ日本に戻れませんでした。
。
699 :
30後半です:04/07/18 22:09
やっと戻ってから・・・口下手でしたので家族に戦争の苦労が伝わりません。
戦争時でもまだ裕福だったので、ばさまや子たちは何を言ってるの?って。
もちろん、家業は疎かったから商工会議所なんて仕事やってたけど。
それはそれで立派な仕事だぞ?
今度は俺、戦争でお前らのことを考えて俺にしてみりゃたいした行動でがんばってやって、
結果、シベリアに抑留されて家族に会いたい、生きて帰りたい、歓迎や誇らしげに迎えてくれるだろう。
思っていたんだが・・・。迎えは喜んでくれた、が・・・今の生活が現実になる。
店の仕事はちんぷんかんぷん。そのうち子供らも見る目が変わった。
なんだ!俺を国は評価してよ!戦争にいったんだぞ?
生活は厳しいのはわかってる、負けたんだから。
でも・・・俺たちに・・・やっと帰ってきたんだ・゜・(つД`)・゜・
あのシベリアで・・・寒いのに帰れない同僚にしてあげなければならないことがたくさん・・・。
700 :
30後半です:04/07/18 22:10
酒!・・・飲むか!
忘れるために・・・俺の思いを・・・仲間のことも、忘れさせてくれ酒よ!
50才ぐらいまで、酒乱でした。僕が記憶ある頃は酒・・・止めてました。
家族そうででアル中に対応の病院にいれたそうです。
僕が小学校のとき野球部の練習は毎日見に来てました。他の父兄と一緒に・・・。
>続き
あのやさしい野球好きのじさまは、僕にとって保護者そのものの存在です。
ときおり、戦争のことを6・7才のときに聞きましたがあまり覚えていません。
今ぐらいの年になるとすんごく聞きたいことがいっぱいあるのに
701 :
30代後半です:04/07/18 22:53
今はじさまの気持ちが少しわかるようなきがします。
記憶があるのは、じさまが60才前後からです。50から60まで生命保険の勧誘をやっていました。
そういえば、会社ネーム入りのボールペンがいっぱいあったな。
60才以降のじさま記憶はっきりあります。銭湯によくバイクの後ろにのって行きました。
あがったら、足のつめを番台のおじさんにかりて切ってくれ、りんごジュースや森永マミーなど飲んだ。
野球の練習(小学生の頃)から帰ると足を洗ってくれました。
じさまはいい人そのものです、僕と兄妹には。
でも、じさまは図書館で本を借りて読むのが日課で、たばこも酒もやめ、庭の小さな畑でとうもろこしやさくらんぼの木植え、
ぶどうを育てたりと、なんとなく地味にすごしてました。
86才でなくなりましたが、その2・3年前から老人ホームで・・・・゜・(つД`)・゜・
あの時代にしては背が高く、20代には東京で俳優を目指したなど(5兄弟の末でした)
やっといきざまをちょっと聞いたぐらい。
いっぱい話ししたのに、今、聞きたいことはなにも聞けない過去の自分に反省_| ̄|○
>>386 >(井上中将は)今思えばマリアナ失陥以降は明らかに「海軍軍人」ではなく、「政治家」や「実業家」を
>養成される様な教育をなされるようになり、驚嘆し今更ながらに尊敬いたしております。
いい話だなあ。おれは人生の敗北者だけど、元気出してがんばるぞ。
703 :
30代後半です:04/07/18 23:56
WWU以降はじさまたちが棄てられたが、そろそろヒーローまで行かなくてもありがとうって言ってもいいんじゃない?
時代の危機に殉じたんだから、それを無視するのはあんまりだと!
じさまが僕に言えない空気をつくった戦後マスコミや日教組・全教連の悪行は、
じさまが亡くなってみると取り返しがつかない悪行三昧。
恨まれる対象の筆頭かな?
漏れの曾爺さんは朝鮮で人買いをやっていた。
朝鮮に渡っては、本土の炭鉱とか工事現場で使う人夫を掻き集めてたんだと。
そのおかげでかなりの財産を築いた。
近所の爺さんで、大陸でスパイ?
をしてたらしく、中国人と倭人の顔の洗い方の違いと
乱数表の作り方を教えてくれた。
戦時中に徴兵解除されることってあるの?
うちの爺さん中国でゲリラと戦った後、横浜に帰ってきて解散。
そのまま発電所に勤務してたとか言ってたけど。
>>703 それはここに来る連中のよく陥る罠。ほとんどは自分達が思い出したくないから
言わないだけ。現に得意げに自分の戦果の話をする爺もそれなりにいる(いた)。
708 :
世界@名無史さん:04/07/28 17:41
おれはもと韓国国籍をもってた在日。今は日本国籍。
じーちゃんと、とうちゃん話。
おれの死んだじーちゃん(母方)在日。
戦時中、日本に連れてこさせられて長崎の炭鉱で強制労働させられてたらしい。
そのときおもったそうな・・
『今に見ておれ日本人め!』
戦後質屋を開店。
その後、金をどうにか工面したい日本人はじーちゃんの質屋に来店。
頭を下げる日本人をみてニヤニヤ。
毎年正月になると孫である俺らに万札握って配ってました。
お金ってすぎょいね。
おれのとーちゃん、被爆者(長崎)。
今も健在で後遺症もなくピンピンしとる。
原爆手帳もっとるから病院代タダらしい。
風邪ひいて病院いっても手帳だせばタダらしい。
おまけに国から補助金をもらってらしい。
この前バイクと車買ったとニヤニヤしとった。。。
まあこういう人もいるんだなあってワロタ
ちょい不謹慎だったかも、スンマソン
709 :
↑¢(@ら@-)ノこんなのがいるってえのに!:04/07/28 17:50
韓国に修学旅行で行って、土下座させられる中高生がフビンだな。
710 :
nanasi:04/07/28 18:56
戦時中、日本に連れてこさせられて長崎の炭鉱で強制労働させられてたらしい。
そのときおもったそうな・・
『今に見ておれ日本人め!』
戦後質屋を開店。
その後、金をどうにか工面したい日本人はじーちゃんの質屋に来店。
頭を下げる日本人をみてニヤニヤ。
711 :
nanasi:04/07/28 18:58
この人どうして朝鮮半島に帰らなかったのだろう?
何故自分の選択で日本に残ったのだろう。
徴兵もされずに戦地に比べたら安全な内地でいたくせに
その様に考える思考回路もちょっと・・・だな。
712 :
世界@名無史さん:04/07/28 19:21
李承晩政権時代は、庶民は大勢飢え死にの状態だったからだろ?
713 :
nanasi:04/07/28 19:30
つまり自己選択で日本に残ったわけだな。
714 :
世界@名無史さん:04/07/28 20:10
今日はの「その時」は再放送ですが、以前見て無い人は是非。
目からウロコですよ。
715 :
世界@名無史さん:04/07/28 20:13
>>708 >>戦時中、日本に連れてこさせられて長崎の炭鉱で強制労働させられてたらしい
その一言でおまえが韓国人(=うそつき)であることが完全に理解できた。
716 :
世界@名無史さん :04/07/29 08:52
>戦時中、日本に連れてこさせられて長崎の炭鉱で強制労働させられてたらしい。
刑事犯罪者だったらありうるか?
>>706 >戦時中に徴兵解除されることってあるの?
徴兵期間は確か3年のはず。期間満了すれば除隊。
720 :
世界@名無史さん:04/07/29 17:14
ごめんな、俺のじいちゃんが10人いたら日本は勝ってたのに
ほう。再婚と養子の繰り返しでじいちゃんが9人にもなったのか。
722 :
世界@名無史さん:04/07/29 17:47
>>716 そうなんすか。
だいぶ前に聞いた話やから俺の聞き間違いかもな。
スマン
264 :世界@名無史さん :03/08/07 07:10
また……この季節が来たか……
上記に敬意を表し高射砲あげる。
>高射砲あげる。
いらない。置く場所無い。
725 :
那須高原の《栗林白岳閣下》:04/07/30 17:48
引き取ってやるから、ワシの『戦争博物館』におくれ!
従軍慰安婦は韓国じゃなくて、インドネシアのオランダ人とフィリピン人のほうが
実は問題なんだが、その手の議論はここでは見ないね。
727 :
世界@名無史さん:04/08/02 08:58
なぜに突然、従軍慰安婦の議論が?
このスレは、体験者に聞く太平洋戦争(第二次世界大戦)
従軍慰安婦の体験者なんだろ
729 :
世界@名無史さん:04/08/02 09:59
571 名前:☆アジア諸国の反日って何だ? :04/08/01 13:20
◆ASEAN諸国における対日世論調査
日本は「信頼できる」/「どちらかというと信頼できる」(合計)
インドネシア:86%(78, 88)マレーシア:85%(83, 81)フィリピン:81%(76, 71)
シンガポール:81%(63, 63) タイ:67%(82, 66)ベトナム:72%
● あなたの国と日本は「友好関係にある」/「どちらかというと友好関係にある」(合計)
インドネシア:92% (97, 100) マレーシア:93%(90, 92)フィリピン:90%(89, 83)
シンガポール:96%(87, 91) タイ:89%(98, 94)ベトナム:93%
[●]アジア諸国と我が国とは深い信頼関係にある。
730 :
世界@名無史さん:04/08/02 17:25
戦争は逃げ
731 :
世界@名無史さん:04/08/02 18:39
>>729 戦後のケアが効いたな。
中韓は成立の経緯からして、
反日がナショナリズムの核になってるから駄目ぽ。
中国は反日してなけりゃ共産党が崩壊して中国バブルが崩壊しちゃうからあと100年は反日してくれ(笑
とでも言う政治家が欲しい。今崩壊しちゃうと困るのは投資してる世界中の企業だし。
733 :
世界@名無史さん:04/08/04 20:08
ディスカバリーチャンネルで未解決の歴史を見てた。
前半だけだったけど、先制攻撃はアメリカだったとか
やってたなあ。
734 :
世界@名無史さん:04/08/05 10:51
青空のもと帝都上空のB29 bs ゼロ戦の空中戦みたか?
高度一万メートル悲しくもゼロ戦は木の葉オトシで墜落していく。
ゼロ戦の乗員は、後でしったが、混血児人だった。母はアメリカ人 父は日本人
靖国の英霊として祭られている。君も機会があれば遊就館で是非参館せよ。
735 :
世界@名無史さん:04/08/05 11:05
ゼロ戦=零式艦上戦闘爆撃機 鬼畜米英の戦闘機の1/3の
重量しかなかった。
736 :
世界@名無史さん:04/08/05 12:20
若い方々が、このように過去の話を聞かれるのは大変良いことだと思います。
身近に経験者がいらっしゃれば、是非その経験を聞いておいて下さい。
戦地に出かけた男性だけではなく、銃後を守っていた女性でも、いろいろと
経験しているものですよ。
>日本の外交交渉は戦争準備完整の為の時間稼ぎであり、
>その上真珠湾で卑怯な騙し討ちをしたということが世界の定説のようになり、
>そのように思っている日本人も多いが、歴史の真実は正しく訂正されなくてはならない。
こういうサイトもあった。
敗戦国は色々と情報が歪曲される物ですね。
母方の祖父母→北海道のものすごい田舎で農家
戦争だからといって特別食い物に困るといったことはなかったみたい。
じいさまは身長が足りず徴兵されなかった。
家に居た農業で使っている馬が軍に徴収されたらしく
「あれはいい馬だったなぁ」とじいさまが言っていた。
父方の祖父母は、祖父が行動に問題がある人で毎日酒ばっかり飲んで働かず
酒の飲みすぎで身体がおかしくなり病気が原因で徴兵されず。
そんなこんなで家は極貧。終戦時、父は7歳。
アメリカ兵に戦争孤児と間違われたのか、父と父の兄二人みすぼらしい格好で
アメリカ軍のジープ通過時にボケーと突っ立って眺めていたらいきなり停止して襟首をつかまれ
シャツの背中やズボンのポケットやらモノが入るところ全てに
缶詰やガムを突っ込まれた記憶があると言っていた。
札幌(石狩)にも空襲があったみたいで、その時は燃える燃料保管庫(のようなところ?)を
家の屋根に上って見学。花火でも見ている気分だったそうです。
>>738 瀬戸内少年野球団とかみても、田舎の戦争体験ってそんなもんだよな。
あれ?戦争終わったの?みたいな。親戚が何人か戦争行ってもどってこない
くらいなものだね。都市は悲惨。
でもそれがリアル。
>>739 そうみたいだね。
戦争だなと思わせるものって、甘いものが手に入らなくなったとか
たまに軍が来るから雪に穴を掘って米を埋めて隠しておいたとかそんくらい。
それも野菜やなんかは元々雪の中に埋めて越冬させるから
隠すというよりは「ついでに埋める」って感じだったみたいだし。
しかし昭和21年から年子で子供作ってるあたり
やっぱ緊張していたんだなとも思いましたが。
741 :
世界@名無史さん:04/08/09 19:12
742 :
世界@名無史さん:04/08/09 19:55
俺の祖父の話
太平洋戦争開戦の時は学生で射的場にいたそうな。感想は「ついにやったか」だったそうで、うれしくはなかったらしい。その後徴兵され、頭がそこそこだったから会計係(?)に編入された。敗戦色が濃くなると、漠然と「死ぬなぁ」と思ったらしい。
祖母の話
集団疎開して、山梨へ。木かなんかを伐る仕事をさせられ、辛かったらしい。皆で玉音放送を聞き敗戦を知る。その時「明日からもう仕事をしなくて済む」とだけ思い、悲しくは無かったらしい。
もう一人の祖母
東京空襲に遭い、眼の前で逃げていた人が焼夷弾に当ったそうだ。以上でした。
744 :
世界@名無史さん:04/08/15 04:31
私の祖父は徴兵され、終戦まで4年間中国へ行っていたそうです。母から聞いた話なのですが、
祖父は腹部に銃弾を受けてしまい、とても一人では歩けない状態でした。
そして祖父の傷は治らないまま終戦を迎え、祖父達の部隊も日本へ引き上げることになりました。
しかし、一人で歩けない重症兵士は移動の際には置いていく事になっていたのでしょうか。
この時、祖父の枕元に毒が用意され、飲むように言われたそうです。しかし、その時
上官が「だめだ!」と止めに入ったそうです。実はその日に日本から、重症の者も
一緒に引き上げてくるようにとの指令が届いたのだそうです。その指令が届くのが1日でも
ずれていたら二人の伯父、母、兄、私の5人はこの世の存在も知らないままだったっ事に
…祖父も今年で90歳になりました。あの時の弾はまだ体の中に残っているそうです。
私は18になったばかりですが戦争を身近に感じた話でした。
長くなってすみませんでした。
平成16年例により国民学校(なちおなーる フオーク シューレ)の
同窓会をおこなう。昭和18年卒 終戦時14歳 20名ほど集合。
陸軍兵長 陸軍上等兵の現存資格保有者もいましたゾ
兵長殿は本土決戦に備えみずから38歩兵銃とともに八王子在隊
上等兵、15日(今日です)航空隊所属のため、秘密書類償却の
ため命におりガソリン管を放火したトタン右手に火傷、傷痍軍人の
認定をうけるになった。オフで僕に焼けどのアトを見せ、この手が
言うこと きけばなぁ と寂しくわらうのだった。
火は延々と9月2日(ミズーリ調印)までそこら中で煙をたちのぼらせた。
真実は本当はこの煙のなかにあるのだ。クズドモ捏造なんかスルンじゃねぇ。
746 :
世界@名無史さん:04/08/15 16:41
戦前のニュース映像がネットで検索可能に テレ朝系会社
戦前の貴重なニュース映画をインターネットで検索し、視聴できるサービスを、テレビ朝日系の番組制作会社「テレビ朝日映像」(東京都港区)が、12日から始める。
システムはNTTコミュニケーションズ(千代田区)が開発した。サイト名は「蔵出しニュース映像館」。
検索できるのは朝日新聞が1935〜40年に制作した劇場ニュース映画「朝日世界ニュース」で約1000項目。
朝日新聞社は34年に米国とドイツの映画会社とニュース契約を結び、独自映像を入手した。
ヒトラー総統とチェンバレン英国首相との会見、ドイツとイタリアとの軍事協定締結など国際ニュースのほか、
平沼内閣総辞職や夕張炭坑の爆発、双葉山の連勝ストップなど国内ニュースもある。
利用者は主にテレビ局など放送業界を想定しており、映像を有料で貸し出す。
一般の人も氏名などを登録すれば、ネット上で動画が無料で見られる。
キーワードやジャンルから検索。動画のほか、ナレーションも聞ける。各項目に付けられたキーワードから、別のニュース項目にも移れる。
ナレーションには差別的表現などもみられるが、テレビ朝日映像は「当時の日本の状況を伝える貴重な歴史資料と考え、あえてそのままの形で掲載しました」と話している。
蔵出しニュース映像館
http://kura.tv-asahipro.co.jp/FilmLibrary/main/SystemTopBefore.do
長野から満州国更級郷に行った祖母の姉は
黒龍江省のソ連国境付近で1945年10月に
自分の3人の子供の首を絞め、その他の女性と老人と共に手榴弾で自決した。
関東軍はすでに撤退し、終戦の事実も告げられなかったために男性はソ連軍に向かい全滅。
大叔父は教師をしていたので、大叔母達は学校で自決したらしい。
地元では75人が開拓団に参加したが、生還できたのは2人だけだった。
もちろん遺品など残るわけも無く、曾祖母は弔いの為に敷地内に母子地蔵を建立。
余談だが、その母子地蔵に拝んだ夫婦に子供が授かったという
御礼が何件かあり、地元の新聞にも取り上げられた。
748 :
NHK(日本法曹狂怪)よ反省せよ!:04/08/15 19:38
今年の戦争ドキュンメンタリーも全くもってケシカランな!
朝鮮人特攻隊員の遺言を曲解するな!当時の半島同胞の赤誠をそのまま受け取らねばならない。
御民われ〜は万葉集にある歌だゾ。勝手な後知恵で解釈するナ!
占領地の民間人を保護せずに虐殺、餓死をさせたソ連軍の戦争責任は完全にスルーかよ?!
NHKに厳重に抗議する!!
>>747 >黒龍江省のソ連国境付近で1945年10月に
自分の3人の子供の首を絞め、その他の女性と老人と共に手榴弾で自決した。
これはどうして知ったの?
750 :
世界@名無史さん:04/08/15 21:08
親父は大正15年4月20日生まれ。
で、昭和20年4月に招集され、茨城県北から歩きで宇都宮まで行って入営した。
3ヶ月の軍事訓練を受けて、そのまま宇都宮に配属。
一応商業簿記ができたので経理係になった。調度の仕事だったとか。
しかしあまり仕事はなく、あいかわらず軍事訓練ばかりやっていたそうだが、
上官の朝鮮人伍長がとにかく嫌な奴で、それ以来死ぬまで朝鮮人嫌いだった。
終戦の報が伝わって事務方以外はさっさと帰郷してしまった。
1ヶ月ほどして進駐軍がやって来て、帳簿と在庫品を渡すとき確認したら、
先に帰った連中が勝手に持ち去って在庫が4分の1しかなくて、大急ぎで帳簿を
訂正したそうだ。もちろん自分らの持ち帰る分も隠した上で。
帰る時、恨まれていた上官はほとんど半殺しの目にあっていたそうだ。
>>749 生還した2人が遺族を訪ね、その最期を伝えたそうです。
1人は早期に踵を撃ち抜かれて負傷した為に送還扱いになり
もう1人は末期に右目を負傷した際に気を失い、ソ連兵に死体と間違われたとか。
大叔母達のいた更級郷は付近の川がソ満国境だったので最前線になってしまったそうです。
うちの親戚は昔、ハワイやらブラジルやらに出稼ぎに行った人が多くて、
中には移民としてそのまま向こうに定着しちゃった人もいる。
第二次大戦後、そんな人の一人が進駐軍と一緒に故郷に帰ってきた。
その人が「戦争が始まると、アメリカの金持ちはみんな国のために金を出した。
でも日本の金持ちはみんな自分の金を奪われまいとして隠してしまった。
だから日本はダメなんだ」といつも言ってたそうだ。
まあ、アメリカ人になっちゃった人の言ったことなんだけどね。
アメリカの金持ち≒ユダヤ人
日本の金持ちがだしてもたかが知れてるだろ。
なにより命さしだしてる。
756 :
世界@名無史さん:04/08/17 20:15
>>752 レスどうも
俺がこの前デイサービスの利用者(女性)に聞いた話です
終戦のラジオの話し
天皇陛下の声が聞けるということで、どんな声なんだろう
と聞いていたら何だか日本が負けたようなことを言っていて、
あれ、と思っていたらそのままラジオが終わってしまった
どうやら日本が負けたらしいというのでがっくりきた
そんな感想だったようです
>>757 祖母も似たようなこと言っているよ。
天皇陛下がどうとか負けたどうこうよりも
とにかく戦争が終わってよかったと。
どっちかっつーと玉音よりも、その後の琴の六弾を聴いて感動したとかw
ちょうど灯火管制も解除されて、街の灯が暗闇に浮び上がって綺麗だったそうな。
って、すまん。
あんまり似た話じゃないな・・・。
>>758 ちょっと
>>749の書き方では正確ではなかった
その方も開戦の時から負けるだろうと思っていたらしい
それでも何だかがっくりきた、と
その方の話です
その方の兄が戦地から手紙を送ってきたというのですが
例のごとくところどころに墨がぬってあって読めないようにしてあったそうです
でも日に透かしたりして頑張ったら何が書いてあったかわかったと仰ってました
結局その方の兄はそこで戦死したそうです
戦後その部隊で生き残った方(2人しかいなかったそうです)がしらせてくれたと仰っていました
762 :
世界@名無史さん:04/08/20 22:46
悲しいお話ですね。そのような方の犠牲の上に
今の日本があるのですね。
763 :
《無手勝流師範》:04/08/21 00:23
昭和二十年三月十日、東京大空襲のBー29を一夜にして三機葬った「凄いヤツ」がいた。
その名は《不忘岳》。
何故Bー29が三機も続けて激突したのか今だに不明であるが、
神国大日本ならではの決戦兵器であった。
765 :
世界@名無史さん:04/08/22 01:10
帝大から学徒動員されたわしは大田区下丸子の三菱重工で戦車をつくっとった。
多摩川丸子橋で試運転中に曲がるとき誤って民間人がひき殺されたが
まあ戦時中のことで見てみぬふりのようなご時世じゃ。その後、
群馬の大田で芋畑を耕しておると、日の丸を付けた4発の大型の飛行機を見た。
あとからわかったが連山が試験飛行していたらしい。6発の富嶽が構想のみだったが、
ダグラスのコピー呑龍や連山はかなり具体的だったんじゃ。
日本も陸軍戦略爆撃隊で米本土を爆撃できれば、いまも冥土の土産じゃよ。
766 :
世界@名無史さん:04/08/22 15:38
>>750 読むのに3時間かかりました
インターネットのホームページを見て泣いたのは、初めてです
ありがとう
ホームページのできが、あっさりしていて、読者にこびてないところもいい
でもCopyrightの表示ぐらいしたほうがいいのでは?
おじいさんが、撃たれて左腕から背中にかけて貫通銃創とやらをうけて、傷口から膿みが出続けて、
でもまだ生きていて、もがきながらなんとかしている状況の描写なんか、いくらでも転用されそうですよ
767 :
世界@名無史さん:04/08/22 20:29
>766
ご意見どうも。
Copyrightね。
768 :
世界@名無史さん:04/08/25 23:06
a
俺がバイクでコケて入院してたときの話。
俺は東京近郊のH山でカーブで刺さってしまい、ふもとのY原のでかい病院に
かつぎこまれた。足の骨が折れてたけど、まあたいしたことはなくてギプスはめた後は病室で退屈な日々を送ってた。
そんときに、同じ病室にH山のゴルフ場で受付やってるっていうオッサンがいた。
オッサンは夜な夜な戦争体験を語ってたんだがその中のひとつ。
外地に行ってたときなんだが、同僚に○○○大を卒業したボンボンが
いてよ、いいところの息子で、軍刀は実家に伝わるなんとかっていうすげえ刀を持っていたんだよ。
ヤッコさん、試し切りをしたくてしょうがなくってよ、で、ある晩、町に出て行ってそこらを
歩ってるチャンコロを適当に理由つけてバサーと切ってみたんだ。ヤッコさんボンボンだからよ、
ビビッてへっぴり腰で切りつけたもんで、一撃で死なねえんだよ。そしたらよ、相手のチャンコロは
必死で、刀の刃の部分を素手でしっかり握っちゃってよ、手を離さねえんだよ、ヤッコさんも返り血浴びてよ、
お互い血だらけになって二人でコレモンで道端でもつれてんのよ。まったく馬鹿だよなあ、へっへっへっ。
結局、刀は先っちょが折れちゃってよ、名刀なんて言ってたが、たいしたことねえもんだよな。
家宝の大事な刀が折れちゃってヤッコさんベソかいてたよ、ワッハッハ。
俺は心理的な抑圧をなにも感じずにこういうことを嬉々として話す奴もいるんだ、と驚愕した。
それまで世間で言われている日本軍の悪行に対しては半信半疑だったんだが、少なくとも俺は信じるに至ったね。
>>769 『伝家の宝刀』なんて、研ぎ減りしちゃってて使い物にならんのがほとんどだしなw
その前に、お前はいくつで、その話はいつ聞いたものなんだ?
創作を書き込むスレじゃないぞ。
772 :
世界@名無史さん:04/09/13 14:36:04
このスレに前にいた、ポーカー殿と七十五期殿は結局本物なのか?
俺は本物と信じたいのだが。
誰か知ってる人いない?
>>769 戦地体験のある人は最も若くとも今年80歳のはず。「オッサン」か?
>>661 そのボンボンとやらは兵舎大部屋住まいのようだから、その時兵卒か下士官だろ。
軍刀なぞを持てる身分じゃないと思うがね。
第一、入営に持参できるはずは無し、家のほうも幹部候補生でもなければ家宝を持ち出すことを許さないと思うが?
なんで>661と書いたのか、この俺め!
>>769の間違い。
内地に居た叔父は、子供の頃遊んでたら、米軍戦闘機に機銃掃射されたらしい。
しかも笑いながら語ってた。
うちのばあちゃんも機銃掃射くらってる
田舎道をリアカーだか大八車だかに荷物積んで歩いてたとき、空からすごい音がして、
見上げると爆撃機の編隊。護衛の戦闘機に掃射食らったとか。まあ荷物ともども無事だ
ったらしいが。とにかく隠れる場所のないところで撃たれたので「無事だったのはむしろ見
逃してもらえたのかもしれない」なんていってたな。もっとも直後に町(愛知県岡崎市)は
火の海でしたが。
779 :
☆誤解するなよ☆:04/09/13 18:55:51
いくら戦時下だからといっても、民間人への攻撃は、
国際法違反だということくらいは知っておこう。
軍律裁判を行っていた日本軍は、無差別に敵搭乗員を殺した訳ではない。
戦後、水戸射爆場の近くで進駐軍の爆撃機が超低空飛行で
海水浴場の客を気絶させ、畑で農作業をしていたかあちゃんを
ひき殺した。
781 :
世界@名無史さん:04/09/18 14:23:19
>>779 機銃掃射の話は、昔お袋からもきいたことがあるな
田舎の広い畑しかないようなところで
アメリカ軍のトムキャットやらグラマンとかが
女の子とかを機銃掃射で追い回して、狙い撃ちしてたらしいよ
練習か、狩りの遊びでもしているとしか思えんと言っていた。
これって、国際法違反なの?
782 :
世界@名無史さん:04/09/18 14:56:26
>>781 当然だ!(#゚Д゚)
非戦闘員の児童を掃射していいわけがないヽ(`Д´)ノ
783 :
世界@名無史さん:04/09/18 15:10:10
>>782 映像とかの証拠が残ってるわけでもないので
もしも、体験者が公の場所とかで、国際法違反を訴えても
だれにも相手されないか、逆に南京がどうのこうのというやつが
でてくるんだろうな
でも確かに民間人への機銃掃射は、原爆みたいに戦争終結を
早めたとかいう大義名分もくそもないな
米軍機が来たら隠れなさいという話に説得力をもたせるために
米軍は子供を機銃で追い回すとかを大人が子供に言ったらしい。
要するに、早く家に帰らないと人攫いにさらわれますよとか鬼に
食われますよというのと同じようなもの。
ただ、人攫いや鬼と違って現実味があったし実際に間違えて撃たれる
人もかなりの数にのぼるため、米軍が子供と知ってて撃っていたと
勘違いしてる人もいる。
>>778 のおばあさんは荷物を持ってたから軍需物資かなにかと間違われたか?
日本が大八車や牛車なんかで飛行機の部品を運んでたりしてたのは
米軍も知ってるから、それっぽいのは狙われる。
785 :
世界@名無史さん:04/09/18 16:23:47
786 :
世界@名無史さん:04/09/18 16:26:39
(・∀・) ニヤニヤ
787 :
世界@名無史さん:04/09/18 17:00:31
788 :
世界@名無史さん:04/09/18 17:17:13
>>787 なるほど
だとしたらすごいな、アメリカ人って
話がうまいよな〜
でも、アメリカ軍が1兵卒にいたるまで
軍や国のためにだけ、行動していて
しかも国際法を遵守するっていう前提があって
初めて、
>>784の話は成り立つところがちと弱いな
常識的に考えて
極東の東洋人なんて、人と思ってないやつらがいっぱいいて
脳みそ筋肉みたいな、ヒコーキ野郎もゴマンといるのが
前提なんだけどな
789 :
世界@名無史さん:04/09/19 22:54:37
>第2次世界大戦勃発の張本人である日本
_, ._
( ゚ Д゚)
◆政府の平和的核利用4原則 -中央日報社説- [09/19]
http://japanese.joins.com/html/2004/0919/20040919184805100.html >わが国は過去数十年間米国の同盟国として自由世界を守るため、ベトナム戦争や
>アフガン戦争、イラク戦争に派兵して核拡散禁止条約(NPT)体制を忠実に遂行し
>てきたというのに、非常に不条理で差別的な待遇を受けている。
>特に第2次世界大戦勃発の張本人である日本が、ウラン濃縮はもちろん再処理工
>場までをも運用しているという事実は、われわれのプライドを大きく傷つけている。
ちなみに、
朝鮮日報(238万部) 保守的右派。毎日新聞と協力関係
東亜日報(209万部) 保守的右派。朝日新聞と協力関係
これの社説 → 中央日報(206万部) 保守的右派。日本経済新聞と提携。
ハンギョレ新聞(60万部) 分断民族の統一&民主化、民族主義が理念
>>784,788
それ以前に第2次大戦中にジュネーブ条約はない。
子供といえども斥候ぐらいできるので、子供を殺すのは当然。
Might is rightは万国共通だし、今までもこれからもずっとそう。
平和哲学や法治国家の秩序に慣れてしまって、
勘違いする正義漢のアフォは今後も登場するだろう。
大事なことは性悪説にたって敵のことを考えること。
それを怠る偽善者は為政者として失格。
「力」を持ったら、それを使ってしまうのが人間だしな…
792 :
世界@名無史さん:04/09/20 10:59:11
>>790 ジュネーブ条約はなかったかもしれないが
戦争時における国際法ってのは、100年以上まえから
あったんじゃないの?
明治維新の時も、旧幕府や明治新政府が国際法の勉強に
熱心だった気がするが・・・
私のかすかな記憶では、第二次大戦中の国際法でも
武器を持たなくて、軍服を着ていない、一見民間人に見える
人を、無差別に殺していいっていうのは、
その人たちを保護しているはずの軍隊(この場合旧日本陸海軍)の
責任者(司令官等)が、公式に降伏しないで、どこかに逃げて、
その配下の兵隊が軍服を脱いで、民間人の中に紛れ込んで逃げてしまった
ことが確認できた場合くらいだったと思う。
(要は、まわり全員ゲリラの疑いがある状態)
今のイラクはまさしくこれだけど、今の国際法ではもちろん無差別殺人なんてだめ
なんだろうと思う。
ちなみに、南京陥落時もこの状態だったと言われている。
もし無差別殺人みたいなことがあったとしても、
日本軍は当時の国際法には、違反していなかったらしい
793 :
世界@名無史さん:04/09/20 11:19:36
うちの親父は、予科錬で鹿児島で終戦を迎え、
夜、広島を列車で通過したら、焼け野原にいっぱい
青白い光が飛んでいたのを見たと言ってました。
794 :
世界@名無史さん:04/09/20 21:40:00
795 :
世界@名無史さん:04/09/20 23:22:27
>>715 いや末期には強制徴収はあったそうだ。
俺の地元だが室蘭のイタンキ浜に強制労働で死んだ中国人を大量に埋めた事件がある。
俺のじいちゃんは当時憲兵だった。学校で勉強した日に
本当の話なの?と聞いたところ「本当だ。だけどそんなことわざわざしらんでいい」
といっておりますた。
強制連行の話になるとつくり話オタがでてくるが、当時生きていた人間が
認めてる事例もあるので、気をつけなー。
ただし、南京大虐殺は人数多すぎw
あと慰安婦。父方のじいさんは徐州方面を転戦したそうだが、売春婦は
いたそうだが、組織的に中国女をどうこうっていうのは(じいさんの周り)
では知らないということ。いや、そこらの子娘にムラムラでXXXってのは
やったことあるようだ。オレが炉理なのはじいさんの遺伝だw
796 :
世界@名無史さん:04/09/20 23:24:36
797 :
世界@名無史さん:04/09/21 11:13:49
>795
おそらく、あったんだろうな。
白人が東洋人を虫ケラのように思っているのと同様、日本人も中国人を虫ケラのように思っていたのだろう。
ただ、この話は当時侵攻していた中国人の話。
715は併合していた朝鮮人の話。朝鮮人の強制連行の796のような話はあるのだろうか?
日本人が中国人を虫ケラのように思うより先に
中国人が同じ中国人を虫ケラだと思っていたんだけどな。
799 :
世界@名無史さん:04/09/21 18:31:30
>>798 そりゃそうだがw強制徴収問題とは関係ないべ〜。
それは論旨のすり替えというんでないかい?
中国人が内戦で殺し合いをしようと、後に文革で大量に死人を
だそうと、日本の強制徴収とは別の話。オレは鬼畜度はシナ人のほうが
上と思ってるので、在日とかエセ日本人とかいうなよw強制徴収は
日本の国策に照らして当時は当然だったんだろ。何しろ日本にとっては
植民地戦争やってたんだから。
800 :
世界@名無史さん:04/09/21 18:43:37
Navigator of the Historical term
旧敵国条項 (国連憲章第107条)
国連憲章第107条を指して、一般に「旧敵国条項」と呼んでいる。
その内容は、第二次世界大戦の際、枢軸国だった日本・ドイツ・ルーマニア・
ブルガリア・ハンガリー・フィンランドを対象(イタリアは途中で枢軸国から脱退し、
連合国側に立って日独に宣戦したので除外)に、これら諸国が国連憲章等に違反した軍事行動
(侵略等)を起こした際、旧連合国(アメリカ等)が国連決議等の拘束力に優先して軍事制裁
を課す事が出来るとした差別条項。しかし、戦後半世紀も経ち、日・独等が国連の中でも重要
な地位を占める現状においては死文化条項であり、時勢に合わない事等から、1995年の国連総会
に於いて、同条項の国連憲章からの削除を求める決議が圧倒的多数で採択された。ただし、安全保障理事会
改組問題の難航で、国連憲章の改正に支障を来しており、同条項の削除自体は未だ実現していない。
シナチクが反対してんだよ。
801 :
世界@名無史さん:04/09/23 14:22:05
>>795 慰安婦は、日本人や、朝鮮人は人気があったそうだが、中国人は汚らしくて、
人気が無かったらしい。
中国人の女性は、軍隊がくると、殺されないために、股おっぴろげで、”強姦してもいい
から、殺さないでくれ” と頼む話が、しばしば、体験記などで読める。
日本女性も進駐軍に股を広げまくったのでそういうのは世の東西を
問うものではないのでしょう。
803 :
世界@名無史さん:04/09/24 06:11:36
>>802 事前にヤラレ役を用意するのも、洋の東西を問わない。
804 :
世界@名無史さん:04/09/24 09:05:47
北京じゅうに散見するたちしょん、脱糞の跡、パンティを見せながら自転車を漕ぐ風景を見ても、羞恥心ゼロ。
806 :
世界@名無史さん:04/09/24 09:49:14
そういえば、シンガポールに、ギネスブックの連続SEXに挑戦した中国系女性いたな。
♂より♀のほうが疲労度が少ないからな。
>>806 記録をねらうということは、衆人環視で?
衆人環視で? → 衆人監視で?
810 :
世界@名無史さん:04/09/24 11:47:33
|┃三 ガラッ 三
|┃三 ./"´ ´"γ
|┃ / ./ ヽ
|┃ /ノノ ノノノノノノ人ヾ .!
|┃ ≡ 彡ノノ .,,,,, ・ ,,,,, .( 川
|┃ r |シ/__ヽ./__ヽ !!ゞ:
|┃ ! | "ヽ-.ノ| |ヽ-ノ ヽ!ノ
|┃ ヽ{ i ,(r.しn)ヽ ノ}ノ
|┃ ヾ ヽ/___U__ |Y// < 特攻隊員は自爆テロリストです。
|┃ ヽ、ヽ´--ノ`iノ| あれは国家によるテロルでした。
|┃ _, 〉ヽ '.⌒'ノ/|
|┃ __,,ィ' ト `ニニ/:..ノ|ヽ、_ (↑昨日ホントに言ってた)
811 :
世界@名無史さん:04/09/24 12:22:56
木製飛行機でテロw
812 :
\(○m○)/[大○義]:04/09/24 12:57:06
d´m` b ⇒(○m○)
SAPIO(10/13)号《「日本の戦争」の大義》は、我が《正義の枢軸》に適合した企画だ!
↑\(○m○)/[大●義]諸君、お薦めだゾ!
去年11月に祖父が他界しました。
祖父と祖母が家に来たとき、NHKで戦争の記録番組がやってました。
東条英機が画面に写った時、二人は声を揃えて「こいつは悪い奴だ!」と言っていました。
戦時中のある日、祖父が顔がボコボコになって帰ってきた日があったそうです。
なんでも東条氏が兵士は軍人勅語(?)を暗記しろと突然言い出して、祖父の
班に知恵遅れの兵士が居て覚えられず、連帯責任で下駄で顔の形が変わるまで殴られたらしいです。
知恵遅れを兵士にすんなよ。
正しくは
「こいつは(軍人としては出来の)悪い奴だ!」
だろうな。
単なる官僚でしかなかった奴だし。
816 :
とろいつづき:04/09/25 03:14:59
1944年末には彼等日系軍人の一部は特別任務についておりました。
日本語、および日本についてのあらゆる情報を徹底して頭に詰め込む、
終戦後の来るべきアメリカによる日本占領政策の一環としておふたりも
あめ国内の基地において、日本語、及び日本人について勉強に励まれていた
のでした。おかげで今でも日本語が達しゃです。そんなお二人が戦後日本人
と出会った、印象、最初はとても卑屈にみえたそうです。自分たち日系に
対してさえあまりにも腰がひくく、英語が分からない為、白人亜目軍人に
たいしては一層ひどくそううつったそうです。それにたいしてほとんどの
白人ア目軍人は態度がふそんであり、とにかく英語の分からない日本人に
聞くに耐えない罵詈雑言をあびせていたそうです。そういった両者の溝を
うめるのが日系軍人の役目であり、日本全国津々浦々、最盛期にはのべ
3000人近くの日系軍人が通訳として、そして、アメリカ人と日本人の
潤滑油、橋渡しとして、活躍していたそうです。お二人は口をそろえてこう
おっしゃっていました、「日本占領期間中、おおきな暴動などおこらずに
比較的、スムーズに政策が遂行されたのはやはり自分たち日系軍人の存在が
大きかったのではないか、今のイラクを見ているとそう思えてしょう
がない。」と、確かにイラクの占領政策と日本のそれとを単純比較するのは、?ですが、彼等の
その言動にぼくはみょうに説得させられたものです。ちなみに
お二人のうちの一人はジャズドラマーで、日本にジャズをもってきた
オリジネーターのうちの一人です。
日本人もアメリカ人が日本語わからんのをいいことにバカ
にしてたわけだ。俺の母親、にこにこしながら笑顔で
アメリカ人に罵詈雑言を浴びせたみたいだし。
お互いさまじゃないかと。むしろ日系軍人がいたほうが
文句を日本語でいうことも言えず苦労したんじゃないか?
818 :
toroituduki:04/09/25 04:53:44
あなたの母親の話は知りませんが、日本人の現場責任者がアメリカ兵の
現場監督に平身低頭している光景をなんども見たそうです。
ことばの壁とは、こういった殺伐とした状況ではネガティブな方向に働く
ので、アメリカ人にすれば、当時の一般日本人を相当奇異な目でみていた
ようです。ところで、あなたのレスの”むしろ日系軍人がいたほうが....
ああ、ひとつだけ、アメリカじんがなにも差別意識むきだしで、日本人を
罵倒していたわけではありません。日本人とせっするアメリカ人は末端の人間
ですから、上から、たとえば、この期日までにこの施設を日本人を使って
完成させろといわれたりするわけです。でも、日本人とはコミュニケーション
がとれないので、彼等は工事の進み具合がわからない、自分に託された
仕事がまっとうできるか把握できないので、いらだって、日本人にそれを
ぶつけるわけです、
”と言う部分、意味がわかりかねますが、
ちなみに816はスレをまちがえてうってしまったものです。
スルーしてください。
819 :
世界@名無史さん:04/09/25 06:40:26
まあ当時は降伏=完全な奴隷化って意識だったからな。そこに傲慢とは言え、そこそこの扱いをされれば拍子抜けして妙に下手にでるというか多少卑屈になる気持ちも分からんでもない
820 :
世界@名無史さん:04/09/25 06:45:44
負けるに決まっている戦争しかけたわりには幸運だった。
821 :
世界@名無史さん:04/09/25 06:47:32
>>816-817 イラク人は、英語で切る奴多いからな。
アメリカ人への憎悪が強烈で収まりそうもない。( ̄∀ ̄;;)
>祖父の班に知恵遅れの兵士が居て覚えられず、
障害何級なんだか、智恵遅れが兵役検査で合格するのかな?
823 :
世界@名無史さん:04/09/25 09:07:42
>>822 当時の検査は、身体の頑健さが中心でしょ?
知能低くても、うかる奴はうかる。
824 :
世界@名無史さん:04/09/25 11:46:04
戦後、国鉄では、アメリカ兵が悪戯して、機関車を乗っ取って乗り回すなどの
事件が多発したが、日本人機関手は文句を言えなかったらしい。
825 :
世界@名無史さん:04/09/25 16:20:54
祖母は終戦のとき未成年でしたが、空襲について教えてくれました。
登下校中に空襲警報が鳴ったらとにかく溝に隠れろとのこと。
だからいつも溝がきれいだったそうです。
祖父(故人)も未成年でしたが田舎にいてB−29など見たことないと
自慢のように語っていました
826 :
世界@名無史さん:04/09/25 23:12:18
日中戦争の話でもいいのか?
今年、戦時中は中国戦線に行っていた祖父が珍しく戦争体験を語ってくれた。
夜間行軍していたら前方に見えていた木のような影が直前に敵の兵士だと分かり、
真っ暗闇の中銃撃戦が突然始まったとか、
中国人の家に押し入って窓の桟の下のレンガを取り外すとそこにお金が隠してあり、
押収して食べ物を買ったとか。
戦後は上海にいた、というので自分も上海は観光で行ったことのある経験から
当時の上海の町並みについて聞いてみると、「ずっと牢屋にいたから知らない」
とのこと。回虫に悩まされて大変だったそうだ。
827 :
佐藤総研:04/09/26 04:01:21
20年ぐらい前に亡くなった爺さんからは、シベリア出兵の時の話聞いたなぁ。
あまりに幼い時に聞いた話だから、記憶があまり無いけど、とにかく寒かったらしい。
歳がばれるが子供のころ「土地の古老」みたいな存在のじいさんが隣に住んでて、日露戦争の話聞いたよ。
>829
おお、差し支えなければもっと聞かせて下さい。
そういえば店やってる爺さんがシベリアに出兵して捕虜になったって聞いたな。(今も生きてる
けどなんで九州にいたのにシベリアなんだ?沖縄とかじゃないのか?
出身地ごとに所属師団は違うけど、色んなトコに従軍するでしょ。
たとえば沖縄戦には旭川の第5師団が投入されてるし、大阪の師団が南方
いったり、、って釣り?シベリアってことは満州の関東軍にでも所属してたんじゃねーの?
うちの祖父は肺病で痩せていたから甲乙丙丁戊の全てにひっかからずに
「徴兵免除状」を持っていたよ。かなり珍しかったらしい。でも92歳の大往生でした。
曽祖父は日露戦争では砲兵隊所属、軍曹だったらしい。
軍帽と鉄兜の影響で、完全に禿げ上がってしまったそうで。
ある戦闘で武勲を立て、中隊長から特進などの褒章を打診されたが
「老父母が心配なので帰還させてほしい。」と申し出て、2年間繰上げで無事生還。
834 :
世界@名無史さん:04/09/30 02:09:19
大体、激戦地には北海道か、東北、九州の部隊が送り込まれます。
都会の兵士は個人主義的なところがあり、戦況が不利になると、バラバラに
なってしまうらしい。
職業軍人の場合は、鉄兜を被り、汗をかくせいで、禿が多いそうです。
東條英機なども軍人ハゲですね。
835 :
☆(・∀・)ニヤニヤ :04/09/30 07:21:35
\(○m○)/
我が皇軍は、米英蘭の植民地であった東南アジアを[解放⇒独立]こそはすれども「侵略」などしてはいないゾ!
インド領内にアジアの軍隊が進攻した事実は、それだけで歴史的快挙だった!
\[・ム・ ] ‖苗‖
ワシも毛は薄かったが、これは思い切って剃ったからだな。
836 :
世界@名無史さん:04/09/30 08:15:11
>>831 シベリア出兵って1918年から1922年だから、その時兵隊だった人は
少なくとも100歳前後にはなってるよ。それでお店をやってるの?
それは捕虜になってシベリアへ送られたって話じゃないの?
大正のシベリア出兵の時には捕虜になった日本兵はいないはず。
838 :
世界@名無史さん:04/09/30 09:46:08
>>それは捕虜になってシベリアへ送られたって
大東亜戦争終結時のことを言っているのでしょう。
日露戦争時でもノヴゴロド県の近くに捕虜収容施設があったそうだが、200人にも満たなかったはず。
840 :
世界@名無史さん:04/10/08 20:31:29
うちの爺さんは97まで生きる丈夫な爺さんだったんだけど、
結核?になってたらしく兵役を免れたそうな。曽祖父が日露戦争の
英雄だったらしく、(勲一等金なんとかって勲章もらったらしい)
地元では責められたりはしなかったそうな。そんな爺さんの戦争体験と言えば、
B-29が飛んできて、慌てて草むらに隠れたと言ってた。なんでもそのB-29
が原爆落としたらしいんだけど、うちって新潟なんだよね。
確か曇っていたせいで広島にコース変更したらしいけど、曇ってたらB-29
肉眼では見れないんじゃ?他にも見たって人いるのかな?
841 :
\d○w○b/ それは恐らく:04/10/08 21:58:12
原爆投下のためのシュミレーションで「パンプキン(カボチャ)」
と呼ばれる大型破壊爆弾ではなかったかと思われるな。
d○±○b 無差別虐殺許すまじ!
842 :
世界@名無史さん:04/10/08 23:33:56
新潟は原爆投下候補地の一つであり、模擬爆弾の可能性は高い。
ちょいと多板ではデリケートかと思うのですが、このスレは理性的に
進行している様子なので私も。
私の本籍は山陽地方の田舎。祖父は代々の庄屋で、田舎らしく
なしくずしに戦中戦後と田舎の村長の様なものでした。
盆の時期には祖父の家に一族郎党のみならず、近在の人たちも
集まって法事と宴会をするのがならわしだったので、私も東京から
父母に連れられて毎年行っていました。
で、ある年。なぜかその年は酒が入りすぎ、年配の近在の人たちが
戦時中の話を始めました。私は小学生だったのですが、オジサンたちに
気に入られていたので話を聞くハメに。
どうやら、この辺りの人たちは大陸に行った人たちが大半だった
様で、中国の話になりました。(長くなりそうなのでわけます)
しかし、その内容は小学生の私にはかなり衝撃的でした。
一番印象に残っているのは、人の良さそうなオジサンが、
「坊、知ってるか?銃剣って重いんだぞ。人を寝かしといて(自分が)
立ってこう、ストン、と落としてやるだけで鍔までグッサリ刺さる。」
と語り、周囲が一斉に笑い声を上げたときでした。
それ以外にも、どうやら捕虜を殺したときの話を(あのときは一発で
断首出来なかった、失敗した云々)笑いながらしていました。
また、女性陣が別室で食事の支度をしていたのですが、小学生には
わかるまいと思ったのか、強姦の自慢話もしていました。
成人してから、親父とその話をしたことがあります。
親父は戦時中に小学生。戦後も、子供の頃からそんな話を聞かされて
育ったそうです。
本当にド田舎なので、あの世代は戦争中に兵隊としてしか村の外に行っていない
んだ。だから倫理観が青年期に戦争の中で体得したモノから変わっていない、
というのが親父の感想でした。親父はそんな土地柄が嫌で、発憤して
勉強し、大学に入って地元を離れたのだそうです。
とまあ、これだけですが・・・
現在の自分の意見を排除しようと出来るだけ当時の気持ちだけを書いたら、
どうも小学生の作文のようになってしまいました。失礼をば。
以前、NHKのカラー映像での日本の戦前、戦中などの番組があったが、それで見ると
アメリカ軍の戦闘機から撮影された映像では、民間人に機銃掃射を
している映像があったように思ったが。
海岸に居る人とか、漁船なんかに思い切り機銃を浴びせていたように記憶しているが、
誰か見た人はいないか?
辺境のド田舎の村に「支那の太郎さん」と呼ばれる、
華僑のラーメン屋さんがいた。普通のおっさんだった。
ある日憲兵がやってきて、支那の太郎さんをどこかに連れて行った。
憲兵にとって支那の太郎さんはスパイに見えたから。
その日以来、支那の太郎さんは村に帰ってこなくなった。
村の人々は、彼は決してスパイではなかったと思っていたが、誰も助けなかった。
祖母から聞いた戦争中の実話。
まあどっかで太郎さんは生きてるかもしれないけど。
(当時の支那って敵国だと思うんだけど、よく日本で商売してたな)
>>849 「支那の太郎さん=王監督のお父さん」なの??
だいぶ間が空いたけど悪しからず。
創作と思ってる書き込みがいくつかあるけど、創作ではないよ、この話。
聞いた時期は、昭和の終わりごろ、関東地方で、4月まで雪が頻繁に降っ
た年があったけど、その2月か3月頃だ。
オッサンは当時、65歳くらいだったかな。もう少し上かもしれない。今生き
てれば85歳かもうすこし上だろう。客観的な事実を重ねること、たとえば、
オッサンの名前も辻斬りやった阿呆の名前も記憶にあるからここで記述し
てみれば事実に近づくのかもしれませんがね、それがスレッドの主旨では
ないでしょう?
寒い時期でしたからね、寝巻きに丹前を羽織って、ベッドから降りて、嬉々
として中国人が刀を押さえるしぐさを演じて見せたオッサンを思い起こすと、
とても作り話をしてるようには見えなかったよね。
父方の祖父(もー他界してるが)は身体検査で出兵してなく、
母方の祖父は戦死。
だから、戦争の話は聞いたことは無いが、父方の祖父に、戦時中の日本国内
の状況、戦後の状況などを聞いてみたことがある。
しかし、祖父は、日本は戦争に負けたのだから、何も言うことは無い。
善い、悪いではなく、負けを認める潔さが昔からの日本人だ、と。
私も言いたい事は沢山有るが、じいさんに怒られそうで言わない。
日本はアメリカには負けたけど、他の国には負けてねーぞ!
853 :
世界@名無史さん:04/10/20 11:16:16
854 :
支那≠敵国:04/10/20 13:01:00
大東亞戦争当時、我が大日本帝国が戦っていたのは、
米英を後盾に抵抗し続ける『中華民国』を称する重慶政権であって、
正義の枢軸たる盟邦・中華民国南京政権は、
昭和十八年一月に対米英宣戦さえしている。
855 :
世界@名無史さん:04/10/20 13:24:02
子供のころ、剣道の先生のそのまた師匠にあたる方に挨拶に行ったとき、真剣の切れ味の話になって、戦争中に東南アジアで捕虜のクビを切りまくった話をされた。クビをはねると、ポーンと高く跳ね上がるらしく、誰が一番高く跳ねられるか、という競争もしていたらしい。
俺は子供だったので話自体はあまりなんとも思わなかった。
が、飯食いながらそういう話をするそのじーさんに恐れ入った。
856 :
世界@名無史さん:04/10/20 14:57:32
>>846 米軍の艦載機のガンカメラ(戦果確認のためのカメラ、銃を撃つと撮影できる)の映像。
よく、当時の回想録に出てくる。 石原慎太郎も食らったらしい。
米兵は大はしゃぎで撃ってますが、パイロットは若者なので、ある意味仕方ないことだ。
ゲームでやったが、気分爽快だった。
ただし、撃ち落されると住民が寄ってたかってぶち殺したらしい。
その様な話がちらほらと出てくる。 間違って日本のパイロットを殴り殺した
という、ブラックな話も出てくるぐらい。
米軍によると、捕虜になって危険な順番は、 住民ー陸軍ー海軍、らしい。
857 :
世界@名無史さん:04/10/20 15:19:49
残忍で凶悪な日本原住民(プ
軍人は一応自分も捕虜になる可能性があるだけに
それなりに対応するのだろう。やられっぱなしの住民は
そりゃむかついて捕虜を殺すくらいのことは普通にする。
仮に日本軍がアメリカに空爆しまくることが可能で、その
日本軍の爆撃機が落ちてアメリカの住民の捕虜になっ
たとき、丁重に扱われることはないだろう。
860 :
世界@名無史さん:04/10/23 05:41:04
>>856 あのな、裏話として米軍は昔っからパイロットには興奮剤を服用
させてたの。今でもそうなの。拒否したら地上勤務だし。
よくあることだよ。
861 :
世界@名無史さん:04/11/12 14:27:21
「こんなので戦争に勝てるのか?」と懐疑的な人が多かったようだね。
私の祖父も朝鮮から日本に帰還した時、入れ違いに日本から外国に
行く兵士の貧弱な装備を見て「負ける」と確信したそうだ。
862 :
世界@名無史さん:04/11/12 17:36:55
もうわしは87歳で生きてるの辛いです。
863 :
世界@名無史さん:04/11/24 21:59:40
あげないと
864 :
打通さん:04/11/25 13:38:42
>入れ違いに日本から外国に行く兵士の貧弱な装備を見て「負ける」と確信した
中国チンピラゴロツキ相手なら、侵略暴行のやり放題だったけどな。
平成14年5月、中国のサンフランシスコ駐在総領事が、サンフランシスコ
大学での「日本の戦争記憶問題と対決する」というシンポジウムで演説。
「日本軍は対中侵略で中国人民3500万人を殺した・・・それにもかかわらず
日本の政治家も政府も、口頭でも法的にも謝罪することを一切、拒んでいる
・・・日本政府は犠牲者への賠償支払も拒否した・・・侵略や残虐の記述を
教科書から削除し、また侵略戦争を始めるのではとの懸念がある」と述べた。
http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/tyousa02/tushu6.htm
>パイロットは若者なので、ある意味仕方ないことだ。
へえー。
あなたは事がアメリカ人となると寛容なのですね。
日本のパイロットなら若者でも決してやらなかったですよ。
>>864 >日本軍は対中侵略で中国人民3500万人を殺した
日本軍sugeeeeeeeeeeeeeeee!!!!!
いやー大笑い
>853
>661のボンボンとはかなり立場が違うが、俺のオヤジの話。
大戦末期に予科練に入隊したオヤジの元へ、しばらくしてから父親(つまりおれの祖父)が面会にきてくれた。
そのときに軍刀を差し入れしてくれたそうで、オヤジはそれを隊内に持ちこんでるそうです。
もちろん訓練生の立場だから腰に差して歩けるわけではないが、私物扱いとして保管しておくことはできたそうだ。
んでその刀をどうしたかっていうと、近くの竹藪を伐採するときに鎌がわりに重宝したとか・・・・・・
今でもその刀は実家にあるそうだが、俺が「欲しい」と言うと、「怖くてオマエなんかに刃物持たせられるか」と笑われた・・・
あまり関係無い話だったかもしれんな。
868 :
世界@名無史さん:04/11/30 08:27:14
>>856,865
その話を当時のパイロットを最近インタビューしていたよ。
弾が無くなると基地に帰って補給してまた撃つ。
当時のパイロットは泣きながら回想していたよ。
命令だから仕方なかったって。
誰だって人殺しなんてしたくないんだよ。
869 :
世界@名無史さん:04/11/30 09:23:19
3万人だか、30万人、100万人、3500万人、
どれにしてもそれだけの死者を本当に出していたらそれは民族の恥であり、
政府・政権の恥であり、殺された側が何をしていたんだということも
問われるべきものだと思うが。
広島、長崎は原爆を落としたアメリカの残虐非道を追求するのは当然としても、
そこに至るまでの日本政府の責任も現に問うている戦後の歴史であるわけだ。
大叔父・大叔母の話
農家の4男だった大叔父は、開拓団に入って満州に渡った。
しかし、自分達が入った時は既に立派な農地が広がっていて、これって開拓って
いっていいの?この畑拓いたの誰?と疑問に思ったのだそうだ。
あとから、少し離れた貧しい満人(漢民族)集落の人々の畑だったことを知った
が、まあ日本人は「偉い」んだし、畑は日本人の感覚では桁外れに広かったの
で、少しぐらいただで貰ってもいいんだろうと思い、あまり気にしなかったのだとか。
満人とは普段から付き合いもあり、一緒に作業をしたこともあった。特に女性
たちは日本人の家にお茶に来ることが多く、日中混合の片言言語で会話して
いた。調度品を指差して、「いいな〜いいな〜」と何度も口にし、羨ましそうだった
という。
近くの町に行くと市が立っていて、白系ロシア人や蒙古人も闊歩していた。蒙古
人は物凄くプライドが高かった。
昭和20年8月、ソ連軍が侵攻すると、満人の態度が一変した。日頃満人に
対してきつく当たっていた日本人の家からは、問答無用でどんどん家具が
運び出され、畑も荒らされた。満人と仲良くしていた人に対しては、そんなこと
はなかったそうだが、やんわりと「その家具売ってくれ」と持ちかけられ、安い
値段で引き取られたりもしたそうだ。
その後、ソ連軍がやってくる。大叔父は捕まってシベリアに送られ、大叔母は
2人の子供とともに逃げ延びるが、男の子は途中栄養失調で亡くなった。
その辺の話だけは、どんなにせがんでも教えてもらえなかった。
>>769,851
日本軍の悪行ではなく、それは個人の蛮行だろう。
恨むべきは日本軍ではなく、そのオッサンで、まったくの筋違い。
872 :
ホッシュジエンの国内ニュース解説:04/11/30 17:47:04
終戦直後の1945年8月、旧海軍の輸送船「浮島丸」が京都府の舞鶴湾で
爆発、沈没し、強制連行された朝鮮人ら500人以上が死亡した事件をめぐり、
韓国在住の生存者や遺族が国に損害賠償と公式謝罪を求めた訴訟で、最高裁第3
小法廷(藤田宙靖裁判長)は30日、原告側の上告を退ける決定をした。原告側
逆転敗訴の2審判決が確定した。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
彡ミ ___ __ 「戦争被害は等しく受認すべき」では戦争
|ヽ /| ,,,,,,,,l / / 犯罪人の存在は皆無ですが?
|ヽ | | ミ ・д・ミ/_/旦~~
⊥ |  ̄| ̄|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
凵 `TT | ̄l ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l サイバンチョー、ソレ チョット チガウカモ。 ∩(・∀・ )
04.11.30 Yahoo「韓国人被害者ら逆転敗訴確定=国賠償責任否定の2審支持−浮島丸訴訟で最高裁」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041130-00000640-jij-soci
873 :
世界@名無史さん:04/11/30 19:16:48
しかしコンビニや公園とかにたむろってるカスども見ると、こういう奴らが戦争になるとくだらねえ事やらかすんだろうなって思うね。あ、平和時でもお構いなしか
874 :
世界@名無史さん:04/12/01 09:20:40
>強制連行された朝鮮人ら500人以上が死亡した
もうこの時点でおかしい
875 :
世界@名無史さん:04/12/01 10:05:14
876 :
世界@名無史さん:04/12/01 10:24:47
877 :
世界@名無史さん:04/12/01 10:36:39
ていうか、当時の連合国に謝罪と賠償を求めるのが筋だろ?
878 :
世界@名無史さん:04/12/01 19:13:37
白人は今だにアジア人は白人にコントロールされるものって意識があるからな。この先も変わらないだろうけど
くだらん雑談はよせ。スレが汚れる。
880 :
世界@名無史さん :04/12/10 22:33:07
昔、世田谷のガソリンスタンドで東条英機の孫と一緒にアルバイトをした。
「戦犯」で「刑死」なら家族も当然財産没収で一家離散!
と何となく勝手に思いこんでいたのでかなり驚いた覚えがある。自分の不勉強
さと浅い思考が嫌になった。あまり仲良くなかったので話全然聞いてません。
スマン。ちなみにその人のお母さん(娘だね)父親の手記出版してる。
当時の参謀本部事情は高山信武著「参謀本部作戦課」ってのでおぼろげに知った。
例)意見対立!!→先送りか折衷案→貧乏気違い広範囲南方戦線すごく悪化
今とあんま変わらねえ
ちなみに著者の高山と言う人、あの玉音放送の原稿を起案した人らしいです。
では
;
882 :
世界@名無史さん:04/12/16 09:33:22
太平洋戦争のまっただなかでも
軽井沢では東京の超富裕層が
戦時下とは思えないほど優雅に欧米風の生活していたらしい。
>>880 高山大佐が起草したのは陸海軍に与える詔勅で玉音放送ではない
884 :
世界@名無史さん:04/12/17 01:15:43
うちの爺ちゃん元陸軍士官
最近になって戦時中のことを文に纏めてることを知った
読んでみたらすげー面白かった
ついでに兵学校の卒業アルバムも見せてもらった
誰が誰だかわからなかったが
卒業に当たっての一言に
「ワシントン入城しルーズベルトの首を取る」と
書いてあってビックラこいた
いつも温厚な人だったから余計に。
最近某フェスタで日本刀を差して記念撮影した爺ちゃん
昔軍刀つけてた成果一番様になってってかっこよかった。
こんな226の当日の東京のことを生の目で見て記憶してるような時代の人も
年齢的にもうきついんだろうな、とおもうと
そろそろ悪い意味でもう人波乱きそうな気がする
生き字引きみたいなもんだしね。長生きしてください。本当に。
うちの一族で一番まともな人なんです。
885 :
世界@名無史さん:04/12/17 04:47:24
東条英機って滅九族にされなかったのかw
うちの爺さんの兄は南方へ行って
それこそ泥水を飲んで命をつないだらしい。
爺さんは背が小さかったので徴兵の審査に合格せず
茨城と福島の境目あたりの勿来で風船爆弾を作っていたらしい。
小学生のときクラスで
「おじいさんおばあさんの戦争の話」集を
作ったことがある。あれはどこへ行ってしまっただろうか。
近所の住職から昔聞いた話。
戦争も末期だったそうだ。
おそらく1945年の6月の話だったように思う。
あるとき やはりB29の大編隊がやってきて爆撃をしたんだと。
そのとき空襲警報を聞いて、40人ほどの人が
鉄道のガード下のトンネルに逃げ込んだらしい。
ところがその両入り口にひとつずつ爆弾が落ちて
そのトンネルに逃げ込んだ人は全員死んでしまったのだと。
その住職さんのお寺は山にあって、境内のがけに防空壕があったから
空襲警報が鳴ったときたくさんの人たちがそこへ逃げてきたらしい。
爆弾が投下されるとまるで雨のような「ザァーーー」という音が鳴るのだといっていた。
空襲が終わったあと、前述したガード下のトンネルで亡くなった40数名の人が運ばれてきたのだが
(確かうろ覚えだが)体がパンパンに膨れていたのだと。
その話とは別に、空襲の時に、体を守る方法なんてものも教えてもらった。
確か、耳の穴と鼻、口あたりを手でガードし、背中を丸めてお腹をガードするという方法だった。
888 :
悠志郎 ◆Arima/ycuU :04/12/18 05:25:41
私の今年亡くなった祖父がいた部隊の話
フィリピンルソン島の中隊で宣伝部隊
隊長は中尉で明治大学卒の銀行員,二番目は私の祖父で軍属中尉相当官英語の通訳,
副隊長は少尉で旧制専門学校を出たばかりで軍暦無し。 准尉はいなかった…。
下士官トップの曹長は早稲田大理工学部卒の通信技術兵…
こんな部隊に三年間もいてよく生還できたな…
戦闘しろ! って言われても恐らくお荷物だろうな…。
889 :
世界@名無史さん:05/01/06 18:20:33
ほしュ
俺のじいちゃんは満州にいた
終戦後シベリアで抑留された
戦闘の事なんかは何も話してくれなかった
終戦の時は内心ホッとしたが生きて日本へ帰れるとは思ってもみなかったと言ってた
シベリアではとにかく寒さが半端じゃなく便所で用を足すのも命がけだったと言ってた
あと中国人に麻雀を教えてもらったという話も聞いた
朝鮮人のことは「・・・・気難しい連中じゃった」と言ってた
891 :
世界@名無史さん:05/01/26 03:40:06 0
>>890 中国で戦ったおれの親戚も似たようなこといってたよ。
『中国人はそうでもなかったけど、朝鮮人はひねくれた連中だった、付き合いにくかった』
みたいなこと言ってた
892 :
世界史@名無史さん:05/01/26 07:30:36 0
その中国人も共産党の反日政策のおかげでチョン並みに厄介になったね。
893 :
世界@名無史さん:05/01/26 08:35:51 0
中国人はもともとやっかいな存在だったのだよ。
そういう連中だということを知らないで大陸政策をやった結果
今のような反日、反世界人種ができたのだ。
[●]唐突ですが訃報です
[亜細亜の光、日本!]
東京裁判法廷係として四百二十三回もの審理のほとんどを傍聴した
歴史の貴重な証人、冨士信夫元大日本帝国海軍少佐が、
去る二十四日御逝去されました。
謹んで御冥福をお祈り申し上げます。
|||(-_-;)||||||年賀状を戴いたばかりなのに…無念
空母『飛龍』艦爆乗りだったが、ミッドウェイ海戦には発熱のため不参加で生還。
1945年7月30日、神風特攻第三龍虎隊参謀として米駆逐艦等4隻を撃沈撃破する
海軍航空隊最後の大戦果を挙げた閣下に敬礼!
895 :
世界@名無史さん:05/01/31 09:17:16 0
>>890 俺の婆さんも満州帰り。まったく同じこと言ってた。
中国人はのんびりしてて人がいい人間が多かったって懐かしそうに話す。
韓国人に対しては嫌な顔して話すよ。工場の社長の家に集団で殴りこみとか
来てたらしい。
896 :
世界@名無史さん:05/02/01 02:00:48 0
うちの曾祖父(生きていれば108歳)は、
戦後すぐに駅で朝鮮人の集団に殴り殺されました。
朝鮮人が妊婦さんに乱暴しようとしてたのを注意したらしい。
曾祖母(102歳)は今でも曾祖父の写真を眺めて寂しそうにしています。
897 :
世界@名無史さん:05/02/01 04:29:17 0
戦中、 うちのじいさんは満州で零戦を製造していた工場で働いていた。
ある日重慶に滞在していたアメリカ軍の爆撃機が工場を空襲しにきた。
じいいさん達は以前から軍から指導されていた通り、 町一帯につみあげていた廃
タイヤに火をつけて煙幕をはったらしい。爆撃中、ジイサン 達は防空壕の中っで
『煙幕におおわれた工場を爆撃するのは無理だろう』と思ったらしい。が、爆撃
が終わり外に出てみると、 見事に工場だけが破壊されていた。 あとで分かった
のがアメリカ軍はレーダーを持ち合わせていたんだと。 技術力の差を見せつけら
れた戦争だったとさ。
898 :
世界@名無史さん:05/02/06 05:58:01 0
ハルノートは拡大解釈をしても朝鮮、台湾、
南樺太からの撤退は要求していません。
ハルノートを飲めば原爆も何もなかった。
みんな幸せだった。
899 :
(〇m〇)諸君、聴いてくれ:05/02/06 09:46:34 O
太平の平和を破る春の音
多分「満洲飛行機製造株式会社」奉天工場でしょう。
「零戦」は作ってなかったけれど…
当時の外地では最先端の工場で
九五式中練、九七式戦、ニ式高練なんかを生産していたな。
900 :
世界@名無史さん:05/02/06 10:06:53 0
春の音
>>894 亡くなられたか・・・・
確か祖父の義兄弟だったな
祖母と家にも年賀状が来てたよ
904 :
903:05/03/02 16:01:57 0
随分前に祖父から聞いた話によると
海軍兵学校67期の人間はほとんどミッドウェーや特攻で亡くなっていた
この方の結婚式では生き残りの将校など、錚々たる出席者だったとのこと
祖父の親戚は海軍関係が圧倒的に多く
終戦間際に轟沈されたイ号潜水艦の生還者もいる
その方は今も健在で翻訳業をしているらしい
905 :
世界@名無史さん:05/03/02 20:32:36 0
台湾沖で沈没した船に乗ってた人に仲間がたくさんサメに食われたって聞いた
パレンバンで将校の運転手をやっていたらしい
帰ってきて共産党員になったが、なんか嫌になって止めたとか。詳細は知らん
907 :
世界@名無史さん:05/03/04 01:17:49 O
爺ちゃんがなくなった後遺品を整理してたら満州で買った田中絹代のプロマイドがでてきた。それを見ると爺ちゃんも好きな芸能人がいる普通の若者だったんだと思えて微笑ましかった。
908 :
世界@名無史さん:05/03/05 03:40:28 O
俺の爺さんは、志願して海軍・航空隊のパイロット(一式陸攻爆撃機)でした。
任務中、搭載チェック済みの爆弾が背中に落ちて重傷を負ってしまい爺さんは入院して、そのまま終戦を迎えたそうです。
終戦後、国から慰労金らしき保障が貰えたんですが、「部隊が全滅してしまい、自分が生残ってしまっただけでも仲間に申し訳がないのに、とてもそんな物は受け取れる気になれない」と辞退したそうです。
当時の写真を見せて貰った事がありますが、機体の側で、当時20歳前後の爺さんが、白いマフラーに皮のパイロットジャケットと装着の落下傘が印象的でした。
パイロットの訓練は、右手が負傷すれば左手、左手も負傷すれば右足、右足も負傷すれば左足で操縦が出来るようにと、足の指先でハサミが使える様になったぐらいに徹底的に叩き込まれたそうです。
一式陸攻ですか。
「一式ライター」というやつですな。
防御力が低いのを除けば結構優秀なんだけどね…
96陸攻も一式並に航続距離長かったと思うんだけど、一式みたいにインテグラルタンク
では無かったんだよね?
高度な長期訓練を施した人材が、予定外の消耗戦により戦争の序盤で消え去ることについて。
次スレは立つのかねぇ
「ガラスのうさぎ」がアニメ化されるそうな。
日本は島国で海外体験が圧倒的に少ないと言われてますが、
植民地を持っていた時代、そして戦時中は圧倒的な数の人間が
海外に行ったわけですよね?(好むと好まざるとにかかわらず)
今の商用や留学・海外旅行以上の数の人間だったんじゃないでしょうか。
「山村に住んでたが、あの戦争で初めて世界というものに触れたよ」
という人もいたと思います。
その時の体験が国民性や世界観に影響を与えたということは
ないんでしょうか?
植民地や戦争は悪しきものということで、そのような諸々の感情や
感想も封殺されたんでしょうか?
遠戚なんだが戦艦榛名の水兵だった方がいた。
一番印象に残っているのはガ島へ三式弾をブチ込んだときの事だと言ってたな。
デカい打ち上げ花火を何百発かまとめて炸裂したような感じだったと。
なんか戦争じゃなくて派手な花火大会みたいな錯覚してしまったそうだ。
>>918 ほー、伊402も去年五島列島沖で発見されてるよね確か。ソース忘れたけどw
(こちらは『海没処分』だから船体は折れたりしてない筈)
ところで、この場合の艦名って同読むんスか?初心者丸出しで申し訳ないけど(汗
『よんひゃくいち』?『よんまるいち』?
口の重い祖父(昭和二年生・従軍されず)を
酔わせて話を聞いてみた
「物心ついてから、ずっと戦争が続いていたから
戦争がなくなるなんて、考えもしなかった」
平和ボケの自分、結構ショック・・・
921 :
世界@名無史さん:エジプト暦2329/04/02(土) 12:20:19 0
俺の爺さんが守備してた所では川の向こう側でソビエト兵士が歩いているのが
よく見えたって言ってた。満州だけど
誰か従軍慰安婦について教えてください。
触れてはいけない話題ならスルーして
満州から引き上げて来る人の中には どうしてもそこに子供を置いてこなければならない人もいて
いつか会えたとき自分の子供とわかるように耳の一部を噛み切って残してきた人もいたんだって。
926 :
世界@名無史さん :
うちのじいちゃんの話でも
京都の寺院の末っ子で無類の酒好き、学生時代は浴びるように呑んで道で寝るなんてことは日常茶飯事だった
心臓が弱く徴兵検査で50歳までは生きられないと宣告されたのに合格
友人もベタに醤油一気飲みを敢行するも見事にばれて合格したらしい
何故か諜報関係の部隊(当時の軍制に詳しくないのでスマソ)に配属され旅順へ
祖父いわく食糧事情は良くなかったが飢え死にするほどではなかった
戦場では卑しい奴から死ぬとも言っていた、実際もぬけの空になった中国人の家で月餅を発見し食った食い地のはった同僚が死亡
井戸や残した食料に毒が入れられているのは常識だと
その後戦闘で足を撃ち抜かれ野戦病院ゆき、入院してるうちに終戦し生還
しかし兄弟二人は南方で帰らぬ人に、遺骨も戻ってないらしい
戦後は婿養子に行き税務署の仕事まで世話してもらった、野戦病院で使った薬(『ホルムス』という傷薬)が効くとずっと言ってた
今でも我が家の救急箱の中にはホルムスが
戦争のことはあまり語りたがら無かった
心臓病で入院、術後なかなか麻酔から覚めず夢うつつの世界を彷徨う
どうも若い頃に戻ってたらしく「戦争は嫌だ!」だと叫んだり
見舞いに訪れた親類を憲兵と勘違いして追い返したり、手錠を掛けられたような仕草をしたり
よっぽど戦争が嫌だったらしい、うちの祖父のレベルでこれだから南方に行った人の
苦労は計り知れない
そんな祖父も数年前に数年前に医療ミスで鬼籍に入った
もっと話聞いときゃ良かったと